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資料(タッチ論)

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資料(タッチ論)
『テクスト研究』第3号
2007 年 1 月
ホモソーシャルな絆と分身への誘惑――あだち充『タッチ』がつむ
ぐ成長の物語
The Temptation of Being Double and Homosocial Bond:
A Study of Adachi Mitsuru s Touch
増田 珠子
Tamako MASUDA
概要
Adachi Mitsuru’s Touch is one of the most successful Japanese comics in 1980s.
It is regarded as an excellent combination of romantic comedy and baseball story;
especially, the growth of its protagonist, a high school baseball player, suggests such a
tendency.
Nevertheless, his growth relates to homosocial bond between twin brothers,
which contributes to his growth itself but is conquered in the end.
Moreover, he
struggles before the question whether he should be the double of his dead brother or
they should be different subjects.
His question is really whether he should accept his
brother’s death instead of trying to represent him in his own life.
Thus, Touch is much
broader in scope than a mere love story, and succeeds in adding another popular myth
about a boy’s development.
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1. はじめに
1981 年から 86 年にかけて雑誌に連載されて大好評を博したあだち充の『タッチ』については,
例えば次のような評がなされている.
基本的には三角関係の重層によって成り立つメロドラマであるが,それと野球漫画との合体
を見事になしとげてこの時期の漫画の代表作たり得ている.
弟が南にした約束(甲子園
出場)を兄が果たすという,三角関係への野球のからめ方がうまい.この野球漫画としての力
が,この作品をただのラブコメにしなかったように思う.1
時代が要請した青春ラブコメの体裁をとり,絶妙の間,テンポによってさわやかで明るいコメ
ディーの日常を描いたこのマンガは,すんなり読者の中に楽しいマンガとして入り込んでいっ
た.
しかし,ラストの盛り上がっていく感動は,ただひたすら野球をする少年のひたむきさがもた
らすものであり,従来の野球ドラマの味わわせてくれたそれだったような気がする.2
ふたつの引用が端的に示しているように,この作品は一般的に「ラブコメディー(ラブコメ)」および
「野球マンガ」というふたつのジャンルが融合したものであると見なされ,双方の魅力がいかんなく
発揮されていると高く評価されているのだ.夏目房之介は「’80 年代の少年漫画潮流の変化を代表
するヒット作」3 と位置づけているが,その言葉を待たずとも,『タッチ』が 1980 年代を代表する作品
であることに賛意を示す人は少なくないだろう.
ベストセラーとなったコミックスは,単行本,愛蔵版,文庫版とさまざまにかたちを変えて発行され,
総売り上げは 2005 年の時点で 6500 万部を超えたと言う.連載中の 1985 年から 87 年にかけて
はテレビアニメ化され,最高視聴率 32.9 パーセントを記録し,その後もくりかえし再放送されている.
また,テレビアニメが作られたのと同じ時期に,劇場版アニメ映画三部作(『タッチ 背番号のない
エース』[1986 年],『タッチ 2 さよならの贈り物』[1986 年],『タッチ 3 君が通り過ぎたあとに』
[1987 年])が公開されている.さらに,1998 年と 2001 年には,テレビアニメ・スペシャルというかた
ちで続編が作られ放映された(『タッチ Miss Lonely Yesterday あれから,君は
』および『タッチ
CROSS ROAD 風のゆくえ』).これらのアニメーション作品は放映・公開されたのみならず,ビデオ
あるいはDVD化され,販売されつづけている.そして,2005 年には実写版の映画も作られた.4
このように,連載時から約二十年の年月をへてもなお注目に値すると見なされている『タッチ』は,
ラブコメであり野球マンガであるというだけではなく,もうひとつ成長物語という顔を持っている.例
えば,大塚英志はこの作品がつむぐ物語を「大人になることをめぐる」5 ものととらえ,
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「タッチ」とは〈勉強部屋〉に象徴される子供と大人の間の時間を経ることによって少年たちが
〈大人〉へと移行していく成長の物語,言い換えれば通過儀礼の物語といえるのだ.
和
也の死後,達也は「上杉達也は浅倉南を愛しています」と南に自分の気持を告げるための儀
式を実に単行本にして二〇巻に渡って続けるのである.その事をとっても「タッチ」の主題が
儀礼それ自体にあったことが理解できよう.「タッチ」という物語が感動的なのは主人公たちが
自分たちの意思で儀礼を開始し,緩やかにではあるけれど確実に成長していくプロセスを描
いている点にある.6
と評している.また,劇作家の山崎哲は,
物語は,幼なじみの淡い三角関係を描いているように見えながら,じつは個としての「自立」
が主題であることがわかってくるのである.
思春期,私たちは異性を意識しはじめる.その異性と別の家族を営みたいと思いはじめる
のである.そしてそのことに後ろめたさや罪の意識を覚える.すなわち個の誕生である.
けっしてその逆ではない.家族から個として自立し,それから異性に出会うのではない.性
(対)として家族から分離し,その過程でさらに個へと分離していくのだ.あだち充は思春期の
微妙で複雑なその過程をじつに軽々と描いてみせた.7
と述べている.これらの言葉が示しているように,『タッチ』の物語が成長を扱っていることに異論の
余地はないだろう.その成長が「上杉達也は浅倉南を愛しています」(「よびだしベルの巻」,『タッ
チ』第 14 巻)8 という台詞をゴールとしていることこそ,『タッチ』が「ラブコメ」に分類される所以であり,
大塚や山崎のいう成長がこの「ラブコメ」の側面を浮かび上がらせていることは確かである.しかし,
『タッチ』がつむぎだしている成長とは,「ラブコメ」の側面と結びつけるだけで片付くようなものだろ
うか.それだけでは,この作品が発表以来二十年という歳月が過ぎてもなお存在意義を見出せるも
のとなっていることを説明しつくせまい.大塚が「通過儀礼」と見なしたもの,あるいは山崎が「個へ
の分離」ととらえたものは,実際のところ,具体的にはどのようなものととらえるべきなのだろうか.作
品中の成長のありようを解明することによって,非常に魅力的な「ラブコメ」であり「野球マンガ」であ
るという以上のこの作品の価値を浮かび上がらせることができるのではないだろうか.
