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Chao Phraya デルタの運河開発に関する一考察 (I) :
Ayutthaya朝よりRatanakosin朝四世王治世まで
田辺, 繁治
東南アジア研究 (1973), 11(1): 14-48
1973-06
http://hdl.handle.net/2433/55723
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
東南 ア ジア研 究
11
巻 1号
1
9
7
3年 6月
Cha
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aデル タの運河 開発 に関す る一考案 (Ⅰ)
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n朝四世王治世 まで -
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yaデル タとよばれ る Cha
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ya水系を中心に形成 された 広大な 複 合デル タ
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tを頂点 とし,西か ら Ma
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767A.
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)以来,
を結ぶ シャム湾海岸線 を底辺 としている。 このデル タは Ay
タイ人の生活空間の中心部分を構成 し,国家の生産基盤 もこの地域の水稲耕作におかれていた。
*京都大学文学部地理学教室
1
4
田辺 :Ch
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yaデル タの運河開発に関す る-考察 (I
)
ChaoPhr
a
yaデル タの広大 な生活空間を支配す る国家に とって必要な交 通 手 段, さ らに水
稲耕作を基本 とす る農業生産は ともに このデル タの 自然的条件 に強 く規定 されていた と考 え ら
れ る。 すなわ ちデル タの集落内, 集落間の日常交通は もとよ り, 旧制度下 における 国家の兵
aiの運搬, 租税徴収, 遠距離交易などの交通路は,主要河川 とその分流,支
役・
徳役農民 Phr
流水路による内陸水運に依存 し,さ らにその機能 の合理化 は運河開削に求め られたのである。1)
また このデル タの降雨 は南西 モ ンスー ンがイン ドシナ半島,マ レー半島を縦断す る中央 山系に
よって遮断 され るため,水稲耕作に必要な雨量の約 2/3に しか達せず,古 くか らその不足分を
河川 の自然氾濫 に依存す る溢流液淑農業 を発達 させた といわれてい る02) 自然の 降雨 とデル タ
の地形 に強 く規定 され る溢流港概農業 にとって氾濫水の合理的利用は,既存の河川支流 ・分流
水路 に加えて運河開削を必要 とした と考 え られ る。
タイの国民経済の発達は19世紀 における自由貿易の開始をメル クマール と し,西欧植民地勢
力 の外圧 の もとに国際分業体制の一環 に組み こまれてい く占デル タにおける運河開発 はかか る
外的な条件 に強 く規定 され,植民地諸 因の米需要に応え る輸出米生産拡大 を主要 な目的 として
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3)は,
19世紀 中葉以降のタイ経済の変動を分析す る中で,
展開 され るよ うになる。I
耕地面積拡大のための国家 による港淑事業 と しての運河開発 の展開を概観 している。そ こでは
1890-1910A.
D.
) 以 降の体系的港淑 ・排水計画に もとづ く運河開発の 輸 出
五世王治世後期 (
米生産拡大 に果た した役割 が中心的に論 じられてい る。 Ra
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t運河開削にその端諸を もち,
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deの招碑 と農務省運河局 Kr
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ng の設 置によ って基礎が
オ ランダ人技師 Va
つ くられ,後 に港翫局 Kr
om ThotNa
m の手 によ って展開をみた近代的な体系的濯蔽 ・
排水計
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m は, かか る
画の進展は,た しかに運河開発 における画期的意味を もつ ものであ った。I
体系的な事業が展開す る以前においては,国家の耕地拡大,
港概工事など- の関心は比較的低か
った としているが ,4) はた してそ うであろうか。運河開発 におけるこのような見解 は Cr
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)などのタイの地誌的研究 において も同様である。 体系的な 運 河 開発
に先行す る伝統 的な確淑技術や伝統的運河の存在 に言及 してい るものの, それ らの もつ地理学
的な意味, さ らには Cha
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aya デル タとい う地域の発展 の中で果た した役割は論 じられ る
ことはなか った。
Cha
oPhr
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ya デル タとい う地域には固有の 発展過程が存在 したのであ り, 運河開発 もかか
る地域の固有の論理の中で捉 え られなければな らない。 19世紀末葉か ら今世紀にか けての体系
的凍敵 ・排水事業 の展開は, それに先行す るデル タの伝統的な運河開発 を必然的な前提 とした
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東南 ア ジア研究
1
1
着 l号
のであ り, それを捉 え ることな しに運河開発 に よる地域 の変貌 を国民経済 の発展過程 の中に正
しく位 置づ けることはで きない と考 え る。西欧植民地勢力の外圧 を直接 的契機 と して ひきお こ
された タイ社会 の変動 は,それに対応す る主体 的諸条件 の検討によ って解明 されねばな らず,国
家 による生 産基盤の整備 としての運河開発 もそのよ うな視点か ら検討す る必要が あるだ ろう。
aya デル タの港概 ・排水 に関す る研究 は, 現在の農業開発 を中心に した富
近年の ChaoPhr
)タイの経済発展 の中に位置づ けた Bhoc
hana8) の研究 な どが
士岡,海 田による一連 の研究 ,7
ある
。
また社会経済史的研究,農業経済学 的研究 としては,友杉 ,9)本 岡 ,10)によるす ぐれた論
考が あ り,地理学 の分野では Hubbar
d,R.Ⅴ.
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l
)による運河開発 の歴史地理的研究,Nel
s
on,
C.R.12) による水運の研究 などがみ られ る。
友杉 の一次史料による濯概 ・排水 開発 の社会経済史的研究 は,デル タの自然地理学 的分析 を
背景 と して運河開発 の展開が経済 の発展段階 の中に位置づ け られ,歴史地理学的研究への示唆
に富むア ウ トライ ンを描いた もの として高 く評価 されなければな らない 。13)また本間は 農業生
産の基盤条件 として港翫 ・排水 によ る水利条件 と交通 ・市場条件 をあげ, と りわ け末端水利 と
協同組合 との関係か らタイ農業 の現状分析を行 な って いる
。
この基盤条件 を構成す る水利条件
と交通条件 の検討 は,19世紀後半 の運河開発 の研究 において も中心的な分析方法 とな ると考 え
られ る。
以上 のよ うな成果 をふまえつつ,小稿 においてはタイ史料 を中心 と しなが ら,交通手段, と
りわけ水運 の発達 と耕地面積拡大 を通 じた生産力発展への契機 とな った運河開発 の展開過程 を
追求 し, この地域の変貌 を解 明 したい。
運河開発 に関す る史料 として は,すでに, ChaoPhr
ayaWongs
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によ る 『農務省史 』RdangPr
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d・1941
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haya朝以来,
五世王治世 にいた る主要運河 記 事が簡潔 に 整理 され
A.
D.
)
1
4
)の中において Ayut
てい る。典拠 とした根本史料 は,
主 と して王朝年代記 ,四世 王,
五世王治世 の法令な どであ るが,
年次や運河規模,耕地面積 な どを示す数値 には誤 りが多 く,無批判的な史料 の採択 に もとづ く
d
混乱 が認 め られ,その利用にあた って は根本史料にたち返 って検討す る必要がある。 Hubbar
によ る運河開削事例 の整理 も, 多 く 『農務省史』 の記事 に依拠 してい るが, そのよ うな基礎的
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) 富士岡 (
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3) 同者著によるタイの土地制度史の研究もデルタ下流部の開発にともなう土地所有の変化を捉え る隙 き
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)
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1
5.
わめて有益である.友杉 (
K.
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4) P.
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6
田辺 :Ch
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a
y
aデル タの運河開発に関す る-考察 (J)
作業 の欠如 と,不 的確 な地 名比定 が認 め られ る。 したが って小 稿 に おいて は,年代 記 Lとて は,
『
Ayut
t
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ya王朝年代 記』Phr
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haPho
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Ayut
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yaの諸刊本 ,15)お よ
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ong親 王 に よ る 『Rat
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n王朝一世 王,二世 王
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年 代記 』PAr
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n王朝 三世 王,四 世王年代 記 』PAr
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hahanTAi417) な どの テキス ト
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を使 用 して検討 す る。 ま た四世 王治 世に関 して は 『史料集成 』 巻 25 Pr
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25 所収 の 『四世 王治世 にお ける建造物 』Ru
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Rat
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418) と比較 して検 討す る必 要 が あ る。 四世 王以 降 にお いて は 『年 次別 法
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'Pr
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ham So
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9
)に収 録 された 運河 開 削, 改修,管 理, お よび沿岸
令集 』Pr
の土 地 所有 に関す る諸法 令 の検討 が必須 で あ る。
Ba
ngkok の国立古文書館 は五世 王治 世の政府 各 省 の 一大史 料群 を 収 めて い るが ,20) この時
代 の運 河開 削に関す る史 料 は, 農務 省 運河局 文書 59フ ァイル (
K.
S.9.
2/
1-K.
S.9.
2/
59) を中
心 に, 内務省 お よび建設 省文 書 フ ァイル に収 め られて い る。 と りわ け運 河局文書 は, Va
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deを招蒋 して 1903年 に設 置 された運河局 に よ る一連 の液概 ・排 水事業 の文書 を中心 に収 録
t
a
na
kos
i
n 暦 107年 (1888A.
D.
)に まで遡 る多 くの運河 開 削許可 の 申請 を め
されて い るが, Ra
ぐる文書 を も含 んで い る。 小稿 は これ らの運河局文 書 と農務省 土地局 Kr
om Na文 書 の若干 に
つ いて も検討 を加 え る。 ま た地 図 に関 して は, タイ国陸軍地 図局 に よ る1910年 代 の調査 に もと
づ き, 1950年代 に改補編蒸 された 1/5万 地 形 図 を中心 に,アメ リカ空軍 に よ る 1/25万 地 形 図 な
ど も使用 した。
I
T ChaoPhr
aya デル タの 自然環 境
1. Cha
oPhr
ayaデル タ上 流部
i
na
tか ら Cha
oPhr
a
ya本流 を中 心 に そ の 分 流 河 川 Suphanbur
i
デ ル タ上流部 とは, Cha
(
ThaChi
n)
,Noi
,Lopbur
i諸河川 の流域 で, ほぼ Ayut
t
haya近 郊 までの地 域 を さす。高谷 21)
15) p.
p.
K.
A,①;p.
p.
K.
A.動 p.
p.
K.
A.③ ;P.
P,
K.
A.㊨.①および⑧は Khur
us
apha版 『
Ayut
t
ha
ya
王朝年代記,北方年代記』全 2巻,Bangkok,1
96
1所収のテキス トを用い,③,
④ に関しては, それぞれ
1
9
6
4
年,1
97
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年の Khl
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t
t
ha
ya版の 刊本テキス トを用いる0
1
6) p.
p.
K.
A.
/,
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).Khl
angWi
t
t
ha
ya版 (
1
96
2)を使用。
1
7) p.
p.
K.
a.
I
l
l,
ZV.Khl
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ngWi
t
t
ha
ya版 (
1
9
6
3)を使用.
1
8) p.
p.
2
5.『
史料集成』巻2
5のこの一編に関 して, We
nk,K・は四世王自身の執筆であろうと推定 してい
るが,後代の者による補注が付加されている。We
n坂(
1
9
6
2)
:p・2
46・
1
9) P.
K.
P.
S.
20
) Bangkok における未刊行文蕃史料の所在の概略については Wya
t
上
,D・
,Wi
l
s
o
n,C・によって 紹介され
ている。Wyat
t
,Wi
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o
n(
1
9
65
)
:pp.1
05
-1
8・
21
) Ta
ka
ya(
1
971
)
:pp・3
75
-97・
1
7
東 南アジア研究
1
1
巻 1号
によ る地 形分 類に したがえば,古デル タ地域 とよぶ海抜 5
-20
m で南北 の傾斜,起伏 も比較的
あ り分流水 路が密 に発 達 した地域 が大半 を 占めてい る
。
自然堤防 は極 めて よ く発達 し, その後
背湿地 では氾濫水が深 く長期 にわ た って湛水す る部分 が連鎖 して連 な って い る
。
自然堤防間 の後背温地 に展開す る水路網 にそ って耕地 が広が ってい るが,今世紀 の体系的港
概水利事業 が展開 され る以前 において は, 耕地 もか ぎ られた低湿地 に しか分布 して い な か っ
た。
2
2
)これ らの水路網 の うちには, 自然 の分流水路以外 に人工的 に掘 削 された と推 定 で きる小
Fi
g.2)。小規模 な運河 は, 多 く河川沿岸 の 自然堤防 を横切 って
規 模 な運河水 路が認 め られ る(
後背湿地 に向か って お り, 自然 の水路 や沼沢 を掘 りつないだ と考 え られ る もの も存在す る。 こ
れ らの小 運河 の開削 の時期 は定かではないが, 自然堤防列一後背湿地 とい う地形 の起伏 のパ タ
ー ンに よ って規定 され る水稲耕作 の可耕地 を拡大す るた めに掘 削 され た と考 え られ る
。
自然堤
防 の発 達 した河川沿 いには,連続 して 切 れ 目のない列状水 路村 23)が展 開す るの も古デ ル タ地
域 の集落形 態 の特徴 で あ り, その背後 の水 田にのび る小運河 とともに, この地域 固有 の景観 を
構成 してい る。
この地域 の都市 的集 落 (
中心集落) ともい うべ き Ayut
t
ha
ya,Suphanbur
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hongな ど も主要河川 沿岸 に立地 し,歴史 的に も古 く, Ayut
t
haya 朝
の畿 内の第 4級 国 Hua
mBangChat
t
awa の うちに含 まれて い る.
