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「ヴァルトブルクの歌合戦」伝説 上尾 信也

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「ヴァルトブルクの歌合戦」伝説 上尾 信也
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
桐 朋 学 園 芸 術 短 期 大 学 紀 要
2007 年 3 月 発 行
Vo l . 3
「ヴァルトブルクの歌 合 戦 」伝 説
上尾
信也
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
目 次
はじめに
Ⅰ
ヴァーグナーと《タンホイザー》
グリム兄 弟 の『ヴァルトブルクの歌 合 戦 』
1.グリム兄 弟 の『ドイツ伝 説 集 』
2.グリムのドイツ伝 説 集 にみる「ヴァルトブルクの歌 合 戦 」
3.物 語 の構 図
Ⅱ
「歌 合 戦 」の原 典 ―中 世 文 学 としてのヴァルトブルク
1.『ヴァルトブルクの歌 合 戦 』の原 典
(1)原 典 (Quellen)
(2)写 本 (Manuscript)
2.ミンネザンクとしての歌 合 戦
(1)マネッセ歌 謡 写 本 (Codex
Manesse)の「ヴァルトブ
ルクの歌 合 戦 」
(2) 〈 君 主 賛 歌
Das
Fürstenlob 〉 と 〈 な ぞ な ぞ
Das
Rätsel〉
3.「歌 合 戦 」伝 説
(1)歌 合 戦 伝 説 の史 料
(2)論 争 詩 と伝 説
(3)歌 合 戦 写 本 の成 立
Ⅲ
ヴァルトブルクの 1200 年 代 (ヴァルトブルクの歌 合 戦 の歴
史 的 背 景 )
1.伝 説 の道 具 立 て:聖 エリーザベト伝 説
(1)歴 史 上 の登 場 人 物 の史 実
(i)テューリンゲンとヘッセンの方 伯 ヘルマン
(ii)オーストリア大 公 レオポルド
ルートヴィヒ
(2)「聖 女 伝 説 」:歌 合 戦 と聖 女 の誕 生
(i)テューリンゲン方 伯 夫 人 エリーザベト
(ii)聖 エリーザベト伝 の脚 色 としてのヴァルトブルクの歌
合 戦
2.クリングゾールとは何 者 なのか
3.そして、伝 説 へ
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
記 憶 と記 録 の融 合 は、歴 史 的 事 件 を印 象 的 に語 り継 ぐ
装 置 (イメージ)の母 体 である。伝 説 はこのイメージの産 物 であ
り、また新 たなイメージを次 々と未 来 に生 み出 していく。
はじめに
ヴァーグナーと《タンホイザー》
「ヴァルトブルクの歌 合 戦 」は、リヒャルト・ヴァーグナーの楽
劇 《タンホイザー(タンホイザーとヴァルトブルクの歌 合 戦 )》
(1843年 )によって広 く知 られるようになった伝 説 である。また、
舞 台 となったヴァルトブルクは宗 教 改 革 者 マルティン・ルター
の滞 在 地 としても知 られている。
ヴァーグナーによって歌 合 戦 のシンボルとなったタンホイザー
とはいったい誰 なのか。タンホイザーは、中 世 ドイツ語 による宮
廷 歌 謡 をその作 者 (ミンネジンガー)の肖 像 のミニアチュールと
ともに描 いた『ハイデルベルク大 歌 謡 写 本 (マネッセ写 本 )』に
も登 場 する13世 紀 の実 在 の宮 廷 歌 人 (ミンネジンガー)であ
り、十 字 軍 に従 軍 するなど信 仰 篤 い徳 の高 い騎 士 としてタン
ホイザーは中 世 末 期 には伝 説 ともなっていた。しかし、ヴァルト
ブルクの歌 合 戦 を記 したどの資 料 にもその名 は見 当 たらない。
実 はヴァーグナーは、歌 合 戦 に主 人 公 として登 場 するハイン
リッヒ・フォン・オフターディンゲンこそこのタンホイザーだとして、
新 たな歌 合 戦 伝 説 を創 造 したのである*1)。ヴァーグナーのこ
の芸 術 的 創 造 性 の背 景 には19世 紀 ドイツの希 求 があった。
フランス革 命 とナポレオン戦 争 以 降 の、市 民 社 会 と国 民 国
家 の創 生 の時 代 にあり、なおも100あまりの領 邦 に分 立 してい
たドイツ人 は自 らの統 一 国 家 を求 めた。その統 一 のアイデン
ティティのひとつが、ドイツ民 族 としての歴 史 の探 求 と、ドイツ
民 族 としての文 化 の創 出 であった。この歴 史 主 義 とロマン主
義 の19世 紀 を舞 台 として歌 合 戦 伝 説 は、「中 世 的 なるもの」
と「ドイツ的 なるもの」への強 烈 な希 求 が生 み出 した産 物 であ
った。これはまた、歌 合 戦 の登 場 人 物 であるミンネジンガーへ
の憧 憬 と、一 種 の芸 術 家 としての彼 らの伝 説 を生 み出 すこと
となった。
伝 説 は歴 史 的 事 象 の断 面 を伝 えるといわれる。本 論 では、
「ヴァルトブルクの歌 合 戦 」が歴 史 上 の事 実 であるとすれば、
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
どうして伝 説 として語 り継 がれてきたのかその生 成 過 程 に触 れ
ていく。そして、その生 成 過 程 にかかわる、つまり、歌 合 戦 に
登 場 しまたこの歌 合 戦 を歌 い伝 え残 した宮 廷 歌 人 (ミンネジ
ンガー)にまつわる、いわばもうひとつの伝 説 を解 き明 かし、中
世 の詩 人 、芸 術 家 と評 されてきた彼 らの実 像 に、もうひとつの
光 を照 射 することを試 みてみたい。
Ⅰ
グリム兄 弟 の『ヴァルトブルクの歌 合 戦 』
1.グリム兄 弟 の『ドイツ伝 説 集 』
19世 紀 のドイツの統 一 への希 求 は、国 語 としての言 語 の
確 立 にも現 われた。その主 導 的 役 割 を果 たしたのがヤーコプ
とヴィルヘルムのグリム兄 弟 である。ドイツ語 の確 立 と辞 典 編
纂 のためのドイツ語 圏 に残 るさまざまな言 語 資 料 の収 集 の余
禄 とも言 うべき成 果 は、今 日 も世 界 の隅 々にまで読 者 をもつ
《メルヒェン(童 話 )》として目 の当 たりにできる。一 方 、メルヒェ
ンとほぼ同 時 期 に10年 の歳 月 をかけて収 集 された兄 弟 編 の
『ドイツ伝 説 集
Deutsche
Sagen』(第 1部 1816年 刊 、第 2
部 1818年 刊 )は、記 述 資 料 として歴 史 上 の重 要 な価 値 をも
っている。ここには、鼠 捕 りの笛 吹 き男 にまつわる「ハーメルン
の子 供 たち」(244番 )といった場 所 にちなむ伝 説 362編 、「ヴ
ィルヘルム・テル」(512番 )や「マルティン・ルター」(556番 )のよ
うな歴 史 にちなむ伝 説 217編 、合 計 579編 が所 収 されている。
「童 話 (メルヒェン)は詩 的 で、伝 説 (ザーゲ)は歴 史 的 である。
童 話 は、その本 来 の開 花 と完 成 の姿 をとって、ほとんどそれ
自 身 のうちにしっかりと根 ざしている。伝 説 は、色 彩 の多 様 性
に乏 しく、何 か既 知 のもの、意 識 されているものに、ある場 所 、
または歴 史 によって確 かめられている名 に結 びつくという特 殊
性 をもっている。」とヤーコプが第 1部 の序 文 に要 約 したように、
汎 用 的 な童 話 に比 べ、伝 説 は歴 史 的 な時 や所 と密 接 に結
びついている。それゆえ伝 説 は、イメージとして語 り伝 えられた
特 異 な歴 史 的 事 実 の一 面 の照 射 であるばかりでなく、「歴
史 的 な伝 説 はたいてい何 か異 常 なこと、意 外 なこと、そして
超 感 覚 的 なことをさえ、ありふれたもの、よく知 られたもの、現
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存 するものに、ぶっきらぼうに、まじめに結 びつける。」とヤーコプ
が述 べるように民 族 固 有 の心 性 の表 出 として歴 史 学 上 の対
象 となる。その意 味 でも、『ドイツ伝 説 集 』は同 時 にグリム兄
弟 の「ドイツ的 なるもの」の追 及 でもあった*2)。
2、グリムのドイツ伝 説 集 にみる「ヴァルトブルクの歌 合 戦 」
561
『ドイツ伝 説 集 』の第
Der
Wa r t b u r g e r
話 に「ワルトブルクの歌 合 戦
Krieg」はある。ここではまず、桜 沢 正 勝 /
鍛 冶 哲 郎 (訳 )『グリム
ドイツ伝 説 集 』(人 文 書 院
1990)
(下 )307-310 ページにより全 文 を紹 介 したい(段 落 後 のアル
ファベット記 号 は、物 語 の構 図 で使 用 するための引 用 者 によ
る。同 訳 書 の合 戦 、クリングゾルといったいくつかの表 記 を引
用 者 が本 論 中 の表 記 に統 一 している)。
アイゼナハに近 いワルトブルクの城 に、1206 年 6 人 の徳 を備
えかつ賢 明 な心 得 のある男 が集 まり、歌 を競 いあった。後 に、
人 々はこれをワルトブルクの歌 合 戦 [合 戦 ]と呼 んだ。(a)
歌 匠 たちの名 は、それぞれハインリヒ・シュライバー、ヴァルタ
ー・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ライマー・ツヴェーター、ヴ
ォルフラム・フォン・エッシェンバハ、ビーテロルフ、ハインリヒ・フ
ォン・オフターディンゲンであった。6 人 の詩 人 は太 陽 と昼 を歌
って競 いあった。みながテューリンゲンとヘッセンの方 伯 ヘルマ
ンを昼 にたとえ、殿 の中 の殿 と讃 えたのに対 し、ただひとりオフ
ターディンゲンはオーストリアの公 爵 レオポルドをそれ以 上 に称
賛 し、太 陽 にたとえた。(b)
さて、歌 匠 たちは互 いにこういう取 り決 めをしていた。それは
歌 合 戦 で敗 れた者 は首 を吊 される、というものだった。そして、
絞 首 刑 吏 のシュテンペルが、すぐに吊 すことができるように傍 ら
に控 えていた。ハインリヒ・フォン・オフターディンゲンは才 気 を
持 って巧 みに歌 ったが、ついには、妬 み心 からハインリヒをテュ
ーリンゲンの宮 廷 から遠 ざけようとしていた者 たちの巧 妙 な言
葉 の罠 にかかり、負 けてしまった。(c)
勝 負 に敗 れたのは謀 られたからだ、とハインリヒは訴 えたが、
他 の 5 人 はシュテンペルを呼 ぶと、ハインリヒを木 に吊 すように
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命 じた。するとハインリヒは方 伯 夫 人 ゾフィアのところに逃 げ、
その外 套 の下 に身 を隠 した。そうなると 5 人 はもう手 出 しはで
きなかった。(d)
そこでハインリヒは 5 人 と交 渉 して、一 年 の猶 予 を認 めても
らったうえ、「その間 に、わたしがハンガリーとジーベンビュルゲン
に向 けて旅 立 ち、歌 匠 のクリングゾルを連 れてこようと思 う。こ
の人 に歌 の判 定 をしてもらい、それに従 うことにしよう」と申 し
出 て、合 意 を取 りつけた。クリングゾールは当 時 最 も高 名 なド
イツの職 匠 歌 人 として認 められていた。それに方 伯 夫 人 もハ
インリヒの味 方 をしたので、5 人 はこの申 し出 をしぶしぶ受 け入
れたのだった。(e)
こうしてハインリヒ・フォン・オフターディンゲンは旅 に出 た。ま
ずオーストリアの公 爵 のもとに赴 き、その紹 介 状 を持 ってジー
ベンビュルゲンの歌 匠 を訪 ねた。そして、歌 匠 にこの訪 問 のわ
けを話 し、自 分 の歌 をうたって聞 かせた。(f)
クリングゾルはこの歌 をいたく褒 め、共 にテューリンゲンに赴
き歌 人 たちの争 いの裁 定 をしよう、と約 束 した。ところがその後 、
2人 は様 々な戯 れ事 に興 じて時 を過 ごし、そのためハインリヒ
に認 められた猶 予 期 間 は終 わりに近 づきつつあった。それでも
クリングゾルが一 向 に旅 の支 度 に取 り掛 からないので、ハイン
リヒは不 安 になってこう言 った。「師 匠 、あなたに見 捨 てられ、
一 人 悲 しく旅 立 たねばならぬのではないかと心 配 しております。
そうなればわたしは名 誉 を失 い、一 生 テューリンゲンに戻 ること
はできません。」クリングゾルはそれにこう答 えた。「心 配 なさるな、
こちらには逞 しい馬 と軽 い馬 車 がある。近 いうちにぜひ出 発 し
よう。(g)
ハインリヒは心 配 のあまり眠 ることができなかったが、歌 匠 が
晩 に飲 物 を与 えたところ、深 い眠 りに落 ちてしまった。すると、
クリングゾルはハインリヒを皮 の敷 物 の上 に横 たえた。それから
自 らもその傍 らに横 になると、急 ぎテューリンゲンの国 はアイゼ
ナハまで運 び、いちばん上 等 の宿 に下 ろすよう、霊 に命 じた。
果 たしてその通 りに事 は進 み、夜 が明 ける前 に、霊 は 2 人 を
ヘルグレーフェンの館 に連 れて行 った。朝 の眠 りの中 でハイン
リヒは聞 き慣 れた鐘 の音 を耳 にし、こう呟 いた。「これは幾 度 も
聞 いた音 色 のように思 える。なんだかアイゼナハにいるような気
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がする。」-「夢 でも見 ているのだろう」と歌 匠 は言 った。起 き
上 がってあたりを見 回 したハインリヒは、自 分 はいま本 当 にテュ
ーリンゲンにいるのだと、すぐに気 づいた。「ありがたい、テューリ
ンゲンに着 いたのだ。これはヘルグレーフェンの館 だ。聖 ゲオル
クの門 と、その前 に立 ってこれから野 良 に出 ようとしている人 々
の姿 も見 える。」(h)
さて程 なくして、2人 の到 着 がワルトブルクの城 にも知 れ渡
ると、方 伯 は、異 国 の歌 匠 を敬 意 をもって迎 え贈 物 を届 ける
よう命 じた。ハインリヒは、どこでどのように日 を送 っていたのかと
訪 ねられると、こう答 えた。「わたしは昨 日 ジーベンビュルゲンで
眠 りについた。それが今 日 の朝 課 の時 にはここに着 いていたの
だ。私 の知 らぬまにそうなってしまっていたのだ。(i)
歌 匠 たちが歌 を競 いクリングゾルが判 定 を下 す日 まで、ま
だ幾 日 かがあった。ある晩 クリングゾルは宿 の庭 に座 り、じっと
星 空 を眺 めていた。その場 に居 合 わせた殿 らが、空 に何 を見
ているのかと尋 ねたところ、クリングゾルは、「よろしいか、今 宵 ハ
ンガリーの王 に娘 が生 まれることになりましょう。この子 は美 しく
徳 高 く信 心 深 い乙 女 となり、方 伯 様 のご子 息 に嫁 ぐことにな
りましょう」と言 った。(j)
この知 らせを伝 え聞 いた方 伯 ヘルマンはこれを喜 び、クリン
グゾルをワルトブルクの城 に召 しだすと、一 方 ならぬ敬 意 を払
い豪 華 な宴 の席 へ案 内 した。食 事 の後 、クリングゾルは歌 人
たちがいる騎 士 の館 に赴 き、ハインリヒ・フォン・オフターディン
ゲンを自 由 の身 にしてやろうと思 った。(k)
クリングゾルはヴォルフラムを相 手 に歌 で渡 り合 った。ところ
がヴォルフラムは並 々ならぬ勘 と機 転 を発 揮 し、歌 匠 に引 け
をとらなかった。そこで歌 匠 は霊 を一 人 呼 び出 した。
霊 が若 者 の姿 で現 われると、クリングゾルは言 った。「私 は口
を動 かすのに疲 れてしまった。ヴォルフラム、おまえさんの相 手
をさせようと、ここに下 男 を連 れてきた。しばらくこいつがおまえ
さんと戦 ってくれるだろう。」霊 は、この世 の始 まりから恩 寵 の
時 までを歌 いはじめた。ヴォルフラムは永 遠 の言 葉 の聖 なる誕
生 を歌 ってこれに応 じた。そしてその歌 がパンと葡 萄 酒 の聖 な
る化 体 を扱 う段 になると、悪 魔 は沈 黙 してその場 を去 らねば
ならなかった。)(l)
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ヴォルフラムが学 ある言 葉 で神 の不 思 議 を歌 うのを一 部
始 終 傍 らで聞 いていたクリングゾールは、この男 は多 分 学 者
でもあるのだろうと思 った。それを潮 に二 人 は別 れた。(m)
ヴォルフラムは町 の中 心 部 、パン市 場 の向 かいのティツェ
ル・ゴットシャルクの館 に宿 をとっていた。そのよるヴォルフラムが
眠 っているところに、またしてもクリングゾルは悪 魔 を使 わし、学
ある者 か無 学 の者 か調 べさせた。この歌 人 は、実 は神 の言 葉
に通 じているだけで、他 に学 芸 の心 得 とてない無 学 な男 だっ
た。悪 魔 は天 空 の星 について歌 い、ヴォルフラムに質 問 した。
歌 匠 がこれに答 えることができず、黙 ってしまうと、悪 魔 は大
声 で笑 い、石 の壁 がやわらかい練 り粉 ででもできているかのよ
うに、指 で壁 にこう書 いた。「ヴォルフラム、おまえは無 学 なおし
ゃべり野 郎 だ。」そうしてしまうと悪 魔 は姿 を消 したが、その文
字 は消 えずに後 に残 っていた。(n)
ところが、この不 思 議 を一 目 見 ようと沢 山 の人 が押 し寄 せ
たため、宿 の主 人 は腹 を立 て
、その部 分 の石 を壁 から外 さ
せホルホゼ川 に捨 ててしまった。(o)
クリングゾルは悪 魔 にこの悪 戯 をさせた後 、方 伯 に暇 乞 い
をし、頂 戴 した褒 美 や贈 物 を携 え召 使 を連 れ、皮 の敷 物 に
乗 って、来 たときと同 じように国 に帰 って行 った。(p)
3、物 語 の構 図
以 下 ではグリムの物 語 からうかがえるこの歌 合 戦 の構 図 を、
物 語 の進 行 順 にアルファベットで示 し要 約 し、その後 の議 論
の手 がかりとしていく。
第 1 部
(1)事 件 としての歌 合 戦
(a)現 場 :
テュービンゲン地 方 アイゼナハ近 郊 ヴァルトブルクの城 。『グリ
ム
ドイツ伝 説 集 』訳 ではワルトブルクの城
(b)登 場 と歌 合 戦 :
伝 1206年 、参 加 歌 匠 は、ハインリヒ・シュライバー、ヴァルタ
ー・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ライマー・ツヴェーター、ヴ
ォルフラム・フォン・エッシェンバハ、ビーテロルフ、ハインリヒ・フ
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ォ ン ・ オ フ タ ー デ ィ ン ゲ ン 。 「 歌 匠 」 と 訳 さ れ た 原 綴 は
「Meister」、後 述 するがこの伝 説 が収 集 された時 代 のマイス
タージンガーにとっての宮 廷 歌 人 (ミンネジンガー)は自 らの祖
先 の意 識 をもってマイスターとしたのではないかと思 われる。
太 陽 と昼 を仕 える領 主 に準 える勝 負 を行 い、ハインリヒ・シ
ュライバー、ヴァルター、ライマー、ヴォルフラム、ビーテロルフは、
ヴァルトブルク城 主 にして歌 合 戦 の主 催 者 テューリンゲン・ヘ
ッセン方 伯 ヘルマン側 につき、ハインリヒ・フォン・オフターディン
ゲンのみオーストリア公 レオポルド側 につく 5 対 1 の勝 負 。
(c)勝 負 の帰 結 :
ハインリヒの負 けだが、グリムの『伝 説 』ではハインリヒに好 意
的 な「妬 み心 、罠 」といった理 由 付 けがなされている。
(d)再 審 判 の申 し出 :
方 伯 夫 人 ゾフィアの取 り成 しによる再 審 判 が決 定 される。
正 義 の女 神 然 とした方 伯 夫 人 の中 立 性 は、「貴 婦 人 の外
套 の下 」という表 現 から、夫 人 が単 なる避 難 場 所 ではなく、
宮 廷 風 恋 愛 における主 君 の奥 方 と歌 人 のフィナモール(精
緻 な愛 )を想 起 させる。しかも、ゾフィアは実 はオーストリア公
家 の出 身 であり、後 世 による政 治 的 な位 置 づけの意 図 が見
え隠 れする。
(e)歌 合 戦 に負 けたハインリヒ・フォン・オフターディンゲンの
職 匠 歌 人 (Meistersänger
マイスターゼンガー)」クリン
グゾール(クリングゾル)の探 索 :
当 時 随 一 の歌 匠 とされるジーベンビュルゲン(今 日 のルー
マニア)のクリングゾールは、後 世
16 世 紀 に宮 廷 歌 人 (マイス
タージンガー)の作 品 を範 とし編 纂 した職 匠 歌 人 (マイスター
ジンガー)と記 されている。ミンネジンガーとしてのクリングゾール
は今 日 では歌 合 戦 以 外 知 られておらず、架 空 の人 物 とする
説 もある。
(2)探 索 の旅
(f)オーストリアの公 爵 :
(g)クリングゾールとの出 会 い:
思 惑 と遊 興 譚 が繰 り広 げられる。これはクリングゾールの権
威 と魔 力 を見 せ付 ける道 具 立 てのひとつであろう。
(h)魔 術 師 クリングゾール:
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「薬 」、「魔 法 の絨 毯 」など魔 力 が開 示 される。睡 眠 薬 で
