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共済思想と保険思想

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共済思想と保険思想
共済思想 と 保険思想
IV 」' 言つ・.
近 藤 文
(関西学院大学教授)
第1部 箸方理論を中心として
1.わたくしの保険経済技術説
いま円本では,いわゆる類似保険の聞題をめぐって,保険と共済はどの
ようにちがうのかということが,大問題になっている。ここで保険思想の
歴史的分析を行なうに当っては,まず第一に保険思想とは何かということ
を明らかにしておく必要がある。が,それと同時に共済思想なるものが考
えられるのか,どうかということも明らかにしておく必要がである。最初
この点は,保険思想の歴史的発展の叙述を通じて明らかにすることができ
ると考えたのであるが,始めに述べたように保険と共済をめぐる問題が,
業界の閲心の的となっている現状からいって,少しばかりその点について
のわたくしの考えを述べておくのが都合がよいと思う。
わたくLは, 『保険学総論』 (昭和15年)で,保険を定義して「保険と
は,資本主義社会において偶然が窟らす経済生活の不安定を除去せんがた
め,多数の経済単位が集まって全体として収支が均等するように共通の準
備財産を形成する制度である」(1)と述べた。そして,この定義では,保険
の目的は「資本主義社会において偶然が腐らす経済生活の不安定を除去」
することにあると述べた。そして,このわたくしの説はまさに保険の経済
学的定義を主張するものであり,吊在保説」に属するとうけとられた。し
かし,わたくLはこの説は印南教授の「経済準備説」と大差のないもので
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共済思想と保険思想
あるという見解である。その理血ま, 「経済準備説」は「保険とは,一定
の偶然事実に対する経済準備の社会的形態であって,多数の経済体が結合
し,確率計算に基づいて公平な負担を行なう経済施設である」(2)と説く
が,それはわたくしの定義から保険の目的に当るものをとり除いた定義に
はかならない。すなわち「保険とは一定の偶然事実に対して,多数の経済
単位が集まって全体として収支が均等するように共通の準備財産を形成す
る制度である」(3)とあたくしの説を書きなおすと印南説と大差がなくなる
と考えるからである。
〔注〕 (1)拙著『保険学総論J 133瓜
(2)印南博吉著『保険の本質』 402頁
(3)拙稿「経済技術としての保険一印南学説によせて-」生命保険文
化研究所所報(第5号) 11頁
もちろん,この二つの定義は,詳しくみれば数々のちがいがある。たと
えば,印南説の場合には,保険は「経済準備の社会的形態」であるとされ
るが,あたくしの場合ほ「共通の準備財産の形成」であるとする。前者の
場合は「社会的」という表現で,保険は資本主義社会ならびに社会主義社
会にのみみられる歴史的存在であることから示されるといわれるのに対
し,あたくしの場合は「歴史性」はむしろ埋没している。また,印南氏
の場合には「準備金の設定」が保険にとって不可欠なものではないと主張
されるが,あたくしの場合ほそれが「共通準備財産の形成」として不可欠
であると主張する。そして,そこにこそ「保険」と「共済」との間の技術
上の相異がみられるとする。また,印南氏は保険を一つの「経済施設」と
解するのに対して,わたくLは,これを一つの「制度」と理解する,など
かなりの見解のちがいがある。しかし,両者がいずれも,経済準備を保険
の本質とみる点では全くその軌を一つにしている,というのがあたくしの
考えである。ただ大きなちがいほ,わたくLは最初の保険の定義では,保
険の臼的-Jl三確には保険加入者の加入目的を定義のなかにとりいれてい
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共済思想と保険思想
たが,その後これは,経済技術という言葉のなかにふくませることができ
ると考え,保険技術説を主張するとともに保険の概念のなかでは,保険目
的をとりいれない方がよいと考えた。そして保険の経済的理論は「かかる
技術としての保険がいかなる経済制度にとりいれられ,いかなる経済的
機能を発揮するかを,理論的に,かつ歴史的に分析する」ことだと説いた
のである。そして「経済技術としての保険」という論文で,「Vivanteの所
説によれば,保険の技術の特徴としては,保険料積立金という積立金の存
在と保険料と保険金が全体として一致するということの二つを挙げること
ができる。またKrostaによると『危険の平均化』が保険の技術上の特徴
としてあげられているが, 『危険の平均化』ということは『収支相等の原
則』を前提とするものであって,必ずしも『給付反対給付均等の原則』を
意味しないことに注意すべきである。かくて保険の技術は結局『収支相等
の原則』と『準備金の設定』ということにこれを要約することができる」(4)
と述べた。また「社会保険と保険技術」という論文では「保険の技術は少
なくとも近代資本主義社会においては,確率を前提にし,収支相等の原則
を実現するとともに,なんらかの形の準備金を設定することにある。その
点,前期資本主義社会に見られた,いわゆる商人保険の場合とは,技術に
ついても多分に相異する。もし,かかる段階の賭博的保険における技術を
も,保険技術として理解するというのであれば,確率はむろんのこと準備
金の設定のごときも意味をもたず,また『収支相等の原則』もその存在を
見失ってしまうであろう。そこで,とられた技術は,経済における技術で
なく,賭博における技術であり,したがってまた経済技術としての保険技
術ではないのである」(5)と説いた。
ところが,あたくしが,保険の本質をこのように経済技術として把えた
ことに対し,わたくしの説は,これまでの主張とは異り,保険の経済的本
質を否定するものだとして,その堕落をなげく人たちが少なくないという
ことである。もしそれが事実であれば誠に心外である。というのは,わた
9Q
共済思想と保険思想
くしの技術説は,保険の経済技術説であり,単なる技術説でないことを見
失った誤解からくる批難に外ならないからである。
そこで,少し廻り道にはなるが,この点についての解説をしておく必要
Jl'i与る。
〔注〕 (4)拙稿「経済技術としての保険」 22頁
(5) 〟 「社会保険と保険技術」大阪市立大学創立十周年記念論文集「経
済研究」 (43 - 44 - 45号)125頁
2.保険団体説と団体関係の理論
箸方幹逸教授の「保険団体と保険取引」と題する一連の論文集は最近の
労作として極めて注目すべきものである。その一つ「保険経済の原理的把
握-アメリカ保険理論を中心に-」(1)をみると,保険本質論を次の四
つの類型に区別している。
第一の型 保険団体概念と危険概念の結合
第二の型 保険団体柳念と偶発入用概念の結合
第三の型 保険取引概念と危険概念の結合
第四の型 保険取引概念と偶発入用概念の結合
そして, 「ドイツにおける保険理論家の支配的な見解は,表現上の差異
はともかく第二の型のものに属する」とし, 「クロスタ,ワーゲンフユー
ル, -ソス・メラーの見解は第一の型のものである」とする。この第一の
型の特徴は「偶発入用の充足という事後的観点」をとらず「危険ないし不
確定性という事前的観点」に立っとともに, 「保険経済における団体関係」
を重視するというのであるから,箸方氏はおそらくあたくしの説をこの第
一の型に属するとするであろう。しかし,あたくし自身は,第三の型に属
すると考える。というのは,あたくしの説は, 『保険経済学』第2巻で詳
しく述べているように,箸方氏のいうところの保険団体概念を採用してい
ないからである。あたくしの旧著『保険経済学』は第1巻も第2巻も今日
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共済思想と保険思想
では,おそらく入手が困難であって,箸方氏自身もあるいは,これを読ん
でおられないかとも思われる。そこで甚だ恐縮であるが,そのなかから,
りれから論ずることに重大な関連がある部分,とくに保険思想ということ
を理解するために必要と思われる部分をつぎに転載することを許していた
だきたい。
〔注〕 (1)箸方幹逸「保険経済の原理的把握-アメリカ保険理論を中心
に-」東京経済学会誌第37号124頁
「保険を一つの経済制度(wirtschaftssystem)として観察する限り,それ
は一定の経済意識(Wirtschaftsgesinnung)即ち精神によって支配され,一
定の秩序と組織(Ordnung und Organisation)とを有し,一定の技術をも
つものであることは極めて明らかといわねほならぬ。(2)そして,吾々は前
章について,まず保険を支配する経済意識即ち精神を簡単ながら見極める
ことが出来たのであるから,次に本章において,その秩序と組織,即ち保
険の形式もしくは組織形態とでも名づくべきものを考察するであろう。そ
こでまず,問題となるのは保険の形式において最も根本的なものほ何かと
いうことであるが,私は,既に,第1巻において指摘しておいた如く,こ
れは謂あゆる保険団体の形成に求める。即ち,保険加入者は,その意識せ
ると否とを問わず,保険者即ち保険を引受ける者を通じて,相互に結びつ
けをれているのであって,保険の存在するところ常に保険団体が存在して
いなければならぬ。よってかかる保険団体の形成こそ,保険の秩序と組織
との基調を為すものであるということが出来るであろう。
ウヨルナ- (Gerhard Worner)によれば,保険団体(versicherungsgemeinschaft)は『状態としての保険を表示する』ものであって, 『これ
をその周辺が保険加入者によって形成されている一つの図に輪へることが
出来る』というのである。(3)また小島博士によれば,保険にありては『多
数の経済主体が保険閲係により有機的連帯的に連絡せらるるのであるか
ら,彼等の間に自ら一つの団体を組織することとなる。それが,即ち「保
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共済思想と保険思想
険団体」といわれるものであって,保険が営利企業者たる個人または株式
会社の営業として行われる場合にはその営業者の法的人格とは別に,抽象
的なる一団体として存在し,相互組合または相互会社として行われる場合
には,その組合には,その組合または会社,それ自身が一つの具体的なる
保険団体たるのである』<ォ かくの如く,保険団体は保険加入者が何らかの
形で保険に加入することによって形成せられる保険加入者の団体である。
ところで小島博士は右の引用文によっても明らかな如く,保険が営業とし
て行われる場合には,保険団体は抽象的なる一団体として存在し,具体的
なる姿を示さないと主張される。しかし,私の見るところによれば,保険
団体は,保険者が如何なる形態のものであるとしても,常に具体的に存在
するものである。ただ異なるところは,加入者にとってそれの形成が意識
的であるか,或は無意識的であるかという点のみである。即ち,本質的に
ほ,保険は,保険加入者によって構成せられる保険団体がこれを引受ける
ことによって始めて成立するのであって,かの『被保険者は,同時に保険
者である』という命題は単に相互保険についてのみならず,営利保険にお
いても,また妥当するものであると考える。
但し,かかることは,本質的即ち経済学的に考察する場合においての
衣,そういい得るのであって,法律的見地よりすれば,また事情は自ら異
るといわねばならぬ。即ち,法律的にはウヨルナ-も指摘している如く,
