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サマリー(内藤順子要約)

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サマリー(内藤順子要約)
民博共同研究会「ストリートの人類学」
第 3 回共同研究会(2005 年 3 月6日(日) 於:国立民族学博物館)
報告題目:「ストリートと化粧文化」
スピーカー:玉置育子氏(佐賀女子短期大学)
司会:小馬徹氏(神奈川大学)
玉置氏は化粧文化という研究対象および化粧文化研究という領域を概観するとともに、そ
れらをストリートと接続したときにいかなる問題が見出されるのか、本研究会のキーワー
ドたる「ストリート」をより広い視野から様々な角度で定義する試みを含めて報告された。
<発表要約>
化粧文化研究とは、その対象も研究自体もまだ一般的なものではない。人類学では身体
変工や身体加工の研究や、地域における装飾としての化粧という形で研究蓄積があるほか、
歴史的な報告や風俗としての記述はみられるが、直接的に化粧をとりあげた研究というも
のではない。その意味で、先行研究としてあげられるのは資生堂をはじめとする企業がら
みの研究や変遷史ならびに分析ということになる。しかし、化粧について語られてこなか
ったわけではなく、現在でも雑誌でいくつか出ているような How to 本が江戸時代から出さ
れており、実践としての化粧の大衆化はその頃からすでにあったことがわかる。
ストリートと化粧の接続にあたり、ストリートファッションについて考えてみると、そ
の定義は「不自由なスタイルから自由に逃れようとするもの」のように語られているが、
そもそもファッション自体が前シーズンを否定して新しいものを生み出していくものであ
って、ストリートファッションとファッションの違いは曖昧となるため、そこでストリー
トとは何かを考えてみなければならない。玉置氏は福岡の地方雑誌『No』の記事をヒント
にストリートとは「何でも落ちているところ、何でも存在するところ」と示し、点と点を
結んで線になって束になるようなもの、それがストリートとしてイメージするところであ
ると語った。そして点があるのはイメージ的には路地裏であり、人目に晒されないいっぽ
うで、表通りは線になって束になったところというイメージである。したがって、点の発
信基地として、ファッションは流行になる前に路地裏から発信されるという視点から、東
京の裏原宿――ストリートファッションの発信基地の話題へと展開された。
裏原宿の秩序とは、そこ独特のブランドがあり、「原宿の兄ちゃんたち」と言及されるよ
うな「等身大のカリスマ」的存在のいる世界である。それがストリート系といわれる雑誌
『Mini』や『Smart』のなかで取り上げられ、いわゆるプロモデルではない一般人の誌面
への登場によって、いまや読者モデルやストリートファッションの現場におけるカリスマ
店員などが誌面を賑わしている。これはストリートファッションが、自分とはかけ離れた
プロのモデルが着飾る誌面とは違い、なろうと思えば自分もなれる、というアクセス可能
性を持っているからだと玉置氏は指摘した。すなわち、ストリートファッションの発信地
であるストリートそのものが「誰でもが参戦できるリング」であるということである。
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ではそのリングでいかなることが起こっているのか。それについて、ストリートにおけ
る化粧、とくに電車の中におけるメイク行為が主軸に紹介された。電車の中でのメイク行
為については新聞の投稿でも多くの批判が見受けられ、いやな行為の 9 位にランクインし
ている。主な理由として「プライベートとパブリックは分けるべきである」、「化粧は女性
のたしなみ、秘め事であるからそのプロセスのまぬけな顔や舞台裏は見せるべきではない」
、
「不愉快である」、などが挙げられる。一方で化粧をする側の理由は「時間の節約」のため
である。研究者の分析では、「公共の場におけるセックスアピール」あるいは「物語をつく
っている」、「人をモノとしてみている」などの様ざまな解釈があるが、玉置氏は「ストリ
ートは戦う土俵であると」いう視点から、公共の場における化粧行為とは、戦いが繰り広
げられていることの表われととらえる。それはメイクのプロセスの公表であり、技術の披
露や使用するメイク道具、言い換えるなら武器の自慢のような要素もある。さらにメイク
をしている自分について、OL の9割が美しくなると回答しそのうち4割がやる気までも左
右すると答えた事実や、女子高生たちが癇に障るショップ店員の化粧を落として素顔の写
真を無理やり撮った行為が暴行ととらえられることを考えてみると、公共の場に化粧をし
て出ることとは、競うために整えた姿ともいえるのだろう。最近の雑誌において「モテる」
ということばが頻出しているのは、いろいろなものを戦い抜く女性たちにとってのキーワ