2
4
)
2. ChaoPhr
a
ya デ ル タ下流部
t
ha
ya付近 か らシャム湾 沿岸 までのほぼ 5m 以下 の低平 な地域 を さ し,
デル タ下 流部 は Ayut
高谷 の地形分類 に よ るデル タ徽高地 ,デル タ低地 が大部分 を 占め る(
Fi
g.1
)。この地 域 は過去数
千年間 の堆積 によ って シャム湾 か ら生 じた といわれてい る 。
2
5
)その うち, Bangkok を中心 に
西方 は ThaChi
n 河西岸 NakhonChai
s
i付近 まで, 北方 は ChaoPhr
aya河 に沿 って Non-
t
habur
i地方 まで,東北方 は RangSi
t運河地域南端 まで,東 南方 は BangPakong 下流西岸
まで ひ ろが る海抜平 均 3m,所 に よ り 5m に達す る地域 はデル タ徽高地 に分 類 され る デル タ
。
徽高地 の一部 は古沿海州,古汀線 な どにあた る部分 だ と推定 され,周辺 のデル タ低地 よ りも約
1m 高い。起伏 は緩慢 で あ るがデ ル タ低地 よ りはあ り, 支 流 ・分流水 路 も後者 よ り は 密 で あ
る。したが って後者 に くらべて湛水 は比較的浅 く,排水 も比較的 早 く行 なわれ るといわれ る。26)
一 方,デ ル タ低地 に分 類 され る地域 は,2m 以下 の低温地 が大部分 を 占め, 起伏 はほ とん ど
存在 しな い。 また この地域 のデル タ表面 は地形 的に きわ めて不安定 で あ るといわ れ る。広大 な
2
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kで行なわれたボ-リングによると,砂
利は砂および粘土の互層が 1
2
5
m まで続き,未だ基盤に達 しなかったといわれる。C
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8
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aデル タの運 河開発に関する-考察 (1
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390・
沼沢 や荒蕪地 が展 開 し,特 に臨海地帯 にはマ ング ローブやニ ッパヤ シな どが群生 し,塩水 の影
∋
a
ngkok 東北方 の Ra
ngSi
t運 河 地 域,
響が強い。 下流部 におけ るデル タ低地 の 分 布 は, Ⅰ
pat
humt
hani西方地域, およびデル タ徴高地 とシャム湾 との間の臨海地帯 にみ られ る 。27)
下流部における居住 の歴史 は きわめて新 しく,本格的な開発 とェクメ ネの展開は19世紀中葉
の ボー リング条件 (
1
85
5A.
D.
)による自由貿易の開始 を契機 とす る米穀生産の拡大 を通 して行
なわれ る。 それ以前 の Ayut
t
ha
ya朝 か ら Rat
anakos
i
n 朝初期 の この地域 における 中心集落
揺,主要河川 の沿岸 な どに散在 し,港津 としての機能 を もった と考 え られ るが, その背後の広
2
7) 2
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b
i
d.
:pp.38
78・
1
9
東 南 アジア研究
1
1
巻 1号
大 な低湿地 は未開発 のまま放置 されて いた。 それは第- に,主要河川以 外 に船舶 の航行可能 な
交通路が欠如 していたか らで あ り, また氾濫水 を効果 的に水 田に導水 し,排水す る運河水 路が
欠如 した場合,水稲耕作 は不可能 で あ ったか らで あ る 。28)
1
9世紀 中葉 には じま るこの地域 の運河開発 は,先ず Ba
ngkok を中心 と して東西 の主要河川
を結合す る幹線運河 の開 削によ り内陸水運 の体 系を完成 させ て い くが, その地域 はほぼデル タ
9世紀末以
微高地 に一致す る。 そ して最後 まで荒蕪地 として残 されたデル タ低地 において は,1
降によ うや く運河 開発 が着手 され る。運河開発 の展 開過程 は, このよ うなデル タの 自然琶境 に
強 く規定 されなが ら進行 して い ったので あ る。以下,Ay
ut
t
ha
ya朝以 降 の運河開削の事例 につ
いて,具体 的な史料検討 に もとづ いて逐次 明 らかに し,運 河開発 の展開過程 を追求 す る。
m Ayut
t
haya 朝,Rat
anakosi
n 朝初 期の運河 開発
1. Ayut
t
ha
ya朝 (1350-1767A.
D.
)
Ayut
t
haya朝 の農業生 産 の基盤 はデル タ上流部 に置かれていた と考 え られ るが, この地域 に
おけ る運河 開削の記録 は きわ めて少 ない。 しか し河川か ら自然堤防 を越 えて 後背湿地 にいた る
小運河 の存在 は,地 形 図上 に多 く認 め られ, その開削 目的 は氾濫水 を水 田に導 くた めの液概水
Fi
g.
2)。これ らの無数 の小運河開 削の記録 は,Ayut
t
ha
ya史料 と して
路 であ った と推定 され る(
の『
Ayut
t
ha
ya王朝年代記』 には,ほ とん ど見 えていない。 いま,地形図上 に認 め られ る小運河
ut
t
ha
ya 王朝 の中央政府 の
が後 の あ る時期 の掘 削 による とい う可能性 を排 除す るな らば, Ay
記録 を伝 え る年代記 にあ らわれない点 は, これ らの掘 削工事 が国家 の事業 として行 なわれたの
ではな く, む しろ村落 の農民 レベル で展 開 された ことを示 唆 して い ると考 え られ る。29) かつて
Cr
e
dne
r
30)はデル タ全域 の運河水路地割 の形態発生学 的検討か ら, 国家事業以外 の農民によ る
開削運河の例 と して この地域 の曲流す る小運河 を あげてい る。 しか しそれ らとて も何 らかの国
家 の関与 が あ った と考 え られ, Ayut
t
ha
ya史 料 の 一 つ で あ る 『三印法典 』Kot
ma
iTr
aSa
m
aTha
mma
nun(「官 印法 」 1743A.
D.
成立)には次の よ うな一節 が見 え る。31)
Dua
ng中 の phr
「
水天神 phr
aPhi
r
un が龍王の背にまたがっている模様の印璽は,水田に水を汲み入れる時, もしく
水田に)水を引 く場合に用いる0
--」
は B屯ngBang や運河を掘削し (
この印璽 は当時 の Kr
om Na (
農務省) の官印 の一 つで あ り,沼沢 を掘 りつ ないだ溝渠 と推
定 され る 1
3
dngBang や 32)小運河 を掘 削 して濃翫す る場合, 国家 の許可 が必要 で あ った こと
28) Bowr
i
ng(
1
85
7)Vo
l
.1=p.8.
2
9) 高谷助教授の御教示によれば,これ らの 「
小運河」は既存のデルタ分流水路の通水性をよくした程度の
ものであり,いわば古い分流の川ざらえともいうべき性格のものだといわれる
。
30) Cr
e
dne
r(
1
935
):p.21
7.
31
) K.
T.
S.Vo
l
.1:pp.14
7-8.
ongだとし,跳 ngBangはそれ らの小
32) Br
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yは B包ngは荒蕪地の中の水の流れない大きな水路 Khl
adl
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1
873):p.360.
さなものをさすとしている.Br
20
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ayaデルタの運 河開発に関す る-考察
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タイ国陸軍地図局 1915年調査,1953年改補 , 1
/5万 地形図 Ayut
t
haya 図幅よ り作成。
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g.2 Smal
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t
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t
haya
を思 わ しめ る。33)
このよ うな港 砥用 の小運河以外 の Ay
ut
t
ha
ya朝 の運河 を特徴 づ ける ことは, 先 ず ほ とん ど
eKong の 監督下 に お い て
すべて の運河開 削 ・改修 が 国家事業 と して展 開 され, 総奉行 Ma
phr
a
i(
篠役農民) を動員 して行 なわれ た事 であ る。 そ して運河 の形態 ・
機能 に したが って,都
市環 濠 運河 ,短絡運河 Khl
ongLa
t
,横 断運河 のはば三つ に分 類で きる。
a) 都市環濠 運河
一 般 に,1
350(
A.
D.
)の Ayut
t
ha
ya遷都 の時期 に は,す でに ChaoPhr
aya,Lopbur
i
,Pas
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33) Ayut
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haya朝にあっては, 国家による液淑水路等に関する水利規制はさして 厳格なものであったとは
aAyakanl
i
e
t
s
e
t28,29,30などに見える,他人の水田か
考えられない。『
三印法典』所収の 「
雑律」phr
ら水を盗んだ場合の罰金の規定などが,わずかにその一端を示すものであろう。K・
T・
S・Vol
・2 :pl209・
21
東 南 アジア研 究
1
1
巻 1号
諸河川 の合 流地 点付近 に堤濠 囲郭 を備 えた王都 が完成 をみた とされて い る。34) そ の 後 の 王 都
Ayut
t
ha
ya王朝年代 記 』 に は少 な くとも二 つ あ る 。
3
5
)す なわ ち
の環濠 運河 に関す る 記事 は 『
『LuangPr
as
oe
t本』 の小暦 9
42年 (
1580A・
D.
)の条 3
6
)に 「王都 の城壁 を倒 し, 河 川沿岸 に移
して建設 した 。
」 とあ り,『
PhanChant
hanumat本』 の小 暦 932
年 (
1570A.
D.
)に は ,3
7
)城壁
を河川 沿岸 に移 し,城 砦 を設 けて 囲郭 を完成 させ た後, 「東 方 の KhdPhr
a
nakhon の地 域 に,
以前 の水 路 よ りも幅 広 い水 路 を掘 削 させ た。 -・
-」 とあ る。両本 の年 次 の異 な りは, いまは問
わな い と して, 少 な くと も1
6世紀 に おいて 3河 川 と KhdNa 運 河 に 囲 まれた Ayut
t
ha
ya の
Fi
g.3)
プ ランが完 成 をみ た と考 え られ る(
。
この よ うな城壁 ・城砦 な ど軍事 的設 営物 と ones
e
t とな った 都市環濠 運河 の 開 削 の 例 は,
I
J
Opbur
iな どデ ル タ上 流部 の都市 に もみ られ ,3
8
)Ayut
t
haya 朝都市 の固有 の景観 が 形 成 さ れ
たので あ る。
b) 短絡 運河 Khl
ongLat
Ayut
t
haya中期以 後 ,外 国貿 易 の発 達 とと もに王都以 南 の下 流部 に お け る港 津都市 の重要性
が増大 す る。 また Cha
oPhr
aya 本 流 の機能 も,船 舶航行 にお け る王都 とシャム湾 を結 ぶ幹線
水 路 Lとて の性格 を おび るよ うに な った と考 え られ る
。
そ のた め Cha
oPhr
aya 河 の曲流部 を
短絡 させて航 路 の短縮 をはか る短絡 運河 の掘 削が しば しば行 なわれた。大規模 な開 削事例 は少
な くと も1
0以 上 を数 え, Ayut
t
haya 朝 の運河 開 削事業 の大半 を 占めて い る。 これ は, いわば
人工 的 な河道 をつ けか えに よ る交 通手 段 の合理 化 を追 求 した もの とい え る
。
この種 の運河 開 削
Ayut
t
ha
ya 王朝年代 記』 に よ るか ぎ り, す べて ChaoPhr
aya 河 下 流 部 で, Pat
hum
は, 『
aPr
adae
ng(
NakhonKhnankhan)問 の メア ンダー部分 にか ぎ られて い る.
