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「終わりなき対話」と「終わりなき分析」

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「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
――ブランショとフロイト1
郷 原 佳 以
要 旨:
モーリス・ブランショ(1907−2003)はフロイトの精神分析とどのような関
わりをもったのだろうか。まず気づかれるのは、ブランショが同時代の作家や
批評家たちと異なり、精神分析を文学に導入することに対してきわめて慎重で
あり、文学作品の精神分析的解釈を繰り返し批判したことである。文学言語は
作者の精神分析には還元しえない「終わりなきもの」への接近であるというの
がブランショの見解であった。他方でブランショは、精神分析理論における「反
復強迫」や「死の欲動」に関しては、同じ理由から、文学の経験との親近性を
見出していた。注目すべきは、ブランショが1956年の論考「フロイト」におい
て、多くの留保は示しながらも、精神分析における「対話」に「終わりなきも
の」との関わりを認めたことである。ブランショにとって、精神分析は治癒の
ための制度である限りでは文学とは相容れないが、その「対話」においては文
学の経験と接近するのである。
キーワード:
モーリス・ブランショ、フロイト、終わりなき対話、精神分析、反復強迫、
ジャック・ラカン
1 .精神分析理論援用へのためらい
作家・文芸批評家モーリス・ブランショ(1907−2003)とフロイト、ある
いは精神分析の関係を考察するという課題を立てたとき、フロイト以後の
作家、批評家の場合はいずれもそうであるように、大きく言って二つの方
向性からのアプローチがありうるだろう。ひとつはブランショを精神分析
1 本稿は2011年11月 5 日(土)に東京大学本郷キャンパス情報学環福武ラーニン
グシアターで行われたシンポジウム「フロイトの時代――文学・人文科学・
無意識」の発表原稿に加筆修正を施したものである。
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「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
する、すなわちブランショの小説、また場合によっては評論も含めた作品
を精神分析的な方法で読解するということであり、もうひとつは、精神分
析という学問に対するブランショの立場を明らかにするということである。
ひとまずこのように分けたならば、本稿の試みは後者に属する。とはいえ
前者の場合にも、その精神分析的な読解は唯一ではありえず、作品を通し
て作者ブランショの無意識的欲望を取り出そうとするのか、あるいは作者
とは切り離されたものとしてテクストに精神分析的構造を読み込もうとす
るのかによってアプローチの方法も変わってくるだろう。管見のかぎり、
ブランショの虚構作品の精神分析的読解に的を絞った研究はこれまでのと
ころ見当たらないが、短篇『白日の狂気』の語り手に「去勢」を読み込ん
だり、長篇『至高者』の家族構造に「ファミリー・ロマンス」を見て取っ
たり、といったように、小説分析に精神分析的概念を採り入れることはし
ばしば行われてきた 2。また、ブランショ自身に精神分析を施そうとするよ
うな読解もときおり見受けられる。そうした読解の多くは、
『文学空間』の
冒頭部に登場する次の一節に注目するところから立ち上げられている。
幼年時代がわれわれを魅了するのは、幼年時代が魅惑のときであり、そ
れ自体が魅惑されており、そしてこの黄金時代が、啓示されていないが
ゆえに壮麗な光に浸っているように思われるからである。というのも
その光は啓示とは無縁で、何も啓示すべきものなどもたない純粋な反
映、いまだイメージの輝きでしかない光なのだから。もしかすると、母
の姿がもつ力はその輝きを魅惑の力そのものに負っているのかもしれ
ない、そして〈母〉があのように魅惑的に惹きつけるのは、子どもがこ
の世に現れてすべてを魅惑のまなざしのもとに見ているときに、彼女
3
があらゆる魔法の力をうちに秘めているからだといえるかもしれない。
2 Hélène Cixous,“ Apprenticeship and Alienation: Clarice Lispector and
Maurice Blanchot”in Readings. The Poetics of Blanchot, Joyce, Kafka, Kleist,
Lispector, and Tsvetayeva, University of Minnesota Press, 1991. Larysa Ann
Mykyta, Vanishing point: The question of the woman in the works of Maurice
Blanchot, State University of New York, 1980.
3 Maurice Blanchot, L’
Espace littéraire, 1955, Gallimard, « Folio essais », 1988,
p. 30.『文学空間』粟津則雄・出口裕弘訳、現代思潮社、1962年、27頁。以
下、原文フランス語の引用文は、既訳のあるものは頁数等を掲げるが、拙訳
によるものである。
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書くという経験の根源に見出されるイメージの魅惑を語る「本質的孤独」
(1953)の一節である。エクリチュールの根源にある魅惑を語る文脈で、母
の魅惑が喚起されているということ、このことに最初に注意を喚起したの
はジュリア・クリステヴァであるが、この一節は、ブランショの文学理論
がエディプス・コンプレクスの枠組みで読まれうる可能性を示唆して読者
を戸惑わせるものであった 4。その後、母の形象は虚構作品を含めて登場し
なくなるが、上記の一節は20年の歳月を経て、
「ひとつの原光景」という表
題のもとに1976年に発表される断章に繋がってゆくとも考えられる。そし
てその一節は、先にひとまず提起した、
「ブランショに対する精神分析」と
「精神分析に対するブランショの立場」という二項の区分を無効にするもの
である。というのもまず、その一節はある子どもの体験を語った自伝的と
も呼びうるものであり、その断章は、「ひとつの原光景」と題されている。
ところがそれは、後に「(ひとつの原光景?)」と改題されるのである。そ
の断章で語られているのは、
「 7 才か 8 才」の子どもの経験である。子ども
が窓ガラス越しに空を眺めていると、その空が突然「開き、啓示する」
。断
章は次のように続く。
この光景の思いがけなさ(その際限のない性質)というのは、ただ子ど
もを覆い尽くす幸福の気持ち、荒々しい喜びであり、子どもは涙、と
めどなく流れる涙によってしかそれを表すことはできまい。人々は子
どもが悲しいのだと思い、慰めてやろうとする。子どもは何も言わない。
5
彼は以後、秘密を抱いて生きるだろう。もはや泣くことはあるまい。
4 Julia Krisetva, « Comment parler à la littérature », Tel Quel, no 47, Automne
1971, p. 36, in Polylogue, Seuil, 1977, p. 36. 他に、この一節に触れたブランシ
ョ論に以下のものがある。Roger Laporte, « Une passion » in Deux lectures
de Maurice Blanchot, Fata morgana, 1973, pp. 57 −58, 116. Christian
Limousin, « La bête de Lascaux ou la coupure décisive », Gramma, no 5, p. 66.
s Mother”
, Yale French Studies, no 93, 1998, pp.
