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“生きた石”の連鎖反応 》という言葉で

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“生きた石”の連鎖反応 》という言葉で
“生きた石”の連鎖反応
第一ペトロ書の福音 5
“生きた石”の連鎖反応
2:4-10
ちょっと変な題名に聞こえるかも知れませんね。でも、これが 4 節から 5
節にかけての趣旨だと思ったのです。この前に読みました 3 節が「主が恵み
深い方だということを味わったからには」というところで終わっていました。
原典では、その 3 節の最後の単語が「主が」―《》という言葉で
終わっていて、その響きを受けて 4 節が、「この主のもとに来なさい」と切
り出されます。そしてその主イエス・キリストは「生きた石」―命を持っ
た石である。だから、それに触れた者まで全部、「生きた石」に変えずには
おかない凄い力を持っているのだ……と続いて行きます。
そう言えばこの部分は、石の譬えでつながって進みます。「つまずきの石、
妨げの岩」という比喩も 8 節には出ますし、6 節には建物の「かなめ石」、
次の 7 節には「隅の親石」という言葉も出ます。昔は「隅の親石」というと、
基礎工事の土台の隅……つまり土に埋まっている一番下の角の石だろうと思
われて、新改訳なども「礎の石」と訳したりしていますけれど、最近の語学
者の研究は、どうもそうじゃないらしいことになって、「礎の隅の親石」の
イメージ持っていらっしゃる方には、イメージを壊してしまうのですけれど、
この「隅の親石」―直訳して「角の頭」は、ヘブライ語の“ロシュ・ピナ
ー”も、ギリシャ語に訳したケファリ・ゴニアスも、どうも、もっと高い見
上げる所に置いた石らしくて工事竣工の仕上げの石でもあったと見られるよ
うになりました。いろんな文献の研究から、新しい事実が分かってきたので
す。
「かなめ石」はアーチ構造の頂上で、アーチの重みをグッと支えて組み合
わせている“keystone”と英語で呼ばれる石です。これが 6 節の 2 行目に出
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“生きた石”の連鎖反応
ております。もし、7 節の 4 行目にあります「隅の親石」がこれと同じもの
でしたら、建物の入り口か奥の正面真上に据えられて、訪問者や参詣者を上
から見下ろしている華麗な飾りのついた大事な石だったことになります。仮
に全く同じものでなかったとしても、“head of corner”というのは、やは
り、建物の一番高い部分の角にあった飾り石だろうと言います。“ロシュ・
ピナー”は、一番ドライに訳すと、「角のでっぱり」なんです。こんなのは、
明治大正以来の「隅の親石」のイメージを壊しますか……? 英語の世界でも
そうだと思います。
さて、石の話は、ことのついでにしただけなのですが、もう一度、ここの
中心テーマに戻りますと、イエス・キリストという方は、来て彼に触れる人
に大変な連鎖反応を起こしてしまう。十字架の血の力で罪人を清めるだけじ
ゃない。復活の命で死人を生かすだけじゃない。それと連動して、どんなこ
とが起こるか……それをペトロは「生きた石にされる」とか、王家の人にさ
れてしまう。神聖な祭司の身分を受ける。あなたが信じたこのお方がそもそ
も“King of kings”なんだから……。この方自身が大祭司であられるから…
…。あなたまで王家の血統につないで、その上、祭司職にまでしてしまう。
聖なる神殿に積む「生きた石」に、あなたを変えてしまう。この人に触れた
ら、ただでは済まない。この方と同じ聖なるものにあなたは作り換えられて
しまう。そんな凄い方だ!―「連鎖反応」と言った題名の意味はそれです。
1.生きた石があなたをも生きた石にする。
:4-5.