2. 南をめぐる絆
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「基本的には三角関係の重層によって成り立つメロドラマである」9 と指摘されるように,『タッチ』と
いう作品には,主人公の上杉達也がかかわるさまざまな三角形がひしめきあっている.それらのい
くつもの三角形は,大きく分けて,隣家に住む同い年の少女浅倉南をめぐるものと,高校野球の聖
地としての甲子園をめぐるものの二種類に分類できるが,まず浮上してくるのは前者である.『タッ
チ』の第一話で,中学三年生の達也は,双子の弟和也と幼なじみの南が中で勉強している「子供
たちのための家」を外から見つめながら,次のように述懐する.
わが上杉家とおとなりの浅倉家――/そこで同じ年に生まれた三人の子供たち――/仲良
くいつもいっしょ!/そして――/元気であった!/ある日三人の元気に手をやいた親たち
は――/両家の間に共同出費で子供たちのための家を建てた――/最初遊び場であった
はずのそこは――/何年か前から勉強部屋といういまわしい名に変わり――/三人の中の
一人が女だということに気がつきはじめたのも――/たしかそのころであった
(「タッちゃ
んとカッちゃんの巻」,『タッチ』第 1 巻)
このように,まず冒頭で「上杉達也――浅倉南――上杉和也」という,思春期に達した幼なじみの
形成する三角形の構図が提示されている.
ルネ・ジラールが指摘するように,ふたりの人物が,物であれ人であれ,あるひとつの存在を取り
合うということは,そのふたりの間に特別な絆を生じさせる. 10 達也と和也も例外ではない.双子の
兄弟という特別な絆でそもそも結ばれており,優秀な弟とできの悪い兄という両極端な存在ではあ
るものの「弟思いの兄思い」(「応援してあげての巻」,『タッチ』第 11 巻)という仲の良いふたりは,
異性として南を意識しはじめると,彼女を媒体とする新たな深い絆を結ぶことになる.
作品の冒頭,中学三年生の達也,和也,南は,「ただの幼なじみ」(「ただの幼なじみの巻」,『タッ
チ』第 1 巻)という三人の関係を規定しなおすべき時期に自分たちがさしかかっていると気づかされ
はじめており,自分自身が,あるいはまわりの誰かが何気なく発した言葉に「本心」のにおいをかぎ
とって敏感になっている.やがて高校生になると,南と和也は自分の気持ちをストレートに表現しは
じめる.南は達也にキスし,そのことを「好きな相手との,生まれて初めてのキス」(「一生の思い出」,
『タッチ』第 3 巻)だから一生忘れないと断言する.一方,和也も,抱きしめたり婚約を申し出たりと,
自分の気持ちを南にまっすぐにぶつけるようになる.南の気持ちが兄に傾いていることを感じるが
ゆえの焦りが,和也を行動に駆りたてるのである.
達也はこのようなふたりを前に,最初は身動きをとることができない.南にほめてもらうために投球
練習に励んだ幼い日の弟の姿を脳裏によみがえらせ,甲子園出場を約束した弟と南の絆を思い
起こさずにはいられない達也は,野球部に入るのを遠慮してしまう.甲子園に向けて勝利を重ねて
いく弟は確実に南を喜ばせている.一方,達也は南に勝利を約束したにもかかわらずボクシングの
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試合に負けてしまう.達也は和也を自分とは対極にある存在として,「才能と努力.無敵の弟」(「甲
子園しかみえないの巻」,『タッチ』第 3 巻)と評さずにはいられない.弟の南に対する思いの深さを
感じ,弟が自分に勝っていると痛感する達也は,やはり南を好きであるものの,自分が弟と南の間
に割り込むようなまねをすることをためらう.達也が口に出そうとしないこの気持ちを言語化して達
也に突きつけるのが,三人の同級生で夏目房之介の言葉を借りれば「複雑な多重関係心理の解
説者」 11 の原田正平である.原田は,「おまえは浅倉のためになんの努力もしてこなかった./だか
ら,浅倉のことが好きだと気づいた今でも
/どうしても弟に一歩ゆずっちまう」(「かってな想像
の巻」,『タッチ』第 2 巻)と明快に解読する.
しかし,努力不足ゆえに顕在化していないものの,達也が弟に勝るとも劣らぬ才能の持ち主であ
るということが,さまざまなエピソードの端々で伝えられている.達也にひそむ豊かな才能を最も切
実に感じているのは和也であり,だからこそ彼は兄に負けないように努力を重ねるのである.一方,
和也は,兄が才能を埋没させたままでいるのは,兄に追いつき追い越そうと努力を惜しまない弟を
思いやって勝ちをゆずる気持ちがあるからだということをわかっている.和也は自分の勝ちを願わ
ないわけではない.しかし,彼は兄がゆずってくれるのに乗じて勝ちをおさめることをよしとしない.
中学三年時の運動会のリレー競技の件でも,高等部の野球部入部の件でも,和也は兄を自分との
正々堂々の勝負に招きいれようとする.ふたりの母は後に,「和也の本当にうれしそうな顔をみるの
は,いつも一苦労だったわ」「だって,それには達也をほめなくちゃならないんだもの」(「大丈夫,
大丈夫の巻」,『タッチ』第 14 巻)と回想することになる.兄弟をよく知る友達の松平孝太郎は,和也
について「自分のことより上杉達也がガンバることのほうがうれしいんだから,あいつは
」(「のって
きたなの巻」,『タッチ』第 13 巻)と語ることになる.このように,和也は兄が弟に遠慮せずに自分本
来の実力を発揮して活躍することを願うのである.そして,南をめぐる三角形の一角となることを躊
躇しつづけ,弟に南をゆずろうというそぶりを見せつづけた達也が,ついに和也と南を争うべく努力
してみることを宣言したとき,和也は脅威を感じるというふうではなく,むしろ肯定的に,うれしそうに
それを受けとめることになる.
この双子は,もともと「相手の気持ちを大切にする,やさしい人間」(「ずっとまえからの巻」,『タッ
チ』第 11 巻)であるにしても,なぜこうまで互いを思いあうのだろうか.ここで浮上してくるのが彼らの
南への思いである.和也は運動会のリレーの練習に参加しようとしない兄を怒って,「南はアニキに
期待したんだよ!/裏切ったりしたら承知しないからな!」(「バトンタッチの巻」,『タッチ』第 1 巻)
と叫ぶ.達也は南の夢である甲子園出場をかけた試合に赴く弟にエールを送るが,その根底にあ
るのは,「南のよろこぶ顔がみたいのは,おまえだけじゃないんだぜ」(「がんばれ,和也の巻」,『タ
ッチ』第 4 巻)という気持ちである.つまり,ふたりは南を喜ばせたいがゆえに,互いの活躍を後押し
するのである.相手の活躍が,相手と南の絆を深めかねないという両刃の剣であったとしても,南が
それで満足するとなれば,兄弟は互いを叱咤激励せずにはいられない.南という共通の恋愛対象
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を持つがゆえに,ふたりは互いを応援しあう仲の良い兄弟でありつづける.南を争うという新たな絆
を兄弟が確認するとき,南が兄弟の仲を引き裂くどころかむしろその絆を深める媒体と化しているこ
とは明らかである.