Lynne Huffer,“Blanchot’
175−195. 合田正人「ブランショの幼年」『思想』第999号、2007年 7 月、101−
102頁。われわれはこの問題を以下で論じた。郷原佳以「ヴェロニカ、あるい
はファリック・シスターの増殖――ブランショとセクシュアリティ」
『別冊水
声通信 セクシュアリティ』水声社、2012年、267−271頁。
5 Blanchot, « Une scène primitive », Première livraison, no 4, 1976, repris dans
Écriture du désastre, Gallimard, 1980, p. 117.
L’
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「ひとつの原光景」と題されている以上、1976年のブランショがフロイト
の精神分析を参照し、少なくともその概念を受け入れていたことは疑いを
容れない。実際、
『災厄のエクリチュール』のこの直前の箇所には「子ども
が殺される」と題された1976年の断章が再録されており、そこでは、フロイ
トの「子どもが叩かれる」
(1919)を踏まえた著書『子どもが殺される』を
著したラカン派精神分析家セルジュ・ルクレール、そして、小児精神分析
家ドナルド・ウィニコットの理論が参照されている 6。しかし、先の断章を
『災厄のエクリチュール』に再録するにあたっては、ブランショは断章の見
出しを「(ひとつの原光景?)」に修正し、かつ、文中にあった「原初的な
〔primitive〕
」という語を削除した。そのようにして彼は、
「原光景」という
概念を文字通り疑問に付し、
「括弧入れ」したのである。この挙措は、一見
すると、精神分析に対する時代遅れな疑念や抵抗の表明であるように見え
るかもしれない。しかし、これは精神分析に対するブランショの姿勢を象
徴的に示すものである。1976年といえば、フロイト自身も嘆いたように 7 フ
ランスに根深く巣くっていた精神分析への激しい抵抗 8 も払拭され、積極的
に他領域への援用が行われるようになっていた時期である。しかしブラン
ショは、クリステヴァやソレルスが同時期にそうしていたように、文学と
精神分析を積極的に結びつけるということはせず、その援用に関して一定
の距離をとり続けた。國分功一郎が「子どもが殺される」の一節 9 を引き、ま
たフロイトのエッセイ「素人分析の問題」を想起させながら指摘している
ように、ブランショにとって問題だったのは、臨床としての精神分析の是
非ではなく、精神分析に携わっていない者が精神分析の用語や概念を借用
6 Blanchot, « On tue un enfant (fragmentaire)», Le Nouveau Commerce, no 33−
34, repris dans L’
Écriture du désastre, op. cit., pp.108−117. ブランショは70年
代、リオタールに10年ほど先だって、精神分析理論を参照しつつ「インファ
ンス」の問いを思索した。
7 Alain de Mijola, Freud et la France 1885−1945, PUF, 2010, pp. 214−215.
8 Elisabeth Roudinesco, Histoire de la psychanalyse en France 1885−1939,
1925−1985, Fayard, 1994, LGF, 2009, pp. 354−371.
9 「精神分析の語彙によれば(思うに、そうした語彙を使用してよいのは、精神
分析に携わる者、すなわち、その人にとって精神分析が危険であり、極度の
懸念であり、日々の問い直しである場合だけである――そうでなければ、精
神分析は一個の確立した文化に備わる便利な言語であるにすぎない)[…]」。
L’
Écriture du désastre, op. cit., p. 110.
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すること――フロイト自身は歓迎していたとしても10 ――をめぐる一種の倫
理だったといえるかもしれない 11。そしてこの態度は、基本的には初期から
一貫したものだった。ルディネスコが指摘するように、フランスの文学界、
とりわけシュルレアリスムが同時代の医学界と対照的に「素人分析」とし
ての精神分析に飛びついたのだとすれば 12、ブランショはその熱狂に同調し
なかった。後に確認するように、彼は精神分析を文学に「応用」しようと
する批評に違和感を隠さなかった。哲学に関しては、必ずしも精神分析と
同じステータスにはない。たとえば1947−48年の言語論「文学と死への権
利」において、ブランショはヘーゲルとマラルメをある程度まで同一線上
に置いて考察した。しかし、後のクリステヴァのように、マラルメとフロ
イトを結びつけて論ずるということはしなかった。実際、後に検討する1956
年の論考で、ブランショははっきりと述べている。
「精神分析の経験と文学
の経験は、たとえどちらも根源的なものに向かっているとしても、結ばれ
るようにはできていない」13。
では、
「精神分析の経験と文学の経験」はいかなる仕方で異なるのか。結
局のところ、ブランショの文学論はフロイトの精神分析といささかも共鳴
する点がなかったのか。いや、最終的にブランショが精神分析をたんに否
定したのではなく「括弧入れ」したのだとすれば、そこには留保つきの賛
同があったはずである。だとすれば、その留保と賛同はいかなるものだっ
たのか。以下、精神分析への距離のとり方に注目しながらブランショのテ
クストを辿ることで、こうした問いに答えたい。まずは批評家ブランショ
の最初期に立ち戻ろう。
10「精神分析は、人類の文化やその偉大な制度――たとえば芸術、宗教、社会秩
序――の成立の歴史を研究する全ての学問にとって不可欠なものになるかも
しれません」
(
「素人分析の問題」石田雄一・加藤敏訳、
『フロイト全集19』岩
波書店、2010年、186頁。Sigmund Freud, „ Die Frage der Laienanalyse in
”
Gesammelte Werke, Band 14, S. Fischer Verlag, 1948, S. 283)。
11 國分功一郎「抽象性と超越論性――ドゥルーズ哲学の中のブランショ」
『思想』
999号、2007年 7 月、同「素人による精神分析読解の問題」
『フロイト全集19』
同上、月報。
12 Roudinesco, op. cit., p. 573.
13 Blanchot, « Freud », NRF, n o 45, septembre 1956, p. 495. この箇所は
L’
Entretien infini 再録版では削除されている(以下、異同がない場合は再録
版から引く)。
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「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
2 .還元主義的解釈として――精神分析への不信
ブランショは、1929年、レヴィナスと出会ったストラスブール大学でド
イツ語と哲学を学んだ後、パリに出て、今度はソルボンヌに登録し、懐疑
主義をめぐる DES(高等教育修了資格)論文を準備する。それと並行して、
あるいは DES 取得後かもしれないが、さらにサン=タンヌ病院で医学の勉強
を始め、神経学と精神医学を専攻する。クリストフ・ビダンが指摘してい
るように、この頃サン=タンヌ病院で研修をしていたラカンとすれ違ってい
た可能性もあるだろう 14。1929年といえば、20年代を通してフロイトの著作
の仏訳が進み、
『NRF』誌の周辺やシュルレアリスムなど文学界においては
精神分析への関心が高まっていた時期である。後にブランショの親友とな
るジョルジュ・バタイユが、1926年、29歳の時に、やはりサン=タンヌ病
院の医師でありシュルレアリストたちの分析医でもあったアドリアン・ボ
レルのもとで分析を始めたことも想起しておくに値する 15。しかしブランシ
ョは、精神医学で博士論文を仕上げることはなく、おそらく研修も行って
いないとされている 16。サン=タンヌ登録に関しては、われわれはビダンの
14 Christophe Bident, Maurice Blanchot. Partenaire invisible, Champ Vallon,
1998, p. 49. 少なくとも60年代まで、限定的であり誤解を含むものであるにせ
よ、ブランショの精神分析理解はラカンに多くを依拠している。ラカンは1962
年のセミネールでブランショの『謎の男トマ』を取り上げている。Jacques Lacan,
« De la réalisation du fantasme » (extrait du séminaire « L’
identification »,
leçon du 27 juin 1962), Magazine littéraire, no 424, « Maurice Blanchot »,
octobre 2003.
