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1996年度 - 青山学院校友会中等部会 緑窓会

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1996年度 - 青山学院校友会中等部会 緑窓会
第 5号 1996年 (平 成 8年 )5月 1口 発行
青 !学 院 中等部緑 窓会会報
1996年 〈
平成8年 )5月 1口 発行
第 5号
躙1人 外崎′
十肛 │■ Ⅲl‖ 織t会 ′
「
〒 150 ,(1(椰 ヽ:谷 lκ 共谷4-4-25
it;F l,3 ■98 5387
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ご日︼
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寺」
「 半院 中■ 部緑 窓会会 報
々鰤
中 等 部 創 立 五十 周年 にむ け て
︱ で 所刷中■れ ■ 初 の前 人生を迎 えてから満 ■■■ に
来年 四︱
,
な ります.
i ■年 前 の 一九 円 し ^
昭和 F 二年 に ヽ卜 一れ であ ﹁た 一知 生
l
,叫 には大■ ●歳とな 助 ■ は肛 に遥“
は 当然 の な がら そ の
,
,
を迎え て いると いう こと にな ります
更 にそ の 二年後 の山● 0●●■ には 窓 の0● ■ 川 ■ の
,
, ,
来 ︶から■卜周年と いう ■を迎えよす
この半︱
︱には 4人 ■や中■“ にと っては勿 崎 日本 にと っても
ti にと っても大きな 変動をともな った期 間 でした.
l
︱
然し そうした変化 を栞 り越え て 中■■ の中 に 今も変 わらす
に流 れて いる ●流 と い ったも のがな し られる のは t十 の精神と
・う か 0強 い限 リ
黎 砒彙 の″ 々のた0まな いご勢力 のお かけ でし .
,
です.
■ 々績窓 会も t tO年 に四十日午を 迎え て ヽ ﹁
原点 祝茶
l催 し,
l
Lし て ■ ﹁
織窓合 のH﹂を ︲
てきまし た.
︱
,窓■ に,
おF伝 い0きな がら F作 り の ホー ム カ ミ ン
沢 山 の同
証続 ﹂を
,
をもち 小 さく ても ,
■つな がるよう
か〓■ ︱
グデー のような 半 =を過 ごしま す.
︱
中″ は ″ ︱
︱十 屹 の七十 の■“ を“点 に え て 中■W時 代 に味
, そし て■ し いだけ で
わ った 白山 で 明るさとヽ しさ にあ ふれた
なく 文化的な0
﹁
緑 窓会 の日﹂に会 いましょ つ! 一
い 過■ の出 来■
わ が中■部t mH年 そし て ﹁
緑窓会 の日﹂し 年 で七年 同を 迎
,
えます
﹁
友 たち の味 と いう のは 年をと ってく る に つれ て しわりしわ
りとわ か ってくるも のです。■ く から の友人 と
, ■“的 に収 ■す
を証り合う こと によ って 古 か った ころ の自 分を
,
︱
ことも でき ます しね.﹂こう語さ れ て いる のは ︱
, 講● し てドさ
,
,”生活を そし て
います =野原■ 明先生 です。 学■叶代 には い硼
,
1
三卜数年 ︲
1には な市 の ●ヨトリ の ^イ ジ ャ ック一体験な どされ て
らし い医鷲 やi 護 のあ り方 に ついて 極 的なI■を され て
人間,
,
,
一
製■ 白井
茂 ︵
6期 ︶
な そんな ことを■ り込 んで いる会 です.
︱と同時 に 会 則を 改正し 々員 の任期制 や定 年制
ま た 活動 ︱
︱
︱
し て ︱
を 設けるなど,
︱米 るだけ多く の方 に役 n に参加 し て■ けるよ
う 配に しまし た.
一これ は同意会 と いう物 が あく ま でも 一部 の人 の物 でなく 会員
みんな の物 だと いう精神 に基づ いて います.●
こ o 年 か し期 八期と ,
ず つ当■ の川 をすら しな がら や っ
あと 午 と進 一てき たFIH■.
1
今ま で の来大 成 が1
1ス る でし ょう か,
ど んな記0■共 をし たらヽ いでし ょう か
, のよう に 全部 の剌 で力 をあわ せ
, が 来年 は四卜H年 の”
て います
同容 生 の■極的な ご意見 や お手t いの可否などを‘ 務局宛 仰寄
てとを たて います
ー
一人 でも 多く 0同窓 ■ にご参加頂 き 十tイ
ーとも■く相 談し なが
ら ■ Lげ て いかねばな りま せん.
,
中■部 と躍窓 全 の原占¨
を踏まえな から ■ 肛紀 に向 か って 一
,し て次代 に継 続さ せ て
︱となる そんな 祭を成 功さ せ そ
つの姉 ︱
,
いき た いとな 願 して います
せドさ い.
︱
2
います 講演 の 削に8期 の■︱
︱さ ん 1期 の近■ さん が加 わ った B
名 の弦楽●´日,
の資 ^を 則 いて下さ い ﹁ ア ンサ ンブ ル﹂は■ にバ
!
