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足立史談571号(PDF:1814KB)

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足立史談571号(PDF:1814KB)
吉祥図をあしらった大型舞台幕 1 P 舎人能満寺と将軍家の御茶屋跡 2P
鹿浜での子どもの生活 最終回 3P 博物館資料 4P
もくじ
吉祥図をあしらった大型舞台幕
今夏、扇三丁目町会(会長・榎本
武巳さん)から神楽資料が博物館に
寄贈されました。木箱二つに神楽面・
衣装そして大型舞台幕が収められて
いました。
扇三丁目はむかし本木村東高
野といい、隣接する高野村と区
別するために本木高野(もとぎ
こうや)という名前もありまし
た。
※ 以下資料に即し、今回は「本
木高野」という表現を用います。
現在、本木高野では郷土芸能
の保存団体は失われています
が、昭和六〇年ごろまでは、名
人の榎本長蔵さん(屋号=ヤネ
ヤ)を中心にお囃子や神楽を奉
納していました。
長蔵さんは働き者で花卉栽培
では遠く駒込や四谷の花市場ま
で出荷したり、小台で花屋を出
したほか、榊の切り出しと出荷
を行っていたそうです。
扇三丁目の時代になっても郷
土芸能は続けられ、町内の空き
地で三番叟等を奉納されていたそう
です。
生業と郷土芸能
本木高野の神楽資料から
本木高野の寄贈資料で目を引くの
は舞台で用いられた幕です。贈り幕
大型舞台幕
郷 土 博 物 館
足立区教育委員会
足立史談編集局
足立区立郷土博物館内
〒120-0001
東京都足立区大谷田5-20-1
TEL 03-3620-9393
FAX 03-5697-6562
〈27-308〉
花問屋が贈った舞台幕 本木高野の花卉栽培の隆盛を物語る 404cm × 243cm
平成 27 年 9 月
足 立 史 談
(1)第 571 号
第571号
2015 年 9 月 15 日
市場贈の舞台幕 五一七㎝×二八九㎝
とも称される舞台幕の一種です。い
ずれも出荷先のごひいき筋の問屋衆
から寄せられ、祝い幕、贈り幕とい
う表現もあります。
上段の大型舞台幕は、花屋(花問
屋)から贈られたもので、三ノ輪の
花 初 ほ か 四 件 か ら 贈 ら れ て い ま す。
大きく「あばれ熨斗」を背景に松竹
梅と折鶴があしらわれています。梅
柄の中央に「本」と「高」の合字が
本木高野を表現しています。
※ 本稿作成にあたり扇三丁目の皆
前頁下段にあるのは野菜出荷先の
前栽問屋(青果問屋)さんたち三七
さん、榎本武巳様に多くのご教示
軒から贈られた舞台幕です。中央に
を賜りました。感謝申上げます。
「市場」と大書され各問屋さんたち
は千社札風に記されています。
足立区の廃寺余話④
セリ栽培をはじめ様々な前栽を産
舎人能満寺と
出し市場に出荷していた本木高野の
将軍家の御茶屋跡
生業の歩みを物語ります。
柴 田 英 治
贈呈している市場は千住、神田な
ど か ら 下 谷・ 京 橋 の 市 場 を は じ め、 鷹狩は高度に訓練された鷹などを用
遠くは北海道のも見ることが出来ま
いて鳥類などを捕獲する狩猟の一種
す。ほとんどが市場ですが、千住中
で、古来より皇室・貴族・武士など
組の旭湯(銭湯)も見えます。幕の
権力者の間で愛好された。近世の徳
デザインは、こちらも「あばれ熨斗」 川将軍家もその例外ではなく、初代
