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寵北朝鮮労鱗党の樹究(二)北朝鮮労鱒党の結成
J .Fac.Cu. lEdu.SagaU n i v . Vo . l5 .NO.2(2001) 1 I I~ 128 1 1 1 寵北朝鮮労鱗党の樹究(二)北朝鮮労鱒党の結成 森 A Study0ηKoreanW o r k e r ' sP a r t i e s(KWP),SouthandNorth ( 2 )t h eF o r m a t i o no f NorthKoreanW o r k e r ' sP a r t y(NKWP) YoshinobuMORI はじめに 朝鮮半品が日本の植民地統治から解放された後、:燦発的に開始された政治活動は、朝鮮民族の独立民家 を樹立するところにおいてその目標を同じくしていた。これら政治活動の 1 11にあって一際その影響力を行 f ( r J人共産主義者たちであった。彼らは、日本の植民地統治に果敢に抵抗し続けたという経 使できたのが朝. 肢から政治活動の正当性を持て、解放後の政治 ~rf,台にいち fjl く腕り I l\たのである。 だが朝鮮半 j 誌が北緯 3 8 1 主総を境に南北それぞれのよEill域で米軍とソ述'l Iにより分割占領されると、各地域 ごとに共産主義Jlli動が !i~~ なる条件と課題を負わざるを得なくなった。学 jib の政治的な中心地である京城 (J'見ソウル)を抱える南新鮮地域で策政を敷いた米軍が民共主義的な政策を展開し始めると、朝鮮共産党 r j 1!J-!;は当初の親米 f ねな対応から反米闘争へと戦術を転換した 。一方、北朝鮮地域ではソ連軍の進駐下、 (]I 金[ 1成らがその後指を受けて台頭し、既存の共 j 主党組織を党中央から次第に独立させながら南 l ) f i j 鮮地域に 先んじて政権を創設し、親ソ的な社会経消上の諸改革を断行した。 こ の 過 : f ! i ¥ で 、1 9 4 6年8月にさi l!寺の北朝鮮共産党と l j V J f i.(!(:新民党との合党により結成されたのが北朝鮮労働党 {以下 f 北労党J と略記]であった。同党の結成はスターリンの指令に基づいていたが、その中央委員会 委員長は議 i j設でiまなく、後者の党首を務めた議属議だった O 北労党は「民主基地」路綿と言われる政治 ¥すことを r c lらの任務 路線に従い、北朝鮮地域に南朝鮮地域を「解放 Jする「民主主義の根拠地J を創り 1 n とした。 だがその任務の遂行は、結巣 せにはソ連の分断政策を揺すことを意味したのである。 1 : : 4 三 和j iはH ; j北 i i v J f f f J:労働党を研究する第 21m目の述! i 史論考として、北労党が解放政局の: r : 1 からどのようにし j 十 北隔地域で再開された ii Q j 鮮共産主義運動を跡付けながら論述する。再建さ て結成されるに至るのかを、 i れた朝鮮共産党の最高指導者た、った朴志永が共産党の南北分立を許容したのはなぜか、それにもかかわら ずどうして金日成が北労党で党泣とならなかったのか、さらに北朝鮮地域だけで部設された政権に北労党 がし、かに影響力を行記できたのか、等に本稿は焦点を当てる。本稿はこれまで、未整理だったソ連軍占領下 の北朝鮮地域て の共産主義Jlli動を南朝鮮地域で共産主義運動が再開される経緯とも関述づけて o 1 9 4 5年か ら4 6 " r 前半まで概観すると l f i l l 削こ、北労党の組織体系、イデオロギーおよびその権力構造を明らかにする。 (執筆者所属:佐賀大学文化教育学部日本・アジア文化講肱) 112 ,~!:.,. ム オ ネ J … L ~~y なお本稿が本研究全体のけ1で i f iめる位 ] 1 立からして、北朝鮮地域と対称される南朝鮮地域としての共産主 降j 労党」と i 略記}の結成に関係する部分については、ごく限 義運動の展開ならびに南朝鮮労働党[以ド f られた記述に止めることをお掛りしておく。 第 3章 解放政馬と朝鮮共産主義運動の再開 朝鮮半島が 1 945"f8 丹、 I~I 本の敗戦にf'I旬、植民地統治から突然のように解放された 11寺、 1!lml やロシア等 の国外で活動していた独立運動家たちの帰問には I I ! JI I Hがかかったため、解放後の共産主義述動で主導権を I Lく掌握したのは、解放と共に朝鮮全土の 1 1 5獄から釈放された共産主義者たちた、った。 し 、 ち1 第 1節 朝鮮の解放に伴う朝鮮共産党の再建 移j 鮮の解放は外国勢力、特に米ソ両 ~II[ によりもたらされただけに、朝鮮民族にとっては与えられた性格 が強かった。頑強に抵抗しながらも米第の上陸以前に日本軍が敗退した北 ' l Q J鮮地域で、は朝鮮人の政治的な 立ちとがりも早かったが、彼らが行政権を回復できたのはソ述単による朝鮮政策の賜物た、った。 北朝鮮地域での共産主義運動の再開 北朝鮮地域に進駐したソ述 f!岱~25JI[I~tl は翌初、 I=J Ljs:朝鮮総資府の磯構を利用してこれに統治を継続する よう求めた。ところが8P l25日、ソ述の進取と共に立ち上がった朝鮮人の独立運動家たちが戚興で日本 側から行政権を朝鮮人側へ移譲するよう要求した。これをソ述軍が受け入れたところから、民族主義勢力 iめる自治組織が行政権を行能するようになった{ヘ と共産主義勢力が同数を,L ソ連軍はこれを前例として北朝鮮全域で、民族、共産の両勢力が協力して組織する自治組織を結成させ、 去閥的には朝鮮人に行政権を移設する政第を実施した 。ソ述京はこの!とi 治組織の背後にあって統j j 討を加 {3l えていた。このようにソ述箪の占領時期を通じて同様な統治方法が単に政党や社会団体た、けに止まらず、 明らかであるは)。 企業体でも行われていたことは、資料的に i ところで北朝鮮地域の中心地たる平壌にソ述懐が進駐した 11寺、既にそこには T~T I 政経i を委員長として次 J ' l i に述べる f 朝鮮建国準備委民会 J、通称 f 越 えf e J の平壌支部が結成されていた。宮 l 挽摘は長老派教会に崩 し、その非暴力主義[ド]な独立運動により f ' j V J 鮮のガンディ Jと呼ばれるほど著名な民族主義者た、った。そ こでソ述工作は富晩植が率いる建準を政治的に包摂しようとしたが、官晩;ff[[の強硬な態度により一時的な がらも彼と妥協せざるを得なかった。こうして建療の半壊支部をもとに再編されたのが、富 i ぬ植がその委 を務める「半安南道人民政治委員会 j た、った 。 (5) この委員会はソ連策との協誠関係を維持しながら当時の混乱した政局を収拾するため活動し、日本人の 引き揚げや帰 I J t I ずる}矧鮮人の世話等も行った。その組織構成は民政、共産の両勢力が半数ずつであったも 主主ドの干渉を嫌って1'i j i者の JlJから少なからぬ者がf{ ' : j朝鮮地域へ脱出する一方、後者は依然として のの、ソ j 単一の政党にまとまっていなかった。なぜならば朝鮮共政党が再建されたのは、王子主義ではなく京械におい てた、ったからである。 南朝鮮地域での共産主義運動の再潤 南朝鮮地域では朝鮮総督府が敗戦の間近いことを察知 l して、敗戦に伴って起こる混乱を収拾するため、 8月 1 5日の早朝に社会主義者で原敬首相と談判したこともある日連亨と銭触した。呂遊日付主総筒H すから 5 つの条件を引き 1 ¥して治安維持を引き受け、早速この[1に朝鮮に新国家を建設する政治活動に若手した (61。 彼が翌 1 6= 1 1 に立ち上げたのが前述の主l!l'¥f lであり、この組織は朝鮮全土にその支部を結成、同年 8月末には 145の支部を数えたという(7)。呂運亨が引き出した条件に従い、時 16日に政治犯や経済犯が朝鮮全土で、 釈放され、このうち独立運動家の中には政治活動に復帰する者も多かった。 Wî~tí;VJ 鮮労働党の研究(二)北朝鮮労働党の結成 1 1 3 この急激な政治活動の再 1 mに伴い、 F ド I T i口 守4 下地域で「朝鮮共産党京城地思委員会」の看板を掲げたのは、 レを拠点としていたことから、後日こ らI l l -参のJlli動家たちであった。彼らが京城市銀路にある長安ビ l のグループPは「長安派 j とH乎ばれた。この呼び名が示すようにこの委員会は、共産主義勢力の一派閥に過 ぎず、党路線として社会主義革命を主張したため他派閥から激しい批判を浴びることになった。 J ; 4 !瓦工に身をやっして地下活動を指導して この批判の急先鋒は朴窓永であった。解放直前に彼は光州で' 京城コン・グル いたが、解放後まもなく京城へ反り、運動を再開したと言われる。 彼の指導した派閥は f ープj と称した。「コンJ とは斡鮮請で共産主義者を意味していた。 J ぷ永は解放後の 8 P J20E Jには尽くも「現梢勢とわれらの任務 j、通称 朴i r S) = Jテーゼ J を発表して運動 = 1には「校 i l l j熱誠者大会 j とぎわれる会合に参加し、自派と長安派の統合によ の進路を示すと共に、 9月 8[ 1 : 1 る初日百:共政党の再建について両派から「一任J を取り付けた{ヘキト滋永は臼派を1: 心に党首脳部を組織し て同月 1 1 1 ::1に朝鮮共産党を正式に内陸し、長安派に対する批判を本絡 I せに開始した。 ところが批判された長安派の幹部たちは、王子壊を訪問して朴志永による指j 立の不当性を訴えた。我々は 悶 J 勾 l h " 1 争 1 ' の一f 予烏段として金 i 汀 … ] } 成 斑 や ソi 述 I 虫 l ! 