,楽●苺 団 です.名 ヽ ﹁
ロック占人を● 案す る︱
︱的 で結 成さ れた弦
︱﹂
は 弓人 の弓 かむ かしヽ の本 で” ら れた こと にちなん で名 付けら れ
あわた だし い 日を 何 となく過 ごされ て いる方 子市 でに進 わ
ま した
れ て いるイ いお,
0さ ん そし て 現‘ 年老 いた両親を看 護さ れ て
いる方 t 非 ”校 にえを 延ん で下さ い H野“ 光■ のお話 で き
っと力 がわ き ” 日 への希 望 で気持 ち が新 た にな ると思 います。 そ
し て たま に会 った同窓 生道 と礼r に のそみ計案 を回き お■ の昨
︱ にはおお いに語 って下さ い 別 れるに は ﹁また来年も ここ で い
︱
,
まし ょう oを0 ︰
1■ にし てドさ い
講演 テー マ
″
友 だちづくり によ る
人 生 の午 後 の歩 み″
﹁︱︱︱︱
日野原重明先生略
歴
︲︱県■ま れ
明治 4年 “
︱
月
4
︱
︱
昭和 2年 一
水都大学●学部■業
昭和 お午 米国 エモリー人十 に留ヤ
日野原重 明先 生
現職
昭和 p■ 2
加〓 人ヤ に
月
型
路
護
■
昭和 ”午 2 ¨
7校 人
月
法
聖
路
加
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護
■H ■“民
︱木 総企
昭和 陀年 2
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■
診
F
■
^
会長︶
︱
,長
平成 4年 4月 聖路加=際“眈 院
8ε
日野原先生 〓専 門
内科学 ^
循環I︶
r防医学 健成教 L■教育 ■4教育 終木F療
,
老午L学
^大手可能な著〓〓
﹁死 ″・
ど う 生 ムヽ
る か ^
中熙公綸二3”t
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一生 と 死 に希 望 と 支 え なヽ■=人山報=︶
●ヽ
一b● 〓 8︶
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三
● コンサ ー ト紹 介
﹁
梓 アンサ ンブ ル﹂
黒 日 明 子さん
[
8期] ︵旧 ・笹 原﹀
近重 自
田子さん
2
[
旧 ・武藤 ︶
︲期] ︵
︱的 で
*■ に 人 ロ ック■ 楽 を濱 奏 す る ︱
九 九 年 にヽ 成 さ れ た 弦 楽 ● 奏 口 で 名
私¨
枠 ﹂は弓矢 の矢 が■ ■ の本 で つく ら
れ た ことにちな ん で つけ ら れ た そう です
^ 奏 経 験 を “ ん でき た 社会
メ ンバー の多 く は音 楽 大 学 出 身 者 で 今
ま で に多 く
人 L 婦か ,
らな りま す .
メ ンパー は
チ ェ ロ 3 名
ァイ オリ ン m名
, ィオラ 3名
ゥ
コ ン ト ラ バ ス ー 名
7名と十●■ 江原 功氏 です。
計︲
梓 アンサ ンブ ル プ ログ ラ ム
レ ス ヒ ー キ リ ■︱ 卜 のち の占 風 な ” 山 と ア リ ア第 3 対 ︱
︱
︲
モ ーツ ァ ルト 一
ア ィ ベ ル テ ´ メ ント 第 2藩 一■ 調 ︻ お 0
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チ一イロ スキー ■来うためのセレナーデ ︵■山 F︱
︱
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コ ヽ ン シ ュト ラ ウ ス ヒ チ カ ー ヽ ホ ル カ
,
ホ ′ ケ ー ー 一 メ ズ エ ッ ト
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着 口rF院 中等部緑 窓会会報 第 5号 1996年 (平 成 8年 )5月 1日 発行
青 山学院 中等部緑 窓会会報 第 5号 1996年 (平 成 8年 )5月 l口 発行
― ― 中 ― ■
一年 後 の神 戸は今 ⋮
7期︶
雄谷芳郎 ︵
2
これも 同窓 の皆様 に 様 々な お力 添えを項 いたおかけと思 います。本
当 にな 難う ござ いま した.
震 災後 ● ヵ月し て 私達 は地震 の被■ がほと んと無 か った社t に移 り
みま した。
,以来、私 は仕事 に家内 は子育 て に精 一杯 の毎 日 で これま で感傷 的 に
。
っ
震災 当時
余
を
振
り
返
て
考
え
る
裕
な
ど
0
で
し
く
右
り
ま
ん
た
せ
そう した意味 で 実際 に現地 で被害を受 けた私辻 です ら あ の 一
阪神人
震災 ﹄ はもう速 い過去 の出来事 と いう感 じ です。
しかし、毎 日 私 が神 戸から大 阪ま で通勤す る電車 から眺 める神 戸 の
街並 みには いたる所 まだま だ地震 の爪 跡 が深 く残 ったまま です.
一年 た った今 でも 地震直 後 の状態 のまま のビ ルや マンシ ョン 民家 も
あ ります じ 公同 や学校 の′ ラ ンド の多く には仮 設tt がび っしり立 ち
並 ん で います .
ま た な んと い っても 神 戸市内を東 西 にた る ﹃
阪神一
市速 神 だ線 一が
至 る所 で撤 去/ ■断さ れ て いる様 子を 見 ると 神 ”市 民とし ては rヽ
れが
全線 開通ま でにあと 一年 だ か二年 かかるんだ から 神 戸 の夜 興もまだま
だだよな ぁ︶と いう のが実感 です。
そうし た今 の神戸 の様 子は 恐 らく東京 の皆さ ん に想像 が つかな いの
だ ろう と 思 います。
たとえ ば、東京 で親威 や友達 に会う と よく ﹁
まだ、 ︵
神戸 では︶空地
にな って いる所も 多 いん でし ょ ﹂と二わ れます 。
,
そう した台 詞を 聞くと そ の言葉 の ニ ュア ンスから宗し て 私も家 内
も内 心 ^
あ ぁ 東京 の人 には今 の神 戸 の様 子は想像 も つかな いんだ ろうな
ぁ︶
と思 います。
た だそれ は、神 戸 の私達 がたとえ ば 神戸よ り前 にあ の大 きな 地震 に
見舞 わ れた北海道 奥 尻島 や、t 砕流 に見舞 われ た九州 雲 仙普堅■ の
あ の阪神人震災 から早 一■ が過ぎまし た.
