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エックハルトのeigenschaftの概念
エックハルトのeigenschaftの概念 松 エックハルト) 1 は, 用 いている. 田 美 佳 ドイツ語説教の説教ーと説教二 の中で e igens cha t f という語を ドイツ語著作集の編集者 クヴィント(J o se Q f u intlは, この e igenscha t f - Bindung(自我への結びつき), という中高ドイツ語をI ch あるいは I chgebunden heit (自 我に縛られていること) という現代ドイツ語に訳している. クヴィγトのこの訳 語は, 現在の エッグハルト研究 者 によって広 く受け入れられており, この訳語を通し て, eigenscha t f の概念はエックハルトを解釈するための 一 つの重要概念と なってい る. しかしながら, 本論では, クヴィントとは異なる 解釈のもとで, 新しい 訳語を提 唱したいと思う. 第一章 まず, レクサーによるeigenschaftの語義 中高ド イツ 語の辞典 M. Lexer: M itt elho chdeut s ches Handw ört erbuch . Leip z ig 1872-78 (通称, 大レクサー) によって eigens cha t f の語義を確認しておこ う. e igens cha t f とい う 単語は, きている. 大レクサーによると. 般的な 意味 で, e igen とし、う 単語は. 形容詞 としては, 第一に, 一 w as gehabt w ird (持たれる もの) を 意味する. 第二に, 歴史的な 意 味 で, vrîの反対語として, leibeigen とは, í農奴の, の中 で. e igen という形容詞と . s cha t f とい う 接尾辞とからで 現代ドイツ語での h 凸 rig や leibeigen を 意味 す る. 隷農の」とい う意味 である. こ の 形容詞 は, 中世の農奴制 主 人に農奴として人格的・経済的に依存してい る こと を 意味する. h 凸 rig とは, í 隷属してい る 」という意味 である. この形容詞 には. れた). ab häng ig ( 依存している) とし、う派生的な 意味 もあ る が. 他方, gebunden (縛ら leibeigen と同じ ように, 歴史的な意味 がその原義であり, 領主に授 けられた土地に縛られていること を 意味する. とすると. h 凸 rig や l e ibeigen に対する反対語としてあげられる vrî エヅケハルトのeig ens chaf 慨 tの念 とい う形容詞は, r自由の 身である, 107 自由民 の」と い う 意味 に な る. そし て, eig en とし、う形容詞 は, r隷属の」とい う意味 になる. 以上 の 意味をもっeig en とL、 う形容詞 に . s cha ftとし、 う 接尾辞 がつけられたのが, e gi enscha ft という 単語である. . s cha ft とL、 う 接尾辞2) は, 現代ドイ ツ語にもある が, 中高ドイツ語では, 第一 に, Z us tand(状態 ), Bes cha ffen hei(t 性 質 ), V erhal ten (態 度 ) という意味の 抽象 名詞をつくるときに用いられる. 第二に, るときにも用 いられる. ある. たとえば, Ri tters cha ft( 騎士団, 集合名詞 をつく 騎士階級 ) などが そ うで eig ens cha ft とL、 う 単語では, . s cha ft という 接尾辞 は, 第一 の 意味 で用いら れている. 以上 を 前置 きとして, 大レ クサーがあげる eig enscha ft の 意味を 以下 に 見てみ よ う. ( a) l êhen ( 封土, 封土 として与 えられた もの) に 対 し て, E ig en tum ( 財産, 所有 ) やBesi tz ( 財産. 所有物 ) を 意味する. 物 (b) E ig en tümli ch k ei t( 独自性. 特質 . 特徴 ) を 意味する. それは. 何 ら か の人・ 事物が所有する ものである. () c E ig ensinn ( 強情, わがまま) を 意味 する. (d ) Un rfei hei t(自由 で ない こと, 隷属), L eib eig enscha ft( 隷農 の 身分, 隷農 性) を意味する. (e ) g enaueNa chri ch tüb er e twas ( 何かについての 詳 しい情 報 ) を 意味する. 