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ナザレのイエスは誰ですか!
[p3の続き] 使徒たちは、人々から礼拝された時、そのような行動を強く否定しました。 「皆さん、なぜこうした事をするのですか。わたしたちも、あなた方と同じ弱さを持つ人間です。 ………彼らは、やっとのことで、群衆が自分たちに犠牲をささげるのをとどめたのである。 」 (新世界訳 使徒14:15、18) しかし、イエスはトマスの告白を受け入れられました。 「信じない者ではなく、信じる者となりなさい。 」 「見なくても信じる者は幸いです。 」 (新世界訳 ヨハネ20:27、29) 復活の奇蹟は、トマスを初め弟子たちにイエスはキリストであり、神として崇拝されるお方である との確信を与えました。ギリシャ語「ὁ κύριος/ホ キュリオス」は旧約の神にも使われます。 「エホバ(原文は ホ キュリオス=「主」 :著者註)の名を呼び求める者はみな救われる。」 (新世界訳 ローマ10:13) ヨハネは1章1節で「言葉は神であった(God)」と始め、20章28節で「わたしの主、/ホ キュリオス ムー」 「そしてわたしの神/カイ ホ セオス ムー」と結論付けたとするのが、ヨハネの 福音書全体から「ナザレのイエスは誰ですか!」の答えとなるのです。 聖書 を神のことばと信じる人々は「ナザレのイエス」は神によって約束されていた救い主キ リストであり、神と同等、同質の方として礼拝してきました。しかし、今日では「イエスの神性」 を疑問視して、イエスの生涯から奇蹟を除き人間イエスを強調する人たちや、イエスは神よりも劣 2.エホバの証人の誤ったメッセージ る「神のような人」とする人々もいるのです。さらに「イエスを架空の人物」とする人々もいます。 ヨハネの福音書9章38節で生まれながらの目の不自由な男性が癒され、イエスに「敬意をささ 今年は西暦2015年です。世界の大半の人々がイエスの歴史的誕生を起点としている西暦を使っ げた。 」 (新世界訳)とあります。新改訳、口語訳、共同訳、文語訳はいずれも「イエスを拝した。」 ている以上、イエスの存在を無視するなら歴史を否定することになりますので「架空の人物」につ (KJV は“worshipped him” )と訳されているのです。ギリシャ語の「プロスクネオー」は第一義的 いては論外として、聖書は「ナザレのイエス」についてどのように教えているのかを考察致します。 には「礼拝する」と訳されるところですが、新世界訳を出版したエホバの証人はイエスを礼拝の対 この冊子ではヨハネの福音書 1 章 1 節と20章28節を中心にして「ナザレのイエスは誰ですか」 象と認めたくないので、 「拝する」ではなく「敬意をささげた」としました。その理由はヨハネ1章 を明らかに致します。 1節で「イエスは神のようなお方(a god)であるから礼拝の対象ではない」と決めつけ、あら ヨハネの福音書 1 章 1 節をすべての公的な日本語聖書は ゆる聖句をこの前提で解説するのです。 「言葉は神であった。」と翻訳しています。 ……………………………………………………………………………………………………………………… 新共同訳 「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。 」 これらのことから、エホバの証人のイエス論はヨハネの1章1節の解釈の誤りを基にして展開して 口語訳 「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。 」 いることがおわかり頂けるでしょう。ヨハネの福音書1章1節で「言葉」を「神のような方、幾つか 文語訳 「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 」 ある神の一つ(a god)」と信じている方々に考えていただき,真理は何であるかに気づいていただ 永井訳 「初めに言ありき、また言は神と偕にありき、また言は神なりき。 」 きたいのです。 新改訳 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 」 「ナザレのイエス」 「人生の希望と目的」 「心の平安」などについて更に詳しくお知りになりたい方 新世界訳 「初めに言葉がおり、言葉は神とともにおり、言葉は神であった。 」 は下記のところへ勇気を持ってご連絡ください。 上記以外にも私訳がありますが、すべての日本語訳の聖書では、 「言葉は神であった。 」 (新世界訳) 連絡先: JW問題カウンセリングセンター 〒655-0048 間に宿り…」 (新世界訳)を参照すると、 「言葉」は誕生する前の「イエス」であることが分かりま 神戸市垂水区西舞子8丁目10-11 E-mail [email protected] ―4― と訳され、 「言葉(言、ことば) 」とは1章14節の「こうして、言葉は肉体となってわたしたちの 代表:島 光一 2015年1月10日発行 す。1節と14節とを合わせて考えますと「イエスが神であった。 」となり、日本語からは明白に、 誰が読んでも「イエスが神であった。 」との理解になります。 [p2へ続く] ―1― 「言葉は神であった。」(新世界訳 ヨハネ 1 章 1 節の最後の文章) 結論としては、 の意味を詳しく考察しましょう。 「言葉(ὁ λόγος ホ ロゴス)は神(θεὸς セオス)であった。 」とは、父と人格的に同一人物で はないが、本質的な性質において同じであり、永遠の初めから一致した交わりにある神ということ ここでは「言葉」 (ギリシャ語では冠詞が伴っている /ホ ロゴス )について になります。