おかげ様 で私達家 族二人 今 はす つかり落ち■ いて 日を過 ごし てお
,
ります。
「
』
…
L― _…
︵
被災 地 の ﹁
現状﹂など 正直 想像 つかな いことを考 えれば当然 のことと
思 います。
や は 新 闘や なんと■ っても テ レビで取 り上げ られなくな ると ど
,
んな大災 害も大事件も人事故 も私達 の記憶 から薄 れ ま し て現状 がどう
な って いる のかな ど想像も 出来なくな る のだと思 います。
そう考 え ると、 やは テ レビと いう メデ ィア の影響力 と いう のは恐ろ
,
しく大 きな も のだと つく づく思 います。
先 にお話したよう に ふだん の日常生活 で震災 当時 のことを 改め て考
え る ことは殆どな い私注 です が 地震 の恐怖 そ のも のは忘 れられ るも の
ではあ りま せん。
去牛 の秋 口だ った か 何 日間 か続 けて寝 入りはな に震皮 3く ら いの余
震 があ った時など、私も家内も茨達 も皆 冒 がキ リキ リと” ん でしばら
く は眠 れま せん でした.
そうし た自 分を 経験す ると ︵
あ ぁ と んな に時 間 が経 っても あ の時
の恐怖 は体 に染 み着 いて いるんだな ぁ︶と思 います .
そんな こともあ って日常 我家 でも とく に ″
就寝 中 の地震 ′に対し ては
あ る程度 の心掛けを し て います。
たとえ ば毎晩 枕 元 の′ ッパウ ェア の中 には限鏡、懐中 電燈 2個 山
のよう な新 品電池を 欠 かしま せんじ 携十 電話も必ず菫 しな に 一度放 電
、厳 し い寒 さ の屋外 に避
したI で フル光電 します。 それ に、ま た ^
再 び︶
難す る ケー スを想定 し 家 族〓人 のダウ ンシ ャケ ット や靴 下な ども寝室
に用意 し てから 晩寝 る のが召慎 とな って います .
あ と ち ょ っ,
と変 わ ったと ころ では ■ のガ ソリ ンを いつも満 タ ンに
し ておく のが震 災以来 の我家 の習慣 にな って います。
″ ス欠 の心配なく ヒーターを かけた■ の中 であ れば暖 がとれます し、
またな んと言 っても、今度ま た大 きな地震 が米 れば そ の時 はす ぐ車 で現
1しよう と思 って いるから です.
地を脱1
1
今 はま だ
で
し
そ
こ
ま
徹
底
て
備
え
て いな いのです が 今後近 い内 よく
2時間 13日間 分 の食料/欲料 を我家 でも備 えよう
言われ る ″
最初 の7
″
と思 って います。
東京 にお住ま いの皆さん が な かな か実際 の体験 なし に私達 のよう な
1常 の備
危 機意 識を お持 ち にな る のは難 し いと思 います が、あ る程度 の1
え は是 非 お薦 め致します 。とく に小 さな 子供を抱え て いると、災害時 は
本当 に大 変 です から⋮
伊 藤 栄 子 ︵旧 上 野 ︶8 期
一
睡 た のな か でも 最大 のよ諫 の 一つでし ょう が 人 の学 生 ■ 従教 職■ も 失 わ
れ な か った こと は神様 の深 い恵 み であ ったと 思 います .
︱
1
し
イ
も
た
も
の
の
水
も
ス
1
さ て 電気 は ︱
︱
1な い 教 ■ のヽ には大 き な亀 裂
︱前 に迪 った 人試
, も■ ■ り の駅 には米な い と いう 状 況 で ︱
余 歳 も 頻繁 t¨
や在 学 ■ の定 川試 験 を どうす る のか 第 一延期 し ても どう や って これを ●■ に
伝 え る のか 教 ●■ ●■ 懸 命 に知■ を し は りま し た。 後 か ら思 えば あ あ し た
︱新聞 ﹂と ¨アサL′ラ フ﹁に■載
ら Lた崩壊した“根 のカラー写真 が 剌 ︱
さ,
れ これをえた同窓生 の中 には神 ″久■Lか彙減 したと思 った人もあ った
︱を迎える学院 の
と後 にな って聞きました。今 回 の地晨 による被■は創立 ″■︱
i
私は関西 に住ん で いる数少な い■学中 高等部l
l イ の 人 です.中 高■
十︵
英語学博■サ取■︶の学
部 6● ICU4年 米国 ミシガ ン大ヤ大学院 5年,
︲
ー
ー戸女学眈大学文学部 で人=学を教え てきまし
生生活を経 て 1972年よリオ
た。現在 は擾X の他 に学■部 長 の任務を えられて います。
,
︱
叶 ′分 ■ド左右 の物凄 い揺れ で口を■まLたも のの 今
朝
5
昨年 1月7
1︲
関西 には大地正 はな い﹂と いう確■ のせ いで 私
から思えば全く根
,拠 のな い ﹁
は揺 れさえおさまればと思 って さ ほと の恐怖も感 じす に ベ ット の上 でし っと
し て いました.静か にな てからと あえず台所 に行き あ りとあらゆる食 器類
,
が床 のL に 々にな って飛び散 って いる のを見 ても 阪神 淡路 の広 い地域 に
,■をもた心した人 地掟 が起 こ ったとはそ の時 は想像 もしま せん で
あれ ほど の校
した.■ いな ことに私 の家 のあ たりは高台 で地上が堅か ったせ いか 本体そ の
も のに大き い被書を受けた家は近所 には少なか ﹁たよう です。しかし それでも
︱にはそれから 2 月近くを2した のでした。
ス 水道 の0 ての完 全複 ︲
︱
電気
,
当 日はどう にもならず家 に いました ので 川m の校書よ況もあまり分か
地震,
りませんでしたが ヤロ大 学 に歩 いて行 った途中 の惨よは どんな に説”して
も 場を えた人 でな いと分か って頂けな いでし ょう ●路 が四方穴方 に饗け
コ,
ンクリート の建物 が き t■ が横倒し になり こんな ことがあ り得る のか
︱と白然 の関係 が逆転
︱
界 のに人公たと思 い込んで いた人︲
と思うだけ でした.世,
︱
i界 でした。 そし てや っと大学 に辿 リ
l
した まき に 不■議 の国 のアリス¨の︱
l
つきますと 学生黎 ︱袂 中高部を物 1挟 か傾き 部室 ■務三 分tなど の小
さな建物 が いく つか0壊し そし て神戸久ヤ院 が白慢 にしてきた地中海様 式 の
ヽリ コフターか
技合■ のうち文学館 のオ レンジ色 のだ根 が崩壊して いまし た.
