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現代日本語の動詞性名詞と「の」「こと」による名詞化

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現代日本語の動詞性名詞と「の」「こと」による名詞化
現代日本語の動詞性名詞と「の」
「こと」による名詞化について
佐藤 佑
0. はじめに
ある動作、作用に言及する際には動詞(句)を用いるのが通言語的に最も一般的な方法
であるが、そうした事態を名詞的に述べる方法もまた多く存在する。現代日本語において
その役割を担う代表的な形式として、一つには「動き」
「行動」など動詞(動く、行動する)
との対応関係を有する名詞 1 を用いた方法が挙げられる。今一つのそうした動作・作用を名
詞的に述べる代表的な形式としては、所謂準体助詞「の」や形式名詞「こと」などを用い
た方法がある。
「動き」「行動」の類(動詞性名詞)は単一の動詞と名詞が対応関係を有し、動詞句にお
ける広義の連用修飾要素(ガ格およびそれ相当の主語名詞も含む)はノ格をはじめとする
連体格の形でVNを修飾しうる(身体の動き、英語の勉強、彼への/に対する批判)
。
一方、「の」「こと」による名詞化(「Vスルノ」「Vスルコト」)は動詞単体(歩くの/こと
は健康にいい)、動詞句(街中を歩くの/ことは気持ちいい)、動詞述語文全体(こんなにた
くさんの人が朝から一斉に街中を歩くの/ことは危険だ)と動詞の様々なレベルを直接名詞
化することができる 2 。本稿では、動詞性名詞をVerbal Noun(略称VN)、Vスルノ・Vスル
コトの二者を「名詞(=「項」相当)化された節 3 」としてComplementized Clause(略称
CC)とそれぞれ称することにする。
前者の呼称に関しては影山(1993)、小林(2004)などで「動名詞」とされているものと
同様であるが、本稿で言う「動詞性名詞」は和語動詞の連用形も含むものであり、その定
義は異なる(なお、語構成により分けて考える必要がある部分については、「動き」の類を
連用形VN,「行動」の類をサ変VNとそれぞれ称する場合がある)。本稿ではVNを囲み線、
それに対する連体修飾要素を実線(複数伴う場合は二重線で表し分ける場合がある)、それ
を後項とする複合語の前項は網掛けで示す。連体修飾の諸要素+VN(VN句)、VN単体に
加え、VNを後項とする複合名詞(全力疾走、おもちゃ遊びなど。さらにそれらの複合名詞
が連体修飾要素を伴って形成する名詞句)も含んだ名詞(句)の総称として用いる。複合
1
なお、本研究は一般言語学において広く扱われる「名詞化」の問題とは必ずしも趣旨を同じくするもの
ではない。あくまで動詞(句)と名詞(句)を繋ぐ形式としてこれらの名詞を扱い、結果として「動詞化」
の問題をも内包する部分がある。
2 このことからわかるように、橋本 1990 など一部の先行研究で用いられる「補文標識」の呼称は必ずしも
適当でない。
3 必ずしも主語が必須ではない日本語において、形式上は現れていなくとも特定の主体が想定される例に
は事欠かない(たとえば「太郎は花子に愛されていることを知らない」という文には「太郎/自分が」とい
う主語の存在が前提とされる)。前出のように動詞句・動詞単体も同様に名詞化される場合があるが、「補
語相当となった○○」の空欄部に入る、これらの総称として適当な概念が存在しないため、暫定的に(動
詞単体/句/文各々の間に明確な線引きはしきれない部分も残るため、正確な用例数を示すことはできない
が)全用例の半数程度を占めると考えられる「節」に代表させることにする。
1
語については、「風呂焚き」「クラス替え」など和語動詞連用形の一部に単独では用いられ
がたい(拘束形態素とするべき)例もあるが、それらも本稿ではVNとする。
CC については、V スルノ・V スルコト間に橋本(1990)や佐治(1993)などで指摘され
るような差異も多く見られるが、
「動詞(句/文)を名詞化する」という用法の根幹は共通で
あるため、本研究では二者を「名詞化された節」として一括する。両者の差異については、
当面必要な場合に言及するにとどめる。
VNは日本語のレキシコンに登録されている名詞であるのに対し、CCは個々の発話におい
て生産される点で、各々の出自は決定的に異なる。では、なぜこれらはいずれも(典型的
には)動詞(句)で表されるような事態を名詞的に述べるという役割を持ち、並存してい
るのであろうか。また、各々の用途が異なる場合があるとすれば、それはどのような条件
の下に起こるのであろうか。本稿では、VNを用いた表現(以下“VNP 4 ”)を中心に据え、
一見してVNPより高い表現力・情報提示力を有していると考えられる 5 CCとの対照を通じ、
その優位性、独自性を部分的にであれ示すことを目指す。
CC については、佐治(1993)など「の」「こと」間の異同に関する考察をはじめ様々な
研究が行われているが、VN を用いた表現については、連用形 VN は西尾(1961)におい
て幅広く扱われているものの、サ変 VN については田野村(1988)影山(1993)など部分
的に(主に漢語サ変動詞とその語幹とを比較する形で)分析を試みた例が散見されるのみ
である。まず VNP の使用実態、あるいは使用条件を確認する上でも、本稿の方法は有益で
あると考えられる。
その他、「方」などの接辞による名詞化はVNに準ずるものとして 6 、「姿」「音」などの抽
象名詞はCCに準ずるものとして 7 、それぞれ同趣旨の研究において扱うべき場合があると考
えられるが、どこまで拡張して考えるべきか悩むところもあり、今回はVNPならびにCCに
限って扱うこととした。その他の形式も含め、動詞(句)と名詞(句)を連関させる諸形
式を体系的に記述していくことについては、今後の課題としたい。
1. 本稿で扱う用例について
VNとは、冒頭でも述べた通り、特定の動詞との間に派生関係 8 を有し、かつその動詞の
表す動作・作用を名詞的に述べるものを指す。
4
Verbal Noun Phraseの略。
大きな要因の一つとして、動詞(句・文)をそのまま名詞化することによって得られる分析性が挙げら
れる。詳細は後述(2.の(イ)(ロ))。
6 「
(太郎の)話し方」など。以下で問題になるようにVNPには見られる意味解釈の多面(多義)性は「方」
には見られず、意味は限定的になるが、
「見る」
「食べる」
「泣く」など連用形単体を名詞として用いること
のできない動詞を名詞化することもでき(見方、食べ方、泣き方)連用形VNの穴を埋めるという側面があ
る。
7 「太郎が歩く姿(を見る)
」「花子が歩く音(が聞こえる)」など。後述(2.2.)するように、いずれも準
体助詞「の」で置き換えが可能であり、またそのことがVNPとCCの相違を生むことにもなる。
8 通時的にどちらが先行するかについては、ここでは問題としない。あくまで共時態において、動詞⇔名
詞の相互移行が起こり、また双方が何らかの動作・作用に言及するものであることをより重視する。
5
2
西尾(1961)における分類は、本研究にとって重要な手がかりとなる。具体的には、
「1
動作・作用など」の意味を持つものは本研究において VN として扱うべきであると考えら
れる。「イ 動作・作用そのもの(何々スルコト:泳ぎ、調べ、貸出しなど)」は問題ないで
あろう。
「ロ 動作・作用の内容(何々スルトコロノコトガラ:考え、教え、望みなど)」も、
たとえば「太郎の浅はかな考えが多くの不幸を招いた(作例)」のように他の事柄の原因と
して現れる際、それが当該の動作を「実行すること」によってもたらされるのか、あるい
はその内容によってなのかが判別しがたくなる場合が多々あるように、「動作そのもの」と
は連続していると言うことができる。また、具体的な動作が視覚において知覚されるのと
同様、これらが発話行為などによって表出し、聴覚において知覚されうるという意味でも
「動作・作用そのもの」と無関係ではない(ただし、後述する結果名詞との弁別は、文脈
を見て注意深く行う必要がある)。
「ハ 動作・作用のありさま・方法・程度・具合・感じな
ど(金遣い(が荒い)、滑り(がいい)など)」もまた、動作・作用のある側面について評
価的に述べる場合などに不可欠になるものであり、やはり「動作・作用そのもの」から切
り離して考えるべきではない。
逆に西尾の分類で「2 動作・作用の所産・結果(何々シタモノ)」以下に分類される類
の名詞 9 に関しては、VNとしては扱わない。たとえば「お菓子の包み」は「お菓子を包む
こと」よりその結果として出現する「包まれたもの」に、
「町中の酔っ払い」は「町中で酔