『保険者は保険団体の各員とは独立して相対立するところの第三者であ
る。彼はその一員となり得るが,しかしその一員でなければならぬという
わけではない。彼は保険加入者達の問に立ち,保険団体を円として考える
ときはその中心に愉えられるべきものであって,彼と各団体員とを保険関
倭(Versicherungsverhaltniss)が結びつけるのである』(5)そして相互保険
の場合には保険団体そのものが保険者であり,営利保険の場合には保険団
体に属さない第三者が,保険者となるのである。く6)だから法律的には,保
険者と保険加入者とは,常に対立的な関係にあり,相互保険にあらざる保
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共済思想と保険思想
険においてほ,保険団体はその具体的存在を示さないわけである。しかし
ながら,経済的にほ,保険者が如何なる形態のものであろうとも,保険加
入者相互の問に関係があり,その意味において保険団体は常に存在してい
るといわねばならない。従ってまた,たとえ法律的にはどうであろうと,
『保険加入者各自は被保険者であると如こ保険者である』(7)ということも
出来るのである。
尤もここに特に注意を要するのは,保険団体と名づけられるものの団体
性を如何に解するかの問題である。普通には,団体性は単に『社会的集団
的なること』(8)或は『多数加入者の存在』(9)もしくは『保険契約者の団体的
関連性』(10)であることを指摘するに止り,それがもつ経済学的乃至社会学
的意味を充分明らかにしていないようである。即ち,近代的保険はその合
理的料率を適用し得るに足るだけの多数加入者の存在もしくは結合を必要
とするということを意味するに止る。或はまたその加入者のかかる結合を
前提とする倫理性,遺徳的性質を主張するに止る(ll)従って,その団体性
がこれを社会形態として見るときには如何なるものかという点にまで掘り
下げて考察をしていない(12)
しかしながら,いまここに保険の形式換言すれば,保険の組織形態を問
題とするに当っては,保険団体が如何なる社会形態であるかを明らかにし
ておく必要がある。そして,私はこれをテンニイス(Ferdinand Tonnies)
の利益社会(Gesellschaft)と共同社会(Gemeinschaft)なる二つの社会
形態概念によって考察して見たいと思う。
周知のごとくテンニイスは『共同社会は継続的なそして純粋な共同生活
であり,利益社会は単に一時的なそして虚偽の共同生活であるに止る』。従
ってまた『共同社会自体は生活有機体(lebendiger Organismus)として,
利益社会は機械的集合体及び製作物(mechanisches Aggregat Artefact)
として理解せらるべきである』(13)と主張する。
かくてテンニイスによれば,共同社会の典型的なものとしては,血縁共
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共済思想と保険思想
同社会(Gemeinschaft des Blutes)地縁共同社会(Gemeinschaft des
Ortes)及び精神共同社会(Gemeinschaft des Geistes)の三つがあり,
この三つは同時にまた共同社会の発展段階を意味する。(14)これに反して
『人間利益社会は互いに独立せる人格の単なる共在として理解せらるる』
ものであって,商事会社(Handelsgesellschaft)の如きその最も著しいも
のである。(15)即ちそこでは『いくら結合していてもなお分離の状態に止っ
ている』のであって, 『彼が与えたところのものと,少なくとも同一と見
倣すところの報償或は返礼を目的とするのでないならば,何人も他人のた
めに何らかのことをなし,他人に何らかのものを与えようとは欲しない。
否報償返礼としてに与えたところのもの以上に,彼の意に適うということ
さえ必要である』(16)
そして,私は保険団体をかかる意味の利益社会に属するものであると考
える。成程ドイツ語で保険団体は常にVersicherungsgemeinschaft とあ
り Gemeinschaftなる言葉を用いているが,それは,単にドイツ語の慣用
では-学術用語としてほ別であるが-GemeinschftとGesellschaftとを
区別せずに用いているからであって,何ら,本質的に保険団体が Gemein"
schaftであることを意味するものではない。尤も学者のなかには,保険の
いわゆる協同組合的思想(Genossenschaftliche Gedanke)を重視し,或
はこれをテンニイスの意味の共同社会であると考えるものがあるかも知れ
ない。しかしながらテンニイスも明らかに認めているが如く, 『近代の経
済協同組合(moderne wirtschaftliche Genossenschaft)は社会的概念に
おける共同社会と利益社会との綜合(Synthese)として,かつ同時にまた驚
嘆すべき利益社会的発展の傾向に対する幾多の反作用(反動)の一つとし
て理解することが出来る』(17)ものであり単純なる共同社会ではないのであ
る。そしてテンニイスは保険における謂わゆる相互組合(Gegenseitigkeitverein)が思想的に見ては,消費組合や購買組合のような協同組合
(Genossenschaft)と区別さるべきものでないことを認めるとともに(18)同
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共済思想と保険思想
時にまたかかる性質を帯びない保険,即ち『取引(Geschiift)としての保
険の存在』をも勿論認める。(19)のみならず,保険はむしろかかるものとし
て発生したことをさえも承認しているのである(20)従って,保険団体は少
なくとも,資本主義社会を前提とする限り,常に何らかの意味において利
益社会的形態をもつものと考えても誤りではあるまいと思う。 (注)
(漢)テンニイスはここではGenossenschaftという言葉を右の如く協同組合と
同意味に用いているが, "Gemeinschaft und Gesellschaft"ではこれと同
様の意味の外にまたVereinと対立させて共同社会的結合の構成体そのも
のの意味にも用いている。
さればこそテンニイスもまた『寂引としての保険は,完全なる資本主義
の重要かつ顕著なる一つの′領域を意味する。いなそれどころか,それは特徴
のある仕方で正しく利害の称嘆すべき調和を蘭らしている点において資本
主義の木質を充分に表現しているといわねばならない』と述べ,また『個
人保険者ではなく会社が頃補を引受ける場合には即ち多数の保険加入者が
一つの会社と契約を為す場合には,両者の間には利益社会的結合(geselト
schaftliche Verbindung)の原理が実現されている』ともいう。(21)従っ
て,例えば,ウヨルナ-が,保険団体と消費組合や販売組合の団体性を同
一視し,これらのものとの差異は『主として結合の一般的目的及びその日
的の遂行に関する動機並に方法の特殊な様式ある』(22)と述べているのは妥
当でないといわなければならぬ。というのはたとえテンニイスによって
も,保険団体は相互保険若くほ社会保険についてのみ共同団体性,しか
も利益団体性と総合した意味の共同団体性を認め得るに止る。のみならず
それは発展史的にも,利益社会としてのそれに遅れて出現したものである
からである。
以上の如く,資本主義社会を前提とする限り,保険団体は純粋の利益社
会として,或は共同社会と総合したる利益社会として理解すべきであり,
従って,純粋なる意味における保険の社会形態は,利益社会にあるといわ
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共済思想と保険思想
なければならぬ。かのリンデンバウム(J. Lindenbaum)が,保険の謂あ
ゆる団体性を否認して謂あゆる保険団体には団体意思(Gemeinschaftsabsicht)がないとし, 『団体意思のない団体というのは無意味(Unbegriff)
である。救済的性質(Hilfsbereitschaft)を明らかに否認しながら,相互
扶助という心理的要素を主張することは,科学的には無益かつ無価値の変
計である。かかるものを利用することにより,単なる虚構をして,実は影
に過ぎない存在にまで高めるのである』C23)としているのは,かかる意味に
おいて正しいと言わねほならぬ。
かくて,吾々は,保険団体はテンニイスの意味における結合体(Verbi.
ndung)ではあるが,共同社会的結合体ではない,従って保険の目的,煤
険の精神は保険団体そのものの団体意思に求むべきではなく,保険団体を
構成する各加入者の共通的意識に求めなければならぬ所以も了解されるで
阜O'^。
なおこの問題を一層明瞭ならしめんがために,リンデンバウムが団体性
と関連させて述べているところの保険における相互性(Gegenseitigkeit)
の問題を次に考察することとしたい」(24)
〔注〕 (2)拙著『保険経済学(第-巻)』 116頁以下 Werner Sombart, Die
drei Nationalokonomien 1930. S. 184 (小島博士訳『三つの経済
学』 219頁。
(3) G. Worner, Allge meine Versicherungslehre 3 Aufl. 1920. S 19
(4)小島昌太郎『綜合保険学』 139頁。
(5) Worner, a. a. O. S. 30 (訳本32頁)なおこゝで保険関係というの
はもとより、法律的概念であって,すなわち保険加入者と保険者と
の間の法律関係を意味する。
(6) Worner, a. a. O. S. 102 (訳本124頁)
(7)小島昌太郎『綜合保険学』 149頁。
(8)野津務『相互保険の研究』 101貢。
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共済思想と保険思想
(9)牧岡一郎「保険に於ける社会性及偶然性の批判」 (保険評論第28巻第
3号 34貢)
(10)田中耕太郎『保険法講義要領』 17頁。同「保険の社会性と団体性」
(法学協会雑誌第50巻、第10号127頁)
(ll)例えは、 Rohrbeck, Der Versicherungsnehmer (Festgabe fur
Alfred Manes. 1927. S. 49 f上及び田中博士前掲論文。
(12)わが国でこの点を指摘しているのは酒井正三郎『保険経営学』 15頁
と「保険形態論」 『名古屋高等学校創立第十周年記念論文集』がある
のみである。
(13) F. Tannies, Gemenischaft und Gesellschaft. 3 Aufl. 1920. S. 4
(14) a.a.O.S.12
(15) S.4
(16) S.33
(17) F. Tonnies, Das Versicherungswesen in soziologischer Betrachtung. (Z. f. d. g. Vesicherungs-Wissenschaft. 1917 S. 623)
(18) a.a.O.S.622
(19) S. 608-610
(20) S. 623
(21) S. 612
(22) Worner, a. a. O. S. 20 この点わが国でも例えば田中博士がテソニ
イスの相互保険に対する考へ方を営利保険にまで展開せしめ、営利
保険もまた協同組合と同一性質のものだと主張しているのに似てい
る。 (前掲論文、法学協会雑誌第50巻 第10号145頁)
(23) J. Lindenbaum, Ein Vierteljahrhundert der Versicherung.