一
神 F女 学 院大 学 文 学部 学 生椰 ■
― ■
L__―
一大 震災 により教えられたこと⋮
4
青 山学院 中等部緑 窓会会報 第 5号 1996年 (平 成 8年 )5月 1日 発行
ほう がよか った のでは と思う ことばかりでした が 全 て の学事 日程を約 一か
漱甚災害法﹂ に
月遅らせてなんと か対処しました。人われた建物 の再建 には ﹁
より日 の助成 が受けられるのです が 日常 の対応 にパ ニッタ状態 です のに 国
は助成を受 けるためには詳細な被告状況 の報告およ び具体的な建築計画を至急
文部省 に提出しろと いう のです。人われた建物 に代わるも のとして 大学紋育
研究棟 学生寮 中高部校合 の計 3棟を建築す る こととな り 私も役職上
十■寮計画 の取りまとめを仰せ つかりました.計画をもどう にかまとまり 国
の勁成 が けられる こと が確定 した のは秋 にな ってからでした。そ の後 の準備
期間を経,
てよる 2月 おいに無事 3棟 の鍬入れ式が行われました。助茂を受ける
0億 の■ 入金も かかえて の■く厳し い道程 です が あ の大地震 か
と ぃ っても 2
ら ここま でよくたと り ついたなあ と感無● でした。
今な お地震 の傷 跡は各地にさまざまな形 で残 って います が も し今回 の経験
共
共 に生き る﹂あ る いは ﹁
が私たち に何 かを教え てくれたとしたら それは ﹁
に生かされる﹂ こと の大切さ ■さと いう こと でし ょう。仙人的 には家 族 の連
帯を改めて感 しましたし また関西 に住んで だん皆様とあま りお会 いし て い
,た。また 学院も青山ヤ院を初
ません のに 多く の方 に暖か い激励を項きまし
めキリ スト教学校メ育同盟 の加盟校 からさまざま の支援を頂きました。 この場
を借 つて深く感謝 いたします。あ りがとう ござ いました。
,
1 リーデザイナ← 8 期
︿スーパ I C組 。自然体 教育 ﹀
神道 ゆふ子
^
︲ 日 鈴 木 衣 子先
■ 山学 院 I 円前 に建 つ ″子供 の城 ″会 館 で 19 96年 1月 2
生を = ん で8期 ︱年 C 世及 び先 生を 嘉う グ スト が集 ま って の企 同 ク ラ ス会 が開
かれま し た.
。 幹事
2年前 2 ∼3■ の多感 な“ を な つかL み楽 し いパー テ ィと な りま し た ︵
1
︲
の鎌 田さ んあ り がとう ︶
.
ター ルで ︵イ カ ラ で ュー モア のあ るム 子先生 の生き方 に感 銘 し 影響 さ れ た
女 性達 子 で押 す と要 れ てL ま いそうな キ ャシ ャな■ ■ に と し て面 倒 か けま
は い つも ブ ッチ ギ リ
い 笑顔 をブ レt ントし た いと同 結 し た男 性達 運動 会 で,
ト ッフ のク ラ ス 勉 強 でも か んば つ証 も もう 少L 縦も 熱 心 だ った ね。特 に夫
語 は先 生 に かか せな いよ う か んば った よね. ● と い っても ″やさ しさ と 団結
,
青 山学院 中等部緑 窓会会報 第 5号 1996年 (平 成 8年 )5月 1月 発行
私 は こ の二 月 で中 + 部 の教 師 生活 にピ リ オド
を ちま した。 昭和 三十 五年 以来 専 任 と し て
四,
■年 非常勤 講 師 と し て六年 本 当 に い間
,
お 世 話 にな りま した。
昭和 二十五 年 は 中等 部 の第 一期 生 が事業 し
た 年 です。 そし て 今年 は 第 ■■ 期 生 が新 一
年 ■ と し て 入学 します 。 昭和 二十 二年 生 れ の中等 部 も 来
年 は満 i l■ と いう わ け です 。 先 日最 後 の期 末 試験 の採
点を 流 ま せ て ほ っと し た い 言 学 講堂 で 校 生 によ る送
,と 思 った のは
別会 があ りま し た。そ の” 講 ■ の上 で ふ
今 自 分 が って いる こ の場 所 は■ 何 であ った かと いう
﹁副 ∝﹁∃
ば﹂
間
と解 らな いでし ょう.
