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日本国際政治学会 2015 年度研究大会 分科会

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日本国際政治学会 2015 年度研究大会 分科会
日本国際政治学会 2015 年度研究大会
分科会セッション B-5(安全保障Ⅰ)(10 月 30 日)報告用ペーパー
「ドイツに配備された核兵器の撤去、及び核兵器共有政策の放棄に関する連邦議会におけ
る議論(一九八三‐二〇一四年)
」
津崎直人([email protected]) (2015 年 10 月 12 日)
はじめに
ドイツが二〇一〇年、国内に配備されたアメリカの核兵器の完全な撤去(以下「核撤去」
)
を求めた動きは多くの関心を集めた。結局、アメリカが反対したために核撤去は実現しな
かったが、この問題は一過性のものではないことに注意する必要がある。すなわち核撤去
と、これと不可分の関係にある、
(後に説明する)核兵器共有政策の放棄(以下「核共有放
棄」
)は九〇年代以降、ほぼ一貫して連邦議会で主張され続けており、上記の取り組みが失
敗に終わった後も主張され続けている。そのように核撤去、及び核共有放棄(以下「核撤
去・共有放棄」
)は冷戦後のドイツの安全保障に関する基本問題の一つになっている。
また、ドイツへの核配備、及び核共有政策(以下「核配備・共有政策」
)は NATO の戦略
として実施されており、ドイツ以外にもイタリア、トルコ、ベルギー、オランダにアメリ
カの戦術核が配備され、これらの国々も核共有政策に参加しているが、特に重要な加盟国
であるドイツで核撤去・共有放棄論の影響力が強まっていることは、核配備・共有政策に
関する NATO 全体の方針にも少なからぬ影響を与え得ることが考えられる。更に、ドイツ
が(GDP で世界第四位の大国として)国際社会で有する影響力を考慮すると、同国による
核撤去・共有放棄論は核軍縮・不拡散を目指す国際社会レベルの取り組みにもポジティブ
な影響を与えることが考えられる。だからこそ、二〇一〇年の上記の取り組みはドイツ国
外でも多くの関心を集めた。
以上のような重要性を有する、ドイツにおける核撤去・共有放棄論への理解を深めるた
め、連邦議会における議論を詳細かつ体系的に解明することが本稿の目的である。なお、
連邦議会における、核配備・共有政策に対する最初の本格的な批判的問題提起は八三年に
緑の党によってなされたため、本稿は八三年以降の時期を分析対象とする。なお、本稿が
対象とする時期の核撤去・共有放棄問題について部分的に分析した論考は散見されるもの
の、それを詳細かつ体系的に分析した研究はない。
以下、第 1 節で核撤去・共有放棄(及び核配備・共有政策)に関する基礎的な諸事実や
歴史を説明した後、第 2 節でコール(Helmut Kohl)政権期(一九八二‐九八年)
、第 3 節
でシュレーダー(Gerhard Schröder)政権期(一九九八‐二〇〇五年)、第 4 節で第一次メ
ルケル(Angela Merkel)政権期(二〇〇五‐二〇〇九年)
、第 5 節で第二次メルケル政権
期(二〇〇九‐二〇一三年)
、第 6 節で第三次メルケル政権期(二〇一三年以降)における、
核撤去・共有放棄に関する連邦議会における議論を分析する。なお、コール政権はキリス
ト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と自由民主党(FDP)の連立、シュレーダー政権は社会
民主党(SPD)と緑の党の連立、第一次メルケル政権は CDU/CSU と SPD の連立(二大主
要政党の連立のため、
「大連立」とも呼ばれる)
、第二次メルケル政権は CDU/CSU と FDP
の連立、第三次メルケル政権は CDU/CSU と SPD の連立による政権である。
一 核撤去・共有放棄(及び核配備・共有政策)に関する基礎的諸事実と歴史
(1)核配備・共有政策の歴史の概要‐始まりから現在まで
西ドイツ(以下「西独」
)へのアメリカの核配備は五〇年代前半に始まった。そして核共
有政策は五七年末に NATO によって正式に採択され、翌五八年に西独政府が参加を決定し
たことから同国(と NATO)による核共有政策が始まった。それは有事の際(すなわち東
側の軍隊による攻撃や侵略が起きた、あるいはその危機が生じた際)に、西独等に配備さ
れたアメリカの核を西独(をはじめとする、核共有政策に参加する NATO 加盟国)の軍隊
にも装備させるという方式で核兵器を共有するものである。ただし平時にはアメリカの核
はアメリカが厳重に管理し、有事の際にそれを西独の軍隊(連邦軍)等に装備させても、
その発射の指揮権はあくまでもアメリカが厳重に管理する。従って西独政府あるいは連邦
軍が独自の判断で核の発射を決定できる訳では全くない。それでも西独は東西冷戦の最前
線に位置し、連邦軍は NATO 統合軍の中でも特に大きな比重を占めたことから核共有政策
では西独が特に重視され、同国に最も多くの核が配備された。特に、西側を圧倒する東側
の膨大な通常戦力から西独をはじめとする西欧諸国を守るためには大量の戦術核が必要と
いう判断から、前線国家の西独に大量の核が配備されたのである。その数は数千発(八三
年の、ある推計では約五千発)に及んだ1。
しかし冷戦終了によってアメリカは九一年、欧州配備核の約九五パーセントの削減、及
び陸上・海上発射戦術核の全廃を決定した。これによってドイツに配備された核も大幅に
削減されたが、以下の三つの基地に核が配備され続けた(全て空中発射戦術核)
。すなわち
ラムシュタイン(Ramstein)の米軍基地、メミンゲン(Memmingen)の連邦軍(空軍)
基地、ビューヒェル(Büchel)の連邦軍(空軍)基地(ラムシュタインとビューヒェルは
ドイツ西部のラインラント・プファルツ州に、メミンゲンは南部のバイエルン州に位置す
る)
。しかし二〇〇三年にメミンゲン基地の閉鎖に伴い、同基地に配備されていた約二〇発
の核(推計、以下同じ)が撤去され、ラムシュタイン基地に配備されていた約一三〇発の
核も二〇〇七年までに撤去されたことは確実と見られており、現在、ドイツに残された核
はビューヒェルの約二〇発である。そしてビューヒェル基地の、戦術核搭載・発射可能な
約四〇機のトーネード戦闘爆撃機(第三三航空隊所属)が核共有を担当する実戦部隊とし
て配備され続けている。ビューヒェル基地にアメリカの軍用機は配備されていないが、核
弾頭は米軍部隊が厳重に管理していると見られている2。
(2)核配備・共有政策に対する国民・諸政党の基本的な立場、核撤去・共有放棄論
2
以上のような核配備・共有政策には国民の大多数が一貫して反対し続けている。五八年
には核共有政策への参加に反対する全国規模の抗議運動が起こった3。ただしその後は、
(八
〇年代初頭の大規模な反核運動は別として)五八年に匹敵する大規模な反対運動は起こら
ず、核撤去・共有放棄は恒常的に主な政治的争点となっている訳ではないが、世論調査の
結果では国民の大多数が一貫して核配備・共有政策に反対し続けている。その根本的な背
景として、反核平和主義が戦後から現在に至るまで、国民の間で支配的な理念であり続け
ていることに注意する必要がある。
これに対し、連邦議会で最大の勢力を概ね保ち、五八年には与党として核共有政策への
参加を決定した保守政党の CDU/CSU は核配備・共有政策を NATO 戦略の一部として(す
なわち同盟の義務としても)一貫して尊重し、重視し続けている。ただし CDU/CSU は第
二次メルケル政権以降、核撤去を目指すことには原則として賛成するようになっているが、
それが実現するまではあくまでも核配備・共有政策を重視するという立場を保っている。
これに対し、CDU/CSU に次ぐ勢力を保ち、反核平和主義を一貫した理念とする中道左
派の SPD は当初、核共有政策に反対していたが六〇年にそれを認めた(すなわち、現実主
義路線の採択による政権獲得戦略の一環として NATO 戦略、及びその一部である核共有政
策を認めた)
。しかし冷戦終了後の九〇年代以降は核撤去・共有放棄を概ね一貫して主張す
るようになっている。ただしそれらを野党としては積極的に主張するが、与党になればそ
れらの主張を控えるという機会主義的な態度も特にシュレーダー政権期の大半を通じて見
られた。しかし、第一次メルケル政権では与党でありながら核撤去を主張し、第三次メル
ケル政権でも CDU/CSU との連立協定(二〇一三年)で核撤去を目指すことを基本方針と
して認めさせた(ただし第一次及び第三次メルケル政権でも核共有放棄は主張していなか
った(していない)
)
。そのように SPD は冷戦後、上記のような機会主義的な態度も見られ
るものの、核撤去・共有放棄を連邦議会でも積極的に主張することで、核撤去・共有放棄
論の影響力を強める最も有力な政党となっている。
そして、第三党で(概ね)中道の FDP は冷戦期に核配備・共有政策を認め、冷戦終了後
もコール政権では与党として核配備・共有政策を認め続けたが、二〇〇五年に立場を大き
く変え、核撤去・共有放棄を主張するようになっている(ただし第二メルケル政権では与