宇 [ ' [ 鍛 詳 の i¥ U 威戒を借りて自 i 詩 派 j 沃 託 知剖 荏 閥 l 限i を オ 事t 大主義{的内に正当化しようとする ここに派開 i 権 │ 将 係 権 ? 幸 笠 r ; f 羽 V 日 J 拭 f 1 M 鮮 1 ¥ 鮮 M ¥ 洋、下千共産主義述勤の}属 f 広 必 主 げ け 元 1 刻 ' 干 性 l 期 詩 ; 朝 } 金i 日1 1 成戊をカかミなり i 己 : 盆4 く 苦 詞 評 ! ドf 叩 滑 1 和 嚇 仙 1 側 師 1 i l する記ヨ乎E が散見される(則。 しかしキト迩永はこのi 比三点で、当時の京城にあったソ述領事館と頻繁に接触しており、言わばそのお墨付き 1 Iし立ては却下された(1 0 1。こうして長安派は間年 1 2月に解体 を得ていたから、長安派による王子壌への呉議 1 を余儀なくされ、一旦ここに!万J 鮮共産党中央が出現するに至った。だが同党 1 : 1 :1 央は、南北朝鮮の米ソ掃車 による分割占領という事態に直前i することになったのである。 第 2節朝鮮共産党の初期路線と「朝鮮人民共和国 j の樹立宣雷 ソ述 '[['-は 8 月 171 二j になっても姿を見せなかったことから、朝鮮総督府は呂連に治安維持の l;l~J立を超え るという理 r lIてや控準の解散を要求、また朝鮮駐屯の E J本軍も治安維持の担当者占が寧だと主張した。米墜に よる j y ; j朝鮮地域の占領が一般民衆に!よく 9 2 1 1られるようになったのは同 ) = J20[ ! I ; ] i と考えられる 1111。 米ソ両 1 3:による f y J北朝鮮の分割占領という事態を受けて、朝鮮共産党中央が打ち出したのは外関勢力と } リ J 鮮 の協調姿勢をとりながら、左翼勢力が主導する独立国家の建設を促進しようとするものだ、った。このj 共産党中央の初期路線を明示するのが、前述した r s月テーゼj で、あった。 r s月テーゼJの示す情勢認識と初期路線 S永の r s月テーゼ」は 1928: 1 f :にコミンテ lレンが採択したいわゆる r 12月テーゼJ に基づいており、 朴j 自ずと朝鮮半島を取り巻く状況の変化に対応できない部分が少なくなかったばかりか、党内の派間闘争を 蒸し返す部分も合まれていた問。国際的努に i 到する認識では「ひと 出減と進歩的民主主義と社会主義の勝手Ijは批界革命をさら し、素朴に革命の r)跨干IJJ n えば、国際ファシズムの全面 甘 味U 主に発燥させてしまった j と焼定 を m6~ 散した。 ここで言う「国際ファシズ、ム J はドイツと日本、「社会主義 J とはソ述を指すが、朴滋永はこのソ述と 開列に「進歩的民主主義国家のソ、英、米、 " ' : 1などの迎合問勢力 J と規定した。そして r l ' l i l 際的:革命情勢 は朝鮮の解放が平和的に解決されるだけの布利な条例こをつくってくれた j とまで述べていた。 次に国内情勢について同テーゼでは「今日の朝鮮はブルジョア民主主義革命の段階を歩んで、いるので、 民族的完全独立と土地問題の革命的解決がいちばん重要で、中心的課題である J として、その原動力に 「労働者、農民、都市小市民とインテリゲンチャ J を挙げた。だがキト窓永は、 f 地主、高利賞金融業者、反 rしく現われる外出勢力を迎え入れ、その代弁者になってでも彼ら自体の 動的氏自主ブルジョアジー j が「事r 階級的利誌を擁護しようと j していると密告した。 : i ! i 、',..-~ 森 114 '''~-". J ; ) . そのヒで大衆運動の展開、党細胞の総織、ケ: i t T Iやお Mとの闘争等をメi 而の課題として掲げ、特に ! E i t J i n せ な過誤を犯した長安派をi ) tQしく批判した。要約すると f 朝鮮共産党はプロレタリア革命へとすみやかに移 行するようにするためにその前挺条件で、ある諸問題すなわち反俗・反封建的闘争にその白 1 [げさ民の道を I J H き、また労働者民民の民主主義的独裁政権の樹立とプロレタリアートのヘゲモニーの確立という重嬰問題 の解決のため民族的統一戦線の尖呪すること Jがこのテーゼの示す路線であった (1九 「朝鮮人民共和罷 Jの樹立宣言 この路線からして明瞭なように、市朝鮮地域に上 l i j そして米る米軍との協調関係は混然の前提とされた。 河4 下に銭関する日本朝鮮総腎前と しかし前述した I口 1本'rL Iからの圧迫を受けて、 1本軍が米軍を迎える状況 ドにおいて何らかの対抗 5 1 tが必要だ、と考えられたようである。 キト;ぷ永は日 i 虫亨と I ヌi り、米'i l [が上限ずる予定の 9 F J 6 E l、京畿女校の講堂で「全信!人民代表会議 j を関係: させた。そしてここで咋O l f . f i 下人民共和問」樹立が宣許されたのである。このは建 i Wの力!誌を背景に、 l t ' : Pが行政権を朝鮮人の自治組織へ移譲したが態を受けて、 j i 引f . r i 下独立を既成事実として米 北朝鮮地域でソ元i 市に突き付けようとする政治的な示威で、あったけヘ 民地統治に協力的だった「親日派 j とわれる:出鮮 ところが米軍は日本市との接触を通じて、日本の杖i 人たちと M初に関係を持つことになった。彼ら主l tE II ? 誌は当時、 j 初去に本部を I I c ' e~、た大韓民間臨時政府こそ r I E統政府 j だと主張、建 f ¥ えに対抗する斡悶民主党を組織してその帰 i 殺を待っていた。彼らのうち有力な 人土は、さまざまな機会に朝鮮人民共和目立が「共成主義的 j だと米原将校たちに告げることにより米関人 特有な反共主義的な m.~jlíJi をかき立て、れらがその対抗勢力として米市政の保護を受けることを通じて、日 本の敗北で一転して「民族反逆者 j として指押される事態から逃れようとした(印。 こうして北側鮮地域から逃れて米たソ述京を嫌う努力も包摂することにより、キト;長永が許告した通りに 似V Jff.¥下地域における共産主義述動には、米市政と結び付いた斡!支社主主党が立ちはた、かった (IGJ。し 解放後の i かも北緯 38 度線で、南北朝鮮l r lJの交通や役米が遮断される r j l、逃れて米た人々が伝えたのは北朝鮮地域での ソ に よ る 「 蛮i i J であった。 ここから米市政は政治的に「不偏不党J という立場を表明したのとは虫腹に、朝鮮人民共和問には抑任 , ; t ! , ¥ 1 立j II 臨時政府の帰 1 mを助けた。伝説的な反[lI J ! ] lJ :の求 jj 1 ( ! l 免は米悶本 L から米 的な態度で臨み、反対に大 1 軍機で、帰I' t lし、大韓民国臨時政府の主席た、った会九らに帰国の出'f!J:を│立i ったのも米'tfI政であった。このた め南朝鮮地域での共産主義運動は、内部的には派 i 削減争の再燃、そして対抗勢力の帰国で、外部からも抑圧 がかかることにより、次第に混乱へ陥っていった。だが正にそのI!割引、北朝鮮地域ではこの事態を受けて、 新らしい共産党組織を剖り出す政治劇が掠を 1 mけていたのである。 第 4章 ソ連の朝鮮政策と金 E成の台顕 キト富永が再建に一足は成功した朝鮮共産党中央は当日寺の共産主義運動全殻がそうた、ったように、「社会 主義の在U I ' I J ソ述に対して、従って北朝鮮地域のソ述軍に対して能}括的な立場にあった。ソ連の iJ ] f l ! Y : 政 策 は少なくとも去国 nりには彼らに承伏すべきものと見なされたので、ソ述軍が~日成らいわゆる f満州ゲリ ラ派J を一般民衆に対してだけでなく共産党組織の 11でも前回に押し出した時、共産主義勢力内部で葛藤 と反日が生ま tLることになった。 第 1節 北 朝 鮮 共 産 党 の 出 現 京城で朝鮮共産党が再建されるに伴い、北朝鮮地域の共産主義勢力がこれを党中央と認定し、一!二l.はキト 街永の指導に従ったことは r m ; 主いない。その実例として初鮮共産党王子安南道党は、 45年 9月 1 3日に同党委 南北朝鮮労働党の研究(二)北朝鮮労働党の結成 員会で通過させた綱領で英米を対象として「常国主義 n~fq:侵略を防昔話する J 115 と規定したため党中央がこれ を批判、後 i 三!この批判に従い綱領を変更した(]7) 。ソ連軍も朝鮮共産 f党中央委員会秘書は、党の者~#~な活 動家の' i ト窓永であり、北朝鮮担当の中央委員会組識局秘書は金谷範J だと本隠へ報告した(出。 朝鮮共産党北朝鮮分局の創出 ここで言う f 北朝鮮担当の中央委員会組織局 j とは、 1 945"F1O P j13日に結成された l i j l Jj鮮共産党北朝 の呼称であった。この分f 誌は同 E J、ソ連軍将校の│駒市の下に 鮮分周 J [以下「分局 J と暗記]のソ連軍部1 開催された「五道共産党立任者及熱誠者連合大会 j で金 [ J成の提案により結成が決定された組織た、った。 誌の結成までは、 i j 誇 す 日t . ( この分1 この述合大会でで、はまずキ朴ト 志 j ぷ永に送る祝屯を採 J 択 f 尺(した O その祝電ではソ述取に感謝の j 立を表明した後、 吋ト巡永同右のましい路線 j に言及し、スターリンと共に rjmml1!1~産時級の領有IJ 朴窓永同志万歳 j と結 1 主亡くではまだ、北朝鮮地域でもキト志永が指導する党中央に対抗できる勢力は形成されていなか んだ。この1 ったと見てよ L、。この連合大会で、は長安派が主張する f社会主義革命設 I~?~J の主張を弾劾しもした。 だがその述合大会では「北部部幹の特殊性に従い、あらゆる行政、そのほか党の政策を実現させる J た めに「党 l 十i央に政隠する分尚を投開したのである。 