ここからは中■部 に限らな い広 い話 になります が音と今と では餃 べようもな
いほど物 は豊かに 情報 は多く 生活は便利 で快迪 にな りま した. これは確 か
■ の中 はよ いこと半分揺 いこと半分″と背く から言
によ いこと です.しかし ″
われ て います.何 かが かになれは かが■しくな るし 誰かが自分 の意志を
, かが意志を確
, かれて口■し い思 いをす るわけ です.平
通してこ気嫌 になれば誰
和 ぼけなどと いう言葉もあ ります が これほどヽ い平和 豊 かで便利な生活 が
, 旧初‘部校合基 で粗末な教員住宅と自家 用
ことです。あや ふやな祀■ です が 某 同があ り あとは空地だ ったと思 います。●しろ当時 は建物 が少なく空地 が
多か った のです. グラ ンドだ って広 い空地 のようなも ので夏休 み明け には全校
■掟 で■ い繁 った雑■を抜き 0 ころを拾 ってから でな いと体市 の授業 が でき
な いような状態 でした。そ の4 地で■従達は けり 馬未 つ ゴ ム段と び等 々
,
で実 に いき いきと遊 んで いました。
現在 は 枚今も校鷹も以前 とは比該 にならな いほど立派 にな り 普 の姿 が思
い出 せな いくら いです。雑年 になわれた空地などは 一坪たりと て兄当 りま せん.
一例をあげると 印刷物
学校生活 の中身も外観 に劣らな いほど変わりました。
は■ ■■に様変わ りです.色 々な本 から必要な桐所を コピーし編集 印刷す
ると いうような■事 はごく普通 のこと で 誰 でも手軽 に行 って います。時間も
手間も かからず 余 りに手軽なため つい■ が増え てしま います。 と ころが コピ
ー機 の■ か った嗅は印刷と言えば全部 ガリ版 です。 ろうを ひ いた原紙をやす り
″り切 ︶は今 では攘
枚 のL に置 いて飲筆 で″リクリ 一 す つ書 いて いく仕事 ︵
,
間と労力を要す るも のでした。家 にヽち帰る
かし い思 い出 です が かなり の時,
仕■ では このガリ切りが 一番多 か ったと思 います。深夜ま でかか って書き上げ
た原紙を細長 い紙前 に入れ て朝学校 へ持 って行く のが常 でした。 コピー機 の出
現 が いかに画期的 でありがた いも のであ ったかはガリ切りを経験した者 でな い
平
︵
力″ のある スーバIC組だ ったね.■ 々とア が少し後 這した■ あんな に小さ
く細か った のに 少 々太 り過ぎ の人 みな ︱ 々に思 い出話しに■しました。
︱
︱の19 3年 に退職なされるま
︱
相変わらず小粋 できわやか衣 t生は ■︱
,
, ︱
︱
, ﹁
私 の人生 始 めて 職 に徹 っし て 日楽 し
で “年︱
︱中■部 の数■ に たれ
, 面倒
,な られた近況を語 ってくだ
,さ いました。 ﹁
私
んで います。﹂と現在 “■ に
︱を出さな い様 にし
■さ がりやだ った のよ.■従 の白■ 白t にまかせて余 つ︱
ました。姉 びな い ■米を張らな い 十伸びしな い などを伝えられたらと の
な いでしたな.自然体を モ ットーにした つも りな の﹂
2年振り にお︱
︱にかか この白本体教● こそ青 山学院 で った我 々
t■ に4
,
,
の精神的基本とな った■を 認識 いたしました。
青
して まだまだ別れ雉く 2次会 3ス会 へと縦き ,
■来年 1月 の■会を約束,
︱すさ み,白外体が 一番 ′と 利′半
+時代 ツタ のからまるチ ャベル″ の歌を ︱
。
ばを迎えたそれぞれ の想 いに︱
︱曖して家路 に つきました
︲
﹁
緑 窓 会 の 日﹂ 開 催 報 告
︱﹂ は 原点 祉祭 継続 のテー マで 六月ニ ー
上︶
一九九■年 ﹁
稼窓会 の︱
ー^
■学議■ にお いて開催されました.
本 来は 礼■ の■教を飯久保会長よ りご推お いただきました。■川平安教会 の
山口隆底牧師 にお願 い致しました。先生は ﹁= い祀金す る旅路﹂と いう演題 でと
てもやさし い計りいで 私違もな るほどとうなすけるお話をし て下さ いました。
礼■ の後 は ヽ大地ド食生 にて懇談 のティータイ ム な つかし いた■方ヽ
先輩 後す が 一体とな って話 がも りLり あ っと〓うま の 一時間 でした。
最後 は 中等椰 t期 の■業 生 で日本 はもとより肛界的 にお躍なき って いる年
前家 ﹁
沢丼 一恵きんと グ ルーブOTOKO﹂の方ヽ のお帖らし い演奏会 でした。
琴 に関す る″え方を改められた方も大勢 いら っし ゃる ことと思 いました.沢
丼さん の間違なトークと ′ ルー フOTOKO の方ヽ の力強 い演^ ま たたく
︱が過ぎてしま いました。
ま に時 ︱
︱
チヤ
礼年 の時 の献企 は例■どう リ タイ の バンセ ン氏病 の技済肌続 であ る ﹁
ンタミ ット﹂ に寄付されました。
績窓会 の口﹂
今 回も実行委員ばかり でなく多く の燎窓会全員 に支えられ て ﹁
︱
。
一人 で
を 開催す る■ が︱
︱来ました 同窓会は 一人 一人 の御協力 が必要 です.
も 多く の会貞 が会を■る■ に参加されますよう お願 い致します.