党として核撤去は主張したものの、核共有放棄は主張しなかった)。FDP の勢力は
CDU/CSU あるいは SPD に及ばないが、
CDU/CSU あるいは SPD のいずれにとっても FDP
は連立形成による政権獲得のための重要なパートナーとなることが多い。そのようなキャ
スティング・ボードを握る際に FDP は CDU/CSU や SPD に対しても少なからぬ影響力を
及ぼし得るが、無論、FDP の側でもこれらの大政党に歩み寄る必要がある。FDP 内では概
して反核平和主義の理念が有力だが、以上の事情のため、冷戦期の大半を通じて与党であ
った FDP は CDU/CSU や SPD と歩調を合わせて核配備・共有政策を認め続けた。しかし
二〇〇五年以降は核撤去・共有放棄を主張するようになり、第二次メルケル政権では上記
3
の影響力を発揮して、CDU/CSU との連立協定(二〇〇九年)で核撤去を目指すことを基
本方針として認めさせることに成功した。そのように FDP も核撤去・共有放棄論の影響力
を強めるために重要な役割を果たしている。
以上のように冷戦期には CDU/CSU だけではなく SPD や FDP も核配備・共有政策を認
めていたが、五〇年代末まではそれらに反対していた SPD がそれらを六〇年に認めた後、
冷戦期の連邦議会で唯一、そして最初に、すなわち八三年にそれらに対する批判的な問題
提起を行ったのが、同年に初めて連邦議会における議席を獲得した緑の党である。反核平
和主義を理念とする同党は核撤去・共有放棄を主張し続けているが、シュレーダー政権期
には与党として SPD と同じく核配備・共有政策を認めたことにも注意する必要がある。
最後に、旧東ドイツの社会主義統一党(SED)を母体とする、最左翼の民主社会党(PDS)
(二〇〇五年に「左翼党」に改称)も核撤去・共有放棄を主張し続けている(以下、党名
が PDS であった時期は「PDS」
、左翼党に改称した後は「左翼党」と表記する)
。PDS(左
翼党)は与党になったことはないが、だからこそ SPD や FDP あるいは緑の党とは異なり、
核撤去・共有放棄を最も一貫して主張し続けている。ただし核撤去・共有放棄論について、
PDS(左翼党)が主張するそれらと、他の諸政党が主張するそれらとの間には後述する重
要な違いがあることに注意する必要がある。
以上の予備知識に基づき、以下、核撤去・共有放棄論を分析する。中心的な分析対象は
連邦議会で提出された「大質問」や「小質問」及び「動議」である。まず、本稿の分析対
象となる大質問や小質問に政府は全て回答している(なお、大質問・小質問は手続や質問
の分量等において異なるが、少なくとも本稿の分析対象となる大質問・小質問に関しては、
分量において違いはあるものの、質問としての基本的な性質において実質的な違いは殆ど
ない)。動議は政府に対して具体的な政策目標の追求を要求するが、その採否(すなわち、
要求された目標を政府が実際に追求するか否か)は票決(又は政党ごとの賛否の意思表示
等の簡素な方式)で決定される。そして八三年から二〇一四年に至るまで、核配備・共有
政策に批判的な質問や問題提起を行う多くの大質問・小質問や、核撤去・共有放棄を主張
する多くの動議が提出され続けている。
二
コール政権(一九八二‐九八年)
表 1 が示すようにまずは緑の党が八三年以降に提出した大質問や小質問で核配備・共
有政策に対する初の本格的な批判的問題提起を行った後、冷戦終了後には SPD や PDS
が動議で核撤去・共有放棄(の両方あるいは核撤去のみ)を主張するようになった。以
下、
(1)緑の党のイニシアティブ、
(2)SPD のイニシアティブ、
(3)PDS のイニシア
ティブの順に分析する。
4
表 1:コール政権期に連邦議会で提出された、核撤去・共有放棄を主張した主な動議、
及び核配備・共有政策に批判的な問題提起を行った主な大質問・小質問の一覧
提出日
提出政党
種類
最終結果
83 年 6 月 13 日
緑
大質問(計 5 本)
政府回答(83 年 10 月 14 日)
89 年 6 月 14 日
緑
小質問
政府回答(89 年 9 月 6 日)
91 年 3 月 11 日
緑
小質問(核配備のみ)
政府回答(91 年 4 月 3 日)
91 年 9 月 27 日
SPD
動議(核撤去のみ4)
否決(93 年 6 月 23 日)
95 年 2 月 9 日
PDS
動議
否決(95 年 3 月 30 日)
97 年 6 月 10 日
PDS
動議5
否決(98 年 2 月 12 日)
備考:「種類」の欄について、核撤去のみを主張して核共有放棄を主張していない動議
に関しては「核撤去のみ」と記す(「核撤去のみ」と記していなければ、核撤去・共有
放棄の両方を主張している)。同様に、核配備のみについて問題提起を行い、核共有政
策については問題提起を行っていない大質問あるいは小質問に関しては「核配備のみ」
と記す(記していなければ、核配備・共有政策の両方に問題提起を行っている)。以下
の表 2‐5 についても同様。なお、表 1‐5 は全て筆者が作成。
(1)緑の党のイニシアティブ
緑の党が八三年に提出した計五本の大質問による質問事項は以下のように要約でき
る。(1)核が配備されている場所や数等、配備の状況。(2)配備の法的根拠。(3)配
備されている核が西独の領域内に向けて発射される危険性(それらは、西独に侵略した
東側の軍隊に対して使用することを想定して配備されているため)。(4)発射に対する
拒否権等で、西独政府は発射を防ぐことができるか。
(5)核撤去を求めることはできな
いのか。
(6)西独は核開発を放棄することを五四年に宣言したが、核共有政策はこの宣
言に反していないか。
(7)西独に配備された核は、実際に発射されれば放射能汚染等の
壊滅的被害をもたらすため、西独自身を滅ぼすことにならないか。
以上の質問に対する政府の回答は以下のようなものであった。(1)核配備に関する状況
は機密事項。これまでの政府の慣行に従い、配備の状況に関するどのような質問や主張に
対しても政府は肯定も否定もしない。(2)西独の主権回復を認めたドイツ条約(五四年)
は外国軍隊の駐留を認めている。この条約が(五五年に)発効した時点で既に核は配備さ
れていたので、同条約がそれを認めていることには疑いがない。(3)NATO 戦略はあくま
でも核抑止による戦争発生防止を基本目標としている。核抑止の信憑性を保つため、核を
実際に発射する態勢を保つ必要はあるが、NATO 戦略は戦争の全面的遂行を目標とするも
のではない。
(4)拒否権は求めない。それを求めている NATO 加盟国は存在しない。ただ
し核の発射をはじめ、核戦略について協議する制度が NATO 内で十分に発展しており、特
に西独には核が配備されているため、格別の考慮が払われている。
(5)核撤去は求めない。
5
NATO 戦略の一部として西独に核が配備されていることは同盟の全体に関わる問題のため、
その変更等は加盟国の一致した意思に基づかねばならない。(6)反しない。核共有政策は
NPT にも違反しない6。(7)上記のとおり NATO 戦略は戦争発生防止を目標としており、
これまで、それに成功している。核が実際に使用される事態は想定し難い。戦争発生防止
のために核配備は重要である。
以上のように政府は核配備・共有政策について、法的にも問題がないことだけではなく、
NATO 全体の方針である故に同盟国の義務として従う必要性や、抑止による戦争発生防止
に役立つという積極的意義も強調した。そのような立場を政府や与党(特に CDU/CSU)
は冷戦終了後も現在に至るまで概ね保っている。その一方で緑の党が強調した、西独に配
備された核の危険性、特に実際に発射される危険性は現在では殆どなくなっている(何故
なら、無論、冷戦が終了し、また、NATO の東方拡大の結果ドイツは前線国家でもなくな
ったからである)。それでも緑の党が提出した計五本の大質問は、西独に配備された核が、
特に冷戦期に有していた諸問題について最も根本的で包括的な問題提起を行ったものと評
価できる。
その後も緑の党は冷戦終了と前後する時期に二本の小質問を提出し(八九年六月一四日、
九一年三月一一日)
、それぞれで以下の質問を提起した。
(1)東西関係が大幅に改善してい
るにも拘らず、NATO が計画している欧州配備核の近代化は遂行されるのか。逆に、欧州
全域における戦術核の廃棄は可能か。(2)ドイツ再統一によって新規に編入された旧東ド
イツ領にソ連が配備した核は残されているか。
これらの質問に対する政府の回答(八九年九月六日、九一年四月三日)は以下のとおり。
(1)欧州における戦術核の廃棄は東西間交渉の議題にもなっていない。NATO は核抑止に
よる戦争発生防止を戦略の基本目標として維持している。そのために必要とされている欧
州配備核の近代化も計画どおりに遂行される。(2)残されていない。
以上のように、冷戦が終了する直前の時期にも NATO は欧州配備核の継続だけではなく
近代化も重視し、西独政府もそれらの方針に従う立場を示していた。冷戦終了後もそれら
の方針は保たれた一方で、ドイツでは核撤去・共有放棄がより積極的に主張されるように
もなった。
(2)SPD のイニシアティブ
