...

2006年度教養文化研究所第1回公開講演会報告

by user

on
Category: Documents
1

views

Report

Comments

Transcript

2006年度教養文化研究所第1回公開講演会報告
2006年度教養文化研究所第1回公開講演会報告
教養文化研究所長 本 間 邦 雄
実施日時 : 7月12日(水)13時30分
講 師 : 四方田犬彦氏
題 目 : 韓国文化といかにつきあうか
場 所 : 本学7405教室
7月12日(水)午後1時半より、四方田犬彦氏による講演「韓国文化といかにつきあうか」
が、教養文化研究所主催による本年度第1回目の公開講演会として実施された。四方田氏
は建国大学(ソウル)、コロンビア大学(ニューヨーク)、ボローニャ大学(イタリア)など
で客員教授、客員研究員をつとめ、現在は明治学院大学教授として映像論、映画史等を講
じている。氏は『映画史への招待』
(岩波書店、サントリー学芸賞)、
『モロッコ流謫』
(新潮
社、伊藤整文学賞・講談社エッセイ賞)、
『ソウルの風景』
(岩波書店、日本エッセイスト・ク
ラブ賞)などの受賞作をはじめ、多彩な著作活動を展開している映画史家・比較文学者で
ある。
四方田氏は、日本と韓国の交流が制限されていた1970年代にソウルに日本語教師とし
て滞在し、日本文化流入禁止の実際の状況に触れた経験をもっている。氏は、韓国の人々
が伝統的に日本および日本人に抱いている感情、民族感情の世代間の違いなどを受けと
めた当時の貴重な体験から語りはじめた。そして1997年の金大中政権の日本文化解禁政
策から現在の韓流ブームにいたるまで、韓国文化と日本文化の交流のさまざまな相を、
長年の渡韓の経験を生かして、ときに軽妙にときに神妙に自在に語った。
この30年ほどを往還しつつ多岐にわたる話の数々は、それぞれのディテールが鮮明
で、四方田氏の面目躍如といったところであるが、なかでも印象に残るのは、韓国人をは
じめ外国人にたいして私たちが抱きがちな偏見やステレオタイプのイメージを超えて、
個人個人の思い、固有の経験を大事にしたいと思う氏の姿勢である。それは、現代史のひ
ずみのなかで活動する在日韓国人や旧ユーゴスラビアやパレスティナの今日を生きる
人々にたいするまなざしにもうかがえる。それを支えるのは何よりも四方田氏の旺盛な
好奇心とだれにも開かれている親しみやすさであろう。
学生・一般の方々・教職員等300人以上の参加者の並んだ7405教室では、質問等の時間
のために予定時間が延長され、盛会のうちに終了したのは午後3時20分過ぎであった。
−63−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
韓国文化といかにつきあうか
四方田 犬 彦
四方田 ご紹介に預かりました四方田犬彦でございます。もうほんとにこんな立派な
ホールで、大勢のかたを前にお話しするというのは久しぶりのことというか、なかなか
ないので、ちょっと緊張しておりますが、長い間実は、飯能には行きたいと思っておりま
した。来たいと思っておりました。というのは、この近くの高麗神社をいつか訪れたい
と、もう30年ぐらい前から思っていまして、そして今日ここに来る前に、本間先生に案内
していただきまして、そして高麗神社の禰宜さんに会ったり、あるいはその近くにずっ
と住んでらして、この間90ぐらいでお亡くなりになった作家の野口赫宙さんですね、つ
まり本名、張赫宙といった朝鮮出身の大作家がいるんですが、そういう方の家の跡とか、
それからそこに縁のあったかたがたのお話を聞くことができたりして、わたしは非常に
感銘を受けました。
ここでの高麗という名前は誤解がないようにいっておきますと、10世紀に朝鮮半島を
統一した高麗コリョのことではないのですね。紀元前1世紀後半から668年まで、およそ
700年にわたって続いたコグリョ、高句麗のことです。高句麗の国が聖徳太子の時代の直
後に国が滅んで、そこの人たちが逃げてきてここで住みついたという、そういう話なわ
けですけれども、この飯能とか高麗というのは、東京、つまり江戸よりもはるかに古い歴
史を持った町です、ここは。もうほんとに奈良時代、あるいはその前の飛鳥時代、そのこ
−64−
韓国文化といかにつきあうか
ろから、法隆寺ができるころからここには人が住んでいて、そして非常に高い文化が
あったわけです。まだ東京というのは浅草のへんまで川と海で、泥海で、なんかこうシジ
ミかなんかがあって、そういう感じで町なんか全然なかったころに、もうここはそうい
うちゃんと都市ができていたということですね。こういう古い場所に来て、つまりもう
関東地方の起源みたいな場所ですね。と同時に、国際的にはそういう意味で、朝鮮半島か
ら来た人たち、この人たちはまあ大体貴族とか王族、それから学者、技術者です。そうい
う身分の高い人たちなわけですが、そういう人たちがここに住みついて、そういうとこ
ろにずっと残っている、その高麗神社というところにお参りできたことは非常に嬉しい
と思います。
いきなり話が変わりますが、ノーベル賞を取ったナイジェリアの作家で、ショインカ
という人がいるんです。ほんとにアフリカ人としてすごく偉大な小説家であり、劇作家で
ある人なんですけども、その人が日本に来たときにこういうことを言っています。
「自分
は世界中いろいろなところに行くのは、別にそこのノーベル賞の作家と会ったりとか、シ
ンポジウムをしたり、政治家に会ったりとかそういうために行くのではない。自分がナイ
ジェリアを出て、いろんなヨーロッパに行ったり日本に行ったりアメリカに行くのは、そ
この土地の神様に礼をしたいからである。だから自分はとにかくそこに行ったら、一番中
心は神聖なる場所、つまりモスクであるとか教会であるとか、日本の場合には神社である
と、そういうところに行って、そこの土地の神様にあいさつをするために、自分は世界中
を旅行しているんだ」ということを言いました。これはほんとにそう思います。立派な態
度だと思います。その場所に行ったらまずそこの神様にあいさつをしてというのが、やは
り人間しかるべきものなんじゃないか。
場所と空間というのは違います。空間というのは単なる土地の広がりであって、どこで
もいい、たまたま空いている場所がありますよっていう、空いている空間にすぎないんで
すが、場所というのはメモリー、つまり記憶というものを、あるいは思い出というものを
持った場所です。つまり、例えば家なんかを考えてみても、ただ人が住むための3畳間と
4畳半と6畳があればいいというもんじゃなくて、その家には家の思い出っていうのが
あるのです。古い家は、古い家の格ってのがある。柳田国男が言っていますが、
「家という
のは、死人が出ないと一人前にならない」と言ってます。それまでは単なる空間なんです、
人が住んでるだけで。そこでお葬式があって、近所の人たちがそこに行って、お焼香をし
たりなんやかんやして、代が代わってそういうことがあって、やっと家というものはでき
るんであると。だから今東京なんかでアパートに住んでまして、そこを家移りしたらもう
そこは別の人が入っちゃって、それじゃあ家を構成しないんです。家というのはずっとそ
−65−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
こに住んで、例えばおじいちゃんおばあちゃんが亡くなって、お葬式に、それからその次
につながってというふうに、そういうふうになっていって家というのはできる。
空間ってのもそうなんです。空間っていうのは、場所になるにはものすごく時間がかか
るわけです。ただ空いている場所があるからそこで何かやりますっていうんじゃだめで、
場所になるってことは記憶が必要なんです。そこに神様が住んでないと場所にならない
んです。単なる空き地にすぎないんです。どの土地にも、神様っていうのはいるはずなん
です。神様といっても、例えばキリスト教の神様みたいに全世界に、どこに行ってもあり
ますってそういう神様じゃなくて、土地の氏神ですね。ラテン語ではゲニウスロキといい
ますが、土地の霊。そういうところに行かないと、その土地のことは分からないんです。で
すからわたしも、まず高麗神社に行こうと。念願かなって、つまりそこのかたがたにいろ
いろなことを、歴史のことを教えていただきまして、ほんとに勉強になりました。
わたし個人は、四方田という名前は、昔は「しほうでん」と言ったんですが、これは埼玉
県本庄です。本庄の児玉町ですね。児玉町に大字しほうでん、大字四方田っていうのがあ
りまして、そこをみんな四方田団地とか四方田中学校とか四方田産泰神社とかなんか、み
んな四方田なわけでして。じゃあわたしみたいな顔の人間がいっぱいいるかというとそ
うでもないんですが、四方田の家系を、家系図というのがあるんですけど、それを見てみ
ますとやっぱり非常におもしろいのは、四方田自体が12世紀の関東武士ですね。児玉党の
中の一人が分かれて四方田という姓を名乗ったんですけど、ずっとその前の児玉党の前
をたどっていきますと、家系図のあるところに百済女って書いてある。百済っていうのは
ぺクチェです。つまり、だから私の遠い祖先に、あるとき百済からやってきた女性と結婚
した人がいて、その人をお母さんとして子どもが生まれて、その末代末代が四方田だと。
ですから、なんていうんですか、血でいうと、2の332乗分の1とか、なんかもう6億分の
1ぐらいの1滴ぐらいしか流れていないのかもしれませんけど、やはり家系図に百済女、
と書いてあります。これは、非常に僕は嬉しいと思いました、それを知ったときには。
今の天皇の明仁さんが、やっぱり5年ぐらい前だったでしょうか、お誕生日が12月23
日なんですけども、そのときに「自分は、桓武天皇のお母さんが百済から来たっていうの
がちゃんと日本書紀に書いてある。だから自分には韓国の血が流れているんだ」と。
「だか
ら日韓友好を非常にうれしく思う」と、そういうことをちゃんと言っているんです。韓国
で大ニュースでした、それ。
「日本の天皇家が、実は自分は韓国系であるって名乗った。今
の天皇っていうのはすごい」ってことになりました。日本の新聞はほとんど報道しなかっ
たんですね。ところがアメリカのニューズウィークもすごいです。
『 エンペラーとコリ
ア』って特集を組ましたね。それのニューズウィークの日本語版はちゃんと直訳で出てい
−66−
韓国文化といかにつきあうか
るんですけども、日本のメディアはあんまり報道しなかったんです。それはおかしいと思
います。だって天皇自らがそういうことを言っているのに、それを報道しないというの
は、これはおかしいんじゃないでしょうか。でも、前の裕仁さんはそういうことを言いま
せんでした。ただ今の明仁さんという人は、ほんとに戦後の民主主義の中で生まれた人で
すから、パっとそういうことを言うんです。やっぱり非常に国際的なことだと思います。
でもそれは、どこの国でも、天皇制をどう考えるかということは別にして、ヨーロッパ
の王室なんか見ますと、別の国の王様の娘が、別の国の王家に嫁ぐなんていうのは普通な
わけです。例えばマリー・アントワネットというのはフランスの王妃様ですけども、
ウィーンで生まれている。イギリスの19世紀のヴィクトリア女王というのもドイツ人な
んです。ですから、それが英語もろくすっぽ喋れないままにイギリスの女王になる。です
から、日本でその例えば7世紀とか8世紀に桓武天皇のお母さんが百済からやってきたと
いうことは、ヨーロッパ的な王室のことから考えると、全く不自然じゃないというか、
「そ
んなことはヨーロッパ人から見て当たり前でしょ」という、そういう感じだと思います。
おもしろいのは、ヨーロッパで言いますと、ポール・ヴァレリーという文学者がいます詩
人ですが、この人がずっと日記を書いていて、ヨーロッパ最高の知性と言われた人で、ノー
ベル文学賞なんかをもらった人なんですが、1904年の日記に非常におもしろいことを書い
ています。
