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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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日本におけるメキシコドルの流入とその功罪(三)
小野, 一一郎
經濟論叢 (1958), 81(5): 292-305
1958-05
https://doi.org/10.14989/132616
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
経務言合叢
t
+
一巻第五罪
芸
名
)
無政府主義の折1
頭と日木社会党大会
・
・1
日木英太郎
1
日本におけるメキ y コ ド ]vの 流 入 と そ の 功 罪 t
三
)
・・小野一一郎
2
4
元朝の成立期ころにおける蒙古民族の
鉱工業について・・・....・ ・
.
. …・伊藤幸一
3
8
・・鎌田武治
5
2
H
マ ア 也 ツ I夫 人 の 肯 典 派 経 済 学
昭和三十三年五月
貫郡大事紹?弁事曾
第八十一巻
第五号
良
日
日 本 に お け る メ キ V コドル O流 入 と そ り 功 罪 侍
流入とその功罪白
カ
四
ιしての洋銀の棺立(以﹂木号)
A
円 U 洋銀相場の発片と究恒例置貨
五伴県相場の院題
野'
日本におけるメキシコドルの
次
がみと
C
︹ U 相場下落の彪滋
むすむ
日口相場変則の描移とぞの庶国
改革
開港と芹銀の流入(以上八十一巻三号)
幣制。改革
幣制
コ
ロ
金貨の流出(八十一巻凶き
洋銀(メキシコドル)
L
日
われわれはまず幣制改革の内容そのものを考察し 、つぎに幣制改革の経緯につい
τふれたいと思う。
藩体制下貨幣制度の解体と再編の法制的確認己そ 、万延元年にゐける幣制の大改革にほかたらなかっ た。そこで、
開港以後に治ける洋銀の流入、金釘流出を通ず る、国際比価への平準化傾向、つまり市場メカ一二人 ムを通ずる幕
四
は
四三こ
二
︺ 英米両国の同意のもとに、保字小判一一刊を安政六年八月以来鋳造されて Wる新一分
万延元年一月(一八六0・
銀十三個半と等価に沿くことを決定し、二月一日より己の割合て通用させることになった。かくして保字小判一両
U
同年四月はじめ、幕府は同じ
は三両一分二朱(つまり一分銀十三個半)、同一分判金は三分一朱、正字小判一両は二両二分三来、同一分判金は二分
三朱白直増通用となったのである。己の措置は改鋳までの暫定的た取極めであった
く、英米両国の同意了解のもとに、との芭増通用に準じて新小判、一分判を鋳造し、二分判、二朱金を改鋳し、四
月十日より適用ナベきことを令した。新小判は正字判と同品位てあるが量目はほぼ三分の一に減少し(正宇小判一両
rbりにおかれたのてあるから、金貨恐鋳によ
は二・四匁、万延小判一一聞は 0・λ人匁)、一分銀は品位、量目ともに従来
って、国際比価への平準化を行ったととに怠る。一分銀四個 H新小判一一向からみちびかれる金銀比価は一対一五・
。七であり、他方銭貨に治ける銅貨回収、鉄貨鋳造と相まって、こ己に金銀銅比価格差を利用する投機取引は、そ
の終駕の制度前確認をあたえbれることに左ヲた。
この幣制改革の目的は申すまても左く、洋銀流入・金貨流出つまり投機取引によヲて既乱された幣制の国際的た
比価体系に応ずる整備改革であった。そのことはまたすでにのべたようr すてに市場に沿いて形成された比価変
更・国際的平準化の法制的確認にほかたらなかったのであるが、この改革の手段として選択されたものが、金貨の
悪鋳つまり小判白量目の三分の一切下げてあったことについτ 一言のべておく必要がある。
というのは金銀比価の国際的平準化つまり金貨に対する銀貨価値の切下げよいうこ止は、金貨の変更(悪鋳)て
在く、銀貨の変更(良鋳﹀一によっても可能であったかbてある。 つまり従来の金貨と補助貨との一両日一分銀四個
