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ダウンロード - 浄土宗西山深草派総本山誓願寺

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ダウンロード - 浄土宗西山深草派総本山誓願寺
2016
彼岸号
146
VOL.
浄土宗西山深草派宗務所
総本山 誓 願 寺
◆
◆
●賢問子行状記⑯
●布教師会HPの紹介
●何でも〝お寺探偵団〟
●総本山誓願寺だより
●インド
ド
タ
バ タ 夫婦道中記
招賢山 白蓮院 東林寺
●迷子みちしるべ 四
●お釈迦さまの十大弟子
6
目次
Vol.
44
40
てん じ
てん のう
◆ 誓願寺蔵 天智天皇像 ◆
天智天皇(626−671)
たい か
かいしん
じょ めい
なかのおおえ
大化の改新の中心人物。
父・舒明天皇の即位後、
中大兄と呼ばれた。
さいめい
あすかのみや
え
ぞ
ち
斉明天皇年間は、
飛鳥宮造営などの大きな土木工事、
蝦夷地(現在の北海道)
の支配、
唐
おおみ
くだ ら
に滅ぼされた百済の復興に費やす。斉明天皇7年(661)春、都を飛鳥から近江の大津に
移し、
翌春に即位して天智天皇となる。天智天皇6年(667)誓願寺建立(「誓願寺縁起」)。
りつ りょう こっ か
あお
天智天皇10年(671)
12月3日、
46歳で世を去る。
律令国家の創始者と仰がれる。
(2)
第146号
毎月新しいお説教(法話/説法)を、
ご本人の声で聞くことが出来ます
今すぐ!ご検索下さい!
!
季節の法話 4月
深草派 布教師会
季節の法話 5月
しんじゅいん
ぎょくせんいん
京都市伏見区 真宗院住職
愛知県蒲郡市 玉泉院住職
榊原慶憲師
新美和彦師
さかき
ばら
けい
けん
御題「朝日と夕日」
にい
み
わ
げん
御題「五月」
ぜんじょう
一日の始まりと終わり、
この太陽を観ることは、
極楽浄土をイメージする
練習の一つです。
禅定のお念佛について、
優しく法話をしています。
忙しすぎる世の中だから
ぼうちゅうかん
こそ、「忙中閑あり」。
平成28年1月の法話(1)
平成28年1月の法話(2)
そうふく じ
愛知県岡崎市 崇福寺住職
いな
よし
まん りょう
稲吉満了師
ようりん じ
愛知県西尾市 養林寺徒弟
お ばら しょう えつ
尾原昭悦師
御題「新しい光明の朝が来た」
御題「気づきの大切さ」
法然上人は、阿弥陀さま
きんせん
のお心が琴線に触れ、そ
れ以来驚くほどの心の安
らぎを実感しています。
誰もが誰に対してもでき
る、人に与えることので
む ざい
しち せ
きる「無財の七施」。
浄
土
宗
西
山
深
草
派
布
ホ教
ー師
ム会
ペの
ー
ジ
の
紹
介
で
す
第十一話
いずみ しき ぶ
しょしゃざん
ぼ
だい
にょにん
ともら
の菩提を弔いたく、性空上人ならば、罪
深き女人を教化していただけると参りま
した﹂
と話しました。しかし性空上人は、
﹁女人教化の道を私は知りません。他へ
参って教化を受けてください﹂
私ほど罪深い者はいない﹂
﹁はるばるやって来たのにお留守とは。
﹁法華経十万部あまりを読んだが、女人
と女中達は涙をこぼしました。
﹁では誰を訪ねれば!﹂
小島英裕
と悲しくなりました。日も暮れ帰り道も
が仏になることは叶わない。しかし一つ
と答えました。
分からず四人の女中は、門前で夜を明か
教えを示したい。京都の誓願寺の阿弥陀
にしき
じょちゅう
そうとしましたが錦の着物では眠れませ
総本山誓願寺執事
もう
ほっ け きょう
﹁和泉式部、書写山に詣でる﹂
しょうくうしょうにん
きょうけ
た
りき ほん がん
さまには、女人であっても念仏を称える
あきら
ん。
に そう