(Zeitschriftf. Nationalokonomie B. 2 Heft 1. 1930. S. 97)
(24)拙著r保険経済学(第二巻)J 253頁-262頁。
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共済思想と保険思想
3.箸方理論にみられる誤解
あたくしは,いささか旧著の紹介に頁を割きすぎたようである。だから
これ以上の引用はやめることにしよう。しかし以上の引用だけで,箸方氏
がもしあたくしも「総体としての保険関係-保険団体」を中心に保険の本質
を把えようとするドイツにおける保険理論家と同じ考えをもつものだと考
えているとすれば,それは大きな誤りであることがわかるであろう。しか
しそれにもかかわらず,箸方氏はわたくLを「団体概念を強調する」学者
の一人と考えているようである。このことは,箸方氏の論文「保険経済の
原理的把握-ドイツ保険理論を中心に-」のなかで,あたくしを「確保
説」をとる一人の学者として聴りあげていることからでもわかるであろう。
そして,このことはおそらく,あたくしが保険を一つの「制度」とみた
ところからきているのであろう。というのほ,箸方氏が「入用説も確保
説も両者共通の地盤があった。それはアメリカ保険理論の側にではなく,
あくまでドイツ保険学の伝統に立脚していた点である。本質論者の多く
は,保険の経済的本質は施設として把握しなければならないと説いてい
る。この場合の施設とは,多数経済体の結合としての施設である。つまり
被保険者相互の関係,所謂保険団体関係を共通に重視している」(1)と述べ
ているのをみても推測ができる。
ところでここで問題は「施設」という言葉である。というのはこの言葉
はドイツ語のVeranstaltungの訳語であって,箸方氏は[両i氏がマ-ネス
の『保険諭』におけるWirtschaftliche Veranstaltungを経済施設と訳し
た。それをそのまま是認して採用しているのであるが(2)この訳語には問
題があるからである。
〔注〕 (1)箸方幹逸「保険経済の原理的把握-アメリカ保険理論を中心に
-」 (東京経大学会誌 第37号122京)
(2)箸方幹逸「保険経済の原理把握-ドイツ保険理論を中心に-」
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共済思想と保険思想
『久川武三教授退官記念論文集保険の近代性と社会性』 276頁
あたくし自身は,このVeranstaltungを「仕組」と訳し(3) 「施設」とい
う訳語は,たとえばWagnerのEinrichtungの場合に使っている。そし
て「制度」というときにはドイツ語のSystemの訳語として使ってきた。
ここでわたくLがEinrichtungとVranstaltungとを区別し, Veranstaltungを「仕組」と訳したのは, Einrichtungというと,それは「静止的な
もの」すなわち状態Zustandとして抱えられるおそれがあるからである。
たとえば,ワグナーがとくにEinrichtung という言葉を使ったのは,煤
険を一つの状態として理解し,人間の行為としての保険あるいは過程Vorgangとしての保険はこれを問題としようとしなかったからである。そり
で,ペニーツクの批難があり(4)あたくしもこれにふれている。(5)
ところが, Einrichtung(施設)とちがって, Veranstaltungは,組合せ
るとか,整えるとかいった人間の行為が中心となって理解される言葉であ
る。英語でいえばdeviceに当る。すなわち,工夫することという動的な
意味がある。そこで,わたくLは,これをdevice とともに「仕組」と訳
したのであって,ウイレットが保険を一つの社会的仕組(social device)
といい(6)マ-ネスが経済上の仕組(Veranstaltung)というのも,その意
味である。したがって,箸方氏がマーネスのVeranstaltungを「施設」
と訳し,ワグナーと同一線上で理解していることには賛成できない。マネスは,かの有名な保険の定義である「保険とは相互主義に基づく経済上
の仕祖(Veranstaltung)であって,偶然的ではあるが言1一基し得るとこ
ろの財産上の欲求(入用)の充足を「柏勺とするものである」といったの
杏,第5版では「保険とは多数の同様に脅かされている経済が,偶然的で
はあるが計量し得るところの金銭上の欲求(入用)を相互的に充足するこ
とである」と改め, 「経済上の仕組」という言葉をとってしまった。そし
て,これについて,マ-ネスは「経済上の仕組」という言葉をやめたの
は,経済上の著述においてとくに経済的性質を表わす言葉を用いるのは余
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共済思想と保険思想
計なことであり,また「仕組」ということは「充足」という言葉で以て十分
これを表現できると考えたからであると述べている点からいっても極めて
明らかである。このことは,あたくしは『保険経済学』でふれているので
ある。(7)そして,このことは箸方氏も「Wirtschaftliche Veranstaltungと
いう用語を余許なものとして取り除いている点」は「マ∼ネス自身の言明
にあるように,立場の本質的な相違はなかったが,これも無視してはなら
ない点である。何故か。経済施設という表現は,静的把握のごとく観念さ
れやすい。この点の誤解を避けるた吟に『相互的入用の充足』という過程
を示す表現をとったと思われる」(8)として,これを認めているのであっ
て,マ-ネスは保険を静的なものとして把えていない。また,そうであれ
ばこそマ-ネスは,ワグナーがEinrichtungという言葉を使ったのに対し
て,とくにVeranstaltungという言葉を使ったのである。わが小島先生
の確保説についてもこの点は同様である。このことを箸方氏も忘れないで
娼tMKB
ところで,ここで問題になるのは「仕組」と「技術」の関係である。箸
方氏は,あたくしが,かつて『保険学総論』で,等しく確保説をとる学者
であるが,リーフマン,ローテ, -ルペソシュタインなどは「一切の技術
的要素を拒否し,純経済理論的に保険を一つの過程Prozessとして把えよ
うとする」。これに対して,小島先生の場合は「これらの学者とは異なり,
ある程度まで保険の技術的要素を取り入れて,保険の本質を説く」と述べ
たく9)ことにふれ,わたくLもその後者の一人だとする。そしてこれは「保
険理論家による保険概念」でほない。 「保険学者が,通常そのテキストに
おいて保険を定義しようとする場合には,当然その技術的側面についても
考慮をはらうべきである。しかし,経済理論家にとっ〔は,かかる側面は
さほど重要でほない。このことは,経済理論の保険学における役割の問題
に通ずる。保険経済理論のことをいっているのではなく,経済学は保険学
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共済思想と保険思想
においていかなる役割を果しうるか,これがここでの私の発想である。技
術的要素をも考慮に入れて保険を定義せよという要請は,いわば保険学者
としての発言である。この点を区別しなければなるまい」(10)と主張してい
る。
しかし,わたくLは,保険理論家と経済理論家とを区別したロールペッ
クの見解には疑問をもつものであって,世にいわゆる保険学者とか保険理
論家といわれるものの存在自体に疑問をもつものである。というのは保険
は経済理論の対象ともなるし,法律理論の対象ともなるが,われわれが保
険経済理論とよぶものは「保険学における経済理論」ではなく, 「経済理
論における保険の理論」にはかならない。そして,その場合にでも,経済
理論そのものの把え方いかんによっては当然に技術の問題がふくまれてく
ると考えるからである。
なお,わたくLが「技術」とよぶものについての見解は, 『保険経済学』
において次のように述べているのであるからこのことについても留意して
ほしいと思う。
「保険の方法即ち技術的構成については,これを保険の本質の外におか
んとする学者があることは既に述べた。殊にかかる見解はいわゆる理論的
保険本質論において特に顕著である。しかし,私は,ゾムノミルトの立場を
基礎とし,保険における特定の技術を保険の本質にとり入れるべきである
との見解を採る。但し,ここに謂うところの技術は,ゾムバルトによって
指摘されている如く,経済に対立するが如き意味の技術ではない,経済と
同一面上にある技術である。即ち保険なる経済組織体に欠くべからざる固
有の方法を意味するのであって,経済と対立するが如き意味の技術は,か
かる方法を実践に移す時に始めて問題となるのである」(ll)
かくて,わたくLは, 『保険経済学』ではこれを保険の「方法」として
問題にした。そしてその方があたくしの意図がよく示されるし,また「仕
組」という言葉にも通ずると思ったからである。現に英語のdeviceは「仕
-41
-
共済思想と保険思想
組」のほかに「工夫」とか「方法」と訳せられているし,小島先生も最初
は「仕組」として規定したが,後には「工夫ある所の現象」と定義してい
られるのであって,この間の事情はこれでよくわかると思った。
といって,箸方氏は,あたくしが「技術」の代りに「方法」という言葉
を使っても「保険なる経済組織体」とわたくLが述べている以上,お前も
結局,団体説をとっているのであって,それを前提として方法を問題とす
る以上は, 「方法」も「技術」も経済的本質でない点では変りはないと批
判することであろう。確かにあたくしは,旧著では「保険が保険として,
その特殊なる存在を主張し得る根拠は,保険なる存在が特定の目的,特定
の形態及び特定の方法をもっ一個の組織体」であることにあると述べてい
る。そして,そうであればこそ,保険を「制度」として規定したのであっ
た。しかし,よくよく考えてみると,たとえ保険を一つの制度として規定
するとしても,それが一つの制度に沈澱するためには,保険なる経済行為
の存在が必要であり,この保険行為の経済的本質を見極めることが理論的
研究の始まりでなければならぬ。すなわちその行為の仕方から見極めるべ
きであると思った。そこで経済技術説を提唱したのであった。が,いまに
なって考えると, 「技術」という言葉をっかったのは誤りであった。これ
ほ正しくは「特殊の経済方法」と表現すればよかったと思う。
では,何故に,保険の日的や形態を第二次的に考えるのかということで
あるが,保険のLj的は結局,保険加入者の意識以外にはなく,いってみれ
ば,それは「保険思想」とよばれるものである。また,形態は結局,その
「方法」の側面の説明にはかならないと考えたからである。
箸方論文は,たとえばマールの「団体原理」 Assoziations-prmzip 危険
共同体)を援用して「団体概念」と「関係概念」 (取引として把握するこ
と)とを対立させ, 「保険団体概念」はマクロ・フローの見地からした概
念だと説いている。しかし,そうであるとしても,それはあくまでゲゼル
シャフト的にみるべきであり,このことは箸方氏自身が「保険経済の基調
- 42 -
共済思想と保険思想
は,ゲマインシャフト関係ではなく,ゲゼルシャフト関係である」く12)とし
ていることからいっても明らかである。
ところで,こうした関係は保険という一つの経済方法から生ずるところ
の本質的な関係であって,この関係を示す言葉をとくに保険の定義のなか
にとりいれる必要はない。しかも保険という方法はいうまでもなく,近代
資本主義の確立とともに生れたものであって,それ以前の段階では,形式
的には今日の保険取引とは興らないように見えてるものがあっても,それ
は一つの射倖契約にはかならないということをも忘れてはならない。
ところが箸方氏によれば,「保険取引」という概念は「危険」概念と結
びっくことによって始めて,保険の本質を規定する概念となるのであって
「保険は極めて重要ではあるが,つまるところ,歴史的産物であって,質
本主義社会における危険対策の一手段に過ぎない」(13)とし,さらにまたマ
-ネスの入用説と確保説との同化にこそ将来の本質論のあり方があると主
張する。(14)しかしわたくLは,保険の目的を保険加入者の意識のうちに求
めることをやめた場合の確保説は結局入用説という技術説に純化されるの
であって,マ-ネス説こそはまさにその典型だと思う。したがって入用説
と確保説の同化は戦前すでに始まっていたのである。さればこそあたくし
は『保険経済学』で「マ-ネスが欲望なる概念を,欲求(入用)なる概念
に代えたのは実は,欲望なる主観的・経済学的範境を,欲求(入用)なる
客観的・経済学的範暗に代えたのではなく,欲望なる経済学的範晴を欲求
(入用)なる技術的範噂をこ代えたのであった」と述べたのである。そし
て「マ-ネスにおいては,最初から技術的なものが基礎となって欲求(入
用)概念が構成されている」と断じたのであるCIS)
。この点を見忘れないで
ほしい。
したがって,もし,わたくLを技術説に堕落したというのであれば,そ
の前にマ-ネスを批難すべきであり,逆にマ-ネスを高く評価するなら
-43-
共済思想と保険思想
は,わたくしの説も高く評価されるべきである。
〔注〕 (3)拙著『保険学総論』 56頁を見よ。
(4) O, F. v. Boenigk, Wesen, Begriff und Einteilung der Versi.
