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モーラミャインのバヨネット
ラミャインに生きている。 南海寄帰内聞伝 バヨネットが手から離れる時 モーラミャインの丘の モーラミャインのバヨネット 頂上に立つ仏教寺院から、広大な刑務所とキリスト教 バヨネット 追手門学院大学教授/中部高等学術研究所客員教授 重松伸司 会の尖塔が見わたせる。目の前にぬっと鞘入りの銃剣 が差し出された。寺院の管理人であろう中年男が「こ のバヨネットを見ろ」という。鞘をはらうと、所々黒 い斑点が残るが、刃はにぶく光る。30cmばかりの日 本軍歩兵銃の銃剣である。この銃剣が兵の手から離れ たその一瞬、彼の意識は「何」であったのか。日・英・ 印・ビルマ出身十数万の兵が、ベンガル湾海域のこの 地で死んでいった。自らの意思によらず、何故死んだ 日本軍関係戦死者銘板(チッタゴン戦没記念公園) かを問うのは愚問である。その非条理は、『戦没農民 兵士の手紙』や『きけわだつみの声』にあふれている。 死んだ者はその体験を語りえない。ゆえに、死の一 私の関心は「何故」 ではなく、この地で 「どのように」 「何 瞬は戦史にも歴史教科書にも記述できない。私のベン を思いつつ」死んでいったのか、その一瞬を想像する ガル湾海域調査は「記述しえない」戦場の原況を「想 こと、各地の戦跡に立って、ただただ、極限の状況を 像する旅」でもある。インドネシアのバタム島、シン 想像して立ちつくすことである。 ガポールの市街地、スマトラ島、マレー半島東部のコ 戦争のアジア近代史を学ぶ 今の学生は、第一次、第 タバル、バングラデシュのチッタゴン…マラッカ海峡 二次世界大戦の区別も知らない。戦争をゲーム感覚で とその周辺を北上しつつ、インド、ビルマ戦線の名所 とらえている。戦争はバーチャルである。高校・大学 ならざる戦跡に立つ旅は続く。 の教員の多くはそう嘆く。だがそうだろうか。200名 戦跡の道 ミャンマーはモンスーンの豪雨のただ中に 程の学生を相手に「20世紀アジアを戦争から読む」を あった。モーラミャインへの途はただ泥濘である。早 講義した。戦争写真、ドキュメンタリー映像、新聞記 朝から降り続く雨の中を、もう12時間も走っている。 事、戦争を描いたアニメや映画、戦争体験者の話…… 20以上ものチェックポイント、人の歩く速度以上に 様々なメディアと視覚から戦争を通してアジア近代を はスピードの出せない仮設橋、重武装の兵士たち、濁 考える、というのが私のねらいであった。 流を射す探照灯、連なる軍用車、タイ国境から貨物を 日清・日露戦争にはじまって、第一次世界大戦、日 満載したトラックの列。モーラミャインへひた走る車 中戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、 は、我々の乗ったオンボロのバンのみ。恐らくは、政 そしてイラク戦争まで順を追って概観する予定であっ 府情報機関の一員であろう、チャーター車の運転手兼 た。しかし、私の予想は大きくはずれた。90分の講義 ガイドは、流暢な英語ができるにもかかわらず、寡黙 の後、毎回日本人学生、中国人留学生、中国残留子弟 である。夜8時をすぎた。雷光が走り、一瞬、眼前に 学生などが次々とつめよってきて、私の講義に訂正を 黒々とした密林のシルエットがうかびあがる。ビルマ 加えてくれた。戦争を知らないのは、私であって、彼 戦線のこの道で、兵は死んでいった。10時、前方の闇 らではないようだ。私はあらためて、本腰を入れて 「戦 にぼんやりと光の点があらわれるや、車は人気のない 争のアジア近代史」を学ばねばならなくなった。結局 モーラミャインの町にすべりこんだ。 半年かけての講義で、第一次世界大戦までしか進まな 棄民クーリーのインド人 翌朝、ホテル前のタンルウ かった。 ィン(サルウィン)川は濁流であった。川岸にしがみ 彼らが何故こんなに戦争の史実に関心をもつのか。 つくように並ぶ波止場へ、麻袋の荷を運ぶインド系労 「中学・高校の先生が熱心に授業してくれた」 「日本は 働者の群れはボロキレである。河水と麻袋とインド人 おかしくなっているんです。そのおかしさの中で僕ら クーリーとは、黄褐色に渾然一体となり、背景の緑の 生活しているんです」「戦争の実態を自分なりにわか ヤシ林の中に溶けこんでいた。数十万という「定量化 りたい」…彼らの回答である。大学の21世紀アジア史 された移民」の一人ひとりが眼前にうごめいている。 教育は、もう一度、中学や高校の教育を再評価しつつ、 シリコンバレーやニューヨークのビジネス街をかっぽ 組みかえてもよいのではないか。私は今そう思う。 するインド系新移民エリートたちの対極が、ここモー − 19 −