Thani以 南, phr
oPhr
a
ya
工事 に よ る河道 の変遷 は, タイ史 料 のほか に, Hague の 国立中央 文書 館所蔵 の Cha
流 路図 (
1987
-8
)
3
9
)を は じめ,Del
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1691A.
D・
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726A.
D.
)
,E.Kae一
bl
el は これ ら流路
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r(
1
727A・
0・
)な ど欧人 の流路 図 に おいて確認 す ることがで きる。Ta
図 の リス トで あ り, Fi
g.3は これ らの史 料 の検 討 に よ って短 絡運河工 事 の概要 を示 した もので
あ る。これ らの うち Tr
e
t Noi運河 につ いて年代記 の記事 を一 例 と して 検 討 して み る。『phr
a
Pr
amanuc
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t本』 には次 の ど と くで あ る 。40)
3
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t王の時,以前の土塁を倒 して煉瓦で城壁を建造 したとしてい
るが,琵濠については記 していない。Wo
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)
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) p.
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i王が一時王都を I
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iに移 した時の環濠運河の開削などoP・
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K・
A.② Vo
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p.9
5
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6
7
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4.
3
9
) 同文書館所蔵史料に関しては Me
40) p.
p.
K.
A.②Vo
l
.
2:p.
2
1
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iは最近の 『
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t憎正本』の刊本では Kr
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tNo
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と記されている。p.
p.
K.
A.④ :p
.5
9
5
.『
農務省史』の記事においては小暦1
0
4
8
年としているが,これは
明 らかに誤写であろう。P K.
K.
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2
2
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∫
「寅年第 4年,王は phr
aThonbur
iを総奉行に任 じ,南部諸国の民部の民 1万を徴発し,屈曲して迂
∋
ua Thong運河l
jの曲流部に短絡運河を掘削して 直線とせよと御命 じになった。
回している Bang 】
phr
aThonbur
iは命に従い南部諸国の民 1万を動員し,
深さ 6s
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3m)
,幅 6wa(
1
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, 全長 29s
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1.
1
6km)の Tr
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tNoi運河を 1カ月余で開削させた.
A
寅年第 4年 は小暦 1084年 (
1722A.
D.
) と考 え られ るが, Kaempf
er 図 は もとよ り, De l
a
Loubとr
e 図, さ らには1687-8年 の Hague 国立中央文書館 図に さえ もこの運河開 削跡 が 確 認
で きる
。
しか も年代記 の記事 に見 え る TretNoi運河 の規模 につ いては, 1910年代 調査 の1/5万
地形 図上 41)で計測す るか ぎ り, ほぼ一 致 して い る。 したが って記事 は この 運河 につ いて語 っ
て い るに もかか わ らず,掘 削年次 は少 な くと も1687年以 前 に求 めな ければな らない。 しか しこ
の運河掘 削を示 す, あ るいはそれを暗示 す る記事 は他 に見 ることはで きない。 Damrong 親 王
および 『Nakhon KhBankhan 史』 の著者 らは 42)この記事 を誤 りと して,南方 の Phra Pradaeng 近郊 の短絡 運河 LatPho 運河の掘 削を示 す ものだ と して い るが, 記事 内容 が Tr
etNoi
運河 に一致 して LatPho 運河 に一致 しないか ぎ り, その根拠 は薄 弱 といわねばな らない. し
たが って ここでは,年代記 の記事 は TretNoi運河 開削を反映 して い るが, その年次 は1687年
以前 と推定 し,年代 記編第 時にお ける攻究 を予想す るに とどめ る。
t
haya 以 南 の第 4級 国を さす と考 え られ, 比較 的工事
南 部諸 国 とは当時 の畿 内の うち Ayut
現場 に近 い数 カ国の Phraiの篠役労働力 が動員 され るのが通例 で あ った。これ らの短絡運 河は,
時 と して主流河道 に変化す る場合が あ り,Fi
g.3 に見 るどと く,ChaoPhr
aya下流 の流 路 は大
きな変遷 を とげてい ったのであ る。 短絡 運河や旧主流河道,支 流 ・分 流水路 な どが複雑 にか ら
41
) 459/447Nont
habur
i県図幅。
42) Sang(
1
961
):pp.7-8.
2
3
東南 ア ジア研究
1
1
巻 1号
Fi
虫.3 Shor
t
・
c
utCanal
sand Ol
d Tr
ans
ve
r
s
eCanal
si
nAyut
t
hayan Pe
iod
r
み合 う Pa
t
hum Thani
,phr
aPr
adae
ng間の水路は, おのずか ら一つの体系をな してい る。 こ
の運河体系は,後述す るどとく下流部の水運 の発達す る過程で Ba
ngkok と東西 の諸河川を結
合す る幹線運河 とを接続す る役割 を果 たすのである。
2
4
田辺 :Cha
o Phr
ay
aデルタの運 河開発に関す る一考察 (I)
C) 横 断 運 河
mr
ong 運河 (
Fi
g.3)
短絡運河 と同様 に船舶航 行 を 目的 と した 運河 で あ り,年代記 には Sa
) と Ma
hac
ha
i
(
K l,以 下運河開削事例 には運河番 号を付 し, 図中に もその番号 を入 れた O
運河 (
K 2) の 2例 を見 る ことがで きる (
Fi
g.4)。 いずれ もその水路 は下 流部 の臨海地帯 のデ
ル タ低地 を Ba
ngkok付近 か ら南東方,南西方- と走行て しい る。 当時 はほ とん ど居住す る者
もなか った荒 蕪地 43)を貫 通す る これ らの運河 は具体的 にいか な る機能, 目的を もち, いか に
掘 削 されたので あ ろ うか。
Sa
mr
ong 運河 につ いて年代記 は, Ayut
t
haya朝初期 Rama
t
hi
bodi二世 の治 世 小暦 860年
(
1498A・
D・
)
4
4
)にすでに Bangkok 東 南部 に Sa
mr
ong,ThapNangな どの運河が存在 した こ
とを記 してい る。そ して これ らの運河 の水路床 が浅 くな り大型船 の航行 に支 障 を きたす ので調
査 して掘 削 して い る。 Sa
mr
o
ng 運河 はその水路地 割 をみ るか ぎ り, 明 らか に既存 の分流水路
を利用 し掘 りつ ないだ もの と推定 され,掘 削工事 と同時 に汝深 ・改修工事 も行 なわれて いた こ
mr
ong運河 の水路 は曲流 しなが ら BangPakong河 口付近 に達 して お り,
とを示 して い る。Sa
Cha
oPhr
aya と Ba
ngPakong 両河 を結合 す る横 断運河 と して機能 した と考 え られ る. 同様
の機能 は西方 の Ma
hac
hai運河 につ いて もいえ, その 日的, 掘 削作業 の実態 もよ り明 らか と
mr
or
唱 運河 と異 な り,直線水 路 の掘 削が計画的 に追求 さ
な って くる。そ して運河の形 態 も Sa
Fi
g.4)。年代記 の小暦 1066年 (
1704A.
D.
)には次 のよ うに見 え る。
4
5
)
れ る(
「そこで Phr
abatBor
omabophi
tPhr
aPhut
t
haChaoYuhua は, その Khok Kham 運河がきわめて
屈曲しており,人々が船で往来するのに困難であり,多 くの砂州を迂回していかねばならず, もし距離
を短縮する直線水路を掘削すれば, 人々は喜ぶであろうと御考 え になった。---しかる後, Samuha
民部卿)に KhokKham 運河掘削のために 3万人を諸国か ら徴集 し,
深さ 6s
ok(
3m)
,上部幅
Na
yok (
8wa(
1
6m)
,底幅 5wa(
1
0m)の直線水路の掘削を御命 じになり,phr
aRat
c
haSongkhr
am を総奉行
として諸国の民を指揮 し,勅令に遵わず運河掘削を完了せよと命 じた。
」
さ らに王 は居並 ぶ大 臣, 高官 を前 に して,
歴代 の諸王 の運河掘 削の事跡 を語 り,Kho
kKha
n
運河掘 削事業 を 自 らの生涯 の栄 誉で あ る と認識 したのであ る 。46)
Nont
ha
bur
i
,Thonbur
i
,NakhonCha
i
s
i
,Sakhonbur
i
,Sa
mutSongkhr
a
m,Phe
t
bur
i
,Rat
bur
i
,Sa
mutPr
a
kan な ど,
い
ずれ もデル タ下流部 の諸 国 8カ国よ り徴発 した Phr
ai3万余 を
きず け られた phr
aRat
c
haSongkhr
am は, 「Sakhonbur
i河 (
ThaChi
n回) まで貫 通 させ
e
n(
13.
6km)の道程 を測量 し, 外 国人 に望遠鏡 でのぞかせて直線 を ひき, 杭 を
ん と し,340s
立 てて隊 に したが って (
Tam MuatTam Kong)掘 削の持 ち分 を分 担 し, さ らに運河 の規模 に
43) Del
aLoubb
r
e は1
7
世紀末葉において,臨海のこの地域にはほとんど住民はいなかったと記 している.
Dcl
aLoubをr
e(
1
6
9
1
)t
omeI
:pp.7
8.
4
4) p.
p.
K.
A.@ Vol
.1:p.48.
45) i
b
i
d.
:p.204・
4
6) i
b
i
d.
:p.
205.
25
づH
d
E
lJ
S
a
巨
aq) uO St
t
Z
ut
!
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n
l
L
寸
.
8!&
2
6
1
1
巻 1号
東南 ア ジア研究
田辺 :Ch
a
o Phr
a
y
aデル タの運 河開発に関す る一考察 (I
)
したが った幅,深 さで一人分 の持 ち分 の長 さを分担 した .」47)
翌年 (
1705A.
D.
)着工 した この運河掘 削は, phr
aPhut
t
haCha
oSda王 の死 によ り半途 に
て中断 し, 十数年後 の小暦 1083年 (
1721A.
D.
)ThaiSa王の治世 に 3万 の Phr
aiを 動員 し,
2カ月余 で ThaChi
n河 口に貫通 した 。48) この KhokKha
m もしくは Mahac
ha
iとよばれ る
直線運河 は,す でに存在 した Cha
oPhr
aya河の曲流す る分流水路 と接合 し, ThaChi
n河 口
の Sa
khonbur
i(
Sa
mutSakhon)にいた ってい る(
Fi
g.4)。地形図上 49)で は, この運 河 はま っ
mr
ong
た くのニ ッパ ヤ シの密林地帯 を横切 って走行 して いる。 この運河 は,明 らか に東方の Sa
運河 とと もに横断運河 として船舶航行 をのみ 目的 と した交通路 であ った と考 え ら れ る。 Cha
o
Phr
aya河を中心 と して,東方 の Ba
ngPakong河 口,西方の ThaChi
n河 口を結合 した これ
ut
t
hayaか ら両河 口および沿岸 の地 方国支配のた めの重要 な交通路
らの横断運河 は, 王都 Ay
で あ った と考 え られ る。
2. Ra
t
ana
kos
i
n 朝初期 (
1782-1851A.
D.
)
1767年 の Ay
ut
t
ha
ya朝滅亡後, ビルマ軍を駆逐 して Thonbur
iを一時王都 と し, Rat
ana-
ngkok に遷都 した。Rat
ana
kos
i
n朝初期, とりわ け一世王,二世王治
kos
i
n 朝 は1782年 に Ba
世 における運河 開発事業 の展 開は, 以前 の Ay
ut
t
ha
ya朝 のそれ と大 きな変化 はみ られない。
運河の形態 ・機能 も軍事的防衛機能 と しての王都 の環濠運河や,水運の合理化 をはか る若干の
t
anakos
i
n 朝初期 においては運河 開 発 は ま った く
短絡運河などが ひきつづ き掘 削され る。 Ra
Ayut
t
ha
ya朝 の伝統 を踏襲 したかた ちで進行す る。
a) 都市環濠運河
Bangkokの環濠運河開削については,『Rat
anakos
i
n王朝一世王年代記』,
小暦 1145年 (
1783
ア人 を動員 して掘 削 され, 旧嘉 Ay
ut
t
haya と同様 な環濠 囲郭都市が建設 された ことが記 され
てい る.堤濠 囲郭 の内部 には二本 の運河が掘 削 され, そのプ ランも整備 されてい く(
Fi
g.5)0
さ らに-本の運河水路が環濠 よ り東行 して開削 され,次の どと くある。51)
「またさらに一本の大きな運河を Sakae寺の北側に掘削し, Mahanak運河という名を賜わった。こ
の運河は,往時の旧京 Ayut
t
ha
ya におけるがどとく,雨期の国家の儀典において, 都の人民が船を駆
って集まり楽や詩を演 じるためのものである。-=-」
Ma
hanak運河 (
K 4)(
Fi
g.5)は都市域か ら東方 の交通路 を開 くためで あ った と考 え られ る
が,失われた旧京 Ay
ut
t
hayaの栄光 を回復せん とす る Ra
t
a
nakos
i
n朝の理念 は, このよ うに
47) i
b
i
d.
