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電子的コミュニケーション時代の“情報”
電子的コミュニケーション時代の“情報”概念 中西昌武 1.経済的視点による情報の分類 『情報の経済理論』の中で、野口悠紀雄は、情報は財や効用などと同じ無定義概念であるから 情報の考察は次のような手順をとらざるを得ない、と述べている[1] 。 I .考察の対象となる経済体系において“情報”なるものが存在することを確認する。 II.“情報”がいかなる性質をもつか、他の要素との間にいかなる関係を持つかを明確にする。 III.情報を含んだ経済体系の分析に進み、“情報”がその体系でいかなる役割を果たすかを明 らかにする。 野口は I の作業としてフォン・ノイマンの自己増殖機械論をよりどころに「複製できるもの が情報である」という最広義の定義を立て、「経済的考察の対象となる情報」すなわち「有用な 情報であって、その利用のために資源や労働力の特別の投入が必要なもの」について以下のよう な便宜的分類を試みた。 (例) (分類) 学問的理論、技術、 ノウ・ハウ,How-to的 知識,生活の知恵 プログラム情報 (体系的"知識") Shannonの情報 (不確実性を 減らす) ある金属の未知の 性質の認識、 πの100桁目の算出 "発見" 1次的データ情報 外部的事実に 関する情報 経済的考察 の対象とな る情報 データ情報 (断片的"情報") 明日の天気予報 予見的 知識 McDonough → の情報 市場情報 商品の需要や供 給に関する情報 ゴシップ情報* ある有名女優の 経歴 2次的データ情報 社会の他のメンバーの 行動についての情報 サービス財的情報* (不確実性を減らさない) 音楽,小説,絵画,映画 (注) *は消費財的情報 その他は資本財的情報 図−1 情報の分類(野口[2] より転載) 経済的考察の対象とする以上、それらの情報は、価値があり、利用のために何らかの人間的サー ビスが必要とされるものに限定される。それ以外の情報については野口は考察の対象から除外す る。 Shannonが“情報量”として定量的に示した“情報”は、不確実性を減らす機能を持つ情報で ある。そのもっとも端的なものは天気予報や数学的定理のようなものであろう。これらの情報の 場合、同一内容の情報の反復は無価値である。これに対して、音楽や絵画などのような情報は、 繰り返し味わえる機能を持っており、同一内容の情報の反復的消費にも価値がある。野口は、前 者を“Shannonの情報”、後者を“サービス財的情報”と呼ぶ。 次に野口は、不確実性を減らす情報を、“プログラム情報”と“データ情報”とに分類する。 前者は、さまざまな問題を解くための方法論や理論のたぐいであり、後者は、そのような体系性 を持たない断片的なものである。 データ情報は、さらに、経済活動の与件となる外部的事実に関する“1次的データ情報”と、 与件ではないが他者とのコミュニケーション上、知っておくと何かと都合がよい“2次的データ 情報”に分類される。 1次的データ情報は、さらに、存在が認識されていなかった事柄の“発見”と、将来の状況に ついての確率的判断をより正確にするような“与件的知識”に分けられる。 2次的データ情報は、意思決定などの手段として用いられる“市場情報”と、情報の消費 (「知ること」それ自体)に直接的な価値が見出される“ゴシップ情報”に分けられる。 ゴシップ情報とサービス財的情報は、いずれもその消費量がそのまま直接個人の効用になるよ うな情報である。そこでこれらを“消費財的情報”と呼ぶ。両者の違いは、前者が同一情報の反 復に価値を持たないのに対し、後者についてはそれに価値があることである。そして情報の消費 それ自体に直接的価値があるのは消費財的情報のみであり、それ以外の情報は、意思決定や生産 に用いることではじめて価値が生ずる“資本財的情報”である、としている。 野口はまた、情報を「特定の状況における価値が評価されたデータ」とするMcDonoughの概念 は、「データ情報のうち、ゴシップ情報を除いたもの」に対応するとしている。 これらの便宜的分類を行った上で野口は、実際には画然と区別し得ない情報もあると指摘する。 例えば、映画や小説などのサービス財的情報の場合、ゴシップ情報的な要素が混在しているため に、2度目以降の鑑賞は最初の鑑賞より感興が薄くなる。