っ払うこと」ではなく「町中にいる、酔っ払った人」に、それぞれ重点が置かれている。
これらは動作の実行そのものについては本質的に言及しておらず、また「動作・作用の行
われる時間」を除き具体名詞である(また、その「時間」についても「抽象名詞である」
という一点を除けばむしろ「場所」に近い)ことも、「動作・作用そのもの」との差異を物
語っていよう。
なお、一部動詞との対応関係を有していても「事態を表す」とは言いがたいため除外さ
れる名詞もある。実際に用例を集める中で目に止まったのは「光」「話」「匂い」
「意味」の
4 つであるが、他にもあるかもしれない。
その他の連用形VNについては通常問題ないと思われるが、サ変VNについてはそもそも
対応する動詞が存在する(「する」を下接させることでサ変動詞を形成する)か否かも判断
が難しい場合がある。盤石の基準とは言えないが、本稿では『大辞林』第二版 10 で「(名)
スル」表記がされていることをサ変VN判定の基準とする。
9 2 動作・作用の所産・結果〔何々シタモノ〕
(包み、余り)、3 動作・作用の主体〔何々スルモノ・人。
ソレ(ソノ人)ガ何々スル〕(どもり、流れ)、4 動作・作用の客体〔何々スルモノ・人。ソレ(ソノ人)
ヲ何々スル〕
(つまみ、雇い)、5 動作・作用の手段〔何々スルタメノモノ。ソレデ何々スル〕
(はかり・カ
ン切り)、6 動作・作用の向けられるもの〔何々スルタメノモノ。ソレニ何々スル〕
(こぼし、ようじ入れ)、
7 動作・作用の行われる場所〔何々スルトコロ〕(通り、果て)、8 動作・作用の行われる時間〔何々スル
トキ〕(暮れ、夜更け)。
10 一定の規模を有していること(収録語数 233,000 語)
、
「する」の後続の有無が明記されていること、辞
書自体が広く用いられていることの 3 点を以て同辞典を選択した。なお、今回は携帯性などの問題からgoo
の提供するインターネット版(http://dictionary.goo.ne.jp/)を用いた。検索に利用した期間は 2006 年 8
月 10 日から 11 月末までの 3 か月半である。
3
本稿では、以上のVNの定義に当てはまる名詞と、それらが連体修飾要素を伴い形成する
名詞句、さらにはVNを後項とする 11 複合名詞について、主としてCCと対照させる形で考察
を加える 12 。
CC の定義については大筋で問題がないと思われるが、特に V スルノについて「の」が「人」
「物」などの具体名詞を代行する場合(行くのは太郎だ、食べるのはカレーだ)は扱わな
い。また、以下に挙げるようにイディオムの一部と見られる例については本質的にその名
詞性が問題とならないこともあって扱わないこととする。
(a)健康を維持するためには野菜を食べることだ。(当為表現)
(当為表現)
(b)無理に野菜を食べることはない。
(c)健康のために、毎日野菜を食べること。(命令文の一種)
(説明)
(d)野菜は健康にいい。だから私は野菜を食べるの(だ)。
(e)これから私は健康のために野菜を食べることにする。(意志の表明)
(f)そんな不健康な生活をしていると、近い将来入院することになるよ。(必然的な事態
の生起)
(事態の反
(g)時々無人販売の野菜を買うことがあるけど、やっぱり新鮮でおいしいね。
復)
(h)あなたも無人販売の野菜を買ったことはある?(経験)
(i)こんなにおいしい料理なら、いくらでも食べることができる。(可能表現)
(詠嘆)
(j)なんとたくさんの魚が泳いでいること(か/だ/だろう)。
さらに付け加えると、必ずしも「の」
「こと」を伴わなくとも V スルノや V スルコトと同
等の機能を果たしうる表現が散見される。たとえば以下のような例である。
(い)祖母がいくらお金をきちんと残してくれたとはいえ、ひとりで住むにはその部
屋は広すぎて、高すぎて、私は部屋を探さねばならなかった。(キ)
(神)
(ろ)物は、持つより捨てる方がずっと楽だ。
これらは所謂連体形準体法 13 の名残とも考えられる。特に(い)のような例は原口
(1978:432)で準体法の「慣用型が定着」したものとされており、現代語の感覚において
容易に「ひとりで住むのには…」のような言い換えが可能になる。
11
VNを前項とする複合名詞は、必ずしも事態を表さず(泥酔者、廃棄物など)、むしろ西尾(1961)の「1
動作・作用など」とは一線を画すことになる場合も少なくない。そうした場合は本稿の考察対象とはしな
いが、「(睡眠)中」「(支配)下」などの接尾辞と複合した例についてはそうした変質を伴わないため対象
とする。
12 なお、CCとの関連性が問題にならない場合も、VNPの特質を語る上で重要な事項については動詞述語
文との異同を論じることで言及する場合もある(主に 2.1.)。
13 たとえば、
「桜ノチルヲ惜マヌ人ハナケレバ…」のような例(原口 1978:437/波線は引用者)。
4
(ろ)も「持つことより捨てることの方が…」と言い換えてもいささかも意味を損なう
ことはない。これらの表現も、CC の一種として扱うべきであろう。ただし、助動詞相当と
なる「V するに違いない」などや、当為表現の「V する/した方がいい」は扱わない。
以上を踏まえ、本稿で扱う用例は、手作業により小説 9 作品の、各 100 ページ目までを
範囲として収集したVNP1171 例、CC536 例である 14 。
2. VNP と CC の構文・意味的特徴に関する考察
VN は連体修飾あるいは複合によって意味の具体化が可能であるが、名詞句として含有し
うる情報量では CC に大きく劣る。たとえば、以下のような文レベルの情報を VNP 内に含
むことは不可能と言っていい。
(イ)箸をとめたさと子は、たみがえずくたびに、門倉ののど仏が生唾をのみ込むよ
うに動くのに気がついた。(あ)
(ロ)いっつも、そうだ。私はいつもギリギリにならないと動けない。今回も本当に
ギリギリのところでこうしてあたたかいベッドが与えられたことを、私はいるかい
ないかわからない神に感謝していた。(キ)
また、CCは理論上いかなる動詞も名詞化できるのに対し、和語動詞の中には連用形がVN
として用いられないものもあり 15 、VNPに不利な部分は少なくないように見受けられる。
それにもかかわらず、VNPが実例数でCCの倍以上に上るのは、同形式が様々な独自の意
味・機能を有しているからに他ならない。
VNP と CC の差異は種々あるが、多くの場合その原因は VN の名詞性、さらにそれらが
構成する VNP の、事態を総括的に、あるいは多面的に捉えるという性質に集約される。
現段階では VNP の特質について必ずしも網羅的に記述することはできないが、下掲の表
1 に挙げられるような構文において特に両形式の差が如実に反映されていると考えられる。
本稿ではこれに従い、両形式の間に特に顕著な差の見られる構文、特に VNP の優位性を物
語る諸例について、順を追って見ていく。
14
なお、以下で実際に考察を加える中で両形式をいくつかのタイプに分けるが、中間的な例も多く必ずし
も用例数は明示できるものではない。そのため本稿では構文上の特徴などにより明らかな場合に限り、VNP
とCCの用例数を対比させる形で持ち出すにとどめる。
15 「言う」
(→*言い)「食べる」(→*食べ)「飛ぶ」(→*飛び)「泣く」(→*泣き)など。複合語の後項や
慣用句の一部(物言い、泣きが入るなど)として実現する場合もあるが、CCに比べ自由度では格段に劣る。
これは連用形VNに特徴的なことで、動詞との対応関係が大前提とされるサ変VNとは大きく異なる部分で
あるが、両者間の差異について現段階では網羅的に述べることはできない。今後さらに詳しく追求してい
きたい。
5
表1
構文・意味的なタイプ
CC との併用
VNP の特徴
節
・動詞述語文では言
機能動詞結合
及できない/しにくい
×
動作・作用
2.1.
・総括性→前提性
△
知覚・伝達の対象
(各々意味合いが異な
る)
述語による意味規定
・多面性(→総括性
((→前提性)))
△
・総括性(→前提性)
(各々意味合いが異な
・多面性(→総括性
2.2.
2.3.
((→前提性)))
る)
×~△
その他
(CCが可能な場合でも
(名詞性)
2.4.
用法が限られる)
2.1. 機能動詞 16 との共起
2.1.1. 「VNP をする」構文(191 例)
VN は名詞であり、他の名詞が現れるような様々な構文に現れることが可能である。対し
て CC はむしろ動詞(句/文)を、多く構文上の要請から名詞相当にする表現であり、本質
的に名詞らしさを欠いた部分が少なくない。
特定の構文において、VNP は自由に現れることができるのに対し CC は用いられない(あ
るいは用いられることが希である)と考えられる例の中でも特に多いのは、機能動詞(cf.