「日本とロシアとの戦争が日本の勝利で終わった。これからの100年は、ヨーロッ
パが世界の中心でなくなることの100年になるだろう」ということを書いています。ヨー
ロッパ最高の知性だと言われている人が、もうヨーロッパ中心の時代はこれでもうすぐ終
わるんだ、日露戦争が、日本が勝ったということで、世界の中心が移りつつあるんだと。日
本が中心とは書きませんけれども、そういうことを言っているんです。ものすごい直感と
いうか、炯眼だと思います。今の東アジアなんかの経済発展とか中間層の形勢なんか見て
みると、あるいは私の専門である映画ですね、映画なんか見てみると、これはやっぱり、
ポール・ヴァレリーというのはやっぱりするどかったなあと思ってます。それまでは何百
年間もヨーロッパ中心主義で、白人中心主義だったのが、次の100年間というのは20世紀で
徐々にそれが終わっていくだろうということを、ヨーロッパの中心にいながら書いてるん
です。
それで、そのあとポール・ヴァレリーがおもしろいんです。日本の地図を見てみると、日
本とロシアと、それから朝鮮です。そのころは南北分断、分かれていませんでしたが、その
朝鮮の間に海があると。日本海という海がある。ここは何なんだと言って、なんか人を介し
て調べているんです。つまりギリシャとそれからアラブ、それからローマ、こういう真ん中
に地中海というのがあって、その地中海の両側で文明が発達したからヨーロッパというの
−67−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
ができたんだと。だったらそれと地形的に似ているから、日本海というのも絶対に立派な
文明があったに違いない。つまり先進国であるのは朝鮮半島なわけですから、そこから日
本に行く。日本海というのは、どちらかと言うと航行がしやすい海なんです。つまり昔か
ら、もうほんとに稚拙な船の技術でもあそこを渡ることができたわけですし、現についこ
の間まで北朝鮮のゴムボードなんていうのは、あそこを自由に往来してスパイ活動を行
なっていたわけですから、日本海っていうのはほかの海に比べて渡りやすい海だったと思
う。ですから、日本では遣唐使とか遣隋使とかって言っていますけども、それよりもはるか
に多くの回数を、遣高句麗使、遣渤海使、遣新羅使というのは行っています。それはやはり
日本海というのは渡りやすかったと思う。
やっぱり日本の地図というのを、われわれ普通に見慣れているんですけど、これ逆さま
にして見てみるとほんとにおもしろいですね。皆さん、おうちにお帰りになったら見て
ください。日本の地図を逆さまにして見てください。するといかに日本というのがアジ
アの端っこにへばりついてて、そしてその日本海の端、中心に朝鮮半島があり、そして中
国があり、ロシアがある。そこからもうほんとにこぼれるような形で日本がある。これは
もうほんとに歴史的に見ても、文化的な影響というのはもろ受けて、しかもモンゴルも
来られなかったという、非常にいい場所に、いいものはどんどん受け取るけれども攻め
られなかったという、そういう場所にあるってことがよく分かります。逆さまにしてみ
ると、やはり日本に行くには朝鮮半島を通って行くのが自然なんだなっていうことがよ
く分かります。日本っていうのは、そういう地理的に非常に、偶然ですがラッキーだった
わけです。
ところがこれが、地理的に非常にアンラッキーだったのが半島です。つまり朝鮮です。
似たような場所があるとすれば、例えばバルカン半島なんかそうですね。バルカン半島
も、北側にオーストリア帝国があり、あるいはナチスドイツがあり、南側にオットマン帝
国、つまりオスマントルコの大帝国がある。両方から攻めいって、いつも戦争にやられっ
ぱなし。二つの勢力によって分割されたりしてる。そういうユーゴスラビアって国がま
た、今でも分割になっちゃったんですけども、ほんとに戦争だらけの2,000年なんです。
でも朝鮮半島というのも、ほんとにそういう運の悪い場所にあったと思います。とにか
く隣に中国。中国はもうどんどんどんどん王朝が変わるわけですけれども、隋とか唐と
か秦とか宋とか金とか元とか、なんかいろいろ変わるわけですけど、それがでっかい国
があるわけです。でもそれに対して服属をしなけきゃいけない。
日本における平安時代に高麗という統一国家ができて、それが滅んで、そのときに李
成桂という人物が国を造るんです。日本でいう李朝です。その国を造ったとき、その国の
−68−
韓国文化といかにつきあうか
名前をどうしようかといって、それでその名前をどうやってつけたらいいかということ
を明にお伺いを立ててる。明というのは中国です。それで和寧ファニョンという名前を
考えたんです。それと朝鮮というのを二つまで最終候補絞って、
「どっちがいいでしょう
か」っていうと、明の皇帝が「じゃ、この朝鮮というのがいい」って言って、それで朝鮮と
いう名前になった。だから自分の国の名前を中国につけてもらうっていう、そういう国
だったわけです。
一方では加藤清正と小西行長、これが攻めてきて、そして朝鮮をわっと侵略して、破壊
行為して帰っていくわけです。これは何の意味もないばかばかしい侵略だったわけです
けど、とにかく中国と日本という両方の大国にやられて、そして今度は1945年に日本の
植民地化がようやく終わったとすれば、今度はロシアがやってきて、ロシアの傀儡のキ
ム・イルソン、金日成というのが、北朝鮮という国を造ってめちゃめちゃにしてしまう。
ですからほんとに、そういう意味で地理的に非常に悪い場所にあった。
しかし、彼らは頑張っているんです。ほんとに頑張っていると思います。というのは、
大韓民国、あっちで言いますとテーハンミングクです。それと朝鮮民主主義共和国、チョ
ソンミンチュチュインミンコンファグク、この二つが1948年にできるんですが、1948年
にできた国というのを、皆さん考えてみてください。どんな国があるでしょうか。1948年
というのは、アメリカとソビエトの冷戦体制というのが始まった年で、世界が東ベルリ
ンと西ベルリン、鉄のカーテンによって遮られる、そういう国です。翌年には中華人民共
和国が成立して、蒋介石が台湾に行くわけです。いまだに対立をしているわけですが、
1948年というのは、まずイスラエルという国ができました。つまりイギリスの信託統治
領だったパレスチナというところで、無理矢理にパレスチナ人を追い出したり殺したり
虐殺したりして、ユダヤ人だけの国を造ろうという、もう土地を奪って造った国です。非
常に不自然な国です。いまだに抵抗運動が絶えません。イスラエルという国は基本的に
はユダヤ人ですけど、逃げ遅れたパレスチナ人が人口の2割います。この人たちはほん
とにB級市民というか、2級市民でひどい迫害を受けています。もう人間扱いされてな
いです。それから逃げ出した人たちが西、ヨルダン川の西側のガザ地区というところに
いて、そこも今もう毎日連日のようにイスラエルが侵略をしています。
わたしは2年前に、テルアビブ大学というところにいました。パレスチナとイスラエ
ルをくまなく回りましたが、イスラエルっていうのはこれはひどい国だと思いました
ね。イスラエルの兵隊というのはパレスチナに行きますと、まず小学校を襲います。子ど
もを殺すんです。そのとき、女の子と男の子とどっちを先に殺すかというと、女の子を順
番に殺します。なぜならば、小学生の女の子は何年かたったら結婚して子どもを生むか
−69−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
らです。子どもを生む人間を殺すってことです。パレスチナ人が一人でもいなくなれば
いい、そういう感じです。
1948年にできた国っていうのはパレスチナと、まあパレスチナは国でさえもないわけ
ですけど、イスラエルというのは非常に無理をして。もう一つ国があるとしたら、インド
とパキスタンが分離独立しました。ガンジーが最後まで「分離しちゃいけない」って言っ
て断食までやったんだけども、分離独立して、イスラム教のパキスタンとそれからバン
グラデシュ。それから、それは結果的にそうなんですが、それからヒンズー教のインドと
いうふうに分かれる。それから仏教のスリランカです。このパキスタンとインドは今犬
猿の仲で、両方が原爆を持って牽制しあっています。
「なんかあると原爆を落とすぞ」と
韓国は、北朝鮮と一緒に、いうなれば分離独立しちゃったわけです。ところが、イスラ
エル・パレスチナを考えて、インド・パキスタン考えて、韓国・北朝鮮考えると、どの国が
今まで一番頑張ってきたか。どの国も、兄弟分というか分離して独立したわけです。イス
ラエルにはパレスチナ問題が残って、ですから成立した直後から中東戦争が起こって、
イスラエルはアラブをバンバンにやっつけて独立を勝ち取る。それからも何回も何回も
戦争をやって、今もずっとやっています。侵略行為をやってます。パキスタンとインドの
戦争というのは、もうずっと続いています。カトマンズをどうするとか言って。インドの
中でもやっぱりイスラム教徒の虐殺とかシーク教徒虐殺とかって、つい何年前にもあり
ました。これはほんとに、憎しみの憎悪の応酬です。
韓国はどうか。韓国も一番最初、1950年にいきなり北朝鮮が攻めてきた。韓国のほうは
そんなことはないと思ってたかをくくっていたら、わあっといって3日間ぐらいで北朝
鮮にソウル取られて、もう釜山という町以外はみんな北朝鮮が占領しちゃった。そうい
うふうな朝鮮戦争というのは起こったわけですけども、それからの北というのは、秘密
のゲリラを使ったりとか、ラングーン事件とかなんかありました。大韓航空機爆破事件
とか、もうすごいこといっぱいやってきています。ものすごいテロをやってきたわけで
す。でも、韓国は今何をやっているかというと、北朝鮮をやっつけろじゃないんです。北
朝鮮を助けろでしょ。今の。おんなじ朝鮮人として、北は同胞があるんだから、あっちは
ものすごく食い物もないし薬品もないし、子どもを生んだあとの、なんかこう、いろんな
こともできない。だから「とにかく医療品と食い物を送れ」っていうことをやっているわ
けです。
それで韓国はオリンピックをやりました。隣にものすごいでかい国、日本というのが
あって、こんちくしょうというのがあるんだけれども、サッカー一緒にやりました。イス
ラエルがオリンピックやるってことは考えられないですよ。あの国でオリンピックや
−70−
韓国文化といかにつきあうか
るって言ったら絶対来ないですよ、みんな。怖いから。それから、インドがオリンピック
やれるかって言ったら、できないでしょうね。経済的にも。それで、もうとにかくインド
とパキスタンは、もうほんとにそういう意味で殺し合いが続いている。それからイスラ
エルも、今もうほんとにずっと50年間そういうことをやってる。韓国はって言うと、朝鮮
戦争のときは攻められたから一生懸命戦ってもうやるわけですけれども、そのあとはむ
しろ助けようの側ですね、今ね。それで日本文化をすべてオーケーにしちゃって、それで
日本がじゃんじゃん観光にやってくる。すると、かつて自分たちを植民地支配した国の
文化をどんどん取り入れて。というのも自分たちがもう映画にしてもなんにしても、食
い物にしても結構自信があるから、来るなら来いの感じできている。それでサッカーも
やる、オリンピックもやる。これは、1948年に非常に悪い条件で生まれたいくつかの国の
中で、一番頑張ってる国ですよ。イスラエルとかインドとかパキスタン考えてください。
同じ時にスタートしたんだけれども、そして、同じように隣にやっかいな問題を抱えな
がら、韓国はよく頑張ったと思います。ほんとにすごいと思います。1960年代の日本も相
当に頑張りましたけど、韓国は随分頑張っています。まずそれは、ほんとに思います。わ
たしが日本人だからとか韓国に行ったことがあるからとか、そういうことじゃなくて、
客観的に見て、世界中の人が1948年に独立した国をいくつか考えてみて比べてみた中
で、ちゃんとオリンピックまでやって、隣の国を助けようとしているっていうのは韓国
