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日本の機械工学の開拓者 ・井口在屋
論 文 日本の機械工学の開拓者 ・井口在屋( l I) * 一一機械工学研究の軌跡をたどって一一 出水 力料 l . はじめに 2 東京帝大機械工学教室の人々 3 . 機械工学研究の軌跡 4.渦巻ポンプ研究の評価 5 . 結び 1 . はじめに 本論第 1報では井口在屋の歩みを通し日本の機械工学教育の形成過程を明らかにした。その 過程の中で井口の果した機械術語の制定はきわめて大きな意味をもつことも 述べた。更に井口 は言語表現一般についても独自の方法を作り出そうとしていたことについて補足をしておきた し 、 。 井 口は地球物理の第一人者で,同じ帝大の教授であった 田中館愛橋と大学の内外で交流があ り,熱心なローマ字論者でもあ った。井 口の御令孫井口昌平氏から頂いた第 l報のコメント は,こ れらの点について明快に述べておられるので次に引用すれば, 英文による概要の中で, Ar iyaI no kuc h i とされていますが,在屋は I n o k u ty と常に書い たはずで、ございます。それは在屋が日本語に対してひとつのはっきりした考えを持ってい たこととかかわります。それで,田中館愛橘などと日本式のロ ーマ字の普及につと めたわ n o k u t i となりますが, けです。日本式ロ ーマ字によれば I 毛 E屋は《固有名詞, 特に人 名の場合には特例を認めてもよし う と しますこ 《 英語では Yは Iと同じ音のために用い ら *1985年 6月29日受理,機械,研究, 日木,明治,井口在屋 料 大 阪 府 立 藤 井 寺 工 業 高等学校 ( 1 ) 『技術と文明』 1巻 1号,1 9 8 5年,5 5∼7 6頁 。 ( 2 ) 1 98 5年 5月 8日付筆者宛私信。 23 2巻 l号ω 技術と文明 れることもあり ,さ らには語尾に は iよりも 表− 1 井口在震年譜 Y の方がふさわしい, とい う よ う な 理 由 か ら 1856( 安政 3) .1 0. 3 金沢上柿木畠生れ I no kutyとした》と父春久から聞きました。そ して , 春久も常雄も 武英もそれにならっていま した。 とあるが,井口の『工学会誌』の報告を調べてみる )年まで Ino kuchi と記さ れ, 明治 と明治 21(1888 25 ( 1 8 9 2 )年以後は全て Ino ku tyを用いている。 こ の変更は上述の理由に基くものであろう。井 口昌平 氏は続けて, 在屋が漢学の素養があり ,漢文を好んで読んだ こ とは御指摘のとおりです。しか し 後に術語 の選定に当たって,《大和言葉にこ だわりすぎ》 た, と批評されたように, 日本語の本来の形で の発達に強い関心 を持っていて,そのために漢 語をなる べく使わないよ うにし, さらに漢字と かなではなく , ロー マ字で日本語を書く ことま で考えたので、しょ う 。 その考えからすれば,ヘ ボン式でなくて, 日本式 を採るのは当然であり ます。在屋のゐのくち簡易表にも《ゐのくち ありや著》とあって,井口在屋の文字は小 さく 明(命堂素読生 石川県英学校 75( 明 8) 官立愛知英学校編入 ・退学 76( 明 9)工部大学校入学 8 2( 明 15) 工部大学校卒業 工部省 ・工部七等技手 工部省 ・工部大学校教授補 83( 明 16) 海軍機関学校 8等教官 86( 明 19) 帝国大学助教授 88( 明 21) 工手学校教務主理(兼〉 9 4( 明 27〕 海軍大学教授〈兼〉 英国留学 9 6( 明 29) 帰国s 帝国大学教授 98( 明3 1) 海軍大学教授(兼〕 機械学会幹事長 機械学会術語選定委員長 99( 明 32) 工学博士 1 9 0 9( 明 42) 帝国学士院会員 1 6( 大 3)米国視察 1 6( Jζ5)東京帝大航空研究所員( 兼〕 20( 大 9) 学術会議会員 2 3〔 大 12).3. 2 4( 25 〕没 ( 注 ) 『 井口集』 ( 昭 和 3年 ) 『改正官員録』( 明 治1 5 年 ) , 『 大日本博士録』な どから作成。 機械学会幹事長は,大正1 3 年に会長と名称 変更され,井口は通算 8回幹事長を務め _ , ._ J 。 一 、 添えてあります。名刺も同様で した。在屋はそれを 《振り漢字》と 呼んでいました。(中略〕 毎朝出かけるときに, 二 階にあっ た 自分の部屋から玄関に出る までの聞に 《Yukima s u, mairi masu, d巴kake mas u》と 大きい声で繰 り返して言 い , 家族や使用 人には っきりと伝え ようと しました。それが毎日 のことになって いましたから,その表現は考えあげた上のも のだったと 思い ます。 とも述べておられる。 さて本論第 2報では主に井 口在屋の機械工学研究の軌跡をたど り,その評価を行いたい。そ して井口をとり巻く東京帝大機械工学教室の人 々の人物像と雰囲気を合せて述 べるが,全体の こ井 口在屋の年譜を示した。 理解を助ける 上 で,表 − 1f 2. 東京帝大機械工学教室の人々 明治 19 (1886)年に帝国大学工科大学が発足 したが,講座制がとられたのは明治 26(1893)年 になって からであった。しかし講座制とはい うものの,それは制度面の上だけで実態は学科目 2 4 日本の機械工学の開拓者 ・ 井口在屋 (!I)( 出 水 ) 。すなわち 1簡座を教授も しくは助教授または講師 1人で担当す る 制の域すらぬけでて いな L、 し 、う教官定員を定め ようなものであり , l講座に教授 l,助教授または講師 l,助手 l∼ 3と た講座制は,大正 15( 1 9 2 6)年の講座改革によって成立 した ものであっ た。 井 口の存職期間 中 の機械工学科の顔ぶれは,東大工学部人事記録によれば, まず明治 26年 9月1 1日に 2講座が編 成 され,第一講座(熱力学 ・蒸気原動機〉は真野文二教授,第二講座(切削加工機械及加工〉は も Ne s t 教師が担任 していた 。 井口 は関学来の助教授であったが,講座制の発足 にともな い材料及構造 強弱学講座(応用力学 ・同演習〉に所属 した 。 1 8 9 6 )年 9月24日付 で, 北海道鉄道敷設部技師 井口 は 2ヶ年聞の英国留学帰朝後の明治 29( に転 じた教授 田辺朔郎の後を受け,材料及構造強弱学講座の担任教授となった。明治 19年以降 の時期には大学卒業後,助教授をへて教授への昇任直前に 3年前後の期聞を海外留学にすごす とい うのが, アカデミック ・キャ リアの基本パ ターンと して, 急速に定着する ことにな り , 機 械工学の分野の第 l号は井口 在屋であった。 したがって井 口の留学が決定する前に,田辺 の転 任 の話が決まっていたのであろう。この講座はその頃,機械 ・土木 ・造船 ・電気 ・建築を含む 工科大学の共通部座で,初代教授の田辺朔郎は土木工学の 出身であっ た。田辺 は工部大学校で 1 8 9 0 ) は在屋の 1年後輩で、年齢も 3歳ばかり若いが,琵琶湖疏水工事の成功が認められ明治 23( 年に教授に任ぜられた。 材料及構造強弱学講座は明治34( 1 90 1 )年に応用力学識座と改称 され,大正 1 1( 1 9 22 )年には 応用力学第一講座と第二講座に別れ,第一講座が機械系学科を第二講座が土木系学科の材料 力 学を担当する こ と に なっ たO • 講師以上 の教官 で講座の担任者は木俸の ほ か に,講座担任手当と もいうべき職務俸が給 され,留学中や三週間以上本務を離れるときは,職務給は支払われて い ない。なおこの講座の大正期までの教授の年聞の職務俸は, , 明治 28年 4月 1日現在 500円 明治 2 9年 5月 6日600円ニ 改定, 明治 31年 6月20日720円ニ 改定, 明治 34年 9月 7日850円ト ナ , リ 大正 6年 7月20日東大秘第 25 号ニ ヨリ1200円ニ改 1年 9月28日東大秘第7 3号ニヨ リ1 100円トナリ ,大正 12年 3月24日東大秘第 1 5号 定,大正 1 ヲ以テ1200円ニ改定ス と記載されている。 明治 29年 5月 5 日に機械工学第三諮2座(水力学 ・水力機械〉が設置され, 8 月25日付で分担助教授に斯波忠三郎が任命され, 9月24日付で井 口が分担教授となって いる 。 可座の聞を担任,分担の形で 3回の所属変更を していたこ と 井口 は存任中応用力学と 水力学の音l 9年に 同第二講座が増設され, 機 が記録に残っている。 明治 30年に船用機関学講座, 続いて 3 ( 3 ) 例えば筒井健「進路の助言工学部』,文研出版,昭和4 8 年,1 14 ∼1 2 1 頁 。 ( 4 ) 天野郁夫「日本のアカデミッタ ・プロフェッション」 「大学研究ノート』第3 0 号,広島大学大学教育 9 7 7 年 , 10頁 。 研究セソタ ー,1 ( 5 ) 西川正治郎編『田辺朔郎博士六十年史』, 1 9 2 4 年,1 41 ∼1 4 4 頁 。 ( 6 )寺崎正男「講座制j の歴史的研究序説」「大学論集」第 l集,広島大学大学教育研究センタ ー,1 9 73 年, 5∼ 7頁 。 ( 7 ) 東京大学工学部沿革資料室の工学部人事記録による。 2 5 2巻 l号伺 技術と文明 表 氏 2 大正期中頃の東京帝国大学機械工学科の教官名 名 |生年月 日 | 卒業年次|就 職 先 (講師 | 助教受|教授 !退 官 | 所 明1 5 井 口 戸 |安政3川 j 折波忠二郎明5 .3.8 明2 7 .8 1 5 明31 加 茂 正 雄 明9 田 中 不 二 明1 0 . 8 20 明3 4 0 . 9. 1 5 明3 5 内 丸 最 一 郎 明1 .4 . 