第八十一巻
第有号
日
一
という計数関係主維持したがb、国際比価に適応するためには、金貨忠鋳と銀貨良鋳いいかえれば一分銀、二朱銀
日本におけるメキシコドルの流入とその功罪伺
7L
日本におけるメキシコドルの流入とそり功罪同
であったか
第八ぶ l一巻
二九四
第アれ号
7 Iプスノットをして ﹁余は未だ普て(野蕃時代を振り返るに非ずんば) 一国の金銭上の
うまでもあるまい。ところで、すてにのベた金貨悪鋳による比価改定の方向を幕府が選択するに Hたった原因は何
一方、もし銀貨良鋳白方向を選択したとすれば、購買力の低下・物価騰貴の撹乱的影響をまぬがれえた己とはい
あたえるものでありただろう。
に三分の一の切下げを意味するものではなかったが、定額所得者たる封建家臣団、都市ト層階級に決定的危影響を
昂奮は極端である﹂と。(高橋、前掲論文上)流通貨幣価値の減価、それはもとよりア lプスノットのいうように直ち
併し現在は以前必要とした物資の僅々一一一分の一を購入しうべきのみである。己の階級の人々の心中に起ワた不満と
る極く僅少の給料を給与される。モの給料は通貨の購買力減退以前には辛くも彼等の家族を扶養しえていたろう。
のでなくてはたらない。﹂﹁諸大名は多くの家来共を率いている。彼等はその衣食に抑ふるに一分銀を以て支払はる
為されたのである。金銭の価格及び金銭上の契約のょに、この結果起ワた混乱によって惹起された不便は莫大志も
ある。而じてこれは何等国内的困却事に原関されたのてはなく、只外国商人の利便の為の外部よりの圧迫に基いて
るものである。所が日本の己の場合には流通貨幣の価値が一朝にしてその以前の一一一分の一に購買力を減退したので
警告されるも白であり、ーっ、物価誌に或る程度迄は契約にも漸進的に再調節をなすべき充分なる余裕が与えられ
革の結果をつぎのどうに白べている。﹁通貨の購買刀の減退なる事は、時には早急たることもあらうが、通常改め
規定が、乙れ程急激且強暴に採り取bれた他白例を聞知したい﹂といわしめたものぞあった。彼はまたこの幣制改
者つまり金貨思鋳てあり、
の量目を増加させるというこつの方法が論盟的には考えられるかbてある。現実において幕府が採用したのは、前
プ
ミ
安政五年六月白条約締結によって、内外金銀比価格差から生ずる金貨流出の発生は、幕府当局者のすでに予想し
た事態てあフた。モしてこの金流出の防止策をめぐッて、同年十一月幕府当局者の問ゼ幣制改本に関する二つの方
g
(もちろん、厳需にはいづれの方式も金銀河貨の改鋳を同時に主もなうも白であった ωただここでは
向の二者択一日かかれb 白間て論争されたのぞある。二ヲ白方向とはすでにのベた金貨悪鋳の点向と、銀貨良鋳によ
る方向の二ヲであった。
一方銀貨良鋳は、前者つまり金貨悪鋳の方法の探用から生ず
o金貨悪鋳による比価格差の平準化への指向は少くとも悪鈎による改鋳益 H出司確保白上に立って幣制改革
その基本的且地 H改鋳心基槌的構想にワいてのべているのである。) この一一つり方式は決して根本的に対立したもりではな
かった
日改鋳を行おうとする財政的見地に立つものであり
る物価騰貴がもたらす弊害(その影響をもっともうけるものは非生産者たる武士階級であるが)を恐れる、つまり森藩体制
の内部的危機の成長主恐れる首相府当局の魂日徳川封建体制の危機意識が宿づていた。しかし後者の道は莫大た改鋳
損失をともなうものであり、とうていその全面的実行は不可能なものであった。
この点について石井孝教授は、前者の方向にエる改鋳を主張した勘定奉行の意見はもっばb伝統的改鋳 H悪鋳に
よって幕府の財政難を緩和しようとする財政的見地に立つ現実論てあるが、それは幣制の根本的改革を企図せざる
第
号
T1
[
0
石
車常肘本来の立場 H保守的見解てあるとし、一方後者の道を主張した外国奉行の見解は、財政的には多大の失費も覚
歴史学研究力巻八号)。たしかにこの場合の勘定奉行の意見は、金銀比価を一対十という当時日本の
悟のよゼ、国際的た水準に治い℃幣制を再控ぜんとする理想的立場 H前進的革新的立場であったとされている