が あ し ら わ れ、「 本 髙 囃 子 連 中 さ ん
将軍家康・三代将軍家光の鷹狩への
へ」のは「本木高野」を指しています。 傾倒は有名である。近世の鷹狩には
単に権力者の娯楽に止まらず、①遠
さて、いずれの幕も大型です。
征先での統治状況の視察、②大がか
①花問屋贈舞台幕
りな動員による権力誇示、③家臣団
ヨコ四〇四㎝
の軍事演習、④獲物の贈答を通じた
×タテ二四三・五㎝
社交、⑤獲物確保のための禁猟区設
②市場贈舞台幕
定など、政治・軍事・儀礼・環境保
ヨコ五一七・七㎝
護など多面に及ぶ意義が指摘されて
×タテ二八九・九㎝
いる。
材質は厚手の綿で、彩色は染め抜き
部分と手書き部分が確認できます。
近世の足立区域は水場に恵まれた
農村地帯として鷹狩に適した自然環
二つの舞台幕は、花卉栽培と野菜
境下にあり、三代家光にとって千寿
栽培という二つの大きな生業と、郷
土芸能のことを知ることができる貴 ( 千 住 ) 周 辺 は 品 川、 高 田、 王 子 な
どと並んでお気に入りの御成先だっ
重な資料です。この二点を含め一連
た。幕府公式記録の『徳川実紀』に
の本木高野神楽関係資料は神楽面や
は五〇回にも及ぶ家光の千寿来訪が
衣装も充実しており、本木高野の囃
見られるが、そのほぼ全てが鷹狩を
子連中の歩みを多角的に物語ってい
含む狩猟目的だった。足立区内には
ます。
第 571 号(2)
足 立 史 談
平成 27 年 9 月
茶屋があった。当時足立区域は葛飾・
千寿以外にも鷹狩記録や伝承の残さ
墨田区域とともに江戸近郊では最も
れ た 地 域 が 点 在 し て い る( 表 ① 参
御殿・御茶屋が密集する地域で、こ
照)。
のことからも江戸東北郊が近世初期
近世初期に将軍家が鷹狩を行なう
における将軍家の主要な鷹場のひと
場合、休憩宿泊のため既存の城郭・
寺院等利用の他、「御殿」、「御茶屋」 つだったことがわかる。
と呼ばれる将軍家専用の滞在施設が
舎人御茶屋(御殿)は後世編纂の
各地に造られた。将軍家の御殿・御 『新編武蔵風土記』(以下『風土記』)
舎人町の条や、数種の『正保武蔵国
茶屋は鷹狩など行楽の他、上洛・日
絵図模写図』
( 左 上 図 ① 参 照 ) な
光社参など公務旅行のためにも設置
どにより、辛うじてその存在が確認
され、その数は一七世紀前半(家康・
で き る。『 風 土 記 』 の 伝 承 に よ れ ば
秀忠・家光の三代治世)だけで、関
舎人御茶屋は家光治世に造られたが
東から近畿まで百ヶ所以上に及んだ
後に廃され、御茶屋内の御座所跡に
という。
八幡社が勧請されたという。その八
一七世紀前半の足立区域には千
幡社も明治維新下の神仏整理政策に
寿、嶋根、舎人の三ヶ所に御殿・御
より明治四年(一八七一)廃社となっ
た。
舎 人 御 茶 屋 跡 の 位 置 に つ い て は、
伝承・屋号・微地形からすでに舎人
二丁目内に比定されている。筆者は
明治初期の「上地御払下願書」を手
がかりに、旧土地台帳・旧公図等と
現況平面図等との比較参照による八
幡社境内跡の詳細な地理的比定を試
みた。その結果、一九六〇年代の土
地改良事業(区画整理)により境内
跡の地割自体は消滅したものの、跡
地の大半は公道(区認定外道路舎人
七一九)を挟んだ現舎人二丁目四番・
五番街区内に比定できた。但し八幡
社境内跡が『風土記』の伝える舎人
御 茶 屋 の 中 心 部 だ っ た か ど う か は、
今後考古学的検証の機会を待たねば
ならない。
舎人御茶屋については未解明な点
