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明治大学教養論集 通巻388号

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明治大学教養論集 通巻388号
明治大学教養論集 通巻388号
(2005●1) pp.31−67
シベールとアチス
ーF. Mauriacの異教性(IV)1)
中 島 公 子
『海への道』と『アチスの血』
二〇世紀カトリック作家の代表とも目されるこの作家の内なる異教性を探
るため,前三回に亘って考察の対象としてきた『アチスの血Le Sang
d ’A tys 1940』なるフランソワ・モーリヤックの詩は,その多くの部分を,
小説『海への道Les Chemins de la Mer 1939」中に,作中人物ピエール・
コスタドの創作として見出すことができる。
モーリヤックは1925年に発表された詩集『嵐Orages』のなかでこのシベー
ルとアチスの主題を扱った数編の詩を発表しているが,この詩集は当時さほ
ど注目を集めなかった。それというのが,当時この作家の小説家としての名
声は,詩人としてのそれをはるかに凌いでいたからである。モーリヤックは
1909年,24歳のとき,詩集『合掌Les Mαins 1’oin tes』によって文壇にデビュー
した。しかし第二詩集以後は小説に転じ,『癩者への接吻Le Baiser au
五⑳72砿』(1922)によって文壇での地歩を固めて以来,ぞくぞくと話題作
を世に問うていた。1925年といえば,代表作のひとつ,小説9作目にあた
る『愛の砂漠Le D6sert de l’Amour』が出た年である。もはや彼の小説家
としての名声は揺るぎないものになっていて,世の期待はもっぱら次なる小
説作品へと向けられ,詩人としての影は薄くなってしまっていたのである。
32 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
しかしモーリヤック自身は,決して詩作を諦めたわけではなかった。しか
もその詩への情熱はひとつの主題を見出していた。「シベールとアチス」の
主題である。
本年夏に刊行された最新の研究書《Mauriac et Gide−Lαrecherche du
Moi(モーリヤックとジイド 自我の追求)》2)のなかで著者のMalcolm
Scottは,この主題がモーリヤックの初期の小説やエッセイ作品に繰り返し
姿を現していることを指摘している:《ノburnal 4伽homme de trente ans
(三十歳の男の日記)》,《Le Chair et Le Sαng(肉と血)》,(〈Le/eudi Saint
(聖木曜日)》,そしてとりわけ第一次大戦で死んだ親友アンドレ・ラフォン
を讃える《LαVie et la Mort d’un Po2te(ある詩人の生と死)》。これらの作
品のなかで,シベールは大地すなわち大自然の象徴として,松をはじめとす
るマラガールやランドの特定化された自然の女王として,また肉をつかさど
る者として,霊の支配者キリストのライバルともなって青年たち(アチスた
ち)の前に巨大にして華麗な肉体を広げている。モーリヤック畢生のテーマ
肉と霊の相剋はシベールとアチスのドラマに凝縮されると言っても言いすぎ
ではない。
これを主題としてだけではなく,完成された長編詩の形に言語化したのが
《Le Sang d’A tys(アチスの血)》である。とすれば,後に再刊される
《Orages(嵐)》に補足収録される以前に,詩人モーリヤックが小説家モーリ
ヤックの手を借りてでも,なんとかこれを世に問いたかった気持も理解でき
よう。『海への道』はその舞台となったのである。
モーリヤック自身の解説によれば,『アチスの血』は1927年に着手され,
1938年に脱稿されたとのことであるが,翌1939年に『海への道』が刊行
されていることを思い合わせると,この詩と小説が同時進行の形で作られて
行ったことは明らかであり,内容の点でも相互に密接な関係にあるであろう
ことは疑えない。詩は小説の一部をなしているというだけでなく,そこに有
機的に組み込まれており,小説に描かれたドラマの本質を照らし出す役割を
シベールとアチス 33
も持たされている。
逆に小説の展開を追うことによって詩の持つ深い真実に触れることも不可
能ではない。両者は補い合ってひとつの世界を形作り,相互に言葉を投げ合っ
て,その世界の表層から深層にいたる理解の道筋を読者に示している。その
言葉を追って,詩から小説を,小説から詩を解読するのは,スリリングな快
感を伴う作業である。このことによって『海への道』は他のモーリヤック
作品にない魅力を付与されていると言うことができる。
今回の試みは,作者が求めるその作業によって『アチスの血』と『海への
道』双方の解読を行なうことである。そこに映し出されるモーリヤックの内
面世界と同時に,創作方法の秘密にも迫ろうとするのが,試みの目的である。
『海への道』について
解読の作業に移るまえに,簡単に『海への道』の解説をしておこう。
ガストン,ロベール,ピエールという三人兄弟がいるコスタド家と,ジュ
リアン,ローズ(女),ドニのやはり三兄弟がいるレヴォルー家とは,とも
にボルドーの名門家庭である。早く夫をなくして女手ひとつで三人の男児を
育ててきた女丈夫レオニー・コスタドと裕福な公証人オスカルの夫人である
リュシエンヌ・レヴォルーとはかつて女学校時代の同級生,医学生のロベー
リ セ
ルと華奢な令嬢ローズはほぼ公認の許婚同士,ピエールとドニは高等中学の
同級で親友の間柄であった。
オスカル・レヴォルーがガストン・コスタドの女に入れあげて破産に追い
込まれ,自殺することから,両家の運命は逆転する。家計を助けるため書店
の女店員となったローズへの同情から当初は結婚の意志を翻さなかったロベー
ルが,財産を売りつくして古ぼけた別荘に移り住んだレヴォルー家の一切を
自分の肩に負わされることに恐れを抱き,ローズを捨てる。
こうした兄や,オスカルの破産を予知するや取るものも取りあえずレヴォ
ルー家に駆けつけ,オスカルに預けてあったコスタド家の〈40万フラン〉
34 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
を,違法と知りつつリュシエンヌから返却させる旨の証書に彼女のサインを
強引に求めた母レオニーの行動を呪縛している,金がすべてのブルジョワ社
会の道徳的腐敗に反発して,ピエールは家を飛び出す。
大学入学資格試験に失敗したドニは,父の生前別荘番兼所有地の差配人で
あったカヴァイエスの娘イレーヌと一緒になり,カヴァイエスと協力して農
場経営でレヴォルー家を建て直す。しかしその間に,レヴォルー家ではリュ
シエンヌ,ジュリアンが次々と世を去り,コスタド家でも,エネルギーの塊
のようだったレオニーが死を迎え,彼らの世界に残ったのは普通以上の愛情
に結ばれたローズとドニの姉弟のみとなる。しかし赤ん坊の生れたドニ夫婦
に館を提供して同居生活にはいるとすぐローズは,生まれ育った我が家にも
う自分の居場所がなくなっていることに気づいて家を出て行く。これは二つ
の家族の崩壊の物語である。
しかし経済的状況の変化によって惹き起こされた外形的な家族崩壊がこの
小説の真の主題ではない。そこには彼らが「愛」と信じたものの無残な崩壊
が描かれる。稀に見るほど濃密な,純粋な,正当な感情であったはずの「愛」
が,その底に潜むもっと暗い,邪まな,罪深い情念に変貌して彼らの前に立
ち現れる様を,作者は成熟しきった手練の業で挟るように描写して行く。そ
こにあるものは,1928年の彼の信仰の危機といわれるものの発端を形作っ
た『キリスト者の苦悩Souffrαnces du Chretien』のなかでモーリヤックが
「愛は罪だ」という断定につづいていみじくも言った次の認識の具象化なの
である。
「しかし正当な愛情というものも存在する,とあなたは言うかもしれな
い。家族とか,友達とか。それは私にもよくわかる。だがこうした愛情
は愛ではない。そしてこれが愛に向かうや否や,他のいかなるものにも
まして罪深いことが起こる。すなわち近親相姦と同性愛が。」3)
シベールとアチス 35
『海への道』の内面的主題の一つはこの「疑わしき愛」の告発にある。
わが子アチスに恋し,ニンフのサンガリスと結ばれるアチスを罰し,去勢
して松の木に変える大地母神シベールの物語である『アチスの血』がここに
呼び出されるのも,健全と見えた二つの家庭の床下で「正当な愛情」が「情
欲」という罪深い泥檸に変わって土台を埋めていることを示すためなのであ
る。
しかし,この小説はただ「愛」の罪を告発することに終始するものではな
い。「愛」はその真の対象に向かうとき,人をして罪の世界を逃れ出ること
を可能にする。その有様,すなわち「脱出」を描くことにも,この小説の密
かな目的はあるのである。この小説のエピグラフにもなっている次の一節は,
のちに第二次大戦のさなか,ドイツ占領下のフランス国民に希望を与えるべ
く,ロンドンに作られた自由フランスのラヂオ放送局からシャルル・ド・ゴー
ルのメッセージに引用されて深夜放送されたことで,小説そのものを知らな
い人々にまで知られるようになったものである。出口の見えない泥沼のよう
な閉塞状況に風穴をあけ,人々を解放へと導く「希望」の息吹きを伝えて,
聞く者を静かに鼓舞する,力あるものと思われたからであろう。
「おおかたの人の一生は廃道であって何ものにも通じていない。だが他
