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「安息日の主」 ルカ6

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「安息日の主」 ルカ6
2016 年 7 月 31 日
皆さん
礼拝
聖書
ルカ 6:1 - 11
お早うございます。お元気でいらっしゃいますか。
二週間前の午前の祈祷会の後のこと。教会に二人のご夫妻が尋ねてこられました。
これよし少し前に、迷子の猫を探してくださいというチラシが教会のポストに入っていた
ので、これは私たちも協力しようと、近隣の方々にも探してもらいたいと教会の掲示板に
もはっていました。
ご夫妻は迷子になってから三週間になるけれどもまだ見つからないということで、教会
の看板にはってくれた御礼のことばと、継続して探して欲しいという依頼でした。
教会内の掲示板にもはり、何にもの方がチラシを持っていってくださいました。
私たちの家にも猫がいますので、猫が迷子になったということは他人事ではありません。
そして主に、猫が見つかりますようにとお祈りしていました。
先週何と猫が見つかったんですって。一ヶ月ぶりです!
K さんという飼い主さんからメールがありました。
住んでおられるマンションの裏の倉庫の下にいたそうです。どうして見つかったかとい
うと、ある方が夜、犬の散歩をしておられて、犬が吠え、倉庫の下に行こうとしたのでし
ょう。何だろうと、懐中電灯で照らしたら、猫の目が光っていた・・・そこで、すぐに K
さんに連絡が行って、捕獲機を使ってご主人のところに戻ったのです。帰ってきて落ち着
いたら、とても甘えん坊になったそうです。きっと怖いことがあったのでしょうね。
このことから二つのことを神様から教えていただきました。
夜散歩していた人が、犬が急に吠えたことで、「あれれ」と思って立ち止まったことの
大切さ。
私たちは聖書を読んでいて、なぜなんだろう、どうしてなんだろう。と思うとき、「あ
れれ」と思う時があります。その時ってとても大切なんですね。なぜなんだろう。あれれ。
と思う時こそ、立ち止まって、考え考えることによって、神様が聖書を通して語ろうとし
ておられる真理を知ることができるようですよ。
もう一つは、失われていた羊が見つかった時のこと。イエス様のたとえのことですが、
ル人が 100 匹の羊を飼っていて、一匹の羊がいなくなってしまった。羊飼いは 99 匹を安
全なところにおいて、一匹を探し求める。そしてやっと見つけると、もう歩けなくなって
いる羊を肩に担いで、喜びながら帰って来て、戻ると近所の人たちに、いなくなっていた
羊が見つかったら喜んでくださいと言った。そのたとえを思い出し。神様から離れている
人を神様が探してくださっていることと、見つかるときに神様は喜んでくださるというこ
とを思いめぐらしていました。
○
今日最初に三つのことを話します。
1、ある安息日の出来事…空腹
2、別の安息日の出来事・・癒し
3、あなたの心にキリストが・・・安息、平安
1,ある安息日の出来事…空腹
イエス様の弟子達がなんと知らない人の麦畑に入って、麦の穂を積んでいたこと
-1-
が記されています。この時のことを見てみましょう。
あるパリサイ人が「それはいけない」と言いました。
私たちは大阪の堺に 6 年、山口の徳山に 5 年間おりました。子ども達はその地方
の方言を話していました。東京に来るときには、徳山の方言を話していました。
たとえば、「それはいけない」と言うときに、大阪だったら、「アカン」といい
ます。分かりやすいですね、徳山では「そんなことをしたら、いけんのんよ」と
いいます。ほっこりした言い方ですね。
パリサイ人は、弟子達に「そんなことをしたら、いけんのんよ」とゆっくりとほ
っこりいっているのではなくて、ちょっとけんか腰に「あなたがたは、安息日に
してはいならないことをするのですか」と言っています。
何を怒っているのでしょうか。
他人の麦畑に入って、勝手に穂を積んで、籾を手で揉んで、フーと吹いて、残っ
た麦を口の中に入れていることを想像してください。
私たちだったら、他人の麦を勝手に取っている。これは盗んでいるのとおなじだ
からいけない、と普通は考えるでしょう。
ですから、曜日は関係ありません。安息日であろうと、月曜日であろうと関係あ
りません。
毎年、悲しい事件が起こります。それは、明日はいよいよ収穫というときに、も
もとかりんごとか、スイカ,サクランボを泥棒が夜来てごっそりとっていってし
まうのです。
ごっそりとるのも、1 個とるのも変わりません。いけないことですね。
ですから、私たちの感覚だと他人の麦畑の麦を勝手に取ったから、あのパリサイ
人は怒っているのかと思うでしょう。
ところが「安息日にしてはならないことをしている」といっています。
ここで、犬の散歩の人ではありませんが、「あれれ」が来るわけです。
月曜日に、同じ事がおこったら、あのパリサイ人は怒ったでしょうか。怒らなか
ったでしょうか。皆さんどう思います?答えは「怒らない」のです。