すなわち、SPD は九一年九月二七日に提出した動議で以下のように主張した。
(1)冷戦
終了とワルシャワ条約機構の解体により、核配備を必要とした理由(すなわち、東側の膨
大な通常戦力に対抗する必要性)もなくなった。従って政府は、ドイツをはじめとする欧
州からの戦術核の完全な撤去を目指す交渉を核保有国が開始するように促すべきである。
(2)核の配備状況に関する回答を避けていた、これまでの方針も放棄するべきである。
しかし、この動議は否決された(九三年六月二三日)。動議に対する各党の立場は外交委
6
員会で明確に示されたが、CDU/CSU 及び FDP が反対した一方、SPD と緑の党、PDS が
賛成した7。そして、CDU/CSU が反対した理由に関する最も明確で体系的な説明を、プフ
リューガー(Friedbert Pflüger)
(CDU)の本会議(九一年一一月七日)における、党を代
表した発言に見ることできる。第一に、プフリューガーは将来の予測不可能性に注意して
核配備を続ける必要性を以下のように強調した。「五年後、十年後あるいは一五年後の世
界がどのようになっているか、予見できるでしょうか?・・・限定的な数の空中発射核
は、根本的な変化を遂げたヨーロッパにおいても結局は発生し得るであろう脅威の可能
性に対する保証になると考えられます・・・冷戦の終了によって人間性までもが変わっ
たとは信じられないのです・・・平和は、永遠平和を望む幻想ではなく、懐疑によって
より良く維持されるのです」
。すなわち、第二に、配備された核は抑止のために重要であ
り続ける。第三に、NATO が核配備を続けようとしている以上、その方針に従うことは同
盟国の義務としても重要であり、第四に、核配備の継続はアメリカとの緊密な関係を保つ
ことにも役立つ8。
以上のようなプフリューガーの発言に拍手をすることで賛意を示した CDU/CSU の
議員達は核配備の継続を、やむを得ないものとして消極的に受け入れた訳ではなく、あ
るいは同盟の方針に従う必要性という理由のためだけで受動的に受け入れたのでもな
く、むしろ冷戦終了後も戦術核を抑止力として重視したからこそ、配備の継続を積極的
に求めたのである。また、FDP のフェルドマン(Olaf Feldmann)は、ソ連による戦術核
軍縮の実態が必ずしも十分に明確ではないことや、それらの、今後の進展に関する予測が
困難であること等を理由に核撤去に反対しただけではなく、上記の欧州配備核近代化計画
に賛成する立場も示した(本会議、九一年一一月七日)。そして、シェファー(Helmut Schäfer)
(FDP)も同様の立場を示しつつ、核配備の状況に関する説明を避ける、政府の従来の方
針を保つ立場を示した(本会議、九一年一一月七日)9。
以上のように、冷戦終了後に核撤去はまず SPD によって明確に主張され、緑の党と PDS
も核撤去に賛成したものの、それを実現することは難しいことが早くも明らかになったの
である。何故なら NATO が核配備を同盟全体の方針として維持する以上、ドイツ一国(の
野党の主張)だけでそれを終了させることは難しいだけではなく、ドイツ国内では
CDU/CSU という議会内の最大勢力が核配備の継続をむしろ積極的に求めたからである。
(3)PDS のイニシアティブ
しかし、その後も PDS が二本の動議(九五年二月九日、九七年六月一〇日)で核撤去だ
けではなく核共有放棄も主張し、更に以下のように主張した。国際社会の最重要目標の一
つである核軍縮・不拡散に貢献するためにもドイツは、それらについて自国に直接的に関
わる目標である核撤去・共有放棄を目指さねばならない10。
7
これらの動議も CDU/CSU、FDP の賛成を得られずに否決されたが、核共有放棄も主張
した点で SPD の動議(九一年九月二七日)より踏み込んだ内容となっただけではなく、以
下の点でも重要であった。すなわち、冷戦期に緑の党は核配備の危険性を指摘し、冷戦後
に SPD はそれが不必要になったという論拠から核撤去を主張したが、PDS は更に新たな論
拠を提示したのである。すなわち国際社会(の目標である核軍縮・不拡散)に貢献するた
めに核撤去・共有放棄を目指さねばならないという論拠であり、それは核配備・共有政策
の危険性や不必要性を強調するよりも、核撤去・共有放棄という目標によりポジティブで
前向きな意義を与えるものであった。そのため核撤去・共有放棄論の説得力や影響力を高
める意義を有し、実際にその後、シュレーダー政権期以降も現在に至るまで核撤去・共有
放棄論は(他の諸政党によっても)主にそのような論拠に基づいて主張されることになっ
た。
以上のように総じてコール政権期には冷戦終了後も核撤去・共有放棄は実現せず、特に
CDU/CSU は核配備・共有政策の継続を重視したものの、SPD や緑の党、PDS は核撤去・
共有放棄(の両方あるいは少なくとも核撤去)を目指すようになり、国際社会への貢献と
いうポジティブな論拠から核撤去・共有放棄が主張され始めるようにもなった。すなわち
議論としての影響力を高める発展も見られたのである。
三 シュレーダー政権(一九九八‐二〇〇五年)
表 2:シュレーダー政権期に連邦議会で提出された、核撤去・共有放棄を主張した主な
動議、及び核配備・共有政策に批判的な問題提起を行った主な大質問・小質問の
一覧
提出日
提出政党
種類
最終結果
99 年 10 月 28 日
PDS
動議
否決(99 年 10 月 29 日)
00 年 4 月 12 日
PDS
動議
否決(00 年 4 月 13 日)
05 年4月 13 日
FDP
動議(核撤去のみ) 不採択(05 年 4 月 14 日)
(1)与党となった SPD と緑の党、核配備・共有政策を認める
シュレーダー政権期にも PDS は二本の動議(九九年一〇月二八日、二〇〇〇年四月一二
日)で以下のように核撤去・共有放棄を主張した。まず、NPT 体制を弱体化させる重大な
諸事件が起きていることに注意せねばならない。すなわちアメリカ上院が包括的核実験禁
止条約の批准を拒否したこと、インド・パキスタンの核実験と核保有、NATO の東方拡大
に反発したロシアが核を再び重視するようになり、START2 条約の批准を拒否したこと等
である。以上の諸事件による NPT 体制の弱体化を防ぎつつ、核軍縮・不拡散を目指す国際
社会の取り組みを再活性化させることに貢献するためドイツは核撤去・共有放棄を目指さ
8
ねばならない。以上のように PDS は国際社会(の目標である核軍縮・不拡散)に貢献する
ために核撤去・共有放棄を目指すべきという主張を保ったのである。
しかし、与党となった SPD と緑の党は PDS の以上の動議に反対し、コール政権期の野
党としての立場とは裏腹に核撤去・共有放棄の実現に向けて具体的な行動を取ることもな
かった。それらの諸問題について連邦議会等で触れることもなく、言及を避けた。つまり
SPD と緑の党は核配備・共有政策の継続を認めたのである。そのような立場は、民間の研
究機関である AG 平和研究所(AG Friedensforschung)が二〇〇三年一二月に、両党の有
力議員を対象に行った質問への返答で明確に示された11。
まず、国防政務次官という要職にあった SPD のコルボー(Walter Kolbow)は冷戦終了
後も NATO の核抑止戦略が重要と指摘したうえで、次のように主張した。
「核兵器の重要性
について同盟国は認識を共有しており、ドイツも今後、核に関する様々な任務に従事し続
ける必要がある。それらの任務には、同盟国の核戦力をドイツ国内に配備することや、核
に関する計画や協議への参加、核の運搬手段を常備することが含まれる・・・核共有政策
は国際法に違反しない」
。
また、外交・安全保障問題に関する SPD の専門家であり、党を代表して連邦議会等で発
言することも多いツァプフ(Uta Zapf)も次のように主張した。
「NATO が核共有政策を放
棄することに個人としては全面的に賛成している。しかし、そのような目標を追求するよ
うにドイツ政府に要求することは非現実的です、何故なら、もし政府がそのようにすれば
NATO 同盟は爆発するであろう(” das NATO-Bündnis gesprengt würde”)からです。
ドイツが核共有政策を一方的に放棄しようとすることも実現不可能であると思われます。
核共有を終了させるためには NATO の全体による決定を必要とするでしょう」。
更に SPD のビンドゥング(Lothar Bindung)は、核の配備状況は同盟の機密事項のた
め政府には守秘義務があり、配備に関するいかなる情報についても政府は肯定も否定もし
ないという立場を示した。以上のように SPD は与党として、コール政権期の CDU/CSU や
FDP と同じ立場を取ったのである。また、緑の党のナハトヴァイ(Winfried Nachtwei)
は、核共有政策が本当に実行されて連邦軍が核を発射するような事態は殆ど考えられない
と強調したものの、核共有政策の放棄や核撤去は明確に主張しなかった。
以上のように SPD と緑の党は、野党としては核撤去・共有放棄を主張していたにも拘ら
ず与党になればそのような主張を控え、核配備・共有政策を認める機会主義的な態度を示