が 多 い。『 徳 川 実 紀 』 に 舎 人 御 成 の
記録は見えず、御茶屋の存続期間は
確定できない。また八幡社境内跡の
面積は一七四坪(約五七五㎡)に過
ぎないが、これはあくまで御茶屋の
ごく一部と考えられ、御茶屋全体の
敷地の規模範囲、建物の規模構造は
依然不明である。
八幡社を管理していた能満寺は同
社至近の真言宗寺院だったが、こち
らも神仏整理政策により明治六年
( 一 八 七 三 ) 廃 寺 と な っ た。 能 満 寺
に つ い て は、 元 禄 八 年( 一 六 九 五 )
検地での検地役人の拠点のひとつ
で、地域の名門新井家・斎藤家が元
檀家と古文
書から判明
する程度
で、地域に
おける同寺
の役割も不
明 で あ る。
将軍家御茶
屋の存在は
原史以来の
舎人地域史
を彩る重要
な史実のひ
とつであ
り、今後舎
御茶屋造営は家光治世?酒井
忠勝も鷹場利用
御茶屋造営は家光治世?慶安
2 年御殿に改築、勝専寺内に
東照宮勧請
鷹番橋
御殿、御殿山、鷹場橋(入
御茶屋跡に八幡社勧請。
谷村)、鶴見(古千谷村)
-
(家光)
嶋根
○
○
(安穏寺内)
-
秀忠・家光
千寿
○
○
(勝専寺内)
○
竹塚
-
-
○
-
舎人
-
○
○
(秀忠・家光)
沼田
○
-
○
家光
―
関連寺院:延命寺(または恵
明寺)
花又
-
-
○
(秀忠・家光)
―
関連寺院:実性寺?
御成
関連小地名
―
御成橋、御成道
(家康・秀忠) 御馬屋堀、御殿地、
・家光
鶴田、鶴寄場
殿山」
(
『足立史談』二七二)/品川歴史館
概要)
』/加藤敏夫「舎人の語り伝え⑥ 御
跡の考古学的研究(科研費研究成果報告書
他『近世初期における将軍家御殿・御茶屋
立風土記稿―地区編④ 舎人』/岡田茂弘
川実紀』/足立区立郷土博物館(編)
『足
都公文書館蔵)/『新編武蔵風土記』/『徳
区)
』
、
『 社 寺 取 調 帳( 埼 玉県 )
』
(以上東 京
管)/『社寺上地下渡願書(第十大区五小
附 属 地図 』
( 以上東 京 法 務 局 城 北 出 張 所 所
況平面図』/『旧土地台帳』
、
『旧土地台帳
人御茶屋のさらなる解明が期待され
る。
【 主 要 参 考 文 献 】 足立区『道路台帳現
-
一』
)―了―
(渕江の歴史研究会)
立風土記資料 古文書史料集一 永野家文書
多田文夫「永野家文書一
(検地帳)解題」(
『足
一一)/根崎光男『将軍の鷹狩り』/森朋久・
理』一四)
、
同「御殿と御茶屋」
(
『季刊地域』
将軍家御殿の歴史地理的考察一」
(
『駒沢地
人を語る会『郷土舎人』/中島義一「徳川
(編)
『 品 川 を 愛 し た 将 軍 徳 川 家 光 』/ 舎
-
縁故疎開ですごした北鹿浜町の思い出 犬 と 猫 実 家 に は シ ロ と ト ラ が い
た。大谷さんからきたシロは、白に
赤、黒が少し混じった可愛い犬だっ
た。叔父が蔵の軒下に犬小屋を置い
たが、門の外まで見通しが利く、母
屋やの軒下に寝そべるのが好きだっ
た。猫のトラは屋敷全域が縄張りの
ようで、古飯に味噌汁をつけてやる
とどこからともなく顔を出した。他
所 者 の 往 来 の 少 な い 島 の 集 落 で は、
あまり防犯は気に掛けないのか、犬
や猫も広い家屋敷に居ついて、穏や
か だ っ た。「 う ら 」 の 家 は、 門 の 近
くへ行くと、大きな赤犬のジロがす
ぐやって来るので怖かった。子供達
は周囲の視線や空気を敏感に感じ取