井孝、前掲論文下
(
市場比価友いし地金比価にとどめる水準ての金貨改鋳論であり、そのかぎp、石井教授のいわれるように、この場
第八十一巻
1
合には幣制の根本的改革日国際比価への適応は一応 Fナ上げ吉れ、依然鎖国的幣制の存続が意図されていることは
日本におけるメキシコドルの流入とそり功罪同
九
日本におけるメキシコドル凸流入とそ白功罪同
第八十一巻
六
第五号
ノ
一
、
H 一分保一桐)てあり、それは後者白方式の選択を意味ナ
て国際比仙に準ずるそれとなる)を強︿主張した理由は、第一に、金貨改鋳 H思 鋳 を 行 う 場
η
銀と同位向量つまり七・二匁であっても、それは従来の定位貨たる一分銀二・一一一匁のもった購買力と同様(一一向 l四分)であるから、
切下げ)がただちに洋銀購買力の事前的日直接的切下げ(すなわち洋銀一ドル一一一分替が一分替となる、たとえ一分銀が洋
合の財政的容易吉という点であったことはいけうまでもない。しかし第二に、銀貨良鋳の方法による改鋳(銀貨価値の
は勘定奉行の一対十とちが
改鋳方法について外国側が財政的見地に立った勘定奉行の意見つ主り金貨改鋳方式の線(ただしこの場合金銀比価
て外国側が己の新二朱銀反対の交渉当時以来主張したも白は金貨改鋳による国際比価への平準化であった。
額の改鋳損失を負担せざるをえないという二律背反と外国の反対によっ
τあえなく失敗に終ったのである。かわっ
しかし、すてにのべたように、これを徹底させるためには洋銀同位同量の一分銀を鋳造せねばたらず、それは巨
るものであった。
新二朱銀の鋳造(二朱銀一個一二・六匁× 2 1七二一鬼 H洋詔一個
る幕府本来の立場があったとわたくしは思う。事実において、まず幕府が開港直前に採用した対策はすでに白ベた
中にこモ、幕府の対外貨幣交渉に島ける伝統的立場つまり洋銀一ドル H十六匁u 一分銀一個の関係を確保せんとす
よる物価騰貴士恐れる幕府のいま一つの魂を表明するものにすぎないとみる方が妥当であろう。古bにこの立場の
的改草を意味するも白てはたいからである。むしろ外国奉行の立場こそ会貨輸出の防止を念願しつつ、 一方悪鋳に
ない。たぜなb、金貨と定位銀貨白比価改定ということだけでは何ら国際水準にもとづく幣制の確立 H幣制の根本
うに直ちに国際的水準にもとづいて近代的幣制の確立を指向する理想的立場日前進的革新的立場とするととはでき
いうまでもない。しかし、勘定奉行の烹場主もって幕府本来の立場とし、外国奉行の意見をもって氏のいわれる工
プL
洋銀購買力の三分の一切下げとなる)を怠味するのに対し、金貨悪鋳の方法による銀貨価値切下げの方法は、同じく金
9
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う事態はこの時差金利用したも
Dてある。悪鋳 H貨幣価値下落日物価騰貴がすべて即時的に発生
銀比価改定 てあコても、洋銀購買力の低下は忠鋳による物価騰貴という間接的迂回的経路を辿って行われることに
なる。改鋳益と
するならば改鋳益なる事態-七白ものが否定されるほかはないが、そのような事態が発生する己とは、特殊な条件に
もとづく、例外的左場合である。 したがヨて洋銀は己の場今には(つまり金貨悪鋳の場合)改鋳益 D 一部主享受する
ことができるだろう。つまり事前的な洋銀価値目切下げてたく、事後的在切下げとなるだろう。さb に、この方法
は祥銀一 F ル日一分銀三個替(厳密には百ドル u一一百十一個替)なる条約規定士少くとも名目的に、従来通り維持しう
るから、己白点からむ一切の批難をもまぬがれることができるだろう。己申二点己そ金貨改鋳による比価調整をか
れbが主張した主な理由であると思う。たんに比価調整というだけであれば、前者白方法も、後者の方法も決して
矛屑したもωてなく、洋銀したがヮて貿易にあたえる影響も、究極においτは同一だか、りである。
外国側の金賃改鋳による比価改定策白主張は既述むようにすでに開港当初かbみbれるが、安政六年十月の幕府