麓の庵室で説法し人々を教化されたので、
あが
者を極楽へ救う他力本願の力がある。
しょうじん
ある。早く京都に帰り誓願寺に参りなさ
﹃遙に照らせ
山の端の月﹄は誓願寺に
昇り、暗かった空が光に照らされました。
ふと東の方を見れば、山の端より月が
﹁明後日の夕方、都より鬼ども四人が、
は
よ
い﹂
いっしゅ
くら
やま
いり
式部は有り難く一首を詠みました。
はるか
みち
私に会わせて欲しいと言って来るようで
冥きより
冥き路にぞ
入ぬべし
皇后より奉公の暇をもらい、誓願寺住職
もん こ
くら
す。性空は西国へ修行に出て留守です﹂
遙に照せ
山の端の月
にお願いして尼僧となり、﹁専意﹂と名
のぞ
さい ごく
と答えるように伝えました。三日後の夕
性空上人は、庵室の中で歌の心を聞き、
付けられました。境内には皇后より小さ
お
どう
ほう こう
たまわ
ちょうわ
いとま
けい だい
と
︵つづく︶
せん い
式部と女中達は誓願寺に参り、式部は
方、庵室の門戸を叩く音がします。弟子
﹁これは釈迦一代の説教が三十一字に表
な御堂を賜り、麻の衣に数珠を持ち、念
じょうとうもんいん こう ごう
つき
達が覗き見ると、美しい女性四人が打ち
れている。不思議な女だ﹂
仏の声が絶えることはありません。和泉
てら
萎れて立っています。弟子は鬼神が美女
と思い門前の女性を中に入れ対面しまし
式部は長和三年︵一〇一四︶三月二十二
あんしつ
に化けて来たと思い、門の内より、
た。式部は頭を下げ、
日、夕日と共に大往生を遂げました。
き じん
﹁性空上人は西国へ布教に出て留守で
﹁私たちは上東門院皇后に仕える者です。
しお
す﹂
私は春に一人娘と死に別れ、出家して娘
ば
と伝えました。和泉式部は、
ある時、性空上人は弟子達へ、
はし
﹁尼僧になる道を諦めよう﹂
あんしつ
16
人々は﹁生身の仏さま﹂と崇めています。
ふもと
書写山の性空上人は毎日法華経を読み、
第146号
(3)
第146号
(4)
だ
ま
か
その2
か しょう
もら
絵・豆田織奈
文・釈尊法話会
たそうです。
に与えました。老婆は大変喜び、感謝し
と托鉢に回り、自分が貰った食事を老婆
12
6
托鉢を行っていました。すると、先日
ず
だ ぎょう
ひたすら修行をしました。頭陀行の一番
会った老婆が声を掛けてきました。
たくはつ
大切な修行は托鉢です。色んな家を回り、
﹁お坊さま、先日はありがとうございま
く
よう
その日の食事を頂きます。多くの弟子達
した。お礼に何かご供養させて頂きたい
ゆうふく
が、裕福な家々に托鉢に出掛けたのです
のですが、こんな物しかありません。お
老婆が差し出してきた物は米のとぎ汁
受け取り頂けますか?﹂
ある日の事です。貧しい人々が暮らす
でした。お米が買えない老婆は、裕福な
ました。
村で托鉢を行っていた時のこと、一人の
家から米のとぎ汁を貰って飢えをしのい
ろう ば
老婆に出会いました。見るからに元気が
あくしゅう
すから、腐っており、物凄い悪臭が鼻を
ものすご
でいたのです。しかも、昨晩のとぎ汁で
と、
突きます。
つ
﹁私はもう十日も何も食べていません﹂
﹁ありがたく頂戴します﹂
摩訶迦葉は、老婆から貰った米のとぎ
ちょうだい
と言いました。
くさ
ありません。その老婆に声を掛けてみる
じる
が、摩訶迦葉は貧しい家々に托鉢に回り
しゅぎょう
お釈迦さまの弟子となった摩訶迦葉は、 数日後、再び貧しい人々が暮らす村で
ず
外伝
頭陀第一の摩訶迦葉
お釈迦さまの
ご生涯
﹁これをお食べなさい﹂
汁をぐっと飲み干しました。
﹁こんな物でも頂いて下さるお坊さまが
いらっしゃったとは。ありがとうござい
よろこ
す
ます。ありがとうございます。あなたこ
そ仏さまです﹂
ば
たた
老婆は涙を流して喜び、摩訶迦葉の素