ードだからかもしれないと玉置氏は述べ、モテるといってもそれは単純に異性の視線を意
識したファッションやアピールというよりは、女性同士の競争としての抜け駆け願望の裏
返しなのではないか、と言う。そのような個人的要素もあらわれるストリートとは、私的
なものが無秩序に入り組んでくる空間であり、同時に公共空間という側面では電車の中で
の化粧への批判にみられるように、様ざまの世代や人間の集まるいわば価値観の凝縮され
た空間でもあると位置づけた。だからこそ戦う場としてふさわしいのであろう。
そこで、わかりやすくリングに乗っている例として、中村うさぎが取り上げられた。買
い物依存症にはじまって、ホストクラブにはまり、度重なる整形手術をするようになった
個人史に見られる戦いぶりとは、中村自らが述べるように、あえて土俵にあがることで自
分の居場所を確保する行為でもある。土俵にのぼるからこそ苦しむことになる反面、土俵
から降りるのもまた怖いのだ、と。整形の顔というのは言ってみれば自分の顔に責任を持
たないでも良いということであるとも言い、土俵とは中村にとって「美人・不美人、セン
スの良し悪し、という数値化できないものを競う」ところであり、玉置氏はこのことばを
ひいて「ストリートとは数値化できないものを競う場所」と定義した。つまり、数値化で
きないものとは、公共空間における価値基準と密接でもあると言えよう。たとえば安野モ
ヨコの『脂肪という名の服を着て』や岡崎京子の『ヘルタースケルター』などの漫画にみ
られるように、かわいい、きれい、やせている、というのは良いことであり、ストリート
での上下関係につながるという認識は、数値化できないにもかかわらず、きれいの基準や、
太っているのは人間的に劣っていることといった価値観が蔓延していることを示している。
となると、ストリートとは無秩序で万人が参戦できるはずのリングでありながら、必然的
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に排除されるものもあるだろうということに玉置氏は注目し、ストリートから排除される
ものとしてユニーク・フェイス(固有の顔)について話題にした。
それは言い換えると公共空間での「ふつう」の基準とは何か、ということである。玉置
氏は NPO 法人ユニークフェイス研究会に参加した折の経験で、そこに居合わせる大多数は
ユニークフェイスの人びとであり、自分がマイノリティとなったときに何か自分が異質の
ように感じたと述べ、「ふつう」というのは、そこに居合わせる多数の人を指すことばであ
ると指摘した。ユニークフェイスの人びとの「エピテーゼ(人工皮膚)」や「プロテーゼ(人
工骨)」、そして「カモフラージュメイク」というのは、顔にあるアザやその他のいわゆるマ
イナスを隠して多くの人の中に埋もれるために施すという。ストリートにおいて基準とな
る「ふつう」からはユニークフェイスは排除される存在になりうるためにそれらのメイク
をする必要が出てくるのだろう。また、ストリートで排除され、唯一人目に晒されないも
のとして死の話題もまた出された。人間の生に対して死は「ふつう」ではない異常事態な
だけに必然的排除となるのであろう。玉置氏は死者に対して施される「エンゼルメイク」
についてもふれて、最後まで世話をしたい、生前の姿で見送りたいという遺族や看護士の
希望からそうしたメイクの実践があることを紹介した。これもまた生前の人間の姿すなわ
ち「ふつう」に近づける実践ととらえられるであろう。
最後に玉置氏は、自らの教育現場における作業としてのメイクボランティアについて語
った。主として老人ホームにおいてメイクをする活動であるが、一般的には美容介護のよ
うにとらえられるであろうし、メイクによって美しくなれば老人たちは喜ぶであろう、と
いう発想を持たれがちである。しかし、実際はメイクを生まれて初めてする人もいれば、
グロス(ツヤを出すための口紅)がまずくて不愉快であると拒否するお年寄りもいる。お
年寄りたちはメイクによって気持ちが華やかになって喜ぶというよりも、むしろ、見ず知
らずの若い子達がやってきて何かしてくれることの嬉しさを感じていると指摘する。つま
り、化粧はそうしたお年寄りと若い人間をつなぐツールに過ぎない。メイクをしてあげれ
ば「ふつう」喜ぶであろうといった価値観はここでは不在であり、「ふつう」とは何か考え
ねばならないことを示す。化粧を語ることとは、いままでになかったという意味では良い
ことかもしれないが、すべてプラスの良いことばかりともいえないというスタンスで化粧
文化について考え、批判も含めて携わっていきたい、と結んだ。
<質疑応答>
鈴木(晋):電車の中はまだリングではないのか?店員を暴行をした女子高生は、暴行として
店員のメイクを落としたわけだが、その女子高生たちは電車でメイクをしているかもし
れなくて、とすると電車の中はまだリングではないのか、ウォーミングアップみたいな
ものか?それと、彼女たちが絶対に化粧しない場所はあるのか?