以上 の 五つの 意味のうち, ( d ) だけが, の) に由来 し, 形容詞としての eig en の 第二の 意味 ( 隷属 その他の 四つの意味は, 第一 の 意味 ( 持 たれる もの) に由来 するとお もわれる. さて, Ichg eb un denb ei t(自我に縛られてい る こと) とい うグヴィント の訳語が, レクサー の 五 つの意味のうちの (a) に依拠しているのに 対 して, 私は, ( d ) に依拠して, H品rigk ei t( 隷属性) という eig ens cha ft の訳語を提 唱し たい. し かし, い 解釈を 展開 するに 先立つ て, まず, 新し eig ens cha ft についてのク ヴィントの解釈について振 り返ってお こう. 第二章 クヴィントの解釈 説教一・二で用 いられる eig enscha ft の訳出にあたって クヴィント が 依拠 し てい 108 中世思想研究40号 るのは, 大レグサーにある 五つの語義のうち,( a) のEigentum とL、う語義である. 彼は. 説教二 に出てくる ei genschaf tについて次のような注釈を加えている. í ei genschaf tは. エッグハルトでは, たし、てい, WEi g entum (所有物 ) j]という原 義からまだそれほど遠ざかっておらず, た 、 し ていはその原義がまだあらわれている. 新高ドイツ語の,純粋に 抽象的なWE i g enschaf t(特性) j]は, たいてい, まだでてい ないJ (DW 1, S. 26, A nm. 1). そ もそ も, 形容詞としての e ig en は,í自分の」という所有を意味するが, 現代ド イツ語の Eigenschaf t では「所有 」という意味 が薄れて「 性 質」という弱い 意味し か残っていないのに対して,エッグハルトの ei gens chaf tは,í所有」という意味 が 強く残っているという主旨であろう. グヴィントの考えでは, ei genschaf tとは,財 産 のような客観的な所有ではないけれども, í主観的に自分 の も のに す る こと (das subjek t v i e Si chz - u - ei gen - M a chen) (das Fü r. ei gen - ansehen)J31 Jであり, つ ま り「自分の も のと み な す こと であ る. じ っさいに, グ ヴ ィシト は, al s mi rz u ei gen (私のものとして) という言い回しを使って,エッグハルトの m i tei genschaf t を訳して もいる (DW 1, S. 434), になっていることなのである. ei g ens chaf tとは, 何かが自分のもの ( z u ei gen) さ ら に, 何 か が自分のもので あ る と は, タヴィント の考えでは, それが自我へ結びつくと いうこと な の で あ ろう. 彼は,多くの場合, ei genschaf tと いう 単語をI ch - Bi ndung (自我への結 び つ き) , またはJ chgeb un den hei t(自我へ縛られて い る こと) と 訳す ので あ る. また, m i t ei genschaf tと エッグハルトの言い回しを, m i tBi ndung an das ei geneJ ch(自我への結びつ いう きをもって) ,i chhaf t(自我的に) , i chgebunden (自我へ縛られて) と 訳し, また, Bi ndung (自我への結びつきなし â ne ei genschaf tという言い回しを, f reivo n I ch. に) と 訳している. そして, クヴィントは, 何 らかの働きが自我に結びついているこ との問題 性が説教一・二 で論じ られていると 見ているのである. さて,本論では, クヴィントの ei gens chaf t 解釈に対して,Höri gkeit( 隷属性) という訳語を 提 唱したい. その際, ei g ens chaf tとは働きが人間に縛られることであ ると考えるグヴィント解釈とは反対に,本論では, ei genschaf tとは人聞が働きに縛 られることであるという解釈をとる. そのほうが,エッグハルトの議論の主旨を明確 に 捉えられるように思われるのである. 説教一 ・二 で ei gens chaf tという訴が出現する箇所では, 働きについて論じ られて エックハノレトのeigenschatfの概念 109 いる. し たがって, エックハルトがラテン語ドイツ語両著作の他の箇所で働きについ て論じている議論を参照 すると, 設教ー・二 の議論を理解する助 けになる だろう. そ こで, 第二 章では, 働きについてのエックハルトの二 つの対概念について振 り返る. 