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何もすることがないので、退屈だ。
ダメージ・10 オドラデク考 畠山 拓 定年になり、何もすることがないので、退屈だ。退屈な時は何か考え事をするのが良い。 時間を上手にやり過ごすことができる。 眠くもないが、ベッドに横になる。何を考えようか、と考えている。 「貴方。一生そうやって居るの」と、妻が言う。 「死ぬまでということか」 「まだ、元気なのだから、働けば。ボランティアとか」 「黙ってくれないか。気が散る」 「何よ。気が散るような事をしているの」 おさまる時もあるが、おさまらない時は、私は家を出る。サラリーマン時代の黒革の鞄 に下着と二三冊の本を入れる。 電車に乗り、駅で降りる。少し歩いてホテルに入る。晴れている日は駅からホテルまで の並木道は美しく楽しい。 チェックインを済ませる。時々、来ているので、フロントの係りは、見知っているはず だ。今日も同じ顔なのか、思いだせない。 ベッドとテレビ、冷蔵庫だけの小さな部屋に入る。寝ころぶ。ベッドが変わっただけで、 私の姿勢はさっきと変わらない。一人になれたので、少し幸福感に浸る。静かだ。しばら くすると退屈になる。 ホテルの壁の中で微かに金属製の音がした。耳を澄ます。後は静かだ。空調や配管の共 鳴か何かだろう。良くあることだ。 ホテルの部屋に「そいつ、オド・・・」が出てこないものか。ベッドの下や、天井の空 調口などから飛び出してきたら面白いだろう。 「そいつ、オド・・・」を思いついたときは、名前もうろ覚えだ。正確には思い出せない。 鞄から「岩波文庫・思考の紋章学・澁澤龍彦」を取り出した。確か書かれていたはずだ。 面白いエッセイだったな。 さらに鞄から「ちくま文庫・カフカコレクション・浅井健二郎訳」と「白水Uブックス・ 断食芸人・池内紀訳」の短編集を取り出した。 初めから「そいつ、オド・・・」を考えようとしていたのだったか。気が付いてびっく りする。無意識に参考の本を三冊、持って来ていた。 見たいと願った夢を見ている気分だった。何日も退屈はしないだろう。 一眠りしてから、考えようかと思った。気になって、 「そいつ、オド・・・」の名前ぐら い確認しようと、本を開く。 そいつの名は「オドラデク」だった。 表題「断食芸人」の短編集を開く。作品のタイトルは「家父の心配」である。澁澤のエ ッセイでは「家長の心配」となっている。 「家長の心配」のほうが良いと思う。私は「家父」 とはあまり言わない。 「オドラデク」を考える前に、もう一度、作品「家長の心配」を読むべきか考えた。今ま でに何度か読んではいる。短い作品なのだが、良く覚えていない。はっきりしないまま考 えるのも良いが、眠る前にもう一度読んで、眠りながら考えるのも面白い。 睡眠中にも脳は働いているのだと私は信じている。 私は小説を書くのは目覚めて直ぐの時期が長い。サラリーマンなので朝しか時間がない ということもあったが、前の原稿の続きが、朝の目覚めには出来ていた。夜、睡眠中に考 えていたのだ。昨夜まで考えてもいなかった物語が、滑らかに展開し、文章が楽々と流れ 出す。 日常の悩み事の解決策も覚醒時に得ることが多い。 私の脳は睡眠中に勝手に「オドラデク」について深い考察をして答えを用意してくれる かもしれない。楽で合理的だが、時間つぶしにはならない。本来の目的に反するから、睡 眠中は何も考えないことにした。 眠ろうとしたが、眠れない。一昨日は八時間、昨日は九時間、今朝は九時半まで、九時 間半も眠っている。昼寝など出来るはずもない。 諦めて、覚悟をきめて「オドラデク」について考えることにした。何を考えればいいの だろう。単純素朴に行こう。 多分、結論はこうなるはずだ。 「オドラデク」とは何である。 「宇宙とは何か」 「時間とは何か」 「愛とは何か」 「数学とは何か」 「政治とは何か」 と、同じように「オドラデクとは何か」と、考えるべきだろう。 「オドラデク」が生物であれば、発生学的に考えればよい。 「オドラデク」が機械や道具な ら、用途設計を考えれば良い。 「オドラデク」は生物か無生物か書かれていない。会話ができるのだから生物だ。高等生 物だ。はたして、物なのか者なのか。 『 「名前は何というのだね」 「オドラデク」 「何処に住んでいるの」 「分からない」 』 家に住みつく妖怪の類と解釈すれば、話が早いのだけれど、それではあっけない。日本 の民話の「座敷童子」に雰囲気は似ている。何もしない。善行も、悪行もしない。ただ存 在しているだけ。 「分からない」と、言った後に「オドラデク」は落ち葉の囁きのように乾いた笑い声を立 てる、のだ。 正直ではないらしい。自分がどこにいるのか本当に分からないのか。質問者をあざけっ てそう言っているのか。 