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国際的な分配的正義に関する一試論

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国際的な分配的正義に関する一試論
千葉大学法学論集 第27巻第1号(20
1
2)
論
説
国際的な分配的正義に関する一試論
川
瀬
貴
之
現在の世界は、分配的正義の観点から見て、極めて不公正ではないだろうか。世界の人口の二〇%以上が、一
日一ドル以下で生活する絶望的な貧困の中で生きており、一日二ドルの貧困線を下回る者は、実に世界人口の約
半分である。識字能力に欠ける者は二五%に上る。貧困国では乳児の死亡率は、先進国の一〇倍以上であり、平
均寿命や衛生状態・教育水準は比べるべくもない。さらに悪いことに、世界の富裕層と貧困層の間の相対的な経
一であったのが、一九一三年には一一
:
一になり、一九六〇年には三〇
:
一、そして一九九
:
済的格差は広がる傾向にある。世界で最も豊かな上位二〇%と最も貧しい下位二〇%との間の平均所得格差は、
一八二〇年には三
七年では七四 :
一である。北米の市民が今夜のディナーのレストランをどこにするか迷っているとき、マリの綿
花農夫は、今夜の家族の食料がないことを嘆いている。このような格差にもかかわらず、豊かな人々は極めて吝
︵1︶
嗇である。一九七一年のベンガル飢饉に際して、イギリスとオーストラリアは、比較的多くの支援を提供したが、
そ の 額 は 、 英 仏 コ ン コ ル ド 共 同 開 発 や シ ド ニ ー の オ ペ ラ ハ ウ ス に 投 じ ら れ た 金 額 の 数 十 分 の 一 で あ った 。
本稿の目的は、グローバルな分配的正義の問題として、世界における富の偏在に焦点を当て、特に筆者がいく
つかの論考を通して主張してきたリベラルナショナリズムの立場から、真の問題がどこに存在するのか、そして
3
1
説》
《論
そのような問題にどう対処すべきかを考察し、暫定的なものではあるが、リベラルナショナリストが掲げること
国際正義の性質
のできる国際的な分配的正義の原理の一例を示すことである。
第一節
本節では、まず国際的な分配的正義が、いかなる性質を持っているのかを、いくつかの観点から考える。
1 正義と人道
︵2︶
多 く の 論 者 は 、 国 際 的 な 分 配 的 正 義 の 議 論 は 、 未 だ 成 熟 に 至 っ て い な い こ と を 指 摘 する 。 も ち ろ ん 、 少 な く と
も西欧社会の一部は、よきサマリア人の寓話の伝統を持っており、困窮した他者の救済は長く人々の行動規範で
あった。しかし、それはあくまで、法的な義務や責任がないにもかかわらず、他者に手を差し伸べる仁慈の規範
である。正義の問題は、これとは性質を異にしており、それに関する議論が、国際的な文脈で問われることは、
かつてほとんどなかったというのである。
ここで、正義と人道・慈善との関係が問われる。正義と人道の違いとは何か。人道主義的な慈善は、行えば賞
賛されるが、行わないからといって非難されるわけではない。それに対して、正義に基づく義務は、行わなけれ
ば非難されるべきものである。ブライアン・バリーは、この異なる二つの要求が、互いにどのように関係してい
るのかを説明する。
バリーは、正義と人道が、性質の異なるものであり、一方を他方に完全に還元し、議論をどちらか一方だけで
済ませることはできないと主張する。彼によれば、人道は、人々の福利の増進や悲惨な困窮状態の緩和を目指す
3
2
国際的な分配的正義に関する一試論
ものであるのに対し、正義は資源や権限の分配やコントロールに関するものである。このような性質の違いゆえ
に、たとえば、人道主義は、貧困者の貧困状態を緩和するだけで、彼らの自律や自由を尊重していないと批判さ
︵3︶
れることがある。しかし、人道主義が、自律の尊重を取り込めていないというのは、正義と人道を一元的に扱う
発 想 で あ り 、 こ れ は バ リ ー に 言 わ せ れ ば 誤 り で あ る 。 正 義 と 人 道 は 、 そ も そ も 別 の も の で ある 。
人道
正義
正義
(任意)
義務づけ 弱い
の強さ
強い
(義務)
要な最低限の福利が提供される。したがって、国際的な人道支援とは、国内の社会正義の義務
を、より薄くしたものである、と。しかし、この発想も、正義と人道を一元的に理解するとい
う誤りを犯している。この点は、ピーター・シンガーが強調している。彼は、このような﹁通
説的﹂区分を批判し、ベンガル飢饉における国際的な救援は、人道的支援ではなく、国際﹁正
義﹂の問題であると主張する。前述のように、人道とは、正義が必ずしも要求していないこと
まで、自発的に行うことであるがゆえに、それを行えば賞賛に値するが、行わないからといっ
て非難されるわけではないものである。したがって、むしろ逆に、正義が、人道の最低限であ
ると言える。もちろん、これは、正義を人道に還元するのではなく、先に述べたように、正義
には、福利主義的な人道主義にはない、自律や権限の分配という発想も含まれている。ともか
く、福利の提供については、正義が、最低限の義務づけを行い、人道はそれを越える慈善を賞
賛する。そして、正義は、福利以外の観点についても、広く公正さの観念に基づき、強い義務
づけを行うのである。そして、シンガーによれば、国際的な貧困の緩和は、正義の問題である。
3
3
また、人道的支援と呼ばれるものは、正義の最低限であると理解されることもある。国民国家、特に福祉国家
権限・自律 福利・厚生
の内部においては、同胞に対して厚い福利厚生が用意されるのに対し、国際的な人道支援においては、生存に必
分配の通貨
説》
《論
︵4︶
人 道 は 、 あ っ て も よ い し 、 あ る べ き で あ る か も し れ な い が 、 貧 困 の 緩 和 は 、 ま ず は 正 義 が 対 処 す べ き 問 題 で ある 。
同様の発想は、バリーも示している。彼は、正義によって示されたベースラインなしには、人道の内容を規定
することはできないとしている。何が人道であるかは、何が正当にある人に属するべきであるのかを明らかにし
︵5︶
なければ、同定できない。義務が要求する以上の喜捨としての慈善は、義務とは何であるかを同定しなければ意
味 を 持 た な い 。 こ の 考 え も 、 人 道 の 最 低 限 と し て の 正 義 と い う 発 想 で ある 。
このような観点からすれば、以下の議論は、国際的な﹁正義﹂論である。福利の提供について、それは、任意
の慈善ではないから、豊かな者は、より強く義務づけられるし、貧しい者は、よきサマリア人を待つだけではな
く、正当な権原として、救援を要求することができる。他方で、それは、福利だけではなく、人々の自律と権限
の分配にも配慮するものである。そこで、次の2では、福利、3では自律の観点から、国際正義の性質について
検討しよう。
2 自由とニーズ︱国際正義のニーズアプローチ︱
国際的な分配的正議論では、リベラルと思われる論者であっても、リベラリズムの出発点である自由や自律で
はなく、ニーズや福利という観念を起点にして議論を展開する傾向がある。本稿の議論も、次の3では自律を主
に考察するとはいえ、全体的には福利主義的な色彩を帯びている。これは、自由を出発点とするリベラリズムの
姿勢とは異質のものにも見えるが、筆者が立脚しているリベラルナショナリズム、そして多くのリベラルナショ
ナリストは、平等主義的リベラリズムを標榜しており、社会において不利な立場にある者のニーズに配慮すると
いう意味では、福利主義とは、全く相容れないというわけではない。ただ、国際正義論においては、本稿の立場
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4
国際的な分配的正義に関する一試論
︵6︶
とは異なる、コスモポリタンに親和的な立場から、自由・自律にまして、福利・ニーズを重視すべきという主張
がなされることが多い。
いずれにせよ、国際的な分配的正義を考えるときの第一の問題である貧困に直面するとき、福利・ニーズへの
配慮は、非常に説得力のある直観である。
その人間観
ある晩、私の家の玄関のベルが鳴り、ドアを開けると暗闇の中にやつれた親子が立っていた。彼らは明らかに
飢えており、絶望している。このような場合、我々はたいてい、道徳的に何らかの行動を要求されていることを
感じるだろう。彼らを目の前にして、そのニーズの緊急性は明白である。もちろん、我々は、彼らに提供するた
めの十分な食料を持っていないかもしれないし、彼らを直ちに福祉当局に委ねることを欲するかもしれない。し
︵7︶
かし、我々のほとんどにとって、飢えた人を玄関から締め出したまま何もしないことは、気持ちのよいものでは
︵8︶
ないだろう。彼らの窮状を目の当たりにしたときの、このような直観こそ、国際正義におけるニーズの重要性の
論 拠 に な っ て い る の で あ る 。 そ し て 、 こ こ で 問 題 に な っ て い る の は 、 彼 ら の 自 由 で は な く 、 そ の ニ ー ズ で ある 。
ニーズを重視するということは、自由を軽視するということではない。その主張には、一定の人間観が基礎に
なっている。自由権を含む権利は、それを実際に行使できなければ意味がない。飢えて・病弱で・無学な者は、
自由権を与えられても、それを行使する能力・可能性に乏しい。物質的なニーズが満たされることが、自由権行
使の必要条件であり、人間が主体になるためには、十分な福祉が必要なのである。人間の自由・主体性は、真空
︵9︶
に存在するのではない。その主体性は、物質的充足に依存している。人間の合理的判断能力は、身体に埋め込ま
れ て い る の で 、 福 祉 な き 自 由 は あ り え な い の で ある 。
3
5
¸
福祉の充足は誰がその責任を負うのかが、明確でない場合が多い。自由権の場合、それは不干渉という消極的な
義務として規定されるから、その尊重の責任の所在の同定が比較的容易である ︵すなわち、あらゆる者は、誰の自
由も侵害してはならない︶が、社会権は、福祉の充足が積極的義務であるため、特定の誰かがそ の 責 を 負 う こ と
になる。それが誰なのかが、不明確なのである。この問題については、消極的義務と積極的義務の関係について
論じる、第三節の2、あるいは責任の所在について考える第四節で、詳しく検討することにする。
さらに、福祉やニーズについては、それがそもそも何なのかということが不明確であることが多い。ニーズの
概念の複雑さは、自由の概念の複雑さにも匹敵するものであり、オノラ・オニールは、近現代の倫理理論が、そ
の複雑さゆえに、ニーズについて論じることを避ける傾向があることを指摘する。功利主義は幸福・快楽・選好
のような主観的な基準によって善を理解し、ニーズのように客観的に規定される善の概念を拒否するし、リベラ
リズムやリバタリアニズムのような権利理論も、権利を自由権や財産権を中心に考える傾向がある。福利を主観
的なものと考え、善の構想の本来的な価値を個人に委ねるのは、価値に関する不可知論に基づいている。アリス
トテレスやキリスト教に見られるような、客観的な善・価値の存在を疑うことが、近代思想の特徴とも言える。
そのような傾向に対して、ニーズの発想は、客観的に同定可能な、人間にとっての善という発想に基づいている。
︵ ︶
しかし、そのようなことは可能なのか。そして、可能であったとしても、リベラルナショナリズムの国際正義論
3
6
社会的基本権としてのニーズ
ニーズの規定の難しさ
¹
このような自由の前提としての福祉を充足するための社会権は、自由権と比べて、扱いが厄介である。まず、
_
にとって、適切なのか。
1
0
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
ミラーのニーズ論
こ の よ う な 理 由 か ら、リ ベ ラ ル は 通 常 ニ ー ズ に つ い て 論 じ る こ と が 少 な い の だ が、そ こ で 共 同 体 主 義 的 な ナ
ショナリストである、デイヴィッド・ミラーの面目躍如たるものがある。彼は、ナショナリストとして、コスモ
︵ ︶
ポリタニズムに対しては批判的であり、その意味で次の3で見るように、ナショナルな自律や主体性も重視して
いるのだが、他方で、ニーズからのアプローチについても手厚く論じている。
︵ ︶
あらゆる文化的差異を超えて普遍的に適用されるべきものである。国際正義において問題になるのはこの基本的
ていない状態は、ミラーによれば、他国に何ら責任を発生させるものではない。それに対して、基本的人権とは、
おいて保障するものであり、その内容はその国民の文化によって規定される。この権利が国内において達成され
シティズンシップの権利と基本的人権に区分している。シティズンシップの権利とは、国民国家が、その内部に
国際的な分配的正義においても、ニーズは重視されており、それは彼の人権論の中に見られる。彼は、権利を
満たすことが、その正義原理の一つとして挙げられている。
ミ ラ ー は 、 社 会 主 義 的 で 共 同 体 主 義 的 な 彼 独 自 の 分 配 的 正 義 論 を 展 開 し て おり 、 そ こ で は 人 々 が 持 つ ニ ー ズ を
1
1
︵ ︶
1
3
する、諸々の異なる人権観が共有する部分を基本的人権と考えるものである。それに対して、ミラーが支持する
の内容を理解するものである。第二は、重なり合うコンセンサス戦略であり、相異なる哲学的な基礎づけに由来
いる。第一は、実践基盤戦略であり、これは人権の哲学的な基礎づけの試みを放棄し、専ら法実証主義的に人権
では、基本的人権とは、その内容がどのように規定され・正当化されるのか。ミラーは、三つの戦略を示して
人 権 で あ り 、 そ の 侵 害 は 、 一 つ の 国 民 国 家 だ け で は な く 、 全 世 界 が 共 有 す べ き 問 題 で ある 。
1
2
のは、第三の人道主義戦略であり、これは、人間が普遍的に持つ特徴から、基本的人権を導出するものである。
3
7
`
︵ ︶
ここで重要なのは、ミラーが、ニーズの規定は、個人の選択に左右されないという、その客観性を強調してい
ることである。ニーズの充足は、どのようなライフスタイルを選択する場合であっても必要になる、ロールズが
言う基本善のような役割を果たしている。
リベラリズムが善の構想やその本来的価値を個人に委ねると言うとき、その善の構想として想定されているも
のは、宗教や家族構成など、私的領域におけるライフスタイルに関するものである。その思想の歴史的淵源も、
宗教的な対立から生じた寛容論にあった。リベラリズムが拠って立つ不可知論とは、このような、いわば高尚な
形而上の価値に関するものであった。それに対して、ニーズ論が客観主義を放棄しなくて済んでいるのは、それ
が、人間の生物学的な事実という、非常にベーシックな内容に留まっているからである。以下の国際的な分配的
正義論において問題となるのは、このような基本的ニーズであり、それはロールズの基本善の国際バージョンで
あると言える。
3
8
人間が普遍的に持つ特徴とは、人間はニーズを持っているということであり、ここに彼のニーズ重視の姿勢が現
れている。
︵ ︶
めに必要なものが、﹁基本的﹂ニーズであり、これが基本的人権としての社会権を規定し、国際的な正義論にお
の他の法律で保障されるべきものである。それに対して、あらゆる時代と文化を越えて最低限まともな生活のた
れを充足するための社会権は、シティズンスップの権利、つまり市民・国民の権利であり、各国民国家の憲法そ
いて異なっている。ある時代の特定の社会におけるまともな生活を規定するものが﹁社会的﹂ニーズであり、こ
ミラーの言うニーズとは、最低限のまともな生活のための必要のことであり、そのまともさは社会や時代にお
1
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い て 問 題 と な る 。 そ の 内 容 は 、 水 ・ 食 料 ・ シ ェ ル タ ー ・ 衛 生 の よ う な 、 生 存 の た め の 必 須 条 件 で ある 。
1
5
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
3 内政不干渉と自己決定︱国際正義の自律アプローチ︱
国際的な﹁分配的﹂正義論では、自律よりもニーズ、自由権や不干渉よりも社会権が重視されるのに対し、資
源や福利の分配以外の観点にも着目する国際的正義論一般においては、自律をどのように扱うかも、さかんに問
題にされる。
その人間観
コスモポリタンが、ニーズからのアプローチを重視する傾向があるのに対し、ナショナリストは、自律や主体
性の観点から国際正義を論じる傾向がある。ミラーは、そのどちらかの観点に偏りすぎる議論を批判している。
とりわけ、コスモポリタンに共感的な立場の論者は、途上国の貧困者を単に受動的な被害者としてのみ見ている
のであり、彼らもまた自分自身や他者との関係について選択ができる主体であるという事実を忘れている。人間
は、脆弱で受動的であるのと同時に、自分の境遇に責任を持つ主体でもある。国際的な経済支援の義務を論じる
とき、しばしば池で溺れている子供を救出する場合の比喩が用いられるが、無力で大人の助けを待つだけの子供
の例は、極めて不適切である。このような人間観から、ミラーはニーズアプローチにおいても相当な議論を展開
した上で、世界の貧困者自身の責任についても触れている。そして、貧困者自身がその貧困に責任を負うという
発想を、集団に類推適用し、貧困国がその貧困に、どの程度責任を負うのかという問題を提起するが、ここでは
︵ ︶
逆に、豊かな国が ︵しばしばその用途などに関しヒモつきである︶経済支援を行うことは、彼らの集団的自律を害
1
6
す る の で は な い か と い う 問 い も 生 ま れ る 。 そ こ で 、 次 に 、 国 際 正 義 に お け る 集 団 的 自 律 の 問 題 を 考 え よう 。
3
9
¸
!