あろう不 思 議 な飲 物 、や千 一 夜 物 語 などイスラムの物 語 で
知 られる「空 飛 ぶ敷 物 」、あるいは、これは 16 世 紀 以 来 のオ
スマン影 響 下 のハンガリーのイメージと結 びつこう。また、覚 醒
や郷 土 復 帰 の道 具 立 てとしての鐘 の音 や霊 (悪 魔 )を使 う
者 としてのクリングゾールの特 徴 づけは、近 代 以 降 の「音 」観
念 や芸 人 楽 師 の在 り方 にも繋 がり興 味 深 い。
(i)ハインリヒの帰 還 の報 せ
第 2 部
(3)再 戦 :ヴォルフラム対 クリングゾール
(j)予 言 :
予 言 や奇 跡 は宮 廷 での信 と尊 敬 と愛 顧 を得 るための魔
術 師 の宮 廷 への典 型 的 な登 場 パターンであり、この予 言 は
前 掲 書 『グリム伝 説 集 』563「ルートヴィヒとエリーザベトの2人
の子 供 の結 婚 」に繋 がっていく。
(k)方 伯 の宴 会
(1)ヴォルフラム対 クリングゾールの歌 合 戦 :
新 たな主 人 公 ヴォルフラムはまっとうな技 芸 の持 ち主 、神
の側 として描 かれ、霊 を呼 ぶクリングゾールはアンチクライスト、
悪 魔 使 いとして描 かれる。これは、霊 が歌 う〈この世 の始 まりか
ら恩 寵 の時 まで〉と、ヴォルフラムが歌 う〈永 々の言 葉 の聖 なる
誕 生 〉の絶 妙 な対 比 である、後 者 はパンと葡 萄 酒 の聖 なる
化 体 、最 高 の秘 蹟 としての聖 体 拝 領 といった 14,15 世 紀 の
キリスト教 ルネサンスともいえる信 仰 再 認 の時 代 に多 くの言 説
が割 かれた*3)。
そして、悪 魔 退 散 により一 応 のヴォルフラムが勝 利 したかに
みえたが、クリングゾールは冷 静 に判 断 し、「学 識 」判 定 を求
める。単 に、キリスト教 に対 する理 性 、古 典 的 学 識 の対 立 な
のだろうか。伝 説 が成 立 した時 代 の精 神 史 的 背 景 が現 れた
と見 るか、スコラ神 学 の影 響 と見 るか。
(m)クリングゾールとは決 着 つかず、学 識 判 定 へ。
ちなみに、学 識 の判 定 こそ、クリングゾールの登 場 するヴォ
ルフラム作 の『パルチヴァール(パルツィファル)』には欠 落 した
要 素 であるが、なぜこの伝 説 は「無 学 =歌 人 」を伝 えたかのだ
ろうか。
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
(n)夜 の宿 屋 での悪 魔 とヴォルフラムの再 戦 :
クリングゾールは悪 魔 を使 わし学 識 判 定 を行 なう。悪 魔 の
歌 「天 空 の星 について」は天 文 学 の知 識 さらには自 由 七 科
に唾 がル「大 学 的 教 養 」である。それに対 して無 学 と分 かった
ミンネの歌 人 を悪 魔 が笑 う。歌 人 の社 会 的 地 位 についての
示 唆 といえるかもしれない。
(4)後 日 談 :
(o)宿 に残 った悪 魔 の傷 痕 :
不 思 議 譚 では、伝 説 の後 日 談 でこの種 の証 拠 隠 滅 を行
う。立 証 不 能 な「事 実 」への言 い訳 の常 套 手 段 である。
(p)クリングゾールの帰 還 についての後 日 談
結 局 は方 伯 による贈 物 によってクリングゾールの勝 利 の図
式 に一 見 みえるが、歌 合 戦 の決 着 やヴォルフラムと論 争 の結
果 は等 閑 視 され、どうしてクリングゾールの予 言 とそれに対 す
る報 酬 が伝 説 の結 幕 となるのか、古 典 的 連 続 的 な物 語 の
筋 立 てとしては不 可 解 である。つまり、歌 合 戦 、クリングゾール
の探 索 、予 言 、ヴォルフラムとクリングゾールとの論 争 といった
個 別 の逸 話 が時 系 列 にしたがって集 められ、物 語 の筋 書 き
に無 理 やり合 わせたことで、いくつかの齟 齬 や関 連 性 の希 薄
さが見 受 けられる。このことはたとえば、後 半 第
2 部 は、ハイン
リヒについての言 及 はなくなる。物 語 構 成 上 、単 なる狂 言 回
しともいえようが、伝 説 主 題 の主 眼 は「クリングゾール」的 なる
者 と「ヴォルフラム」をはじめとする歌 人 への視 線 へと移 ってい
くことは、いかにもパッチワークの感 を否 めない。これは後 述 の
成 立 事 情 で明 らかになる。
また、物 語 のコンテクストから言 えば、①神 の恩 寵 を受 けた
ものが悪 魔 に勝 つという単 純 な図 式 (他 の楽 師 伝 説 に多 い
図 式 )ではない。②最 後 には、物 語 はクリングゾールの勝 利 、
あるいは職 匠 歌 人 であり霊 能 者 ・魔 術 師 であり悪 魔 使 いで
あるクリングゾールの、歌 人 への嘲 笑 で終 わる。つまり、①や②
をあわせると、勧 善 懲 悪 を越 えた歌 人 への深 い批 判 の表 出
も表 されているかのような深 読 みもできはしまいか。
とすると、歌 人 への視 線 とは何 であろうか。ヴォルフラム個
人 の伝 記 上 の問 題 なのか、歌 人 (ミンネジンガー)とよばれた
ものども全 般 への視 線 なのか?そうであったら、いつの時 代 の
112
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
コンテクストなのであろうか。
なかでも解 く鍵 として示 されているかのように見 える、他 の学
識 なく神 の言 葉 のみ通 じている「無 学 」という表 現 は、果 たし
て自 由 七 学 科 の教 養 が学 芸 の心 得 であり、歌 人 は単 なる
実 践 者 であり、愛 の歌 (ミンネリート)は一 段 以 上 も低 く見 ら
れた芸 であることの裏 返 しなのだろうか。そこには「音 楽 =実
践 」観 から近 代 の「音 楽 =芸 術 」「実 践 音 楽 も芸 術 」観 への
推 移 が見 え隠 れしないか。実 在 ミンネの歌 人 の実 態 との比
較 をする上 で解 決 される問 題 とも言 いがたいが、これは③宮
廷 における歌 人 の地 位 と魔 術 師 (あるいは芸 人 楽 師 )の地
位 の違 いの問 題 とも関 連 付 けられよう。現 実 と伝 えられた姿
(イメージ)そして、後 世 によるイメージの変 容 あるいは創 出 が
起 因 しているのは想 像 に難 くない。いずれにしても、ヴァルトブ
ルクの歌 合 戦 伝 説 は何 を伝 えたかったのであろうか。単 なる
『パルツィファル』余 話 なのか。深 読 みは可 能 なのか。次 節 以
下 では、歩 を進 めて行 きたい。
Ⅱ
「歌 合 戦 」の原 典 ―中 世 文 学 としてのヴァルトブルク
1、《ヴァルトブルクの歌 合 戦 》の原 典
(1)原 典 (Quellen)
グリムは「ヴァルトブルクの合 戦 」の原 典 として、『マグデブル
ク 司 教 お よ び 大 司 教 年 代 記 』 ( Chronica
archiepisc.
pontificum
magdeburgens)、ゲルシュテンベルク編 の『ヘッ
セ ン と テ ュ ー リ ン ゲ ン 年 代 記 』 ( Wigand
Chronicon
und
et
Hassiacum
Fortsetzung
ap.Schminke.
bis
Kassel,
et
Gerstenberg,
Thuringiacum,
1549,
sehr
genau
1498-1515
abgedruckt
1747)、ヨハン・ローテの『テューリン
ゲン年 代 記 』(Johann Rothe, Chronik von Thüringen)の
3 書 を挙 げているが、これらの史 料 については後 述 するとして、
書 き残 された物 語 としての「ヴァルトブルクの歌 合 戦 」の原 典
の問 題 に少 し踏 みこんでみたい*4)。
原 典 は 13 世 紀 中 頃 に由 来 する韻 文 詩 に骨 格 をもつとす
る岸 谷 敞 子 ・柳 井 尚 子 訳 著 『ワルトブルクの歌 合 戦 -伝 説
資 料 とその訳 注 』(大 学 書 林 1987)の詳 細 なテキスト研 究 に
113
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
よると、原 典 はヴァルトブルクの歌 合 戦 を中 心 主 題 とした
Das
世 紀 中 頃 の 中 高 ド イ ツ 語 の 論 争 詩 〈 君 主 賛 歌
Fürstenlob〉と〈なぞなぞ Das
13
Rätsel〉で、一 部 〈王 の姫 たち
のなぞ Das Rätsel von den Königstöchtern〉と〈笛 吹 きた
ちのなぞ Das Rätsel von den Pfeifern〉も加 わったものとし
ている。
こ の 原 典 の エ デ ィ シ ョ ン に は 、 ジ ム ロ ッ ク 版 (Karl
Simrock(Hrsg.,geordnet,übersetzt
Der
Wa r t b u rg k r i e g ,
( Wa l t e r
erläutet
Der
Wa r t b u rg k r i e g ,
1935) 、 ロ ン ペ ル マ ン 版
Ropmelman(Kritisch
von),
1858) 、 フ ィ ッ シ ャ ー 版
Fischer(Hrsg.von),
Eisenach
Paris
Stuttgart
und
Hrsg.von),
Der
(Tom
Albert
Wartburgkrieg,
1939) 、 ヴ ァ ッ ヒ ン ガ ー 版 (Burghart
Wachinger,
Sängerkrieg. Untersuchungen zur Spruchdichtung des
13.Jahrhunderts, München 1973)などがあり、岸 谷 ・柳 井
の訳 は、関 連 する写 本 すべてを比 較 検 討 し異 同 も詳 述 した
決 定 版 であるロンペルマン版 に依 拠 する。
(2)写 本 (Manuscript)
原 典 を伝 える資 料 として、宮 廷 歌 人 (ミンネジンガー)によ
る中 世 ドイツ語 による歌 謡 を収 めた以 下 の写 本 があり、歌 合
戦 あるいは歌 合 戦 に登 場 する歌 人 たちの作 品 が伝 えられて
いる*5)。
写 本
C:《マネッセ歌 謡 写 本 (大 ハイデルベルク歌 謡 写
本
)Manessische
Heidelberger
Liederhandschrift(Grosse
Liederhandschrift)》、ハイデルベルク大
学 図 書 館 蔵 Pal.germ.848 号 写 本 (14 世 紀 初 頭 チュー
リッヒで成 立 )。数 多 くのミニアチュール付 き。Miniature:ハ
ン ガ リ ア の ク リ ン グ ゾ ー ル
Klingsor
von
Ungerlant
(Klinsore von vngerlant)(Nr.65):各 詩 節 にその一 人
称 に担 い手 の名 前 が見 出 しとして挙 がる論 争 詩 。他 に歌
合 戦 の登 場 歌 人 では、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲル
ヴァイデ
Herr
Wa l t h e r
von
der
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ
Vo g e l w e i d e ( N r . 4 2 ) 、
Herr
Wo l f r a m
von
Eschenbach(Nr.44) 、 ラ イ ン マ ル ・ フ ォ ン ・ ツ ヴ ェ ー タ ー
114
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
Herr Reinmar von Zweter(Nr.97)らを含 む。
写
J
本
:
《
イ
エ
ー
ナ
歌
謡
写
Jenaer
本
Liederhandschrift》イエーナ大 学 図 書 館 蔵 El.f.101 号
写 本 (14 世 紀 中 頃 )テューリンゲン方 伯 マイセン辺 境 伯 フ
リードリヒ(1324-49)のために制 作 (Holz
説 )。最 後 の部
分 は〈ヴァルトブルク歌 合 戦 〉。91の旋 律 と数 多 くの旋 律
のない詩 。タンホイザー、ハインリヒ・フォン・オフターディンゲ
ンの旋 律 含 む。
写
K : 《 コ ル マ ー ル 歌
本
謡
写
本
Kolmar
Liederhandschrift 》ミュ ンヘン、 バ イエルン国 立 図 書 館
蔵 Cgm
4997 号 写 本 (現 存 する写 本 は 15 世 紀 中 頃 マ
インツでネストラー・フォン・シュパイエルによって制 作 、あるい
はヴォルムスで成 立 、1546
年 にイェルク・ヴィックラムが購
入 し、これがコルマールのマイスタージンガー兄 弟 団 の設 立
の礎 に)。トーン
To n ( 詩 形 ・ 旋 律 ) に よ っ て 分 類 。 9 0 0
以
上 の詩 (うち 105 は旋 律 付 き)。ラインマル・フォン・ツヴェー
ター(3
曲 )、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(2
曲 )、タンホイザー(2 曲 )、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバ
ッハ(2曲 )、ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン、クリングゾ
ールの旋 律 含 む。オフターディンゲンの〈君 主 の調 べ
dem
gekaufte
od'
in
dem
furste
ton
(In
Heinrichs
offtertingen)[オフターディンゲンの旋 律 ]〉(1239 年 以 降
成 立 )は〈君 主 賛 歌 〉の原 型 で、後 にマイスタージンガーに
よって「君 主 の調 べ」(脚 韻
ababcdcdefefghgh)のトーン
(詩 形 )とされ、〈クリングゾールの黒 い調 べ(In
swarte
ton)〉(1235-39
clingsoers
年 頃 成 立 )も〈なぞなぞ〉の原 型
で、「黒 い調 べ」(脚 韻 aabccbdeed)のトーン(詩 形 )とされ
た。
写 本 L:《ローエングリン写 本 Lohengrinhandschrift
ハイデルベルク図 書 館 蔵 (14
A》、
世 紀 前 半 成 立 )。「黒 い調
べ」による 767 詩 節 (76700 行 )の長 編 論 争 詩 (叙 事 詩 )。
冒 頭 数 十 節 が〈なぞなぞ〉(3 節 から 21 節 まで)とロンペル
マンの追 加 (22 から 36 節 )と重 複 している。
2,ミンネザンクとしての歌 合 戦
115
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
(1)
マネッセ写 本 (Codex
Manesse)の「ヴァルトブルク
の歌 合 戦 」
以 上 に挙 げた歌 合 戦 および宮 廷 歌 人 を伝 える最 大 かつ
重 要 な も の は 《 マ ネ ッ セ 歌 謡 写 本 ( Die
Manessische
Liederhandschrift)》(以 下 、マネッセ写 本 )である。《マネッ
セ写 本 》は、今 日 ハイデルベルク大 学 図 書 館 に所 収 されてい
る《Cod. Pal[atinus] Germ[anicus] 848 号 写 本 》で、《大
ハ イ デ ル ベ ル ク 歌 謡 写 本
( Die
große
Heidelberger
Liederhandschrift)》とも呼 ばれる。マネッセの名 の由 来 は
1310-30
年 にかけてチューリッヒの門 閥 リューディガー・マネッ
セの立 案 により編 纂 成 立 したことによる。ミンネジンガーの歌
謡 (ミンネザンク)写 本 中 、最 大 の 426 葉 からなり、うち 138 に
は、宮 廷 における自 らの理 想 像 を描 いたとされる歌 人 の彩 色
肖 像 が挿 図 に描 かれている*6)。
ヴァルトブルクの歌 合 戦 は、〈ウンガーラント(ハンガリー)のク
リ ン グ ゾ ー ル (Klinsor[Klingesor]
von
Ungerlant) 〉
(Nr.65;Pal.Germ.848,fol.219v) の 名 の も と に 、 歌 合 戦 の
登 場 人 物 の肖 像 図 とともにさまざまな所 から寄 せ集 められた
論 争 詩 として収 録 されている。その挿 図 では、上 半 分 の玉 座
の右 にテューリンゲン方 伯 へルマン(Landgraf
herman
von
Türingen ) 、 左 に テ ュ ー リ ン ゲ ン 方 伯 婦 人 ゾ フ ィ ー ( Sofi
Landgravin
von
人 たち戦 い(Die
Türingen)、下 半 分 に 7 人 の歌 人 が「歌
Kriegen
mit
Sanger)」として個 々を特 定
はできないが描 かれている。「ヴァルター・フォン・デア・フォーゲ
ルヴァイデ殿 、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ殿 、老 ライン
マル殿 、忠 実 なる書 記 、ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン、
ハンガリアのクリングゾール殿 (H[er]
Vo g i l w e i d e ,
H[er]
H[er].Reiman
der
Heinrich
vo[n]
Wo l f r a n
Alte,
der
Oftertinge[n],
Wa l t h [ e r ]
von
d[er]
Eschilbach,
tugenthafte
un[d]
von
schriber,
Klingesor
von
Ungerlant)」の 6 人 しか記 されていない。画 像 中 央 、冠 を被
った歌 人 がクリングゾールと写 本 図 像 を研 究 したヴァルター
(Ingo
F
Wa l t h e r ) は 特 定 し て い る 。 ヴ ァ ル タ ー ( N r. 6 2 ,
fol.124r) 、 ヴ ォ ル フ ラ ム ( Nr.64,
fol.149v ) 、 グ リ ム 版 で は
「 ハ イ ン リ ヒ ・ シ ュ ラ イ バ ー 」 と 記 さ れ た 「 忠 実 な る 書 記 」 (Nr.86,
116
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
fol.305r)はマネッセ写 本 に別 項 が立 てられており、ラインマ
ル・デア・アルテとして歌 合 戦 の挿 図 に書 かれているラインマル
は マ ネ ッ セ 写 本 で も 登 場 す る ラ イ ン マ ル ・ デ ア ・ ア ル テ (Nr.34,
fol.98r) で は な く て 、 ラ イ ン マ ル ・ フ ォ ン ・ ツ ヴ ィ ー タ ー ( Nr.97,
fol.323r)である。しかしオフターディンゲンは別 項 が立 てられ
ておらず、タンホイザーは含 まれること(Nr.79, fol.264r)からヴ
ァーグナーが援 用 したようにオフターディンゲンとタンホイザーを
同 一 視 する説 の根 拠 となった)、さらにビーテロルフは歌 合 戦
の挿 図 にもマネッセ写 本 中 にも記 されていない。【図 版
1-5
参 照 】
【図 1】Klinsor[Klingesor]
von
Ungerlant と欄 外 に書 か
れた『マネッセ写 本 』中 のヴァルトブルクの歌 合 戦 を描 いたと
される挿 図 (ハイデルベルク大 学 図 書 館
Cod.
Pal[atinus]
Germ[anicus] 848 号 写 本 , fol.219v)
117
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
【図
2】『マネッセ写 本 』中 のヴァルター・フォン・デア・フォーゲ
ルヴァイデを描 いた挿 図 (ハイデルベルク大 学 図 書 館
Cod.
Pal[atinus] Germ[anicus] 848 号 写 本 , fol.124r)
118
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
【図 3】『マネッセ写 本 』中 のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッ
ハ を 描 い た 挿 図 ( ハ イ デ ル ベ ル ク 大 学 図 書 館
Cod.
Pal[atinus] Germ[anicus] 848 号 写 本 ,fol.149v)
119
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
【図
4】『マネッセ写 本 』中 のラインマル・フォン・ツヴィーターを
描 いた挿 図 (ハイデルベルク大 学 図 書 館
Cod.
Pal[atinus]
Germ[anicus] 848 号 写 本 , fol.323r)
120
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
【図 5】『マネッセ写 本 』中 のタンホイザーを描 いた挿 図 (ハイデ
ル ベ ル ク 大 学 図 書 館
Cod.