4.この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神
にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 5.あなたがた自身も生きた
石として用いられ、霊的な家に作り上げられられるようにしなさい。そして
聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通
して献げなさい。
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“生きた石”の連鎖反応
ヨハネによる福音書の中に「復活とは私のことだ、命というのはこの私の
ことだ」(ヨハネ 11:25)というお言葉があります。その方のところに来る
だけで、信じて委ねるだけで、死人が清い生きたものに変えられるのです。
生きた石が、生きた石を作るという譬喩は、次に石は神の家に積まれるとい
う絵に、切り替わります。ここは連想で切り替わるのです。
「霊的な家」というのは、ここでは神のお住みになる宮を表しているので
しょう。かつては大理石の死んだ石で積んだ、エルサレムの神殿みたいのが
神の住まいとされた。人はそこへ来ないと礼拝はできないと思われた。だが
今は、生きた人間が神殿になる。キリストから新しい命を受けた人の中に、
神がお住まいになる。それは言わば、生きた石で積まれた神殿が実現するの
だと……。
生きた石の神殿の絵は、二転して、今度は新しい祭司の絵になります。昔
は、神を拝したくても、“祭司”という専門家の世話にならなければ、礼拝
はでませんでした。素人がしても、そんなのは礼拝にはならなかったのです。
清い祭司が捧げた犠牲だけが供え物として有効でした。でも今度は、あなた
が直接自分の手でお献げするものを、神は喜んで受けてくださるのです。マ
ルチン・ルターを奮い立たせたのは、このペトロ書の断言でした。
このペトロの言葉を額面どおりに受け止めれば、宗教家と素人の別はなく
なったのです。「聖職者」と「平信徒」の別を今だに作って守っている人た
ちもいます。たとえば、平信徒が祝福したパンは主の体ではないとか、聖職
者でなければバプテスマをすることは許されないとか、説教は按手礼を受け
てからするとか、これらの慣習はすべて、キリストの福音によって新しくさ
れた視点から見れば、アナクロニズム以外の何ものでもありません。本当は、
キリストを信じるあなたが祝福したパンと杯が聖なる主の食卓なんです。あ
なたがキリストのことを語れば、それは「説教」であります。あなたが信仰
をもって人を沈めれば、浸けられたその人の信仰告白がそのバプテスマを有
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効にします。だれが「もぐりだ。無効だ」と言っても、主がお認めになる。
あなた以外に祭司も司祭もないのです。5節の終わりは、「献げても構わな
い」じゃなく、「献げなさい」です。
これは、どこの教会へ言っても、原則的にはみんな否定しないと思います。
プロテスタントを自称するほどの人ならです。ただたいてい、「そうは言う
けれども」と言うだけです。「長年のわが教団の伝統がある。教職でない者
にそんなことをさせられない。」そう言います。でも、私たちは絶対それを
言わない教会です。まわりで、「素人の教会ごっこだ。そんなのは無効だ!」
と言って怒る人がいても、そんなのは無視してこのペトロ書の通りで行きま
す。大阪聖書学院だってそんな司祭の専門家を作ってはいません。聖書を真
剣に学びたい人を集めて学ぶことだけはやっています。聖書学院が間違って
何かやることがあっても、「聖職者」を公認することだけは、死んでもやら
ない。これは、外のどの教団とも違うところです。決して誇大広告ではあり
ません。
さて「キリストは神御自身がお選びになった、尊い生きた石なのに、ユダ
ヤの宗教家は、『石が規格外だ。使えない』と言って捨てた」という、初め
の 2 行にあるテーマが、次にイザヤ書と詩篇の引用を交えて展開されます。
2.宇宙の「かなめ石」はあなたを希望の人にしてしまう。 :6-8.
6.聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
シオンに置く。
これを信じる者は、決して失望することはない。」
7.従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、
信じていない者たちにとっては、
「家を建てる者の捨てた石、
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これが隅の親石となった」
のであり、 8.また、
「つまずきの石、
妨げの岩」
なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなる
ように以前から定められているのです。
「かなめ石」は先程も触れましたように、アーチのてっぺんの重要な石で
す。10 年前に御一緒に読みましたエフェソ書では、アーチの石とその回りの
すべての石を、ピッタリ組み合わせて一つに結び合わすその「かなめ石」の
役をしているのが、正にイエス・キリストその人であると、パウロは書いて
いました。その意味でペトロの書いていることは、パウロが教えたことと不
思議なくらい一致します。キリストは神の宮の「かなめ石」、教会を一つに
結ぶ「かなめ石」、いや宇宙全体の「かなめ石」なんです。パウロ式に言え
ば、このキリストを引き抜いたら、宇宙も命の意味もすべて飛散してしまう
くらい、すべての要になっているのです。
7 節の引用符の中の言葉は、詩篇 118 の言葉(:22)です。一番大事な「仕
上げの石」を見損なって廃棄処分にした、建築の責任者たちは、イエスを偽
メシアと断じて処刑したユダヤの宗教家たちの絵になっています。8 節はイ
ザヤ書 8 章の預言です。「そうなるように定められていた」は、運命論のよ
うに取るへきではないでしょう。イエスを呪って処分した人たちの不信仰は、
正に預言者の言葉の通りで、この石につまずいた人たちの破滅は、聖なる神
の意志をくしくも裏書している……と。
6 節は、同じイザヤ書の 28 章からの引用(:16)です。だれもその「尊い
かなめ石」を見る目を持たなかった不信の世界で、あなたたちは不思議と恵
みを受けて、この方を信じた。その信じたあなたには失望はない。失望と行
き詰まりと死は、この石を捨てる世界にだけ存在するけれども、この宇宙の
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要をなす方の所へ来てこの方から力を頂いた人には、人生は希望の世界にな
るのです。仮に、今は真っ暗に見えても、その先に希望の無い暗黒というの
は、もうありません。
3.王があなたを王家の人にする。大祭司があなたを祭司にする。
神の子があなたを神の民にしてしまう。
:9-10.