3. 他者と分身の狭間
南との約束である甲子園出場をはたして,南をめぐる達也との戦いにおける先取点を得るつもり
だった和也が,甲子園出場まであと一勝とせまりながら交通事故で亡くなってしまうと,達也が甲子
園をめざして野球を始めることになる.それは,そもそも,甲子園を夢見る明青学園高等部野球部
キャプテンの黒木武が望んだことである.黒木は,和也という天才ピッチャーを失ってしまったこと,
再び和也を取り戻すなど不可能だということを受け入れられず,外見がそっくりで弟と同じ才能を秘
めていると思われる双子の兄に注目し,強引に野球部に入部させる.達也は,死んでこの世からい
なくなってしまった和也を再び現前させる役目を負わされるのである.達也が和也になることが黒
木の望みである.
同じことを達也に求めるのが,和也をライバル視し,和也の球を打つことを目標に野球に打ち込
んできた須見工業高校野球部の四番バッター新田明男である.新田は達也に,「おまえならできる.
/上杉和也を超えてくれ」と迫るが,その根底にあるのは「もう一度上杉和也と対決させてくれ」とい
う願いである(「上杉和也を超えてくれの巻」,『タッチ』第 7 巻).新田もまた,和也を失ったことを受
け入れられず,達也がもう一度和也をこの世に現前させることを望むのである.
野球を始めたばかりのころ,達也は新聞を見て,「なんで和也の写真が載ってて,おれの写真は
ねえんだ」「天才投手上杉和也の兄――制球力が今ひとつの上杉和也の兄――/なんだこりゃ!
、
達也のタの字もねえじゃねえか!」(大丈夫ですよの巻),『タッチ』第 5 巻)と憤る.自分と弟を一体
化して報道する記事に腹を立てるこのときの達也にとって,弟と自分はあくまでも別の人格をそなえ
た他者である.
しかし,達也と和也のピッチャーとしての実力の差異が縮まるにつれ,達也の考えは変わっていく.
甲子園出場まであと一勝と迫った達也は,甲子園に行くのは和也だと考え,達也は和也を超えた
のではないかと言いかける南を,「マウンドにたつと,いつも和也を感じるんだ./とくにピンチのと
きや迷ったときにはハッキリとな」「試合中になん度か,おれの体を使って和也が投げてるような錯
覚をおこすことがあるんだが――/そういうときはぜったいに打たれないんだ」「おまえとの約束を
果たすのは和也だ./しっかり応援しねえと許さねえぞ./いいな」(「ここにはいないよの巻」,『タ
ッチ』第 12 巻)と言って黙らせてしまう.つまり,達也は乗り越えるべきライバルの他者だった弟と一
体化してしまっており,この世から失われてしまったはずの和也が達也の身体を使って再び現前し
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ていると,感じているのである.まるでジキル博士とハイド氏のように,達也と和也は分身の関係に
陥っていると言えるだろう.達也が和也になりきっているとき,そこにいるのは和也であって,当の達
也は不在となる.達也が達也としてそこにいるときには,和也が不在なのである.和也という存在は
交通事故という出来事によってこの世から失われてしまったのに,達也はその喪失を受け入れられ
ておらず,結果として,和也は現前させるべき不在の存在というかたちで達也につきまとっているの
だと言えるだろう. 12
実際に決勝戦が始まると,味方のエラーのせいで,達也はいきなり無死満塁のピンチに直面する.
達也はキャッチャーの孝太郎に,「こういうケースは,ふつう 1 点覚悟で投げるんだよな」と確認し,
「和也もか?」と問いかける.そして,「――いや,/0 点に抑えることしか考えなかったよ.エラーを
したやつのためにもな」という答えを聞くと,「よし,それでいこう」と言う(「それでいこうの巻」,『タッ
チ』第 12 巻).判断は達也自身の基準で下されるのではない.和也の基準で下される.明らかに
達也は和也になりきっていると言える.
このような達也のありようは,まわりの人々に危惧の念を呼び起こす.例えば,「タッちゃんはカッ
ちゃんの道を進むつもりなんだろか?」と問う父に対し,南は「カッちゃんの無念を晴らすために,き
びしい練習に耐えて甲子園をめざしているのよ」と明快に答える.しかし,南の父は,「そこまでなら
いいんだが
/カッちゃんが生きていれば,最終的には問題はなかったと思うんだ./三人とも相
手の気持ちを大切にする,やさしい人間ばかりだもんな./
むずかしいんじゃないのかな./考えすぎかもしれないけど
だからこそ,/タッちゃんの気持ちは
/もしかしたらタッちゃんは,カッ
ちゃんがいずれ味わわなくてはならなかった,南をあきらめるつらさまで
」と,南が思い至ってい
ないところまで予想せずにはいられない(「ずっとまえからの巻」,『タッチ』第 11 巻).
さらに,そもそも達也が和也になりきることを望んだ新田明男も,南に向かって,「明日の決勝戦,
あいつは完全に上杉和也になりきってくるだろう./――そして,上杉和也としておれと戦い,上杉
和也としてきみに甲子園を贈る./ちがうかな?/とにかく
勝つにしろ,負けるにしろ,/戦うべ
き相手と戦えるのは幸運だよ./だけど,あいつは,/上杉達也はだれと戦えばいいんだろう」
(「だれと戦えばの巻」,『タッチ』第 12 巻)と語り,自分の期待が達也に及ぼした影響の大きさに思
いをはせている.和也を自分の外側に位置する他者と見なしてライバルとすることのできる達也は,
今や不在である.いるのは達也の身体を通して現前している和也であり,永遠に南を得られない存
在となった和也である.
