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Title 短編小説『あそび』にみる「遊び」

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Title 短編小説『あそび』にみる「遊び」
Title
短編小説『あそび』にみる「遊び」の解釈の試み ?体育学習の原理的考
察の手がかりとして?
Author(s)
越川, 茂樹
Citation
釧路論集 : 北海道教育大学釧路校研究紀要, 第46号: 123-129
Issue Date
2014-12
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7757
Rights
Hokkaido University of Education
釧路論集 −北海道教育大学釧路校研究紀要−第46号(平成26年度)
Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.46(2014):123-129
短編小説『あそび』にみる「遊び」の解釈の試み
−体育学習の原理的考察の手がかりとして−
越 川 茂 樹
北海道教育大学釧路校保健体育研究室
Understanding of ‘Play’ in “ Asobi” by Ougai Mori : Suggestion for Principle
Consideration of Learning in P.E.
Shigeki KOSHIKAWA
Department of Health and Physical education, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education
要旨
本研究では,プレイ論に基づく体育の学習の意義や方法論的原理を検討する手がかりを得るべく,
森鷗外の短編小説『あ
そび』における「遊び」の多角的解釈を試みた.その結果,文学界における『あそび』の批評から,森鷗外は自身の生き
方における憂いを『あそび』という作品により表現するなかで,遊びとは気ままな自分の思うようにする,人間らしい生
き方であり,日常生活からの逃避ではない,積極的な生のありようであると捉えている点が認められた.また,
『あそび』
を読み解くなかで,仕事と遊びは対立軸ではないこと,心持ちとしての事に当たる距離の取り方がキーであること,そし
て日常のリズムが関係していることが『あそび』における「遊び」観として示され,やまと言葉としての「あそび」に由
来するより深い日本の思想的背景とも結びついた世界観が,
『あそび』における「遊び」に認められた.
1.はじめに
動を伴う遊びについてもますます多種多様と化している.
本研究では,体育学習の原理的考察の手がかりを得るべ
また,遊びに関する研究は今日まで多様を極め膨大な数を
く,森鷗外の短編小説『あそび』における「遊び」観の多
なしており,その理論についても蓄積され続けている.グ
角的解釈を試みる.具体的には,
作品論にみられる
「遊び」
ルーペ(2000)は,人間学的なスポーツ教育学の中心的テー
観について整理する.つまり,ここでは作品批評から森鷗
マとして遊びを位置づけ,それが人間の生を特徴付ける多
外と『あそび』のあわいにおける「遊び」を読み解く.次
面的でとらえどころのない現象であり,その概念は多義的
に里見(2001)によるホイジンガの「遊び論」からみた『あ
であり,個々の場面で多様に用いられ,どのプレイが話題
そび』における「遊び」観を確認する.そして,それをふ
に上がっているのかわからないこともしばしばである,
まえて,
『あそび』における遊びの描写から改めて「遊び」
と遊びの概念の不明瞭さを指摘する(グルーペ,2000,
観について解釈を試みる.
p.257)
.西村も「遊びとは何か」というその本質にかかわ
竹之下休蔵によりプレイ論注1)に基づく体育学習が提起
る問いに取り組む難しさには,通常遊びと呼びならわされ
され,授業づくりの研究と実践により体育学習の一つの潮
ている現象形式の多様さが関係していることをあげている
流ができて久しい.しかしながら,その思想的前提となる
(西村,1989,p.17).遊びの現象や形式を実証的に観察
プレイについては提起以来,ホイジンガやカイヨワのプレ
することで分析し遊び概念の記述に迫ることは困難を極め
イ概念に依拠し,以後ほとんど検討されるに至ってはいな
るように思われる.
い.竹之下(1975)自身も「遊び論が進むにつれて遊びは
そこで本研究では,人間経験の厚みが宿る表現といわれ
決して自明のことがらではなくなり,体育の指導について
る文学作品を手がかりに遊びや遊ぶ人間のありようを読み
も遊びとは何か,スポーツとは何か,というようなことを
解いていく.こうした試みにより,プレイ論に基づく体育
検討し直すことが必要になった」(竹之下,1975,pp.48-
の学習の意義や方法論的原理を検討する手がかりを得るこ
49)とし,フランスの哲学者で遊びとは何かについて哲学
とができるのではないかと考えたからである.尚,『あそ
的に究明したアンリオ(1974)の論の一部を紹介し問題提
び』からの引用はすべて現代かなづかいに変更して提示す
起するにとどまっている.