の数人は幼くしてすでに,ある未知の海に赴きつつあることを知る。風
の苦さは早くも彼らを驚かせ,塩の味は早くもその唇にある ついに
最後の砂丘を越え,このはてしない情熱が砂と泡を彼らの頬に叩きつけ
るまで。あとはそこに呑みこまれるか,それともくびすを返して今来た
道をたどるかである。」4)
アチスにとっても,松の木に変身することはシベールからの脱出を意味し
た。「脱出」に魅せられる若者の眼差しの彼方にあるものを示すことは,『ア
チスの血』にとっても重要な課題だったはずである。
36 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
『アチスの血』の登場箇所
冒頭でふれたように,『アチスの血』はコスタド家の末息子ピエールの創
リ セ
作する詩として『海への道』に登場する。高等中学の哲学級でドニ・レヴォ
ルーと机を並べているピエールは,これを皮表紙のついた美しいイギリス・
ノート(間隔の狭い細罫の引かれたノート)に清書しているが,その前に推
敲を重ねた詩句はことごとく脳裏に叩き込まれているので,いつでも必要に
応じて譜んじることができる。彼以外にこの詩の存在と,実際に幾つかの詩
句をも知っているのは親友のドニとその姉ローズだけである。従って『アチ
スの血』は,ピエールのノート,ピエール自身,ドニ,ローズを通じてわれ
われ読者に紹介されることになる。
それでは上記のような詩の現れ方とともに,「アチスの血』が登場する箇
所を,翻訳,原文く<Les Chemins de la Mer)〉《Orαges》の三作品に亘って挙
げてみよう。
略号
CM :《Les Chemins de la Mer》
OC1=(EUVRES COMPLETES TOME V
ORニ《Orages》 OC2=(EUVRES COMPLETES TOME VI
「海」=『海への道』(中島公子訳)
著作集=春秋社版『モーリヤック著作集』4
1)ピエールのノートから
「海」著作fi p. 162
2)ピエールのノートから
「海」著作集p.162−163
3)ピエールのノートから
“彼は眠っている”
CM…OCI p. 19 0R…OC2 p.449
“羽虫の鈍い喩りで”
CM…OCI pp.19−20 0R…OC2 p.449
“私など,そも何であろう”
シベールとアチス 37
「海」著作集p.169−170
4)ピエール,ドニに向かって
「海」著作集p.191
5)ピエール,ドニに向かって
「海」著作集p. 192
6)ピエール,ドニに向かって
「海」著作集pp.212−213
7)ドニ,ひとりで
「海」著作集p.223
8)ピエール,ひとりで
「海」著作集p.253
9)ピェール,
ローズに向かって
「海」著作集p.255
10)ピエール,
ローズに向かって
CM…OCI p. 28 0R…OC2 p.449
“おまえの笑いが”
CM…OCI p.55 0R…OC2 p.447
“砂の線,砂丘の隆起”
CM…OCI p. 56 0R…OC2 p.447
“木々の梢は”
CM…OCI p.810R…OC2 p.455
“まだ眠っているひとよ”
CM…OCI pp.94−95 0R…OC2 p.448
“どこでもすばしこい流れに”
CM…OCI p。130 0R…OC2 p. 448
“きみのからだの上に”
CM…OCI p.133 0R…OC2 p. 452
“きみの行く手を切り拓く”
「海」著作集p。256
CM…OCI p. 134
OR…OC2 pp.451−452
11)ピエール,ひとりで
“そんなに脆く,そんなに強いおまえ”
「海」著作集p.305
CM…OCI pp.191−192
OR…OC2 pp.461−462
12)ドニ,ローズに向かって
「海」著作集pp.319−320
13)ローズ,ドニに向かって
「海」著作集p。320
14)ドニ,ローズに向かって
「海」著作集p.320
“星座と砕ける波”
CM…OCI p.210 0R…OC2 p.453
“おまえの瞳は荒れる大海”
CM…OCI p.2110R…OC2 p.452
“滅ぶべき,しかし無限の糧”
CM…OCI p.2110R…OC2 p.452
それでは以上の物語的推移に従って,詩句と小説が有機的接合を果たしつ
つ展開する有様を追い,両作品の解読を通じて,この詩の挿入が果たした役
割を考察することにしよう。
38 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
『アチスの血』の挿入を通じて見る『海への道』解読
1) “彼は眠っている” 「海」第二章
かつてのクラス・メートから,家族の財産を守る証書を無理やり奪って帰
宅したレオニー・コスタドは,それを隠し金庫にしまってから息子ピエール
の寝室にはいっていった。ピエールは読みかけの本をベッドの下に落として,
眠りこけていた。その枕元に皮表紙のついたイギリス・ノートが開いたまま
になっているのが母親の目にふれる。「シベール,眠るアチスを見て物思い
にふける」という見出しのあと,詩句はこう続いていた一
彼は眠っている。神々にも沈黙していただこう。
眠るアチスをめぐる世界を,一切消滅させるのだ。
眠りはおまえの体の関節を解きほぐした。
ほぐれひろがった四肢は大地に融けいり,
死んだふりして身をほどいたやさしい蛇たちのよう,
そしてシベールは体内の奥深くまでうち震える,
ほうげ
愛撫も犯行もない,混沌たるその放下のさまに。5)
これは完成された『アチスの血』のなかで「アチスの眠り(Sommeil
d’Atys)」と題される第4編の冒頭部分である。眠るアチスを見ている歌い
手はむろんシベールであるが,眠るピエールを見ているレオニーはまさにこ
の大地母神に重ね合わされている。作者はこの小説の最重要人物のひとりで
ある「脱出」の詩人ピエール・コスタドを,小説中まず「眠るアチス」に同
一化し,レオニーを「アチスを見るシベール」に合体させて読者に提示する。
それは,「うち震えるシベール」の詩句に映し出されている暗い情念がレオ
ニーのなかにも存在することを示しているのである。アチスに恋し,アチス
の眠りまでも支配しようとしているシベールの近親相姦的情念……レオニー
シベールとアチス 39
はこの反抗的な末息子に恋しているわけではないが,それでもやはりそれは,
レオニー自身それと気づかずにいる彼女の内奥の正当化し難い自我なのであ
る。自分の行為は私利私欲のためではない,すべて息子たちへの愛情のため,
母親としての義務をはたすためだと信じて,息子が嫌がる物欲の権化と化し,
息子の親友,娘の許婚の家族に取り返しのつかない精神的打撃を与えること
をためらわなかったこのやり手の寡婦は,その母性愛と混同された支配欲に
おいて大地母神と肩を並べている。だから,この詩句に接した彼女はいわれ
のない「苛立たしさ」に戸惑いながら,先を読み続けるのである。
2) “羽虫の鈍い喩りで” 「海」第二章
羽虫の鈍い捻りで眠りをおし包んでやれば,
鳴きあげる鶏の声がその静寂を貫く。
眠る人は垂れこめる曇天の重みを知らず,
燦雨を浴びてわたしから立ちのぼる匂いも,
西方から馳せ参じるあのざわめく欲望も,
葉むらにしぶくあの雨の涙も感じない。
夢の中に彼が迎え入れるニンフ,サンガリスは
眠らぬ水底の浅瀬をかき乱す。
夢みるごとに彼が迎え入れるサンガリスと較べれば,
も の
私など,そも何であろう,大洋に噛まれる無形の存在,
両腕の輪の中に抱かれることもできず,
悲しい潮が打ちあげるか黒い藻やきらめくくらげを
冠にいただく広い額の女王,私は?6)
ここにはあきらかにニンフ,サンガリスに嫉妬し,わが身の無力に嘆くシ
ベールの姿があるが,これを読んでレオニーは逆上するのである。「この陰
にこもった激情,美しいイギリス・ノートをずたずたに引き裂いてしまいた
40 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
いというこの恥ずかしい欲望はどこからレオニーを襲ったのであろう?」
どこから? レオニー自身以外のどこからでもあるまい。彼女みずから,
「広い額の女王」をおのれ自身と認めざるを得ないところからだ。彼女は息
子たちをこれほど愛しているのに,息子たちが愛しているのは彼女ではない。
とりわけ,次男のロベール,完全に母親の支配下にある優等生のロベールが
いまやローズ・レヴォルーという恋の対象を得て母親の手を逃れかかってい
ることについて,詩はまるであてこすりに近い表現を取っているではないか。
抑えがたい内面の暴力的な動きを封じこめるために,彼女は窓ガラスに額
を押し付けて冷やすほかなかった。その間に,ピエールが目をさまし,外出
中だったロベールも帰ってくる。彼はローズの来ない夜会に危機感を覚えて
レヴォルー家に廻り,すでに一家が父親の身の上を案じて別荘へ出発した後
であることを知って家にもどって来たのである。
公証人は倒産したが,おまえたちは何も失わずにすんだのだ,このわたし
の奮闘のお蔭で……ということを,なんとかして伝えようとする母親を息子
たちは裁判官のような冷たい目で睨み付ける。しかし言い争いになると,経
済力をその手に握られている若僧は,母親の敵ではなかった。詩なんかひね
くっても一文にもならない,と言われて席を蹴立ててピエールが出て行く。
同情から厄介者を背負い込むような真似はするな,と気弱な次男を励まして,
大地母神は息子のもとを去る。
しばらくして兄弟はまたピエールの寝室に集った。このときの会話は青年
たちが陥っていた閉塞状況を如実に表している。