j この分同は九、つでも'1'央で、必要を認定しない時に は、また改党など改訴を必要と i 認定する日寺にはいつでも、中央で処理する権利がある J とされた。けれど も分局の常任委員を決定しただけで、なく、事後報告の)f~で党中央に了解を求めたところから見て側、分}誌 がソ連軍の志向により創/J l されたことはまず関連いがない。 この分 1 誌の常任委員がm gだったかは不明だが、中央委員として 17名を選出した。この中にはソ述 J p :から 11,~lj ~情l側を受けた呉珠控のように (21) 、分 j誌の創 IJII~1 体に反対した有力な共産主義者たちがいた。彼らはキト ;ぷ永の指導を 1 LTlぐ勢力として一般に I l m l 大 i 派J と呼ばれているが、 4 8年 3 ) ]の北労党 t 1 12回大会でそ 近u を1 I i i7.!{に批判されたことで明らかになった通り側、金日成の台認を快しとしなかった。 01 この不快感の表れは、朝鮮共産党中央による分)誌の承認 n 寺山に見て取ることができる。 4511 1月 15[ ' J、 l : 1央はその党機関紙:解放日報! J 二 で 、 ! 司 王 r : IO J O j すなわち分}誌の創出から 1カ月以上も経った時期に、党 r 23日付の分局承認を公表したので、ある。ここから我々は、ソ述'i Iの志向に:j: P Iし切られた朴志永の姿を封: f i H i J してよいであろう。 この分局を創出した翌日、3II:日成は r J i l合取歓迎王子壊 I l j民大会J で民衆の前に初めてその姿を現した。 ソ連軍が金 [ 1成 を 全 閥 的 に 支 援 し て い た こ と は 数 多 く の 言 か ら I V Jらかだが、大会々場では「にせ者だ J という戸が挙がる等、金日成に対する ~;r1 f1l1î は{ほかったと考えられる。特に'F:壊はキリスト教の ;i仰ぎが強か ったこともあり{問、伝説的な英雄の名を諮る若冠 3 3歳の若者ーが民衆の指導者としてソ述 1 1 1の後押しで現れ でも、受け入れられるはずもなかったであろう。 この後、念日成についてはさまざまな媒体を通じて民衆にその抗日ゲリラ闘争の経ぽ等が宣缶された。 部分的には正しい内容ちあったけれども、当初からその宣訟は念日成を政治指導者として民衆の心に刷り 我らの太陽 J といった大げさな表現が登場することになった例。そ 込むのが│ヨ1'1りであったから、結局は f してこの金日成を偶像化するソ述績の政策が功を奏する事件が起きたのは、北 j j V J f [ l 下地域の北問のはずれに I 現段の 1 1 ]、平安北道新義州、│においてた、った。 ある中籾J 新義州事件と北朝鮮共産党の出現 1945年 1 1月下旬に起きた新義州事件は、朝鮮共産主義運動において金日成を台頭させる契機となった 事件である。この事件は 11月 231 : 1 、新義州の J 毛皮主義努力と現地の学生自治組織とがソ述ならびに共 産党員の横暴をめぐって武力衝突を引き起こした事態に始まり、翌日この事件の調停に王子壌から金 1 I成 が 派遣されて、…般民衆も巻き込んで拡大したこの事態を収拾するのに一日は成功することで、終わった問。 1 禄 116 , > , ' _ ' C 担f ,~!_'" 口 会 この J ' J { ! : f は共}主党員と学生 1 = 1治組織の当事者双方に犠牲者を I l¥し、少なからぬ人たちが南朝鮮地域へ逃れ るという結栄をもたらしたほへのみならず事実ヒこのお件を境としてソ述の朝鮮政策は、民族主義勢力に 対する警戒心から金日成らソ述の現地政策執行者と汚うべき共産主義勢力を q:1心とする i 政治体制の構築へ と展開していった。 J1 2 1 こ!の戸 I V Jを通じて「反日党と民主 それまでソ述府は南朝鮮地域の米市設と同線、建前上は 45"FI0r 主義間体 j の結成を認め、一定の条件のドに政党や社会団体の活動を許容していた問。それで古娩柏は!元j や校長時代の教え子で金 1UJ3EIに朝鮮民主党を自らが党首となって結成し、副党首のひとりに五 L JII F I成の戦友でもある棋院f 健を据えた。 l i Q ] ! Q'(:民主党はソ連の統一戦線政策の対象として見られており、分局 1 ¥1でその政策が不十分な成果しかあげていないことを内部批判していた。 でも同党との1 I I 1 央 J 第 3次拡大執行委員会で報告した金日成は、従来の党活 しかし新義州事件後に開催された分尚 1 共産党は今日まで労勤者の党員が少なしリ 動の「錯誤と欠点」を総烈に批判しながら次のように述べた。 1 から íltY:;'{ミとの連絡が~jEj l命日ミ J 、i W J r義外i で、社会民主党(1'i 1 1 *千三)が組織した小学生たちが武装し、道党 委員会を襲準した J のであるソ述の資料によれば、社会民主党の党古代別は「地主指紋と俗説に述携 しており、 (IJI IlI持)金九の指導下にある n日l~ 時政府i を支 :j:'!jすると宜主?し j た。「この党は共産党向付、と人 n 民委員会に反対する反動 せな新義州事件に加担し j た (291。 こうして新義州半件を社会民主党に立任転嫁することにより、この 1 M ' ! '収 i f iの功績を認定されたfJi:日成 ι は、この第 3次拡大執行委民会で 之容範に代わり分同立任秘書に就任した。そして彼はその報告のrJIで 「北朝鮮共産党 j という名称を)1]l 、側、金日成が I H Iがりなりにも北 l m ! ,(( ( : J 也域の共脱党組織でそのトップに したことと合わせて、党中央とは独自な党組織が出来 i 二がったことを示したので、ある。この北朝鮮地 9 4 5 " 1 三末から 461 ド始めにかけて起きた「信託統治紛争 J というが件により一気に加 域での政治発展は、 1 速し、 主 I J 成或を)首 金一 4 i 日 第 2節 {信言託統治紛争から北朝鮮臨時人民委員会の倉創1 設へ { ' ; j~ltiWJ 鮮の政 信託統治紛争はソ述をして北朝鮮地域に親ソ政権を創設させる転機となった事件である。 T 治的な統合が事実上この故権の訓設により不可能となったばかりでなく、南北朝鮮の共義運動にそれ ぞれ異なる条件と課題が与えられていることを明示することになった。 {奮託統治紛争とその波紋 1 9 4 5 " 1 三1 2 ) ' : 1 2 71]、モスクワで開催されていた米英ソ三回外相会談は、戦後処理を取り決める「モスク ワ協定J を発表し、この協定r:jlで 1 i i Q J ! ( . ¥ ' ( :に関する決定 J を示した口 1。信託統治紛争とはこの決定に燦り込 まれた朝!(,~下に対する 1m 際的な信託統治の実施に閲する条項をめぐって、 IftJ 協定に賛反の論議と暴力行使を 伴う実際行動が南北朝鮮で巻き起こった ' J J i 1 : I である。ここでは北朝!的1 地域のそれについて事件の経緯とそ の波紋を論述したい。 1 却する決定はそもそも、第 2次世界大戦1= 1 に米関とソ述の問で合なされた朝鮮 モスクワ協定r:jlの朝鮮に i に対する信託統治の実施を文書化したものだった問。だが大戦 1Iと異なり東 l LEi冷戦が始まりかけていた 1 m 際活勢のド、この決定がソ述による f 大国協調主義 j から生まれたことは、その作成過程からはっきりし ている。ソ連はこの決定を間際的な取りがとめという名目で北朝鮮地域の政治勢力に強要し、これに反対す る勢力を潟泊していった。 具体的に対象となったのは、関腕組が率いる民政主義努力、特にキリスト教会に基擦をもっ政治勢力だ は拐鮮民主党々首であると共に、ソ連軍が45年 11 )J 1 91 :1 った。モスクワ協定が採択された当時、寓!吸収i 二 に立ち上げた五道行政局という北朝 ! y : ' ( :地域の 1 1 3。つまり彼こそソ I 央行政組織の委員長たる戦立にあった (:3 述軍占領下の民政部門で、朝鮮人側の代表た、ったのであり、そのさi動はソ述の朝鮮政策に大きな絡手?を与え ff,î~tí:vJ鮮労働党の研究(二)北朝鮮労働党の結成 117 ずにはおかなかった。 醒 i 漁紅1 がモスクワ協定の反対に間執したのは、自分が占める職立から米る政治的な 自負ゆえからた、ったと思わ;j1,る。 ソ連軍は金1=1 成や崖 )rlf 健をして寓|漁村i に翻なさせようと執劫に働きかけたが、 n 1~î 1 政 省i lも頑強にモスク T f.はやむなく寓 l 晩稲を j l M i l 滋ホテルに軟禁し、外部との接触を遮断する ワ協定の受け入れを:t 絶した。ソ)llii 1 1た。しかし彼の支持母体であるキリスト教会を中心に、モスクワ協定に反対する勢力が連日のよう 挙に 1 に示威行進を続けたため、ソ述'i:!(は傘下の勢力を使って脅迫的な手法でこれを抑圧した。こうして一夜に して富晩納と彼が指導した民政主義勢力は共皮主義努力により敵対勢力として焔印を仰され、逮捕、拷!日i されたり、さもなければ南朝鮮地域へ逃亡したりすることになったのヘつまりこの信託統治紛争を通じて 漁船に代わり今や金 E I成が 実質上、共産主義勢力に対抗する有力な政治勢力は北朝鮮地域から消滅し、百 i 政権機関にその長として就任したのである。 北韓鮮臨時人民委員会の創設 J ) i j述したモスクワ協定中の朝鮮に関する決定では、 f i i Q J f ( ( ( : 1 臨時民主主義政 J H J を樹立するため、南北朝 鮮に進駐する米ソ師僚の代表で「米ソ共同委員会」を忠良織することが規定されていた。南北朝鮮を通じて 朝鮮共産党では 1946ir~ 1 月にモスクワ協定を支持する立場を鮮明にして以降、この米ソ共同委員会を通じ て政府を樹立する路線を追求したが、北朝鮮地域で、はこれに先鞭をつける体裁で金1::1成政権が創設された。 ' : 1にソ連の i j q J ! . f ( i :政策として、分断政策と言ってよかった。 それは明 1 ソ迎市は前 3年ド 12)月 1 に本 出I ;主設主泣i へ送つた報f告今の 1ぺ1 1 で、コ :'~I七じ以jj矧別11.:1 汀1.反 [ f 1民主政党、社会問体の広範なブロック(述合)を基礎とした北朝鮮のブルジョア民主 l 改革は、 余りに遅延して進行している、 2. (省略)、 3. 最も早い臼 I 1 寺内に北朝鮮の経済を復旧し、民族幹部を義 成する課業は、北朝鮮領 L I 々で政権を中央集権化し、朝鮮の民主活動家たちに移譲してやることを必要と する、 4. 人民民主主義運動の発}廷は、大地主の土地所有により支障を被っている。このような状況は平 し 斗i 寺W Jに改革を進行させることを要求している、 5 .( 省1 1 開。 J1351 かかるソ述取の結 H i 命が、米ソ共同委員会がその予備会談を終えて何らめぼしい成果も上げられなかった ことを受けて、一方的に 46年 2 P J8E I、金日成を委員長とする北朝鮮臨時人民委民会の創設という形で実 施されたのである。問委員会は金日成が述べたように「朝鮮統…政府が組織されるときまで j の北朝鮮地 域における「行政的中央主権機関 j とされた酬。問委員会が前述したソ述 1 F tの報告にある「大地主の土地 所有 J に対する改取を I f : l J 年 3月に実施したのを始め、さまざまな f ブルジョア民主改 j I i 'J を次々と打ち出 したことは、正にその「主権 Jh : 1 史で、あった 1371。 この北朝日{日目以上?人民委員会は金 1成がその部設の翌日に分局で i 明言した通り、「我が党が指導する政権 であり、今日わが党の重要な事業の一つ j だった。しかも問委員会はその結成をもって「北朝鮮の民族統 一戦線を完成した j と主張されたように側、組織体系からして北朝鮮地域の各政党や社会開体を網羅した 性怖を持っていたことがうかがえ、ソ迎の統一戦線政策とも合致していた。特に問委員会の剥委員長に は習 i 政相が政治舞台から消えた後をおn うため、そのころ北朝鮮共産党と並ぶ党勢を示していた朝!f. l 下 事r r 民 党々首で、民放主義者だった金利奉が就任していた。 第 3節朝鮮新毘党の結成と「民主基地j 路縞 この朝鮮新民党こそ北朝鮮共産党と合党して北労党を結成する一方の主体であった。だがi W J m 洋新民党は ソ述の志向にかなう政党と汚うに止まらず、そもそもが中関共産党の庇護下で抗日連動を民間した経肢を 持つ Pj Q J 鮮独立同盟 j をその母)j台として結成されていた。その党路線は、南北朝鮮にまたがる民族統一戦 線を形成して統ーした独立国家を樹立しようとするところにおいて、ソ述の分間i 政策に従う北 i ; V J鮮共産党 内の金日成らの思惑とは一線を r l iすものだったと言える。 1 1 8 i 茶 務 ' i 朝鮮新民党の結成経緯とその政治的性格 W l m J独立 i 可j K iは 、 f 5 J ' J勤者I l l i おであるl 初. ! f l,Y:義勇京をもって延安に根拠地があるr!1 党と共にお'LEl運 動を展開していたから、一般に f 延安派 j 共産主義勢力と呼ばれることが多いが、多額多様な構成要素か らなっていた。この同読の主席は虫時、朝鮮語学者として著名だった金将泰、副主席に共産主義者の 昌吉主と斡斌が就いていたし、朝鮮義勇取最高司令官の任には i 訂正に参加l して生き残った朝鮮人のひとり 金武亭があたっていた。 朝鮮解放後におけるこれら延安派の帰国は、まず朝鮮義勇軍部隊が: W r義州防ミら入 l i ' l iしようとしたのに始 p :隊はあり得なしリとの l l J lE l jから、この部隊を中間へ渇い まった。ところがソ連軍は「政府のない民族に j 1 1 1 ' i1 から北朝鮮地域へ婦問した共産主義勢力が現地の党組織に加入する事例 返してしまったのへそれまで 1 は多々あったようだが州、ソ連軍が中間共産党と通じた政治勢力に心を持っていたことはこの事例に より明らかであろう。 : r 可1 立の帰国については首脳陣の…部カ > 4 5i 1 2月中に帰国したが、彼らは朝鮮義勇軍に対する 朝鮮独立 i ソ連軍の措 i t {を知っていたからか、 1 f l } lf<l後は「謙遜 r { ! J i 処 J して情勢を静観することとした ( . 1 1 1。この中で、,' j i j 述の信託統治紛争が起こり、朝鮮独立時盟はモスクワ協定に賛立を表明、ソ連軍との協調姿勢を I l j j l i 江にし 打 / . I c i 付!l!立時間はこうしてソ述僚の信任を勝ち得たと考えられる。 た 。 i持 l f l ]m I民たちは南朝鮮と北朝鮮へ行き、各々が民主政党である新民党を結 ソ述取の資料によれば、その f 成した。 ( 1 1 1 1 1 市)北朝鮮で新民党は、党中央委員会が選出され、道、市、 m lの党委員会、初級党訪問体が i . F2月に最終的に制建された。 jその!際、朝鮮新民党の結成にソ迎用が i 二渉していた事実 組織された 1946 f i l " f 7月 23EIの l i l J党中央委員会で「亦.J: 1 Iの助けで新民党は、成功実に政党として成立するこ は、佳品益が I とができた j と述べたことから明らかである州。同党は「広範なインテリ縮問と進歩的ブルジョアおよび 民民たちに依拠した。党員の 50% 以 i二がインテリ、事務員および I~I E I J業だった。(1]1I 1 1 各 ) 1 946"f3F i15日 , 1000名だったのに比し、 i 可年 6月 2 6[1現行f は26, 000名に迷し J、「党員数は急速に増え 現夜、党員数が 1 たJ のである (43)。 朝鮮新民党はこれより先、 46 年 4)~j 26E I を発し、その政治的な立場を示した。同宣言は朝鮮独立 i 司盟を朝鮮新民党に改称するとし、 f 我々に与えられた任務は民主政権の樹立にある J と述べて f 民族紘 一戦線 j の結成による「全朝鮮民主政権の樹立」を強力に要求した。また金科奈はじめ朝鮮独立 l i l J組員の 北朝鮮臨時人民委員会への参加は、 f[]前の朝鮮の特殊事情によって J なされたとされていた州。こ 言や党員の稿!或からわかる通り、朝鮮新民党は政治的には民族主義左派に!予行持する政党と i = lえ、決して共 成主義政党で、はなかった。 朝鮮新民党が結成されたことにより、北 l l i f J f . f t Y:地域の政治的な再編が進行し事実上、 I ¥ 1 J 党と北朝鮮共産党 i 主党が政局に登場することになった。両党はソ述の朝鮮政策に沿う形で、北朝鮮隠l i I l f 4 i '人民委員会の下 の 2大l で協力したが、その際に打ち I Hされたのが「民主基地J路線であった。 f 民主義地 j 路線の確定経緯 f ! . ( ( :共産党中央は、米ソ共同委員会を通じて f i j Q J f . ( ( q 臨時民主主義政府 Jを樹立しようとする 前述の通り移l f 間際路線 J をとっていた。このため尽くとも 1946年 3丹に米ソ共同委員会の本会談が I J D { I 告されるまで、 この路線以外に何らかの新しい主眼がなされた証拠は現在まで見い出されない。 Y J20日前後にキト窓永は、 f Y ; j 朝鮮地域の共産党幹部の秘絞会合でモスクワ協定に反対する ところが昨年 3 「反動派がソ米共同委員会を破壊するならば、われわれは外問箪の速やかな撤退を強く要求し、朝鮮人民 の自らの手で、j ) 世間:下の独立をかちとるほかはない。それには、われわれは、北朝鮮の人民政権によって急、述 に民主改革・民主建設を押し進め、北朝鮮全域を本命狼拠地として、一挙に南朝鮮を解放しなければなら fo~í 北初鮮労働党の研究(二)北朝鮮労働党の結成 1 1 9 ない J と言明したという(制。この言明は f 民主基地J路線の水質、すなわち南朝鮮地域「解放 Jのため に北斡鮮地域に f 民主主義の恨拠地 j を建設するという内容と一致していた。 ここから推測すると、米ソ共同委員会の進展を W l持して一方で「国際賂綿j が追求されながらも、他方 でその失敗を想定してこれに変わる路線が既にこの時点で準備され始めたということになる。また f 民主 基地」路線の内容からして、少なくとも北朝鮮地域だけでの社会経済的な改革に止まらず、 I 訂朝鮮地域の f解放」を I~I 指す革命志向 nせな政治勢力がこれを主張したと考える他はない。つまり北朝鮮共産党がソ述 の分断政策を実行する現地執行機関だったところから考えると、その路綜は南北朝鮮にまたがる民族統… 戦線の結成と強化を訴える勢力が唱道したと挽定するのが自然であろう。この路線に党鰹されたかのよう に46Af 7PJになってやっと「北朝鮮民主主義民族統…戦線Jが結成されたのは、北朝鮮臨時人民委員会の 主党が南北朝鮮の統一に当初は本気でなかったことを示す託左 背後にあって政局の主導権を撮る北!湾問{、f:!U とも受け取れよう。 ともあれ「民主基地 j 路線はこの時期から、共産主義勢力にとり f 国際路線 j に代わり得る現実的な妥 当性ある路線として認識されるようになったと見てよい。それゆえにこそこの路線が北朝鮮共脱党と朝鮮 新民党が合党する北労党の能立大会で同党の路線として正式に採用されることになったのである。北労党 の結成時期i が第 l 次米ソ共 llij 委員会の決裂した JI、~'Wj だったことは、偶然の一致ではなかった。 