ることとする.
現在,我々のまわりにはいろいろな遊びがあり,身体運
− 123 −
越 川 茂 樹
2.『あそび』の作品論に潜む「遊び」観
外の階級的精神的教養としての儒教倫理体系の呪縛として
唐木(1953)は,
『あそび』について,
「石川淳のいう『頭
『あそび』を理解している(高橋,1976,pp.12-13).
「人
脳を既成の小説概念から清潔に洗った』ところの,『気楽
間らしく素朴に泣き笑い悩むことのできなかった恨み」
(高
な小説』といってよい」
(唐木,1953,
p.427)と評している.
橋,1976,p.17)の裏返しとして素朴な人間らしい生き方
この短編小説自体が鷗外の遊びであるとの指摘である.と
を『あそび』のなかの木村という主人公の暮らしぶりとし
はいえ,既存の,本流のものから距離をおいた,それでい
て森鷗外自身が表現しているという理解がそこにはあると
て短編小説という形式でくくられる列記とした文学作品で
考えられる.
あると評価している.こうした点に,遊びとは,本流的な
多くの評者が「諦念」や「悲哀」として『あそび』を捉
ものと程よい距離を保ちながらも本流としても認められる
える一方,稲垣(1976)は,『あそび』は単なる「諦念」
枠内に位置づけられること,ならびに気ままな自分の思う
ではなく,うちに積極性を秘めたものであり,到達点では
ようにする気楽さを特徴とするものであるといった遊び観
なく,勝利への過程であり,人生への抵抗であると理解す
がうかがわれる.
る(稲垣,1976,p.36).ここには,
『あそび』における木
『あそび』に対して,当時の社会と人間の関係から位置
村の生き方は人生の逃避ではなく,消極性を通しての充実
づける評者もいる.木下(1953)は,
『あそび』について,
した人生という意味での積極性の勝利をみている「遊び」
当時の日本は自由主義の盛りを極めた時期であり,その悪
観があると解釈できる.
い面は自堕落,良い面は個人の完成への欲求としてあっ
以上のように,文学界における作品批評から読み解かれ
たが,そのなかで,日本人の気質と伝承がこうした西洋思
る「遊び」観には,森鷗外自身の生き方における憂いを『あ
想とどういう点で排他するかについて考察することが主
そび』という作品により表現するなかで,遊びとは気まま
要なテーマであった作品の一つであると指摘する(木下,
な自分の思うようにする,人間らしい生き方であり,日常
1953,p.435)
.佐藤(1953)は,ロマンティシズムを「あ
生活からの逃避ではない,積極的な生のありようであると
らゆる人間の約束−秩序や法則を無視してそれから解放さ
する遊びの理解がうかがわれる.以上のように,評者それ
れた後に生まれた芸術であったから,古典主義の法則に反
ぞれの社会的・文化的な背景をもつ『あそび』の論評に潜
抗して,人生の荒野にぽつんと取り残された人間の廃墟た
む森鷗外と『あそび』のあわいに生起する「遊び」観が認
る自我とその生命そのものの法則を借りて,そっくりそ
められる.
のままに法則とした」
(佐藤,1953,p.424)と理解する.
そして,それゆえ,ロマンティシズムの特色の一つに,
3.
『あそび』にみる「遊び」の精神
「自我を中心として世界が展開すると思う自我崇拝の世界
『あそび』について取り上げ,その「遊び」観について
観や,生命そのものの法則をそっくりそのまま芸術制作の
語る例が,遊びとは何かについて真正面から探究し本格的
法則としてよいとする」(佐藤,1953,p.424)面があると
な遊び論として世界的にも認められている『ホモ・ルーデ
認識する.こうした理解のもとで,佐藤(1953)は,森鷗
ンス』の訳者である里見(2001)のホイジンガ論にみられ
外をロマンティシズム作家の一人であると位置づけ,『あ
る.彼はホイジンガの遊び論,とりわけ遊びの精神とは何
そび』をロマンティシズムの極みであると指摘する(佐
かについて語る際に,『あそび』を取り上げ,そこにホイ
藤,1953,p.425)
.亀井(1951)は,解説のなかで,森鷗
ジンガの遊びの精神と同調する「遊び」理解があるとして
外とは「近代ヨーロッパを見た眼で当時の日本の現状を
次のように説いている.