15 Roudinesco, op. cit., pp. 467−468. とはいえ、アドリアン・ボレルは「フロイト
の諸規則を自由に用い」、「フロイトの『教条主義』に敵対していた」(ibid.,
p. 468)異端の分析家である。Michel Surya, Georges Bataille. La mort à
l’
œuvre, Séguier, Gallimard, 1987, 1992, pp. 123−127. ミシェル・シュリヤ
『G・バタイユ伝(上)
』西谷修・中沢信一・川竹英克訳、河出書房新社、1991
年、131−133頁。
16 Bident, op. cit. ただし、1956年の論考「フロイト」でブランショは次のよう
に述べている。「いかなる精神病院においても、あの暴力的な印象が見る者
〔spectateur〕を驚かせる――見ること〔le spectacle〕によって彼はさらに暴
力を増大させるのだが。言葉は自由ではなく、仕草は当てにならない。患者
と医師、どちらが言うことも、どちらが為すことも、奸策、虚構、幻惑だ。ま
ったき魔術である」
。実際に精神科の診療を「見た」のでなければ、このよう
な言葉が出てくるだろうか。« La parole analytique », art. cit., p. 343.
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伝記のなかの数行ほどの記述に頼るほかはなく、ブランショが精神医学を
修めることになった動機や経緯、またいつまで学業を続けたのかも知りえ
ない。彼はソルボンヌで DES を取得した翌年の1931年、24歳にして初めて
批評家として筆を執り、その後は『ルヴュ・フランセーズ』や『ジュルナ
ル・デ・デバ』といった新聞や雑誌に発表の場を得て文筆家として身を立
ててゆくことになる。したがって、この頃ブランショが精神医学に関心を
抱き、その道に進むことを自ら望んだのだと性急に判断することは慎まな
ければならない。ことによると、ブランショは医学の道を見限って文筆の
道を選んだのかもしれないのである。われわれに想定できるのはただ、こ
の時期のブランショが、15年ほど前にブルトンがそうしたように、あるいは
20年ほど後にフーコーがそうするように、一定程度の専門的な精神医学を
学び、そのうえでそれについて何がしかの見解を抱いたに違いないという
ことだけである。ではその見解は、その後の著述のなかに表れてくるのか。
まず想起されるのは、後に『白日の狂気』と改題される1949年初出の短
篇「物語?」のなかに「精神病の専門家」が登場することである。この人
物と「視力の技術者」の二人が、ある事件に遭ったらしい語り手に、
「何が
起こったのか」と問い質す。ところが語り手は、「あれらの出来事から話
〔récit〕を作ること」ができない。しかしそうした能力の欠落は尋問者には
理解されないようである。そこで発せられるのが、「物語〔récit〕? いや、
物語はない、もはや、けっして」というよく知られた一文である 17。
「物語」
を強要する者としての「精神病の専門家」
、この像がブランショ自身の医学
生時代の経験に基づいている可能性は十分考えられるだろう。
「精神病の専
門家」に対する否定的見解は、その 2 年後に発表される論考「比類なき狂
気」において、より明確なかたちをとる。この論考は、芸術家の狂気を扱
ったヤスパースの精神医学分野での著作『ストリンドベリとヴァン・ゴッ
ホ――スウェーデンボリとヘルダーリン』
(再版 1949)への書評として書か
れたものだが、後半ではヤスパースへの異論を通してブランショ自身のヘ
ルダーリン論が展開されている。論考は、芸術家の狂気に対する精神医学
および一般的見解への批判、その陥穽を免れたヤスパースの精神医学の要
約、ヤスパースへの異論、という三段構成をとっている。冒頭に示される
精神医学への批判とは、精神医学が芸術家の狂気を不完全な生への落下と
17 Blanchot, La Folie du jour (1949), Fata morgana, 1973, pp. 37−38.『白日の狂
気』田中淳一訳、朝日出版社、1985年、35頁。
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「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
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して否定的にしか捉えないまま一般化してしまうということである。註に
はそうした精神医学の代表として、ジャン・ドゥレー、アンリ・エイ、ピエ
ール・ジャネの名が挙がっており、ブランショが精神医学の言説にある程
度親しんでいたことが窺われる――そのことは、その 2 年後の読書論の冒
頭でジャネの症例が引かれていることからも確認される 18。興味深いのは、
その同じ註でラカンのパラノイア論が参照され、そうした精神医学とは異
なり「精神病にいささかも欠損の現象を認めない」のが「精神分析」だと
されていることである 19。1932年に刊行されたラカンの博士論文をブランシ
ョが読んでいたこともここからわかる 20。ならば精神分析には好意的だった
のか、といえば、そうではない。以上に見た精神医学批判は精神分析への
眼差しとも無縁ではない。
精神分析――というより、ブランショが当時のフランスの文学者たちの
受容に影響されつつ「精神分析」と考えていたもの 21――についても、やは
・・・・・・・・・・・・・
り40年代以降、文学との関係という観点から否定的な見解が垣間見られる
ようになる。それはしかし、精神分析を直接批判するということではなく、
精神分析への参照が当然予想されるところであえてそれをしない、といっ
た消極的な仕方によるものが大半である。たとえば彼は、同時代の文学者
の例に漏れず「夢」に大きな関心を抱き、この時期「夢」について繰り返
し語っているのだが、
『夢解釈』の仏訳が1926年に刊行されていたにもかか
わらず、フロイトを援用することはない。この点で、ブランショはシュル
レアリスムからは隔たっており、ヴァレリーやサルトルに近いといえよう。
とはいえ50年代になると、その態度はやや軟化して、時には精神分析の参
照も見られるようになり、1956年にはついに「フロイト」という直截な表
18 Blanchot, « Lire », NRF, no 5, mai 1953 in L’
Espace littéraire, op. cit., p. 251.