9 明3 山 内 不 二 雄 明13 8 4 .6 .1 2 明3 丹 羽 重 光 明1 8 横 山 勝 任 明1 4 .9 . 1 切1 3 8 5.4 1 明3 竹 村 勘 恋 明1 8 .1 2. 2 3 明4 5 野 口 尚 一 明21 4 .4 1 7 大3 山 中 直 次 郎 明2 4 .5 .2 5 大4 湯 浅 亀 一 明2 い l 属 工部省 川崎造船 明1 5 明2 9 2(死亡)応用力学機械第三 明2 9 明 町 昭7 舶用機関第一 l B12 / 第二 明31 大元* l 明3 4 明3 5 明44*1 大1 1( 死亡)機械第二 ・ 応用力学 H 召1 3 機械第三 明35 i ] J 3 3 6*1大 6 三菱造船 芝浦製作所 日本鉄道 鉄道庁 鉄道院 新潟鉄工所 東北帝大 明42:1大1 1 明41 *大1 2 明4 1本 大 1 1 明3 9* 大 9 大 6 昭12 6 大 8 大 8 昭1 大1 1 昭9 昭1 6 昭1 7 H 百1 7 H 召1 7 昭2 4 昭2 7 昭2 7 機械第一 機械第一 機械第二 機械第二 応用力学第一 ( 注 ) 機械工学 3講座 :舶用機関学 2i i / I 座 ・応用力学 l講座編成時の機械工学科の教官名, (兼任非常勤は除く)。策 大工学部人事記録, 『 大日本陣土録(工学博士之部)』『帝国大学出身名鑑』などから作成, ( キは大正5年当時)。 械工学科の中に舶用機関専修コー 0(1920) スが生 まれた。また大正 1 年 に は機械工 学第四 (内燃機関〉, 熱及熱機関学,実験工学の 3講 座 が加わり機械工学科 の骨格が整っ た 。 機械工学教室の教官のうち関学 来のメンバ ーは C .We st ,真 野 文 二,井口 ; 在屋の 3人で, W巴s t教 年に病没し, 真 野 文 二 師 は明治 41 は大正 2年に第二講座の分担に な 図− 1 ゐのくち式機械事務所新築移転祝の出席 っているが, 明治 34年 以後文部省 の実業学務局長などを兼ねており ,通常は大学に出勤してい ない。 したがって明治 34年 以後機械工学科の教室 主任 を務めた(当時は現在のよ うに各講座の持ち 回 りではなしつ井 口が,教室の研究 ・教育ともに大き な影響を与えたことは想像に 難 くない。当 時 の教室の顔ぶれ表− 2は図− 1の 後 述 す る 大 正 5 (1 91 6 )年ゐのくち式 機 械 事 務 所の新築移 転祝に出席した面々と l名を除き完全に重なっている。 以下これらのメンバーの人物評をみよう。 東大名誉教授の富塚清氏は斯波忠三郎の ことを次のように語っている。 前田 家の家老 の家系とあり ,父親譲りの男爵で,貴族院議員。専攻は何だ ったか。当時の 機械科の先生は何でも屋の傾 向で,夜、 な どは先生か ら機机三学の講義を して 戴 L、 た。 (中 目指 〉 われわれ学生 も氏 を井口 さんのような篤学なと 思わ ず,む しろマネ ージャ ー向 きの人 と 思 2 6 日本の機械工学の開拓者 ・ 井口在屋 (I]) ( 出 水 ) ( 8 ) っていた。 斯波忠三郎は後ちに航空研究所の所長も務めたが,次に述べる加茂正雄とコンビで,教室主任 井 口の事務的な仕事はほとんど処理 していたら しい。加茂正雄について朝倉希ーは, 当時(明治40年頃〉熱機関は蒸気機関が主であったので,一年間の講義の大部分は蒸気ボ イ ラや蒸気機関の構造の説明に費し,蒸気タ ービンについては極めて少なく ,内燃機関の説 明は最後の一時間だけであった。私の卒業する頃から先生は海外に留学され,長く滞在さ れて英語に上達され(中略〉国際人 として大いに活動された。専門の学聞に対 して別に業 績はなかったものだから,同僚の闘ではかえって評判はよくなかった。 st e rofc e r e mo ne yのニックネ ームで呼ばれて いた。昭和 4〔1929〕 と述べるように,学内では ma 年 , 日本で、開かれた万国工学会義は加茂が組織委員長となって行なわれた国際会議で、あった。 井 口の学統を受け継いだのは田中不二(材料力学〉と内丸最一郎(水力学〉の両名といって よ い。両者は一年先輩と後輩の関係にあるが,共に恩賜の銀時計を拝受 し卒業後直に教官に任用 されている。 田中不二は井 口との協同研究も多く ,機械工作方面の功績も目立って多 い。安全 弁の研究 ・ゴムの 力学的性質の研究 ・木材の曲げ強度に関する田 中公式などが主要な研究と い えよう 。 また明治 3 9(1906)年,高速度鋼(ハイス〉を日本に紹介し,機械工業界に貢献する と ころが大であった。テ ーラーが高速度鋼の実験結果を発表 して間もない頃である。 また田 中は丸善から 5冊 の機械工学書を出版 している。そのうち「応用力学第一編(材料及 び構造強弱学〉」〈大正 2年〉『応用力学第二編(水力学及水力機械〉』(大正 4年〉は高等専門学校のテ キストに多く用いられた。これらの本は井 口の応用力学の講義をベ ースに しているが,井 口の 講義ノ ー トと比較すれば少 し易しくなっている。田中不二は第二編の序の中で, 渦巻日間l 筒特にタ ーピン曜日筒の発達は極めて最近のことに属 し,其改良の講ぜ、らる こと日進 月歩の状態にあ り。第70節以下に於て著者は務めて最新の事実を記述せり。 市して其学理 と実地 の応用とに関 して造詣深き井 口教授は教授の論文井 口集其他 より屡々本書に引用す ことを快諾せられたり ,之れ著者の大に感謝する所なり。 と記 し , 第一編 ・第二編に若干異なりはあるが共通 して序の終に, 木書の著作は井 口教授の助力に頼ること多 し,(中略〉本書中のや|守語が専ら機械工学術語集 に拠るを得たるは宰とする所なり。 と結んでいることからも在屋の影響力はかなり大きい(傍点筆者〉。 9日に病没 し 田中はもともと病身であっ たが,大正 8年頃から体調をく ず し大正 11年 11月1 た。そのため井 口は後任に東北帝大から湯浅亀ーを呼び戻している。東京帝大に60歳停年制の きっかけを作ったのは田中館愛橘で,大正 6年 4月還暦に際 して自発的に退職 した。田中館と ( 8 ) 富塚清『八十年生涯の記録』,昭和50 年,109頁 。 ( 9 ) 朝倉希一 『人生を考えよう』,開発社,昭和51 年,44頁 。 帥 故井 口武英氏の御教示による( 1976年 8月 3日筆者宛私信〉。 ( ' j , ー先生からの附き取りによる。 帥 1976年10月13日,杉並区の御自宅で病床にあった故湯浅 f 2 7 技術と文明 2巻 1号閥 同じ安政 3年生れの井口は亡 くなる 66歳まで教授であったのは停年規定ができる前すでに60歳 を越えていたのと ,田中不二が病気がちのため特例扱いであっ たといわれよ 内丸最一郎は第五高等学校で寺田寅彦と 同級生でクラスの首席をわけあった とし、ぅ。 日本人 の手になる本格的な機械工学書は彼に始まることは, 『丸善百年史』資料編(昭和56年〉の工学 書の目録からも明らかである。すなわち明治 3 8∼4 4年にかけて出版された『蒸気耀』,r 蒸汽機 関 』,「蒸汽タ ービン』,「瓦筒及石油機関』をはじめ,『内燃機関」,『水力タ ービン』,『 日 開 筒 」 , 『送風機』や田中不二と 共著の『機械設計及製図』などは戦前には工学書の ベスト セラ ーでも あった。 この当時東京帝大の機械工学科はまだ英文混りのノ ート 講義がほとんどであった。けれ ども 完成された学聞をなるべく速かに, しか も正確に習得できるようにす るのがテキストの目的で あるとすれば,機械工学教育の普及に果した内丸らの工学書の役割は大きかった。昭和3 5年 1 2 月に内丸自身のしたためた 「 回顧録」によれば, 助教授時代は学生の行う実験や製図を指導 し 間に合せに種々の講義をやらせられた。機 械学の講義もやり,内燃機関の講義や自動車の講義もやった。教授に昇進してからは水力 学の講座を担当し水力機械(水車やポンプその他〉の講義を受け持つ以外にそれらに関する 実験や研究を逐行 した。 と記されているように,助教授時代は所属講座は確定 して おらず,そのため自身の専攻も現在 のように確定 していないようだ。 4 年 7月より大正 2年 1 1月まで欧米に留学しているが, 内丸は明治4 その様子を先の「回顧 録」では, 明治末期に我国では水力発電事業が台頭したので私は留学中に水車を研究し帰朝後にそ の方 向の講義を担当せよとの内命を受けたので,欧米留学の当初に瑞西と独逸の水車製造 工場に約半年間滞在 して 水車の製造工程を 日々見学 した。同時に両国の水力発電所を見学 した。続いてスカンジ ナビ ヤに旅行 して那威及び瑞典の水力発電所をも数多く見学 した 。 当時欧米諸国ではその頃発明された蒸気タ ービンやディーセ・ル機関が実周期に這入札そ れらの製造工場が所々に新設された時期であったから,私は諸国を旅行する際にそれらの 工場をも進んで見学し,技術上の見聞を拡める事に努めた。 とも述べている。明治から昭和初期まではこのように半年くらい適当な大学に籍を置いて後は 工場見学を中心 とした留学が機械工学者の聞で、は一般的で、あった。 8年組とも言うべき山内不二雄(舶用機関学〉 ・丹羽重光(空気調和〉 ・横山勝任(機 花の明治3 ~ ~前出(8) , u~ 1 08 頁 。 井 口武英 「私のおやじ井 口 在屋」『エハラ時報』第 1 6巻62号, 1 967年, 47頁。 帥 内丸最一郎御令息正三氏提供( 1976年 9月20日筆者宛私信〉。 帥野口尚一,湯浅色ーの東大,南大路謙ーの阪大,田伏敬三の京大 ・大府大の各名誉教からの聞き取り t こよる。 28 日本の機械工学の開拓者 ・ 井 口在 屋 (l I (出 〕水 ) 械工作〉・竹村勘吾、(内燃機関〉の助教授連のうち丹羽の『機構学」(丸善刊〉は大正 5年に出 版され,その後改訂されて はいるが,現在 も版を重ね この分野の古典的なテキストになって いる 。