村木 1991)との共起である。特に、単に事実として動作・作用の実行・実現を言う以上の
機能を持たない、いわば本質的な機能動詞である「する」およびそれに準ずる「行う」「や
る」などの機能動詞が、VNP と共起する例は実に 191 例に上る。
村木(同)や田野村(1988)など、部分的にではあれ「する」とVNP(と本研究で称す
るべき形式)との共起を扱った先行研究は散見されるが、その構文の存在意義、端的には
「部屋の掃除をする」という機能動詞結合 17 の例と「部屋を掃除する」のような動詞述語文
18 との差異に積極的に言及したものは見当たらない。村木(同:205)でも、機能動詞結合は
「動詞と交替するとはいっても、意味の総和がひとしいというわけでもない。ことがらと
16
「実質的な意味を名詞にあずけて、みずからはもっぱら文法的な機能をはたす動詞」
(村木 1991:203)。
たとえば「さそいをかける」(≒さそう)「連絡をとる」(≒連絡する)ではそれぞれ「さそい」「連絡」が
中心的な意味を担い、「かける」「とる」は実質的意味が希薄である。このような動詞部のことを言う。
17 田野村(同)では「単純サ変動詞文型」
。
18 田野村(同)では「複雑サ変動詞文型」
。
6
しての意味、知的意味とよばれる範囲内で交替できるということである」とは述べられて
いるが、両者間に文体差があるという事実しか指摘しておらず、具体的にどのような差異
があるのかについては語られていない。
機能動詞が CC を伴う実例はほぼ得られておらず、当該の構文について VNP 対 CC とい
う対照は行うべくもないが、VNP の特質を語る上では上述のような動詞述語文との異同に
ついても考えることが重要であると思われる。
まず、VNP を「する(/やる/行う)」構文について考察する。これらが積極的に用いられ
る動機としては、大別して二通りが考えられる。一つには、(1)-(4)をはじめ動詞述
語文との対応関係を持たない VNP を動詞述語的に用いるという構文上の要請がある。
(1)
(飛行機の)キャンセル待ちの手続きをして(シーズンオフだったし、なにしろ
時間が早かったから、二枚くらいのチケットをとるのは簡単なことだった)、それか
ら二人は一緒にコーヒーをのんだ。
(神/1 つめの括弧内は引用者註)
(2)「スケールの練習も、ちゃんとやってる?」(い)
(3)去年のクリスマス・イブに、この店を借り切って大騒ぎをやった。他人でなく
なったのもその晩だが、あれ以来、禮子は店ではほとんど口を利かなくなった。口
を利かない代り、体で示威行動をする。(あ)
(4)加代ちゃんの腕をとってビールケースを飛び越えると、少年は何か重大な発見
をしたというように指をつきつけて、残りの二人に言った。/「まずいんじゃない、
その社章。おじさんたち、東海商事の兵隊さんたちでしょうが。それに世間はさ、
誘拐か人殺しでもしないかぎり、未成年には寛大だよ」(ブ)
これらはいずれも、影山(1993)で言う「単純事象名詞」であり、VNP は特定の動詞句
との対応関係を持たない。そしてそれぞれ「手続きする」
「練習する」
「行動する」
「発見す
る」といった動詞を述語として、同様の事態に言及することはできない。これらは VN を
用いて初めて述べることのできる動作・作用であり、VNP が動詞の領域に踏み込んでいる
とも言える例である。
(1)-(3)はいずれも動作・作用が何を目的としたものであるか、あるいは何に関
するものであるかが VN に対する連体修飾や複合によって具体化されている例である。
(4)
の場合、その「発見」がどのような性質を持つものであるかが形容詞によって規定されて
いる。
これらは本質的に機能動詞結合が必須になるタイプであるが、以下の(5)-(9)で
は一見してそうした必然性は感じられない。
(5)こういうとき、たみはあまり口を利かない。切れて駄目になった電球を使って、
仙吉の靴下の繕いをしている。(あ)
7
(6)
「ゲストに裏方やらせるわけにはいかないでしょう?私たちはあちらでメインイ
ベントの審査員をしてきたわ。間違っても、彼らはお茶くみなんかさせなかったわ
よ。(略)
」(マ)
(7)朝拝の鐘が鳴る。/続いて校内放送で賛美歌が流れる。週一度のお神堂朝拝以外
は、教室で朝のお祈りをする。まず聖歌を歌い、学園長の話を聞き、心を静めて神
に祈りを捧げるのだ。(マ)
(8)面白みはないけれど必要十分な照明、無表情なインテリアと食器、経営工学の
スペシャリストたちによって細部まで緻密に計算されたフロアプラン、小さな音で
流れる無害なバックグラウンド・ミュージック、正確にマニュアル通りの応対をす
るように訓練された店員たち。(ア)
(9)「軍需契機でウケに入っている工場で、職工を虐待してるところがあるそうじゃ
ないか。新聞に出てたぞ。警視庁の工事課で、抜き打ち的検査を行っておると」
(あ)
これらの例において、VNP は「仙吉の靴下を繕う」
「お茶をくむ」
「朝にお祈りする」
「マ
ニュアル通りに応対する」「抜き打ち的に検査する」のように動詞句と対応しており、単純
な動詞文で言える事態をあえて名詞的に述べ、それを再度「する」などの機能動詞を用い
て動詞化するという回りくどい、無駄とも取れるような手続きを経て生産されているよう
にも見受けられる。
しかしながら、実際にはこれらの構文は、必ずしも発話として「N を/に…VN する」な
どの動詞句と等価ではない。たとえば(7)を以下のように言い換え、文脈も含めて考え
ると、許容度は俄かに低くなる。
(7’)??朝拝の鐘が鳴る。/続いて校内放送で賛美歌が流れる。週一度のお神堂朝拝以
外は、教室で朝にお祈りする。まず聖歌を歌い、学園長の話を聞き、心を静めて神
に祈りを捧げるのだ。
朝に行われることが自明な「朝拝」において、「朝にお祈りする」という発話は意味をな
さず、むしろ「朝に」という状況語は蛇足である。一方で(7)が何ら問題なく許容でき
るのは、「朝のお祈りをする」という動詞句が「朝にお祈りする」という事実を提示するだ
けにとどまらず、新たなニュアンスが加味される表現であるからに他ならない。
「朝のお祈り」は、主人公たちにとって習慣として、毎朝するべきものとして存在して
いる。この文脈において、「朝のお祈りをする」ということは、そうしたノルマを消化し、
抽象概念上に存在する事態を現実のものとする行為である。このことは、たとえば「英語
を勉強する」と「英語の勉強をする」、「正式に謝罪する」と「正式な謝罪をする」などの
間のニュアンスの違い(それぞれ後者の方が本格的に、明確な心構えを持って取り組むと
いう意味合いが強まると筆者には判断される)にも現れているであろう。
8
(5)(6)や(8)(9)でも、習慣的であるか一回的であるかの差こそあれ(7)と
同様の前提的なニュアンスが認められよう。また、単純事象名詞の中でも(4)のように
偶発的な事態生起を言う例は少数で、(1)-(3)がそうであるように、主体が VNP の
表す事態に取り組むという意志が感じられる点は多くに共通である(そもそも対応する動
詞文がないため比較のしようもないが、これらはむしろ本質的に「取り組む」事態の表現
であるとも言えるかもしれない)。
このような前提性が現れる理由として、現状では仮説の域を出ないが、VNP が少なくと
も特定の構文において当該事態の総体を提示するという特性を持つということが考えられ
る。たとえば、(7)で言えば当事者にとって「朝のお祈り」は「平穏な学校生活を送るた
めに」
「(週 1 回のお神堂朝拝を除き)教室で」
「みんなで手を合わせ、目を閉じて」という
ように、ただ「祈る」だけでなく、その行為が行われる目的や場面、行われ方といったあ
らましまでが意識されている。(6)でも、動作主体である「たみ」は<仙吉の靴下を繕う
>行為について、「針と糸で」「土間で」などのあらましを意識した上で実行に移している
と思われる。このように、「VNP をする」構文においては事態の総体がいずれも共通了解、
あるいは話し手や動作主体自身の了解において、それがどのような行為であるのかまで(程
度の差こそあれ)前もって意識されているということが言えよう。
田野村(1988)で挙げられている「単純サ変動詞文型」の使用条件(原則)の一つに「(当
該の)動作が意志的であること」が含まれているのにも、このことが少なからず関係して
いると思われる。事態を総括的に述べる VNP を「する」
、すなわち「実行する」対象とし
て提示することで、当人が想定した事態を現実のものとする、という意味合いが顕現する。
そうした発話は多くの場合、当人が当該事態を「するべきこと」として認識しているため
に実現するのであろう。言うまでもないが、(5)-(9)の VNP も「たまたま(意図せ
