Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen
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Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen
Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... ― 雨と水と孤独 ― 落 合 和 昭 序 Tennessee Williams(1911-83)の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... は 1953 年 に 出 版 さ れ た、New Directions 版 の 改 訂 版(expanded edition) 戯 曲 集、27 Wagons Full of Cotton and Other One-Act Plays に、 新 た に、Something Unspoken とともに、加えられた、二人芝居の一幕劇である。ちなみに、初版 の 27 Wagons Full of Cotton and Other One-Act Plays は 1948 年の出版である。こ の劇の初演は、1958 年、Connecticut 州 Westport の White Barn Theatre であった。 この劇の「場所」は、冒頭の「ト書き」に、 A furnished room west of Eight Avenue in midtown Manhattan...(p265) と書かれているように、New York の Manhattan のミッドタウン、八番街の西 にある、家具付きの部屋である。また、二人の冒頭の「台詞」のやりとり、 MAN [hoarsely]: What time is it? [The Woman murmurs something inaudible.] What, honey? WOMAN: Sunday. MAN: I know it's Sunday. You never wind the clock.(p265) − 45 − (下線は筆者) 落 合 和 昭 から、劇の「時間」が日曜日であることがわかる。この劇は、日曜日の、その 部屋の中で始まり、また、その日の、その部屋で終わる。 この劇の “exposition”、すなわち、 「導入部」は、この劇全体から見た場合に、 極めて暗示的である。この劇では、二人の男女のやりとりには、絶えず、ある 種のすれ違いがある。それは、男が「何時か?」と聞いているのに対して、女 は「日曜日」と答えている。それは男の質問に対する正しい答えとはなってい ない。女は相手が望んでいる答えとは別の答えをしている。これは単なる聞き 違いで、思わず、間違った答えをしてしまったのではないように思える。しか し、女は、いつも、相手の言っていることをよく聞いていないか、相手の話を 真剣に聴こうとしていない。いや、真剣に向き合って、相手の話を聴くことが できないような状況がすでにできあがってしまっている。これは、女が男の話 を真剣に聴こうとしないで、男が女の話を真剣に聴こうとしているということ ではない。やはり、男も女の話を真剣に聴こうとしていない。男も、ただ、そ の場限りの、そのとき、思いついただけの会話をしているにすぎない。二人の 間には、お互いに対する無関心と、無気力が色濃く漂っている。その無関心と 無気力は、彼らの意思によって、取り払うことができないほどにまで大きくな り、今も、日に日に、その重さを増し続けている。このような二人の間のコミュ ニケイションのズレは、この「台詞」だけではなく、この劇を通して、随所に 見られる。同じ境遇にいるものどうしで、会話がかみ合わないだけではなく、 積極的に、お互いの気持ちを話そうともしない。さらに、この劇の「時間」が 日曜日であり、その日曜日に、彼らが家にいるということは、彼らは教会へも 行かず、宗教的な救いからも見放されていることも暗示している。 また、男が、女に対して、“You never wind the clock.”、 「おまえはけして時計 を巻かない」と言っている。これは、女が時間に関心を示さなくなっているこ とを表している。さらに、この「台詞」は、女が、最近になって、時間に関心 を示さなくなったのではなく、 もうかなり長いこと、 時間に関心を示さなくなっ ていることも表している。時間に関心を示さないということは、女が時計を必 要としていない生活、すなわち、彼女が無職であることを示している。通常、 − 46 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... 仕事をしている限りは、時計は必要である。さらに、それは、女に友人や知り 合いがなく、人付き合いがなく、部屋に閉じこもりがちな生活をしていること も暗示している。「おまえはけして時計を巻かない」という、この「台詞」は、 女の絶望的な孤独や、未来に対する希望がないことを表している。 この劇の「時間」が日曜日であること以外には、 「台詞」や「ト書き」には、 「時 間」については何も書かれていないので、 正確にはわからないが、 この劇の「時 間」は、当時の現在、すなわち、第二次世界大戦後、数年経った時であると思 われる。 この劇は、 (1948) 27 Wagons Full of Cotton and Other One-Act Plays の初版 には載らず、その後に出版された、改訂版(1953)に載っていることから推 測すると、この劇が書かれたのは 1948 年から 1953 年の間であると推測される。 (1) The Tennessee Williams Encyclopedia の中では、この劇は 1950 年頃に書かれ たとされている。また、劇の「場所」は半世紀以上も前の Manhattan のミッド タウン西で、今日のミッドタウン西とは、雲泥の差があるほど、貧しい地区で あったろう。 MAN と WOMAN この部屋には、男と女が住んでいるが、Williams は、この二人が夫婦である のか、それとも、恋人どうしの同棲なのか、 明らかにしていない。それどころか、 彼らの名前も、年齢も、 素性も明らかにされていない。Williams は、彼らの 「台詞」 の前に、彼らの名前ではなく、“MAN”、“WOMAN” と付けているだけである。 その上、劇の間、この二人の「登場人物」は、一度も、お互いを名前で呼び合 うことがないので、観客(読者)は二人の男女の名前さえも知ることができな い。名前がないということは、それ自体、彼らのアイデンティティの喪失を示 している。Williams は、通常なら、与えるべき、「登場人物」に関する、これ らの情報を、もちろん、 意図的であると思われるが、 ほとんど何も与えていない。 