Pal[atinus]
Germ[anicus]
848 号 写 本 , fol.264r)
121
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
(2)
Das
君 主 賛 歌
Fürstenlob 〉 と 〈 な ぞ な ぞ
Das
Rätsel〉
グリム版 の構 図 と、歌 合 戦 の原 点 とされる〈君 主 賛 歌 〉、
〈なぞなぞ〉は、マネッセ写 本 中 のヴァルトブルクの歌 合 戦 、す
なわち「ハンガリーのクリングゾール」の本 文 にも記 されている。
ここでは前 掲 の岸 谷 敞 子 ・柳 井 尚 子 訳 著 『ワルトブルクの
歌 合 戦 -伝 説 資 料 とその訳 注 』のテキストを、最 新 のマネッ
セ写 本 のエディションであるプファッフ版 (1995)*7)を参 照 しな
がら、賛 歌 として「歌 われた」ヴァルトブルクの歌 合 戦 を見 てい
く。
〈君 主 賛 歌 〉:グリム伝 説 の前 半 (1)歌 合 戦 :オフターディン
ゲンの敗 北
(a)現 場
なし
(b)登 場
【第
1 節 】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「今 ここで最 初
の歌 を/オフターディンゲンのハインリヒがテューリンゲンの気 高
い 君 主 の 調 べ で 歌 う
Daz
êrste
singen
hie
nu
tout/
Heinrîch von Ofterdingen in des edeln vürsten dôn/
von Düringenlant,」;「オーストリア公 の徳 にかけて彼 (マイス
ター:即 ちハインリヒのこと)は闘 士 の義 務 を負 わんとしている
des
vürsten
tugent
ûz
Ôsterrîch,
dâ
wil
er
pflihten
an,」(10 行 )
【第 2 節 】ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ「さてここ
でうち合 いが始 まる。/私 はヴァルター・フォン・デァ・フォーゲ
ル ヴ ァ イ デ と 申
す 者
だ 。 Nu
hebent
sich
die
s c h i r m e s l e g e . / W a l t e r v o n d e r Vo g e l w e i d e , s ô b i n i c h
genant.」;「ドイツの風 習 に従 って/明 日 にも刑 吏 は我 らのう
ち の 一 人 の た め に / 処 刑 の 綱 を 持 っ て く る が よ い 。 in
diutscher
ger/wide
unde
seil/
schaffe
unser
einem
der hâher morne her.」(14-16)
ここでは、オフターディンゲン対 フォーゲルヴァイデの図 式 に
なっている。
【第 3 節 】書 記 [Der
tugenthafte
Schrîber]「ヴァルター殿
はかの者 に今 日 一 日 の猶 予 を与 える
122
Her
Wa l t h e r
lât
in
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
Tâlanc vrî,」
こ の 「 忠 実 な る 書 記 」 は 、 一 般 の 書 記 職 (scriptor
virtuosus)のものを指 すのではなく、歌 人 ハインリヒ・シュライ
バーと解 され、グリムにも受 け継 がれる。書 記 の役 割 は 12 節
以 降 ビーテロルフが代 わる。
【第
4 節 】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「さて審 判 はど
こにいる。試 合 の時 が来 た。Wâ
nu
griezwart!
kampf
ist
komen!」;「ツヴェーターのラインマルよ、私 にはおまえが必 要
だから/誠 実 のならわしによって耳 を借 し給 え。/エッシェンバ
ッハの賢 者 にはもう一 人 の審 判 になっていただこう
von
Zweter,
sît
ich
dîn
bedarf,/
hoer
Reimâr
zuo
nâch
triuwen site./ von Eschenbach der wîse sol der ander
kieser wesen,」(7-9)
ラインマルとヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハを審 判 役
に要 望 。12
節 ではエッシェンバッハは第 一 のマイスターとして
扱 われている。
(c)歌 合 戦 の勝 負
【第 5 節 】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「諸 君 、ちょっと
聞 く気 があるなら、/オーストリア公 の徳 を諸 君 にお話 しよ
う。」
【第 6 節 】書 記 「7 人 の諸 侯 はローマ国 王 を/選 定 する権 限
を持 っている。/彼 らとてかの気 高 き君 テューリンゲンのヘルマ
ンの/望 む人 でなければ選 ばない。」
前 節 でオーストリア公 を讃 えたのに対 して、主 催 者 の城 主
ヘルマン方 伯 の権 勢 を誇 示 している。
【第
7 節 】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「書 記 殿 、あな
たもあなたの手 も」;「私 のマイスターと呼 べるのは/ツヴェータ
ーのラインマルと/…あのエッシェンバッハのヴォルフラム殿
だ。」(3-5)
【第 8 節 】書 記 「あなたの従 僕 に私 の巻 き毛 を…」;「アイゼナ
ハのシュテンペル(ステムペル)は/我 ら2人 の頭 上 にその幅 の
広 い剣 を抜 いて立 つべきである、」(11-12)
刑 吏 シュテンペルによる断 首 刑 を賭 ける文 字 通 り命 懸 け
の歌 合 戦 とあいなる。
【第
9 節 】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「足 のつま先 か
123
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
ら頭 のてっぺんまで」
【第 10 節 】書 記 「オフターディンゲンが婦 人 たちの着 物 につい
て語 るところによれば」
【第
11 節 】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「テューリンゲ
ンの殿 は若 い時 から」
【第 12 節 】ビーテロルフ「我 輩 ビーテロルフが今 や登 場 せねば
なるまい、」;「ラインマル殿 、そして諸 君 一 同 のマイスターであ
るエッシェンバッハ殿 、」(12):
ヴォルフラムを諸 君 一 同 のマイスターと第 一 の歌 人 として
持 ち上 げることは、後 日 談 である〈なぞなぞ〉でクリングゾールと
対 戦 する伏 線 なのか、〈君 主 讃 歌 〉成 立 時 の評 価 の表 れな
のか定 かでない。なお、この後 にプファッフ版 マネッセ写 本 には
第 13 詩 節 が挿 入 されている*8)。
【第 13 節 (プファッフ版 では第 14 節 、以 下 同 様 )】ビーテロル
フ「シュテンペルよ、もっと近 くへ歩 み寄 れ」
【第 14 節 (15)】ビーテロルフ「大 胆 さに加 えて名 誉 を重 んじる
心 があり、」
【第
15 節 (16)】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「私 はテ
ューリンゲン殿 の助 太 刀 として/そこのブランデンブルク殿 とヘ
ンネンベルク殿 を加 えることを許 そう。」
【第 16 節 (17)】ラインマル・フォン・ツヴェーター「君 主 の奥 方
とおつきの婦 人 方 が」;「オフターディンゲンのハインリヒよ、ライ
ンマルがおまえの敵 になってやろう」(6):審 判 役 ラインマルの
参 戦
【第
17 節 (18)】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「用 心 し
ろ、ツヴェーターのラインマルよ、」
【第
18 節 (19)】ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ「言 え、
オフターディンゲンのハインリヒよ、」;「もしおまえは悪 霊 にとりつ
かれているなら、/私 エッシェンバッハのヴォルフラムは僧 侶 の
やり方 に従 って/おまえを破 門 しなければならない。」(5-8)
審 判 役 としてのヴォルフラムが語 る「僧 侶 のやり方 」は、グリ
ムにいたる彼 の人 物 造 形 にも影 響 を与 えているのであろうか。
【第
19 節 (20)】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「ようこそ
テラメール殿 。」;「ヴァルター殿 、ラインマル、書 記 、ビーテロル
フ の 一 同 は / あ ひ る の 妄 想 を 抱 い て い る と い う も の だ 、 」
124
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
(13-14)
ヴォルフラムは審 判 役 で、ラインマルが途 中 から対 ハインリヒ
に討 って出 る。
【第
20
節 (21)】ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ
「私 ヴァルターは歌 を嘆 かずにはいられない。」
【第
21
節 (22)】ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ
「一 人 の王 と二 人 の有 力 な領 主 が選 び出 されている、」
ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「オーストリアのわが主 君
こそ!」(11)
【第
22
*9)
節 (23)】ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ
「私 が教 えてあげよう、夜 明 けの方 が/太 陽 や月 や星 の光 よ
りももっと称 賛 に値 するのだ」;「我 々にその財 を進 んで/喜
捨 し給 う御 方 、それはテューリンゲンのヘルマンだ。」(15-16)
(d)再 審 要 求
(e)探 索 へ*10)
【第 23 節 (24)】ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン「オフター
ディンゲンのハインリヒは、テューリンゲンの国 で/不 平 等 のさ
いころが自 分 の前 に持 ち出 されたといって嘆 く。」;「ヴァルター
が奸 計 を用 いて勝 利 を奪 うのは/誠 実 なやり方 ではない。」
(3-4);「オーストリア公 がいかに太 陽 にたとえられようとも、/誰
か他 の君 主 に劣 るというぐらいなら、/ハンガリーのクリングゾー
ルよ、/私 はむしろおまえを待 とう、たとえおまえが海 のかなたに
いようとも。」(5-9);「私 はハンガリーのクリングゾールに/どうし
てもここに来 てもらいたい、」(14-15)
グリムの「巧 妙 な言 葉 の罠 」とは、23
節 のさいころでの勝 負
の決 着 のことを示 していると思 われる。
【第 24 節 (25)】「4人 のマイスターは彼 の死 を望 んだ。」
「シュテンペルはその準 備 をすべきだということで幾 度 もその名
が呼 ばれた。」(2);「君 主 の奥 方 [方 伯 夫 人 ゾフィア]は言 っ
た、かつて私 が救 いの手 を差 しのべたことのある人 は、」(3)
*11)
論 争 詩 では方 伯 夫 人 の外 套 の下 に隠 れることはなく、方
伯 夫 人 の懇 願 とクリングゾール捜 索 のための執 行 猶 予 が語
られる。
これ以 降 、グリム版 の(f)探 索 の旅 、(g)出 会 い、(h)クリング
125
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
ゾールの魔 法 行 、(i)ハインリヒ帰 還 の報 せ、(j)予 言 、(k)方
伯 の宴 会 は、次 の〈なぞなぞ〉においても欠 落 している。マネッ
セ写 本 での〈なぞなぞ〉への連 結 は、Pfaff(原 典 )の第
25 節
末 尾 の以 下 の詩 節 となっている。
「ここにクリングゾール来 たりて歌 いエッシェンバッハと相 対 す。
クリングゾールから手 始 めに、かくしてうたいし歌 、後 にここに書
き留 めおく。(hie
ist
Clinsor
komen
und
singet
er
und
der/ von eschenbach wider einander./ Und vahet das
Clinsor an. Und/ singet disu dru lieder diu hie/ nach
geschriben stant.)」
〈なぞなぞ〉
グリム伝 説 の後 半 (2)(3):歌 合 戦 の後 日 談 はクリングゾー
ル探 索 とヴォルフラムとの再 試 合 (なぞなぞ)の論 争 詩 であ
る。
(1)クリングゾールとヴォルフラムの歌 合 戦 :論 争 詩 〈なぞなぞ
Das
Rätsel〉、さらに〈王 の姫 たちのなぞ
Das
Rätsel
von
den Königstöchtern〉、〈笛 吹 きたちのなぞ Das Rätsel von
den Pfeifern〉の付 加
〈なぞなぞ Das Rätsel〉
【第
1 節 】
「川 に近 い平 野 にチューリンゲンの高 貴 な殿 のテ
ントが立 てられてたとき、」
【第 2 節 】
【第
「私 は縄 を結 んでこぶを作 った。」
3 節 (Pfaff
26)】クリングゾール(klingsor)
「父 親 が子
供 に呼 びかけた」
【第 4 節 (27)】クリングゾール
「父 親 が怒 ったのも無 理 からぬ
ことだ」
【第
5
節 (28)】クリングゾール
「ハンガリアのクリングゾールが
私 に語 った」
【第
6
節 】クリングゾール「さあこの結 び目 を解 いてくれる人 が
いるなら、」
【第 7節 (29)】ヴォルフラム(von
eschenbach)
「クリングゾー
ルよ、その結 び目 を私 が解 こう」*12)
【第 8 節 (32)】ヴォルフラム(Eschenbach)
126
「さあ、聞 け、私 に
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
見 る目 があるかどうか。」
【第 9 節 (31)】ヴォルフラム(Eschenbach)
「私 の頭 に狂 いが
ないなら、」*13)
【マネッセ写 本 のみの詩 節 (39―44)】:39-40 節
( Wa l t h e r
[ v o n d e r Vo g e l w e i d e ] ) 、 4 1 - 4 2 節
(wolfram)、43-44 節
【第
10
節 (47)】
ヴァルター
ヴォルフラム
クリングゾール(klingsor)
クリングゾール
「そのような知 恵 は天 使 が
見 つけてくれるもの」
【第 11 節 (90)】
ヴォルフラム(wolfram)
「勝 利 は神 の手 中
にある」
【第
12 節 (45)】
クリングゾール
「さあマイスターよ、気 を悪 く
しないで私 に言 ってください。」
【第
13 節 (46)】ヴォルフラム
「もし私 にお前 の野 生 の言 葉
を飼 い馴 らすことができないとすれば、」:
13
節 で謎 を解 き、勝 利 する。グリムでは略 された〈なぞな
ぞ〉の形 で2人 の歌 合 戦 が繰 り広 げられる。また、グリムにおけ
るクリングゾールの呼 び出 した霊 (悪 魔 )とヴォルフラムの歌 合
戦 は〈なぞなぞ〉にはない。
(m)学 識 判 定
【第
14 節 (48)】クリングゾール「さて、ヴォルフラムよ、おまえを
無 学 者 とみなすような人 は/頭 が悪 いのだ。/おまえは占 星
術 に通 じている。」(1-3)「悪 魔 ナジオンが今 夜 のうちにも、お
まえがたった一 人 でいる所 に行 って/それを探 索 してくれるだ
ろう。」(5-6)
【第
15
節 (49)】ヴォルフラム「おまえやおまえの悪 魔 たちがど
んな技 を心 得 ていようとも、」
【第 16 節 (50)】クリングゾール「おまえはウラーニアスの名 を挙
げたが、」
(n)悪 魔 との再 戦
【第
17 節 (51)】ナジオン「さあ、おまえに名 人 の学 識 があるな
ら、私 に言 ってみろ、」*14)
【第
18
節 】ヴォルフラム「私 には星 に関 する知 識 はない。」
*15)
【第
19 節 】ナジオン「何 でお前 は私 がわざわざここへ連 れてこ
られることを望 んだのか、」/「おまえはずぶの素 人 だ、と私 は
127
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
壁 に書 いてやる。」(7) *16)
【第 20 節 (54)】ヴォルフラム(wolfram)
「呼 び寄 せられたお
前 の苦 労 など私 の知 ったことではない」
21
【第
節 (55)】ヴォルフラム(eschilbach)
「ヴォルフラムは
胸 の前 で十 字 を切 った。」
(o)悪 魔 の痕
(p)後 日 談
なし
なし
21 節 (55)以 降 はプファッフ版 マネッセ写 本 に、56―89、
第
91 節 の論 争 詩 が残 されている*17)。
また、両 者 の論 争 は《王 の姫 たちのなぞ
Das
Rätsel
von
den Königstöchtern》としても残 されている。
【第
1 節 (プファッフ版 マネッセ写 本 では第
様 )】クリングゾール(klingsor)
33 節 、以 下 同
「一 人 の王 様 がいてかわいい
二 人 の姫 君 があった、」
【第 2 節 (34)】クリングゾール
【第
「二 人 の男 のうちの一 方 は」
3 節 (35)】クリングゾール
「もう一 人 の女 も夫 から大 きな
苦 しみを受 けた」
【第 4 節 (36)】ヴォルフラム(von Eschenbach)
「もし私 に真
鍮 をもって受 けとめよというのなら、」
【第 5 節 (37)】ヴォルフラム(eschenbach)
「さて、男 もそして
祝 福 されている女 も」
【第 6 節 (38)】ヴォルフラム(eschenbach)
「自 分 の配 偶 者
を泉 のわき出 る所 へ連 れて行 った男 というのは、」
3、「歌 合 戦 」伝 説
(1)
歌 合 戦 伝 説 の史 料
論 争 詩 ではなく、物 語 として、14
世 紀 以 降 は以 下 に挙 げ
た い く つ か の 伝 記 文 献 ( Vi t a ) に 、 歌 合 戦 伝 説 は 著 さ れ て い
る。伝 説 原 典 といえるべきこれらの伝 記 群 は、14
世 紀 のキリ
スト教 布 教 のため聖 職 者 によって書 かれてきたが、十 字 軍 で
揺 らぐローマ教 会 の権 威 復 興 と、そのため「聖 人 ・聖 女 」を
生 み出 すメカニズムの一 端 に、歌 合 戦 伝 説 はどのように関 わ
ってきたのだろうか。
①
『ラテン語 原 典 よりザールフェルトのフリードリッヒ・ケーデ
ッツによって訳 された、聖 エリーザベトの夫 君 、テューリンゲン
128
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
方 伯 聖 ル ー ド ヴ ィ ヒ の 生 涯
Ludwig,
Landgraf
heiligen
Elisabeth.
übersezt
von
Das
in
Thüringen,
Nach
der
Friedrich
(Hrsg.v.Heinri ch
Leben
latenischen
Leipzig
heiligen
Gemahls
Ködiz
Rückert,
des
der
Urschrift
Salfeld.
von
1851,
S.9-13.
』
以
下 、『聖 ルードヴィヒ伝 』)。これは 14 世 紀 にドイツ語 に翻 訳 。
おそらくラテン語 原 典 (Q)があったと思 われるが現 存 せず。
① ’
『 ラ イ ン ハ ル ト ブ ル ン 年
Reinhardnbrunnensis 』 (in:
Historica.
Hannover
記
Monumenta
Bd.XXX-1,
Scriptores
Holder-Egger,
代
1908,
Cronica
Germanica
H r s g . v. O s w a l d
S.571-574)は、ラテン語 、
15 世 紀 に編 纂 。『聖 ルードヴィヒ伝 』の部 分 は①と同 じラテン
語 原 典 による。
②
ア ポ ル ダ の デ ィ ー ト リ ヒ 『 聖 エ リ ー ザ ベ ト 伝 』 Dietrich
v o n A p o l d a , Vi t a S . E l i s a b e t h ( 1 2 8 9 - 9 7 年 ) は 、 ク リ ン グ ゾ
ールの聖 エリーザベト誕 生 の予 言 の部 分 を収 録 。
③
ヨハネス・ローテ『聖 エリーザベトの生 涯
sich
an
daß
Das
Leben
lebin
der
V. 2 1 5 - 6 9 8 ) ( I n :
Sent
heiligen
Der
"Hie
Elizabeth"』Johannes
Elisabeth
Rothe,
(Kapitel.III-VII:
Wa r t b u rg k r i e g ,
Fischer, Eisenach 1935, S.111-127.
hebet
H r s g . v. Wa l t h e r
以 下 、『ローテの聖
エリーザベト伝 』)。これはドイツ語 韻 文 で書 かれ、ローテはテュ
ーリンゲンの書 記 官 (1434
年 没 )である。①や①’よりも記 述
は長 い。クリングゾールの聖 エリーザベト誕 生 の予 言 の部 分 は
一 致 。「ヴァルトブルクの合 戦 」という表 現 の初 出 がみられる。
④
グリムの拠 った 15 世 紀 以 降 の原 典 は以 下 。
Chronica
pontificum
et
archiepisc.
magdeburgens.
(『マグデブルク司 教 および大 司 教 年 代 記 』)。
Wigand
Gerstenberg,
Chronicon
Hassiacum
et
Thuringiacum, 1498-1515 und Fortsetzung bis 1549,
sehr
genau
abgedruckt
ap.Schminke.