井口らの学んだ時代は機構学を機械幾何学と呼び, Rankine の A MANUAL OF MACHINERYANDMI LLWORK.Lond o n ,1 8 6 9をテキストに しているが, その第 1部 機械幾何学は丹羽の機構学のように機構(メカニズム〉の説明が多くなく , む しろ機械要素 の 運動の幾何学を扱つか ったものであ った。また井 口に最も私翻 してい た 山中直次郎 (蒸汽原動 1年井口 と共同で井 口 ・山中式ねじり試験機を開 機〉は, 井口式ねじり試験機を発展さ せ大正 1 発し, つねづね先生とし 寸 先生は多いが,大先生と呼べるの は,井口先生を置いて 他に いないと よく 口にした といわれる。 山中 自身も , 明治末の東大の機械科の昔話である。入学間もなく設計の最初の講義に , 担任の T先生 (回中不二と恩われる〉がお伴で井口大先生が現れ,特に製図の一般心得を説かれた。 〈 中 略〉私は卒業 5年自に母校へ奉職 して,また幸運に先ず井口先生付きを仰せつか った。 と話している〔かっこ内及傍点筆者〉。 ここで述べた機械工学教室の顔ぶれは,ほとんど 1∼ 2番の席次で 東京帝大を卒業 して お , り 帝大の 1∼ 2番卒業生であれば, 子育大卒業後どのようなセ クターに散 っていった者であ れ,やがて は帝大教授 または助教授と してリク ルー トしてくるといった構造が明治期すでに確 立していた。 国 富塚清氏は井 口を評 して「学者的重厚な君子で機械関係者の尊敬を一身に集めて いた」と 表 現する のも 上述のことから十分う なづける。機械工学教室にあって井口の 存在は大家族の家父 長的な役割を果していたことは間違いあるまい。また大正 5年京都帝大機械工学科を卒業した 南大路謙一大阪大学名誉教授は, 当時京都の先生方は東京帝大から来た人ばか りであった。 井口先生はその先生方の先生と い うことで,私らにと っては雲の上の大先生であった。 と話され, この見解が当時の機械関係者の井口在屋像であっただろ う 。 3.機械工学研究の軌跡 井口 の主要な研究の軌跡は在職二十五年祝賀会の編さん した旧版『井口 集』(大正 2年〉と彼 M 日本試験機工業会ほか編 −発行『日本における試験機のあゆみ』,昭和57年 , 35頁 。 制 昭 和18年から教授秘書を務めた文部技官鈴木連子氏 より聞き取り( 1984年 7月31日,東大工学部〉。 , 1頁0 帥山中直次郎「井 口在屋先生の風格を偲ぶ」『エハ ラ時報』第 7巻24号,1958年 M 岩田弘三「帝国大学教授のリクノレート源」『名古屋大学教育学部紀要(教育学科〉』,第31巻 , 1984年 , 1 0 頁 。 帥前出(8 ),1 64 頁。 申 1 ) 1 984 年 8月1 6日,京都市の御自宅にて聞き取り。 2 9 デザイγ 斗︶ ︺ ︹工学叢誌 ︵ 唯一昨叫神宮仙︶ 第十五、第十六、 第十九巻、明治十六年。 ︵H∞∞ω て 水 車 意 匠法 一一、日本水車 の説 ︶︺ ︶︺ ︶︺ 30 ︹工学会誌 第七十 一巻及び第七十六巻、明治二 十年 。 ︵ Hg 三、汲揚及圧揚蜘筒 ︹工学会誌第百十九巻、明治 二十四年十一月。︵H g H 四、はやさ 、速 度 ︶︺ ︺ ︹工学会 誌 第 百 二十二 巻、明治二 十五年二月。︵H gN 五、材料強張試験報告 震災予防調査会委員井口在屋 同工学博士真野文二合著 同岡田辺朔郎 震災予防調査会報告 第二号 、第百五十五頁より ﹁ J F 第百六十二頁まで。明治二 十七年八月二十 五日。 cgS ﹂ 六、材料強 張 試 験 第 二回成績 震災予防調査会委 員 井 口 在 屋 真野 同工学博 士 文二合 著 同向田辺朔郎 震災予防調査会報告第三号、第十五頁より J ﹁ f 第二十六頁まで。明治二十八年六月八日。︵ H∞旧日︶ ﹂ 七、術語撰定の要旨 明治三 十 一年七月機械学会正員会に於て述ぷ。 ︷ J 戸 機械工学術語集、第一瞬。明治=一十四年十月。︵ H∞∞∞︶ ﹂ 八 、 囲炉裡 の通気法 ︹工学会誌第二百五巻、明治三十二年二月。︵ H S U 九 、 実用 数 学 摘 要 ︹文部省実業学務尚へ報告、明治三十五年十月。 288 十 、 木材の努断試験報告 由︶︺ 震災予防調査会委員 工学博 士 井 口 在 屋 合著 同嘱託工学土田中不二 ︹震災予防調査会報告、第五十五号、明治三十九年九月三十日。︵H g 十 て 工 業 的数学 ﹁全国工業学校徒弟学校長会議に於て講演。文部省実業学務尚編、 J f 国工業学校徒弟学校長会談要項所載、明治四十四年十二月。 ︵ 全 HUHH︶﹂ 4の ように邦文論文 はない。その代り新版には, 論文は旧版に集録されているが,新版は表 2巻 l号ω ) 技術と文明 表− 3 井口在屋邦文論文一覧 ( 注 ) 『 井口集』(旧版)より の没後井口教授記念事業委員会(代表者斯波忠三郎〉の編さんした新版『井口集』〔昭和 3年〉で ほぼたどることができる。集録論文の主な出所は『工学会誌』, 「機械学会誌」,『東京帝国大学 工科大学紀要」などで,論文のほとんどが英文で書かれ,邦文のものは少ない。表− 3の邦文 大正 2年以後の在屋の研究論文が追加 されて いる 。 4 , 水力学・ 『井口集』の新版 ・旧版か ら論文を機械工学の分野別に分類すれば,材料力学2 水力機械1 5 ,機械要素 3,熱機関 2,機械力学 2,数学関係 5 , その他 5編となり ,井口 の研 究動向は圧倒的に所属講座に関係の深い材料力学と水力学の分野が 占めている。 井口 は機械術語の制定に 力を入れたが論文のほとんどは英文である。その理由と して お雇い 外国人教師による教育を受けたこと ,英国留学そ して術語制定前から論文を英文で書く 習慣が 身についていたこと があげられよう。 広 く英国な どを含めた世界的視野て、英文発表の必要性を 感じていたのか もしれな い 。 それはともかく英国人並に英語に熟達 していたことは事実で,ぅ対二 日の三男武英は, 0年の頃,私の長兄井口 春久が冷凍機の論文を英文で発表することになった。原稿の 大正 1 チェックを父に頼んだらば,父は読むのが面倒 らしい。兄に読ませて,父は聞きながら不 日本の機械工学の開拓者井口在震は)(出水) 表 4( 1)井口在屋英文論文 I . VOLUME OF CERTAI N SOLIDS [Rig akuKyok叩 a iZ a s s h i ] I I . EXTENSI ON OF SIMPSON’ sRULE [TheJournaloft h eEn g i n e e ri ng S o c i e t y ,Ja pan,No.7 5 ,1 888] I l l . THEORY OF W ARMING BUILNGS BY HOT W ATER OR STEA M [TheJournaloft heEngi πe e門 ngS o c i e t y ,Japaη,No.1 2 6 ,1 89 2 ] ' I V. CLEARANCE I N STEA M ENGI NE CYLINDERS (In a l e t t e rt o the Editor of the ' Engineer’ 〉 [TheEngineer,v o l . LXXX,August2 3,1 8 9 5 ] V. STRENGTH OF W H EEL T EETH 〔TheJourna lof t h eS o c i e t yof Mechanical Engine e r s , Tok y o , Ja pan,V o l . I , No. l ,1 8 9 7 ] VI. DESI GNI NG PRESSURE BLOWERS AND ROTARY PUMPS 〔TheJournal of t h eS o c i e t yof Mechani c a lEngz ’ ne er s ,Tok y o ,Japan, Vol . I ,No.1 ,1 8 9 7 ] VII. EFFECT OFM OVINGPARTSOF A NENGI NEON PISTON AND CRA NK PIN EFFORT [Trans a c t i o nofJapane s eI ns t i t u t i o nofNavalArchi t e c ts ,No.1 , De c e m b e r , 1 8 9 7 ] VIII. PRELIMI NARY EXPERIMENT ON THE STRENGTH OF BOLT AND NUT [TheJournalof t h eS o c i e t yof Me c h a n i c a lEngine er s ,Tok y o ,Ja pan,V o l . I ,No.2 ,1 8 9 8 ] IX. STRENGTH OF L ONG TUBES UNDER EXTERNAL PRESSURE 〔TheJournalof t h eS o c i e t yof MechanicalEngine e r s , Tok y o ,Japan,V o l . I ,No.2 ,1 8 9 8 ] X. l NTERPOLATION [ H i t h e r t ou n p u b l i s hed ] XI. THEORY OFFLY W H EEL AS APPLIED TO TURBI NES AND HIGH SPEED ENGINES 〔The Journalof t h eS o c i e t yof Me c h a n i c alEngine e r s , Toky o ,Japan, Vol . 目n e ,1 9 0 1 ] I V ,N o . 