そのため、この二人の男女は、この New York という大都会の中で、物理的に、 貧しく、何も持っていないというだけではなく、彼らのアイデンティティその − 47 − 落 合 和 昭 ものも失われていて、彼らは、そこで、まさに、消えようとしながらも、存在 しているだけであるという印象を与える。そこでは、身体だけが存在して、身 体だけがかろうじて生きているという実感が、存在の礎になっているが、やが て、その身体という存在に関する感覚自体も、しだいに、薄れていき、最後に は、その感覚すらもなくなろうとしている。そのような状況に置かれている人 間にとって、生きる、生き続けるということは、いったい、どのような意味を 持っているのであろうか。絶望、孤独、無関心、無気力があまりにも巨大な怪 物になりすぎ、この怪物が、逆に、この男女を餌食にしているような状況にお いて、生きるということは、何を意味するのだろうか。 この一幕劇では、従来の文学の中では、明らかにされているはずの、名前、 年齢、「登場人物」間の人間関係に関する情報が、あえて、与えられていない。 さらには、読者に、物理的にも、精神的にも、すべてを剥ぎ取られて、何も持 たない、裸のままの存在だけを意識させるだけで、そのことに何も説明を加え ないという描き方の中には、 この劇が書かれたと言われている 1950 年頃のヨー ロッパの実存主義文学や不条理文学の特徴がかいま見られる。この時代のヨー ロッパは、Albert Camus(1913-1960)や Jean-Paul Sartre(1905-80)の実存主 義が関心を集め、不条理演劇を代表する Samuel Beckett(1906-89)が、まさに、 台頭し始めようとしていた頃である。この劇の中に、彼らの影響が見られたと しても、不思議ではない。 Camus が、『シジフォスの神話』 (1942)の中で、シジフォスは地上で犯し た悪の償いとして、岩を山頂にまで押し上げるという罰を科せられるが、もう 少しで、岩が山頂に着くと思われたときに、岩は麓まで転がり落ちてしまう。 そのため、彼は、再び、岩を山頂にまで押し上げていくが、岩は山頂に着くか 着かないうちに、またもや、麓まで転がり落ちてしまう。彼は、これを、何度も、 何度も、おそらく、無限に繰り返していく。 『異邦人』の中では、ムルソーは、 彼自身でも、よくわからない、従来の宗教的、哲学的、精神分析学的なアプロー チでは、とても説明しがたい動機で、何か、得体の知れないものに突き動かさ れたかのように、そのとき、激しく照りつけていた太陽のせいで、たまたま、 − 48 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... 海岸で出合ったアラブ人を殺してしまう。また、Sartre が『出口なし』 (1945) の中で、男女(男一人、女二人)が、地獄を思わせる、出口のない部屋の中に いる。そこで、男(A)が女(B)を、 その女(B)が別の女(C)を、その別の女(C) が男(A)を追いかける。自分が求めるものには、逃げられ、自分が求めない ものには、追いかけられという、無限と思われる繰り返しが果てしなく続く。 Beckett の Waiting for Godot(1952)の中では、ホームレスと思われる Vladimir と Estragon が、来るという確証も得られない Godot を、暇つぶしに、様々な ことをしながらも、待ち続ける。彼らは使いの者から Godot は、今日は、来る ことができないと知らされても、一度は、その場を立ち去ろうとするが、他に することがないかのごとく、また、彼を待ち続ける。Godot が、将来、ほんと うに来るのか、来ないのか、わからないまま、彼らは待ち続ける。これも、無 限に繰り返されていくように感じられる。これらの作品を通して感じられる、 一種の虚しさ、生きているという実感の乏しさは、この一幕劇の中にも、感じ られる。 Williams は、冒頭の「ト書き」の中で、MAN について、 On a folding bed lies a Man in crumpled underwear, struggling out of sleep with the sighs of a man who went to bed very drunk.(p265) と書いている。男は、前の晩に、ひどく「酒」を飲み、酔いつぶれて、寝込ん でしまったらしく、クシャクシャの下着姿で、ひどくつらそうに、折りたた みベッドの上で、眠りから目を覚ます。WOMAN については、続く「ト書き」 の中で、 A Woman sits in a straight chair at the room's single window, outlined dimly against a sky heavy with a rain that has not yet begun to fall. The Woman is holding a tumbler of water from which she takes small, jerky sips like a bird drinking.(p265) − 49 − 落 合 和 昭 と書かれている。WOMAN は窓際のイスに座り、 「水」の入ったグラスを持ち、 そのグラスから、まるで鳥がつつくように、少しずつ、 「水」を飲んでいる。 MAN は、前の晩、 「酒」をしたたか飲んで、目を覚ましたが、WOMAN は、今、 「酒」ではなく、「水」を、少しずつ、飲んでいる。 「酒」を飲む「男」と「水」 を飲む「女」が、ここでは、対比されている。 この劇の「題名」、Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... の中にも、“rain” が使われているように、 この劇では、 「雨」が重要な役割を果たしている。 この「ト 書き」にも書かれているように、劇が始まった時点では、まだ、 「雨」は降っ ていないが、すぐに、「雨」は降り始め、劇の間、ずっと、降り続けている。 この劇では、この冒頭の「ト書き」の部分で、すでに、暗示されているように、 「雨」を初めとして、「酒」、 「水」、「川」等の液体に関する言及が数多く見られ る(これについては、後に触れることにする) 。 