5緑 窓会 の日﹂実行琴員長 山本 秀 雄 ︵
﹁
7期 ︶
9
L
代慣なし に亨又 でき る書はあ りま せん.裏 の半分は大変恐し いも のだと思 いま
す 例えば学校 にも 一
般
■
会 にもあ る程度 の思や危険 が存在する のはやむを任
.
l然 で健全な パラ ンスだと思う のです. それら の思や
な いと いう よりはむし ろr
危険 には当“者 が摘別 に対応し てきました。と ころが昨今 は平和 平等 人権
など のよ い言葉 反論 の余地 がな い正し い言葉 にす っかり毒気を抜 かれm人 で
は悪 に対応す る■気 がなく野枚し かえて見ぬ振 りです.又 少しでも危険性 の
あ るも のは規制 によ って制限 オしく は 除します。要す るに個人 では何も せ
ず冷たく過保護な全体的対応 だけが日立ち
,ます. これ で自由な個性やLし い創
造力 が つとは思えません. こう いう 不自然 で嘘 っば い社会 では人間 の■力も
しぼん,
で いく でし よう。
半分 の悪 いことはまだまたあ ります。各種公倍 地域規模 では 環境破壊
人間 の体質 化等 々何 とも高 い代使 ではあ りませんか。 こんな高 い代性をよ っ
L の皇かさや使利さを求 める人 は少な い筈 です が 組織 技術 物
てま で今以,
情報 など が勝手 に狐り歩きをし て 個人を巻き込み押し流 して いる のだと思 い
ます。 そし てそ の潮流 は誰も望まな い方向 へ恐ろし いお いで進ん で いくよう で
︱
す。私 のペンも狐り歩きを して思わぬカ︰
,へた ってしま いましたが最後 と いう
ー
こと でどうかお■し下さ い。
サ1=院 中↑ ,`縁 窓全
人 の ■
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収支 予算書
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収
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6
青 山学院 中等部緑 窓ゝ全 報 第 5号 1996年 (平 成 8年 )5月 1日 発行
﹁五代 日常 盤 津 文字 兵 衛を襲 名して
﹂
8期︶
鈴木淳雄 ︵
2
とでも楽 しか った 等部 の三年間を過 ごし 卒業 と同時 に 常盤津紫弘 の流
名を け て 常毬津,
二味線演奏家 とし ての 一歩を踏 み出しました. そし て本
年 二,
紫弘﹂と いう名前 に,
月 白ら創 った ﹁
別れを行げて ■代 日常盤津文字兵
衛を襲名 しました。十九年間使 い続けた自分 の名前 が変わる と いう感慨と
非常 に黄■ の大き い名前を受け継 いだ事 への 良れ にも似 た感党 の中 で 未だ
新し い名前 を呼ばれても 瞬時 には反応 できず に います。
常盤汁と いう三味線十栞 のシ ャンルは市七四t 初世常盤津文字人大 によ っ
て 江 Pで確立されました 以来歌舞伎と の密接,
な つな かり のなか現在ま で発
展し てきました。江戸時代末期 には ﹁一つの町内 に 一人 の常盤津 の師匠 が いた﹂
と 言われるほど の隆盛を極めました が 4 では郵便局 の窓 Hなど で ﹁
トキ ワ
ズさん﹂と正し い名前 で呼ばれ ると 思,
わず感激し てしまうような有様 です。
常盤滓を合 め 日本音楽全体をも っと多く の方 々に聞 いて項く機会を作 る のも
私 の仕事 の 一部 と感して います.
文字兵衛家 は代 々■山家とし ても多く の活動をし てきまLた。■■父 二世文
字兵衛は坪内逍遥と の合■ ﹁お夏狂記﹂など の 祖父 の三世文字兵衛も 二世市
川猿と助 の為 に■出した ﹁
独栞 ﹂など の 現在 でも度 々漬奏される作 品を多く
選し て います し 父 の人た ^
四肛文字兵衛︶も二●山 以上 の作 品を■ に送り出し
て います。 こ のような環境 のために ■が家 は新し い〓栞活動 に関し ては 極
めて寃容 でした。■京芸術大学在学中 に ■山科 の友人 に二味線 とオー ケスト
ラ の曲 が無 いから■ いて見れば?と ちかけると 冗談“き の友人 は本当 に曲
を き上げました。去人 の学同茶 で試
,験的 に初満 したと ころ 驚く べき反響 が
●,
り 翌年 の二月 ニュー ヨーク のカーネギーホー ルで行われる ミ ュー ジ ック
フ ロムジ ャパ ンコンサート で正式 の■丼 演をす る事 とな ってしま いました。
一ド ルニ円0円時代 の ニ ュー ヨークは¨
7,
生 の身 にはなかな か つら いも のでした
か ‘くして1
1黎 の検苺台 に立 てた■ は 私 の甘楽感 に大きな影響を与え てく
1
︱本 の■栞を4
れました。 このころより少し前 から 私自身 の中 には 新し い︱
り■げ て行きた いと いう欲求 が大きくな って いました。 本 にはこれだけ多く
日
1があま りにも少
の”洋栞 器があり 演奏家も 富な のに 日本楽器と の谷 ヽ1
1
な いのです.私 の作山活動 の,
原点 は ここから始まりました.ピ アノ ヴ ァイ
オリ ン■ の西洋栞器と日本来器 のヽ内楽 形式 の曲を中 心に現在ま でに作 品演〓
会を四口開催す る事 ができました。 この路線 はおそらく私 のライ フワークとな
青 JJ学 院 中等部緑 窓会会報 第 5号 1996年 (平 成 8年 )5月 1日 発行
︵
1です.
