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訳者解題 <2> 成 田 良 幹 前稿に引き続き、ユゲット・ギュヤール

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訳者解題 <2> 成 田 良 幹 前稿に引き続き、ユゲット・ギュヤール
訳者解題 <2>
成 田 良 幹
前稿に引き続き、ユゲット・ギュヤール女史のジェラール伝 『アルフレッド・ジ
ェラール―横濱のシャンパーニュ人』(プレッセ・ニュメリーク、2000 年刊、以下
「本編」と称す)翻訳の第二回をお届けしよう。本編第五章および第六章である。
本会報第 16 号に寄稿した「ランス探訪-アルフレッド・ジェラールの足跡を追っ
て」に記したように、ランス市近郊ブザンヌ村にあるジェラールの墓石には日本語
で横濱出入港の日時が彫られ、そこに「明治十一年(1878 年)丂月一日横濱出立」
とあるのは紛れもない事実であるし、本編著者もこれに準じてジェラールの帰国日
..
としている。しかし一方、帰国直後のジェラールに割いた第五章で、著者は婉曲な
筆回しを用い、1891(明治 24)年、やはりランス市郊外のヴィトリー・レ・ランス
村に住む友人コンスタンティン・レクレールの住民台帳に登場する「寄宿人」アル
フレッド・ジェラール、54 歳の姿に漸く辿りつくことになるのは一体何故なのだろ
うか。本編に先立つウジューヌ・デュポンのジェラール伝も参照している筈の彼女
が故意にこの期間を省略したとは思えない。つまり、著者にとってもこの間は「空
白の 13 年間」である、ということを示している。
著者も第四章末に記したように、ジェラールの突然の帰国は謎に包まれているが、
その謎はこの 13 年間にも引き継がれている。著者がその原因として暗示しているコ
レラ罹病が七一その帰国の理由だとしても、13 年間というのは余りに永過ぎる療養
期間と言わざるを得ない。
本編を丹念に追いながらジェラール年表を作成してみると、帰仏後のジェラール
が再び歴史の表舞台に登場する 1891(明治 24)年までの間に、実は二つの足跡を
残していることに気付く。そのひとつは、本章にも登場するように、ジェラールの
父が市内でパン屋を営んでいたサン・デニ市場街 15 番の家屋を改修したこと(1879
年)
。そしてもうひとつは、1886(明治 19)年に日本で発刊された「日本絵入商人
録」に登場する、例のジェラール工場内観図に掲げられた賞牌を授賞した、1884(明
治 17)年開催のパリ産業博覧会へのジェラール瓦の出品である。
サン・デニ市場街のジェラール・ビルは、後に詳細な経緯が綴られるように最大
25,000 冊もの農業関連蔵書を蓄える図書館となり「レモア農業サークル」へと引き
継がれることになる。「空白の 13 年間」にとったジェラールの行動のひとつは、農
業関連分野の研究への没頭と、その結果としての文献の蒐集であったのではないか、
と想定できる。一方で、第 8 回パリ美術工芸中央連盟主催の産業博覧会にジェラー
ル瓦を出展し工芸陶器部門の大賞を授賞していることは、帰国後も横濱・ジェラー
ル商会への経営の関与が相当期間継続していたことを意味しているだろう。事実、
日本で発刊されたジェラール工場内観図にパリ産業博覧会の賞牌が掲げられている
ことを最初に知ったときには違和感があったが、逆にその時点でジェラール本人が
フランスに在住していたことによって説明がつく。この 13 年間に、ジェラールは或
いは出張対応を含めて横濱との密接な連絡を絶やさなかったものと想像することが
できる。これらが「空白の 13 年間」のジェラールの謎を解くうえでの大きな鍵とな
る。
そして、ヴィトリー・レ・ランスに再登場する 54 歳のジェラールは既に「隠居」
の境地と見受けられる。同じ年(1891 年)5 月 1 日には、持ち帰った日本美術コレ
クションの内最初の約 800 点をランス市に寄贈し、同年の 11 月には早くもその公開
が始まっている。また、帰国直後には、父より相続した前掲のサン・デニ市場街の
ジェラール・ビルに居住していたのではないかと想像されるが、これも図書館とし
て広く市民・研究者に供するために引き払い、友人レクレール宅に寄宿し、本編に
もある通り、
「他人にいかに捧げるか」を模索する余生に入ることになる。余生とい
っては余りに長過ぎる 23 年ではあるのだが。
余談になるが、ヴィトリー・レ・ランスで知己を得たと思われるのがジェラール
の終生の、そして没後の遺産処理を含めた秘書官となるジュリアン・シャルトンで
ある。ご記憶の方もいらっしゃるかもしれないが、拙稿「アルフレッド・ジェラー
ルの『夢のあと』」