したのである。また、そのような機会主義に陥らざるを得なくなる程に、核撤去・共有放
棄の実現に向けて具体的な行動を取ることは実際には難しいことも示したのである。すな
わちツァアプフも認めたように、NATO 全体の方針として核配備・共有政策が維持される
以上、ドイツ(の、特に、与党となった SPD や緑の党)だけでは、それらを終了させるこ
とは難しいことが明らかになったのである。
なお、AG 平和研究所の質問に対して FDP のホイヤー(Werner Hoyer)
(前国防政務次
官)が、核配備は依然として重要と主張したように、FDP は核配備・共有政策を重視する
9
立場を保っていた。
(2)核撤去・共有放棄論の再活性化(二〇〇五年)
しかし二〇〇五年、FDP が立場を大きく変えて核撤去を主張するようになっただけでは
なく、SPD や緑の党も実質的に核撤去を目指す方針を示し、両党の有力議員の一部は核撤
去を明確に主張するようになった。そのような変化を促した理由として、主に二つのもの
を挙げることができる、
第一に、総選挙(九月)に向けて支持者を増やすため核撤去を主張する必要があったこ
とを考慮し得る。何故なら国民の大多数が核撤去に賛成していただけではなく、FDP、SPD、
緑の党、左翼党は支持者の獲得をめぐって激しい競合関係にあるため、核撤去の主張を特
定の政党に独占させることはいずれにとっても不利だったからである。四月末に「シュピ
ーゲル」
(ドイツで最大の発行部数と影響力を有する週刊誌)が行った世論調査によると、
回答者の七六パーセントが核撤去に賛成し、反対は一八パーセントにとどまった12。
第二の主な理由として、NPT 再検討会議(五月)も以下の諸事情から核撤去論の影響力
を強めたことを指摘できる。すなわち、まず、冷戦後のドイツでは核軍縮・不拡散を目指
す国際社会の取り組み、特に NPT 体制強化を目指す取り組みに貢献せねばならならないと
いう意見が国民の反核感情を背景に、全ての政党によって主張されるようになっていた。
つまり(核撤去・共有放棄に反対する)CDU/CSU でさえそのような意見を主張するよう
になっていたのである。すなわち、そのような意見は国民的合意として定着するに至って
いた13。従って、NPT 体制強化のため、直近の目標である二〇〇五年再検討会議の成功に
ドイツが直接的になし得る貢献として核撤去を目指すべきという意見も影響力を強めるこ
とができたのである。そのような意見は上記のとおりまずは PDS(左翼党)が主張してい
たが、
(後述のとおり)FDP や SPD、緑の党も主張するようになったのである。
総じて、二〇〇五年には総選挙が実施されたことと NPT 再検討会議が開催されたことが
相まって、まずは特に核撤去が再び積極的に主張されるようになった。具体的にはまず FDP
が連邦議会で四月一三日、NPT 再検討会議の成功にドイツが貢献するために核撤去を目指
すべきと主張する動議を提出した(この動議では、核共有政策は不要という意見も主張さ
れた)
。この動議は採択されなかったものの、SPD と緑の党も四月一三日に連邦議会で以下
の方針を示す動議を提出した。NPT 再検討会議の成功にドイツが貢献するための取り組み
の一環として米ロに対し、
「非戦略レベル」の核軍縮と全廃を目指す交渉を開始するように
促す。この動議は翌一四日に、SPD と緑の党自身の賛成で採択された14。
そして「非戦略レベル」の核軍縮と全廃という目標は、ドイツに配備された戦術核の撤
去も対象に含み得るものであった。そのように SPD と緑の党は、ドイツに配備された核の
撤去それ自体を明確な目標として提示することは避けつつ、実質的にそれも目標の一部と
していることを含意する立場を示したのである。それまでは、両党が与党となった後に核
10
配備・共有政策を認めるようになっていたことからは立場を少なからず変えたのである。
更に、SPD や緑の党の有力議員の一部が核撤去を明確に主張するようになった(五月)
。
すなわち国防相のシュトルック(Peter Struck)
(SPD)と外相のフィッシャー(Joschka
Fischer)
(緑の党)が共同で、核撤去を目指す交渉を NATO 内で開始する方針を示し、核
が配備されているラインラント・プファルツ州首相のベック(Kurt Beck)
(SPD、後に党
首(二〇〇六‐八年)も核撤去を主張した15。
シュトルックとフィッシャーによる取り組みの詳細は不明で、核撤去は実現しなかった
ものの、総じて二〇〇五年には核撤去を目指す機運が再び強まったのである。そのような
機運は第一次メルケル政権でも保たれ、強まることになった。
四 第一次メルケル政権(二〇〇五‐二〇〇九年)
表 3:第一次メルケル政権期に連邦議会で提出された、核撤去・共有放棄を主張した主
な動議、及び核配備・共有政策に批判的な問題提起を行った主な大質問・小質問
の一覧
提出日
提出政党
種類
最終結果
06 年 1 月 20 日
左翼党
小質問
政府回答(06 年 2 月 8 日)
06 年 1 月 25 日
左翼党
動議16
否決(08 年 1 月 18 日)
06 年 3 月 7 日
緑
動議17
否決(08 年 1 月 18 日)
06 年 7 月 25 日
左翼党
小質問
政府回答(06 年 8 月 11 日)
07 年 12 月 12 日
緑
大質問
政府回答(08 年 6 月 26 日)
08 年 1 月 16 日
左翼党
動議
否決(09 年 1 月 30 日)
08 年 6 月 25 日
緑
動議
会期終了により廃案
09 年 4 月 22 日
FDP
動議
否決(09 年 4 月 24 日)
09 年 4 月 22 日
FDP
動議(核撤去のみ) 否決(09 年 4 月 24 日)
09 年 4 月 22 日
左翼党
動議
否決(09 年 4 月 24 日)
09 年 4 月 22 日
緑
動議(計 2 本)
否決(09 年 4 月 24 日)
まず、アメリカのオバマ(Barack Hussein Obama)大統領が「核なき世界」を主張し
たプラハ演説(二〇〇九年四月五日)によって核軍縮・廃絶を目指す機運が世界中で強ま
り、これを受けてドイツ国内でも核撤去・共有放棄が(冷戦終了後に)最も強く主張され
ることになったが(特に二〇〇九年から二〇一〇年)
、演説の前からドイツ国内ではそれら
が積極的に主張されていたことに注意する必要がある。すなわち、それらを左翼党だけで
はなく FDP や SPD、緑の党も積極的に主張するという、シュレーダー政権末期からの傾向
が第一次メルケル政権期にも保たれたのである。以下、プラハ演説以前と以後の時期に分
けて分析する。
11
(1)プラハ演説以前‐与党(SPD)でさえ核撤去を主張
まず、左翼党だけではなく緑の党も大質問や小質問で核配備・共有政策に批判的な問題
提起を行い、動議で核撤去・共有放棄を主張した。緑の党はシュレーダー政権期の大半を
通じて核配備・共有政策を認めていたが、第一次メルケル政権では野党となったため、核
撤去・共有放棄を積極的に主張する本来の立場に戻ったのである。そして、左翼党も緑の
党もドイツが核撤去・共有放棄を目指すことは、NPT 体制強化を目指す国際社会への貢献
として重要であり、逆に核配備・共有政策の継続はドイツの核軍縮・不拡散政策の信憑性
を損なうと主張した18。また、FDP も核撤去を主張し、核共有政策を維持する必要性に疑
問を呈した19。
そして、与党の座にとどまった SPD は左翼党や緑の党の動議に反対した限りでは連立の
パートナーである CDU/CSU と立場を共有したものの、二〇〇七年と二〇〇八年には SPD
の有力議員の多くが核撤去を主張した(ただし核共有放棄は主張しなかった)。すなわち党
首のベックや前国防相のシュトルックという、党のトップが核撤去を主張し、連邦議会で
も軍備管理・軍縮問題の専門家であるミュツェニッヒ(Rolf Mützenich)が党を代表して
核撤去を主張した(二〇〇八年一月一八日)
。つまり SPD は党全体の目標として核撤去を
主張するようになったのである20。
そのように与党(SPD)が核撤去を明確に主張したことは、冷戦期を含め、戦後のドイ
ツで初めてのことであり、核撤去論の影響力が確実に強まっていることを示していた21。
ただし、SPD が主張する核撤去論のより正確な内容は以下のとおりで、左翼党が主張す
る核撤去論との間には違いがあることに注意する必要がある。すなわち SPD はドイツから
の核撤去を、米ロ間の非戦略レベル核軍縮交渉を通じて実現するべきと主張した。つまり
SPD はアメリカとロシアの双方に対して、非戦略レベル核についてバランスを保ちながら
軍縮を進めることを要求し、その成果としてドイツからの核撤去を実現しようとしたので
あり、アメリカだけにドイツからの核撤去を、ロシアとの交渉によらず、一方的に実施す
ることを要求しようとしたのではなかった。何故なら SPD も(CDU/CSU と同じく)NATO
を重視し、従って NATO の全体に関わる欧州全域の安全保障問題、特にロシアとの競合関
係に注意したからである。これに対して左翼党は米ロ間のバランスを重視せず、アメリカ
が直ちに、すなわち一方的にドイツからの核撤去を実施するべきという主張を保っている