:pp.2
05
-6.
4
8) i
b
i
d.
:pp.2
1
89.
4
9) 5
30
/
4
-4
7Sa
mutSa
kho
n 図幅,5
31
/
4}1
7Ba
nHuaKr
ab包 囲幅0
50) p.
p.
K.
A.
)
,
IJ.
:p.6
8.
5
1) i
b
i
d.
:p.
6
8.
2
7
1
1
巻 1号
東南 アジア研究
王都 の運河プ ランの上に も反映 しているのであ る
。
b) 短 絡 運 河
Ayut
t
ha
ya朝において航路の短縮 を企図 した短絡運河の うち把は,王都の下流部への遷都に
よって,それ らの もつ機能 に矛盾が生ず る場合があったO例 えば Ba
ngkok か らさ らに下流の
K 5) は満潮時における潮流によって幅が拡大 し,
大曲流部の航路を短縮 した LatPho運河 (
Bangkok 付近にまで 塩水が達 し, 周辺の耕地 に 被害が発生 した といわれている (
Fi
g.3)0
そのため, 一世王は小暦 1
1
46
年 (
1784A.
D.
)
, Ayut
t
hayaの廃虚の城壁 を倒 して煉瓦を船で運
び,堰 を築 いて これを遮断 している。52)
C
) 運河開発 の変化
Ayut
t
haya朝以来の運河開発 の内容に変化が あ らわれ るのは,三世王治世 に入 ってか らであ
る。先ず第 1に以前よ り軍事的側面が運河開発 と密接な関係 を もつよ うになった点である。第
2に, Phr
aiの格役義務にかわ って課役代 KhaRat
c
hakanの代金納が進展 し,53)運河開削工
事には不安定な徳役労働力にかえて安価な華僑労働力が導入 されは じめた点である。
河川 ・運河水路の もつ軍事的機能 は,軍団輸送,主要な水路拠点の防衛 とい う点で古 くか ら
重要であ った と考 え られ る。54) とりわけマ レー半島部へは対 ビルマ, 後 には英植民地勢力 との
対決か ら,また コラー ト高原およびメ- コン中流域の ラーオ系土侯領域の経営のため, さ らに
はカンボジア経営をめ ぐる安南 との対決は,迅速 な軍用 ・物資の移動が要請 された。同時に拡
大す る財政支 出に見合 う課役代や諸税 の徴収を円滑 に首都 に集中させ る交通手段を保証す る必
要があった 。55) このよ うな軍事的な, また財政収入拡大の要請か ら,首都近郊の河 口や既存運
河の防衛拠点の強化
さ らにデル タ下流部の東西の主要河川を結合す る横断運河の整備 ・開削
が実現 してい った と考 え られ る。
maangPaknam とよばれ る Chao Phr
aya,ThaChi
n,Mae
kl
ong など主
河 口地方国 Hua
要河川河 口の要衝を占める港津は,古 く Ayut
t
ha
ya朝以来, Kr
omat
ha(
港務局)所轄の交易
の中心地 として重 きをな した。 しか し同時に城砦都市 としての機能を備え,1
9
世紀に入 って以
降, その近郊 の河岸に墜塁を築 き軍団を配 して防備をかためて きた。 このような河 口地方国の
城砦都市の典型は Ayut
t
ha
ya朝初期の Phr
aPr
adae
ngであ り, ChaoPhr
aya河の堆積 によ
7世紀初頭, phr
aChaoSongt
ham 王の時代 には, phr
aPr
adae
ng を
る河 口の陸化のため, 1
mutPr
akan を建設 している (
Fi
g.4)0
廃 して さ らに南方 の東岸 に Sa
二世王治世小暦 1
176
-8年 (
181
4
-6A.
D.
)には, SamutPr
akan と首 都 との 中 間 で, 元 の
5
2
)i
b
i
d.
:p
p.
7
9
8
0
.
1
9
6
8
)
:pp.51
2;友杉 (
1
9
6
6
)
:p.1
5
2
.
5
3
) 石井 (
5
4
) Wal
e
s(
1
9
3
4
)
:pp.2
2
9
3
0
.
5
5
) Vel
l
a(
1
9
5
7
)
:p.
2
4.
田辺 :Cha
o Phr
a
yaデルタの運河開発に関す る-考察 (l)
phr
aPr
adae
ng の対岸 に さ らに新 たな 城砦 都市 NakhonKhBa
nkha
n を 建設 し,56)Pa
t
hum
00を移 住 させ て守備 に当 た らせ て い る。 また小暦 1
1
81
年(
1
81
9A.
D.
)
Tha
niの モー ン人 の壮 丁3
に も Sa
mutPr
aka
n に多 くの隻 塁 を建 設 した 記事 57)が あ る. これ らは す べ て ChaoPhr
a
ya
河水 路 にそ って首都 を防衛 す る拠 点 で あ ったが, しだ いに既存 の運河 の要 衝 に も墜塁 が配 置 さ
れて い く。Cha
oAnu 反 乱鎮圧後, 『三世 王年 代記』仏暦 2
31
0年 (
1
829A.
D.
)の条 には次 の よ
うに見 え る。58)
「Sakhonbur
iにおいては,phr
a
yaChod屯kRa
t
c
has
e
t
t
hi(
ThongChi
n)に命 じて Ma
hac
ha
i運河口の
c
hi
a
n Chodok 隻塁という御名を賜わった.華僑の漆喰
側の沿岸に隻塁を建設させた。 しかる後, Wi
(
pun)運搬賃金は 4
7chang,1
5t
aml
h g,3ba
ht
,2sal
Bng,1f
aang.Chao Phr
aya Maha Yot
t
ha 傘
下のモーン人一族を Sakhonbur
i 領内で生活させ, 壁塁守備隊長 の名 は Luang Phal
o
mhi
ma,Khun
」
De
c
haChamnan を副隊長 とした。
Mahac
ha
i運 河 口で あ り同時 に ThaChi
n河 口で あ る Sakhonbur
iは イ ンター チ ェ ンジの城
Fi
g.4)
。 ここで注 目 しな けれ ば な らないの は, この壁 塁工事
砦都 市 と して機 能 したので あ る (
が華僑有 力者 と推定 され る者 に命 じ られ, しか も華僑 労働者 が雇用 された ことで あ る。 これ は
年 代 記 で管見 す るか ぎ り, 華僑 労働者 が公共土木事 業 に雇用 され た最初 の事 例 で あ ろ う。59)こ
a
iの徳役 に代 わ って 華僑 労 働者 を
れ以 後 , 運 河開 削 ・改修工 事 な どは, ほ とん どす べ て Phr
投 入 して展 開 されて い く。
hac
hai運 河 に Sakhonbur
iで接合 し,臨海 のデル タ
年 代記 に は上 掲 の記事 に ひ き続 き,Ma
e
kl
ong 河 口 Sa
mutSongkhr
a
m に達 す る長距 離 の横 断運河 の中央 部分 を
低地 を西行 L Ma
kHon 運 河 (
K.6) (
Fi
g.4) につ いて次 の よ うにあ る。60)
構成 す る Suna
「しかる後,ChaoPhr
a
yaPhr
akhl
a
ng (
大蔵卿)を総奉行に任 じて Sunakl
i
on 運河を掘削させた。
ChaoPhr
ayaPhr
akhl
ang は子細に調査 し,
運河の直線箇所において水流が落ち合い,いたる所で底が浅
くなっており, もしその箇所に分岐運河を掘削して落ち合 う水を流出させれば,底が浅 くならないであ
ろうとの意見を述べた。そこで華僑を雇いあげ,その箇所か らPhoHak村近郊の平地に向けて一本の運
河を掘削した。しかる後,
水牛の力を借 りて村民はその道河内を踏み捗 り,みなぎる水は急速に流れて深
くなり,今日にいたるまで底が浅 くなることがない。支払った華僑の掘削賃金は 1
0
2chang,
4t
aml
ang,
ls
a
l
dng,1f
aang であったOJ
SunakHon運河 は, 掘 削年次不 明で共 に 自然 の水 路 を掘 りつ ないだ と推 定 され る二本 の曲
5
6) p.
p.
K.
A.
/,
IZ.
:p.5
0
5
.
57) i
b
i
d.
:p・
6
9
2.
5
8) p.
p.
K.
R.
I
l
l,
JV.
:p.9
2
.
5
9
)1
8
2
4A.
D.の二世王の火葬の時に華僑労働者が雇用されたともいわれる。Ski
nne
r(
1
9
5
7
)
:
p・
1
1
4
・また
a
ya河
『
四世王年代記』においてほ,すでに二世王治世における NakhonKhBankhan背後の ChaoPhr
ong親
の短絡運河掘削の時, 華僑労働者が雇用 されたと四世王の考えとして記 してある。 しか し Damr
王 『
二世王年代記』 にはその際の華僑労働者雇用について言及 していない。 p.
p.
K.
A.
J
I
/,
ZV・
:p・
4
3
6;
p.
p.
K.
R.
),
I
Z.
・p.6
9
3
.
6
0
) p.
p.
K.
a.
Il
l,
rV.
:pp・
9
2
3
.
2
9
東 南 ア ジア研究
1
1
巻 1号
流す る運河 を結合 した もので ある。 満潮時に ThaChi
n河 と Ma
e
kl
ong 河 の双方 か ら浸入す
る塩分 を含む水流が この運河部分で停滞 し, シル トを堆積 させて水路床 を上昇 させ た ことが う
かがえ る。61) このよ うな シル ト堆積 による船舶航行への障害 は,デル タ下流部 の運河 において
は後の時代 に もしば しば発生 し,つねに渡漢 ・改修 の必要 にせま られた。 この場合,満潮時 の
運河水 を北西方向に排水運河を掘 削 して放流 し,流速 を高 める方法が とられ, さ らに水牛 によ
って渡拝 させて シル トを流 出させ たので ある。
このよ うな渡深 ・改修 の技術的側面 の重要性 もさることなが ら, Suna
kHon運河開削の も
つ意義 は,
先 の Ma
ha
c
ha
i運河 と接続 して,史上 は じめて ChaoPhr
a
ya,ThaChi
n,Mae
kl
ong
の三河が人工的水路によ って結合 された ことで あろ う。 そ してその結節点 とな ったのが Sa
kh-
mutSongkhr
a
m な どの河 口地方 国の城砦都市であ り, それ らは横断す る運河 と
onbur
iや Sa
南北行 して平行す る各河川 との イ ンターチ ェンジと して機能 したので ある。 この時期にはすで
に第一次英締戦争 に勝利 した英植民地勢力 との間で, マ レー半島部のスル タン土侯領域をめ ぐ
る緊張 が高 ま り, この西方-の運河の もつ軍事的機能 はきわめて高か った と推定 され る
。
東方 のカ ンボジア経営 をめ ぐるカ ンボジア ・安南勢力 との対決 は,首都か ら東方-の運河開
削を うなが し,小暦 1
1
9
9年 (
1
83
7A.
D.
)には, Ba
ngPakong 河上流 の Pr
a
c
hi
nbur
i河 にまで
達す る長大 な横断運河である Sa
e
nSae
p(
BangKha
nak)運河 (
K.7)が開削 され る。62)カ ン
ボジアへ の軍乱 兵糧輸送を円滑 に行 な うため開 削された 63) この運河 は,全長 1
,
337s
e
n1
9wa
nSae
p 運河の水路は地形
2s
ok(
5
3・
51
9km)におよび,完工 までに 3年 を費や して いる。Sae
ngkok東方 にひろが るデル タ徴高地上を中心に直線で貫通 し,後の時代 のデル タ下
的には Ba
流部開発 の布石 をな し, この地域 の幹線運河 と して機能す るよ うにな る。
軍事的, あるいは租税徴収 の円滑化 をはか った Ra
t
a
nakos
i
n 朝初期 の運河 は, 未だ農業生
産力の発展, さ らには商品流通の拡大 と直接むすびつ くものではなか った。 しか し首都を中心
に東西の河川流域を横 断 して結合す るこれ らの運河形態は,釆 た るべ きデル タ下流部開発 を 目
的 とす る幹線運河の阻型 とな ったので ある
。
Ⅳ 1
9
世紀中葉 における運河開発
1. Bangkok 都市域 の変容 と運河 ・道路
1
9世紀 中葉におけるタイ経済の発展 は1
85
5年 A.