「ママが正当だったことがぼくは悔しいんだ」とピエールは言う,「ぼくは
金が憎い。それに縛りつけられているから。出口はないよ。ぼくらは金が実
体である世界に生きているんだ。残されているのは,ただ……」
「何だ,それは」と兄が聞く。
「革命か,でなければ,神……」と弟が答える。
「出口のない」閉塞状況,それは彼らアチスたちがまだどこにもく海への
シベールとアチス 41
道〉を見出せずにいることを示している。
ここで兄の目は先に母親が読んだピエールの詩の上に落ちる。
したがって次の3)に出てくる詩句は,2)の末尾4行の繰り返しとなり,
親子の諄いの第二章はこの詩句とともに幕を下ろすのである。
3)“私など,そも何であろう”「海」第二章
も の
私など,そも何であろう,大洋に噛まれる無形の存在
両腕の輪の中に抱かれることもできず,
悲しい潮が打ち上げるか黒い藻やきらめくくらげを
冠にいただく広い額の女王,私は?7)
これを読むロベールの背中に弟がかじりついて,「ねえ,兄さん,あの人
を捨てたりはしないよね,まさか,ローズを」と言ったとき,彼は次のよう
に答えている 「どうすればいいんだ,おまえだって言ったじゃないか……
ぼくたちみんな縛られているんだって」。
先にピエールが言った束縛は,金が実体であるブルジョワ社会のそれであ
るが,ロベールのそれはあきらかに,彼の存在の基底を呪縛する「母」のこ
とである。モーリヤックの小説作品の多くがいわゆる「マザー・コンプレッ
クス」のもたらす悲劇を映し出していることは先にあげたScottの指摘を
侯たなくとも,一般に知られたことだが,このロベールは,母の方は必ずし
もこの秀才で眉目秀麗な,性格も温和な次男を買っていないのに(レオニー
の秘蔵息子は放蕩者の長男ガストンなのだ),おそらくそのために一層母の
愛情を求めて忠誠を尽くそうとする「マザ・コン」の一典型である。彼はの
ちにローズを捨てたあと,女性にまともな愛情を注ぐことのできない人間と
なってしまうが,そこには,シベールに去勢されるアチスの悲劇が投影され
ている。
こうして『アチスの血』の挿入は,物語の幕開けとともに近親相姦のテー
42 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
マをこの小説の根底に据えることに,みごとその役割を果たす。
4)“おまえの笑いが”「海」第五章
オスカル・レヴォルーの葬式から数日が過ぎた。病気と称して何もしない
長男ジュリアン(この家でも母の秘蔵っ子はこのろくでなしの長男だ)を家
に残して,事件の後始末や相続関係の山積する用事を片付けに,母親とロー
ズは,オスカルの忠実な僕だった公証人事務所の筆頭書記ランダンを連れて
リ セ
毎日ボルドーへ出て行く。次の学期から公立の高等中学に転校することになっ
た末息子のドニは思いがけない休暇をカヴァイエスの家でぼんやりと過ごし
ていた。そこヘピエールが訪ねてきて,母親の無礼を詫びる。相手の作りあ
げるイメージに合わせて演技をしなくてはならないのがうっとうしくて,ド
ニは話題を変えようと,「アチスはどこまで行ってるの?」と訊くのである。
ピエールの詩才をもっとも評価していたのは彼だったが,彼はこの詩人を愛
するよりはむしろ尊敬しており,相手が彼に抱くほどには友情を感じていな
かった。ドニという少年が愛していたのは姉のローズだけで,彼の愛の領域
には他のだれも入り込む余地がなかったのである。
ドニに赦された思いに加え,詩を話題にされたことにピエールは狂喜する。
「シベールの苦痛がぼくにはわかる。彼女は大きすぎる体をもてあまして
いるんだ。人間の抱擁の尺度に合わないんだよ。わかるかい?」と言って詩
の暗言雨を始める。「あるときシベールはアチスにこう言うんだ」
おまえの笑いが清水の中で,ほとばしるように湧き起こり,
私の腕がゆるやかに霧をかきわけると,
まなこを凝らすシベールの上におまえの顔は,
眼差しを持たぬ死んだ星々よりも輝いていた。
私のひそかな泉におまえの影は眠り,
息吹きは,土の味する清水にさざなみをたてた。
シベールとアチス 43
蟻の這う肉からこの私の肉へと繋がれ,
もはや私は草の髪をかきなでるアチスの
擦り剥けた手のほか感じるものもなかった。
海上に障り狂う私の苦痛の叫びは,
暗い岸辺に坐る者の目をも覚まさせたろう……
アチスよ,
おまえは小さな唇で私に火傷を負わせるが,
かいな
その体を抱き締める腕とて私にはなかった。8>
ここでは,小説の主題に呼応させるよりも,詩それ自体を紹介することに
主眼が置かれているように感じられる。この箇所が『アチスの血』の冒頭
「シベールの嘆き」の第一聯であることもそれを感じさせる要因である。大
地はシベールの肉体そのものであり,アチスはその上を駆け巡り,その上に
坐り,そこを流れる清水に身を投じ,生い茂る草を撫で,湧き上がるような
笑い声をたてるういういしい若者であること,彼は生きるものすべてを育む
大地の無償の愛以外に,シベールから受け取るものはないと信じきっている
無心な少年であること,そしてまさにそのことによって深く傷つくシベール
の嘆きをもって,詩はその特有の調べを奏で始める。
「とても説明が難しいけど……」と言いながら,ピエールはつづく詩句を
紹介しながら,その解説を進めて行く。
5) “砂の線,砂丘の隆起” 「海」第五章
「大地であるシベールにとっては,アチスもまた一つの世界なんだ……。
ギリシア人が神格化した元素や天体を人間の形に変えてみたように,シベー
ルも逆の動きで,熱愛する羊飼のなかに未知の土地を見ている……。この思
考する存在と天体,生身の体つまりあわれな死すべき肉体と,大地,土地の
起伏,山頂,谷底,森といったものに満ち満ちた大地との混同を,ぼくは表
現しようとしたんだ。」(「海」著作集p.192)
44 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
これはとりもなおさず『アチスの血』全体にわたる作者自身による注解と
いってもよい性質の言葉である。モーリヤックの言語を構造分析したジャン・
トゥーゾの《Planete Mauriac(惑星モーリヤック)》9)には,この作家の言
語的特徴のもっとも顕著なものとして,人間の内面と天体を含む自然の同一
化があげられ,詳細に論じられている。心も肉体も自然の形象を取って表現
され,それ自体ひとつの世界を形作るモーリヤック独特の「自然主義」は,
この作家の必然的な技法なのである。
それは,この小説家に付きまとう「罪の世界を描くカトリック作家」とい
うモノクロームな代名詞を大きく修正する要素と言ってもよいものである。
なぜなら肉体と自然の合一と混同,それはピエール・コスタドが言うとおり
ギリシア的な異教の世界だからである。小説よりも自由に言語を操ることの
できる詩において,この特徴は十分に発揮される。
詩集『嵐』はカトリック作家モーリヤックの異教性の証なのである。
砂の線,砂丘の隆起
泡と海藻の縁飾り一海……
浅黒いまぶたの上にはやさしい眉の筋
広い額の縁にはほの暗い森
それは両の瞳の火に照らされるおまえの顔。
瞳は私の夜の星,その二つの焔は,
おまえが眠れば別の宇宙に飛んで燃える。
アチスよ,私はすべてを一つ夢の中に溶かしこむ,
私を荒廃させる子よ,私を噛む大洋よ。1°)
しかしこれを聞いたドニの反応は,単に詩の技法に関するものではなかっ
た。ちょっと間をおいてから,彼はこう言ったのである 「うん,わかる
よ,アチスがシベールにとって一つの世界だってこと……」。
シベールとアチス 45
ことはふたたび内面の問題に立ち戻る。恋する対象が一つの世界であるこ
と……それはドニがまさに姉のローズに対して抱いている感情であった。そ
れと気づかぬままピエールは「一人のひとのまわりを一めぐりする(その人
のすべてを知り尽くすこと,の意)と言われていることね……」とドニの言
うことを承認する。「愛」が対象のすべてを知り尽くしたいという欲望でも
あることは,二人の少年の共通の認識であり,経験から彼らはそれを深く自
覚していたのである。
さて,ここに出てきた「対象のすべてを知りつくしたい愛」の性格は,次
の第四章に描かれる,死んだオスカル・レヴォルーと筆頭書記のランダンの
間にあった同性愛的関係(むろん表面に現れたものではない)および,ラン
ダンが「無償の愛」と信じたものの崩壊のドラマにも影を落としている。
ランダンはオスカルの残した書類を整理するうちに,忠実無比な彼の僕で
あった自分のことを,この圧制的な主人が生前どのように思っていたのかを,
その手記から知ることになる。それはランダン自身が思ってもみなかった彼
自身の悪魔的とも言える本質を暴露するものであった。
イ モ ン ド
手記のなかでオスカルはランダンのことを〈不浄の者〉と呼んでいた。こ
リ セ
のふたりも高等中学以来の友人であり,ランダンは12歳のころから片時も
離れずオスカルのぞぱにいた。「彼の力はいつでも同席しているという点に
あったと言える」とオスカルは書いていた 「ほかの人なら己自身に向かっ
て告白すること,街頭での独り言,騒音にまぎれて自分自身に洩らす言葉,
他人の耳には届かない距離でのないしょ話,それを俺はあいつに吐き出して
しまうのだ。そのかたわらで俺が仕事をし,愛し,楽しみ,苦しまなくては
ならなかったあの汚水溜……」。その結果何が起こったか?「いまこの人生
の岐路に立って,俺は突然恐怖に襲われている一俺の人生はこの運命の星
の下に流れてきたのではあるまいか,私を己の神として選んだこの人物によっ
て支配され,方向づけられてきたのではあるまいか,と。」(「海」著作集p.
201)
46 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
それというのが,12歳のころからずっと,ランダンはオスカルについて,
■
なにもかも知り尽くしてきたからであった。「奴は俺に取り愚いている」と
オスカルは言う一「聴罪司祭が強いて知ろうとしないことでも,あの不浄
な奴は結局俺に白状させてしまった。悪気もなく後悔もせずにやったことを,
あいつは意識させるのだった」。少年の頃からはやくもオスカルはランダン
を憎みはじめていたが,憎んだからと言ってどうにもなるものではなかった。
ランダンは全身全霊をこめて,友を「愛して」いたからである。「その愛が
憎しみを呑みこみ,覆ってしまうのだった」とやりきれなさをこめてオスカ
ルは言う一「あいつは四方八方から俺を取り囲んだ。この火の輪は俺といっ
しょに移動し,俺が成長し,強くなるのに応じて大きくなって行った」。「彼
は俺の苦しむ姿を見るようになった。神の御前ですらかくさなくてはならな
いような涙を俺はあの男のまえで流した。嫉妬に駆られるおぞましい繰言や
愚痴を彼のいるところではおさえきれなかった。そこまで彼は俺の自我の一
部,俺の持つ影の部分の化身となっていたのだ。」(「海」著作集p.201)
そしてついに,ランダンの限度を知らない献身がオスカルを破滅へ導く。
主人が色情に髪をつかまれ,引き摺られて行く破局への道から,忠勤以外頭
にない有能な下僕はひたすら障害物を取り除くことに専念した。「あいつは
俺を殺すにちがいない」と,自殺の前夜オスカルは恐怖とともに書き記すの
である。
これを読んだランダンを,作者は鏡のまえに連れて行く 「神をかたど
り,神に似せて創られた他の人々と何一つ変わらない顔……愛される可能性
もあったにちがいない,むしろ幼さの残る澄んだ眼」。自分は何をしたとい
うのか。これほどの罵署雑言を浴びせられるためだったのか,結婚もせず,
放蕩三昧の主人の尻拭いをしながら公証人事務所の看板を守りぬいたのは……。
イ モ ン ド
不浄の者は,噴出した血に溺れてしまったかのように,両手を咽喉元へ持っ
ていったまま,鏡のまえに立ち尽くす。「もしこの瞬間に彼が死に見舞われ,
一人で何もまとわずに神の面前に引き出されたら,裁き手に償いを求め,ラ
シベールとアチス 47
ンダンがこの世に存在した理由を知りたい,と訴えるのは彼,すなわちラン
ダンの方だったろう」。(「海」著作集p.200)
それからしばらくしてランダンは館を逃げ出す。ということは,オスカル
の言の真実を彼も認めたことを意味する。友への無垢な献身と信じた彼の愛
が孕んでいた不純な欲望をうべなう気持は彼自身の心のなかにも潜んでいた。
彼は自他ともに許す男色家であった。オスカルに捧げる情熱が同性愛的欲望
から発していたことを,彼は無意識のうちに知っていたのである。
6) “木々の梢は” 「海」第八章
それから数ヶ月が過ぎた。ローズはボルドーの書店に勤め,ドニは公立の
リ セ
高等中学に移って,いっしょに電車通いをするようになっていた。そんなあ
る木曜日(休校日),ピエールがまたドニを訪ねてくる。何かニュースを告
げたそうな友の気配を察して,それを聞かないようにしようと,ドニは初手
から『シベール』に話を持って行った。
「アチスがシベールを裏切って,ニンフのサンガリスといっしょにいると
ころをシベールにみつけられる,そこまできたよ」とピエールが答える。教
えてくれ,とドニがしつこく頼むので,「相変わらずシベールが自分に向かっ
て言う独り言だけれど」と前置きしてピエールは暗諦しはじめる。
木々の梢は海の咳きを模し
枝を伝ってさまよう嵐は
合体した二つの世界を一瞬の火で照らした。
互いに相手の中に没する蒼白の二つの宇宙
それはアチスとサンガリス その肌の白さ,
稲妻に照らされた光景は私の憎悪をたじろがせた。
二人の体の上に私は怒り狂う千本の手をよじったが,
その体が逃れていった荒れ果てた楽園 快楽は
48 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
二人に神々への顧慮を失わせ
雷はむなしく火を吹いて
汗と雨に光る二人の若い脇腹を赤く染めた。
そのときこの幸福をとりまいて,私は声もなかった。
私の枝はこの折り重なる麻痺の上に
よごれた肉の折り重なる睡りの上に水滴を垂れ
そこから湿った大地の香りがたちのぼっていた。ll)
「アチスの裏切り」と題する「アチスの血』前半屈指の高揚した場面であ
るQ
これを聞いたドニは,ちょっと黙ってから,「他人の情事を目の前にした
孤独……きみのシベールはつまるところそれだね。自分が与り知らない逸楽
の深淵を覗き込む者,愛について知っていることと言えば,身のうちに燃え
ていながら誰を照らすでも温めるでもないこの孤独な焔だけ……」。
己をシベールに同化したこの言い方にピエールは戸惑って,
「でもドニ,これはぼくたちのことじゃないよ……。どうかしたの? ぼ
くらはまだ恋をしはじめていないもの」と言う。
ローズを熱愛するドニがすでにこの孤独を知っていることをピエールは知
らないのである。そして,これに続けて,一旦疎遠になったローズとロベー
ルの仲がまた復活していること,レオニーが息子たちに財産の生前分与をす
る決心をしたので,ロベールは修業中であってもローズと結婚できるように
なったことを告げる。それがローズを独占したいドニにとってこの上なく不
愉快なニュースであることにはまったく気づかない。夢見る詩人は現実にた
いして鈍感なのだ。しかし,無理もない,と言えるかも知れない。ドニの感
情がありきたりな姉弟の情愛を逸脱していることは,本人にもわかっていな
いのだから。
「アチスの裏切り」はドニのなかで「ローズの裏切り」に呼応している。
シベールとアチス 49
ドニはやり場のない怒りをピエールにぶつけ,友を毒づいてあげくのはてに
泣き出す。「ドニ,ぼくがいったいきみに何をしたというの?」と言う友に,
泣きながらドニは答える一「ぼくにもわからない。わかっていれば言うよ。
どうしてこんなに悲しいのか,わからないんだ」。
ドニ自身も知らない彼の心の深淵に,ピエールの詩句は火を点けていたの
だった。
ひ と
7) “まだ眠っている肉体よ” 「海」第十章
ローズが帰宅して,次の土曜日にロベールが泊りがけでレヴォルー家を訪
問することを告げた。ドニは暗澹たる思いを胸に,暗い戸外を歩き回る。二
年生の頃,ピエール・コスタドもローズを崇拝していた。その頃詩人の卵が
書いた詩を,ドニは思い出す。
ひ と
まだ眠っている肉体よ
朝まだき わたしは立ち去る
あなたの体がわたしの生に
落とす影から抜け出せぬまま
身を横たえよう,正午の日差しが
見えないあなたの肉の焔に照り映えるときは。
夜が来ずば あなたの体も
惜しみなく広がりはしまい。12)
これは『アチスの血』にはいった場合,めずらしく「アチス,シベールに」
と題されて,まだ女神の影響下にあることに苛立ちを感じ始めていないアチ
スの少年らしい素直な情感を謳った一節となっている。近親相姦的,とは言っ
ても,アチスもドニも,まだ自分の情念の罪深さには気づいていない。
50 明治大学教養論集 通巻388号(2005。1)
このあとドニはロベールが泊ることになっている三階の部屋にあがって,
子供の頃そこにあった,ひとつの面には対になった羊飼,裏側の面には対に
なった天使のついた花瓶を思い出しながら,ぐらぐらする窓の手摺を揺らし
てみる。逞しいロベールの体がそこに寄りかかるのを想像して,はじめてド
ニは自分が羊飼でも天使でもない,どす黒い嫉妬の塊であることに気づく。
8)“どこでもすばらしい流れに”「海」第十三章
前の箇所からここまでの四章に,ロベールがローズを捨てる経緯が語られ
ている。書店の女店員になったローズが,雨の日のデートにずぶぬれの姿を
現し,ロベールが見かねて家に連れて行って,暖炉で濡れた靴を乾かしてやっ
ていたとき,それまで否定し抜いてきた真実,彼が知らぬうちに彼の中に形
作られていた言葉が,「まるで唾か血がのぼるようにこみあげてきて」,口を
ついて出たのであった 「すまないけど,ぼくはもうきみを愛していない
んだ」。(「海」著作集p.241−244)
この夜ピエールはひとりで食事したあと街を歩いていた,昨夜ノートに書
き付けた『シベール』の詩句を思い出し,頭のなかで推敲しながら。
どこでもすばしこい流れに触れる小川,
砂利に砕ける激流,
それらは川底に埋まるニンフの髪を,
鱒の眠る上に浮かぶ長い苔を,揺るがしているけれど
私のいとしい者にとって,それがいったい何であろう?