晴らしさを讃えたそうです。
摩訶迦葉に米のとぎ汁を供養する老婆
第146号
(5)
(6)
第146号
インド
夫婦道中記
40
ぎ
れい
精神世界の
ほんの一部を感じた
こ
まわ
たし
き
おく
どっ
ん が 二 人 つ い て い る の だ っ た 。るのである。
とちゅう
しゅつぼつ
ごうとう
とら
こ こ は 、 虎 や 強 盗 が 出 没 す る 長 い 石 段 を 途 中 二 回 ほ ど 休
せっぽう
ので、以前にも必ず同行して みながら、釈尊が説法したと
ねん ぱい
たど
くれている。年配のポッテリ い わ れ る 頂 上 に 辿 り 着 い た 。
ぎ しゃ くっ せん
タイ寺の横に小綺麗で小さ したお巡りさんは確かに記憶 僕たちは説法台の前に座り読
しん りん
すみ
のこ
きょう
なホテルがあり、そこではど の隅に残っていた人で、﹃地 経をし、森林だけしかない南
となり
け
しき
けっこん
ひ
ろう
うやら結婚披露パーティーが 球の歩き方﹄にも紹介されて と西の景色を、東にはすぐ隣
にっぽん ざんみょう
かんせい
びえる少し高い日本山妙
開 か れ 、 夕 方 か ら 音 楽 や 歓 声 い る 日 本 人 び い き の 良 心 的 な にほそ
う
じ
た
ほう
おそ
法
寺
の
あ
る
ラ
ト
ナ
ギ
リ
︵
多
宝
が 聞 こ え て い た 。 そ れ が 夜 遅 お巡りさんである。
おう
ざん
まちなみ
み
お
きょうてん
ジギールは経典では﹃王 山︶、見下ろすと小さな町並
く に な っ て も 終 わ ら ず 、 結 局 しラ
やく
ゃじょう
しゃくそんざい せ
だん ぞく てき
そのざわめきは朝まで断続的 舎城﹄と訳され、釈尊在世の みのある北のラジギールの町、
す
に続いたのだ。僕たち四人の 時代はマガダ国という国の首 短い時間ではあるが、澄んだ
だれ
じゅくすい
誰もが熟睡できなかったのだ 都であった。その国のビンビ 空気を吸い込み、三六〇度の
ら
おう
びん ば しゃ
マを、この風景を新た
が 、 そ れ で も 割 と 元 気 だ っ た サ ー ラ 王 ︵ 頻 婆 娑 羅 王 ︶ は 、パ ノのラ
や
う り
うしろ
がみ
ので、新婚カップルの旅立ち 覚りを得る前からのお釈迦さ に脳裏に焼き付けた。後ろ髪
いちもく お
くだ
を 見 送 っ て 誰 も い な く な っ た ま に 一 目 置 い て い た 人 で あ る 。を 引 か れ る 思 い で 下 る 石 段 は 、
か しん
みぎうで
つか
すが すが
後、僕たち夫婦は朝の清々し 王の右腕として、多くの家臣 不思議にも疲れを感じること
ていきょう
お
かろ
ぶ りょく
さん
まわ
い空気を吸い込んで周りを散 と武力の提供を申し出たのだ なく軽やかに降りられるのは、
ぽ
が 、 お 釈 迦 さ ま は 、 全 て を 捨 いったい何なのだろうか。
歩した。
す
軽く朝食を済ませた後、ま てて修行中の身の自分にはそ
よく
み
じん
はな
いと、あっ
ず 五 キ ロ メ ー ト ル ほ ど 離 れ た ん な 欲じ はたい微 塵 もさな
と
まい
りょうじゅせん
山 、 グ リ ッ ダ ク ー タ ︵ 霊 鷲 山 、さ り 辞 退 し 、 覚 り へ の 道 に 邁
ことわ
しん
のぼ
ぎ しゃ くっ せん
耆 闍 崛 山 ︶ に 登 る こ と に し た 。進 し た の で あ る 。 断 ら れ た 王
あかつき
ゲストハウスを出て歩いてい は 、 も し 覚 り を 得 た 暁 に は 、
ざい け しん じゃ
ほ
ちょうど
ば しゃ
在家信者にして欲
た ら 丁 度 、 馬 車 が 通 り か か っ ま ず 自 分ねを