ずに)」「する」という発話は許容されない。
CC が同様の構文に現れる例は以下の(ハ)1 例が見られるのみであったが、このことか
らそもそも動詞句/文を名詞化し、再度動詞化するような手続きの必要性は極めて弱いもの
であることが見て取れる(ただし、この例は対応する VN を持たない動詞の名詞化である
こと、また VNP の場合と同様に前提性が見いだしうることから、必ずしもこの構文が VNP
に特有のものであると断言することはできないかもしれない)。
(ハ)さっきまでの明るい気分はどこにも残っていなかった。キャリーにひもをか
けるのも忘れ、注意深く押すこともしなかったので、何度もボストンバックが下
に落ちた。(西)
単体のVNがこの構文に現れる場合(95 例 19 )でも、同様の前提性が見いだされる例が多
数を占める。
19
なお、VN句は 79 例、VN複合語は 17 例。
9
(10)
「テープは持ってきただろうな」/「持ってきたけど、デッキはあるのかい」/「病
院が貸してくれる。操作はお前がやってくれ。おれは、機械に弱いんだ」(い)
(11)(魚の水槽がすぐ汚れる、という相談を受けて)「だから、掃除のしすぎなんじ
ゃないかなあ。あるいは餌のやりすぎか。一度、少し水が汚れても掃除をしないで
放っておいてみたら。四分の一くらいだけ部分換水をして」(パ/括弧内は引用者註)
(10)では「機械」、(11)では「水槽」というように、いずれも対象相当のノ格名詞が
省略されたと見るべき用例である。一方、以下の(12)
(13)では対象などの項を補うこと
が難しい。
(12)大学に入学して半年が過ぎ、生活のリズムがそれなりに正確に刻めるようにな
ったことを自覚し、とりあえずアルバイトをしてみようかと僕は思い立った。(パ)
(13)私たちはよく夜明けまでのんだ。夜明けの路上でキスをして、千鳥足でうちに
帰った。(神)
ただし、これらの例では、VN はそもそも対象などの項を必要としていないため単体で現
れていると考えられる。そして、多くの例については(5)-(9)などと同様、当該の
事態は前提的に意識されていると言うことができる。
(12)は大学生活を営む上で必要な「アルバイトする」行為(場所や内容は通常問題に
ならない)を、(13)は習慣としてあった「キスする」行為 20 を、それぞれ現実のものにす
るという事態を語るものである。いずれも動詞文では等しい意味を表すことはできない(実
際に「アルバイトしてみよう」
「キスして」と置き換えてみれば、その差は明白であろう)。
以下の(14)では前提性は問題にならないと考えられるが、単体の VN が一般論を表す
ことにより初めて表現できる事態であり、「誘拐したり人を殺したり」のような動詞述語文
では「誰を?」と問い返したくなるように意味が不明瞭に感じられるようになる。
(14)
「まずいんじゃない、その社章。おじさんたち、東海商事の兵隊さんたちでしょ
うが。それに世間はさ、誘拐か人殺しでもしないかぎり、未成年には寛大だよ」
(ブ)
しかし、以下の(15)-(18)にはそうした動機は見出しがたいと考えられる。
20
主体がノ格で現れるのは、第三者視点から事態が描写される場合に限られる。そのため、この例では当
事者である「私たち」はそもそも現れる余地がない。蛇足ながら、このように相互動作を表すVNを「する」
という表現は双方の合意がなければ実現しにくいという特徴がある。たとえば「いきなりキスされて戸惑
った」という表現は発話者自身がキスされたという読みが先行するのに対し、
「いきなりキスをされて戸惑
った」という場合には第三者同士が(本人たちは合意の下で)キスするさまを見せられたという読みが先
行すると思われる。
10
(15)沢井さんは何度も病に倒れ、今は半ば死を待つような状態で入院をしている。
(パ)
(16)俺はすっかり毛皮がやせてしまったし、喉から出てきたのは、俺自身いやにな
るようなヘロヘロの声だった。これにたまげて逃げ出すのは季節はずれの油虫ぐら
いのものだろう。/案の定、三人組の男たちは大笑いをした。(ブ)
(17)ゆうべ、まほちゃんはうちに泊った。一緒に住んでいる彼とけんかをしたのだ
そうだ。(神)
(15)は第三者に関することであり、話し手が動作主の事態に対する向き合い方まで代
弁しているとは考えにくい。(16)(17)などは瞬間的な感情の変化に根ざす動作であり、
意志的行為と呼ぶに値するものでもない。いずれも「入院している」「大笑いした」「けん
かした」のような動詞述語を用いた場合との違いは特に見いだせない。
こうした例 21 については、もはや語感や作者の癖によって、半ば無意識に助詞「を」が挿
入されていると考える他ないように思われる。単体のVNは特に、形態的裏づけ(「VN句を
する」構文における連体修飾と、「Nを/に…VNする」などの動詞句における連用修飾との
対立)がないために、こうした移行(ヲ挿入)が容易に起こりうるのであろう。あるいは、
後述(2.1.2.)する他の機能動詞結合の一部と同様、動詞としての地位が確立していないと
いう場合もあるかもしれない。
なお、対象を要求する VN で、かつ当該事態が前提的に捉えられる例でも以下のように
連体修飾要素が補いにくい例もある。
(18)
「嘘よ。だってお姉さんのことばかりじろじろ見てたじゃない」/「そうだっけ?」
/マリは沈黙で返事をする。(ア)
この場合、VNP(彼/その問いかけへの返事)では強調されすぎる前提性・ノルマ性が、
このように VN 単体を用いることで和らげられるという段階性があるのかもしれない。
VN 句や VN 複合語においては(15)-(17)のような揺れは起こりにくいと考えられ
るが、以下の(19)
(20)などは作者の書き癖によって、ヲ挿入が名詞句・動詞句間の隔た
りをも飛び越えて実現した例と言えよう。
(19)
「ぼくだって、えり子さんみたいに思いつきで生きてるって君は思ってるらしい
けど、君をうちに呼ぶのは、ちゃんと考えて決めたことだから。おばあちゃんはい
つも、君の心配をしていたし、君の気持ちがいちばんわかるのは多分、ぼくだろう。
21 実際には前提性の有無について客観的に定めることは難しい部分もあるが、
筆者の判断ではVNP全体で
((4)のような例や後述の(19)(20)なども含め)23 例が前提性とは無関係に「VNPをする」構文に
現れていると思われる。
11
(略)」(キ)
(20)どんなに夢中な恋をしていても、どんなに多くお酒を飲んで楽しく酔っぱらっ
ていても、私は心の中でいつも、たったひとりの家族を気にかけていた。(キ)
こうした動詞(句)
・名詞(句)間の揺れは漢語を中心とするサ変型の VN に特徴的な現
象であり、VN 句では散見される連用形 VN が、単体で「する」の目的語として現れる例は
以下の(21)1 例しかなかった(そしてそれは単に連体修飾要素が省略されているに過ぎな
い)ことは、連用形 VN とそれに対応する動詞との間の隔たりが比較的明確であることを
物語っていよう。
(21)
(飲食店「ラ・シーナ」で)今夜は、進也のかわりに、三十歳ぐらいの女性が一
人、客の間を回って手伝いをしていた。(ブ/括弧内は引用者註)
2.1.2. その他の機能動詞結合 22
以下では「する」「やる」「行う」などの本質的な機能動詞を除き、本来有している「意
味論上の任務から解放され」て(村木 1991:204)用いられるタイプの機能動詞と VNP と
の関係について概観する。
まず、ヴォイス的な意味の機能動詞結合(村木 1991:240-280)について見ていく。以下
の(22)-(25)は能動文、(26)(27)は受動文、(28)は使役文に近い例であると考えら
れる。
(22)
(略)男二人、女二人の二組のカップルで構成されたそのバンドはチームワーク
もよく、音楽的にも経済的にも誰もが羨むほどの成功を収めていた。
(パ)
(23)様々な種類の人々が深夜の「デニーズ」で食事をとり、コーヒーを飲んでいる
が、女性の一人客は彼女だけだ。(ア)
(24)あたしは寝返りをうつふりをして、ママの布団に侵入する。(神)
(25)二人のうち一人が、先に状況判断を下した。無造作に俺の首輪を離すと、ズボ
ンの膝で手をぬぐった。
(ブ)
(26)
「まいはそれが幸せだと思いますか。人の注目を集めることは、その人を幸福に
するでしょうか」(西)
(27)今の電話にだけは出ないわけには行かない。今日は水曜日で、出張校正は明日
あさってに迫っている。切羽詰まった早苗やあるいは印刷所からどんな緊急の連絡
があるかわからないからだ。(パ)
(28)「親に負担をかけたくないんです」(い)
22
実際にはどこまでを機能動詞と認めるべきか、「する」などの場合とは異なり明確な線引きができない