解剖し,さらに文学の本質,文壇のありさまを見て,早く
も諦念に達したところがある」(亀井,1951,p.205)と語
この小説のなかの主人公木村は官吏で,昼は官庁に勤
り,それがうかがわれる作品が『あそび』であると指摘す
め,夜は著作活動をしている.彼にとって昼の勤めは面
る.この諦念は,単に文学の世界に対してではなく,その
白くもおかしくもない.まじめにやっているが遊びとし
根底には,日本や日本人に対して,否それ以上に人間その
て勤めている.夜の著作活動は彼にとって真面目なもの
ものに対する絶望観があると亀井は述べる(亀井,1951,
だが,遊びの一種である.
要するにどちらも遊びなのだ.
p.205)
.こうした批評からは,
「遊び」が極めて人間らし
と同時にどちらも真面目なのだ.この二つが随時入れ替
い行為であり,それを通して当時の社会(日常の暮らしや
わって同時に働いていることを知って,この二重人格的
文学などの文化の世界)を批判する,日常生活から距離を
人生は悩みも生むが,活性化もする.仕事をも遊びと見
おいた非日常として位置づけられているとみてとることが
て,そこに最高度の真剣さで臨むことの出来る人は達人
できる.
である.鷗外はそういう達人の一人で軍務つまり公的活
高橋(1976)においても「諦念」と「悲哀」の趣きを基
動と著作家活動を見事に使い分け,共に生かした希有の
底とする作品の一つとして『あそび』を位置づけている(高
人である.
(里見,2001,p.124)
橋,1976,p.12)
.高橋(1976)は,森鷗外が思うように
地位や名誉など世俗的欲求が充足されなかった悲しさ,
「官
庁の制度」的な外的条件を甘受せざるを得ない現実,森鷗
このように里見(2001)はホイジンガの「遊び」の精神
− 124 −
短編小説『あそび』にみる「遊び」の解釈の試み
を遊びと真面目の関係から,公的生活と私的生活とを分け
文化の考察に踏み込まねばならない(ホイジンガ,1989,
る基準の一つに真面目と遊びの区別があり,一般に遊びと
pp.65-66)と述べ,それ以上の検討には至っていない.
真面目は対立するとされ,真面目に生きることがまともな
生き方とされるゆえ,それと対照的な生き方と思われる遊
4.
『あそび』における「遊び」の描写の解釈
びは不真面目な印象を与えやすいと述べる(里見,2001,
4−1.
「遊び」をめぐる描写の抽出と作品随伴的解釈
p.123)
.しかしながら,ホイジンガの遊び精神にについて,
『あそび』
における
「遊び」
とは何かを表す部分を抽出し,
遊びは真面目を包含するという理解から,次のように遊び
ここではそれらを手がかりに「遊び」
観を読み解いていく.
の精神について捉える.
はじめに提示するのは,『あそび』のなかで,出勤途中
に出くわした主人公木村と同じ役所に勤めている小川との
遊びと真面目は対立概念では無く,遊びこそ真面目
やりとりである.この部分に,遊びとは何かについての暗
に,ルールを守って真剣に行われることを要求される.
示と,主人公木村が日常生活を見事に遊びの心持ちによっ
遊びが真面目に行わなければつまらないものとなり,遊
て営んでいることの自負がみられる.それは次の会話であ
びの興味は失われる.遊びの真面目さ,真剣さこそ,文
る.
化創造の力強い精神的支柱である.…真剣さは一面では
生活の窮迫から生まれるが,また反面,生活のゆとり
小川:「こないだ太陽を見たら,君の役所での秩序的生
からも作り出される.前者は働くという労働の作用と
活と芸術的生活とは矛盾していて,到底調和出来
なり,後者は他者の生き方を自分の心と体で再現する努
ないと言ってあったっけ.あれを見たかね.
」
力となる.前者はものを作り出す生産活動になるが,後
木村:
「見た.風俗を壊乱する芸術と官吏服務規則とは
者は新しい人間像の創造という文化活動になる.前者は
調和の出来要がないというのだろう.
」
真面目な労働者の生活であり,後者は文化活動に従事す
小川:
「なる程,風俗壊乱というような文字があったね.
る人がゆとりを生かした真面目な遊びである.遊びと真
僕はそうは取らなかった.芸術と官吏というだけ
面目は二つ対立しながら,相互に必要としあって相互に
に解したのだ.政治なんぞはまず現状のままでは
寄り添い合っているところに精神的味わいがある.つま
一時の物で,芸術は永遠の物だ.政治は一国の物
り,この二要素が互いに混合しあっている所に妙味があ
で,芸術は人類の物だ.