cherung vom okonomischer Standpunkte (Zeitschrift fiU die
gesamte Staatwissenschaft. 51 Jahr. 1895 S. 74
(5)拙著『保険経済学(第二巻)」 30頁。
(6)同上152頁。
(7)同上84頁。
(8)箸方氏「保険経済の原理的把捉-ドイツ保険論を中心に-」 276
頁)0
(9)拙著『保険学総論』 71頁。
(10)箸方前掲論文285貢。
(ll)拙著『保険経済学(第二巻)』 288頁。
(12)箸方氏「保険経済の原理的把握-アメリカ保険理論を中心に-」
133貢。
(13)箸方氏「保険理論とリスク・マネジメント-評価問題をめぐって
-」 (『大林良一博士退官記念保険学論集』 212貢。 )
(14)箸方氏「保険経済学の原理の把握-ドイツ保険理論を中心に-」
288頁。
(15)拙著『保険経済学(第二巻)J 92貢。
4.マ-ルの発展段階説と共済の本質
戦後間もなく公にした『保険論』のなかで,あたくしはマールの所論に
ふれて,次のように説いた。マールは「保険の社会的関係を問題とするに
当って,これを『保険者と被保険者の総体的関係』として把え,保険はま
ず『協同体的保険関係』として生まれる。そして,そこでは『保険として
意識されずに,相互扶助に対する倫理的義務や,風俗,習慣,伝統やさら
には結局各人の慈善心に依存する』。そして,かような『協同体的保険関
-44-
共済思想と保険思想
係』は次の段階には『拘束体的保険関係』にまで発展する。が,そこでは
『避けることの出来難い危険に対して経済の遂行を確保することが,協同
体的動機に基づき,他の任務と共に意歳的な特殊の任務として引受けられ
る』。かくて,最後に保険関係は『利益社会的関係』となり『保険関係は
単に保険給付の法律的確保ということになってしまう』 (1)と説く」のであ
るが,もし「この最後の保険関係のみを真の保険関係であるとし,他は,
原始共産社会における,及び封建社会における生活確保関係のそれぞれの
社会的形態である」というのがかれの真意であるとするならば, 「それは
われわれの立場と一致する。すなわち,保険は,偶然に対する生活確保
を目標とする経済的構造の資本家的社会における形態に外ならないという
訳である_Poただし, 「マールは必ずしもかかる解釈を認めている訳ではな
い。が,われわれは,かく解することによってのみ,始めて保険の其の本
質が把捉出来るのだ,と主張したい]C2)と。このあたくしの説明を,箸方
氏はどのように解釈しているのであるか。それは明確ではない。
もっとも,マール自身は,その説明のなかで,結局自由主義は没落し,
利益社会的なものは凋落し, 「人類はあらゆる方面において,協同体的な
或は拘束体的な形態に向って進みつつあるとともに,個人の自己責任の下
に建てられた利益社会的な保険関係も姿を消し,拘束体的な保険関係が出
現するとともに,われわれの保険制度は強固な拘束体的なもので包まれて
しまう」と結んでいる。(3)
したがって,そこでは保険が社会保険から社会保障へと展開していくこ
とを考えているのではなく,これをナチス的な第三帝国と結びつけて考え
ているのであるから,この点はわれわれの立場とは全く異っている,>ォ こ
れを忘れてはならない。ところで,あたくしが,ここでマールの説をとりあ
げたのは,そうしたことがあるからだけではない。そこにみられる保険の
発展段階説が,さきに述べた,テンニイスの見解に似ていること,さらに
は,筆力氏の別の論文「保険理論の基礎概念(-)」がわたくしの所論をと
- 45 -
共済思想と保険思想
りあげ,マールの所論とあわせて批判しているくだりがあるからである。
ただ,残念なことは,箸方氏はマールについては,あたくしが,引用した
論文にふれていない。したがって,マ・-ルとナチス理論との関係は明確に
されていない。その上箸方氏はテンニイスにほおよんでいない。
しかしここで,わたくLがとくに強調しておきたいのは,テンニイスは
すでに早く,保険は本来,利益社会として把えるべきであり,それが後に
共同社会と結合して社会保険にまで発展する可能性を示唆していることで
ある。このことを,わたくLは『保険経済学』で詳しく説明しているので
あって,前に述べた引用文がこれを明らかにしている。が,箸方氏はこれ
には一切ふれていない。
〔注〕 (1) Mahr, Das Versicherungsverhaltnis (Z. f. CI. g. Versicherungs
Wissenschaft. 1936. Heft I. S. 40
(2)拙著『保険論』 39貢。
(3) Mahr, a. a. O. S. 42,43
(4)拙著『保険論』 40頁。
そして,わたくし自身はそれを」二台にして保険の発展段階を考えたわけ
であるが,その際,あたくしはゾムバルトのいわゆる理解的経済学の立場
をとって,問題を処理したため,保険を一つの「糸碑友体即ち制度」として
把えた。この点は経済技術説をとる今日といささか興っている。しかし,
わたくLが,経済技術説をとる場合の「技術」は「 仕組」に当るものであ
って,この点が明確にされれば『保険経済学白こ述べたことと本質的には
大きなちがいはないことがわかるはずであるが,箸方氏は,その真意を理
解せず,さらにあたくしが,保険の技術とは「平均を目的とする危険の結
合」であり,危険のfi知ま「積立金の設定」と保険料の保険金が全体とし
て一致するという「収支相等の原則」によって行われるとしている点は,
「保険技術の特徴ないし原則を"収支相等の原則′′ と"準備金の設定〟の
二つに認め│Cサ る説だとしてこれを正しく理解しながら,他方ではマール
一m--
共済思想と保険思想
の複雑極まる「保険技術的エーコノミクversicherungstechnische ()kon0mikJ 「営利経済的--コノミク erwerbswirtschaftliche Okonomik」お
よび「補償経済的エーコノミク gewahrswirtschaftliche Okonomik」と
いった三つの概念をとりあげ,とくに「保険技術的エーーコノミク」と保険
技術的柏等原則 Versicherungstechnische Aquivalenzprinzip との関
連を説くとともに「近藤教授のすべての保険制度を通じてみられる収支
相等の原則は,マールの相等原則-純保険料収入と保険給付を関係づけ
る-に相当するものであろうか。あるいは保険技術的エーコノミク・保
険経営のエーコノミクに相当するものなのであろうか」(6)との問いを発し
ているのである。
しかし「マールの--コノミクなる概念は明瞭でない」(7)ことは,箸方
氏自身がこれを認めているのであって,それにもかかわらず,あたくしの
立論を批判するときにその概念を援用する。わたくLがいう r収支相等原
則」はいうまでもなく,箸方氏のいう「近代保険制度下において駆使され
る本来のかつ固有の技術」であって,単なる「計算活動の領域」に限定さ
れるものではない。したがって,あたくしが, 「すべての保険制度を通じ
てみられる収支相等の原則」といったとしても,それは近代的保険制度を
前提としたものであることは明らかであるが,箸方氏はこの点を考慮しな
い。
ただし,前掲の箸方論文は極めて承要なことを示唆しているO というの
は,それは「保険技術」を一つの「't.塵力」として考え,さらに「保険関
係」を一つの「生産関係」になどられ,保険関係と保険技術の統一をもっ
て保険制度 Versicherungswesen と規定しているからである(8)
さきに述べたように,あたくしが「保険技術」とよぶ場合,それはつね
に「保険関係」と結びっけて考えているのであるが,その意味では,箸方
氏のいわゆる「保険制度」こそは,まさにあたくしが「保険の仕組」とよ
-47-
共済思想と保険思想
ぶものであり,現実にはこの「仕組」がいろいろな保険制度として沈澱す
るのである。
そのように考える場合,想起してほしいのは,わたくLが,本誌に載せ
た「保険技術としての保険」の末尾のところの次の文章である。
「賦課手続ないし賦課方式は,印南氏のいわるるがごとき意味では,技
術の歴史の上の,いわば道具の段階である。これに対して,現代的保険に
おける技術はいわば機械にはかならない。すなわち,機械がそうであるご
とく,現代的保険もまた近代資本主義社会の段階に入って,確率を前提に
し,共通準備財産という特異な積立金によってその技術を完成したのであ
り,かかる技術を前提としてのみ,われわれは保険として共通のものを求
めることができるのである。かの創設期における保険が,海上保険につい
てみても,また,生命保険についてみても,賭博となんらことならない技
術を前提としていたことは,それがいわゆる原始的保険であり,近代的保
険でなかったことを明白に物語っている」。(9)
いま,ここで保険思想を問題にするに当って,あたくしはがこの文章を
敢て引用したのは保険思想は保険の技術すなわち保険という仕組を前提と
して,始めてその本質を把えることができるということを-ッキリさせて
おきたいと考えたからである。改めて述べるまでもなく,経済思想を一つ
の意識形態として把える場合,それは常にその下部構造であるところの経
済構造によって規制され,支配されるものである。経済思想がその下部構
造である生産力と生産関係によってつくりだされるということを,保険思
想に当てはめるならば,それば削こ保険技術と保険関係すなわち「険保の
仕組」によって支配されるということになる。そして,もし,保険思想の
ほかに,共済思想なるものがあるとすれば,それはまた常に「共済の仕
組」によって支配される。このことを-キッリさせておく必要がある。
現在,問題となっている「保険」と「共済」もかかる意味で,その本質
を区別する必要がある。わたくLはかつて「共済事業は保険事業か-保
48
共済思想と保険思想
険業法には限界がある-」という論文と「経済技術からみたJt済と保
険」という論文を通じて,経済技術論の立場から保険と共済との区別を明
らかにした。ところが,これに対して,笠原長寿氏はこのような把え方を
すると「共済概念に対しては社会的,経済的分析の姿勢を示しながらも基
本的には技術論に解消されてしまう」(10)と批判された。それはあたくしが
「われわれは,単にその名称のみに囚Itてはならない。たとえ,それが保
険以外の名称でよばれようとも,技術的には-ツキリと保険と認められる
ようなものであれば,それは保険であり,かかる技術の上に立つ制度であ
れば,それは明らかに保険制度である。これとは逆に,たとえ,保険の名
を冠するとしても,そこには保険の技術がいまだ見られないとすれば,それ