(SED の後継政党として左翼党は NATO の存在自体を批判している)
。そのため、左翼党
は CDU/CSU だけではなく SPD からも批判されている22。
また、FDP と緑の党は概ね SPD と同様の立場を取っているが、核撤去の主張に関しては
左翼党と他の諸政党の間で以上の違いがあることに注意する必要がある。
(2)プラハ演説後
12
そして、プラハ演説の影響でドイツ国内でも、
「核なき世界」を目指すべきであり、その
ためにドイツが直接的になし得る貢献として核撤去を目指すべきという意見が更に強く主
張されることになった。具体的には連邦議会で二〇〇九年四月二二日、核撤去・共有放棄
を主張した動議が五つも提出された(FDP が二つ、左翼党が一つ、緑の党が二つ)。これら
は全て与党からの賛成を得られず否決されたが、外相兼副首相及び二〇〇九年の総選挙に
おける SPD の首相候補であったシュタインマイヤー(Frank-Walter Steinmeier)は連邦
議会(四月二五日)で、核撤去を目指す方針を示した(ただし、核共有放棄は主張しなか
った)23
ただし、シュタインマイヤーが核撤去に向けて具体的な行動を取った形跡は見当たらな
い。それでも、第一次メルケル政権期に核撤去・共有放棄論の影響力が一貫して強まり、
特に二〇〇九年にそれらの影響力が急激に強まったことは第二次メルケル政権にも大きな
影響を与えることになった。
五 第二次メルケル政権(二〇〇九‐一三年)
(1)CDU/CSU も核撤去を目指すことに合意、核撤去論のピーク
二〇〇九年九月の総選挙の結果、CDU/CSU は第一党の地位を保ったものの、議席数(二
三九)は過半数(三一二(総議席数は六二二)
)に及ばなかった。ただし、CDU/CSU にと
っては概して SPD よりも立場の近い FDP が議席数を増やしたため(九三)、CDU/CSU は
SPD ではなく FDP との連立を形成することで過半数を辛うじて上回り(三三二)、第二次
メルケル政権を成立させることができた。ただし以上の事情のため政権基盤は必ずしも盤
石ではなく、政権存続の要となる(そして、核撤去を主張する)FDP の発言力が少なから
ず強まることになった。
そして CDU/CSU は FDP との連立協定(一〇月二六日)で、核撤去を目指す基本方針に
ついて合意した。より正確には、米ロに対し非戦略レベル核軍縮交渉を開始するように促
すことで核撤去を目指す方針について合意したのである(ただし、核共有放棄については
合意がなされなかった)24。冷戦期を含めて戦後初めて、CDU/CSU が核撤去を目指す方針
を示したのである。また、与党の全て、従って政府全体が核撤去を目指す方針を示したの
も初めてのことであった(前政権では SPD だけが核撤去を主張していた)。ただし
CDU/CSU の従来の(そして、その後の)立場を考えると、核撤去を目指すことに積極的
に合意したとは考え難い。それでも合意せざるを得なかった理由として、核撤去を主張す
る意見が二〇〇五年から一貫して強まり、特にプラハ演説後に急激に強まっていた状況で
CDU/CSU の党勢が弱まり、FDP の発言力が強まったことを指摘できる。また、核配備の
存否について事実上の最終決定権を有するアメリカが核軍縮を目指す積極姿勢を示したこ
13
とも、CDU/CSU の合意を促したと考えられる。
そして、FDP 党首(二〇〇一‐二〇一一年)で外相に就任したヴェスターヴェレ(Guido
Westerwelle)が核撤去を特に強く主張し、そのためのイニシアティブを発揮することにな
った(ヴェスターヴェレは二〇〇五年から核撤去を主張し続けていた)25。
表 4:第二次メルケル政権期に連邦議会で提出された、核撤去・共有放棄を主張した主
な動議、及び核配備・共有政策に批判的な問題提起を行った主な大質問・小質問
の一覧
提出日
提出政党
種類
最終結果
09 年 12 月 2 日
左翼党
動議
否決(11 年 4 月 8 日)
09 年 12 月 2 日
緑
動議
否決(11 年 4 月 8 日)
09 年 12 月 15 日
SPD
動議
撤回(10 年 5 月 7 日)
10 年 3 月 2 日
左翼党
動議
否決(11 年 4 月 8 日)
10 年 3 月 24 日
CDU/CSU 、
動議(核撤去のみ)
FDP、SPD、緑
採択
(10 年 3 月 26 日)
(共同)
10 年 4 月 23 日
緑
小質問
政府回答(10 年 5 月 11 日)
10 年 5 月 4 日
左翼党
動議(核撤去のみ)
会期終了により廃案
10 年 6 月 30 日
SPD
小質問
政府回答(10 年 7 月 20 日)
10 年 11 月 10 日
SPD
動議26
否決(10 年 11 月 11 日)
10 年 11 月 10 日
緑
動議
否決(10 年 11 月 11 日)
11 年 3 月 24 日
左翼党
小質問(核配備のみ) 政府回答(11 年 4 月 14 日)
11 年 9 月 28 日
SPD
大質問
政府回答(12 年 9 月 28 日)
12 年 6 月 13 日
緑
動議27
否決(13 年 3 月 15 日)
12 年 10 月 25 日
左翼党
動議
否決(13 年 3 月 15 日)
12 年 11 月 6 日
SPD
動議28
否決(13 年 3 月 15 日)
12 年 11 月 29 日
緑
小質問
政府回答(12 年 12 月 20 日)
12 年 12 月 12 日
SPD
大質問
政府回答(13 年 6 月 5 日)
13 年 7 月 11 日
左翼党
小質問
政府回答(13 年 7 月 30 日)
13 年 9 月 24 日
緑
小質問
政府回答(13 年 10 月 11 日)
また野党の側でも、緑の党や左翼党だけではなく SPD も連邦議会に提出した動議(二〇
〇九年一二月)等で核撤去・共有放棄を主張した。特に SPD と緑の党の動議では、二〇一
〇年の NPT 再検討会議の成功に貢献するための取り組みの一環として核撤去・共有放棄を
目指すことが重要と主張されたように、二〇〇五年の時と同じく二〇〇九年末から二〇一
〇年の時期にかけても NPT 再検討会議が、核撤去・共有放棄論の影響力をドイツ国内で強
14
める促進要因となったのである。ただし緑の党と左翼党の動議は否決され、SPD は動議を
撤回したものの29、核撤去を目指す基本方針に関しては CDU/CSU、FDP、緑の党、SPD
は立場を共有するに到ったのである(ただし左翼党に関しては前述した立場の違いがあり、
また、CDU/CSU と FDP は核共有放棄を主張しなかった)。
だからこそ二〇一〇年三月二四日に連邦議会で、核撤去を目指すこと、そのために米ロ
に対して非戦略レベル核軍縮交渉を開始するように要求する基本方針を定めた CDU/CSU、
FDP、SPD、緑の党による共同動議が提出され、二日後(三月二六日)に採択されること
ができたのである(ただし、この動議では核共有放棄は主張されなかった)30。この動議は
以下の諸特徴において連邦議会でこれまでに提出された、核撤去・共有放棄(の両方ある
いは核撤去のみ)を主張した多くの動議の中でも唯一のもので、核撤去を目指す動きのピ
ークとなった。すなわち(1)与野党が共同で提出し、賛成したこと、
(2)与党が提出(に
参加)し、賛成したこと、特に(3)CDU/CSU が提出(に参加)し、賛成したこと、そし
て(4)採択されたことである。
(2)ヴェスターヴェレ外交、失敗、核配備・共有政策を維持する方針が明確に
そのような与野党間の広範な合意にも基づいてヴェスターヴェレは核撤去を実現するた
め、アメリカに対し、非戦略レベル核軍縮交渉をロシアとの間で開始するように求める外
交を開始した。しかし以下の一連の出来事が示すように早くも失敗に終わり、NATO 及び
ドイツ政府は核配備・共有政策を維持する新たな諸方針を示した。
第一に、
NATO 外相会議
(二〇一〇年四月下旬)でアメリカのクリントン
(Hillary Rodham
Clinton)国務長官と NATO 事務総長のラムスッセン(Anders Fogh Rasmussen)はヴェ
スターヴェレに反対し、ヨーロッパに配備されたアメリカの核は今後も重要であり続ける
と主張した。また、クリントンは、ヨーロッパに配備されたアメリカの戦術核(約二〇〇
発)の削減は、より多くの戦術核(約二〇〇〇発)を保有するロシアによる大幅な削減が
なければ実施し難いと主張した。そのようにアメリカが判断する以上、ドイツからの核撤
去も難しいことが明らかになったのである31。
第二に、二〇一〇年一〇月に発表された NATO の新戦略概念では、核が引き続き重要と
いう方針が明記された32。第三に、二〇一二年五月の NATO 首脳会議では、ヨーロッパに
配備されたアメリカの核の耐用年数延長計画が発表された。つまりアメリカは、ドイツを
含むヨーロッパに今後も長期に及んで核を配備し続ける方針を示したのである33。第四に、
二〇一〇年代に退役すると見られていた、核共有を担当するトーネードの配備を延長する
方針がドイツ政府によって示されたため、核共有政策も維持されることが明らかになった。