だけなんです。これは立派だと思います。
私のことをちょっと簡単に申し上げますと、さっき本間先生から紹介いただきました
が、1979年でした。大学院でアイルランドの18世紀の対英闘争の文学を勉強して、それ
で3年間も英語の本しか読まないっていうのが続きまして、それで実はオックスフォー
ドに行こうと準備をしていたんです。そのときに大学院の同級生がたまたま韓国から来
て、
「雨月物語と朝鮮の関係」なんて論文書いているやつがいまして、それが「韓国に行か
ないか」と。
「実はわれわれのところは、中学校から日本語やっているところもあるぐら
いで、大学でももちろん日本語やっているんだけど、日本語のネイティブ・スピーカーが
ほとんどいないのである」と。
「だから生の日本語を教えてくれる人がいないのである」。
それでみんなに言ったらみんなが「ああ、おもしろいな」なんて言って、それで僕がなん
かすごく酔っ払って「行く、行く」とか言っちゃったんです。その日のうちに、夜国際電話
で「一人みつけました」って言ったんですね、大学の学部長に。もう、僕はあとで「らち
だ」って言っていますけど。そしたら4日後に、すべてハングルで書かれた招待状が来た
んですね、わたしのとこに。
「なんだこれ?」と思いました。それでとにかく彼に電話をし
て「なんだこれ」と言ったら、
「ああ、もう来たんだ」って言うから、
「いや君、なんか韓国に
−71−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
さ、うちの大学に、日本語教室に行くって言うからさ、すぐに電話したんだよ」って言っ
て。僕は酔ってるふりしてさ、
「一人みっけました」って。
「ええ?」って言って。
「覚えてな
いの?」って言って、
「ああ確かそんなこと言ったな」って言って。それで行っちゃったん
です。だから韓国のこと何にも知らなくて行っちゃったんです。
70年代に韓国に行くってときには、多くの人が反対しました。つまりまず日本人だっ
て分かったら、ものすごい危険な目に合うんじゃないかって。なんか殴られたりとかな
んか。それから超貧しくて、超汚い国で、もう食べ物なんか絶対おなか壊しちゃうんじゃ
ないかとか。あるいは北朝鮮は金日成将軍様がいて立派な国だけれども、南っていうの
はもうアメリカ軍の傀儡で、子どもがいつもはだしで歩いてるっていうそんな国なん
じゃないかって。この三つでした。この三つの考え方を日本人は偏見として持っていま
した。反日的、汚くて貧しくてアメリカの奴隷。それからある先生は「北朝鮮に行くん
だったらいいけど、韓国はやだね」って言ったんですよ。それが70年代です。
わたしも、やっぱり生まれて初めてパスポート取って行く外国にあんまり反対された
んで、心細くなったんですけど。じゃあ自分が韓国についてどのくらい知ってたかって
いうと、なんにも知らなかったわけですよ。
「ああなんかユッケとかビビンパの国だな」
ぐらいにしか思ってなかったんです。韓国に行って、みんなから言われていたことが全
くうそだということがばれました。まず汚くて、それから貧しくてってことは全然なく
て、もちろん貧しい人はいる。それは日本にも貧しい人はいるし、浮浪児もいるとか乞食
もいるとかって、それはどこの国でもあるっていう意味ではそうなんだけども、大体な
んか普通の人の暮らしっていうのは、なんか日本人よりはるかに大きなマンションに住
んでましたねえって。それから老人が尊敬を持って遇されている社会でした。
一度、韓国から来た留学生が、東大のわたしのところに来て、怒ってたことがありま
す。それは80年代ですけど。
「日本に来て驚いた」。地下鉄に、いすの色が違うところがあ
るっていうんです。なんだって聞いたら、あれは老人のための席だっていうんで、
「こん
なばかな国はない」って。こんな国、道徳的な意識の低い国で、自分は勉強したくないと
思った、韓国だともう、どんな席でも老人がいたらぱっと立つんだと。とにかく高齢者の
人に対してはすぐに席を譲る。高齢者の人も当然のようそれに座る。威厳を正して座
るっていう、それが韓国なのに、日本に行くとなんか老人の席というのがあって、そこに
座るようになってて、これは恥ずかしいことだと君思わないかって言うから、確かにそ
うなんですよ。彼が言ってるのは正しいんですよ。そしたら90年代の終わりになって、韓
国も世代的になんか変わっちゃって、老人に席を譲らない若者が出てきちゃったんで、
このごろはなんかシルバーシート作っちゃったんで、日本の影響だなんて言うけど、そ
−72−
韓国文化といかにつきあうか
れは違うんで、世代の問題。ただやっぱり70年代なんかにしてもそうです。地下鉄ができ
たばかりでしたし、バスなんかでもそうですけども、若者はもう率先して席を立ちまし
た。それがかっこいいっていうのがあった。それからもう満員のバスなんかだと、重い荷
物を持ってる、立ってる人の荷物をまず普通の人が、全然知らない人でも持ってあげ
るっていう、そういうことが普通にあったんです。日本人はそういうことをやろうとす
ると取られるじゃないかと思うけど、全然そうじゃない。重い物を持っている人は助け
てあげるっていう、相互互助の関係っていうのはすごくありました。
それで日本人だからといじめられたことがあったかっていうと、これはもう全くな
かったです。全くなかった。もちろん70年代は、日本映画は上映禁止でした。それから日
本の音楽っていうのも、やらない。みんなほんとはこっそりと、海賊版のテープかなんか
で都はるみ聞いてたりするんですけど、表向きはやらない。日本の小説とか漫画は、もう
ばんばんばんばん訳してました。それで日本人だからといってからまれたりなんかする
かというと、それで不愉快になったことはなかったです。むしろ、わたしはそのころに韓
国に行ってた、留学した人って3人しかいなかったんです、その年が。日本人が、わたし
は日本人で韓国語を少し勉強に行くわけですけども、でもやっぱ外人の韓国語だから、
片言でぼろが出ちゃうと、するとおばさんが「日本語でいいよ」とかなんとか言うんで、
「はあ」つってもう、僕なんかよりもはるかに、きちんとした戦前の立派な日本語しゃべ
られるんで。
それで焼き鳥屋かなんかに行って、
「焼き鳥チュセヨ」なんてやってたわけですよ。そ
したらあっちのほうに大体こんな感じですよ。4、5人で飲んでいるんですよ、サラリー
マンかなんかが。それで「なんか日本人だぜ」とかね、
「日本語しゃべってるよ」とか。なん
か酔っ払いが大きい声で、大体そのぐらいの韓国語はわたしも分かるんで、ひととおり。
それで1人が来るんですよ、酔った勢いで。こうやってね、
「イルボンサラミヤ」って、こ
うやって、お酒持って来て「日本人かね」って言うから「そうだ」。
「何しにきてるんだ」っ
て言うから「韓国の文化に興味があって来ているんだ」。
「韓国語できるじゃないか」
「い
や、勉強中なんだ」。
「日本では、日本人はみんな韓国の文化興味持ってるのか」
「みんかど
うか分かんないけど、僕は興味がある」。そしたら「伊藤博文知っているか?」って言うん
です。
「もちろん知ってるよ」。
「どういうやつだ」って言うから、
「いやあれは朝鮮併合し
たね、植民地の」って言ったら、
「豊臣秀吉を知ってるか?」と。
「豊臣秀吉アラゲッスムニ
ダ。もちろん知ってます」。
「どう思う?」
「それはやっぱり侵略は悪いんじゃないか」と。
するとその人は戻っていくんです。
また「いやあ日本人なんだけど、生まれて初めて日本人と話したんだけど、韓国語が
−73−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
しゃべれるんだよ、片言さあ。豊臣秀吉悪いやつだと言っているんだよ」って言って、
「ほ
んとか?」って言って、また別のやつが来るんですよ。それでね、なんかこう「韓国の食い
もん食えるか?」とかなんか言うから、
「それは毎日おれはもうキムチ食って育ったよう
なもんだ」って言ったら、
「日本には朝総連という悪いグループがあるだろう」とか言う
から、
「悪いかどうか分かんないけども、あるよね」って話した。それでなんかジャバジャ
バジャバって焼酎かなんか入れてくれるんですよ。あっちの連中めちゃめちゃそのころ
強かったですけど。それでね一気飲みで、こう飲むんです。
今度ね、全員で来るんです。瓶をドンと、ボトル置いて、
「ああ日本人だ。ほんとか」と言
われたら「あんた在日僑胞だろう」って言うから、
「いやそうじゃなくて、あのね、自分は、
母は松江で、父は出雲で」って言うと、
「日本人だ」って。
「すごい。日本人と、生まれて初め
て口きいたけども」って。それでなんかめちゃめちゃ言うんです。
「日本人は赤い角が生
えていると、子どもの時に小学校の先生に教えられた」とか、
「足の指が2本しかなくて、
だから足袋っていうのを履いてんだ」とか。そんなことあるわけないだろうって、こっち
は言うんですよ。
「同じ人間だ」って、
「われわれはウラル・アルタイ民族って大きな民族
で同じなんだ」って言ったら、
「ふーん」とかいって。それで、ともかくもう彼らはご機嫌
なわけです。日本人が韓国語を勉強して、下手だけど、韓国文化にある種の尊敬を持って
きているということが初めて分かって、
「そういうの初めてだ」って、ジャバジャバジャ
バって「飲め」って言うんですよ。それで「飲め」って言うけど、そんなに飲めないので、と
にかく一人がジャバジャバって飲んで、飲むと、もう一人がまたジャバジャバって、それ
でもうなんかね、ただただ酒でしたね、そのときは。
あっちの新婚家庭にいきなりつれて行って、
「 おれの親友が東京から来たんだ」って
言って、奥さんムームーかなんか着て「あんた何?」って言って、
「俺の親友が東京から来
たんだ。酒出せ」とか言って。それで、あのころ70年代は、夜間通行禁止令というのがあり
まして、夜の12時から外に出ると逮捕されるんです。スパイ防止のために。ですから夜の
12時までにうちに帰ってなきゃいけない。11時10分ぐらいになるともうタクシーの取
り合いですよ。わたしも留置されたことがありまして、11時50分ぐらいにタクシーに
乗ったらもう12時のサイレンが鳴る前に、
「あー」というんで、タクシーがおまわりさん
のところで止めちゃったんで、しょうがなくもう「入ってもらいます」って言うんで入っ
て、そういうことやりましたけど、とにかくそうなっちゃうとまた大変なんで、もう12時
前にそのうちに行っちゃうと、もう4時まで飲んでなきゃいけないんです。それで、なん
か全然知らないうちに親友だと言われて、そこのうちに行って、朝ごはんまで食べて
帰ってきたことがある。今は無理でしょうね。留学生いっぱいいますから。今はサマース
−74−
韓国文化といかにつきあうか
クールに3,000人ぐらい日本の大学生が行ってますから。韓国語をやるっていうのは
かっこいいというふうになりつつあるから。でも70年代はそういう感じでした。
ただ、わたしはさっき3人って申し上げましたけど、それは3人とも日本人なんです。
在日韓国人で、おやじの命令で「故郷の言葉勉強しに行ってこい」って言って、そういうの
もあったんです、あっちで。彼は、
「韓国文化が大嫌いだ」って言っていました。
「こんなさ、
ださい田舎によ」なんて言って。もうお金持ちなんですよ、パチンコ屋のせがれかなんか
でね。
「おやじがベンツ買ってくれるからってんで、1年間ここで辛抱することにしたん
だ」とかなんとか。
「何がさ、こいつらさ、国が弱くてさ、日本にやられたっていうのに、何
グジグジ言ってんだよ」とか「ださいよな」とか「こんなもん食えるかよ」とかなんかねも
う、
「オレンジ色のものしかないのかよ」とか言って。こっちはそうじゃなくてもう、
「こ
の店のキムチはいまいち。あっちのほうがうまい」とかそんな話をすると、
「キムチなん
か食ってるからこいつら頭悪いんだよ」とかもう、そういう感じで言うんです。こっちが
ヒヤヒヤしちゃって、
「日本語できる人いっぱいいるからさ」って言ったら、