は保険ではない」(ll)と述べたのに対する批判である。が,これに対して,
あたくしはさらに再批判し,それは全くの誤解であって,こうした立場に
立ってこそ,始めて共済概念を明確にすることができると論じた。<12)と
ころが,最近平井仁氏もまた「保険経営体としての協同組合」なる論稿に
おいて「保険や共済の概念をとらえるに当って,それを保険技術の面から
のみとらえるのでは,一面的ではなかろうか」とし,さらに「勿論,保険
と共済を技術面からのみみることは出来うるし,概念構成をそれのみに限
定させることも出来よう。しかし,それほ保険-近代的保険,共済-原始
的保険としてみる場合に有用なことであろう。しかし,ここで共済につい
てみるのほ,それを原始的保険としてみるのでなく,協同組合保険として
みることであって,保険岩営利保険,共済-協同組合保険として問題を提
起しているのである。したがって,ここで聴上げねばならない概念は保険
技術としてみたのでは,それぞれの本質を糾明することは出来ないという
ことなのである。ここでは,むしろ営利保険と協同組合保険との関係,そ
の異同である」く13)とあたくしに反対している。
しかし営利保険といっても協同組合保険といっても,いずれも近代的保
険である。ところがわが国ではこの協同組合保険という保険が「共済」と
- 49-
共済思想と保険思想
よばれているのである。そしてそのために保険として敢扱われないのであ
る。平井氏が,近代的保険を営利保険と協同組合保険とに区別して,その
異同を論ずるのほよい。しかし,それがどうして「保険」と「共済」の閲
係や異同になるのかそれがわからない。それは協同組合保険を「共済」の
名の下に保険業法の支配から白山にしようというねらいがあるからという
ことになりはしないか。平井氏は共済-協同組合保険としながら,同時に
また,共済-原始的保険としている。この間の消息を牧語って余すところ
//>ない。,
しかし,われわれが月毛済」と「保険」, 「共済思想」と「保険思想」
として間匙にしようとしているのは,平井氏の言葉をかりるならば,原始
的保険と近代的保険の関係であって,協同組合保険と営利保険との関係で
はない。
〔注〕 (5)箸方氏「保険理論の基礎概念(-)」生命保険文化研究所『論集』第
1号 57貞
(6)同上、 17頁。
(7)同上、 69頁C
(8)同上、 62頁。
(9)拙稿「経済技術としての保険丁印南学説によせて」 (生命保険文化研
究所『所報』)第5号25月。
(10)笠原長寿「共済研究に関する若T.の問題」 (共済保険研究通巻33号
21貞O)
(ll)拙稿「共済事業は保険事業か-保険業法には限界かある」 (共済保
険研究通巻6号12頁。 )
(12)拙稿「経済技術から見た共済と保険」 (共済保険研究通巻39号16貞
以T
(13)平井仁「保険経営体としての協同組合(上)」 (共済と保険84号 3O31貢。)
ところが平井氏は,わたくLが脇同組合保険は「保険技術を利用して行
一部)-
H.満Rl tli^_代S.サ'.ォ!
われる協同組合事業の一つであって,他のいい方をすれば,保険をば協同
組合形態で制度化したものにはかならない。それは,普通に民間の保険が
会社企業を通じて制度化されているのとは異なり,また独特の保険制度と
いうことになる。しかも,これを歴史的にみる場合には,それはいわゆる
共済制度の一つの発展形態として登場したものにはかならない。したがっ
て,それは当初においては,明らかに共済であったかも知れないが,今日
ではレッキとした保険である。したがノ〕て,もし,これを一般の民間の保
険と区別しようというのであれば,制度として区別する以外にみちはない
のであって,共済と保険というような一般的な概念で区別されうるべきも
のではない」(14)と論じたのに対して, 「共済--協同組合保険を歴史的にみ
る場合,それを共済-原始的共済の発展したものとみるのは正しくない。
それは営利保険に対して発生したものである。このことは営利保険と協同
組合保険とを保険技術の概念から検討するのでなく,経営形態としての会
社制度に対する協同組合制度の概念で検討を加えるべきなのである。もっ
とも,それなら保険と共済の概念についてではなくて,会社と協同組合に
ついての概念だということになるかも知れない。しかし,ここで問題にし
ているのは,会社一般,協同組合一般についてではなくて,それが保険経
営体としてのそれなのである。そして,それらの経営体を技術として分析
するのでなく,その社会的・経済的飯能について,検討を加えようとする
ものなのである」(15)と述べている。が,いずれにしても,そこで問題にな
っているのは,近代的保険としての協同組合保険と営利保険との関係であ
って, 「共済」と「保険」の関係でないことは明らかである。したがって,
あたくしに対する批判は的をえていない。
それだけではない。平井氏は「協M組合保険が営利保険と興るのは,そ
れがただ協同組合であること,そして,その保険事業も協同組合運動の環であるということである」(16^とされるが,その「脇同組合の機能が,か
っての協同組合堂上主義のそれでないこと一07)および,それは「独占資本
-51-
共済思想と保険思想
の流通機構の一環」であること,また「産業資本と同一利害の上に立つ」
ものであることを必らずLも否定していない。ただそこには「利潤追求に
のみ専念している営利会社より,若干の進歩的役割」があるというだけの
ことで(18)あるから,その実質においては相互会社の-変型という方が当
っているのではないかo
ところで,いまここで,われわれが研究対象にとりあげようとしている
のほ「共済」と「保険」とのちがいを歴史的に,しかも思想史的にとりあ
げようとするのであるから,その角度は平井氏とは全く異るといわねほな
らぬoそして,本来ならば,共済制度と保険制度の詳しい歴史的研究tを前
提にして始めて,その研究の成果が期待できるわけであるが,ここでは,
まず,その序章として,かつて,あたくしがものにした,デフオーの保険
思想を中心に,近代的保険がまだ完全な姿を現わすに至っていなかったと
ころの17世紀末のイギリスにおける共済思想と保険思想の関連を明らかに
してみたいと思う。そして,このことは,側面においては,イギリスにお
ける社会保障思想の原型がどうしたものであるかを示すことにもなるので
あって,今日的な意味においても極めて興味ある分析と考えられる。
〔注〕 (14)拙稿「経済技術から見た共済と保険」 19-20貢。
(15)平井氏前掲論文31頁。
(16)平井氏「保険経営体としての協同組合(下) (共済と保険85号46頁。 )
(17)同上39頁。
(18)同上46頁O
- 52 --
共済思想と保険思想
第2部 デフオーの保険思想
1.は じ め に
日本保険学会が設立されたのは, m和15年11月のことである。そしてIn
月24日と25日に東京帝国大学で第1回大会が開催された。この大会であた
くしは「デフオーの保険国営論」と越して,デフオーの保険思想について
の報告を行った。この報告の全文は,翌昭和16年6月日本保険学会が公に
した『保険学論集第1輯』に載せられている。だが,この書物はおそらく
今日では手にすることほ容易でないと思われる。それにこの本は限定出版
である関係があって,最近公にされた天川潤次郎氏の著『デフオー研究』
でも全然ふれられていない。この天川氏の著述は,副題に「資本主義経済
思想の-源流」とあり,経済思想史的な立場からデフオーの経済思想を纏
められたもので450頁におよぶ大著であるOそこではデフォーを「資本主
義のヴィジョンに対して極めて鋭い洞察力を持っていた」のみならず「色
々の非近代的残津を残しながら,産業革命前夜において--中産階級意識
を堅持し,徹頭徹尾ブルジョワジーのために代弁し,資本主義の前途を適
確に捉えていた経済思想家」(1)として高く評価されている。そしてこのこ
とを天川氏は10年以上の歳月をかけて蒐集した原典に基づいてあらゆる角
度から分析しているのである。が,保険制度や保険事業についてほとんど
ふれるところがない。ただ僅かにかれが個人保険業者になったことがある
こと(2)後にフランクリンが寡婦保険を提唱したそのモデルはデフオーの
『企業論』からであること(3)さらには, 『企業論』では保険が扱われてい
ること(4)などが断片的に指摘されているにとどまる。
〔注〕 (1)天川潤次郎『デフオ研究-資本主義経済思想の一癖流-』序3礼
(2)同上、 60要
(3)同上、 382頁
(4)同上、 386頁、 316丈の注17
-53-
共済思想と保険思想
このことは何としても,残念なことであって,たとえわたくしの論稿が
Uに入らなかったとしても,デフオーは何故に保険について詳しい提案を
したかを少し詳しくふれるべきではなかったかと思う。ことに,デフオー
の最初の労作であり, W.Mintoが,この書物のみで「デフオ-の天才と
しての称号を証明するに足る」とまで〔酎画した。(5)またフランクリンが非
常な感銘をうけたといあれる(6) 『企業論』 An Essay upon Projects
1697年では極めて其体的な形で保険の国営論が提唱されているのであっ
て,保険思想史上見逃すことのできない文献である。
保険国営論といえば,多くの人は, 1881年にドイツのワグナーが公にし
た『国家と保険』 Der Staat und dasVersicherungswesenに始まると考
え勝ちであるが,ドイツでは,ライプニッツが1697年に書いた『保険』
Assecuranzen と題する論稿があり,これに引つづいてユスティ,ベルギ
ウス,ウェバーなどのカメラリステンとして著名な人びとも多かれ少なか
れ保険にふれるとともにその多くが保険の国営を主張しているのである。
イギリスでもデフオーが同じことを提唱しているのであって,しかも『企
業論』が公にされたのは1697年で,ライプニッツが『保険』を書いた年と
同じ年である。しかもその執筆は1692年から1693年にかけてである点から
いうと世界で最も古い保険国営論ということになる。
デフオーの経済学者としての地位については,わが国だけではなぐド
イツやイギリスでもi.5く評価されている。が,とくに『企業論』について
は, 1929年に,ドイツのヤコップ E.W.Jacobの『ダニエル・デフオー
の企業論』 Daniel Defoe Essay upon Projectが公にされてからさらに人び
との注意をひくことになった。そして,この『企業論』に展開されている
保険国営論についても,すでに1930年には,当時ライブチッヒ大学の教授
であったグロ-七によって「ダニエル・テフォーと保険」 Daniel Defoe
und das Versicherungswesenと題する諭稿が公にされているのである.