玉置:学生は学校の授業中でも思いついたように授業中鏡を取り出してする。注意したと
ころでおさまらないし、一時すれば終わるので放置する。学生にとって授業中の教室も
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リングだったりする。だからリングは色んな場所にあるといえると思う。それとウォー
ミングアップというのと関連して、いろんな場所で化粧をするというのは、出来上がっ
た顔での勝負というだけでなくて、こう道具を使うのだという技術披露、ブランド披露
だったりする。
阿部:電車でウォーミングアップとか、化粧観念というのが変わってきてるいるのか?
玉置:(世代的に)女子高生たちは素っぴんのほうが恥ずかしいし、おばさんたちは人前で化
粧することのほうが恥ずかしいという平行線をたどっている気がするし、最近の小学生
はファンデーションをぬっている。ほっぺたの赤い顔というのは恥ずかしさとつながる
らしくて、本来の人間の姿というのはどこか矯正されなければならないのかなと思う。
関根:ストリートとはなんでも落ちている場所、という話から路地裏や裏原宿の話題への
つながりは?
玉置:なんでも落ちているところというのは、整備された目抜き通りより、路地裏という
イメージがある。幼少のころの記憶で、たとえば寝屋川市というのは目抜き通りはスト
ンとしていて、路地裏には印鑑が落ちているとか女性の裸の写真とかがあって何でもあ
るという印象、そういう個人的経験から路地裏、裏原宿の話へと流れになった。
関根:とすると目抜き通りというのはストリートではない、ということ?
玉置:そういうわけでもないが、まだ整理しきれていない。
阿部:競うという話で、たとえばパーティーとかその他で競うのと、ストリートで競うの
と、それについての違いについて教えて欲しい。
玉置:パーティーは競うことを大前提にしているというのもあるし、外野がある。でもス
トリートは外野がなくてみんなが参戦できる、みんなが主役になれるというイメージが
ある気がする。
野村?:おそらくパーティーということであれば、価値観も程度共有された人たちが集ま
っているだろうし、だからストリートをリングとしてみる、というのはストリートを考
える上でいいヒントになる気がする。
関根?:中村うさぎさんの依存の対象で、最後は整形ということだけど自分の顔の責任か
ら逃れるみたいな、彼女の興味のスライドにはどんな風なことがあるのか。
玉置:いわゆる女が興味をもつものに依存するようだ。スライドしていく興味の対象とい
うのは、本人がエッセイに書くには、たまたまのことで、雑誌の企画で整形したりとか、
周囲がたきつけてはまったと述べている。また、彼女の面白いところは、自分が自分を
客観視するところで、自分が悶え苦しんで泥沼にいようと、もう一人の自分がかならず
笑い蔑みつつゆさぶられている。依存症とわかって腹をくくってるようだ。
阿部?:ストリートは計量化できないものを争う場所だとすれば、中村うさぎは女しか興
味を示さないものに興味が無いのか?他人のものを欲してるのか?誰かの持っている欲
望を自分が示めそうとするのか?
