...

季刊RIVETリベット

by user

on
Category: Documents
23

views

Report

Comments

Transcript

季刊RIVETリベット
季刊
Rivet 鋲接
Machine Tool to the Bone
リベット
大橋鐵工所の火の見
1 大橋鐵工所の火の見
2 雨澤の火の見
3 鐵工所風々録
4 リベット工法とは
その1
ストーリーのはじめに
建て方 昭和30年夏の貴重な写真
アンクルのアンクル 親友クロ
1000℃にリベットを焼いて投げる
大橋鐵工所の火の見櫓
Machine Tool to the Bone
今、私たちがやらなくてはならない仕事は「自ら商品を造り、売って、それで飯をたべる」ということです
大橋鐵工所の警鐘楼 中央線小野駅前 電話小野77番 小さな鐵工所だが自社製の商品を造って生きた
先達の奮闘、私の記憶の「絹糸」がきれないうちに、あとに続く者達のために書き残すことにします
昭和30年代、私の父は小さな鉄工所を営んでいましたが、海軍工廠時代に身につけた「造船」の技術を
活かして、当地の消防団や消防署から多くの「火の見櫓」の建設を請け負いました
残っている図面と見積書によると、最も大きな鉄骨警鐘楼は、地上高=屋根下60尺(18m)地下(基礎
工事)5尺(1,5m)で、受注価格は建て方工事込みで約27万円と記録されている
父の火の見はカーブとリベット工法をもちいたスマートな構造をもち、半世紀以上の風雪に耐え、今も立
ち続けています、構造物には約3トンの鉄材を用いると記録されており、風を通し、上層部を軽くした
トラス構造と造船で培ったリベット工法が長い耐久性をもたらしているのでしょう
父は自分で図面をひき、工場内で自ら材料をきざみ、曲げ、孔をあけ、溶接し、リベットでかしめるという
「工人」の仕事はもちろん、部材を運びリベットで組み上げ、建てる現場で陣頭指揮に立ちました
クレーンがない時代、地上高15mから20mの塔を現地で組み、建てるのは余程の知恵と度胸を要した
はずです、大橋鉄工所の建て方は火の見が建った瞬間、周りから歓声があがる位うまかったと思います
父は設計、見積り、や入札、書類つくり、材料の仕入れ、原価計算、交渉ごとや人集め、支払い、集金
など母の助けをかりながら殆ど一人でこなしていました
資本力のない、小さな鉄工所ですから工場の設備はベルト掛け旋盤、枝ボール、シェーパー程度の粗末
な工作機械しかありません 頼れるのは伝統のガス溶断やリベットの腕前と鉄工所で一緒に育った兄弟
の手助けだけでしたが、父は海軍工廠仕込みの製図、罫書き、原寸 法といった新しい知恵を使いました
須賀から舶来のスパナやレンチ、ジャッキなどもいれ、大橋鐵工所はどこにも負けない工事速度で
なんなく火の見の構造物を造ることができていました。
火の見櫓をどうやって造ったか、どうやって建てたのか、少年時代の私は工場の子ですから父母の傍で
祖母ととともに、その一部始終を見てきました、父は子煩悩で、ありとあらゆる現場に私を連れてゆき
ました、小学校に上がると手伝いもやりました、あの頃めずらしい子供用の自転車でお客さんを廻り、
集金することが私の「仕事」だったのです、私の傍らには何時もわが友「クロ」がいました
敗戦から10年経った昭和30年 父 永美35歳 母 静32歳 祖母 ゆみ62歳 小生5歳 妹1歳 弟は
この年に生まれました
大橋鐵工所の火の見櫓
雨澤
現存
工期
請負金額
建て方
昭和30年夏のすばらしい写真
上伊那郡 小野村 雨澤/ あめざわ の火の見櫓の建て方
自 昭和30年7月9日 至 昭和30年8月20日(42日)
金拾五萬円
昭和30年頃 大橋鐵工所にあったベルト掛け工作機械
残念ながら当時の大橋鐵工所内部の本物の写真は残っていません、工場の機械はすべてベルト掛け
でした、当時の機械のカタログからどんな機械だったかをお見せしましょう
シェーパー(皆セーパーと呼んでいました)がありました、シェーパーは当時、何でもできる、大きなもの
もできる便利な機械でしたから、大概の工場にはシェーパーがありました
私が子供の頃シェーパーに乗って遊んでいた絵を描いてみました、シェーパーのラム(職人は形が似