5 ,J XI I . TORSION T EST OF CAST-I RON ByA .lNOKUTY, K6gakuhakush, i K6gakus h iand FUJ I TANAKA,Kogak u s h i 〔 Re po γ toft h eC o l l e g eofE ηg i n e e r i n g , TokyoI mρe r i a lU n i v e r s i t y ,No. ,Ju n e ,1 9 03] V ,p p .79 XI I I . DETERMINATIONOFCOEFFICIENTSOFDISCHARGEFROMA RECTANGULARNOTCH ByA.lNOKUTY, Kogakuhakushi, K6gakushiand S. UTIMARU,Kogakushi r 日 lu 河i v e r s z t y ,No. [Re p o r toft h eC o l l e g eofEngineering ,Tok yoI mρe , June ,1 9 03 ] V ,p p .46 XIV. RESULT OF TESTS OF VACUUM GAUGES By A.lNOKUTY,Ko g a k u h a k u s h i , K6gakushiand S. UTIMARU,K6gakus h i ρor toft h eC o l l e g eofEn g i n e e r i n g , TokyoImpe r i a lU n i v e r s i t y ,No. [Re V,pp. 1 3 ,June ,1 9 0 3] XV . STRENGTHOFFLATPARTOFA STEAMBOILERFITTEDWITHA DOUBLINGPLATE 〔TheJou rnalof t h eSoci e t yofMe ch a n i c a l Engine e r s , Tol~yo, Ja j J a n ,V o l . V I ,No.9 ,J u n e ,1 9 0 3] X VI . SUDDEN STOPPAGE OF W ATER I N A PIPE OF UNI FORM SECTION 〔TheJour n a lof t h eS o c i e t yof Me ch a n i c a lE n g i n e e r s , To k y o ,Ja p a n ,V o l . 1 ,S e p t e m b e r ,1 9 04 ] V I I ,No.1 X VI I SI ZES OF READY M ADE ENGI NEERI NG ARTICLES 目 [TheJour n a lof t h eS o c i e t yof Me cha n i c a lEningeers ,Tokyo,Ja p a n ,V o l . 1 ,S e p t e m b e r ,1 9 04 ] V I I ,No 1 目 X VI I I . SHEARI NG TEST OF TIMBERS ByA.lNOKUTY,K6 g a k u h a k u s h i , K6gakushiand FUJI TANAKA,K6gakushi 31 2巻 I号 関 技術と文明 表− 4 ( 2 ) [TheJournaloft h eC o l l e g eofEngineering, TokyoI mperial U n i v e r s i t y , Japan, V o l .I I ,No.3 ,January, 1 9 0 5 ] XIX. STRAI N ENERGY OF A BEA M BEYOND THE ELASTIC LIMIT By A.lNOKUTY,Kogakuhakushi, Kogakushiand FuJ I TA NAKA,K ogakushz [T heJour ア i a loft h eC o l l e g eofEngineering, Tok yoI 押i p e r i a lU n i v e r s i t y , Japan, V o l .I I ,No. 3 ,January, 1905] XX. UNI VERSAL REPETITIVE BENDING TEST ByA.lNOKUTY,Kogakuhakushi, Kogakushiand FuJ I TA NAKA,K ogakusht 押i p e門 'a l Unz ・ v e rs i t y , [ThJournaloft h eC o l l e g eofEngiπe e r i n g , TokyoI I I .No. 3 ,Januar y,1 90 5] Japan, Vol . XX!. RESULTS OF TESTS OF PRESSURE GAUGE ByA.lNOKUTY, Kogakuhakushi, Kogakushiand FUJI TANAKA,Kogakushi [TheJournaloft h eC o l l e g eofEngineering, TokyoI mperial U n i v e r s i t y , Japan,Vol . I I ,No. 3 ,Januar y , 1905] X X! ! . THEORY OF ORDINARY CENTRIFUGAL PUMPS AND OF A NE W CENTRIFUGAL PUMPS HAVING DIVERGENT VORTEX C HAMBER PROVIDED \ 可 ITH GUID E VANES FOR PRODUCING FORCED VORTEX [T he Journal oft h eC o l l e g e ofEngineering, Tokyo I 押i p e r i a lU n i v e r s i t y , a l of t h eS o c i e t y ofMeJa pan, Vo l .I I ,No.4 , Masch, 1 9 05. The Jou門 z chanicalEngineers, Tokyo,Japan, V o l .V I I I ,No. 1 2 , May , 1905] XX I l l . RESULTS OF TESTS OF A FORCED V ORTEX CERTRIFUGAL PUMP [The Journal of t h eC o l l e g e ofEngineering ,Tokyo I mρe r i a lU n i v e r s i t y , Japan, Vol . I I ,No.4 , March, 1 9 05. The Journal of t h eS o c i e t y of MechanicalE n g i n e e r s , Tokyo,Japan, V o l .V I I I ,No. 1 2 , May , 1905] X XI V. FORMULAE FOR HELICAL SPRINGS [T heJournaloft h eS o c i e t yof Mechanical Engineers, Tok y o , Japan, V o l . VI I I ,No.1 4 ,O c t o b e r ,1 90 5] X X V. FLEXIBLE COUPLING [TheJournalof t h eS o c i e t yofMechanical Engineers, Tokyo,Japan, V o l . うγi l ,1 906] IX ,No.1 5 , A1 X X VI . SIMILAR STRUCTURES 1 可ITH CORRESPONDING LOADS [TheJournalof t h eS o c i e t yof MechanicalEngineers, Tokyo,Japan, V o l . I X ,No. 1 7,Se ρtember,1907] X X V! l . COLUMNS OF UNIFORM STRENGTH 〔TheJournaloftheEngineeringS o c i e t y ,Japan,Nos. 3 0 0 ,3 0 1 ,3 0 2 ,1 9 0 7] X X VI l l . STRENGTH OF FOUNDATI ON FOOTI NG FOR A HEAVILY L OADED STRUCURE 〔TheJournaloftheEngineeringS o c i e t y , Japaη,No. 31 1,Nove 押z b e r ,1 9 0 8 ] X X!X. STRENGTH OF CURVED BEAMS ByA.INOKUTY,Kogakuhak y s h i , Kog akushiand K .G.TAKEMURA,Kogakushz 〔TheJou門 z a lof t h eS o c i e t y of Mechanical Engine e r s , Tok y o ,J a 1 うa n , Vo l . X I I I ,No. 2 2 , May, 1 9 1 0 ] XXX. M ETHOD OF LEAST SQUARES [Hi t h e r t ounpublished] XXXI. DISPOSITION OF BOILER FEED PIPES [T he Jou γn alof t h eS o c i e t yof i ¥ l l e c h a n i c a lE ηg i n e e r s , Toky o , Japan, Vol . XIV,No.2 4 , Februar y,1 91 1 ] XXXII. THE RELATIONBETWEEN THEH ORSE POWERAND THEW E I GHTOF A NENGI NE 〔The Journalof theSocietyof MechanicalEngineers, Toky o , Japan, V o l . XV,No.2 6 , Februar y ,1 9 1 2] X X X! ! I. STRENGTH OF RECTANGULAR FLAT PLATE LOADED UNIFORMLY AND FIXED OR SUPPORTED AT THE PERIPHERY 〔TheJournaloftheSocietyofMechanicalEngineers, Tokyo ,Japan, V o l . 