『文学空間』前掲訳書、267頁。
19 Blanchot, « La folie par excellence », Critique, no 45, 1951, pp. 100−101. この
論考は、2 年後にヤスパースの著書の仏訳に序文として収められた(1970年の
再版時に補記あり)
(現在は独語版にも収録)
。Karl Jaspers, Strindberg et Van
une étude de Maurice Blanchot, Minuit, 1953.
Gogh, précédé d’
20 ただし、このパラノイア論はラカンがいまだ精神分析を始める前の「精神医
学」の論文である。Andre Lacaux, « Blanchot et Lacan », Essaim, no 14,
2005, p. 43.
21「作家たちがフロイトの理念を発見するとき、彼らがそこに読むのは医師や分
析家とは異なるものである」(Roudinesco, op. cit., p. 572)。
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題の論考が書かれることになる。この論考は1969年に『終わりなき対話』
に再録され、そして70年代には先に見たとおり、ルクレールやウィニコッ
ト、さらにはポンタリスといったラカン以降の分析家も参照されるように
なる。かくして精神分析への関心は、ブランショにおいて持続、あるいは
むしろ回復するのだといえる。その経緯を次に見ることにしよう。
40年代から精神分析への見解が垣間見られるようになると述べたが、そ
れはある意味では自然な流れである。というのも、1940年にブランショは
バタイユと知り合い、深く刺激し合う関係となるのだが、バタイユは自ら
分析を受けていただけでなく、30年代から『社会批評』誌上でフロイト理
論を自らの考察に援用し、ラカンらの精神分析の著作も積極的に紹介して
いたからである。またバタイユと20年代から親交のあったミシェル・レリ
スらもボレルの分析を受けていた。精神分析が文学者の間に浸透する様を
改めて目の当たりにしたブランショは、自らも何らかの態度を示すことを
余儀なくされたのだろう。その結果として彼が試みたのは、文学、そして
「夢」を精神分析から救い出すことだった。
1942年、ブランショはバシュラールの『水と夢』や『火の精神分析』を
書評に取り上げ、それらが「古典的精神分析に依拠」しているために対象
から離れ、読者の夢の投影になっていると批判する。同型の批判を、彼は
その数ヶ月前にシャルル・モーロンの『謎の人マラルメ』
(1941)に向けて
いた。
「彼は詩そのものについて語っていると思っているが、自分自身のこ
としか語っていない」。後に精神分析的な読解を標榜し、『マラルメの精神
分析序説』
(1950)を著すことになるモーロンは、同書でマラルメのすべて
の詩の意味を分かりやすく説明すると自認していた。ブランショは、サン=
ポル・ルーの詩をめぐるブルトンの言葉を引きながら、そうした目論見が
いかに詩そのものと無縁であるかを指摘する。引用されたブルトンの言葉
は以下の通りである。
「あるとき、ずいぶん不誠実な人が、あるアンソロジー
の解題のなかで、現存するある大詩人の作品が提示するイメージを表にま
とめるなどということをしてくれた。そこにはこんなふうに書いてあった。
『舞踏会服を身にまとった毛虫の翌日』は『蝶』を言わんとする。『水晶の
・・・・・・
乳房』は『水差し』を言わんとする。違いますよ、言わんとする、ではな
い。サン=ポル・ルーは、言わんとしたことを、確かに言ったのですよ」
。こ
れを受けて、ブランショは次のように述べる。
「詩作品の意味作用は独自で
還元しえない構造をしており、実践的な理解可能性を支える意味には比較
― ―
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「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
しえないものであって、その構造を無視して意味作用を把握しようとする
試みは、いかなるものも、大犬座――星座――について知るために犬――
吠える動物――を研究しようとするのと同じくらいばかげている」22。かく
して、ある特異な形式として現れている作品――たとえそれが複数であっ
ても――の背後に何らかの特定の意味作用を見出そうとする読解を、ブラ
ンショは批評として認めなかった。そしてブランショにとって、精神分析批
評とはそのような還元主義的なものだった。なるほど彼は、先のバシュラ
・・・
ール批判のなかで、バシュラールが依拠しているのは「古典的精神分析」23
だと述べ、また1959年のバシュラール論では、問題があるのは「精神分析の
異論の余地ある解釈学的概念」24 だと注記している。しかし、ではフロイト
の精神分析はそれとは別様だと考えていたのかといえば、これから見るよ
うに、やはり「解釈」という面においては対象を一つの意味に収斂させる
還元主義的なものだと考えていたようである。
ブランショの筆のもとにフロイトの名が最初に現れるのは、自分の夢を
できる限りすべて記述するという奇抜な試みを行った作家リュック・デュ
ルタンのエッセイ『夢の秘密』
(1944)の書評の冒頭文においてである。
「半
世紀前から――フロイトの最初の重要な著作が刊行されたのは1900年であ
る――夢をめぐる体系的な研究が増えてきているにもかかわらず、大抵の
人々にとって夢の活動は半ば解決された問題というよりひとつの謎であ
る」25。著者はつづけて、ヴァレリー、モーリー、ヘーゲル、ブルトンの名
を挙げてそのことを示し、そのうえでデュルタンの試みを讃える。しかし
22 Blanchot, « La poésie de Mallarmé est-elle obscure ? » (1942) in Faux pas,
Gallimard, 1943, pp. 130, 127, 128. ブルトンの引用は「現実僅少序説」より
(« Introduction au discours sur le peu de réalité » (1925) in André Breton,
Œuvres complètes, t. II, Marguerite Bonnet (éd.), Gallimard, « Bibliothèque de
la Pléiade », 1992, pp. 276−277)。
eau et les rêves », Journal des débats, le 21 octobre,
23 Blanchot, « Le feu, l’
1942, p. 3, repris dans Chroniques littéraires, Gallimard, 2007, pp. 245−246.
24 Blanchot, « Vaste comme la nuit » (1959) in L’
Entretien infini, Gallimard,
1969, p. 467. ここで配慮されているのはおそらくラカンである。バシュラール
論に見られるブランショの批評観については以下で検討した。郷原佳以『文
学のミニマル・イメージ ―モーリス・ブランショ論』左右社、2011年、第 2
部第 3 章。
25 Blanchot, « Les Secrets du rêve », Journal des débats, 6 avril 1944, repris dans
Chroniques littéraires, op. cit., p. 582.