D.のボ- 1
)ング条約締結 によ る自由貿易の
ngkok都市域の景観 に も王宮を核 とす る軍事的な環
開始 をメル クマール と してい る 首都 Ba
。
濠 囲郭都市 と しての性格か ら西欧植民地勢力 との 自由貿易 を中心 とす る商業都市 としての要素
6
1
) Pal
l
egoi
xは 1
8
4
3A・
D・Mahac
hai運河から Sakhonbur
iをへてこの運河水路を航行 し, きわめて曲折
しながら西へ向かい,塩水であったと記している。Pal
l
e
goi
x(
1
8
5
4
)t
ome1
:
p.9
8
.
P・
K・
R.
I
l
l,
IV・
:p.1
7
9
.
6
2
) P・
K.
K.
:p.1
3
3
.
6
3
) P.
3
0
田辺 :Ch
a
o Phr
a
y
aデル タの運 河開発に関す る-考察 (I)
が急速 に加わ って くる。 しか しこの西 欧植民地勢力の政治的 ・経済的外圧 の もとに変貌を とげ
る以前 において も Bangkok の都市域 の景観 は固有 の展開を示 していた。運河開削に関連す る
点では, 19世紀 中葉 の人 口増加 による都市域 の拡大 と外濠運河 の開削に注 目せねばな らない。
1851A.
D.
)
,即位 して間 もない四世王 は,Rat
anakos
i
n 朝 の諸王による運河開
仏暦 3294年 (
削の例 を総括 し次 のよ うに考 えた 。
「
先の王の御三方は,
人民が往来に便利であるようにと運河を開削された。
今日国家は繁栄 し,
王都を造
営した当初よりも人口は数倍となり,王都を拡大 してさらにひとまわり幅を拡げるのが適切と思う。」64)
「
今日, Phr
a
iの人口は以前よりも増加して豊かとなり, 官吏や人民の館 ・家屋敷は都市域の外側へ
とはなはだしく拡大 していった。」
か くして首都外濠 と して PhadungKrungKas
em 運河 (
K.8)は開削 され, 3年間を費や し
て 137 sen lOwa (
5.
5km) の長 さを完工 し,
都市域 は旧城 内 と相似形 に約 2倍 強に拡大 した
(
Fi
g.5
)0
都市域への人 口集 中は,とりわ け華僑人 口の流入 によると考 え られ ,
Tabl
e2は19世紀初頭か
ら中葉にいた る Bangkok における華僑人 口の推計 である。 1820年代か ら40年代にか けて全人
口の45%以上 ,多 くて62% を 占め, 50年代 には30万以上 と推定 され る人 口に対 し,20万 といわれ
Tabl
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31
東 南 ア ジア研究
1
1
巻 1号
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図は J
.McCartby の原図 (C.1900A.D.
)を もとに作成 した もので, かな らず Lも1
9世紀中葉の
a
ya河 に沿
都市 プ ランを忠実 に反映 していない。とりわけ鉄道および BangRak 地区 より ChaoPhr
って展開す る会社 ・倉庫などのかな りの部分は,五世王治世,19世紀末 になってか らの もの と推定 され
る。 しか し,運河水路 ・道路の地割 など,都市プ ランの骨格は19世紀中葉以降形成 された ものである
Fi
g.5 Pl
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田辺 :Cha
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a
yaデルタの運河開発に関す る一考察 (1
)
る華僑 はその50
% 以上 を占めてい る。 タイ人 (
Si
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) との比 において も, 1
85
4年 の Pal
l
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goi
x6
6
)の数値 で 5 :3で あ る。旧城 内の人 口推計 を示す と考 え られ る Mal
l
oc
h6
7
)の1
826年 と
1
84
9年 の数値 においては, タイ人の増加 は約4.
8万 - 5万 に対 して, 華僑 は約 6.
1万-8.
1万 と
2万人 の増加 を示 している
。
これ らの都市域 の人 口の大半を 占め る華僑 は旧制度 の身分制社会 の もとで移動を禁 じられた
タイ人徳役農民 にかわ って都市の商店,製造業 などの小経営,交易活動 に従事 して商品経済を
拡大 し, 同時に国家の公共事業 における労働需要に応 えてい ったのである 。68) とりわ け自由貿
易 の開始に ともな う商品経済 の拡大 は, その傾向をます ます強 めることになる。
自由貿易開始 と西欧植民地勢力の政治的圧力 は都市景観に変化を もた らしてい った。都市域
お よび近郊 にお ける運河開 削に もそれ は反映 してい る。 『四世王年代 記』 には, ポー リング条
約締結直後 の記 事に次 のよ うにある 。69)
「巳年 (
1
8
5
7
/
8A.
D.
)
,諸外国の蘭軌
洋行主 NaiHang は署名 して次のどとき内容の文書を提出し
た。商船が交易のため首都まで遡行するにはきわめて長い航路を行 くことになる。雨期には流れはきわ
f
l
angS也khai
)を南方
めて速まり,首都に赴かんとすれば多 くの日数を空費することになる。貿易会社 (
aKhanong運河口からBangNaにいたる場所に移転する許可を下さり,Ⅰ
主
angNaから Padung
の phr
Kr
l
l
ngKas
e
m 運河に貫通する短絡運河を開削していただきたい。
」
PadungKr
ungX.
as
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m 運河 (
K 8)に接 して ChaoPhr
aya東岸 に展開 した西欧人 の貿易会
社 をは るか南方 の地域に移転 させ るとい うこの 申 し出によ り,西欧人 との トラブルを減少 させ
ることがで きると判断 した四世王 は 207s
e
n(
8.
28km) にわた る ThanonTr
ong運河 (
K.9
)
を掘 削 させ, その土 を運河北岸 に盛 り上 げ道路 を造成 した (
Fi
g.4,5)。ここにデル タ下流部 に
おける伝統的な河川 ・運河 による交通路 に加 えて,西欧人 の要請 に応 えて道路 の造成 が開始 さ
amphong 運河,Te
i運河 とよばれた もの と一致 し,北岸
れた。 この道河水路 は, 後 に Hual
の道路 は後の Phr
aRama四 世道路 と して踏襲 されてい った。 しか しこの運河開削後 も西欧人
の南方-の移転 はお こらず, 元 の地域 に とどま った といわれて いる 。70) さ らに数年後 の 仏 暦
2404年 (
1861A.
D.
)には,諸国の領事 は道路が ないため馬車や馬 による交通が不可能で あ り,
西欧人 の健康 を害 してい ると訴え,首都 における体系的道路網 の造成 をせ ま った 。71) この圧力
の前 に四世王 は大 々的 な道路造成 を決意 し,
城 内か ら西欧各国領 事館 ,
貿易会社 な どが立地す る
6
6
) Pal
l
e
goi
x の人口推計は次のごとくである。① 人頭税を支払っている華僑 :2
0
0
,
0
0
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人 ② シャム人 :
1
2
0
,
0
0
0
人 ③ コーチシナ,アンナン人 :1
2
,
0
0
0人 ④カンボジア人 :1
0
,
0
0
0
人 ①ペグ-人(
モ-ン人):
1
5
,
0
0
0
人 ⑥ラーオ人 :2
5
,
0
0
0
人 ⑦ビルマ人 :3
,
0
0
0
人 ⑧マレ-人 :1
5
,
0
0
0 ⑨諸外国のキ リス ト教
徒 :4
,
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人,総計4
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泉 南ア ジア研 究
11
巻 1号
Ba
ngRa
k地 区を貫通す る Char
oe
nKr
ung道路, いわゆ る Ne
w Road を軸 とす る多 くの道
Fi
g.5)。道路造成 は,また運河開削 と平行 して遂行 され ,Ba
ng及a
k(
Si
l
o
m)
路が完成 を見た (
運河 (
K.10)のよ うに掘 削 した泥土 を道路造成 のために使用す る方法が と られた。 さ らに運河
水路 には橋 がか け られ, 道路網 を基軸 とす る町 割 が 展 開 して い った 。72) とりわ け Pa
dung
ngRak 地区は ChaoPhr
aya河 と Cha
r
oe
nKr
ung 道路が平
Kr
ungKas
e
m 運河以南 の Ba
行 し,水路,陸路双方 の交通手段 を備 えていた。 この地域 には,領事館,西欧人の住宅, ド ッ
ク,精米所,倉庫, キ リス ト教会 な どが列状 に水路 と陸路 の問に展開 し,植民地的都市 の景観
を形成 して い く。73)ここに Ba
ngkok の伝統的な環濠囲郭 と運河網によ って構成 され る都市 プ
ランは急速 に変容 して い くので あ る。
2. デル タ下流部幹線運河 の開削
自由貿易開始 とともに植民地 諸国の米需要 の拡大に応 えてデル タ下 流部 における荒 蕪地 の水
田開発 が進行 した と一般 に論 じられてい るが, それは具体的にいかな る地域 において, いかな
る開発形態 を とって進展 したので あろ うか。 この時期の下流部 の運河開発 は,かか る基本的問
題 と密接 な関連 を もって展開す る。
国家 によ る運河開発 は,下流部 における交通手段 を確保 し,商品 ・物資の流通を保証す ると
い う側面か ら追求 され, また同時 に運河沿岸 の濯鶴 による水 田化 と農民による土地 占取 をめざ
した と考 え られてい る。 また地租軽減な どによ る開墾奨励政策 は運河沿岸 の荒蕪地 の水 田化 に
大 き く寄与 し,下流部 の耕地面積 を拡大 した といわれてい る。74)
以上のよ うな通説 は, た しかに四世王治世 の国家による運河開発 の基本的な傾 向をいいあて
てい るか も しれない。 しか し,具体的なデル タ下流部 の地域 の発展の検討は,今 までかえ りみ
られ る ことはなか った。本節では,具体的な運河開発 の事例を検討す ることによ って,運河開
発 の展開を この地域 固有 の論理 の中に位置づ げ,通説 を再 度検討す る。
米価 は しだいに上昇 し,販売 を 目的 とす る米作が下流部で も展開 し,運河 の港概 ・排水機能
0年代か ら6
0
年代 にか けて は一定地域 においてはサ トウキ ビなどの商品作
も高 ま って い くが,5
物 の輸送 と結合 していたふ しがあ る。 乾期畑作物 と してのサ トウキ ビは乾期 における大量の濯
親水 と雨期 にお ける排水 を必要 と し, 下流部では首都西方 の Tha Chi
n 河沿岸 の Nakhon
khonPa
t
hom にか けて,また東方の Chac
hoe
ns
a
oな ど比較的高燥 な地域で栽
Cha
i
s
iか ら Na
72) 環濠内部に造成された Ba
mr
ungM也a
ng,F屯angNakhonおよび Char
oe
nKr
ung道路の一部はこの地
区において運河水路を補完する交通路となり,商業上重要な役割をはたした。S.Phl
a
i
no
i(
1
960)
:
p.1
63.
73) Mc
Ge
e(
1
967):pp.72
-4.
7
4) I
ngr
am (
1
971
)=pp.75
-83.