の江戸城本丸炎上主理由とする一分銀交換停止を期として一そう強化され、ついに十二月、最後的に幕府に採用さ
れることになったのである。この聞に沿げる幕府の止場は一貫しτ銀貨良鋳論てあった。 つまり後者白方向へ目指
向こそが幕府のす場であった白てある。幕府による物価騰貴、上下疲弊を理由とする金貨悪鋳策への反対は、己の
c
外国側の提案に対しτ、根強い抵抗を一川すりであるが、ワいに十一月七日にいたって、己の立場は前者に屈服を定
言することになる
第八十一巻
第五号
九
以上ωように比価改定り必然的契機が洋銀をもヮてする同種阿量交換規定の強制によってあたえられたと同様に、
百本におけるメキシコドル凸流入、とその功罪斜
九
七
日本におけるメキシコドルの流入とそ D功 罪 伺
第八十一巻
第五号
O
金貨流出の期間については租々なる説がある。たとえば、遺臨氏は乙白期聞を大体開港直前から万延元年一月まで、少くと
HmNV いずれにせよ流出刻聞が比較的短期であったことは疑
71
字企で﹀之されている(同上論文)。なお最も極端なるものは似谷
芳郎氏の一億円説(約一千万両)山崎覚次郎教授の一一々岡説があるが、阪谷氏の説は当時存在 Lた金貨の盆が崎造高、引桂高
教授は精街な推計り上に、これを冗十万両内外(保字金・
いないロなお金貨流出額についても種々の昆解が発表されているロラ 1トゲ γはほぼ百万両と推定L (与量骨 FZNE)、石井
出
向 hbbZHEMENFH回 国 ﹁ 印
一
有
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目
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向
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井前掲論文下歴史地理七六巻六号︺なお、 E ・
ラ iトゲソは安政元年十一月まで最大限、四カ月間と推定している。(同
丸史上山管理由とする内外貨変換停止にいたる二カ月余の聞であるとされている。(遠藤前掲論文伺史学雑誌凹二篇七号、右
月一目までであり、流出のことに盛んであったのは、安政六年八月の内外貨交換がやや便利となってからサ月下旬の江戸城本
も、八、九カ月間であるとし、石川川教授は最穴限開港後七カ月間、つまり安政六年六月開港以後金貨値上とな勺た万延元年二
ω
可 能 た 己 と だ っ た かbてある。
T
o
r定 ・ 近 代 的 国 家 の 成 立 に よ っ て 白 み 真 に
府 匂 狙 占 的 な 親 制 に 止 か れ て い た 。 主 ぜtb、 そ れ は 幕 落 体 制 の 崩 壊 H
統一的貨幣制度の成立を怠味するものではなかった。金・銀・銭のコ一貨並行制度は存続し、貨幣鋳造モのものも幕
方 延 一 五 年 白 改 革 は 国 際 比 価 へ の 調 整 を 目 的 と す る 幣 制 D改 革 て は あ っ た が 、 モ れ は ま だ 全 般 的 た 幣 制 の 近 代 化 日
窮、体制の危機に直屈した幕府の立場を物語るものといえよう。
は 、 事 実 よ 実 行 さ れ た か っ た け れ ど も 、 こ の よ う 友 幕 府 の 企 図 は 明b か 陀 物 価 騰 貴 に よ る 封 建 家 目 団 、 下 層 民 の 困
年 ( 一 人 六 一 ) 己 白 線 に 治 う 幣 制 改 革 問 題 全 英 国 に ゐ い て 交 渉 し て い る ( 高 橋 前 掲 論 文 上 史学十七巻二号)。このこと
万延元年の幣制改革以後におい亡も、幕府の銀貨良鋳江主る比価改定日幣制改革への意図は放棄されず、文久元
ろう。もちろんこの万向は幕府の財政的立場に一致するものではあヮたが。
比価改定の方法モのものも士た外国(とくにイギリス・アメリカ)の主導白下におしすすめられた点己そ注日すべきだ
九
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¥
.
