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幻影の盾
ま ぼ ろ し 幻影の盾 5 一心不乱と云う事を︑目に見えぬ怪力をかり︑ ひよう びよう 縹 緲 たる背景の前に写し出そうと考えて︑この趣 おろ 向 を 得 た ︒ こ れ を 日 本 の 物 語 に 書 き 下 さな か っ た の はこの趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うたか ら で あ る ︒ 浅 学 に て 古 代 騎 士 の 状況 に 通 ぜ ず ︑ 従 っ て叙事妥当を欠き︑描景真相を失する所が多かろう︑ おしえ 読者の 誨 を待つ︒ めぐ ほふ おご きんだい 遠き世の物語である︒バロンと名乗るものの城を構え ほり つ しではない︒ い くじ わがひじ らねばならぬ︑吾頸をも挫かねばならぬ︑時としては吾 くび う人の 唇 に燃ゆる情けの息を吹く為には︑吾肱をも折 くちびる に懸想した事がある︒その頃の恋はあだには出来ぬ︒思 けそう い伝えたる世に︑ブレトンの一士人がブレトンの一女子 何時の頃とも知らぬ︒只アーサー大王の御代とのみ言 たいお う 濠を環らして︑人を屠り天に驕れる昔に帰れ︒今代の話 6 血潮さえ容赦もなく流さねばならなかった︒懸 想された ○ ○ ○ ○ ○ る ブ レ ト ン の 女 は 懸 想 せ る ブ レ ト ン の 男に 向 っ て 云 う ︑ かな 君が恋︑叶えんとならば︑残りなく円卓の勇士を倒して︑ たぐ もと われを世に類いなき美しき女と名乗り給え︑アーサーの たか ちか 養える名高き鷹を獲て吾許に送り届け給えと︑男心得た つるぎ せんき たすけ ことごと りと腰に帯びたる長き 剣 に盟えば︑天上天下に吾志を つい はし 妨ぐるものなく︑遂に仙姫の 援 を得て 悉 く女の言う まと ところを果す︒鷹の足を纏える細き金の鎖の端に結びつ たて けたる羊皮紙を読めば︑三十一カ条の愛に関する法章で いわゆる あった︒所謂﹁愛の庁﹂の憲法とはこれである︒⁝⁝盾 7 やく かみ の話しはこの憲法の盛に行われた時代に起った事と思 みち やり かぶ と しわ もろとも す はな づ ら らつぱ あ さ つ て こ や来 ると待つ︒今日も待ち明日も待ち明 後日も待つ︒五 あ は三十日︑ 傍 の木立に吾旗を翻えし︑喇叭を吹いて人 かたえ 扼する侍は武士の名を藉る山賊の様なものである︒期限 か 事は出来ぬ︒ 鎧 ︑ 甲 ︑馬諸共に召し上げらるる︒路を よ ろい き︑鞍壺にたまらず落ちたが最後無難にこの関を踰ゆる くらつぼ を挑む︒二人の槍の穂先が撓って馬と馬の鼻頭が合うと いど ある︒幅広からぬ往還に立ちて︑通り掛りの武士に 戦 たたかい 行く路を扼すとは︑その上騎士の間に行われた習慣で え︒ 8 まも 六 三 十日 の 期 が 満 つ る ま では必 ず 待 つ ︒ 時に は 我意 中の じようろう 美人と共に待つ事もある︒通り掛りの上 臈は吾を護る せ 侍の鎧の袖に隠れて関を抜ける︒守護の侍は必ず路を扼 に する武士と槍を交える︒交えねば自身は無論の事︑二世 によしよう かけて誓える女 性をすら通す事は出来ぬ︒千四百四十 、生 、子 、と 称 す る 豪 の も の が ラ ・ べ 九年にバーガンデの私 ル ・ ジ ャ ル ダ ン と 云 え る 路 を 首尾 よ く 三 十 日 間 守 り 終 せ たるは今に人の口碑に存する逸話である︒三十日の間私 生 子 と 起 居 を 共 に せ る 美 人 は 只﹁ 清 き 巡 礼 の 子 ﹂ とい う いかん 名にその本名を知る事が出来ぬのは遺憾である︒⁝⁝盾 9 の話しはこの時代の事と思え︒ おお こ の 盾 は 何 時 の 世 の も の と も 知 れ ぬ ︒ パ ヴィ ー ス と 云 さ かし あ ち よ う せき だ と 云 う ︒ こ の 盾 を 持 っ て戦 に 臨 む と き ︑ 過 去︑ 現 在︑ 眺めている︒人が聞くと不可思議な盾だと云う︒霊の盾 らぬ︒ウィリアムはこの盾を自己の室の壁に懸けて朝 夕 へや 時︑何者が錬えた盾かは盾の主人なるウィリアムさえ知 きた を 打 つ と 云 う 仕懸 の 後 世 の も の で は 無 論 な い ︒ い ず れ の しかけ 類 で も な い ︒ 上 部 に 鉄の 格 子を穿 け て 中央 の 孔 から 鉄 砲 こうし たものとも違う︒ギージという革紐にて肩から釣るす種 かわ ひも うて三角を 倒 まにして全身を蔽う位な大きさに作られ 10 わた 未来に渉って吾願を叶える事のある盾だと云う︒名ある まごろし はが ね まんじゆう かと聞けば 只幻影の盾と答える︒ウィリアムはその他を 言わぬ︒ もち 盾の形は望の夜の月の如く丸い︒ 鋼 で饅 頭 形の表を めぐ びよう 一面に張りつめてあるから︑輝やける色さえも月に似て ふち いる︒縁を繞りて小指の先程の 鋲 が奇麗に五分程の間 を 置 い て 植 え ら れ て あ る ︒鋲 の 色 も ま た 銀色 で あ る ︒鋲 かく の輪の内側は四寸ばかりの円を画して匠人の巧を尽した からくさ れん い はだ る唐草が彫り付けてある︒模様があまり細か過ぎるので ちよつと 一寸見ると只不規則の漣漪が︑肌に答えぬ程の微風に︑ 11 しわ よ そ つた きわだ ある なび は ごと い う︒霊の盾は磨かねども光るとウィリアムは独り語の様 ひと には壁から卸して磨くかとウィリアムに問えば否と云 みが 日に向けたら日に燃えて日の影をも写そう︒鳥を追えば︑ しゆんこつ 、だ 、ま 、さ え 交 え ず に 十 里 を 飛 ぶ 俊 鶻 の 影 も 写 そ う ︒ 時 こ ウィリアムの甲の挿毛のふわふわと風に靡く様も写る︒ さしげ て面にあたるものは必ず写す︒ウィリアムの顔も写る︒ と延板の平らな地になる︒そこは今も猶鏡の如く輝やい のべいた のは昔し象嵌のあった名残でもあろう︒猶内側へ這入る ぞうが ん が劇しく光線を反射して余所よりも際立ちて視線を襲う はげ 数え難き皺を寄する如くである︒花か蔦か或は葉か︑所々 12 に云う︒ まんな か すきま いいだ 盾 の 真 中 が 五 寸 ば か り の 円 を 描 い て浮 き 上 る ︒ こ れ に やしや のろ は怖ろしき夜叉の顔が隙間もなく鋳出されている︒その とこ のぞ 顔は長しえに天と地と中間にある人とを呪う︒右から盾 もと を見るときは右に向って呪い︑左から盾を覗くときは左 むか に向って呪い︑正面から盾に対う敵には固より正面を見 て呪う︒ある時は盾の裏にかくるる持主をさえ呪いはせ かしら ぬかと思わるる程怖しい︒ 頭 の毛は春夏秋冬の風に一 度に吹かれた様に残りなく逆立っている︒しかもその一 へび 本 一 本 の 末 は 丸 く 平 た い 蛇 の 頭 とな っ て そ の 裂 け 目 か ら 13 もた もつ 消えんとしては燃ゆる如き舌を出している︒毛と云う毛 よ ならぬを覚るであろう︒ さと じねん あるが︑この盾を熟視する者は何人もその諺のあながち なんびと る位だ︒ゴーゴンを見る者は石に化すとは当時の 諺 で こ とわ ざ ある︒遠き昔しのゴーゴンとはこれであろうかと思わる 輪廓を形ちづくっているのはこの毛髪の蛇︑蛇の毛髪で りん か く て 残 し て ︑ 額 際 か ら 顔 の 左 右 を 残な く 填 め て 自 然に 円 の うず 見らるる︒五寸の円の内部に獰悪なる夜叉の顔を辛うじ どうあく のも︑捻じ合うのも︑攀じあがるのも︑にじり出るのも ね は悉く蛇で︑その蛇は悉く首を擡げて舌を吐いて漣るる 14 きず びよ う はす つぶ 盾には創がある︒右の肩から左へ斜に切りつけた刀の あと 痕が見える︒玉を並べた様な 鋲 の一つを半ば潰して︑ まと くぼ ゴーゴン・メジューサに似た夜叉の耳のあたりを纏う蛇 かす なん の頭を叩いて︑横に延板の平な地へ微かな細長い凹みが きず 出来ている︒ウィリアムにこの創の因縁を聞くと何にも 云わぬ︒知らぬかと云えば知ると云う︒知るかと云えば 言い 難しと答える︒ 人に云えぬ盾の由来 の裏には︑人に云えぬ恋の恨みが うち 潜んでいる︒人に云わぬ盾の歴史の中には世もいらぬ神 つな もいらぬとまで思いつめたる望の綱が繋がれている︒ウ 15 ィ リ ア ム が 日 毎 夜 毎 に 繰 り 返 す 心 の 物 語 り は こ の盾 と 浅 きずな すき も えみ べき夜叉の姿も︑彼が眼には画ける天女の微かに笑を帯 てんによ ばとウィリアムは盾の懸かれる壁を仰ぐ︒天地人を呪う 風吹かぬ昔に返すはこの盾の力である︒この盾だにあら 