Kassel,
1747
(『ヘッセンとテューリンゲン年 代 記 』)。
Johann Rothe, Chronik von Thrüingen.(『テューリンゲン
年 代 記 』)、ここにはローテの『聖 エリーザベト伝 』を含 む。
129
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
(2)論 争 詩 と伝 説
以 下 では、19
世 紀 のグリムの「伝 説 」形 成 に至 るまでの直
接 の資 料 となった伝 説 原 典 の二 書 、15 世 紀 の『ラテン語 原
典 よりザールフェルトのフリードリッヒ・ケーデッツによって訳 され
た、聖 エリーザベトの夫 君 、テューリンゲン方 伯 聖 ルードヴィヒ
の生 涯 』(『聖 ルードヴィヒ伝 』)を、欠 落 部 分 をヨハネス・ロー
テ『聖 エリーザベトの生 涯 』(『ローテの聖 エリーザベト伝 』)で
補 いながらグリムの構 図 にそって対 照 したうえで、伝 記 に先 だ
って成 立 していた原 典 である論 争 詩 「(a)〈君 主 賛 歌 〉と〈な
ぞなぞ〉」がどのような資 料 変 遷 を経 て伝 記 「(b)『聖 ルードヴ
ィヒ伝 』と『ローテの聖 エリーザベト伝 』」に至 り、グリムが原 典 と
した 15 世 紀 以 降 のテキストに継 承 されていったかを検 討 して
いきたい。
(i)『聖 ルードヴィヒ伝 』と『ローテの聖 エリーザベト伝 』
の比 較 (訳 は岸 谷 ・柳 井 前 掲 書 による。一 部 筆 者 改 )
グ リ ム の 構
図
( a ) 現 場
( b ) 登
人 物
場
『 聖 ル ー ド ヴ ィ ヒ 伝 』
Ⅰ . 5 . ヘ ル マ ン 方 伯 の 館 で 名 人
の 位 [ me i s t e r s c h a f t ] を 競 う 6
人 の 歌 人 [ s p r e c h e r n ] に つ い
て 。 彼 ら に 加 え て ハ ン ガ リ ー の 名
人 ク リ ン グ ゾ ー ル [ me i s t e r
C l i n g e s o r ] も ア イ ゼ ナ ハ に 来
た 。
キ リ ス ト 生 誕 後 1 2 0 7 年 、 ヘ ル マ
ン 方 伯 の 館 に 6 人 の 家 臣 が い
た 、 彼 ら は 詩 作 に お い て 熟 達
し 、 つ ね に 宮 廷 風 の 歌 の 技 を 競
っ て い た 。
そ の 一 人 は ハ イ ン リ ヒ と い う 名 の
書 記 、 他 の 一 人 は ヴ ァ ル タ ー ・ フ
ォ ン ・ デ ァ ・ フ ォ ー ゲ ル ヴ ァ イ デ 、 第
三 に は ラ イ ン ハ ル ト ・ フ ォ ン ・ ツ ヴ ェ
チ ェ ン 、 第 四 に は ヴ ォ ル フ ラ ム ・ フ
ォ ン ・ エ ッ シ ェ ン バ ッ ハ 。 第 五 に は
ビ ー テ ロ ル フ 、 第 六 に は ハ イ ン リ
ヒ ・ フ ォ ン ・ オ フ タ ー デ ィ ン ゲ ン 。
130
『 ロ ー テ の 聖 エ リ ー ザ ベ ト 伝 』 に よ る
補 完 箇 所
第 3 章
そ の こ ろ ヴ ァ ル ト ブ ル ク に
い た 6 人 の 歌 の 名 人 [ me i s t e r
s e n g e r n ] に つ い て
「 キ リ ス ト 生 誕 後 1 2 0 7 年 と 記 さ れ
る 頃 、 ア イ ゼ ナ ハ の 町 の ほ ど 近 く 、
テ ュ ー リ ン ゲ ン の ヴ ァ ル ト ブ ル ク に
… 」 ( 2 1 5 - 2 1 8 )
「 う ち 四 人 は 領 主 の 館 に 属 し て い
た が 、 い ち ば ん 身 分 の 高 い も の は
書
記
ハ イ ン リ ヒ [ H e i n r i c h
S c h r i b e r ] と い い 、 あ ら ゆ る 宮 廷
風 文 化 の 真 の 鼓 舞 者 だ っ た 。 も
う 一 人 は フ ォ ー ゲ ル ヴ ァ イ デ の ヴ ァ
ル タ ー と い い 、 こ の 二 人 は 共 に 騎
士 [ r i t t e r e ] だ っ た 。 ま た 一 人 は
ツ ヴ ェ チ ェ ン の ラ イ ン ハ ル ト と い っ
て 、 騎 士 の 身 分 で あ っ た 。 エ ッ シ
ェ ン バ ッ ハ の ヴ ォ ル フ ラ ム も 同 様
で 、 宮 廷 風 の 詩 を 多 く 作 っ た 。 ア
イ ゼ ナ ハ の 市 民 [ b u rg e r ] 二 人 も
歌 を 作 る 心 得 が あ り 、 そ の 一 人 は
歌 う こ と の 上 手 な ビ ー テ ロ ル フ 、 他
の 一 人 は オ フ タ ー デ ィ ン ゲ ン の ハ イ
ン リ ヒ 。 か れ ら 六 人 は 、 詩 作 の 名
人
だ
っ
た
[ m e i s t e r
z u
t i c h t e n ] 。 」 ( 2 2 2 - 2 3 5 )
「 そ れ ら の 歌 を 今 で も よ く 知 っ て い
る 人 が お り 、 ヴ ァ ル ト ブ ル ク の 合 戦
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
( c ) 歌 合
戦 の 勝 負
( d ) 再
要 求
審
( e ) 探
へ
索
( f ) 探
の 旅
索
( g ) 出
い
会
( i ) ハ イ ン
こ の 人 は 一 人 で 他 の す べ て を 相
手 に 戦 い を い ど み 、 ヘ ル マ ン 方
伯 よ り も オ ー ス ト リ ア 公 を 高 く 称
賛 し 、 オ ー ス ト リ ア 公 を 彼 の 詩 の
中 で 輝 く 太 陽 に た と え た 。 そ れ に
対 し て 他 の 五 人 は ヘ ル マ ン 方 伯
を 賛 美 し 彼 を 明 る い 夜 明 け に た
と え た 。 彼 ら は 共 々 真 剣 に な り 、
負 け た 方 は 死 刑 に さ れ る べ き だ と
取 り 決 め た 。 そ こ で 刑 吏 が 手 に
綱 を も っ て や っ て 来 た 。 彼 ら の 敵
意 は 増 大 し 、 五 人 は 偽 り の 奸
計 を も っ て 、 名 人 の 位 を 得 る に し
ろ 失 う に し ろ 、 さ い こ ろ で 勝 負 し よ
う と 計 画 し た 。 そ し て 五 人 は 刑
吏 の い る 前 で 、 偽 り の さ い こ ろ で
ハ イ ン リ ヒ ・ フ ォ ン ・ オ フ タ ー デ ィ ン
ゲ ン か ら 名 人 の 位 を 奪 っ た
ハ イ ン リ ヒ は 事 態 を 見 て と る や 、
方 伯 夫 人 ゾ フ ィ ア の マ ン ト の 下
に 救 い を 求 め た 。 そ の 時 彼 は ク リ
ン グ ゾ ー ル 名 人 の 名 を 持 ち 出 し
た 。 五 人 も そ れ に 応 じ た 。
ク リ ン グ ゾ ー ル が ど ち ら の 側 に 軍
配 を あ げ よ う と も 負 け た 側 を 綱 で
裁 く と い う こ と に な っ た 。 ク リ ン グ ゾ
ー ル を 迎 え に 行 く た め に 一 年 の
猶 予 が 与 え ら れ た 。
そ こ で ハ イ ン リ ヒ ・ フ ォ ン ・ オ フ タ ー
デ ィ ン ゲ ン は オ ー ス ト リ ア へ 向 か
い 、 彼 が か つ て そ の 人 の 賛 美 の
歌 を 歌 っ た オ ー ス ト リ ア 公 に 丁 重
に 迎 え ら れ 、 贈 り 物 を た っ ぷ り も ら
っ た 。 と く に オ ー ス ト リ ア 公 は 彼 に
ク リ ン グ ゾ ー ル あ て の 推 薦 状 を 与
え た 。 ク リ ン グ ゾ ー ル は そ の 頃 ハ ン
ガ リ ー の ジ ー ベ ン ビ ュ ル ゲ ン に 居 を
構 え 、 毎 年 三 千 マ ル ク の 報 酬 を
得 て 豊 か に 暮 ら し て い た 。 彼 は ま
た 俊 敏 な 哲 学 者 で 世 俗 的 な
技 に も 通 暁 し た 学 者 で あ っ た 。
特 に 彼 は 天 文 学 と 魔 術 に 通 暁
し て い た 。 こ の 人 の 所 へ ハ イ ン リ
ヒ ・ フ ォ ン ・ オ フ タ ー デ ィ ン ゲ ン は オ
ー ス ト リ ア 公 の 推 薦 状 を も っ て や
っ て 来 て 、 来 訪 の わ け を 説 明 し
た 。
ク リ ン グ ゾ ー ル は 彼 に 色 好 い 返
事 を し た が 、 判 決 を 下 す べ き 日
の 前 の 板 に な る ま で ぐ ず ぐ ず と ヴ ァ
ル ト ブ ル ク に 行 く の を 引 き 延 ば し
た 。 そ の た め オ フ タ ー デ ィ ン ゲ ン は
非 常 に 不 安 に な っ た 。 彼 ら 二 人
は 魔 術 に よ っ て 夜 の 間 に ハ ン ガ リ
ー か ら ア イ ゼ ナ ハ へ 急 行 し 、 ヘ レ
グ レ ー フ ェ と い う 名 の 市 民 の 家 に
来 た 。 こ う し て ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人
は 歌 人 た ち を 裁 く た め に テ ュ ー リ
ン ゲ ン に や っ て 来 た の で あ っ た 。
➡ ⒤ ハ イ ン リ ヒ の 帰 還 の 報 せ の 欠
131
[ k r i g v o n Wa r t p e rg ] と 呼 ん で
い る 。 」 ( 2 4 7 - 2 4 8 )
「 彼 ら は 聖 書 の あ ら ゆ る 箇 所 か ら
題 材 を 得 て 宮 廷 風 の な ぞ な ぞ
[ r e t s a l ] も 歌 っ た が 、 で も 学 識 は
全 く な か っ た 。 」 ( 2 4 9 - 2 5 1 )
「 そ の な ぞ な ぞ を も っ と も よ く 解 き 得
た 者 が 、 そ こ に 居 合 わ せ る 者 の 中
で 最 良 の 人 と い う 栄 誉 を 勝 ち 得
た の だ っ た 。 」 ( 2 5 3 - 2 5 6 )
「 か れ ら は 、 こ の 市 民 風 情 [ d e r
u n t u c h t u g e b u rg e r e ] が つ ね づ
ね 自 分 た ち に 敵 対 し て 歌 う こ と
で 、 彼 を ひ ど く 憎 み 、 な ん と か 彼 の
生 命 を う ば う こ と は で き ぬ も の か と
考 え る よ う に な っ た 。 」 ( 2 6 7 - 2 7 2 )
「 ハ イ ン リ ヒ が 方
で 逃 げ て き て 、
に も ぐ り こ ん だ と
っ て か ら か う 者
( 3 0 9 - 3 1 2 )
伯 夫 人 の と こ ろ ま
婦 人 の マ ン ト の 下
き 、 そ れ を ひ ど く 笑
も 何 人 か い た 。 」
第 4 章
ハ ン ガ リ ー の ク リ ン グ ゾ ー
ル を 迎 え に い っ た こ と
「 彼 ほ ど 七 自 由 科 [ s i b e n f r i e n
k u n s t e n ] に 通 暁 し た 者 は ど こ に
も い な か っ た の で 、 彼 は ハ ン ガ リ ー
の 国 で 国 王 に き わ め て 厚 く 遇 せ ら
れ る よ う に な っ た 。 彼 は ク リ ン グ ゾ ー
ル 名 人 [ me i s t e r
C l i n g s o r ] と
呼 ば れ 、 国 王 か ら 毎 月 黄 金 一 マ
ル ク の 禄 を 受 け て い た 。 彼 は 途 方
も な く 賢 い 男 で 、 占 星 術
[ g e s t e r n i s ] の 心 得 が あ り 、 未 来
の こ と を 予 言 し た り 、 国 内 の 動 静
を 言 い あ て た り し た 。 魔 法
[ s w a r z e n
k u n s t ] を 使 う 能 力 も
あ り 、 そ れ に よ っ て 、 国 王 や 廷 臣
や そ の 他 の 人 々 の 寵 を 得 て い た 。
彼 は 聖 書 の 解 釈 を よ く な し 得 る
男 で あ っ た 。 」 ( 3 3 0 - 3 4 4 )
第 5 章
ク リ ン グ ゾ ー ル が 一 夜 の う
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
リ ヒ の 帰
還 の 報 せ
落
( j ) 予 言
Ⅰ . 6 . ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 が ル ー
ド ヴ ィ ヒ 方 伯 と 聖 エ リ ー ザ ベ ト の
婚 約 を 予 言 し た こ と に つ い て
こ う し て ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 は ア
イ ゼ ナ ハ に 来 て 方 伯 の 前 に 参 上
す る こ と に な っ た 。
彼 は あ る 晩 宿 の 前 に 座 り 、 天
の 星 を 観 察 し て い た 。 そ の 時 居
合 わ せ た 人 々 は 、 何 か 珍 し い 不
思 議 な こ と を 天 の 星 に 見 つ け た
か ど う か と 彼 に 尋 ね た 。 彼 は 次 の
よ う に 答 え た 、 「 諸 君 、 ハ ン ガ リ ー
王 に 一 人 の 姫 君 が 今 晩 生 ま れ
る 。 そ の 姫 君 は エ リ ー ザ ベ ト と 命
名 さ れ 聖 別 さ れ る で あ ろ う 。 ま た
姫 君 は ヘ ル マ ン 方 伯 の 若 君 の
妃 と な り 、 そ の 称 賛 さ れ る べ き 聖
な る 生 命 に よ っ て 、 全 世 界 、 特
に こ の 国 の 人 々 が 喜 び と 希 望 を
得 る こ と に な る で あ ろ う 。 」
さ て 、 主 な る 神 は 自 分 の 聖 な る
誕 生 の 神 秘 を 異 教 の 予 言 者
バ ラ ー ム に よ っ て 予 言 さ せ 給 う た
が 、 今 度 は 、 神 の 選 ば れ た る し も
べ で あ る 聖 エ リ ー ザ ベ ト の 誕 生 と
名 前 を ク リ ン グ ゾ ー ル が 予 言 す る
こ と を 望 み 給 う た の で あ っ た 。
当 時 ア ン ド レ ア ス 王 が ハ ン ガ リ ー
を 統 治 し て い た 。 そ の 王 妃 は ケ ル
ン テ ン 公 の 娘 ゲ ル ト ル ー ト で あ っ
た 。 こ の 妃 は 予 言 ど お り 一 人 の
姫 君 を 生 ん だ 。 そ の 姫 君 は 王 の
一 族 の ほ ま れ で あ っ た 。 彼 女 は キ
リ ス ト 生 誕 後 1 2 0 7 年 に 洗 礼 を
受 け エ リ ー ザ ベ ト と 命 名 さ れ た 。
そ の 後 ま も な く 神 の 思 召 し に よ り
選 ば れ た る 聖 エ リ ー ザ ベ ト は 、 ヘ
ル マ ン 方 伯 の 長 男 ル ー ド ヴ ィ ヒ と
婚 約 し た の で あ る 。 そ れ は こ の 高
貴 な 乙 女 が ま だ 乳 飲 み 子 の 時
で あ っ た 。
方 伯 の 宴 会 の 欠 落
( k ) 方
伯
ち に ハ ン ガ リ ー の ジ ー ベ ン ビ ュ ル ゲ
ン か ら ア イ ゼ ナ ハ に 連 れ て 来 ら れ た
こ と
「 オ フ タ ー デ ィ ン ゲ ン の ハ イ ン リ ヒ が
名 人 を 連 れ て や っ て 来 て い る - し
か も そ れ は 昨 夜 の こ と だ - と い う 知
ら せ は 、 た だ ち に ヴ ァ ル ト ブ ル ク に も
た ら さ れ た 。 騎 士 た ち は 城 か ら 出
て 来 て 、 名 人 を 慇 懃 に 出 迎 え
た 。 正 真 正 銘 見 た と お り の 話 だ
が 、 名 人 に は た い そ う な 贈 物 も な
さ れ た の で あ っ た 。 人 々 は か れ ら 二
人 に 、 昨 日 の 夜 あ る い は 晩 は 、 ど
こ に お ら れ た の で す か と 尋 ね た 。 そ
こ で オ フ タ ー デ ィ ン ゲ ン の ハ イ ン リ ヒ
は 言 っ た 。 「 眠 り に つ い た の は ジ ー
ベ ン ビ ュ ル ゲ ン だ っ た の で す が 、 今
朝 、 ミ サ の 時 刻 に は こ こ に 来 て い
た の で す 。 ど う し て そ う い う こ と に な っ
た の か 、 私 に は 皆 目 わ か り ま せ
ん 。 」 」 ( 4 9 1 - 5 0 4 )
132
第 6 章
ク リ ン グ ゾ ー ル が 聖 エ リ ー
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
の 宴 会
( l ) 2 人 の
歌 合 戦
ザ ベ ト の 誕 生 と 方 伯 の 息 子 と の
婚 約 を 予 言 し た こ と
Ⅰ . 7 . ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 が エ ッ シ
ェ ン バ ッ ハ の ヴ ォ ル フ ラ ム と 技 を 競
い 、 そ の 後 ハ ン ガ リ ー に 帰 っ た こ と
に つ い て
133
同 宿 の 方 伯 の 家 臣 か ら 予 言 を
聞 い た 方 伯 ヘ ル マ ン は 、 ク リ ン グ ゾ
ー ル を ヴ ァ ル ト ブ ル ク 城 に 宴 会 に
招 く 。 そ こ で 方 伯 は 彼 に 政 治 情
勢 に つ い て 聞 く 。
「 か れ ら は こ の 話 ( ク リ ン グ ゾ ー ル
の 予 言 ) を 聞 い た 翌 朝 、 ヴ ァ ル ト
ブ ル ク に 向 か っ た が 、 ち ょ う ど ヘ ル マ
ン 方 伯 は 身 仕 度 を と と の え て ミ サ
を 聞 き に 行 こ う と す る と こ ろ で あ っ
た 。 か れ ら は 方 伯 を 妨 げ た く な か っ
た の で 、 方 伯 と と も に ミ サ に 出 か け
た 。 ミ サ が 終 わ っ た あ と で か れ ら は 、
ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 か ら 聞 い た あ の
言 葉 を す べ て 方 伯 に 語 っ た 。 か れ
ら が 名 人 と と も に 庭 に 座 っ て い た と
き に 聞 い た あ の 話 で あ る 。 名 人 は
真 夜 中 近 く ま で 熱 心 に 星 を 観
察 し た あ と 、 将 来 こ れ こ れ し か じ か
の こ と が 起 こ る だ ろ う と 、 か れ ら に 真
実 を 話 し て く れ た の だ 、 と 。 こ れ を
聞 い て 方 伯 は ひ ど く 驚 い た が 、 城
内 の 家 臣 一 同 も 同 様 で あ っ た 。
将 来 こ の よ う な こ と が 起 こ り 、 こ の よ
う な 神 の お 恵 み を 授 か る で あ ろ う と
い う 話 を 聞 い た 人 々 は み な 、 そ れ
ゆ え に 全 能 の 神 を た た え た 。 方 伯
は 馬 に ま た が り 、 家 臣 一 同 を 従 え
て 、 ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 を 出 迎 え
に 行 っ た 。 僧 侶 た ち は 、 こ の 名 人
が ま る で 大 僧 正 で で も あ る か の よ う
に 、 う や う や し く も て な し た 。 名 人 の
た め に 、 十 分 の 人 数 の 従 者 を 連
れ て こ な け れ ば な ら な か っ た 。
方 伯 は 名 人 と 歓 談 し た 。 そ し て 、
ヴ ァ ル ト ブ ル ク に お い で に な っ て 、
城 を ご ら ん く だ さ い 、 食 事 を と も に
し て く だ さ い 、 こ の こ と を お 忘 れ に な
り ま せ ん よ う に 、 と 名 人 に 請 う た 。
喜 ん で そ う い た し ま し ょ う と 、 名 人
は 答 え た 。 翌 朝 早 く ク リ ン グ ゾ ー ル
名 人 は ヴ ァ ル ト ブ ル ク に お も む い
た 。 方 伯 は 、 彼 を 温 か く 迎 え 入
れ 、 た く さ ん の ご ち そ う で 敬 意 を 表
し た 。 食 事 を し た あ と も 、 し ば ら く の
間 は 席 を 立 た ず 、 名 人 は 方 伯 と
語 り 合 っ た 。 ハ ン ガ リ ー の 情 勢 は
ど う な っ て い る か 、 王 は 何 を す る お
つ も り か 、 異 教 徒 た ち と 和 平 を 結
ば れ た の か 、 そ れ と も ま だ 戦 争 を し
て お ら れ る の か ど う か 、 と い ろ い ろ と
思 い を め ぐ ら し た 。 方 伯 の 尋 ね た
こ と に 、 名 人 は 残 り な く 答 え た 。 彼
は い と ま ご い を し て 、 食 堂 を 出 、 騎
士 の 館 に 入 っ て 行 っ た 。 」
( 5 4 3 - 5 9 4 )
第
7 章
ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 が オ