すなわち、トーネードの後継機となることが予定されているユーロファイターは核搭載・
発射能力を有さないため、トーネードの退役によって核共有政策は事実上終了するという
見通しもあったが、その配備延長で核共有政策も維持されることになったのである(この
15
方針を政府は SPD の大質問(二〇一〇六月三〇日)への回答(同年七月二〇日)等で示し
た)34。
以上のように、二〇一〇年三月の共同動議をピークとして核撤去論の影響力は徐々に弱
まり、核撤去・共有放棄は実現し難いことが明らかになったのである。それでも SPD や緑
の党、左翼党は二〇一〇年四月以降も大質問や小質問で核配備・共有政策に批判的な問題
提起を行い、動議で核撤去・共有放棄を主張することで、それらを目指す機運を保とうと
した。これらの大質問や小質問、動議で左翼党や緑の党、SPD は新たな問題となっている
欧州配備核の耐用年数延長計画やトーネードの配備延長について批判的な問題提起を行い、
それらに反対した。
これに対して政府は二〇一〇年四月以降も、三月の共同動議の方針を維持していると主
張し続けたが35、これとは裏腹に欧州配備核の耐用年数延長計画を認め36、トーネードの配
備も延長したように核配備・共有政策の維持に貢献し、それらを強く重視する以下の立場
も示した(左翼党の小質問(二〇一三年七月一一日)への回答(同年七月三〇日))。
「欧州
同盟国の領域に配備されているアメリカの非戦略レベル核兵器は今後も、欧州地域の同盟
国と北米地域の同盟国の間で核に関するリスクと全体的な責任感を共有させることによっ
て、大西洋をまたぐ緊密で持続的な絆の印になり続けると理解している。核兵器を持たな
い国が同盟の核戦力に関与することも負担やリスクを進んで引き受けていること、すなわ
ち同盟の結束・・・を誇示するものとなる」37。
同様の立場を政府は以前にも示していたが(SPD の小質問(二〇一〇年六月三〇日)へ
の回答(同年七月二〇日))、ツァプフは「大西洋をまたぐ協同を保つ手段として核兵器は
決して必要ではない」と反論した(本会議、同年一一月一一日)38。
以上のように二〇一〇年三月の共同動議の後、与野党は核撤去という目標を原則として
は共有し続けたものの、実質的には大きく異なる立場を取ったのである。すなわち政府・
与党は実際には核配備・共有政策を重視したが、与党でも FDP は(二〇〇五年以降)核撤
去・共有放棄に積極的であった一方で CDU/CSU はそれらに反対していたことを考慮する
と、そのような政府・与党の立場は特に CDU/CSU によって取られたものであったと考え
られる。CDU/CSU は原則としては核撤去に賛成しつつ、実際には核配備・共有政策を重
視する本来の立場を保っていると考えられる。
(3)核撤去・共有放棄論の新たな動向‐人道規範の強調
その一方、緑の党が二〇一三年九月二四日に提出した小質問で以下のように主張したこ
とは、核撤去・共有放棄論の新たな動向として注目に値する。すなわち NPT 再検討会議等
の様々な国際会議では、核が使用された場合の破滅的な結果を人道規範の観点から問題視
し、それを理由に核廃絶を主張する新たな動きが生じているが、この動きをドイツも支持
せねばならない。従って、人道規範の観点からも核配備・共有政策について批判的に再検
16
討せねばならない39。
そして、これまでにも指摘したとおりドイツにおける核撤去・共有放棄論は、核軍縮・
不拡散を目指す国際社会の取り組みから強い影響を受け続けているが、国際社会のレベル
で新たに生じている、人道規範の観点から核を批判し、その廃絶を主張する動きもドイツ
における核撤去・共有放棄論に新たなモーメンタムを与えつつある。
六 第三次メルケル政権(二〇一三年以降)
表 5:第三次メルケル政権期に連邦議会で提出された、核撤去・共有放棄を主張した主
な動議、及び核配備・共有政策に批判的な問題提起を行った主な大質問・小質問
の一覧(2015 年 10 月 12 日時点)
提出日
提出政党
種類
最終結果
14 年 12 月 3 日
緑
動議
否決(15 年 3 月 26 日)
二〇一三年九月の総選挙の後、CDU/CSU と SPD の大連立で第三次メルケル政権が成立
した。そして連立協定(二〇一三年一一月一七日)ではドイツを含むヨーロッパからの核
撤去を目指すこと、そのために米ロに対し非戦略レベル核軍縮交渉を開始するように求め
る基本方針について合意がなされた(ただし核共有放棄については合意がなされなかった)
40。原則としては核撤去を目指す第二次メルケル政権の方針が保たれたのである。そのよう
に CDU/CSU といえども単独政権を成立させることができない限り、他の諸政党との連立
協定で核撤去には原則として賛成せざるを得ない事態が続いていることは、核撤去論が一
定の影響力を保っていることを示している。また、オバマがいわゆるベルリン演説(二〇
一三年六月一九日)で米ロによる戦術核軍縮の進展を目指す積極姿勢をアピールしたこと
も核撤去論の影響力を保ち、CDU/CSU の合意を促す背景になったと考えられる。更に、
第一次メルケル政権でも外相として核撤去を主張していたシュタインマイヤーが再び外相
に就任した。
しかし、核撤去を目指す政府・与党による積極的な動きは殆ど見られない。SPD に関し
ても、第一次・第二次メルケル政権期の同党の立場に比べると消極的である。ただし SPD
副党首のシュテグナー(Ralf Stegner)が核撤去を積極的に主張しているように、SPD 内
でも核撤去論は一定の影響力を保っている41。
また、緑の党は二〇一四年一二月三日に提出した動議で、人道規範に基づいて核廃絶を
主張する、国際社会で新たに生じている動きに貢献するためにドイツは核撤去・共有放棄
を目指すべきと主張した。そのように上記の小質問(二〇一三年九月二四日)と同様の立
場をより積極的に主張した緑の党は、人道規範に基づいて核廃絶を主張する国際社会の新
たな動きをドイツ国内でも根付かせることで、核撤去・共有放棄論に新たなダイナミズム
を与えようとしている。
17
しかし CDU/CSU は、ロシアによるクリミア半島侵攻(二〇一四年三月)に始まるウク
ライナ危機によってヨーロッパの国際情勢が緊張度を高めていること等を理由として緑の
党の動議に反対した(動議は否決された)。例えば CDU のオーベルマイヤー(Julia
Obermeier)は党を代表して連邦議会で以下のように主張した(二〇一五年三月二六日)。
「ロシアの攻撃的な行動や現実の地政学的状況を考慮すると・・・アメリカの全ての核を
ドイツ及びヨーロッパから、現在、撤去することは致命的である。同様の理由からドイツ
は核共有の体制から撤退するべきではない。それは誤ったタイミングにおける誤った行動
となる」
(この発言に対し、CDU/CSU 議員から拍手が起こった)42。
以上のように、総じて第三次メルケル政権成立後も現在に至るまで核撤去・共有放棄論
は一定の影響力を保ち、新たな動向も見られる一方では、それらを難しくさせる新たな難
題(ウクライナをめぐる NATO とロシアとの関係悪化)も生じている。
おわりに
核撤去・共有放棄に関する連邦議会における議論(一九八三‐二〇一四年)は以下の論
点(一)から(一二)に要約できる。
(一)から(六)は核撤去・共有放棄論が強い影響力
を有していることを示す一方、
(七)から(一〇)はそのような影響力を抑制する諸問題を
示し、
(一一)は、そもそも核撤去・共有放棄の実現を阻む根本的な諸問題を示す。
(一二)
で最近の傾向を説明する。
(一)核撤去・共有放棄は冷戦終了後からほぼ一貫して CDU/CSU を除き、野党の立場
にあった全ての政党(FDP、SPD、緑の党、左翼党(PDS)
)によって主張され続けている。
特に、それらを主張した動議は九一年から二〇一四年に到るまで断続的に提出され続けて
いる。また、核配備・共有政策に批判的な問題提起を行う大質問や小質問も八三年から二
〇一三年に到るまで野党によって断続的に提出され続けている。以上のように、核撤去・
共有放棄論は野党レベルでは一般的な議論として定着している43。
それだけではなく、
(二)CDU/CSU でさえ第二次及び第三次メルケル政権では連立協定
で核撤去には原則として賛成せざるを得なくなっているため、核撤去は政府の、つまりド
イツの基本目標として追求されるようになっている(ただし CDU/CSU は核共有放棄には
賛成していない)。以上の論点(一)(二)が示すように、総じて(三)核撤去・共有放棄
論は確実に影響力を強めており、今後も、盛衰はあっても一定の影響力を保ち続けると考
えられる。そして、
(四)強い反核感情を抱く国民の大多数が核撤去・共有放棄に賛成して
いることが、核撤去・共有放棄論の根本的な基盤であり、今後も影響力を保つ基盤になる
と考えられる。
そのような国民の反核感情に基づき、
(五)核軍縮・不拡散を目指す国際社会の取り組み、
特に NPT 体制強化を目指す取り組みに貢献せねばならならないという意見が国民的合意と
して定着していることも核撤去・共有放棄論の影響力の基盤となっている。すなわち核撤
18
去・共有放棄は、核配備・共有政策が危険あるいはもはや不必要だからという理由だけで