また,保険学界でも,たとえばロージンAlbert Rosin の著書 Lebens-54-
共済思想と保険思想
versicherung und ihre Geistesgeschichtlichen Grundlagen 1932 やウ
イルソンとレェヴィ Arnold Wilson and Hermann Levy の著書『簡易
保険諭』 Industrial Assurance 1937 によってかなり早くから知られて
いるのである。
しかしこれらの諭稿は,結局,デフオーの保険国営諭の内容を紹介する
にとどまり,これを保険思想史的に掘り下げて問題にするに至っていな
い。わたくLが,前述のような報告を試みたのもそうした空間をみたした
かったからである。が,ここでは,その一部をも引用しつつ,デフオーが
保険思想上どうした役割を果したかをまず明らかにし,そこから保険思想
史論の序説を導き出したいと思う。
〔注〕 (5) W. Minto, Daniel Defoe, p. 18 (天川氏氏、前掲書382頁による)
(6)大川氏、前掲書382貢。
2.デフオーの強制年金保険の提案
さて前述の報告のへき頭,わたくLは次のように述べている。
「ダニエル・デフオー(DanielDefoe)といえば,ロビンソン・クルー
ソー漂流記のh者として,わが国でも広く知られた18世紀における英国の
文学者である。尤も,文学者としての,彼の価値については,例えば,夏
日淋石が,その著『文学評論』のなかで,指摘している如く,実は,それ
程大したものでもない。のみならず,その小説はただの『労働小説であ
る。どの頁を聞けても汁の臭いがする。しかも紋切形に道徳的である』と
いうことが出来よう。しかしながら打つ彼は非常な達筆家で,一生の中に書
いた書巻の数は実に300部近くに上っている』のであって,ジャーナリス
トとしての彼は注目に値する。のみならず,彼は,また,経済学者として
も,見るに足るべき見解を発表しているのであって,ここでは『汁の臭』
-55-
共済思想と保険思想
が相当重要な役割を務めている」(7)
〔注〕 (7)保険学論集第一輯(日本保険学会) 39頁。
なお,この報告ではふれなかったが,淋石はさらに次のようなことも述
べている。デフオーは「身分の善い生れでなかったo親は倫敦のクリッフ
ルゲートという所の居者である」。そして,彼は生れながらの「記者であ
ると同時にまた奮闘家であった」ので「剣を執って軍に従った。戦争が済
むや否や,彼は直ちに宗教上の論争に加わった」。このようにして,彼は
「軍人だか宗教家だか政治家だか分らぬ上,同時にメリヤス屋を商売にし
ていた」。また瓦屋も営んだ。 「彼はヰリヤム王(KingWilliam)の時代を
企図時代と呼んだが,実をいうと彼自身が大なる企業家であった,経営家
であった。彼は種々な事に関していろいろな意見を有していた。貨幣につ
いて論文を書いた。区立銀行を計画した。破産者の財産の調査委託を建議
した。また貧民救済の為に養老金事務所の設立を案出した」。(8)
〔注〕 (8)瀬石全集第十二巻340頁。
ここで,あたくしが,淋石を引用したのほほかでもない。そこで「養老
金事務所」と記されていることにも一言したかったのである。これを天川
氏は「貯蓄銀行」と訳されているが,原語はpension officeであるから
訳語としては淑石の訳語の方が正しいと思う。これについて,天川氏は次
のように述べている。
「デフオーは強壮な貧民に対し自助(self-help),即ち,自力救済を説
いたことは傾聴に値する。彼は『企業論』において具体策として貧民の為
の貯蓄銀行設置と共済組合(friendly society)設立を提唱しているo彼は
貯蓄銀行についていう『イギリス人がすべて老若,男女,貧富をとわず,午
に1人当り四志を支払って貯蓄してゆけば,イギリス全体から乞食と貧乏
を追放することも可能であろう』と。共済組合は『なんらかの災害や困窮
が起る際に相互に救済しあう相互契約を締結した人々の団体』であり「生
活上の色々の不慮の事故を防止する為』にも結成せられるが, 『こうして
-56-
共済思想と保険思想
共済組合制度によって生活上の不慮の事故が保険されうれば,いかに悲惨
な,また貧しい人でもやがては生活の資を慈善として求めるのではなく,
当然の権利として要求できるようになるであろう』と結んでいる。共済組
合,貯蓄組合は共に1793年に至って法制化せられたが,デフオーはこうし
た社会政策に関する先覚者の一人でもあったのである」 C9)
〔注〕 (9)山川氏、前掲書143頁。
ここで山川氏が1793年にこれらの制度が法制化されたと述べているの
は,おそらく1793年のRose's Actのことではないかと思われるが,この
法律はsocieties of good fellowship として,共済組合を規定している
が pension officeについてはふれていない。(10)
〔注〕 (10) F. Jack, An Introduction to the History of Life Assurance
1912. p. 225
では,デフオーは,年金事務所としてどんな提案をしたのか,まずその
内容を知っておく必要がある。少し長くなるが,前述のわたくしの報告の
一部を引用することを許していただきたい。
「デフオーの保険国営案のなかで,最も注目すべきは,労働者年金保険
案である。これは,前述の船員保険案とは異り, 『労働者(Labouringpeopie)であって実直(honest)と考えられるものであれば,その職業や地
位の如何を問わず,男であれ女であれ(乞食と兵士は除く),身体が健全で
50歳未満である限りは一切の種類の人々』Oilが加入を強制されるところの
保険である。そして,その保険給付としてほ,第一には『(飲酒や喧嘩を
除き)災害によって手足を折り,骨を違え,或は,不具になったり,打撲
傷をうけ危篤に陥った場合には,そのために任命された立派な外科医が,
これを看護し無料で治療に当る』第二には『何時でも,病気で危篤に陥っ
たならば』 『立派な外科医が,往診して無償で処方等を与える』。第三に
は『上述の如き疾病や傷害によって,彼らがその手足や限を失い,そのた
めに明白に仕事が出来なくなったり,そうでなくとも貧乏になり生計が営
- 57 -蝣
共済思想と保険思想
まれない場合には,年金局の費用で治療するか或は生活のための終身年金
を与える。』第四には『彼らが政になったり,老衰したり,絶えず病床に
臥すこととなったり,或は頁に病弱な身体のため,仕事につけなくなった
り,そうでなくとも生活が困難となったときには,それが真実であるとい
う証明さえあれば,そのために造られた労役場(college)や病院(hospital)
に引聴って一生涯相当な世話をする』。第五には『船員であって航海中の
商船の中で死亡したり,難船で溺死したり,或は奴隷に売られ奴隷として
死んだりした場合には,その寡婦には再婚しない限り年金が与えられるrr。
第六には『商人であって教区税(parish rates)を支払っているものが,
商売に失敗して破産し,負債のために牢獄につながれるようなことがあれ
ば,入獄中の生計費に対して年金を受けることがMi来るr:。第七には『病
気や災′吉で一時貧困の極に陥ったときには,その理由が正当である限り救
済され得る』というのである」。(12)
〔注〕 (ll) Daniel Defoe, An Essay upon Projects 1697 (reprinted 1887,
p. 95. ibid. p95-96J
(12)前掲、保険学論集55頁
「そして,デフオーは,かかる保険をば,年金局(Pension office)を設
置することによって行なうというのであって,前述の条件に該当する′剃動
者は,この局に出頭して氏名,職業,住所等を届出ると共に,六片の加入料
と年4回毎回一志宛の保険料を払込む。そして,これに対して,前述の保
険給付がなされるのであって,年金の場合には1週12片とこれを定める。
但し,場合によっては,保険料を倍額の年8志或はそれ以上20志までに定
め,それに応じて年金を増すことも出来る。事業経営費は前述六片の加入
料の外に,加入に際して書記に対して2片が支払われ,さらに年4回の保
険料の納付に当って,毎 ufの手数料が払込まれることとし,それによ
って支弁しようというのである。かくて,デフオーは,加入者10万人と仮
定して,その収支計算を詳純に掲げているが,その計算によれば, 6ヶ年
- 58 -
共済思想と保険思想
の後には保険料の積立金が87,537硬に達することになっている」。(13)
〔注〕 (13) ibid. 104.