「嫌いなんだ
よ、この国が。ベンツのためにさ、来てるんだよ」とか言うわけ。
ただ彼の気持ちは、今は非常に分かります。彼は言ってました。
「おれは日本にいたら
差別受けてボコボコだろう。こっちにいたら『お前韓国人のくせに韓国語できないの
か』っていってボコボコなんだよ。どっちにしたって割が合わねえよ」って言ってまし
た。
「お前はいいよな。お前日本人だから日本にいたとき普通だろう。こっちに行って、ま
あおれとお前と韓国語ちょこちょこ同じなんだけども、お前は『日本人が韓国語やって
る』って『1杯飲め』ってただ酒だろう。おれはこっちにいて同じ韓国人なのに『できてな
い』って『民族意識がない』とか言って、もうどなられて、もう空港に着いた時『韓国人の
くせにできないのか』ってどなられて、こっちでもボコボコだろう。割が合わねえ」って
言ってました。今は僕はそのことを非常に、彼も冗談めかして言ってましたけど、ほんと
に彼は悔しい思いをしてたと思うんです。韓国に行ったら「おお、帰ってきたか」みたい
な感じで、と思っていたら違うんだと。ものすごく差別されてる。韓国の中で、韓国人が
在日韓国人を差別する。わたしのほうがちょっとちやほやされるんです。このちやほや
と差別は表裏一体なんですけど。その彼のことを、わたしはそのあと会ってないですけ
ど、ずっと気になっています。
姜尚中という有名な人がいるんですけど、東京大学の教授なんですけども、彼なんか
もハングルも全然できなくて、なんていうんですかね、韓国語が全然できなくて、初めて
韓国に行ったときに「韓国人なのにしゃべれないのか」っていうふうに出入国管理事務
所の役人に言われて、すごいショックを、屈辱を感じたって言ってました。また、自分が
−75−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
それをできないっていう、
「どうしてそんなふうに教育を受けられなかったんだろう」っ
ていう悔しさもあるとか言ってましたけど、それはほんとにそういうことも考えるよう
になりました。というのは、わたしも韓国に行く前は在日韓国人イコール韓国人だと
思っていました。ところが、それは全然違うんですね、もう。意識のメンタリティーが非
常に違います。皆さん例えばブラジルにいる、あるいはペルーにいる日系人の3世なん
かと日本人っていうのは、顔はおんなじだし、その辺歩いていたら分かんない。でもやっ
ぱりものの考え方は非常に違うし、音楽がなって踊りだしたときの腰つきなんてのはも
う全然違います。時々新宿のディスコなんかでラテンナンバーかかると、ものすごい日
本人でうまい一団が入ってきてバアっと踊ったりするんです。彼らスペイン語でしゃ
べってるんですよ。なんかっつったら要するに、ペルーからやってきてこっちで働いて
いる兄ちゃん姉ちゃんが、わあっと「おれたちのシマだ、この音楽は」って言って踊るん
ですよ。顔が日本人で、服装も日本人で、けども全然違うんです。
その話は別として、在日韓国人の話をしたら、在日韓国人のメンタリティーというの
は、やっぱり日本人に似てきます。集団で動く。韓国人というのは非常に個人主義的で
す。民族意識、韓国人はいつも在日韓国人をばかにするんです。ばかにするのと、それか
ら「あいつらいい思いしやがって」というのと両方です。韓国では徴兵制度があります。
男子は、26か月兵隊に行かなきゃいけない。在日韓国人行かないでしょう。行かなくてい
いわけです、日本にいるから。それだけでもこんちくしょうがあるんです。それは、韓国
のほうは、
「うちは北朝鮮からいつやられるかもしれないってヒヤヒヤして生きている
のに、日本にいたら安全だろう。あいつらいい思いしやがって。国捨てたくせに」とかそ
ういうこと、言うんです。それであともう一つは「あいつら、韓国人のくせに韓国語でき
ないんだよな」。そういうふうな言い方をします。つまり「いい思いしやがって」というの
と、日本のリッチな社会生活の中で、なんかこうお金持ちになっちゃってこんちくしょ
うっていうのと、
「おれの親も行ってりゃよかったな」というのと、それと「しかもあいつ
ら、韓国語もできないくせに」という、この両方があって、ものすごく複雑な感情、意地悪
をします。差別を。
在日韓国人の方はっていうと、北系の学校に行っているときは民族教育っていうん
で、韓国語、つまり彼らの言う朝鮮語をやるわけですけれども、そうじゃないところで
は、日本の小学校なんか行ってまわりみんな日本人でっていうときには韓国語なんかや
らないですよ。親もそんなものやらなくていいよっていうような時期があったわけで
す。そういう人たちがやっぱりご先祖様の言葉をあれしようというんで、韓国語をや
るっていうのは、日系人が日本語をやるっていう、そういう感じなわけですよ。そういう
−76−
韓国文化といかにつきあうか
ふうな非常に複雑な気持ちがある。デリケートな。日本の中でも非常に、就職差別とか結
婚差別とか、だんだん緩和はされてきてはいますけど、やっぱり「あの人って実はね」っ
て言われたりする。そういうふうな世界に生きている人たちが韓国に行って、もっとひ
どい差別を受ける。このことを考えなきゃいけない。
だからヨン様、ヨン様って、韓国がブームだって言うけども、その背後で在日韓国人に
対しては「こいつらって北朝鮮のスパイだ」とか、平気で日本人が言ったりするんです。
それからなんかこう事件があるたびに「ほらやっぱり朝鮮人が」ってそういうふうに言
う。そういうことによって、在日韓国人の子どもたちがいかに傷ついているかっていう
ことです。そういうことまで、日本人は考えなきゃいけないと思います。はっきり言って
在日韓国人の人は被害者ですよ。朝鮮総連も全く知らないままに拉致とかなんとか起
こって、あれは北朝鮮のなんか一部のそういう秘密警察みたいな人がやったわけですけ
ど、それを在日韓国人は全然知らなかったわけですよ。だから初め信じたくなかった。
「そんなことするわけない」って。ほんとだってことが分かったときに、彼らの屈辱とか
恥、自分たちがずっと信頼していた北朝鮮がこんなひどいことをしてたんだ。くやしい、
恥ずかしい。しかしそれを、日本人を前に自分がどう説明していいのか分かんない。自分
たちは全く知らなかった。それでこう外側から「お前らはなんだ」っていうふうに言われ
る。本人がやったんだったらそれはなんか責任があるけども、そうじゃないわけです。彼
らも知らないままにされていた。そういう立場におかれている。あるいは南系の朝鮮総
連じゃないほうの人たちなんかにしても、いっしょくたにされて非難されたりする。そ
の気持ちっていうのをわれわれは考えなきゃいけないと思います。
わたしも非常に自分の中で悪いことをしたなということがありました。韓国から帰っ
てきて焼肉屋に行ったんですね。そのときにわたしは韓国語で注文したんですよ。なん
となくもう、とにかく1年間韓国にいますから、注文はもうなんか「カルビ、チュセヨ」と
かなんか言ってたわけですよ。
「カルビちょうだい」という意味です。お店の人が、だれも
韓国語が通じなかった。つまりもう2世、3世だから、やってないわけですよ。だから韓
国語っていうと、
「ああ、なんかじいちゃんの友だちが時々やってきて、将棋さしながら
グニャグニャ言ってる言葉だろ」って、そういう感じで言ったりするんです。僕はもうま
だそのとき、在日韓国人に対して全く知識とか理解がなかったからですけども、在日韓
国人はみんな韓国語がペラペラだと思っていて、それで焼肉屋さんで韓国語でしゃべっ
ちゃったわけ。もちろん片言ですけどね。彼ら当惑してました。これは非常に悪いことを
したなっていう感じがします。申し訳ないことをしたなっていう感じがします。
その在日の問題っていうのは、やっぱりきちんと別に考えなきゃいけない問題です。
−77−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
ただ人口でいいますと、法務省が大体62万人とかって公式に発表してるんですけど、
そんなことないですよ。その帰化した人の子どもとか。なんかもういろんな密入国とか
もういろんなことを、あるいは留学生、商社マン、ビジネスマン、その家族なんかも含め
て100万人ぐらいいるのじゃないかな。つまり日本の人口の1%ですよね、在日韓国人
は。でも1%というのは、ナチスドイツがユダヤ人を殺す前の、変な言い方ですけど、ユ
ダヤ人の割合がドイツでは1%なんです。ところがおもしろいことに、在日韓国人、ある
いは在日朝鮮人、日本の文学を見てみますと、文学の芥川賞でも直木賞でもいいですし、
今いくつかの文芸雑誌が出てますが、大体20%ぐらい韓国系なんです。小説書いている
人とか。名前を挙げてもざっと出てきますけど。あるいは、つかこうへいとか、そういう
ふうに日本名で書いている人もいるし。つかこうへい、
「 なんで名前平仮名なんです
か」って言ったら、
「うちのおばあちゃん、朝鮮から来て漢字読めなかったから、孫が何か
仕事やってるって、平仮名だったら読めるっていうんで平仮名にしたんだ」ってそうい
うこと言ってました。すごくまじめな人ですね。おばあちゃんが読めるように平仮名に
したとか言ってました。ほんとかどうか分かりませんけれども、おもしろい人です。つか
こうへいとかそういう人たち考えたら、ずらっと出てきます。映画関係、芸能関係なんか
もそうです。まあまあ、今はどうか分かりませんけども、ひところは紅白歌合戦のうちの
3人に1人ぐらいは韓国系ですよ。だれがだれということを言う場所じゃない。それは
もう本人の問題だからあれですけども、その日本の社会における文化的な重さというこ
とでいえば、ものすごいんですよ。これは一体なんなのか。
例えばアメリカのニューヨークの中で、ユダヤ人の割合は3%ぐらいだけど、しかし
学者とかものすごく多いんですよ。コロンビア大学なんてユダヤ系がうじゃうじゃい
る。それは「ユダヤ人は頭がいいから」、そんなこと言われたら非ユダヤ人は立つ瀬がな
いわけですけど。じゃ韓国人はアーティストとか小説の才能とか文学の才能があるか
らって言われたら、もう日本人としてはやってられないんで。でも、日本文学は今、在日
韓国人がなんか書かなかったらつぶれちゃうぐらいに、すごい作品を在日の人は書いて
いる。わずか人口1%にもかかわらずものすごい活躍をしているってこと、これはやっ
ぱり重要なことだと思います。あるいは日本文化の中にもはっきりと、要するに在日韓
国人がいるからこそ、こういうふうにいろんなものができているんだってのは、ものす
ごくあるんです。そのことをやっぱり考えなきゃいけないし、それは実は現在に始まっ
たことではなくて、もう飯能とか高麗を見てみると、実はもう奈良時代、あるいは聖徳太
子のころから実は始まっていたわけです。
あのころにここに来た人から見たら、どんなふうに日本人を見てたんでしょうかね。
−78−
韓国文化といかにつきあうか
武蔵野にいる農民たちを。
「こいつら田舎もんだよなあ、漢字も知らないのか。四書五経も
儒教も知らないのか」。そういう感じだと思いますね。推古天皇の時代に高句麗から曇徴
という僧侶が来て、日本人に臼を教えたんですね。これでやると粉ができるんだよと。た
だ日本には小麦がなかったから、臼は何を使って、なんのためにっていうと、絵の具で
す。顔料を作るんです。岩を崩して、黄色い岩で黄色い岩をつくとか、絵の具を作るため
す
にうすが必要だった。磨るものがね。そうやって日本に絵画というものを教えたんです。
その少し前には、ほんとに実在したかどうか記録が朝鮮側にないので分かりませんけど
も、王仁博士という人がいて、これが日本に儒教とか仏教とか漢字とかみんな持ってき
たっていう。その人がほんとにいたかどうか分からないんですけれども、しかしその名
前は違ってもそういう人がいっぱいいて、どどっとやってきたわけです。
一説によると、そのころってのは日本の、朝鮮という言葉もどのぐらい意識にあった
かっていうと、ほとんどなかったと思う。新羅と百済という犬猿の仲の国があって、高句