説教ー・二の問題筒所を 分析し よう. その上で. 第三章で, 第三章 働きについてのエ'1クハルトの議諭 ① 働きについてまず確認し た、 し のは, í生きている働き/死 ん でい る働き J とい う対概念である引, í生きている ( vi vus, leben d ic)J働きとは, きである. エックハルトによると, 内から動かされる働 人間にとって内なる ものは神であるから, 的として神のためになされる働きこそが「生きている」働きである. は, 働きそれ自体のためになされる. 働きとは, 神を目 そのような働き それに対して, í死んでいる (mo rt uus, t ôt )J 外から動かされる働きである. それは, 外なる利益 や報酬を目的として な される働きである. ところで, エッグハルトはラテン諮著作で, 働きについて, í生きて い る 」と い う 表現の代わりに「自由 な (liber)Jという表現をも用 いる. また, í死んでいる」とい う表現の代わりに「奴隷の (ser vilis)J í雇われ た (m er cen arius) Jとい う表現をも 用 いる. エックハルトによると, 奴隷的な働きである. 働きの目的が働く人間の外にあるなら, 他者 に仕える人聞は奴 隷であるからである. きの目的が働く人間の内にあるなら, その働きは自由な働きである. それに対して, 奴 隷的で 自分のうちで自分のために充足 自由であるJ(LW 1, p. 320). している ものは, ② 自分のためである もの, 働 他者 に仕えない 人間は自由であるからである, í外にある他のもののために生じ る も のは, あり. 雇われたものである. その働きは つぎに注目し たいのは, í内なる働き ( a c u t s in te rio ,r da z inner werk )Jと 「外なる働き ( a ct us exteroi ,r da z û z er werk) Jとの区別である引. エックハルト によると, 行為の善 性は, 外なる善行にではなく, 神を目的として 意志する内なる働 きにある. íというのも人間の外にあって人間の内にない もの, る もの, ……, そし て 他者 に依存す そ し て人間の 意志に反し て妨げ ら れ た り ( im p ed iri)中断されたり ( in te rcip i)されうる ものが, どうして人聞を普い ものにする ことができるだろうか 」 (LW III, p510) . . 人聞は. 妨げられずい つで も働いている内なる働きによって 善い も のになるのである. 外なる働きはそのすべての善 性を内なる働きから受けとるのであ 110 り, 中世思想研究40号 外なる働きの「数・大きさ・持続」は内なる働きの善 性に 何も附加しな い( vg. l LW 11, p. 559) . ドイツ語著作でも, 働きは, 外なる働きがもっさまざまな制約があげら れ て い る. r外なる 時と場所の中に閉じこめられており( da zzî tu n d stat b es liu z et ), 狭く, 妨げられたり 強制されたりされうるものであり(da z m an hindern m a c u n d bet w in g en) . 時間( zî t ) と遂行( ü ebung e ) に よって疲れ た り老いたりす る j (DW V, S. 38) . つまり, 外なる働きは, 妨げられたり中断されたりするも の で あり, 所の条件下にあるものであり, ③ 以上の①と ② とは, 密接に連関している. 「生きているj, 数や大きさや持続をもつものなのである. とりあえずは, 働きについてのこつの別々の議論である が, ①と ② との関係はつぎのように解釈できると忠われる. または「自由な」働きは, 神を目的としてなされる. 内から動かされる働き で あ り, そのような働きの目的である神は, 外なる働きによって実現されるものではなく, うる. 時間や場 その内なる働きは, 時間や場所, 内なる 内なるものであって, ただ内なる働きによってのみ実現され または数や大きさや持続という, 外なる働き の制約を脱している. 「死んでいるj, または「奴隷的な」働きは, 働きは, 外から動かされる働きで あ る. その 外なる働きによってえられる外なる 報酬や利益を求める働きであるから. 