フ タ ー デ ィ ン ゲ ン の ハ イ ン リ ヒ を そ の
歌 の 件 か ら 無 罪 放 免 に し た こ と
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
( m) 学
判 定
識
( n ) 悪 魔
と の 再 戦
そ の 同 じ 頃 に ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人
は ヴ ァ ル ト ブ ル ク の 館 で ヴ ォ ル フ ラ
ム ・ フ ォ ン ・ エ ッ シ ェ ン バ ッ ハ と の 歌
合 戦 を 開 始 し た 。 ク リ ン グ ゾ ー ル
名 人 は 彼 を 打 ち 負 か す こ と が で
き な か っ た の で 、 英 知 と 技 能 の
点 で ヴ ォ ル フ ラ ム に ま さ っ て い る 他
の 名 人 を 代 わ り に 連 れ て 来 る こ
と を 約 束 し た 。 そ こ で ク リ ン グ ゾ ー
ル に 呼 び 出 さ れ た 悪 魔 は 人 間
の 姿 で 城 門 を た た い た 。 方 伯 は
彼 を 中 に 入 れ る よ う に と 命 じ 、 ヴ
ォ ル フ ラ ム と 論 争 す る こ と を 許 し
た 。 最 初 に 語 っ た の は 悪 魔 で あ
っ た 。 彼 は 天 地 開 闢 か ら キ リ ス ト
生 誕 ま で に 起 こ っ た す べ て の 出
来 事 を 語 っ た 。 そ れ に 対 し て ヴ ォ
ル フ ラ ム ・ フ ォ ン ・ エ ッ シ ェ ン バ ッ ハ
は 、 永 遠 の 言 葉 で あ る 神 が 我 々
人 類 の 救 済 の た め に 人 の 姿 を
お と り に な っ た と い う 神 の 慈 愛 に
つ い て 語 り 始 め た 。 特 に 聖 な る ミ
サ の 秘 蹟 に 説 き 及 び 、 聖 な る ミ
サ の 一 つ 一 つ を 余 す と こ な く 解
釈 し た 。 そ し て つ い に 、 永 遠 の 父
の 叡 知 で あ る キ リ ス ト が 自 ら 語 り
給 う た 崇 高 な 力 強 い 言 葉 に 説
き 及 び 、 そ の 言 葉 と 共 に ま た パ ン
と 葡 萄 酒 は 肉 と 血 に 変 化 給 う
た と 語 っ た 。 ま た か つ て 一 度 キ リ
ス ト は 全 世 界 の 罪 を あ が な う た め
に 、 天 な る 父 に 汚 れ な き い け に え
と し て 自 ら を 捧 げ て 十 字 架 に か
か り 給 う た が 、 そ の よ う に し て 各 人
の 罪 を 償 う た め に 、 自 ら を 犠 牲
に し 給 う た お 方 の 言 い つ く し が た
い 愛 の し る し で あ る 日 々 の 聖 な る
ミ サ の 行 事 に つ い て 説 き 進 め た 。
崇 高 な テ ー マ が こ の 慈 愛 に 満 ち
た 言 葉 で 語 ら れ る の を 聞 い て 、
悪 魔 は 邪 悪 さ ゆ え に い た た ま れ
な く て 遁 走 し た 。 ク リ ン グ ゾ ー ル 名
人 は 、 自 分 の 技 術 が 全 然 役 立
た な い の を 見 た 時 、 恥 じ 入 っ て そ
こ か ら 立 ち 去 っ た 。 こ の よ う に し て
ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 は ヴ ォ ル フ ラ ム
に 打 ち 負 か さ れ た の で あ る 。
ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 は そ れ だ け で
は お さ ま ら ず 、 ヴ ォ ル フ ラ ム に 学 識
が あ る か ど う か 知 る た め に 、 も う 一
度 彼 の も と に そ の 悪 魔 を お も む か
せ た 。
悪 魔 は あ る 夜 、 ヴ ォ ル フ ラ ム が ア
イ ゼ ナ ハ で ゴ ッ ト シ ャ ル ク と い う 名
の 家 で 眠 っ て い た 時 に や っ て 来
た 。 そ し て 彼 に 天 体 と 星 と 7 つ の
惑 星 の 性 質 に つ い て 質 問 を あ
び せ た 。 し か し 、 ヴ ォ ル フ ラ ム は 全
然 答 え な か っ た 。 そ れ で 悪 魔 は
大 き な 音 を た て て 、 「 あ い つ は 無
学 者 [ l e i e ] だ 、 あ い つ は 無 学 者
だ 。 」 と 叫 び 、 館 の 壁 に そ れ を 書
134
「 一 方 、 ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 は 、 ヴ
ォ ル フ ラ ム が こ の よ う に 巧 み に 語 る
の を 聞 い て 、 こ の 男 は よ ほ ど の 学
者 に 違 い な い と 思 っ た が 、 ひ と に は
言 わ な か っ た 。 も し ヴ ォ ル フ ラ ム が
無 学 者 で は な い と す れ ば 、 そ の 称
賛 は ま す ま す 高 ま る こ と に な る か ら
だ っ た 。 」 ( 6 4 3 - 6 4 8 )
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
( o ) 悪
の 痕
魔
( p ) 後
談
日
き つ け た
( o ) 悪 魔 の 痕 の 欠 落
「 そ の 暖 炉 部 屋 に は 誰 も 入 ろ う と
は し な か っ た が 、 誰 も が そ の 奇 跡 を
見 た が っ た 。 ( ま る で 練 り 粉 に 指 で
書 い た よ う な そ の 筆 跡 を 今 で も 示
す こ と が で き た だ ろ う に ) 。 そ れ を 見
よ う と 思 う 者 は 、 明 か り を か か げ な
く て は な ら な か っ た が 、 そ の こ と で 主
人 は す っ か り 腹 を た て 、 壁 を こ わ し
て そ の 石 を と り 除 か せ る と 、 水 中 に
捨 て さ せ て 、 も う 誰 も そ の 石 に 触
れ る こ と が で き な い よ う に し て し ま っ
た 。 」 ( 6 8 3 - 6 9 2 )
そ の こ と が あ っ た 時 、 ヘ ル マ ン 方
伯 は ク リ ン グ ゾ ー ル 名 人 に テ ュ ー
リ ン ゲ ン に と ど ま る よ う に 懇 請 し 、
贈 り 物 を 与 え よ う と し た 。 し か し 、
ク リ ン グ ゾ ー ル は 無 学 者 に 負 け た
こ と を 恥 じ て と ど ま ろ う と は し な か っ
た 。 そ れ で 彼 は 再 び ジ ー ベ ン ビ ュ
ル ゲ ン へ 帰 っ た 。
(ii)「〈君 主 賛 歌 〉と〈なぞなぞ〉」[(a)]
と「『聖 ルード
ヴィヒ伝 』と『ローテの聖 エリーザベト伝 』」[(b)]
ローテによる脚 色 は別 の原 典 を足 すほどのものではないとい
う前 提 のもとで、「〈君 主 賛 歌 〉と〈なぞなぞ〉」[(a)]
と「『聖 ル
ードヴィヒ伝 』と『ローテの聖 エリーザベト伝 』」[(b)]の記 述 につ
いて比 較 してみたい。
前 半 の歌 合 戦 について、論 争 詩 (a)の中 立 性 に比 べ、伝
記 (b)のふたつの資 料 のハインリヒへの肩 入 れに変 化 が見 られ
る。つまり 1206 年 から 1207 年 に話 を引 っ張 らねばならなかっ
た事 情 、そして当 然 クリングゾールの予 言 の挿 入 の必 要 が大
きい原 因 となっている。つまり、(b)における予 言 の挿 入 は、ヴ
ァルトブルク歌 合 戦 が
1207
年 へまたいでの開 催 の必 然 から
生 じた措 置 であり、歌 合 戦 と聖 女 誕 生 という2つの事 件 の融
合 のためのはめ込 みの方 便 である。一 方 で、クリングゾールに
限 らず、ハンガリー王 アンドレアスから生 まれたばかりの王 女 エ
リーザベトと、ヘルマン方 伯 の長 男 ルードヴィヒの婚 約 の締 結
を求 める使 者 が 1207 年 にヴァルトブルクを訪 れた可 能 性 が、
クリングゾール訪 問 に結 びついているかもしれない。そしてその
事 実 が、聖 女 伝 説 とも相 重 なって、後 世 には「使 者 や予 言
者 の物 語 」の体 をなしたのではという推 測 も成 り立 つ。
(a)のクリングゾールとヴォルフラムの論 争 詩 の〈なぞなぞ〉に
比 べ、(b)における悪 魔 とヴォルフラムの歌 合 戦 には、宗 教 的
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
主 題 の強 烈 さが窺 える。たとえば、クリングゾール側 の敗 北 の
明 記 と代 役 の悪 魔 の参 入 などは、〈なぞなぞ〉には見 られない。
〈なぞなぞ〉に比 しての宗 教 的 説 教 臭 さは、『アポルダの聖 エリ
ーザベト伝 』に由 来 する特 徴 である。さらに、後 半 でのクリング
ゾールとハインリヒのアイゼナハの宿 「ヘレグレーフェ」に対 して
ヴォルフラムの宿 「ゴットシャルク」というように「地 獄 」と「神 」の
隠 喩 で、両 者 の善 悪 の背 景 を語 らせる多 少 強 引 に思 える
手 法 も見 られる。
〈なぞなぞ〉にも顕 著 な占 星 術 の学 識 については、悪 魔 と
信 仰 の知 識 のみのヴォルフラムと対 比 させる立 場 として、(b)
においては博 学 だがクリングゾールに異 教 的 あるいは魔 術 師
といった反 宗 教 性 をもたせることで強 化 させている。しかし、聖
女 の予 言 者 でもあるクリングゾールを完 璧 に断 罪 するわけにも
いかず、異 教 の予 言 者 バラームとクリングゾールの比 肩 や、ク
リングゾール本 人 ではなく呼 び出 した悪 魔 に対 戦 させるという
逃 げ道 も設 定 されている。つまり、ドメニコ会 士 アポルダに由
来 する聖 女 崇 拝 と、非 キリスト教 的 存 在 としての「クリングゾー
ル=楽 師 」的 なるものへの断 罪 の矛 盾 が解 決 せぬまま、ない
まぜとなって伝 説 は作 られた。歌 人 の要 件 とは誠 実 なキリスト
者 であろうとするこれらの構 図 の背 景 には、現 実 にはそうとは
いえなかった歌 人 や楽 師 に対 する非 難 めいたものが感 じられ
まいか。楽 師 に限 らず歌 舞 音 曲 に従 事 するものである宮 廷
歌 人 (吟 遊 詩 人 )も、出 自 が騎 士 や従 士 であっても無 学 であ
るとし、第 一 の歌 人 ヴォルフラムですら「信 心 」のみの有 無 で
判 断 されてさえいる。年 代 記 者 であった聖 職 者 ・修 道 会 士
によるイメージ操 作 がそこには見 られる。14
世 紀 は騎 士 道 文
芸 の時 代 でもあり、騎 士 道 の理 想 をなんとかキリスト的 倫 理
観 に導 こうとする修 道 会 士 たちの意 図 でもあろう。
その結 果 、(a)に比 べて(b)では前 半 と後 半 の物 語 の「トー
ン」が異 なる印 象 としてあらわれ、無 理 に結 び付 けられたふた
つの物 語 の感 も否 めない。また論 争 詩 においても、なぜ、〈君
主 賛 歌 〉と〈なぞなぞ〉はひとつの伝 説 となったのか、もどのよう
な文 脈 でとらえればよいのであろう。そして、悪 魔 の使 い手 であ
るクリングゾールは、その学 識 (政 治 的 情 報 量 )ゆえに、方 伯
ヘルマンにも重 用 される。いずれにせよ、キリスト教 的 な学 識 の
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
埒 外 にいるクリングゾールとは何 者 かという疑 問 が増 す。そし
て、ヴォルフラムは、後 述 するが代 表 作 『パルチヴァール』にお
いてクリングゾールを登 場 させているのである。
歌 合 戦 伝 説 が、論 争 詩 に登 場 し、年 代 記 や聖 人 伝 に
採 り上 げられた 13 世 紀 から 14 世 紀 にかけては、中 世 ドイツ
文 学 において騎 士 道 を主 題 とした多 くの作 品 が生 み出 され
た。なかでも、〈君 主 賛 歌 〉にて第 一 のマイスターと讃 えられて、
〈なぞなぞ〉あるいは後 日 談 ではクリングゾールとその麾 下 の悪
魔 と対 戦 することになったヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ
の『パルチヴァール』には「クリンショール
る。「クリングゾール
Clinschor」が登 場 す
Klingsor」の原 型 なのであろうか。以 下 で
見 るが、年 代 記 や聖 人 伝 の元 になった原 典 があるとするなら
ば、パルチヴァールから原 典 Qへの影 響 の上 で伝 説 の重 要 な
登 場 人 物 が援 用 された可 能 性 もある。また、論 争 詩 〈君 主
賛 歌 〉、〈なぞなぞ〉のパフォーマンスのあり方 、これはミンネザン
クのパフォーマンスでもあるが、歌 人 と楽 師 の関 係 も踏 まえて、
そのなかで様 々な影 響 ・援 用 関 係 も想 定 できる。たとえば、ヴ
ァルトブルクで歌 われた歌 は、『イエーナ歌 謡 写 本 』(1330-40
年 代 )、『コルマール歌 謡 写 本 』(1470
年 代 )に旋 律 つきで
残 されている歌 のひとつかもしれない。一 方 、聖 人 伝 や年 代
記 は、語 られるもの・歌 われるものに対 して、ほんとうに読 まれる
「伝 記 」であったのだろうか。14 世 紀 以 降 の「伝 記 」が書 き残
されて編 纂 され成 立 していく理 由 は、読 まれるためであったの
か、語 られているものを残 すためであったのか。リテラシーの問
題 にも関 わるテーマであろう。
(3)歌 合 戦 写 本 の成 立
マネッセ歌 謡 写 本 などに残 された論 争 詩 と、伝 記 や年 代
記 として書 かれた伝 説 の原 典 を併 せて、ここでは歌 合 戦 写
本 として、その成 立 の経 緯 と相 互 関 係 について考 えてみたい。
論 争 詩 の成 立 については、前 掲 の岸 谷 敞 子 ・柳 井 尚 子 両
氏 によると、2つの伝 説 の成 立 仮 説 が提 示 されている。
第 一 仮 説 は、いくつかの「黒 い調 べ」が〈なぞなぞ〉になり、
一 方 でマネッセ写 本 のミニアチュールにみられるように最 初 に
ハンガリーのクリングゾールの存 在 があり、これに聖 エリーザベト
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
伝 の付 加 がされ、〈君 主 賛 歌 〉が成 立 したとする説 である。
第 二 仮 説 は、まず聖 エリーザベト伝 における学 者 ・魔 術 師
クリングゾールの伝 説 があり、その後 クリングゾールを加 えた〈な
ぞなぞ〉や〈君 主 賛 歌 〉といった一 連 の歌 合 戦 物 語 の成 立 を
見 たという説 である。
いずれにせよ、歌 合 戦 伝 説 の原 像 については、いずれもな
ぜ「1207 年 」かという特 定 年 号 の記 述 の問 題 が鍵 となる。歌
合 戦 は聖 エリーザベト誕 生 伝 説 と結 びつける必 要 があり、論
争 詩 では〈君 主 賛 歌 〉、〈なぞなぞ〉に挿 入 されていった。その
形 跡 は『聖 ルードヴィヒ伝 』の節 立 てや『ローテの聖 エリーザベ
ト伝 』の章 立 てといった構 成 に顕 著 に現 れる。伝 記 原 典 の
相 互 の関 係 に対 して、仮 に歌 合 戦 という事 実 があったならば、
原 典 Q に影 響 があったはずであり、〈君 主 賛 歌 〉、〈なぞなぞ〉
は少 なくとも①の『聖 ルードヴィヒ伝 』と相 互 に影 響 しあってい
た可 能 性 がある。【下 図 6 参 照 】
史
実
〈 君 主 賛 歌 〉〈 な ぞ な ぞ 〉
と し て の
マ ネ ッ セ 写 本 な ど に よ る
「歌 合 戦 」?
② ア ポ ル ダ 『 聖 エ リ ー ザ
ラ テ ン 語 原 典
① ド イ ツ 語 訳
ベ ト伝 』 (13 世 紀 末 )
Q ( 1 4 世 紀 )
『 聖 ル ー ド ヴ ィ ヒ 伝 』
① ‘ 『 ラ イ ン ハ ル ト ブ ル ン
年 代 記 』
③ 『 ロー テの聖 エ リ ーザベ ト伝 』
③ が 1 5 世 紀 以 降 いくつ かの年 代
記 など を経 てグリムの伝 説 へ
【図 6】
歌 合 戦 伝 説 の関 連
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
そして、グリムの「ヴァルトブルクの合 戦 」の直 接 の資 料 とな
ったのは、ローテの『テューリンゲン年 代 記 』中 の③「聖 エリーザ
ベト伝 」であるが、考 えねばいけない問 題 点 がある。極 めてまと
もなことだが、ヴァルトブルクの歌 合 戦 は実 際 にあった出 来 事
を物 語 化 したのか、まったくの架 空 の話 なのかという点 である。
これには、クリングゾールは実 在 した人 物 かという問 題 も考 え
ねばならない。次 章 では、実 在 したと思 われる歌 合 戦 の登 場
人 物 、テューリンゲンとヘッセンの方 伯 ヘルマンと方 伯 夫 人 ゾ
フィア、オーストリア公 レオポルド、さらにはクリングゾールの予
言 に示 された王 子 や王 女 の史 伝 を見 ることで、歌 人 たちの
実 在 性 と、歌 合 戦 の史 実 、伝 説 の生 成 について別 の面 から
考 察 していく。
Ⅲ ヴァルトブルクの 1200 年 代 ―ヴァルトブルクの歌 合 戦 の歴
史 的 背 景
1、伝 説 の道 具 立 て:聖 エリーザベト伝 説
(1)歴 史 上 の登 場 人 物 の史 伝
(i)
テューリンゲンとヘッセンの方 伯 ヘルマンと方 伯 夫
人 ゾフィア
興 味 深 いことに『グリム伝 説 集 』には歌 合 戦 の時 代 の前
後 の テュ ーリンゲ ン 方 伯 家 の 一 連 の 物 語 が 記 さ れてい る
*18)。ヴァルトブルク歌 合 戦 の領 主 ヘルマンは、伝 説 の年 号
を信 ずるならば、ルドヴィンガー家 のテューリンゲン方 伯 へルマ
ン1世 Hermann I. (Landgraf von Thüringen)とされよう。
ヘルマン 1 世 は、ザクセン選 帝 伯 位 でもあった兄 ルートヴィヒ 3
世 の 1190 年 の第 3 回 十 字 軍 での死 後 、方 伯 位 を継 承 す
る。先 立 つ 1182 年 にゾンマーエッシェンブルク家 のゾフィアと
最 初 の結 婚 をし、ユッタとヘドヴィヒの
1196
2
人 の娘 が生 まれる。
年 にバイエルンのゾフィアと再 婚 し、ヘルマン、ルートヴィ
ヒ、ハインリヒ・ラスペ、コンラートの息 子 たちとイルムガルト、アグ
ネスの娘 を得 た。後 妻 のゾフィアが歌 合 戦 に登 場 する方 伯
夫 人 である。
またヘルマンは、この時 代 のシュタウフェン家 とヴェルフェン
家 の抗 争 の渦 中 にあった。両 家 の領 袖 フリードリヒ 1 世 バル
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
バロッサ帝 とハインリヒ獅 子 公 が 1190 年 と 1195 年 に亡 くなっ
て後 も、抗 争 は息 子 たちのフィリップ・フォン・シュヴァーベンと
オットー4
世 に受 け継 がれ、両 者 はドイツ王 位 を争 った。ヘル
マンはこの間 に少 なくとも 7 回 も陣 営 を変 え、1211 年 にバル
バロッサの孫 のフリードリヒ 2 世 がドイツ王 位 獲 得 のために動 く
と支 持 に回 りシュタウフェン朝 に帰 属 した。文 化 史 では、パリ
を訪 れたことのあるヘルマンは、当 時 のフランス中 世 文 学 に接
し、トルバドゥールやトルヴェールの文 芸 をドイツに伝 えミンネジ
ンガーの文 芸 の庇 護 者 となったとされ、方 伯 の宮 廷 ではハイ
ンリヒ・フォン・フェデレケの『エネイーデ』やヴォルフラム・フォン・
エッシェンバハの『パルチヴァール』、『ヴィルハルム』などが創 作
されたといわれている。歌 合 戦 の舞 台 ヴァルトブルク城 がルドヴ
ィンガー家 の居 城 となったのも彼 の統 治 下 であった。1217 年
4 月 25 日 にヘルマンはゴータで没 し、アイゼナハの聖 カテリー
ナ修 道 院 に埋 葬 された。息 子 のルードヴィヒ 4 世 が後 を継 い
だ。
(ii)オーストリア大 公 レオポルド
歌 合 戦 の年 のオーストリア公 は、レオポルド 6 世 グローライヒ
ェであった。バーベンベルク家 のレオポルト
6
世 ( 1176
年
-1230 年 7 月 28 日 没 )は 1198 年 からその死 の 1230 年 ま
で公 位 に就 いている。第
3 回 十 字 軍 に従 軍 し、アッコンでイ
ングランド王 リチャード一 世 獅 子 心 王 と争 い、帰 国 の途 上 リ
チャードを捕 らえたオーストリア公 レオポルド 5 世 の末 子 であっ
たが、オーストリア公 位 とシュタイアーマルク公 位 の相 続 方 法
を定 めたゲオルゲンベルクの証 書 の決 定 に反 して、5
世 の死
後 、一 番 上 の兄 のフリードリヒ 1 世 がオーストリアを継 承 し、レ
オポルドがシュタイアーマルクを得 たが、4 年 後 の兄 フリードリヒ