Williams は、この二人の男女が置かれている状況について、同じ冒頭の「ト 書き」の中で、 Both of them have ravaged young faces like the faces of children in a famished country. In their speech there is a sort of politeness, a sort of tender formality like that of two lonly children who want to be friends, and yet there is an impression that they have lived in this intimate situation for a long time and that the present scene between them is the repetition of one that has been repeated so often that its plausible emotional contents, such as reproach and contrition, have been completely worn out and there is nothing left but acceptance of something hopeless inalternable between them.(p265) (下線は筆者) と書いている。二人は、飢饉に襲われた国の子供たちのように、荒んだ、若い 顔をしている。二人の話し方には、友だちになりたがっている、二人の子供の ような、ある種の礼儀正しさとやさしい型ぐるしさがある。 しかし、 この二人は、 − 50 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... 長い間、親しい関係にあったが、二人の現在の状況は、あまりにも、同じこと が、何度も、何度も、繰り返されたため、もはや、非難や悔恨のような、当然、 起こってくるであろう、感情も完全にすり切れてしまい、二人の間では、どう しても変えることができないものを受け入れること以外には、方法がないとこ ろまで来ている。この二人には、すでに、この生活を変えようという意思がな くなっている。 この二人は、自分たちが置かれている状況の中で、その状況を変えようとい う気力も、完全に、消え失せ、ただ、置かれている状況に、何ら抗することも なく、黙々と従って、生きているだけである。そこには、アメリカン・ドリー ムもなければ、アメリカの自由もない。あるのは、絶望的な状況に従わざるを えない、ある種の隷属状態である。このような絶望的な状況は、前にも触れた ように、Sartre の『出口なし』の三人の「登場人物」 、ガルサン、イネス、エ ステルが、地獄の中で、繰り返す、円運動的な虚しさと相通じるものがある。 来る日も、来る日も、同じ絶望的な生活の繰り返しだけが待っている。また、 上の「ト書き」には、「二人の話し方には、友だちになりたがっている、二人 の子供のような、ある種の礼儀正しさとやさしい型ぐるしさがある」と書かれ ているが、彼らは、もうすでに、長い間、いっしょに暮らしているにもかかわ らず、彼らは、お互いに、故意に、 「ある種の礼儀正しさとやさしい型ぐるしさ」 を盾として使い、相手を思いやるような態度を見せながら、それぞれの世界の 中に閉じこもって、真の意味で、コミュニケイションをとることを避けている のではないだろうか。 MAN と「雨」 「題名」の中でも、 「雨」が使われているように、この劇では、 「雨」は、特に、 重要な働きを担っている。劇が始まった時点では、冒頭の「ト書き」 、 − 51 − 落 合 和 昭 [...outlined dimly against a sky heavy with a rain that has not yet begun to fall.] (p265) (下線は筆者) にも書かれているように、空は雨雲が厚くたれ込めていて、今にも、降り出し そうな気配ではあるが、「雨」は降っていない。しかし、劇が始まって、まも なくすると、「ト書き」 、 [Rain begins; it comes and goes during the play;...](p266) (下線は筆者) にもあるように、「雨」は降り始め、劇の間、断続的に降り続く。Williams は、 この劇における「雨」の重要性を強調するためか、「雨」が降り始めたことを 観客にはっきりと知らしめようとするかのごとく、舞台裏で、イギリスの童謡 である、「雨」の童謡を歌う子供たちの声と「ト書き」 、 [...and child's voice chants outside―] CHILD'S VOICE: Rain, rain, go away! Come again some other day! [The chant is echoed mockingly by another child farther away.](p266) (下線は筆者、点線部分は省略部分) を使って、 「雨」が降り始めたことを知らせている。観客は、この子供たちの 歌と「音響効果」の「雨」の音により、 「雨」が降り始めたことを知る。 や が て、 そ の 降 り 始 め た「 雨 」 の 音 に あ わ せ る か の よ う に、MAN は WOMAN に語りかけてくれるように頼んでいる。そのときのやりとが、 MAN: Can you talk to me, honey? Can you talk to me, now? WOMAN: Yes! − 52 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... MAN: Well, talk to me like the rain and ― let me listen, let me lie here and ― Listen . . . Tell me,... . . . talk to me! Talk to me like the rain and I will lie here and listen. WOMAN: I― MAN: I've got to know, it's necessary! I've got to know, so talk to me like the rain and I will lie here and listen, I will lie here and―(p269) (下線は筆者、幅広い点線部分は省略部分) である。彼は、このやりとりの中で、この劇の「題名」 、Talk to Me Like the 「雨のように話してくれ、聞いているから、 、、 」にも Rain and Let Me Listen...、 なっている「台詞」を言っている。 「題名」の中の「. .. 」に当たる部分は、彼 の「台詞」では、“let me lie here and―listen”、 「ここに(ベッドに)横になるか ら、聞かせてくれ」ということになる。彼は、ベッドの上で横になって、静か に聞くから、話してくれと、一方的に、彼女に頼んでいる。ここで、彼が言う、 “like the rain”、 「雨のように」というのは、どういう意味であろうか。