し、リベラルナショナリストは、集団的な自律としてのナショナルな自己決定や、集団的な寛容としての内政不
干渉も擁護している。国際的な正義の文脈で自律を重視する立場も、このような集団的な意味での自律や寛容を
論じるものが多い。そこで、以下では、責任と不干渉という二つの観点から、それを考えたい。
責任論
あった。しかし、そもそも、そのような問題は、いかにして生じたのか。筆者を含めて多くのリベラルな平等主
義者は、個人の選択の結果としての不平等は、個人の責任の射程内のことなので、財の再分配による是正の対象
にならないと考える。国際的にも、同じことが言えるのではないか。つまり、ナショナルな自己決定の帰結とし
ての貧困であれば、それは、政策の誤りであり、少なくとも国民が集団的自己決定のプロセスに参加した限度に
おいて、それは彼ら自身の責任ではないのか。
ミラーは、責任を重視する立場にある。彼の描く架空世界では、ある時点において、全ての国は、等しい富を
享受していた。しかし、ナショナルな自己決定の結果、資源を浪費した国、アフルエンザは、一時の繁栄が過ぎ
て、やがて貧しくなり、持続可能な開発を選択したエコロジアは、長期的に経済的安定を享受した。他方で、産
児制限を選択しなかったプロクレアティアは、やがて貧しくなり、避妊推奨政策を採用したコンドミニウムは、
経済発展を遂げた。個人間の再分配の議論と同様に、このような格差は個々の決定主体の責任であり、野放図な
再分配は、倹約インセンティブを減らし無責任な決定を助長すると言われるかもしれない。しかし、集団的決定
4
0
集団的自決権としての自律
!
自律を重視する論拠は、通常は個人の自律の尊重を想定しており、筆者も基本的にそれを共有している。しか
¹
国 際 的 な 分 配 的 正 義 の 動 機 は、世 界 の 富 の 極 端 な 偏 在 や 絶 対 的 な 貧 困 と い う 問 題 を 解 決 し た い と い う も の で
_
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
に独自の問題も存在する。政策の決定に参加できなかった・あるいはそれに反対していた個人まで、その政策の
帰結の一端を背負うべきなのか ︵集団的責任からの離脱の問題︶
、そ も そ も 原 理 的 に 決 定 に 参 加 で き な い 将 来 世 代
ナショナルな自己決定そのものを否定すること、と
自己決定は許容するが、人の国
が先人の決定に従わねばならない理由は何なのか、が問われる。このような集団的責任を回避する方法としてミ
ラーが挙げているのは、
*
︵ ︶
そのコロラリーとして国民国家による国境を越えた人の移動の規制を許容する、リベラルナショナリストにとっ
際的な移動の自由を保障し、責任からの離脱を容易にすることである。しかし、ナショナルな自己決定を尊重し、
)
て、それらは認めがたい。
リベラルナショナリストの応答は、おそらく共同体主義・共和主義的なものであろう。ナショナルな自己決定
の過程において、元々多数派とは意見を異にしていた反対者も、討議や説得のプロセスを通して、最終的にはナ
ショナルな決定を自分たち自身の決定と見なす同一化作用が働く ︵ただし、ここでは討議的民主制が成立している
。 さ ら に 、 将 来 世 代 で あ っ て も 、 ナ シ ョ ナ ル な 同 一 化 に よ っ て、先 人 の 決 定 を 自 分 た
ことが前提とされているが︶
ち自身のものとして引き受けることができるし、実際に多くの国民がそのようにしていると考えるのである。
それに対して、コスモポリタンからは、ナショナルな自己決定から生じる責任という事実認識そのものに対す
る批判がなされる。次節の国際正義の環境の論点とも重なるが、トマス・ポッゲは、国民国家、特に貧困国が、
自己の国内政策を主体的に形成する能力を疑問視している。彼は、説明的ナショナリズム ︵ explanatory national-
︶と呼ぶものを厳しく批判する。それは、貧困の原因の説明に関するものであり、ナショナルな自己決定を
ism
重視するナショナリストは、貧困の原因を特定の国の政策の失敗に還元する傾向がある。しかし、これは現状分
析として、あまりにも視野狭窄である。
4
1
1
7
物理的要素 ︵資源・気候・地政学的位置︶
、
国内要素 ︵文化・国内 制 度︶
、
国際社会とのか
のと同じく、単一のものに全ての原因を帰する過ちを犯している恐れがある。ミラーは、この点でポッゲを批判
し、貧 困 の 原 因 が
+
ラーは、ロータリーでの交通事故の例を挙げる。あるドライバーは、無謀な運転によって事故を起こした。もし、
そこがロータリーではなく信号つきの交差点であれば、事故は起きていなかったとする。このとき、結果責任は、
ポッゲが、道路設計者にのみあるとするのに対し、ミラーは道路設計者とドライバーの両方にあるが、一次的な
︵ ︶
帰 責 性 は、ド ラ イ バ ー に あ る と 考 え る。何 が 無 謀 な 国 内 政 策 で あ り、国 民 が ど れ ほ ど そ の 決 定 に 関 与 し た か に
︵ ︶
よって責任の度合いは変わってくるが、ともかく政策決定主体としての国民国家を想定するリベラルナショナリ
2
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ス ト は 、 そ の 主 体 的 決 定 の 帰 結 を 、 一 次 的 に は 国 民 国 家 の 責 任 と 考 え る の で ある 。
2
1
4
2
では、貧困の真の原因は何なのか。ポッゲは、貧困の原因は広く国際社会全体にあると見ており、グローバル
な制度的秩序を形成している人々こそ、貧困の原因であり、それに責任を負うべき者である。グローバルな秩序
の形成者とは、豊かな国の政府と企業であり、それらから恩恵を受け、それらを黙認している豊かな国の市民で
ある。ポッゲによれば、途上国の独裁者から石油を買うことは、途上国から石油を盗むのと同じくらい、道徳的
に非難されるべきことである。そのことによって、独裁体制が延命し、途上国での不公正な分配や貧困が悪化す
︵ ︶
るかもしれない。貧困の原因は、直接的には国内にあるが、実は貧困者自身ではなく、利己的な動機でグローバ
︵ ︶
個々の行為と制度全体の、どちらがより強い原因であるのかを判断するには、具体的で緻密な実証を待たねば
ル な 制 度 秩 序 を 維 持 し て い る 先 進 国 が そ の 責 任 を 負 う べ き で ある 。
1
8
な ら な い 。 ポ ッ ゲ は 、 グ ロ ー バ ル な 制 度 に 多 く を 還 元 し て いる が 、 こ れ は 、 彼 が 説 明 的 ナ シ ョ ナ リ ズ ム と 呼 ぶ も
1
9
*
か わ り な ど、多 く の 要 素 の 相 互 作 用 で あ る と 指 摘 す る。国 際 制 度 が 全 て 悪 い と 言 う の は 安 易 す ぎ る だ ろ う 。 ミ
)
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
干渉の是非
内政不干渉の原則によれば、主権的な国民国家は、国際法に違反しない限りで国内管轄事項につき、自律的に
決定することができる。他方で、国際的な経済援助は、支援を受ける国の政策、そしてその国民の生活に、大き
な影響を与える可能性がある。国際法に反する人道問題を解決するためには、武力による介入も必要な場合が存
在するが、それに至らぬまでも、経済制裁、あるいは経済援助であっても、国民国家の自律の深刻な侵害である
と考えられるかもしれない。
不干渉の前提となっている主権とは、公的当局が、他の権威による介入を排して、その権威の下にある人々に
対して有する、行動を制約し・ルール ︵法︶の遵守を判定し・ルール違反を阻止したり罰したりし・必要に応じ
て保護する権限である。主権は、その管理下の人々にとって、最終的な権威であり、より上位の他の管轄権に服
することはないとされる。コスモポリタンが批判するのは、このような主権観念である。国家のみが主権を有す
るという伝統的観念に反対し ︵あるいは、世界国家に権限を集中すべきという主張にも与せず︶
、ポ ッ ゲ は、主 権 の
︵ ︶
垂直的な分散を主張している。これは、コスモポリタンのみならず、リベラルナショナリストたるウィル・キム
次節で見るように、グローバル化する世界にあっては、正義の射程は全世界なのであって、そこでは一元的な紛
が、実践的にはうまく行くこと、さらには不可避であることを実証していると考える。コスモポリタンによれば、
最終的な司法権威が必要だからである。しかし、ポッゲは、この二世紀間の歴史は、理論的には作用しないもの
あっても、垂直的に分散することは、原理的にありえないと批判されることがある。紛争を一元的に解決する、
リッカの非対称連邦制の発想にも受け継がれている。これに対して、主権はそもそも水平的 に 並 列 す る こ と は
2
2
争解決ではなく、多元的な権威のチェックアンドバランスによって、正義が実現されるのであり、伝統的な主権
4
3
`
︵ ︶
は 、 不 可 能 で あ る だ け で は な く 、 望 ま し く も な い と い う の で ある 。
ただ、ここで重要なのは、コスモポリタンが主権の分散を主張するのは、垂直的分散のみならず、水平的並列
においても、対外的独立としての主権概念の重要性を弱めるべきと考えるからということである。それは、世界
規模の正義の実現に向けた、積極的な介入を支持するものである。ポッゲは、前述のように、先進国の政府と企
業が、途上国の貧困を悪化させているという現状認識に基づいて、いずれにせよグローバル化した世界で、なん
らかの影響関係を国民国家相互に与えざるを得ないのであれば、積極的に他国の公正な制度確立を支援すべきだ
として、その方法を提案している。それは、簡潔に言えば、クーデターによって権威主義体制を確立するインセ
ンティブを減らし、民主制を確立・維持するインセンティブを増やすものである。権力を掌握した権威主義者が、
借款や天然資源の売却によって、経済的に潤い、それによって権力を維持することがないように、権威主義体制
との取引を規制することが考えられる。また、クーデターによって成立した権威主義体制が、民主制時代の債務
︵ ︶
を履行する意思がないことを宣言した場合に備えて、国際的な基金を整備することも考えられる。それによって、
では、リベラルナショナリストは、介入の問題について、どのように考えるべきか。基本的には、ナショナル
な自己決定を重視するリベラルナショナリストは、介入に否定的である。しかし、次節でも検討する世界の相互
依存の急速な高まりゆえに、ナショナリストといえども、現実的には何らかの譲歩を余儀なくされる。そこで、
アイリス・マリオン・ヤングの自決権の解釈を取り上げたい。
ヤングは、自決を不干渉ではなく非支配として再解釈している。彼女にとって統治とは、領域内部での排他的
管轄ではなく、その点で伝統的な主権概念には否定的である。そうではなく、自己決定的な統治とは、支配的な
4
4
2
3
先 進 国 は 、 政 情 不 安 定 な 国 で あ っ て も 、 民 主 体 制 と 安 心 し て 取 引 が で き る よ う に な る か ら で ある 。
2
4
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
関係を排した統治であり、彼女のいう支配的な関係とは、他者の生活をその同意なく一方的・恣意的に変えるこ
とができる関係である。グローバルに強く相互依存的な世界にあっては、他国民の生活は、その国の政策や文化
だけではなく、他国の影響を強く受けるのであり、これは避けがたい。しかし、そのような他国からの影響に対
して、一方的に受身になるのでは、それは支配を受けていることになる。自国内部からの自己決定に参加するこ
︵ ︶
とを、リベラルナショナリズムが要求するのと同じように、他国からの影響についても、拒否や同意ができなけ
︵ ︶
したがって、コスモポリタンの自己決定概念は、決して、リベラルナショナリズムの自己決定概念と矛盾する
化の波を越える一つの方策を示すものである。
る時代にあって、ナショナルな自己決定をこのように再解釈することは、リベラルナショナリズムがグローバル
他的ナショナリズムの論拠としての不干渉としての自決の観念を退ける。しかし、グローバルな相互依存の高ま
ヤングは、ナショナリズムに対して極めて批判的であり、そのような観点から、他国からの影響を排除する排
れ ば 、 自 己 決 定 的 な 国 民 と は い え な い 。 こ れ が 、 非 支 配 と し て の 自 己 決 定 で ある 。
2
5
ものではない。ポッゲが提唱する国際支援も、民主制の確立への支援であるから、他国民の生活を直接形成する
ような介入ではなく、その国民が自国の政策を決定する権力を手にすることへの支援と考えることができる。
そこで、国際的な経済支援に伴う介入の問題について、平等主義的なリベラルナショナリズムを掲げる本稿の
立場としては、次のように考えたい。すなわち、国際支援が、それを受ける国民のナショナルな自己決定への参
加の程度を低下させるものであるのなら容認できない。あるいは、援助の結果として、受入国の国民が私的領域
における個人的な自律を行使する可能性を狭くする、またはその国民国家に所属する国民間での不平等を増大さ