はなく、NPT 体制強化を目指す国際社会への貢献として目指さねばならないというポジテ
ィブな理由からも主張されているからこそ影響力を強め、今後も保つと考えられる。その
ように、
(六)ドイツの側から国際社会(の目標である NPT 体制強化)に貢献しようとす
るベクトルだけではなく、NPT 体制強化を目指す国際社会の動向がドイツ国内で核撤去・
共有放棄論の影響力を強めるというベクトルも作用している。そのことは、NPT 再検討会
議が開催された年(特に二〇〇五、二〇一〇年)や、プラハ演説によって核軍縮・不拡散
を目指す機運が世界中で強まった時に特に核撤去・共有放棄がドイツ国内で強く主張され
たことに示されている。
しかし、(七)政府・与党(特に CDU/CSU)は核配備・共有政策を重視し続けている。
ただし上記のとおり第二次及び第三次メルケル政権は核撤去を基本目標として掲げていた
(いる)が、それが実現するまではあくまでも核配備・共有政策を重視するという立場を
保っている。そして政府・与党(特に CDU/CSU)が説明した、核配備・共有政策を重視
する諸理由は以下のように要約できる。第一に、それらが NATO の戦略として実施されて
いる以上、ドイツは同盟国の義務としてそれらに従わねばならない。第二に、それらは冷
戦後も抑止による平和維持のために重要である。特に将来の不確実性にも注意すると、そ
れらを継続することは重要である。第三に、NATO の結束、特にアメリカとの緊密な関係
を保つ手段としてもそれらは重要である。
(八)核撤去・共有放棄を求める野党の主張や動議は、二〇一〇年三月に採択された与
野党の共同動議を唯一の例外として、政府・与党によって全て拒絶され、否決されている44。
また、核の配備状況に関する野党からの大質問や小質問に対しても政府・与党は、それら
が機密事項であることを理由に一貫して回答を拒み続けている。
(九)連邦議会で最大の勢
力を保ち、今後も保ち続けるであろう CDU/CSU は核配備・共有政策を重視し続けている。
ただし第二次及び第三次メルケル政権では核撤去には原則として賛成せざるを得なくなっ
ているが、それまでは核撤去・共有放棄に反対していた従来の立場を考えると、それらを
積極的に目指すことは考え難い。
(一〇)コール政権では野党として核撤去を積極的に主張していた SPD や緑の党でさえ
シュレーダー政権で与党になるとそれらを主張しなくなり、核配備・共有政策を認めたこ
とが端的に示すように、野党としてそれらを主張することは容易でも与党としてそれらを
具体的に目指すことは難しい。ただし SPD は第一次メルケル政権では与党として核撤去を
主張したものの、第三次メルケル政権では与党としてそれを積極的に主張しなくなってい
る。そのように、野党としては核撤去・共有放棄を積極的に主張している諸政党でさえ、
与党になればそれらを主張しなくなり、核配備・共有政策を認めるという機会主義的な態
度が今後も取られる可能性は否定できない。
(一一)核撤去・共有放棄を阻む根本的な理由は、核配備・共有政策が NATO の戦略と
して堅持され、それらを特にアメリカが重視しているからである。そのため、ドイツ一国
19
だけのイニシアティブでそれらを変更することはほぼ不可能である。また、左翼党以外の
諸政党は核撤去を、米ロ間の非戦略レベル核軍縮交渉を通じて実現することを目指すとい
う立場を取っているが、それが開始される見込みは乏しい。更にアメリカが、より多くの
戦術核を保有・配備しているロシアによる、戦術核の大幅な削減がなければ欧州配備核を
削減しないという立場を取っていることや、ロシアによるそのような動きが見られないこ
とも核撤去を非常に難しくさせている。
(一二)最近の傾向として、核撤去・共有放棄論の影響力は二〇一〇年にピークに達し
た後、徐々に弱まっており、それらを難しくさせる新たな諸問題も生じている。すなわち
欧州配備核の耐用年数延長を柱とする近代化計画やトーネードの配備延長、そしてウクラ
イナ危機によるロシアと NATO との関係悪化である。そのような関係悪化は、米ロ間の非
戦略レベル核軍縮交渉によるドイツからの核撤去を更に難しくさせることが予想される。
ただし核撤去・共有放棄論は一定の影響力を保っており、それらを強める可能性を有し
た新たな動向も見られる。すなわち、NPT 再検討会議等の様々な国際会議では、核が使用
された場合の破滅的な結果を人道規範の観点から問題視し、それを理由に核廃絶を主張す
る新たな動きが生じているが、この動きにドイツ国内では特に緑の党が呼応して、人道規
範の観点からも核撤去・共有放棄を主張するようになっている。そのように人道規範が核
撤去・共有放棄論に新たなモーメンタムを与えつつある。
最後に、以下の考察で本稿を締めくくりたい。確かに、ドイツに配備されている核の数
は冷戦期に比べると非常に少なくなっているが、それらを軽視して良い訳ではなく、核は
一つでも絶大な破壊力と意義を有することに改めて注意する必要があるであろう。そして
ドイツ自身による核開発・核保有の可能性は非常に低いとしても45、特に CDU/CSU が、
核共有政策という限定された形態とはいえ連邦軍による核武装の可能性を保持することを
重視し、それに執着している面があることは否めない。そのようにドイツは現在でも核か
ら無縁な訳ではなく、これについてどうするのか、今後も注視し続ける必要がある。
20
ドイツにおける核配備・共有政策の歴史については、Christoph Hoppe, Zwischen
Teilhabe und Mitsprache: Die Nuklearfrage in der Allianzpolitik Deutschlands
1959-1966, Baden-Baden, Nomos, 1993; Detlef Bald, Die Atombewaffung der
Bundeswehr: Militär, Öffentlichkeit und Politik in der Ära Adenauer, Bremen, Edition
Temmen, 1994; Christian Tuschhoff, Deutschland, Kernwaffen und die NATO
1949-1967: zum Zusammenhalt von und friedlichem Wandel in Bündnissen,
1
Baden-Baden, Nomos, 2002. 配備された核の数の推計(八三年)については、Deutscher
Bundestag (DB), Drucksache 10/142, “Große Anfrage,” 13.6.1983, S. 1.
2 “Clearing a Cold War Arsenal: No More Nuclear Weapons at Ramstein,” Spiegel
Online,
10.7.2013,
〈 http://www.spiegel.de/international/germany/clearing-a-cold-war-arsenal-no-more-n
uclear-weapons-at-ramstein-a-493540.html〉(最終閲覧日:二〇一五年一〇月一二日);
“US-Atombomben in Deutschland: Nuklearwaffen werden nicht abgezogen, sondern
modernisiert,”
Tages
Spiegel,
23.7.2014,
〈 www.tagesspiegel.de/politik/us-atombomben-in-deutschland-nuklearwaffen-werdennicht-abgezogen-sondern-modernisiert/10236788.html〉(最終閲覧日:二〇一五年一〇
月一二日).
3
Henning Köhler, Adenauer: eine politische Biographie, Frankfurt am Main,
Propyläen, 1994, S. 987-990; Hartmut Soell, Helmut Schmidt: Vernunft und
Leidenschaft, München, DVA, 2003, S. 291-302.
4
ヨーロッパにおける核兵器運搬手段の全廃を目指すべきことは主張している。
5
核共有放棄を明確に主張している訳ではないが、ドイツを含む中東欧地域の完全な非核
地帯化を主張しているため、核共有放棄も実質的に主張していると解釈できる。
6 非核保有国への核配備や核共有政策を認めるか否かは NPT 作成交渉で最大の争点とな
った問題の一つだが、結局、それらは認められた(それらを明確な文言で許容している訳
ではないが、それらを禁止する内容とはなっていないため、認める内容となっている)。
7
DB, Drucksache 12/5212, “Beschlußempfehlung und Bericht des Auswärtigen
Ausschusses,” 21.6.1993.
8 DB, Plenarprotokoll, 7.11.1991, S. 4460-4461.
9
Ibid., S. 4462, 4464-4465.