ため、本稿では特に典型的な例の紹介のみに止め、用例数をカウントすることはしていない。
12
(22)は VN が質的な規定を受けており、必ずしも動詞文で同様の事態を述べることが
できない。しかし、多くの場合そうした名詞性に関わる問題以前に機能動詞結合が単一の
動詞より用いられやすいという逆転現象が垣間見られる。
また、それらは 2.1.1.で扱った「する」とVNPとの関係とも事情は異なる。
(23)-(25)
は、それぞれ「食事(を)し」
「寝返る/寝返りをするふりをして」
「状況を判断した/状況判
断をした」などとするより、これらの機能動詞と共に用いた方が安定するように思われる。
そしてそのことに事態の前提性は必ずしも関係しない。単に「動詞相当の表現」というよ
り、むしろ機能動詞結合が単純な動詞より優先されうる点で特殊である 23 。
受動文・使役文に接近するタイプの機能動詞結合でも、
「する」との乖離が見られる。
(26)
は単に「人から注目される」という事実に加え、あらかじめ(前提的に)「注目されよう」
という意気込みを抱いて積極的に行動するという意味合いが加わるが 24 、「人の注目をされ
る」という発話は成り立たない。
(27)は連体修飾要素が質規定的で動詞文に置き換えられ
ない例で、実質的な意味としては受身文に接近するものの、「緊急の連絡をされる」のよう
にすると迷惑性が強まる。
(28)の場合、単体のVNによってその(「負担する」という)動
作一般を表すという効果もあるが、
「負担をさせる」とすると不自然になる。いずれもこれ
らの機能動詞と共起した方が機能動詞「する」のヴォイス形式より据わりがいいか、各々
意味合いが異なってくるように見受けられる。
なお、いずれの機能動詞も CC を対象とする例はなく、作例でも考えにくい((22)-(28)
における VNP を V スルノ・V スルコトに置き換えることもできない)。後述するように「や
める」において中和が見られるなど一部例外はあるが、原則としてこうした機能動詞結合
は VNP の独擅場と言っていい。すでに名詞として定着している VN ではなく、
「の」
「こと」
でわざわざ動詞(句)を名詞化した形式を、再度動詞の文脈に持ち込むという手順を踏む
必要性はほとんど生じないということであろう。
以上がヴォイス的な意味の機能動詞結合におけるVNPの実情である。続けて、アスペク
ト的な意味を表すタイプの機能動詞結合(村木 1991:276-292)の例について考えてみたい。
(29)(30)は始動相、(31)(32)は終結相、(33)は継続相、(34)は反復相をそれぞれ
表す例である 25 。
23
「食事する」
「寝返る」など一部のVNに対応する動詞が用いられるのは、近接した文脈で当該のVNP
を含む機能動詞結合が繰り返し用いられるなど、ある程度の慣用度が必要になると考えられる。動詞とし
ての用法も辞書に登録される程度に用いられる可能性はある(現に『大辞林』の「食事」の項には「(名)
スル」の表記があるし、姿勢を変える意の「寝返る」も登録されている)が、未だ確立しているとは言い
切れないレベルにとどまっているのかもしれない。
24 「失言で注目を集めてしまった」のように非意図的な例も考えられるが、その場合でも自ら責任を感じ
る度合いが強まるという効果が得られる。
25 実現相・強意相・緩和相の実例は得られなかった。また、ムード的な意味を表す機能動詞結合(村木
1991:293-295)についても適切な例はなかった。今後さらに用例を増強する中で補っていきたい。
13
(29)うちで、桃井先生が眠らずに待っていることは知っていた。気を揉んで、本の整
理を始めてはまたやめたりして、丁寧にいれた紅茶を手つかずのままつめたくして
はまたいれかえたりして、待っていてくれることは知っていた。(神)
(30)「……よし、床みがきを再開しよう。」(キ)
(31)彼は、ひととおりの説明を終えるとおやすみと言って自分の部屋へ戻っていっ
た。(キ)
(32)「もう食事は済ませた?」(ア)
(33)「でも、私にはそういう生活を続けることはできないわ」(西)
(34)コムギとコオロギは部屋に残って清掃を続ける。(ア)
(35)高校野球のスター選手といったら、きょうびでは下手なタレントより人気があ
る。マスコミも世間も注目している。その兄の陰で家出を繰り返す弟……か。(ブ)
始動相・終結相の機能動詞結合においては、VNP の表す事態は、「VNP をする」構文と
同様前提的に、「するべきこと」として提示され、それに「取りかかる」、あるいはそれを
「完遂する」というニュアンスが加味されている。特に始動相の場合、「本棚を整理し始め
ては」「また床を磨き始めよう」のように複合動詞を用いて言うと、唐突な印象を与え不自
然に感じられる。
(33)(34)など、継続相においても、VNP の前提性が重要な役割を果たしていると考
えられる。特に(33)は、当該事態の継続を外部から求められ、義務づけられるというこ
の構文ならではの表現効果が得られている。
(35)のような反復相でも、反復される事態(家
出)をある種の習慣として前提的に捉えていると言えよう。
なお、以下の(36)(37)のような自動詞の例は村木(1991)では挙げられていないが、
ヴォイス+アスペクトの意味の機能動詞結合として扱うべきであろう。
(36)
(父・仙吉の)ヴァイオリンの稽古が始まってから、さと子は土曜を心待ちにす
るようになった。(あ/括弧内は引用者註)
(37)「いいかげんに言ってるだけだろ」/「そうだけどな」/急に声の調子を落として
徹也はあっさり認めた。/そこで会話がとぎれた。(い)
いずれも当該事態の動作主の存在が前提とされる例であるが、このように自動詞を用い
ることで事態を自然発生的に述べ、結果としてそれら動作主の意志性や責任を背景化する
効果もある。
様々な機能動詞結合における VNP の特色について見てきたが、例外として以下のような
例がある。
(38)一時間近くも歩き回り、疲れ果てていたのでとりあえず今日の就職活動はやめ
14
て、喫茶店でコーヒーを飲むことにした。(パ)
(ニ)「(略)川底にいるのはやめて、とにかく現実の中に横になったほうがいいと思
うわ。(略)
」
(パ)
(ホ)「せめて『所長』と呼びなさいよ。それから、わたしを『加代ちゃん』て呼ぶの
もやめてね」
(ブ)
終結相のアスペクト的意味を表す機能動詞とされているものの中でも、「やめる」におい
てVNPとCCには意味面で中和が起こりうる 26 。
(38)はVNの名詞性に依拠する修飾が行わ
れていることから、
(ニ)
(ホ)は動詞部に対応するVNが存在しない(*い、*呼び)という
事情から、各々置き換えはできないが、「すでに実行されている(継続中の)動作を中止す
る」という意味は共通であり、VNPとCCのいずれも「継続中の動作」を表す点では共通で
ある。
文脈や VN ないし CC の動詞部の語彙的意味や文脈によっては違いが出る場合もあるが、
構文によってこのように両形式は中和すると思われる。興味深い事実であるが、
「どのよう
な場合に」「なぜ」中和するかについては体系的に説明するだけの準備ができていない。
以上、機能動詞結合におけるVNPについて概観した。従来の研究では明言されていない
が、
「する」をはじめとする機能動詞と共起する中でVNPは事態を「するべきこと」として
提示し、動作主がそれを前提的に認識するという含意を持ちうることを示した 27 。さらには、
動詞述語を用いては言及できないVNP特有の事態把握・提示や、単純な動詞より用いられ
やすいと考えられるVNP+機能動詞の例が少なからず見られることにも言及した。いずれの
場合もCCが現れる余地はほとんどないと言ってよく、VNPに特徴的な表現と言えよう。
2.2. 知覚・認識における相違(28 例)
「見る」「聞く」などの知覚を表す他動詞の目的語に立つVNPおよびVスルノ 28 はいずれ
も五感において捉えられる対象としての事態を提示するが、各々の役割は必ずしも同じで
はない。
26「塾通いをやめる」と「塾に通うのをやめる」のようにVN/動詞が元来習慣的な事態を表す場合などは特
に「中止」の意味に中和する場合が多いと思われる。一方で、
「書類の印刷をやめる」と「書類を印刷する
のをやめる」のようにアスペクト的意味が異なる場合もありうる(前者は継続・習慣的な事態の中止、後
者は事態生起そのものの中止という解釈がそれぞれ優先されると筆者の直感では判断される。もっとも、
文脈によっては「塾に通うのをやめる」も事態生起を中止する意になりうるが)。
27 2.1.全体を通じ、概数で 200 例前後がこれに該当する。
28 橋本(1990:2)などでも指摘されているように、これら知覚動詞の目的語としては主文=述語との同時