︱ 編1
1
︱
1
る こと でし ょう。こ の延 ■線 卜 の■■ の 一つが コマー シ ャルの■︱
︱
1
ビ ュー作 は■
1
不思議 な こ継 で コ マー シ ャル の作 1
1をす るよ う にな りま し た デ
人 の業 でした。﹁ビ ェン ピ ェン﹂と ‘う 囃 ● こと は で好 評を0 し た こ の コ マー
シ ャルは 三 年 間も使 用さ れま した。 コ マー シ ャルの肛界 は多く のヽ ■ を 一■
。
秒な いし 三 ●秒 の中 に押 し込 めま す .哄 像 も 計栞も ま さ に■ 剣勝 魚 です 非常
︱
コ マー ン
グ
し も のです 。
に多く の要 求 が︱
︱され る現場 です が スリ リ ン で楽 い
ャル作 家 とし て の醍 硼味 は 自 分 が関ヶ し た作 品 によ って 商 品 の売 りL け が
っ
伸 びた ことを 知 った と き です.最 近 は お 伝 いした あ る コ マー シ ャ ルによ て
,
電 子 レ ンジ の売 りLげ かI O パー セ ント伸 びた と いう” し いお話 し があ りま し
た。
。
常 霊注 と いう F楽 は 非常 に満 劇 I の強 いも のです 前 途 のとう り ■ ■■ は
歌舞 伎 と 共 に■ 民し てき たた め 歌舞 伎 の台本 を そ のまま ″ 栞化 し たも のが多
﹁江 戸 のト レ
く そ の結 果、 ラ マテ ィ ックな構 成 にな って いま す. いう な れば
ンデ ィー ド ラ マ﹂ と でも 中 しま し ょう か。 多 く の方 に常 毬汁 を はじ め 日本 〓
︱本 語 です か ,
ドイ ツ歌山 やイ タ リ ア歌 曲 ょ
歌 祠は︱
楽 を ご紹介 す るとき に 、
,
。
︱本 語楽 はき っと栞 しく 問
りわ か りやす いです よ ﹂ と中 し L げます そう です ︱
8期 ︶
門 田美 智 子 ︵
私 今 Tシ ャツに絵を描 いて いる の ケ
8期 B肛 の九回さん が ある● ﹁
ニアの大学 の図吉館を作 るため の 金活動 に脇力しようと思 って Tシ ャッЩ
I
︱E が彼女 の子■き Tシ ャツ
二で 最初は仲︱
つてく れる ﹂彼女 の何気な い 一,
︱
,
。
を買う夕 によ って 小さな協力をし て いま した そ の話を 藤先生 の奥様 が
︱
,
様 が買 って
聞かれ て お0をただボ ンと︱
︱すだけ でなく 物を作り それを指
下さり ん で いただける 0活動ならわ千伝しまし ょう と〓われ ヽがし い
常 に素餃な花 の絵を描 いて、さ いました。 それを
で 枚 一枚 r,
い 々の中,
。
︱
︱﹂ にも 販売す る■ が︱
よ■ の ﹁
練窓会 の︱
︱来ました そし て ■精 こめ て=
かれたm枚 のTシ ャツは 全 て皆様 のお も と に.協力 いただきました収益金
らせて いただきました.昨年 の大学祭
は デイ スター大学 のぶ金協会 の方 へ送,
。
で 一時 帰口され て いた佐“牧師 にお会 いし て 大変感謝されました そ の時
。
に いただ いたお礼状を■載 させて いただきます あと もう 一忠 と いうおニ
ド
央 でした ので 九回さん 伊藤■■ の奥 も また がんば って絵を描 いて き
か沢山出来あが ってき て いると思 いま
って います.き っとすばらし いTシ ャツ,
。
す。今年も 販売 いたします ので 十様 の協力よろしくお願 いいたします
デイ スター大学 の図書館 は よ年 の■二月ょり建 設が者 iされたそう です.
小さな 囁きが 大きな輪 に
7
︵
いて いた だけ る と■ います .
。
一
四茂 で文 ■ 工行 な ん て老 けさ ん だ みた いでち ,っと そぐ わな いた な ど と
﹁
御 同業 の方 は■ 剣 に同十 し てくれ ます 。 私自 身 はヽ 口 の製 名 を 女 “ の重 いポ
スト ヘの配置転 換 ﹂ とと らえ て います 。 名 は変 わ っても 人 間 が変 わ るわ け では
l分 が こ の世 に遣 し て いかな けれ ばな らな い
右 りま せん。 自 分 が でき る こと r
t代 によ り多 く の事 を 伝 え
l
こと が な ん であ る かを 冷 静 に■ つめな がら 次 のl
られ るよう に努 力 し てゆく つも り です .
今 回 は邦楽 界 でも ■■ に珍 し い 一家 四人 の同時 製 名 改 名 とな りま した. 父
鈴 木 淮雄 中■ 部 二〇 期 ︶は 我
四代 日文 ■ 工衛 は人 キ に改名. ” 一“ 人人 ^
鈴木 智 子 中 4
が家 に ゆか のあ る名前 であ る七代 ︱
︱兼 大人 を 妹 ● 々 衛 ^
,
,し た。そ こ で 本午
部 四 〇期 ︶は父 の大 収 け の名を 継 ざ ■代 口兼 颯を 製 名 ■ しま
松 方実 会 ﹂ を襲 名 記念 演 奏会 とし
は 例 年 班 r で開祉 し てお りま す 勉 強会 ﹁
ー国 劇 場 小 劇場 に て同= 致し ます 。
︱ト ー
来 る七 ︱
,
館を建 ててにし いと ■■●名 の学生をも つ学■ に頼ま れた のです.
■t●平方米 の図■針 一億 円を日標 に二年前 から 金を始めました.
が 個人を主力 に七
背後 に何 の組織もなく 低迷する 日本経済 のな かです,
え られ ま した。 も う 一息 です 。 ア フリ カ の将 来 と苦 労 を言 ん
,
。
でユう 十4 者 が し みち に育 つことを 曖 って います 皆様 の上 に神 の机福
■ 万 円弱を
を 析 ります.