10
PDS は九五年二月九日の動議では欧州全域の非核地帯化も主張し、九七年六月一〇日
の動議ではドイツを含む中東欧地域の非核地帯化も主張した。また九五年二月九日の動議
では、同年の NPT 再検討会議の成功を導くことに貢献するためにも核撤去・共有放棄を
目指さねばならないと主張した。
11
Hermann Theisen, “Die nukleare Teilhabe Deutschlands und das Völkerrecht:
Befragung
der
Bundestagsabgeordneten
zum
Thema
Atomwaffen,”
〈http://www.ag-friedensforschung.de/themen/Atomwaffen/umfrage-bt.html〉
(最終閲覧
日:二〇一五年一〇月一二日). 以下、AG 平和研究所による質問に対する議員達の返答
は全てこの註で記した記事から引用。
12
政党支持別に見ると、FDP、SPD、緑の党の支持者のそれぞれ六六、八二、九〇パーセ
ントが核撤去に賛成した(反対は、それぞれ二九、一五、五パーセント)。なお CDU/CSU
の 支 持 者 で さ え 七 三 パ ー セ ン ト が 核 撤 去 に 賛 成 し た ( 反 対 は 二 四 パ ー セ ン ト )。
“Nachgefragt: Waffenabzug,” Der Spiegel, Heft 18,2.5.2005, S. 19.
13
例えば九五年には、NPT の無条件・無期限延長を主張した、CDU/CSU、FDP 及び SPD
による共同動議が連邦議会で提出され、採択されていた。 DB, Drucksache 13/398,
“Antrag,” 8.2.1995.
14 DB, Drucksache 15/5254, “Antrag,” 13.4.2005; Ibid., Plenarprotokoll, S. 15856.
15
“Nato Struck möchte US-Atomwaffen loswerden,” Stern, 6.5.2005,
〈 http://www.stern.de/politik/deutschland/nato-struck-moechte-us-atomwaffen-loswerd
21
en-540061.html〉
(最終閲覧日:二〇一五年一〇月一二日).
16 核共有放棄に関しては、連邦軍の航空機・パイロットによる核発射(の準備態勢)の禁
止を主張。
17
核共有放棄に関しては、既存の戦闘爆撃機部隊による核の役割の終了、新たな核兵器発
射可能兵器の調達禁止を主張。
18 DB, Plenarprotokoll, 18.1.2008, S. 14474- 14477.
19
例えばホーフ(Elke Hoff)は連邦議会(二〇〇六年三月一〇日)で次のように主張し
た。「ドイツに配備されている戦術核は冷戦の遺物であり二一世紀の安全保障政策のため
に戦略的な役割を全く果たしていない」
。Ibid., Plenarprotokoll, 10.3.2006, S. 1803-1804.
20
“ SPD-Außenpolitiker: USA sollen Atomwaffen abziehen,” Stern, 13.7.2007;
“Sicherheitsmängel: Politiker fordern Abzug aller US-Atomwaffen,” Stern, 23.6.2008;
“Relikte des Kalten Krieges,” Frankfurter Allgemeine Zeitung (FAZ), 23.6.2008; DB,
Plenarprotokoll, 18.1.2008, S. 14469-14470.
21
上記のとおり、二〇〇五年には SPD と緑の党が非戦略レベル核軍縮を目指す方針を示
したが、ドイツからの核撤去それ自体を明確に主張した訳ではなかった。
22 Ibid., Plenarprotokoll, 10.3.2006, S. 1802, 1804.
23
Wolfgang Kötter,
“Ein atomwaffenfreies Deutschland ?: Der Abzug der
US-amerikanischen Nuklearwaffen könnte ein Schritt zur atomwaffenfreien Welt sein,”
11.4.2009, 〈 http://www.ag-friedensforschung.de/themen/Atomwaffen/obama6.html 〉
( 最 終 閲 覧 日 : 二 〇 一 五 年 一 〇 月 一 二 日 ) ; DB, Plenarprotokoll, 24.4.2009, S.
23734-23755.
24 Koalitionsvertrag zwischen CDU, CSU und FDP, 26.10.2009, S. 120.
25
“Amerikanische Atomwaffen aus Deutschland abziehen,” FAZ, 4.25.2005;
“Anstrittbesuch in USA: Westerwelle wirbt für Abrüstung,” Stern, 5.11.2009.
26
核共有放棄を明確に主張している訳ではないが、トーネードの配備延長に反対している。
27
核共有放棄を明確に主張している訳ではないが、連邦軍の兵士や兵器による核兵器発射
の禁止、核兵器発射可能兵器の近代化の禁止を主張している。
28
核共有放棄を明確に主張している訳ではないが、核兵器発射可能兵器の耐用年数延長や
近代化等の禁止、それらを目的とした予算支出の禁止を主張している。
29
その理由として推察される事情を下記の註 30 で説明する。
30
この共同動議の内容の多くは SPD が二〇〇九年一二月五日に提出した動議の内容を踏
襲している。そして SPD は動議を撤回していたが、自らの動議の内容の多くを踏襲した
共同動議の内容に満足し、超党派間の合意形成をより重視したからこそ、自らの動議を撤
回したと推察される。ただし SPD の動議では核共有放棄も主張されていたが、共同動議
では主張されなかったという違いがあり、この点では SPD が譲歩した形跡をうかがえる。
31
“Umstrittener Abrüstungsplan: USA und Nato düpieren Westerwelle,” Spiegel
Online,
22.4.2010,
〈http://www.spiegel.de/politik/ausland/umstrittener-abruestungsplan-usa-und-nato-du
epieren-westerwelle-a-690703.html〉
(最終閲覧日:二〇一五年一〇月一二日).
32
“Strategic Concept For the Defence and Security of the Members of the North
Atlantic Treaty Organization”
33
この計画では既存の B 六一‐一〇型核弾頭が B 六一‐一二型に換装されるが、これに
よって耐用年数だけではなく命中精度等も大幅に向上するため、核兵器としての全般的な
性能が大幅に向上すると見られている。つまりアメリカは欧州配備核を大幅に強化しよう
としており、これがロシアを刺激することで米ロ間の戦術核軍縮交渉が更に難しくなる可
能 性 も 指 摘 さ れ て い る 。 “Modernisierung von Kernwaffen: Kostenexplosion bei
US-Atombomben,”
Spiegel
Online,
16.5.2012,
〈 http://www.spiegel.de/wissenschaft/technik/modernisierung-der-b61-atombombe-wir
22
d-immer-teurer-a-832886.html〉
(最終閲覧日:二〇一五年一〇月一二日)
。
DB, Drucksache 17/2639, “Antwort der Budesregierung,” 20.7.2010, S. 4. その後、
SPD からの大質問(二〇一一年九月二八日)への 回答(二〇一二年二月二九日)等でも
同様の方針が示された。 Ibid., Drucksache 17/8843, “Antwort der Budesregierung,”
29.2.2012, S. 36.
35 DB, Drucksache 17/1512, “Antwort der Budesregierung,” 23.4.2010.
36
この計画はアメリカが一国だけで決め得ることで NATO による協議事項の対象外であ
るという立場を示し続けている。例えば、 Ibid., Drucksache 17/11956, “Antwort der
Budesregierung,” 20.12.2012, S. 2.
37 Ibid., Drucksache 17/14457, “Antwort der Budesregierung,” 30.12.2013, S. 3-4.
38 Ibid., Drucksache 17/2639, “Antwort der Budesregierung,” 20.7.2010, S. 5; Ibid.,
Plenarprotokoll, 11.11.2010, S. 7609.
39
緑の党は二〇一二年一一月二九日に提出した小質問でも僅かながら、核の使用結果に関
する人道規範上の問題に触れていた。
40 Koalitionsvertrag zwischen CDU, CSU und SPD, 17.11.2013, S. 118.
41 “Debatte um Militäraktionen: Gaucks außenpolitische Haltung sorgt für Kritik,”
Stern,
17.6.2014,
〈 http://www.stern.de/politik/deutschland/debatte-um-militaeraktionen-gaucks-aussen
politische-haltung-sorgt-fuer-kritik-2117721.html〉
(最終閲覧日:二〇一五年一〇月一二
日).
42 DB, Plenarprotokoll, 26.3.2015, S. 9281
43
ただし党派間対立のため、ある野党が提出した動議に他の野党が賛成するとは限らず、
反対することも少なくないように、野党間の足並みが常に揃っているとは言い難い。それ
は、核撤去・共有放棄論の影響力強化を阻む一因になっている。
44
あるいは、票決がなかった場合でも不採択という結果に終わっている。
45
ドイツは NPT 体制を尊重しているだけではなく、脱原発がもし完遂されれば、NPT 加
34
盟後も保持していたと考えられている潜在的な核開発能力を失う可能性も生じている。そ
のため、ドイツ自身が核開発を行うことで核保有国となる可能性は技術的にも非常に低く
なりつつある。ドイツ(西独)が NPT 加盟後も核開発能力を保持していたと主張する代
表 的 な 研 究 と し て 、 Matthias Küntzel, Bonn und die Bombe: Deutsche
Atomwaffenpolitik von Adenauer bis Brandt, Frankfurt a.M., Campus Verlag, 1992. 最
近の研究として、Stephan Geier, Schwellenmacht: Bonns heimliche Atomdiplomatie von
Adenauer bis Schmidt, Paderborn, Ferdinand Schöningh, 2013.
23
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