一方で,達也と和也は他者であるのだと突きつける者もいる.その中で最も強烈なのが,明青野
球部監督代行の柏葉英二郎である.13 かつて和也や達也のように甲子園をめざしながらも兄に阻
まれて挫折した柏葉は,「華やかな舞台にたった兄を,暗闇でみつめる弟」「それも,その華やかな
舞台に自分の出番は金輪際あり得ないとしらされた,弟」(「おまえなんだぜの巻」,『タッチ』第 12
巻)として,自分と和也を重ね合わせる.柏葉にとって兄は分身などではありえない.兄は自分を蹴
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落とそうとしたライバルであり,他者なのである.柏葉は,兄ひいては兄の意を受けて自分を追い出
したかつての明青野球部への恨みを,今の野球部を傷めつけることで晴らそうと監督代行になり,
兄としての達也を攻撃のターゲットとしている.しかし,柏葉の言葉は恨みの発露であると同時に,
達也に対して弟からの自立をうながすメッセージともなる.「どうした?上杉和也は力を貸してくれな
いのか./貸すわきゃねえよな./どんなきれいごとならべたって,実際に甲子園にいくのはおま
えらなんだ./もちろん,勝てればの話だがな./全国 13 万の高校球児の夢と栄光を手に入れる
のは,――上杉達也,おまえなんだぜ」「上杉和也の代役を気どって打たれたんじゃ困るんだよ.
、、
/上杉和也がなにを考えているか教えてやろうか?/――こいつはな,/上杉達也がめった打ち
されるところをみたいんだよ./おれがいなきゃ甲子園なんかいけるもんかといいたいんだよ!」
(「おまえなんだぜの巻」,『タッチ』第 12 巻).
この柏葉の言葉を受け,達也は「監督のいうとおり,おまえのコピーにおまえが力を貸すわけない
よな./おまえの性格はおれが一番わかってたはずなのに
」「おれは上杉達也でなきゃいけない
んだ./おまえと一緒に甲子園にいくためには――/だろ?和也
」(「上杉達也でなきゃの巻」,
『タッチ』第 13 巻)と思い至る.14 兄が実力を発揮して活躍すること,兄弟が正々堂々と勝負するこ
とをつねに望んでいた和也が,兄が弟になりきることなど願っているはずがないと,悟るのである.
実際,和也はつねに兄を他者と見なしていた.和也は兄に対して「南が好きなんだ」「だれにもわた
したくない
」「アニキにもだよ
」(「心が通じる二人の巻」,『タッチ』第 3 巻)と宣言したが,
これは兄が他者であるからこそ言える言葉である.今ひとつエンジンがかかっていなかった達也は,
柏葉の言葉をきっかけに上杉達也としてのピッチングを取り戻し,延長戦の末に須見工に勝って甲
子園出場を決めることになる.
ここで,達也に再び迷いが生じる.決勝戦の最中,上杉和也になりきるのではなく,上杉達也とし
て戦ったはずであったのに,試合が終わると和也の執念のおかげで勝たせてもらったようにしか思
えなくなるのである.事実,明青学園が一点リードして迎えた十回の裏,達也は,「上杉
/おれ
はまだ上杉和也と戦わせてもらっていないぜ」(「甲子園にいくんだなの巻」,『タッチ』第 13 巻)と執
念を燃やしていた新田明男に,正々堂々の真剣勝負を挑んだのだが,その最中,マウンドで和也
の影を感じ,新田を三振に抑えた最後の一球を和也の影と一緒に投げていたのである.
和也の夢である甲子園出場を決めてしまった達也にはもう目標がない.それは,和也が甲子園
でいかに戦うかのモデルを残していかなかったからである.代わりに和也が残したのは,南を失うと
いうモデルである.達也は,達也としての新たな目標を設定することができない.達也が達也である
ということは,達也の身体を使ってこの世に現前する和也の存在を否定することであり,真の意味で
和也を失われた存在にしてしまうことだからである.一方,和也が失われた存在だということを受け
入れられれば,甲子園で自分の力を発揮して戦い,南を得ることも可能となるはずである.達也は
和也の死を受け入れるか,和也と一体化した存在として南をあきらめるかの選択を迫られ,身動き
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を取れないでいる.南の父に,「カッちゃんは,南を幸せにしてくれる男を恨んだりするようなやつだ
ったのか?!」と問われても,達也は「かんべんしてよ
」と答えることしかできない(「アイスコーヒーの
巻」,『タッチ』第 14 巻).他者としての和也と分身としての和也の狭間で,達也は立ちつくしている
のである.
4. 周縁化される南
和也の死後,新田明男や勢南高校野球部のエース西村勇が新たに登場して,達也と甲子園を
争うだけでなく南に恋心を抱くようになる.また,達也を振り向かせようと懸命に努力する新田の妹
由加も登場する.達也と南をめぐるいくつもの新しい三角形がひしめきあいはじめることになる.
しかし,新田も西村も由加も,達也と南を本当に引き裂くライバルにはなりえない.彼らが一角をし
める三角形は,いずれも真の意味では決して生じていないのである.新田明男は,南と達也につ
いて「恋人どうしにみられないのは,あまりにも自然すぎるんだよ,/――二人が./二人でいるこ
とが
」(「明日退院の巻」,『タッチ』第 8 巻)と認めざるをえない.「できるものなら野球のあとも戦
いたいもんだな,/上杉達也と
」と口にしてはみるものの,「――ムリか」と,達也と南を争うとい
う夢をあきらめる(「いってらっしゃいの巻」,『タッチ』第 12 巻).また,由加は南に達也との仲を見
せつけようとするが,「次からタッちゃんを映画に誘うなら,アクションかコメディーものにすることネ」
(「暑くなりそうの巻」,『タッチ』第 9 巻)とあしらわれてしまう.
しかし,南と達也は三角形の構図から逃れたわけではない.甲子園に連れていくという南との約
束を和也から引き継ぐことになった達也は,自分が和也と同じように南を思っていれば打たれない
はずだと考え,「和也!/勝負!」(「南を思ってくれるならの巻」,『タッチ』第 7 巻)と思いながら,
ボールを投げる.南を争う兄弟の戦いは,和也の死後も消滅していないのである.原田正平は練
習試合にのぞむ達也と新田を見ながら,西村勇に,「おまえをライバルとは思ってねえよ,上杉は」
「新田明男でもねえ,/上杉達也のライバルは
けだ
たった一人――/双子の弟――/上杉和也だ
」(「上杉達也のライバルはの巻」,『タッチ』第 7 巻)と語るが,これは野球だけの話ではない.
達也の思いの中では,和也は死してなお南をめぐる三角形の一角を担っているのである.そして
南は,和也の死後も,達也と和也の絆を深める媒体でありつづける.