の急 逝 により両 公 領 は統 合 され、レオポルドのものになった。
父 と同 じくレオポルド 6 世 は 2 度 の十 字 軍 と 1212 年 のアル
ビジョワ十 字 軍 に参 加 し、先 代 と同 じく修 道 院 を設 立 するこ
とで国 土 を開 拓 しようと努 めた。トライゼン河 畔 のリーリエンフ
ェルトの修 道 院 が有 名 で、同 地 に埋 葬 された。それと共 にフ
ランチェスコ会 やドミニコ会 といった托 鉢 修 道 会 も庇 護 した。
施 策 として新 都 市 の建 設 や、1212 年 のエンス、1221 年 のヴ
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
ィーンに、都 市 法 の付 与 も行 った。
彼 の治 下 、バーベンベルク家 のオーストリアは名 声 の頂 点
にあり、ビザンツ帝 国 の皇 女 テオドラ・アンゲロイと彼 との結 婚
もこの証 拠 であろう。歌 合 戦 伝 説 中 のハンガリアのクリングゾ
ールのとりなしも、このことが影 響 しているのであろうか。十 字 軍
をめぐる皇 帝 フリードリヒ2世 と教 皇 の不 仲 の仲 介 のために滞
在 中 のイタリアで、レオポルト 6 世 は 1230 年 に没 した。
文 化 史 上 の業 績 としては、しばしば宮 廷 を置 いたクロスタ
ーノイブルクに、ドナウ流 域 ではゴシックの影 響 を受 けた最 初
の建 築 物 スペチオーザ礼 拝 堂 を建 立 した。宮 廷 には、ヴァル
ター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ナイトハルト・フォン・ロイ
エンタール、ウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタインなどのミンネザ
ンクの作 者 が訪 れ、ドイツ中 世 文 学 の大 作 『ニーベルンゲン
の歌 』がここで書 かれたといわれている。
(iii)テューリンゲン方 伯 ルートヴィヒ4世
歌 合 戦 伝 説 ではクリングゾールに「方 伯 様 のご子 息 」とし
て予 言 された王 子 は、ヘルマン1世 の後 を継 いだルートヴィヒ
4 世 (1200 年 -1227 年 9 月 11 日 オトラント没 。テューリンゲ
1217 年 -1227
ン方 伯 、ザクセン選 帝 伯 在 位
年 )であろう。
彼 の人 生 は波 乱 に満 ちたものであった。ルートヴィヒは
1200
年 10 月 28 日 に方 伯 ヘルマン 1 世 の 3 人 の息 子 の次 男 と
してヴェッラ近 郊 クロイツブルク城 で生 まれた。長 子 が早 世 し
たため、1216
年 のヘルマンの死 によって後 継 者 となり、1217
年 にルートヴィヒは統 治 を開 始 した。若 年 ゆえ付 け込 まれるこ
とが多 く、マインツ大 司 教 と不 和 となり皇 帝 フリードリヒ2世 に
よる仲 介 をうけるなど初 期 の治 世 は不 安 定 であった。その中
で
1221
年 にハンガリア王 アンドレアス2世 の娘 エリーザベトと
結 婚 した。このエリーザベトがクリングゾールの予 言 の姫 君 であ
る。実 際 にはエリーザベトは兄 へルマンの許 婚 として 1211 年
にヴァルトブルク城 にやって来 て、方 伯 の宮 廷 で共 に少 年 時
代 を過 ごした仲 であった。1216
年 の兄 の死 によって、兄 の許
婚 と結 婚 することになったが、このことはこの時 代 特 に珍 しいこ
とではなかった*19)。エリーザベトはヘルマン(1222
年 生 )、ゾ
フィー(1224 年 生 )、ゲルトルート(1227 年 生 )の 3 人 の子 をも
141
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
うけた。後 述 するが、後 に彼 女 はテューリンゲンの聖 エリーザベ
トとして歴 史 に名 を残 す。
1221
年 にルートヴィヒの義 兄 マイセン辺 境 伯 ディートリヒが
死 ぬと、甥 の辺 境 伯 ハインリヒの後 見 人 となった。これは領 土
の拡 張 の好 機 であり、軍 事 的 圧 力 をかけニーダーラウディッツ
まで押 し出 したが、ハインリヒの母 でルートヴィヒの異 母 姉 ユッ
タの阻 止 にあった。だが、1226
年 には皇 帝 フリードリヒ2世 に
よってマイセン辺 境 伯 領 の不 慮 的 封 土 授 与 を受 けた。代 償
として十 字 軍 への参 加 を皇 帝 に約 束 せねばならなかった。
1227
年 にルートヴィヒはエルサレムに向 かう途 上 イタリア南 部
のオトラントでペストに罹 患 し没 した。遺 骸 はルドヴィンガー家
の墓 所 であるラインハルトブルン修 道 院 に埋 葬 された。テュー
リンゲン方 伯 の後 継 者 は公 式 には 5 歳 の息 子 へルマン 2 世
であったが、実 質 的 には弟 のハインリヒ・ラスペが担 った。彼 の
治 世 はテユーリンゲンのルドヴィンガー家 の最 盛 期 で、夭 折 に
より家 勢 は衰 退 に向 かった。
(2)「聖 女 伝 説 」:歌 合 戦 と聖 女 の誕 生
(i)テューリンゲン方 伯 夫 人 エリーザベト
さて、ルートヴィヒの妻 エリーザベトであるが、方 伯 夫 人 とし
て以 上 に中 世 では聖 女 として有 名 であった。聖 女 としては 11
月 19 日 の聖 日 を持 ち、「中 世 の著 名 な聖 人 のひとり。貧 者
と病 人 の救 済 者 として、テューリンゲンとヘッセンの守 護 聖 人 、
カリタス(慈 善 )、孤 児 と寡 婦 、病 人 、困 窮 者 、乞 食 、レース
編 み女 工 の守 護 聖 人 。図 像 では薔 薇 あるいはパンの籠 で表
され、また乞 食 にパンや魚 を与 える図 像 でも示 される。」と説
明 されている。
エリーザベトはハンガリア王 アンドレアス2世 とケルンテン=ア
ンデクスのゲルトルートの娘 として、1207
年 にハンガリーのサー
ロスパタクで生 まれた。ハンガリアの危 機 を回 避 するために子
供 時 代 に方 伯 の息 子 へルマンと婚 約 し、テューリンゲンに送
られた。しかしヘルマンが 1216 年 に死 んだ際 父 の方 伯 ヘルマ
ン一 世 は最 初 はエリーザベトをプレスブルクに戻 そうとしたが、
方 伯 の後 継 者 ルートヴィヒは彼 女 と恋 仲 であったこともあり帰
さず、1221
年 に方 伯 を継 いだルートヴィヒと結 婚 した。ルート
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
ヴィヒは彼 女 が宮 廷 の浪 費 への対 処 や貧 者 やライ病 患 者 へ
の支 援 が批 判 された際 にも支 持 した。テューリンゲンは東 部
の不 穏 な国 境 地 域 に多 くの問 題 を抱 えており、しかも
1227
年 にルートヴィヒが十 字 軍 の途 上 ペストで死 んだとき、3
人 の
息 子 の長 男 へルマン 2 世 方 伯 はまだ 5 歳 であった。そのため、
後 の大 空 位 時 代 の対 立 皇 帝 となる義 理 の弟 ハインリヒ・ラス
ペ 4 世 が摂 政 となり、ここから彼 女 の苦 難 の時 代 が始 まる。エ
リーザベトは、多 くの寄 進 を施 し伯 家 の財 政 に損 害 を与 えた
などという理 由 で、ハインリヒ・ラスペによってヴァルトブルク城 か
ら追 放 されたとも、彼 女 は嫉 妬 と猜 疑 心 に苛 まれ自 ら城 を去
ったともいわれている。
城 を去 ったエリーザベトはアイゼナハに住 居 を得 られず、叔
父 のバンベルク司 教 が身 元 を引 き受 けるまでしばし厩 に住 ん
でいたと言 われている。叔 父 司 教 は寡 となっていた皇 帝 フリー
ドリヒ 2 世 との新 たな縁 談 を持 ちかけたが、1228 年 に聖 フラン
チェスコ会 の第 三 会 に俗 人 入 会 をした。このあたりは貴 種 流
浪 譚 の常 套 であり、聖 女 伝 の脚 色 付 けであろう。実 際 にはエ
リーザベトは 3 人 の子 を連 れ、結 婚 にあたり夫 から贈 られた領
地 のあるヘッセンのマールブルクに移 住 した。1229 年 にマール
ブルク郊 外 に施 療 院 を設 立 した。そこをフランチェスコ施 療
院 と名 づけ、自 身 も世 話 人 として働 き慈 善 活 動 に励 むが、
病 人 や貧 者 の看 護 がたたって、あるいは苛 酷 な贖 罪 を課 さ
れたとも、1231 年 11 月 17 日 に 24 才 の若 さで没 する。4 年
後 の
1235
年 に列 聖 され、聖 女 となり、彼 女 の墓 のうえに今
日 のエリーザベト教 会 が建 立 された*20)。流 布 した彼 女 の奇
蹟 譚 によってマールブルク市 は当 時 ヨーロッパでサンチャゴ・
デ・コンポステラに次 ぐ最 も重 要 な巡 礼 地 となった。巡 礼 者 の
大 群 は聖 エリーザベト教 会 の墓 所 に押 し寄 せ、市 は潤 い人
口 も増 えヘッセン方 伯 の首 都 となった。
また、エリーザベトの夫 ルートヴィヒの属 していたドイツ騎 士
団 は彼 女 の施 療 院 を拡 張 し、1235 年 から 1283 年 にかけて
ドイツの最 初 のゴシック建 築 となる彼 女 に献 じた教 会 を建 設
した。この教 会 は今 日 でも教 区 の中 心 として活 動 しており多
くの芸 術 品 を維 持 している。宗 教 改 革 時 にプロテスタントに
転 じたヘッセン伯 フィリップは、宗 教 的 な求 心 力 を削 ぐために
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
聖 遺 物 であったエリーザベトの遺 骨 を
1539
年 に棺 から捨 て
去 った。それにもかかわらず、何 百 もの教 会 や多 くの修 道 会 、
施 療 院 が彼 女 の名 前 を冠 している。ヴィーンの聖 エリーザベト
女 子 修 道 院 や生 地 近 郊 のカーシャウなどに見 られる。
(ii)聖 エリーザベト伝 の脚 色 としてのヴァルトブルクの
歌 合 戦
以 上 のように、歌 合 戦 にまつわる史 伝 と、特 に聖 女 となり
えたハンガリーのエリーザベトの史 伝 を見 てくると、ヴァルトブル
クの歌 合 戦 伝 説 の成 立 においては、「クリングゾールの聖 エリ
ーザベト誕 生 の予 言 」こそ伝 説 の底 流 にある伝 えられるべき
物 事 ではなかったのかという仮 説 が提 示 されよう。すなわち、
「1207
年 」にハンガリーの王 女 エリーザベトが誕 生 したという
史 実 、そのため、1206
年 に歌 合 戦 が行 われ翌 年 に決 着 を
見 るという物 語 の設 定 がなされたのである。エリーザベトは
1211
年 テューリンゲンに連 れてこられ、歌 合 戦 の主 催 者 方
伯 ヘルマンの後 継 者 ルードヴィヒと 1221 年 に結 婚 する。ルー
ドヴィヒは 1227 年 に十 字 軍 途 上 にて没 するが、この 1228 年
の第
6 回 十 字 軍 は、イスラムと協 調 路 線 を取 り教 皇 と対 立
する皇 帝 フリードリヒ 2
世 が、外 交 的 手 腕 によりエルサレムに
無 血 入 城 した十 字 軍 であった。皇 帝 の拠 点 シチリアは地 中
海 を内 海 とする東 西 文 明 の十 字 路 であり、文 芸 の地 でもあ
った。その後 、皇 帝 派 と教 皇 派 の政 争 はイタリアのみならずド
イツをも巻 き込 んでいくのであるが、そのなかでエリーザベトはマ
ールブルクに救 貧 院 を設 立 、清 貧 のうちに
1231
年 没 し、
1235 年 に異 例 の速 さで列 聖 される。
このような時 代 にあってエリーザベトは、「思 惑 」によって聖
女 として祭 り上 げられ、聖 女 伝 説 が流 布 されていく。たとえば、
方 伯 ルートヴィヒの留 守 中 エリーザベトは、ハンセン病 者 を看
病 しようと、病 人 を夫 の寝 台 に寝 かせた。これを見 た夫 の母
親 (ゾフィア)は怒 って、息 子 にこの件 を告 げた。方 伯 が確 か
めようと布 団 の下 を見 たら、病 人 ではなく磔 刑 のイエスがそこ
に横 たわっていた。あるいは、人 々が飢 えて難 儀 していた時 、
彼 女 は城 の蔵 からパンを持 ち出 しては町 に運 んでいた。飢 饉
の年 だけに、城 内 から非 難 の声 があがった。夫 は周 囲 からけ
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
しかけられ、今 日 もたっぷり詰 め込 んだパンを届 けようとするエ
リーザベトに山 の麓 で、蓋 のついたバスケットの中 身 を見 せるよ
うにと叫 んだ。彼 女 は神 に祈 りながら、蓋 を開 けざるを得 なか
った。するとバスケットのなかのパンは、ひとつのこらず薔 薇 の花
になっていたという。そのため、聖 女 エリーザベトのアトリビュート
は、13、14
世 紀 には、書 物 、教 会 の模 型 、出 自 の王 侯 身
分 を表 す笏 を手 に持 ち、聖 性 を表 す冠 を被 る姿 であらわされ
たが、後 には伝 説 の流 布 に応 じて、貧 者 への慈 善 心 の表 現
である白 パンやパンを入 れた篭 、乾 いた人 に飲 ませる瓶 、ハン
セン病 者 の髪 を梳 く櫛 、薔 薇 、が徴 とされた。
列 聖 し伝 説 化 した「思 惑 」の背 景 は、いわば聖 女 エリーザ
ベトの裏 面 といった切 り口 でも語 られよう。渡 邊 昌 美 氏 は『異
端 審 問 』で、おそらくは『ウォルムス年 代 記 』の記 述 を引 き、
聖 女 エリーザベトと異 端 審 問 官 の菅 家 に言 及 している。「苛
酷 な異 端 審 問 を行 なった聖 職 者 コンラート・フォン・マールブ
ルクに、師 事 したのが後 の聖 女 、宮 中 伯 ルートヴィヒ・フォン・
テューリンゲンの寡 婦 エリーザベトであった。コンラートは聖 職
者 であるが、異 端 審 問 を担 ったドミニコ会 やフランチェスコ会
には属 さず、マインツ司 教 座 の学 監 であったといわれている。
だが、苦 行 を求 道 した彼 は他 者 に対 しても容 赦 なく苦 痛 によ
る信 仰 の充 実 を求 め、それが 1214 年 の十 字 軍 の勧 説 、扇
動 や、彼 を苛 酷 な異 端 審 問 に走 らせることとなった。1227 年 、
さらに 31 年 に教 皇 グレゴリウス 9 世 は彼 に書 簡 を送 り、その
説 教 活 動 を認 め、称 賛 し、彼 の補 佐 者 を選 任 する自 由 も
与 えた。コンラートは補 佐 者 にドミニコ会 士 とも元 異 端 者 とも
いわれるコンラート・ドルソーと隻 眼 隻 腕 のヨハンを選 び、恐 慌
に等 しい異 端 審 問 の嵐 をドイツに巻 き起 こした。年 代 記 に曰
く、「この三 人 は数 多 の貴 族 、騎 士 、市 民 を焼 き殺 させ、ある
いは頭 を剃 らせた(異 端 の最 も軽 い審 判 )。」「驚 くべきことだ
が、かなりの数 のドミニコ会 士 とフランチェスコ会 士 が公 然 と彼
らに加 担 した。教 皇 の正 式 の任 命 もない彼 らから指 示 を受 け
て服 従 し、彼 らとともに異 端 者 を焼 いた。」その規 模 はフラン
スの年 代 記 (『アルベリック・トロワフォンテーヌ年 代 記 』)に曰
く、「ドイツ全 土 にわたり、数 えきれぬ程 の焚 刑 が行 なわれ
た。」「かくて兄 弟 は兄 弟 を、妻 は夫 を、主 人 は召 使 を密 告
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
した。頭 を剃 られた者 に金 品 を贈 って逃 れる方 法 を乞 う者 も
あった。未 曾 有 の混 乱 が生 じた。」
このコンラートに夫 の死 後 盲 目 的 に師 事 したのがエリーザ
ベト・フォン・ハンガリアであった。13 才 で嫁 し、22 才 で夫 と死
別 した彼 女 は資 産 を施 療 院 設 立 にあて、1231 年 に 24 才 で
没 する。エリーザベトのコンラートへの師 事 は、一 種 エロチック
な関 係 もうかがわせるほど熱 烈 で、彼 の説 教 に遅 参 した彼 女
とその侍 女 の衣 服 をはぎ取 ってコンラートは鞭 打 ったという逸
話 も残 っている。これが果 たして信 仰 心 のためか、他 のためか
定 かでないが、エリーザベトの死 後 コンラートは彼 女 の列 聖 に
尽 力 し、さらにマールブルクに聖 エリーザベト教 会 を設 立 し、
彼 自 身 もそこに葬 られたといわれている。」
「思 惑 」の一 方 は、十 字 軍 の失 敗 により権 威 の揺 らぐ教
皇 庁 直 属 の異 端 審 問 官 であり、托 鉢 修 道 会 などに見 られ
る信 仰 強 制 の時 代 であった。その背 景 には、新 たな布 教 と
教 義 の引 き締 め、腐 敗 の根 絶 に迫 らなければいけない、ある
意 味 、異 教 的 な民 衆 の心 性 、キリスト教 文 化 の埒 外 の宮 廷
文 化 や民 衆 文 化 の萌 芽 が見 られていたことでもある。リテラシ
ーは教 会 にあり、教 会 権 力 そのものであった。だが、別 のリテ
ラシーも沸 き起 こりつつあった。それは、ラテン語 に対 しての諸
国 語 でもあり、聖 書 に対 しての物 語 でもあり、聖 歌 に対 しての
歌 謡 でもあり、キリスト教 以 前 の信 仰 でもあり、地 中 海 のかな
たから導 かれてきたものでもあった。皮 肉 なことに十 字 軍 はこれ
を促 進 した。そして、エリーザベトの夫 君 の仕 えた皇 帝 フリード
リヒ 2 世 が、前 世 紀 から沸 き起 こったこの反 キリスト教 的 文 明
の頭 領 と目 され、新 しい文 明 の庇 護 者 となった。文 学 が生 ま
れ、聖 戦 である十 字 軍 は物 語 として語 られ、聖 権 は俗 権 と
争 う。列 聖 の多 発 と聖 人 伝 ・聖 女 伝 の生 成 は、危 機 感 に
裏 打 ちされたプロパガンダでもあった。そしてそこに、俗 なる物
語 を加 えることこそ、ゴシックの大 聖 堂 に祖 先 や異 教 の神 々
を怪 物 として石 像 化 することにも似 た、キリスト教 の常 套 手 段
であったはずである。物 語 の伝 え手 である歌 人 たちも、巧 妙 に
聖 化 される。オフターディンゲンがタンホイザーになったごとく
*22)。
しかし、巧 妙 な仕 掛 けにも、傷 痕 が残 された。クリングゾー
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
ルという存 在 である。
3、クリングゾールとは何 者 なのか
研 究 史 上 、この不 確 かな人 物 について、英 独 語 の代 表
的 な音 楽 事 典 は項 目 を設 けている。
『新 グローヴ音 楽 事 典 』第
6 版 の項 では、「ドイツあるいは
ハンガリーの詩 人 、伝 説 的 人 物 。ヴォルフラム・フォン・エッシ
ェンバッハ『パルチヴァール』(1200
年 頃 )では創 作 上 の人 物
だが、この名 の詩 人 は存 在 したといわれる。『ヴァルトブルクの
歌 合 戦 』(1260
年 頃 )の作 者 は彼 を確 実 な史 料 に残 るミネ
ジンガーとしている。かなり後 のマイスタージンガー写 本 [コルマ
ール歌 謡 写 本 のこと]には2つの彼 に由 来 する旋 律 が記 され
ており、マイスタージンガーによって「12
人 の古 の歌 匠 」の一
人 とみなされている。」*23)
『歴 史 と現 在 のける音 楽
MGG』事 典 の項 では、「中 世 で
は様 々な名 称 で呼 ばれており、ヴォルフラム・フォン・エッシェン
バッハ『パルチヴァール』中 の異 教 の魔 術 師 がこのクリンショー
ル Clinschor の原 型 である。1230 年 迄 に成 立 の作 者 不 詳
による〈なぞなぞ〉が、『ヴァルトブルクの歌 合 戦 』の〈君 主 賛
歌 〉と結 びつき、ヴォルフラムとの論 争 詩 (ひとつの旋 律 に基
づいて歌 われるものでロマンス文 学 でいう〈ジョク・パルティト
Joc
partit〉すなわち〈ジュ・パルティ
Jeu
る「ハンガリーのクリンゲゾール Klingesor
いう高 い教 養 を
parti〉)を繰 り広 げ
von
ungerlant」と
もった「師 匠 僧 meisterpfaffe」になった。
(架 空 の)クリングゾールの神 学 ・天 文 学 の教 養 の深 さはマイ
スタージンガーを魅 了 し、彼 を
12
人 の古 の歌 匠 のひとりにま
で賛 美 した。つまり、マイスタージンガーによってクリングゾール
は歴 史 上 の人 物 となり、ヘルマン・ダーメンなどは自 作 のライヒ
の 10 節 でクリングゾールの死 を語 っているほどである。
( 《 コ ル マ ー ル 歌 謡 写 本 》 f.666a," 黒 い 調 べ
swaczer
ton"中 の)〈なぞなぞ〉の旋 律 は異 なる内 容 の全 部 で 336 の
節 に付 されており、これはローエングリン Lohengrin やローレン
ゲル Lorengel の膨 大 な節 も及 ばない。さらに旋 律 は《イエー
ナ歌 謡 写 本 》fol.127d(装 飾 が施 され調 性 も異 なっている)
や《アダム・プッシュマンの歌 謡 本
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Singebuch
des
Adam
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
P u s c h m a n 》 ( ミ ュ ン ツ ァ ー 校 訂 : G. M ü n z e r ,
Das
Singebuch
des Adam Puschman, Leipzig 1906、一 部 はイエーナと関
連 )にも残 されている。16
写 本
Peter
の 調 べ
Heiberger
世 紀 末 の《ペーター・ハイベルガー
Hs.》にも1曲 のクリングゾールの〈夜
nachtweis 〉 が 集 録 さ れ て い る (K.J.Schröer,
Meistersinger
im
Österreich,
in
Germanistische
Studien, II, 1875, S.226f)。」*24)
いずれも歴 史 資 料 の根 拠 ではなく、作 品 お互 いを傍 証 と
する記 述 である。
上 記 の指 摘 のように、クリングゾールの後 世 への影 響 は大
きく、たとえばマネッセ写 本 のヴァルトブルクの歌 合 戦 のミニア
チュールは確 かに歌 合 戦 の登 場 人 物 が描 かれているのだが、
14
世 紀 以 降 加 筆 と思 われる欄 外 の分 類 用 の歌 人 名 は、
確 かにクリングゾールの名 前 である。
実 在 の人 物 としてではなく、イメージ化 されたクリングゾール
的 存 在 が、クリングゾールを創 り出 す。では、そのイメージ化 は、
何 を示 しているのであろうか。言 い換 えるならば、歌 を作 り披
露 する歌 人 と魔 術 師 という二 面 性 が示 す問 題 である。
グリムでは、歌 人 (師 匠 )、魔 術 師 とよばれたクリングゾール
の魔 術 師 的 側 面 をよく示 すのが、前 にも挙 げたヴォルフラム・
フォン・エッシェンバハの『パルチヴァール』での「テルレ・デ・ラー
ブールの公 で魔 術 師 。シャステル・マルヴェイレ(魔 法 の城 )の
城 主 」であるクリンショルとしてのクリングゾールであろう。『パル
チヴァール』第
11
巻 魔 法 の城 のくだりに登 場 し、第
13
巻
(655 節 ‐660 節 )では次 のように造 型 されている。「主 人 公 パ
ルチヴァールは、ある日 アルニーヴェから、魔 法 の城 の由 来 を
聞 かされた。アルニーヴェや、ガーヴァーンの母 と妹 は、この城
の主 である魔 法 使 い、クリンショルによってさらわれ、閉 じ込 め
られていた。そのクリンショルがどうしてそんなことをしたのかとい
うと、かつて、ジチリエ(シチリア島 )の王 妃 、イーブリスと不 倫 を
したために、王 の怒 りに触 れ去 勢 されてしまったからだという。
クリンショルは魔 術 師 ヴェルギリウスの子 孫 で、虚 勢 されて
からは少 々性 格 が悪 くなってしまい、人 をさらう厄 介 な性 格 の
魔 法 使 いになってしまったのだそうだ。魔 法 の城 のあるこの土
地 は、グラモフランツの父 ・イロート王 が、クリンショルから災 い
148
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
をこうむることを恐 れて差 し出 したものなのだという。
しかし、そのクリンショルの仕 掛 けた城 の罠 を乗 り越 えた今 、ガ
ーヴァーンはこの城 の主 であり、クリンショルとも和 睦 したことに
なるらしい。」*25)
ここの人 物 造 型 には歌 合 戦 のクリングゾールとの、類 似 的
特 徴 がみられる。
たとえば、「南 」。歌 合 戦 ではハンガリーであり、『パルチヴァ
ール』ではテルレ・デ・ラーブール(ナポリの東 北 テラ・ディ・ラボ
ロ)の公 。
「出 自 」、『パルチヴァール』では「多 くの魔 法 を考 え出 した
人 の子 孫 で、ナーペルス(ナポリ)のヴィルギリーウス(ウエルギリ
ウス)の血 をひくもの」⇒ウエルギリウスは予 言 者 、12
世 紀 以
降 は魔 術 師 と見 なされていた。
「魔 術 の心 得 」、去 勢 されて、初 めて魔 法 が考 え出 された
ペルジーダー(ペルシャの町 か)に赴 き、「臨 むものは何 でもうま
く作 れる魔 法 の極 意 を修 めて帰 りました。」
これらに共 通 するのは地 中 海 とキリスト教 以 前 の古 代 とい
う地 勢 的 イメージである。そこには古 代 ローマの楽 師 ・芸 人 ミ
ームスが、ローマ、ビザンツ、アラビアの系 譜 として受 け継 がれ、
また古 代 の知 識 の継 承 者 としての魔 術 死 蔵 を想 起 させる。
また、『歌 合 戦 』と『パルチヴァール』の道 具 の類 似 も多 い。
『パルチヴァール』第
11
巻 魔 法 の城 の魔 法 のベッド、リート・
マルヴェイレ、のくだり、「ベッドには輝 く丸 いルビーの四 つの車
輪 がついていて、それが動 いて走 り回 る速 さは疾 風 も及 ばな
かった。」は、歌 合 戦 では魔 法 の絨 毯 になり、「また一 切 の霊
を、この蒼 穹 と大 地 との間 に住 む善 の霊 と悪 の霊 を支 配 して
います。ただ神 が守 護 したまう霊 だけは別 でございますが。」は
まさにクリングゾールの遣 わした霊 とヴォルフラムの論 争 に符 号
する。
もちろん、〈なぞなぞ〉や歌 合 戦 伝 説 の作 者 は、『パルチヴ
ァール』を踏 まえて、ヴォルフラムとクリングゾールの論 争 を加 え
た可 能 性 も高 く、また従 来 よく知 られた物 語 を挿 入 することで、
歌 合 戦 伝 説 の「語 り物 」としての汎 用 性 に利 点 をもたらした
からとも推 測 できる。
この『パルチヴァール』と『ヴィルレハレム』、『ティトゥレル』の
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
記 述 と歴 史 的 事 件 や事 実 を比 類 させると、ヴォルフラムは、
1170 年 頃 に生 まれ 1220 年 頃 に死 去 し、『パルチヴァール』
は 1200 年 頃 に着 手 され、1210 年 頃 に完 成 したことが定 説
となっている*26)。ヴァルトブルクの歌 合 戦 が 1206,7 年 に本
当 に開 催 されていたなら、その前 後 ヴォルフラムはこの歌 合 戦
を何 らかの形 でモチーフに加 えていたかもしれない。またヴォル
フラムはその前 後 パルチヴァールをヴァルトブルクで歌 い語 って
いたかもしれない。また、この歌 により名 をなし始 めていたかもし
れない。
いずれにせよ、クリングゾールは物 語 の造 型 として一 人 歩 き
する土 壌 にはあったのではないかと考 えられる。魔 術 師 の系
譜 、占 星 術 師 パラケルススにみる魔 術 師 の系 譜 にクリングゾ
ールの幻 像 は見 られる。そのうえでのクリングゾールの「南 」に
由 来 する、「いかがわしい詐 欺 師 /不 思 議 な知 識 人 /アラビ
ア経 由 の古 典 に精 通 」は、あるいは古 代 ローマ以 来 の伝 統
芸 能 者 (ミームス、ヒストリオ[役 者 ・俳 優 ])としての楽 師 像 、
あるいは、ゲルマン民 族 の芸 能 者 としてのスコープの継 承 者 と
してのイメージと重 なり、歌 謡 や十 字 軍 ・伝 説 の語 り部 として
の歌 人 さらには現 世 にはびこり始 めた芸 人 楽 師 イメージの温
床 となっていったのではなかろうか。クリングゾールの魔 力 は
「魔 術 師 」の力 であると同 時 に、音 や音 楽 を持 って人 心 を操
る楽 師 や芸 人 の「魔 力 」でもあった。
では、歌 合 戦 中 の歌 人 の中 で、なぜクリングゾールだけが
魔 力 を持 つのか。そして他 の歌 人 たちは、彼 を「師 匠 」とも呼
んでいる。後 世
16
世 紀 にはマイスタージンガーたちに範 と讃
えられ、19 世 紀 にはドイツ文 学 の始 祖 ともされたミンネの歌 人
(ミネジンガー)たちの実 像 は、ヴァルトブルクの歌 合 戦 の系 譜
の 中 に も 見 ら れ る 。 『 ロ ー テ の 聖 エ リ ー ザ ベ ト 伝 』
(III,222-235)では、彼 らを次 のように記 述 している。「うち四
人 は領 主 の館 に属 していたが、いちばん身 分 の高 いものは書
記 ハインリヒ[Heinrich
Schriber]といい、あらゆる宮 廷 風 文
化 の真 の鼓 舞 者 だった。もう一 人 はフォーゲルヴァイデのヴァ
ルターといい、この二 人 は共 に騎 士 [rittere]だった。また一
人 はツヴェチェンのラインハルトといって、騎 士 の身 分 であった。
エッシェンバッハのヴォルフラムも同 様 で、宮 廷 風 の詩 を多 く
150
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
作 った。アイゼナハの市 民 [burger]二 人 も歌 を作 る心 得 があ
り、その一 人 は歌 うことの上 手 なビーテロルフ、他 の一 人 はオ
フターディンゲンのハインリヒ。かれら六 人 は、詩 作 の名 人 だっ
た[meister zu tichten]。」(222-235)。
詩 作 の名 人 ではあるが、身 分 は騎 士 あるいは従 士 、市 民
であり、専 業 の歌 い手 ・楽 師 ではない。封 建 制 度 の身 分 社
会 の中 にいる人 間 の技 芸 としての歌 人 であり、いずれにしても
宮 廷 に伺 候 し与 えられた機 会 に技 芸 を披 露 した者 たちであ
る。この時 代 、ウルリッヒ・フォン・リヒテンシュタインをはじめ、ト
ーナメントやこの技 芸 の練 達 により、覚 えめでたく宮 廷 社 会
内 で地 位 を得 ていくもの多 く、「理 想 の騎 士 」という名 目 上 、
いや「従 士 が騎 士 になるため」の生 活 上 も、歌 の技 芸 は武 芸
とともに欠 かせないものであった。
身 分 制 社 会 の中 にいるミンネの歌 人 (ミンネジンガー)は同
時 にキリスト教 社 会 の範 疇 である。だが芸 人 楽 師 (シュピール
マン)の系 譜 をひくクリングゾールはそうはいかない。歌 人 の
Meister」とされた意 図 は、その影 響 力 からであろうか、キ
「師
リスト教 的 封 建 社 会 の埒 外 にいるものへの恐 れであろうか
*27)。
そして、13 世 紀 後 半 ドイツでの聖 エリーザベト崇 拝 の推 進
役 たるドミニコ会 による聖 女 伝 説 の創 造 にあたり、ドミニコ会
士 アポルダのディートリヒの『聖 エリーザベト伝 』にクリングゾール
は現 れる。
「当 時 、7
間
3
つの城 の地 と呼 ばれるハンガリーに、高 名 で年
千 マルクの収 入 のある裕 福 さにして、若 き頃 より哲 学 、
文 学 、神 学 を修 め、降 神 術 、占 星 術 の諸 学 に通 じた男 が
住 んでいた。その名 はマギステル・クリンクソール…
tunc
in
Castra
partibus
vocatur,
milium
Ungariae,
nobilis
marcarum
philosophus,
primaevo
astronomiae
aetatis
scientis
terra
quidam
annuum
litteris
in
et
et
habens
studiie
imbutus,
nihilominus
Habitabat
quae
Septem
dives,
trium
censum,
saeckaribus
nigromantiae
eruditus.
vir
a
et
His
magister Clincsor nomine...」
アポルダのディートリヒ『聖 エリーザベト伝 』のクリングゾールは、
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桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
もはや単 なる魔 術 師 ではない、裕 福 な諸 学 に通 じた学 者 で
ある。しかも、見 事 に魔 術 師 も楽 師 もキリスト教 の器 に飲 み込
んでいるのである。
ここにヴァルトブルクの歌 合 戦 伝 説 は成 立 する。歌 合 戦 の
本 となるミンネジンガーの対 話 詩 (論 争 詩 )をもとに、エリーザ
ベト崇 拝 を聖 女 伝 説 に作 り上 げ加 える際 に、ヴォルフラムの
『パルツィファル』から魅 力 的 な登 場 人 物 (「楽 師 」たる)クリン
グゾールを配 置 し、ヴァルトブルクの歌 合 戦 の脚 色 とする。そこ
には、聖 女 伝 説 の舞 台 装 置 としてのヴァルトブルクと楽 師 伝
説 (クリングゾールという魔 術 師 ・楽 師 )としての、聖 なるものと
人 間 を結 びつける音 や音 楽 家 の魔 力 をも包 み込 んだ、聖 女
や奇 跡 と結 びついた新 たな伝 説 を誕 生 させているのである。
そして、伝 説 へ
ある政 治 的 ・社 会 的 事 件 を情 報 として、物 語 化 し、後 世
には伝 説 とされ伝 えられていく。そこに働 く力 は、物 語 化 する
思 惑 と同 時 に、伝 説 を伝 えていく力 である。ヴァルトブルクの
歌 合 戦 伝 説 を伝 えていく力 は、実 は歌 合 戦 の登 場 人 物 で
ある歌 人 たちやクリングゾールの発 揮 したであろう歌 の力 であ
った。
また、歌 を操 るヴォルフラムやクリングゾールなどの宮 廷 歌
人 や楽 師 にしても、19 世 紀 には吟 遊 詩 人 (トルバドゥール、ミ
ンネジンガー)や楽 師 ・芸 人 (ジョングルール)と呼 ばれ、伝 説
の対 象 となっていく。中 世 史 家 ル・ゴフは、フランスの宮 廷 歌
人 トルバドゥールの復 興 について、19 世 紀 のロマン主 義 によっ
て復 活 し、地 方 の言 語 や芸 術 の再 興 運 動 のオック語 圏 にお
ける展 開 がこれを助 けた。この流 れの中 で、1883
ン・パリスによる「宮 廷 風 恋 愛 」の創 案 、1851
年 のガスト
年 からの建 築
における偽 ゴシック様 式 の「トルバドゥール様 式 」への命 名 、
1876
年 から文 学 史 家 たちによる「トルバドゥール趣 味 」の命
名 など文 化 的 英 雄 化 がすすみ、トルバドゥールは今 日 でもヨ
ーロッパ想 像 界 にしっかりと根 を下 ろしたと評 している*28)。
一 方 、クリングゾールに収 斂 される楽 師 の伝 説 化 は、中 世
末 期 にすでに始 まっている。古 代 ローマのミームスの系 譜 を引
152
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
くジョングルールと呼 ばれた芸 人 ・楽 師 たちは、ドイツ語 の名
「シュピールマン
Spielmann」が示 すように「遊 び」と関 わる芸
人 であった。「遊 び」への善 悪 の道 徳 観 ゆえに、つまりあらゆる
職 業 が神 の法 に適 うものか反 するものかで論 じられたキリスト
教 の倫 理 観 において、彼 らへの評 価 は議 論 され続 けていた。
詩 を吟 じ、物 語 を語 り、音 曲 を奏 で踊 り、演 じ遊 び、諸 国 を
経 巡 る彼 らの芸 態 は、封 建 制 度 の中 で宮 廷 という庇 護 者 を
得 ていただけに、俗 世 の支 配 者 を指 導 すべき聖 界 にとっても、
実 際 のジョングルールの社 会 的 身 分 と同 様 に境 界 線 上 の
存 在 (マージナリティ)でもあった。毀 誉 褒 貶 かまびすしい彼 ら
への視 線 は、時 には旧 約 聖 書 のダビデ王 に準 えられることも
あったが、多 くの場 合 教 会 や社 会 にとっては蔑 視 ・排 斥 の対
象 となりやすかった。そのあたりの事 情 は、稿 を改 めるが、
12,13 世 紀 にはジョングルールたちへの評 価 が、やはり教 会 に
よって名 誉 回 復 される兆 しを見 せ始 める。最 初 は、聖 ベルナ
ールによる人 間 の謙 虚 さの鑑 としてのジョングルール像 の提 示
であり、これは 13 世 紀 の、特 に神 の芸 人 とよばれた聖 フランチ
ェスコに代 表 される托 鉢 修 道 会 による、彼 らの芸 である歌 を
介 した笑 いと喜 びを与 える肯 定 的 な面 の評 価 に繋 がっていく。
封 建 領 主 や都 市 による庇 護 も、ジョングルールを放 浪 の周
縁 者 の地 位 から、定 住 し仕 える宮 廷 楽 師 ・芸 人 (ミンストレ
ル)への道 を生 み出 し、ここで歌 や奏 楽 を生 業 とする楽 師 と、
曲 芸 などを生 業 とする芸 人 に分 化 していく。実 は、このジョン
グルールたちの名 誉 回 復 の過 程 で、利 用 されるのが聖 母 や
聖 人 による彼 らへの庇 護 の物 語 や伝 説 であり、彼 らも聖 母
聖 人 を祭 り語 り歌 うことによって、自 らの蔑 視 払 拭 に努 めるの
である。
ヴァルトブルクの歌 合 戦 を語 り伝 えたものの背 景 には、語 ら
れる伝 説 のパフォーマンスとしての詩 歌 、それも旋 律 付 きの歌
によってより力 を持 たせるに長 けた者 たちの事 情 があった。自
らも登 場 し、自 らの宮 廷 や社 会 においての名 誉 回 復 をはかる
為 には、聖 人 聖 女 の助 けも借 りた物 語 が必 要 であった。
一 方 、宮 廷 歌 人 とは誰 だったのか。15 世 紀 まで音 楽 のみ
を生 業 とする音 楽 家 はいなかった。楽 師 ・芸 人 で音 楽 を演
奏 するものはいた。しかし、宮 廷 においては、歌 の創 作 にせよ
153
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
歌 唱 にせよ、舞 踏 にせよ、時 には楽 器 の演 奏 も、身 分 のある
者 の営 為 としての場 はあった。もちろん、宮 廷 歌 人 は伝 説 で
あり、後 世 作 られた偶 像 である。ではかれらは誰 なのか。文 学
中 の理 想 の騎 士 であり、それに憧 れる騎 士 ・従 士 たち、彼 ら
はまた栄 達 のため生 計 のため戦 いに出 る代 わりに「トーナメン
ト」を転 戦 し、恩 顧 や庇 護 を求 め、文 武 の技 芸 を披 露 し気
に入 られるように努 める。その技 芸 が、武 芸 であると同 時 に、
語 りであり歌 であり音 楽 であり舞 踏 であった。
宮 廷 で出 会 う歌 心 のある騎 士 や従 士 と、楽 師 ・芸 人 上 が
りの宮 廷 楽 師 。自 らを褒 め歌 う物 語 こそが、彼 らの現 世 のい
や後 世 の評 価 を定 める手 段 である。彼 らは、音 楽 、歌 という
プロパガンダの武 器 を持 つ。その有 用 性 に気 づいたものたち
は、宮 廷 であり教 会 であった。宮 廷 や教 会 はこの頃 からまたも
う一 つの影 響 力 を行 使 する。伝 えられることから、書 き残 すこ
とへのリテラシーの変 容 である。リテラシーを支 配 するものの変
遷 によってこの宗 教 的 プロパガンダは、近 代 には「国 家 」という
政 治 的 プロパガンダに、また芸 術 のプロパガンダは近 世 の人
間 的 (ヒューマニティズム)なるものから、近 代 の神 々しい崇 高
なるものとしての文 学 や音 楽 の「芸 術 化 」に繋 がっていくのだ
が、後 の話 としたい。
一 方 で、書 き残 されえない声 や身 体 による表 現 が失 われ
ていくわけではない。リアリティに則 った嘘 の構 築 として物 語 や
伝 説 は、ハンス・ザックスやシェイクスピアの 16 世 紀 の演 劇 的
世 界 において再 現 されはじめるのである。
154
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
注
(1)ノヴァーリス『青 き花 』(原 題 :Heinrich
Ofterdingen)岩
von
波 文 庫 版 (1939)小 牧 健 夫 訳 「青 い花 の続 編 に就 いてティーク
の報 告 」参 照 。
(2)グリム兄 弟 については高 橋 健 二 『グリム兄 弟 』(1969)を参 照 。
(3)池 上 俊 一 『狼 男 伝 説 』(朝 日 選 書
1995)、とくに聖 体 の奇 跡
を参 照 。
( 4 ) ” Wa r t b u rg " ,
in:
Dictionary
of
Ages,
Middle
12vol.,573a-574a を参 照 。
本 文 中 に挙 げた以 外 の主 要 な写 本 と主 要 な校 訂 本 は以 下 で
ある。(ND:現 代 ドイツ語 訳 、Md(Mhd,Mnd):原 文 (中 高 ドイツ
語 、中 低 ドイツ語 ))
写
本
A : 《 小
ハ イ デ ル ベ ル ク 歌
謡
写
Die
本
kleine
Heidelberger Liederhandschrift》~13 世 紀 末 シュトラースブ
ルクで成 立 。ラハマン以 来
写 本
の校 訂 本 に影 響 。
B : 《 ヴ ァ イ ン ガ ル テ ン 歌 謡 写 本
Liederhandschrift》~1300
Die
We i n g a r t n e r
年 頃 コンスタンツで成 立 、詩 人 の
彩 色 肖 像 を挿 図 に。
写
本
E: 《 ヴ ュ ル ツ ブ ル ク 歌
Liederhandschrift
ルクで
1340-50
謡
写
Würzburger
本
》~ヴァルターの滞 在 地 であったヴュルツブ
年 に成 立 。ヴァルター
・フォン・デア・フォーゲル
ヴァイデとラインマル・フォン・ハーゲナウの詩 を中 心 に所 収 。
[MF]:Des
Moriz
Minnesangs
Haupt
u.