また、個々の断片的な「発見」が蓄積 され体系的に秩序づけられるとやがて理論などのプログラム情報になるが、どこにその境界があ るかは明確に定めがたい。 野口は、経済的行為との関係において情報を先駆的に分類した。本稿では、こうした分類が、 電子的コミュニケーションの時代においてもなお有効かどうかを、電子会議室・電子メール・ホー ムページの3つのコミュニケーション形態を取り上げて検討する。 2.電子時代のコミュニケーション わが国において、パソコン通信やインターネットを利用する人口は、正確なデータはどこにも ないが800万人ともそれ以上とも言われている。現に、大手パソコン通信ベンダーには毎月数 万人が入会し続け、また毎月100社ずつインターネット・プロバイダが増えている。世はまさ に電子的コミュニケーションの時代を迎えたところである。 これらの電子的コミュニケーション媒体の利用者は、電子メール・電子掲示板・電子会議室・ チャット(リアルタイム会議)・データライブラリ・オンライン広告・オンラインショッピング・ チケット購入・データベース検索などの機能を、それぞれのニーズに合わせて活用している。ま たこれらのシステムを利用するためには、サービスを供給する会社が設置するバックボーン・デー タ通信ネットワークのアクセスポイントに電話をかけなければならないが、現在ではそれぞれの 供給会社のアクセスポイント数が充実し、全国どこからでも比較的低廉でこれらのサービスが受 けられるようになっている。 2.1 電子会議室のコミュニケーション 電子会議室は、根強い人気を保っているサービスの一つである。電子会議室は、特定テーマに ついて参加者が発言を書きつないで行く議論の場で、議論内容はすべて参加者が自由に閲覧する ことができる。大手のパソコン通信ネットワークになると、公式に用意された数百のテーマ・ブ ロック(「フォーラム」「SYG」などと呼ばれる)が、それぞれ10∼20室ほどのテーマ別 会議室を設ける階層的構成となり、会議室数は合計で数千にもなる。また会員が要望すれば会員 限定の会議室を臨時に設営することも可能であり、およそ人が関心を持ちそうなあらゆるテーマ に対する受け皿が存在するといっても過言ではない。 これだけの電子会議室数になると、電子的コミュニケーションを開始したばかりの初心者は、 自分の欲求を満足させてくれる会議室がどこにあるか見つけにくくなる。また操作方法や発言ルー ルなど実際の利用面でも躓きやすい。通信ベンダーは、操作方法の練習ができる「部屋」を用意 したり、電子メールやフリーダイアル電話で質問できる窓口を設けることで、初心者への対応を 図っている。しかし、それ以上に強力に機能しているのが電子会議室の常連メンバーによる初心 者へのサポートである。彼らは、“困っている人たち”を見かけると、「その話題でしたら、○ ○の会議室で扱っていますよ」「その場合は、○○のコマンドを使うとうまくいきますよ」など といった具合に嬉々として奉仕の精神を発揮するのである。 電子会議室にアクティブに書き込む人間の数は常に数十名/会議室だが、書き込みせず閲覧だ けする人間(ROM:Read Only Member)の数は数千名/会議室になるといわれている。多くの ROMが見ているという意識があるうちは、書き込みに勇気がいるようだが、コメントを付けあっ ているうちに、ROMの存在が意識から消え、あたかも対面的な話し合いをしているかのような 印象を持つようになる。これは書き込む人間の数がそれほど多くないことによる。 また電子会議室には「議長」「ボードリーダー」などと呼ばれる人間がおかれる。彼らは発言 の交通整理の他、雰囲気作りや秩序維持に重要な役割を果たしている。 電子会議室に書き込まれた内容は、会社の会議と違って「すべて記録としてデータベースに残 る」。比較的アクティブな会議室では毎日20程度の発言があるが、これらの記録内容(過去ロ グ)は、500∼1000発言ごとにまとめてデータベース・ライブラリに登録される。過去ロ グには関心を同じくする者同士のエッセンシャルな議論が満載されているので、その分野の人間 にとっての情報の宝庫となる。従って、過去ログは、初めてこの会議室を訪れた者が会議室の様 子を知るためにも閲覧するが、その分野のホットな話題や新しい知識、技術動向などを吸収する ために閲覧する方がむしろ多いと思われる。 多くの電子会議室では、発言者の同定にハンドル名(愛称のこと)を用い、発言者の実名を伏 せたままコミュニケーションを行うことができる。これは実名が知られることによる社会的不利 益の防止と、書き込みへの心理的抵抗の軽減が狙いである。 