第 5章 北 朝 鮮 労 働 党 の 結 成 J:共産党と朝鮮事r 民党の合党による北労党の結 本研究(ー)労働党の南北分立で指識したように、北朝 m 成がスターリンの指令に従うものだったことは、ふたつの政党が合党する過程を複雑にした。両党の合党 があたかも朝鮮新民党の建設に始まるかのようになされたことは、逆に北朝鮮共産党からの必姿を物語っ ていた。 第 1節 北朝鮮共産党と朝鮮新民党との会党過程 北労党の創立大会に関する朝鮮側の史料とソ述側の資料を合わせて考祭すると、両党の合党過諜は、そ の実問を合めて大 1 持つぎのようだ、ったと忠われる。両党の合党で興味深い点は、延安派内で金日成に民訴 する勢力が両党の様渡し役を果たし、自らの故治的な立場を i 別 1 ' 1にした点で、ある。 北労党創立大会までの経緯 APF123I 前述した 46 Iの朝鮮新民党中央委員会で桜自主主は、北朝鮮共産党との f 合党は朝鮮の国家建国 の現段捕においていゐ大な j 主義を持つJ としながら「新しい朝 m 洋の建設を阻害する反動分子たちとより一層、 1 誤認悲に闘争する j 必要を主張した。だが続けて彼は「最終決定があるまで、この問題は絶対秘密として 残しておかなければならなしリと強制した。これはソ速の意図を隠蔽するためと考えられる。 この後、 IWj 党中央委員会主LL縞部長の金氏 1I1 は「新民党が存在するのも多くの詣で共産党のお I~J だと述 べ、北朝鮮共産党に「この問題について書簡を送ることを提議 j した。討論を続て結論をまとめた保昌益 は「樹党の党員たちの 1 mではもちろん、この統合の巨j立な忠;義を認識で‘きない人々もあり得る J と述べて、 この合党に伴う両党の内部的な混乱を示唆した。 だが合党の提案は同党中央委員会で決定され、これに金科挙が署名した上、北斡鮮共産党中央委員会の 司容を 金[l成宛に送られた。翌 24日、合党問題は北部解共産党中央委員会で審議され、朝鮮新民党に送る i 決定、この@答を受けた新民党では悶1: 1 、これを討議した。この討議で再び金氏 L Liは「我が党の一部党員 たちが党中央委員会が不当な政策を繰り広げていると考え得ることも勘案する必要がある j と述べて、合 党が必ずしも一般党員に歓迎されていないことを i 開示した。そこで経昌益は「地方党委員会の指導者たち 本体 120 必f ; J f ( の参1 A f下に新民党中央委員会全員会議を 7 F J 27 E1 に招集する提議」をした。 2 5日、まず 62名が参加した北朝鮮共産党中央委員会定期全員会議が閃かれ、ここで会!こj成は f 我々の任 務は N ; j i i VJ f ! . ¥ Y'人民も北朝鮮人民が生活するのと同様な環境で暮らすようにすることにある。(" 1 1 1 洛)我々の 影響は北朝 f ! . ¥ 干に止まってはならず、 i 羽i ; Q J f i ¥ Y'全域に及ばなければならなしリと発言した。だがこの会議の討 論では「なぜ他の党ではなく新民党と合党する問題が浮上したのか J等の質問が 1 1され、これに対して合 l r J J : : m :の太成沫は「新党で、主滋権は我が共産主義者たち 党への賛成討論が相次いだ。この 11 で「正路J新 I が掌握しなければならなしリと i 別般に述べて、その主導権をめぐる問題が未解決であることを認めた。な おこの会議で「労働党J の名称を呉瑛控が提案したとされる。 i s ! 品、て i 吋I 1、 3 1名が参加して朝鮮新民党 i十1央委員会全員会議が開催され、党首の金科奈が合党の i 忠義 を強調した。この後、朝鮮新民党からの提案と北 i担問、f 共政党からの"íI~警が注品益により朗読されてから、 質疑応評がなされた。興味深いことに会科奉は f f')¥j朝鮮にも共産党と新民党があるが、この二つの党の合 I 民党の行動に対して i ' H Eを 党問題として挺起することはできないか J との質問に対し、「我々は南朝鮮事r 持つことはできない。なぜならば我が党が独立した党だからだJ と答弁した附。 ] 2 9 [ 1、 j l, j 党は中央拡大執行委員会述出会議を出いて、合党を共 1 1]決定 このような過棋を踏んで、悶"j'-7J ご l U立大会は I j i J年 8月 2 8 1 1から 30日まで 3I 1 1 日 i にわたり J I 出H され、ここに民族主義 した。こうして北労党の f 政党と共産主義政党が?守党するに至ったのである。 北労党創立大会 北労党の創立大会第 1I C j[ 1は午後 2時半から北労党創立準備委員会を代表する金 H成の I J Hf.~ 1iy:で始ま 1名の主席 [ J Iと大会部次を決定後、党綱領修正委員を北朝fr.l(:地域の各道ごとに 5名ずつ選出した。そ り 、 3 して各政党や社会 I'tl 体からの祝辞が述綿と続し、てから、スターリンに送る手紙がìÞ~場一致で、採択され、翌 日は午後 5 1 1 寺1 5分に休会となった。当日の可会は金 1 1 1 &が行った。 午前 9 1 1平に続 1 mした I I : i J 大会第 2I1 日に本桁i'I'~な報告と討論が行われた。 i可 11 は金容範の司会の下、まず 01名の代表を選定した。iJくに金日成と 大会に出席した代表の資総辞査結果が街査委良会から報告され、 8 金科洛から北労党の部立についての基調報告‘がそれぞれ行われ、両人共に米軍政ならびに李承晩、金九 の大韓民 1 1lJ 1:u,~1侍政府嬰人を非難する一方で民族統一戦総の結成とその強化を強制した。 この後、各道代表の討論が続き、最後に金 1 1 I 或が討論に対する結論と質問への答弁を合わせて行った。 この 11 I で彼は「労働党の t!:1 心任務は J;~月鮮のよ己主主義 nZJ 完全独立を -[1 も平く促成するところにあり、この ため第一に北 i j Q j f y ,下の民主主義根拠地をさらに一問、強国にし、第二に我々の民主主義的なあらゆる課業を、 ; V 日鮮の民主主義的な政党・社会団体を助けて全朝鮮に実行するようしなければならなしリと発言した。 南J この発設をもってi] I i 述の「民主墓地 j 賂線が北労党の党路料!として確定した言E 拠としてよかろう。金 E I成 を受けて、北労党を f 創立するについての決定書J が採択され、北労党はここに正式に発足したの ]の最後には党綱領草案が箭議された後、これを一部修正の i 二で採択して、午後 7 1 1 寺に である。そして同 1 。 休会 Lた 1 ご1 1 = 1 は午前 9時 1 0分に続 1 mされた。当日はう│と京将が f l j会を務め、党規約革案をまず審議した。 大会第 3 f i J様に討論がこれに続き、これを締め括る形で、金容範が党規約草案への諮問に答えた。注目 そして前日と l されるのは金容範がその答えの中で、後述する i 千 j 労党の結成に関してキト悲永の主導権に反対していた勢力 に言及しながら r r f 4朝鮮の宗派争いを好む者ーたちは中央幹部に反対して宣布文を 1 1し、声明書を出して南 朝鮮の三党合党を妨害している」と述べた部分である。 大会は金容範の提案通りに党規約を可決した後、 1I央機関紙を?労働新 1 むとすることが決定された。 続し、て筏呂誌が南朝鮮の三党合党について経過報告を行い、金武本と金日成が討論に立った後、南労党の け:j ~Uÿlff.(f:労働党の研究(二)北朝鮮労働党の結 1災 1 2 1 結成におけるキト志永の主導権を認定する「決定者 J を満場一致で、採択した。次に大会で' t l : l i ' j i党 中 央 委 員 会 3名を選出し、最 f 後交に f 朝[鮮 t 昨 下 伊 向i 胞たちに f 告 5げる J という:笠夜言1 舟 ( 守 ? を 採J 択尺して、北労党剣立大会は午 交 f 後6 委員 4 比 i 時 仁 侍 ? に そ の : 全 ヨ 全 芝: 日 1 :私恕:を終-了 fしたのでで、ある(付川間 4 訂刊 7 η } 第 2節 北 労 党 の 権 力 構 造 131 : ' 1=Iに選出された時党中央委員会委員の構成を考察することで、検証で、き 北労党の権力構造は大会f;J' る。また問委員会内の政治委員会こそ北労党の首脳部た、ったから、その人的な構成から実質的な権力の所 千五をうかがうことが可能で、ある。 中央委員会の構成 北労党中央委員会は、次の委員から構成されていた。各委員名のお績につけた括弧内は左から、まず合 党前の北朝鮮共産党員は北、開 f(,~Y:新民党員を新で示し、次に共産主義者には共、民抜主義者に民をつけて、 このうち所崩する政治的な派│慌がわかる者についてはその派関空;をお端の[ 1 成ら 当時の共産主義勢力の派閥は大加して、金i= 1内に記した。 IW 的外i で抗E Iゲリラ│お午lに従事した瀧州ゲリラ派[括的、 朝鮮内で活動して朝鮮解放後に朴滋永の指導する朝鮮共産党中央の路線に従った国内派 1 [ 主Il、ソ述 l Fがヱド !至!から呼び寄せて主に通訳せ;の行政官僚として働いたソ連派 i ソ]があった。また前述したように、これ 往!とは'1'1:絡を呉にして多様な構成要素からなる延安派[延]が存在した。なおここに波べた委員名は ら派 i ] 医序そのままであり(州、以上の分類にあてはまらないものや所 北労党創立大会で、推薦され読み上げられた 1 属が詳らかでないものには「不 j と記している。 /iJ J 、、、、、、、、、 42 陪阿国怖い問慨はけ間何 ノ JJ )) )) )) ) zi l i)l i)-)j ノ iJ 、 二 l L:; 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V l . f i i 下新民党においてそれを押し切って金科奈が合党を進めた代前として 党中央委員会委[l長への就任を強く求めたものと思われる。 