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ながら、デュルタンが結局のところ夢の「普遍性」を主張したことは、超
越性(「無意識であれ、先祖の力であれ、意識よりも優れた夢の活動であ
れ」
)への依拠を免れえない観察者の限界であるとして、最後に再びフロイ
トの名を引き合いに出して稿を閉じる。
「フロイトは初めて夢を科学的に解
釈することを教えた。彼と共に、あるいは彼の後に、他の者たちはその性
質を説明しようとした。残されているのはただ、夢とは何かを記述するこ
とだけである」26。あたかもまるで、夢を解釈する体系的な学問からは、
「夢
とは何か」という端的な問いがこぼれ落ちてしまうと言わんばかりである。
解釈するのではなく、ただ記述することが求められているのである。
次にフロイトの名が見えるのは、1947年のジッド論である。このジッド
論では、主として『日記』の読解を通して、ジッドが書くという経験の二
重の要請の間で苦悩する様が浮き彫りにされる。一方では、ジッドにとっ
て書くことは「内的気分〔disposition〕の産物」であるどころかむしろそ
の「原因」であり、自己を「意のままにする〔dispose〕」経験である。と
ころが他方で、象徴派から出発した彼は書くことにおいて形式的な完成を
目指さずにはいられない(『日記』は文体に関する反省に満ちている)。経
験と形式の同時性というこの困難な要請に直面してジッドは苦悶し、そし
てそのジレンマを「誠実さ〔sincérité〕」という語への違和感として表明す
る 27。いまや作家にとって「誠実である」とはどういうことかが甚だ不明瞭
となったからである。このジレンマは、実のところ、ブランショの文学論
の根底に横たわる問題である。彼がカフカやマラルメやランボーらを通し
て考察していたのはつねにこの問題であるといってよい。言い換えれば、
ブランショの問題とは一貫して、作家とはその営みからして構造的に、不
誠実であることによってしか誠実であることはできず、不純であることに
よってしか純粋であることはできない、ということだった。そうした文脈
において通りすがりに触れられるのが、フロイト(とマルクス)の名であ
る。
「ジッドはフロイトよりも前に誠実さの欠陥と悪――この語の道徳的で
ない意味において――を捉えており、マルクスほどではないが、誠実さの
ひねくれた権威の不適切さを見抜いていた。それは歴史も世界も知らずに
26 Ibid., p. 586.
experience », L’
Arche, no 23, janvier 1947,
27 Blanchot, « Gide et la littérature d’
repris dans La Part du feu, Gallimard, 1949, pp. 209−220.『焔の文学』重信常
喜・橋口守人訳、紀伊國屋書店、1997年、269−284頁。
― ―
131
「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
純粋だと主張する内的な盲目の眼差しのために変質させられている」28。作
家はフロイトより前にその理論を知っていた、この型の議論はいまならピ
エール・バイヤールの「応用文学」29 を想起させるものだが、ブランショが
「応用精神分析」よりは「応用文学」の側にいたことは疑いえない 30。
数ヶ月後、ブランショは一篇のミシェル・レリス論を著す。このときから
60年代まで彼は三篇の論考をレリスに捧げるが、そこで飽かず行われてい
るのはレリスを精神分析から引き離すことである。先述のようにレリスは
ボレルに分析を受け、フロイト理論の重要性を即座に理解したばかりか自
らの著述に活かそうとしたとされる 31。しかしブランショによれば、
「
『成熟
の年齢』は自己解釈の試論であり、そこでは細かな好み、偶然の振る舞い、
普通なら無意味と思われるような日常の取るに足らない逸話が、存在の深
い意味がそのまわりをめぐっているようないくつかのテーマに結びつけら
れる。通常の伝記とはかけ離れた試みであり、因果関係による説明や精神
分析のような体系的な観点から――さらには解釈のそれからさえも、つま
り、いかにしても理解するという観点から――逃れ去るがゆえにいっそう
意味深い」32。
「自分自身に向き合って、自分の谺に耳を傾け、著者はもはや
自分が想い出しているのか創り出しているのかわからない。けれども彼が
厳密に監視しているこの混乱は、真理の新たな次元に必要なのだ。彼は自
分のうちに現実の存在を探しているのではもはやなく、といって自分を精
神分析しているのでもない」33。「彼は他方で精神分析を識っていた。[…]
28 Ibid., p. 215.
29 Pierre Bayard, Peut-on appliquer la littérature à la psychanalyse?, Minuit,
2004.
30 現実には、ジッドはフロイトに深い関心を抱いた文学者である。フロイトの
著作の仏訳を心待ちにし、
『NRF』誌への翻訳掲載許可を求めてウィーンに書
簡を送り、自分の著作に序文を書いてもらいたいと望み、フロイトの弟子ウ
ージェニー・ソコルニカに分析を受け、ところがうんざりして中断し、代わ
りに彼女をデフォルメして『贋金つかい』に登場させ(ソフロニスカとして)
、
かくして分析を「終わらせる」
。Roudinesco, op. cit., pp. 687−700.
31 Roudinesco, op. cit., p. 468.
32 Blanchot, « Regards d’
outre-tombe », Critique, no 11, avril 1947, repris dans
La Part du feu, op. cit., p. 244.『焔の文学』前掲訳書、317頁。
ange », NRF, no 38, février 1956, repris dans
33 Blanchot, « Combat avec l ’
Amitié, Gallimard, 1971, p. 157.
L’
― ―
132
関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
それゆえ誰よりも、彼は自分の夢を解体し、資料のように読解することが
できただろう。ところがそれこそ彼が自らに禁じたことだった、そして彼
が自分の夢を公にするのは、解読の喜びをわれわれに与えるためではない、
・・・・・・・・・・・・・・・・
そうではなく、われわれがそれらの夢をそのままに迎え入れることによっ
て、同じ慎ましさを示すためなのだ。それらにふさわしい光のなかで、文
・・・・・
学的な肯定の痕跡をそれらのうちに見出すことを覚えながら。精神分析的
・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ 34
でもなく、自伝的でもなく、文学的な肯定の痕跡を」 。同種の例はまだ挙
げることができる。ブランショに従えば、カフカは精神分析が暴き出せる
ようなことは何も隠しておらず 35、リルケにとって精神分析は「悪魔」も
「天使」も一掃してしまうがゆえに作家にとって嘆かわしい空虚をもたらす
ものであり 36、カミュの『異邦人』を「平板な精神分析」で解こうとする者は
前もってこの小説のなかで告発されており 37、クロソウスキーの小説を「精
神分析的」とみなすことに意味はない 38。もはやすべての例を挙げる必要は
ないだろう。ブランショにとって「精神分析的解釈」と「文学」は相容れな
い。なぜなら『文学空間』においてカフカ、マラルメ、リルケ、シュルレ
アリスム等を通して一貫して主張されたように、書くことは「たえまなき
もの、終わりなきもの」への接近である 39 にもかかわらず、
「精神分析的解
34 Blanchot, « Rêver, écrire », NRF, no 102, juin 1961, repris dans ibid., p. 164.
強調引用者。
35 Blanchot, « Kafka et l’
exigence de l’
œuvre », Critique, no 58, mars 1952, repris
dans L’
Espace litteraire, op. cit., p. 90.『文学空間』前掲訳書、93頁。
36 Blanchot, « Freud », art. cit., p. 495. ブランショはそのように読むことのできる
リルケの書簡を引いている。しかし、フロイトのもとで分析家となったルー・
サロメと親密な関係にあったリルケは、1913年にルーと共にミュンヘンでの
国際精神分析学会に赴き、フロイトと語らい、その 2 年後にはウィーンのフ
ロイト邸を訪れており、けっして精神分析に反感のみ覚えていたのではない。
Cf. Michael Molnar, « Entre Rilke et Freud », Rilke et son amie Lou AndréasSalomé à Paris, Stéphane Michaud et Gérard Stieg (dir.), Presses de la
Sorbonne Nouvelle, 2001, p. 82.