電子会議室への書き込みは、いつでも自由である。またROMのまま終わっても構わない。書 く書かないは常に自由である。しかし書き込み頻度の極端な悪化は、電子会議室の存亡の危機と なる。新しい書き込みが続くからROMはその会議室に立ち寄り続けるのであり、書き込みが途 絶えればROMも立ち寄らなくなる。ROMは新しい書き手の予備軍でもあるから、ROMの数 が少なくなると、新しい書き手もそれだけ生まれにくくなる。つまり、書き込み不足の悪循環で ある。書き込み低下の理由は、 (1)その会議室のテーマそのものが、人々の関心を呼ばなくなった(会議室の陳腐化) (2)その会議室で情報発信していた強力メンバーが、立ち寄らなくなった(書き手不足) (3)メンバー同士の言い争いなどで会議室の雰囲気が悪くなってしまった(モラール悪化) など幾つか考えられるが、いずれも会議室の急速な魅力低下が問題である。この場合は、会議室 の魅力を向上させる話題を発掘したり、魅力的な人物を「連れてくる」などのテコ入れが行われ る。それでも会議室の魅力が向上しない場合は、会議室のリストラとなる。 特定のテーマに関する発言がヒートして、同じ会議室で扱う別テーマの発言が、ヒートした発 言の洪水に押し流されてしまうことがある。会議室がヒートし、一日の発言数が30∼40にな ると、ほんの数日アクセスしないだけで未読発言が大量に溜まり、お目当ての発言が見つけにく くなるのである。このような場合、せっかく発言しても数日のうちに「過去ログ化」されてしま うため、しだいに発言意欲を失うようになる。また読む方も、閲覧意欲を失ってしまい、そのう ちROMもしなくなる。このような場合は、ヒートしたテーマを扱う会議室を新たに設けること で、発言数の適正化を図る場合が多い。場合によってはテーマ・ブロック内の会議室が満室にな り、テーマ・ブロックを新設することもある。これらの措置には、会議室利用者の権利保護に関 する電子会議室独特の倫理規範が働いている。 このように、電子会議室は、アクセスする利用者も会議室も新陳代謝を繰り返しつつ全体とし て成長し続けている。 利用者の行動に少し目を向けてみよう。利用者の中には、自分の欲求を満たしてくれる会議室 を求めて会議室を渡り歩く者もいれば、機会あるごとに自分が気に入っている会議室への客引き をする者もいる。会議室の利用者をターゲットに電子メールで営業を企てる者もいれば、女性発 言者を見つけては軟派メールを送りつける者もいる。人の発言の揚げ足を取って喜んでいる者も いれば、それをたしなめる者もいる。女性であることに気づかれないように発言する者もいれば、 女性を装って発言する男性もいる(らしい)。 電子的コミュニケーションの世界では、人間社会の中でおこるすべてのことがおこりうる。発 言者が実名でなくハンドル名(愛称のこと)で同定される気楽さは、他者への容赦ない攻撃的発 言を誘発する危険もある。このような問題に対しては、議長らが中心となって会議室の秩序維持 に努めなければならない。 電子会議室の発言は、5∼10行程度が多いが、テーマによっては、100行以上の長文が発 言される場合もある。何がいいたいのかわからない散漫な内容の発言に対しては、要点をまとめ て発言するよう他の発言者からクレームが付くことが多い。また同じ内容の発言をあちこちの会 議室に書き込む冗長行為は「マルチポスト」といい、禁じている会議室が多い。マルチポストの 場合は、テーマ・ブロックの統括管理者(「SYSOP」「SYGOP」などと呼ばれる)によっ て強制的に発言が削除されることがある。 2.2 電子メールのコミュニケーション 電子メールは、デジタル通信による書簡送付であり、通常の文書から、マルチメディア・デー タ、ソフトウェア実行ファイルに至るまで、およそデジタル・データ化可能なものはすべて送る ことができる。送られたメールは、通信サービスの供給会社が保有するホスト・コンピュータの メール・ディレクトリもしくはメール・サーバに保存され、受け取りにはIDとパスワードの提 示が必要である。その意味で電子メールは私書箱と良く似ている。 <電話・ファックスと電子メールの違い > 電話・ファックスと電子メールの違いは、前者が、受取人の受信機(電話機・ファックス機) に直接送りつけるのに対し、後者は受取人がメール管理を委託するホスト・コンピュータに送り つける点である。これは以下のような違いを生む。 (1)電話・ファックスの場合は、受信機のある場所でしか、メッセージが受け取れない。 