玉置:他人のものを欲するのではなくて、ホストに入れ込んでる女には負けたくない。同
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じ土俵の上に立つ女に負けたくない。それが彼女の生きがいみたいなところがある。
小馬:今日おもしろかったのは、ストリートというのは競う場所で、欲望をひっくりかえ
したようなところとしてのストリートという発想がよかった。さっき阿部さんも言った
ようにこのあたりを整理できるといいと思う。
鈴木(裕):個々の事例を貫くキーワードがストリートだったと思う。ストリートの定義につ
いて、色々なものが落ちているという物理的なストリート、雑誌のメディアがつくる概
念のストリート、それからマンガやホストクラブまでを含むもの。3つめはわたしはス
トリートではないように感じる。この3つが一緒に語られているように思うが、3つの
関係性は?
玉置:研究会をとおしてストリートの定義をどうするかという問題があるので、今回はス
トリートを定義するよりも広げてみようという試みである。ホストやマンガもそこに入
るのかな、と考えてみた。今後整理していきたい。
鈴木(裕):批判しているのではなくて、物理的な空間としてのストリートとメディアは出が
ちだが、それを乗り越えた話として3つめの中村うさぎとか、整形や死に化粧の話まで
があって、ストリートという気がしなかった。
玉置:ストリートって何でもありだといいながら、死は語られなかったりする。脂肪や中
村うさぎの話はストリートで戦う人たちの詳細を事例としてあげている。
関根:いまのをもう少し詳しく。
玉置:とりあえずストリートを広げられるだけ広げようということと、ストリートに含ま
れる事例として脂肪の話とかへルタースケルターをして、あと死に化粧の話はあえてス
トリートで語られないことを語ってみようということ。
関根:その場合のストリートの使い方とは、どのぐらいの拡がり?
玉置:死に化粧というのは一般的という感じだから、この場合のストリートというのは、
都合のいいことばとして出てきた程度に過ぎないかもしれない。
関根:レジュメに出てきた「ストリートに含まれるもの、排除されるもの」という場合の
ストリートも?
玉置:ここのストリートも一般的に、という感じ。一般的というか日常や普段というレベ
ルでのことである。
島村:ストリートは戦うリングだとして、ユニークフェイスの話とどうつながるのかを考
えていた。計量化できない価値や基準の話とかかわるのか。何を基準に競うのか。何に
なったら勝つのか。
玉置:化粧をしている段階=準備期間と考えている人が多いのだと感じた。しかしそのプ
ロセスも競いに値すると考える。何を基準に競うのか、そうしたら勝つのか、それは自
己満足やぬけがけ、それが勝者になるという気がする。
野村:あとのほうが玉置さんの専門で、真ん中まで当たりがストリートにからめての話と
いうことだと思う。中村うさぎは15くらい年下の男と結婚したりブランド物に走り、
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ホストに入れ込んだあげく、結局家を差し押さえられ、彼氏だけを確保し、自己破産宣
告までもしている。つまり彼女はストリートの人みたいなもの。中村うさぎのなかでは
常に女性間での争いが繰り広げられ、男性はいっさい出てこない。(マンガの)岡崎と安
野のアシスタントの話でも女性同士の争いだし、電車の中で色々とやっているのも女性
たちの争いだから、ストリートをリングにみたてることで話はつながる。
阿部:文化人類学だと当事者の観点で、というけれど、やっている人たちの声はあまりき
かない。そういう声ははいってくるか?