連鎖反応のクライマックスです。すべての王の王であるキリストが、あな
たを王族以上の尊さで満たす。真の大祭司キリストがあなたを、祭司職に変
えてしまう。あなたは、人に宗教をやってもらってお世話になるのじゃなく、
自分で大司教以上の資格で、ローマ法王以上の資格で神に近付くことができ
るのです。無資格だとか、適わしくない等と言うのは“謙遜”どころか不信
仰。キリスト御自身が、「お前を適わしくした。私の力を信ぜよ。天の父が
お前を『私の大事なもの。私の聖なる民よ!』と言って下さるのだ。どうし
てなお『適わしくない』と強情を張るか!」と言われるのです。
9.しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、
神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の
中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため
です。 10.あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」
のです。
最後の引用文は、預言者ホセアの言葉(2:25)から取られています。用語
と語順は少し入れ代わっていますけれど、明らかにホセア書 2 章の 25 節の言
葉です。ヘブライ語の原文でも、七十人訳と言われる古代ギリシャ語訳でも、
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“生きた石”の連鎖反応
前半と後半の対句はこれと逆になっていまして、(覚えていらっしゃる方も
おありでしょう)「ロー・アンミ」(わが民にあらず)yMi[;-al{ と、「アン
ミ」(わが民)yMi[;、それから、「ロー・ルハマ」(憐れまれざる者)hm'x'ru
al
と「リハムティ」(私が憐れんだ)yTim.x;ri とが、対句になって出てくる所で
す。ペトロはこれを引用することで、かつては全く罪の中にあって神と無縁
だったあなたが、神の民には無資格でしかなかった異邦人のあなたが、キリ
ストのお陰でその憐れみを受けたし、神の聖なる民としての栄誉を頂いた。
もといた暗闇の世界から神の光の世界に呼び出して頂いた。この大きな救い
の御業を伝える目的で、あなたはここに生かされているんだ、と結びます。
《 結論と慰め 》
連鎖反応というテーマで始めました。命で満ち満ちているキリストが、ど
んな死んだものでも命で溢れさせてしまう。新しい宮の「かなめ石」である
キリストが、あなたや私のようなものを神のお住みになる宮に変えてしまう。
およそ神に近づけるようなものではなかった罪人を、アロンやザカリア以上
の資格を持った祭司に変えてしまう。今までのどんな祭司も進み入れなかっ
た神聖なところへ、いつでも入れる者に変貌させる。王であられるキリスト
が、信じるあなたを王族にしてこの世を征服させる―今まではこの世に圧
し潰されていたとしてもです。周りの暗黒がパッと光りに変わる。神の「聖
なる民」と言えば、昔はアブラハムやダビデにつながるイスラエルです。し
かし、今はそうじゃない。あなたや私に代表される無力な者の集まりを、「こ
れは私の所有する民。イスラエル以上のイスラエル!」と断定して下さるの
です。
使徒パウロは、「これをキリストの十字架で実現なさった神の知恵は「絢
爛豪華」としか言いようがない。天使が私たちを天から見下ろしてたまげて
いるんだと言いましたが、ここのペトロの言葉はそのエフェソ書の響き(3:
10)ととてもよく似ています。
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私たちはこのギッシリ詰まった慰めの中から、「聖なる祭司」という言葉
に目を向けてみましょう。カトリック式にひっくり返して「司祭」と言って
も良いのです。9 節の言い方では「王の系統を引く祭司」です。6 節の言い方
でなら「聖なる祭司」です。キリストの血で清められて、キリストの命を注
ぎ込まれたキリスト者以上に聖なるものは、この地上には無いのです。
この「祭司」に込められた意味は、「宗教はもう、人にしてもらうもので