見えぬ波の︑立ちては崩れ︑崩れては立つを浪なき昔︑ くず り吹くとも知らぬ業 障 の風の︑隙多き胸に洩れて目に ごう し よ う 出して明ら様に見極むるはこの盾の力である︒いずくよ いだ のめいて消え難き前世の名残の如きを︑白日の下に引き この盾を執って⁝⁝望はこれである︒心の奥に何者かほ からぬ因果の覊絆で結び付けられている︒いざという時 16 べるが如く思わるる︒時にはわが思う人の肖像ではなき マイル よがらす ウィリアムが思う人はここには居らぬ︒小 かと疑う折さえある︒只抜け出して語らぬが残念である︒ 思う人! わた 山を三つ越えて大河を一つ渉りて二十 哩 先の夜鴉の城 に居る︒夜鴉の城とは名からして不吉であると︑ウィリ アムは時々考える事がある︒然しその夜鴉の城へ︑彼は たびたび 小 児 の 時度 々 遊 び に 行 っ た 事 が あ る ︒ 小 児 の 時 の み で は おとず ない成人してからも始終訪問れた︒クララの居る所なら 海の底でも行かずにはいられぬ︒彼はつい近頃まで夜鴉 の城へ行っては終日クララと語り暮したのである︒恋と 17 も 名がつけば千里も行く︒二十哩は云うに足らぬ︒夜を守 べに が ら そ が見えなくなった︒夕暮の蹄の音も野に逼る黒きものの せま 去年の春の頃から白城の刎橋の上に︑暁方の武者の影 あけが た ウィリアムは馬の背で人と成ったのである︒ いるに︑乗手は鞭を鳴らして口笛をふく︒戦国のならい︑ むち 近づいて来る︒馬は総身に汗をかいて︑白い泡を吹いて 遠き方より又 蹄 の音が昼と夜の境を破って白城の方へ ひづめ ⁝⁝宵の明星が本丸の 櫓 の北 角にピカと見え初むる時︑ やぐら な時刻に︑白城の刎橋の上に騎馬の侍が一人あらわれる︒ はねば し る星の影が自ずと消えて︑東の空に紅殻を揉み込んだ様 18 うち うち 裏に吸い取られてか︑聞えなくなった︒その頃からウィ おの そ リアムは︑己れを己れの中へ引き入るる様に︑内へ内へ よ と深く食い入る気色であった︒花も春も余所に見て︑只 心の中に貯えたる何者かを使い尽すまではどうあっても はし 外界に気を転ぜぬ様に見受けられた︒武士の命は女と酒 いく なら と軍さである︒吾思う人の為めにと箸の上げ下しに云う たれかれ ど ふさ 誰彼に傚って︑わがクララの為めにと云わぬ事はないが︑ の さ かず き その声の咽喉を出る時は︑塞がる声帯を無理に押し分け どくろ ぬ る様であった︒血の如き葡萄の酒を髑髏形の 盃 にうけ ひげ て︑縁越すことをゆるさじと︑髭の尾まで濡らして呑み 19 とう ふる 干す人の中に︑彼は只額を抑えて︑斜めに泡を吹くこと いく いくさ 軍 はまだない︒ や る︒四年前の 戦 に 甲も棄て︑鎧も脱いで丸裸になって たたかい 筋肉を骨格の上へたたき付けて出来上った様な男であ ウィリアムは身の丈六尺一寸︑痩せてはいるが満身の たけ なものである︒残る三分一は? 占むるならば︑ウィリアムの命の三分二は既に死んだ様 ぶ ない︒武士の命を三分して女と酒と軍さがその三カ一を ぶん 済す折もあった︒皿の上に 堆 かき肉塊の残らぬ事は少 うずた ず右も眺めず︑只わが前に置かれたる皿のみを見詰めて が多かった︒山と盛る鹿の肉に好味の刀を揮う左も顧み 20 うち ひ 城壁の裏に仕掛けたる︑カタパルトを彎いた事がある︒ 戦が済んでからその有様を見ていた者がウィリアムの腕 こぶ ふ に は 鉄 の 瘤 が 出 る と い っ た ︒ 彼 の 眼 と 髪は 石 炭 の 様に 黒 かしら まな こ い︒その髪は渦を巻いて︑彼が 頭 を掉る度にきらきら まな こ する︒彼の 眼 の奥には又一双の 眼 があって重なり合っ ている様な光りと深さとが見える︒酒の味に命を失い︑ きた 未 了 の 恋 に 命 を 失 い つ つ あ る 彼は来 るべ き戦 場に も ま た ン 命を失うだろうか︒彼は馬に乗って終日終夜野を行くに パ 疲れた事のない男である︒彼は一片の麺麭も食わず一滴 の水さえ飲まず︑未明より薄暮まで働き得る男である︒ 21 ろうどう いくさ たがい こ かざ ぞ え︑又は夜鴉の城主の愛女クララの身の上に係る衝突に とも云い︑あるは鷹狩の帰りに獲物争いの口論からと唱 の春の初からである︒源因は私ならぬ政治上の紛議の果 稀な位打ち解けた間柄であった︒確執の起ったのは去年 まれ の好みで家の子郎党の末に至るまで 互 に往き来せぬは よし 、の 、ル 、ー 、フ 、ァ 、ス 、と夜鴉の城主とは二十年来 白城の城主狼 して戦う機会があれば⁝⁝と思っている︒ アム自身もそう思っている︒ウィリアムは幻影の盾を翳 まごろし 戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい︒ウィリ 年は二十六歳︒それで 戦 が出来ぬであろうか︒それで 22 きようえん 本づくとも言触らす︒過ぐる日の饗 筵に︑卓上の酒尽 ゆる ののし きて︑ 居並ぶ人の舌の根のしどろに緩む時︑首席を占む こわだか る隣り合せの二人が︑何事か声高に 罵 る声を聞かぬ者 おおかみ は な か っ た ︒﹁ 月 に 吠 ゆ る 狼 の ⁝ ⁝ ほ ざ く は ﹂ と 手 に なげう くだ したる盃を地に 抛 って︑夜鴉の城主は立ち上る︒盃の まだ 底に残れる赤き酒の︑斑らに床を染めて飽きたらず︑摧 こう へん ま やみ けたる觥片と共にルーファスの胸のあたりまで跳ね上 よ る︒ ﹁夜迷い烏の黒き翼を︑切って落せば︑地獄の闇ぞ﹂ とルーファスは革に釣る重き剣に手を懸けてするすると 四五寸ばかり抜く︒一座の視線は悉く二人の上に集まる︒ 23 高き窓洩る夕日を脊に負う︑二人の黒き姿の︑この世の て つば きざ 栗毛の駒は少しく肥えた様に見えた︒ くりげ は ゆびさ より両家の間は長く中絶えて︑ウィリアムの乗り馴れた な きかけた剣を元の鞘に収むる声のみが高く響いた︒これ さや き 刃 の鍔の真下に pro gloria et patriaと云う銘が刻ん である︒水を打った様な静かな中に︑只ルーファスが抜 やいば 右手を延ばしてルーファスの腰のあたりを 指 す︒幅広 め ﹁渾名こそ狼なれ︑君が剣に刻める文字に耻じずや﹂と あだな この時ルーファスの次に座を占めたるウィリアムが 様とも思われぬ中に︑抜きかけた剣のみが寒き光を放つ︒ 24 うわさ しき がいさい うらみ 近頃は戦さの 噂 さえ頻りである︒睚眦の 恨 は人を欺 えみ く笑の衣に包めども︑解け難き胸の乱れは空吹く風の音 さえ にもざわつく︒夜となく日となく磨きに磨く刃の冴は︑ ほふ 人を屠る遺恨の刃を磨くのである︒君の為め国の為めな ごうり あらし る美しき名を藉りて︑毫釐の争に千里の恨を報ぜんとす いだ もんじ る心からである︒正義と云い人道と云うは朝 嵐 に翻が ほむら えす旗にのみ染め出すべき文字で︑繰り出す槍の穂先に しんい は瞋恚の 燄 が焼け付いている︒狼は如何にして鴉と戦 うべき口実を得たか知らぬ︒鴉は何を叫んで狼を誣ゆる ほと 積りか分らぬ︒只時ならぬ血潮とまで見えて迸ばしりた 25 しずく たお われ 敵の中より救いたるルーファスの一家に事ありと云う日 いつけ ある︒手創負いて斃れんとする父とたよりなき吾とを︑ てきず クララの一門に弓をひくはウィリアムの好まぬところで 末 の 世 の 尽 き て ︑ そ の 末 の 世 の 残 る ま で と 誓 い た る︑ 、つ 、というだけが問題である︒ い︒い を凝したるも事実である︒両家の間の戦は到底免かれな こら めたまえとありとあらゆるセイントに夜鴉の城主が祈念 にこそ彫れ︑抜き放ちたる光の裏に遠吠ゆる狼を屠らし うち がセント・ジョージに誓えるは事実である︒尊き銘は剣 る酒の 雫 の︑胸を染めたる恨を晴さでやとルーファス 26 ひざ に︑膝を組んで動かぬのはウィリアムの猶好まぬところ ひきよう あざ もつと である︒封建の代のならい︑主と呼び従と名乗る身の危 おもむ よ ろい きに 赴 かで︑人に卑怯と嘲けらるるは彼の 尤 も好まぬ かぶ と ところである︒甲 も着よう︑鎧 も繕おう︑槍も磨こう︑ すわという時は真先に行こう⁝⁝然しクララはどうなる だろう︒負ければ打死をする︒クララには逢えぬ︒勝て ばクララが死ぬかも知れぬ︒ウィリアムは覚えず空に向 やつ ほうば い って十字を切る︒今の内姿を窶して︑クララと落ち延び かた て 北 の 方 へ で も 行 こ う か ︒ 落 ち た 後 で 朋輩 が 何 と い う だ 懐から うちぶところ ろう︒ルーファスが人でなしと云うだろう︒内 27 クララのくれた一束ねの髪の毛を出して見る︒長い薄色 きぬ た 周囲を巻いている髪の毛が︑先っきから流れる水に漬け さ の如く盾を見ている︒日の加減か色が真青だ︒⁝⁝顔の たる人の如くに︑千里の遠きを眺めている様な眼付で石 顔の周囲を巻いている髪の毛が⁝⁝ウィリアムは呪われ ラの顔が笑っている︒去年分れた時の顔と寸分違わぬ︒ たが 上へ落ちる︒壁の上にかけてある盾の真中で優しいクラ ていた視線を茫然とわきへそらす︒それが器械的に壁の ぼうぜん てウィリアムの手から下がる︒ウィリアムは髪を見詰め の毛が︑麻を 砧 で打って柔かにした様にゆるくうねっ 28 た様にざわざわと動いている︒髪の毛ではない無数の蛇 の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので︑ 銀 地 に 絹 糸 の 様 に 細 い 炎 が︑ 見 え たり 隠れ た り ︑ 隠れ た り見えたり︑渦を巻いたり︑波を立てたりする︒全部が わず 一度に動いて顔の周囲を廻転するかと思うと︑局部が纔 す かに動きやんで︑すぐその隣りが動く︒見る間に次へ次 たび へと波動が伝わる様にもある︒動く度に舌の摩れ合う音 でもあろう微かな声が出る︒微かではあるが只一つの声 ようや ︱ ではない︑ 漸 く鼓膜に響く位の静かな音のうちに 無数の音が交っている︒耳に落つる一の音が聴けば聴く 29 程多くの音がかたまって出来上った様に明かに聞き取ら まぼろし 最後の望は幻影の盾にある﹂と叫んだ︒ うしお きた つち す みや ぐ ら 意はするが︑時には殺伐な物音に耳を塞いで︑高き角 櫓 ふさ 庭の一隅に聞える︒ウィリアムも人に劣らじと出陣の用 、す 、り 、の 響 は 絶 え ず 中 つ音︑ 鋼 を鍛える響︑槌の音︑や はがね 戦は 潮 の河に上る如く次第に近付いて来る︒鉄を打 ﹁盾! るクララの金毛を三たび盾に向って振りながら らかには鳴らぬのである︒⁝⁝ウィリアムは手に下げた その動くものの定かに見えぬ如く︑出る音も微かであら かす れる︒盾の上に動く物の数多きだけ︑音の数も多く︑又 30 のぼ はる に上って遥かに夜鴉の城の方を眺める事がある︒霧深い さえ こうや 国の事だから眼に遮ぎる程の物はなくても︑天気の好い マイル しろがね あ ざや 日に二十 哩 先は見えぬ︒一面に茶渋を流した様な曠野 せま が逼らぬ波を描いて続く間に︑白金の筋が 鮮 かに割り 込んでいるのは︑日毎の様に浅瀬を馬で渡した河であろ ひ かすみ う ︒ 白 い 流 れ の 際 立 ち て 目 を 牽く に 付 け て ︑ 夜 鴉 の 城 は し ろが ね けむり あの見当だなと見送る︒城らしきものは 霞 の奥に閉じ ぼ う てい られて眸底には写らぬが︑流るる 銀 の︑ 烟 と化しは こ て まな こ あつ せぬかと疑わるまで末広に薄れて︑空と雲との境に入る かざ 程は︑翳したる小手の下より遥かに双の 眼 に聚まって 31 たちま い のぼ うち か ちようく きつた て ん せい よ 帰 って︑冷 たい臥床の上に六 尺一寸の長躯を投げる 時は ふしど く気が散って浮き立つ事もあるが︑初夜過ぎに吾が室に 目の廻る程急がしい用意の為めに︑昼の間はそれとな く知っている︒ すべきものは何人であろう︑ウィリアムは聞かんでも能 なんぴと たなら死竜は 忽 ち活きて天に騰るのである︒点晴に比 しりよう 薄黒く潮風に吹き曝された角窓の裏に一人物を画き足し さら と︑ウィリアムは見えぬ所を想像で描き出す︒若しその も 上 に 巨 巌 を 刻 ん で 地 か ら 生 え た 様な の が 夜 鴉 の 城 で あ る きよがん くる︒あの空とあの雲の間が海で︑浪の噛む切立ち岩の 32 考え出す︒初めてクララに逢ったときは十二三の小供で 知らぬ人には口もきかぬ程内気であった︒只髪の毛は今 懐からクラ うちぶ ところ の様に金色であった⁝⁝ウィリアムは又内 ラの髪の毛を出して眺める︒クララはウィリアムを黒い 眼の子︑黒い眼の子と云ってからかった︒クララの説に ユダヤ よると黒い眼の子は意地が悪い︑人がよくない︑猶太人 かジプシイでなければ黒い眼色のものはない︒ウィリア ムは怒って夜鴉の城へはもう来ぬと云ったらクララは泣 かん にん き出して堪忍してくれと謝した事がある︒⁝⁝二人して 城の庭へ出て花を摘んだ事もある︒赤い花︑黄な花︑紫 33 ︱ の花 ︱ 花の名は覚えておらん しべ 色々の花でクララの ので思う事が成らぬと云う辻うらであった︒するとクラ つじ 云いながらクララが一吹きふくと種の数が一つ足りない た 種 の 数 で う ら な い を す る ︒ 思 う 事 が成 る か な ら ぬ か と むく毛を束ねた様に透明な球をとってふっと吹く︒残っ つか 蒲公英の蘂を吹きくらをした︒花が散ってあとに残る︑ た ん ぽ ぽ ララの前に跪く機会はもうあるまい︒ある時は野へ出て が笑った︒⁝⁝今は槍もある︑ナイトでもある︑然しク 跪 ずいたら︑槍を持たない者はナイトでないとクララ ひ ざま 頭と胸と袖を飾ってクィーンだクィーンだとその前に 34 うつむ じや けん ラは急に元気がなくなって俯向いてしまった︒何を思っ ふさ て吹いたのかと尋ねたら何でもいいと何時になく邪慳な ろくろく 返事をした︒その日は碌々口もきかないで塞ぎ込んでい た︒⁝⁝春の野にありとあらゆる蒲公英をむしって息の 続 づ か ぬ ま で 吹 き 飛 ば し て も 思 う 様な 辻 占 は 出 ぬ 筈 だ と ウィリアムは怒る如くに云う︒然しまだ盾と云う頼みが いろ ば ら あるからと打消す様に添える︒⁝⁝これは互に成人して り からの事である︒夏を彩どる薔薇の茂みに二人座をしめ る て瑠璃に似た青空の︑鼠色に変るまで語り暮した事があ った︒騎士の恋には四期があると云う事をクララに教え 35 たのはその時だとウィリアムは当時の光景を一度に目の ち ゆ う ちよ かす すまい えみ もら わずら ラはこの時池の向うに据えてある大理石の像を余念なく よりて︑我意中を悟れかしと物言わぬうちに示す﹂クラ り︑昼は女の傍えを︑夜は女の住居の辺りを去らぬ誠に かた 許されぬ︒只眼にあまる情けと︑息に漏るる嘆きとによ の時期の間には男の方では一言も恋をほのめかすことを ララは俯向いて︑頬のあたりに微かなる笑を漏した︒ ﹁こ うつむ 間 の 名 で あ る ﹂ と い い な が ら ク ラ ラ の 方 を 見 た 時に ︑ ク 女の方でこの恋を 斥 けようか︑受けようかと思い 煩 う しりぞ 前 に 浮 べ る ︒﹁ 第 一 を 躊 躇 の 時 期 と 名 づ け る ︑ こ れ は 36 かな そむ 見 て い た ︒﹁ 第 二 を 祈 念 の 時 期 と 云 う ︒ 男 ︑ 女 の 前 に 伏 ねん ご ひとひ ら して 懇 ろに我が恋叶えたまえと願う﹂クララは顔を背 くれな い けて 紅 の薔薇の花を唇につけて吹く︒一弁は飛んで波 みぎわ なき池の 汀 に浮ぶ︒一弁は梅鉢の形ちに組んで池を囲 あた え る 石 の 欄 干 に 中 り て 敷 石 の 上 に 落 ち た ︒﹁ 次 に 来 る は 応 諾 の 時 期 で あ る ︒ 誠 あ り と 見抜 く 男 の 心 を 猶 も 確め ん くさぐさ 為め女︑男に草々の課役をかける︒剣の力︑槍の力で遂 ぐべき程の事柄であるは言うまでもない﹂クララは吾を ぬかず かわ Druerieと呼ぶ︒武夫が君の前に額付いて渝らじと誓 も の のふ 透 す 大 い な る 眼 を 翻 し て 第 四 は と 問 う ︒﹁ 第 四 の 時 期 を 37 しつか ひ ざま うが ら 薄 暗 き曙 光 が 漏 れ て ︑ 物 の 色 の定 か に 見 え ぬ 中に 幻 影 しよこう りを打つ︒間にあまる壁を切りて︑高く穿てる細き窓か けん が二人の足の下に散る︒⁝⁝ Druerieの時期はもう望め ないわとウィリアムは六尺一寸の身を挙げてどさと寝返 に 抛 つ︒花びらは雪と乱れて︑ゆかしき香りの一群れ な げう クララ頬に紅して手に持てる薔薇の花を吾が耳のあたり う︒思う人の接吻さえ得なばとクララの方に顔を寄せる︒ ラ遠き代の人に語る如き声にて君が恋は何れの期ぞと問 置く︒女かたの如く愛の式を返して男に接吻する﹂クラ う如く男︑女の膝下に 跪 ずき手を合せて女の手の間に 38 おお ぐ も まな こ なめ ら の 盾 の み が 闇 に 懸 る 大 蜘 蛛 の 眼 の 如 く 光 る ︒﹁ 盾 が あ からす る︑まだ盾がある﹂とウィリアムは 烏 の羽の様な 滑 か な 髪 の 毛 を 握っ て が ば と 跳ね 起 る ︒中 庭 の隅 では 鉄を 打 はが ね げ 、す 、り 、の 響 が 聞 え 出 す ︒ つ音︑ 鋼 を鍛える響︑槌の音や せま 戦は日一日と逼ってくる︒ む