麗というのがあって、百済と日本は仲良くて、新羅と中国、唐が仲良くて、そういう感じ
ですから、あの朝鮮半島全体がなんか一つの朝鮮という国だという意識は全然なかった
と思う。百済の人っていうのは亡命者として、調度今のパレスチナ人のような気持ちで
いたりして、彼らのほうが文明は上だから、なんか教えてあげるよみたいな感じで来て
たんじゃないでしょうかね。テクノロジーを。テクノロジーとか文化とか文字とか。だか
ら字の書けない人たちに、文字を教えに来たわけです。当然彼らのほうが上なわけです、
格は。それで日本の、だから天皇家もじゃあとにかく博士様が来てくれたって言うんで、
大体貴族とかそういう称号を与えて、末永く住めるかっていうことになるわけです。こ
のへんのことっていうのは、非常に僕は調べてみるとおもしろいと思うし、いくらでも
おもしろい小説とか書けると思います。
ちょっとさっきの韓国の、私が行ったころの話にちょっとまた戻りますけども、1970
年代に韓国に行くっていうことは、今とは全く違ってました。まず飛行機の中にいる日
本人というのはみんな男でした。町歩いて大声で日本人がしゃべっている。それが何を
しゃべっているかというと、聞くに堪えない。
「きのうの夜がどうのこうの」とか「あの女
はどうのこうの」とか、キーセン観光、売春観光でした。それでなんかこうもう、どうせ日
本語なんかだれも通じないだろうみたいな感じで大声でなんかしゃべっている、その
エッチなことを。わたしは非常に恥ずかしかったです。わたしは日本語の教師として
あっちで生活をしていましたから、日本語を教える。とにかくまあきれいな日本語を
しゃべってほしいと思うけど、まあ時々会話で「横浜ではなんとかするじゃん、と言いま
す」とか、なんかちょっとみんながなんか「するじゃん」とかなんとか言うんで、ほかのま
−79−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
じめな韓国語の先生は「困りますね。そんな用法は。するじゃんはやめてください」って
言って。そうなんですけど。とにかく日本語を教えて、会話なんかで学生たちと町に出た
りする。例えば女子大でも非常勤やってましたから、女子大の学生を3人ぐらいと一緒
に行くわけです。4年生ぐらいになったら、もうひととおりみんなしゃべれます。太宰治
なんかスラスラ読んじゃって、卒業論文「太宰治『走れメロス』について」とか平気で書き
ますから。太宰治好きなんですよ。今は村上春樹ですけどね。そういう女子大生3人ぐら
いと町歩いてると、大阪弁でなんかエッチなこと話してる中年のおやじたち3人ぐらい
とすれ違ったりするんですよ。その人たちがしゃべっている言葉を、とにかく彼女たち
に聞かせたくなかったです。ただ彼女たちはみんな分かっちゃうわけですよ。その言葉
聞き取れるわけですよ。
「わが国に来る日本人は、どうしてああいうふうな人たちばかり
なんですか」みたいなこと言われて、わたしも答えようがないわけですよ。でも韓国って
いうのは、日本の男が安い女を買いに来る場所っていうそういうイメージでした。です
からわたしが韓国に行くっていうときにも、そういう方面でエッチな冷やかしをしてく
る人もいました。
今はどうか。わたしはそのあと、毎年なんか友達の結婚式に行ったりとかなんかシン
ポジウムに行ったりとかで、年に1回か2回はもう行って、二十何年たっちゃっている
んですけども、2000年にまた長期滞在しました。そのときはキム・デジュン、金大中の政
権のときでしたから、日本文化解禁です。バンバンやってました。東大門市場という市場
がありまして、日本でいうアメ横みたいなとこです。トンデムンシジャンというところ
がありまして、そこの上に地下鉄があるんですが、地下鉄の駅があって、下ですね、地下
鉄ね。地下鉄の駅に「12月10何日、いよいよナウシカ来たる」って。
『風の谷のナウシカ』が
ロードショーになるっていうんで、あるとき突然地下鉄の壁面がナウシカのパネルに
なっちゃったんです。それでもうとにかく日本映画のアニメ、わーっですよ。
わたし授業で、大学院で、日本映画について授業をやっていたときに、すごく優秀な女
性が、女子大生がその日に限って来なかったんです。その彼女が駆け込んできたんです
よ。
「 先生大変です」って言うから、
「 なんだ?」って言ったら「キムタクが結婚しまし
た」って言うんで。そしたら大学院生全員が、わあわあ、きゃーとか、
「だれだ」とか言って
ね、
「だれと結婚したんだ」と言って、それでもう授業にならなかったんです。これが2000
年のソウルです。キムタクの結婚は香港でも号外が出てましたけど。今、日本のアイドル
とか、日本のそういうポップスとかは、日本だけのものじゃないです。アジア全体のもの
になってますから。日本でなんかあると、すぐにぱっとこう、香港、バンコクぐらいまで
伝わります。バンコクでも日本のアイドル専門の月刊誌が出てますから。
−80−
韓国文化といかにつきあうか
そういうわけで、1970年代にはもう日本のものは一切禁止で、日本語しゃべってい
るってだけで珍しがられてだた酒飲めたのが、もう2000年になると「キムタクが」とい
う感じになって、わあっとこう日本文化が入っている。昔は、1970年代になんか日本の
ことをやろうとすると、
「これは日本帝国主義の文化侵略だ」って言われたんです。日本
文化が非常に強力で、韓国文化を根こそぎやっつけて排他せしめるために、
「陰謀だ」と
言われたんです。わたしは平仮名、カタカナ教えることがどうして陰謀になるのか分か
んないと思ったんですけど、まあ黙ってましたけど。2000年になったら、もう日本文化何
でもありですよ。だからもう、ところが彼らもう言わないです。文化帝国主義なんか言わ
ないです。なぜか。韓国文化はもう、はっきり自信を持っているからです。
「われわれの国
の映画は、全世界で賞を取りまくったし、日本でも大ヒットしている。われわれはすごい
映画を作っている。われわれの国も、日本じゃもう夢中になっている。だからわれわれ自
信があるんだ。だから日本のものが来たって、全然構わないんだ。来るなら来いよ」。そん
な感じですよ。
「ナウシカ来いよ」っていう。
でもナウシカは、とにかくあっちのアニメーターの人たちに聞いたら、
「とにかく日本
のアニメ早く解禁になってほしい」って言ってました。
「なんで?」って、
「だって韓国の
アニメの客がとられちゃうんじゃないの?」。
「そんなことない。韓国では、アニメという
のはまだ子どもが見るものだと思っている。自分たちは芸術家の意識を持っている。だ
から大人が見るアニメを作りたいんだ」。大人のアニメの観客層というのは、まだ韓国に
ちゃんとできてない。日本だと例えば宮崎駿っていうのは、もうほんとに芸術的な監督、
あれは大人が見てちゃんと分かる、非常に複雑な歴史解釈とかいろんなことを、ヒュー
マニズムとかいろんな哲学を持っている。あれは大人が見て分かるもんだ。ナウシカと
か、あのメッセージというのは。
「ああいうふうなレベルのものをおれたちもできる自信
がある。しかし、企画が成り立たない。なぜならば『アニメというのは子どもが見る漫画
映画でしょ。テレビでやるやつでしょ』っていうふうにみんなが思っているから。だから
日本のアニメどんどん来てほしい。それでみんな見てほしい。するとアニメっていうの
はこんなのもありなのか、それだったらうちの国でもできるはずだぞっていうんで、大
人のアニメの企画が通るようになるから、アニメーターとして、とにかく日本のすごい
アニメどんどん来てほしい。そしたらこっちが刺激を受けてわっと出てくるから」。現に
宮崎駿とか押井守ぐらいの人たちだと、製作スタッフの中に、絵をかく人っていうのも
韓国人ものすごく多いんですね。韓国人の技術を使って絵をバアっとかく。それでちゃ
んと彼らは、例えば『千と千尋』なんかだと、最後のほうにもうずらっと絵をかいた人の
名前がバアっとみんな書くんですけど、それが韓国人がバアっと出て、半分ぐらいが韓
−81−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
国人です。そういう技術を持っている。だからその人たちがもう、ほんとに自分たちでも
作りたいんですよ。大人向けの、芸術的なアニメを。だから「とにかくみんな来てくれ」っ
・・・
て言ってました。もう「来るなら来い」って感じでね。これも非常におもしろいです。もう
日本文化帝国主義、文化侵略なんか言わないですよ。
1997年に金大中が「日本文化を解禁する」って言って、そのときに一瞬みんなおびえた
んです。日本のすごい制作費をかけた映画が韓国にやってきたら、韓国の資本がすごい小
さくてつぶされちゃうんじゃないか。観客はみんなハリウッドを見るような感じで日本
映画ばかり見ちゃうんじゃないか。韓国の映画産業だめになるんじゃないか。でもとにか
く、金大中が解禁しちゃった直後に何が起こったかっていうと、逆だったんです。韓国
の「シュリ」とか「JSA」とか「チング」とか、ああいう映画が日本にやってきてバアっと
ブームになって「すげえ」ということになって、もうアクションからして違う。もう俳優
のがたいが違う。ピストルの打ち方が違う。だってほんとに3年間徴兵ですから、ピスト
ルうまいですよ。それはやりますからね。日本のアクション俳優に絶対できない。それか
ら韓国人はイケメンだ。韓国映画が日本でブレークした。でも日本だけじゃないですか
ら、世界的だったんです。別に日本だけが好きなんじゃないです。韓流ブームも日本だけ
じゃない。もうミャンマーからバンコクからアメリカのいろんな韓国筋のソサエティー
から、オーストラリアからみんなに、もちろん台湾も中国もですけども、香港もそうです
けども、チャングムとかそういうのバンバン見てるわけです。日本だけじゃないです。も
う世界的にバアっとやってるわけです。日本文化をOKした瞬間から逆の現象が起き
ちゃったんです。韓国映画がバアっと出てきた。今なにやっているかというと、まさか日
本でもここまで当たると思わなかったっていうんで、日本の観客も考慮にした上で、ヨ
ン様とか映画を作るわけですよ。だからますます日本のほうでは「ええっ」って感じにな
る。登場人物が日本に行ったりするとか、なんか結構やるわけですよね。
それで、それから例えば、日本の『モーニング』という漫画雑誌に出ていた、
「オールド・
ボーイ」という漫画を、韓国の映画会社が版権を買って、それを韓国で映画にしちゃうん
です。それがカンヌ映画祭、フランスでグランプリ取っちゃうんです。ストーリーは日本
の話なんですよ。それも舞台をソウルに戻して、それで韓国人が撮って、それがフランス
でもうとにかくすごい韓国映画となってる。そういう現象が起きているわけです。その
映画はもちろん韓国映画なんだけど、オリジナルは日本なんです。でも日本ではだれも
映画にしなかった。それを韓国人はめざとく「これは当たる」って言ってやった。だから
そういうふうな入れ子現象というのが、今どんどん進んでくるわけです。始めはまあ韓
国の俳優が、チェ・ジウが日本の連ドラに出ましたっていうレベルだけど、それがどんど
−82−
韓国文化といかにつきあうか
んどんどん続いていくと、いろんなスタイルが変わってくると思う。
1970年代に、とにかく韓国に行くとき、出入国管理事務所っていうか、そういうとこみ
んな軍人がやってました。わたしが行きますと、
「 はい、かばん開けて」。週刊誌とかが
あって、ビリビリビリって破られたりして、ヌード写真禁止っていうんで。それから、わ
たしのところに東京の友人が本を送ってくるときに、国際郵政局っていう、ウチェグっ
ていう郵便局ですね、そこに出頭命令が来て、行かなければならない。係官がいうので
す。
「岩波か」っていうんで、岩波の本だったらなんでもだめだったんです。もう岩波は悪
い赤の出版社っていうんで、目の前で捨てさせられる。岩波っていうのは、反軍事政権で