」
(中略)
り,また同時に難しさもある.
(里見,2001,pp.123-124)
小川:「ただし,君,ルーズベルトの方々でやっている
演説を読んでいるだろうね.あの先生が口で言っ
里見(2001)は,
「遊び」の精神として『あそび』のな
ているように行けば,政治も一時だけの物ではな
かの「遊び」を,すなわち,森鷗外が主人公木村の生き方
い.あれを一層高尚にすれば,政治が大芸術にな
によって提示した遊びの心持ちに潜む遊び概念を,「遊び
るねえ.君なんぞの理想と一致するだろうと思う
の真面目さ」という面から理解している.しかしながら,
が,どうかねえ.
」
(森,1951,p.195)
こうした捉え方は仕事/遊びの二分法的解釈の閾を出な
い.主人公木村は自らの仕事に本当に最高度の真剣さで臨
んでいるのか,著作活動のなかで軽やかな遊びの心持ちを
こうした小川の芸術観に対して木村は興味を示さない.
どのように大切にしているのか,といった点については里
こうした小川の一方的な話の描写に,主人公の木村にとっ
見(2001)のなかでは語られていない.
て芸術観などはどうでもよく日常生活における生の充実が
また,遊びと真面目というホイジンガの思想の一側面だ
問題であること,ならびに仕事と遊びの調和を自らが軽や
けでは読み解くことのできない「遊び」観があると考えら
かにこなしていることを自覚しているゆえの自負と小川へ
れるが,つまり,日本の社会的・文化的文脈の中で育まれ
の反発がみられる.主人公木村は極めて個人的意味のレベ
てきた「遊び」理解があると考えられるが,それについて
ルにおける遊び(後にでる子どもの遊びのような遊びのあ
は里見(2001)の解釈の範囲を超えている.ホイジンガ
りよう)を望んでおり,そうした遊びの心持ちを大切にし
(1989)自身は,日本語における遊びという言葉の使用か
ている.否,遊びの心持ちを軸にした暮らしこそが木村の
らその意味内容を考察してもいるが,彼自身における遊び
ライフスタイルであり,そこに遊びの考え方と振る舞い方
の検討の範囲を超えているとして,日本における遊び概念
が示されていると考えられる.この点は,例えば次のよう
の理解の限界を認めている.ホイジンガ
(1989)
は,
「遊び」
な描写にもうかがわれる.
や「遊ぶ」は,一般的な遊び,緊張を解くこと,娯楽,気
晴らしを意味することにとどまらず,何かを演じたり,何
木村はゆっくり構えて,絶えずこつこつと仕事をして
かに扮したりする際にも使われること,自由な動きをもあ
いる.その間顔は始終晴々としている.こういう時の木
そびと呼ぶことなど多様な意味をまとい使用されているこ
村の心持ちは一寸説明しにくい.この男は何をするにも
とを指摘し,遊びの日本的理念を詳細に規定するには日本
子供の遊んでいるような気になってしている.同じ『遊
− 125 −
越 川 茂 樹
び』にも面白いのもあれば,詰まらないのもある.こ
当時の社会的・文化的文脈に依存するからである.そうし
んな仕事はその詰まらない遊びのように思っている分で
た森鷗外自身に染みついている「遊び」観が『あそび』の
ある.役所の仕事は笑談ではない.政府の大機関の一小
中の遊びの前提に自ずと影響を与えている.
歯輪となって,自分も回旋しているのだということは,
はっきり自覚している.自覚していて,それをやってい
4−2.
「遊び」の作品超越的・発展的解釈
る心持ちが遊びのようなのである.顔の晴々としている
『あそび』にみる主人公木村の日常におけるそれぞれの
のは,この心持ちが現れているのである.
事(活動)への遊びの心持ちによる切り替えやそれぞれの
(森,1951,p.197)
事における(心の)ゆとり感覚の保有は,現代の遊びに関
する考え方にもみられる.
ここでは遊びのような心持ちが個人の中にあるなしに
井上(1995)は「ハンドルの遊び」といった表現にもみ
よって,活動自体に生の喜びが付与されることを示唆して
られるように,遊びという言葉は「余裕」や「ゆとり」を
いると考えられる.
も意味する,ある種の距離感覚であると指摘する(井上,
反対に私的活動としての著作活動において,次のような
1995,p.14).彼は「遊びは何よりもまず,遊び手とその
描写がある.