性、同一場面性を持たないVスルコト(と本研究で賞するべき表現、橋本 1990 では「補文」)は用いるこ
とができず、Vスルノ(橋本(同)では「補文」)のみ用いることができる(本稿で扱う用例も、すべてこ
の法則に合致した)。なお、Vスルコトは、むしろ「伝える」
「命じる」の目的語相当となる(
「新聞はスト
が中止になった?の/ことを伝えた」
「係員はたけしに部屋から出る?の/ことを命じた」
:ともに橋本(同)の
用例、文法性の判断も橋本)など主文時より過去や未来の事態生起について述べる表現とされる。
15
(39)徹也は小学校の時に、リトルリーグの世界大会に出たらしい。ぼくらの学校で
は、有名人だった。甲子園に毎年のように出場する高校から、スカウトが練習を見
にくるという。女生徒にも人気があった。(い)
(40)
「わたし、どこか近くのお店で待っていますから」/もちろん、進也の出入りをし
っかり監視できる場所にするつもりなのだ。(ブ)
(41)その台所と同じくらいに、田辺家のソファーを私は愛した。そこでは眠りが味
わえた。草花の呼吸を聞いて、カーテンの向こうの夜景を感じながら、いつもすっ
と眠れた。(キ)
(ヘ)
「師岡本人や奥さんが興信所のようなところに出入りするのをもし見られますと、
ちょっとまずいことになりますので……。なんといっても克彦がおりますから」
(ブ)
(ト)彼は、長い手足を持った、きれいな顔だちの青年だった。素性はなにも知らな
かったが、よく、ものすごく熱心に花屋で働いているのを見かけた気もする。(キ)
(チ)俺には夫人のくちびるに泡がついているのが見えた。(ブ)
(リ)雄一がなつかしいテンポでドアに向かって歩いてくるのが聞こえた。この部屋
に居候していた頃はよくカギを忘れて出てしまい、夜中に何度もチャイムを鳴らし
たものだ。(キ)
(39)-(41)では、いずれも事態が前提的に捉えられていなければならない。その裏
づけとして、
「(野球部の)練習を見る」「草花の呼吸を聞く」といった連語に「たまたま」
「偶然」のような副詞が係ることは不可能である。「監視する」行為は、そもそも意図的で
なければ成立しえない。あらかじめ「見よう」
「聞こう」という意識がなければ、これらの
発話は成立しない。
一方で、V スルノはこうした前提性に関して中立である。(ヘ)は有名人である「克彦」
の両親が「出入りする」ことが第三者に知られるとまずい、という趣旨の発言であるが、
「見
る」主体は彼らを付け狙う記者などでもいいし、たまたま彼らを知っている通りすがりの
主婦などでもいい。
(チ)
(リ)は文脈次第で「頑張ってやっと見えた/聞こえた」
「たまたま
見えた/聞こえた」いずれの解釈も可能になる。
VNP には、2.1.1.でも触れたように「当該事態がどのようなものであるか」を意識に上せ
る効果がある。知覚されるものとして前提的に捉えられる場合、VNP は特に事態を総括的
に述べる傾向が強い。たとえば(39)では、
「練習」の一部始終とは言わないまでも、全体
として「どのようにやっているか」を確かめる程度まで見ることが含意されている。
VNP を対象とする知覚行為は、ほとんどの場合総体としての事態があらかじめ想定され、
それに対して向き合うという形で知覚されている。2.1.で扱った機能動詞結合における
VNP が動作主本人の行為を表していたのに対し、これらの構文で言及されるのは第三者の
行為である。従って事態の捉え方、それに対する向き合い方も必然的に異なるが、それが
「するべきこと」あるいは「見るべきこと」「聞くべきこと」として前提的に意識されると
16
いう点は共通している。VNP の表す事態は一定期間持続するものである場合が多く、その
総体を「たまたま意図せずに」知覚するということはそもそも考えにくいことであり、そ
れゆえ前提性が生まれるのであろう。
知覚対象としての VNP が総括性を有する要因としては、VN の意味解釈が多面性を有す
るということが考えられる。具体的には、先述した VN の意味(1.で引用した西尾 1961 の
1イ-ハ)が、必ずしも互いに独立したものではないことによる。
(39)-(41)ではいず
れも「動作・作用のありさま・方法・程度・具合・感じなど」が知覚されているが、それ
らを見聞きすることは、とりもなおさず当該の事態(=動作・作用そのもの)が生起した
ことを知ることでもある。
これらの意味は不可分に結びついており、結果としてこれらの VNP は動作・作用を単に
事実として提示するだけにとどまらない。ただし、こうした多面性は機能動詞結合におい
ては見出しがたいように、必ずしもすべての構文パターンに共通して VNP が持つ性質では
ない。どのような場合に、どのようにして多面性が現れるのかについては今のところまだ
よくわからないが、少なくとも知覚対象としての VNP には顕著な特徴であると言えよう。
一方、V スルノの場合はむしろ当該事態の視覚情報、あるいは聴覚情報だけが切り取られ、
知覚されている。準体助詞「の」は多義ないし無意味であるがゆえに、
「見る」ならば「姿」、
「聞く」ならば「音」のように、それぞれの動詞の語彙的意味に合致した抽象名詞が不可
避的に含意されてしまう。そのため、事態の様々な側面に同時に言及することはできなく
なるのである(もっとも、そのことは必ずしも不利に働くわけではなく、むしろ視覚・聴
覚による知覚を表すもの同士で比較すると VNP23 例に対し V スルノの方が 38 例と用例数
自体は多い)
。
(40)をはじめ、知覚に対する意図性が強調される「注目する」
「見守る」
「耳を澄ます」
などの対象として現れた例は(計 3 例と少ないながら)VNP しか得られなかったのに対し、
逆に(ト)の「見かける」など偶発的な知覚を表す動詞の対象は V スルノしか得られなか
ったことも、両形式の差異を物語っていると言える(各々について逆の例がまったく考え
られないわけではないが、少なくとも前提性を積極的に意識させる上では VNP の方が勝手
はいいと思われる)。
以下の(42)と上掲の(リ)はいずれも非意図的な知覚を表しているが、これは(42)
の事態の生起が突発的なためで、この例でも発話行為の一部始終を聴覚において捉えてい
なければ成立しない 29 という意味で多面性、さらにそれに由来する総括性は同様に見られる
(この場合、
「動作・作用の内容」が知覚されることで「動作・作用そのもの」も知覚され
ることになっている)。このことも、VNPの情報としての価値をCCのそれと異なるものに
している。
29
極端な話で言えば、「祥子さまが宣言するのを聞いた」という発話は、文脈次第で「何を言っているの
かわからないが何やら宣言しているらしかった」という場合でも可能であると考えられるが、
「祥子さまの
宣言を聞いた」は不可である。
17
(42)祥子さまの宣言を聞いて、一番驚いたのは、他ならぬ祐巳自身だった。ドッカ
ーンていう周囲の騒ぎにも乗り遅れて、ただその場で固まってしまった。(マ)
前提性が問題にならなくとも、VN が有する意味解釈上の多面性は様々な局面で VNP と
CC との差異を生む。たとえばこれらの形式が「わかる」「感じる」などの対象として現れ
る場合、通常当該事態を事前に明確な「知ろう」「感じよう」といった意図を持って感知す
る、ということはまれである。従って、それらの動詞の対象として現れる場合、明らかに
前提的に捉えられているような用例は両形式ともにほぼ見られないが、事態の表し方は大
きく異なってくる。
(43)先生のいらだちが、ぼくにはよくわかった。(い)
(44)茶色のスーツを着た男は身動きひとつせず、テレビのブラウン管から、ガラス
越しにこちら側を見ている。(略)もちろん彼の目は、艶のあるミステリアスな仮面
の奥に隠されている。しかしそれでもその視線の存在を、その重みを、ありありと
感じることができる。(ア)
(43)であれば、話し手は「先生がいらだっている」という事実を知ると同時に、いか
にいらだっているか(いらだちよう)もまた同時に、不可分に感知されている 30 。
(44)も、
「存在する」という事実だけが「重み」を有しているわけではないように、VNの多面性が
活きている。
対して CC には、そうした多面性を持つ余地がない。
(ヌ)玄関を入ったところでさと子は、いきなり仙吉に頬を打たれた。辻村(破談に
なった見合いの相手)と逢っていたことが判ったらしい。
(あ/括弧内は引用者註)
(ル)湾を渡ってくる海風に混じって、熱気とガソリンの匂いが吹きつけてきた。守
衛はせきこみ、目に涙がにじむのを感じた。(ブ)
「見る」
「聞く」などの対象として V スルノが現れる場合、準体助詞「の」が「姿」
「音」