3 2 日本の機械工学の開拓者・井口在屋 C I T) ( 出 水 ) 表− 4(3) XXIV,N o .64, J u n e , 1921] XXXIV. THEORY AND CONSTRUCTION OFPISTON PACKING RI.NGOF UNIFORM SECTION 〔TheJ ournalof t h eS o c i e t yof N l e c h a n i c a lE n g i n e e r s , Tokyo,Japan,V o l . 6 5 ,A u g u s t , 1921] XXIV, No. XXXV. APPROXIMATE EQUATION FOR AN ECCENTRICALLY LOADED CQLUMN [TheJournal of t h eS o c i e t yofN l e c h a n i c a lE n g i n e e r s ,T o k y o , Japan,V o l . 73,M arch, 1922] XXV,No. XXXVI. TRANSPORTATION OF THE SECTION OF A BEAM FOR GREATEST RESISTANCE [TheJournalof t h eS o c i e t yof MechanicalE n g i n e e r s , Tokyo,Japan, V o l . ρtember, 1922] XXV,No.75, Se XXXVII. THEORY OF COMPOSITE BEA M AND OF COMPOSITE COLUMNS [The Jou 門 z a lof t h eS o c i e t yofMechanicalE n g i n e e r s , Tokyo,Ja ρan, V o l . 5 ,S e p t e m b e r , 1922] XXV,No.7 XXXVIII. STRENGTH OF TAPER COLUMN [TheJournaloft h eAeγo n a u t i c a l Recearch I n s t i u t e , Toky o ,Imperial U n i v e r s i t y ,No.1,March, 1922] X XXIX. STRENGTH OF H OO I < FOR M ACHI NE PARTS [TheJournalof t h eAe γo n a u t i c a lR e s e arc hI n s t i t u t e ,T o k y o , Im ρerial Univ e r s i t y ,No.3 ,O c t o b e r , 1922] XL. APPROXIMATION TO AN I NTEGRAL BY PARABOLA OF THE FOURTH DEGREE [Hit h e r t ou n p u b l i s h e d ] ( 注 ) 『 井口集』(新版)より 備の点を即座に訂正する。(中 n 洛〉洋行から帰ってきた父が,英語で寝言をしゃべったと母 ~ がし、ったことがある。 と語っている。 第 1報で、 述べた如く井口の工部大学校の卒業論文は“ On Turbine ,,で, 水車についての理 論研究であった。論文を書くベースにした基木文献は論文中で散見される W.I .M.Rankine の A MANUAL ofthe STEAMENGINE andother PRIMEMOVERS ,フライベル グ鉱山学校で応用数学の教授であった JULUS WEISBACH の Lehrbuch der Ingenieru undMaschinen Mechanik の英訳本である。後者の原本は 1845年に出版され, 繰返し増補さ ω れ,フランス語を除く各国語に翻訳されている。工部大学校の購入した本は鉱山技師 E C KL Y B. C O X E の英訳になるもので, 1877年にロンドンで 刊行ー され A MANUAL OF THE MECHANICS O F ENGINEERING AND OF T H E CONSTRUCTION O F MA- ,と題された。 CHINES 井口の卒業論文は英文で 54頁あり, B 4版の大きさで邦文に換算すれば 100頁ぐらいになろ う。その内容は, 1.水車の分類と定義 1∼ 3頁 2 . 案内羽根っき水車の理論 4∼17頁 仲井口武英「父 ・井口在屋の思い出(続編〉」『エハラ時報』第 10巻63号,1961年 , 49頁 。 伺 I I .ラウスほか著高橋裕ほか訳「水理学史.!],鹿島出版会, 1974年 , 144∼146頁 。 33 技術と文明 2巻 1号ω 3. ランキンの水車理論の吟味 1 8∼3 0頁 4 . 半径比 , 角度,水圧 などを含めた 31 ∼4 2頁 評価 5 . 水受形状などを含めた運動力学的 43∼54頁 研究 に分けられている。 論文の主要箇所の第 2章 で は 図 − 2 (井口の卒論では F ig1 )の案羽根内 GA, 羽根車 AFBの外向き流れの半径流水車 について展開 している。この形式はフ ー ルネイロンタ ービンというもので,今日 では使用 されておらず,案内羽根を外側 に羽根車を内側に置いたフランシスタ ー ビンが使われている。羽根車は反時計方 向に回転 し , 羽根車を通過する流体の周 図− 2 井口の卒業論文の羽根車出入口の流れ (“OnTurbine ” より) ,絶対速度 w,相対速度 c ,そ して 速度 u 羽根率の入 口を l,出 口を 2とした場合についてベルヌ ーイの式を利用し,V2,C2, 5 /(角度〉の 関係から 出 口の絶対速度 W2 を求めている。 そして理論解析の帰結は角 5 i ,3 fを小さく ,角 α を大きく,羽根車の内径 九 と外径 r2の比 r z lr 1を小さくと述べるが, この条件を実際の水 車に適用するのは矛盾 した要素をどのように妥ヰ畠させるかが問題で、あろう。 6∼2 8 頁で Ra n k i ne の本の 1 93∼1 9 6頁における摩擦のない場合の水車の効率と角 第 3章 2 V l dt=W/g・ d(v・7う と し た の は Ran k i ne の 運動量について井 口は,運動量モ ーメソトを 1 nki ne の APPLIEDMECHAN I CS の506頁に 適 用 の 誤 り と み な し 元 の 公 式 は 本 来 Ra Fl dt= m ld v とあり,それに対応しないと指摘し正しくは λ l f d t=W/ g・ァ ・d i − と書くべきだ としている。 1 ¥ l f はモ ーメント, ni =百1 /gは質量,U は速度, r=lは腕の長さ ,Fは力を示す。こ ここで'・ の指摘について筆者の計算では,井 口の方が誤りで,速度の大きさの上方向の成分の変動と角 度の変動を考えに入れなければならないことを見務しているようだ。 水車意匠法”とし、う論文を発表している。今日 井 口は工部大学校を卒業した翌年に表− 3 “ でし、えば「水車設計法」だが, 「意匠」の横に「デザイン」というノレビがうたれている。この , ,の続編に相当し, 論文は“ OnTurbine 前者は全く理論的取扱いに終始 していたのに対 し かなり具体的に在来型水車の効率をあげるため水量(Q)と水頭(H )の関係を用し、た計算と材 料力学の面から水車を構成する部材の寸法をどのよ うに決めるかなどが述べられている。その 34 日本の機械工学の開拓者 ・井口在屋( ] )(出水) 6頁に卒論同様に水車の分類と定義が, 7 . K車に竪転横転の別あり横転水車は車輪平置に して横転し率車l i は直立す或は之をトノレビン 水率と名っくト ノ レビンとは蓋し渦旋の意に して水の運行形状に義を取るなり竪転水車は車 輪下垂にして竪転し車軸は平置す是所謂通常水車なり と記述されている。ここでトルピンはタ ービンのことである。さらに 2∼ 3頁に, 水力を論ずるの書亦完備するものあらず此れ英国を特に然りとなす大学士ラ ンキン氏蒸汽 機械書中に水車の理を論ぜり然、れどもトルピン水車に至ては其理論誤謬あり壷く信ずベけ んや nkine をかなり意識 して いることがうかがえる。 と書かれていて,大先生 Ra 井口の水車に関する第三作は “ 日 本水率の説” と題 し , 東海道と京阪地方ら主に在来型水車 の馬力と 利用実態を調査 したフィ ールドワ ークであった。それによると主な用途は精米 ・製粉 で胸射あるいは下射式水車で約 6馬力を示し, 1時間 1石を精白する。京阪地方では急流が多 .6馬力あたりに米 l石を精白すると記述する。 