w宇金三百六十一一一方河、古二朱金八百十二万両、安政二分刊二百三十七万再、王字企九万両と推定されているりで
を差引 Lてm
える。一万両説については逆にその過少評価が問われねばならないだるう。両者はともに、少くとも合理的な推計の上に立つ
あるから(竹越﹂与三郎日本経済史七巻三O 六 七 ペ ー ジ 可 存 在 量 を 上 廻 る ご と に な り 、 余 り に も 流 出 を 誇 張 し た も り と い
ジ)なお安政開港後の金貨流出の理論的究明をこころみた陀目すべき先駆的労作としては阪谷芳郎前掲論文国家学金雑誌第
も り で は な い 。 ( 阪 谷 芳 郎 ﹁ 貨 幣 史 上 の 大 彦 事 ﹂ 同 同 家 芋 会 雑 誌 第 川 巻 四 二 号 、 山 口 党 次 郎 貨 幣 融 行 問 題 一 斑 二 六0 ペー
四巻目0 ・ 四 了 四 二 号 ( 明 治 二 三 年 ) 、 池 部 駒 男 前 掲 前 士 向 上 第 七 巻 七 λ・七九・入二号(明治二六年)、輩出川出史楳録
万延元年(一八ハO) か ら 文 久 三 年 ( 一 八 六 三 ) に か け て 、 下 回 武 士 に よ る 外 人 殺 傷 、 貿 易 商 脅 迫 な ど の 事 件 が 姻 発 し 、 懐
安政末年金貨流出考パロl 伺国民新聞明治一一主年三月一八・一九・二O 日、古月三O 日号所収参照。
ω
﹁国内米穀布罰金品銅はさらなり、炭・消・茶・漆・砂糖、凡山野田海に生ずるもり、総て空耗して、物側貴躍し、諸民これ
英運動が隆盛をきわめるに到るのもそのひ主つの現われであろう。たとえば挺高論者大橋前庵はつぎりょう忙のべている。
金掘は賎ふし
が為に岡苦す、甚しきに烹りては、産を仰つこと得ならずして通路に食を乞ひ、溝盤に身を転ず、有可等是を知れども夷
くわし︿は石井孝、前掲論士歴史学研究九巻八号を参照され士い。
(校正恐憧抑前門万延元年・八六OU 日本経済設許巻三回、四七O l四七三ページ﹀
なりたるとて、幕府より出し玉ふ処は前の如くにして増玉はず、賜ふ処白金は前の如くなれば磨下の士窮するに歪る。
L
て、清物は夷械の九めに空乏し、勅の価月脅迫て貴躍す、これ賎き金副銭は多くなりて諸物漸々払底なるが故なり。金銀多く
賊 の 芯 り に 抽 れ ん こ と を 恐 て 、 此 を 制 す る こ と 能 は ず 、 却 て 肥 馬 の 座 を 掃 て 、 其 請 ひ に 従 は ざ る こ と なLe-
ω
洋銀相場の問題
目本にお付るメキシコドルの流入、とその功罪同
第八十一巻
九
九
草五号
水準に適応する形態に変革させたのであるが、洋銀はいまひとつの問題をわれわれにあたえている。モれは洋銀相
以上白べたように洋銀は、同種同量交換の強制による流入と一方での金流出士通じて、わが国白幣制を国際比価
五
口本におけるメキシコドルの流入札乙そ市功罪件
場白問題てある。以下己白己とについτ簡単にふれておこう。
洋銀相場の発生と貿易通貨としての洋銀白確立
第八十一巻
O
O
)n
第五号
そして、モ
杭浜開港当時
以上白同種同量通用白事実上回否定は、
かつ支払もまた己れに工ったといわれている(原稜威雄
東京高等商業学校調査部第六回報告十三ベ 1 ジ
府は安政六年一一月年貢モの他の上納金に洋銀を用いる己とを許し、さb に一一一月二七日には、ハ H 旦の要求に応
るだけの造幣能力の限界によって限定され、己目ことがまた逆に同種同量適用に対ナる制限的要悶ともたヮた。幕
ここに同種同量交換の外国による幕府への促迫と在るのであるがぜ己れまた一分銀への急激かつ強烈な需要に応ず
之貿易状態林洋銀相場取引之沿革
して一分銀世単位として売買価格を決定し、
の己とが逆に枠銀の貿易通貨としての機能とそり確立を阻げる己とになったのである。それゆえ、貿易は当初主と
よるのではたく、前にのベたように投機的左差益(比例格差を利用する)の実現を欲したかbであった。
外商が洋銀ての受取りを忌避し、一分銀たいし金貨ての文払をのぞんだのは、詳銀が流通しないという己とだけに
た。開港当初においては閏内取引はもちろんの己と対外 H貿易取引においてさえ、日本人も外商も洋銀を忌避した。