果が得られるかどうかは外なる働きに依存する. の時間や場所, ところが, 結 したがって, その働きは外なる働き 数や大きさや持続に縛られる. もしも, 神を目的としながらも, 神が外なるものであり, 外なる働きに よってその神が実現されるかのように考えて働くなら, その働きは, ほんとうに自由 な働きではなく, そのような人聞は, 外なる働きに縛られているのである. きがなされるかなされなし、かによって, 外なる働 また外なる働きによって生み 出される結果が 実現されるか実現されなし、かによって妨げられるのである. エッグハルトが説教ー・ 二で eig ensch a f の t 概念を持ち出して論じているのは, そのようなありかたであると 忠われる. 第四章 説教ー・ニの議論 eig ens cha t f という語が用 いられる三つのテキストを検討しよう. 最初のテキスト は説教ーのものであり, つぎ の二つの テ キ ス ト は説教二のもの で あ る. そ の際, f 念 概 エックハノレトのe igenscha tの 111 eigens cha t f は 訳さないでおいておく. (1 ) rこの人たち[=ハトやそのたぐいのものを売りに出していた別の人たち〕は, よい人たちであり, 純粋に神のために白 分の働きをなし, その働きによって自分のも のを求めない. けれども, eigens cha t f をもって, てその働きを行うのである. ないでいる. 時間と数とをもって, 前後をもっ そのような働きによって彼らは, 最善の真理に到達でき 私た ちの主であるイ エス・キリストは, 自由で脱却していて, いつでも 新たに中断なし時間なしに天の父から自らを受けとり, ながら, 高いところの父に, その同 じ今に, 感謝・讃美し 同 じ尊さで自らを生み 返すのである が, そのイ エス・キ リストと同 じように自由で脱却しているべきであるという震善の真理に彼らは到達で きないでいるのである. なしに, するなら, だから, 人聞は, 最高の真理を受けとって, その中で, 前後 かつて用 いたすべての働きとすべての形象によって 妨げられずに生きようと イ エス・キリストのようでなければならない. 今に新たに神の賜物を受けとり, この同 じ光の中で, 自由で脱却していて, この 私たちの主であるイ エス・キリ ストを通して, 感謝・讃美しながら, 妨げなしに生み 返すのでなければならない. のとき, ハトはとり去られる. ハトとは, すべてのよい働き, そ 自分のものを求めない 働きにも属している妨げであり eigenscha ft であるJ (DW 1, S. l lf ). . (2a) Iすべての人聞がかつて受容したすべての知的形象と神自身の中にあるすべて の知的 形象とが私の中にあったとする. しかし, 私がその形象に対し て eigenscha t f なしにあるとする. 何かをしたりさせたりするときに eigensch a t f をもってその形象 を捉えないとする. そして, この現複する今にあって自由に脱却して, 意志にしたがし、休み なくその意志をなそうと立っているとする. んとうのことだが, 5 2 .)f. 一年に一つ以上の 実を結ばない. いまここで考えている. なる修行や苦行に, そうとするなら, ほ 私は, 私が存在しなかったときそうだったように, すべての形象 に 妨げられずに処女であるだろうJ (DW 1, S. (2b) r夫婦は, 神の愛すべき けれども, 別の夫婦のことを私は つまり, 祈鵡や断食や徹夜をはじめとするありとあらゆる外 eigens cha tをもって縛られているすべての人た f ちである. f も, 働きのどの e ig ens cha t 自由を奪う. どの この現在する今にあ って神を待つ自由を 1 21 中世思想研究40号 奪う. 何かをするとき, どの今にあっても自由に新たに神が現在するその光の中で神 だけに従う自由を奪う. それぞれの eig ens chaft や意図された働きは, い つでも新 しいこの自由を奪うものであって, それを私はいま 一年と呼んでいる. というのも, 魂は, eig enschaft をもってやりかけた働きをやってしまうまでは, どんな 実も結ぱ なし、からである. また, eig enschaft をもって手がけた働きをやりとげるまでは, も自分自身も信じなし、からである. それまでは,安らぎがない. 神 だから, 自分の働き をやりとげるまで・は,突を結ばないのである. それを私は 1年と考える. の 実はそれにもかかわらず小さい. eig ens chaft から働きに応じて出たも その 実は, ので, 自由から出たのではなL、 からである. schaft によって縛られているからである. て, それを私は夫婦と呼ぶ. 彼らは, しかも, そ 彼らは, eig en . わ ずかの 実しか結ば な い. そし すでにいったように, その 実はなおかつ小さいのだJ(DW 1, S. 28丘). 