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熱 ― ― 家康の思わく ― ― 石丁場遺跡の調査と今後

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熱 ― ― 家康の思わく ― ― 石丁場遺跡の調査と今後
石材は江戸城がつくられてからも
運び出され、寛文の頃(一六六五年
前後)には毎年5・6万個もの石材
が多賀、網代から江戸へ売り出され
たといいます。
こうして大名たちによる伊豆石の
切り出しは熱海に採石販売という新
たな産業を興すきっかけとなり、ま
たその結果、熱海と江戸は一層強く
結びつくことにもなっていきました。
― 熱 海に残る大名たちの足跡 ― 熱海市内の石丁場遺跡には、羽柴・
京極・有馬・浅野といった大名の名
前などが刻まれた刻印が多く見られ、
その残された年号や姓から、大名た
ちが市内各地に江戸城の石垣に使う
石材を確保していたことが分かりま
す。これらの石はそうした歴史を語
る証拠として非常に重要です。また、
― 家 康の思わく ― 広島城主福島正則は、多賀の石丁
場に家来300人を送り込み、網代
では熊本城主加藤忠広が600人以
上を集めて石材の切り出しをしてい
ました。切り出した石を積む船は三
千艘にも達し、それが月に二度江戸
との間を往復しました。天下普請に
て初めて石切の仕事を進めることが
できました。江戸城の築城は、日本
最大の城郭をつくることによってそ
の権威を天下に知らしめるとともに、
家康にとって、その地位を狙う大名
たちを疲弊させ、勢力をなくす絶好
の機会でもありました。
行いました。採石の道具をつくる鍛
冶遺構や新たな刻印の発見などの成
果があり、その成果を来春には報告
いし ば
あずかり
書にて公表する予定です。
伊豆各地の石丁場は村の有力者が
「石場預 」を大名家より任命され、幕
末まで江戸城の普請再開に対応でき
るように管理していたと言われてい
ます。石丁場遺跡は私たちの先祖が
拝命して200年以上の間、大切に
守ってきた歴史でもあります。そし
て特別史跡(国宝)である江戸城と
ともに日本の歴史・文化を考えるう
えで欠くことができない存在でもあ
ります。熱海に残された貴重な宝物
を未来に伝えるため、市民の皆さん
の積極的なご協力をお願いします。
― 熱 海の主な石丁場遺跡 ― 中張窪・瘤木石丁場(多賀地区)
和田木南ヶ洞石丁場(多賀地区)
伊豆山礼拝堂石丁場( 伊豆山地区)
稲村石丁場( 伊豆山地区)
網代朝日山石丁場(網代地区)
参考図書
『熱海風土記』
『熱海〈十一訂版〉』
☎(
)6573
『伊東市史だより第7号』
初島石丁場(初島地区)
文化庁や静岡県の指導、支援を受
け、伊東市や東伊豆町の近隣の市町
― 石 丁場遺跡の調査と今後 ― よる大名たちの負担は大変なもので、
猛将として知られる正則が加藤清正
に 弱 音 を 吐 い た こ と が『徳 川 実 記』
に よって 伝 え ら れ て い ま す。ま た、
問い合わせ
生涯学習課
社会教育室
伊豆石も使われた江戸城跡内の天守台
と協力して、国の重要文化財への指
定を目指して石丁場遺跡の調査を
行っています。石丁場遺跡の場所や
範囲を確認するための分布作業を続
けており、一部で測量や発掘調査を
86
86-6000 です。おかけ間違いのないようにお願いいたします。
市役所の代表電話番号は
3
網代朝日山石丁場で発見された刻印
その加藤清正が力を貸してほしいと
の手紙を網代の岡本弥一郎あてに出
しています。
万石の大名の加藤氏も、弥一郎
のような地元の有力者の協力があっ
52
慶長という年号が確認できるのは熱
海市内だけです。
伊豆山礼拝堂石丁場で発見された
刻印「羽柴丹後守 慶長九年」
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