遊びのあいだに存在する遊びによって成立する」(アンリ
オ,1974,p.108)のであり,
「距離が,遊びの最初の形式」(ア
この男は著作をするときも,子供が好きな遊びをする
ンリオ,
1974,p.119)というアンリオの考え方に依拠する.
ような心持ちになっている.それは苦しいところがない
そして,もともと遊びは,実際生活からの影響を排除し実
という意味ではない.どんなsportをしたって,障害を
際生活への波及効果を統制するなど,実際生活に対して多
凌ぐことはある.また,芸術が笑談ではないことを知ら
少とも距離をとる形で構造化されているからこそ,楽しい
ないのでもない.自分が手に持っている道具も,真の巨
経験を生みだしやすく,しばしば私たちを熱中させるが,
匠大家の手に渡れば,世界を動かす作品をも造り出す物
同時に,その同じ構造が,熱中そのものに対してさえ距離
だとは自覚している.自覚していながら,遊びの心持ち
を取る態度をも助長するとし,よい遊び手は,遊びに熱中
になっているのである.(中略)とにかく木村のために
しそれに全力を尽くしながらも,それが遊びであること,
は,何をするのも遊びである.そこで同じ遊びなら,好
遊びにすぎないことを忘れないが,熱中のあまり怒ったり
きな,面白い遊びの方が,詰まらない遊びよりいいには
自棄になったり勝利におごり酔いしれたりする人は,距離
違いない.しかしそれも朝から晩までしていたら,単調
感覚を失っており,そうしたなかではもはや遊んでいると
になって飽きるだろう.今の詰まらない仕事にも,この
は言えないと,自己抑制と自己懐疑を含む「遊びの精神」
単調を破るだけの効能はあるのである.
として距離感覚をあげる(井上,1995,p.14)
.藤村(1995)
(森,1951,p.198)
も
「『遊び』
の精神とは距離の創出できないはずのところ(真
剣)に,距離を創出することである」(藤村,1995,p.196)
主人公木村をして,おもしろい遊びも四六時中ずっとし
と距離の創出を遊びの精神と理解する.
ていたら単調になることを指摘し,仕事と遊び事の絶妙な
さらに,鷲田(1996)も,「遊戯としての遊び(Spiel)
る時空間の転換にあるリズム性が日常の退屈さを解消し生
は同時に,遊隙,つまりゆるんだ空間の遊び(Spiel)で
きている実感を与えてくれ人間らしさを保障してくれると
もある」
(鷲田,1996,p.114)とし,ドイツ語にも「遊び
して,遊びの心持ちによる軽やかな身のこなしをまさに遊
の空間(Spielraum)
」という言葉があることを示し,歯車
びとして捉えていると理解できる.森鷗外はこの木村なる
を例に遊びという間について説明するなかで注2),遊びと
人物を,あらゆることに対する「遊び」の心持ちを有して
は,構造体の隙間であり,それを内蔵してこそ構造体が作
いる典型的人間像と捉えている.また,木村に「与えられ
動しはじめるのであるから,その作動とは遊びがいかに設
たる事実」として遊びの心持ちを描写している.
置されているかにかかっており,人間の活動についていう
このようにみてくると,『あそび』になかで森鷗外が描
のであれば,遊びにこそアイデンティティを揺さぶるよう
写する「遊び」概念をめぐって,子どもの遊びが遊び概念
な,あるいはアイデンティティの根拠を賭けるような真剣
の基盤にあること,仕事と遊びは対立軸ではないこと,心
さや厳粛さがあり,こわばりつつある自分の存在をほどく
持ちとしての事に当たる距離の取り方がキーであること,
力こそ,遊びではないかと語る(鷲田,1996,p.119).そ
ならびに日常のリズムが関係していることが抽出できる.