ずっとやってましたからね、韓国の。それも、とにかくそういう非常に陰気な抑圧的な雰
囲気だったわけですけど、だからみんなもう、そういうことがあって、お酒ばっか飲んで
ました。自由がないからっていうんで。
それが今民主化になっちゃって、ナウシカの地下鉄の駅ができちゃったりして、旅行
に行くときに韓国の空港に行った段階で、周りみんな日本の女性ですよ。なんかルンル
ンで、エステとグルメって感じで行くわけですよ。あのエステブーム作った人って、僕は
知ってますけど、まあうまくやったと思います。うまいキャンペーンを作ったと思いま
す。今はそういう、おやじの売春観光なんて言ってられないです。そういう感じでね、エ
ステとグルメになっちゃった。
それで、非常に変わってきたと思います。それはやっぱり僕は、いいことだと思いま
す。韓国に対するイメージが変わってきた。それから、それまでは、70年代までは、知識人
で韓国にものすごくシンパシーがあるって人が韓国に行かなかったんです。韓国って言
わないで南朝鮮なんて言っていました。
「北はいいけど韓国は……」とか。
「韓国に行った
りしたら右翼と間違えられる」とかそういう言い方で、もう日本のインテリの人で、もの
すごく進歩的な人が、
「しかし韓国は行かない」とかね。
「自分は日本帝国主義でさんざん
悪いことをしたから、韓国には行けない」とか言って。
それ僕は違うと言いたいんです。行ってみなきゃ分からないじゃないか。韓国に行っ
てそこの人と話したり、友達を作ったり、本場のなんかこう食べ物を食べたり、それって
韓国を知らないと、自分が悪いことをしたと思うのは、それはその人の考え方だけども、
あるいは思わない人もいるし、でもとにかく韓国に行ってみないと話ができないんじゃ
ないか。とにかく自分たちは悪いことをしたんだから、行かないって。
「行かないんじゃ
なくて、韓国のことを考えたくないってことなんでしょ、あなたは」って僕は言いたいで
す。
「韓国のことをできるだけ思い出したくないから、目をそらしたいから行かないだけ
なんじゃないですか」っていうのが僕の考え方です。それはもう学生たちにも、
「あまり
−83−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
ものを考えないで、突き詰めて考えないで、まず行っちゃってみろよ」と、80年代は言っ
てました。
だからわたしは韓国映画上映会でもそういうのをずっとやって、
「韓国にも映画はあ
るんだ。韓国にもロックンロールはあるんだ。韓国には漫画があるんだ」って、そういう
ことをずっと力説して、
「韓国も日本と同じように、そういうことはあるんだ」って言っ
てました。韓国に行くと「日本にも映画はある。日本にもロックはある。日本でもキムチ
は食える」ってそういうことを言ってました。みんな知らない。韓国人も日本のこと知ら
なかったです。その赤い角が生えているって、あれもひどいけど、ある時期そういうこと
小学校で教えてたわけだから。でもね、日本にあるもの大体韓国にあるんですよ。韓国に
あるものも大体日本にあるんですよ。その違いっていうのは、フランスとイタリアぐら
いのものでしてね。東アジアで、中国という偉大な文明から、漢字とか儒教とかお醤油と
かおはしとか、みんな同じように、韓国のほうが先ですけど、受け取ってきたら、似たよ
うなもの、似てくるわけですよ。もちろん違ってますけど。違ってるけど、やっぱり半分
ぐらいは似てるわけですよ。似てるからつまんないと考えるか、似てるからホッとする
か、それは人によりますけど。でも韓国も日本のこと全然知らなかった。日本も韓国のこ
と知らなかったけど。今はね、逆にね、韓国の情報ってのは、なんかいっぱいありますか
ら。もう韓国映画専門の雑誌なんかもあったりして、何でもありますし、なんかかなりめ
ずらしい地方料理なんかも食べられたりしちゃうんですけど。それで僕は基本的には、
これいいことだと思っているんですよ。
わたしは2年前に、イスラエルとパレスチナにずっと滞在していたんです。それから
そのあとコソボの難民キャンプの日本語学校で教えてました。いつも日本のビデオ見せ
て、
「 伊豆の踊り子」っていってやるんです。吉永小百合と美空ひばりとそれから百恵
ちゃんと、
「伊豆の踊り子」を見せて、
「だれが好きですか?」って、そういう授業をやって
ました。韓国でもやるんですけど。そういうことをやって、それで1年間日本を留守にし
て帰ってきましたら、うちの母とか、おばとか、みんなが言う韓国人の固有名詞が全然わ
たし分からないんですよ。イ・ビョンホンとか言ってね。分からないですよ。それで、僕は
自慢じゃないけど20年間韓国映画の紹介とかなんかしてきたんで、大体そういう名前分
かっていると思っていた。そしてなんか分かんないけど、ヨン様とか言うんで、
「何?」っ
て。それでもなんか、もうおばは80なんですけど、
「あたしね、今ハングルやってるの」。僕
は本名剛己って言うんですけど、
「剛己ちゃんって、なんか男前がいっぱいいる国に勉強
に行ったのね」なんて言って、もうびっくりしました。80で外国語やるっていうのは、
−84−
韓国文化といかにつきあうか
やっぱり気が若い証拠ですよ。皆さんほんとに若くなりたいと思ったら、外国語やるこ
とです。やった分だけ通じるってのもありますけど、とにかく言語っていうのはちゃん
とルールがありますから、そのルールにのっとってやるっていうことで、それは楽しい
高度な知的遊技になると思います。ほんとに頭を適度に使って、それから発音なんかし
て体動きますから、非常にいいですよ。
とにかく80になって、ハングルやってる人がヨン様とかイ・ビョンホンとか言うんで、
僕は全然分からなくて、それで「なんだ?」って聞いたら、テレビドラマ、僕がいない間
に、もう日本で韓流のテレビドラマわあっとあったんです。これはもう僕も追いつかな
きゃいけないと思って、お正月3日間で「冬ソナ」を、とにかく8時間ずつ、わたしおにぎ
りをいっぱい作って見たんですよ。それで論文書きましたね。
「ヨン様とはなにか」って
いう50枚ぐらいの論文を書きまして。そしたら去年はなんかね、春川っていうね、チュン
チョンっていうヨン様のあの冬ソナの町で、なんか世界ヨン様学会というのをやったん
ですよ。それで日本代表で来てくれって言うんです。知事も来るからっていうんで。ちょ
うど僕は大学の試験と重なってたんで「行けない」つったら、
「そんなことよりヨン様大
切でしょう」って言って、
「冬ソナもなにも、ともかく学校休めないから」って断ったんで
すけど。世界ヨン様学会やっちゃったんですよ。よく聞かれました。韓国のほうで聞かれ
ました。
「なんでヨン様、日本で人気があるの?」って。
「説明してくれ」って。だからもう
論文書いたんですけど。
僕は基本的には、そのヨン様現象はいいことだと思っているんです。もちろん韓国の
テレビドラマの中で歴史物とか、日本が攻めてきて、あそこの王妃様を殺しちゃったと
か、そういうのがあっちでは大人気だったりするんで、そういうのは注意深く日本では
知られていないっていうことはあるし、あるいはチュンチョンの町って、冬ソナの、あそ
こは横須賀みたいな町でして、米軍の基地が町のど真ん中にいて、アメリカ兵がわがも
の顔に歩いてる町なんだけど、テレビには絶対それは出てこない。ヨン様、冬ソナにはア
メリカ軍は全然出てこないとか。あるいはヨン様は韓国料理一度も食べないじゃないか
とか、そういういろんなところあるかもしれないけど、それを含めて僕は日本の女性た
ちがヨン様に飛びついたっていうことはいいことだと思っています。
というのは70年代に韓国に行った人間から見ると、あの当時のこと覚えてますから。
わたし帰ってきて、まだハングル勉強しようと思って、井の頭線かなんかでハングルの
本読んでたんです。いつのまにか両隣、人がいないんですよ。なんか警戒されちゃって、
なんか怪しいなんてわけで。そのとき非常に孤独でした。フランスかなんかに行って、フ
ランスの本かなんか井の頭線で読んでたら「おしゃれ」とか言われるかもしれないですけ
−85−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
ど、
「ああそうか、韓国語なんてやっぱりださいのかなあ。あるいは警戒されるのかなあ」。
いつも3人で、留学組3人が1年に一度ぐらい韓国料理店でね、食べたりして、
「このごろ
どうしてる?」って。
「うーん」とか言って「なんか就職もみつからないし、韓国語やって
たってねえ」なんて言って、
「あっちにいたときはおもしろかったのにね。こっちに帰って
きたらなんにもねえ」なんて言って。そしたら、そのうちの一人がNHKテレビの「アン
ニョンハシムニカ講座」のアナウンサーになっちゃったんですよ。そのへんから、なんと
なく、オリンピックがあって、一度韓国への観光客が、日本からバアっと行くようになり
まして、そのころも僕らは疑ってましたね。
「オリンピックが終わったら、また元に戻っ
ちゃうよ」って。またなんか韓国ってださいよなってなっちゃうだろうと思って。
オリンピックのあと、ブームが落ちなかったんですよ。そのままずっと続いてて。その
あと金大中になって、日本文化が解禁になって、あっちのほうも若い世代が日本の漫画、
アニメってわあっとなって、日本のコスプレ大会なんかやってたりする。それも独立記
念公園かなんかでやってたりするんです。大丈夫かなと思って。若い世代はもう日本の
アニメで。それで日本のほうも、もうどんどんどんどん韓国グルメとエステの国で盛り
上がっていく。でもそのころでも僕は、やっぱりサッカーのころまで、日本で韓国をやっ
てる人は「サッカーが終わったらまた元に戻っちゃうよ、一過性のものだよ」って思って
たら全然、サッカーのあとはヨン様でしょ。落ちないんですよ。今はもうブームじゃない
です。普通にあるんですよ。つまりフランスに行ったら、イタリア料理店があってスパゲ
ティ食べるみたいな、そんな感じになって、フランスにおけるイタリアみたいな感じ
なってきた。つまり隣の国のものだから、近場だから自然にあるのが当たり前という感
じになってきた。
韓国だからってんで、こう緊張しなきゃじゃなくて、単にこうなんかね、
「このキムチ
うまいじゃん」っていう、
「あそこの店のほうがいいよ」とか、そういうふうになってき
たっていうのは非常にいいことだと思うんですね。韓国のほうも「日本だから」ってんで
ね、
「反対」あるいは「賛成」とかじゃなくて、単に村上春樹の小説好きな人が春樹をバン
バン読んでて、
「ああこの人って神戸生まれって書いてある。日本人だったんだ」ってそ
ういう感じで今受け取っているんだね。
「日本人だから読む」っていう時代じゃないんで
す。
「春樹が好きだから」なんですよ。だんだん日本もそういうふうになってきて、
「韓国
人だから」とか「韓国の演歌だから、チョー・ヨンピルは」っていうんじゃなくて、チョー・
ヨンピルが単に好きっていう。僕はそれでいいと思うんですよ。つまりフランスのシャ
ンソンが好きとかね、そういう感じでヨン様が好きでいいんだと思う。
日本人の中で、だからもうすでに日本の大衆文化の中に、韓国文化がはっきり入り込
−86−
韓国文化といかにつきあうか
んでいるってことですよ。逆もそうなんです。韓国では、漫画のうちの8割は日本の翻訳
ですから。一番売れた本が何年か前、
『金田一耕介の冒険』ですから。それ以後も目くじら
立てないですよ。それでいいんだっていう。
「 あの漫画はおもしろい漫画だからいいん
だ」って。それで終わりなんです。だから、僕はそれはもうお互いにお互いの文化が入り
込んでいるから。日本の今のカルチャーっていうのは、韓国文化がなしには成立しない
んです。韓国のほうもそうなんです。日本の文化がわあっとあって、それをこう受け入れ
る若い人たちから、もうほんとに高齢者までがあって、それで韓国文化の全体ができて
いる。だから分けられなくなっちゃってるんです。フランス料理店にいって、
「ん、これは
なんかイタリア料理だな、これはフランス料理だな」って分けて食べる人がいるかって、