いため上射式により,平均して 1時間 2 1889 )年『国民之友」第4 8号,636 頁に知識人 これらの論文の発表された少し後ちの明治 22( の愛読書を調べた「書目 十種」とし、う項があり ,井 口は鳩山和夫らとともに記載され,彼は次 の, mith著 TheVicarofWα he . f ie l d , 徒然、革,朝顔 日記,興軍記,尚自(訟経〉,孟子 , Golds Rankine著 Ap ρl i e d Me chani c s ,We i s ba ch著 Me chani c sofEngine er i g ,Thoms on & Tai t 著 NaturalP h i l os o ρh y . の 9冊をあげている。この うち Rank i ne ,We i s b a ch の書はすでに述べたように引用されてい ms on( Lo r dK e l vi n)らの書は,その中の vel o ci tyの定義を 引用し“はやさ ,速度” るが, Tho の論説を発表している。 井 口の研究に使った蔵書は関東大震災で、図書館の焼失した東京高等工業学校に寄付さ立,そ の中に上記の工学書が含まれていた〔東京工大飯田賢一教授の調査〉。 次に表− 4の英文論文に移るが,井口が日本の材料力学研究の リー ドオフマンであったこと .P.Timos he nko の Hi s t oryo ft heStre ngt h は論文の質 ・量の両面からも明らかである。 S 四 Mat e r i a l によってみた井口の研究水準は,必らず しもその最先端を走っているものばかりで はないが,世界の水準に達していた。 内容は引張 ・圧縮 ・曲げ ・平板荷重・挫掘やバネの公式 など基本的な材料 力学のほとんどの問題を含んでおり実用性の高いものが多い。中でも ,平等 断面を有するピストンリングの理論並に構造(大正 10年〉は理研ピストンリング発明の基礎と ~ なり ,木材の前断試験に関するものは,その標準規格を定める重要な資料となった。晩年発表 帥 『東京工業大学六十年史』,昭和15年 , 867頁 。 II 口昌宏訳「材料力学史J,鹿島出版会,昭和49年 。 帥 J 帥 『東京帝国大学学術大観」(工学部,航空研究所〉,昭和 1 7年 , 369頁 。 3 5 2巻 l号関 技術と文明 の“ The o r yo f Composi teBe am and o f Compos i t eCol umns ,, は, 複合材料を扱った論文 の先駆と思われ,劣えぬ研究への意欲をうかがうことができる。 次に水力学に関係することは次章で述べるので省略するが,表− 4の中で異色な“ Cl e a r a n c e i n Steam Eng i n eCl in d e r”は,井口が留学中ロンドンの Tennant社で蒸汽機関製造実習中 eEngineerの編集者に出した手紙で、ある。手紙といっても論文にな に執筆したと思われ, Th 8 95 年 8月1 1日で, TheEngineerにのったのは 8月2 3日発行 のも っており,投函 した日付は1 ので,その間 2週間足らず という速さであった。蒸汽機関のシリソダ ー内 のクリアランスの大 きさによって生ずる損失馬力を最小にする圧縮割合が存在することを,線図および数式により 近似計算で証明したものである。短い論文であるが優れた内容であるから取りあげられたに違 ne e r いないが, 日本 の機械工学者の論文が外国誌にのった第 1号である。 井口が The Engi に投稿 した背景に,技術者向 きの情報源の重要性を認識 していたから と思われ,帰国後彼自身 が経営者と主筆をかね『工業雑誌』を 出版するきっかけになったといえよう。 r engtho fWhe elTeeth” 帰国後の明治 30 (1897)年には『機械学会誌』第 1巻第 1号に“St 0%を半径と とし、う機械要素に関する報告をしている。平歯車の強さは歯の両端を歯の高さの 8 する丸みをつけることで75%以上強度が上昇するが, そのためには歯の長さは歯の高さの 3. 5 倍以上にしなければならないと述べている。 r oximat i ng Cyc loi dal 明治期に発表された歯車の論文はこの他には,呑坂季太郎の“App Te e th Whe 巴lb y Cir c u larArcs”(『機械学会誌』明治 32年)しかなく ,歯車の研究が活援になる のは大正期からといえよう。歯車工学の第一人者堀内義和氏 は , この当時,まだ歯形の研究が行なわれていないとき,このような研究が行なわれたことは 四 興味深い。 と述べている。 f f e cto fI n巴r t hi ao fMovi ngPa r t so fAn 在屋はまた同年『造船協会年報』の第 1号にも“ E ct " と いうエンジンの可動部分の慣性の影響を取り Engi neon Pi s t o n and Crank Pi n E丘e yWhe el ・ a s appl ie dt o Tu r b i neandHigh あげ,続いて明治 34 (1901)年には“ TheoryofFl S p巴e dEngines ,, と遠心型の速度ガバナ ーの論文を発表し, いずれも機械力学の分野での草分 ,I I ,X , XXX, XLには, シンプソンの法則,内挿法,最小二 け論文であった。表− 4の I 乗法,数値近似など実用数学の論文があり,有効数字の意味を大事にした井口の一面を物語っ ている。井口は大学で講義中しばしば, 「四捨五入でなく,四捨五随意に」と言って,五はケ 回 ースパイケ ースて‘上に入れても下に入れてもよいと話したとし、ぅ。すなわち機械工学上の計算 や理論解析に常にともなう誤差の取扱い,あるいは単に細かな計算を行うことは無駄で,その , 34頁 。 制掘内義和「歯車工学の小径をたずねて』,沖電気工業株式会社,昭和50年 伺 19 7 4年 6月3 0, 日 TBSテレビ放映, 「近代工学の夜明け井口在屋」(歴史を旅するシリ ーズ〉の録音 テープによる。 36 日本の機械工学の開拓者・ヲoj: 口 在屋( ]] )(出水) 物理的意味を考慮、しなければならないことを戒めている。このような考え方は純粋数学者でな く機械工学者であった井口の体験から生れたのであろ う。 4 . 渦 巻 ポ ン プ 研 究 の 評価 機械工学者として井口在屋の評価を高くしたのは渦巻ポンプの研究であることはかなりよく 知られている。“ On Turbine" (明治15年〉,“水車意匠法”(明治16年〉 ,“扱揚及圧揚 n~p筒”(明治 2 4年〉,“ DesigningP r e s s u r eBowers andRotaryPump"(明治 3 0 年〉と一連の水車 ・ポンプの 研究すなわ ちエネルギ 一変換工学についての論文から渦巻ポンプの研究は当然至るべき道だっ たのかも知れない。一方,学生であった内丸最一郎の卒業論文“ Centr i f ugalPump ”(明治 3 5 年〉が,井口に与えた影響も大きいと思われる。 開 内丸は「ポンプ界の今昔」( 1 9 5 4 年〉の 中で, 今から五十三,四年前,筆者が大学の学生であった時代にはポンプといえばすべて往復運 動をなす水筒式のものであり ,蒸気機関に直結せる蒸気ポンプが多数であった。遠心作動 を利用する渦巻型の回転ポンプは当時は殆ど使われておらず,何処に据付けてあるかこれ を見つけるのが困難であった。筆者は卒業論文に遠心ポンプという題目を選び,モーメン タム理論によって簡単にその作用を論じ英国初期の製造業者 Appoldや Gwyn 製品を 文献によって探し出して構造の説明をなしこの ポンプは将来性のある揚水機云々と結言 したように記憶しておる。筆者が大学に就職 して後に井口大先生は渦巻ポンプについて種 々考案され,その設計に基づくポンプを芝浦製作所に依託して製作 し実験せられた。 と回顧している。 帥 ω 渦巻ポンプ発展の概略は,内丸の卒論および「改訂剛筒』によれば,まず有名な数学者 Euler によって渦巻ポンプの理論 は数式化され,1754年ベルリンアカデミーの紀要に発表された。そ の後,各国の技術者は実用化を試み,米国のボストンで回転円板の両側にまっすぐな羽根を 4 枚偏心的に取付けた羽根車を作り,その外周にケーシングを設け羽根車から飛び 出す 水 を 受 け流す様に仕向けた。 これを改良し今日の渦巻ポンプと 比せられるものが, 1 8 30年に米国の Mc ar ty によって発明され, ニュ ーヨークの海軍ドッグに使用された。 これが渦巻ポンプ実用 化の始りといわれる。 英国では Appoldが渦巻形のポンフ。について種々研究し実験を重ねた結果,羽根車の羽根は 平板でなくして後方にカーブせるものの方が揚水作用をなすに有効であることを発見した。そ 年ロンドンで、聞かれた第 1回万国博に出品 し,抜群の揚水能力を しめ し , して Appoldは1851 渦巻ポンプは新しい機械として将来が約束 された。次いで英国の J .Thomsonが,羽根車から 側 内丸最一郎「ポンフ。 界の今昔」『エハラ時報』,第 3巻 3号,1 9 5 5年 , l真 。 帥 “De v e l opem 巴n to fc e n t r if ug alpump , ” p p . 4∼5 。 帥丸善株式会社,昭和 1 4 年 , 2 5 8 ∼2 6 3 頁 。 3 7 技術と文明 2 巻 l 号~ ケーシングに水が出るまでに水の 自由運動をする渦室を備えておけ ば,水の速さが減少 してポンプの 揚程が増すことを発見 した。その 後やはり英国の 0 .Re yn o l ds に よって渦室に案内羽根を設けてポ ンプ効率を高める 方式が発明され 7 。 こ 高揚程を得るため渦巻ポンプを 列ねた多段ポンプは米国の W. H.J o hs on が考案した。このよう に1 9世紀中頃か ら末 にかけて渦巻 向巻ポ ンフ.の一般理論を求めたポソプ断面図 図−3 1 ( 『 井口 集』よ り ) ポンプの基本形式が出揃い,その普及は急速に進んだ。