などの抽象名詞を含意するのと同様、
(ヌ)など特に V スルコトは「事実」などとして解釈
される場合が多分にあるが、そのことがここでは逆に功を奏している。VNP を用いると、
逆に「情報」としての側面に照準を絞ることは難しいのである。(ル)では感知される対象
は「感触」であり、(ヌ)と事情は異なるが、表される意味が限定的になる点では同様であ
る。これらの構文についても用例数はいずれも少なく(VNP5 例、V スルノ 2 例・V スル
30
この例は面と向かっている場面の描写であるが、たとえば電話で話していたり、メールなどでやりとり
している場合などは「いらだっているの」は知り得ても「いらだち」は関知しがたいと考えられる。
18
コト 8 例)、一般化するには尚早かもしれないが、全体として知覚・認識の対象として提示
するには事態の特定の側面を切り出すことで意図を明確にする CC の方が用いられやすい
という傾向はあるかもしれない。
VNPにも以下の(45)のようにCCとの差が感じられにくい 31 ものも散見されるが、多く
の場合は上述したような多面性の要否によって両形式を使い分けることが可能になるので
ある。
(45)でも、いま、バッターボックスに向かう徹也の姿を、カメラのファインダーで
追いながら、ぼくは、胸の高鳴りを覚えた。(い)
2.3. 述語による規定と評価
VNP と CC の情報としての価値の相違は、形容詞などの述語による規定、特に評価を受
ける場合にさらに顕著になる。形容詞は、2.1.1.などで触れたように VNP の内部において
直接 VNP を修飾する形で現れることもあるが、ここで挙げる例のように述語によってその
役割が果たされることもある。そして、そのような形であれば CC についてもその表す事態
を質規定的に述べることは可能になる。
以下に VNP および CC が述語による評価的な質規定を受ける例を挙げる。
(46)あたしのママとパパは、あるときすべてを捨てる決心をして、トランクに荷物
をつめて飛行場に行った。夜中で、高速道路はがらがらにすいていた(あのひとは車
の運転がすばらしく上手いの、と、ママは言った)。(神)
(47)「物好きな男だよ、あいつも。工場のほうも資金繰りが忙しいってのに」(あ)
(48)味方の攻撃も、クリーンアップ以外は貧打が続いた。(い)
(ヲ)自分の部屋はお母さんに掃除機をかけてもらっておいて、教室の床を磨くとい
うのはちょっと変な気もする。家庭科の一環と言われればそれまでだけど、一般家
庭と学校の施設では、掃除の方法はまるっきり違う。(マ)
ロサ・キネンシス・アン・ブウトン
(ワ)二年松組、小笠原祥子さま。ちなみに出席番号は七番。通称『紅薔薇のつぼみ
』。/ああ、お名前を口にすることさえもったいない。私のような者の口で、その名を
語ってしまってもいいのでしょうか、――そんな気持ちになってしまう、全校生徒
のあこがれの的。(マ)
(カ)「神様が言ったとおり、三人の兄弟は海岸に三つの大きな岩を見つけた。そして
言われたように、その岩を転がして行った。とても大きな岩で、転がすのは大変だ
ったし、ましてや坂道を押して登るのはえらい苦労だった。(略)
」(ア)
31
VNPをCCに置き換えるだけでは難しいが、述語動詞を「感じる」などとすれば「胸が高鳴るのを~」
と言うことも可能である。こうした選択制限についても論を加えるにはデータが質量ともに不足している
が、今後とも考えていきたい。
19
たとえば「車を運転するのが上手い」のようにすると運転技術の巧拙にしか言及できな
いが、(46)のように VNP を用いると「動作・作用のありさま・方法・程度・具合・感じ
など」の意味が含まれ、事態を多面的に捉えるという差異がある。
(47)では前提性・ノル
マ性を含意させるなど VNP の総括性が発揮されている。いずれも VNP の特性が活かされ
ているのに対し、CC は「事実」「行為」など事態の特定の側面にのみ言及しているのがわ
かる。こうした事実から、各々がその特性を活かし、役割を分担しているということが予
想される。
しかし、実際に形容詞述語の用例数 32 で比較するとVNP60 例に対しCCは 129 例と、大
きな開きがある。特に以下のような感情形容詞 33 の例はCC54 例に対してVNPはわずか 3
例と極めて少ない。
(ヨ)――踊るのが好きなんだね。/部屋で音楽を聴いていると、桃井先生はそう言っ
てわらった。
(略)/――僕はきみが踊っているところをみているのが好きだよ。
(神)
(タ)まだ温かい、糞と羽毛のちょっぴりついた産みたての卵。本当のことを言うと、
まいはこんな生みたての卵を食べるのは気持ち悪かった。
(西)
(レ)本当は、直美の入院の理由や、退院の見通しなどを、訊きたかった。/でも、答え
を聞くのが、怖い気がした。(い)
(ソ)「お心にかけていただくのは嬉しいんですが、うちのさと子、まだ十八だから」
(あ)
(49)――どうしてこんなに引越しばかりするの?/ママにそう尋ねたことがある。
(略)
/――引越しはいや?(神)
(50)
「(略)仕事はどう?面白い?」/と雄一がおだやかに言った。/「うん。今はなん
でもね。いもの皮むきすら楽しいわ。そういう時期なの。
」(キ)
たとえば(ヨ)の前半を「踊りが好きなんだね」のように述べると、許容度で劣る表現
になってしまう。こうした文脈で用いられるCCが多く「自分の行為」を表すのは、
「の」
「こ
と」によって、当該事態の「行為」の側面が切り出されるためでもあると考えられる。対
してVNPは、VNの持つ意味の多面性がこのような場合には仇となり、往々にして一義的に
「行為」の意味を表すことは難しくなる。文脈が整えば(49)
(50)のように実現可能な場
合もあるが、往々にして見聞きする対象として外に置く(第三者の行為である)のか、自
32
名詞・動詞述語についてはどこまで(48)(カ)のように質規定的な側面を認めていいのか判断が難し
いためカウントしていない。もっとも、これら 2 例のように典型的な例は少なく、こうした規定の役割は
主として形容詞が担っていると言える。
33 西尾(1972)の用語。人間の感情を表す形容詞で、それを述語とする文の主語(大主語)には人名詞し
か立たないことは言うに及ばず、さらには一人称でしか用いられない、多くは「~がる」の形で動詞化で
きるといった特徴を有する形容詞の総称。
20
らが実行する行為であるのかが不明瞭になり、用いにくくなるということであろう 34 。
2.4. その他 VNP が構文上の優位性を見せる諸例(338 例)
以上の各類では、VNP と CC が各々の特性により使い分けられる様々な場合について、
実例を元に考察を加えた。これらの他に、構文上の制約の有無などによって VNP は自由に
用いられるが CC は用いられないか、用いられるとしても著しく制限を受けるような構文パ
ターンがいくつか認められる。紙幅の都合上、簡単に触れる程度に止めるが、これらも VNP
が実例数において CC に勝ることの大きな要因となっているものと思われる。
まず、連体格を取り他の名詞(それが VN である場合も含む)を修飾する自由度は VNP
の方がはるかに高いと考えられる。実例数としては、VNP は以下の(51)-(54)など 105
例が得られたのに対し、CC は(ツ)(ネ)を含めわずかに 5 例と極めて少ない。
(51)本当は、直美の入院の理由や、退院の見通しなどを、訊きたかった。(い)
(52)たみは綺麗にみえた。丸一日の船と汽車の旅のあとである。髪も衣服も乱れて
いる。油煙のせいか首筋のあたりも薄汚れてみえる。それなのに綺麗だった。(あ)
(53)
「ノーアウトだから、バント二つで一点が入る。バント守備の練習なんて、ろく
にしてないからな。(略)」(い)
(54)加代ちゃんは荒っぽく車を出し、途中、道路工事中の一角で迂回指示の標識灯
を引っかけたりしながらつっ走った。(ブ)
(ツ)その点、由希子は何かを選ぶことの根拠をしっかりと持っていた。(パ)
(ネ)テレビの連中、どうやってそのピッチャーをつかまえてコメントをとったのか
は分からないが、終始うつむいていた彼の、真っ赤になった鼻の頭が、そんな話を
させることの酷さをよく表していた。(ブ)
たとえば(51)であれば「直美が入院する/している/した理由」のように連体形の動詞を
用いれば比較的言い換えやすいが、「直美が入院する/している/したことの理由」などとす
ると冗長に過ぎる。要するに動詞が連体修飾の形を持つのに、それを用いずに名詞化→連
体格のような手続きを踏む必然性は極めて低いということであろう。
(ネ)などは動詞連体
形に置き換えにくいが、これは先述した(2.3.)形容詞述語による質規定との関連が深いた