「お前こそ、どうしてそこにいるのだ」とでも、言いたげではない か。困惑の笑いともとれるが。 ところが浅井健二郎訳では「分からない」で、池田紀訳は「きまっていない」となって いる。 「分からない」と「きまっていない」では意味がずいぶん違う。外国語の作品を読む 難しさだ。 「オドラデク」は鎮められない霊魂。この世に未練を残している、魂がさまよっている 状態とも考えられる。自分の居場所はどこにもない魂なのだ。 生きているのか、物なのか分からない。何のために存在しているのか分からない。何時 まで、存在しているのか分からない。はるか以前から「この世に」存在していて、未来永 劫存在し続けるもののようでもある。 最近、 「ウォーリー」という映画を見た。サイエンスフィクションで、人類不在の、七百 年間作動している、コンピューターロボットの物語である。動く、話すは人間ばかりの特 性ではないとも言える。カフカの時代には高度なロボットは無かったろうが。 作品は寓話なのだろうか。 喉が渇いた気がして、冷蔵庫を開ける。何も入っていない。安ホテルなので飲食物を部 屋に用意していないのだ。廊下に販売機が置かれている。 開放的なつくりのホテルで廊下に出ると、街路が見える。リゾートのプチホテルにある 建物に似ている。並木は緑だ。ビールとウイスキーを買って部屋に戻った。 澁澤龍彦のエッセイ集を開く。 「思考の紋章学」という大袈裟なタイトルだ。澁澤の文章 が好きでエッセイは沢山読んでいる。若いころ、マルキ・ト・サドを読んだものである。 澁澤は博物学的学識と、明晰な分析力、豊な想像力で読者を楽しませてくれる。文章家 は優れたエンターティナーでなければならない。 「これをはっきりと独楽の一種と断定している論者がいるぐらいで私としてはやはり生き た物体(矛盾のようだが)と見ておきたい気持ちが強い、そもそも物体なればこそ、この 物語は異様なリアリティーを帯びてくるのである」と、澁澤は論じている。 「生きた物体」とは凄い。生物学で「ウィールス」は物質と生命の中間にあると言われて いる、らしい。ある時は物質、ある条件では生命活動をする。 私は理科少年だった。子供のころは理科が好きで、高校では生物や化学や物理は成績も 良かった。小説に取りつかれるとは思ってもみなかった。 (あの、女教師が悪いのだ。私の 童貞を奪った。私を小説好きにしてしまった女教師の所為だ) 生きているかどうかの前に「オドラデク」の形態を語っておこう。作品にはこう記述さ れている。 「この生き物は(なんとカフカは生き物と言っている。拓、注)さしあたり、 (便利な日本 語だが、原文ではどうなっているのか。拓、注)平べったい星型の糸巻きのように見え、 事実また(変な日本語。拓、注) 、糸が巻きつけられているようでもある」浅井健二郎訳。 糸巻きのような形をしており、芯棒が付いていて、直角に曲がっている棒と星型の尖が りとで、二本の脚で全体がまっすぐに立っていることができる、と記述されている。実に 明快だ。星型は水平に保たれていない。回る独楽とは違う。動きまわるときは星型が水平 の独楽になるのか。 壊れた道具だとも考えられるが、はっきりしない。壊れるという予測不可能が、許され る想像力も、私はふさがれてしまうのだ。困った。 形態が何となく知れた。行動はどうだ。 素早い動きで、何処にいるのかもはっきりしない。ここぞと思えば、またあすこなのだ。 小さくて素早くて、家の中にいるのか外なのか分からない。可愛らしくて憎らしくて、ま るで妖精のようだ。 私は昭和の初期の田舎の生まれだから子供の時から、鼠には親しんでいる。多分、どん な家にも鼠がいた。 「オドラデク」はネズミに似ている。 カフカは「オドラデク」を具体的な生き物や、物として描いているのではない事は分か る。 「オドラデク」とはカフカの心理状態の象徴なのだろうか。 タイトルがまさに「家長の気がり」なのだから。 「変身」も家族の関係を描いた寓話だと私は思っている。私は、作品のテーマは家族なの だと考えた。私は長男だけれど、長男と自分を自覚することもふるまうことも無い。カフ カはどのように自覚していたのか。 「しかし自分が死んだあともあいつがどう生きていると思うと、胸をしめつけられる、こ こち、がする」池内紀、訳。 「しかし、彼が私よりさらに長く生きていることになると思うと、私はもうほとんど辛い のだ」浅井健二郎、訳。 どちらの翻訳が好きだと言っているのではない。 「オドラデク」が「私・語り手」よりも 長く生きていくことは既成の事実として書かれていることが、意味があるのだ。語り手は、 「オドラデク」の最も重要な特質の「不死」ないしは「長寿」を知っているのだから。何 故知っているのか。 「オドラデク」が語り手より「長く生きることが辛い」とはどういうことか。