つまり単に形だけのお f t i l iりとして金科準が党中央委員会委員長に就任したのではなく、むしろ支持基盤 が呉なる政党の党自としてほぼ対等な立場で合党し、そこで政治的な指導権を得ることをねらっていたと 見る万がより真尖に近いであろう。当時の政党と政権との関係を前述した北初鮮共産党と北朝鮮臨時人民 委民会との関係から類:tíf~して考えて見ると、政党が故村11 を指導するのが謀本的な政治治相のパターンだっ たから、北労党が大衆政党として北朝鮮地域の執権政党になったことは、 I~I ずと党前の金科挙に指導権を 強化する機会を与えこそすれ、北!朝;誇閉 4 引 州 M 話 1 . 1 . 1 { 、 ところでで、北労党 i けiド中l 央委 l良 i 会とは別に党 4 本~f部 1濡E の{毅執 i拶執手決l 行 i部 fl部i日:草将蒋干子今には、 五 1識 { f ! 5、党幹部部、 扇動立括部、 労働部、 1 2氏自│仁社会部、財政経耳目部、が党綱領に規定されていた。ただし名古; 1 詳の長については詳細が不明な部 分が多い。北労党はこうして同党中央委員会政治委員会を頂点として、送、r!i 1 ( 茨城)部、Ti U、職場、lj!, (Jl!l iサ)党;~;fI)を地方の iサ11組織に :j:JJ ち、各党部に部11 胞組織のハイラキーを形成していた。つまり北労党が ほぼ北};釘鮮全域を挺ういわゆる f 民主集 1 11 m むの組織体系を剖り 1 1 ¥し、こうしてトップの政治委民会の決 定を一般民衆に伝達し実行させる政治体制を備えようとしたのである。 しかしながら両党の下部組識にはこの会党をいぶかしがる者が少なくなかったし、またそれゆえにこそ 北労党を結成する志:義が必要以 j 二に強制された。この u 二からの統合J を円出に進めるのを妨げた J ' l !I J Iは 、 北労党の結成そのものが呉質的な 2i 改党による合党た、ったということにあるが、朝鮮共産主義運動が本米 もつ制約:ゆえにこそその克服が可能た、ったと見ることができる。 3節 北 労 党 の 政 治 的 な 性 格 ; 1 引m . 下共産主義運動の属性とは、民族主義的なパッションを原動力としてその巡勤が開始され展開されて 米たという探史から導かれる。つまり民族主義と とが協働しながらも、常にそこにはズレが伴う という政治的な性格である。北労党の結成においてもこの属性を見出すことができる。 政治的な性格付け 北 i)!;1;'1.創立大会の第 2 日 I~J に行われた茶調報告で、金日成は、「米軍政ドの HUljl)j f(,l,F のあらゆる混乱と反動 J の係国を「反動勢力の詰;図通りに我が抑常が互いに分裂し、立いに党派争いをしている j ところに求めた。 l k l闘争を強協する傾向が顕著であった。 このように北朝鮮共産党では民族問対立よりも階級!日日、;立、特に派 I これに比して金科奉はあくまでも「革命の基本 n V f i ιl ! t H i l l J 遂行が f階級的基礎を呉にするにもかかわら ず、民族的利害感を共通にする芥界各層、各党各派が民主主義の艇のに強力な氏肱統一戦線を結成する l H対立よりも民族 I L ¥ ]対立が重安おiされ、これに ことによってだけ可能 j だと述べた。つまりここでは階級 t 南北朝鮮労働党の研究仁:)北朝鮮労働党の結成 123 f ' I ' . l、民主主的な一致 I ' J I結が強制されたのである(州 4 却州 ο 町 } このように北労党 l は ま 民h 族主主義と共産:主 f ζ i義とのズズ、レをその i 内 刈 j Jにj や 合 守 字 1 主 fみながら、者が民族統一戦線という枠 ?tづけられる。朝鮮政治史 をもって結合した政党として性 1 kで共産主義政党が民族主義政党、特にその左 9 1Jは植民地時代の新幹会にその先例を見ることができるが、この共闘可能という事実のIjl 派と共闘した'H{ にこそ初鮮共成主義述動が民族主義政党と分かち持った目標、すなわち朝鮮半島で、,=,民族の独立│資家を桜 当! 1 mを発見できる。 立するとの民族主義的な i したがってソ述の分断政策にもかかわらず、それまでその現地政策執行者?として働き、北朝鮮臨時人民 は北 i;制Î.\J:地域の民政統一戦線で、あると強弁していた:;í}: 1…!成が、 (rj.てF民族統一戦線の ì:~fえを始めたこ とは重立さである。それは、北労党が独立出家の樹立という、もともと}訪日1 ¥ '共産主義運動が紡民地時代から 帰したことを意味していた。「民主基地J 路線は一区は分断体 i l lJを谷認し 追求した民政主義的な路総へ 11 ' ' 誌を喜子践しようとする戦略をとり、次稿で克るようにこの路線に従し、北朝鮮地域 たとでこれを克服する力 i 斉の建設、米誌の創建、教育文化環境の幣姉、制 t l l :H i I J ) 交の実施等が次々と実胞に移されてし、く。 だが で 、 経i J : y l約におれていた。 この路線が示す目標と課題は既に、北労党の党符!ならびに党; 北労党の党締領ならびに党規約 1 二" = 1に提出前が提案した北労党の党綱領 IV(案は、次の通りであった。, ' l V J((¥I'勤労大衆の利益を 大会第 2 代表し擁護する労働党は ~I_~-S強な民主主義独立 @I 家建設を 11 的とし、次のような課業のため IJ~jl " f l ーする。 民主主義 ' ; i ) l l . l l ,下の自主独立問家を建設すること、 1 2 人民共和 1 mの建設のため全朝鮮的に主権を人民の政権 泌を没寂し、1-. である人民委員会へ移すようにすること、 3. 日本人、民族反逆者および地主たちの所千i 地のない民民、土地の担行、自民たちに 1H~fn で分配して、北朝鮮で、土地改の成果をさらに強 [;'11 にし、全朝 鮮に,.地改 1 1 立を実施すること、 4, 1 I本 1 τ i家、日本人 I ' J I体と日本人の t H i i r A所有および民族反 j 逆者たちの ) 9 r イ Jである 化すること、 5 一切 鉱山、鉄道、述輪、逓信機関、企業所および文化機関その他を院はi m有化すること、 6. 労働者と事務長に 8 1 1 年1 1 ¥j労働制を実施して彼らに社会 の銀行とその他の金融機関を 1 ' ( [金を支払うこと、ア. l!~' H tの多器、知識の 4 i j ! 臣、信仰および ' 1 ; 1 ' . 保険を保問:し、久性たちに男子と同等な 1 倒の女1 1 l l i JをI I Hわず、 2 0 i ; 主に達した朝!f.i浮人民たちに向等な選挙権と被選挙権を付与すること、 8 . ゴミ朝鮮人 民に言論、出版、集会、演説大会、示威述動、党組織、 l加盟主Il純および信仰の I~IIII を保持すること、 9 :次官1:たちに政治的、経済的、法律的に男性と 1I点字な権利を保障して、家族および風惚 1~l1:系で封建的残浮を J~,l' il'j し、母親と子どもたちを出家的に保護すること、 10 人民教討の改 J j tを通じて各種学校内での教訂と ギを潟市して、財産状況と信仰および性閣を I H lわず全朝鮮人民に学 i 対する 教詫事業で日本の教青制度の残i 1 手に、朝鮮民族文化、芸術および科学の経常的発展を│文l ること、 権利を保障するとい1 11.勤労大衆の生活 一二義の税金制度の残停を識 J1 iし、新しい公正な税金艇を尖施すること、 12 民族 を威嚇していた日本帝国 J ' i P :隊の組織と義務的軍事徴兵制を実施すること、 1 3, I J :界の平和!のために関守lする隣 J l jと玉川1を愛護する 各|刻家、各氏肢と強防!な rJF~0 を iきl ること。 j 以上のように既に北労党の党縦領草案には、 . 1 1 9 l f . l f ( :民主主義人民共和い!の樹立に先立ち 1948年に制定さ ; f 13条で f 民族反逆者 j れた;益法の条文を忠わせる条邸が数多く見受けられる。そして、この党綱領草案 i を除外すべきではないか、との質問i に対して金日成は、の 1;~4q前111 J を f あらゆる民主諜業を北朝 鮮で尖施するだけでなく、南朝鮮にも実施しなければならなしリと説明することにより仰¥北労党が朝 i i Jを繰り返し銘わにしたのである。 鮮統一において主導勢力となろうとの怠 l i 茶 124 , ' r ' . : 山 問 r ,,^~-:J" 口 Lヰ 小結論 解放後における斡鮮共産主義述動は、ソ述の朝鮮政策に従い南北朝鮮に分立する共底党組織を創り 1 ¥す 1成を党首とする朝鮮共産党北朝鮮分 ことによりそれぞれの地域で独自な発展を始め、北朝鮮地域でイ立金 [ 局、のちの北朝鮮共産党を生み出し、それが指導する北朝鮮臨時人民委員会という政権も創設された。だ がスターリンが既存の議政党を労働党へ統合する指令を出すと、民族主義左派の立場をとる朝鮮新民党と の合党過税を述じて結成された北労党は、民族主義的なパッションに基づき分!析を前提とする「民主基地J 路綿を追求するようになった。同党中央委員会委員長が朝鮮新民党々首の金科挙だった事実が示す通り、 l 二 拐 民族主義と共産主義のキ1克、そして共産主義運動の主導権をめぐる派閥闘争は北労党の結成で一旦は J され、ソ述の分断政策に誕いつつも南朝鮮地域を「角刊文 Jするために政治、経済、社会、教育、文化等の 1 ¥されることになったのである。 谷領域で、革命的な政策が次々と打ち 1 註 (1) こ れ に つ い て は 、 本 研 究 ( 問 ) 朝s f t:労働党の結成、を参J!