せるのであれば、それも容認できない。逆に、個人の自律の可能性を広くかつより平等に近づける、かつ国民が
4
5
2
6
惨 め な も の で あ る が 、 主 権 の 誕 生 に よ っ て 、 人 は 安 心 し て 労 働 に 勤 し む こ と が で きる 。
2
7
4
6
集団的な自己決定プロセスに参加する可能性を低下させないものである限りにおいて、介入的な援助は認められ
る。
4 暫定協定と価値合意
先に、国際的な富の偏在の問題を、人道ではなく正義の問題として考えると述べたが、それは果たして本当に
可能なのか、あるいは仮に国際的な文脈で正義が可能であるとしても、それは国内の正義とは決定的に性質を異
にするものではないのかという問題がある。
自己利益からの正義論
︵ ︶
安全は図られる。自然状態においては、人生のエネルギーは、自己保存に費やされてしまうので、人生は貧しく
、主 権 に 委 ね る の で あ る。こ れ に よ っ て、彼 ら の
て ︵もちろん、生命や身体の安全のように、不可譲の権利もある︶
生命と財産の安全な保存を期待できない。そこで、個人は、自然状態において保有していた権利の一部を放棄し
過程で他者を傷つける﹁権利﹂を持っている。このような自然状態では、他者からの侵害の恐怖ゆえに、自己の
れる以前には、正も不正も存在せず、事実としてあらゆる個人やその集団は、他者の労働の果実を掌握し、その
ら自由ではありえない。彼の思考方法は、自然状態における倫理的な要素を排除しているので、法や主権が生ま
したがって無法状態・自然状態においては、いかなる個人であっても、他者による暴力的な殺害・掠奪の恐怖か
義的な自然状態を記述している。彼によれば、人間はその身体的・精神的な能力において、おおよそ平等であり、
ここで、しばしば引用されるのは、トマス・ホッブズの世界観である。彼は、その社会契約論の中で、現実主
¸
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
しかし、問題は、主権国家の外においては、依然として、万人の万人に対する闘争状態が継続しているという
ことである。国家制度が確立されていない領域の個人はそうであるし ︵ホッブズは、当時のアメリカを念頭におい
、国 家 同 士 の 国 際 政 治 に お け る 振 る 舞 い も そ う で あ る。王 や 主 権 者 た ち は、国 境 に 要 塞 と 守 備 兵 を 置 き、
ている︶
スパイを送り、互いに不信の目を向け合っている。そこには、倫理道徳なき現実政治のみが存在する。その下に
︵ ︶
あるすべての者を威圧する共通の権力がない状態とは、すなわち戦争状態である。戦争状態においては、主権も
︵ ︶
国家が存在すれば、個人の生命と財産の安全は十分確保されるだろうと指摘しており、国際的な主権や法の必要
もあくまで、倫理的な動機ではなく、不便の解消という自己利益から生じるものであるし、ホッブズ自身、主権
に、国際的な権威を創出して、国際的な法・正義に拘束されることを、人々は望むかもしれない。ただし、それ
のままで良いと言っているわけではない。国内において、戦争状態の不便ゆえに人々が権利を一部放棄したよう
ただし、このような議論は、国際社会が自然状態であると言っているだけで、必ずしも、将来にわたって、そ
法 も 存 在 し な い の で 、 し た が っ て 何 を し よ う と も 不 正 に な ら ない 。
2
8
性は生じないかもしれない。
このような発想によると、共通の権力が存在しない国際社会においては、正義も法も存在せず、国際正義なる
ものは絵空事に過ぎなくなる。トマス・ネーゲルは、国際正義の存在と必要性を訴えるコスモポリタニズムが魅
力的であることを認めながらも、実践的に現実的であり理論的にも通説的である、ホッブズ流の政治的構想と彼
が呼ぶものを主に考察している。すなわち、正義は国家の内部の問題であり、国際的には人道はあっても正義は
︵ ︶
3
0
存在しないという発想である。ロールズの﹃万民の法﹄も、望ましい国際正義とは何かという発想ではなく、リ
ベ ラ ル な 社 会 は ど の よ う に 外 交 す る べ き か と い う 観 点 か ら 述 べ ら れ る 部 分 が 多い 。
4
7
2
9
国際社会は、非常に不安定になる。暫定協定は、互いを信用せず道徳の構想を共有しない当事者の間にも、平和
を実現できるという、融通の利くところが利点である。しかし、可塑性は不安定性でもある。強大国は、いつで
も戦争に訴えるインセンティブを持つし、弱小国も、パワーの衰退によって、自らにとって悪い条件の協定を甘
受せざるをえなくなり、さらにパワーが衰退するという悪循環を恐れ、衰退の前にいっそ戦争状態に戻ることを
望むかもしれない。協定を墨守する者は、それだけで不利になる恐れがあるのである。暫定協定は、平和的でも
4
8
暫定協定と価値合意、国内社会と国際社会
︵ ︶
が多い。しかし、国際社会ではどうか。国家間のパワーは、ホッブズが想定する個人のそれとは違って、平等と
個人間の身体的・精神的能力は、常におおよそ平等であるし、国民国家の法制度の抑止力は十分機能している例
このような場合でも、国民国家内部の正義は、十分平和を達成できるかもしれない。ホッブズの想定のように、
を、自己利益は要求するかもしれない。
を圧倒する時が来れば、協定を破り再び戦争状態に入ること、あるいは自己に有利な条件に協定を改定すること
賢慮的 ︵ prudential
︶均衡の上に成り立っている。当事者間のパワーバランスは常に 変 動 し、自 ら の パ ワ ー が 他
あり、当事者全員が協定に参加することに利益を見出せるように制度を作ることが肝要である。これは、危うい
に自制が生まれ平和が保たれる状態は、暫定協定と呼ばれる。暫定協定としての正義は、専ら平和の保証問題で
当事者間に共通の道徳的コミットメントがなくても、パワーバランスによる抑止力ゆえに、利己的な当事者間
益に基づくモデルと価値に基づくモデルによって異なる。
しかし、主権なき国際社会では、本当に正義は不可能なのか。その答えは、平和を実現する方法としての、利
¹
は言い難い。そして、当事者に協定の遵守を強制するような威嚇としての主権が存在しない。このようなとき、
3
1
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
︵ ︶
︵ ︶
ミットメントは、個人に委ねられ、そのようなリベラルな社会の公正さを維持するための最低限の価値コミット
ものではなく、部分的で基礎的なものに限られる。リベラルな社会においては、形而上的・宗教的な価値へのコ
しかし、自律と寛容を重んじるリベラリズムが訴えることのできる共通の価値とは、ロールズが言う包括的な
するのであれば、威嚇や抑止としての主権が存在しなくても、国際正義は可能かもしれない。
しない。同様に、もし国際社会に、共通の価値コミットメントが存在し、正義の存在とその遵守が、そこに依拠
ベラリズムは、価値コミットメントに変容した。今では、リベラルな社会の宗教的多数派は、寛容を侵そうとは
争の疲弊の結末としての宗教的寛容は、暫定協定であった。しかし、その後数世紀を経て、暫定協定としてのリ
トが存在しているからであると主張する。確かに、リベラリズムの歴史的起源でもある、新教と旧教間の宗教戦
が高いものである。彼は、リベラルな国民国家の内部が安定しているのは、ある程度の共通の価値コミットメン
義を構築することは可能であると主張する。単なる modus vivendi
ではなく、より深い modus credendi
の合意を
要求するのである。価値合意モデルは、自己利益のための道具としての平和よりも、なお平和を達成する蓋然性
このような暫定協定モデルに反対して、ポッゲは、自己利益ではなく、共通の価値合意に訴えることで国際正
公 正 で も な い 。 万 国 の 万 国 に 対 す る 闘 争 状 態 で ある 。
3
2
メントが要求される。
それは、内容の薄い価値の共有であり、ましてや国際正義の文脈で可能な価値の共有は、最少の含意しか持た
ないかもしれない。しかし、本稿の立場としては、十分な威嚇と抑止の力を持つグローバルな制度が存在しなく
ても、共通の価値へのコミットメントによって国際正義は存在することができるのであり、内容はどれほど薄い
ものであれ、正義とは、単なる自己利益だけではなく、何らかの公正さの価値に訴えるものであると考えたい。
4
9
3
3
説》
《論
その内容は、第三節で考察する。
5 暫定的な実現不可能性と非理想的な世界の理想主義
4では、国内社会に比べて、国際社会における、正義の未熟さが浮き彫りになった。暫定協定モデルによれば、
それは国際社会に十分な抑止力が存在しないからであり、価値合意モデルによれば、国際社会には十分な価値の
共有が存在しないからである。しかし、いずれにせよ、国際正義は、国内の正義に比べて、未発達であることは
間違いない。
しかし、この事実は、国際正義の規範的重要性を損なうものだろうか。コスモポリタンは、断じて否と答える。
チャールズ・ベイツは、国際社会における、抑止力や価値合意のような、制度的・哲学的な環境の未発達が、国
際正義を明らかにし実践することの桎梏であってはならないと主張する。彼が批判するのは、正義や道徳は、不
可能なことを要求しないという発想である。事実の問題として達成できないことを、規範は要求すべきではない
し、できないという考えである。現在の国際社会では、統一的な主権による抑止力の行使や法の強制は存在しな
いし、世界全体を拘束するような価値コミットメントにも乏しい。このような環境においては、正義は実現不可
能であるから、規範としての国際正義には、何ら実践的な意義は認められないというのである。ベイツは、この
ような指摘に対して、規範は不可能を要求しないという命題から、国際正義は無意味であると推論することは、
理想と現実の関係を誤解していると主張する。彼は、実現不可能性には、二つの種類が存在すると言う。一つは、
原理的な実現不可能性で、これは将来にわたって環境が変化しても達成できないものであるのに対し、もう一つ
は、暫定的な実現不可能性であり、これは資源や環境が整わないことが達成不可能性の原因となっている、条件
5
0
国際的な分配的正義に関する一試論
的な不可能性であって、そのような条件が解除されれば、将来的には達成可能となる見込みが存在する。そして、
規範は不可能を要求しないというときの不可能は、原理的な不可能性のみに関するものであって、現在の国際社
会における正義の発達を阻害している原因や環境は、暫定的なものにすぎないと彼は主張する。国際正義を理想
として掲げることは、たとえ国際社会が、国内社会における国民国家のような、その実現のための強力な制度を
備 え て い な い と し て も、あ る い は そ の 他 諸 々 の 環 境 的 要 因 に よ っ て 正 義 を 実 現 で き な い と し て も 、 そ の こ と に
︵ ︶
よって規範的な意義を失うわけではない。むしろ、それは、非理想的世界において、環境を整備し、それを実現
可能にするための指針を与えるものである。
このような発想は、国際正義の性質を理想的な指針として捉えるものである。既に正義を実現するための環境
が整っている国内社会においては、正義原理の規範的な正しさのみが問題となるが、国際正義は、正義原理の内
容だけではなく、その正義原理を実現するために必要な正義の環境についても考察しなくてはならない。以下で
は、そのような環境がどのようなものであるかを明確にした上で ︵第二節︶
、正 義 の 原 理 が ど の よ う な も の で あ
るかを論じる ︵第三節︶
。
リベラルナショナリストは、コスモポリタンとは、理想の世界像を共有していない。したがって、リベラルナ
ショナリストの国際正義の原理を示す第三節は、ベイツのようなコスモポリタンが望むような内容ではないだろ
う。しかし、ベイツが示す、指針としての国際正義という発想は、リベラルナショナリストにとっても重要な問
題を提起している。現実世界における富の極端な偏在は、コスモポリタンのみならず、リベラルナショナリスト
が描く国際正義が達成された世界とも、非常に異なるものである。リベラルナショナリストも、理想の世界像を
描こうとする限り、正義の環境が比較的明瞭で・問題を生じない国内正義と違って、国際正義が可能になるため
5
1
3
4
説》
《論
の環境とは何かを問わねばならない。したがって、リベラルナショナリストとコスモポリタンは、目指す理想は
違っても、国際正義が、指針としての性質を持っているという事実認識は、共有できる。
では、正義が可能になる環境とは何かを、次節で検討しよう。
︵1︶
‘
’
’
Mathias Risse, How Does the Global Order Harm the Poor? , Philosophy & Public Affairs , 33, 2005, p. 349. Peter Singer,
‘
Famine, Affluence, and Morality , Philosophy & Public Affairs , 1, 1972, pp. 229︱ 230. Thomas Pogge, World Poverty and
Human Rights: Cosmopolitan Responsibilities and Reforms, Polity, 2002, p. 100.