興味深いのは,媒体と化すことによって,南の意志が効力を奪われる点である.「和也と,南を争
えるような男」「南を幸せにできる男」(「だからの巻」,『タッチ』第 4 巻)になるべく努力してみると達
也が南に宣言したとき,弟への思いやりのほうへふれていた気持ちが,南の気持ちを尊重するほう
へ移動しはじめたと言えるだろう.まず努力しなくてはと達也が考えるのは,もちろんこれまで南の
ために努力を重ねてきた弟への配慮ゆえであろうが,少なくとも,三角形に参加するという達也の
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決意は,南の気持ちに応えることを目的としている.弟との勝負は,勝負そのものが目的なのでは
なく,努力の表現手段である.しかし,この達也の決意を受けて南をめぐる勝負の開始を和也が兄
に宣言し,それを達也が受け入れるとき,三角形に参加するとは,すなわち兄弟の勝負に参加す
ることにほかならなくなる.和也が南に「あ,審判は公平にね.ひとまず特別な感情はおいといて」
(「恋のキャッチボールの巻」,『タッチ』第 4 巻)と言うとき,南がそのとき下している達也のほうが好
きという選択は,いったん無効となってしまう.
これより前,和也がトランプに「勝ったほうが南を嫁さんにできる」(「本気だよの巻」,『タッチ』第 3
巻)という賭けを達也に申し出たときは,南はトランプを叩き落してその勝負を阻止した.自分の意
志の外側で自分の運命が決められるのを拒んだのである.しかし,「審判は公平にね」と言われた
とき,彼女は「南もがんばらなくっちゃ!/二人が競ってりっぱな男性に成長したとき
/相手にさ
れなくなったら困るものね./ステキな女性になるように,がんばらなくっちゃ」(「がんばれ,和也の
巻」,『タッチ』第 4 巻)と反応して,兄弟が競い合うことを認める.南にそのつもりはなかったかもし
れないが,このとき彼女は,自分が兄弟の勝負で勝利したほうを選ばなくてはならないこともまた認
めてしまったのである.審判とは勝敗を決する存在であるが,同時に恣意的に判断をくだしてはい
けない立場にある.公平な審判になることを受け入れた南は,自らの意志で達也か和也かを選ぶ
権利を放棄してしまったと言えるだろう.また,どんな競技においても主役は選手であり,審判は脇
役に徹すべき存在である.15 少女を媒体として絆を深める少年たちは,自分たちが主役となって肝
心の少女を脇役へと退かせてしまったのである.イヴ・コゾフスキー・セジウィックは男性同士の絆が
重視されて女性を周縁化するホモソーシャルな体制の持つ意味を歴史的に検証しているが,この
少年たちの絆は,まさに彼女の論じたホモソーシャルな絆の伝統に連なるものと言えるだろう.16
ふりかえってみると,甲子園に連れていってもらうのを夢とし,野球部にマネージャーとして入部し
たこと自体が,南を周縁へ追いやる選択だったと言える.野球部の部員たちがめざしている甲子園
とは,少年だけの世界であり,少女を排除する空間だからである.南は甲子園に憧れている.しか
し,女であるがゆえに大会に参加する資格のない彼女は,自ら白球を追うことによって甲子園への
切符を手にすることはできない.マネージャーとして野球部の一員になりはするものの,甲子園へ
はあくまでも誰かに連れていってもらわなければならないのである.そこで,和也にその夢を託すこ
とになり,和也の死後は達也がその夢の実現に取り組むことになる.
高校野球と甲子園を分析している江刺正吾は,このような甲子園をめぐる男女の差異について以
下のようにまとめている.
スポーツの一つである野球には,ジェンダーという視点から巨視的にみると,二つの側面があ
る.その一つは「顕在的側面」というべきもので,ゲーム場面における勝利獲得へのパフォー
マンスそのものの側面であり,もう一つは「潜在的側面」というべきもので,勝利への支援行為
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として行われるシャドウ・ワーク的な側面である.
甲子園野球においては,この二分法に
従えば,プレイヤーとしての男子生徒が顕在的側面を担い,野球に強い関心を持ちながらも
現行の規定では選手に決してなれない女子生徒が,マネジャーなどの潜在的側面を担って
いる,ということになる. 17
さらに,江刺はマネージャーとしての女子生徒についてこう論じている.
女子生徒の支援活動は,男子生徒の選手にとってプレイに専念するために,あるいは実力を
十分発揮するために必要なことであり,各選手にとってかけがえのない「オンリー・ワン」的な
存在である.ここでは,女子生徒の属性,換言するならば「支援者のパーソナリティ」がもっと
も重要なのである.あたかも母親のように,あらゆる喜怒哀楽を包み込み,背後で多くの雑用
をこなしながら,選手が情緒的に安定し試合で最善のパフォーマンスが発揮できるように配
慮するのである.18
これこそまさに,南が引き受けていた役割そのものである.結局,野球部という世界の中心を占める
のは和也や達也たち選手である.選手になれない女子マネージャーの南は,どれだけのことをこな
そうとも,決して部の活動の表舞台に立つことのない周縁化された存在なのである.
現実の高校野球では,1996 年の選手権大会,いわゆる夏の大会から,記録員のベンチ入りが
認められ,マネージャーの女子生徒が参加する可能性が開けたものの,出場選手はあくまでも男
子生徒に限られている.19 達也が甲子園に出場したと設定されている 1986 年の段階では,女子
はスタンドから応援する以外,試合に参加する道はなかった.この 1986 年の第 68 回選手権大会
のテレビ中継の映像と音声を分析した清水諭は,自校の選手を懸命に応援するバトン部の女子生
徒の「私たちも暑さに負けないでがんばりますから,選手の皆さんもがんばっていいプレーを見せ
てください」という声援を,「アルプスの乙女の切なる願い」とまとめたリポーターのことば,そしてそ
れを受けて「グラウンドもスタンドも一体」と述べたアナウンサーを例に挙げ,20「『アルプススタンドの
応援団と選手の一体感』を強調しながら,『アルプスの乙女』というジェンダー観を固定させて『物
語』づくりをしていこうとする意図が映像と音声から感じとることができよう」21 と論じている.甲子園へ
行くことを心から望んでいるのに傍観者の位置にとどまらざるをえず,スタンドから観戦するほかな
い南は,まさにこの甲子園という場に作り上げられる「アルプスの乙女」の役割を演じていると言える.
南のありようは,甲子園という場所のジェンダー観に見事に当てはまっているのだ.高校野球という
枠組みが作品の前面に押し出されるようになると,かわいらしく成績も良く誰からも好かれるという,
冒頭から終始一貫して南が体現してきた理想の女の子像には,中心を少年に譲り,自分は脇から
見守るという側面が付与されはじめるのである.
