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橋を架ける仕事 ごく私的な物語
橋を架ける仕事 ⾜ ⽴ ごく私的な物語 正 治 実感をもってことばを使うには形式と意味をうまくつなぐことが必要で、そのことを「フュージョン(融合)」といいます。対立 や葛藤を乗り越えるには「対話」が必要です。異質のものが共にあることが自然だという「調和の感覚」をもつことも大切 です。私たちが日常的な認識において別個のものとして扱いがちな、ことばとことば以前の経験、論理と感性、目に見え るものと見えないものといったものをつないで自己の全体性を回復する行為、それは生きることそのもので、さまざまな価値 観が交錯し、分裂や断絶が進み、混迷を深めているこの世の中でますます求められるようになっています。その手助けを することが私の仕事だと考えています。次の文章は、そのような認識に至るまでの私の個人的な経験を振り返ったもので、 ホリスティック教育ライブラリー2『ホリスティックな気づきと学び―45 人のつむぐ物語』(せせらぎ出版、2002 年 3 月)に寄せ た原稿に少し手をくわえたものです。 トラウマ これまでの私の人生のなかで、くりかえし鮮明によみがえってくる記憶があります。 身を寄せ合って息をひそめていた真っ暗な防空壕のなかに、さっと光が射し込んできました。大人たちのあと について外に出てみると、まばゆいほどの明るさでした。広場の向こう側にある病院の屋根を突き抜けて、真っ 赤な炎が音を立てて夜空を焦していたのです。そのなかで白衣を着た大ぜいの男女が、けが人や病人を担架 で次々と病院から運びだしていました。 家にもどると、そこは焼け野原でした。ほのかな月明かりにいくら目を凝らしてみても、ぽっかりとあいた空間に 焼け焦げた柱が一本立っていて、先端の残り火が信号機のようにチカチカと点滅しているだけでした。恐ろしい ほど静かでした。人々の緊迫した声に追い立てられるように家を離れてから、どれだけの時間がたっていたでしょ う。けたたましいサイレン、低くうなるようなB29 爆撃機のエンジン音、さっきまでの喧騒は幻だったのでしょうか。 これは、おそらく 1945 年に大阪が大空襲に見舞われたときの光景ではないかと思います。当時、私は4歳で、 尼崎市に住んでいました。 それに引き続いてかならず思い起こされる一連の光景があります。三輪車ごと頭から溝につっこんだまま動か なくなっていた遊び友だちの姿。ガード下やアパートの隣の部屋で見た自殺者。地下道にたむろする浮浪少 年たち・・・ 家族関係にもさまざまな変化が起こっていました。それまで「お父さん」と呼んでいた人が本当の父親ではな いと分かったり、私を引き取って育ててくれていた叔母がある日突然姿を消したり、死んだはずの母親が名乗り を上げてきたり・・・。幼い頭は混乱していました。 私はどうしようもなく懐疑的で、ひがみっぽい人間に育っていきました。やりきれない「はかなさ」と「寂しさ」が私 の心をおおいつくしていました。 癒しを求めて そんな私が逃げ込んだのは空想の世界でした。現実との関わりを避けて、ひたすら読書に没頭し、自分でお 話を作ったりもしました。物語の世界は、現実を忘れ、未知にあこがれ、夢をいだくにはうってつけでした。そんな 私を現実の世界につなげてくれたのは、その時々に親交を深めてきた友人たちでした。ある友人は、運動の苦 手な私をクラスのバレーボールの選手として、いくつものサービスエースをきめられるまでに特訓してくれました。 現実逃避のために宇宙へ馳せた想いを物理学に向けて、いっしょに図書館に通ったり語り合ったりしてくれた友 人もいました。文学、芸術、放送技術、楽器の演奏など、移り気な私のとりとめのない関心をその時々に共有 してくれた友人たちとの交流がどれだけ救いになったことでしょう。しかし、幼児期に受けたトラウマとでもいうべき 「はかなさ」を受け入れて、生きる力につなげるようになるには、これから先、ずいぶん時間がかかりました。 学校を出てからも、私は、さまざまな活動にのめり込むことによって、何かを振り払おうとしていました。1970 年 代には竹内敏晴さんとの出会いや、つるまきさちこさんたちの「からだとことばの会」を通して、コミュニケーション の原点としてのからだに関心を持ちました。カール・ロジャーズのエンカウンターグループによって感情を処理し、 共有する術も学びました。やがて、そんな活動を通じて出会った仲間たちとともに体験的な学びを深めるために 「であいの会」を作り、神戸や阪神間を中心とした活動を始めました。合言葉は「もうひとつの道」、「いま、ここ で」。私たちはこの運動を「カウンター・カルチャー(対抗文化)」にたいして、「エンカウンター・カルチャー(出会 いの文化)」と呼びました。あるとき、そのニューズレターに私はこんなことを書いています。『原爆から原発まで』 (アグネ)という本で長崎の原爆被害者である松隈さんという人の話を読んだことがきっかけでした。 (前略) 小説家や詩人ならもっとうまく当時の様子を描き出したかもしれない。もし表現力が未熟なために状況がうまく 伝わってこないという人がいるとすれば、その人は効果的に描き出されたものにのみ受動的に反応することしか できない人なのだろう。ここに引用したことばは、まぎれもなく松隈さんがひとりの生活者としての立場でその場の 全状況の中から主体的に選び取ったものなのだ。私たちに必要なのは、このことばから松隈さんの「悲しみ」を 自ら感じ取ることのできる感受性を持つことであり、そのとき始めて「悲しみ」を乗り越えるきっかけを松隈さんと共 有できるにちがいないのだ。 