上の三つの引用 のいずれでも「働き」が問題にされている. 引用(1 ) と引用( 2 b) は, 行とは, 具体的には, 善行との関連で eig ens chaftという語が出てきている. 善 引用( 2 b) でいわれる よ うに,í 祈薦や断食や徹夜をはじめとす るありとあらゆる外なる修行や苦行」である. 引用( 2 a) では, 知的形象について言及 されているが, í何かをしたりさせたりするときに eig ens chaftをもってその形象を 捉えない」という言い方からわかるように, 形象とは, f動きによって実現することが 意図される目的であると考えられ, その限りで, 働きが問題にされているといえる. 三つの引用 のうち,エッグハルトが言おうとしていることがもっともはっきりとあ らわれているのは, 引用( 2 b) である. この箇所では, 夫婦が子供を生むのに 一年かか るという事実がたとえとして用 いられている. そして, このたとえによって, 修行や苦行に縛られている人たちの限界が指摘されている. 修行や苦行 (û z erlî che ü ebung e u n d k estigung e )J ような, 外なる ここで言われる「外なる とは, 本論の第二章で確認した 意志の内なる働きに対する「外なる働き」であるとおもわれる. 本論の第二 章では, 外なる働きは, 数や大きさや持続をもち, 時間や場所の条件下にあり,妨げ られたり中断されたりするものであることが確認された. 引用 (2 b) では, そのような 外なる働きに縛られている人間のあり方が問題にされていると考えられる. つまり, 時間の経過の下にある外なる働きに縛られている人聞は, それを成し遂げてはじめて, 結果( 実) を得るのである. また, 限られた大きさや数をもっ外なる働きに縛られて エックハノレトのe gienscha f tの概念 いる人聞は, 113 わ ずかで小さな結果しか得られないのである. 引用(2b) では, そのよう に, 外なる働きに縛られているあり方が eig enscha f tという語によって特徴づけら れており, 反対に, 外 な る働き に 縛ら れ ず に「現在 す る 今 にあ っ て (in diese m g geen w er ig t en nû ) J 神に従うあり方が「自由( vr he i i) tJ と い う語によって特徴づ けられているように思われる. 引用(1 ) や引用(2a) に目を移してみ ても, やはり, 外なる働きに縛ら れ る あ り方が eig ens ch a f tという語によって特徴づけられているように思 わ れ る. í eig ens chaf tをもって, 時間と数とをもって ( m iz t itu n d て ( miv to r und m iz t al ). 前後をもっ mitâ n ch) J 働きを行う人た ちについて論じら れ て い る. í時間と 数J í 前後」というのは, 外なる働きの制約である. いだ続けられ,一 定の数と大きさの仕 事をこなす. であり, 引用(1 ) では, 外な る 働きは,一 定の時間のあ また, 時間の順序の中にあるもの ある働きがなされてからはじめて, その働きの結果が得られる. したがって, eig ens cha f tをそのような外なる働きに縛られたあり方と考えるなら, 文脈全体がよ く理解されよう. 同 様に, 引用(1 ) 中の「自由で脱却して ( vr iu n d ledi )c いて, い つでも (al lez )it 新たに( niu w e ) 休み な し時間 な し に ( âne u n derâ z l u n dâne z )itJí ânevo r u n dâne â n ch) J íこの今に( in dise mn )ûJ という規 前後なしに( 定は, 外なる働きの制約を受けないあり方と考えればつじつまが合う. 引用(2a) にも er itg en n )Jû í自由に脱却し て( 「こ の現在す る今にあって (in dise mg eg en w vri u n d ledic ) J とし、う表現が出てきており, これもまた, 外なる働きに縛られないあり 方を言い表していると理解できる. 引用(2a) 中の「知的形象(bildevern ü n fitc lche i )J とは, 外なる働きによって実現される目的 で あ る と 考 え ら れ. í知的形象 に 対 し て eig ens cha f tなしにある」とは, 外なる働きによって何が実現されようともそれに縛 られず妨げられないということであると考えられる. さて, ここで思い出そう. 