34
田辺 :Ch
a
o Ph
r
a
y
aデル タの運 河開発に関す る一考察 (J)
培 されて いた 。75)いわゆ るデル タ徴高地か ら古デル タ,
扇状地 な どが この地域 に相 当 して い る。
1810年代 に潮州華僑 7
6
)によ って もた らされた といわれ るサ トウキ ビ栽 培 7
7
)はす で に三世 王
治世 には Nakhon Chai
s
iにおいて華僑 のプ ランテー シ ョンと して展 開 し, 200- 300 の 華僑
8
)M al
l
och の輸 出品 リス ト7
9
)に よれば,
労 働者 を有 す る精糖工場が立地 した といわれて い る。7
1850年頃において砂糖 お よび砂糖製品 は輸 出の第一位 を 占めて 708,
000baht にのぼ り, 50年
0
)しか し1870代 におけ る NakhonChai
s
i地域 に
代 60年代で は タイの最大 の輸 出品で あ った 。8
お ける洪水 や早 魅, さ らに は安価 なジ ャヮ糖 の流入 によ る市場 価格 の低下 に よ り, これ らのサ
トウキ ビ栽培 は急速 に衰退 して い く。81)
サ トウキ ビの運搬 の 目的 で運河 が開 削 された ことは,小規 模 な短絡運河 ではあ るが,年代記
8
2
)
の次 の一節 に うかが うことがで きる。
aba
tSo
mde
tPhr
aNa
ngKl
a
oCha
oYuhua (
三世王)の治世, 華僑
「I
J
a
tXr
utの運河は, 当初 Phr
がサ トウキビ運搬のために掘削した小さな運河であるが,今日,河流が浸触 して幅をひろげ MaeNam
」
Ya
i(
T九aChi
n)河の倍となった。
この短絡運河 は地形 図上 の④点 に比 定で きる (Fi
g.4)。おそ ら くは ThaChi
n河流域 に存在 し
た プ ランテー シ ョンか ら ThaChi
n 河 を下 り, Sakhonbur
i経 由で 首都 に達す る航 路 の一部 を
s
i
- ThaChi
n回 - Sakhonbur
i
- M ahachai
短縮 した運河 で あ った と推定 され る 。NakhonChai
運河一首都 とい うこの水運 のルー トは きわめて長大 であ った (
Fi
g・4)o
Nakhon Chai
s
iか らその西方 にか けての栽培地 域 と NakhonChai
s
i
, 首都 の問の水 運 のル
ー トの短縮 はいか に達成 されたで あろ うか
J
次 の事例 において検 討 してみ る
。
事 例 1'
・ChediBuc
ha 運 河 (
K.ll) (Fi
g.4)
かつて のモー ン人 の遺跡 phraPat
hom 仏塔 を修復 し自 ら王宮を建 立 した四世王 は Nakhon
hom までの運河 開削を命 じてい る。
Chai
s
iよ り NakhonPat
3
)「ThaNa よ り王宮 に達 し, そ こをす ぎて Phr
aNgam 寺
年代 記には この運河 につ いて8
7
5) サ トウキビは長期にわたる氾濫には適 さず,氾濫面よりも 5-2
0m 高いデルタ縁辺部や丘陵地などが
適 しているといわれる。またサ トウキビが成長 して糖分を増す時期は,熱帯モンスーン地帯では乾期 に
あたり, したがって乾期における十分な津鶴を必要とする。VanderHe
i
de(
1
9
03
)
:pp・5
2
-3;Cr
e
dne
r
(
1
9
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:pp.2
394
0.
7
6) Ski
nne
r(
1
957
)
:p.1
1
2.
7
7) Cr
a
wf
ur
dは華僑によって もたらされたサ トウキビ栽培は, 自らのシャム訪問 (
1
82
2A.
D.
)より1
2
年を
s
iのほか,Chac
ho
e
nさかのぼることはないと記 している。そしてその栽培地域については NakhonChai
ngPako
ng流域をあげている。Cr
a
wf
ur
d(
1
82
8)
‥p・1
1
21
s
a
oを中心とする Ba
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8) Pa
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1
85
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)t
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me1:pp.1
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2)
:pp.4
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80) Fi
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n によれば 1
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21A.
D.で産出巌は 30,
00
0pi
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1pi
c
u1
-60kg)で あ った。 Ne
a
lはまた
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D.に 4,
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0tもの砂糖を積んだ2
0隻の船が Si
ngapor
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,Bo
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y にむけて出港 したとしている。
Ne
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1
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2)
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pp.
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8-9,1
76.また 1
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D.の 1
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c
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sから 1
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)
・には約 2倍の 204,
00
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s
にその産出量は増大 している。I
ngr
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1
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)
:p.1
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) Mi
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1
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)
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82) p.
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K.
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p.71
3.
83) i
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d.
:pp.804
-5.
35
東南 ア ジア研究
11巻 1号
まで掘 削 し---全長 448s
e
n(17.
92km)
」 とあ り, Na
khonCha
i
s
iの渡場 ThaNaか ら西方
へ掘 られた ことがわか る。
この ThaNa は地 形図上 84)で は市場 地 名 Ta
l
a
tThaNa
85) とし
g.4上 の⑧点 に検 出で きる。さ らに 「乾期 にお ける御幸 のため,
ChonSa
da
oか ら王宮 まで
て Fi
15
0s
e
n(
6km)の道路 を造成 した。
」 と見 え,字名 Cho
nSada
o は⑥点 に検 出で きる。86)この
地域 はデル タ地形 と異 な り,デル タ微高地 よ り複合扇状地 に移行 してお り,乾期においては特
,『農務省史 』87)によれば, 人民
に陸路が必要 とされた と考 え られ る。 この運河開削の 目的は
が phr
aPat
hom 仏塔へ礼拝 に行 く交通の便 を考 えての ことだ った と してい るが, この地域の
サ トウキ ビ運搬 とい う経済的機能が十分考慮 された ことだ と考え られ る。8
8
)
NakhonCha
i
s
iか ら首都-の水運 のルー トは, 先の Mahac
ha
i運河経 由の長大 なルー トの
kho
nChai
s
iか ら束行す る, 掘 削年次不明の Yo
ng運河 (K.12 もしくは Ba
ng
ほかに, Na
oPhr
a
ya河 の
Ya
i運河) 水路 をた ど った可能性が ある。 おそ らくこの運河 も利用 され, Cha
eNa
m Om の曲流部を経て Nont
habur
i経 由 も しくは直接 Ba
ngkokに達 したで
旧河道 Ma
あろう。 しか しこの Yo
ng 運河 は当時 きわめて浅 く, 乾期 においては, 船 は綱で曳航 しなけ
ればな らなか った といわれてい る。8
9
)ともか く Che
di】
∋
uc
ha運河開削によ って, これ らの水
運のルー トをた ど り, サ トウキ ビ栽培を中心 とす る畑作地帯 は首都 の港 と結合 されてい ったの
で ある。
サ トウキ ビ栽培 の衰退 と米価 の上昇 は しだいに下流部の水 田化を明確 な 目的 とす る運河開削
86
0年代 に開 削 さ れ, と りわ け首 都 西 方 の Cha
o
を うなが した。 それ らの運河 は主 と して 1
Phr
a
ya
-ThaChi
n両河間のデル タ徽高地 に分類 され る地域 に貫通 してい く 前述 の どと く,
。
デル タ下流部 において もこれ らの地域 は,デル タ低地 に くらべて水稲耕作によ り適切な条件下
にあ ったので ある
。
そ して この わずか 1
0
年余の期間に, ThaChi
n 河か らデル タ低地 をさ ら
に西行 して Ma
e
kl
ong 河に達 した横断運河 を含 めて,
下流部の三河川 を結合す る内陸水運の体
系の骨格が首都 の西方 において完成 され る。
Ayut
t
ha
ya朝 の Ma
hac
ha
i運河や先 の Che
diI
j
uc
ha運河 な どの既存 の 運河 もこの 内陸水
運の体系を補完 し,下流部の幹線 運河 と して機能す る。 これ らの幹線運河の うちの大部分 は水
運 と沿岸 の港概 ・
排水 を 目的 とし,た しかに可耕地拡大 の契機 にはな ったが,かな らず Lも農民
の土地 古歌 によって急速 に水 田に転化 してい った とはいい きれない。運河沿岸 の土地 は王族 や
84)
85)
86)
87)
1
91
3A.
D.調査 ,494/4
-47NakhonCha
i
s
i図幅。
年代記と地形図上では綴字に若干の異なりがある。
1
91
3A.
I
)
.調査 ,493/4
-4
7NakhonPat
hom 図幅
。
)
P.
K.
K.
.
・pp.1
33-4.
88) 五世王治世に入ってもこの地域ではさかんに畑作が行なわれていたらしく,『
四世王年代記』において
Thi
phakor
awongは 「しかし今日 (
五世王治世)華僑が畑作を営み,(
遺跡が)めちゃくちゃに破壊され
P・
K・
R・
IIZ
,
JV・
:p.
805;p.
p.
25:p.31
7.
ていることが多い.
」と記している。P・
89) A.
P.
T.Vo
l
.2:p.1
71.
3
6
田辺 :Ch
a
oPh
r
a
y
aデルタの運河開発に関す る-考察 (I)
高位 の官 によ って保有 されたが, それ らの大部分 が未 だ荒 蕪地 のまま残 されて い た こ とは,
この時期 の運河開発 の大 きな特徴で あ った と考 え られ る。 また これ らの大規模 な運河 開 削に際
して は, 巨大 な財政投資 を必要 と し, 当時極度 に貧 窮化 しつつ あ った王室 (
政府)財 政 90)の下
で は大 きな負担 とな り, 新 たな資金調達 が追求 された. 運河開 削 と 沿岸 の土地 の 保有 におい
て, 政府 高官,有 力華僑 の果 たす役割 が 増大 したので あ る
。
以下, Mahas
awat
, Da
mnoe
n
Saduak,Phas
iChar
oe
n な どの幹線運河 開 削に関 して具体 的 に検討 を加 え る。
事例 2:Ma
has
awat運 河 (
K.1
3
)(
Fi
g.4,6,7)
年代記 によれば,王 は時 の大蔵卿 ChaoPhr
ayaRawi
wogMahaKos
at
hi
bodiお よび phr
a
uai短絡運 河付近 か ら西方へ直進 し,Nakhon
SiSombatらに命 じ, Bangkok北西 の BangKr
Chai
s
i東北 で ThaChi
n河 に注 ぐ長 さ 676s
e
n(
27.
04km) 幅 7wa(
14m) 深 さ 6s
ok(
3m)
の運河 で,小暦 1
21
9年 (
1857A.
D.
)に着 工 された と記 して い る 。
9
1
)ただ し 『史料集成』巻 259
2
)
は着工 を仏暦 24
03年 (
1
860A.
D.
)と し, その年 に完工 した と して年次 に若干 の異 な りが あ る。
この際,
華僑 の掘 削賃金 と して支払 った開 削資金 は,
年代記 に よれば,
前 王の治世 ,
市場管理 に よ
oThe
pAkonChaoTal
atの没収遺産 1,
000c
hang(
80,
000baht
)が あ
って富を きづ いた Tha
00c
hang,総 奉行 の大蔵卿 の金 1c
hanglOt
aml
dng が投
て られ,さ らに不足分 を大蔵省か ら 1
,
1
01c
hanglOt
aml
Bng(
88,
1
20baht
)にのぼ って い る。 この金額 を当時 の国庫
じられ,総額 1
l
egoi
x,Mal
l
oc
h らの外 国人 の 2千万, 3千万baht
にのぼ る過大 な推
歳入 と比較 して み る。Pal
計 を9
3
)い ちお う排除 して,当時 の大蔵省 の税収入 の総計数値 9
4
)
を見 るな らば ,1
857年 1,
947,
369
, 1
86
0年 で 2,
1
97,
121bahtで あ る。開 削資金 88,
120bahtはほぼその 4・
4
% に当た り,
baht
その投資額 の 巨大 さが知れ る。
この運河 は,先 の Yong 運河 (
K・12
)の南 を走行 し, NakkonChai
s
iと首都 を結ぶ最短距
離 の水路 とな り, この地域 の米,サ トウキ ビな どの首都へ の水運 を開 くと同時 に,沿岸荒 蕪地
の水 田化 が 目的 とされた。『年次別法令集 』 の仏暦 2
404年 (
1
861A.
D.
)の 「勅令 :親 王に 田を
下賜 す る御親筆草案」 には次 のよ うに あ る。95)
「
No
nt
ha
bu
r
i領内と Na
k
h
o
nCha
i
s
i儀内にまたがる Ba
ngKh
wa
ngから Ba
nNg
iwa
r
a
iにいたる新
たに開削した運河に沿う平野は,
以前は荒蕪地で空自のままであり,
土地を保有する者はなかったO運河
開削が進行するにおよび,朕は大蔵卿であり運河開削の総奉行でもある Ch
a
oPhr
a
y
aRa
wi
wo
ngMa
ha
9
0
) とりわけボーリング条約による王室独占貿易の廃止と自由貿易の開始による王室収入の減少,徴税請
ngr
a
m(
1
9
711:pp.1
7
6
7;
負制による不安定な税収,政府支出の増大などがその主要な原因であった。I
Wi
r
a(
1
9
6
1
)
:pp.1
0
4
6
.
91) p.
p.
K.
R・
)/
),
ZV.
:pp.5
3
01
・
92) p.
p.
2
5:p.2
9
5
.
6.