しかし、すでにのべたように同種同宣通用規定は国内取引日流通における洋銀忌避によって、事実上空文と化し
比率を維持し、相場変動なる事態を排除したかbてある。
および改鋳期間心利子の問題が排除されている白てあるから、相場つまり一分銀との交換・比率リ同替相場は固定
発生の余地をもたなかったであろう。なぜなら、前者はそもそも相場なる事態白否定てあり、後者の場合改鋳費用、
そりいずれか一方てもそ白まま実現しえたならば、開港当初に沿ける洋銀流入とそれにともなう洋銀相場の問題は
洋銀は、もし安政条約による同種同貫通用(一 F Y U三分︺、同種間最交換(一 OOFhFH一分銀一二一一個)が、
A
じて、目方七匁以上の洋銀に改二一分白極印をおすたど種々の方策をとるのてあるが、それらはすべて不成功に終っ
た。洋銀三分極印は貨幣交換の困難を排除し、洋銀の国内適用をはかることを目的とするものであったが、極印を
押された洋銀は、必ず三分としてうけとらねばならず、自由相場が許されず、 一分銀との交換ができなくなったの
(竹越与三郎、日一不経済史第ヒ巻
て、とりような洋銀を商人は受取ることを城い、レたがりて、逆に通用をほぼ主れる結果とたった。そして極印の洋
銀は無印の洋銀上りかえって市価が低くなるという皮肉な結果を生じたのである。
O 二円 lジ﹀
同種同宣通用・交換という条約規定の事実上の排除・阻害はここに当初よb洋銀一分銀の両替相場の問題、すな
(一阿 l
ハ条約規定では同種間最交摘。場
わち洋銀相場白問題を発生させた自である。開港当初洋銀相場限一 F ル=一五匁内外(一一分一止什外)を示し
H三
分 1四五鬼)
一リトル合担目で一評価すれば四六・六五却、同種岡弘通用規定では一ドルー=一分 U四五鬼、ただし安政六年二一月二七日以
六一U姐建と 1て)極端た場合には一 F ル日一五匁︿一分﹀にしか、 交換されなかコたの
同
Aに
は、
後は交換も一ドル
同種岡量交換の促進とともに洋銀相場も上昇氏転じたと思われるが、すてにのベた一 O月の交換停止とともに相
(なお、相場は各港においてそれぞれことなりている。これ
場は三O匁ないし三七・五匁(二舟J 二分二朱)にふたたび下落している。年末には三五、六匁 D相場とたっているが、
全体として か
h ればほぼ三五匁
t四O匁白聞を上下している。
第八十一巻
第五号
歴史学研究二桂三・六号)。友お己の点について安政六年末つぎりような興味ある
についてはむらにふれる)万延元年に入ってからも己の傾向はかわらず四月rは三七・五匁(二分二朱)という相場が一記
録されている(石井前掲論文上ド
γヲトルの流入とそ白功罪伺一
報告が町奉行によって行われている。
日本におけるメキ
。
目本におけるメキジコドルの流入とその功罪件
第八十一巻
第五号
四
三匁乃至四O匁(量目適用
横浜貿易に従事せる江戸の商人て貿易の代金として洋銀
価格(銀一地用凱坦一一鬼六分替、洋銀一ドル 1 ハ納品目一一分銀一個)以上白価値をもちえたのは、 同種同量交換がまがb
味深川ドものである。貿易通貨としての洋銀の問害にもかかわらず、少くとも洋銀がささの幕府による公定地金買土
己の報告は洋銀の国内不流通なbびに貿易通貨としても洋銀が阻害されていることを一川す点に沿いτはなはだ興
を上げ、外同人も聞方士見合はせるので、貿易不振の状態を来して居る白である﹂と(石井前掲論文下)。
4六匁の相対通用となった。そこで横浜に於ける貿易商は、諸品を従来の値段て十お込んでは引合いド兼ねるから値段
一
しく繁忙の時期となれば、汗抑制ては量目の一勘定に馴れず、紛はしいといふこともあるので、当時は洋銀一枚て三十
引替も出来ようし、金利より利益が生ずるといふことを見越んて居る。然るに歳末に近づくに従ひ、金銀の通用烈
匁前後に見切って売払ふ者もある。一方買方ては、洋銀は現在不融通たるも、数月間持ヮて居れば銀座に於て追々
の利足を出す約束ゼ借金するという様に、洋銀を質物同様とし、又は急場の入用あるものに、洋銀一個につ吉囚O
ても上いも仏どと言ふので、止むなく同替屋へ持って行っても先の如く断はられる。モ己ゼ洋銀を担保として、通例