本論の第二 章で確認したように, 働きについて用 いられ る「生きている /死んでいる」という対概念は. í自由な いう対概念によって言い換えられる. liber /奴隷的 ser vileJ と その点を思い起こすとともに, 外なる働きに縛 られないあり方が「自由で脱却しているv r iu n d ledicJ と説教ー・二で表現されて いることを考えあわせるなら, 外なる働きに縛られるあり方を指し示す eig ens cha f t の概念は, 外なる働きに対する「奴隷 性」を意味すると考えられる. エッ クハルト が eig ens cha f tという語を用 いたのは, この誌がH凸r igk ei tの意味をもつからではない 114 中世思想研究40号 かと私は考える. そのように考えるなら,e ige nschaf tとは,数や大きさや持続をもち, 時間や場所の条件下にあり, 妨げられたり中断されたりする外なる働きに縛られると いう「 隷属性」を意味することになる. 隷属的に」と訳すことができょう, そして, m it e ige nschaf tは, ím it H凸 rigke it つまり, e ige ns chaf t をもって働くとは, íさま ざまな制約をもっ外なる働きに縛られて」とし 、 う意味になる. は,í 隷属せずに o hn e H凸 rigke it Jと 訳すことができる. また,âne e ige ns chaf t つまり,e ige ns chaf t なし に働くとは, íさまざまな制約をもっ外なる働きに縛られずに」働く と い う 意味にな る. 以上のように, e ige ns chaf t という語は, ラテン語ドイツ語両著作での働きについ ての議論の延長線上で理解することがもっとも自然で適切ではないかと思う. 第五章 クヴィントからミート, フロムヘーーその解釈の問題 いずれにしても, 引用( 1 )( 2a)( 2b)のどれにも, クヴィントがe ige nschaf tの意味 として考えている, 働きの「自 我への結びつき」を示唆する文はまったく含まれてい ない. つまり, クヴィントの解釈は, これらの引用 の内容に依拠しているのではなく, E ige nt um という語義だけに支えられているように思われる. クヴィント解釈は, このようにテキストの脈絡に依拠しないために, 本来不必要な 説明を余儀なくされているように思われる. たとえば, クヴィントは, 引用( 2b)では, -,z w e k cエヅグハルトが「自我・目的・時間に縛ら れ た働きJ ( das ich ge bu nd e n e We k r ) について論じているという. の相互関係について 独自の注釈を加える. 実は, u n dze it そして, 自我と目的と時間との三者 たとえば, í自我に縛られた働きの場合は, 働きに縛られており,ji動きなしには得られない 」と述べた上で, それを説明す るために, í人間は, まさしく こ とさらに働き自体を意図したのであり, したがって, 突を結ぶときに, 働きの時間的な順序に縛られているから で あ る」 と い う (DW_ 1, S_ 30, A nm. ). e ige nschaf tを外なる働きへの 隷属性と考えるなら, このような込み 入った説明は必要で、はないのである. 本論の叙述からおそらく明らかであろうが, e ige nschaf tを I chge bund e n eh it と 訳すか H凸 r igke it と訳すかという問題は, 一 つの単語をどう訳すかというだけの問 題ではなく, エッ クハルト解釈そのものにかかわってくる. さらに, e ige nschaf t に ついてのクヴィント解釈がエックハルト の思想の位置づけにとって果たしてきた役割 エッグハルト のeig n es chaftの念 概 115 を考えるなら, ことは重大である. Ichg ebu n den h eitとして 解釈された eig enschaft は. エッグハルトの思想、をマル クスや仏教と比較する際の中心概念になることさえあ るヵ、らである. た とえば. D iet m a rM ieth は. グヴィントにならって. dung. または. B in dung an dasIch と 訳している町. eig enschaftをIchB . in. ただし, クヴィントがいう「自 我への結びつき」がおもに働きの「自 我への結びつき」であるのに対して, ミートは, 人間の「自 我への結びつき」へと拡張す る. í人聞は, 自分の自我を, 自分の自己同 ーを求めているj ) 7. ミートによると. eig ens chaftとは, しようとする. í 実存の所有構造」であり, 説教二では. 自我に執着して自我を所有 そのような所有構造の突破 このような解釈に基づいて, ミートは所有構 について語られているというのである. 