9
6
4
,
1
0
0b
a
ht
とし,Ma
l
l
o
c
hも 3
3,
3
7
2
,
0
0
0b
a
htとしているO それらの内わけのうち,
9
3
) Pa
l
l
e
g
o
i
xは 2
,
2
0
0
万ba
ht(
Pa
l
l
e
g
o
i
x)
,2
,
2
3
8
万ba
ht余 (
Ma
l
l
o
c
h)という数値は疑問である。I
)
a
l
l
e
g
o
i
x
とくに課役代の1
3
0
9
l
l;Ma
l
l
o
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h(
1
8
5
2
)
:p・6
4
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(
1
8
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o
me1:pp,
4
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4
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1
9
61
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,PI
K・
P・
S・
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・6:pp・
2
7
3
4
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a
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ngPhr
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ha
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ha
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ha
nNaPhr
a
c
ha
o
l
ukt
ho
e
3
7
東南 ア ジア研究
11
巻 1号
Kos
at
hi
bodiに命 じて,この荒蕪地を水 田と して 占取 させた。Nont
habur
i儀 内では運河北岸に 1,
620r
a主
396r
a
i(
1
503.
36ha)
′南岸に 5,
1
84r
ai(
82
9・
44ha
)
, 合計
(
259.
2ha)
,NakhonCha
i
s
i領内では北岸 に 9,
1
6,
200r
ai(
2,
5
92ha)の土地があり, これを50区 画に分割す る。 1区画 は 324r
a
i(
51・
84ha)で,一辺の
長 さ 60s
e
n(
2.
4km)
,幅 5s
e
n,8wa(
21
6m) である。 このすべての土地には以 前か ら保有者がいない
ので,朕がすべてを占取 し,その一部を分与 した く思 う。すなわ ちその一部を皇子,皇女 に与え, ある
者は 1区画,ある者 は 2区画 とす る。そ して この土地を BaoPhr
ai(
隷民) に耕作 させ るか, もしくは
他の者に小作 させ よう (
Cha
ha
iPhu屯nChaoTha
n K(
)Tan)
・
--.
新たに占取 した水 田には以前の告示 に したが って地租 KhaNa がかか らない. しか しこの種の水 田
に関 しては, 自らの保有 とす るか ぎり,他人に売却 ・贈与で きない。
以後, この時の占有地券 Tr
aDae
ng を更新す る必要がある時まで, 水田の保有者 に対 して地租を免
除する。
」
Mahas
awa
t運 河 沿 岸 の Nont
habur
i
,Ba
ngkok 側 , お よ び ThaChi
n 河 口 に 近 接 した部
分 は, 交 通 至 便 で あ り, 運 河 開 削直 後 か も し くは そ れ以 前 に, 土 地 占取 が行 な わ れ た と考 え ら
4km x216m とい う運 河 に 沿 う長 地 型 地 片 に分 割 し,
れ る。 四 世 王 は運 河 中 央 部 の荒 蕪 地 を 2.
1
謝
B
蕊
G'
-
35
36
I
D 2 545
34 6 7
8 91
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341
561
71
81
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萱
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C NoI
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iE
㊥
N.
C.30 (
NakhonChai
s
i領30) と N.1(
Nont
habur
i嶺 1) の保有者 は同一人。以下 N.
C.
31
と N.
2,N.
C.
32 と N.
3,N.
C.
33 と N.
4, N.
C.
46 と N.1
3,N.
C.
47 と N.1
4の場合 も同様。
◎ 四世王の皇子,皇女以外の者の保有す る地片 は N.
C.
25,N.
C.
29であ り,N.
C.
25の地片 は四
C.
29 は大蔵卿が土地を配分 した時, その係官が 自
世王が高官の一人 に下賜 された ものであ り,N.
ら保有 した ものである。
最大の地片,N・
C・
45 は五 位王の もので,四世王の他の皇子の保有地を合わせ, その面積は,
1,
896.
66r
a
i(
303A7ha)である。
◎
Fi
皇・6 Land Re
gi
s
t
e
rMa
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heMahas
a
watCa
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gi
on,R.
S.1
22(
1
903A.
I
).
)
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f
r
o
m Da
mr
ong(
1
903)
.
38
田辺 :Ch
a
o Ph
r
a
y
aデルタの運河開発に関する一考察 (∫)
自 らの子 に保有 させ よ うと した。 さ らに 2年 間 の 占有地券 を給 付 して地 租 を免 除 し, 水田化を
奨励 したので あ る。 いわば, 王族 に よ る大土地 所有 とその下 に お ける小 作 制 が こ こに計画 的 に
追 求 されたので あ る。
運 河 開 削に と もな うこの種 の大土地 所有 は具体 的 に いか に展 開 したで あ ろ うか。農 務 省土地
:j '・・
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.
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Qqe
wQya:∨H B
に立地するのに対し
これらが,デルタ低地にあたる点が
タイ国陸軍図局
(1914
1/5
(1956
1913
年刊)Ih
年刊)N
k
図幅
万地形図
kh
調査
nB
angra
am
a
on
,1950
。
,一つの示唆を与えると考えられる
年代の改補は行なわれていな
Y
運河以北
孤立
い
には
ong
,詳細は不明
両図幅とも
Ch
i
i図幅より作成
s
a
。
水田中
壮宅とも推定されるも
ただし
のが
に点在しているが
に関す
これらの集落
。
,る形態発生学的解明については地形的に他の集落がほぼデルタ高地
Fig
Th
h
lR
7
M
gi
e
ana
a
asawatC
on
.
3
9
東南 ア ジア研 究
1
1
巻 1号
局水 田文書 K.
S.3.
3/
31号 ファイル に含 まれ る Rat
anakos
i
n 暦1
22年 (
1
903A・
D・
)6月 1日付
の内務大 臣 Da
mr
ong 親 王の報告奏上文 は ,96) この問題 を解 明す る重要 な史料 で あ り, 地 図
局 の測量 にな る地籍図 お よび王族 の保有面積 が示 されてい る。 図 6はそれを示 した も の で あ
り,図 7は1
91
3年 および1
91
4年 調査 の1
/5万地 形 図で あ る。
878年か ら80年 にか け
図中 B- Cの水路 は島地型地片 を斜 めに切 断 して い るが, これは後 の1
て掘 削 され た
Naraphi
r
om,ThawiW at
t
hana 両 運河 9
7
)の水路で あ る。いま地 籍図上 の地片 の
e
nx5s
e
n8wa-324r
ai とい う 耕地 プ ラ
形態的特徴 に注 目 してみ る と, 当初 の四世 王の 60s
mr
ongは次 の よ うに記 して い る。
ンとの問 にはかな りの相違 が認 め られ る。この点 につ いて Da
「
(
その理由は)
昔はこの地域の地図で的確に調査できなかったからで しょう。時が降るにしたがって,
人民の水田に接 して杭が立て られ,南側の下賜された水田は規定をこえて幅広 く,良さを極端に縮めな
ければなりませんで した。運河に沿う北側の部分は,たとえ下賜の規定にきわめて近似 して杭を立てた
としても,後方の境界は同一でなく,中央部の水田面積は西側の端の部分のそれよりも広いのでありま
A-B;Yo
ng運河 K.1
2
)が斜めになって水田の端と接 しているか
す。それは西側の端のほうでは運河 (
らです。多 くの地片は良さ 6
0s
e
n(
2
.
4km)にも達 しておりません。 これらの理由は,Ma
h
a
s
a
wa
t運河
沿岸の下賜された水田面積が下賜の文書 (
勅令)に正確にしたがっていなかったからであり,当初から
面積は平等でなかったのです。J
「人民 の水 田に接 して杭 が立て られた」DCE の不規則 な地片 の境 はすで に この時期 におい
g.7 上 に見 え る Tha
て農民 に よ って 占取 された耕地 が展 開 して いた ことを示唆 してい る。Fi
Chi
n河 か ら Mahas
awat運河方面 に不規 則 に走 る小運河 の存在 は,これ らの 占取 された耕地 を
潅鶴 した もの と推定 され る。この ことは北岸 の地片 の境 FG において も同様で あ ったであ ろ う。
C,FG な どの境界 は しだ いに明確 な所有 関係 を示す と同
地片 の畦 畔 によ って構成 された D時 に,Fi
g・7に示 された ごと く,
1
9世 紀末葉以 降の行政区画 と しての郡 Amphoe,県 Changwat
な どの境界線 と して定着 して い ったので ある
。
王族 に配分 された島地型地片 の面積 は, ほ とん どが 300r
ai(
48ha
)前後 で あ り, 500r
aiを
,
896.
66
こす ものは少 な く,五世王 に分与 された地片 に おいて も,他 の皇子 の地片 を合 わせ て 1
9
00年 前後 において, Di
l
oc
k98)は一世帯 平均
r
a
i(
303.
47ha
)ほどで あ る。時代 は少 し降 るが 1
80- 1
00r
aiを耕作 して いたが, 潅 概 の行 きとどいた地域 において は, 200r
aiほ どまで耕作可
能 だ と して い る。 したが って土地生産性 は低 い が労働生産性 は高 い といわれ る溢流濯淑農業 に
おいて は, これ らの地 片 の面積 は極端 に広大 で あ るとは考 え られない。 しか し配分 された これ
らの地片 は, 当初か ら BaoPhr
aiや小作農民 に よ ってすべてが水 田化 されたので はない. 吹
の記述 はそれを物語 って い る。
9
6
) Da
mr
o
ng(
1
9
0
3
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・R屯a
ngTh
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2
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2
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2,
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2
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K・
K・
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p.1
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2
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) Di
l
o
c
k(
1
9
0
8
)
:p.9
8.
4
0
田辺 :Cha
o Phr
a
yaデルタの運河開発に関する-考察 (l)
「
往時は水田を耕作する者は少なく荒蕪地で空自となっている所が多 く,農民は耕作にやって きたけ
れども,下賜された面積に必要な労働力は不足 していた。そこで初期においては秩序整然としており,
anakos
i
n 暦1
1
5
互いに (
耕地地片を)侵すことはなかった。後になって米価が上昇 し,この水田も Rat
年(
1
89
6A.
D.
)以降しだいに良 くなり,耕作に来る者 も多 くなり面積に対 して十分になった。そこで縁
1
899
-1
9
0
3A.
D.
)杭を立て
辺の部分や水田の端を侵 し合うことが しばしば発生 しましたoそこで現在 (
て処理する必要がおこったのであります。
」
運河開 削によ って沿岸 のか な りの規 模 の土地 が保有 され,大 土地 所有 が運河開発 の下 で計画
的 に追求 されたが, この時期 において は, 傘下 の Phr
aiや奴隷 Thatの労働力 のみに依存 し
て はすべ てを耕 作 で きなか った事 を如実 に示 して い る。99) これ らの土地 が本格 的 に水 田に転化
す るには,米 価 の上昇 と同時 に旧制度 身分制社会 の解体 によ る自由な農民層 の出現 をまたねば
8
9
6
年以 降 とは, ま さに篠役労働制が廃止 されて い く時期 に相 当
な らなか った と考 え られ る。1
す る。10)土地 をめ ぐる係 争 の発生 と所有 関係 を 明確 にす る地 籍図作成 の必要性 は, そ の時点
で現実的な課題 とな って くるので あ る。
事例 3:Da
mnoe
nSaduak 運河 (
K.14) (
Fi
g.4)
年代記 には次 の よ うに見 え る。101)
「7月自分 4日月曜日 (
仏暦241
1
年 (
1
86
8A.
D.
) 5月2
5日〕
,兵部卿閣下は BangNokKhwae
k にお
1
86
6/
7A.
D.