玉置:いまのところ電車にのらない生活なので、これから聞いてみたい。
野村:それはあまり意味がないのではないか?言語化できるような問題でもないし、しゃ
べりたいことじゃないだろうし、自分でもなぜかなんてわからないだろうし。
阿部:人類学でもよく問題になるし、なぜですか、なんて聞くことは下の下だとわかって
いる。ただ言語化できないのかどうかも含めて何となく関心のあるところで、気になる
ところだ。
鈴木(晋):ほんとの顔と仮面みたいな話で、化粧から整形まで入ると、どこまでがほんとの
顔なのか、化粧がいいかわるいか、その子達のほんとの顔はどれなのか、自分が何者か
みたいなことのひとつのあらわれが化粧になるのか、うまくまとめられないが・・・
司会:それはあなたの興味ですから、そこまでで。
内藤:話の流れを確認したい。公共空間とか価値観とかふつうというのがキーワードにな
るかと思う。それらが公共空間にあらわれていて、そういう場所で化粧をすることとは、
言ってみれば土俵だから、戦うためにメイクを使うという話なのか。ボトックスの話が
出たが、チリで脳性麻痺の障害者の口もとにボトックスを注射することでよだれをでな
いようにして、「ふつう」にすることがある。彼ら自身はどうでもいいのに親が見た目を
「ふつう」に近づけたい。それと同じで、公共性とメイク、それからユニークフェイス
の話まで、公共空間やそこでの価値観という軸でつながる話だと理解していいのか。
玉置:そういう感じでいいと思う。
小馬:でもやはり鈴木(裕)さんの話にも出たように全体の整理しなければならない点がある。
ストリートは戦う場所だというが、わたしのとらえかたでは、ストリートとはユニーク
ではないふつうの顔がある、それでも戦場だというわけですよね?そして最後、メイク
ボランティアも直接は関係してこない。面白い話は多いだけに全体を整理する必要があ
る。
野村:今日玉置さんが話していないことで、化粧とたしなみについての心理的な問題があ
って、だんなに素顔を見せたことがないとかの話がある。それは美とかそういうものじ
ゃない。昭和 30 年代まで日本では一般的には化粧なんてしていなかった。たしなみとし
ての化粧、それと現在の化粧の意味合いはちがうだろう。電車の中で化粧している理由
を聞いても仕方ないという話は、言い方もかわってくるからだ。今は「モテる」という
キーワードがある、そのまえは「かわいい」とかの価値観がいっぱいあってそれをより
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どころとしている。それ以前の化粧とはまた違う。今日いろいろと批判されている電車
の化粧とかも、そういう両面から見たほうがいい。
小馬:歴史的には化粧というのはコミュニケーションの手段だったのがかわったという話
だと思う。エリザベス女王がすごく香水を使うとか、平安時代は男性も化粧をしていた
とか、社会的コミュニケーションとしての化粧と文脈が違うのでは。
関根:リングというのはアリーナともいえると思うが、ソーシャルアリーナ、つまり今日
出たいくつかの疑問というのは、いろんなアリーナが重なって議論されているので、こ
の議論はどこのアリーナの話なのか、というふうに言い換えられる。ストリートにこだ
わると、サブカルチャーとメインカルチャーがあって、レジュメの5などは日常性でカ
ルチュラルアリーナ、「モテる」あたりはサブカルチャーなアリーナ、この辺がストリー
トといわれるあたりだろうけれど、そう区別する議論だろう。それで阿部先生の質問を
わたしなりの理解でもう一度言うと、サブカルチャーのアリーナのことばというのはな
かなか出てこないから、どういうふうに数値化できないものを競うために、どういう表
現を彼女たちはしているか、そういうことを知りたいということで、自分たちを分析す
る言語というよりは、競うための言語として知りたいという質問だったのではないか。
阿部:そういうことだ。
「なぜか」に直接答えてもらえるとは思っていない。ちょっと関連
してジベタリアンというものについて、「最近の若者は足が弱いから」という人もいるけ
れど、わたしは、彼らはある種の快感をもっているのではないかと考える。座る場所で
はないところに座ると。ともかく、そういうこと。
松田:すごく首尾一貫した報告だったと思う。学生にユニークフェイスで修論をかいた人
がいて、パブリックスフェアとコミュニナリティというテーマだ。公共性と空間という
話で結局われわれがびっくりするのは、内藤がまとめたみたいに、人の前でやれないよ
うなことがやれるようになるのはどういうことか、関根さんが言ったみたいにいくつか
のアリーナでパブリックとプライベートが重なること、それが公共空間の変容で、今日
はそれをストリートということばで表現したと言えるだろう。パブリックスフェア、コ
ミュナリティ、アイデンティティ、この研究会が必要なのは、われわれが具体的に見た
り参加したり聞いたりできるストリートを見るからだ。そういう意味では一貫して核心
をついていたように思う。
(文責:九州大学大学院
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内藤順子)
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