富沢克・伊藤恭彦・長谷川
David Miller, National Responsibility and Global Justice , Oxford University Press, 2007, p. ︵
12.
一 年・施 光 恒・竹 島 博 之 訳﹃国 際 正 義 と は 何 か︱グ ロ ー バ ル 化 と ネ ー シ ョ ン と し て の 責 任﹄風 行 社、二 〇 一 一 年、一 八︱一
︵2︶
’
‘
’
’
‘
︱
Brian Barry, Democracy, Power and Justice: Essays in Political Theory , Oxford Clarendon Press, 1989, pp. 455
458.
︵ supra n.︶
︱
Singer, op. cit.
1 , pp. 235
236.
九頁︶ Thomas Nagel, The Problem of Global Justice Philosophy & Public Affairs , 2005, p. 113. Onora O Neil, Transna︵ ed.
︶ , Political Theory Today , Stanford University Press, 1991, p. 276.
tional Justice , in David Held
︵3︶
︵4︶
の人権の普遍性を前提と し た 独 善 的 な 宣 教 主 義 を 批 判 す る 観 点 か ら ﹁ 文 際 的 人 権 ﹂ を 主 張 す る 点 で 、 非 普 遍 主 義 的 と 言 え る
︵5︶ Barry, op. cit.
︵ supra n.︶
︱
3 , pp. 461
462.
︵6︶ ただし、自由権だけではなく社会権も重視すべきという主張は、コスモポリタンだけのものではない。大沼保昭は、西欧
が、国際人権規約に見られるように、自由権と社会権を明確に区別し、前者のみを尊重する自由権中心主義を厳しく批判し
ている。彼によれば、基本的人権は、自由権中心主義ではなく、社会権を含めた包括的人権観によって理解されなくてはな
ら な い。大 沼 保 昭﹃人 権、国 家、文 明︱普 遍 主 義 的 人 権 観 か ら 文 際 的 人 権 観 へ﹄筑 摩 書 房、一 九 九 八 年、三 〇 七︱三 一 〇、
三二四︱三二八頁
︵7︶ 実は、このよ う な 直 観 を 国 際 正 義 に 単 純 に 援 用 す る こ と に は、問 題 も あ る。と い う の も、我 々 の 直 観 の 根 拠 は、彼 ら の
5
2
国際的な分配的正義に関する一試論
ニーズの大きさ で は な く 、 彼 ら を ﹁ 目 の 当 た り に し た ﹂ と い う こ と に あ る か も し れ な い か ら で あ る 。 つ ま り 、 見 も 知 ら ぬ 地
球の裏側の貧困に対して、我 々 は 救 援 義 務 の 直 観 を 抱 き に く い 。 そ の 場 合 、 国 際 正 義 の 論 拠 を こ の よ う な 直 観 か ら 導 く こ と
には問題があるだろう。いずれにせよ、この問題は、救援の義務は、距離によって影響されるのかという問いを生み出す。
これについては、国際正義の環境について検討する、次節の2で戻ってくる。
︵8︶
’
‘
’
︵ ed.
︶ , Problems of International Justice , Westview Press,
Onora O Neill, Hunger, Needs, and Rights , in Steven Luper-Foy
1988, p. 68.
︱
Ibid, pp. 76
77.
︶ Ibid, pp. 69
︱
70.
︶ ミラーの分配的正義論は、様々な﹁場﹂での人間関係のあり方から、その場において適切な分配原理を導き出すものであ
︵9︶
︵
︵
︵
︵
︵
る。彼は、そのような場 を 三 つ に 区 分 し て い る 。 第 一 は 、 人 々 が 互 い に 道 具 的 な 態 度 で 取 り 引 き す る 人 間 関 係 で あ り 、 そ れ
は市場や企業内部な ど の 場 で 見 ら れ る 。 こ こ で 適 切 な 分 配 原 理 は 、 功 績 に 基 づ く 分 配 で あ る 。 第 二 は 、 人 々 の 関 係 が 道 具 的
ではなく本来的な価値を 持 つ よ う な 場 で あ り 、 こ れ は 家 族 な ど の 共 同 体 に 見 ら れ る 。 こ こ で 適 切 な 分 配 原 理 は 、 ニ ー ズ に 基
づく分配である。第三は、市民としての地位︵シティズンシップ︶が重要になる関係で、これは政治という場である。ここ
では、権利や義務が、平 等 と い う 分 配 原 理 に 従 っ て 分 配 さ れ る 。 こ こ で 重 要 な の は 、 共 同 体 で は 、 ニ ー ズ に 基 づ く 分 配 が な
されるべきという主張である。 David Miller, Principles of Social Justice , Harvard University Press, 1999, ch. 2.
︶ Miller, op. cit.
︵ supra n.︶
︱
邦訳二〇〇︱二〇四頁
2 , pp. 163
168.
︶ ここでミラーが 言 う 人 道 主 義 の 、 人 道 と は 、 人 間 の 性 質 と い う 意 味 で あ り 、 1 で 我 々 が 採 用 し た 、 正 義 と 人 道 の 区 別 で 言
う人道の意味︵行えば賞 賛 さ れ る が 、 行 わ な く て も 非 難 さ れ な い ︶ と は 異 な る 。 ミ ラ ー の 人 道 主 義 戦 略 と し て の 基 本 的 人 権
︶
︶
︱
邦訳二一六︱二二一頁
Ibid, pp. 179
185.
邦訳一〇︱一一頁
Ibid, pp. 5︱ 6.
︵ supra n.︶
︱
邦訳二〇四︱二一六頁
Miller, op. cit.
2 , pp. 168
179.
は、専ら、我々が言うところの、国際﹁正義﹂の問題である。
︵ ︶
︵
5
3
1
11
0
2
1
31
16 15 14
︵ ︶
︱ 邦訳八四︱九一頁
Ibid,
pp.
68
75.
︵ ︶ Pogge, op.cit.
︵ supra n.︶
︱
1 , pp. 139
144.
︶ ポッゲが、不正義 の 原 因 を 制 度 に 帰 属 さ せ る 傾 向 は 、 国 際 正 義 に と ど ま ら な い 。 た と え ば 、 彼 は 、 交 通 事 故 で 一 〇 〇 〇 人
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
が死ぬよりも、警察官に よ る 暴 行 で 一 〇 人 が 死 ぬ ほ う が 、 道 徳 的 に 深 刻 な 事 態 で あ る と 考 え て い る 。 そ れ は 、 交 通 事 情 と 警
察 の 体 質 で は 、 後 者 の 方 が 、よ り 公 的 な 制 度 と し て の 性 質 を 強 く 持 つ か ら で あ る。正 や 不 正 は、事 実 で は な く 制 度 に の み 問
うことができるという発想は、後述のようにロールズにも見られるものであり、ポッゲは必ずしも明確にしないが、ここに
は、ロールズ主義者としての特徴があると考えることもできるだろう。 Ibid, pp. 39
︱
40, 59︱ 63.
︶ ミラーは、北朝鮮、ビルマ、サダム・フセイン政権下でのイラクの国民は、政府の決定に責任を負わないが、少なくとも
ロールズが言うまともな︵ decent
︶社会の国民は、貧困の責任の一端を負うとする。 Miller, op. cit.
︵ supra n.︶
邦訳
2 , p. 245.
二九五頁
なっているからである。この点で、あくまでも彼は、主権とネイションを関連付ける、ナショナリストであり、国民国家と
Ibid, ch. 6.
︵ supra n.︶
︱
Pogge, op. cit.
1 , pp. 177
189.
主権を完全に切り離すポッゲやヤングのようなコスモポリタンとは、大きく異なる。
︶
︶
︶ Iris Young, Inclusion and Democracy , Oxford University Press, 2000, pp. 255︱ 265.
︶ ただ、それを﹁ナショナルな﹂自己決定と捉える点が、リベラルナショナリストとコスモポリタンの大きな違いであろう。
で述べた介入の問題については、ロールズは、
﹃万民の法﹄においては、他
︶ トマス・ホッブズ﹃リヴァイアサン﹄水田洋訳、岩波文庫、一九五四年、二〇七︱二二一頁
︶ 同上、二一〇︱二一三頁
︵ supra n.︶
3
Nagel, op. cit.
2 , pp. 122︱ 130.
︶ 同上、二一三頁
︶
¹
`
︵
︵ ︶ Ibid, pp. 238
︱
邦訳二八八︱二九六頁
247.
︶ ただし、キムリッカが 主 権 の 垂 直 的 分 散 を 主 張 し て い る の は 、 ケ ベ ッ ク と カ ナ ダ の よ う に 、 ネ イ シ ョ ン が 、 入 れ 子 状 態 に
︵
81
1
91
7
2
0
2
22
1
3
30 29 28 27 26 2
52
42
説》
《論
5
4
国際的な分配的正義に関する一試論
国民への寛容を重視 す る 立 場 に 傾 い て い る が 、 そ れ に 対 し て 、 ネ ー ゲ ル は 、 他 の 国 民 国 家 が 、 よ り 個 人 主 義 的 で リ ベ ラ ル な
︶
︶
︱
Ibid, pp. 227
239.
︵ ed.
︶ , Problems of International Justice , Westview
Charles Beitz, International Distributive Justice , in Steven Luper-Foy
Thomas Pogge, Realizing Rawls , Cornell University Press, 1989, pp. 218︱ 227.
いう事実に鑑み、国家が当事者となる暫定協定のあり方を検討する。
検討するが、ここでは、国際社会の現 実 政 治 に お い て 暫 定 協 定 を 形 成 す る 実 際 の パ ワ ー を 持 つ 第 一 の 当 事 者 が 国 家 で あ る と
︵
社会になるような誘導的支援は行うべきであるという立場にある。 Ibid, pp. 134
︱
136.
︶ 国際正義 の 当 事 者 を 、 全 世 界 の 個 人 で は な く 、 国 家 と す る こ と の 是 非 は 、 問 わ れ る べ き 問 題 で あ る 。 こ れ は 、 第 三 節 1 で
︵
︶
‘
’
国際正義の環境
Press, 1988, pp. 38︱ 43.