であいの会の「表現の教室」でぼくが「下手な人あるまれ」と言うとき、それは上手を目指すことでも開き直るこ とでもなくて、洗練された表現手段を持たない人の中にうずまくどろどろしたものを噴出させ、未分化なものの中 からその人の思いを感じとり引き出していくことから始めたいという気持であった。 (中略) いまこの場で起こっていることに対して充分な感受性をもって対処していくことが本当に生きているということな のだろう。(「自己を燃焼できないことが問題だ」1977 年 5 月) ライフ・イズ・ビューティフル(抽象作⽤に気づく) 1960 年頃、大学に入った私は、イデオロギーに導かれた学生運動についていけず、かといって体制が作り 出す状況に埋没することもできないでいました。そんな私が拠りどころにしたのは「一般意味論」でした。それは、 ことばが私たちの認識にどのような影響を及ぼすかを知り、ことばの魔術におちいらないで生きることを教えてくれ ました。それから 20 年を経た 1980 年、2週間にわたる泊まり込みのセミナーがあると聞いて、カナダのトロントか ら列車で2時間ほどのオンタリオ州ロンドンにあるウェスタン・オンタリオ大学まで出かけていきました。そこは森の 中に建物があるような静かで美しいキャンパスでした。セミナーが始まって3日目頃だったでしょうか。言葉以前 の感覚的な認知を高めるために行われていた「聴き方」のセッションで、いつものように静かな環境の中で耳を 澄ましていると、いきなり堰を切ったように今まで聞こえなかった音が私のからだの中に流れ込んできました。その 場を共有していた一人ひとりの呼吸や、ほかの部屋にいるらしい人の気配、建物の外の話し声や鳥のさえずり、 そのほか、ブーとかシューとかいう遠くの音が私のすぐそばで鼓膜をふるわせていました。それからというもの、世 界は一変して表情豊かな姿を見せてくれるようになりしました。何かを見ても、いままで意識しなかった形や色の 微妙な違いにまで気づくようになり、それまでは単なる「美しい夕焼け」だったものが、長い時間をかけてゆったり と色合いが変化していくダイナミックな光のドラマとなっていきました。 理論と体験を交えたこのセミナーで私は「抽象作用」ということを学びました。人はたえず抽象作用をしている、 というのです。事実の記述、記述についての記述、推論、理論と、抽象のレベルが高くなるにつれて、だんだ ん現実から遠ざかり、より包括的になるとともに細部が見えにくくなっていきます。ものごとを考えるときには、抽象 のレベルの混乱を起さないように気をつけて、より具体的な現実に即して考えるようにしましょう。そして、ことばの 外へも出てみましょう。事実として語られたことは事実そのものではありません。自ら体験し、感じたものもひとつの 抽象でしかありません。ことばの呪縛から解放されてきらきらと輝いてみえた世界も、より大きな「できごと」の一部 を抽象しているにすぎないのです。私たちの内と外で起きている「できごと」はプロセスであり、時空を超えて網の 目のようにつながっています。つまり、この世の中に「絶対不変」というものはなく、すべては仮のもの。「はかなさ」 や「無常」も、この世のありようそのものであって、人は、それを受け入れることによって活き活きと生きられる。セミ ナーの終わり頃になって、やっと、そのことに気づいたとき、私はグループのなかで止めどなくあふれる喜びの涙 をぬぐうことを忘れていました。 この体験から私は、宗教に依存することを戒め、あくまでも知性によって自分の生き方を切り開いていくことを 主張する「一般意味論」から体験的に学びとったことが、皮肉にも基本的な前提において仏教の教えと共通 しているという確信を強めることになりました。そのことを私は、1984 年にサンディエゴで開かれた一般意味論の 国際会議で「一般意味論と般若心経」と題して語りましたが、当時の指導者の一人で、私のことを気にかけて くれていたシャーロット・リードをはじめ多くの参加者が認めてくれました。 橋を架ける仕事 私は大学を出てから 38 年間、ずっと高校で英語を教えてきました。その間、ここまでお話してきたような私の経 験を意識的に教室に持ち込むことはしませんでした。しかし、振り返ってみると、英語の指導にも学級経営にも、 その時々の私のありようが何らかの影響を及ぼしていたことはたしかです。教師としての私を支えてきたのは、まぎ れもなく過去六〇年間この世に存在し続けた「わたし」そのものでした。 「橋を架ける仕事」とでも言えばいいでしょうか。ことばとことば以前の経験、論理と感性、目に見えるものと見 えないものをつなぐ手助けをすることが私の仕事だと考えています。実感をもってことばを使うために形式と意味 をつなぐことを「フュージョン(融合)」といいます。対立や葛藤を乗り越えるには「対話」が必要です。異質のもの が共にあることが自然だという「調和の感覚」を持つことも大切です。そんなことが生徒たちにうまく伝わればい い。そう願いながら日々を過ごしています。 最後に、私がある年の卒業生に贈ったメッセージの一節を引用して、この物語にいちおうの区切りをつけるこ とにしたいと思います。 諸君は、これからの人生で次々に課せられるテーマにどう答えていくのか。未知を為そうとするとき、不安はさ けられない。とすれば、やはり自分を信頼するところから始めるほかないだろう。人生経験は少なくても、いま、 自分が持っているものを駆使して精いっぱい生きること。模範解答や「べき」「べからず」にとらわれず、自分に 問い、命のリズムに耳を傾けること。 若い諸君に求められているのは深い洞察に支えられた軽やかな行動である。背筋を伸ばし、肩の力を抜い て、大きく深い息をひとつして、さあ、未知に向かって踏み出そう。テイク・イット・イージー。