先行 した理論がありその実用化が欧米 ‘ ですでfこ行なわれていた中で,後発の井 口の渦巻ポンプ論文の持つ意味を明らかに しよう。 この論文は明治 3 8(1905)年に発表された。 二編に分けられているが, 内容から してー続き のものと見られる。表− 4の X XI Iと XXI I Iである。論文の題名は“一般渦巻ポンプの理論 お よび強制渦運動を生ずるため案内羽根を備えた末広渦室を有する新式渦巻ポ ンプの理論”お よび “ 強制渦運動ポンプの試験結果”と な り共に同年『東京帝国大学工科大通紀要』( 3月 〉, 『機械学会誌」( 5月〉に同文のものが発表されている。 論文は膨大なもので,渦巻ポンプの一般理論を図ー 3について, W1 , W z :羽根率の入口,出 口の絶対速度 C1 , Cz; 羽根車に対する相対速度 Ui . Uz・ 半径方向の速度 。 。 Vi . Vz : 羽根車 の入 口,出 口の周速度 1 :C1 と V1 の反対方向となす角度 2 :Cz と Vz の反対方 向となす角度 内 ・W z とり2 のなす角度 とした場合,羽根車の回転によっ て , 水に与えられるエネルギ ーを,井口はベルヌ ーイの式か Iの ら求めているが,最終的に求めた解はオ イラ ーのポンプの式になっている。すなわち X XI F)を加えた全揚程 h+F はオイ ラーの理論ヘッドと吹ばれるも 論文では実揚程(め と 損 失 C ので, ト(ら 叫 = ま 叩 h+F= v2 料 2 ) 付 V2COSα2 38 日本の機械工学の開拓者 ・井 口在屋( J I )(出水) とな り , ポンプの効率(ε〉は突揚程を全揚程で割る ことで求められ, ε h -!i+F 「− 2gh -l- 2v2( V2 C2cos仇 ) - gF V2(Vz-Czc os仇 ) ・ M "~ ここで井 口は羽根車を 出る流れは羽根の出口角の方 向に流れ出るとし,また羽根車など流路 内の摩擦損失は小 さいと して無視 し , 損失は よ F=と ・ ・ ・ ・ ・帥 'g がほとんどを占めると考え,種々の場合について詳細に議論 している。例えばケース l:渦室 のないケーシング不良なポンプ, ケース 2:渦室のないケ ーシング良好なポンプ, ケース 3: 渦室っきケ ーシング不良のポンプ, ケース 4:渦室っきケ ーシン グ良好な ポンプ, ケース 5: 新式渦巻ポンプの理論,のそれぞれについて理論的ポンプ効率を求めてい る。その理論に基づ いて設計されたポンプは図− 3の断面形状を示し青焼の図面は東京大学機械工学科 の図書室 に保管されている。羽根車は現在のものに比べてかなり 立っていて75度 と大き な吐出し角をつ けているが, ・ . p .m,5 0馬力の低速電動機に直結して運転するか ら, 立て ない こ これは 1150r とには高揚程が得られないためで・ある。 実験用の 1 8 0m mの渦巻ポンプは,その実験結果 として揚程 3 9 .5m, その平均効率6 9%を 得たが, これは当時の単段渦巻ポンプでは驚異的な高性能であった。 井口 の教え子の一人で 、 東北帝大て、水力学講座を担当し,後ちに総長を務めた宮城音五郎は明 治期の渦巻ポンプについて, とにかく渦巻ポンプな るものは外国の図書雑誌にたまたまその片 りんみたいなも のが記載 されて いただけで、 あ って,実物を見た人などはぼ くらの仲間には一人もなく,外国製軍艦 図− 4 39 技術と文明 2巻 l号ω の機関室のどこかに使っているという ,そんな幼稚極まるものであ って, それが今日ある ような高級 品に まで発達 しようとは,神ならぬ身の, おそらくは後で述べ る井口 先生も考 えられなかったろうと思 うほどのもの であったと回想 している。また水力機械の権威田伏敬三京都大学 ・大阪府立大学名誉教授も, 「明治中頃のポンプの効率 は,おそらく 50%に達 していないだろ う」と述べられた。 t h によって 1905年 9月 井 口の渦巻ポンプの論文は外国 の大学などにも送付され,R H.Smi 22日の Th eEngineer誌に取り あげられ, 日本の機械関係者に大きな反響をもたらした。 TheEngine e r は Eng i n e er i ηg と並ぶ英国の工業雑誌で あるが, 日本では一般に後者の方 Sm i t h(185 1 1 91 6 年〉はエジンパラ大学を卒業後, 実務経験を経 がよく知られている。 R H. 1 8 7 4)年に23歳の若さで開成学校の機械工学の教授に就任 した。そ して明治 1 1年ま て明治 7 ( でこの職にあり(来日最後の年は東京大学教授〕, 日本から帰国後は 1881∼1896年 まで、パ ー ミンブf ムの Ma son ’ sC o l le g eの土木および機械工学の教授となり ,その後は 1 904年 までロンドンで 0 0 (1894-1 8 9 6 年〉コンサルタントエンジニアと著作で時を過したといわれる。 したがって留学中 t h は東京大学教授だったから, の井口と何らかの接触があったかも知れない。あるいは Smi 工科大学紀要の寄贈を直接受けていた可能性も考えられる 。 Sm i t hの「 日本における機械工学」と題 した一文は英文邦訳とも『機械学会誌』第 9巻第 15 号,明治 39年 5月に記載され,邦訳の 41∼42頁は, 過去十 ヶ年聞における学術上の記録は東京帝国大学の井口教授の研究せられたる理論並び に実験によりて如何にその祖国を益せ しめしか証する者也。一千九百O五年此の明快なる 数学家に して機械家たる同教授は「セントリブュ ーガノレポンプ」に就き論述する所あり , こは三百頁に亘る長論文にして其応用理論極めて詳悉なり,蓋し欧米におけるこの種の理 論の標準たるべきものなり。(中略〉要するに全論文は「セントリフュ ーガルポン プ」の新 設計を論 じ最も有効なるも の也。殊に芝浦製作所に於て是を造り其試験結果を与ふるに至 りては更に其苦心の惨胆たるを知るに足れり而して此実験の結果其良好なる事欧米に於て 製せる物と岡田の談に非さるを示せり。 と絶賛 している(傍点筆者〉。 筆者が井 口の渦巻ポン プ論文をみた限り,まず引用文献があげられていないので,どこまで が井口のオリジナルで‘あるのか判らない。しかし当時の諸外国の研究を統一的にまとめ,渦巻 ポソプの損失を体系的に分析 し 羽 根 車の作用を もとに理論的に効率を求め, いくつかのケ ー スについて設計の良否を検討したのは画期的なことで,この点が外国で大きく評価されたもの と考えられる。 伺 日本機械学会編 ・ 発行「日本の機械工業五十年」,1 9 4 9年,5 7 頁 。 帥 1 9 8 4年 6月 l日,創立3 5周年記念式典当日大阪府立大学にて聞き取り。 ω 北郷蒸「明治初期における機械工学教育のれい明」 月 , 6 3∼6 4頁 。 4 0 『日本機械学会誌」,第8 3 巻第740号,昭和5 5年 7 日本の機械工学の開拓者 ・ 井口在屋 (Il)(出水) その上従来の研究の延長に基き新式渦巻ポンプの説を出した。といっても何も目新しい理論 を出 したわけで、なく ,渦巻ポンプ。理論を体系づけたことで必然的に求 められた も の と い え よ う。この事実は歴史的にみて日本の機械工学の大きな成果であった。 しかし井 口の論文が渦巻ポンプの位界で果 した役割は意、外に短かく , そ れ か ら 2 0年程後に Stodola,Buseman らによ って羽根車に 「すベり」の概念が導入され,井口の論文の工学的な 意味はなくなった。これが工学とい う学問の宿命であろ う 。 井口は羽根車を出る流れは羽根の 出口 角の方 向に流れ出る と仮定 したが,実際の流れでは羽根の表と裏に大きな圧力差があり , 流れは圧力の高 L、側治ミら低い側へ移動するため流れの出口角は羽根の出口角より小さくなる。 これを通俗的に言えば流れがすべって羽根に沿って流れないと考えられるので, このことを M 「 すベり」と呼ひ\現実の流れに近づけるのに「すべり係数」を用いて修正を施すのである。 ポンプに生ずる損失も井口の仮定したようには単純でなく,その意味で井 口の論文はポンプ 研究の長い道程の中の一里塚であり ,こ のような理論の発表により理論と実験との結果に注目 し すべりの概念が導入されるきっかけになったものといえよう。そ して渦巻ポンプの理論は @ 母 ドイツの C.Pfleiderer のものが主流となって発展 し 現在はすべり現象を実験による統計的 .Stepanoff の設計方式が, なデーターで補正する米国の A.J ポソプ設計の 中心的な考え方に なっている。 わが国におけ る渦巻ポンプの利用 は明治則中頃から末にかけて急速に進み,鉱山 の排水,濯 甑, ボイラ ーの給水が主な用途であった。当初はドッグの排水用に用いられたためポンプの製 造業者は,三菱 ・川崎 ・石川島など造船業者が多く ,かなり古くから外国製品の模倣が行なわ G i l れていた。輸入品にはスイス ・ドイツのものが多かった。 このよ うな状況のもとで井口の ポンプ理論の実用 化は,工部大学校時代赤羽工作分局で在屋 G~ の実習を指導 した国友武貴が,明治1 8 年に創業 した国友鉄工所に依託されることになった。国 友鉄工所は当初ポンプの売上が確実に伸びていたのに日露戦争後の不況で,大正元年に倒産し てし まった。そ こで技師長を していた井 口の教え子畠 山一清は独立 して「ゐのくち式機械事務 所 」 を聞き ,はじめは注文があればポンプを設計,そして 外注して納品するという零細な段階 から 出発した。 「ゐのくち式機械事務所」の看板には主幹工学博土井口在屋, 所長工学士畠山一清と書か れ,主幹すなわち井口を顧問に頂くこと は営業面でかなりメリットがあったろう。