もちろ ん、“the rain” というように、“the” がついているので、当然のことながら、 「今、 降っている雨」のようにという意味になる。そうであるとすると、「雨」のよ うに、惜しみなく、休むことなく、すべてを話してくれという意味であろうか。 上の引用文の中で、彼は、この「題名」に当たる「台詞」を、三度も、繰り返 しているが、三度目のときには、彼は “I've got to know, it's necessary! I've got to know,...”(点線部分は省略部分)という「台詞」を付け加えている。まるで、 彼女が考えていることをどうしても、今、知りたい、ぜひとも、知りたい、頼 むから、話してくれと、心から嘆願しているかのようである。 Williams は、この二人の男女の過去や現在について、観客に、ほとんど情報 を与えてくれないが、上に引用した、やりとりの前に、わずかであるが、男は、 彼女との関係について語っている。それが次の「台詞」である。 − 53 − 落 合 和 昭 MAN: ...It's been so long since we have been together except like a couple of strangers living together. Let's find each other and maybe we won't be lost. Talk to me! I've been lost! ―I thought of you often but couldn't call you, honey. Thought of you all the time but couldn't call you. What could I say if I called? Could I say, I'm lost? Lost in the city? Passed around like a dirty postcard among people?―And then hang up... I am lost in this―city. . . (p268) (下線は筆者、幅広い点線部分は省略部分) 二人は、いっしょに暮らし始めてから、だいぶ長くなっているが、お互いに、 会話らしい会話はあまりしたことがないらしい。彼は、しばらくの間、家を離 れていたが、その間も、彼は、あらためて、女に話すことが何もないので、電 話もかけなかった。彼には、電話をかけたとしても、彼女に話すことが何もな いのである。このことは、二人は、その生活の中で、共通の話題になるものを、 ほとんど、生み出してこなかったことを示している。この二人の男女は、長い 間、いっしょに暮らしているものの、二人の間では、コミュニケイションがほ とんどとれていないように見える。いや、二人は、お互いに、コミュニケイショ ンをとろうとしてこなかったように見える。彼は、この「台詞」の中で、“I'm lost” や、それに類似した表現を数回にわたって、繰り返しているところを見 ると、これは、単に、 「道に迷った」という意味だけではなく、明らかに、大 都会 New York の生活の中で、自分自身を、自分のアイデンティティを見失い 始めていることも表しているように見える。失いかけている自分を、 もう一度、 取り戻すために、彼は、恵みの「雨」のように、彼女に話しかけて欲しいので はないだろうか。それともまた、このままの生活を続けることについて、彼女 のほんとうの気持ちを聞きたいのだろうか。 さらに、上の「台詞」の中では、男は、彼自身が、“Passed around like a dirty postcard among people?”、 「(私は、 )人々の間を、汚れた葉書のように、回され てきたのか」と言い、続くページでも、再び、同じような「台詞」 、 − 54 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... MAN: ...While I've been passed around like a dirty postcard in this city.. . (p269) (幅広い点線部分は省略部分) を繰り返している。男は「この都会の中で、汚れた葉書のように、人々の間を 回されてきた」と言っているが、具体的には、彼がどのような状況にいたこと を表しているのだろうか。彼は、どんな職業に就いているから、彼自身が、 「汚 れた葉書のように、人々の間を回されてきた」と感じているのだろうか。また、 彼は、 そもそも、職業らしい職業に就いているのだろうか。彼が言う、この “dirty” という言葉の中には、‘dirty magazine’、 「猥褻な雑誌」の ‘dirty’ と同じ意味が 隠れているようにも感じられる。 そして、さらに、彼は、家を離れていた間、経験した、奇妙な出来事につい て語り始める。彼は MAN: When I woke up I was in a bathtub full of melting ice cubes and Miller's High Life beer. My skin was blue. I was gasping for breath in a tub full of ice cubes. It was near a river but I don't know if it was the East or the Hudson... When I woke up I was nakded in a bathtub full of melting ice cubes...(p267) (下線は筆者、点線部分は省略部分) と言っている。彼は、目を覚ましたとき、 「溶け始めている、 氷のキューブとビー ル会社 Miller の “High Life beer” で一杯になった、 バスタブの中に(裸で)いた」 。 そのため、彼の皮膚は寒さで青ざめ、息はぜいぜいと喘いでいた。彼は、同じ ことを、二度も、繰り返しているところを見ると、彼は、おそらく、したたか 泥酔したため、そうなる以前の記憶がなくなっているらしく、何故、彼がその ような状況に至ったのか、また、何故、彼が、誰かによって、そのような仕打 ちを受けなければならなかったのかわからず、驚いているように見える。そし て、ここでも、 「氷水」と「ビール」という液体、“the East and the Hudson”、 「イー スト・リバーとハドソン川」という「水」の流れ、すなわち、液体についても − 55 − 落 合 和 昭 触れられている。 さらに続けて、男は MAN: ...I crawled out and went into the parlor and someone was going out of the other door as I came in and opened the door and heard the door of an elevator shut and saw the doors of a corridor in a hotel... (点線部分は省略部分) と言っているように、彼は、そのバスタブから這いだしたあと、初めて、彼は そこがホテルであることに気づいた。