37 Blanchot, « Le détour vers la simplicité », NRF, no 89, mars 1960, repris dans
L’
Amitie, op. cit., p. 224.
38 Blanchot, « Le Rire des Dieux », NRF, no 151, juillet 1965, repris dans ibid.,
p. 195.
39 L’
Espace litteraire, op. cit., pp. 20−22 et passim.『文学空間』前掲訳書、17−20
頁、等々。
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133
「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
釈」は対象の背後に真理を見出そうとし、あらゆる可能性を備えているは
ずの作品を一つの意味に限定し、還元してしまうからである。
3 .反復強迫
だとすれば、逆に、ブランショが精神分析理論において注目するのが「反
復強迫」、そして「快感原則の彼岸」(1920)においてその根源に見出され
た「死の欲動」であることには何の不思議もない。1952年、リルケを通し
て「芸術の経験」について語りながら、彼はそれをある「肯定」の経験と
して描き出す。それは「コンプレクス」と呼ばれるものに似ているという。
この肯定は始まりにも終わりにも耐えられないもののたえまなさ、産
出も破壊もしないものの停滞、けっしてやって来たのではなく、切断
も出現もせず、ただ戻ってくるもの、回帰の永遠の小波である。この
意味において、芸術のまわりには、死、反復、そして挫折と結ばれた
契約がある。再開、反復、回帰の宿命、すなわち不気味さの感覚が既
視感と結びつき、取り返しのつかないものが終わりなき反復のかたち
をとり、同じものが二重化の眩暈のなかで与えられ、認識するのでは
・
なく再認することしかできない、そうした経験をほのめかすもの、こ
れらはすべて、次のような定式で表される原初の彷徨を暗示している。
最初のもの、それは開始ではなく再開始であり、存在とはまさしく最
・・・・
初に存在することの不可能性である。
これは「コンプレクス」と呼ばれる危機の形を想い起こせば明らか
にできるような――説明するのではなく――運動である。
「コンプレク
ス」の本質は、それが生ずるときにはすでに生じており、繰り返され
るのみだということである。そこにこそ「コンプレクス」の特徴があ
り、それは反復の経験である。「またもや、またもや!」、これは取り
返しのつかないもの、存在と闘う不安の叫びである。またもや、また
もや、これがコンプレクスの閉じた傷である。それはまたもや起こっ
た、それは再開する、もう一度。経験の再開始であって、経験が成功
しないという事実ではない、これこそが挫折の根本である。すべては
つねに再開する――そう、もう一度、またもや、またもや。
すでにフロイトは、反復への傾向、過去への力強い呼びかけに驚い
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134
関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
て、そこに死の呼びかけそのものを認めていた。しかしそれはおそら
く結局のところ次のように現れるはずだろう。死によって反復を明ら
かにしようとする者は、また可能性としての死を打ち砕き、死そのも
のを反復の魔法のうちに閉じ込めるべく導かれる。そう、われわれは
災厄に結びついているのだ、しかし挫折が戻ってくるときには、挫折と
はまさしくこの回帰そのものなのだと理解しなければならない。開始
40
に先立つ力としての再開始、これこそがわれわれの死の彷徨である。
「すでにフロイトは」という表現は、ここにあるのが「理論以前に作品が
ある」という型の言説ではないことを示しているだろう 41。そして確かに、
ここに示されたような反復構造はブランショにおいて一貫して書く営みと
結びつけられており、多くのブランショ論がすでにその関係を主題として
いる 42。そればかりか、「快感原則の彼岸」に示された「反復強迫」が、抑
圧されたものを想起する代わりに反復し、原初の状態の回復を求めて死へ
向かう構造であったことを踏まえれば 43、芸術のうちに「死、反復、挫折と
の契約」を見出すブランショの芸術論、のみならず、虚構作品もその構造
を描いているようにも思われる。
『文学空間』では「作品」について次のよ
うに言われている。
「結局のところ作品はきわめて古い、恐ろしいほど古い
ものであり、時間の夜のなかで失われるものである。つねにわれわれに先
立つ起源であり、つねにわれわれ以前に与えられている」44。長篇『至高者』
では主人公ソルジュとその姉ルイーズの間で幼年時代に起こった何ごとか、
「何か古いもの、犯罪的なほど古い何か」
、
「何よりもひどく死んでいる過去、
40 Blanchot, « L’
expérience originelle », NRF, no 80, juin 1952 in L’
Espace
littéraire, op. cit., pp. 326−327.『文学空間』前掲訳書、345−347頁。下線強調
引用者。
41 現実にも、主として論じられている「オルフォイスへのソネット」は「快感
原則の彼岸」の 3 年後の作品である。
42 たとえば最初にブランショ特集を組んだ雑誌 Critique (no 229, juin 1966) の
収録論文の多くが書くことと反復の関係を主題としている。
43 フロイト「快原理の彼岸」須藤訓任訳、
『フロイト全集17』岩波書店、2006年、
”
69、92頁。„ Jenseits des Lustprinzips
in Gesammelte Werke, Band 13, S.
Fischer Verlag, 1940, S. 16, 40.