が
のぼ
ぐち
たので、それに乗り登り口ま しいと願った。そしてその後、
ぶっきょうきょうだん
で向かった。登り口に着いて 仏教教団のために、僕たちが
いしだん
ト
ハ
ウ
スの近く
山 頂 に 向 か う 石 段 を 歩 き 始 め 泊 ま っ たちくゲりス
ん しょうじゃ
き
しん
ると、いつの間にかお巡りさ にある竹林精舎を寄進してい
岩瀬 賢良
東龍寺 住職
グリッダクータ(耆闍崛山)
の頂上、
説法台の前での読経
三月
●十四日︵月︶
善導忌・六阿弥陀功徳日
●十七︵木︶
∼二十三日︵水︶
春彼岸
●二十五日︵金︶
∼四月四日︵月︶
法脈相承
四月
●九日︵土︶
花まつり
●十五日︵金︶
六阿弥陀功徳日
●二十三日︵土︶
∼二十五日︵月︶
元祖法然上人御忌法要
五月
●十八日︵水︶
六阿弥陀功徳日
六月
●十八日︵土︶
和泉式部忌
●十九日︵日︶
六阿弥陀功徳日
七月
●十四日︵木︶
六阿弥陀功徳日
八月
●十五日︵月︶
六阿弥陀功徳日
●十六日︵火︶
精霊送り・盆施餓鬼
●二十二日︵月︶
∼二十三日︵火︶
少年少女参拝団
︻問題︼
○
何でもお寺探偵団で、ご住職のお坊さんとして心
がけは何でしょうか?漢字四文字でお答え下さい。
○ ○ ○
官製はがきに、答え、郵便番号、住所、氏名、電話番号、菩
提寺︵だんな寺︶、感想や質問を必ず書いてご応募下さい。そ
の中より紙面に採用させて頂くことがあります。掲載時には、
はがきにてご本人にご連絡差し上げます。名前の掲載が困る方
は、その時にご返事下さい。今回は、東林寺さまより腕輪数珠
と 落 慶 記 念 の ボ ー ル ペ ン を セ ッ ト で5 名 さ ま 、 本 山 謹 製 線 香 を
5 名さま、合計 名さまに抽選して差し上げます。ご応募お待
ちしております。
答 え ○ ○ ○○
郵便番号
住所
ちかい
総本山誓願寺
第 号
浄土宗西山深草派
平成二十八年三月五日
146
京都市中京区新京極桜之町四五三番地
電 話︵〇七五
︶ 二二一 〇九五八
氏名
電話番号
菩提寺︵だんな寺︶
問 感想 ・質
等
発行日
発行
所
︻締切︼五月 十日
︵消印有効︶
愛知県西尾市下矢田町郷二
養寿寺
内 ちかい編集係
︻宛先︼ 〒四四四 〇三一四
10
◆
お
も
な
行
事
予
定
総
本
山
誓
願
寺
だ
よ
り
毎年夏休みに小学校5年
生、
6年生を対象に行ってい
ます。今年は8月22日
(月)、
2
3日
(火)の2日間となります。
定員は60名、定員に達し次
第締め切りとさせていただき
ます。各寺院へ募集要項を
お知らせしますので、詳しくは
そちらをご覧ください。
Ǖ
Ǖ
NJ
NJ
Ǡ
Ǡ
Ǚ
Ǚ
ḩ
ḩ
ǰ
ǰ
ḩ
ḩ
URL
http://www.fukakusa.or.jp/
FAX︵〇七五
︶ 二二一 二〇一九
E-mail [email protected]
− −
第146号
(7)
少年少女参拝団 参加者募集
(8)
第146号
とう りん じ
東林寺
何でも
さい とう
Vol.44
りゅう みょう
斉 藤隆明 師 (東林寺 第31世) 昭和30年生まれ、61歳
龍谷大学文学部仏教学科卒、豊川市役所に勤務。平成11年12月先代の遷化に伴い市役所を退職し、翌年住職を拝命する。
ほしまつり
今回は愛知県豊川市にある
しょうけんざん びゃく れんいん とう りん
じ
「招賢山 白蓮院 東林寺」を訪
ねました。
Q1
お寺の由来を
教えて下さい。
さかのぼ
今から えいき
るこ
と約600年前、室町時
ょう
代中期の永享年間
(1429∼1441)
おおみ
あ じゃ り りゅうげつにちぞう
に近江の阿闍梨、龍月日蔵和尚によっ
どうげん
て創建さ
れま
した。
当初は寺号を
「洞言
あん
庵」