)末に着工
ける新たに開削した運河の開通式にお出かけになった。 この運河は寅年第 8年 (
され,NakhonChai
s
i嶺内,BangYang 川東岸より西方 Rat
bur
i領内の BangNokKhwae
k 運河ま
で掘削され,長さ 840s
e
n(
3
3・
6km)
,幅 6wa(
1
2m)
,深さ 6s
ok(
3m)であった.掘削賃金,切株除去
40
0c
hang(
11
2,
0
0
0baht
) うち兵部卿閣下の支払った分 1
,
00
0c
hang(
80,
0
00baht
)
,王の下
費は合計 1,
hang(
3
2,
0
0
0baht
)
--」
賜された分 400c
この運河 の場合 は時 の顕職兵部卿 の 位 に あ っ た Cha
o Phr
aya SiSur
i
ya
wong (
Chuang
。
Bunnak)によ って 巨額 の資金が投下 されて い る 『史料集成 』巻 25102)によれば, 兵部卿 はそ
の見返 りと して運河沿岸 の無主地 を 占取 した と記 してい る。先 の Ma
has
awa
t運河 の場合 と同
樵, 旧制度下 の大土地 所有 の一端 を物語 って い る。
この運河 は下 流部 の内陸水運 の体系の中でみ るな らば,河 口地 方国を結合 し, 臨海地帯 を結
合 した先 の Suna
kHon 運 河 (
K・6
)を補完 して, ThaChi
n,Mae
kl
ong 両河問の水 運 を よ り
e
kl
ong 流域 の Rat
bur
iを中心 とす る米 や Mae
kl
ong河 の 自然
発展 させ る もので あ った。 Ma
堤防上 の華僑 プ ランテー シ ョンの果樹 な どは ,103)曲流 して航行 困難 な臨海地 帯 の 既 存 運 河 に
n 河 に達 した と考 え られ る. この幹線運河 の開 削は, 首
かわ って, この直線 水路 で ThaChi
99)
1
0
0)
1
01
)
1
0
2)
1
0
3)
i
b
i
d.
:pp.96
7.
石井 (
1
9
6
6)
.pp.4
3
-5.
p.
p.
K.
A.
II/,
ZV.:p.711
.
PP.
2
5.:pp.29
7
-8.
Smyt
h(
1
89
8)Vol
.1:pp.2
77
8;Bac
on(
1
89
2)
:pp.21
7
-8.
41
東南 ア ジア研 究
11巻 1号
都 との水 運 を開 くとい う点 で次 の Phas
iChar
oe
n運 河 と ones
etで計画 され た と推 定 され る
。
事 例 4:Phas
iChar
oe
n 運河 (
K.15
)(
Fi
g・4)
『年 次別法 令集』所収 の 「Ⅰ
'
has
iChar
oe
n運河 開 削令 」 [
小暦 1227年 (
1865A.
Ⅰ
).
)
]104)に よれ
aPhas
iSombat
bor
i
bun(
PhoJi
n)は SamutSakhon 領 内の
ば,華僑徴税 請 負人で あ る phr
ThaChi
n河 東岸 か ら首 都近郊 の BangkokYai運 河 (
Fi
g.9・
ll)に達 す る運河 開 削 を提案 して
い る。 しか しこの年果樹 園税 AkonSuanYaiお よび米穀 税 Phas
iKhao が徴 収 105) されず ,
政府 の金 は他 の運河開 削資金 と して支 出 され, 十分 な 資金 調達 がで きなか った。 そ こで Pho
1)運河 を往 来 す る船舶 か ら通行税
Ji
n はふた通 りの資金調 達方法 を提 案 して い る。す なわ ち (
を徴収 す る。 (
2) NakhonChai
s
iと SamutSakhon に賭 博場 を設 置 し, 3年 間掘 削賃金 に あ
て る。 これ らの提 案が実現 され たか否 か は不 明で あ るが, 年代記 には次 の よ うに あ る。106)
「寅年 〔
小暦1
2
2
8
年 (
1
8
6
6A.
D.
)
〕阿片税の徴税請負人である phr
aPha
s
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mba
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bo
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i
bunに,阿片税
を投 じて掘削させた。---全長 6
2
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2
4.
8km)
,幅 7war
1
4m)
,深さ 5s
o
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2.
5m)--総額 1,
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0
0
c
ha
ng(
1
1
2,
0
0
0ba
ht
)
」
阿片税 は 当時 の華僑 の請負税 のか な りの額 を 占めて い る。107)おそ ら くこの華僑 徴 税 請 負 人
が総奉行 と して任ぜ られ た と推 定 され るが, も しもそ うだ と した ら, 国家 の事業 と して の幹線
運 河 の開 削に華僑 の財 政的実権 が前面 に登場 した ことを意味す る。
この運河 は四世 王治世 には完成 されず
,『史 料集成』巻 25108)に よれ ば, 五世 王 治 世 1872年
A.
D.に完工 した と して い る。
運 河沿岸 の土地所有 ,水 田化 の進 展 を直接 に示 す史料 は現 段階 で は筆者 の手 もとに はない。
しか し Bangkok 近郊 の BangkokYai運河付 近 において は,早 くか ら華僑 に よ る集 約 的 な野
菜 栽培 や果 樹 園が み られた といわ れ る。109)また さ らに西方 に向 けて は放射状 に走 行 す る 多 数
の小 運河 が存在 し, Phas
iChar
oen幹線 運河 沿岸 を含 めて,す で に この時期 には水 田化 が進行
して いた と推定 され る。
nSaduak 運河 (
K.14)と結合 し, 南方 を 走 行 す る MahaChai
この運 河 は先 の Damnoe
(
K・2)
- SunakHon(
K・6
)運 河ル - トを 補完 し, 首都 か ら ThaChi
n,Mae
kl
ong 両 河流域
にいた る最 も重要 な幹線 運河 と して機能 した 。
1
880年代 に な ってか らの改修工事 の際 の勅令 11
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K.
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4.
1
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5
) 果樹園税は土地の広狭によってではなく,植えてある木の数,種類によって査定され,各々の種類の
果樹について細かな規定があり,きわめて複雑であった。果樹園税 も米穀税 も華僑徴税請負人によって
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多 くの場合徴収された。Da
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K.
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IV.:p.6
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4
2
田辺 :Chao Phr
ayaデルタの運河開発に関する一考察 (1)
には 「四世王が開削させた この運河 によ り,人民 は Na
khonChai
s
i流域地方国か らの商品を
oPhr
aya河まで往来す るに きわめて便利 とな った。 --」と記 されている。
運 び Cha
oPhr
ayaSiSur
i
yawong, 港務
以上の幹線運河の開削以外に もこの時期には, 兵部卿 Cha
卿 Cha
oPhr
ayaThi
phakor
awongなどの顕職の出資による運河開削の若干例が年代記にみえ
e
kl
ong 河 口 SamutSl
ongkhr
a
m 領 内における BangLi運河, YiSan
る。111)すなわ ち, Ma
短絡運河, ThaChi
n 河 口 Sa
mutSakhon領 内における Khun,Kr
ut短絡運河などの開削 ・
改修工事 などがそれである。
Ⅴ 小
結
四世王以前 の開削になる運河を含 めて, この時期 までの下流部首都東西 の幹線運河による水
g.8 の どと くである。
運体系をダイヤグ ラム として示せば Fi
Ayut
t
haya朝以来,開削 ・改修 された短絡運河,および旧河道 などを含み ,ChaoPhr
aya本
流 を幹線水路 とす る一連の水路群 は, 首都の市場, 港 と 至近 の 距離にあ り Ba
ngkok 近郊運
ngkok 都市域を中心 と し, 北 は
河体系 ともい うべ き性格を もっている。 この運河体系は Ba
Pat
hum Tha
ni付近か ら南 は NakhonKhaa
nkhan(
phr
aPr
ada
e
ng)付近にまでひ ろが って
ngkok近郊運河体系は, Ba
ngkok都市域 の延長である首都圏内の水運の体系 を構成
いるo Ba
しているのである。112) これに対 して軍事的あるいは商品流通, 液 概 ・排水 による耕 地 拡 大 を
目的 として首都か ら下流部の東西の諸河川を横断 して結合 してい った一連 の運河群は幹線運河
体系をかたちづ くっている。下流部の水運の体系は この二つの運河体系の結合の上 に成立 して
い くのである。
幹線道河体系の うち,臨海地岸のデル タ低地を東西に走行 し曲流部分 の多いルー トⅠ, Ⅱは
Ayut
t
ha
ya朝か ら Rat
a
nakos
i
n朝初期 にか けての主要 な横断運河であ り,ルー トの結節点 に
あたるイ ンターチ ェンジや Sa
mutPr
akan,NakhonKhaa
nkha
n などは河 口地方国の 軍事的
要衝 であ った。 これ らのルー トはルー トⅢの Sa
e
nSae
p 運河 とともに軍事 的機能 を もった こ
とは既述の とお りである。
1
9
世紀中葉, とりわけ四世王治世における幹線運河の開削は,サ トウキ ビなどの乾期畑作物
の運搬 の目的か らルー トⅣの整備か ら開始 され,ついでデル タ徽高地 を中心 とす る水 田化 と米
has
a
wat運河やルー トVの Damnoe
n
戟,畑作物,果樹 などの水運を目的 とす るルー トⅣの Ma
Saduak,Phas
iChar
oe
n運河などが開削されてい った。
ngkok近郊運河体系を構成す る運河群 とた くみに結節 し,一連の水
これ らの幹線運河 は Ba
1
1
1
) p.
p.
K.
R.
I
l
l
,
IV.
:pp.712-3.
11
2) 首都圏内の水運体系に含まれる地域は,Pat
hum Thani
,Nont
habur
i
,phr
aPr
adae
ng,SamutPr
akan
などによって構成された畿内 WongRat
c
haThaniとはば一致する。
43
東南 ア ジア研究
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i:Nont
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BK :Ba
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NK :Nakhon Kh屯ankhan (
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SP :Sa
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CS :Chac
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NC :NakhonCha
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NP :Nakho
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巻 1号
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運 の体系 を首都西方 において成立 させ たので あ る。 しか し東方 の BangPakong 河 にいた る広
大 な地 域 は未 だ荒蕪地 が多 く残存 し, とりわ け早 くか ら開 けた Chachoensao の穀倉地帯 とよ
り短距離で結合 され る幹線運河 の開 削が, その間 の水 田化 とともに要請 されて くるので ある。
一方,首都西方 にお ける幹線運 河体 系の成 立 は, 運河沿岸荒蕪地 の水 田化 を めざ した もので
あ ったが, そ こには旧制度身分制社会 を基盤 とす る大土地 所有 が形成 された。 しか し王族,政
府高 官 らに よ って保有 された これ らの土地 は,未 だ旧制度 の身分 関係 にあ った Phraiや奴隷 の
労働力 を使役 して耕作 され る場合 が多か った と考 え られ, 多 くの部分 は荒蕪地 のまま残 されて
いたので あ る。 M ahasawat運河沿岸 の場合 の よ うに計画 的に追求 された小作制 113)も,その よ
1
13) 旧制度のもとで形成されたこれ らの 「
地主一小作関係」は,土地の私有化,農民の階層分化,貨幣経
済の大幅な浸透,土地不足などを要因とし,地代収取を目的とした狭義の 「
地主一小作関係」とは質を
異 にす る。Di
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aデル タの運 河開発 に関す る…考察 (I)
うな古 い身分制社会 における生産関係 を基盤 と して いたのであ る。運河開発 に ともな う下流部
荒 蕪地 の水 田化 は,土地所有 の側面で は, 旧制度 の生産関係 の枠 の中でのみ展開をみた とい う
ことがで きる。
付
表
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6 『タイにおける不 白由労働制の解体』 アジア経済研究所。
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8「タイの篠役制度の一考察- 「三印法典」を中心 として-」 『東南 アジア研究』 6巻 1号,
pp.3654.
田辺繁治 .1
972「タイ旧制度下 の国家領域 に関す る一考察」 『東南 アジア研究』1
0巻 2号,pp.24670.
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966「ChaoPhr
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yaデルタのかんがい排水開発の歴史的発展過程 」『東南 アジア研究 』 3巻 4号,
pp.1
47-56.
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967「タイ土地制度史 ノ- トー タイ農村社会史の試み」滝川勉 ・斎藤仁編 『アジアの土地制度 と
農村社会構造 Ⅱ』 アジア経済研究所,pp.61
-115.
富士岡義一 ・1
96
6「タイ国のかんがい排水事業 と今後の課題 」『東南 アジア研究』 4巻 2号 ,pp.1
2336.
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967a.『東南 ア ジア地域におけるかんがい排水 による農業開発 Ⅰ〔タイ国のかんがい排水 につい
』熱帯農業技術叢書第 2号,農林省 。
て〕
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967b.「かんがい排水 による東南 アジア農業開発 」『東南 アジア研究 』 5巻 4号 ,pp.1
35
-45.
富士岡義一 ・海 田能宏・1
967「タイ国バ ンコク平原 のかんがい排水 について」『東南 アジア研究』 5巻 3号,
pp.1
38-66.
本間 武・1
966「タイ農業 における生産基盤 の整備- と くに末端水制組織 と土地改良協同組合 との関係 につ
いて -」『東南 アジア研究』 4巻 3号 ,pp.91
1130.
48
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