電子メールの場合は、メール保管場所にアクセスできれば、どこからでも受け取ることが できる。また一部の供給会社のサービスでは、パソコンがない場所からでも、電話をかけて 受信内容をホスト・コンピュータに読みあげさせることが可能である。 (2)電話・ファックスの場合は、呼び出しベルによって受信者の作業等が中断される。 電子メールの場合は、受信人が都合の良いときにメール保管場所に見に行けばよいので作 業が中断されない。 (3)電話・ファックスの場合は、相手の都合の良さそうな時を見計らって電話をかけなければ ならない。 電子メールの場合は、自分の都合の良いときに送信することができる。 (4)電話の場合は、リアルタイムな情報のやりとりが可能である。 電子メールの場合は、リアルタイムな情報のやりとりが行えない。 (5)電話の場合は、メッセージのやりとりは通常記録されない。 電子メールの場合は、メッセージのやりとりはすべて記録される。 (6)電話・ファックス(INSサービスの 蓄積交換型ファックスなどは除く)の場合は、同 じ内容のメッセージを同時に複数の相手に伝えることはできない。 電子メールの場合は、同じ内容のメッセージを同時に複数の相手に伝えることができる。 (7)一部の供給会社のサービスでは、電子メールの内容を、ホストコンピュータ経由で、相手 のファックス機に送信することが可能である。 <通常の郵便と電子メールとの違い> 通常の郵便と電子メールとの違いも見ておこう。 (1)郵便の場合は、投函してから到着するまで日数がかかる。海外郵便になるとさらにかかる。 電子メールの場合は、国内・海外を問わず、送信と同時に到着する。 (2)郵便の場合は、投函するには、ポストのあるところまで出かけなければならない。 電子メールの場合は、パソコンから電話線を通じて直接送信できる。 (3)郵便書簡の場合は、紙にしたためた文書を送付する。 電子メールの場合は、デジタル・データを送信する。 (4)郵便書簡の場合は、きめこまかい文章作法が求められることが多い。 電子メールの場合は、迅速に出し、迅速に返事をすることの方が優先され、多少の誤字や 簡略化された様式などもある程度許容される。 こうしたことから、電子メールによるコミュニケーションには気楽さがある。実際、筆無精で 年賀状を除けば年に2∼3通しか手紙を出さない筆者でも、電子メールになると年間1000通 程度の受信と、500通程度の送信を苦もなく行っている。 電子メールの気楽さは、ときによっては、電話以上のものがある。児童相談所の専門家の話で は、電話によるカウンセリングすら困難なクライエントでも、電子メールを使うと来談が継続す ることがあるそうである。 2.3 ホームページのコミュニケーション ホームページは、マルチメディアの双方向通信機能が可能であり、構築が容易であることから、 企業・大学・行政機関のみならず個人もまた積極的にこれを情報発信に活用している。 企業の活用方法についてだが、Fortune 500企業の利用内訳[3] を見ると、93%の企業が自社 の製品やサービスの情報提供に利用している。注目すべきは、45%の企業が顧客の問い合わせ に応じるページを設け、26%の企業が何らかのオンラインビジネス用にページを割いているこ とであろう。 ホームページを活用した以下のような企業と消費者との新しいコミュニケーション・スタイル が現在確立しつつある。 (1)消費者にとっては指定された受付時間に“わざわざ”企業に電話をかけてクレームを伝え ることはわずらわしい。 ホームページの顧客窓口欄は、気が向いたときにメッセージを書き込める気楽さがある。 (2)クレーム電話の後も、企業と消費者のコミュニケーションが続くことは、まれである。 ホームページへの書き込みが契機となって、その後も企業と顧客が電子メールで有益な情報 交換を続ける場合は少なくない。 (3)ホームページの内容を見た顧客が、さらに情報を得ようとしてホームページの指定ボタン を押すと、ただちに企業からこの顧客にコールバック電話をするサービスを行っている企 業もある(このように電話機能とコンピュータ機能を融合させた利用をCTI : Computer Telephoni Integration と呼ぶ)。 (4)単なる広告的な情報だけでなく、顧客の欲する商品知識や技術知識、マーケット情報など をホームページに積極的に掲載している企業も多く、リサーチする顧客の利便となってい る。 (5)係争中の企業同士がホームページ上で互いの論点を示し合ったり、ベンチャー企業が自社 のコンセプトを示すなど、企業自身の主張をホームページから直接得ることも可能である。 (6)商用データベースを利用する場合は、公式に登録された有料情報しか入手できなかったが、 ホームページの場合は、全文検索可能な無料の検索エンジンが多数公開されており、利用 80.0 71.1 90.0 79.3 % 93.2 100.0 86.1 者はこれまで触れることのできなかった市井の情報を入手できるようになった。 10.0 7.1 20.0 11.2 15.3 29.9 目次 26.2 30.3 30.0 利用者登録 40.0 33.7 50.0 41.0 60.0 44.9 53.7 70.0 Q&Aコーナー CEO挨拶 他ページ欄 オンライン・ビジネス 雇用情報 ページ検索 顧客窓口 財務状況 新情報 感想欄 企業概要 製品・サービス 0.0 図−2 Fortune 500 企業のホームページ利用の内訳 3.経済的行為としての電子的コミュニケーションと“情報”概念 電子的コミュニケーションを利用する者は、利用者の生活時間や就業時間の一部を切り取って これに投入している。アクセスそのものには大した時間はかからないが、メッセージの読み書き にはかなりの時間が投入されるのである。また電話料金、通信アクセス料金、通信機器購入費な どのコストも発生する。このような経済的行為である電子的コミュニケーションを支える「情報 としての魅力」はどこにあるのだろうか。 電子会議室・電子メール・ホームページの3つのコミュニケーション方式でやりとりされる情 報の内容そのものは、従来型のコミュニケーションと特別違うものはない。電子メールで送信さ れるデジタル・データのなかには、ソフトウェアの実行ファイルのように事物的なものがある。 しかし、ここで送られるものは“情報”ではなく“データ”である。 電子会議室では、自分の意見や疑問を会議室に書き込むと、直ちに誰でもコメントが付けられ る自由な雰囲気づくりが維持されている。書き込みがあった時点で分からないことがあれば、そ のうち誰かがそれについて調べた結果を報告する。また小耳に挟んだ情報や、役立ちそうなエピ ソードが、さりげなく書き込まれ、それがきっかけとなってエッセンシャルな議論へと発展する こともある。そのような衆知を集める空間としての機能が電子会議室にはある。「繰り返し読み 味わえる」サービス財的情報として働く発言内容もある。また電子会議室が参加者に自己表現の 機会を提供していることも明らかである。 だが電子会議室を愛好する者は、電子会議室で自己表現したり電子会議室から情報がもらえる というそれだけの理由で電子会議室を利用しているのではない。電子会議室のメンバーとして話 題が共有できる“結合感”もまたROMを含む愛好者の大きな魅力となっているのである。その ことは電子会議室の盛衰の様子からもよくわかる。 電子メールや、ホームページ利用のコミュニケーションにおいても、これと同様の機能が認め られる。電子メールの受信確認には「今日はメールが来ているかな?」という気持ちが伴うが、 郵便受けを開けるときそのような気持ちが生じることはあまりない(正月、受験、ラブレターは 別)。慣習化した電子メールは、外界とをつなぐ情報端末である。またインターネットのネット・ サーフィン(ホームページの渡り歩き)は、目的も通り道も決めていないいつもの散策といった 趣になる。そして楽しいホームページを見つけたら、もう一度そこに行けるように登録しておく のである。 このように見てくると、電子的コミュニケーションには、野口が指摘した情報とは異なる性質 の情報がある。それは外部との縦横なコミュニケーションを可能とする情報空間に自分が結合し ているという感触についての情報である。電子的コミュニケーションという経済的行為を動機づ けているものは「そこに結合し続けていれば必ず何か良いことに出会う」という価値観である。 アクセスする度に良いことがあるわけではないが、アクセスしなければ良いことに出会うチャン スを失う。だからアクセスする。ただし利用するなら、できるだけ良いことに出会えそうな電子 的コミュニケーション媒体を利用したい。もし、いまアクセスしている媒体の魅力がなくなれば、 別の電子的コミュニケーション媒体に移ればよい。そのようにして今日も彼らはパソコンに向か うのである。 ではこの情報はどのような財であろうか。