第二節
正義の環境の問題とは、正義が及ぶ限界を画するものであると言える。
必要がある。正義の環境を共有している射程において、人々は同一の正義原理の下に属することができるので、
それは必ずしも自明ではないので、どのような環境的条件がそろえば、正義の問題が発生するのかを明確にする
確認する。国内社会の正義論においては、それは所与として議論されないことも多いが、国際社会においては、
本節では、そもそも我々が正義を問題にすることができるための前提となる環境とはいかなるものであるかを
︵
︵
3
1
ここで、注意すべきは、正義の環境の共有は、正義の構想の共有ではないということである。共同体において
5
5
3
43
33
2
領域的管轄能力
経済政策遂行能力に区別し、より実質的な後者において、国家の能力は確かに
強制力が正義の環境を生み出すことの意義を読み替えることによって、国家
5
6
は、功績とは何か、公正さとは何か、ニーズとは何かなどについて、一定の共通了解が存在し、そのような文化
的文脈の内部でのみ、正義は可能になるという議論もある。しかし、このような議論が焦点を当てているのは、
正義の構想の共有を可能にする条件であって、ここで取り上げる問題意識とは異なっている。実際に、多くの国
民国家にあっては、望ましい正義の構想に関して、国民間に大きな見解の対立があるにもかかわらず、国民は一
つの正義原理に服すべきと考えられている。このような環境を可能にしている条件を明らかにするのが、本節の
課題である。
以下では、正義を共有するための環境的条件として、強制力・社会的協力・制度と意識の統合という三つを取
り上げ、国際社会がどの程度それらの条件を満たしているのかを考察する。
1 強制力
第一に、同一の正義原理に服するためには、その正義原理を実現するための具体的な政策を遂行し、その管轄
内の個人や集団に対してそれを強制するだけの十分な能力を有する機関が必要であるという見解がある。国民国
領域的管轄能力と
家は、グローバル化の流れの中で、そのような強制力を失っているのではないか。以下では、正義を実現する強
制能力を、
衰退していることを認めた上で、
¹
を枠とする正義が、国際正義と並立する環境において、依然として有意義であると論じる。
º
¸
領域的管轄能力とは、一定の領域内部で、法を作り、執行し、適用・解釈する能力のことである。主権国家は、
¸
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
このような権限を持つとされ、国際社会にはそれに相当するような機関は存在しない。世界憲法も世界警察も存
在せず、国際的な合意や取り決めの束が存在しているだけである。
主権国家が領域的管轄権を独占することの是非については、もちろん規範的な疑問に開かれている。しかし、
多くの小さな例外事項はあっても、事実として主権的な管轄権を有しているのは、国家であり、その意味で、現
状においては、正義の環境は国家を限界に画されている。しかし、このような形式的な管轄能力だけでは、強制
力を説明することはできない。
経済政策遂行能力
立 法・行 政・司 法 の 三 権 は、確 か に 正 義 を 実 現 す る た め の 必 要 条 件 で あ ろ う が、十 分 条 件 で は な い。﹁分 配
的﹂正義を考えると、これらの国家権力を用いて、具体的に公正な経済政策を遂行する能力を有して、初めて正
義を実現できる環境が整う。管轄権においては、国内社会と国際社会の能力の所在のコントラストは明白であっ
たが、具体的な政策遂行能力となると、内外の区別は明白ではなくなる。
実際に、グローバル化の著しい現代においては、資本・労働力・情報の国際移動ゆえに、国家は他の国家との
競争のため、単一の経済政策に収斂せざるを得ないという指摘もある。グローバルな経済に参加する国家は、客
︵ ︶
としての個人によりよい行政サービスを提供する準私企業になり、個人は様々な国から安全・医療・教育などの
を認めている。キムリッカも、国家の経済政策が、国際経済の動向に対処する後追い的なものになっているとい
リベラルナショナリストも、国家が、自国の経済政策に対してすら、その影響力を低下させているという事実
サ ー ビ ス を 購 入 す る た め に 移 動 す る の で ある 。
3
5
う認識を共有している。しかし、彼は、国際的な人と財の移動を、かくも単純に捉えることには懐疑的であり、
5
7
¹
制力の意味を、問い直さなくてはならない。
つつも、このような受動的な国家にあっても正義の必要性は決して消滅しないだろう。そう論じるためには、強
されないということになるのだろうか。国際機関が持つ多大な影響力・強制力ゆえに、国際正義の必要性を認め
る能力を持っていないかもしれない。しかし、そのような国では、正義の実現は不可能であるから、それは要請
行を後追いするだけとなるかもしれない。そのような場合、国家は、政策形成能力・国民に対してそれを強制す
ションを発動できる。むしろ、国際機関に影響力を及ぼしがたい小国にとっては、国内の制度は、国際社会の移
しかし、他方でWTOなど多くの国際機関も、国家などに対して十分な強制力を発揮できるほど強力なサンク
る。
衰退してはいるものの、その能力は依然として健在であり、したがって正義の環境の条件を満たしていると考え
したがって、リベラルナショナリズムは、国民国家の経済政策遂行能力は、経済の国際的統合の進展によって、
ほ ど 強 力 な 、 行 政 サ ー ビ ス の 磁 石 と し て 作 用 す る わ け で は な い の で ある 。
3
7
5
8
たとえば企業の海外移転が現実的であるのは、主に大手製造業であって、小売業・サービス業・農業などは、グ
︵ ︶
ローバル経済に取り込まれることが、直ちにコストの安価な国への移転のインセンティブを生み出すことにはな
︵ ︶
の移住の動機を持たないだろう。人々が持つ国際的に移動することへの欲求は、国家のイニシアチブを失わせる
術のない労働者は、よほど経済的に正のインセンティブがなければ、文化的な負のインセンティブを退けるほど
ねばならないのであって、言語能力に長けたエリートならいざ知らず、とりわけ移民問題で深刻になる特別な技
の流れという現実認識を疑問視する。人間は、文化を横断して移動することに対して、極めて高いコストを払わ
らないと主張する。また、人の移動に関しても、リベラルナショナリストとしてのキムリッカは、グローバル化
3
6
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
なぜ強制力は正義の環境を生み出すのか
アンドレア・サンジョバンニは、正義の環境の条件としての強制力の本質を、政策を形成する能力ではなく、
その強制力に服する人々の、服従の非自発性に見ている。非自発性は、その強制力を発揮する権威からの離脱の
コストの高さによって同定される。小さな国民国家は、国際経済の荒波にもまれて、経済政策遂行能力を衰退さ
せているかもしれないが、依然として国民は、他国へ移住し、国籍を放棄することのコストを禁止的に高くつく
ものと考えている。そのような国では、正義が要求される。逆に、生活の細部にわたって厳しい戒律を強制する
教会は、しかし信徒に自由な退出を認めている限り、その内部においては正義の要請は発生しない。
このように考えた場合、正義を実現する政策遂行能力の衰退は、正義の環境条件・正義の要請を低下させるも
のではない。むしろ、権威から離脱するコストの高さが、それを生み出すのであり、上のキムリッカの指摘のよ
うに、企業であれ個人であれ、ある国民国家の権威から離脱し、他へ移ることのコストは、依然として高い。他
方で、国際経済に統合され、国際社会に参加することの利益の大きさゆえに、国際社会もまた、ある程度におい
て非自発的な世界であると言える。WTOやIMFへの加盟は、テニスクラブに入るのとは、わけが違う。した
︵ ︶
がって、正義の環境を生み出す強制力とは、アクターの離脱コストとしての非自発性と解釈すれば、そのコスト
2 社会的協力
の 大 き さ が 、 国 内 社 会 ・ 国 際 社 会 に お い て 、 ど の よ う な 正 義 が 要 請 さ れ る の か を 考 え る 一 助 と な る だ ろう 。
3
8
第二に、正義の環境を生み出すのは、個人や集団のあいだで、経済的その他の相互交流が存在し、互恵的な関
係が成り立っているからであるという見解を検討しよう。
5
9
º
まり、社会は、その構成員の相互の利益のための協力によって成り立っており、協力によって生み出された利益
︵ ︶
の分配や、利益を生み出すための費用の分担を公正になすための原理が正義原理である。協力が存在しないなら、
民国家内部でも、特定の結社や地域内部での協力は、結社の外や他の地域との結びつきと比べて、はるかに濃厚
しかし、他方で、このような考えによれば、一つの社会の内部でも、協力の程度にはムラがあるのであり、国
あり、協力が密接になるほど、分配的正義が扱うべき財や費用の総量は増えることになる。
限定されるべきである。したがって、分配的正義の対象となる財や費用は、社会的協力の結果として生じた分で
元可能なものである。AB間で正義の問題として分配されるべきものは、AB間の協力によって生産された財に
に立つことを意味するだろうか。依然として、AとBの社会で生産される財のほとんどは、内部の相互作用に還
こである日、自足性の壁が破れて、AのリンゴとBの梨が取引された。これは、直ちにAとBが同じ正義の環境
まっており、Aの構成員がBの最底辺の者を救済するのは、人道ではあっても、正義の要請ではありえない。そ
か な り 良 い も の で あ る。し か し 、 A B 間 に は 社 会 的 協 力 が 存 在 し な い た め に、 正 義 の 射 程 は 、 個 々 の 社 会 で 留
分配的正義を満たしている。そして、社会Aの最底辺で生きている者の状況は、Bの最底辺の者の状態よりも、
ルを示している。架空の世界に、完全に自足的な社会AとBがあった。AとBは、ともに内的には、それぞれの
この社会的協力は、具体的にどのようにして、正義の環境を生み出すのか。チャールズ・ベイツは、そのモデ
協 力 の 果 実 と コ ス ト の 分 配 的 正 義 は 不 要 で あ る こ と に なる 。
4
0
6
0
自足性と相互依存
︵ ︶
社会的協力の存在が正義の前提であるという発想は、ロールズに見られる。彼は、﹃正義論﹄の冒頭で、それ
¸
を明らかにしている。それによれば、正義とは、社会の徳であり、社会とは自足的な協働のシステムである。つ
3
9
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
になる場合がある。このような時、結社や地域内部での分配の要請は、人道としてならともかく、正義の要求と
して、外部との関係より重くなるのか。また、協力関係から外れた者に対しては、正義の要求は軽くなるのか。
ベイツは、協力関係の密接さに比例して正義の要求が重くなるのには、一定の閾値が存在し、密接さがその閾値
を越えた場合、正義の要求の重さはそれ以上重くならないとする。したがって、たとえば国民国家は、特定の結
社や地域における協力関係が特に濃密なものであるとしても、国として画一的な正義の環境の下にあることにな
る。そして、問題は、国際関係における様々な協力関係を、どのように理解するかである。ベイツのようなコス
︵ ︶
モポリタンは、国際的な相互依存は、既に国民国家と同程度のものであると考えているが、ナショナリストであ
いくつかの問題
れ ば 、 未 だ 閾 値 を 越 え て い な い と 考 え る か も し れ ない 。
4
1
理にかなっているだろう。
回すという発想であり、これは、果実を協力部分と非協力部分に区別することの実践上の困難性を考えれば、道
原理は、協力部分のみを対象にしているわけではないし、現実の所得税も、全所得のうちのいくらかを再分配に
がそうではないのかを同定することが非常に困難であるという点がある。ロールズの分配原理の一つである格差
第一に、個人が手にした具体的な生産物のうち、どの程度が、どのような社会的協力の果実であり、どの部分
協力部分の同定問題
問題点の所在を明らかにしよう。
社会的協力を正義の環境の条件とする考えは、説得力を持っているが、難点も多い。以下では、それを列挙し、
¹
個人に比べて、国際的な協力関係では、協力関係の帰結の所在は、比較的容易かもしれない。しかし、具体的
6
1
_
協力が正義の環境を生み出すという発想は、物理的な近接性や関係性の深さが、正義の要求を強めるという主張
を生み出す。しかし、コスモポリタンからすれば、道徳的義務は普遍的なのであり、関係性の濃淡によって影響
を受けるべきではない。ピーター・シンガーやガレット・クリティは、この点を強調する。シンガーによれば、
物理的近接性や個人的な関係の近さは、救助・援助の蓋然性を高めることはあっても、その義務を高めることは
ない。近くにいる者のほうが、救助が容易であるし、事情もよく分かっているからうまくいくという、おそらく
ミラーのような共同体主義者が言いそうな主張は、グローバルな通信・交通・輸送の技術が発達した世界におい
ては、苦しい言い訳に過ぎない。また、たとえ、途上国の現地の専門家のほうが、実践的な救助の効率性の観点
からして、直接救助の義務を負うことが望ましいとしても、依然として、先進国の素人も、現地の専門家に出資
6
2
な生産物の利益が具体的にどの国のどのような貢献に由来するのかを同定することはやはり難しい。社会的協力
の論拠は、国内正義であろうと、国際正義であろうと、個々のアクターの具体的な貢献を測定するのではなく、
︵ ︶
︵国内あるいは国際︶社会全体にぼんやりと存在する、ある程度の協力の程度を以って、ある程度の再分配を正
物理的あるいは関係的な距離の問題
になる。
するケースを説明するためにも有用である。社会的協力の論拠は、多くの擬制を設けることによって始めて可能
義の管轄に入るケース、在留外国人のように社会への貢献が存在するが、場合によっては外国の正義の管轄に属
社会的協力を、個々の具体的な互恵性や貢献に還元しないことは、障害者のように、貢献がなくても国内の正
当 化 す る 論 拠 と す る と い う 、 曖 昧 な も の に な ら ざ る を 得 ない 。
4
2
第二に、社会的協力の条件は、全世界を等しく扱うコスモポリタンの立場から批判されることがある。社会的
`
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
︵ ︶
︵ ︶
ると、コスモポリタンにとっての道徳的義務、あるいは正義の環境は、社会的協力が存在するかどうかに関わら
理的にレレバントなものと感じている以上、コスモポリタンは、直観主義を採るべきではない。このように考え
訴えるだけの力を持っているが、クリティが指摘するように、我々が実践上、物理的な距離や関係性の近さを倫
ルド共同開発やオペラハウスに巨額を投じたという例は、シンガーが用いたものである。どちらも我々の直観に
ガーも直観に訴えることを試みている。本稿冒頭の、ベンガル飢饉の折に、イギリスやオーストラリアがコンコ
い る。我 々 は、し ば し ば 喫 緊 の ニ ー ズ を 目 の 当 た り に し た と き、義 務 の 感 情 を 呼 び 起 こ さ れ る 。 他 方 で 、 シ ン
に依拠している。第一節2の冒頭で示した、玄関の前に立つ飢えた親子のイメージは、このことを端的に示して
地理的な近さに基づく関係性が正義の環境を、より具体的には救助義務を発生させるという発想は、直観主義
する義務を負っている。
4
3
第三に、より重要な問題は、国際的な経済的相互依存の高まりは、正義の環境が成立する必要条件ではあるが、
制度的な視点の欠如の問題
に注目する。
を狭く理解する傾向があり、社会的協力よりも、むしろ次に述べる制度的統合、ひいては意識の統合という条件
条件を重要と考える。しかし、リベラルナショナリストは、社会的協力が及ぶ広がりよりも、むしろ正義の環境
生み出される直観を、倫理的にレレバントなものと考えている点で、コスモポリタンとは異なり、社会的協力の
他方で、リベラルナショナリストは、特にナショナルな関係性や、領域的統合に由来する物理的近さによって
ず 、 普 遍 的 な 広 が り を 持 つ も の で な く て は な ら ない 。
4
4
十分条件ではないというものである。確かに、協力の果実や費用をどのように分配するかは、正義の問題を引き
6
3
a
6
4
起こすが、正義は、分配を実際に遂行する制度が存在して初めて可能になるのであり、そのような制度の公正さ
を論じるのが正義論であるから、正義の環境が整うには、経済的な統合だけではなく、制度的な統合も必要にな
る。これは、1の強制力の論点に戻るものであるかのように見えるかもしれない。しかし、次の3で論じるのは、
ある機関が、政策遂行能力を持っているかどうか、あるいはその機関の権威への服従の非自発性の程度の如何に
関わらず、その機関の制度の下に服しているという事実そのものが、正義の環境を生み出すというものである。
3 制度と意識の統合
前述のように、ロールズは、正義が適用される社会を、ある種の協働システムとして定義したが、他方で彼は、
︵ ︶
富や才能の分布は単なる自然の事実であり、事実に対しては、その正や不正を問うことはできず、むしろ正義が
属しており、イタリア政府ではなく、スロベニア政府に対して、正義の要求をすべきことになる。しかし、これ
場合、社会的協力という観点から言えば、イタリアの織物職人は、イタリアではなくスロベニアの正義の環境に
タリア国内の状況よりも、むしろスロベニアの政府の経済政策や産業構造に、重く依存するようになった。この
たとえば、イタリアのある地域の織物職人の雇用状況は、グローバルな経済的相互依存の高まりによって、イ
は、事実ではなく、制度に対してのみ問える問題である。
問題は、我々が生み出す制度が、そのような富の偏在に対してどのように対処するかという点にある。正や不正
る富の偏在も、それ自体は、自然の事実として受け入れざるを得ず、規範的な主張はできない。むしろ、正義の
ように考えると、生まれつきの才能の不平等がどうしようもないのと同様に、国内社会あるいは国際社会におけ
問 題 に な る の は 、 社 会 制 度 が そ の よ う な 富 や 才 能 の 分 布 を ど の よ う に 扱 う か に 関 し て で あ る と 述 べ て いる 。 こ の
4
5
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
は実際にイタリアの職人が有している正義の感覚ではないだろう。彼らが失業すれば、手当てを給付し再訓練の
機会を提供する責任を負っているのはイタリア政府である。経済的な相互依存は、どれほど高まったとしても、
︵ ︶
それだけでは正義の要求を生み出さない。社会の防衛や安定に責任を持つ権威や制度に参加する者が、正義の環
境も共有しているのである。
さらに、正義の環境を形成する上で重要なのは、制度的な統合のみならず、その権威に服する人々の間に、同
一の正義の環境に属しているという意識が統合されているということである。
の 家 は、農 村 戸 籍 に 登 録 さ れ て い た と い う こ と で あ る。こ
Yuan
中国のある町で、少女 Yuan
は、友 人 二 人 と と も に 交 通 事 故 に 遭 い 死 亡 し た。し か し、彼 女 の 両 親 に 政 府 か ら
支払われた償い金は、友人二人のそれの三分の一程度であった。三人は、同じ町に住み、同じ学校に通い、両親
の職業も所得も似通っていた。唯一の違いは、
のような措置は、 Yuan
の 両 親 に、強 い 不 公 平 感 を も た ら し た。他 方 で、同 様 の 償 い 金 が、コ ペ ン ハ ー ゲ ン に お
いては四倍であるという事実は、彼らに不公平感をもたらさない。同じ中国の国家を構成している法システムに
依 存 し・貢 献 し・服 従 し て い る と い う 事 実 が、公 正 さ へ の 要 求 を 生 み 出 す の で あ る 。 中 国 に 生 ま れ る か 、 デ ン
マークに生まれるかは、自然の運 ︵ brute luck
︶の問題であり、これはこれで後述のように道徳的恣意性の問題
︵ ︶
として論じる必要があるが、人々の実際の正義感覚の射程を生み出しているのは、同胞感覚であり、同胞である
に も か か わ ら ず 不 公 正 に 扱 わ れ た と い う 考 え が 、 正 義 の 名 に よ る 是 正 の 要 求 を 生 み 出 す の で ある 。
4
7
このように、正義の射程は、しばしば同朋感覚・ナショナルアイデンティティの射程に合致することが多い。
このような意識の統合も、正義の環境を形成する大きな力となっているのである。
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4 小括
以上が、正義を問うことができる環境が整うための条件に関する議論である。これらの条件は、正義の環境を
形成する要素として、どれも重要なものではあるが、どの一つをとっても必要条件でも十分条件でもありえず、
また三つ全体でも十分に網羅的なものではないかもしれない。また、国際社会がこれらの条件をどの程度満たし
ているかどうかは、すぐれて事実認識に関わる問題であるから、詳細な検討は、実証的研究を待たねばならない。
しかし、これら三つの議論は、それぞれ、国際社会の正義の環境が、国内社会のそれと比べて、はるかに薄く弱
いものであることを示している。リベラルナショナリストは、そのような環境の違いゆえに、国際社会の正義は、
国内社会のそれとは相当異なる、極めて薄い内容のものにならざるを得ないと考える。それは、具体的にどのよ
︶
Will Kymlicka, Politics in the Vernacular: Nationalism, Multiculturalism, and Citizenship , Oxford University Press, 2001,
︵ supra n. 11
︶ , p. 254.