といい、真言宗に属するお寺でした。
えいしょう
後の永正年間
(1504∼1522)
に
どう う
こんりゅう
ばいくう ぜんぎゅう
梅空善伧和尚によって堂宇を建立し、
が らん
伽藍を加えて現在の様子となせいじん
りました。
え おん
昔中国に恵遠法師という聖人がい
ろ ざん
ました。
この人は蘆山東林寺に住み、
びゃくれんげ
常に白蓮華を愛し、又聖人賢者を招い
い
て念仏を称えていたと謂われていま
した。
じ せき
した
梅空善伧上人は、
その事跡を慕って、
寺号を招賢山白蓮院東林寺と改名し、
浄土宗西山深草派に帰属したといわ
れています。
寺の記録によれば、徳川家康がまだ
三河の領主だった頃、二度当山に立ち
寄り休息しました。
その儀礼を果たすた
い な び ぜんのかみ
め、時の奉行「伊奈備前守」に命じ寺
領を与えたといわれています。
慶応2年(1866)7月7日星祭の夜、 交わしてしまいました。以後、浄瑠璃姫
は牛若丸が忘れられずに、大望を抱く
本堂より出火し全て焼失しました。
その
牛若丸の安否を気遣い、護持佛の阿
後、明治16年
(1883)
に当初より一回
だいがんじょうじゅ
り小さな仮本堂として再建しましたが、 弥陀如来に、身の安全と大願成就を
祈り続けました。
経年に依る傷みが激しかったため、今
この浄瑠璃姫の護持佛を当山開祖
回建て替えを行ったものです。
龍月日蔵和尚が、矢作から当所に移し
お寺の宝物は
本尊としたものといわれています。
Q2
何ですか?
慶応2年に全焼したので、古くからの
什物は殆ど無くなってしまいました。
しか
しながら当時の住職が、大事なものだ
け数点持ち出し、難を逃れたものがあり
ます。
その中にご本尊阿弥陀如来像が
あります。
鎌倉時代初期の中央仏師の作とい
われていますが、
残念ながら本堂焼失
れん げ だい ざ
こうはい
の際に蓮華台座や光背も焼失し、作
者や時代が特定できていません。 みなもとの
今か
ら約8う
6
0年前の1150年頃、源
しわかまる
よしつね
かね
義経
(幼名
:
牛若丸)
が15才の時、
金
うり きち じ
ともざむらい
くら ま やま
売吉次の供侍と
して京都の鞍馬山か
おうしゅう
かな
や はぎ
ら奥州へ下った途中、
矢作の里の金
まるちょうじゃ
丸長者の屋敷に宿泊しま
した。金丸長
じょう る り
者には「浄瑠璃」
という絶世の娘がい
ました。ある夜、素晴らしい琴の音が聞
かな
こえ、
それに合わせ牛若丸は笛を奏で
ました。二人は恋に落ちとうとう契りを
Q3
お坊さんとしての
心がけは?
じ ねんほう に
「自然法爾」、
あるがままにを心がけ
ています。
自分の都合の悪いことは、
どうしても
自分のものとしたくないと考えがちにな
ります。少しでもよくしたいと思う心は皆
当たり前のことと思います。
しかし、良いことも悪いことも全て自
分のものとして、
あるがままにまず受け
入れることが大事だと思うように心がけ
ています。
Q4
「ちかい」読者に
何か頂けませんか?
らいこうばしら
じゅ ず
旧本堂の来迎柱で作った腕輪数珠
と落慶記念のボールペンをセットで5名
の方に差し上げます。
【交通】
名鉄本線 御油駅下車 西へ徒歩10分 1月24日
2月15日
2月21日
春分の日
4月8日
8月1日
8月24日
秋分の日
落慶法要
▼
東林寺
〒441−0211
愛知県豊川市御油町今斉28
電話 0533-87-2824
稚児行列
▼
【お問い合わせ】
お稚児さん
▼
初観音大祭会
涅槃会
御忌会
春彼岸会
釈尊降誕会
盆施餓鬼会
地蔵盆会
秋彼岸会
新築の本堂
▼
【主な行事】
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