討されたい。 (2) 戚興では成鋭南道共産主義名-協議会と建 I;lil 準備委員会成鏡南道支部とが~!JI f [ ( i '民 政 成i l l E南道執行委 H 会を結成し、 8PJ24日にソ述軍司令部を訪問、ソJill単に当初jの政策を翻意させた。森 I T I芳夫 n : i ) j鮮 終戦の記録J東京、 版 f t 取 設i t 、 郁 i (3) 干 羽 和 口 i 1 1 出 1 計 f i 脊1 絵 掛 奇 封 i はこれを r } 戚 ir 興 r 型 幻y 方 7式j と名付けている O 或}夜制見lZ 干 利 i 日 I ElI存樹 「ソ述の i初;誇知 4引如日陥 fí\灯鮮 I下~ 政 j 3 L 段 3 支〔策…一九 i 問刈五 年 fド八一 i ト A j 二 ]- J 弓1 :会科学研究Jj ; j ' ;33巻 j ; j ' ;4) 月、(東京、 1981年 1 1月) p.119. (4) 朝鮮人の職員をロシア人の管耳目 i 識が統制する組織体系が仕組まれた。これは 訂 手 一 南 i t 句 制 刊 j J ; i )日 ( 行つたそれとほ lぽま i悶 r司d 一の統治 1万 'j~註l 去法;ただ、つ f たこ O この資料は米国立公文古館出家記録センターに í9r 放され る朝鮮戦字'!.!j:!に l i i l迎工作が主に北朝鮮地域で捕獲した 1さi 獲文苦引と言われる膨大な文献の![:!にある。 w m港組織体系J ほ 法主 「船員教鐙卒業J のため治津港に停泊![:!の汽詩的に出張した「復命計 j には、 f かドF-J 裳本社組織体系 J などが記されている。この体系 i ヌ i を見ると、「総社長 j にソ述人、 は朝鮮人で、 r m U tl : 長j r o裂J}I !部長」はじめ 6つの部長にソ述人、「幹部部長 j と「労働部長 Jが朝鮮人た、っ ealGroup242,ShippingAdviceNo.2005,BoxNo.6,I t e mNO.1O . た 。 行会話控文書~~ R (5) 森師、前掲 i ! ?、 pp.182-186. この委員会で副委員長を務めた玄俊│織は 45"F9J j41 : 1に係者かに白昼 公然と H 背殺されたが、設蕊らしい捜査も行われなかった。これについては共産主義勢力内の派組闘 2 ( ]とする見方が有力で、ある。 争が原 1 (6) 日述字自身の言葉によれば彼が引き 1 ¥した条件とは、 1.政治・経済犯の即時釈放、 2. 向こう 3 ヶ) = 1 1 1Hの食魁確保、 3 . 治安維持と建設卒業への不干渉、 4. 学生の訓練と-訂作の組織への不二子渉、 5 . 労働者による建設卒業への協力に不干渉、というものだった。森昭芳夫は総野府と呂述亨との 会見の i 禁様をこれとはかなり異なって揃いている。ともあれ朝鮮民族にとり、ここで言う f 建設卒 業 j が「建国卒業 j を意味していたことは明瞭である。 I r 呂述亨の演説 J( 1945"1 三8J = J16[ = 1 ) 、 事1 谷 ! m 不二編 5 朝鮮l l I 1 戦 後 資 料j 第 1巻、東京、日本 j 玄1 怒I J jI 迫研究所、 1 976"1 、 三 p . 5 .森E E I、 p . 7 0 . 将放がi に「建国同盟 J という秘密士山ド組織をつくり、内外の独立運 (7) 森 服 、 前 抱 、 p.85. 日連亨がf 動家と連絡し合いながら日本の敗北に舗えていたことも急迷にその支部が拡大した原悶の一つであ ろう。 (8) 長 1 1{ j i ' r八月十五日朝鮮共産話組織 K~i~ J.践報告,',占 J (1945"ド1 1月 H I ) 、 ゎ l i Jl f 9 洋 共j l j ' f l .注文 { ! I 二資料集3 ソウ l レ、翰林大型校アジア文化研究所、 1993年 、 ppふ 1 0 . 朴容永は朝鮮共産主義述動の開始以来、紛: J'};j~七 ';Vlf[(下労働党の研究(二)北総鮮労働党の結成 125 続して運動に従 ' Fした不 JH{の活動ぽを持ち、またモスクワへの f ' i i 学等で理論的な水準においても他 者 ー の ; f . !1日立を許さないものがあった。 (9) 例えば f~m 境外では 1":1 IiJî lJI をIj l 心に金1::1 成指導ドの偉大な抗日の軍事的行政j 、延安など各地の反 fi~7 活動 j という評価カ 1 451 j o1 2月に党 q : 1央を批判する l r1 V Jf 掠Ij : l央部斗 で記されている。著者不 J 主義斗 封ち 宗派 批列(党中央部の宗派主義に対する批判)J ( 1945年 1 2)'Jl、前掲滞日[¥下共産拡文 . : 1資料集jp . 2 9 . もちろん逆に北朝鮮地域から南朝鮮地域にある共産党組織に干渉し、入手を勝手 1 ' に行うといった ' J J慨も報告されている。般原人民政治製校立任者 実I I L Ji:鏑「抗静手 l : J( 1945年 12月 ) 、 I I i J上書、 p.53 ( l0 )f 反お派斗1 J Nち 19451 1月5: 1 1 0 ド1 控 名 ( 反 対 派 に 対 す る 声 明 書 )J 晩 、 ' j ' : 放 日 ( 11 )この版、米軍機がJI~米してその旨を記したビラを K7;ぞから散布した。森!日、 flÎj 払jt一号、 p.266. (2)'I; i J l 寺 の E Iq l報;の記事を引用して f 党再建史を再建縦続とだけ記述し、折、;ぷ永で、始まりキト;長永 で終了したのはセクト主義の表現j だと批判された。 前払Jf 挺",央部会j 宗派主義付1 i 制作 : ! H l 明記文1' 1 こ資料集 前兆JD t M電 批 判 j、 p.31 . (3)キト芯永 f 現情勢とわれらの任務 J (19451 : r9FJ201])、 t 1 j l谷 、 前 兆 、 pp.14-26. このテーゼが米 二陣後に再発表された点も考慮する必要がある。 恨の j ( 1 4 ) j主j'関東、μ也i成に上 I~~ した米 fp: は、そこに f}H ;.iif上の (de f a c t o ) 独立 J を見出した。 E Grant.Meade, Amedcan Mj J jt ary Gov θrnm θn tI n Korea (NewYork K i n g ' s Crown Press,Columbia . 5 3 . U n i v e r s i t y,1951) p ラ ( 15 )これについては主!日1': ) tを 参 照 さ れ た い 。 森 白 「 枠 制 反 共 主 義 o l Q !金 主 力 形 成 過 程 刊 ユ 1 ;1'1際政治史的起源斗 闘を 研究一 諸特徴一(韓国&共主義イデオロギー形成過程誌に i 諒する研究ーその I m l 際 政治史的起源と諸特徴一)J 劉斗 幽際政治(韓間と国際政治) ' 1 i5巻 ! A : }2-~} [通巻 1 0; 子 〕 、 (ソウ l レ 、 1989 年 12F J ) 、 p p.182-183. ( 16 )米惇政は 45' r ] e1 O P J5E I、i ' 序回民主党の有力な人士を「米 " 1 1政長顧問会議J のメンバーとして任命し た。森!日、J)i i 掲首、 p .293. そもそも米 " 1 1は上限前から [ : 1本市の流す反共主義的なラジオ放送を通じ heKoreaη Warてソ述に対する持戒心を抱いていたという。 B.Cumings, The OrIgIns oft UberatIon andt h eEmergenceofSeparateRegImes 1945-1947 … ( P r i n c e t o n,NewJersey ) , pp.127-128. PrincetonU n i v e r s i t yPress 1981 う ( ]7 )神谷、前:r1i l 、 pp.27-28. 朝 鮮 共 産 挺 不 安 南 道 委 員 y u [f i j 引鮮共産?去三1':南道第一次代表大合報告 F12月 25[ 1 ) 、 l 船長Jf 朝鮮共産拡文f! : 1資料集 演 説 J(19451 p.65 ( 18 )これはモロトフ宛に送られた報告古の写本で、 1945主 ド1 2 ) j25日付でロジョブスキー河志 (T0 B- ap羽 rny n030BCKOMY C.A.) 宛にソ述赤京総政治局長名義で送られたものによる。 C刀 PABKA, I JO K刀 A, I J 0 刀 OflJ 1TJ 1 l . . fE C K OJ 1 刀 O刀 O)KEHJ 1E B CEBEPHOf J K O P E E (調査報告吉 北朝鮮における政治'Ii i ' 勢 ) , p . 3 . 以下、いわゆる 『ロシア政府‘文芸むの再引用の│擦には邦訳名を掲げる。 ( 1 9 )1946年 7月末頃に書かれた執筆者不明のこの資料には全体のタイトルがないので、その記述部分の ある第 2 京につけられた小タイトルを:j:1i l げる。 2 . n o刀 UTUqeCKUe 。 σmeC TB eH H bIe 0 p raH U 3 aL( U U napTUU U C eB ep H 0 f f K 0 p eU U七朝!r.~(:の 政党と社会出体)、 p . 9 2 . ( 2 0 )“五道抵員及熱誠者{ J 結合大合合議録"、 9 r J13日、治 5[L潟地I 緩委員合、 f 岳会 路線(正しい路線)J、 J 、金雨被・李底納・ j ! U t . 