おお,私を失ったおまえ,
桑の実と泥に汚れたけわしい顔よ,
まつげにかかると見るまに,その粘土の頬を穿つ涙と引き換えに,
私を失ってしまったおまえにとってQ13)
シベールとアチス 51
この詩句は『アチスの血』では「シベールの嘆き」と題され,4)でピエー
ルがドニに聞かせた第一聯“彼は眠っている”,5)の第二聯《砂の線,砂丘
の隆起》に続いて,これを完結させる第三聯である。だが,作者がここにこ
の詩を挿入させた意図は,前の二つのようなこの詩の紹介にあるのではなく
て,「おお,私を失ったおまえ」という詩句にある。「ロベールを失ったロー
ズ」がいままさにピエールのまえに姿を現そうとしているからである。
ピエールの家に近い広場のベンチに,その家を逃げるように走り出た彼女
が,放心して腰を下ろしていた。ピエールが名を呼ぶとちょっと身震いした。
めまいがしている,最終電車に乗り遅れたので車を見つけてほしい,ロベー
ルには言わないで,とローズは言う。馬車を呼んできたピエールは,ローズ
の横に乗り込んで,自分がどれほど彼女を崇拝してきたか,愛してきたか,
そして今後ローズが義理の姉となってからも,いままで以上に愛し続けるで
あろうと告白する。
よりにもよってこの夜,別れてきたロベールの弟に送ってもらう破目になっ
たローズは,当初はその偶然のいたずらに苛立ちを感じていたが,やがて彼
の同席になぐさめを見出すようになる。抑え切れない悲しみの嵐がこみあげ
てくるのを,車輪の響きと馬車の振動と,そしてピエールの饒舌が鎮めてく
れるのだった。二年前にいっしょに海水浴したときのことをピエールは話題
にする。そのときローズの日焼けした姿に着想して作った詩が,次の“きみ
のからだの上に”である。
9)“きみのからだの上に”「海」第十三章
きみのからだの上に,みしらぬ足跡をぼくは追う。
きみは言う 「わたしを焼いたのは日の光……」
「両の胸は真昼の放つ矢にさらされ,
腕は,地べたで眠ったために打ち傷ができた……」と。
しかし砂漠より赤茶けたあらわな肌に,
52 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
ぼくが追う足跡にはふしぎな曲折がある。
みしらぬ狩人の通った跡がそこに燃え立ち,
打ち棄てられた野営の残灰をぼくはみつける……’4)
これは『アチスの血』では「シベールの賛歌」と題された一節で,歌い手
はシベール,「きみ」というのはむろんアチスである。男女役割が入れ替わっ
ていることに注意しなくてはならない。「きみ」を「おまえ」に,「ぼく」を
「私」に読み替える必要がある。
ここで重要なのは「みしらぬ足跡,みしらぬ狩人」といった言葉である。
まず15歳だった少年詩人ピエールのノートのなかでの「みしらぬ足跡」は,
少年であるための大人の世界への憧れをあらわしている。そして『アチスの
血』では,シベールがアチスに刻印された自分以外の誰かの「愛」の痕跡を
さして言っているのだ,と見ることができる。
さらに,作者がこの詩句を小説展開中に置いた状況を考えると,これらの
詩句はいまひとつ違った意味を暗示することになる。着目すべきは,世界に
あるものはことごとく知悉し,支配しているはずのシベールが「みしらぬ,
ふしぎな(ともに原語は6tranger)」という形容詞を使っていることである。
シベールの知らない世界,それはのちにシベールの支配を抜け出してアチス
が到達する別な世界を暗示しているのである。
小説に即して言うならば,それはローズ,ピエールら「海への道を見出す
アチスたち」に刻まれた「みしらぬ狩人の足跡」と見ることができる。
このように,重層的な読み方を求められるのは,次の10)も同様である。
10) “きみの行く手を切り拓く” 「海」第十三章
きみの行く手を切り拓くすべを知っている,おお,強靭な優しさよ,
ぼくの永劫の渇きがそこを領し,うめき声をたてる地にいたるまで!