いないですよ。単に美味しいから食べるんですよ。そういうふうになって、もう入りこん
じゃってて分けられない。これは韓国、これは日本っていうふうに、もう分けられない中
間タイプのどちらでもいいけど、もう気持ちがいいからいいじゃんとか、好きだからい
いじゃんという、それでなってきたっていうのは、僕は普通の現象だと思います。今だか
らブームはないんだ。普通にこれであるんだっていう。
もう一つおもしろいのは、ヨン様現象がやっぱり重要だと思うのは、女の人が動い
たってことです。インテリが、インテリとか学者とか若い学生が、
「韓国おもしろいよ」っ
て、
「韓国映画おもしろいよ」とか「韓国の歴史おもしろいよ。特に渡来人と日本の関係と
かおもしろいよ」って、それは分かるんですよ。どこの国だって、若い世代の人間が隣の
国に、つまりドイツ人がね、
「すごいよ、あのフランス文化」って言う。一般人はそういう
ふうには動かない。日本における在日韓国人をだれが差別するか。表向きはだれも差別
しないけど、陰口をたたくのは、例えば不動産屋のおばさんとか、不動産屋のおばさん悪
いわけじゃないんだけど、要するに普通は庶民の、目立たない形で女性です。男は社会的
なところにいて、
「だれだれは韓国だからだめだ」とかそういうふうになかなか言えない
立場にあるけど、女が、女性が陰口をきくわけです。
「あの人はいい人だけど、でも半島の
人なのよね」とかそういう言い方をするわけです。それに在日の人たちはすごく傷つい
てきたわけですね。表向きは言わないけど、陰口を言う。ところがそういう人たちが、実
は韓国のヨン様とかいうのをもって、韓国という国のイメージを自分で作り出してきた
わけです。男前の国と。サッカーの選手たちを、だれがかっこいいとかそういうことをや
り出す。
これはおもしろい現象だと思います。男のインテリとか若い世代が言うんじゃなく
て、女の人が、それも若い女の子が言うっていうんじゃなくて、中高年齢層です。つまり
もう歌舞伎とかそれからいろんなものを見てて、男のイケメンとはどんなものだとか、
−87−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
先代の海老蔵はどうだったとか、幸四郎はどうだったとか、そういうことが分かってい
る人たちがヨン様にいくわけですよ。そういう目が肥えているというか、男の顔を見る
目が肥えている人たちが言うっていうのは、これは非常におもしろいと思う。その人た
ちがそれでヨン様ツアーに行って、韓国に行って、それで本場の韓国料理とか韓国人と
会ったりして、それで普通に帰ってきて写真をみんなに見せたり、
「韓国いいわよ」って
言ったり、ハングルやり始めたり、韓国関係の小説、純文学を読んだりとかする。そう
やってその国を理解していくわけですね。つまりヨン様の前までは「あの人っていいけ
ど、やっぱり朝鮮人って嫌ね」ってそういうことを言うような人たちが、実はヨン様を通
して「韓国すごいわよ。男がかっこいいわよ」っていう、そういうふうになっていくって
こと、これが重要な動きだと思います。わたしはそういう意味では、ヨン様現象というの
は非常におもしろい。
つまりわたしが本を書いて、何冊か韓国について書いて、
「 韓国文化はおもしろい
ぞ」って一生懸命書いても、ごく少数の人です。ほんとに日本人動かないのに、ヨン様動
かしたんです。その人たちは多分ヨン様にすぎないんだけど、実際に韓国に行ったり、韓
国文化をかじったりとか、そういうふうなことをやるわけですよ。
今日本では、高齢者の人がもう一回大学に入るとか、あるいはもう遊び感覚で大学で
授業を受けるっていうのはこれからはやると思うんですね。もう単位なんかいらないで
すよ、卒業証書もいらないけど、なんかこれとこれとこれをもう一回ちゃんと勉強した
いからとか、そういうことすごくいいことだと思うんです。大学生たちが勉強しないと
きに、そうやって中高年層の人が勉強、本格的に勉強しだすと、若い人間がそれを見て気
合が入るんです。変わってくるし、授業の重みって、奥行きが出てくるんです。そういう
人たちが例えば文学の勉強なんかしてるときに、やっぱり人生経験があるから、学生た
ちが読むのと違う深い読み方ができて、それが授業に反映されたりする。だから皆さん
ほんとに、仕事を一段落してお暇になった人っていうのは、大学にもう一回入り直すと
いうか、遊びで入るみたいなことをなされるといいと思います。
「昔自分は理科系やった
んだけど、今度は源氏物語の勉強やろう」とか、そんな感じで。カルチャーセンターより
はるかに安いですよ、大学は。ほんとに。そんな難しいことって、難しいことじゃなくて、
難しいことを分かりやすくしゃべるわけですからね、こんな話してるわけですから、わ
たしは。
そういうときに、だからそういうのもあるんだけど、やっぱヨン様が動かしたという
ことは非常に重要だ。ただしね、まあちょっと時間になったので、そろそろなんて言うん
ですかね、一つだけ、苦言というわけではありませんが、やはりちょっと冷めて、まじめ
−88−
韓国文化といかにつきあうか
に考えなきゃいけないことがあって、つまりこういうことなんです。単純に言いますと、
「韓国はいいけど北朝鮮は嫌よね」になっちゃったんです。70年代まで逆だったんです。
「北朝鮮は地上の天国で、病院も学校もみんなただでいいとこなんだけど、韓国、南朝鮮
はアメリカの奴隷で、子どもも貧しくて汚くて悪い国よね」。アメリカの奴隷ってどこな
んだよって言いたい、わたしは。イラクにどこの国が兵隊送ったんだ。日本じゃないです
か。それは政治的な発言は別として、
「韓国はいいけど北はだめよね」っていう言い方の
背後にはやはり差別構造があるんです。北でなにが問題かというと、あれは政治家です
よ。独裁者ですよ。金正日とその周辺の贅沢ざんまいやっているその人たちであって、あ
そこの国民は被害者なんです。ほんとに食べる物もなくて、ほんとに被害者ですよ。ここ
にいる在日韓国人の中にも、要するに朝鮮籍の人と韓国籍の人がいるわけです。それから
帰化しちゃった人もいる。朝鮮籍の人ってのは,正確にいうと、北朝鮮籍というわけでは
ありません(日本は公式的に北を国家として認めていないので、それは国籍として認知さ
れていないのです)。
「おじいちゃんがね、朝鮮籍だから、おじいちゃんがあれする間は南
のほうには行けない、韓国籍には行けないわね」と、そういう人たちもいるし、
「金日成様」
と言ってる人もいるし、いろいろなんですけど、その人たちにしたって、結局拉致の問題
にしてもなんにも全然関与してなくて、そして一方的に今「あんた北朝鮮だろ」って言わ
れてる。そういう北、
「南はいいけど北はだめよね」っていう、そういう非常に単純な言い
方で人間が区分されるっていうこと、これはやっぱり非常にいけないことだと思います。
一人一人の人間を見るべきなんです。
皆さんも例えば外国に行って、
「だからさ、アジア人ってこうなんだよね」とか「だから
黄色人種ってこうなんだよね」って言われたらカチンってくるでしょう。あるいは「はい、
そこの日本人」なんて言われたら嫌でしょう。
「わたしの名前はなんとかです」って、
「名前
を呼んでください」って言うべきです。個人として扱うべきですね。
「だから韓国人一般は
ね」っていうふうに言われたら韓国人嫌ですよ。われわれだって「だから日本人はね」って
いうように、いっしょくたにされたら「日本人はいっぱいあるし、秋田の人間と沖縄の人
間は全然メンタリティーが違うんだ。日本のことを知ってから言ってくれ」って僕は言い
たいですけど。
だから、そういうふうなメディアなんかが非常に単純化して北朝鮮のことを笑いもの
にする。安全地帯から笑いものにしてるんですよ。いくら北朝鮮のことをばかにしてから
かっても、北朝鮮がこちらになにも言えないだろうってことが分かっているから、安全地
帯で言うんですよ。これは非常に問題があります。卑劣なことだと思います。
「だれそれさ
んはこうだ」とか、そういうふうにだったらいいんだけど、一般論になっちゃってる。
−89−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
だからそういう、今ヨン様ブームの背後に、ヨン様ブームによって、韓国人に対する印
象が非常によくなった。一方で北朝鮮に対する印象が非常に悪くなった。これは裏腹なん
です。これは同じ民族なわけであって、北朝鮮だって探して見ればヨン様みたいな顔の人
はいっぱいいるわけですよ、きっと。やせてるかもしれないけどね。わたしはそういうふ
うな、北バッシング自体をもっと冷静に考えなきゃいけないと思います。北の国がどうな
るか分かんないけども、もしぶっつぶれたら、たくさんの難民が世界中に行く可能性があ
ります。今でも中国経由で、延辺なんかの朝鮮族に手伝わせて逃げてくる人いっぱいいま
すね。日本にも少し入ってきます。ほんとにあの国ぶっ壊れたらどうなるか。日本海渡っ
てきますよ。日本海を。あれはもうほんとに渡りやすい海ですから。
わたしの知ってる焼肉屋のおやじがもう75ぐらいかな。時々焼肉食いにいったときに、
人がいないときにまあ話をするんですけどね。
「とにかく自分は、美智子さんが結婚した
年だったけど、妹一家を北に送ったっていうのが人生の失敗だった。でもとにかくあそこ
にいくらお金を払ったことか。送ったことか。でもそれがないと妹一家はあっちでいじめ
られて、差別されて、ひどい炭鉱暮らしになるから、とにかくそれを避けるためにってい
うんで、ものすごいお金を送っている。今は自分は社会的に成功して焼肉屋を3軒持って
いるけど、2軒を売り払ってでもいいから妹家族を引き戻したい」って言ってました。そ
れはそうなんですよ。やっぱり血は水よりも濃いっていう言い方がありますね。家族の情
愛っていうのが、やっぱりすべての根源ですから。わたしは学生に言っているんですよ。
国家なんか裏切っても構わないけど、親兄弟のきずなっていうのは絶対裏切っちゃいけ
ないし、そういうもんじゃないからね。簡単に言えば親孝行かもしれないけど、そういう
ことできない人間はだめだと、そういうこと言っていますけども、特に韓国人は、別れ別
れになったときとにかく家族ですね。だから妹一家、その焼肉屋の親父がもうぼろぼろ涙
を流していうわけですよね。店3軒のうち2軒を売ってもいいから妹一家を。だから僕は
言ったんです。
「もし難民で、ボートでやってきたら、どうする? 新潟のどっか海岸に来
たらどうする?」
「もちろん引き取る」って。もうこっちで、要するにかくまうって言って
いましたね。犯罪になるかも、不法行為かも知れないけども、やっぱり家族にきずなって
いうのは法律よりも自分の中で重要だから、逃げてきた者はやっぱかくまう。妹一家が逃
げてきたら、ちゃんと日本で生活できるようにする。それがあれじゃないですかって言
う。逆にこっちが説教されちゃって。
韓国人と日本人、違いっていうのはあるし、似てるところはいっぱいあるけど、すごく
おもしろいのは、家族に対する、あるいは友情に対する考え方っていうのは非常に違いま
すね。同じ儒教の国だといっても、韓国人は、例えばもし息子が犯罪を行なったら親はど
−90−
韓国文化といかにつきあうか
うするか。日本はやっぱり警察に連れて行きますよ。
「 社会的に悪いことをしたんだか
ら」って言ってね。あるいは警察に電話しますよ。
「今息子がこういうことをやって来てる
んだけど、逮捕しに来てください」って言いますよ。韓国は絶対にかばいますね。母親が息
子を。
「なんかこれはいろいろな事情があったんだ。警察には分かんないけど、この子のこ
とを分かるのは自分だから」って、自分がかくまうことが犯罪になるかもしれないけど
も、絶対にかばい通します。自分が有罪になってもいいから、子どもが逃げてきたら、
「な
んか事情があるんだ」ってかばい通す。それが親だっていう考え方ですね。法律よりも家
族の情愛ですね。ここは日本は違います。日本はやっぱり警察に電話すると思います。社