いよいよ その日の夕暮に一城の大衆が︑無下に天井の高い食堂 ばんさん に会して晩餐の卓に就いた時︑戦の時期は 愈 狼将軍の そむ 口から発布された︒彼は先ず夜鴉の城主の武士道に背け なぬか る罪を数えて一門の面目を保つ為めに七日の夜を期し ほふ て︑一挙にその城を屠れと叫んだ︒その声は堂の四壁を 39 一周して︑丸く組み合せたる高い天井に突き当ると思わ もと あし めぐ が人の世の習いである︒夢と思うは嬉しく︑思わぬがつ 来 事 が 驀 地 に 現 前 せ ぬ う ち は︑ 夢 と思 う てそ の日 を 過 す ばくち らめる事もある︒去れどその事実を事実と証する程の出 を夢と思いて︑思い終せぬ時は︑無理ながら事実とあき おお き命の如くにいずくへか消え失せてしまった︒夢ならぬ 聞いた時はさすがの覚悟も蟹の泡の︑蘆の根を繞らぬ淡 かに ごしていた︒去れど今ルーファスの口から愈七日の後と ムは戦の近づきつつあるを覚悟の前でこの日この夜を過 るる位大きい︒戦は固より近づきつつあった︒ウィリア 40 ほぞ らいからである︒戦は事実であると思案の臍を堅めたの は 昨 日 や 今 日 の 事 で は な い ︒ 只 事 実に 相 違 な い と 思 い 定 おさ めた戦いが︑起らんとして起らぬ為め︑であれかしと願 かえ 、の 、思 、い 、は却って﹁事実になる﹂の念を抑ゆる事もあ う夢 つか っ た の で あ ろ う ︒ 一 年 は 三 百六 十五 日 ︑ 過 ぐ る は 束 の 間 ぶ である︒七日とは一年の五十分一にも足らぬ︒右の手を 挙げて左の指を二本加えればすぐに七である︒名もなき し くちお 鬼に襲われて︑名なき故に鬼にあらずと︑強いて思いた たが るに突然正体を見付けて今更眼力の違わぬを口惜しく思 まつさお う時の感じと異なる事もあるまい︒ウィリアムは真青に 41 な っ た ︒ 隣 り に 坐 し た シ ワ ル ド が 病 気 か と問 う ︒ 否 と 答 様に内側から締りをした︒ くだ る︒ウィリアムは独り立って吾室に帰りて︑人の入らぬ へや と叫んで血の如き酒を啜りながら尻目にウィリアムを見 もフラーと叫んで血の如き酒を啜る︒シワルドもフラー の大衆はフラーと叫んで血の如き酒を啜る︒ウィリアム すす 眉のあたりに上げて 隼 の如く床の上に投げ下す︒一座 はや ぶさ 鴉の城を︑城の根に張る 巌 もろともに海に落せと盃を いわお して卓の上を流れる︒その時ルーファスは再び起って夜 えて盃を唇につける︒充たざる酒の何に揺れてか縁を越 42 盾だ愈盾だとウィリアムは叫びながら室の中をあちら よ こ ち ら と 歩 む ︒ 盾 は 依 然 と し て 壁に懸 っ て い る ︒ ゴ ー ゴ わた ン・メジューサとも較ぶべき顔は例に由って天地人を合 げんぜ せて呪い︑過去現世未来に渉って呪い︑近寄るもの︑触 つく るるものは無論︑目に入らぬ草も木も呪い悉さでは已ま けしき ぬ気色である︒愈この盾を使わねばならぬかとウィリア そばだ ムは盾の下にとまって壁間を仰ぐ︒室の戸を叩く音のす けはい たな ご こ ろ る様な気合がする︒耳を 峙 てて聞くと何の音でもない︒ かみげ 懐からクララの髪毛を出す︒ 掌 う ち ぶ と ころ ウィリアムは又内 ていねい に乗せて眺めるかと思うと今度はそれを叮嚀に︑室の隅 43 うち に片寄せてある三本脚の丸いテーブルの上に置いた︒ウ たし ものか文字のあとが微かに残っているばかりである︒ 付の始めには﹁幻影の盾の由来﹂とかいてある︒すれた が動くのは紙が己れと動くのか︑持つ手の動くのか︒書 おの び具合から推すと昨今の物ではない︒風なきに紙の表て を 徐 ろに開く︒紙か羊皮か慥かには見えぬが色合の古 おもむ 丈夫である︒ウィリアムは丸机に倚って取り出した書付 よ た鉄の棒の抜けはせぬかと振り動かして見る︒ 締 は大 しま り 付の様なものを攫み出す︒室の戸口まで行って横にさし つか ィリアムは又内懐へ手を入れて胸の隠しの裏から何か書 44 なんじ ﹁ 汝 が祖ウィリアムはこの盾を北の国の巨人に得た り︒⁝⁝﹂ここにウィリアムとあるはわが四世の祖だと ウ ィ リ ア ム が 独 り 言 う ︒﹁ 黒 雲 の 地 を 渡 る 日 な り ︒ 北 の こぶ かざ 国の巨人は雲の内より振り落されたる鬼の如くに寄せ来 こぶ し る︒ 拳 の如き瘤のつきたる鉄棒を片手に振り翳して骨 くだ も 摧 け よ と 打 てば 馬 も 倒 れ 人 も 倒 れ て ︑ 地 を 行 く 雲 に 血 潮を含んで︑鳴る風に火花をも見る︒人を斬るの戦にあ つぶ たけ らず︑脳を砕き胴を潰して︑人という形を滅せざれば已 はげ まざる烈しき戦なり︒⁝⁝﹂ウィリアムは猛き者共よと 眉 を ひ そ め て ︑ 舌 を 打 つ ︒﹁ わ が 渡 り 合 い し は 巨 人 の 中 45 もつと つばもと ま つな まな こ き おお かつ 三度︑三度目にわが太刀は鍔元より三つに折れて巨人の たび い る ︒ ウ ィ リ ア ム は 又 読 み 続 け る ︒﹁ わ れ 巨 人 を 切 る 事 を見る︒彼の四世の祖が打ち込んだ刀痕は歴然と残って と う こん と鳴るのみ︒⁝⁝﹂ウィリアムは急に眼を転じて盾の方 に入る︒吾がうちし太刀先は巨人の盾を 斜 に斫って戞 ななめ える鋼鉄の延板の︑ 尤 も外に向えるが二つに折れて肉 はがね して︑鉄の瘤はわが右の肩先を滑べる︒繋ぎ合せて肩を蔽 す 鉄棒を脳天より下す︒眼を 遮 らぬ空の二つに裂くる響 さえぎ 稲妻を射る︒我を見て南方の犬尾を捲いて死ねと︑かの いな ずま の巨人なり︒銅板に砂を塗れる如き顔の中に 眼 懸りて 46 ゆが つい け 戴く甲の鉢金の︑内側に歪むを見たり︒巨人の椎を下す あざみ や四たび︑四たび目に巨人の足は︑血を含む泥を蹴て︑ てんぐ 木枯の天狗の杉を倒すが如く︑ 薊 の花のゆらぐ中に︑ どう 落雷も耻じよとばかり鞺と横たわる︒横たわりて起きぬ と 間 を ︑ 疾 く も 縫 え る わ が 短 刀 の 光 を 見 よ ︒ 吾な が ら 又 な き手柄なり︒⁝⁝﹂ブラヴォーとウィリアムは小声に云 ほ う ︒﹁ 巨 人 は 云 う ︑ 老 牛 の 夕 陽 に 吼 ゆ る が 如 き 声 に て 云 じゅし ゆえん し う︒幻影の盾を南方の豎子に付与す︑珍重に護持せよと︒ かざ いわ われ盾を翳してその所以を問うに黙して答えず︒強いて ゆびさ 聞くとき︑彼両手を揚げて北の空を 指 して曰く︒ワル 47 く ろが ね 戦に臨めば四囲の鬼神汝を呪うことあり︒呪われて後 り︒人に語るな語るとき盾の霊去る︒⁝⁝汝盾を執って 盾に願え︑願うて聴かれざるなし只その身を亡ぼす事あ ねご であろう︒ ﹁こ の 盾 何 の 奇 特 か あ る と 巨 人 に 問 え ば 曰 く ︒ きどく みが朗らかに聞える︒何者か暗窖の中へ降りていったの あん こ う を通り越して︑次第に遠ざかる下から︑壁の射返す響の リアムは又起って扉に耳を付けて聴く︒足音は部屋の前 た く︑石よりも堅き廊下の床を踏みならす音がする︒ウィ き白炎に鋳たるが幻影の盾なり︒⁝⁝﹂この時戸口に近 ハラの国オジンの座に近く︑火に溶けぬ黒鉄を︑氷の如 48 がいてん 蓋天蓋地の大歓喜に逢うべし︒只盾を伝え受くるものに こ の 秘 密 を 許 す と ︒ 南 国 の 人 こ の 不祥 の 具 を 愛 せ ず と 盾 を棄てて去らんとすれば︑巨人手を振って云う︒われ今 おもて 浄土ワルハラに帰る︑幻影の盾を要せず︒百年の後南方 せきい べんぶ に赤衣の美人あるべし︒その歌のこの盾の 面 に触るる いだ とき︑汝の児孫盾を抱いて抃舞するものあらんと︒⁝⁝﹂ 、の 、児 、孫 、とはわが事ではないかとウィリアムは疑う︒表 汝 へや に 足 音 が し て 室 の 戸 の 前 に 留 っ た 様 で あ る ︒﹁ 巨 人 は 薊 たお の中に斃れて︑薊の中に残れるはこの盾なり﹂と読み終 ってウィリアムが又壁の上の盾を見ると蛇の毛は又揺き 49 だ すきま もつ なめ ら ならく めぐ もぐ い か 如 何に も 低 い ︒ 前 の 世 の 耳 語 き を 奈 落 の 底 か ら 夢 の 間 に 伝 え る 様に ささや の音も蛇の毛の数だけはある筈であるが ︱ は必ず鳴ると見えるに︑蛇の毛は悉く動いているからそ って耳朶に達するのは以前と異なる事はない︒動くもの じ る︒只その音が一本々々の毛が鳴って一束の音にかたま も同じ様に清水が 滑 かな石の間を縈る時の様な音が出 しみず かと思わるる事もある︒下に動くときも上に揺り出す時 がき出て五寸の円の輪廓だけが盾を離れて浮き出はせぬ りん か く