44 « L’
expérience originelle », art. cit., p. 305.『文学空間』前掲訳書、323頁。
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135
「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
もっとも恐ろしい過去」が二人を呪縛する 45。『私についてこなかった者』
の語り手と「彼」もそのような過去を感じ取る。「[…]彼もその恐怖を感
じているようであり、その恐怖がこの瞬間をある別の時間へ、ずっと古い、
恐ろしいほど古い時間へと押し返そうとしていた」46。後年の著作『彼方へ
の一歩』にも次のような断章が読まれる。
「あたかも彼が、もっとずっと後
になって、すなわち、ずっと以前に消滅した諸々の書物がただ恐ろしいほ
ど古く言葉がないような過去、恐ろしいほど古い過去のこのつぶやく声以
外には言葉がないような過去を想起するような時代に、書かれるであろう
『白日の狂気』
、
『最後の人』
、
「終わりな
書物の余白に書いたかのように」47。
き対話」においても、過去に起こったらしい「何か」が終始問題となって
いる 48。にもかかわらず、上記の引用の下線部は、そうした「過去」との関
係の結び方に関するいささかの懸念を示しているように見える。フロイト
が「反復強迫」の謎を究明しようとして「死の欲動」という仮説に至った
・・
とすれば、ブランショは「反復」の謎を「死」によって解決することはで
きないと念を押す。なぜなら「死」は自己の可能性ではなく不可能性でし
かないからである。こうした賛同と懸念は 4 年後の論考「フロイト」にお
いて改めて検討されることになる。「精神分析の経験と文学の経験は[…]
結ばれるようにはできていない」という先に引用した一文が現れるのは、
この論考においてである。
4 .魔術、転移、
「対話(entretien)」
なぜブランショは、1956年、これまで通りすがりにしか触れてこなかっ
たフロイトの名を掲げた論考を書くことになったのか。そこにはいくつか
の外在的な理由がある。まずこの年がフロイト生誕百周年にあたるという
ことだ。論考を開くのも、「フロイトは百歳だ」49 という一文である。当然
45 Blanchot, Le Très-Haut, Gallimard, 1948, « L’
Imaginaire », p. 58.『至高者』
天沢退二郎訳、筑摩書房、1970年、68頁。
accompagnait pas, Gallimard, 1953, « L’
Imaginaire »,
46 Blanchot, Celui qui ne m’
p. 60.『私についてこなかった男』谷口博史訳、書肆心水、2005年、79頁。
47 Blanchot, Le Pas au-delà, Gallimard, 1973, p. 33.
48 以下で論じた。『文学のミニマル・イメージ』前掲書、155−158頁。
49 « Freud », art. cit., p. 456.
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136
関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
ながら、記念の論集や雑誌特集がいくつも企画され、ブランショもそれら
を目にして改めて精神分析について考える機会をもったことだろう。その
うち少なくとも二冊については判明している。ブランショ自身が註で明か
しているのだが、この年、フロイトのフリース宛て書簡を収録した『精神
分析の誕生』
、および、1953年のフランス精神分析学会の記録を収録した雑
誌『精神分析』の創刊号が刊行されたのである。このうち、より重要なの
は後者である。この創刊号にはラカンの「精神分析におけるパロールとラ
ンガージュの機能と領野」
、いわゆるローマ講演が収められている。ブラン
ショの論考は「フロイト」という表題ではあるが、フロイトの著述よりも
このローマ講演に触発されて書かれたものである。奇妙なことに、この論
考が「分析的対話」と改題されて『終わりなき対話』に収められる際、ブ
ランショはそのことをわざわざ註で断っている。
「当時発表され、上記に再
録された指摘は、このジャック・ラカンの報告としか関係がない」50。アン
ドレ・ラコーはここから、ブランショが『精神分析』誌の他の記事を無視
していることを強調し、ブランショは言語学の新しい動向に関心がないの
だとしている 51。というのもこの創刊号の特集は「パロールとランガージ
ュ」であり、巻頭を飾るバンヴェニストの論考からラカン、イポリット、
ダニエル・ラガーシュ、さらにラカンの翻訳によるハイデガーの「ロゴス」
に至るまで、言語学の最新動向を反映した誌面となっているからである。
しかし、彼は本当に構造主義的言語学に興味がなかったのだろうか。むし
ろ、先の断り書きは一種の「否認」ではないだろうか。実際、彼はローマ
講演以外に同誌収録のラカンのセミネールからも引用しているのである 52。
事実は、言語学的関心の横溢するこの『精神分析』誌の特集全体が、ブラ
ンショをして、分析場面における言語のあり方という問題に改めて目を向
けさせたのではないだろうか。言い換えれば、このとき、精神分析は改め
て言語の問題として姿を現したのである。ブランショは、「〔精神分析の〕
外部の人間にとって、フロイトの主たる功績が対話の驚くべき形式によっ
て人間の文化を豊かにしたことにあるのは自明である」53 と嘯くが、精神分
50 Blanchot, « La parole analytique » in L’
Entretien infini, Gallimard, 1969, p. 349.
51 Lacaux, art. cit., pp. 45−46.
52 Lacan, « Introduction au commentaire de J. Hyppolite », Psychanalyse, no 1,
« Sur la Parole et le Langage », PUF, 1956, p. 21, note 1.
53 « La parole analytique », art. cit., p. 348.
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137
「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
析への彼の真の関心はむしろここから始まるのではないだろうか。という
のも、この論考が描かれた背景にはもうひとつの事情があるからである。
すなわち、ブランショ自身が当時関心を抱いていた主題がまさしく「対話」
であったことである。彼は1953年の中篇『私についてこなかった者』にお
いて、「s’
entretenir〔対話をする=間に保つ〕」という語を独特の仕方で用
いて後の「entretien〔間にある対話〕」概念を実質的に始動させている。
1956年には論考「対話の苦悩」において、カフカにおける会話を「dialogue
〔弁証法的対話〕
」から切り離している。
「entretien」とは、後の「終わりな
き対話」
(1966)を参照するなら、二人の人物が会話を始めるやいなや、そ
の二人の「間〔entre〕」そのものがまるで第三の人物のように出現し、し
かしそれが「間」である限り、二人の差異は止揚されず、対話は終わらな
い、ということである 54。ブランショはこの年、ラカンを通して、分析にお
ける独特の「対話」を発見したのだ。それは「dialogue」だろうか、
「entretien」だろうか。答えは定かではない。しかしおそらく、重心は1956年と
1969年で異なる。
『終わりなき対話』再録版では肝心な箇所に修正が加えら
れているからだ。その異同も含めて、以下、確認しよう 55。
始めにブランショは、フロイトをソクラテスに準えて、ややわざとらし
く驚きの声を上げてみせる。
「理性に対する何という信仰。言語の解放的な
力に対する何という信頼。一人が語り一人が聴くというもっとも単純な関
係に何という徳を見て取っていることか」
。しかしそれによって治癒が起こ
るとすれば、そこには「魔術」がある、とブランショは論を進める。
「一人
がもう一人に対して偉そうな態度をとるところにはすでにして魔術があり、
たんなる患者と医師の間に権威関係があり、医師がつねに自らの影響力を
濫用しており、その患者が非理性的であると自らをみなし、あるいはみな
されているのであればなおさらである」56。精神分析において生ずる「魔術」
とは、では何のことか。
「転移」と呼ばれるもののことである。ところがブ
ランショによれば、フロイトは「いくらかの居心地の悪さをもって」
「転移」
54 以下で論じた。『文学のミニマル・イメージ』158−169頁。
55 1956年版では、精神分析は還元主義的解釈だという見地が貫かれ、冒頭から、
「何も理解せずにすべてを解釈する秘訣」
、
「人間の断面を建物の断面のように
見せる単純で重厚な機械」などと揶揄的な形容が並んでいる。« Freud », art.
cit., p. 484.
