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雪中行軍と日露戦争

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雪中行軍と日露戦争
歴 史12
せ つ ちゆう こ
う ぐ ん
に ち
ろ
雪中行軍と日露戦争
1
◆ 1 月 23 日の朝、青森第五連隊の 210 名
雪中行軍の背景
◆明治 28 年(1895)、日清戦争での勝利
りょうとう
が雪中行軍訓練に出発しました。行軍の指
かんなり
により、日本は清国から遼東半島を獲得す
揮官は第五中隊長の神成文吉大尉で、第二
ることになりました。しかしロシア・ドイ
大隊長の山口鋠少佐も同行しました。計画
ツ・フランスによる三国干渉を受け、やむ
では、連隊のある青森から八甲田山中の
なく放棄することになりました。その後、
田代平に向け、露営(キャンプ)の準備を
日本に代わって遼東半島を租借したロシア
した上で、1 泊の行程で行軍をすることに
り ょじゅん
しん
たしろたい
ろえい
は旅順に軍港を置き、鉄道の建設と中国東
なっていました。
北部の占領を進めました。
◆行軍は、悪天候の中で強行されました。
がしんしょうたん
まき
◆日本国内では「臥薪嘗胆」(固い薪の上
きも
ふ くしゅう
昼頃から風雪が強くなり、すでに兵士が昼
もち
に伏し苦い肝をなめて復讐を誓ったという
食に持参した飯や餅が凍るなどの影響が出
中国の故事)を合言葉に、来たるべき対ロ
ています。午後 4 時頃、行軍隊は馬立場
シア戦争に備えるべきという世論が高まり
に達しますが、食料などを乗せたそりが思
ました。陸軍・海軍もこの時期に軍備の増
うように進まず、途中で放棄されたといい
強を進めました。
ます。目的地の田代平方面には吹雪のため
◆明治 29 年(1896)、弘前に陸軍第八師
に進めず、ここで雪壕(雪の穴)を掘って
団が置かれ、すでに青森に置かれていた陸
露営することにしました。しかし、当時の
軍第五連隊は、その管轄下に入りました。
青森測候所でも− 10 ℃前後に下がる記録
海軍では、明治 35 年(1902)、大湊(現
的な寒波の中、燃料不足に見舞われ、暖を
むつ市)に大湊水雷団(のちの大湊要港部)
とることも炊事も難しく、生煮えの米飯が
が設けられました。こうして、青森県は本
炊けた程度でした。
州最北端の防衛拠点として位置づけられる
◆寒さの中、兵士たちが満足な食事をして
ようになりました。
いないことを考慮した将校や軍医らが相談
◆陸軍は、ロシアとの戦争が朝鮮半島北部
して、24 日未明、予定を切り上げて帰途
や中国東北部で行われることを想定して、
に就くことになりました。道に迷ったのは
ちゅうとん
うまたてば
せつごう
つ
東北地方北部に駐屯する陸軍の連隊に、耐
この時です。視界不良の中、同じ場所を回
寒訓練を行うよう指示しました。青森第五
るように長時間、行軍は続きました。その
連隊も例外ではなく、明治 35 年(1902)
間に、寒さと空腹のため、多くの将兵が雪
年 1 月 23 日、ロシア軍が八戸に上陸する
の中に倒れました。
と想定した行軍訓練が、八甲田山で行われ
ることになりました。
3
捜索とその後
◆第五連隊本部が異常に気づいたのは、行
2
事件の概要
軍 3 日目の 25 日午後 10 時です。捜索隊
歴 史12
は翌 26 日朝に出発し、27 日午前 10 時に
たた
して称えられました。
ふさのすけ
に っ た じ ろ う
後藤房之助伍長を発見しました。28 日に
た
も
ぎ
◆小説家新田次郎は八甲田山の遭難事件を
の
ほうこう
は田茂木野に捜索隊本部が設けられ、大規
題材に『八甲田山死の彷徨』
(1971 年)を
模な捜索が行われました。捜索は 5 月 27
書き、さらにこれを原作とする映画『八甲
日まで続き、結果として、遭難による死者
田山』(1977 年公開)が角川映画会社によ
は 199 名と判明しました。11 名の生存者
って製作されました。組織と人間のあり方
とう しょう
も、
多くは凍傷によって手足を失いました。
を問う名作といえますが、登場人物名など
◆陸軍にとって、この八甲田山の遭難事件
が脚色されており、当時の記録とは若干違
は、責任が問われる極めて大きな不祥事で
う内容になっています。雪中行軍の関係資
した。軍当局は、徴兵に対する国民の不満
料は幸畑陸軍墓地の側に立てられた「八甲
つ
に火を点けないよう苦慮したようです。こ
田山雪中行軍遭難資料館」にも展示されて
の事件で遭難した死者には、戦死者と同様
います。
の名誉が与えられました。
◆実は、青森第五連隊が遭難したころ、弘
前第三一連隊の 37 名が弘前から十和田湖
・三本木をめぐるルートで帰還し、みごと
に八甲田山の雪中行軍に成功しています。
しかしそれは、あまり大きく報じられてい
ません。同隊は第五連隊の遭難を現地で知
りながら、二次遭難を恐れて行軍を続行し
たという説が、現在では有力です。
◆ 犠 牲 者 を 慰 霊 す る た め 、 明 治 36 年
(1903)3月に記念碑が作られました。
こうば た
次いで同年 7 月 23 日には幸畑(現青森市)
に墓地が設けられ、遭難者が葬られました。
てらうち まさたけ
また、陸軍大臣寺内正毅らが全国の将校に
呼びかけ、資金を出し合って銅像を造りま
した。像は最初に発見された後藤房之助伍
長の姿を写したもので、遭難地の馬立場に
後藤伍長銅像(青森市馬立場)
建立され、明治 39 年(1906)7 月 23 日
【参考文献】
に除幕式が行われました。
『青森市史 別冊 歩兵第五連隊八甲田山雪中行軍
◆その後、青森第五連隊を含む第八師団の
うち約 2 万人が、日露戦争に出征しまし
遭難60周年誌』(1963
青森市史編纂室)
『青森県史資料編 近現代2 日清・日露戦争期の
こっこうだい
た。彼らは明治 38 年(1905)1 月、黒溝台
会戦でロシア軍と戦い、6300 人もの死傷
者を出しながらも勝利しました。のちに、
第八師団は日本陸軍最強の「国宝師団」と
青森県』
(2003
青森県)
「資料で見る『雪中行軍』-新規資料の発見と研
究史の整理-」
(『市史研究あおもり』7 2003 青森市史編さん室)
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