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古代壁画研究40年 - 神戸大学大学院人文学研究科・神戸大学文学部
神 戸 大 学 最 前 線 神 戸 大 学 最 前 線 占代壁闘 fJF究塗0年 大学 院 大 文 学研 究 科 教 授 百橋 明 穂 歴 史に関 して、 文化 ・ 最近なにか と話題に を くさい!与 真のみが手懸か りであった。敦蛇は 瑞 にある敦蛙へ は行っても行っても卓木 一 なっていることは「 世界遺産Jであろう。人間 20世紀初めに欧米列強が派遣 した中央アジ ア探校の日的地の一つであった。しか もその 本ない砂漠地帯をひたすら西方を目指 した。 は大 いに異 なる内容 の壁 画であることが驚 玄突三蔵 もか くや らんと思われた。今では関 五 百あまりある石窟の ^つか ら有名な敦燈 その I J にでも敦塩空港にたど 空を朝発てば、 愕 の事実 として注 目された。同じ四神図でも 一 両者には本質的な相違があ り、また 方にあ 十二支像は一方 る男女祥像 は他方 にはなく、 にない。 その解釈をめぐって大いに議論 を展 の長 い歴史的営 みの中で形成された造形芸 一方で人間の長 きにわたる継承の中に 術は、 高松塚壁両 と 壁画の解析 と保存 にあたった。 保持 ・ 伝授 されてきた。美術 史学研究 もこれ 文書が大量に発見され、また同時に発見され それか ら三十数年、 り若 くとことができる。 中 らと深 い関わりがある。 現在大学院人文字研 た絵画遺品と共に、 欧米や日本にもたらされ 国の経済発展 によって中国各地で膨大 な量 究科には連携講座 として「 文化資源論Jがあ た。 すなわち歴史学や仏教学、 そ して美術 史 いままで全 く知るこ の遺跡 の発掘が行われ、 り、 奈良回立博物館や大和文芋館 との連携 に よって現場 での研究 ・ 教育に充実 と発展 を期 学などを巻 き込んだ敦性研究が始 まって百 年以 Lが 経過 していることになる。 神日喜一 との無かった様 々な時代 の遺跡や遣物が発 両壁画基の被葬者 に関する議論や築 開した。 そ の 造 前後関係などの議論が進行 している。 見された。なかでも注 目されたのは壁画墓で れには中国の壁画基 の豊富な作例に関す る している。 郎先生に『 敦違学五十年』という本があるが、 あった。はじめは陪席代 の陵菓壁画であった 知見がものをいった。しかしその間高松塚壁 今 はまさに敦性学百年である。 先般敦燥研究 が、 それより古 い魂晋南北 画が発見 されてか ら30年 における美術史学百年の軌跡をまとめた。 戦 前の研究者は誰一人敦燥には行っていない。 朝時代、さらには漢代 の壁 が経過 し、この間の保存が も大量 に発掘 されて lRH基 両墓 とも 大問題 となった。 そのため、 到底現場である敦性の地を踏むこ 今明 日香村 の高松塚やキ トラ古墳壁両の 保存 と活用が国民的関心事 となり、 運 日の如 く新聞紙 Lに 記事が載 る。私 も文化庁 の対 策委員会委員の一人として、 意見を述べ るざ とはないであろうとい う前提 の もとでの研究 いる。またその頃か ら敦性 本 や 日粛 省 などか ら多 くの 築造 されてか らほぼ1300 るを得ないことも多 い。 美術 史学研究者 とし て、さらに云 えば壁口「 研究者 の一 人として、 は、 かえって地道な実証的な考証 と想像力を 彼 らのも 留学生が来 日し、 人知れず無事 だった もの 壁画に関しての兄解が期待 されているので 働かせるいい機会でもあった。 美術の基 llJ教 本である備教説話画の研究を修士論文 とし たらす研究情報は貴重こ轟 ン 冠野景 鞍盲誘あ晶部築署裏 ・ が、何 故 たった30年で か あろう。しか し私が壁画研究を日指 したのは はるか37年前に遡る。 美術 史学の大学院生 と して備教美術の源流を求めて、 中国は西の呆 てまとめ、 美術 史学会で発表 し、 学会誌 に掲 一 載 された。 勿論 度 も現物 を見ずにである。 研究発表を行い、また壁耐iを調査することが 保存科学 と文化 策の不具合 が生 じたのか、 財行政 との狭 間で解決 に窮 したといってよ F研究を目指 したのである。 て敦埠石宿の壁 「 この論文 は敦 しか し後 で分 った話であるが、 できた。やがて甘粛 省各地のltJ教 西 石億や、 い。中国に限らず、 フランスでもイタリアでも 勿論去 うまで もないが、その頃には高松塚 峰 にある敦睦文物研究所 (今は教建研究院) で注 目され、 執筆者には断 り無 く中国語 に翻 の当時は未だ H本 と中華人民共和国 とは国 訳 されて回覧されていた。 一変 したのは1972年の 日中回交正 事態力` 安周辺 の唐代陵裏壁画 の調査 を実施 した。 現在科学研究費を頂いてその壁画資料デー タベースを作成中である。 毎年作例が増加 し 壁画保存 とい う課題 は極めて困難な課題 で もキ トラも未だ発兄されていなかったし、 そ その間は何 とか 年が経 ち、 8月、 中国敦峰で) の にない ものであった。さ に007年 らに敦性 での国際 シンポジウムでは何度 も びや劣化 といった保 存対 ある。 極論すれば成功 した例はないといって よい。人類 のかけが えのない文化 , 歴史遺産 交がなかった。文化大革命の最中であった。 到底中国へ 行 くことも夢 の様 な時代であっ ており、 最終的な完成はあり得ない。しかし今 一 のところH中 を問わず、 最 も最新の しか も、 である壁l F H H術芸を保存 し、 後世 に伝 えること 常化 である。 奇 しくも同じ年に高松琢古噴壁 た。そのため、 研究資料 もほとんどなかった。 画が発見 されている。 やがて満を持 しての敦 集積 してい ることは間違 番数多 くの作 pllを る。 壁画研究を目指 したからすでに4 0 年近 く 1900年代初めのイギリスのスタインやフラン スのペ リオ、LJ本の大 谷探検隊の撮影 した占 僅石窟見学の日はやってきた。 その当時の中 いない。さらにとつめの壁画古墳 キ トラの本 が過 ぎ、 人文学研究の悠久な歩み と地道な研 国の交通事情 は悲惨 なもので、 甘粛 省の西 参加 を要請 され、 その 格的な調査 が始 まり、 究成果が評価 されたといえる。 研 究 余 滴 研 究 余 でもあ は喫緊の課題であ り、また永遠のl l l 題 滴 25