Miller, op. cit.
うなものであるべきかを、次節で検討する。
︵
︶
︱
pp. 317
319.
‘
’
︶
Andrea
Sangiovanni,
Global
Justice,
Reciprocity,
and
the
State
,
Philosophy
&
Public
Affairs
, 35, 2007, pp. ︱8 19.
川本隆史、福間聡、神島裕子訳
John Rawls, A Theory of Justice: Revised Edition , Harvard University Press, 1999, p 4.
﹃正義論改訂版﹄紀伊国屋書店、二〇一〇年、七頁
︶
︱
Will Kymlicka, Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights , Oxford University Press, 1995, pp. 85
86.
角田猛之、石山文彦、山崎康仕監訳﹃多文化時代の市民権﹄晃洋書房、一九九八年、一二七頁
︵
︶
︵
︵
3
7
︵
3
63
5
39 38
説》
《論
6
6
国際的な分配的正義に関する一試論
︵
︵
︵
︶
︶
︶
︵ supra n. 34
︶ , pp. 29
︱
Beitz, op. cit.
30.
︱
Ibid, pp. 43
48.
︵ ed.
︶ , Problems of International Justice ,
Eric Mack, The Uneasy Case for Global Redistribution , in Luper-Foy, Steven
︱
Westview Press, 1988, pp. 61
64.
︵ supra n.︶
Singer, op. cit.
1 , p. 232.
‘
’
国際正義の原理
︱
Ibid, pp. 31
32.
︵
︶
邦訳一三七︱一三八頁
Rawls, op. cit.
supra
n.
39
,
p.
87.
︵ supra n. 38
︶ , pp. 34
︱
Sangiovanni, op. cit.
35.
Garrett Cullity, International Aid and the Scope of Kindness , Ethics , 105, 1994, pp. 102︱ 111.
’
︶
︶
︶
︶
︶
‘
︵
︵
︵
︵
︵
第三節
本節では、いよいよ、国際正義の原理の具体的な内容に踏み込むことにする。以下では、1原理を導出するた
めの論拠や、2原理が命じる対象・名宛人を明らかにした上で、3原理の性質や内容を明らかにしたい。
1 原理の導出
正義原理を導出する論拠に関して、エリック・マックは、国内社会においてもさることながら、国際社会の正
義原理にとって、最も頻繁に援用される論拠として、道徳的恣意性の論拠と社会契約の論拠を挙げている。さら
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3
︵ ︶
な要素を考慮してはならない。たとえば、肌の色によって給与の額を決定することは、給与の分配にとって道徳
的に関係のない要素を用いているので、不公正である。公正な正義原理は、分配における、このような道徳的に
恣意的な要素が持つ効果を中和するよう作用しなくてはならない。この論拠は、平等主義的な原理を導出する傾
向がある。たとえば、ヒレル・シュタイナーの議論のように、世界における天然資源の不均等な分布は、道徳的
に恣意的であり、当事者に責任がない限り当事者は平等に扱われるべきという平等主義に則り、世界の天然資源
︵ ︶
の総量の一人あたりの持分の国民全員分を越える量を保有する国は、それ以下を保有する国に、過剰分を移転す
でも後者の意味でも、道徳的に恣意的である。身体的・精神的障害は、前者の意味では、道徳的に恣意的である
ことが不公正であるということを意味する。たとえば、分配的正義の文脈では、肌の色や髪の色は、前者の意味
われるということを意味する。結果としての恣意性とは、そのような属性を考慮して人々を扱う方法を決定する
ある属性を持つことについて責任を負っていない場合、その属性は、その人にとって道徳的に恣意的であると言
を、論拠の前提としての意味と、論拠の結果としての意味に区別している。前提としての恣意性とは、ある人が
論じることにして、ここでは、ある要素が道徳的に恣意的であることの意味を明らかにしたい。ミラーは、それ
道徳的に恣意的な要素の中和、あるいは平等主義的な原理をグローバルな文脈で適用することの是非は、3で
べきであると主張されるかもしれない。
4
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8
には、マックは挙げていないが、ミラーのように、基本的人権に訴える論拠もある。以下では、これら三つの論
拠 が 、 ど の よ う に し て 国 際 的 な 文 脈 で 正 義 原 理 を 導 出 で き る の か を 検 討 し よう 。
道徳的恣意性の論拠
4
8
まずは、道徳的恣意性の論拠である。それによれば、公正な正義原理は、善の分配において、道徳的に恣意的
¸
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
︵ ︶
が、後者の意味では、そうではない。むしろ、これらの属性を、積極的に考慮することが、分配的正義の要求す
るところである。
そして、ここで問題になるのは、ナショナリティが、後者の意味で道徳的に恣意的であるのかどうかである。
それが、前者の意味で道徳的に恣意的である場合が多いことは、疑いがない。後天的にナショナリティを決定し
た移民を除いて、誰もナショナリティを自ら決定していない。コスモポリタンの議論は、ナショナリティを道徳
的に恣意的であるとして、分配的正義においてそれを考慮することの不公正さを強調するものが多いが、それは、
前者の意味での恣意性から、後者の意味での恣意性を、無条件に推論するものではないかというのが、リベラル
ナショナリストからの指摘である。リベラルナショナリストとしては、ナショナリティは、前者の意味では道徳
的に恣意的であっても、それが直ちに後者の意味で、分配的正義の文脈で、恣意的であるとは考えられない。
もちろん、シンガーやポッゲのように、論拠の結果としての恣意性という意味でも、ナショナリティの道徳的
レレバンスを否定するだけの十分な論拠を提示するコスモポリタンも存在する。リベラルナショナリストとして
は、それらの論拠よりも、ナショナリティを分配において考慮すべきとする論拠の方が説得力を持っていると主
張したいところであるが、それは、リベラルナショナリズムの擁護論として示すべきことであり、別稿に委ねる
ことにして、とりあえずここでは、ナショナリティという属性を持つことに責任がないということは、直ちにそ
れがもたらす効果を分配的正義において中和すべきということにはならないということを指摘するにとどめよう。
このように論じると、結局、問題は、道徳的恣意性そのものではないということが分かる。というのも、論拠
の結果としての恣意性の議論は、循環論法になっているからである。すなわち、道徳的に恣意性な要素は、善の
分配において考慮してはならない、では、道徳的に恣意的な要素とは何かと言えば、それは善の分配において考
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慮することが不公正なものであると言っているだけである。一方が他方を説明・定義し、同時に他方が一方を説
明・定義している。結局問題は、ナショナリティを考慮することが、公正なのかどうかという点であり、論拠の
結果の意味で道徳的恣意性という議論を持ち出すこと自体には、それほど意味はないだろう。
契約論
と、当事者が先進国にいる場合、世界で最も不利な立場の者の状況を改善するという第二セッションの要求が、
る。当事者は、第二セッションにおいて、グローバルな人や資源の移動が存在することを知っている。だとする
を導出するであろう。しかし、ここでは、第一セッションと第二セッションの間に重大な矛盾が生じる恐れがあ
と合理的に判断した結果、全世界で最も不利な立場にある者の状態を最も改善するというグローバルな格差原理
たがって、無知のベールが引き上げられたときに自分が置かれる可能性のある最悪の立場を最善のものにしよう
民国家は国際社会において利己的に振舞うという一般的な事実は知っている。このとき、マキシミンルールにし
でどのような社会的状況にあるかを知らないだけではなく、どの国民国家に所属するかも知らない。しかし、国
ンを終えた後、国際正義について同様に検討する第二セッションに入る。彼は、自分が所属する国民国家の内部
第一の方法では、原初状態の当事者は、ロールズが元来想定していた国内正義について検討する第一セッショ
ス・ポッゲは、それをグローバルに拡張する方法を検討している。彼は、その方法を三つ挙げている。
ロールズ自身は、原初状態を社会の基本構造たる国家の内部の正義原理を導出するために用いているが、トマ
り、その論拠から導出される、とりわけ格差原理を国際的に適用することの是非である。
を持つ論者の間で議論の的となるのが、ロールズの原初状態に関する議論を、国際的に適用することの是非であ
第二は、社会契約の論拠を用いて、国際正義の原理を導出するという手法である。とりわけ、国際正義に関心
¹
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
国内の最も不利な立場の者の状況を改善するという第一セッションの要求と対立するかもしれない。とりわけ、
世界で最も不利な立場の者の先進国への入国を認めることが、先進国内の最底辺の者の状況を悪化させることは
十分に考えられる。このとき、第一セッションと第二セッションのどちらを優先させるかが問題になる。ポッゲ
は、第一セッションを基本・第二セッションを補完と考える国内優先的な通説を批判し、全ての社会の公正さが、
世界で最も恵まれない者への貢献によって判断されるべきとする。しかし、その場合、第一セッションの存在意
義は薄くなる。
第二の方法は、第一と同様に、国内の第一セッションと国際の第二セッションという区分を用いるが、国際的
な正義原理を導出する第二セッションにおける当事者の属性が、第一セッションのものと少し異なっている。第
一の方法では、第一セッションでも第二セッションでも、当事者は個人、あるいは家系の代表とされるが、第二
の方法では、彼は第二セッションにおいては、自らが所属する国民国家の代表である。当事者は、ここでも、自
らが所属する国家やその内部での自身の状況については知りえない。そして、彼の関心は、自らが所属する国家
の国内正義の達成と国益の増進である。自分がどの国家に属するかを知りえないため、全ての国家において国内
正義が達成されることを欲するが、同時に、自分の国家が自由に国益を追求できることも欲するのである。結局、
世界は各々が公正な国民国家から成るが、国家間には、個人単位で最も不利な立場の者を救済するような格差原
理のようなものは生まれない。当事者は、どの国民国家に属するかを知りえないため、マキシミンルールに従っ
て、弱小国家に属することを案じて、最も弱小な国家でも国益が追求できるような国際ルールには到達するかも
しれない。しかし、これは、国家単位での国際格差原理であって、国内に適用される個人単位の格差原理とは、
性質を異にする。このような世界では、たとえば白人と黒人の間に非常に不公正な分配状況が存在する国家が分
7
1
である。ミラーがまさにこの手法を採用している。グローバルな正義論を導出するには、普遍的で客観的な価値
に依拠せざるを得ず、それが基本的人権だというのである。
前述のように、ミラーは、人権を正当化する戦略には三つあると指摘する。第一は、プラグマティックな実践
基盤戦略であり、第二は、重なり合うコンセンサス戦略である。これらの戦略に対して、ミラーは、第三の人道
主 義 戦 略 を 採 用 し て お り、こ れ は 人 間 の 客 観 的 な 特 徴 か ら 人 権 を 正 当 化 す る と い う も の で あ る 。 そ し て 、 彼 に
とって、人間の客観的な特徴とは、ニーズを持っているということである。人権の目的とは、ニーズを満たすこ
とであり、ニーズによって人権はその内容を規定され、正当化される。
7
2
離して、各々内的に公正な白人国家と黒人国家が誕生することは、公正な世界への第一歩ということになる。
ポ ッ ゲ は、こ れ ら 二 つ の 方 法 を 批 判 し、そ も そ も 第 一 セ ッ シ ョ ン と 第 二 セ ッ シ ョ ン を 区 別 す る こ と 自 体 が 間
違っていると主張する。彼が支持する第三の方法では、最初からグローバルな原初状態しか存在しないという一
元的な構造が採用される。当事者はあくまで個人であり、採用される格差原理は、世界で最も不利な立場の者の
状態を最善にすることを命じる。ポッゲは、ロールズの理論の内部には、ナショナリティを、人種や性別のよう
な他の ︵論拠の前提としてではなく結果として︶道徳的に恣意的な要素と区別する理由は見当たらないと主張する。
それなのに国内正義と国際正義を別個に論じているロールズは、ポッゲに言わせれば、自己の哲学に対して正直
︵ ︶
ではない。ポッゲは、グローバルな格差原理を導出するグローバルな一元的原初状態こそ、ロールズよりもロー
権利論
ル ズ ら し い 、 ロ ー ル ズ の 真 の 理 想 を 実 現 す る も の で あ る と 考 える 。
5
1
以上の道徳的恣意性や社会契約などの論拠よりも、リベラルナショナリストが好む論拠は、基本的人権の概念
º
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
ニーズとは、まともな生活を享受するための最低限の必要であり、前述のように、ミラーはそれを基本的ニー
ズと社会的ニーズに区別している。基本的ニーズは、全ての人間に普遍的に当てはまるニーズであり、衣食住な
どがこれにあたる。社会的ニーズとは、特定の ︵おそらくナショナルな︶社会において、最 低 限 ま と も な 生 活 の
ために必須とされるもので、その内容は、各社会において異なるだろう。そして、社会的ニーズは、各社会、す
︵ ︶