を所持する者はそれを支払手段に用ひんとしても、先方ぞは成るべく邦貨て話取り度く、都会悪しければ月延にし
の条約規定 rよれば凹六・六五主)の相場て邦貨と交換する。
銀は江戸へ持って来ても両替に差支へるので、恕意の商人と相対て、詳銀一個四二、
用せんと掛合ヮても、在方ては洋銀通用更K不自由であるとて承知せず、在方商人が横浜貿易の代金に受取れる洋
b、成るべく其の儲適用して貰い度いと挨拶して其の場を凌いで居る。又た在万と取引の商人は洋銀を為替金に使
ら、両替屋へのみ集中し出道がなく難渋するので、両替屋ても両替請求者に上述の事情を説昔、洋銀も適用銀だか
﹁当今世間ては洋銀を使い馴れぬ故か、兎角それを嫌う人気ゼ、何礼も手許に貯蓄せず、廻ヮて来次第両替するか
O
たりにも実行され、条約上の公定相場ての交換日阿啓が、 外国人にとっても¥ また内国人(日木人)にとっても可
能てあフた(ただしこの場合は上記町奉行の報告中にもあるように数カ月かかる)とと、また年一貝その他上納金に用いえた
己とによるもりであったと考えbれる。
それゆえこの場合の洋銀相場は洋銀の地金価値と一市給というこつの要因によって左右されたとしても、その一市給
は洋銀の投機削減入・交換需要に対する幕府によるM程同宣交換 H 一分銀供給に決定的に左右される需給てあU、
貿易通貨としτの洋銀に刻する需給ということとは具るものであったことは注怠されねばなるまい。
洋銀が貿易通貨たる地位を硫保し、洋銀相場が貿易通貨としての洋銀の相場なる杭置を雄得するのは、万延冗年
の直増適用、それにつづく幣制政革によって投機取引日終漏し、かっ条約にムおいて開港後一年と劃された同柏同量
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て通月することにたp、また諸上料金に洋叙を川うる際も時相場をもって収納することとたった。もヮ
変換が停止された五月十三日以後のことに属している。以後洋銀は﹁日且日軒耳、極印有無﹂に閑せず汀銀に準じ時
相場を以
とも同相同量父換はすべて停止されたのではなかった。公使館、領事館使用のためたbぴに渡来の軍艦乗組員に対
しては制限付て引替が存続された。すなわち幕府は各国公使に五月十三日をかきり洋銀と一分銀との交政停止をつ
げたが、それはつぎのような例外規定を含むものであった。ω江戸の公使館治よぴ神奈川恒事館入用として一カ月
ω長崎、箱館丙領事館の入用として一カ月一千下ルの割て三カ月毎に改鋳
二千五百ドルを一分銀に改鋳し℃渡す、
して渡す、同明被来の軍艦乗組士官には毎日三 F ル宛、水大には一ドル宛各港役所て引替える、ただし交換率は洋銀
一ドル H三分替。したがって三・七︺九白改鋳費を外国仰が一認めたことになる(従来は百ドル H一一一百十一個替であったから﹀。
錦八十一巻
第五号
五
た治関税収納については従来どh
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p一OOFルH=一百十一個替の割合が存続した(石剖削掲論文下)。
日本におけるメキシコ戸ルの流入とその功罪伺
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日木におけるメキシコドルの流入とその功罪件
第八十一巻
O目
一二
第五号
を拒有しては、 輸出超過状態心当時モれは売込H輸出モのもの白不可能主意味したからである。文久元年(一八六
取に、もは平洋銀をうけとるこーとを忌避じなかったであろうし、 一方日本商人としてもその輸出対価に洋銀の受取
ろのほ、すでに幣制改革に上って外向の一分叙に対する強列な引要は終罵し、かれらは輸出(日本の輸入)対価の受一
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するがろうという期待が働いたことも符定て#友いと県われる。(同・旨g
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ともあれ、民間取引における洋銀変換の停止は逆に貿易涌貨としての洋銀の確なを結果することとなった。とい