このことは、 「言葉と呼ばれたイエス」が「父なる神」と同じ性質のお方であるとの宣 3つの教えが提示されています。 言となるのです(言葉の神性の宣言) 。それをヨハネは福音書の中でさらに明らかにしています。 1.言葉の永遠性 このようなギリシャ語の文法理解は殆どのギリシャ語学者の主張であり、 「a god」と解釈す 「初めに言葉がおり」 (新世界訳)の文章の「おり」 (英語で was 、ギリシャ語で ヘーン ) るのは、エホバの証人とごくわずかな人々、しかも、キリストの神性を否定する前提を持つユニテ は、ギリシャ語の未完了時制(過去の中の継続)が使われているので、 「言葉」が「初め」から時間 リアン(単一神論者)や、キリスト教自由主義者であります。エホバの証人は、ウエストコット博 を超越して、永遠に存在していたことを教えています(言葉の永遠の存在)。 士(ケンブリッジ大学教授) 、ホート博士(ケンブリッジ大学教授)のギリシャ語テキストを使用し ながら、博士たちのヨハネ1章1節の解説を受け入れません。その他に権威あるギリシャ語学者A. 2.言葉と神との人格的区別と一体性 T.ロバートソン博士(南部バプテスト神学院教授) 、ダナ博士(西南バプテスト神学院教授) 、マン 「言葉は神(ギリシャ語で ホ セオス)とともにおり。 」 (新世界訳)の文章では、 「言葉(ホ ロ ティー博士(北部バプテスト神学院教授)の知識を引用しながら、彼らのヨハネ1章1節の解説を ゴス) 」が「神(ホ セオス) 」と向かい合って交わっていたことが教えられています。ギリシャ語で 拒んで「a god/神のようなもの」と主張して、イエスの神性を認めていません。B.M.メツガ は「ホ ロゴス エーン プロス トン セオン」 、英語では“the Word was with God.”となっていま ー博士(プリンストン神学院教授 新約聖書本文研究の権威)は「a god」とする翻訳を「恐ろ す。前置詞「プロス」は名詞の対格を伴い親密な一体となる交わりを現し、 「言葉(ホ ロゴス) 」と しい訳である。 」と主張しており、W.バークレイ博士(スコットランド グラスゴー大学教授)も 「神(トン セオン) 」との人格的区別と永遠の一致した親しい交わりが明示されています。18節 「“the Word was a god.”の翻訳は文法的に不可能である。新約聖書として翻訳する教派は知的に の「父に対してその懐の位置にいる独り子の神」 (新世界訳)の聖句からも独り子の神(イエス)が 不正直であることは明らかだ。 」と主張しています。 父なる神と継続的に交わっていたことが示されています( 「懐に居続ける者」/現在分詞の名詞的用 法)。 ヨハネの福音書においてイエスは神の子として紹介されており、父との区別は明白ですが、この 点でイエスの神性否定には結びつきません。むしろ人格の区別がなければ三位一体の教理も否定さ ヨハネの福音書では「言葉(ホ ロゴス) 」は肉体を身につけて(受肉、1:14)人となり、神 れるのです。 (ホ セオス)とは区別され「神のひとり子」 (1:18)と呼ばれています。また、神(ホ セオス) は父と呼ばれ、イエスとの関係において「父は、すべてにまさって偉大です」 (10:29、14: 28)とあるように、父なる神に対してイエスは従属的関係で教えられています(言葉と神との人 格の区別と永遠の一致した交わり) 。 ヨハネの福音書20章28節 弟子トマスの告白について考えてみましょう。 「わたしの主、そしてわたしの神!」(新世界訳) (ホ キュリオス ムー カイ ホ セオス ムー) 1.福音書記者のメッセージ 3.言葉の神性 イエスの弟子のひとりトマスは復活のイエスが現れた時、その場所にはおらず、イエスの復活を 「言葉は神であった。 」を正しく理解するためには、文章の前後関係と単語や語順に注視しなけれ ばなりません。ギリシャ語聖書では「θεὸς ἦν ὁ 「わたしは決して信じない。 」 (新世界訳 ヨハネ20:25)と断言しました。ところが1週間後に λόγος(セオス エーン ホ ロゴス)」となって 現れた時、弟子トマスはイエスを「わたしの主、そしてわたしの神!」 (新世界訳 ヨハネ20:2 います。冠詞「ὁ ホ」のある「言葉(λόγος ロゴス)」が主語となることは明らかですが、 「神(θεὸς 8)と告白したのです。この時、ヨハネはギリシャ語で「主/ホ キュリオス」と「神/ホ セオス」 セオス) 」が述語動詞「ἦν エーン」に先行しているので、強調されていることも注視されなければ に冠詞を使い、イエスを父なる神と同等の礼拝の対象として告白しました。ヨハネは1:1の宣言 なりません。 「神(θεὸς セオス) 」に冠詞(ὁ ホ)がないことから「a god(一つの神、神のよ で始まり、トマスの告白20:28をクライマックスとして「イエスの神性、神である」ことを福 うなもの) 」との可能性があると主張する人々もいますが、ユダヤ人(唯一神論者)であるヨハネが 音書において明らかにしました。 「神(θεός セオス) 」を多神論の神としては使いません(使う場合は複数形の θεοί セオイ) 。 ですから冠詞のない場合は性質の強調となるのが通説で、父なる神(ὁ θεὸς 性質を有する方となるのです。 ホ セオス)と同じ イエスは父なる神(ホ セオス)と明らかに人格的区別はあります - 特に受肉後のイエスは、神 の子として、父に従属的です(ヨハネ14:28、ピリピ2:6-8)-。しかし、イエスは父と 共に永遠に存在し、交わっておられました(1:1,1:18) 。そして、本質において、父と同等、 同質のお方として人々から礼拝されるべきお方であられたのです ―2― [p4へ続く] ―3―