部屋の中の回転テーブルの上には、ルー ムサービスで取った、多くの食べ残し、飲み残しが所狭しと散らかっている。 さらに、その部屋の床には、次の「ト書き」 、 MAN: ...All over the floor of this pad near the river―articles―clothing―scattered... ...―Bras!―Panties!―Shirts, ties, socks―and so forth... ... MAN: Yes, all kinds of personal belongings and broken glass and furniture turned over as if there's been a free-for-all fight going on and the pad was― raided...(p267) (下線は筆者、幅広い点線部分は省略部分) にもあるように、衣服、ブラジャー、パンティ、シャツ、ネクタイ、靴下、そ の他の、あらゆる私物、割れたグラス、ひっくり返った家具が散乱していて、 「ま るで、乱闘騒ぎがあり、部屋が急襲されたかのようである」 。ブラジャー、パ ンティ、シャツ等が床の上に散乱している状況から見て、 これは普通のパーティ が開かれた後の光景ではない。 これらの、彼の「台詞」は、いったい、何を意味しているのであろうか。一 人の男がこのような状況に置かれていたとすると、どのような場合が考えら − 56 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... れるであろうか。この男は、単に、個人的な娯楽として、この種のパーティ に出席したのか、それとも、仕事として、このパーティに参加したのか。上 の引用文の中で、“as if there's been a free-for-all fight going on and the pad was― raided...”、「まるで、乱闘騒ぎがあり、部屋が急襲されたかのようである」と 書かれているが、誰による乱闘騒ぎか、パーティの出席者だけの間での乱闘騒 ぎか。また、誰かによって、部屋が急襲されたらしいが、それについては、何 も書かれていない。そのため、じっさいに、乱闘騒ぎがあり、何者かによって、 急襲されたか、それとも、単に、彼が、その状況を見て、そう感じただけなの かは、定かではない。しかし、これら「台詞」の中の、わずかな情報、すなわち、 「ビール」と「氷水」で一杯になったバスタブ、回転テーブルの上に残されて いる、多くの食べ残しや飲み残し、床に散らばっている下着類から推測するに、 明らかに、ここで、一種の乱交パーティらしいものが行われたと考えてよさそ うである。すると、「まるで、乱闘騒ぎがあり、部屋が急襲されたかのようで ある」という、男の「台詞」は、乱交パーティが行われている最中に、警察が 押し入ってきたことを暗示しているように見えるが、 もしそうであるとすると、 何故、彼だけが逮捕されず、 「ビール」と「氷水」で一杯になったバスタブの 中で寝ていたのかという疑問が残る。もう一つの可能性は、乱交パーティが終 わり、他の出席者が帰ってしまったあと、 ひどく酔った彼だけが「ビール」と「氷 水」のバスタブの中で眠ってしまい、そのまま、そこに、取り残されたのだろ うか。もし彼が知り合いどうしの乱交パーティに出席していたのなら、彼の知 り合いが、 「ビール」と「氷水」のバスタブの中にいる彼を、そのままの状態で、 置き去りになどしないであろう。その他に考えられることは、彼だけが、その 乱交パーティの「よそ者」であったので、そのままの状態に捨て置かれたのか もしれない。これらの情報から判断すると、どうも、彼は、乱交パーティ用に、 出席人数が足りないために、一時的に、雇われた男、すなわち、売春を生業に している男ではないかと思えてくる。そのように考えると、彼自身が言ってい る、“I've been passed around like a dirty postcard in this city”、 「私は、この都会で、 汚れた葉書のように、人々の間を回されてきた」という「台詞」も納得できる。 − 57 − 落 合 和 昭 このような状況に置かれている男、自分のアイデンティティを失った男が、女 から、言葉の「雨」を思う存分降らして欲しいと願い、コミュニケイションを 求めたとしても、それは無理からぬことである。 WOMAN と「雨」 男から話すことを頼まれた女は、第一声として、 WOMAN: I want to go away. MAN: You do?(p269) と言う。続けて、第二声として、第一声を強調した形で、 WOMAN: I want to go away! MAN: How? と言う。さらに、第三声として、 WOMAN: Alone! ...(p269) (点線部分は省略部分) と言う。彼は、失った彼自身を、アイデンティティを、彼女とのコミュニケイ ションを取り戻そうとして、彼女に、 「雨」のように、話しかけてくれるよう に頼んでいるが、彼女から発せられた「出て行きたい」という言葉は、おそら く、意外であったかもしれないが、ある程度、彼が、心の底で、思っていたど おりであったかもしれない。それとも、この種の会話は、二人の間で、何度と なく、繰り返えされてきたのかもしれない。というのは、彼女は、彼に対して、 今回だけに限らす、もう何度も、繰り返し、この家を出て行きたいと言ってき − 58 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... たように感じられるからである。女の「台詞」からは、彼女が、今、すぐにで も、彼と別れて、一人で、 ここから出て行きたいという気持ちが伝わってくるが、 それと同時に、彼女一人が出て行くことが不可能なことを知りつつ、つい、語 気を強めて、言ってしまったようにも感じられる。彼から見れば、彼女が、一 人で、家を出て行ってしまえば、彼自身を、彼のアイデンティティを、彼女と のコミュニケイションを取り戻すことができなくなる。しかし、たとえ彼女が このまま家に残り続けたとしても、それは不可能である。彼が近づこうとすれ ば、彼女は離れようとしているように見える。おそらく、それは、また、反対 に、彼女が近づこうとすれば、彼が離れてきたことを暗示しているようにも思 える。これでは、アイデンティティやコミュニケイションの回復など、とても 望むことはできない状況である。 彼女は、劇の終わりに、再び、 WOMAN: I want to go away, I want to go away!....