れゆえ,
「出現と消失,緊張と弛緩といった,存在の開閉
そして,そもそも近代国家として西洋的な社会をモデルと
という運動が遊びの快感をかたちづくっている以上,(中
する日本において日本の文化のなかに根付いて脈々と日本
略)仕事か遊びか,労働か余暇かなどといった二者択一が
人の心や行動様式に息づき受け継がれてきた「遊び」観が
問題ではなくて,同じ行為がどういうきっかけで愉しみに
この小説の前提にあり,こうした遊びのありように関係し
なり,どういうきっかけで労苦になるのか,その転回軸を
ていると考えられる.なぜなら,当然のことながら森鷗外
見定める」(鷲田,1996,p.120)ことが大切となると指摘
自身がその時代を生きた日本人であり,自ずと彼の思想は
する.鷲田(1996)は,現代社会にあってはたのしいとさ
− 126 −
短編小説『あそび』にみる「遊び」の解釈の試み
れる仕事もあればつらいと感じる遊び,場合によっては
はずであるという思想から,日本人が現実を人間の理性,
のっぴきならない意味をもつ状況も遊びには生じ,それだ
意思で百パーセント認識して,それを変えてゆくことやそ
けに今日の仕事や遊びをめぐる事情は複雑になっており,
こから何かをつくり出すことは不可能であると考えている
仕事/遊び,労働/余暇という二分法は意味を失い,こうし
傾向をみる(栗田,1993,pp.47-48).つまり,いわく言い
た二分法を越えた彼方にわれわれの生きることの支えを見
難いものを残してゆく特質によるものであり,そこに遊ぶ
いだそうとしている.
という言葉が深く関わっていると指摘する(栗田,1993,
また,医師であり長年人間の遊びについて研究し人生に
p.48)
.その一方で,心のおもむくままに自由であるとい
おける遊びの大切さについて語るブラウンら(2013)も同
う意味に使う「すさび」注4)という言葉も「遊」の字を当
様の見方をしている.彼らは,意識を変革できるという意
てて表現する点を上げ,「あそび」という言葉に潜む日本
味で「仕事の中で遊んでいるときの感覚を意識できる人は
人の心の動きを踏まえた上で「あそび」について考えて
真の大物になる」
(ブラウン,ヴォーン,2013,p.193)と
いくことの重要性を述べ(栗田,1993,pp.49-50),
「あそ
述べる.また,アメリカの作家であるミッチェナーの自伝
び」には,playという言葉によってもたらされる何か動作
から,次の文章を引用し遊び心のある人生の重要性につい
すること,つまり,行為するという意味と,ハンドルの遊
て語る.
びに象徴される役に立たない,行動を起こさない,何もし
ないという意味があり,その二面性を日本語の「遊び」は
人生の達人は,仕事と遊び,労働と自由時間,心と体,
もっていると整理する(栗田,1993,p.51)そして,栗田
知識と娯楽,愛と信仰をほとんど区別していない.どち
(1993)は,この世の現実を確固不動の物質界とはみない
らがどちらなのかほとんどわかっていないのだ.何をす
で,輪廻転生する仮の世を理解し,その仮の世を必死に生
るにせよ,素晴らしい夢を追いかけているだけで,仕事
きてゆく姿に日本人の深い遊びの心が込められている(栗
をしているのか遊んでいるのかの判断は,他人に任せて
田,1993,p.56)とし,動的な世界や自然の捉えのなかで,
いる.本人にしてみれば.いつも「両方」なのである.
生成する「あそび」を把握し,生きた言葉としての「遊び」
(ブラウン,ヴォーン,2013,p.194)
を意味づける.
こうした「遊び」観が,木村の行為の転換を表現してい
このような「ゆるんだ空間のあそび」
に即した考え方は,
る「…一寸顔を蹙めたりして,すぐに又晴々とした顔に戻
遊びの心持ちにより仕事をこなし,著作活動を続け,そし
るのである」(森,1951,p.190)といったいくつかの類似
て日常において両者の間を軽やかに行き来する,
『あそび』
の描写に表れている.自分ではどうにもならない,いわく
のなかの主人公木村の行動様式に重なる面が多い.『あそ
言い難い状況を軽やかに交わし生きていくスタイル,そこ
び』において主人公木村は官吏の仕事と著作活動は区別し
に「遊び」を理解し,
「遊ぶ」という行為を捉え,
「遊び心」
ているから,この状態とは異なると言えるかもしれないと
がある,と読み解くことができる.
いう理解ではなく,遊びの心持ちによって,逆に他人から
このように,距離感覚,ならびにそれをも含み込んだや
見ると仕事をしているのか遊んでいるのかわからず,結果
まと言葉としての「あそび」に由来するより深い日本の思
的にいつも「両方」ということになる.遊び心のある人生
想的背景とも結びついた「遊び」
観が,
『あそび』
のなかの「遊
を生きるといった日常における生の充実を求めるライフス
び」から認められる.
タイルが浮かび上がってくる.