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高校野球の世界でこのように周縁化されている南は,やがてもっと中心から遠ざけられることにな
る.南は和也の死後,新体操を始め,野球部のマネージャーの地位を追われるのである.新体操
部と野球部のかけもちをきらった野球部監督代行の柏葉英二郎に追い出されたかたちであるが,
南が野球部を去るのは,ある意味で起こるべくして起こった出来事と言えるだろう.野球にうちこむ
達也は,和也のようなエースになろうとするあまり,和也との一体化へと進んでいく.和也や達也が
野球に取り組むのは,もちろん南を甲子園に連れていくためであるが,野球をめぐる達也と和也の
絆は,南を置き去りにして深まっていく.達也が野球にのめりこめばのめりこむほど,南はますます
周縁へとはじき出されるのである.
こうして,南をめぐって争う達也と和也という構図だった「達也――南――和也」の三角形は,和
也の死後,南にとっては,達也をめぐる南と和也の三角形に変貌してしまったと言える.達也が野
球に励み,和也との絆を深めれば深めるほど,達也と南の距離は縮まらなくなる.ふたりが相手を
思い合わなくなるわけではまったくない.南にとって達也を取り合うべき真のライバルは決して新田
由加ではないのである.南の前に立ちはだかるのは亡くなった和也である.和也の生前「選ぶのは
お姫さまだ」(「双子の王子の巻」,『タッチ』第 4 巻)と原田は言ったが,選ぶのは南であってもその
選択に効力を与えるのは選ばれる側である.達也の中の南への思いが和也への思いに勝らなけ
れば,南の選択は有効にならない.
中学から高校にかけて積極的で大胆な行動に出ていた南は,こうして和也の死後,次第に受動
的な存在となっていく.それは南が新体操という場を得て,サポート役ではなく主役として活躍する
のと時を同じくするために,一見目につきにくい.南が新体操という自分ひとりの活躍の場を得たこ
とを,実写版映画を監督した犬童一心は「野球部のマネージャーしながら,新体操もやっている原
作の設定は,80 年代以降の新しい女性像だと思うんですよ.運動部の男子を見守るだけだった戦
後の女性キャラとは違う」22 と評している.確かに,新体操の世界で次々と成功を収める南は,能動
的に自己実現をはかっているようである.しかし,南はこれと反比例するかたちで,達也との関係に
おいては,受動的な存在になっていく.達也と和也と南をめぐる物語の中で,南は脇役に甘んじる
ようになる.甲子園をめざす達也を観客席から見守るほかないのと同じく,南は,達也の気持ちの
揺れ動きを当事者というよりも傍観者という立場から見守るほかない.甲子園出場を決めたあと,わ
ずかに西村勇が勢南高校野球部マネージャーの女の子と一緒に軽井沢に出かけたことを伝え,
「あの二人もね」「幼なじみ同士なんだって」(「8 月 8 日の巻」,『タッチ』第 14 巻)と告げるのみであ
る.そもそも南を媒体として生じた和也と達也の絆は,肝心の南を周縁化してしまい,彼女が能動
的であることを抑制してしまうのである.
南は,作品中終始一貫して,理想の女の子の定式を体現した,才色兼美で誰からも好かれる存
在として登場している.その彼女は,このように,新しさの衣をまといつつも内実は古典的な受身の
女性になっていく存在でもあり,新しい女性像を肯定する感性に対しても,伝統的女性像に心地よ
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さを覚える感性に対しても,アピールする側面をそなえることになった.このような二面性はどちらの
感性からも嫌われる可能性を持ちうるが,南というキャラクターの場合には,これが大いに成功を収
めたと言えるだろう.『タッチ』に登場する女の子は,そもそも数が少ないうえに,たいてい野球部の
女子マネージャーであり,最初から支援者としての姿勢を示している.唯一異彩を放つのは,南と
は対極的な存在として提示される新田由加である.しかし,彼女もまた,結局は野球部のマネージ
ャーとなり,支援者の立場に甘んじ,見守る「アルプスの乙女」となっていく.南と同じく,個性を発
揮し,スポットライトを浴びているようでいても,実は陰の部分に置かれた存在だと言える.こうした
女の子たちのありように,この作品が内包する非常に古典的な女性観を見て取ることができるだろ
う.
南を考えるうえでもうひとつ興味深いのは,彼女の存在がただ排除されるだけという以上の意味
を持っていることである.中心からはずされた彼女こそが,少年たちの行動を裏からコントロールし
ているのだ.和也や達也が甲子園を目指して必死に闘うのは,南がそれを望んでいるからにほか
ならない.達也が和也との関係について悩みつづけるのも,南をめぐる葛藤があるからである.三
人の関係を突きつめていくと,排除されたものが逆に排除したものを規制しているという構図もまた
あぶりだされてくる.排除するものとされるものとの間の簡単に単純化できない関係を,読みとること
ができるのである.
5. 『タッチ』が提示する成長
甲子園野球に付随するジェンダー観を体現する南ばかりでなく,達也もまた甲子園の申し子のよ
うな存在と言える.清水諭は,甲子園での高校野球について,
「地元での盛り上がり」と「乙女」に守られ,「全員一丸」,他校との「友情」を保ちつつ,「気迫,
精神力」で「勝敗にかかわらず,あきらめないで努力すること」,そして,「記録」を追い求める
こと.このような言説は,まさに「青春」や「若者らしさ」の「物語」であり,そしてそれが歴史的に
繰り返されることで,甲子園野球の「神話」となるのだ.23
と論じているが,上杉達也の物語には,まさにこうした甲子園野球の神話の要素がちりばめられて
いる.見守る「乙女」も,「友情」で結ばれた他校の選手も登場する.「気迫,精神力」が選手たちの
支えとなっていることは確かであり,「勝敗にかかわらず,あきらめないで努力すること」の大切さもう
たわれている.地区予選で「記録」に残るノーヒットノーランを達成しようとする達也を,チームメイト
は応援する.詳細に描き出されている野球の練習や試合のシーンは,予選大会の段階のものでは
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あるが,まさにいわゆる甲子園野球のエッセンスを集め,その神話の再話を試みるものだと言える
だろう.
しかし,甲子園での大会の初日の朝,達也は開会式には出ず,はるばる鳥取まで南に会いに行
く.達也によれば,「スタート地点の確認」(「よびだしベルの巻」,『タッチ』第 14 巻)のためであるの
だが,この行動にはどのような意味がこめられているのだろうか.