普通なら、 相手に対する愛情の表現だ。相手を心配している。そうでなかったら、語り手(自分)の 死後の「オドラデク」を想い、嘆くことはないのだ。 「オドラデク」とはもしかしたら、カフカの家族の誰か、なのか。 「オドラデク」とは何か。 澁澤のエッセイには「学識者」の解釈が紹介されている。 (批評家、エムリヒが言う) 「目的と意図を現実すべき日常敵的な活動の世界から締め出さ れた、子供と老人の年齢層を代表している」と、澁澤は書いている。 「オドラデク」は私(拓老人)だというのか。 私は思わず苦笑する。そうかもしれない。いよいよ、正体を暴かなくてはならない気が しだした。 澁澤は「私はオドラデクを解釈しようとは思わないし、解釈し得るとも思わない」 「解釈 は解釈者の凡庸さによって、必ず私たちを絶望や失望につき落とすと決まっているものだ」 と、書いている。 そんな事を言われたら、私は何も言えなくなる。勘弁してよ・・・。 物でありながら、物以上の畏怖の念を抱くもの。遺体であろう。さらに、人形も私達に は単なる物ではない。物でありながら物を超えた、感情を持たせるものは、何があるだろ う。 生殖を伴う結婚生活から排除された存在は、子供と老人。もう一つは独身者だと、澁澤 は言う。 「オナニスト」の暗喩を読み取れるか、知らないと、澁澤は言う。 玩具で人間に近いものは、 「人形」と「大人の玩具」である。性具ほど人間の肉体を代行 する、つまり人間に近いものはない。性を秘すべきものとして考えるかどうかは別として、 「性具」は人間を、生物を、生き物を、感じさせる。 澁澤は潔癖なので逃げているのか。私はその説もあると考えていた。作品からはエロチ シズムは感じない。だからと言って、 「性」が絡んでいないとは言えない。私は缶ビールを 飲み干して、ウイスキーに移っていた。酒は性を誘発するものだ。 アルコールは思考を飛躍させはするが、深めはしない。 「オドラデク」は性具なのか。とてもそうは思えない。あの時代に独楽の動きをする電動 バイブレーターはあったとは考えられない。作品の雰囲気にもなじまない。作品はとても ストイックなのだ。 「なじまない」と、書いて羞恥を感じた。 「なじまない」と、言う言葉は嫌いなはずなのに。 酔ってきたからだ。私はベッドに深く沈むようだった。枕元の明かりを消して、眠りの態 勢に入った。眠りよ、私の知性を目覚めさせてくれ。 澁澤は「この完全な無意味性は、私たちのあらゆる先入観や固定観念からまぬがれてお り、いわば私たちを途方に暮れさせるに十分なものであろう」と、記している。 私は無意味なものなど存在しないと思う。意味はあたえるものであり、与えられるもの だ。意味づけるものだし、意味づけられるものだ。 「オドラデク」は確かに意味づけることは困難である。だからこそ、面白く、興味をそそ り、日がな一日思いを巡らす価値があるものだ。最後に「あなたにとってオドラデクとは 何かと問うこともできる」 私は記憶力が良くないと思うときがある。幼児の頃の最初の思い出は三四歳からである。 記憶のひとつにあるもの。 母から聞いていた話である。戦後、母親は近所の娘たちに裁縫を教えていたらしい。母 からひと時も離れたがらなかった、私も、母の言いつけで「裁縫教室」が開かれている時 間は、隣室で一人遊んでいなければならない。隣室から母や娘たちの気配を聞きながら、 私はひとり遊びをしていたらしい。床の上を光りながら転がる物体を私は好きだった。転 がるものは何だったのか思い出せない。やがて、物体は金属の糸巻きだった事に気づいた。 足こぎ式のミシンに取りつける金属のコイルである。 糸巻を転がして幼児の私はひとり遊びをしていたのだろう。私の遠い記憶の原点である。 「金属の糸巻き」の正体は後になって記憶を解釈し、母の話などから、構成された、作ら れた記憶なのだ。 「記憶の物体」は本当に母がくれた糸巻きだったか、どうかは分からない。 床を「転がり光る物」の記憶だけが妙に鮮やかであり。哀愁とも知れない私の記憶になる。 嗚呼、私の「オドラデク」 。 「オドラデク」は何か、を考えていたが、考えが分散して、纏まらない。何を考えていた のかさえ、分からなくなりそうだ。仕方がないので、しばらく眠ることにした。 眠ったかどうか分からなかった。尿意を感じてトイレに行く。腹がすいている気がした。 ホテルの一階にはレストランがある。ホテルの経営ではないが、宿泊客には料金の優遇が ある。 何時ものハウスワインのボトルを注文した。料理はローストビーフを注文した。店内は 混んでいて、少ない人数の店員が独楽のように動き回っている。 店員は働いている。私は何もしていない。 「私の生に、何か意味があるのだろうか」と考 えた。私は無用の長物の「オドラデク」そのものではないか。 「オドラデク」がとても愛しいものに私は思った。