まで抜けはせぬかと疑わるる事もあり︑又上へ上へとも 始める︒隙間なく縺れた中を下へ下へと潜りて盾の裏側 50 ぼうぜん 聞 か れ る ︒ ウ ィ リ ア ム は 茫 然と し て こ の 微音を 聞 い てい いくさ る︒ 戦 も忘れ︑盾も忘れ︑我身をも忘れ︑戸口に人足 たた の 留 っ た も 忘 れ て 聞 い て い る ︑ こ とこ と と 戸 を 敲 く も の がある︒ウィリアムは魔がついた様な顔をして動こうと もしない︒ことことと再び敲く︒ウィリアムは両手に紙 片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る︒夢中に行く人の かた 如く︑身を向けて戸口の方に三歩ばかり近寄る︒眼は戸 ど う こう かし こぶ し の真中を見ているが瞳孔に写って脳裏に印する影は戸で せ はあるまい︒外の方では気が急くか︑厚い樫の扉を 拳 に て 会 釈 な く 夜 陰 に 響 け と 叩 く ︒ 三 度 目 に 敲 い た音 が︑ 51 物静かな夜を四方に破ったとき︑偶像の如きウィリアム しん ばり せま 舞に来た﹂と片足を宙にあげて︑残れる膝の上に置く︒ さ と 尻 を 卸 す ︒﹁ 今 日 の 晩 食 に 顔 色 が 悪 う 見 え た か ら 見 ﹁わしじゃ﹂とシワルドが︑進めぬ先から腰懸の上にど く光る二つの 眼 が遠慮なく部屋の中へ進んで来る︒ まな こ の様な額の上に︑赤黒き髪の斜めにかかる下から︑鋭ど ﹁戸を敲くは誰ぞ﹂と鉄の栓張をからりと外す︒切り岸 た けぬかと云う声さえ聞える︒ 急に 懐 へかくす︒敲く音は益逼って絶間なく響く︒開 ふところ は氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に返った︒紙片を 52 はばた またた ﹁さした事もない﹂とウィリアムは 瞬 きして顔をそむ ける︒ よが らす ﹁夜鴉の羽搏きを聞かぬうちに︑花多き国に行く気はな ありげ いか﹂とシワルドは意味有気に問う︒ ﹁花多き国とは?﹂ ﹁南の事じゃ︑トルバダウの歌の聞ける国じゃ﹂ ぬし ﹁主がいにたいと云うのか﹂ けおと ﹁わしは行かぬ︑知れた事よ︒もう六つ︑日の出を見れ す ば︑夜鴉の栖を根から海へ蹴落す役目があるわ︒日の永 い国へ渡ったら主の顔色が善くなろうと思うての親切か 53 め らじゃ︒ワハハハハ﹂とシワルドは傍若無人に笑う︒ うちぶ と ころ ゆびさ そう ちゅう の 懐へ収めるのをつい忘れた︒ウィリアムは身を伸し く ちごも を打つ︒ ﹁鴉に交る白い鳩を救う気はないか﹂と再び叢 中 に蛇 たまま口籠る︒ 内 ーブルの上にはクララの髪が元の如く乗っている︒ ら満更嫌でもあるまい﹂と丸テーブルの上を 指 す︒テ いや ﹁霧深い国を去らぬと云うのか︒その金色の髪の主とな をのして胸板を拊つ︒ う ﹁鳴かぬ烏の闇に滅り込むまでは⁝⁝﹂と六尺一寸の身 54 なぬか もた あと ﹁今から七日過ぎた後なら⁝⁝﹂と叢中の蛇は不意を打 やむ れて已を得ず首を擡げかかる︒ ﹁鴉を殺して鳩だけ生かそうと云う注文か⁝⁝それは少 し無理じゃ︒然し出来ぬ事もあるまい︒南から来て南へ 帰 る 船 が あ る ︒ 待 て よ ﹂ と 指 を 折 る ︒﹁ そ う じ ゃ 六 日 目 の晩には間に合うだろう︒城の東の船付場へ廻して︑あ いく の金色の髪の主を乗せよう︒不断は帆柱の先に白い小旗 か を揚げるが︑女が乗ったら赤に易えさせよう︒軍さは七 日 目 の 午 過 か ら じゃ ︑ 城 を 囲め ば 港 が 見 え る ︒ 柱 の上 に 赤が見えたら天下太平⁝⁝﹂ 55 にら う の か ︒ も う 落 付 い て 一 所に 話 す 折 も あ る ま い ︒ シ ワ ル ゃ無い︑本間の話じゃ︒手を振るのは聞きとも無いと云 ほんま 酒が甘くて金が落ちている︒土一升に金一升⁝⁝うそじ ﹁海一つ 向 へ渡ると日の目が多い︑暖かじゃ︒それに むこう 無雑作に掻いて︑若き人を慰める為か話頭を転ずる︒ か 南の国の面白い話でもしょう﹂とシワルドは渋色の髭を ひげ ﹁まあ︑よいわ︑どうにかなる心配するな︒それよりは う顔が一寸見えて又もとの夜叉に返る︒ 夜叉の髪の毛は動きもせぬ︑鳴りもせぬ︒クララかと思 やしゃ ﹁白が見えたら⁝⁝﹂とウィリアムは幻影の盾を睨む︒ 56 さ め い ド の 名 残 の 談 義 だ と 思 う て聞 い て く れ ︒ そ う 滅 入 ら ん で き もの事よ﹂宵に浴びた酒の気がまだ醒めぬのかゲーと臭 い の を ウ ィ リ ア ム の 顔 に 吹 き か け る ︒﹁ い や こ れ は 御無 わ 礼⁝⁝何を話す積りであった︒おおそれだ︑その酒の湧 く︑金の土に交る海の向での﹂とシワルドはウィリアム のぞ かあい を覗き込む︒ ぬし ﹁主が女に可愛がられたと云うのか﹂ あまた ﹁ワハハハ女にも数多近付はあるが︑それじゃない︒ボ ーシイルの会を見たと云う事よ﹂ ﹁ボーシイルの会?﹂ 57 ﹁知らぬか︒薄黒い島国に住んでいては︑知らぬも道理 いぬ ﹁試合の催しがあると︑シミニアンの太守が二十四頭の は切れた糸を接ぐ︒ つな ﹁まあ水を指さずに聴け︒うそでも興があろう﹂と相手 らぬ人のならい︑ウィリアムは 嘲 る様に話の糸を切る︒ あざけ ﹁ 金 の 林 檎 を 食 う ︑ 月 の 露 を 湯に 浴 び る ⁝ ⁝ ﹂ と 平 か な りんご ﹁馬は銀の沓をはく︑狗は珠の首輪をつける⁝⁝﹂ くつ ﹁ふむそれが?﹂とウィリアムは浮かぬ顔である︒ はあちらで誰れも知らぬものはないぞよ﹂ じゃ︒プロヴォンサルの伯とツールースの伯の和睦の会 58 らち 白 牛 を 駆 っ て 埓 の 内 を 奇 麗 に 地 な ら し す る ︒な ら し た 後 ま へ三万枚の黄金を蒔く︒するとアグーの太守がわしは勝 ほうび ち手にとらせる褒美を受持とうと十万枚の黄金を加え ろう そく る︒マルテロはわしは御馳走役じゃと云うて蝋燭の火で にたき 煮焼した珍味を振舞うて︑銀の皿小鉢を引出物に添える﹂ ﹁もう沢山じゃ﹂とウィリアムが笑いながら云う︒ さく くい ﹁ま一つじゃ︒仕舞にレイモンが今まで誰も見た事のな ま くら い遊びをやると云うて先ず試合の柵の中へ三十本の杭を く つわ た づな きゃしゃ 植える︒それに三十頭の名馬を繋ぐ︒裸馬ではない鞍も あぶ み 置き 鐙 もつけ轡手綱の華奢さえ尽してじゃ︒よいか︒ 59 アムは自ら嘲る如くに云う︒ かね だ か たきぎ こ て ﹁そんな国に黒い眼︑黒い髪の男は無用じゃ﹂とウィリ なあ﹂と又ウィリアムの胸の底へ探りの石を投げ込む︒ ﹁そう云う国へ行って見よと云うに主も余程意地張りだ てカラカラと心地よげに笑う︒ 何とあちらのものは豪興をやるではないか﹂と話し終っ に積んで︑火を掛けての︑馬も具足も皆焼いてしもうた︒ 馳走よりも︑嵩が張ろう︒それから囲りへ 薪 を山の様 かさ 脛当まで添えて並べ立てた︒金高にしたらマルテロの御 すね あて そしてその真中へ鎧︑刀これも三十人分︑甲は無論小手 60 ﹁やはりその金色の髪の主の居る所が恋しいと見える な﹂ ﹁ 言 う ま で もな い ﹂ と ウ ィ リ ア ム は き っ とな っ て 幻 影 の すみ 盾を見る︒中庭の隅で鉄を打つ音︑鋼を鍛える響︑槌の 、ス 、リ 、の響が聞え出す︒夜はいつの間にかほのぼの 音︑ヤ せま と明け渡る︒ なぬか 七 日 に 逼 る 戦 は 一 日 の 命 を 縮 め て 愈六 日 と な っ た ︒ ウ まんぶ ィリアムはシーワルドの勧むるままにクララへの手紙を せ 認める︒心が急くのと︑わきが騒がしいので思う事の万分 一 も 書 け ぬ ︒﹁ 御 身 の 髪 は 猶 わ が 懐 に あ り ︑ 只 こ の 使 と 61 逃げ落ちよ︑疑えば魔多し﹂とばかりで筆を擱く︒この や ば知らぬと云う︒知らぬとは自然と云う意か︒マリアの 欺く涙が湧いて出る︒この清き者に何故流れるぞと問え 逢うはうれし︑逢わぬは憂し︒憂し嬉しの源から珠を ⁝⁝幻影の盾のみ知る︒ る︒これだけの事はシーワルドから聞いた︑そのあとは 万一手順が狂えば隙を見て城へ火をかけても志を遂げ すき で︑戦あるべき前の晩にクララを奪い出して舟に乗せる︒ ぬ ︒ そ の 頃 流行 る 楽 人 の 姿 と な っ て 夜 鴉 の 城 に 忍 び 込 ん は 手紙を受取ってクララに渡す者はいずこの何者か分ら 62 ひ ざま ず 像の前に︑ 跪 いて祈願を凝せるウィリアムが立ち上っ まつげ たとき︑長い 睫 がいつもより重た気に見えたが︑なぜ 重いのか彼にも分らなかった︒誠は誠を自覚すれどもそ の他を知らぬ︒その夜の夢に彼れは五彩の雲に乗るマリ アを見た︒マリアと見えたるはクララを祭れる姿で︑ク ララとは地に住むマリアであろう︒祈らるる神︑祈らる る人は異なれど︑祈る人の胸には神も人も同じ願の影法 師に過ぎぬ︒祭る聖母は恋う人の為め︑人恋うは聖母に 跪く為め︒マリアとも云え︑クララとも云え︒ウィリア ムの心の中に二つのものは宿らぬ︒宿る余地あらばこの 63 うそ 明ける︒戦は愈せまる︒ おど かえ 細 鱗 の 如 く 秋 の 日 を 射 返 す ︒﹁ 飛 ば せ ﹂ と シ ー ワ ル ド が さいりん ぶ 轡 の間から鼻嵐が立って︑二つの甲が︑月下に躍る くつわ ﹁飛ばせ﹂とシーワルドはウィリアムを顧みて云う︒並 は︑手さえ動かすひまなきに襲い来る如く感ぜられた︒ す間と見えて︑三日︑二日より愈戦の日を迎えたるとき 思 わ れ ︑ 四 日 目 か ら 三日 目 に 進 む は 翻 が え す 手 を 故に 還 もと 五日目から四日目に移るは俯せたる手を翻がえす間と ふ 、ス 、リ 、の響が聞えて︑例の如く夜が 鍛える響︑槌の音︑ヤ 恋は嘘の恋じゃ︒夢の続か中庭の隅で鉄を打つ音︑鋼を 64 かかと かしら さ 踵 を半ば馬の太腹に蹴込む︒二人の 頭 の上 に長 く挿 し はげ たる真白な毛が烈しく風を受けて︑振り落さるるまでに なび て かざ かた 靡く︒夜鴉の城壁を斜めに見て︑小高き丘に飛ばせたる め シ ー ワ ル ド が 右 手 を 翳 し て 港 の 方 を 望 む ︒﹁ 帆 柱 に 掲 げ おく た 旗 は 赤 か 白 か ﹂ と 後 れ た る ウ ィ リ ア ム は 叫 ぶ ︒﹁ 白 か くらつぼ 赤か︑赤か白か﹂と続け様に叫ぶ︒鞍壺に延び上ったる たい シーワルドは体をおろすと等しく馬を向け直して一散に 城門の方へ飛ばす︒ ﹁続け︑続け﹂とウィリアムを呼ぶ︒ あほう ﹁ 赤 か ︑ 白 か ﹂ と ウ ィ リ ア ム は 叫 ぶ ︒﹁ 阿 呆 ︑ 丘 へ 飛 ば ほり すより濠の中へ飛ばせ﹂とシーワルドはひたすらに城門 65 おりから ふとう ゆる ﹁白だッ﹂とウィリアムは口の内で言い か まるやぐら 三丈四尺︑これを四階に分って︑最上の一層にのみ窓を穿 うが れた如く見ゆるは本丸であろう︒高さ十九丈壁の 厚 は あつさ に壁を突き抜いて立つ︒天の柱が落ちてその真中に刺さ 城壁の高さは四丈︑丸 櫓の高さはこれを倍して︑所々 よ て︑淋しき海の上に響く︒ ながら前歯で唇を噛む︒折柄戦の声は夜鴉の城を撼がし の真上には ︱ ぬ有様である︒左右に低き帆柱を控えて︑中に高き一本 胴の高い船が心細く揺れている︒魔に襲われて夢安から の方へ飛ばす︒港の入口には︑埠頭を洗う浪を食って︑ 66 いわゆる つ︒真上より真下に降る井戸の如き道ありて︑所謂ダン もっ と ジョンは 尤 も低く尤も暗き所に地獄と壁一重を隔てて しゅつにゅう 設けらるる︒本丸の左右に懸け離れたる二つの櫓は本丸 うま や すまい の二階から家根付の橋を渡して 出 入 の便りを計る︒櫓 めぐ を環る三々五々の建物には 厩 もある︒兵士の住居もあ る ︒ 乱 を 避 く る領 内 の 細 民 が 隠 る る 場 所 も あ る ︒ 後ろ は きりぎし 切岸に海の鳴る音を聞き︑砕くる浪の花の上に舞い下り かもめ こ ては舞い上る 鴎 を見る︒前は牛を呑むアーチの暗き上 はねば し より︑石に響く扉を下して︑刎橋を鉄鎖に引けば人の踰 ほり えぬ濠である︒ 67 濠を渡せば門も破ろう︑門を破れば天主も抜こう︑志 むくと湧く清水に︑こまかき砂の浮き上りて一度に 漾 かぎ やじり となって︑地上に 蠢 く黒影の響に和して︑時ならぬ物 うごめ 長き箭の︑一矢毎に鳴りを起せば数千の鳴りは一と塊り や の如く寄手の鼻頭に︑鉤と曲る 鏃 を集める︒空を行く はな さき う如く見ゆる︒壁の上よりは︑ありとある弓を伏せて蝟 い ただよ 一人が進む︒一人二人の後は只我先にと乱れ入る︒むく く突き出す︒あとに続けと一人が従えば︑尻を追えと又 したる扉の隙より︑黒金につつめる 狼 の顔を会釈もな おおかみ ある方に道あり︑道ある方に向えとルーファスは打ち壊 68 かぶ と よろい 音に︑沖の鴎を驚かす︒狂えるは鳥のみならず︒秋の夕 くぐ 日を受けつ潜りつ︑ 甲 の浪 鎧 の浪が寄せては崩れ︑崩 ひ れ て は 退 く ︒ 退 く と き は 壁 の 上 櫓 の上 よ り ︑ 傾 く 日 を 海 とき の底へ震い落す程の鬨を作る︒寄するときは甲の浪︑鎧 の浪の中より︑吹き捲くる大風の息の根を一時にとめる べき声を起す︒退く浪と寄する浪の間にウィリアムとシ ー ワ ル ド が は た と 行 き 逢 う ︒﹁ 生 き て お る か ﹂ と シ ー ワ かっ ル ド が 剣 で 招 け ば ︑﹁ 死 ぬ と こ ろ じ ゃ ﹂ と ウ ィ リ ア ム が そば だ 高く盾を翳す︒右に 峙 つ丸櫓の上より飛び来る矢が戞 かす と夜叉の額を掠めてウィリアムの足の下へ落つる︒この 69 まる︒ たちま じ かた さえぎ めぐ たけ おお そう ぜん に︑砕くる波の音が忽ち高く聞える︒忽ち聞えるは始め 日は暮れ果てて黒き夜の一寸の隙間なく人馬を蔽う中 すん る︒搏つ音の絶えたるは一時の間か︒暫らくは鳴りも静 う たる夜の色と共に城門の外へなだれながら吐き出され に 天 主 を も 屠 る 勢 で あ っ た 寄 手 の︑何 に ひ る ん で か 蒼 然 ほふ て︑五時と六 時の間にも未だ方付かぬ︒一度びは猛き心 ま まれて見えなくなる︒戦は午を過ぐる二た時余りに起っ ご う白毛の靡きさえ︑ 暫 くの間に︑旋る渦の中に捲き込 しば ら 時崩れかかる人浪は 忽 ち二人の間を 遮 って︑鉢金を蔽 70 や て海の鳴るにあらず︑吾が鳴りの暫らく已んで空しき心 きざ の迎えたるに過ぎぬ︒この浪の音は何里の沖に萌してこ の磯の遠きに崩るるか︑思えば古き響きである︒時の幾 代を揺がして知られぬ未来に響く︒日を捨てず夜を捨て えい ごう ず︑二六 時中繰り返す真理は永劫無極の響きを伝えて剣 ののし 打つ音を嘲り︑弓引く音を笑う︒百と云い千と云う人の あわれ 叫びの︑はかなくて 憐 むべきを 罵 るときかれる︒去れ わず ど城を守るものも︑城を攻むるものも︑おのが叫びの纔 は かにやんで︑この深き響きを不用意に聞き得たるとき耻 あと ずかしと思えるはなし︒ウィリアムは盾に凝る血の痕を 71 見て﹁汝われをも呪うか﹂と剣を以て三たび夜叉の面を だんだん は きた る地震の秒を刻み分を刻んで押し寄せるなと心付けばそ ぐ気合がする︒それが漸々烈しくなる︒千里の深きより来 けはい る音の次第に募ると思ううち︑城の内にて俄かに人の騒 にわ 間にも新たに天地の響を添える︒塔を繞る音︑壁にあた めぐ 海より吹く風︑海へ吹く風と変りて︑砕くる浪と浪の るまま一言もいわぬ︒ こと め込まれたる如き双の 眼 を放って高く天主を見詰めた まな こ に斬って棄よ﹂と息捲く︒シワルドばかりは額の奥に嵌 き 叩く︒ルーファスは﹁鳥なれば闇にも隠れん月照らぬ間 72 まゆ う そ れが夜鴉の城の真下で破裂したかと思う響がする︒ ︱ ︱ 櫓 シワルドの眉は毛虫を撲ちたるが如く反り返る︒ けむ の窓から黒烟りが吹き出す︒夜の中に夜よりも黒き烟り あと がむくむくと吹き出す︒狭き出口を争うが為めか︑烟の あふ い 量 は 見 る 間 に 増 し て 前な る は 押 され ︑ 後な る は 押 し︑ 並 ま ほとばし ぶは互に譲るまじとて同時に溢れ出ずる様に見える︒吹 のわき き募る野分は真ともに烟を砕いて︑丸く渦を巻いて 迸 る 鼻 を ︑ 元 の 如 く 窓 へ 圧 し 返 そ う と す る ︒ 風 に 喰い 留 め られた渦は一度になだれて空に流れ込む︒暫くすると吹 き出す烟りの中に火の粉が交り出す︒それが見る間に殖 73 まきえ あめ もろとも たえま あるい か えん う ﹁占めた﹂とシーワルドは手を拍 だる ポンプ 矢の疾きを射る︒飴を煮て四斗樽大の喞筒の口から大空 と 棒 と な っ て ︑ 熱 を 追 う て 突 き上 る 風 諸 共 ︑ 夜 の 世 界 に 流 黒烟 り を 吐 き 出 し て ︑ 吐 き 尽 し た る 後 は ︑ 太 き 火 燄 が って雀躍する︒ こおど り かぬ箇所はない︒ ︱ 或は輝きて︑動いて行く円の内部は一点として活きて動 粉を梨地に点じた蒔絵の︑瞬時の断間もなく 或 は消え なしじ 描いて︑その円は不規則に海の方へと動いて行く︒火の かた る︒城を蔽う天の一部が櫓を中心として大なる赤き円を える︒殖えた火の粉は烟 諸共風に捲かれて大空に舞い上 74 た せん に注ぐとも形容される︒沸ぎる火の闇に詮なく消ゆるあ のぼ こしゃく とより又沸ぎる火が立ち騰る︒深き夜を焦せとばかり煮 ほ のお え返る 燄 の声は︑地にわめく人の叫びを小癪なりとて 空一面に鳴り渡る︒鳴る中に燄は砕けて砕けたる粉が舞 さが い上り舞い下りつつ海の方へと広がる︒濁る波の憤る色 とお は︑怒る響と共に薄黒く認めらるる位なれば櫓の周囲は︑ すす ひめがき 煤を透す日に照さるるよりも明かである︒一枚の火の︑ つつ 丸形に櫓を裹んで飽き足らず︑横に這うて 堞 の胸先に かかる︒炎は尺を計って左へ左へと延びる︒たまたま一 ほこさき 陣の風吹いて︑逆に舌先を払えば︑左へ行くべき 鋒 を 75 る︒ や めぐ こ さから しばらくは燄と共に傾くと見えしが︑奈落までも落ち入 焦け爛れたる高櫓の︑機熟してか︑吹く風に 逆 いて ただ から明るき中へ消えて入ったぎり再び出て来ぬのもあ る堞の上を黒き影が行きつ戻りつする︒たまには暗き上 が 出 来 る ︑ か し こ に も一 枚 の火 が 出来 る︒ 火に 包 まれ た 見る間に長くなり︑又広くなる︒果は此所にも一枚の火 こ き直りて行き過ぎし風を追う︒左へ左へと溶けたる舌は ある︒順に憮でて燄を馳け抜ける時は上に向えるが又向 か 転 じ て上 に 向 う ︒ 旋 る 風 な れ ば 後ろ よ り 不意 を 襲 う 事 も 76 さか らでやはと︑三分二を岩に残して︑倒しまに崩れかかる︒ や 取り巻く燄の一度にパッと天地を燬く時︑堞の上に火の たたず 如 き 髪 を 振 り 乱 し て 佇 む 女 が あ る ︒﹁ ク ラ ラ ! ﹂ と ウ ィリアムが叫ぶ途端に女の影は消える︒焼け出された二 つか 頭 の馬 が 鞍 付 の ま ま宙 を 飛 ん で来 る ︒ しりお 疾く走る尻尾を攫みて根元よりスパと抜ける体なり︑ はた 先なる馬がウィリアムの前にて礑ととまる︒とまる前足 に力余りて堅き爪の半ばは︑斜めに土に喰い入る︒盾に 当 る 鼻 づ ら の ︑ 二 寸 を 隔 て て 夜 叉 の面 に 火 の 息 を 吹 く ︒ たてがみ ﹁四つ足も呪われたか﹂とウィリアムは我とはなしに 鬣 77 あられ のわき かた 霰 か︑野分か︑木枯か ︱ また あぶ み 知らぬ︒呪いは真一文字に 夜は明けたのか日は高いのか︑暮れかかるのか︑雨か︑ 野を走り尽せば丘に走り︑丘を走り下れば谷に走り入る︒ 大地に疳走る音を刻んで︑呪いの尽くる所まで走るなり︒ かんばし わるるにあらず︑呪いの走るなり︒風を切り︑夜を裂き︑ ウィリアムの馬を追うにあらず︑馬のウィリアムに追 つ︒﹁呪われた﹂とウィリアムは馬と共に空を行く︒ くう へ行け﹂と鉄被る剛き手を挙げて馬の尻をしたたかに打 き 無沙汰に太腹を打って宙に躍る︒この時何物か﹁南の国 を握りてひらりと高き脊に跨がる︒足乗せぬ 鐙 は手持 78 さえぎ しゅ たお 走る事を知るのみじゃ︒前に当るものは親でも許さぬ︑ ひづめ 石蹴る 蹄 には火花が鳴る︒行手を 遮 るものは主でも斃 せ︑闇吹き散らす鼻嵐を見よ︒物凄き音の︑ 物凄き人と まつげ 馬の影を包んで︑あっと見る 睫 の合わぬ間に過ぎ去る ば か り じ ゃ ︒ 人 か 馬 か 形 か 影 か と惑 う な ︑ 只 呪 い そ の 物 たけ の吼り狂うて行かんと欲する所に行く姿と思え︒ て いだ ウィリアムは何里飛ばしたか知らぬ︒乗り斃した馬の め よ みが え 鞍に腰を卸して︑右手に額を抑えて何事をか考え出さん つと と力めている︒死したる人の 蘇 る時に︑昔しの我と今 つな の我との︑あるは別人の如く︑あるは同人の如く︑繋ぐ 79 きた しか わ 戦 ⁝ ⁝ と順 を 立 て て 排 列 し て 見 る ︒ 皆 事 実 と し か思 われ 糸と乱れてその頭を悩ましている︒出陣︑帆柱の旗︑ っただけ︑今思い起すかれこれも送迎に 遑 なきまで︑ い とま ろう︒ウィリアムが吾に醒めた時の心が水の如く涼しか さ 地あればある程︑簇がる物は迅速に脳裏を馳け廻るであ めぐ 折 々 は 簇 が り 来 る で あろ う ︒簇 がり来 るも のを 入 る る 余 むら し昔を想い起せば︑油然として雲の湧くが如くにその ゆう ぜん 怒哀楽の影は宿るまい︒空しき心のふと吾に帰りて在り むな い 惑 う 様 で あ る ︒ 半 時な り と も 死 せ る 人 の 頭 脳 に は ︑ 喜 鎖りは情けなく切れて︑然も何等かの関係あるべしと思 80 ぬ ︒﹁ そ の 次 に ﹂ と 頭 の 奥 を 探 る と ぺ ら ぺ ら と 黄 色 な 燄 が 見 え る ︒﹁ 火 事 だ ! ﹂ と ウ ィ リ ア ム は 思 わ ず 叫 ぶ ︒ 火 事は構わぬが今心の眼に思い浮べた燄の中にはクララの ただよ 髪の毛が 漾 っている︒何故あの火の中へ飛び込んで同 じ所で死ななかったのかとウィリアムは舌打ちをする︒ しわざ ﹁盾の仕業だ﹂と口の内でつぶやく︒見ると盾は馬の頭 を三尺ばかり右へ隔てて表を空にむけて横わっている︒ のろ ﹁これが恋の果か︑呪いが醒めても恋は醒めぬ﹂とウィ はん も ん いずく リアムは又額を抑えて︑己れを煩悶の海に沈める︒海の うと 底に足がついて︑世に疎きまで思い入るとき︑何処より 81 かす ぎ ぼ し ゅ こす ふく をする︒枝の悉くは丸い黄な葉を以て隙間なきまでに綴 もっ 上が尖がって欄干の擬宝珠か︑筆の穂の水を含んだ形状 と な線を描いて生えている︒その枝が聚まって︑中が膨れ︑ あつ 枝が幹の根を去る六尺位の所から上を向いて︑しなやか もののみであろう︒不思議にもそれが皆同じ樹である︒ い︒木は一坪に一本位の割でその 大 さも径六七寸位の おお き え︑枝を交えて高き日を遮ぎる一抱え二抱えの大木はな かか 分からぬが︑目の届く限りは一面の林である︒林とは云 ィリアムは眼を開いてあたりを見廻す︒ここは何処とも か︑微かなる糸を馬の尾で摩る様な響が聞える︒睡るウ 82 、の 、穂 、は色の変る︑面長な られているから︑枝の重なる筆 さま 葡 萄 の 珠 で ︑ 穂 の 重 な る 林 の態 は 葡 萄 の 房 の 累 々 と 連 な むこう たがい る趣きがある︒下より仰げば少しずつは空も青く見らる はる る︒只眼を放つ遥か 向 の果に︑樹の幹が 互 に近づきつ︑ とお ざ さま 遠 かりつ黒くならぶ間に︑澄み渡る秋の空が鏡の如く うすも の い やや き ば 光 る は 心 行 く 眺め で あ る ︒ 時 々 鏡 の 面 を 羅 が 過 ぎ 行 様 こけ まで横から見える︒地面は一面の苔で秋に入って稍黄食 んだと思われる所もあり︑又は薄茶に枯れかかった辺も あと あるが︑人の踏んだ痕がないから︑黄は黄なり︑薄茶は 薄茶のまま︑苔と云う昔しの姿を存している︒ここかし 83 し だ あき ら が乱れ︑雑り︑重なって苔の上を照らすから︑林の中に まじ 濃き︑薄き︑様様の趣向をそれぞれに凝している︒それ こら 射返す具合も悉く違う︒同じ黄ではあるが透明︑半透明︑ は存外明るい︒葉の向きは固より一様でないから︑日を もと 光線が︑かの丸い黄な無数の葉を一度に洗って︑林の中 秋の日は極めて 明 かな日である︒真上から林を照らす きわ す の で ︑ さ ほ ど 静 か な 割 合に 怖 し い 感 じ が 少 な い ︒ そ の 所に描き出しているが︑樹の高からぬのと秋の日の射透 だ︒鳥も鳴かぬ風も渡らぬ︒寂然として太古の昔を至る せき ぜん こに歯朶の茂りが平かな面を破って幽情を添えるばかり 84 こはく びょう めぐ 居るものは琥珀の 屏 を繞らして間接に太陽の光りを浴 ね じ びる心地である︒ウィリアムは醒めて苦しく︑夢に落付 ようす く と い う 容 子に 見 え る ︒ 糸 の 音 が 再 び 落 ち つ き か け た 耳 だ きわだ 西か東か無論わ 朶に響く︒今度は怪しき音の方へ眼をむける︒幹をすか ︱ ひと せ 爰ばかりは木が重なり合て一畝程は際立つ薄 おう して空の見える反対の方角を見ると ︱ からぬ うり 暗 さ を 地 に 印 す る 中 に 池 が あ る ︒池 は 大 き く はない ︑ 出 そ こな 来 損 いの瓜の様に狭き幅を木陰に横たえている︒これ たた も太古の池で中に湛えるのは同じく太古の水であろう︑ 寒気がする程青い︒いつ散ったものか黄な小さき葉が水 85 とやむ︒ お もむ あめ ゴ ム ゆるゆる 林の中は森として静かである︒足音に我が動くを知るも しん 皮 の ︑ 厚 く 柔 ら か な れ ば ︑ あ る く 時 も ︑ 坐 れ る 時 の如 く ま音ある方へ 徐 ろに歩を移す︒ぼろぼろと崩るる苔の かた ウィリアムの腰は鞍を離れた︒池の方に眼を向けたま くら 