Frühling.
Friedrich
Nach
Vo g t ,
Karl
neu
Lachmann,
beschreibung
v.Carl von Kraus. Leipzig 1940.
[KLD]:Deutsche
Hrsg.v.Carl
Liederdichter
von
Kraus.
des
Bd.1
13.Jahrhunderts,
Text.1952,
Bd.2
Kommentar. besogt v.Hugo Kuhn, Tübingen 1958.
[WLK]:Die
Gedichte
Hrsg.v.Karl
Wa l t h e r s
Lachmann.
von
13.Ausgabe,
der
Vo g e l w e i d e ,
neu
Hg.v.Hugo
Kuhn, Berlin 1965.
[BSM]:Die Schweizer Minnesänger, Hrsg.v.Karl Bartsch,
Frauenfeld 1886.
[NHW]:Die
Lieder
Neidharts,
155
Hrsg.v.Edmund
Wießner,
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
3.Ausgabe v. H.Fischer. Altdeutsche Textbibliothek 44,
Tübingen 1968.
[Siebert]:Der
Ta n n h ä u s e r ,
Dichter
Hrsg.v.Johannes
Siebert, Halle 1934.
[KWS]:Kleinere
Dichtungen
Hrsg.v.Edward
Konrads
Schröder.
von
Würzburg
3.Auflage,
Berlin
III,
1959;
Leiche, Lieder und Sprüche.
高 津 春 久 編 訳 『ミンネザング(ドイツ中 世 叙 事 詩 集 )』1978 年 [ミ
ンネザング]
M i n n e s a n g(11 5 0 - 1 3 0 0 ).
Deutscher
Neuhochdeutsch.
Stuttgart:
Auswahl,
Reclam
Mittelhochdeusch/
Ausgabe
v.
Nr.7857[2],1978.
F. N e u m a n n ,
(ND.&
Mhd.)
[Deut.Minnesang]
M i n n e s i n g e r.
In
Bildern
der
Manessischen
H r s g . v. Wa l t e r
Liederhandschrift,
Koschorreck,Frankfurt
a.M.(Insel
Taschenbuch
88),1974. (Mhd) [Minnesinger:MS.C]
(5)マネッセ歌 謡 写 本 (Codex
Manesse)のミニアチュール図 像 に
つ い て は 以 下 に 詳 し い 。 Wa l t h e r,
erläutert), Codex
Manesse,
Die
Ingo
(Hrsg.
Miniaturen
Liederhandschrift,
Heidelberger
F.
unter
und
der Großen
Mitarbeit
von
Gisela Siebert, Frankfurt a.M.: Insel 1988; 6/2001
Karg-Gasterstädt,
Bildern
der
Elisabeth,
Manessischen
Die
Minnesinger
Handschrift,
Frankfurt
in
a.M.
2000.
(6)Pfaff,
Fridrich
(Hrsg.),
Liederhandschrift
Textabdruck
Titleausgabe
Auflage
Die
Manesse),
(Codex
herausgegeben
der
zweiten,
bearbeitet
von
con
Hellmut
der
Strophenanfänge
Heidelberg:
Univerasitätsverlag
の Lxv.
Klinsor
Heidelberger
In
getreuen
Friedrich
verbesserten
Ve r z e i c h n i s
(Textabdruck).
grosse
und
Salowsky,
und
C.
von
7
Pfaff,
ergänzten
mit
einem
Schrifttafeln,
Winter
1984;
vngerlant,
1995
Spalten
711-746, 91 strophen
(7)挿 入 されたオフターディンゲンによる詩 節 は以 下 、
156
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
Bitterolf ich sage dir.
min bispel noch min singen dur din troewen
niht verbirt.
swa muse lousent eine katzen an.
ob du erbissen wirt.
so mus der musen sin gar vil.
ir tumben [221a] singer tunt den kleinen
tiern an mir gelich.
so sten ich alles in der katzen zil.
un bisse alumbe mich.
io het ich zu der duringe herren selbe wol
die pfliht.
dc kunic noch keiser niht so rehte werdeklich lebt.
were der us oesterrich niht
des tugent ob allen fursten in so hoher wirde
swebt.
swer den edeln fursten an gesiht
us osterrich.
du menge giht
sin milte tugent si den adelar gelich.
(8)グリムの伝 説 では〈君 主 賛 歌 〉22-24
節 の時 系 列 をばらばらに
して再 構 成 している。
(9) Pfaff(原 典 )にはオフターディンゲンの名 はない。
(10)Pfaff(原 典 )ではヴォルフラム・フォン・エッシェンバハにより詩 節
となっている。
(11)Pfaff(原 典 )には、第 1 節 、第 2 節 、第 6 節 の縄 のエピソード
を欠 落 させており、この説 との整 合 性 が保 たれていない。
(12)マネッセ写 本 (Codex Manesse)中 原 典 の Pfaff の 33-38 節
は、〈王 の姫 たちのなぞ Das Rätsel von den Königstöchtern〉
1-6 に相 当 する。
(13)Pfaff(原 典 )に Nasion の名 前 の表 記 はない。
(14)Pfaff(原 典 )の 52 節 は同 様 の意 味 の異 版 。
(15)Pfaff(原 典 )の 53 節 は同 様 の意 味 の異 版 。
(16)第 57 節 以 下 の論 争 詩 は、57 eschilbach;58 klingsor;59
eschilbach;60 klingsor;61 eschilbach;62
157
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
klingsor;63
66
von
klingsor ; 67
klingsor ; 71
wolfram;75
77
eschilbach;64
wolfram ; 68
klingsor ; 72
herr
wolfjram ; 78
wolfram
klingsor;65
eschilbach;
wolfram ; 69
wolfrfam ; 70
wolfram ; 73
wolfram ; 74
con
klingsor ; 79
Eschelbach;76
klingsor ; 80
klingsor;
wolfram ; 81
wolfram ; 82
wolfram ; 83
klingsor ; 84
klingsor ; 85
klingsor ; 86
wolfram ; 87
klingsor ; 88
wolfram ; 89
klingsor;91 wolfram による。
(17)本 文 掲 『グリム伝 説 集 』552-567 話 参 照 。
(18)Reinhold
(Marburg:
Schneider,
E l w e r t - Ve r l a g ,
Elisabeth
von
Thüringen.
1961)によると、早 いうちからその土
地 に馴 染 み土 地 勘 を身 につけるためには許 婚 と共 に教 育 を受 け
ることは当 時 よく行 われていた慣 習 であった。
(19)藤 代 幸 一 氏 による「ワルトブルクの歌 合 戦 」解 明 も参 照 。(藤
代 幸 一 「アイゼナハ、そしてワイマール」『バッハ全 集
内 楽 曲 』小 学 館
第 13 巻
室
1997 年 、所 収 )。
(20)渡 邊 昌 美 『異 端 審 問 』(講 談 社 現 代 新 書
1996)参 照 。
(21)歌 合 戦 前 半 の主 人 公 ハインリヒ・フォン・オフターディンゲンに
ついては、以 下 に挙 げる代 表 的 な音 楽 事 典 の Grove6、MGG と
も記 述 はほとんど同 じで、原 典 はイエーナ、コルマール写 本 のヴァ
ルトブルクの歌 合 戦 記 事 が最 も多 くを語 っている。
「1200
年 頃 のドイツのミンネジンガー。オスターディンゲンと間 違 っ
て表 記 されることもある。彼 について言 及 された文 献 史 料 はほとん
どなく、初 期 の研 究 者 はタンホイザーやハインリヒ・フォン・モールン
ゲンと同 一 視 したが、おそらくは異 なる人 物 であろう。1260 年 頃 の
『ヴァルトブルクの歌 合 戦 』での彼 への言 及 が最 初 で、そこではヴォ
ルフラム・フォン・エッシェンバッハやヴァルター・フォン・デァ・フォーゲ
ルヴァイデにオーストリア大 公 の名 誉 を守 るために立 ち向 かってい
る。《イエーナ歌 謡 写 本 》《コルマール歌 謡 写 本 》には彼 のものとさ
れるヴァルトブルクの歌 合 戦 の最 初 の部 分 の音 楽 が残 されており、
後 者 では〈売 買 された調 べ
Gekaufter
Ton 〉あるいは〈君 主 の調
べ〉の名 称 が与 えられている。コルマール歌 謡 写 本 はイエーナに比
べて華 やかさに欠 ける。19 世 紀 にはハインリヒはタンホイザーと同 一
視 されていたため、ヴァーグナーの《タンホイザー》をはじめ、タンホイ
ザ ー と し て 多 く の 文 学 作 品 に 表 さ れ た 。 」 (B.Kippenberg,
158
in:
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
New
Grove
Dictionary
of
Music
Musicians,
and
6th
e d i t i o n , Vo l . 8 , p . 4 4 4 )
「1200
年 頃 、市 民 の出 自 でアイゼナッハに住 んだとされている。イ
エーナとコルマール両 歌 謡 写 本 中 の〈君 主 の調 べ〉を含 む『ヴァル
トブルク歌 合 戦 』第 一 部 の作 者 である。より有 名 なミンエジンガー
の ハ イ ン リ ヒ ・ フ ォ ン ・ モ ー ル ン ゲ ン ( R . M . We r n e r, 1 8 8 1 ) や タ ン ホ イ
ザ ー ( E . T. L . L u c a s ,
"Über
Abhandlungen
deutschen
der
den
Krieg
von
Geschichte
Wa r t b u rg " ,
zu
in:
Königsberg,
1838)と同 一 視 されるきらいがあり、ヴァーグナーはこれを踏 襲 。伝
えられた形 ではヴァルトブルクの詩 は、ビーテロルフを作 り上 げ、ライ
ンマル・デァ・エルテレとラインマル・フォン・ツヴェーターを混 同 してい
る。第 2部 ではヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハが、自 ら創 作 し
た人 物 魔 術 師 のクリングゾール(『パルツィファル』)と〈なぞなぞ〉で
戦 い、ヴォルフラムがすべて説 き明 かす。この<なぞなぞ>の部 分 が
最 初 にあり、そこに〈君 主 賛 歌 〉が結 付 いてヴァルトブルクの詩 は
成 立 した。後 世 のマイスタージンガーたちはこの創 作 上 の人 物 クリ
ングゾールを実 在 のミンネジンガーのハンガリーのクリングゾールとし
て、12
人 の古 の歌 匠 の一 人 とした。そのためこの〈なぞなぞ〉の調
べ は 〈 ク リ ン グ ゾ ー ル の 黒 い 調 べ 〉 と 呼 ば れ た 。 ロ ン ペ ル マ ン
Rompelmann によって、〈なぞなぞ〉にはエルフルトで作 られたいくつ
かの詩 節 と追 悼 詩 が付 加 された。〈君 主 の調 べ〉と〈黒 い調 べ〉は
彩 色 写 本 の《イエーナ歌 謡 写 本 》と、より簡 素 な《コルマール歌 謡
写 本 》に残 されている。コルマール写 本 はイエーナよりも小 規 模 で、
新 た な 旋 律 は 見 ら れ な い こ と は 〈 黒 い 調 べ 〉 に お い て も 疑 い も な
い
。
」
(H.Husmann,
in:
Musik
in
Geschichte
und
Gegenwart, Bd.7,Sp.74-75)
( 2 2 ) L o r e n z We l k e r, " K l i n g s o r " , i n : N e w G ro v e D i c t i o n a r y
of
Music
Musicians,
and
6th
edition,vol.10,p.111 。
H.Oppenheim, `Klingsor', in: Die deutsche Literatur des
Mittelalters:
Ve r f a s s e r l e x i k o n ,
e d . W. S t a m m l e r,
Bd.2,
Berlin 1939.も参 照 。
(23)U.Aarburg,
"Klingsor",
in:
Musik
in
Geschichte
und
Gegenwart,Bd.10,Sp.1234.
( 2 4 ) ヴ ォ ル フ ラ ム ・ フ ォ ン ・ エ ッ シ ェ ン バ ハ 『 パ ル チ ヴ ァ ー ル 』 ( Wo l f r a m
von
Eschenbach,
Parzival)
加 倉 井 粛 之 、伊 藤 泰 治 、馬 場
159
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
勝 弥 、小 栗 友 一 訳 、東 京 :郁 文 堂
1974 などによる抄 訳 。
また、ヴァーグナーによって 1882 年 に初 演 された舞 台 神 聖 祝 典
劇 『パルジファル』に描 かれているクリングゾールも、この系 譜 を引 い
ている。『パルジファル』(名 作 オペラブックス
音 楽 之 友 社 )による
あらすじを参 考 までに挙 げておく。
「モンサルヴァートの北 側 では、護 持 を命 じられた聖 槍 (十 字 架
上 でキリストを傷 つけた槍 )と聖 杯 (その血 を受 け止 めとも最 後 の
晩 餐 の杯 ともいわれている)ティトゥレルが、聖 杯 堂 を建 て、聖 杯
騎 士 らとともに守 っていた。しかし、現 在 の聖 杯 王 であるティトゥレ
ルの息 子 アムフォルタスは、魔 術 師 クリングゾルに聖 槍 を奪 われ、
槍 によって受 けた傷 で病 み、床 に伏 している。かつてクリングゾルは
敬 虔 な隠 者 であり、聖 杯 騎 士 になるべく自 らの欲 望 を克 服 すべく
去 勢 を行 ったが認 められず、今 では男 たちを誘 惑 する花 の乙 女 た
ちとモンサルヴァートの南 側 の城 に住 んでいる。
第
1 幕
ティトゥレルに仕 えるグルネマンツの元 に、粗 末 な格 好 の女 クンド
リがアムフォルタスの傷 を癒 すためバルザム(鎮 痛 油 )を持 って来 る。
クンドリはクリングゾルの魔 法 によりアムフォルタスを誘 惑 し、槍 を奪
わせたのだが、ここでは奴 隷 のような奉 仕 者 となっている。
そこへ白 鳥 が見 知 らぬ少 年 に射 落 とされたという騒 ぎが起 こる。
少 年 は聖 杯 の領 域 での規 則 (動 物 の殺 生 を禁 じる)を知 らぬば
かりか自 分 の名 前 も知 らない。クンドリが少 年 の父 は少 年 が生 ま
れる前 に戦 死 し、母 ヘルツェライデは父 のように早 死 にすることを
恐 れ、少 年 に何 も教 えなかったことを語 る。何 も知 らずに育 った少
年 はある日 通 りかかった騎 士 たちに憧 れ、母 の元 を離 れたのだが、
まもなく母 が亡 くなったことを聞 かされる。
グルネマンツは「共 に悩 みにて悟 りゆく、純 粋 無 垢 の愚 か者 が
聖 杯 王 を救 済 する」という預 言 を思 い出 し、少 年 を聖 杯 の儀 式
へ連 れて行 く。聖 杯 堂 の少 年 たちの手 により聖 杯 が運 ばれるが名
を知 らぬ少 年 は、聖 杯 を目 の当 たりにして何 もいうことが出 来 ない。
グルネマンツは怒 って少 年 を追 い出 してしまう。
第
2 幕
少 年 はクリングゾルの勢 力 圏 に足 を踏 み入 れてしまうが、クリン
グゾルの手 下 の騎 士 たちを苦 もなく倒 す。また花 の乙 女 たちがまと
わりつくが、そこへ美 しく装 ったクンドリが現 れ、少 年 の名 、パルジフ
160
桐朋学園芸術短期大学紀要 Vol.3
『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
ァルを呼 ぶ。クンドリはパルジファルを誘 惑 すべく口 づけるが、その
瞬 間 彼 にアムフォルタスの傷 への同 情 が目 覚 める。クリングゾルが
投 げつけた聖 槍 も宙 に止 まり、クリングゾルの城 は廃 墟 と化 す。
第
3 幕
長 い年 月 のあと、ある聖 金 曜 日 の朝 年 老 いたグルネマンツは
眠 っているクンドリを見 つけ目 覚 めさせる。そこへ武 具 に身 を固 め、
槍 を持 った騎 士 パルジファルが現 れる。クンドリが彼 の足 を洗 い、
パルジファルは彼 女 に洗 礼 を与 える。
遠 くで鐘 が鳴 り、儀 式 の時 間 である。聖 堂 にはティトゥレルの棺
が運 ばれ、アムフォルタスが担 架 に乗 って現 れる。アムフォルタスは
救 済 としての死 を願 うが、パルジファルがその傷 を負 わせた槍 を傷
に当 て癒 す。聖 杯 は輝 きを増 し、白 鳩 がパルジファルの頭 上 に舞
い降 りる。クンドリは静 かに息 絶 え、パルジファルは新 しい聖 杯 王 と
なる。」
(25)ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハについては、数 多 くの伝 記
研 究 や 研 究 書 が あ る 。 ま た 最 近 の 代 表 的 な 校 訂 に は 、
Joachim
Bumke,
Wo l f r a m
von
Eschenbach,
(=Sammlung
Metzler 36), 8. vollständig neu bearb. Aufl., Stuttgart
2004
などがある。伝 記 風 に言 えば、「ヴォルフラム・フォン・エッシ
ェンバッハ
Wo l f r a m
von
Eschenbach(1160/80?-1220
頃 ):
叙 事 詩 『パルチヴァール』で知 られたヴォルフラム・フォン・エッシェ
ンバッハの生 涯 については、彼 自 身 の作 品 と同 時 代 の言 及 から
しか跡 付 けできない。苗 字 が生 地 に由 来 するとすれば、中 部 フラ
ンケン地 方 アンスバハ南 東 のオーバーエッシェンバッハの出 身 とさ
れ、今 日 では生 地 の町 はヴォルフラムス・エッシェンバッハと名 を
変 えるほどである。マイン河 畔 のヴェールトハイム伯 、ヴィルデンベ
ルク城 のフォン・デュルネ伯 のもとなど各 地 の宮 廷 に従 士 として
仕 え、1203 年 以 降 しばしばこの時 代 の有 力 な文 芸 の保 護 者 テ
ュ ー リ ンゲ ン 方 伯 ヘ ル マン (1190-1217) を訪 れ、伝 説 的 な 「 ヴァ
ルトブルクの歌 合 戦 」にもヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイ
デと共 に描 かれている。クレティアン・ド・トロワの影 響 を受 け翻 案
した『パルチヴァール』はこの頃
1200-10
年 に書 かれ、未 完 の叙
事 詩 『ティトゥレル』、武 勲 詩 『ヴィルレハルム』、7つの叙 情 詩 、ア
ルパ(南 フランスの暁 歌 )の手 法 を用 いたターゲリートを5篇 残 し
ている。最 後 はヴェールトハイム伯 の従 士 としてエッシェンバハに
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『ヴァルトブルグの歌合戦』伝説(上尾)
滞 在 し、1220 年 頃 に死 亡 したとされる。」
しかし、ヴォルフラムの生 涯 について知 っていることはと考 えると、
自 身 の作 品 からのヒントと同 時 代 人 の証 言 に頼 らざるを得 ない。
言 説 からも実 際 に無 学 ではなかったかと読 み取 れる。しかし事 実
はこのような言 及 は特 殊 な作 家 という役 割 によるもので、勃 興 す
る宮 廷 という俗 人 社 会 の自 覚 を表 現 するものとして尊 敬 を集 め
ていた俗 人 詩 人 の役 割 をヴォルフラムが果 たしていた。しかしその
際 でも、ラテン語 の教 養 を持 っていたかには疑 問 が残 る。作 品 は、
自 然 科 学 、地 理 、薬 学 、天 文 といったあらゆる領 域 の事 物 につ
いての素 材 と神 学 上 の議 論 を一 体 化 したものであり、また同 時
代 のフランス文 学 の知 識 もあったことが分 かる。ヴォルフラム個 人
の実 在 性 についてよりも、この時 代 の書 物 を残 した知 識 人 の典
型 的 、それゆえ伝 説 的 姿 も見 て取 れる。
(26)グリムの邦 訳 の職 匠 歌 人 (マイスタージンガー)の名 称 は、コル
マール歌 謡 写 本 の変 遷 にみられるように「meister」が後 のマイス
タージンガー(職 匠 歌 人 )と誤 用 された可 能 性 が高 い。
(27)Le Goff, Jacques, Héros et Merveilles du Moyen Âge,
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宮 廷 歌 人 の伝 説 化 については以 下 に詳 しい。
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中 世 から 19 世 紀 にいたる楽 師 や宮 廷 歌 人 、彼 らによって描 か
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