南に会った達也は,「上杉達也は浅倉南を愛しています」(「よびだしベルの巻」,『タッチ』第 14
巻)と告げる.これは,達也と和也は分身の関係にあるのではなく,他者同士だという認識の確認に
ほかならない.達也は和也になりきる,すなわち和也と分身の関係となるという誘惑を退けたのだと
言える.そして,「毎年和也の墓参りにつきあうこと」(「よびだしベルの巻」,『タッチ』第 14 巻)を達
也は南に約束させるが,これは和也を死者と見なすという宣言であり,自らのうちに現前する存在と
してではなく失われた他者として和也を眺める視線を達也が獲得したことにほかならない.この達
也は,地方大会決勝戦の前日,和也の墓を前に「和也はここにはいないよ」(「ここにはいないよの
巻」,『タッチ』第 12 巻)と言ってその死を間接的に否定した達也では,もはやないのである.
さらにまた達也の告白は,和也抜きで南と新しい一対一の関係を築く宣言ととらえられる.これは
すなわち,和也が達也を招き入れたホモソーシャルな絆,つまり,そもそも南の存在によって生じ,
深められるにもかかわらず,その彼女を周縁化し排除してしまう男同士の絆からの脱皮を意味して
いる.達也はついに和也との絆よりも南との絆を重視する決断をしたのである.分身としての和也と
他者としての和也,和也への思いと南への思いの狭間で動けずにいた達也にとって,他者として
の和也を受け入れ,南への思いを優先するという決断を口に出し公のものとすることが,「スタート
地点の確認」なのである.24
このように,表面的には約三年間にわたる達也と南の関係を描いているように見える『タッチ』とい
う作品は,厳密には達也と和也の関係の移り変わりを追いかけているのである.自分とは誰なのか
というアイデンティティの問題とも,愛する者の死をいかに受け入れるかという追悼の問題とも重ね
あわされて提示されているふたりのホモソーシャルな絆は,最終的には脱皮すべきものであるが,
決して否定的に扱われているわけではない.ホモソーシャルな絆をへることによって,「なにをやっ
ても,いいかげんな中途半端男だった」(「プレッシャーだよの巻」,『タッチ』第 11 巻)達也が,プレ
ッシャーから逃げ出すこともなく真剣に積極的に物事に取り組めるようになっていくからである.『タ
ッチ』という作品に克明に描き出された成長とは,すなわち大塚英志が「通過儀礼」と見なしたもの,
山崎哲が「個への分離」ととらえたものとは,このように,ホモソーシャルな絆を結ぶことで成長する
契機を得た少年が,分身への誘惑に陥りながらもそれを退けることによって自立し,最終的にはホ
モソーシャルな絆から脱皮して新たなスタートを切るという過程を意味しているのである.宗教学者
のミルチャ・エリアーデは,「神話の第一の機能は,人間のあらゆる儀礼と重要な活動――食事,
結婚,勤労,教育,芸術,知恵――の模範型を顕示することである」25 と論じたが,上杉達也という
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ひとりの少年の描く約三年間の軌跡は,作品全体を通じて決して批判的に描かれているわけでは
なく,むしろ少年の成長のひとつのありようとして肯定的に提示されている.甲子園での高校野球
に内在する神話およびそのジェンダー観をひとつの基盤として取り込んでいるこの作品は,甲子園
野球の神話の再話にとどまらず,少年の成長に関するもうひとつの神話を創り上げていると言える
のではないだろうか. 26 その神話が大いに支持されたのは,もちろんそれを提示する表現方法の
巧みさに負うところが大きいだろう.27 だが,視野を広げてこの作品が発表された 80 年代という時
代を見渡してみると,それは過去からの連続性を支持しつつも,そこからの逸脱を否定しないという,
新保守主義的な政策の採られた歳月だった.『タッチ』に埋め込まれたホモソーシャルな絆という古
典的なモチーフとそれからの逸脱の双方を肯定する感性は,この時代の風潮にまさに適合するも
のだったのであり,だからこそ,この作品は大いに人気を博したのだろう.そして,少年の成長をめ
ぐる神話としての普遍性ゆえに,その後も新たな読者を獲得しつづけ,その魅力が衰えることがな
かったのだろう.こうした点こそが,二十年をへてもなお色褪せないほどの支持を集めえた理由で
あり,この作品の価値であると言えよう.
注
1
夏目房之介『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』(双葉社,1991 年)
76∼78 ページ.
2
米沢嘉博『戦後野球マンガ史 手塚治虫のいない風景』平凡社新書 154(平凡社,2002 年)
176 ページ.
3
夏目,76 ページ.
4
犬童一心監督『タッチ』(東宝映画,2005 年 9 月 10 日公開)プログラム(東宝ステラ,2005 年)
を参照.
5
大塚英志『システムと儀式』(本の雑誌社,1988 年)206 ページ.
6
大塚,203∼204 ページ.
7
山崎哲「マンガ名作講義 タッチ」,『朝日新聞』1997 年 1 月 11 日夕刊.
8
あだち充『タッチ』第 14 巻,小学館文庫,2000 年.以下,『タッチ』からの引用はすべてこの文
庫版(全 14 巻,1999∼2000 年)による.
9
10
夏目,76 ページ.
ルネ・ジラール,古田幸男訳『欲望の現象学 ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』(法
政大学出版局,1971 年).
11
夏目,77 ページ.
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12
喪失と不在の議論については,Dominick LaCapra, “Trauma, Absence, Loss,” Critical
Inquiry 25 (Summer 1999)を,死者と追悼の議論については,Penelope Deutscher,
“Mourning the Other, Cultural Cannibalism, and the Politics of Friendship
(Jacques Derrida and Luce Irigaray),” Differences: A Journal of Feminist Cultural
Studies 10.3 (1998)を参照した.
13
原田正平もまた,柏葉ほど強烈ではなく不完全であるが,和也と達也は別々の人間だと見な
す視点を持っている.達也の投球を見ていて達也と和也を重ねあわせずにはいられない南は,
「バカなこというな!/なんでもかんでも死んだ男のせいにされちゃ,/流す汗の意味がなく
なるぜ」(「ツキはこっちにあるの巻」,『タッチ』第 12 巻)と原田に言われ,はっとすることにな
る.