ぼくの体の奥底に,きみの若い血潮のたぎりが聞こえる,
シベールとアチス 53
はてしなく響き渡る未知の大河の川音さながら。
もしこのせせらぎがぼくの存在の内部に至って終りとなり,
ぼくの広く開いた脇腹を通って,きみがぼくから出て行くなら……15)
ローズの求めに応じて暗諦をはじめるまえに,ピエールは以前,この詩が
ローズを怒らせてしまったことを思い出して,謝っている 「あれはあな
たのことだけを歌ったものではないことが,あなたにわかってもらえなかっ
た……。ぼくはあなたから出発してある神秘な存在に到達しようとしていた
んだ……」。しかし9)にあげた詩句はさほどローズの気に障るものとも思
えない。だが,これに続いて「このあと,あなたを怒らせてしまった例の文
句がくるんです」と言って笑いながら,この《きみの行く手を切り拓く》の
一節を口にのぼらせる。例の文句とは末尾の一節であろう 「もしこのせ
せらぎがぼくの存在の内部に至って終りとなり,ぼくの広く開いた脇腹を通っ
て,きみがぼくから出て行くなら……」。これを処女のローズは,性的表現
と受け取ったのである。
しかしいまのローズは昔の自分の誤解を訂正するほどの関心をピエールが
諸んじる詩に寄せてはいない。「つづきは?」などとうながしながら,何も
聞いてはいないのだ。しかし,「例の文句」はまたしても別の響きをもって
彼女の耳を打った。「このせせらぎが終りとなり」「ぼくから出て行く」とい
うことばに,ローズは電流のような衝撃を受けるのである。ピエールに握ら
れた手が震え出す。腕が,全身が打ち震え,「もう,おしまい」とつぶやく
口もわなわなと震えていた。「何が?」と問うピエールにローズは答える
「あの人に棄てられたの。もう愛してはくれないの。もうおしまいなの
よ」。(「海」著作集p.256)
しかし,「例の文句」が表わしているのは,ピエールの言うとおり,もっ
と形而上的な事柄であった。みしらぬ狩人に魅せられ,大地であるシベール
の脇腹を通ってアチスは出て行く。どこへか? シベールが知らない未知の
54 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
国,別の宇宙へ,である。『アチスの血」はこのローズによって中断された
一聯をつぎのような詩句で締めくくっている:
人の子,アチスよ,そのときおまえは見覚えているだろうか
この私の形なき顔,空うに開かれた眼差しを。16)
「脱出」の夢に燃やす血潮のたぎり,己の道を見出す強くてしなやかな知
性を,ランドの奥地に発するせせらぎがガロンヌの大河にはいって海へと出
て行く雄大な川音にたとえたこの一節は,『海への道』に『アチスの血』が
挿入された理由をいみじくも提示している。アチスはシベールの世界に終り
を告げ,出て行かなくてはならないのだ。
だから,兄の恥ずべき行動とその傷ましい結果を目の前にしたピエールの
最初の反応が,ローズに対する憐欄でも兄に対する怒りでもなくて,自分の
所属する世界に対する激しい軽蔑と全面的な拒否の感情であったのは,故な
いことではない。
「彼にもたれて身を震わせているこの少女の恐ろしいほどの苦しみも,月
明かりの道と同じくらい鮮明にいくつかの出口が彼の眼に映じるのをさまた
げなかった。つい先ほどから,その出口と出口の間を彼は行きつ戻りつして
いた。世の秩序を変えるよりは自己自身を変えるべきなのだろうか。自己を
通して神に到達する道を拓くか一あるいは己自身の完成は軽んじて,破壊
に向かって猪突猛進し,鉄槌を打ちおろして古い城壁をおし破り,地上すべ
てのコスタドに決戦をいどむか?」(「海」著作集p.257)
この箇所は2)の“羽音の鈍い捻りで”の項で紹介した兄弟の会話中「革
命か,でなければ,神……」というピエールの言葉に呼応している。
そのことを確かめるためにもう一度,こんどは「アチスの血』に即して
10)の末尾の数節を訳し直してみよう。
シベールとアチス 55
もし,このせせらぎが私の存在の中で終りとなり,
私の広く開いた脇腹を通って,おまえが私から出て行くなら……
人の子,アチスよ,そのときおまえは見覚えているだろうか
この私の形なき顔,空うに開かれた眼差しを。17)
ll)“そんなに脆く,そんなに強いおまえ”「海」第十八章
それからまた数ヶ月が過ぎた。
レヴォルー家ではリュシエンヌが癌のために病臥していたが,それを見舞っ
たレオニー・コスタドが突然の心臓発作に襲われて,彼女よりも一月早く世
を去った。
コスタド家ではロベールだけが臨終に立会った。長兄のガストンはオスカ
ル・レヴォルーを死に追いやる原因となった女と方々を旅行していたし,ピ
エールも決心を実行に移して,パリに出ていたからである。
第十八章は,このパリにいるピエールが,オスカルの「不浄な」下僕ラン
ダンと偶然出会い,酒を酌み交わして,路上で別れるエピソードを中心に,
そのランダンが理由のさだかでない誰かの凶刃に倒れ,一時はこの人物と最
後に接触した青年ということで官憲に追われたりしながら(容疑はすぐ晴れ
るが),アフリカの狩猟家の一団に加わって決定的に「脱出」を果たす,そ
のための手続きをするところまでが描かれている。
ランダンと別れてセーヌのほとりをぶらつきながら,ピエールは『シベー
ル』を口ずさむ。それは彼自身によれば「己が罪を悔いるアチスの姿」「未
知のある神を目の前にして溢れ出てきた純潔なアチスの姿」に戸惑うシベー
ルの嘆きをテーマとした詩句である。『アチスの血』では最終の「恩寵に浴
したアチス」に含まれている。ピエール・コスタドの詩作活動も最終段階に
はいっていることを,それは示している。
そんなに脆く,そんなに強いおまえを見て私は泣く。
56 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
眠っているの? おまえが眠るしとねの草は汁でおまえを汚し,
鳥は夢の中でのように歌うのをやめ,
蝉は羽をばたつかせておまえの鼓動に合わせる。
松林の燃える海辺の国土から
花盛りの菩提樹の中で勢いの弱まった南の風が,
私の憎む,しかしこちらの味方にしようと私が呼び求める恋敵,
サンガリスの肌の匂いをおまえのもとに運ぶ。
真昼の夢のなかでいとおしんでいるものに,おまえを引き渡そうと,
太陽のかまどの扉をその上に閉ざしてやったのに,
それも空しかった1 わずかの粘土に汚れた膝をして,
おまえは立ち上がる,狂熱の夏よりも強く!
アチスがこれほど丈高いとは思ってもみなかった!
彼のうちに住むみしらぬ人は,存在の深い襲の奥に
とぐろ巻くやさしい蛇の主たらんがため,
シベールにはその秘密の知れぬ魅力を有している。
おまえの血も,肉も,蒼ざめた大洋や悲しい森の
共犯者ではもはやなくなるだろう。
おまえの肉体は潮の満ち干にもう従わない。
鈍い音して脈打つ樹液に,アチスはもう従いはしない。
この痩せた頑丈な子供は別の愉楽を知った,
肉体の深淵から引き抜かれて砕ける波とは異なる
別の砕け方を,質の高い死を,知ったのだ。18)
「『もはや共犯者ではなくなるだろう(...ne seront plus complices)』と
いうところはまずいな,もう少し練ったほうがいい……」とピエールは独り
こちする。『アチスの血』では動詞が現在形に置かれ「共犯者のままではな
い(...ne demeurent complices)」となっている。この字句の改変自体に
シベールとアチス 57
あまり大きな意味はなく,むしろ『海への道』と『アチスの血』が同時平行
で書き進められていたことの証を読み取ればよいであろう。
しかし,内容的にはきわめて重要な要素を含む箇所である。パリの夜は官
能の欲望を若者の内部に掻き立てる。ピエールとて例外ではない。しかし彼
は,肉の欲望と同時に,これに反する純潔への志向をも,感じているのだっ
た。いまだ葛藤にはいたらないが,肉と霊との矛盾した欲求がこの青年の内
に存在していることを,それは示す。小さな無数の明かりが穿たれたバーの
黒い家々の間で そのなかでは男女が寄り添っている ピエールは「肉
欲から逃れ出るための努力」を己に課テうとしているのだった。自分以外に
も大勢の青年たちが,この矛盾に悩んでいるのだろうか,とピエールは思う。
そして彼は敢えて先ほどランダンと逢った酒場へ戻ることはせず,その「努
力」を続けることの方を選択するのである。
シベールのライバルはもはやサンガリスではない。アチスのなかに住む
「みしらぬ人(L’lnconnu)」である。これに対抗するため,サンガリスの協
力を求めても無駄だ。「もっと別の愉楽(d’autres d61ices)」「異なる砕け方
(Un autre brisement)」「質の高い死(une meilleure mort)」をもって彼
を誘うシベールの「みしらぬ神(L’lnconnu)」。この神を詩中に呼び出すこ
とによって,ピエールは「最後の砂丘」を越えたのである。
この箇所に続いて『アチスの血』は結末を迎える。そこには「子羊
(1’Agneau)」「御子(le Fils)」という字句によって,その「神」がキリス
トであることが鮮明に示されることになる。19)
12) “星座と砕ける波” 第二〇章
小説『海への道』も終末に向かって行く。第二〇章は最終章である。ロー
ズとロベールの破局以来,三年の歳月が流れていた。
母親に続いてレヴォルー家の無能な総領息子ジュリアンも世を去った。ロー
ズはとっくに本屋勤めを辞めて,カヴァイエスの差配する農場の帳簿付けを
58 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
仕事にしていたが,広いレオニャンの館は,経済状態の改善とともに戻って
きた執事のルイ・ラルプにかしずかれる彼女の孤独な城であった。ドニはカ
ヴァイエスの家に住み着き,婿になりきって,イレーヌの間にもうじき子供
が生まれることになっていたから。
それを知ったローズは,イレーヌともどもドニに屋敷へもどってくるよう,
勧める。なかなかうんと言わなかったドニも,姉の寛大さを信じて申し出に
応じる。
しかし,赤ん坊の育て方をめぐって,ローズとイレーヌの間には諄いが絶
えない。ふてくされて寝てしまったイレーヌに「暑いから今夜は書斎の長椅
子で寝るから」と告げて,ドニは姉と二人きりの食事をとる。そのあと,流
れ星の見える庭のベンチに,子供のころのように姉弟は並んで坐った。かつ
てのような濃密な時間が夜気とともにふたりを包んだ。
「ピエロの詩はなんて言ったっけ。おぼえてる?阻石を歌ったやつ……」