練り上る如く︑低くきより自然に高き調子に移りてはた 糸の音は三たび響く︒ 滑 かなる坂を︑護謨の輪が緩々 なめら いる︒群を離れて散っているのはもとより数え切れぬ︒ と見えて︑浮ぶ葉は吹き寄せられて︑所所にかたまって の上に浮いている︒ここにも天が下の風は吹く事がある 86 みぎわ のの︑音なければ動く事を忘るるか︑ウィリアムは歩む ふ とは思わず只ふらふらと池の 汀 まで進み寄る︒池幅の せま わず 少しく逼りたるに︑臥す牛を欺く程の岩が向側から半ば うずくま 岸に沿うて蹲踞れば︑ウィリアムと岩との間は僅か一丈 まば ひ 余ならんと思われる︒その岩の上に一人の女が︑眩ゆし し と見ゆるまで紅なる衣を着て︑知らぬ世の楽器を弾くと みど ひた いだ もなしに弾いている︒碧り積む水が肌に沁む寒き色の中 さか に︑この女の影を倒しまに擴す︒投げ出したる足の︑長 もすそ き 裳 に隠くるる末まで明かに写る︒水は元より動かぬ︑ す 女も動かねば影も動かぬ︒只弓を擦る右の手が糸に沿う 87 出す︒ うご かしら まと わた こずえ 、こ 、と 、とは思い詰めたる心の影を︒心の影を偽りと云 ﹁ま ずむ︒ がちょと動いて︑又元に還る︒ウィリアムは茫然として佇 たた らはらと赤き衣にかかりて︑池の面に落ちる︒静かな影 清く淋しい声である︒風の度らぬ 梢 から黄な葉がは さび 、こ 、こ 、と 、か︑水の下なる影がま 、と 、か﹂ ﹁岩の上なる我がま われ 女である︒クララとは似ても似つかぬ︒女はやがて歌い 湛然たる水の底に明星程の光を放つ︒黒き眼の黒き髪の たん ぜん てゆるく揺く︒ 頭 を纏う︑糸に貫いた真珠の飾りが︑ 88 かた うが偽り﹂女静かに歌いやんで︑ウィリアムの方を顧み や うら る︒ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る︒ く おじか くびす 、ぼ 、ろ 、し 、の ﹁恋に口惜しき命の占を︑盾に問えかし︑ま 盾﹂ がけ おもて ウィリアムは崖を飛ぶ牡鹿の如く︑踵 をめぐらして︑ いだ 盾をとって来る︒女﹁只懸命に盾の 面 を見給え﹂と云 しょうしつ うち う︒ウィリアムは無言のまま盾を抱いて︑池の縁に坐る︒ りょうかく 寥 廓なる天の下︑蕭 瑟な る林の裏︑幽冷なる池の上に なん 音と云う程の音は何にも聞えぬ︒只ウィリアムの見詰め めぐ た る 盾 の 内 輪 が ︑ 例 の 如 く 環 り 出 す と共 に ︑ 昔 しな が ら 89 かす 黒 き 幕 か か る ︒ 見 れ ど も 見 え ず ︑ 聞 け ど も聞 え ず ︑ 常 闇 とこやみ ゆ︒見入る盾の模様は霞むかと疑われて程なく盾の面に かす 如くふる︒動く毛の次第にやみて︑鳴る音も 自 から絶 お のず ば語るが如く︑岸を隔ててウィリアムに向けて手を波の 音 を な 聞 き そ ︑ 音 を な 聞 き そ ﹂ と 女 半 ば 歌 う が如 く ︑ 半 ﹁迷いては︑迷いてはしきりに動く心なり︑音なき方に は?﹂﹁鵞筆の紙を走る如くなり﹂ がひつ 動 く は ﹂ と ウ ィ リ ア ム が 眼 を 放 た ず に 答 え る ︒﹁ 物 音 か 見 る ﹂ と 女 は 水 の 向 よ り 問 う ︒﹁ あ り と あ る 蛇 の 毛 の の 微 か な 声 が 彼 の 耳 を 襲 う の み で あ る ︒﹁ 盾 の 中 に 何 を 90 の世に住む我を怪しみて﹁暗し︑暗し﹂と云う︒わが呼 かす ぶ声のわれにすら聞かれぬ位幽かなり︒ せき も 身をも命も︑闇に捨てなば︑身をも命も︑闇に ﹁闇に烏を見ずと嘆かば︑鳴かぬ声さえ聞かんと恋わ ︱ め︑ も い きた 拾わば︑嬉しかろうよ﹂と女の歌う声が百尺の壁を洩れ く て︑蜘蛛の囲の細き通い路より来る︒歌はしばし絶えて 弓擦る音の風誘う遠きより高く低く︑ウィリアムの耳に はく ぎょく 限りなき清涼の気を吹く︒その時暗き中に一点白 玉の 光が点ぜらるる︒見るうちに大きくなる︒闇のひくか︑ くうとう 光りの進むか︑ウィリアムの眼の及ぶ限りは︑四面空蕩 91 立つ︒ 声である︒ うち け たり ﹂ タ リ リ びん ア ほが ら ﹁広い海がほのぼのとあけて︑⁝⁝橙 まなか おんな 色の日が浪から だいだいいろ 女 は 歌 い 出 す ︒﹁ 以 太 利 亜 の ︑ 以 太 利 亜 の 海 紫 に 夜 明 イ 蘇がえれる人の様に答える︒彼の眼はまだ盾を難れぬ︒ よみ ﹁無の中か︑有の中か︑玻璃瓶の中か﹂とウィリアムが ハ ﹁君は今いずくに居わすぞ﹂と遥かに問うはかの 女 の お う 天 も な く ︑ 足 を 乗 す る 地 もな く 玲 瓏 虚 無 の 真 中 に 一 人 れい ろう 万里の層氷を建て連らねたる如く 豁 かになる︒頭を蔽 92 出る﹂とウィリアムが云う︒彼の眼は猶盾を見詰めてい る︒彼の心には身も世も何もない︒只盾がある︒髪毛の じもくこうび 末から︑足の爪先に至るまで︑五臓六腑を挙げ︑耳目口鼻 を挙げて悉く幻影の盾である︒彼の総身は盾になり切っ お ている︒盾はウィリアムでウィリアムは盾である︒二つ しょうじょうかい ︱ のものが純一無雑の清 浄 界にぴたりと合うたとき お のず 以太利亜の空は 自 から明けて︑以太利亜の日は自から 出る︒ 女 は 又 歌 う ︒﹁ 帆 を 張 れ ば ︑ 舟 も 行 く め り ︑ 帆 柱 に ︑ 何を掲げて⁝⁝﹂ 93 ﹁ 赤 だ っ ﹂ と ウ ィ リ ア ム は 盾 の 中 に 向 っ て 叫 ぶ ︒﹁ 白 い よこぎ とおやま たなび きんいろ く長い一条の白布と見える︒丘には橄欖が深緑りの葉を かん らん る︒只春の波のちょろちょろと磯を洗う端だけが際限な を流してその中に 横 わる遠山もまた濃き藍を含んでい よ こた ここは南の国で︑空には濃き藍を流し︑海にも濃き藍 あい 乱して伸び上 るは言うまでもない︑クララである︒ 滑って難なく岸に近づいて来る︒ 舳 に金色の髪を日に へさ き だ︑赤だクララの舟だ﹂⁝⁝舟は油の如く 平 なる海を たい ら 左右は知らぬ︑中なる上に春 風を受けて棚曳くは︑赤 しゅんぷう 帆が山影を 横 って︑岸に近づいて来る︒三本の帆柱の 94 ももちどり 凡ての春の すべ 暖かき日に洗われて︑その葉裏には百千鳥をかくす︒庭 くれない ︱ には黄な花︑赤い花︑紫の花︑ 紅 の花 花が︑凡ての色を尽くして︑咲きては乱れ︑乱れては散 たれ り︑散りては咲いて︑冬知らぬ空を誰に向って誇る︒ い 暖かき草の上に二人が坐って︑二人共に青絹を敷いた ふ 様 な 海 の 面 を 遥 か の 下 に 眺め てい る ︒ 二 人共 に 斑 入り の もた 大理石の欄干に身を靠せて︑二人共に足を前に投げ出し りんご ている︒二人の頭の上から欄干を斜めに林檎の枝が花の かさ 蓋をさしかける︒花が散ると︑あるときはクララの髪の 毛にとまり︑ある時はウィリアムの髪の毛にかかる︒又 95 おうむ ね ある時は二人の頭と二人の袖にはらはらと一度にかか かご たしな Druerie!と呼ぶ︒クララも同 じ 様に と云う︒籠の中なる鸚鵡が と Druerie! Druerie! 鋭どき声を立てる︒遥か下なる春の海もドルエリと答え ウィリアムは嬉しき声に ﹁ こ の 国 の 春 は 長 え ぞ ﹂ と ク ラ ラ 窘 め る如 くに 云 う ︒ とこし がはさまって濡れたままついている︒ ぬ をクララの唇につける︒二人の唇の間に林檎の花の一片 ひとひら ﹁南方の日の露に沈まぬうちに﹂とウィリアムは熱き唇 出す︒ る︒枝から釣るす籠の内で鸚鵡が時々けたたましい音を 96 る ︒ 海 の 向 う の 遠山 も ド ル エ リ と 答 え る ︒ 丘 を 蔽 う 凡 て かんらん ありが た たのしみ これは盾の中の世界である︒しかしてウ 凡ての春の花と︑凡ての春の物が皆一斉にドルエリ の橄欖と︑庭に咲く黄な花︑赤い花︑紫の花︑紅の花 ︱ ︱ と答える︒ め で た く ィリアムは盾である︒ よわ 百年の齢いは目出度も難有い︒然しちと退屈じゃ︒楽 ビール も多かろうが憂も長かろう︒水臭い麦酒を日毎に浴びる アルコール より︑舌を焼く酒 精を半滴味わう方が手間がかからぬ︒ あま 百年を十で割り︑十年を百で割って︑剰すところの半時 う に百年の苦楽を乗じたらやはり百年の生を享けたと同じ 97 う うち ふん な こ の 猛 烈 な 経 験 を 甞め 得 た も の は 古 往 今 来 ウ ィ らし得るなら ︱ にん リアム一人である︒︵二月十八日︶ か? 然しそれが普通の人に出来る事だろう となる︒終生の情けを︑分と縮め︑懸命の甘きを点と凝 ︱ 事じゃ︒泰山もカメラの裏に収まり︑水素も冷ゆれば液 98