なわち国民国家において、市民の権利として保障されるべきものであるのに対し、基本的ニーズは全世界におい
て普遍的に妥当性を持つ基本的人権を規定する。
ミラーは、基本的人権がインフレ状態になることに対して強く警戒しており、そのために ︵特に基本的︶ニー
ズの内容、そしてそれが国際正義原理を導出する可能性を、制限的に理解するよう努めている。第一に、人権を
基礎づけることができるのは、本来的ニーズのみであり、道具的ニーズは排除される。たとえば、自由な移動は
本来的ニーズかもしれないが、そのために自動車を持つことは道具的ニーズである。第二に、ニーズとは、他の
方法で置き換えることのできない程度に抽象的なものでなくてはならない。たとえば、パンで空腹を癒せるとき、
ケーキへのニーズは存在しない。食料や栄養はニーズであっても、パンやケーキはニーズにならない。第三に、
ニーズはあくまで客観的なものであり、主観的な必要は、ニーズではない。ある個人が最低限まともな生活の必
須条件であると考えているものであっても、個人の選択の結果涵養されたものであれば、それは人権を基礎づけ
るものではない。選好はどれほど強くてもニーズにはならないのである。たとえば、ある者が、宗教的礼拝を、
最低限まともな生活の条件と考え、山中に穴居し、住居へのニーズを満たす出費を礼拝のために振り替えて欲し
いと主張しても、それは認められない。もちろん、礼拝が社会的ニーズとして認められる国民社会や、あるいは
その内部の宗教結社は存在するだろう。しかし、それは国際正義の原理を導出する基本的人権の基礎にはならな
7
3
5
2
︵ ︶
い。第四に、コストの問題がある。以上の三つの制約条件は、ニーズの定義を制約するものであったが、コスト
必要とされるもの
)
資 源 が 稀 少 で あ る 場 合、た と え
他 者 へ の 強 制 な ど、他 の 少 な く と も
の問題は、ニーズの充足が人権として保護される条件に対する但し書きである。すなわち、
が、そもそも技術的に提供不可能である場合 ︵たとえば不治の病の治療︶
、
︵ ︶
同程度に重要な人権の侵害なしには充足できない場合 ︵愛や尊敬へのニーズ︶
、
+
*
︵ ︶
が支持する価値は、とてもその基礎とは成りえず、生存へのニーズこそが国際正義原理の論拠としてふさわしい
ラーは、基本的人権は世界中に普遍的なものであるべきだから、自由や政治参加のように党派的なリベラリズム
じており、市民的権利や政治的権利の重要性を無視していると批判がなされるかもしれない。それに対して、ミ
を尊重し・保護せよというものである。これに対しては、社会経済的権利を優先して、それを元に国際正義を論
このような論拠から導出される国際的な正義原理とは、コストが規定する制約の中で、できる限り基本的人権
の問題としてそれが権利として保証される可能性が制限を受けることを認めざるをえないということである。
限定ではなく、外在的な問題であるので、それによってニーズとしての資格が失われるわけではないが、事実上
ニ ー ズ と し て 認 め ら れ る と し て も 、 そ れ が 充 足 さ れ る 保 障 は 存 在 し ない 。 こ れ は 、 前 の 三 つ の 原 理 的 ・ 内 在 的 な
5
4
2 原理の対象
次に、原理の具体的な内容に入る前に、その名宛人を明確にする作業をしておきたい。すなわち、その分配的
正義の原理は、誰が誰に何を分配することを命じるものなのか。国際社会は、国内社会と違って、個人と国家の
みならず、多国籍企業・NGOなど、アクターが多元的であり、その複雑さゆえに、この問題を明確にすること
7
4
5
3
と考えている。
5
5
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
がいっそう強く問われる。
﹁誰が﹂問題
まず、国際正義において、分配の原資の負担や分配の管理について、責任を持つ主体が誰であるのかが、議論
の的になっている。第一節でも見たように、世界の貧困者は、単に慈悲を待つ者ではなく、能動的に正義の要求
をする者である。しかし、彼らは、誰に対して訴えるべきなのか。前述のように、国際正義において、問題とな
るのは、自由の尊重と同時に、ニーズの充足である。このことが、問題を難しくしている。自由権に対応する義
務は、消極的義務・不作為義務であり、自由の侵害を慎むことがその義務の内容である。これは、万人に対して
主張できる権利であり、消極的義務は、万人が負う。それに対して、ニーズの充足や生存への権利のような社会
権においては、それに対応する義務は積極的な義務・作為義務である。その詳細な対比は、3で試みることにし
て、ここで重要なのは、積極的義務が、オノラ・オニールによれば、不完全で不特定な義務だということである。
自由の尊重は、万人に対して常に要求できるが、ニーズの充足は、さしあたり誰かが行えば、他の者が行う必要
はなくなる。消極的義務は万人の義務であるから、その主体の同定は容易であるが、積極的義務の場合、誰かが
それを負うことは明白であるが、それが誰であるかが明白ではないという意味で、﹁不完全な﹂義務なのである。
︵ ︶
AがBを拷問すれば、AによるBの権利侵害は明白であるが、AがBに食料を与えなかったことは、AがBの権
利 を 侵 害 し た こ と に な る の か 。 逆 に 、 特 定 の 権 利 保 持 者 か ら 請 求 さ れ て い な け れ ば 、 何 も し な く て も よ い のか 。
5
6
︵ ︶
オニールは、対応する義務のない権利は絵に描いた餅であるから、むしろ義務から出発し、対応する特定の権
︵ ︶
5
8
利 の な い 義 務 も 、 依 然 と し て 不 特 定 義 務 と し て 妥 当 性 を 認 め る べ き と 考 え て いる 。 さ ら に 、 シ ン ガ ー も 、 自 分 の
5
7
他 に ニ ー ズ 充 足 能 力 を 持 つ 者 が い る と い う 事 実 は 、 自 ら の 作 為 義 務 を 軽 減 す る も の で は な い と 主 張 する 。
7
5
¸
7
6
ただ、実際にその義務を果たす場合、義務の内容の特定化は避けられないので、特定の主体に制度的に責任を
負わせることで、作為義務を設定し、不作為が明白な義務違反になるようにするというのが、現実的だろう。ベ
イツは、国際的な分配的正義は、一次的には、国内正義と同じように、個人間の富の移転の問題であるべきであ
るが、制度的に考えた場合、現在最も有効なのが、国民国家の集合からなる国際機関が一時的に責任を持ち、各
︵ ︶
国に責任を分配し、富の国家間移転を行うという方法だと考えている。国家の義務は、個人の義務の派生物に過
であるとしても、分配の行政的管理という観点では、組織としての国家体制、そしてその集合体である国際機関
原資の負担をいう観点からは、最終的には課税制度を通して、先進国の市民一人ひとりに責任の一端を帰属可能
ような問題が伴うのかを確認したことで留めよう。ただ、いずれにせよ、義務や責任を果たす上で、特に分配の
している。我々の立場として義務の所在を明らかにする作業は、次の3に委ねて、ここでは、主体の同定にどの
。結 局、誰 が 責 任 を 負 う の か は、ど の よ う な 正 義 原 理 を 採 用 す る の か に も、依 存
場合も、不特定問題は生じない︶
ミラーの責任論によれば、それらの他にも、﹁共同体的な絆﹂を持つ者が責任を負うという発想もある ︵この
なかったことから発生する賠償義務︶であるから、不特定義務をめぐる問題は発生しない。
も負うという主張である。ここでは、我々の義務は、積極的義務ではなく、消極的義務 ︵も と い、そ れ を 遵 守 し
貧困者に対して実際に危害を加えており、それについて非難可能な責任を負っているから、それを是正する責任
あれば、世界の貧困の原因を作り出した者が、義務を負うことになる。これは、先進国の政府と市民が、世界の
るから、効率性を重視して、ニーズ充足﹁能力﹂がある者が責任を負うという発想であるが、他方で、ポッゲで
ただし、ここで、全く別の思考方法があることにも注意しておかねばならない。シンガーは、帰結主義者であ
ぎ な い が 、 国 家 制 度 は 最 も 有 効 な 次 善 策 だ と い う 発 想 で ある 。
5
9
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
を、NGOや企業にも増して、利用するのが有効であることは、ベイツが言うように、明らかと言えよう。
﹁誰に﹂問題
﹁何を﹂問題
に、権利論を採用すれば、基本的人権を侵害された者が、正義の要求を行えることになる。
が言うように、グローバルに最も不利な立場の個人 ︵国ではない︶の状態を最も改善することを要求する。第三
第二に、ロールズ的な原初状態での契約論を採用すれば、グローバルな格差原理が導かれるが、これは、ポッゲ
りの持分を越える資源を有する国は、それに満たない資源しか有しない国に、その資源を移転する義務がある。
か持たない者に、それを移転することになる。先に挙げたシュタイナーの例では、世界の資源の総量の一人あた
和するという原理が導かれるが、これは、中和した後の理想的な分配以上の善を持つ者が、それに満たない善し
正義原理によって異なってくる。第一に、道徳的恣意性の論拠を採用すれば、道徳的に恣意的な要素の効果を中
次に、国際的な分配的正義が要求する富の移転で、受益者となるべき者の同定であるが、これは、採用される
¹
天然資源のグローバルな分配的正義を論じる際には、1で論じた道徳的恣意性の論拠に訴えることが多い。あ
天然資源の再分配
よう。
ことである。以下では、天然資源とその他の所得の分配が、どのように論じられているのかを、それぞれ検討し
燃料や水源や肥沃な土地のような天然資源と、その他の所得一般とが、しばしば区別して論じられているという
最後に、分配の通貨の問題を考えたい。ここで注目したいのは、国際的な分配的正義をめぐる議論では、化石
º
る 人 々 が 住 ん で い る 土 地 の 下 に、偶 然 大 量 の 石 油 が 発 見 さ れ た こ と か ら、そ の 人 々 は 豊 か に な っ た が 、 隣 国 の
7
7
_
7
8
人々は貧しいままである。これを恣意的な偶然といわずして、何と言うのか。コスモポリタンは、特にこの恣意
性を強調する傾向がある。前述のように、シュタイナーは、この論拠から、天然資源のグローバルな平等再分配
を主張している。ベイツも同様である。
同じく道徳的に恣意的な属性としては、個人が持つ生まれつきの才能がある。ロールズは、生まれつきの才能
が道徳的に恣意的であることは認めつつも、才能ある者がそれを利用して利益を得ることは、そのことが格差原
理などのロールズ流の正義原理を侵害しない限り正当と考えている。それは、決して平等原理を導出するもので
はない。同じように考えるならば、国民国家が天然資源を利用することは、︵平等原理ではなく︶格差原理を侵害
しない限り、正当となるかもしれない。しかし、ベイツは、国際的分配正義の文脈における天然資源に関して、
道徳的恣意性の論拠は、やはり平等原理を導出すると考えている。生まれつきの才能は、本人がそれに値するも
のではないとは言え、本人の人格を構成するものである。才能は自己の一部であり、その発達や行使は、人格的
アイデンティティを形成する。よって才能の行使は人格的自由によって保護されるべきであるのに対し、天然資
源は、そのような意味で人格と結び付いているわけではない。我が家の裏庭にダイアモンドが埋まっているとい
う事実は、私の誇りやアイデンティティを構成するものではない。したがって、天然資源は生まれつきの才能と
︵ ︶
同様に道徳的に恣意的であるが、才能の場合よりも尚強く、その利用の自由に制限を課すべきであるというのが、
たりに分割し、各々がそれに対して完全な私的所有権を持つことを提唱するし、逆に、全人類を一つの社団法人
かれるだろう。その原理の具体的内容は、論者により様々である。シュタイナーは、地球の全天然資源を一人当
このような道徳的恣意性の論拠からは、地球上の天然資源は、平等に全人類のものであるという平等原理が導
ベイツの考えである。
6
0
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
と考え、その財産である資源を総有し、その利用は代表機関が決定するという方法もありえる。さらに、マシア
ス・リッセは、緩やかな共有としての入会権によって、管轄や所有としては、人類全体に所属しながらも、そこ
から各人・各国が得た利益は正統にその者に帰属すると主張する。そしてこれは、天然資源は全人類共有の財産
︵ ︶
であるという直観と、自らの労働により資源を掘削・獲得した者は、それに対して正統な権原を有するという別
︵ ︶
環境としての社会的協力を要求しないのに対し、後者を契約論に依拠させ、社会的協力を正義の環境と考え、そ
働による所得は社会的協力の結果としてのものであるから、前者を道徳的恣意性の論拠に委ね、そこには正義の
天然資源と所得一般を区別すべきという主張は、天然資源はスタートラインを画する利益であるのに対し、労
所得の再分配
の問題として扱うことにする。
平等原理を導出することを避け、天然資源の掘削から得た利益を、以下の一般的な所得に含めて、それの再分配
そこで、リベラルナショナリストとして、本稿では、天然資源からの利益に関して、道徳的恣意性の論拠から
意性の論拠に基づく資源の平等論だけでは片付けられない。
り、天然資源を埋蔵している領域は、特定の国民の文化や歴史とも結びついているので、この問題は、道徳的恣
ような議論には、懐疑的である。天然資源の獲得やその正統性の問題は、領域的管轄の問題と密接に関連してお
しかし、いずれにせよ、リベラルナショナリストは、このように天然資源を特別に道徳的恣意性の論拠で扱う
の直観を止揚するものであると言う。
6
1
れ ぞ れ 異 な る 正 義 原 理 を 適 用 す る べ き と い う 考 え に 基 づ い て いる 。 し か し 、 資 源 は 最 初 か ら 資 源 と し て 存 在 す る
6
2
わけではなく、単なる原材料として存在し、原材料は人間の労働によって人間活動にとって有用で市場価値を有
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9
`
8
0