(2003 年 5 月 29 日発行:本会報特集第 5 号)で紹介したように、
横濱開港資料館の調査の結果日本で発見された、ジェラール没後の 1927(昭和 2)
年、ブラフ 77 番他の永代借地権が水屋敷の貯水施設とともに横濱市に買い戻された
際の公文書に遺されたジェラール相続名義人こそ、このジュリアン・シャルトンそ
の人であった。
そして、第六章では、ジェラール・コレクションの数奇な運命を辿ることになる。
ジェラールは前掲の通り、1891 年 5 月に第1回目の寄贈を行い、1897 年に追加の
寄贈を行って、その品目は 2,456 点に及んだ、と本編にも記されている。
最初の寄贈を受けたランス市は、当時、市の公会堂に併設されていたランス市博
物館で同年 11 月からこれの常設展示をはじめた。本編にもあるように博物館には大
きな二つの展示室があり、ひとつはジェラールの展示室、そして時を同じくして寄
贈されたポメリー夫人の遺品の陶器コレクションの展示室であった。このポメリー
夫人こそ、シャンパン生産で名を馳せた、あの Pommery の実質創業者である。シャ
ンパン生産で財を成したポメリー夫人のコレクション展示室には彼女の胸像まで鎮
座していたようで、あくまでも謙虚なジェラールの姿勢との対比の妙が描かれてい
る。
そして、ジェラール・コレクションの運命を翻弄したのは戦争であった。ジェラ
ール本人の運命までも巻き込んでしまった第一次世界大戦の顛末の詳細は第八章で
詳しく触れることになる。読者の誤解を避けるために整理するが、ランス市博物館
は都合 3 つの場所に設置されている。最初は前掲の公会堂の一室、1908 年に建物を
購入した「サン・デニ修道院」が二つ目の博物館、そして 1987 年に設立された「サ
ン・レミ博物館」(旧サン・レミ修道院)が現在に至る三代目のランス市博物館、と
いうことになる。
二代目のサン・デニ博物館は 1913(大正 2)年に開館するが、ジェラール・コレ
クションの常設展示を準備している最中に第一次大戦が勃発し、ジェラール・コレ
クションも陽の目を見ないまま被災する。訳者が 07 年 12 月にサン・レミ博物館で
偶々目にしたジェラール・コレクションの一部も特に陶器類を中心に損傷が激しく、
戦争の傷跡を深く感じた。
これ以降現在に至るまで、ジェラール・コレクションは一度も常設展示されてい
ない。サン・レミ博物館に収蔵されながらも「テーマ展」の部材としてその一部が
展示される機会があるばかりである。その象徴的な逸話が、本章にある 1987 年開催
の「中世イスラムの武器展」であろう。ここで紹介されるジェラールの名付け子、
ジェラール・カーデル氏の 90 歳の悲痛な嘆きに耳を傾けるべきであろう。ジェラー
ルは決して好んで「武器類」ばかりを蒐集したのではなく、コレクションの部分的
な使用は蒐集にこめたジェラールの本質的な意思を歪めてしまう。しかし、と歩み
を止めて考えてみる。確かに、訳者もサン・レミ博物館で遭遇したジェラール・コ
レクションの民俗学的造詣に深く感動した一人であるが、何故、一方でジェラール
は本編で紹介されているように多くの日本の武具を蒐集したのだろうか。あるいは、
一種のフェティシズムであったのか。
思い起こすのは、1978 年一足先に帰仏する友人クレットマンに贈った自らの肖像
写真の裏面にジェラールが署名とともに記した「ローニンの国の記念に」という一
文である。ここに謎を解く鍵のヒントがありそうだ。
日本人のわれわれは「浪人」というと文字通り広義に捉えるので、このジェラー
ルのメッセージの真意を図りかねるところがある。ところが先日、丁度クレットマ
ンとジェラールが帰国する 3 年前の横濱を舞台に、フランスの海軍士官が骨董商の
日本人娘と恋に落ちるノンフィクションを描いた「おはなさんの恋―横浜弁天通り
1875 年」
(M.デュバール著・有隣新書)を読んでいて、あることに気がついた。士
官達が旅の途中に泉岳寺に寄るくだりで、当時の一般的なフランス人にとって「ロ
ーニン」とは限定的に赤穂浪士のことを指し、彼らの行動に代表される「忠義に徹
した武士道を体現する者」、と理解されていた、ということだ。ジェラールがクレッ
トマンに宛てたこの一文に込めたものは、こうした日本人の武士道気質であったと
考えれば、彼が武具を好んで蒐集した心理的な風景が見えてくる。訳者はここに、
文化人類学において相対主義的地平を拓いたフランス人らしい発想を垣間見る思い
がする。
われわれ現代人の力で、いつかジェラール・コレクションの常設展示を実現し、
メトロポリタン=アルフレッド・ジェラールの宇宙に触れることは遠い夢なのだろ
うか。
(次号に続く)
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