56 « La parole analytique », art. cit., p. 343.
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138
関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
現象を発見しながら、その「魔術」から身を逸らす道を見出した。それは、
分析家がそこに現前していながら他者の役割を演じることである。それに
よってフロイトは、「魔術に弁証法をもって代えようとするのだ」57 とブラ
ンショは言う。ところがこの箇所は、1969年には、
「魔術に弁証法を、しかし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58
弁証法にまた別のパロールの運動をもって代えようとする」 と修正される。
続く節では、ブランショは先の『文学空間』でのフロイトへの参照を推
し進めるように、精神分析を同定不可能な古い過去へのたえまない送り返
しとして捉えてみせる。
「最初と思われたものを無限定の先行性に解消させ
るのが分析の力だ」
。その過去が現実のものであるかどうかは「重要ではな
い」。なぜなら、「重要なのは、分析家の沈黙による執拗な問いかけのもと
で、少しずつわれわれがそれについて語り、物語〔récit〕を作り、この物
語から自己を想起する言語〔langage〕を生み出し、そしてこの言語から、
捉えがたい出来事に駆り立てられた真理を生み出すことだからだ。捉えが
たいというのは、つねに自らに対して欠如しているからだ。出来事がまさ
に欠如として具現化し、かくしてついに現実のものとなるという、解放的
な言語」59。しかし、出来事を物語に変えるのが「解放的」であるというの
は、あまりに精神分析に寄り添った言い方だろう。ブランショにとっては、
同定しがたい出来事を物語化することは、
『白日の狂気』においては圧力的
な尋問だった。とはいえブランショは、精神分析的対話が「物語作り」に
収斂するとも考えていない。ブランショはその対話を次のように言い表し
ている。
「一方は何でも思いついたことを語り、もう一方は注意を傾けずに、
我知らずといったように、あたかもそこにいないかのように聴く」、「裸の
対話〔entretien nu〕
」
、
「奇妙な対話〔dialogue étrange〕
」60。彼がその「奇妙
さ」を発見したのは、フロイトではなくラカンを介してである。1956年版
で、ブランショは述べている。
「ラカン博士はまさしくわれわれをこの精神
分析的対話〔dialogue〕の本質へと導こうとしており、それは弁証法的関
係の形式と理解されている」61。しかし彼は、たとえば次のようなラカンの
言葉を読み、それを「弁証法的関係」と言って済ませることに抵抗を感じ
57 « Freud », art. cit., p. 485.
58 « La parole analytique », art. cit., p. 344. 強調引用者。
59 Ibid., p. 347.
60 Ibid., p. 348.
61 « Freud », art. cit., p. 492.
― ―
139
「終わりなき対話」と「終わりなき分析」
るのだ。
「主体は自分について語りながらあなたには語らずに分析を始めま
す――あるいはあなたに語りながら自分については語らずに。主体があな
たに自分のことを語れるようになれば、分析は終わっているのです」62。そ
こで1969年には、「対話〔dialogue〕」に括弧を付し、さらにこう付け加え
・・・・・・ ・・・・・・・・・・・ ・・・・
る。
「しかしそれは、弁証法そのものを斥ける(引き離す)」63。
このように、精神分析的対話はブランショにとって両義的である。一方
ではそれは、症状からの「解放」を目指す弁証法的関係である。他方では
・・・
それは、
「奇妙な、曖昧な、奥深い他人〔autrui〕
」との関係として成立する
「孤独なパロール」64 である。見たように、1956年版では前者の立場、1969
年版では後者の立場が優勢である。そして、
「精神分析の経験と文学の経験
は[…]結ばれるようにはできていない」という、本稿でたびたび参照し
てきた一文は、後者からは姿を消す。とはいえ、その後もブランショが文
学作品の「精神分析的解釈」に否定的であることは、これまで確認してき
た通りである。
ブランショは、問題を端的に捉えるために、論考の掉尾でフロイトの「終
わりある分析と終わりなき分析」
(1937)を想起させる。なるほどこのフロ
イトの論考は、精神分析に付き纏う矛盾に誠実に向き合うものである。す
なわち、ブランショの言葉で言えば、
「終わりえないものにいかにして終わ
りをもたらすのか?」65
精神分析的対話は、確かに、
「たえまなきもの」
、
「終わりなきもの」
、
「反
復」されるしかないものに関わっている。ブランショにとって、書くとい
う作家の営みも、「たえまなきもの」との関わりである。文学の言葉とは、
「終わりなき対話〔entretien infini〕
」である。
「終わりなき対話」とは、
「間
〔entre〕
」が言葉として残り続けるということである。それゆえ、その意味
では、精神分析的対話と文学の言葉は共通点をもつといえる。しかしなが
ら、精神分析があくまで治療のための手段であり 66、それゆえ「終わりあ
62 « La parole analytique », art. cit., p. 351.
63 Ibid., p. 350. 強調引用者。
64 Ibid., p. 352.
65 Ibid., p. 353.
66 改訂版の掉尾に付された註に、ブランショは書いている。「[…]しかしなが
ら、現実には、治癒させなければならない病人がおり、この治癒のみを目的
とする巧みな技術があり、その責を負う医師がいる。
「精神分析的コミュニケ
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関東学院大学文学部 紀要 第131号(2014)
る」ものであり、そのために制度化されているという現実を前にしては、
両者は相容れないのである。この問題は、翻って、
「素人」による精神分析
理論の援用という、冒頭で触れた問題にも繋がっているだろう。文学に関
わる者が精神分析理論をできあがった体系として援用し、それによって文
学の言葉を「終わらせる」とすれば、それは、文学の言葉にも精神分析的
対話にも本来的に反することなのである。だからブランショは、70年代に
至っても、「原光景」といった語彙を用いることにためらいを感じるのだ。
そのためらいの言葉を、最後にもういちど引いておこう。
「精神分析の語彙によれば(思うに、そうした語彙を使用してよいのは、
精神分析に携わる者、すなわち、その人にとって精神分析が危険であり、
極度の懸念であり、日々の問い直しである場合だけである――そうでなけ
れば、精神分析は一個の確立した文化に備わる便利な言語であるにすぎな
い)[…]」。
ーション」とは、大抵の場合(あいかわらず支配的な形態において)
、権力の
用語で理解され、それが保証する言葉とは、そのような所与の社会の標準的
条件において語る力のことである。したがって、精神分析は、それ自体がこ
の場合は制度となっている以上、それが望むと望まぬとにかかわらず、諸々
の形の制度に奉仕するおそれがある。歴史的に、そうした制度だけが言葉を
所有してきたのである」。Ibid., p. 354.
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