さて,森鷗外は主人公木村の行動様式をして,何をする
一方,栗田(1993)は,こうした距離感覚に基づく遊び
ときも遊んでいるとは,いつでも子どもが遊んでときのよ
理解を認めつつ,さらにそれを超えて,やまと言葉として
うな気になっていることであり,子どもが自分の好きな遊
の「あそび」の使用から日本人の心の動きを省察し,「遊
びをするときの心持ちであるとも描写している.子どもの
び」
とは何かという問いに対して,
その言葉の意味から迫っ
遊びについて彼がどのような理解をしているかを紐解くこ
ている.彼は,「あそび」という言葉には,「ささやかな気
とは難しいが,少なくとも子どもの素朴な遊びをイメージ
晴らしや無為もあるが,どうも一方では,深く真面目な生
していることは推察され得る.
き方,時にはすべてを捨てて悔いない純粋な行動的エネル
遊び研究家のかこ(1980)は,ホイジンガやカイヨワの
ギーが秘められている」(栗田,1993,p.46)と日本語に
遊び論に対する批判的視点から子どもの遊びについて把握
おける「遊び」の使われ方から考察する.さらに,日本語
する.そこには子どもの素朴な遊びの理解をみてとること
のいわゆる「あそばせ」言葉から「遊び」が自主的に気ま
ができる,子どもの遊びとは,ルールや規則などの約束事
まに自分の思うようにすることであり,「自由」な性質を
を設けはするが,子どもの世界ではそれは非常にゆるやか
注3)
,ハンドルの「あそび」にも
でルーズであり,ときに破ったり逸脱したり,違うもの
言及する(栗田,1993,p.47)
.しかしながら,それは機
に変えてゆく柔軟さをもっており,多種多様な状況に応じ
能が円滑になる絶妙な距離感の重要性という意味を超え
るように創意工夫するといった,「自由性」と「規則性」
て,そこにみる「あそび」の自由には,人間とは限りある
が相矛盾する二面性を有し,子ども自身のなかに素晴ら
もので,自然や神といった,人間を超えたものが必ずある
しい価値や成果,結実を生みだすこと,心やエネルギー
持っていることを指摘し
− 127 −
越 川 茂 樹
を一心に込めて取り組んでいる実体験の集積という「真
生涯にわたりスポーツを文化的に享受していくこと,また
実」に貫かれた世界であることを特徴としている(かこ,
現代の生活を想像的・創造的に過ごしていく術(ないしは
1980,pp.167-168)
.こうした子どもの遊びのとらえ方,す
極意)の一つとして,さらには人間にとっての生の充実に
なわち,
「自由性」と「規則性」との相矛盾する二面性,
向けた行為様式のあり方につながるように思われる。それ
内面的な達成・充実感,そして熱中して取り組むこと自体
だけに,『あそび』から読み解いた「遊び」観を基礎にお
の真の世界という特徴は,主人公木村が遊びの心持ちでは
いた経験は体育学習を考えていく上で重要な手がかりを与
あるが仕事と著作活動とを対立させず軽やかにどちらの世
えてくれる.
界においても自らの居場所を見出し気楽に人間らしく生き
時代の趨勢のなかで遊びの考え方は文化や社会の影響を
る姿を理解する上でいくらかの示唆を与えてくれる.つま
受けつつダイナミックに生きているゆえに,遊びとは何
り,こうした遊びのとらえ方に『あそび』における木村の
か,ならびにプレイする(遊ぶ)人間とは何かと問いかけ,
行動様式を触れあわせることでそこに潜む子どもの遊びの
遊びといった現象の教育的意味について論究していくこと
ような気とはどのようなことで子どもの遊びの心持ちとは
が,今後ますます求められる.なかでも,
プレイと学習(学
何かを暗示させてくれる.
び)の関係性をダイナミックな相互のかかわりのなかで問
また,児童文学作家のいぬいとみこは,『みなみからき
い直し考えていくことが求められる.なぜなら,プレイ論
たつばめたち』という絵本の背表紙にてこの本を解説する
に基づく体育学習とは,運動の意味や価値について学ぶこ
なかで,「おとなが失った世界の中に,実はわたしたちの
とをその主眼としているが,そこで意図されている意味や
幸福の芽があるのです」
(乾,1957)と子どもたちと絵本
価値は確定されたものとしての意味や価値でなく,学習者
のあわいにある意味世界を指摘している.こうした世界観
自身と運動とのかかわりのなかで生成される意味や価値で
にも,子どもの遊びに遊びをみる主人公木村,すなわち,
あり,学びの共同体のなかで鍛えられていく意味や価値で
森鷗外の「遊び」観の根柢にある考え方の共通性をみるこ
あるからである.
とができるのではないだろうか.