会のためにあれしたからって言って。
だから忠孝っていう、儒教で言いますね。忠義と孝行。日本は忠なんです、非常に簡単に
言うと。つまり社会的な意味での、社会の中での人間関係のことを最優先して、家族はそ
のあとにするんです。韓国は孝なんです。親孝行の孝ですね。家族がまず最初で、つまり親
兄弟に対する情愛と信頼というのがあって、それから社会があるんです。
ですからそれが、時々住んでると、あっちに住んでると、もうはっきり出てくることが
ある。例えば僕がソウル大学に行って、そこで特別講演会をやる。特別講演会をやる前の
日に、ソウル大学のその呼ぶ人から電話かかってきて、
「実はあした子どもを歯医者に連
れていかなきゃいけなんで、講演の日取りを変えてくれませんか」って言うんですよ。日
本ではあり得ないことですよ。子どもの歯医者に親がついていくので、わざわざ社会的に
人を呼んで、大学で告知してやるのに日にち変えてくれっていうのはあり得ないことで
しょう。非常識も、韓国は平気でやるんですよ。家族が中心だから。要するに子どもの歯の
ほうが、歯の痛みのほうが、大学の講演会よりも優先順位なんです。僕はあきれ返ったけ
ど、しかしそうなんです。こういう、こうなると困ったなっていうのもある。
それから例えば、もう昔の話ですけど、小西行長と加藤清正が朝鮮を侵略した。そのと
きに、ある将軍が出て戦わなきゃいけなくなった。その将軍が出てくれば勝つかもしれな
いっていう。ところがその将軍は親が死んじゃったから、3年間喪に服さなきゃいけな
いってんで、戦いに来られなかったんですよ、3年。
「3年たったら出てきます」って言っ
て。だって自分の国が滅びかけているときに、父親の礼のために3年間喪に服しますって
田舎にこもっちゃったんです。信じられないでしょう、日本だったらね。親が死んでも「お
国のために」ってやるんですよ。もう「これだからあの戦争負けたんだじゃない」っつった
ら、
「そうなんだけどね、韓国はこうなんだから」って彼ら言うんですけど、そのくらい家
族のことが重要になっています。
−91−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
ところで、せっかくヴィデオを準備してきたので、かけてみましょうか。 韓国の映画
の、ちょっとおもしろいものを、ちょっとだけやってみましょう。これは、
「達磨はなぜ東
に行ったのか?」っていう、2時間半ぐらいの話なんです。それでどういう話かといいま
すと、3人の登場人物しか出てこないです。ある山の中に禅宗のお寺があって、そこに七
十幾つのおじいさんのお坊さんが住んでて、それから若い青年僧がいて、それから子ども
の僧侶がいると、この3人の春夏秋冬だけを描いている。それで青年僧が、目が見えない
お母さんと貧しい妹を捨てて、何もかも捨てて山の中に入って修行をしてるんですが、自
分が家族を捨てたってことにものすごい罪悪意識を持ってる。それで少年僧はっていう
と、みなし子で山に捨てられていたのを、おじいさんのお坊さんが拾って育てた。その子
は、まだ人間が死ぬとか生きることっていうことは全然分かんない。生命の尊さというの
は知らないから平気でなんか鳥を殺したりとか虫を羽むしったりとかして。
そういうふうにして3世代の僧侶がいるんですけど、最後におじいさんの僧侶が亡く
なるんです。おじいさんの僧亡くなって、それで青年僧と少年僧が、彼の遺体を焼くとい
う場面を見ていただきます。単にもうほんとに遺体を焼くっていう場面だけなんですけ
ど、それがもう30分ぐらいかかるんです。今日はちょっとあれですけど、5分くらい見て
いただきますけど、その映画の撮り方だけを見ても、この作品のある種の精神性が見られ
るという、これは1989年ぐらいです。ペ・ヨンギュンという監督が35歳ぐらいで撮った作
品です。じゃ、お願いいたします。
(映画上映)
四方田 それで、これ実は2時間50分ぐらいの作品であれなんですけども、題名はダル
マ、つまり禅ブッディズムを始めた人です。その人が天竺、インドにいたのが、ある時中国
に行ったわけです。西から東に行った。
「ダルマはなぜ東に行ったのでしょうか」っていう
題名の映画なんです。ダルマは出てこない。3人のお坊さんしか出てこないんですけど。
有名な文句があるんです。禅で、禅のときに非常に難しい質問をして、それをどう答え
るかっていうんで、この悟りが開けるかどうかっていう有名な質問があって、例えば「和
尚」って言って「悟りとは何か」って言ったら、
「悟りというのはこうだ」と言っていきない
この頭をポカってなぐるとか。
「悟りというのは便所の」、なんていうんですか、
「掃除をす
るときの木のへらのようなものだ」とか。そうすると「はっ、悟った」とか。そういう質問の
中にやっぱり「ダルマは何なぜ東に行って、なぜ中国に来て、来たのでしょうか」って弟子
が言うと、先生が「ダルマが東に行ったことに意味はない」っていうふうに言う。そういう
ふうに記録が残っている。ある人が答えたし、ある和尚さんは、それは何も言わずに庭先
−92−
韓国文化といかにつきあうか
にある樹木を指して「あれだ。答えはあれだ」ってね。それで弟子は「この意味はなんだろ
う」って考えて修行をするとか、そういう有名な言葉なわけです。その題名はその言葉か
ら来てるんですけれども、この映画を2時間50分、一人のお坊さんが亡くなって、その弟
子の青年がまきを集めてお坊さんの遺体を焼いて、そして一晩中焼いてずっと見てる。そ
して最後に、夜明けになってそのお坊さんの骨を拾う。それだけの映画なんです。それが
2時間50分。それを見てるとやっぱりいろんなことを考えるんです。
僕が驚いたのは、これは1989年ぐらいに撮られたんですけど、監督が日本に来たとき
インタビューもしたんですけど、彼ずっとパリで勉強した人なんですね、ずっとパリで。
今大学の先生やっているんですけど。35ぐらいでこういう映画を撮るってのは、非常に精
神性が高い。あるいは人間の死とか、生きるってことはどういうことなんだろうって。
人間も結局は死んだらひとつかみの骨に、灰になってしまう。アッシュになってしまう。
そういうことをずうっと見てる。これは、例えば70歳の人がこういう映画を作るとか、こ
ういう境地に達するというのは分かる。35ぐらいでまだ人生経験がそれほどない人間が
ここまで深い境地に、初めから達するような映画を撮れたっていうのはどういうことな
んだろう、っていうふうなこと考えてましたね。会ってみてそういう深さを持った人間だ
ということがよく分かりましたけども。
こういう、今、日本で35歳の映画監督がこんな映画撮れるのかなって、撮れませんよ。も
ちろん韓国でもアクション映画「シュリ」とかなんかそういうのもあるし、ヨン様の危険
な関係の映画もあるし、いろいろあるけれども、非常にこういう、なんか、人間の精神の、
死をみつめる心っていうものを非常に深く掘り下げた、そういう映画もきちんと撮られ
ているという、非常にそういう感銘を受けました、わたしは。これを考えるのに、1本の映
画ができるのに、その映画だけを見てても分かんないので、それを作り出した文化という
ものを理解しなきゃいけない。そういう背後にある朝鮮文化ってのが非常に厚みがあっ
てこそ、こういうものを35歳みんなパっと撮れるということです。それをちょっとまじめ
に考えてみたいと思っています。
まあとにかく映画研究家ですので、私は映画があるとこどこにでも行く人間です。韓国
ももちろん行ってますけれども、北朝鮮も、ひたすら映画を見に行くだけで、映画祭なん
かに行ってきたりもしました。そういうお話をしてもいいんですけど、それはまた別の機
会にでも、北の話はしたいと思いますけれども。じゃ、そういうことで映画の話になりま
したので、ここでひとまずお話を閉じたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
なんか本間先生のほうから、まだちょっと時間のお許しがあるみたいなので……。
−93−
駿河台大学論叢 第 33 号(2007)
司会者 何かご質問のある方はどうぞ。
四方田 どうぞ、どなたでも。これが韓国ですと、質問バアっと出ます。韓国の学生、大学
で教えていますと、韓国で「質問ありますか?」って言ったら、バババって出ます。とにか
く、いろいろこの教師から搾り取らなければ損だみたいな感じで、ものすごく何回も何回
も質問。日本の大学っていうのは、学生質問しないですね。みんなの前で質問すると、
「目
立とう」って「あの人目立つためにやってんじゃないか」って、もう18ぐらいのときから周
りを見て、3人ぐらい質問すると「あたしもやっていいのかな」ってやるんですよ。違うの
は、日本の学生は、日本の学生でいらだつのは、あとでこっそり聞きにくるんです。
「試験の
範囲はここまでです。だからこれで質問ありますか?」。韓国はバババっとね。とにかく「今
のとこもう一回ゆっくり話してくれ」とか、
「こういうことはこうか」ってものすごく聞く
んです、その場で。それでそれをやっててこう、質問するっていうとみんなが知りたいこと
ですよ。似たようなことを質問するんですけど、日本の場合には試験の範囲って黙ってい
る、
「 質問は?」って言うと。あとで研究室に来て、
「 あの、さっきの試験の範囲なんですけ
ど、こういうことはこういうことなんですか?」。僕は怒るんですよ。
「君は一人だけ教えて
ほしいわけ? 君だけに、みんなが知らなくて君だけが知りたいってことをやりたいわけ
か? 質問がありますかって言ったときにどうして聞かないんだ」。
日本人は、世間っていうのを気にしすぎますよ。個人を持ってないですね。はじめに質問
すると、
「なんかあの人、あんないつも目立とうっていうことで後ろ指指されるじゃないか
しら」って、そういう感じでね。それは年を取った人間じゃなくて、若い人間からもうそう
いうメンタリティーを持っちゃっているんですね。これは非常に国際社会で損です。
「質問
ありますか」って言ったら、パパパってやるべき。ただしね、もうアメリカの大学だとほん
とに野暮な質問もするから、
「そんなの自分で考えろ」って言いたくなりますけど。日本人
はね……、はいどうぞどうぞ。
̶ キム・ジョンイルの話が出ましたのですが、僕もあんまり個人的には好きなほう
じゃないんですけども、一説によるとキム・ジョンイルっていうのは映画が大変好きだと
いうふうに、何かいろいろ情報で聞いているんですが、何かそのへんの状況についてご存
知でしたらご披露いただきたいと思います。
四方田 世界的にものすごい映画のコレクターで、日活ロマンポルノは相当にポジフィル
ムも持っているっていう。韓国の映画でも、韓国でなくなっちゃったものもちゃんとどっ
かに手回して手に入れたりしてるんです。日本のフィルムセンター3,000本しか持ってない
−94−
韓国文化といかにつきあうか
んですけども、キム・ジョンイルは2万本映画持っているっていいますから、とにかくわた
しが恐れているのは、戦争になってほしくない。戦争になりますと、フィルムというのは42
度で燃えちゃうんです、昔の映画は。溶けちゃうんです。戦争でキム・ジョンイル・コレレク
ションがなくなっちゃいますと、世界の映画研究が遅れますんで、なんとか平和裏にキム・
ジョンイル記念コレクションっていうのをあれしてほしいですね。日本映画でも日本にな
いような、なんか昔の「宮本武蔵」とかあるっていう話なんでね。とにかくそれを、もう個人
で2万本見れるかって、見れないですよね。だからそのままなんかしていただきたいと。
詳しくは、この間物故されたシン・サンオク監督っていう、北にらちされて北で映画撮ら
された人なんですけども、その監督が自叙伝『闇からの谺』っていう本が、どっか日本の出
版社で2冊で出てます。そこの中にキム・ジョンイルのことはものすごく細かく書いてあ
ります。それをご覧ください。
『闇からの谺』っていう本。 じゃあこういうことで、ご清聴ありがとうございました。
−95−
Fly UP