ということは、他人の麦畑に入って、穂を積むことを責めているのでは無いとい
うことが分かりますが、では一体何に怒っていると言っているでしょか。それが
分かりませんと、私たちは聖書の意味が分かりません。
ここで安息日ということについて見てみましょう。
安息日
創世記1
一日
神様が 7 日で天地万物を作られた。
ヘブル語でヨームといいます。24 時間のことも言いますし、ある期間
のことも言います。
「光よあれ」とことばを発せられると、見よその通りになった。
ことばによってことがなる。神様の偉大さが記されています。
始めに神が天と地を造られた。
一日が終わると
良かった
6 日目には人間の祖であるアダムも造られ、すべてのものが完成し、はなはだ
-2-
良かったと書かれています。
そして 7 日目を
休まれ、安息日としてくださった。
この日は聖なる日です。
そして神様は聖なる方です。
安息日を大切にすることによって、聖なる方がおられることを覚える
そしてこの安息日を通して、私たち自身が休む日とする。
日本でも一週間は 7 日です。日曜日に休み、一週間が始まります。
ユダヤ教では金曜日の日没から、土曜日の朝までが安息日です。
伝統的な教会はイエス様がよみがえられた日曜日を安息日としています。
この安息日は
1,聖なる日
2,聖なる方を思う日、礼拝する日
3,私たちの休みの体、心、魂を休ませる安息の日です。
・出エジプト記 20 章には
10の教えが書かれています。その中に安息日を覚えて、これを聖としなさ
い。と書かれてあります。それ以前から安息日があったのですが、これを覚え
て聖としなさい。この教えはとても大切なものです。そして神様はモーセを通
して、創世記も残して下さっていますが、なぜ安息日があるのかの紀元が、天
地創造に遡るということが分かります。
神様は聖なる方で、私たちも聖なるものに変えられます。
この聖なる方のもとに私たちがいるときに、私たちは幸いを受けることができ
ます。ところが私たちは、聖なるものとそうでないものをごちゃごちゃにしや
すいものなのですね。ごちゃごちゃになると、聖い神様が分からなくなってし
まうようですよ。
ですから、安息日を覚えて、聖なる日としなさい。と神様は教えてくださって
いるのです。
安息日は聖なる日なので、労働をしてはいけない。と10の教えに記されてい
ます。
当時のパリサイ人、律法学者は
安息日に歩いて良い距離
書いて良い手紙の文字数と言うのを決めていまし
た。
今でも、エルサレムのホテル
安息日
エレベーター二種類あります。
一つは異邦人用、一つはユダヤ人用
ボタンを押すということが労働
家庭では、金曜日の夕方までにおそうじ、料理は終
-3-
*1
わっています。ちょっとした大みそかのようなとき。
男子は正装してシナゴーグ、女性もそれに続く
帰ってきたら食事。・・・・・
皆さん、他人の畑に入って穂から少し実を取って、それを揉んで種
だけにして食べる。イエス様のお弟子さんたちは本当にお腹が空いていたので
しょう。普通はお腹がすいていても、他人の畑に勝手に入っていって、穂から
少し実を取るということはいけないことですよね。教会学校の子ども達が、お
腹が空いているからと言って、麦畑に入ってそんなことをしたら、きっと私は
「だめだめ、そんなことしては」と言うでしょうね。
申命記 23:25 を見てみましょう。
隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、
隣人の麦畑でかまを使ってはならない。
申命記 24:19 - 21
24:19
あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れた
ときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みな
しご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、【主】が、あ
なたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
24:20 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を
打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものと
しなければならない。
24:21 ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み
取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものと
しなければならない。
レビ 19:9 - 10
19:9
あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈って
はならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。