以上がデフオーの年金保険の構想であるが,この構想について,わたく
Lは前述の報告でほ,まず,その保険料の計算が極めて素朴である点を指
摘し, rこの提案において統計的根拠としているところは,ウイl)アム・
ペティ(William Petty)の『政治算術I(Political Arthmetic)に掲げら
れている,人々は年に40人に1人以上は死亡しないという数字以上には出
ていない」ことをあげるとともに,しかし,かれがこの数字で大丈夫と考
えたのは,ペティの場合には小児や老人がふくまれているが,デフオーの
場合はこうした人を除いている。その上に災害や貧乏は数年の後しか現わ
れないし,死亡のように頻繁には発生しない。さらにまた,そこでは災害
や貧乏が借方となっているのに対し健康,繁栄及び死亡が貸方となってい
る点も併せ考えねばならぬたも述 こてし る。しかし,いずれにしてもそこ
ではまだ保険技術といえる段階eI,技術がとりいれられていないことは確か
であると論じた。
さらにまた,デフオーは,前述のように,この保険ては,盲人や手足を
失ったものに対しては,年金を支給するか,老廃者や病弱者に対しては特
に現物給付の形式をとり,労役場(workhouse)や病院に収容二「ることに
している。が,その理由は「手足や視力を失った貧困な男女は一見して廃
疾者であることがよくわかり,ごまかされるようなことはないが,それ以
外の病弱者はそう簡単にはわからない。そして,総てのものが年金を要求
するようなことになるかも知.pしないからである」。それに,労役場に入れ
られた人びとはそれでれ適当な仕事が与えられ,従って「なに人も怠けて
いることは許されない」そして「その仕事による利潤は労役場の資本に加
えられる」べきであると述べていることをも指摘したのであった。
ここで,われわれはさらにデフオーの提案とイギリス救貧制度との関係
を検討しておく必要があると思うが,その前にいま一つ,デフ才-は,何
- 59 -
共済思想と保険思想
故にかかる保険を任意制度とせず,強制保険として行うことを主張したか
を見ておく必要がある。そして,この点について,わたくLは次のように
報告した。
デフオーによれば,これを任意制度としても,多くの人は,この制度の
効果を認め,これに加入する方が利益だと解するであろうが,なかには,
「そのときになるまで,老後に対する備えをしないような」軽卒な人があ
って,これにはいらないとは限らない。もちろん,事業の経営のみを問題
とすれば, 2万人の加入者があれば十分と思われるが,いずれにしても任
意よりは強制の方がよい。そして強制の方法としてはまず第一に,教会の
執事(churchwardens)および治安判事がその教区の役人を,各戸に年金
局の局員とともに派遣させ,区民に対して直接に加入をすすめ,もしこれ
を拒めば,そのものについては今後一切教区からの救済は行わないことに
する。第二に,各教区では年金に加入していないものやその家族が,その
教区に移転してくることを拒否する。第三に,乞食には物を与えないこと
とし,さらに進んで乞食を禁圧するのがよい。すなわち,デフオーが主張
する強制は,結局は教区が行う救貧制度を通じての間接的強制であり,教
区がよろこんで年金の事務を引きうけるためには,その費用を労役場で負
担する必要があるというのである。したがって,そこに提案されている年
金制度と救貧制度との間には極めて密接な関係があるといわねばならない
と。
3.デフオ-と救貧制度
そこで,いささか長くなるが,当時の救済制度とこれに刈するデフオー
の考え方をあたくしの前述の報告を通じて説明しておきたい。
「いうまでもなく, 16世紀から17世紀へかけての,イギリスは,都市に
60 -1
共済思想と保険思想
おけるギルドの崩壊,地方における農奴の解放の後を受けて,都市に農村
に,いわゆる労働農民が失業者として充満していた時代である。そしてま
ず,これらの貧民をば,賃金労働老として訓練し,これを強制的にマニュ
ファクチュア一に送り込もうとする運動が起った。いわゆる救貧法はかか
る役割を担って登場したのである。このことは,多くの学者によって指摘
されている如く,例えば,エドワード六世の1547年の『浮浪者処罰並に救
貧に関する条令』 (An Act for the Punishment of Vagabonds and
for Relief of the Poor and Impotent)が『不具にして救助を要す
るに非ざる浮浪者に賃銀労働を強制し,鞭打と熔印と奴隷化及び死刑の
処罰を以て臨みつつ,彼等を生産労働に従事せしめん』(14)としているのを
見ても明らかである。しかるに救貧法は一般賃銀の低下に拙車をかけ,餐
民の数を減ずるよりは,実際においては,むしろその数を増加せしめるが
如き結果を薗らした(15)かくて,労働貧民は依然として,都市に農村に充
満するに至ったため論者のなかには,救貧法の全廃論を主張するものさえ
現われるに至ったのである。デフオーは,タウンセソド(Townsend)等
と並んでいわばこの種の見解をとるものてあるということが出来るであろ
う」f16)
〔注〕 (14)大塚久雄『欧洲経済史序説』 121貢
(15) Grosse, Daniel Defoe und das Versicherungswesen (Das
Versicherungsarchiv, 1936 Nr. ll. S. 16)
(16)吉田秀雄『梨明期の経済学』 252頁
「すなわち,デフオーは,有名な『施しをすることは慈悲ではない』
(Giving Alms no Charity 1740)と題する論文において,イギリスが不足
しているのは,仕事でなく人手である。しかも,貧民や浮浪人が絶えない
のは,教区がこれらの人々を傭う権限を政府から与えられているからであ
って,また,そうであるからこそ,かれらは怠慢となるのである。しかも
イギリス人は『世界で一番怠惰で勤勉な国民である。すなわちイギリス人
-61
-
共済思想と保険思想
にとっては,働くときにはポケットが金で一杯になるまで働くが,それか
らは怠けたり或は飲酒にふけってすっかりそれをなくしてしまって,恐ら
くは借金までしてしまうようなことが少しも珍らしくはないのである。私
は響て,土曜日の夜にある仕事に対して6, 7人の人に同時に,少ない人
でlo忌,多い人で30志を支払ったことがある。ところが彼らは直ぐ酒場に
行った。そして,そこで月曜日まで泊り込み,すっかりそれを使い果して
おまけに借金までしたことを知っている。しかも彼らはそのすべてが妻子
をもっているにも拘らず家族には一文も与えなかったのである。このよう
にして貧乏が生れるのである。教区の費用が生じ,乞食が生じるのであ
る』。従って,例えば,マックウオルス(Mackworth)が提案しているが
如くに,教区付属のマニュファクチュア-を設置し,これらの人々をして
強制的にマニフアクチュア一に送らしめようというが如きは, 『てこフア
クチュア-そのものの破滅を導くとともに,数千の家族をかれらの職業か
ら追い出し,勤勉な家族の口からパンを奪って,浮浪人,盗賊,乞食等の口
に与えることに外ならない』 『有能な人にとっては,乞食はその勤勉に対
する一つの不名誉であるし,無能力者にとってはそれは国家の不名誉であ
る。施しをすることは決して慈悲ではない。人々はイギリスでは,憐れだ
とか慈悲だJ・か考えて,浮浪人を駆り立てて,誤った熱情から,彼らを善
くするよりはむしろ悪くしているのである。イギリスの貧困は人の情けに
すがる乞食の間にあるのではなく,貧困な家庭のなかにあるのだ。そこで
は子供達が無数におり,しかも,死や疾病のた釧こ,彼らの父の仕事は奪
われているのである』。だから救済すべきはむしろこれらの子供達であっ
て浮浪人ではない『誤ったやり方で与えられた施しは,その人個人にとっ
ては慈悲か知らぬが,公共には害悪である。また国民にとっては何らの慈
悲でもない』。(17)
右の如く,デフオーは,救貧法による救済のみならず,これによって貧
民を強制的に労働せしむるが如き提案にも反対するのであって,むしろ貧
-62-
共済思想と保険思想
民はこれを救済したり,強制労働にもちこむよりは,労働市場-駆りたて
て一般賃銀の低下を計るのがよいと考えていたということが出来よう。(18)
尤も,彼は,かようにして賃銀の引下げによる産業の発展を主張するとは
いえ,また,他方では,余りにも賃銀を引下げて労働者の生活を困難なら
しめるときには,食糧品の価格,延いてほ,地代の引下げを行わねばなら
ず,資本にとって不利であることも忘れてはいない(19)
しかも,デフオーは,真に救済を必要とするが如き人々についても,す
なわも,不具廃疾者や老人病弱者についても,これを慈恵的政策によって
救済するよりは,むしろ相互的に,彼ら自身の負担において,これを行はし
めんとしたのであって,前述の労働者年金制度は明らかに,かかる意図を
その基軸とするものに外ならない。すなわち,そこでは,保険料や経営費
の一切が労働者に課せられている。その上労働力をば有する,老弱者につ
いては,これを労役場(workhouse)に収容し,そこでその能力に相当し
た労働を与えるのみではない。その『仕事による利潤は労役場の資本に加
え』んとさえしているのである。(20)その本質が如何なるものであるかほ,
ほぼ推測することが出来るであろう。
すなわち,デフオーは一方においては労働能力を看するものを,救貧法
の下に,縛りつけておくよりは,むしろ自由に労働市場に駆り立てる方
が,資本の側にと-:.て有利であることを主張する。そしてこの点は,後に
アダム・スミスが.救貧法による貧民の他の教区への移転禁止が労働の移
動を妨げ,従ってまた資本の流通をも妨げることを非難しているのと相通
ずるものがある(21)しかも他方ではまた,労働者の自力による救済を提唱
すると共に,その理由を次の点に求める。すなわち,救貧法が行われてい
るがため『教区は困窮に陥った人々の救助を拒絶し得ない』のであって,
またたとえ『何の救済も行われないと彼らに言ったところで別に脅かしに
もならない』のである。しかしいま,年金保険を行えば,かかる弊害は除
かれる。すなわち,教区は『彼らが,何ら救済に値しない人々であること
- 63 -
共済思想と保険思想
を認め,適当に処置することが出来ることになる。実際, 1ケ月に2本の
ビールを飲む費用さえ節約すれば,その困窮から免れ得るにも拘らず,そ
の節的さえしないで困っているような人達なんかは,これを気の毒に思う
必要は少しもないのだから』C22)というにある。がわれわれはそこに救貧制
度に伴う資本の負担の軽減なる意図が隠されていることを見失ってほなら
ない。しかも彼は,前述の如く,かかる制度を強制的に行わんとしたので
ある。がそこにもまた単に出来得る限り多数の加入者を集めんとする目的
以外,実は資本の原始的蓄積に役立たしめんとするの意図が隠されていた
ことをも忘れてはならない」。(23)
〔注〕 (17) Defoe, Giving Alms no Charity, and Employing the Poor A
Grievance to the Nation, being an Essay upon this Great
Question, whether Work-house, Corporations and Houses of
Correction for Employing the Poor, as now practised in England; or Parish-Stocks, as propos'd in a late Pamphlet,
entitled, A Bill for the better Relief, Imployment and
Settlement of the Poor, &c. are not mischievous to the
Nation, tending to the Destruction of our Trades, and to
Encrease the Number and Misery of the Poor. 1704 (McCullochs A Select Collection of Scarce and Valuable Economical
Tracts etc. 1859. p. 36 ff.)なおこれについてはEden, the State
of the Poor (edited by Rogers. 1928. p.43 〟.)参照
(18)吉田氏、前掲書251頁参照
(19) Defoe, A Plan of the English Commerce, p. 44.
(20) Defoe, An Essay upon Projects, p. 104.
(21) Adam Smith, The Wealth of Nations, vol. I (Cannan Edition
p.135ff.)
(22) Defoe, An Essay, p. 106.