り、 気 楽 に 遊 べ る と こ ろ へ 集 ま り、
とくに簡単な門構えの垣根もはっき
りしない、開放的な家の庭は理想的
な遊び場だった。家人が顔を見せて
も、小言を言われることはめったに
小 川 誠一郎
鹿浜での子どもの生活 終
31
[凡例]狩記録:
『徳川実紀』に将軍家鷹狩来訪の記載がある町村、鷹場令触村:
寛永五年(一六二八)鷹場令の触村、御成:
()内は縁起・由緒書・伝承で
のみ確認できる人物、関連小地名:十七世紀前半由来の呼称とは限らない。
[出典]『足立区文化財調査報告書3』、『足立風土記稿―地区編1~ 』、『大
川系図』、『旧考録』(永野家文書)、『(勝専寺)御由緒書』(高田家文書)、『浄
土宗寺院由緒書』、『正保武蔵国絵図模写図』、『新編武蔵風土記』、『東武実
録』、『徳川実紀』、『明王院縁起
10
関連寺院:明王院
梅田
鷹場令触村
備考
御茶屋
町村名 鷹狩記録
平成 27 年 9 月
足 立 史 談
(3)第 571 号
廃寺ファイル④ ―廃能満寺―
山号院号:密雲山聞持院
宗派:新義真言宗
廃寺年:明治 6 年(1873)3 月
本寺/寺格:円通寺/孫門徒
境内地:舎人町字下村 1378 外
本尊/持神社:虚空蔵菩薩/御殿山八幡社
徳川家康・秀忠・家光三代治世(17 世紀前半)の鷹狩関連地名表―足立区域
なかった。
家畜 鶏を放し飼いにしている家が
多く、闘鶏用のシャモや卵が美味の
チャボも趣味で飼われていた。シゲ
さんが鶏をつぶすのを皆で囲んだこ
とがある。古顔の雄鶏を素早く捕ま
えて来て、首を切ってから、羽毛を
むしり、手なれた包丁さばきで臓器
と肉を切り分け、いちいち説明しな
が ら 大 皿 に 盛 り 付 け て 行 っ た。「 と
なり」にはヤギがいた。高価な粉ミ
ルクがそれほど普及せずとくに入手
困難な時代、乳の足りない産婦は赤
子の授乳に乳母の手を借り、また牛
乳やヤギの乳を与えた。農家では飼
育 の 楽 な ヤ ギ が 好 ま れ た。「 ど ぶ 」
の家の田んぼでは、重いスキ鍬を引
きずり、泥土に足を取られながら歩
む牛の姿が眺められた。
「 ど ぶ 」 は 近 い 親 戚 の よ う で、 お
ばさんが実家へしばしば顔を見せ
た。三、四歳年長のヨッちゃんは「ひ
き わ り や 」 の ト キ ち ゃ ん と 同 じ く、
江北小学校へ通っていた。年齢的に
は、遊び仲間の集りから巣立った兄
さん格、きっと遠くから見守ってい
てくれたのだろう。時に目を合わす
と身内を自任する親しげな心の内が
感じとれた。ところで、近所で椿分
校 へ 一 緒 に 通 っ た 者 は い な か っ た。
島における低学年児童の教育現場
は、かなり近県(埼玉)への越境通
学に流れ、子供達は分かたれていた。
こうした状況はとくに問題視される
ことはなかったようだ。子ども心に
思い当るふしは、本校の江北小学校
へ通学すると、椿の三倍も遠くなる
からなあ ・・・
くらいだった。
鹿浜を去る 家族と別れ、祖母と一
緒の三年生の残り半分はすぐに経
ち、四年の新学期へ向け新宿へ戻る
日が近づいた。椿分校は休み中、佐
藤先生や友達に改めてお別れができ
な か っ た が、 夏 休 み に 鹿 浜 を 訪 れ、
また再会できるだろうと軽く考えて
いた。上沼田まで自転車の荷台に乗
せてもらい、後は一人で王子行きの
バス、飛鳥山から早稲田行きの都電、
そして新宿駅行きのバスへと乗り継
ぐ、二年半前母と来たルートを逆に