はなくなった」と言い換えることができるでしょう。専門家に聖なる犠牲を
屠ってもらって、専門家の手で祭壇に献げてもらう。そんなのがなくなった
のです。「あなたの体を、生きたまま、まるごと、それも自分で神の前へ持
って出よ」とパウロは言いました。聖書の意味を深く味わって自分のものに
する務め……それも専門家まかせではなくなりました。一人一人が自分で聖
霊の息に触れることができる。ここでやってるのは、聖書の学びのすべてじ
ゃなくて、そのための刺激とウォームアップに過ぎません。苦しむ人を訪ね
てお力になるのも、心を開く人にイエス・キリストの救いを伝えるのも、聖
なる司祭各人の努めです。
あなたが仮に、新しい場所に家をお建てになったとしましょうか。あなた
はその土地の教区長に任命されたと思ってください。あなたの職場も、あな
たが二十年来住んできた町も、司祭に割り当てられた分担区域です。そこで
司祭がする仕事は、「霊的ないけにえをここの人たちのために献げること」
(:5)です。また、あなたの上に起こった神の「力ある業を広く伝える」(:
9)仕事です。あなたが報告する上司は、この地上にはただの一人もいません。
天に大祭司キリストがおられるだけです。
(1991/03/17)
《研究者のための注》
1.「この主に来なさい」は、前文の最後の語を先行詞として分詞構文の形で
始まります。しかし UBS 本文が 3 節末尾をピリオドで切っているように、思想の塊と
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しては、2 節のを修飾せずに、後続の命令法にかかって
います。「この主のもとへ生涯来つづけることにより……(来つづけるのと同時進行
して)建物にされなさい」でしょうが訳文としては、二つの命令に言い直して、「来
なさい。そして建てられなさい」と訳してあります。はこの冒頭の現在分
詞は「継続的で全生涯に亙る努力」を指すと説明
しています。生涯キリストのもとへ来つづけることがその秘訣です。
2.「隅の親石」と「かなめ石」の正体については、Kittel 神学辞典に Jeremias が執筆
したの項目が参考になります。私自身のものは 1984 年 11 月大阪聖書学院で
の発表「隅の出っぱり─角の角」があります。
3.詩篇 118:22 へのイエス御自身の解釈は、マタイ 21:42 に使徒ペトロの説教における
適用は使徒 4:11 に見られます。
4.キリストが宇宙を一つに結ぶ結合の要であり、キリストを引き抜けば「宇宙万物が要
を失って飛散する」と言いましたのはコロサイ 1:17,
に言及したものです。「コロサイ書の福音」第 3 講をも参照してください。
5.「霊的な家」と「霊的ないけにえ」における
形容詞の意味は1コリント 10:4の
やローマ 12:1のに近いものと基本的には受け止めるこ
とができます。「霊的な家」の方はこれに加えて、「霊の命を受ける家」「聖霊と人
の霊が出会う家」、あるいは「神の霊によって生命を賦与された信者の霊の住まい」
()と見ることもできます。
6.「聖書に書いてある」(
 :6)で、「聖書」がでも
(特定の聖句)でもなく、単数無冠詞の形になっているのは、「書かれて
厳然と存在する」意味を強調している、とは Stibbs の説明です。
7.「選ばれた民」の理解については、1989 年沖縄での講演「主の選び
と期待」の第2部を参照してください。
8..「王の系統を引く祭司」と訳してあるは“royal priesthood”
でしょうが、形容詞の“royal”がどんな意味で「王の、王的」なのかははっきりしま
せん。「王の身分を与えられた」と解しましたが、「王のお側にいる祭司団」(ゼカ
リヤ 6:13)という見方もできます。
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9.「力ある業を」はですが、ギリシャの哲学者たちが語った意味での「徳
目」ではなく、神の偉大な力の現れ、特にキリストによる贖いの御業を指すものでし
ょう。使徒 2:11がいちばん近いでしょうか。
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