注
注1)竹之下(1972)は,外国の文献から引用することが
5.まとめ
文学界における『あそび』の批評から,森鷗外は自身の
多いことを一つの理由に,日本語で遊戯や遊びを意
生き方における憂いを『あそび』という作品により表現す
味するplayをプレイとしてそのまま用いるとしてい
るなかで,遊びとは気ままな自分の思うようにする,人間
る(竹之下,1972,p.133)
.本稿では,竹之下の構
らしい生き方であり,日常生活からの逃避ではない,積極
想した体育学習の思想的基盤にかかわる文言を指す
的な生のありようであると捉えていることが認められた.
際にはプレイという用語を用いる.
また,
「遊び」の精神として『あそび』のなかの「遊び」
注2)鷲田(1996)は,「遊びの空間」がなければ,たと
を「遊びの真面目さ」という里見の考え方に加えて,改め
えば歯車はたがいにぎしぎしと擦れ,きしみあって
て『あそび』を読み解くことにより,仕事と遊びは対立軸
スムーズに動かない.しかし遊びはあくまで適度の
ではないこと,心持ちとしての事に当たる距離の取り方が
ものでなければならないのであって,遊びが大きす
キーであること,そして日常のリズムが関係していること
ぎてもやはり歯車は回転しない.…噛みあうふたつ
が『あそび』における「遊び」観の大切なポイントである
の歯車の間に遊びがあるというのは,二項の運動が
ことが認められた.さらに,「自由性」と「規則性」との
つねにわずかにずれてしまって,過不足なく一致す
相矛盾する二面性,内面的な達成・充実感,そして熱中し
ることがないということだ.それは,ずれとか,隙
て取り組むこと自体の真の世界という特徴を有する子ども
間ということがとてもポジティヴな意味をもって
の遊びが主人公木村の暮らし方を言い当てていると考察さ
いる関係であると歯車の遊びについて指摘する(鷲
れた.そして,行為するという意味と,ハンドルの遊びに
田,1996,p.115).
象徴される役に立たない,行動を起こさない,何もしな
注3)ホイジンガ(1989)においても,日本の「あそばせ
いという意味の二面性があるということ,距離感覚,なら
言葉」が示され自発的な楽しみによって行動する思
びにそれをも含み込んだやまと言葉としての「あそび」に
想を考察している(ホイジンガ,1989,pp.66-67)
。
由来するより深い日本の思想的背景とも結びついた世界観
この部分についても今後さらに検討することが必要
である.
が,『あそび』における「遊び」に認められた.
では,こうした「遊び」観は,体育学習のあり方を考え
注4)栗田(1993)は,「筆のすさび」とは,紙に向かい
る上で,どのような示唆を与えてくれるのであろうか.
筆を墨に浸していると,つれづれなるままに一区で
自らの定めた規に応じて自らを律する一方で事をなすこ
きたり文章ができたりするときに用いる表現である
との真剣さと距離を置く「遊びの心持ち」により日常生活
(栗田,1993,p.49)と述べ,日本人の心の動きを
を営むスタイル,自分ではどうにもならない,いわく言い
表現する際の独特の使い方を説く.そして,
この「す
難い状況を軽やかに交わし生きていくライフスタイルは,
さび」という言葉は「賭け事や勝負事に熱中して,
− 128 −
短編小説『あそび』にみる「遊び」の解釈の試み
それもいいのではないかという境地に達する」(栗
田,1993,p.49)ことをも意味し,自由に心を働か
森鷗外(1951)あそび.森鷗外:青年・あそび,角川文庫:
東京,pp.187-203.
せて,世の中の道徳ルールを踏み越えて日常性を突
西村清和(1989)遊びの現象学.勁草書房 :東京.
き破っていくと「あそび」は「すさび」になると指
里見元一郎(2001)ヨハン・ホイジンガ −その歴史と文
摘する(栗田,1993,p.50).栗田(1993)はこう
した点を踏まえた上で,
「遊び」を考える必要性を
述べる.この点については,カイヨワ(1990)のプ
レイ論にもみられる考え方にも類似し,また,山崎
(1984)がシラーの遊戯論(1972)における遊びの
世界を「心の欲する所に従ひて矩を踰えず」
(金谷,
1999,p.35)という孔子の言葉によって説き,シラー
の考える人間の理想像を指摘した(山際,1984,
p.191)ことにもかかわることから,今後の検討の
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栗田勇(1993)日本文化のキーワード 7つのやまと言葉
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