逆に日本心輸入(かれらの輸出)か刺戟する己とにたp 、モれによって輸出入バランスは回復され、洋銀相場も回復
o 第二に当時に治ける貿易は輸出が輸入をはるかに担え
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τいた。だから、洋銀相場が低位に治かれることは、
撹乱殺さけるためには洋銀の自然相場通用金認めることがまず選択さるべき、もっとも適切な処置であ一ったにちが
国に向ける己とによって、貿易を制限すると同時に体制の危機を回避することを意図していか。このよう友圧力と
体制に対する下層の不満と圧迫を、すべて外閣の罪にすりかえることによフて、つまりその反抗のェ、ネルギを外
易そのものを問書する己とに対する讐戒であった。日本の封建的支配回目は開港の結果強化されるにいたった宵己の
モ白原因は一つには、同極同長通用・交換規定の強制そのものが現出さ吐た排外意識、排外運動 H撰英運動が貿
について免除し、モれを白然相場にゆだねた白は、それだけの理由があったのである。
間取引・関税収納については条約規定をモのまま延長・存続世しめた白であるが、同折抑制民交換の義務を民間取引
だけに依るものと考えることはできない。外同側が前容したのは民間取引に沿ける洋銀についてのみであり、政府
てに強行しようとした同極同量交換の停止をこ白時切になって、認めたのはたんに条約規定(交換の矧阿についての)
これらの諸変化はオールコックの主導のもとになされたものであったが、いづれにせよ、かれらが、あれほどま
、
ノ
﹁洋銀が下組った値を浮動する結果、日本内人は彼等の物資に対する支払士一分銀て求め、又た-分銀が
一)一月イギリス神奈川領事クァイエはオールコック(当時公使)にあてた報告の中でこ白過程をつぎのようにのベ
ている。
b れないときは大なり小なり割引した率の洋似て求めた。終に外国人は大きな額にはこの要求士煮詰し得ず、洋
川村
(石割前崎論文下たお原前日制古十一一一ページ参照)
銀は投機物とたッたωて、日本の販売者は、終に一分奴と洋銀との間山差追を彼等一ω商 品 川 絡 に 転 嫁 し 、 商 品 に 半
に洋銀のみで相場を附けることに主づて取引を簡素化した。﹂
﹁メキシコドル(洋銀) は開潜場に於
τ流 通 す る 唯 一 の 外 貨 で あ り 、 価 値 白 尺 度 て あ
洋銀の貿易通貨としての雄立、一分銀の退場、モれは相場変動の負担がわが国へ転化されたことを忠味するもの
であったことは重要である。
宮古立山吉田国
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ると語ふことが出来る。外国人との契約及びそれへのい支払はかの貨幣てたされ、日木白貨幣は、外人に凶ずる限り、
ihE 下、わかま恥わか和品川!卦めと﹂SEEm-
酌作品門事士山心干わか和一定一位
υ町什銀の間内流通という貨幣的植民地化はついに成功したかったけれども、
口E
c--ロ HP耳障山田町F呂お石井市掲論文下)。昨銀の貿易通貨としての確立、 己己に欧米資本主義の H本 に 対
]Omqf o
する貨幣的橋頭盤の確保が確認される
洋銀による対外支払手段の排他的確立(その快能における閃陸場での流通)をもたb したかbてある。
アl フスノットはこのことをつFのようにのべている。﹁余はむしろ、諸大名は彼等の家来共が彼等の主人たる大名に対し
てよりも、外国人に対してより多く澱品することを喜んでゐるのであらうと怖れている﹂。(両析前掲論文上史学十七巻二号
ω
なお、貿易制限政策についてくわし︿は右井孝幕末貿易史の研究第二嗣を参閉されたい。
倒もっともオールコックは万抵元年八月幕府に一ドルを三分に交換する洋銀交換所の設立を提案している。これは幕府の洋銀
第五号
じ
(石引前担論土下歴史学研究十一巻六号)
第八十一巻
五
相場への一干悼を危倶 L、依然洋銀の凶門流辺を布製し、その日的の達成の士めに提案されたものであったが実現されなかった
日本におけるメキシコげトルの流入とその功罪伺
。
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