(23) Defoe, P. 105-106.但しGrosseは単に強制の理由を多数の加入
- b4 -
共済思想と保険思想
者の獲得にのみ認めているにとどまる(Grosse, a. a. O. S. 16)
このように見てくると,デフオーの労働者年金保険国営論ほ労働力の保
全を求めるものであったとしても,それは後にビスマルクによって始めら
れたIit匪社会保険にみられるような階級斗争の緩和のたiblこ企図されたも
のではなく,むしろ労働者の相互扶助,すなわち共済を強制しようとする
ものであった。しかし,ここでよく考えておかねばならぬことは当時イギ
リスは資本主義の発展段階のどうしたところにあったかということであ
る。
4.共済思想と保険思想の結合
これは,前述のわたくしの報告論文でもふれていることであるが,デフ
オーの時代はイギリス資本主義が近代資本主義の確立を始めようとしてい
た時期であって,これを前述の報告では次のように書いている。
「デフオーの時代には, 16世紀半ばより毛織物工業を基軸としてその本
格的発展を遂げて来たイギリス初期資本主義がオランダ資本への準備期に
人らんとしていた時期である。しかも,その目的を達成せんがためには,
産業資本の漸次的成熟に対応する賃金労働者の養成が不可欠な要件であ
り,従って,労役場の制度ほむしろこれを必要とするが如き時代であっ
た。さればこそ,デフオーの如きも,前述の如く,貧民児童のための労役
場はむしろこれを必要としたものの如く,また,事実においてイギリスの
毛織物工業における労働力がかかる児童の労働力に負うところが少なくな
かったのは周知の如くである。(1)その意味において,むしろ,その父兄た
る貧民の共済的施設の如きは,反ってかかる労働力の補給を妨ぐものであ
ったともいい得るであろう」と。
いずれにしても,デフオーの強制共済組合論-労働者年金保険論は,こ
- 65 -
共済思想と保険思想
れを実現させるに足る経済的地盤をもっていなかったのである。したがっ
て,たとえ,デフオーの提唱が,救貧法改革論者として有名なアクラソド
(J. Acland)が1786年に公にしたイソグランド全地域にわたって疾病手当
および老令手当を支給する共済組合を設立せよという提案のまさに先駆を
なすものであったとしても,当時のイギリス資本主義はいまだそれを容認
する段階には至っていなかったのである。
小山路男氏はイギリスの共済組合である友受組合の歴史について,次の
ように説いている。
「周知のように,友愛組合の歴史は,労働組合と同じように, 17世紀中
葉にまで遡ることができる。けれども,友愛組合の数が増加し,その対策
が重要視されるようになったのほ18世紀後半からである。このことは,エ
ソクロージュア-や産業革命の進行が労働者の生活環境を急速に変化せし
めつつあった事実と関連しているように考えられる」(2)と。
また小川喜一氏は「友愛組合の歴史は,遠く16世紀の中葉にまで遡るこ
とができるといわれるが,しかし,その発達過程において相互扶助組織と
して-大飛躍をとげるにいたったのは,産業革命の進展による工場制生産
の発展,およびそれに伴う賃金労働者の増大を契機とするものであって,
実に『自由な』労働者の増加こそ,彼らの死亡,疾病,あるいは老令など
に備えるための自衛手段として,友愛組合の発達を促した根本原因という
べきである。なぜなら,いまや完全に生産手段から引離された彼らは,そ
れらの労働力の再生産上の事故に対して何らの保障を有しなかったからで
あり,その意味において,友愛組合は『工場の煤煙がそうであるのと同様
に,工業化の必然的副産物である』(3)といってよいであろう」(4)と述べてい
る。
近世の共済組合もまた近代的保険とはほとんど時を同うして, 18世紀後
半に姿を現わしたものであることは明らかである。そして,それはこの二
人の学者が述べているような根拠に基づくのである。この点は近代的保険
- bb -
共済思想と保険思想
の成立についても同様である。詳しいことは「保険の近代化と社会化」と
いう論文で説明しておいたので(5)ここではふれない。ただ,あたくしもま
た,水島一也氏と同様に「近代保険成立の時期は,これを18世紀初頭では
なく,後半期に求めなくてはならない」とするものであり,真に近代的保
険思想はこの頃に生れたと考えるものであることだけ述べておく。
もちろん,それまでの時期において「保険」なるものが存在しなかった
わけではない。しかしそこで「保険」とよばれたものは「保険資本により
営まれ,合理主義計算に立脚する」ところの保険ではない。いわば一種の
射倖的取引にすぎなかった。
もっとも,デフオーは『企業論』のなかで「保険について」 of Assurance なる一章を設け, 「商人の間の保険については規定を設けるのがよ
いと信ずる。そして,それは一つの取引(a trade)としておそらく今日ほ
ど盛んにではなかったとしても随分古くから利用されてきたものである。
それは商人の間の一つの契約である。その始まりは取引上の災害からで
あって,一般の船で彼に相当すると思われる以上大きな冒険を試みる人た
ちが恐怖と不安を感じて,最早や平静でおれなくなったところから生れた
ものである。そして,その船舶とは何の関係もないであろう人達にその不
安を告げるとともに,利潤の一部を提供する代りに危険の一部を引受ける
ことを申出た。この慣習が便宜と考えられ,この慣習が一つの方法にな
り,遂には一つの取引にまでなったのである。
そうしたものの合法性については疑う余地はない。というのは取引上の
一切の危険は利益のためであり,もしわたくLがあたくしの財産でつぐな
い切れないほど多くの商品を積荷としてある船で送らねばならないとすれ
ば,これに協力を申出るものがあっても当然である。その場合もしあたく
しが利益の一部を彼に与えるならば,彼は危険の一部を引受けてくれるで
あろう。同じように,彼が危険の一部を引受けてくれるとすれば,あたく
しは彼に利益の一部を与えるであろう」(6)と述べる。そしてデフオーはこ
- 67-
共済思想と保険恩想
うした保険は,われわれの時代になると家屋の火災に対する保険としても
行われることになった。学者としてよりは建築家として知られているバー
ボン博士の企てはそれである,と述べ,さらにまた,共済紅合の方法でも
同様のことが始められた,として, 1667年に始まるニコラス・バーボソの
火災保険事業や, 1684年ロンドンに設けられたフレンドリイ・ソサエティ
と名付ける火災保険組合についても論及している。そして,これらの「取
引として行われている保険については,改善をはからねほならぬことは疑
いをいれる余地がない。そして,あたくしは政府に対して僅少の税を支払
うことに対して,王が一切の外国貿易に対する総保険者となるのがよいと
信じて疑わない」(7)と主張し,章を新にして,海上保険国営論を提唱して
いるのであるが,当時の海上保険はまだ近代化されていないことは明らか
であり,それ故にこそ,デフオーはその国営を主張したともいえる。
〔注〕 (1) Bauer, Arbeitsschutzgesetzgebung (Handworterbuch der Staatswissenschaften 4 aufl. B. I. 1923. S. 405)
(2)小山路男『イギリス救貧法史論』 791貢。
(3) W. Beveridge, Voluntary Action, A Report on Methods of
Social Advances, 1948. p. 55.
(4)小川喜一『イギリス社会政策史論』 141頁。
(5)拙稿「保険の近代化と社会化」 『久川武三教授退官記念論文集、保険
の近代性と社会性』 57頁以下。
(6) Defoe, Upon Projects, p. 78.
(7) Defoe p. 79.
なお,デフオーは言伝上保険取引や火災保険取引については,その合法
性を認めてはいるが,生命保険については「わたくLは生命の保険は感心
しない。暗殺や毒殺が,しばしば行われているようなイタリーでこそ,こ
うした保険や不定年金contingent annuitiさSが問題となるのだ。わたくLに
いえるのはただそれだけである。いずれにしてもこうしたものはどう考え
- 68-
共済思想と保険思想
ても賞めることのできるものではない」(8)としてこれをむしろ非難してい
る。しかし,当時の海上保険額引や火災保険額引がその仕組の上において
果してどれだけ生命保険額引と異っていたか。あたくしは疑問だと思う。
というのは,さきにも指摘したように,海上保険や火災保険が近代的保険
としての構造をとるに至ったのは18世紀後半以後であるからである。(9)
これについては,デフオー自身が賭けごとについて(of Wagerung)と
題する章のへき頭で「賭けごとが,いまでは証書や契約によって行われ,
保険の一部門としての扱いをうけているのである」(10)として,それを非難
している個所があることおも併せ考えておく必要がある。
いずれにしても,デフオーの時代には,保険はまだ近代的保険として確
立していなかったのであって,こOIJ段階で近代的保険思想がどうしたもの
であったかを求めるのは,求めること自体が問題である。デフオーの海上
保国営論もそうした事実を前提として理解せわはならぬ。すなわち,この
頃の保険関係はまだ,マールのいわゆる「拘束体的関係」としてしか存在
を認められなかったのである。そして,このことについては,わたく L
は,他日,ドイツにおける重商主義と保険思想についての見解を述べると
きに詳しくふれてみたいと思っている。
ところで,最後に一言しておかねばならぬのは,デフオーの「共済思
想」である。これについて,デフオーは次のように述べている。すなわち
「いま一つの保険部門は拠出(contribution)によるもの,すなわち共済組
合(friendly society)によるものであるoこれは,端的にいうと,多数の
人たちが,お互いに結束して,そのうちの誰かが災害を蒙ったときに助け
合うことである」(ll)と。すなわち,デフオーは共済組合の事業を「保険」
の一部門に数えている。しかし,ここでデフオーが共済組合とよんでいる
ものは,さきに述べた18世紀後半以後,労働者の手によって自衛的につく
られた共済組合とは異る。そして,デフオーはそれについては「その境遇
が(少なくともある程度)似ていなければならないのであって,そうした
SWE
共済思想と保険思想
人々を階層別に区分する必要がある。そしてそれぞれの種類によって平等
の条件でそれぞれ団体をつくらわはならぬ。というのはそういう人たちの
境遇は,生命については年令,身体の構造,職業の相異によって異るし,
また,その人が海岸に住んでいるか,それとも海上によく出かけるか,育
年であるかそれとも老人であるか,小店主であるか軍人であるかによって
も相異するからである」(12)とも述べている。
こうしたデフオーの考えをみると,それはギルド救済以来みられた封鎖
的な,業種別結束の考えからの離脱がみられず,したがってそれは,デフ
ォーが主張した年金保険国営論の場合にみられた考えとは必らずLもつな
がらない。
このほかデフオーは,船員失業保険の強制を提案しているが,これもま
た労働力の保全を目標としている点では,前述の年金保険論と全くその軌
を一つにしている。もっとも,それはまた海上保険国営論と並んで,実は
「1588年におけるスペイン無敵鑑隊の撃滅に始まるイギリス商業資本の世
界制覇,特に17世紀の後半ピュリータン革命以後に始まる,オランダ商業
資本に対する攻勢を有利ならしめんがための一案として登場したものに外
ならない」(13)ことも忘れてはならない。
しかし,これらの提案は,そのいずれもがイギリス資本主義の確立に立
ってほとんどなんらの意味をもたなかったので,その実現をみなかった。
そしてそれは一つの経済思想として育つまえにその姿を消してしまったの
である。
しかし,デフオーが提唱した強制年金保険あるいは強制共済組合論は,
その後18世紀の後半に至り,一方では近代的保険が,他方では近代的共済
組∴合がその姿を現わすややがては保険と共済組合との結合を契機として,
社会保険として新しい姿を現わすとともに,今日の社会保障思想として結
実するのである。すなわち,一方では資本のために,資本によって営まれ
る近代的保険の出現は利益社会的な近代的保険思想に確固たる地盤を与え
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共済思想と保険思想
るとともに,他方では古い時代のギルド「共済」や初期の共済組合にみら
れた「相互扶助」の思想と結びっいて新しく「社会保障」の思想を生みだ
すこととなるのであるが,これについては古い時代の共済と新しい時代の
共済との間の思想史的な,さらに詳しい分析が必要である。
(1964- 7 -21)
〔注〕 (8) Defoe; ibid, p.
(9)前掲「保険の近代化と社会化」 61頁以下参照。
(10) Defoe, ibid, p. 108.
(ll) Defoe, p. 80.
(12) Defoe, p. 80.
(13) Defoe,p. 190.
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