(p272) (点線部分は省略部分) と言って、この家を出て行きたいという強い意思表示をするが、男の MAN: Baby, Come back to bed. . . . MAN[pressing his mouth to her throat]: Come on back to bed with me!(p272) (点線部分は省略部分) という「台詞」に負けて、彼女自身、 WOMAN: ...Come back to bed. Come on back to bed, baby... . . (p272) . (幅広い点線部分は省略部分) − 59 − 落 合 和 昭 と、男の「台詞」をおうむがえしに繰り返しながら、彼がいるベッドへ戻っ ていく。これから後、再び、この劇の始まりと同じ生活が、明日から、再び、 同じように、繰り返されていくことだろう。この劇は、Beckett が、Waiting for 待っていた Godot が、 Godot の中で、Vladimir と Estragon が、使者の伝言によって、 今日、来ないことがわかったので、その場を離れようとして、離れ始めるが、 たちまちのうちに、離れるのをやめて、再び、その場で、Godot を待ち続ける 姿を思い出させる。同じ生活が、何一つ変わることなく、無限に繰り返される ことが暗示されている。 彼女はこの家を出て行くと言ったものの、それは、彼女にとっては、まった く実現不可能なことであり、夢のまた夢である。それにもかかわらず、彼女は、 その夢を語り続けざるをえないかのように、語ること自体が存在していること の証であるかのように、語り続ける。彼女は夢を語り続ける。彼女は、一人で、 ここから出て行ったあと、偽名で、小さなホテルに泊まるつもりであると言う。 彼女は、その想像上のホテルの部屋について、彼とのやりとりの中で、 WOMAN: ...―The room will be shadowy, cool, and filled with the murmur of― MAN: Rain? WOMAN: Yes. Rain. MAN: And-? WOMAN: Anxiety will-pass-over! MAM: Yes... . . . WOMAN: ...The windows will be tall with long blue shutters and it will be a season of rain―rain―rain... My life will be like the room, cool―shadowy cool and―filled the murmur of― MAN: Rain...(p270) (下線は筆者、幅広い点線部分は省略部分) − 60 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... と言っている。その部屋は薄暗く、 涼しく、 「雨」のささやきに満ちた部屋であり、 その部屋にいると、悩みは過ぎ去っていく。まるで、 「雨」が悩み事を洗い流 してくれるかのようである。 「雨」のシーズンになると、彼女の人生も、その 部屋のように、涼しく、薄暗く涼しくなり、 「雨」のささやきに満ちる。さらに、 彼女は続ける。 WOMAN: ...There will be a season of rain, rain, rain. And I will be so exhausted after my life in the city that I won't mind just listening to the rain... I'll fall asleep with the book still in my fingers, and it will rain. I'll wake up and hear the rain and go back to sleep. A season of rain, rain, rain... . . (p271) . (下線は筆者、幅広い点線部分は省略部分) 「雨」のシーズンには、都会生活に疲れた彼女は、ただ、じっと、 「雨」に耳を 澄ませているだけで満足である。彼女は、 「雨」の音を聞きながら眠り、 「雨」 の音を聞きながら、目を覚ます。彼女は、絶えず、降っている「雨」に耳を傾 けながら、生活をする。 そして、さらに、彼女は、時間について、 WOMAN: ...One day I will look in the mirror and I will see that my hair is beginning to turn grey...Then one day, ...I will look in the mirror and see that my hair has turned white. White, absolutely white. As white as the foam on the waves. (p271) (下線は筆者、点線部分は省略部分) と言う。ある日、彼女は、鏡を見ると、白髪が目立ってくる。また、ある日、 彼女が、鏡を見ると、髪の毛が真っ白に、波の上の白い泡のようになっている 姿を想像する。彼女は、 「雨」の音を聞きながら、年を取り、やがて、死んで いく。彼女にとって、 「雨」は、彼にとっての「雨」と似ているようでいながら、 明らかに、違う。彼にとっては、 「雨」は惜しみなく、降り注ぐ、言葉の「雨」 − 61 − 落 合 和 昭 である。しかし、彼女にとっては、 「雨」は言葉の「雨」ではなく、自然の「雨」 そのものであり、「雨」そのものの持つ安らぎである。彼女は、静かに、「雨」 の音を聞きながら、年を取り、死んでいくことを願っている。ここにも、 「雨」 を通して、二人の間の断絶がかいま見られる。 この劇では、この二人の男女に関して、“thin” という語が頻繁に使われてい るが、それが食糧不足からくる、二人の貧弱な肉体だけではなく、この男女の 希望のなさや存在感の薄さをも表している。そして、さらに、この語は、“rain” という語と折り重なり合うような形で、用いられている(便宜上、“thin” が使 われている順番に引用し、番号を付けた) 。 1. The Woman stretches a thin bare arm out of the ravelled pink rayon sleeve of her kimono and picks up the tumbler of water and weight of it seems to pull her forward a little.(p265) 2. A thin music begins,...(p265) 3. She touches his thin smooth chest which is smooth as child's and then she touches his lips.