洪 九 編 羽 現 代 史 資 料i 笠間 1 1 (1945~1948) 、ソ 民衆新聞社出版部縛Fl 126 出 森 ウル、 ト 子 向 ~;J. トルベゲ、 pp.460-474 ( 2 1 )呉 球 受 は 「 初 鮮 共 成 主 義 迎 動 の 著 名 で 功 績 あ る 人 : L J だと詳r l 日 i された。前:j: R JI ~t 朝鮮の政党と社会 同体 Jp.91 . ( 2 2 )これについては、本研究(六) WiJ~七朝鮮労働党の合党、を参照されたい。 ( 2 3 )共産主義勢力からも「政治思出方閣で、見れば、平壌は従米、キリスト教文化が最も普及した地市 j だと評価されていた。ドド峻 TIT~\~\ 第一次代表大合 )1民序 J (1945"F1 2 ) ] )、主首位j 片 手J f 的ほ文{午資料 p.45. t f.雪野縮i ( 2 4 ),rl 日成将軍讃鴎特 J l i t : ♀e.]E] 太陽(我らの太陽)不壊、北朝鮮懇術指抑制説、 1946"F. RealGroup242,ShippingAdviceNo.2012,BoxNo.1,ItemNO.l00. 認されたい。手 1 1 1 1 1春樹「ソ述の朝鮮政策一一九四五年十一月 ( 2 5 )この詳紛!な分析は次を参 j jごjJ 咋1: 会科学研究j 第 33 巻第 6~ヲ(東京、 一九四六年三 1982{料、 pp.56-66. ( 2 6 )筆 者 が 1998年 8月 1 4 1 1に北朝鮮から中際l へ新義州を経 I t lして旅行した際、 1 I1 報1 1 m岐を流れる I J ¥ [ J 緑 江 の遊覧請けで、船上からでも故郷をー討見ょうと梁請けした新義州出身の斡 I f 1 1人 旅 行 容 と 避 迎 し た 。 そ の ' 11 で 新 義 州 事 件 を 経 験 し た び と り は 、 ソ 述j p :が学生たちを後ろ手に紳った上、背後から民高1 1を銃で j l1準ずるのを見たと誌言した。安全 i 二の.E m l l lから彼は、 l 校名を希恕したが、仁川 I l iの 自 宅 投 j Y rを i ! ? き記した。 ( 2 7 )干1 1 1 1 1、 r g i H 討論文、 J f : J会科学研究1 .1 : f J33巻 第 4乃 、 pp.144 聞は 6 . ( 2 8 )金 1 1成 f 北 部; i 則前完工作斗 錯誤斗 i t V (話j Io J l 主1" 5 ]4-i i Q J J t北部!(¥刊行t iJ r T :央 第 三 次 擁 大 執 行 委 員 iう 報告…(北部~jiQ打!.(íõ 工作の錯誤と欠点について一関鮮共 J1i~ ']ft北朝鮮分j中11 !f-1: 第三次拡大執行委 伶斗λ 員会で報告一) E ] 政治路線及常事業総*!~f 斗 決定(党の政治路線および党事業総結と決定) 託 . J (一)、平壌、正路干上出版部、 1946"同月、 p p . 3 8 . 討議接文京 RealGroup 242,Shipping t e mNO.137. AdviceNo.2013,BoxNo.l,1 j i j掲「調査報告書 ( 2 9 )f 北朝鮮における政治'情勢 Jp . 4 . 1 : : 1 成 、 f jIj掲報告、法文献集(一)、 p . 9 . ( 3 0 )金 J ( l945{FI2JJ27rl)、神谷、前掲示!?、 p.250. ( 3 1 )決定の邦訳文は、「米英ソ三三│五│モスクワ協定(絞粋 ) p . c i t .,pp.l0ト 117, 215-227. ( 3 2 ) カミングスは信託統治紛争の詳細!な研究を行っている。 Cumings,o (33) 五道行政局は単なる行政機関に過ぎなかったが、北 íWlf(\~下全域を管較する 10lfú からなる組織体系を儲 えていた。すなわち教育、 司法、民林、保安、交通、財政、通信、 i Yfi業、保健の終局である。 ? 効 角 山 j 口 r L 、古 前 白J 局 芸? i 、p .194. (34) 浮正 jJg南北朝鮮キリスト敦史論3 東京、 j i H 封印司君主報告書 ( 3 5 )f 11 本~;l;努教 [JIIH Il反応、 1982 年、 pp.187 194. 北朝鮮における政治 情勢 Jp p.与 10 (36) 金日成 II~I 前朝鮮政治形態斗 2 北朝鮮臨時人民委員合会J 組織問題外1 1 誠司 報告 1 9 4 6 " 1 ' : 2月 81 1,北朝鮮!臨 H 寺人民委員??叫刈一 ( E Ir ! ' l iの朝鮮政治形態と北朝鮮 i 臨時人民委員会の組織問題に関す る報告 召 1946年 2FJ8目、北朝鮮臨時人民委員会結成大会で一 ) J 鮮民主主義人民共和閥樹立斗 (樹立の道 ) ) 1 平壌、北朝鮮人民委員会宣伝部、 194711 :、 p.8 地改取に結子、間 " 1 :6P J2411には労働法 ( 3 7 )まず土地改革についての法令が同年 3月 5日に発布されて L ]30[ 1、 男 女 平 等 権 に つ い て の 法 令 が 1 1 ¥され、何年 8月 101iになる 令が発布された。紛れ、て同年 7J ← と 皮 菜 、 交 通 、 連l i 治 、 j 昌信、銀行者;の国有化法令が金 1 1成 に よ り ラ ジ オ 放 送 さ れ た 。 ソ 迎 J [ Iから日 本 の 財 産 が 移 設 さ れ た の は 、 ず っ と 遅 れ て 同 年 10月 301 :1 だった。「日本隣家所有対百 工場、食 南北朝鮮労働党ののsE ' (二)北朝鮮労働党の結成 業所、水力設屯所、銀行 朝鮮駐屯 実 7 ]叫 封象吾会 J 詩情司令部代表者号斗 蘇f 127 北 ' i VJ f f f ff:臨時人民委員合外i 移譲さトァ]i二 苦 北 決定 ; I } (1~14ç 出家の所有だった工場、:企業所、水力発屯所、 銀行およびその他の対象を北朝 f[l~ 臨時人民委員会に移譲することとした北朝鮮駐屯ソ述取司令部代 表:者ーたちの決定書)J1946年 10)]301 ::1、闘土統一説調査研究室?蘇f J 第ヰ 1980-; ソウル、 1987年 1 1FJ 、 ( 3 8 )金 1成 北韓ヰEj It*J 係 -1945~ pp.55~56. rF l l i i i R i内 情 勢 斗 岱I 偏見:業J 刊 闘を 決 定 一 (r = 1 1 r'!Îj の党内情勢と当剖の課業 j H 1合斗! λ f 決定者一初共北朝椛分}訪中央第問次 i g ; i大執行委 に I~I する決定書…朝鮮共産党北朝鮮分局第四次 拡大執行委員会で決定一 ) J、法文!結集(一)、 p .20, 2 3 . i V J 鮮民主主義氏核戦線事務局編纂?朝鮮解放年報 ( 3 9 )' 1946年版、ソウル、文友印書館、 1946{f、 p1 4 6 . 彼らは再び q l l司へ反ってr!1s!内戦に参加し、後日の朝日作戦争で散も熟練した兵 Lとして先 ‘ i 却を切って市中Vlf l . ( 洋地域へ進 守きすることになる。 t (40) 早くも解放後の 4 ヶ JJIIIJ で半壊の rilit~ 部の工作過程で tín 次の q1lfil 共産党から我が党に転党した I j i J志たちの投 ' i i f l jが大きかった J と 言 、l i f H li された。前掲 f 手渡 j l J ! 法第一次代表大合!@!序J 、前 f b lD j i } j f MJ~ Jlí/tl~it( 文子1: 資料集 p.39. ( 4 1 )朝鮮民主主義民核戦総事務局編纂、 I ' I H 封 書 、 p .146. r 沿海州市民政治局が作成した報告の写本で、作成日 1 1 1 ]カ1 4 6 ( 4 2 )この資料は北労党の結成に関してソ述'q " j ' :8) j2 1 1 1と記され、者名もある。 UK/BK口/6 (全ソ述邦共産党/中央委員会/ボルシェヴィキ)、 TOsapl 1 wy CYCJ 10BY M.A. (スースロフ同志宛)、 B.CA口O: > KHI 1KOB (サボジ s .l.以下、この t 1 1 1 を「スースロフ資料 j として引用する。 ュニコフ)、 p ( 4 3 )前兆Jr 北朝鮮の政党と社会間体 j 、p .105. 1幸f H 19 4 6 " j ' -3J J22、 23110 ( 4 4 )清手放 1 ( 4 5 ) I~:j 峻石市山下 1945-1950 革命史への mE 言… J 東京、三一吉房、 1972"下、 p.122. こ f } ( ' i'J';党員として当時の朝鮮で運動に実地で、携わり、朴;ぷ永に対し非 'n~ に批判的な立場をとったとこ ろから、その記述の信越性は概めて i k iい 。 , ( 4 6 )前払Jr スースロフ資料 J、 p p .ト 10 初f ( . c ym Uの資料としては次があるが、ソ述懐の資料と比較.x > t な l J すると f f l溶性に著しく欠けるところがある。金柱絃「北朝鮮努動?主将 誕生(北村l f ( c j:労働党の誕生)J 創刊斗 ( S I Z壊 、 1946年 10月)に所説。 ( 4 7 )北労党創立大会の経緯は、次の資料による。 f 北朝鮮発動謀長目立大曾議録 J ~和鮮持illb 熊大合資料 U~jj (ー)、ソウル、 1 m土統一 1 0 / 6 、 1980年 、 pp.11-85. H U : 、 pp81-82. どうしても個人が特定で、きない委員については、朝鮮名を奇訳した。これらの ( 4 8 )I 目 。 、 の特定作業は、今後の研'先諜題とした L ( 4 9 )j f i L [ 二 出 、 pp.25-26,3 3 . 司ヒ在、 pp.58-59,6 3 . ( 5 0 )1