*1http://japan-israel-friendship.or.jp/essay/israeldays/388/
金曜日になると何となく空気がざわめく。安息日前の準備に走り回るからだ。一昔前の日
本の大晦日を想像してほしい。それの小型版だ。安息日は金曜日の夕方から始まる。だか
ら、金曜日の午後になると店が閉まり始まる。ユダヤ教と関係ない人間も、用事と買い物
はそれまでに済ませておかねばならない。スーパーは人でごった返し、町中はどこも交通
渋滞になってしまう。ユダヤ教の熱心な人々は、安息日に入るまでに料理も掃除も片づけ
も、何もかもし終わらねばならいので、なお忙しい。
安息日は一切の労働を休む日だ。会社、商店、娯楽場などはもちろん、公共の交通機関も
止まってしまう。宿題もないし、家に仕事を持ち帰ることもない。人間らしく過ごせる非
日常の一日、天下御免の誰も働かない日というのは、非ユダヤ教的人間にとっても実に気
持ちがいい。それは、家族団らん、親しい友人たちと語らう一日でもある。
-4-
19:10
またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたの
ぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のため
に、それらを残しておかなければならない。
旧約聖書の律法からすると、旅人であり、空腹のイエス様のお弟子さんたちが
他人の麦畑に入って行って、少し失敬するというのは、許可されているのです。
貧しい者、やもめ、孤児、外国人の寄留者は、他人の畑に入って、穂を積ん
で、食の足しにしても良いとかかれてありますが、ただ、鎌をもって買っては
いけないと書かれているのです。畑を収穫するときも、葡萄を収穫するときも、
全部きれいにとるのではなく、すこし残しておくようにと書かれてあるのです。
ルツ記をみると、やもめになったルツが収穫のときに、ボアズの畑にはいっ
て、落ち穂を拾うというのがありますが、律法によると、他人の畑に入って、
おこぼれを集めることは、ルツのようなやもめは赦されていたことなのです。
今から 3000 年近く前に、聖書にそのような憐れみが書かれてあることは驚き
ですね。
あのパリサイ人が怒ったのは、安息日に労働したということに対して怒って
いたと言うことです。
・イエス様の返答
ひもじかったダビデが祭司しか食べてはならないパンをもらい部下たち
と食べたこと。神様の憐れみの豊かさが理解できますね。
しかも、イエス様のお弟子さんたちは、祭司たちのように神の働きの為に労し
ています。そのものが報酬を得ることは当然、安息日に穂を積んで食べる事も
許される行為。
皆さん、イエス様の弟子たちは食べ物がない中で、律法に許されているよう
に、他人の麦畑に入って、手で穂を摘んで、もみをもんで、実だけにして、口
の中に入れたのでした。それはほんのわずかなものです。
パリサイ人たちは、貧しくて、空腹だったイエス様の弟子達を観察はしてい
ますが、食べ物をどこかで提供することはしませんでした。
憐れみのこころではなく、ただ裁く心しかありません。
皆さん、そのような心は決して他人事ではありません。
愛なく人を裁き、陰口を言い、批判し、あげつろうこと、そのようなことは
条件が揃うとしてしまう可能性がある、それほど人間は弱いのです。ですから
神様に守っていただくことが必要なのです。神様からの愛、憐れみ、聖さが必
要なのです。そして安息日毎に、礼拝の場に集い、魂を整えていただき、聖な
る方のように、心を聖くしていただき、神様から愛、憐れみに生きる者と私た
ちを変えていただくのです。安息日は何と幸いな日でしょうか。
2、別の安息日の出来事
会堂で手のなえた方に声をかけ、癒やしてくださる行為
これも安息日でなかったらパリサイ人は怒らなかった。
-5-
聖書に、医療行為を安息日にしてはいけないとは書いていない、しかし、パリサイ
人は完全に休まなければいけないから医療行為は労働に当たると信じていた。でも、
自分の羊が井戸に落ちたら、それを助ける。そのことは不問だったようです。
ですから、安息日に主が声をかけ前に立たせて、ことばによっていやされた時に、
医療行為をしたその日が安息日だったので、安息日を汚すこと、神様への冒涜だと
思っていたのです。神様が喜ばれないことをいている。それは、
「いけんのんよ!」
と目くじらを立てていた。
「ちょっとまってください。目の前に真の神様がおられ、その方が癒されたこと、善
しとされたことを否定するのですか、それこそ神様を否定し、神様を悲しまれるこ
とではないですか。ということになる。」そういうことが分からなかったのです。
神様は、イエス様はあわれみ豊かな方、
・ここにいたパリサイ人の手のなえた人に対する憐れみの心はどのくらいでしょうか。
限りなく零に近い、
心の空しい人々
・手のなえていた人は、いつもと同じように礼拝の為に会堂にきていた
そんな時に主が入って来られ、御言を語られた。