この情報は、クラブや自己啓発セミナー、あるいは ボランティア団体などの帰属意識と似た性質のものではないか。これらの活動においても、プロ グラム情報やゴシップ情報やサービス財的情報はたゆまず供給されているだろう。それらの情報 がなければ、活動内容は無味乾燥なものとなるだろう。だが参加者は、それだけを求めて参加し ているのではない。活動への参加度が増すほど手応えが強まる「自分はこの集団と結びついてい る」「この集団と一緒にいれば、きっと良いことがある」「自分はこの集団に寄与している」と いう“結合感”が、ここにはある。これを“結合感情報”と呼ぶことにしよう。 現象学的社会学の始祖シュッツが指摘した“関連性体系”(relevance system)は、おそらく このようなものである。彼は、「いうまでもなく、われわれはなにに利害関心を持つかを自由に 選択することができる。だが、この利害関心はひとたび設定されると、この選択された利害関心 に固有の関連性体系を決定する。われわれはこのように設定された関連性を維持し、その内部構 造で決定される構造を受容し、その要件に応じなければならない。にもかかわらず、少なくとも ある程度、われわれはそうした関連性を制御することが可能である。固有な関連性が依拠し、こ れの発生基盤となっている利害関心が自発的な選択で設定されるのであるから、いつでもこの利 害関心の焦点を転移し、固有の関連性を変容することができる」[4] と述べている。 “結合感情報”は、学問的知識や生活の知恵などのプログラム情報とは明確に区別されるべき、 “基層レベルの情報”である。これに対して、プログラム情報やデータ情報やサービス財的情報 は“表層レベルの情報”である。 メディア論で独自の理論を構築する中野収は、「媒体接触は、何かを知りたいという理由では なく、むしろ人々が現にいる生活空間・状況に動機づけられている」[5] と指摘する。われわれは、 媒体に快く接触したいだけなのだ。一度快さを味わった媒体は、反復して味わううちに、記憶に とどめられ、関連性体系として機能しはじめる。我々は、何かの理由で“結合感”が切れるまで は、この媒体から引き揚げることはない。快い接触である限り経済的投資は続く。 電子的コミュニケーション媒体の供給者がもっとも恐れるものは、利用者が接触しなくなるこ とである。それを食い止めるためには、プログラム情報やデータ情報やサービス財的情報といっ た表層レベルの情報の内容を充実させるだけでは力不足である。利用者の基層レベルの“結合感” を保証する充実した媒体接触環境の整備が必要である。利用者は、情報内容と媒体結合感を二つ ながら求めているからである。 情報内容による従来の分類について、中野は、今後は受信者−記号の関係の自立性に着目した 相互作用=意味作用の新しい類型化が必要であると主張する[6] 。確かに、情報内容の分類に照ら して電子的コミュニケーションを解析しようとしても、それだけからこの経済的行為固有の問題 を浮き彫りにすることは難しい。今後は、媒体接触を動機づけているものが何であるかを、情報 内容(表層レベル)と媒体結合感(基層レベル)との相互関連から解析して行くアプローチが求 められよう。前者については、野口の分類は、今なお有効である。後者については、シュッツや 中野などの視点を導入した枠組み作りが必要である。電子的コミュニケーションの様々な様態は、 野口が示した手順 I ∼IIIの再試行を要請しているのである。 注 [1] 野口悠紀雄『情報の経済理論』東洋経済新報社, 1974年, P.15. [2] 野口, 同書, P.23. C. Liu, K. P. Arnett, L. M. Capella, R.C. Beatty, ‘Web sites of the Fortune 500 companies: Facing customers through home pages’, Information Management, 31, 1997, pp.335-345. [3] [4] A. Schutz, Collected Papers II, Studies in Social Theory, edited and introduced by A. Brodersen, Martinus Nijhoff,1964. = 桜井厚訳『現象学的社会学の応用』お茶の水書房, 1980年, PP.56-57. [5] 中野収『現代人の情報行動』, 日本放送出版協会, 1980年, P.217. [6] 中野収, 同書, P.223.