と言ってから,つっかえながら,ドニが口ずさむ。
星座と砕ける波,海が拾い集める阻石,
アチスよ,おまえの若い,やつれた顔と,
私の長いくちづけをうけるその瞳は
私にとって何よりも大切なもの2°)
先の9)“きみのからだの上に”10)“きみの行く手を切り拓く”と同じく,
高校生のピエールがローズに初恋の感情を抱いて作詩し,のちに『アチスの
血』では「シベールの(アチス)賛歌」に入れられるものの一節である。ア
チスをローズに置き換えれば「ピエールのローズ賛歌」であり,その感情は,
おそらくはピエール以上にドニのものでもあった。時が後戻りして,かつて
のように心を寄り添わせることが可能となった瞬間,この詩句がその唇にの
ぼったのは当然だったのだろう。
シベールとアチス 59
「それからどうだったかな。もうおぼえていないよ」と言う弟に,
「おぼえているわ」と姉が言う。
13)“おまえの瞳は荒れる大海”第二〇章
おまえの瞳は荒れる大海,傷だらけの世界を噛む21)
このときローズが思い出していたもの,それはもしかしたら,かつてロベー
ルが彼女に向け,逢うこともなくなってからも思い出とともに彼女の心をさ
いなんだ眼差しであったかもしれない。ジュリアンの葬式の時に逢ったロベー
ルは,かつての魅力を無残なまでに失っていたが,瞳だけはわずかに面影を
とどめていた,と作者は記しているから。
「思い出さないなんてどうかしてるね……」と言ってドニは先を続ける。
14)“滅ぶべき,しかし無限の糧”第二〇章
滅ぶべき,しかし無限の糧,
乳に似た,血にも似たそのかんばせは,
もはや私の合わせた掌のなかに落ちた
ひとつの果実でしかない……22)
小説『海への道』はローズが社交界にデビューする初の舞踏会の支度を整
えているところから幕を開けた。そのときドニはローズに関して「ちょっと
心を動かしても薄紅のさす,この透き通るような姉の顔」と,その美しさを
讃えている。小説の最終章にいたって,作者はここにローズの幸せに輝いて
いたかつての顔を呼び出して,物語の円環を閉じようとしている。変わらな
い姉弟の濃密な関係を全面に出して,この三年間に起こった天災にも似た不
幸の襲来とその破壊の傷跡を,いっとき背景にしりぞかせるためである。
このときのふたりの「密会(イレーヌから見て)」はただちになんらかの
60 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
結果をもたらすものではなかったが,次の場合はそうであった。
子供に乳母をつけるようにローズが提案したことから,イレーヌが逆上し
て泣き喚き,ローズへの悪口雑言の限りを尽くして泣き疲れて寝てしまった
あと,また姉弟は玄関のテラスでいっしょになった。このときドニがローズ
にむかってする「愛の告白」には,下線を付した箇所などに,遠く『アチス
の血』のこだまが聞こえているように感じられるが,それは筆者だけの思い
込みであろうか。
「あいつ(イレーヌ)はあわれな羽虫みたいに窓にぶつかってるんだ,そ
の向こうにぼくたち,姉さんとぼくが生息している世界があるんだね。23)ぼ
くたちの世界一それはただぼくたちの子供時代や,思い出だけじゃない。
たとえぼくたちが離れ離れに暮らしてきたとしても,姉さんの中にもぼくの
中にもこの内なる大河は一この血は,流れつづけるだろう……24)」。
「ローズ,とってもおかしなことを言おうか,生まれてはじめてぼくは今
夜幸せだという気がする。そう,ぼくは幸せだよ25)。」
このときイレーヌのしゃがれた声が背後のフランス窓からあがる一「あ
なたなのね,あなたなのね……」。
それにつづく罵署雑言を,飛んでいったドニが手で口を塞いで押し殺した。
だがそのとき一瞬の稲妻がローズに,はてしなく広がる荒野をまざまざと照
らし出して見せたのであった。「彼女が経験したことのない情念,消えた火
口があちこちに穴を穿つ陰欝な空間,どこまでもつづく不毛の地を」と作者
は記す。緑なすシベールの大地はその本質的な姿をローズのまえに現したの
だった。
このはてしない不毛の地を「イレーヌの嫉妬」と言い換えるのはたやすい。
しかしローズが見た荒野はイレーヌひとりのものではなかった。ドニのもの
でもあり,彼女自身のものでもあった。イレーヌに嫉妬されるとき,ドニが
妻よりも姉の言を重んじるとき,そして先ほどのような告白を耳にするとき
の,荒々しいほどの喜びの感情,孤独を癒すためと信じた彼女の内なる渇き
シベールとアチス 61
に身をゆだねることが,他者をどれほどの不幸におとしいれるか,それをま
ざまざと彼女は見たのである。自分を棄てたロベールに劣らず,罪は彼女の
深奥にとぐろを巻いていた。このとき,ローズはピエールにつづいて罪の世
界からの脱出を決意する。彼女もまた「砂丘」を越えるのである。
日常の化粧道具だけを持って,朝まだき,ローズは館を出る。「祈ってい
るのかどうか,自分ではわからなかったが,彼女の目の前にいましもなしと
げるべき行為が映し出されているというのは,おそらく彼女の祈りのせいで
あった」と,作者は記している。(「海」著作集p. 325)
その祈りに答えるものは,「無数のアチスたち」のひとりであるローズが
この祈りのうちに向ける眼差しの彼方に,早くも面を見せはじめていた。朝
霧の中をこちらに向かって次第に大きくなってくる始発電車の前照燈,「一
つ目巨人の眼のようなその大きな明かりが,彼女の心のなかで,かつての暗
いあかつきにおけるように,あかあかと燃えさかっていた」26)と言って作者
は小説を閉じる。
閉じたあとの余白に,『アチスの血』を知る読者が読み取るものは,その
あかりに照らし出される「みしらぬ神」の面が「子羊」と「御子」であるこ
とであろう。
交響楽に歌曲を組み入れるように詩を小説中に使うこと,それはモーリヤッ
クが唯一この作品においてのみ取った手法であった。ピエールのイギリス・
ノートに書かれた断片は「シベールとアチス」の主題を「未知の大河の川音」
として響かせつつ,レヴォルー家とコスタド家の若者の世界を貫く。
このようにして,地上的愛の崩壊とそこからの脱出を主題とした小説『海
への道』は,異教的愛(シベール)の破綻とキリストへの道程を暗示する詩
『アチスの血』を援用することによって,物語の表層を貫いて真実の意味を
提示する形而上的要素を獲得することに成功しているのである。
62 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
資料
(1) 『海への道』中島公子訳 モーリヤック著作集第4巻 春秋社 1984.
(2) FranCois Mauriac<<Les Chemins de la Mer>)in(EVRES COMPLETES
Biblioth6que Bernard Grasset chez Arth6me Fayard, Paris l950−56 TOME
V
(3) FranCois Mauriac〈{ O rαges >>in(EVRES COMPLETES TOME VI
注
1) 「シベールとアチス F.Mauriacの異教性(IV)」と題する本論考はこれまで
以下の形で書き進められてきたものの続編である。
「シベールとアチス F.Mauriacの異教性(1)」「明治大学教養論集」通巻
265号1994. 3.
「シベールとアチス F.Mauriacの異教性(ll)」「明治大学教養論集」通巻
272号1995.1.
「シベールとアチス F.Mauriacの異教性(皿)」「明治大学教養論集」通巻
294号1997.1.
(1)のなかで筆者はこの論考の構成を次のように述べている:第一章『嵐』に
ついて,第二章キュベレー・アッチス神話とローマ時代の祭祀,第三章リュリの
オペラ「アチス』,第四章ふたたび「嵐』について。これに従えば今回はリュリ
のオペラについての考察がテーマとなるはずであった。しかし数年間の空白を経
て,このたび改めて(1)から(皿)までを読み直して見たところ,もう一度『嵐』
とりわけ「アチスの血」に立ち戻って,モーリヤック世界におけるこの詩作の重
要性を確認しておくことが,筆者自身にとって必要なことと思われた。そのため
今回は,当初の計画にははいっていなかった『海への道』と『アチスの血』の相
互における影響,小説のなかに詩が挿入されることによって生じた効果を考察の
対象とした。論文全体の構成からすれば,第一章を補足する場所に置かれるべき
内容のものとなった。
2) SCOTT, Malcolm:1吻説αo et Gide 一 La recherche du Moi LEsprit du
Temps Bordeaux−1e−Bouscat 2004
3) Il exist, dites−vous, lesαffections l6gitimes:la famille, les amis. J’entend
bien. Mais ces affections ne sont pas ramour;et dさs qu’elles tournent a
ramour, les voici plus qu’aucune autre, criminelles:inceste, sodomie.
<<Souffrαnces et Bonheur de Ch r9 tien >>in(EVRES COMPLETES TOME VII,
Fayard, p.230.
4) La vie de la plupart des hommes est un chemin mort et ne m6ne a rien.
Mais d’autres savent, d6s 1’enfance, qu’ils vont vers une mer inconnue.
シベールとアチス 63
D6ja ramertume du vent les 6tonne, d6ja le goat du sel est sur leurs l6vres
− jusqu’a ce que, la derni壱re dune franchie, cette passion infinie les
soufflette de sable et d’6cume. Il leur reste de s’y abimer ou de revenir sur
leurs pas. OCI p.1. p.216.
5) Il dort. Je forcerai les dieux meme ti se taire.
J’an6antis le monde autour d’Atys qui dort.