イエス様の方から近づいてくださった。
・主はその方を癒やそうとされた
パリサイ人にとって
その方が癒やされたら
訴える口実
何かあったら引きずり降ろしてやろうという思い
8節
良く知っていた。
みことばで
主はパリサイ人たちのこころをご存知
癒やしてくださった。
先の安息日では
人の子(イエス様)は安息日の主
この安息日では
ことばによって癒やし
(天地創造を思い出すでしょう。主イエス様は父なる神様の傍らで
天地万物を造られた。コロサイ書
参照)
・あえて、その方に「手を伸ばしなさい」と仰った。
彼の信仰がためされる。どちらの手を差しだしたでしょうか。
健常な方でしょうか。いいえ
なえた方の手でしょう。彼には主が
直してくださるという信仰がありました。
3,あなたのこころにキリストが
神様は私たちのこころを造り変えてくださり、安息、平安を与えて下さる方です。
讃美歌の 45 に
輝く日を仰ぐ時
という讃美があります。
4 節に「人をも造り変えて」と書いてあります。
45
輝く日を仰ぐ時
一、輝く日を仰ぐ時
雷
鳴り渡る時
月星眺むる時
真の御神を思う
-6-
(折り返し)
我が魂いざ称えよ
大いなる御神を
我が魂いざ称えよ
大いなる御神を
二、森にて鳥の音を聞き
谷間の流れの声に
そびゆる山に登り
真の御神を思う
三、御神は世人を愛し
独りの御子を下し
世人の救いのために
四、天地造りし神は
正しく潔き魂
十字架にかからせたり
人をも造り変えて
持つ身とならしめたもう
五、間もなく主イエスは来たり
如何なる喜びの日ぞ
人の心、
我らを迎えたまわん
如何なる栄えの日ぞ
あのパリサイ人の心
ねたみ、憐れみよりも、自分の基準の枠で判断
目の中の梁に気づかずに、人の目のごみを取ろうとするこころにも共通するもの
罪・・・心の中に平安が無い。
とても惨めですね。
私は 19 歳のときに初めて教会に行きました。自死をしようとしていた矢先のことで
す。駅の看板に「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。イエス・キリスト」
と書いてあり、何とも言えない安らぎを感じたのです。
教会に行き、聖書を読みお祈りを教えていただくようになってから、真っ暗な心の中
に神様の優しい光が入ってきました。そして私のこころにある自己中心、汚れが分かって
来ました。そしてイエス様が、わたしのような心が汚れている、その惨めな者の罪を十字
架に架けてくださったということを知りました。
Ⅱコリント5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いも
のは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
私はイエス様の招きに応じ、イエス様を信じました。
人をも造り変えてくださると書いてあるように、私は新しく造り変えられたのです。
憐れみの心
そこにはキリストの平安のある心
イエス様が私のために十字架に!喜び、感謝
そして、イエス様がおられるから大丈夫、人生は大丈夫。そう思えるようになりまし
た。
讃美歌に
我が生涯あらたまりぬ
と言うものがありますが、神様は私も変えてくだ
さり、心の中に神様の安息、平安を与えてくだっています。
皆さん、安息日の主は、私たちの心に、安息、平安を与えようとしてくださってい
ます。
〇
安息日の主は、私たちの救い主
まことの神です。
-7-
私たちは、安息日に教会に来られたことは感謝なことです。今日来られなかった方々
へのとりなしのお祈りをしましょう。
これから 7 日間すごします。林聖もあります。イエス様のそばで御言を聴いたまりや
のように、御言を聴きましょう。
Y 兄という方がいました。彼は老人ホームに入っておられ、日曜日に礼拝にくるのを
楽しみにしておられました。
日曜日を目標にして、体調を整え、礼拝で神様の御前に行きたいという思いをもって
おられた。そのような思いを私たちの信仰の先輩は持っておられたのです。私たちもその
ような思いを持ちたいですね。
私は学生時代、土曜日の夜、何かわくわくしていた。次の日は礼拝。教会に行き、神
様を讃美でいる楽しみでした。また、あるときはいろいろなことがあって、心が重い時も、
とにかく礼拝にゆき神様に重荷を下ろし、神様と心を一つにしたいと思っておりました。
この時代、安息日をあまりにも軽く見てしまう傾向、流れがありませんか。
その傾向、流れに流されることなく、安息日に神の御前に行き、魂をととのえ、安ら
ぎを得、安息日の主をいつも見上げて行こうではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者である、イエスからいつも目を離さないでいなさい。
ヘブル12
5 節を一緒に言いましょう。
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
-8-
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