ゐのくち式 92 0 )年のカタログには,渦巻ポンプの全てに「ゐ 機械事務所が荏原製作所に発展した大正 9 (1 のくち式ターピンポンプ」の商品名が使われている。 制例えば妹尾泰利 『内部流れ学と流体機械』,養賢堂,昭和48年 , 140∼149頁 。 帥 DieKre i s elpump巴nf u rF l t is si gkei t e n und Ga s e ,S p r i n g e rV e r l a g , von Ber l i n ,1 9 3 2年 。 納 白倉 ・ 藤井共訳『遠心ポンプと取h 流ポンプ』,丸善株式会社,昭和31 年 。 1 4頁 。 倒産業機械工業会編・発行 『産業機械工業発展過程』,昭和40年,113∼1 倒 前 出 (1 ) ,6 4頁 。 4 1 技術と文明 2巻 l号 (泊 井口は数、 々の特許を得ているが, 渦巻ポンプに関係したも のだけを記せば, 年に複式渦巻ポンプとい う名称で, 1) 明治 44(191 現在のシリンダー型に似た多段タービソポンプの発明(特 許21093号〕をしている。これは現在見ても水力学的損失を少 な く し か つ 案 内 羽 根 の 効 率 を 発 揮 し し か も ケ ーシング自体が小型に作られるという大きな効果があるものである。この時同 時に軸スラストを除去する発明(特許21092号〕をも取得している。 いわゆる「ゐのくちポンフ。 」の特許は, 大正 3 (1914)年に井口在屋 ・畠山一清が共同 して 取得したものである(特許25361号〉。これは羽根車入 口に発生する有害な水の運動をなくし, 軸スラストを完全にバランスさせるものであって,これによ って羽根車ボスの回転による影響 ( I Q をなくし,損失を減じてポンプで効率を向上させるというもので長期間使われていた。しかし このアイデアが渦巻ポンプなどの分野で大大的には利用されていないようだが優秀なポンプを 求めて努力を重ね,改良を行った足跡を示すものであろう。 井 口との関係によって東京帝大機械工学教室の教官とのコンタクトも多く,大正期の機械工 学発展段階にあって,彼らのアドバイスはゐのくち式機械事務所に大きく寄与したに違いな い。これが畠山一清を創業者とする日本の三大ポンフ。 メーカーの 1つ荏原製作所とゐのくち式 ポンプとのかかわりである。 5 .結び 日本の機械工学の研究は明治末に至って急速に進歩した。その中心は東西両京の帝国大学機 械工学科と東京高等工業学校であった。その中にあって井口在屋の業績は極立っており,蒸気 ボイラ ー・ 蒸気機関などの熱機関の研究をはじめ,歯車 ・ネジ ・軸接手などの機械要素,はず み車 ・慣性力など機械力学,水車 ・ポンプなど流体力学そして材料力学や設計に及ぶ機械工学 の分方面にわたって優れた研究をのこした。その広範な研究活動は,井口 の才能の優秀さにも よるが,本質的には機械工学そのものの研究分野が, まだ十分に分化し専門化していなかった ためであろう。日本の明治末大正への機械工業拡大過程は,井口より約半世紀先輩になる偉大 neを生んだスコットランドの機械工業と時間遅れをもって重なる部分も な機械工学者 Ranki nkine といえるだろう。 多く,井口在屋こそ東洋の生んだ Ra 井口の紹介については必らず「渦巻ポンプの発明で知られる」と言う書き出しで始るものが e r 誌に紹介されたこ 多い。これは英国で井口の渦巻ポンプの論文が,大大的に TheEngine とや「ゐのくち式ポンプ」の商品化によるもので,どちらかと言えば水力学よりむしろ研究の 重点は材料力学にあった。しかし両者を合せて, 日本の「連続体力学」の大先達と表現する方 帥 『エハラ時報』(富j l 業45年記念特集号〉,第 6巻第21 号 , 1957年, 8頁。 帥特許庁編『工業所有権制度百年史』,上巻,発明協会,昭和59年 , 345頁 。 帥 畠山一清については『熱と誠』, タイヤモンド社, 昭和48年。栗林岩雄『水と空気』, 社,昭和45年などが出版され,日本の機械工業のー断面を知る好個の資料 と言える 。 ~l~ 『明治文化史』第 5巻学術,原書房,昭荊1 5 4年 , 249頁。 4 2 日本工業新聞 日本の機械工学の開拓者・井口在屋( I) ( 出 水 ) が 井 口にふさわしいように思われる。井口は計算や理論解析にあたって常にその有効数字の物 理的意味を吟味 し , R.H.Smith のいう 「明快なる数学 家 に Lて 機 械家たる 」 にふ さ わ しい学 究肌の人物で、あったが, 書斉派の研究者で、なく実務的なアィテ*アマンで‘もあっ之 酒をこよなく愛し,生涯一教授で終えた機械工学の大先生を しのび本稿を終える。 最後に本稿CI ) (l I)を草するにあたり次の方々の協力によることが多かった。記して 謝意を表する。 東京大学工学部沿革資料室の古屋野素材(現明治大学講師〉, 同機械工学科図書室の大浪美雪, 同名誉 教授富塚清,京都大学・大阪府立大学名誉教授田伏敬三,神戸大学教授今津健治,創価大学教授北正己, 荏原製作所資料室の川島勝(現技術開発室副参事)およひ‘吉田光邦教授を班長 とする京大人文研の共同研 究班「 1 9 世紀 日本の情報と社会変動」の諸氏をは じめすで?こ故人になられた方々ゃあえて氏名を記さなか った方々もおられるが,御無礼は御容赦 くだされば宣 言である。 Ariya Inokuty, theCelebratedPioneero fMechanicalEngineeringi nJapan( J I) 一 一 −TheEvolutionoftheMechanicalEngineeringProfession− 一 一 by Tsutomu DEMIZU ( Osaka P r e f e c t u r eF u j i i d e r aT e c h n i c a lHighS c h o o l ) Ari yaInokutywasan e x p e r ti ni n d u s t r i a ltechnology and made g r e a tc o t r i b u t i o n s t ot h emechanicale n g i n e e r i n gp r o f e s s i o n . Hep o s s e s s e dac l e a ri n t e l l e c tandt h epower e s e a r c h . A hardworker, o fminute o b s e r v a t i o nwhichheusedf r u i t f u l l yi nh i ss c i e n t i五cr Ariya Inokuty nev巴r seemed t o know wearin巴s s even i nh i so l da g e . His r e s e a r c h 五ndingshavebeenpublishedi nschol a r l yj o u r n a l si n Japanandabroad. AriyaInokuty’ sl i f e w o r kwass c i e n t i f i cr e s e a r c handthroughi thebecameane x p e r t i nt h ee n g i n e e r i n gd i s c i p l i n e so fh y d r a u l i c sandt h es t r e n g t ho fm a t e r i a l s . His o r i g i n a l e n t r i f u g a lpump, anoutcome o fh i sr i c h knowledge o fh y d r a u l i c s , met theory o ft h巴 c widea p p r e c i a t i o ni nboth Japananda b r o a d . He o b t a i n e dp a t e n t sf o r anumb巴r o fh i s i n v e n t i o n si n c l u d i n gt h e Inokuty C e n t r i f u g a l Pump which was g r e a t l ya c c e p t e d and widel y usedi n Japanesei n d u s t r yandbecame w e l lknown throughout the world. He r e p o r t e dr e s e a r c h on h is s t u d i e si n t ol o ng c o l u m n s ,h e a te n g i n e s , machine e l e m e n t s , and g e a r s , amongo t h巴r s . H巴 d巴v is edano r i g i n a ltheoryo fbeamsand developedi tt o i c s . nearc o m p l e t i o n . Hea l s oc on t r i b u t e dnumeroust h e s e s ona p p l i e dmath巴mat Consideringh i snumerous worksmentionedabovet h eauthor c o n c l u d e st h a t Ariya Inokuty maybe c aled, “ TheDoctorRankine o ft h eo r i e n t . " 制 井口在屋 「 日常有触れたる物件の改善に就て」「機械学会雑纂」,第 3号,大正 2年 7月 , l∼1 3 頁 。 4 3