ていること、動きがそっくりなのでオットセイと呼んでいました)は往復運動をしますから、この上に布団
を置いて乗っかると木馬代わりになって面白いわけです、学校から帰るとマーチャン乗ってみろ
ウンというわけで 「ラムに乗る少年」になったわけです
直線往復運動
ラム
かたち から「枝ボール」と言います
ドリルはハイス(高速度鋼)
モールステーパーは今も同じです
典型的なベルト掛け旋盤
主軸はメタル
主軸端はネジ
切り落しベッド
この脚のことを「ねこ足」
と呼んでいました
ねこ の後ろ足にそっくりです
もっと高級な機械は「箱足」
といってボックス形の脚です
ボックス型の脚のなかに
段歯車などを入れていました
当時の旋盤には2種類ありました、英式=イギリス形 と 米式=アメリカ形です
どちらがいいか?当時は米式の方が高級機でした、ちなみに、英式はハンドルを右(時計方向)に廻すと今とは逆で、
刃物台は手前方向に動きます、当時はインチがあたりまえでしたから、親ねじは当然インチが多かったと思います
Machine Tool to the Bone
Rivet 鋲接
1
リベット
くぎ付けにする 動かなくする 固定する ひきつける
Rivet two pieces of Iron together
Riveter リベット工 (リベット締め機)
大橋鉄工所の火の見櫓に使われているリベット 50年経った今、締結強度をぜひ測ってみたい
リベット継ぎ手=使用中に緩まない接合工法
鉄板、形鋼などを半永久的に締結する接合工法のひとつである
大きく分けて橋梁、造船などに使われた熱間リベット工法と航空機のブラインドリベットなどの
冷間リベット工法があります、ここでは熱間リベット工法について記述します
リベット継ぎ手は高張力ボルト締結や溶接技術の発達にとって代わられた 「過去の技術」と
言われます、しかし何十年の風雪に耐えた発電所、水路などの巨大な鉄管や、美しいアーチ
を描く鉄橋などの多くの産業遺産がリベット工法の著しい耐久性を証明しています
新たな経済計算を導入し、リベット工法をもう一度見直して今の技術で復活すれば、
技術革新が生まれる可能性があります、これを私はネオ クラシカル アプローチと呼んでいます
熱間リベット接合
鉄管、ボイラ胴などの耐密容器 橋梁、鉄塔などの構造物 造船、鉄道の部材の接合に用いる
厚い鉄板と鉄板に同じ寸法の孔をあけ ほぼ同一径のリベット(鋲)を白赤熱状に熱し、
孔に差し込んで、突き出した部分を熱間で打って、丸く整形し頭とする
リベット接合の利点は「焼き締め」にあります
リベットは赤熱して孔に打ち込まれ、充填します、リベットの冷却とともに「働長」が収縮して
接合面を締め付けます、かくして接合する2枚の板は一体化し、板同志が滑ることがありま
せん、リベット継ぎ手は接合によって著しく耐久性が増し、しかも耐密性があるのです
現場リベット締め
リベット接合は工場で運べる大きさのユニット部材をつくり、組み立て現場に火造り炉を設ける
だけで、リベット職人さえいれば、確実に大型構造物の接合組み立てができる工法です
Rivet 鋲接
2
熱間リベット工法に用いられるリベット=生リベット
材質
働長
JIS G3104 リベット用圧延鋼材 SV34 SV41A
引っ張り強度は低いが降伏比が高く熱間加工性が高い
リベット接合を行う継ぎ手の孔明け
1)リベット軸径=呼び径に1mm~1,5mmを加えて孔を明ける
孔明け工具=パンチ ドリル リーマ通し
2枚の孔位置が合っている 孔径が適正で揃っている これが重要です
なぜなら、焼いた生リベットの温度が孔周辺にうつり、かしめによって孔の隙間が熱した
リベットで充填されるからです、隙間が適切なこととリベットの働長が適正であることも
大切になってきます
南木曽/桃介橋
福沢桃介記念館
添接板
発電所施設など
に使われたもの
おそらくリベット孔
鉄は熱いうちに打て なぜリベットを投げるのか
熱間リベット打ち=リベット締め作業はなぜすばやく行うのか
リベットを投げるのはなぜか、それには金属の性質にかかわる大切な科学理論があるからです
1)まず、リベットを熱する温度は900~1100℃位で、白赤色にコークス炉などで熱します
職人は、焼いたリベットの色などで適温を経験的に判断します 測っている間がないからネ
2)リベット鋼のA3変態点は721℃ですから、いかなる理由があっても、リベット打ちは
この温度に下がる前に完了しなければなりません
逆に、焼いた生リベットの温度が高すぎると、721℃に下がる前にオーステナイトの結晶が
成長して締結後の機械的性質に支障を来たします
3)リベットの温度が800℃位に下がると色が黒くなりますが、ここまでの自然冷却時間は
約80秒で、炉から取り出してリベット打ちが終わるまで1分以内、できれば30秒位で
「かしめ」を終わらせる、この位のスピードでやらないと正しいリベット継ぎ手ができない
のです 焼いたリベットを投げ、すばやく打って「かしめる」という独特のやり方の理由は
ここにあります
鐵工所風々録
家業の風景
兄弟たちの春夏秋冬
火の見をやる前、何でも請けて生きねばならなかった時代、ボイラーが見えます
真ん中で小生を抱いている父(永美)
右が 良 りょう叔父さん(父の末弟 おそらく大学の休暇で帰省し兄の手伝いをしている)
大学で土木工学を修めゼネコンに勤めました、トンネルの本物の土木の専門家です
皆から「りょうちゃ叔父さん」と慕われ、母はひいきで、お祖母さんが「りょうこさん」
と呼んでいたと言っていました、現在仙台に居を構え、学校で後進の指導を勤めます
左は 崇 たかし叔父さん(母の弟 甲府から義兄の鉄工所を手伝いに来ている)
残念ながら他界されました、この叔父さんは私をとてもかわいがってくれた人
義兄のところで修行した腕を生かして名古屋の鉄工所に勤め、二人の娘を育てました
そして 足元をよく見てください 大きな黒い犬が分かるでしょうか、
まだ幼犬のクロが写っています、クロは大橋鐵工所の写真の多くに登場します
利口な犬は人といっしょに写真におさまるんですよ
人と共に自由に生きている、わが友クロです
Machine Tool to the Bone
鐵工所風々録
家業の風景
兄弟たちの春夏秋冬
金博叔父さんと小生と幼犬クロ
大橋鐵工所前、戦後間もない頃、お祭りに帰省された叔父に抱いてもらっている小生
金博叔父さん/かねちゃおじさん は大橋の兄弟で一番、器用な人でした
この叔父さんが造ったものがたくさん残っていましたが、いずれも見事な出来でした
小生は金博叔父さんが作った見事な戦艦のおもちゃで遊んでいました
岡谷で叔母と二人、機械工具商 を立ち上げました、現在の有限会社オオハシです
一男一女に恵まれた四人家族、会社は岡谷の伝統地区、丸山橋近くにありました、
裏にはキネマ、よく遊びに行きました
残念ながら他界されましたが金博叔父さんは終生、もの造りの精神をもっていた人でした
跡継ぎは、意欲的に新しい分野を広げ独自の歩みを続けています
この父親の血統を受け継ぎ、産業の精神を大切にした仕事でがんばっています
叔父は小生の父とは何時も仲がよく、火の見の建て方の写真によく登場します
よき兄とよき弟、仲のよい兄弟 この二人の姿を忘れてはならないと思っています
雨澤
雨澤の火の見 最上層部
父の火の見はデザインに凝る 屋根の軒下には波型の装飾
展望台手摺の洋風装飾は父の好み
雨澤
火の見を下から見上げる
雨澤
少人数で建てているのが分かる写真です
最上階の手摺の四隅に縁起の榊か花をつけています
雨澤
小人数で火の見をどう建てるのかがよくわかる貴重な写真です
てこ梃子で脚部を徐々に動かす
ヨイトマケ(ウインチ)の貴重な写真
火の見は半吊り状態なのでそれ程重くない
と思います
4人で巻いて、約3トンの火の見が起きてくる
それ程重そうに見えません
雨澤
雨澤の火の見 建て方が終わった記念写真
建て終わった雨澤の火の見 記念写真である
いかに少人数でやったか、それも世代は叔父さん風の年代の方達ばかりに見える
そして、何時も工事についてくる利口なクロが父の方を見ている、父は厳しい表情である
Machine Tool to the Bone
雨澤
右下に小さく辰野、伊那方面にむかう国道153号線がみえる
私の少年時代の記憶がよみがえってくる
雨澤
雨澤の火の見 四脚アーチ
雨澤
雨澤の火の見
脚部の基礎コンクリート
この下約1,5mの
基礎が施工されている
梯子/ラダー
丸棒2本を差し込んで
溶接する
滑り止めの秀逸な
デザイン
雨澤
雨沢の火の見
辰野側から小野駅方向にむかって見る
Fly UP