めで、VNP や CC でなければ果たせない役割である。
VNP による連体修飾と同様の具体化が、(55)-(57)のように複合によって行われる
場合もある(75 例)。いずれの場合も、一般常識においてであれ当該文脈に限ってであれ、
前項の VNP と後項の名詞の間に何らかの論理関係が意識されていなければ実現されにくい。
34
逆に第三者の行為に関して、その様態、あらましまでを含め総括的・多面的に述べ、感情形容詞による
評価を加えるような場合は「太郎の踊りが好きだ」のようにVNPが用いられることになると思われるが、
該当する実例は得られなかった。
21
(55)今校舎を出たら、帰宅部の下校ピークにぶつかる。
(マ)
(56)誰かが知らないうちにやってきて、テレビのスイッチを入れたのだろうか?あ
るいは予約設定のようなものがなされていたのだろうか?(ア)
(57)……というわけで、私は居候生活に突入した。
(略)アルバイトにはちゃんと行
ったが、後はそうじをしたり、TV を観たり、ケーキを焼いたりして、主婦のような
生活をしていた。(キ)
なお、CC が複合語の前項となる実例は得られておらず、作例でも考えにくい。VNP の
名詞性が活かされるところである。
その他、1.で挙げたようなイディオム((a)-(j))との混同が懸念されるがゆえに CC の使
用は阻害されるのに対し、VNP は問題なく用いることのできる構文パターンを以下に列挙
する。
・(a)(c)(d)により CC は阻害されるが、VNP は自由に用いられる例(116 例)
(58)俺の訓練士は、仕事以外の楽しみはプラモデル作りだけという人間で、野球だ
けでなく、スポーツというもの自体、彼の辞書には載っていなかった。(ブ)
(59)地下のレッスン室でピアノが響いていた。知らない曲だが、たぶんリストの「超
絶技巧練習曲」のどれかだ。指がよく動く。母が講師をしている大学の学生だろう。
母の生徒だけあって、几帳面なほど正確な演奏だ。(い)
(60)「お前が反対なら、おれひとりでも育てるからな」/「誰が反対だなんて言いま
した」/「賛成か」(あ)
(61)二人はデニーズの外に出る。この時刻になっても、外の通りはまだ相変わらず
にぎやかだ。ゲームセンターの電子音、カラオケ・ショップの呼び込み。バイクの
排気音。(ア)
(59)は「性質づけ 36 」に、
(60)
高橋(1984)の分類に従えば、
(58)は「同一づけ 35 」に、
は「動作づけ 37 」にそれぞれ該当する名詞述語文である。(61)は体言止めの例で、動詞述
語が不可避的に含意するムードを排除する表現効果が得られている。いずれもイディオム
との兼ね合いから、CCに置き換えることは難しい。
主語となる事態の言い換え(「同一づけ」)としてであれば、以下の(ナ)(ラ)のように
V スルコトも用いられる場合はあるが、実例数は計 13 例と少なく、VNP のようなバリエ
ーションも見られない。
35
高橋の挙げている用例は「これはさっきのきっぷだよ」
「あなたのにもつってこれ?」など(高橋 1984:31)。
高橋の用例は「うわべだけが紅であった」「あなたがたはいいお友だちね」など(高橋 1984:25-26)。
37 高橋の用例は「われわれもいよいよあす出発だ」
「今夜のことはだれにも絶対に秘密よ」など(高橋
1984:30)。
36
22
(ナ)警察犬の訓練学校にいれられることになったとき、一番辛かったのは、その子
と別れることだった。もう一緒に「野球」をして走り回れなくなることだった。
(ブ)
(ラ)家計がうるおう、というのはお金に余裕ができるっていうこと。(神)
・(b)(g)(h) により CC は阻害されるが、VNP は自由に用いられる例(33 例)
(62)
「森本、森本?」と僕は何回か声をかけたけれども、返事はなく暗闇と同じよう
な沈黙だけが受話器の先にはあった。(パ)
(63)簡素な木製の椅子に座って、無言のまま彼女を見つめている「顔のない男」。彼
の両肩が、ときおりの呼吸にあわせてこっそりと上下する。早朝の穏やかな波に揺
られる無人のボートのように。/部屋の中にはそれ以外の動きはない。
(ア)
これらは事態が特定の場所や時間帯に「存在する」ことを言う例であり、2.1.2.の(27)
などとは異なる。CC が同様にイディオムから自由に用いられる実例は得られなかった。
・(f) により CC は阻害されるが、VNP は自由に用いられる例(9 例)
(64)
「それとね、大抵の女の子の幸せはボーカルの方。あなたの話は少しも慰めにな
っていなかったわ。でもね、本当にありがとう。じゃあね。あなたの名前は電話で
教えてね。方向音痴君」
(パ)
(65)そのことなら加代ちゃんも所長も新聞で知っていた。部屋に泥棒が入り、練習
用具を盗み出したばかりか、それを晴海の工場団地の路上で焼き捨てた、という事
件で、一時はかなりの騒ぎになったものだ。(ブ)
(64)のように名詞述語文の場合と似た例が多いが、(65)など機能動詞結合に近い例も散見
された。やはり CC の実例なし。
3. おわりに
以上、VNP と CC の諸特徴について、両形式が文中でどのような機能を見せているかに
ついて実例を観察し、特に VNP の独自性を示した。扱うことのできた構文的タイプはごく
限られたものではあったが、現代日本語において動詞(句)を名詞(句)と連関させる諸
形式が成す体系の一端は示すことができたと考える。
今回はVNPを中心として考えたため、CCについてはあまり積極的に言及できなかった。
また、未だ整理できていない部分もあり、VNPについても約 350 例 38 が考察対象外となっ
てしまった。たとえば原因を表すデ格の場合(彼の辞職で/彼が辞職したことで負担が増し
38
2.1.2.および 2.3.に関して正確な実例数は提示できないが、未整理の諸例の中からそれらの性質を多少と
も有すると考えられるものを取り出した場合、それぞれの概数は 150 例程度、80 例程度となる。
23
た)や分析的な後置詞の類を伴う場合(事業の拡大/事業が拡大するのにつれて家も大きく
なる)などはVNPとCCとが相互に置き換え可能になる(中和する)ことが多分に考えられ
るが、用例数の不足もあって現時点では詳しく言及できなかった。両形式の現れる構文パ
ターン(格や述語の種類など)をつぶさに観察することも含めて、今後とも考察を深め、
両者に共通する性質、異なる性質を探り、さらには前述(0.)のような周辺的な諸形式をも
取り込んだ体系の記述を志していきたい。
VNP における意味の具体化については、意味論の領域に収まらない部分が多々あり、そ
うした点でも CC とは本質的に異なる。このことが両形式の選択に関わる部分などについて
も考察したかったが、やはり紙幅の関係でかなわなかった。稿を改めて詳しく論じたい。
<参考文献>
影山太郎 1993『文法と語形成』
ひつじ書房
高橋太郎 1984「名詞述語文における主語と述語の意味的な関係」 『日本語学』3-12
明治
書院
田野村忠温 1988「「部屋を掃除する」と「部屋の掃除をする」」 『日本語学』7-11
西尾寅弥 1961「動詞連用形の名詞化に関する一考察」 『国語学』43
――――1972『形容詞の意味・用法の記述的研究』
秀英出版
橋本
修 1990「補文標識「の」「こと」の分布にかかわる意味規則」 『国語学』163
原口
裕 1978「連体形準体法の実態―近世後期資料の場合―」 今井源衛(編)『春日和男
教授退官記念語文論叢』 桜楓社
村木新次郎 1991『日本語動詞の諸相』 ひつじ書房
<用例出展>
向田邦子 1981『あ・うん』……「あ」
文春文庫 新装版(2003)
宮部みゆき 1989『パーフェクト・ブルー』……「ブ」
創元推理文庫版(1992)
三田誠広 1990『いちご同盟』……「い」
集英社文庫版(1991)
吉本ばなな 1991『キッチン』……「キ」
角川文庫版(1998)
梨木果歩 1994『西の魔女が死んだ』……「西」
新潮文庫版(2001)
今野緒雪 1998『マリア様がみてる』……「マ」
集英社コバルト文庫
江國香織 1999『神様のボート』……「神」
新潮文庫版(2002)
大崎義生 2001『パイロットフィッシュ』……「パ」
村上春樹 2004『アフターダーク』……「ア」
角川文庫版(2004)
講談社
[付記]本稿は東京外国語大学大学院に提出した筆者の 2006 年度修士論文「現代日本語の動
詞性名詞の研究」の一部を書き改めたものである。執筆にあたり、指導教員の早津恵美子
先生ならびに査読者の先生方からは数々の有益なご助言を頂いた。ここに感謝申し上げる。
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