中+椰 811の 4窓 会 を鴨 窓会 の 口」
に合わせ て 開催 す ることにいた しま
か らおイ
した.■ 様 の ,1lllを しヽ
+ち じ
て い ます。
☆教 員異 動
8期 卒 業生 の 皆様
iじ
18:30∼ 21:00
第 3回 青 山学院大学 同窓祭
よ
今Iも 9,123' ('1 1`:│) │こ ■
キャンバ スをFl放 して来 しい企画が
│
ま
lIIし
い っは いの 人 │′ 同窓 祭 をll
う.
中等部教諭 石出道雄
だ
4し み にお件 ち ドさい.
☆新 部 長
志■に
先生 の召 人 によ り 9月 よ り嗣部 長 の証 にあ ら れ た 田中俊大 先 生 が高
,行 に就 任さ れ さ ら に新年 度 4月 よ り 2年 間 高 中 部 長 に就 任 さ れま
十椰 t代
し た。
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ヽ鋒 載 ﹁ ﹃ ¨ 一
一州 疇 “ ¨ 摯 ・
8期 の つと いの 一
一2
ぉ知 ら せ 一
一
☆中 等 部劇 立 ”年
。
中■ 部 は今 年 4月 に創 立 m■ を 迎 えま し た。 今 年 の新 人生 が 0
5期 です
中■ 部 では 昨年 から ﹁m周年 委員 会 ﹂ が設置 さ れ 種 々話 し合 い 次 のよう
な■ の実施 に向 け て スタ ートす る こと にな りま し た。
*来 年度 ﹁m川午 ﹂ とし て各 種 行■ を 行な う
*中+ 部 ■ 催 ︱記念 礼キ 講 演 公演 な ど
*緑 窓● ■ 催 ︱ ﹁
緑窓 会 の日﹂ を拡 大
*祀金 ■充 ″
★お 願 い
一日時 6 月 8 H ︵
■︶ 一
0分 一
一
午後 六時 3
一場 所 ﹁う す け ほ ︱ ﹂ 一
ま
周年 の記念 ■ を発 す るた め に 資 料 収集 を し
一わ せ の上 お集 ま り く だ 一
, いま す 。た 按 時代 ,
の資 を お持 ち の方 は こ遠結 一さ い。 一
て
,
く ださ い.
* 東^
運動 会 文 化 栞 旅行 合 宿 な ど ︶
*,
印刷 物 ︵
十 枝 配“ 物 ク ラフ配 布物 な ど ︶
一改 め てご迪 知 いた しま す .一
一 ■ と う 通 り 一
*そ の他
﹂
ルBlF
一∝ “∝ 叫
一
学 校 には これら の資 料 がほと んど無 く 記念 誌 一
会螢
発 行 に際し て因 って います 。コピ ー 複 写 でけ っこ
rl ‘ ヽ‘ ヽ︱ ︱
‘ 、‘ 、‘ ‘ 、‘ ヽ‘ ●‘ L
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一 ´
y 型 一
曜 一
う です のでお送 りく ださ い.中 ■ 部 資 料室 に保
さ せ て いた だき ます 。よ ろしく お願 い いた します,。
事務局より
一■■ 一 年九 月 他 の同窓0 と共 にウ エス レー ホー ルに移転 し ま し て から ■
年 十 た ちます .
現在 は各 週 ごと に ■ 六 七 九 ■ 十 二期 の方 産 が■伝 って下さ つて
︱﹂ が六 月 人 日 に開催 さ れま す。 人期 の方 遊を 中
お ります . 今 年も ﹁
緑 窓会 の︱
心 に十 二 一人 一■三 二︱ 人期 がお当 番 と いう こと で 度 々 会 を 開 い
,
お■ ち し てお りま す. ■ 務 局を
,
て いる様 です.
L■ を
︱ に記金 I
月始業 式当 ︱
高 ■ 椰教 師と し て ま た高中 部 部 長 とし て長き にわ た って御^ 班 さ れ た志 賀 正
■生 が 昨 年 7月 下旬 に贅急 人院 さ れ ■術 を けら れた のです が 8月 2
,
一
l ■● ” か ら十 六” t 十 分迄 開生 L てお りま す し 持
同 窓会 ヽ は 週人 曜 l
rも た くさ んあ ります ので お茶 を のみ にき らく にお こし ドさ い.
ち よ り のお某,
伝 ってドさ い。 ょ ろしく お 願 い いた します .
とも ,
,
,
H に人 に召さ れま し た.
︱
■休 み中 の■ で 教員 生 従 の葬 儀 参 列 が でき な か った た め 高+ 部 中■ ︱
い 先生 を ■ びま し た。
★志 質 工男部 長 召天
専 任教 員 で0
4年 間 講 師 で 6年 間 の計 “午 間 の■き にわ た って中等 部 に御卜 n
1,
1と し て テ ニス
され た 平 間健大 先 生 が 3月 で御” 退な さ いま し た。 理 教 1
︱ と し て 多く の生 従 に多 大 な感
, 化を 成 さ れま し た。
︱
部 や日 本 将棋部 な ど の画 ︱
︱
平間 健夫 先 生
迎え ら れ 御勇 退な さ いま した 。 ■護教 流 とし て■従 の■■ F ■ カ ウ ンセ リ
ング な ど 多く の生社 が大 変 お世 話 にな りま し た。
“■ 田 の長き にわ た って中 ■ ■ に抑 本 職さ れ た牧 野川 ′先 生 が 3月 でt ■ を
牧 野 周 子発 生
場 ,■ 青学会館核 友会 A室
会 驚 ''性 80∞ │リ
女‖:6000リ
部
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│]11 6'18口
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発行
8年 )5月 1日
青 口1学 院 中等部緑 窓会会報 第 5号 1996年 (平 llk
Fly UP