(p268) 4. WOMAN: ...I'll run my hands down my body and feel how amazingly light and thin I have grown. Oh, my, how thin I will be. Almost transparent. Not hardly real any more...(p272) 5. WOMAN: ...I'll walk alone and be blown thinner and thinner. 6. WOMAN: And thinner and thinner and thinner and thinner and thinner!... ―Till I won't have any body at all...(p272) (下線は筆者、点線部分は省略部分) − 62 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... これらの引用文を見ると、“thin” は、最初は、「ト書き」 (1 から 3)の中で、 やがて、WOMAN の「台詞」(4 から 6)の中で、用いられていることがわかる。 Williams は、“thin” を、まず、 「ト書き」の中で、使い、その後、WOMAN の「台 詞」の中で、使っている。 1 では、 「ト書き」の中で、着物(ガウン)のボロボロになった、ピンクの レイヨンの袖口から出ている、彼女の剥き出しの、細い腕を “thin” と形容して いる。さらに、彼女は、「水」の入ったグラスを持ち上げるが、そのグラスの わずかな重みで、身体が少し前のめりになるとも書かれていて、彼女は痩せ 細り、体重も減ってきているだけではなく、体力そのものが極度に衰えている かのように感じられる。この「ト書き」と、ほぼ同じ表現、“The Woman leans forward with the weight of the glass seeming to pull her;...”(p266)が、テキストの 次のページ(p267)に、もう一度、出てくる。2 では、背後で流れる、音楽に 対して、“thin” は、 「か細い」 、 「弱々しい」という意味で使っている。これも、 この劇における “thin” の意味を強調するために使われている「音響効果」であ る。3 では、今度は、MAN の薄い胸に対して使っている。ここまでの「ト書 き」からは、MAN も WOMAN も、痩せていて、十分な栄養もとれず、二人 が貧しい生活をしている様子が感じられる。4 からは、それ以前の「ト書き」 内における “thin” とは異なって、一転して、WOMAN の「台詞」の中のみで、 使われているが、そこでは、彼女は、自分の身体に手を這わせてみると、驚く ほど軽く痩せてしまったと感じ、このままだと、さらに、痩せ続け、ほとんど 透明になり、やがて、跡形もなく、消えてしまうと思っている。5 では、彼女 は、一人で歩いていると、強い風に吹かれて、彼女の身体はますます痩せ続け るだろうと言っている。6 では、ますます痩せていく様子を、“thinner” を五回 も繰り返して、強調している。彼女は、痩せ続けていく結果、やがて、身体自 体が完全に無くなってしまうと感じている。彼女の「台詞」の中では、音楽用 語で言えば、‘crescendo’ のように、“thin” の回数をしだいに増やし、かつ、“thin” の比較級を繰り返し使いながら、“thin” をより強調している。これは “thin” が、 肉体的に、痩せているだけではなく、徐々に増している、彼女の存在の希薄さ − 63 − 落 合 和 昭 をも表していると考えることができる。 「水」 この劇では、“rain” だけではなく、「水」等の液体に関するイメージが繰り 返し使われている。特に、女が、劇の間、手にして、少しずつ、飲んでいる、 「水」に関する言及が多い。以下の 1 から 7 までの引用文は、すべて、女と “a tumbler of water”、「一杯の水」との関連で書かれている。 1. The Woman is holding a tumbler of water from which she takes small, jerky sips like a bird drinking.(p265) 2. ...and(WOMAN)picks up the tumbler of water and weight of it seems to pull her forward a little.(p265) 3. The Woman leans forward with the weight of the glass(of water)seeming to pull her;...(p266) 4. The Woman sips water.(p267) 5 .The Woman sets her glass(of water)down.(p267) 6 .WOMAN: I've had nothing but water since you left! ...Not a thing but instant coffee until it was used up, and water!(p269) 7 .WOMAN: ...The Woman sits by the window and sips the water.(p270) (下線及び括弧内は筆者、点線部分は省略部分) − 64 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... 6 を除いた、他の引用文では、女がそのグラスを持っていたり、手に取ったり、 置いたり、飲んだりという、女の動作に関する「ト書き」であるが、6 だけは、 「ト書き」ではなく、彼女の「台詞」になっている。この「台詞」の中で、彼 女は、彼が去って以来、 「水」以外のものは何も口にしていないと言っている。 彼女が口にしたのは「水」だけである。食べるものがないので、 「水」だけを 飲んでいたと言っている。 「水」 だけしか口にするものがないとすると、これは、 想像を絶する、貧困状態であると言わざるをえない。彼女がそのように飢えて いる状態にいるにもかかわらず、MAN と「雨」の中でも見てきたように、彼 は有り余るほどの食べ物や飲み物が出された、乱交パーティに出ていた。その ため、彼女が飢え苦しんでいたときは、彼は、腹一杯、食べることができたろう。 それほど多くの食べ物や飲み物が残っていれば、彼女のために、そのうちのわ ずかでも、家に持ち帰れば、彼女の飢えを少しは満たすことができたかもしれ ない。しかし、したたか酔っていた彼はそんなことは考えもしなかったように 思える。ここには、いっしょに暮らしていながら、お互いに対する、信じられ ないような無関心がある。