14
模倣はスタート地点としては意味を持っても究極的には意味をなさないというのは,『タッチ』
という作品全体を貫く価値観である.例えば,達也に憧れて明青野球部に入りピッチャーを目
指す吉田剛は,達也と同じフォームで投げようとするが,キャッチャーの孝太郎はそのような彼
に,「あいつのマネばっかしてたんじゃ,いつまでたってもおいこせねえぞ」(「第二部開始の
巻」,『タッチ』第 5 巻)と言う.この吉田は,やがて達也をライバル視するようになり,転校先の
高校の野球部エースとして,達也と対戦することになる.最初は自信たっぷりであったにもか
かわらず,試合が進むにつれ打たれて呆然とする吉田を見た西村は,「ストレートは上杉,変
化球はこのおれのコピー,/メッキがはがれりゃただの小心者さ」(「悪いな,吉田の巻」,『タッ
チ』第 11 巻)と切り捨てる.これに対し新田は吉田をかばう発言をするが,彼もまた,コピーに
よって得られたものはメッキにすぎず本物ではないという考えを支持していることに変わりはな
い.吉田をめぐる言葉から浮上してくるのは,「『ほんもの』の世界は,およそ技術的な――もち
ろん技術的なものにかぎらないが――複製をうけつけない」というヴァルター・ベンヤミンの指
摘と同じ考えである.ヴァルター・ベンヤミン,高木久雄・高原宏平訳「複製技術の時代におけ
る芸術作品」,佐々木基一編集解説『複製技術時代の芸術』(晶文社,1999 年)13 ページ.
15
ただし,ロラン・バルトは,レスリングにおいては選手や審判の位置づけが例外的であることを
指 摘 し て い る . Roland Barthes, “The World of Wrestling,” Mythologies, trans.
Annette Lavers (New York: Hill and Wang, 1972) 15-25.バルトによれば,レスリングとは
「過剰なスペクタクル」(15)であり,その最も成功した試合とは,「会場になだれこんで,レスラ
ー,セコンド,レフェリー,そして観客をごちゃまぜにしてさらっていく,意気揚々とした無秩序」
(23)である.そこでは,公平な審判や脇役に徹する審判は求められていないのである.
16
Eve Kosofsky Sedgwick, Between Men: English Literature and Male Homosocial
Desire (New York: Columbia UP, 1985).
17
江刺正吾「甲子園とジェンダー」,江刺正吾・小椋博編『高校野球の社会学 甲子園を読む』
85
『テクスト研究』第3号
2007 年 1 月
(世界思想社,1994 年)66 ページ.
18
江刺,74∼75 ページ.
19
財団法人日本高等学校野球連盟ホームページ,「憲章&規定」中の「平成 18 年度大会参
加者資格規定」(http://www.jhbf.or.jp/rule/enterable/,2006 年 9 月 30 日参照),および
「選手権大会」中の「大会小史」(http://www.jhbf.or.jp/sensyuken/history/,2006 年 9 月
30 日参照).
20
清水諭『甲子園野球のアルケオロジー スポーツの「物語」・メディア・身体文化』(新評論,
1998 年)34 ページ.
21
清水,38 ページ.
22
犬童一心監督『タッチ』プログラム.
23
清水,50 ページ.
24
2005 年公開の実写版映画『タッチ』は,監督が決まるよりも前に浅倉南役の女優が決まって
いた企画だったことを,監督を務めた犬童一心自身が新聞のコラムで述べている.脚本を担
当した山室有紀子も,南役の女優を誰にするかということがプロデューサーの関心事であった
ことを,インタビューの中で示唆している.犬童がプログラムの中で認めているように,この映画
には南役の女優を中心に据えるアイドル映画の側面があったのである.このようにして出来上
がった映画には,原作の構図やせりふをそのまま取り入れて原作の世界を忠実に再現しようと
いう部分もある一方,原作を大胆に変更した箇所がある.中でも非常に大きな変更は,達也の
葛藤に関するものである.映画版の達也は,原作と同じく和也の死後野球を始めるが,自分
は和也のようにはなれない,甲子園へ行くという幼いころに三人で見た夢はもはや実現できな
いという挫折感を抱き,野球を続けるべきかを葛藤することになる.そして,原作で膨大なペー
ジ数を費やして描き出された,弟を他者として受け入れる過程は,映画版ではほんのわずか
なピッチングの間合いの出来事となっている.映画の達也がマウンドで和也を感じるのは,甲
子園まであとアウトひとつと迫って新田明男をバッターボックスに迎えたときで,最後から二球
目を和也の影とともに投げ終えた達也は,自分が南を甲子園に連れて行っていいんだなと和
也に語りかける.すなわち,ここで達也は和也を他者と見なしたことを宣言しているのであり,こ
の後ひとりで最後の一球を投げ新田を三振に抑えることになる.このように,達也の葛藤が別
の葛藤に置き換えられたり簡素化されたりして,結果的に彼が作品内で占める比率が下がっ
ているというのは,達也ではなく南を前面に押し出すという選択がもたらした必然の改変と言う
べきであろう.犬童一心「オフステージ 女優であるということ④きれいに染まり,輝く」,『朝日
新聞』2005 年 8 月 26 日夕刊,犬童一心監督『タッチ』(東宝映画,2005 年 9 月 10 日公開),
同プログラム,山室有紀子「『タッチ』脚本家インタビュー 三年越しに実現した映画デビュー
作」,『シナリオ』2005 年 10 月号,18∼22 ページ,山室有紀子「タッチ」,『シナリオ』2005 年
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10 月号,23∼49 ページを参照.
25
ミルチャ・エリアーデ,中村恭子訳『神話と現実』,エリアーデ著作集第 7 巻(せりか書房,
1973 年)14 ページ.
26
『タッチ』と神話については,犬童一心もこの作品の展開に神話的なものを感じたことを映画
のプログラムの中で明かしている.また,クロード・レヴィ=ストロースは,神話において双子が
対極的な存在として登場してくる例を紹介しているが,『タッチ』の冒頭でまず提示されるのも,
達也と和也がどれだけ対照的な存在かということである.クロード・レヴィ=ストロース,大橋保
夫訳『神話と意味』(みすず書房,1996 年).
27
例えば,間のとり方に関して,複数の批評家が惜しみない賛辞を寄せている.夏目房之介は
「この作者の持つ独特な時間間隔=コマ運びの間のうまさ」の手法を「見事な職人芸」と呼び,
さらに「間のとり方がうまいということは,間のはずし方がうまいということだ」と述べている.夏目
78∼81 ページ.また,米沢嘉博は,「絶妙の間,テンポ」という表現を用い,「このスタイルはあ
だち充以外の誰にも描けないものであり,そのテンポは時代を超えて愛されていったのだ」と
結論づけている.米沢 176∼177 ページ.
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