造の突破を. E nteig nung ( 収奪) というマル クスの概念と連関させているB) ミートの解釈に依拠して. í自我への結びつき」を克服するこ とこ そエッ クハルト の桜本問題であると考えたのが. E ri chF o r mm の“ Hab en o derS ein?" である. フ ロムによると. í所有という 実存様 態(dieE xi sten z w eise des Hab ens)jは, エッ グハルトのいう eig enschaftである. フロムは. í自 我への結びつき」の問題がエツ タハルトと仏教とに共通する問題であると考える剖. íエッグハルトにとっては,仏教 思想の根本的な範鴫でもある, 問題であったj0l ). 所有 意志の様 態 , つまり, 食欲・物欲・エゴイズムが フロムは. エッグハルトの所有の概念を論じる と き に, 霊の貧に ついての説教に注目してはいるが,彼が下敷きにしているのはあくまで. eig ens chaft とは「自我への結びつき」であるとのクヴ、ィント=ミート解釈なのである. このように, エッグハルトをマルクスや仏教と比較する, ミートやフロムの試み は, クヴィントの eig enschaft解釈に依拠している. 本論の eig enschaft解釈が正しいと すれば,エッタハルトをマル クスや仏教と比較するミートやフロムの試み は, クゲイ ントの eig enschaft 解釈に依拠している限りで, 重大な問題を含んでいることにな ろう. だからといって, というのではない. 私は, もちろん, そのような比較の試み 自体が 無 意味 である しかし エッ クハルトを他の思想と比較するためには, 何よりも まず,エッ クハルトのテキストに密着し, ラテン語ドイツ語両著作全体を見渡して彼 の思想を解釈するのでなければならないであろう. 本論は, して. そのような作業の一環と eig enschaftについての新しい解釈を提出するものである. 116 中世思想研究40号 註 c hart , Die deutschen 1 ) エッグハルトの引用 はつぎのものに よ る. Me iste r E k hr sg. im A uftr age edr De ut sch e nF or s chungsge me in. und lateinischen Werke, s chaft, St utt g art 1936ff . Die lateinischen Werke (LW ) , hr sg. vo n] o s e f K o ch u. a. ( B and1, II, III, IV). Die deutschen Werke (DW ), hr sg. vo n] o es f Quint ( B and1, II , III, V). 2 ) V gl . D u ed n))Ety mo lo gie<<. 3 ) Meister Eckehart, Deutsche Predigten und Traktate, eh r ausge ge b e n und ü be r es t zt vo n] o es f Quint, M ü n che n 1979 . S . 470. この対概念に ついては, 拙論E k c hart s o hn e W ar um im Zusamme nhang m ti 4) edr t ho m anisch e nTe el o lo gei ( Ii'宗教哲学研究』第1 2 号, 199 5) を参照. 5) この対概念に ついては, 拙論「行為の善 性をめぐるトマス説とエッグハルト説」 ( Ii'哲学』第46号 , 199 5) を参照. 6 ) D ei t m ar Mei t h, Christus -- das Soziale im Menschen, D ü ss e ldorf, 197 2 . 7 ) A . a. O. S . 13 . 8 ) A. a. O. S . 16 . 9 ) V gl . Vol ke r F re edrk ing, Durchbruch vom Haben zum Sein Fromm und die Mystik Meister Eckharts, -一一 Erich S . 3 2 8, A nm. 76. 10) Er i chFromm, Haben oder Sein ( Ge sammt ausg abe in10 B品 n ed n.H r sg. vo n Rain e r F unk. St utt g art 1980, VI . ) S . 31 5 この論 文 は文部省科学研究費補助金による研究成果の一部である.