「男」と「女」の間に横たわる深い溝が感じられる。 そのため、男は、「水」に関しては、女とっての「水」とはまったく異なっ たものとして、言及している。以下は「水」に関する、男の言及である。 1. MAN: When I woke up I was in a bathtub full of melting ice cubes and Miller's High Life beer. My skin was blue. I was gasping for breath in a tub full of ice cubes. It was near a river but I don't know if it was the East or the Hudson. (p267) 2. MAN: ...All over the floor of this pad near the river-articles cothing―scattered. (p267) 3. MAN: ...When I woke up I was naked in a bathtub full of melting ice cubes. (p267) (下線は筆者、点線部分は省略部分) − 65 − 落 合 和 昭 男の言及は、バスタブの中の「氷水」と「ビール」 、 「川」である。女は「水」 しか口に入れるものがないので、 「水」を飲んでいる。 男は、 「水」が豊富な川 (イー スト・リバーか、ハドソン川)の近くのホテルの部屋の中で、 「氷水」と「ビール」 が一杯入ったバスタブの中にいた。 「女」にとっては、 「水」は生きていくため の必需品であるにもかかわらず、 「男」にとっては、 「水」は娯楽の対象である。 しかし、一度だけ、 「男」が「女」が飲んでいる「水」を要求する場面がある。 それが次の箇所である。 MAN: ...Give me a drink of that water. [Both of them rise and meet in the center of the room. The glass is passed gravely between them. He rinses his mouth, staring at her gravely, and crosses to spit out the window. Then he returns to the center of the room and hands the glass back to her. She takes a sip of the water...](p268) (下線は筆者、点線部分は省略部分) この箇所は、この劇では、唯一、儀式的な場面である。男が女に「水」を要求 したあと、 「ト書き」にもあるように、二人は儀式的な行動をとる。 「ト書き」 に沿って見てみると、二人は立ち上がって、部屋の中央で向かい合う。グラス が「女」から「男」へと “gravely”、 「厳粛に」手渡される。彼は “gravely”、 「厳 粛に」彼女を見つめながら、 「水」を口に含み、 その「水」で口をゆすぐ。そして、 彼は窓からその「水」をはき出す。それから、彼は再び部屋の中央へ戻り、彼 女にグラスを返す。彼女はそのグラスから、再び、「水」を飲む。Williams は、 この場面を描くに当たって、儀式にふさわしい語、“gravely”、「厳粛に」を二 回使っている。二人はこれらの動作を、無言のまま、いわば、無言劇として、 “gravely”、「厳粛に」行っている。 この場面では、女からグラスを渡された「男」はその「水」を飲むのではな く、口をゆすぐだけに使っている。そのため、彼は、最終的には、その「水」 は飲まないで、窓からはき出している。彼にとっては、その「水」はどうして も必要な「水」ではない。はき出してもよい「水」である。しかし、 一方、 「女」 − 66 − Tennessee Williams の Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... にとっては、その「水」は飲む必要がある「水」、 生命を維持するのに必要な「水」 である。ここに、「男」と「女」の間に、 「水」という面から見た場合も、大き な違いが見られる。この二人にとっての、 「水」の違いを際だたせるために、 いや、 二人の間の精神的な乖離、交わることのない断絶、埋めることのできない孤独 を、Williams は、あえて、儀式として描いたのだろう。 おわり テキストは The Theatre of Tennessee Williams VI:27 Wagons Full of Cotton and Other Short Plays に収められている Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen...(p265-p272) を使用した。また、 Tennessee Williams: Plays 1937-1955 The Library of America に収められてい る Talk to Me Like the Rain and Let Me Listen... の Chronology、Note on the Texts、 及び、Notes を参照 した。 注 1. The Tennessee Williams Encyclopedia Edited by Phiklip C. Kolin Greenwood Press 2004 p303 参考文献 1. The Kindness of Strangers: The Life of Tennessee Williams by Donald Spoto Little, Brown and Company Boston Toronto 1985 Chapter Five Fidelities(19481952)p143-p182 − 67 − 落 合 和 昭 2. Tennessee Williams by Felicia Hardison Londre Frederick Ungar Publishing CO. New York 1983 p52-p53 3. Tennessee Williams by Roger Boxill Macmillan 1987 Chapter 10 Late Plays (1962-81)p132-p165 4. Tennessee Williams: A Guide to Research and Performance Kolin Greenwood Press Westport, Connecticut・London Cotton and Other One-Act- Plays(p1-p12) − 68 − Edited Philip C. 27 Wagons Full of