Le sommeil a rompu le faisceau de ton corps.
Tes membre 6pandus se partagent la terre,
Doux serpents d61i6s qui feignent d’etre morts,
Et Cybele fr6mit jusque dans ses abimes
De ce trouble abandon sans caresse et sans crime.
6) J’entoure ton sommeil d’un bourdonnement sourd
De mouche que ce cri perdu d’un coq tr乱verse,
L’endormi ne sait pas ce que p6se un ciel iourd,
Il ne sent pas rodeur que m’arrache 1’averse
Ni ce d6sir grondant qui, de rouest, accourt,
Ni ce ruissellement de larmes sur les feuilles.
La nymphe Sangaris qu’en un songe il accueille
Agite les bas−fonds sous l’eau qui ne dort pas.
Auprbs de Sangaris qu’il accueille en ses songes,
Que suis−je, etre sans forme et que rOc6an ronge,
Moi qui ne puis tenir dans l’anneau de deux bras,
Reine a l’immense front que les tristes mar6es
Ceignent de varechs noirs, de m6duses moir6es?
7) Que suis−je, etre sans forme et que 1’Oc6an ronge,
Moi qui ne puis tenir dans l’anneau de deux bras,
Reine a rimmense front que les tristes mar6es
8
︶
Ceignent de varechs noirs, de meduses moir6es?
Ton rire jallissait, vif entre les eaux vives,
Mes branches d6chiraient lentement le brouillard
Et ta face brillait sur Cyb61e attentive
Mieux que les astres morts qui nbnt pas de regard.
Ton reflet s’endormait dans mes sources cach6es
Dont un souffle ridait l’eau froide au go(it terreux.
De la chair fourmillante a ma chair attach6e
Je ne sentais plus rien que les mains 6corch6es
D’Atys qui caressait rherbe de mes cheveux.
64 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
Ma douleur sur la mer poussant un cri farouche
EOt r6veill61e peuple assis aux sombres bords..,
Atys, tu me brtilais de ta petite bouche,
Je n’avais pas de bras pour enserrer ton corps.
9) TOUZOT,∫ean:La Planete Mαuγiac, figure 4ねπαめg∫θθ‘roman, Paris,
Klincksieck,1985
10) Une ligne de sable, un renflement de dune,
Une frange d’6cume et de varechs:la mer...
Le doux trait des sourcils sur ta paupiさre brune
Et robscure foret au bord du front d6sert:
Ton visage 6clair6 du feu de deux prunelles,
ド
EtQiles de ma nuit dont les flammes jumelles
Quand tu dors vont braler sur un autre univers,
Atys, je confonds tout dans un unique songe:
Enfant qui me d6vaste, oc6an qui me ronge,
11) Les cimes, de la mer imitaient le murmure.
Lbrage qui r6dait a travers la ramure
ノ
Eclaira d’un feu bref deux mondes confondus,
Deux pales univers run dans rautre perdus:
Atys et Sangaris dont la blancheur humaine
L’espace d’un 6clair, d6concerta ma haine.
Je tordis sur leurs corps mille bras furieux,
Mais rapre paradis oU ces corps m’avaient fuie:
Le plaisir, les rendait indiff6rents aux dieux
Et la foudre inutile embrasait de ses feux
Leurs jeunes flancs luisants de sueur et de pluie.
Alors je fis silence autour de ce bonheur.
Mes branches s’6gouttaient sur la double torpeur,
Sur le double sommeil de cette chair souil16e
D’oU montait le parfum de la terre mouill6e.
12) La chair encore endormie,
Je pars au petit jour sombre
Sans pouvoir sortir de l’ombre
Que ton corps fait sur ma vie,
Je m’6tends quand midi luit
Au feu de ta chair perdue.
11n’est pas jusqu’a la nuit
シベールとアチス 65
Que ton corps n’ait色pandue...
13)
Les ruisseaux dont je sens partout la vive fuite,
Les gaves dont les eaux par les caillQux bris6es
Agitent les cheveux des nymphes enlis6es,
Longues mousses flottant sur le sommeil des truites,
Que sont−ils pour mon coeur,6toi qui m’as perdue,
Visage dur, souill6 de mOres et de boue,
Au prix de cette larme a tes cils suspendue,
Et qui creuse soudain rargile de ta joue?
14)
Je cherche sur ton corps des pistes 6trangさres.
Tu dis:《C’est le soleil qui me brOla...》Tu dis:
《Ma gorge s’est offerte aux flさches de midi,
Mes bras se sont meurtris en dormant sur la terre...》
Mais sur ce corps plus roux qu’un d6sert et plus nu,
Les pistes que je suis ont d’6tranges m6andres,
La trace y brtile encore d’un chasseur inconnu;
D’un camp abandonn6 je retrouve les cendres_
15)
Otenace doucheur qui sus frayer ta route
Jusqu’o血rさgne et g6mit mon 6ternelle faim!
C’est votre jeune sang qu’au fond de moi j’6coute
Comme un fleuve 6tranger qui retentit sans fin,
Si ce ruissellement finissait dans mon etre,
Si tu sortais de moi par mon flanc large ouvert...
16)
Enfant de rhomme, Atys, saurais−tu reconnaitre
Cet informe visage et ce regard d6sert?
17)
Si ce ruissellement finissait dans mon etre,
Si tu sortais de moi par mon flanc large ouvert,
Enfant de l’homme, Atys, saurais−tu reconnaitre
Cet informe visage et ce regard d6sert?
18)
Je pleure de te voir si frele et si puissant.
Dors−tu?L’herbe oU tu dors te souille de sa sさve,
Un oiseau s’interrompt de chanter comme en r6ve,
Une cigale bat et s’accorde a ton sang.
Du pays de la mer oU brUlent les pin6des
Le vent du sud qui meurt dans les tilleuls f16tris
T’apporte le parfum du corps de Sangaris,
Rivale que je hais, que j’appelle a mon aide..,
66 明治大学教養論集 通巻388号(2005・1)
Pour te livrer en songe a ce que tu ch6ris
J’ai sur toi de ce jour referm61a fournaise_
Mais en vain!les genoux salis d’un peu de glaise
Tu te dresse, plus fort que 1’6t6 d61irant,
Je n’eusse jamais cru qu’Atys 6tait si grand!
L’Inconnu qui l’habite a pour se rendre maitre
Du doux serpent lov6 dans le repli d’un etre
Des charmes dont Cybele ignore le secret.
De rOc6an livide et des tristes forets
Ni ton sang ni ta chair ne seront plus complices,
Ton corps n’ob6it plus au flux ni au reflux.
Ala s6ve qui sourd, Atys n’ob6it plus,
Cet enfant maigre et dur connait d’autres d61ices,
Un autre brisement, une meilleure mort
Que la vague arrach6e a 1’abime d’un corps.
19)
水を赤く染あていた私の曙,私の落日は
『子羊』にひたと向けられたお前たちの眼差しの中に燃え,
おまえたちの心に繋がれた海の静けさは
そこに下されたかの『平安』に変わっていく。
私の怒りはかつて渚にかけらとなって飛び散り,
海鳴りの喘ぎもこれに呼応して
潮風は,傷ついた松から叫びを引き出したものだが,
いまからは永遠に,おまえたちの胸を膨らませるために吹く,
額をあげて,おまえたちが『御子』をまじまじとみつめる時に。
Mes aubes, mes couchants qui rougissaient les eaux,
Bralent dans vos regards attach6s sur 1’Agneau.
Le calme de la mer a vos coeurs enchain6e
Se mue en cette Paix qu’il vous avait donn6e.
Mes fureurs qui jonchaient les plages de d6bris
Et ce ha1さtement de la houle marine
Dont le souffle arrachait aux pins bless6s des cris,
De tout temps a jamais gonflent votre poitrine
Lorsque, le front lev6, vous contemplez le Fils.
20)
Les constellations et les vagues bris6es,
Les bolides perdus que recueille la mer,
Atys, rien ne me vaut ta jeune face us6e,
Ni cet ceil oti je bois un long baiser amer...
シベールとアチス 67
21)
Ton ceil, trouble oc6an, ronge un monde meurtri.
22)
Nourriture mortelle et pourtant infinie,
Ce visage de lait, ce visage de sang
N’est plus qu’un fruit tomb6 dans mes paumes unies...
23)
「海」著作集p.323
cf.2)羽音の鈍い捻りで眠りをおし包んでやれば 本稿p. 39
24)
「海」著作集p.323
cf.10)ぼくの体の奥底にきみの若い血潮のたぎりが聞こえる
はてしなく響き渡る未知の大河の川音さながら 本稿p,52−p.53.
25)
「海」著作集p.324
cf.6)そのときこの幸福をとりまいて,私は声もなかった。本稿p. 48
26)
「海」著作集p.325
(なかじま・こうこ 元農学部教授)
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