辿 る だ け だ。 心 配 の 種 は バ ス 停 が
変っていたら?くらい、来た時と同
様身一つで、携える物は、下敷に使
えるかな?と叔父が届けてくれた国
防色のセルロイド板、祖母が浅草寺
近くで買ってくれた拡大鏡など、想
い出の小物類、新宿での再出発で頭
は一杯になっていた。ビー玉やベー
ゴマはいつの間にか消えていた。糸
のついた釣り竿だけを未練がましく
軒下へ押し込み、シロともお別れだ。
疎開を振り返って 二年半の鹿浜に
おける縁故疎開は、祖母一家との農
家の日々と、新宿を焼け出された家
族との日々が相半ばして、物心つく
時期の得難い生活体験となった。大
人 に は、 明 日 の 生 き 死 に も 不 確 か
な、全く先の見えぬ厳しい時代だっ
たが、田舎の子供達は外へ遊びに出
れば、身近に迫る恐ろしそうな事な
んか気にもかけず、しがらみから解
放され、心の赴くまま自然な住・遊
空間へ飛び込めた。自分の心身を守
ることがとにかく一番大切、明日の
心配などせず、自然に身を任せて行
くだけの、したたかな生活姿勢が育
まれたようだ。鹿浜の自然と生活環
境との出合いは、悲喜こもごも至り、
真に恵まれたものだったとつくづく
想う。
むすびにかえて
椿分教所は、昭和二四年に鹿浜小
学校として独立したので、二年ほど
机 を 並 べ た 同 期 生 達 の 中 の 一 部 は、
江 北 小 学 校( 本 校 ) へ 転 校 せ ず に、
こ こ の 卒 業 生 と な っ て い る は ず だ。
二年前、本校で資料の閲覧をお願し
た際、要領を得なかったのは、その
辺の事情もあったのかと気付いた次
第です。連載を終える前に鹿浜小学
校を訪ねようとしたが、ちょうど校
舎を建て替え、鹿浜五色桜小学校と
し て 生 ま れ 変 わ る 時 期 に ぶ つ か り、
資料類はすべて倉庫に保管中と伺っ
た。近い将来見せていただくのを楽
しみにしています。
長い間連載を応援して下さった鹿
浜二丁目在住の榎本八重子氏に感謝
します。氷川神社の鹿浜獅子舞もご
案内いただきました。
(慶応大学名誉教授)
※ 五三五号(平成二四年九月)か
ら連載いただき、挿絵として描い
ていただいたスケッチは当館紀要
三六号で「北鹿浜町の記憶画」と
して詳しく紹介しています。(編
)
ここで見て足立の博物館資料
書店や図書館で出会う本
博物館の収蔵資料を用いたテレビ
番組や刊行物があります。郷土博物
館では規定に基づいて「資料特別利
用」という制度があり、本の挿絵や
テレビの参考画像などでご利用いた
だいています(HPをご覧下さい)。
書店で出会う出版物の表紙を飾って
いる場合もあります。直近の予定で
は、浮世絵師・二代歌川国貞とその
弟弟子・国周を描く梶よう子『ヨイ
豊 』( 四 六 判・ 講 談 社、 一 〇 月 二 〇
日発行予定)や新選組隊士斎藤一の
物 語、 中 村 彰 彦『 明 治 無 頼 伝 』
(P
HP文芸文庫、九月二二日発行予定)
があります。いずれも足立区の歴史
とも関連する本です。
足立の郷土史でも新刊がお目見え
しました。足立史談会の安藤義雄さ
んが足立法人会だよりで連載した記
事をまとめた『語り伝える江戸から
今へ』です。足立区郷土史料刊行会。
九月一〇日刊行。B6判、三六二頁。
〈再生紙を使用しています〉
第 571 号(4)
足 立 史 談
平成 27 年 9 月
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