するものに変形させて始めて資源となる。確かに、地球上における原材料の分布は道徳的に恣意的であるが、労
働によってそれを市場価値のある資源に変形することは、通常の労働の所得とそれほど異なるものではない。つ
まり、生まれつきの才能と天然資源の間には、ベイツが言うほどの大きな質的な違いはない。
しかし、リベラルナショナリストは、所得を一元的に扱うとしても、その導出の論拠をロールズ的な契約論、
つまりグローバルな原初状態に求めるわけではない。前述のように、リベラルナショナリストにとって、ミラー
の言う基本的人権をその論拠と考えるのが自然である。では、リベラルナショナリストが考える、基本的人権、
そしてそこから導出される国際的な分配的正義原理とはどのようなものなのか。
3 原理の内容
議論はついに、国際正義の原理の内容に到達した。ここでは、まずは、原理が持つ性質を、帰結主義アプロー
チと権利義務アプローチに区別し、それぞれの国際正義原理の内容を明らかにする。既に、これまでの議論の中
で、原理の導出や対象について論じる過程で、原理の内容は、かなりの部分、明らかになっている。ここでは、
もう一度それらをまとめることにしよう。
帰結主義アプローチ
﹂ 道 徳 的 重 要 性 を 持 つ も の を 犠 牲 に す る こ と な く、救 助 で き る な ら そ う
︶
︵原理1︶
﹁匹敵する ︵ comparable
被害や死をできるだけ減らす原理を主張する。それは、
彼は、本稿の冒頭で述べたベンガル飢饉の惨状に対する直観から出発し、食料・シェルター・医療の不足による
帰結主義的アプローチの代表格としては、限界効用を功利主義的に計算するピーター・シンガーの議論がある。
¸
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
すべき
というものである。つまり、私は、財産のさらなる一単位を供出することで、ベンガルにおいて救えるものより、
︵ ︶
私自身に生じる犠牲の方が大きくなるまで、供出を続けなくてはならない。これは、ラディカルに平等主義的な
含意を持つ原理である。
しかし、貧困や被害をできるだけなくすべきという帰結主義が、果たして本当にシンガーの言う原理を導出す
るのかには、疑問が残る。帰結主義には、全く逆の含意もありうる。マルサス的な発想によれば、富める国から
貧しい国への資源の再分配は、貧困国の人口増加を招き、結局害悪の総量を増やすかもしれない。また、先進国
にとっても、貧困国との平等を要求するようなシンガーの原理1は、自国の経済の収縮を招き、それが結局貧困
国のための援助の総量を減らすことになるかもしれない。安定して供出できる限界量が、たとえばGDPの二〇
%であるのに、原理1を満たすために、最初の年度にその四〇%を供出すれば、GDPの総量が減り、次の年度
からは、たとえ四〇%であったとしても、その絶対量は減少するかもしれず、これでは元も子もない。
このような問題から、シンガーは、理論的には原理1が正しいとしつつも、その修正版としての原理2も同時
に示している。
︵原 理2︶
﹁重大な ︵ significant
﹂道 徳 的 重 要 性 を 持 つ も の を 犠 牲 に す る こ と な く 、 救 助 で き る な ら そ う す
︶
べき
この原理は、効用の総量の最大化の要求を放棄し、たとえ私が供出で失うものが、ベンガルで救えるものより
小さいとしても、その犠牲が私にとって相当に重大なものであれば、私はそれを供出する義務はない。シンガー
は、この緩和された原理2であっても、現在の先進国の強欲と吝嗇を大きく改革することを要求するものである
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1
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3
︵ ︶
と主張しているが、﹁重大な﹂道徳的重要性を持つものとは具体的に何であるのかは明らかではない。
このように、豊かな国が果たして貧しい国を救助すべきかどうか、救助すべきであるとしてもどれくらい救助
︵ ︶
義務の対比を手がかりに、国際正義と国内正義の二元性の問題を考察することによって、権利・義務アプローチ
が持つ問題性を検討し、その後で、積極的義務と消極的義務の対比によって、原理の具体的な内容に踏み込む。
特別な義務と一般的義務︱正義の構想の多層性︱
遍主義的なコスモポリタンならいざ知らず、リベラルナショナリストは、国際正義と国内正義の二元性を支持し、
︵ ︶
国内正義に濃厚な内容を与える。ロバート・グディンの指摘するところによれば、たとえば、国民には外国人に
別の義務を負うことになる。移民は、自らの意思で国民になることで、特別な権利・義務を有することになるか
第一に、契約に基づく特別な義務の発生がある。それによれば、誰であれ契約を結んだ者は、それに基づく特
般的な義務よりも濃厚な、同胞国民への特別な義務は、どのように正当化されるのか。
・兵役などの面では国民ゆえの義務や介入の甘受を要求するものであると言える。このような、人類全体への一
国内正義と国際正義の二元性は、同胞を特別視し、福利の面では人類一般よりも同胞をより厚く遇し、逆に納税
与 え ら れ な い 福 利 厚 生 や 選 挙 権 が 与 え ら れ る し 、 外 国 人 に は 課 さ れ な い 兵 役 を 課 さ れ る 可 能 性 が ある 。 つ ま り 、
6
6
8
2
6
4
すべきかという問いに対して、貧困をできるだけ多く緩和すべきという帰結主義からは、確定的な答えは返って
権利・義務アプローチ
こ な い 。 こ の よ う な 過 度 の 柔 軟 性 が 、 帰 結 主 義 の 欠 点 と 言 え よう 。
6
5
次に、権利や義務の観点から導かれる原理を考えよう。原理の内容に入る前に、まず、特別な義務と一般的な
¹
国内正義について論じていたときは、国民国家が一元的に議論の射程であったが、国際正義を論じるとき、普
_
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
ら、この範疇に該当する。しかし、これでは、生まれながらの国民がなぜ特別の権利・義務を持つのかを説明で
きない。
第二は、互恵性に基づく義務の発生である。これは、第二節で論じた、社会的協力が正義の環境を生み出すと
いう発想に基づくものであり、社会を共に形成する者の間では、その外部と比べて、積極的義務が増加し消極的
義務が減少すると考えられる。しかし、この考え方にも欠点は多い。まず、そのような互恵的な社会は、具体的
にどのようにその境界線が同定されるのかは不明確である。それを専ら国民国家であると考える想定は、正義の
環境に関する議論で述べたように、疑問視されうる。また、実際に社会の中に住んでいる外国人は、国外に住む
国民よりも、互恵的なつながりが強いのに、国民の権利義務が与えられないことを説明できない。さらには、心
身に障害を持つ者のように、社会に対して互恵的な貢献ができない者も、福利厚生への権利を持つことを説明で
きない。
第三に、効率性に訴える方法がある。これによれば、国民への特別な義務とは、人類全体への一般的な義務と、
質的に異なるものではなく、単にそれを便宜的に配分したものに過ぎない。グディンは、互恵性モデルによれば、
社会に貢献する能力がある者だけが、社会的協力の果実へのアクセスを得ることになり、富める者がますます富
むのに、貧しい者は救済を得られないのに対し、この責任割り当てモデルでは、障害者のように社会に貢献でき
ない者でも、厚い保護を受けられるとして、これを支持している。しかし、ミラーは、この論拠では、なぜ現今
の具体的な個々の国民国家が、責任を割り当てられ、その同胞の間で特別な義務や権利が生じるのかを説明する
ことはできないと指摘する。効率性の論拠によれば、もし現今の国民国家の境界線よりも効率的な責任配分を行
える別の境界線があれば、国境を引きなおし、そこに特別の権利・義務を担う社会を形成すべきということにな
8
3
︵ ︶
る。
それに対して、ミラーやアンドリュー・メイソンは、ネイションが構成する同胞国民という関係が持つ価値に
訴えるしかないと結論づける。これは、各ネイションが具体的に持っている文化的な美点に関するものではない。
たとえば、イタリアのオペラに芸術的な価値があるという事実は、全世界がイタリアのオペラを保護すべきとい
う主張を生み出しこそすれ、イタリア人が同胞に対して負う特別の義務を正当化するものではない。むしろ国民
共同体の価値は、国民文化の現象ではなく、国民文化の構造にある。リベラルナショナリストの主張によれば、
国民の統合は、個人の自律を可能にし、その福利に貢献し、所属感覚を与え、社会的な絆を形成する。正義を可
︵ ︶
能にする環境を提供するのが、国民共同体であり、国民共同体にはそのような価値が備わっているから、特別な
権利を侵害しないという義務である。このような性質から、通常、消極的義務は、積極的義務よりも、強い規範
文脈では、主に他者の物質的なニーズを満たすことを要求する。それに対して、消極的義務とは、他者の自由や
積極的義務とは、能動的な作為をなす義務であり、先の﹁誰が﹂問題の議論でも指摘したように、国際正義の
によって、それを考えよう。
認める。では、国際正義における権利・義務とはどのようなものか。ここでは、積極的義務と消極的義務の対比
以上のように、リベラルナショナリストは、国民の権利・義務と、グローバルな権利・義務を区別することを
積極的義務と消極的義務
度戻ってくることにする。
これは、国内外で正義の内容が異なることの是非という、本稿全体にも関わる問題であるので、最後でもう一
義務が生じるのである。
6
8
8
4
6
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`
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
力を持つとされる。わざわざ自らの犠牲で他者のために資源を提供するよう要求することは、他者の権利を侵害
しないよう要求することよりも、説得力に乏しいとされるからである。
ここで興味深いのは、国内正義と国際正義という正義の二元性、あるいは多層性を前提として、コスモポリタ
ンであるポッゲと、ナショナリストであるミラーが、極めて類似した正義の多層構造の図式を提示しているとい
うことである。以下、それらを確認しよう。
ポッゲの正義の多層構造
︵1︶ 他者を不当に害さないという消極的義務
︵2a︶ 親族を害悪から保護する積極的義務
⋮
︵2n︶ 同胞を害悪から保護する積極的義務
⋮
︵2z︶ 無関係の外国人を害悪から保護する積極的義務
ミラーの正義の多層構造
︵1︶ 自分の行動によって基本的人権を侵害しないという消極的義務
︵2︶ 自分が保護責任を負う者を保護する積極的義務
︵3︶ 他者による基本的人権の侵害を阻止する積極的義務
︵4︶ 他者が保護責任を果たさないとき替わりにそれを果たす積極的義務
8
5
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6
両者とも、リストの右になるほど、道徳的な要求としては強いものになる。そして、両者とも、︵1︶に消極
的義務を置き、以下は積極的義務となっている。
まずは、ポッゲのリストから検討しよう。彼は、積極的義務の強さが、関係性の近さに比例することを認めて
いる。積極的義務は︵2a︶から︵2z︶までグラデーションになっており、家族から無関係の外国人まで、関
係性の遠近によって、積極的義務の内容が変化する。それに対して、消極的義務は、関係性の遠近に依存しない。
家族であろうと外国人であろうと、権利侵害を慎むことの重要性は変わらないのである。そして、ポッゲの主張
の核心は、多くの者がグローバルな貧困者の救済を積極的義務の問題と考えているが、それは間違いだというこ
とである。彼は、貧困の原因を、その国の経済政策の失敗などローカルな要素に還元する﹁説明的ナショナリズ
ム﹂を批判し、先進国の政府・企業・市民が関与しているグローバルな国際体制全体が、彼らの苦境を引き起こ
していると主張する。したがって、我々は彼らを助けるべきなのではなく、彼らを害することをやめるべきなの
︵ ︶
で あ る。そ の 要 求 に、関 係 性 の 遠 近 は 関 係 な い。我 々 は、直 ち に 我 々 が 参 加 し 関 与 し て い る 国 際 経 済 体 制 を 、
同胞を優先すべきであるし、複数の同胞が異なる深刻さのニーズを抱えていれば、より深刻な方を救助すること
事態の深刻さの両方に比例して決定される。もし、同胞と外国人が同じくらいの深刻なニーズを抱えていれば、
︵2︶では、﹁重みづけルール﹂が適用される。それによれば、義務の重さは、関係性の近さと救助を要求する
義 務 を 常 に 優 先 さ せ る こ と に な る。こ れ は、彼 が﹁厳 密 な 優 先 ル ー ル﹂と 呼 ぶ も の で あ る。そ れ に 対 し て、
く、普遍的な規範力を持つと考える。消極的義務においては、特別な義務と一般的義務の対立において、一般的
次に、ミラーのリストを見てみよう。彼も、︵1︶の消極的義務は、関係性の遠近・ナショナリティに関係な
﹁ 改 革 す る と い う 消 極 的 義 務 ﹂ を 有 す る の で ある 。
6
9
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
︵ ︶
を優先すべきことになる。そして︵3︶と︵4︶に関しては、深刻さに関係なく、同胞を優先することができる。
ずしも平等を要求するわけではない。家族あるいは多様な自発的結社では、むしろ時には平等とは異なる濃厚な
ここでは、積極的義務の一種の形態として、特に平等主義の是非を取り上げる。もちろん、積極的義務は、必
平等原理の批判
よう。
ともかく、以下では、積極的義務と消極的義務のそれぞれが、どのような正義原理として現れるのかを検討し
普遍的な国際正義を消極的義務の問題と考えているからである。
的な帰結については、それほどの違いがあるとも思えない。両者とも、積極的義務を関係性に相対的なものとし、
間観の違いが、彼らの哲学的な対立を生み出しているのだが、他方で、そこから導出される正義原理やその実践
しての人間観を強調するのに対し、ポッゲはグローバルな構造の被害者としての貧困者を描写している。この人
彼らのこの違いは、第一節で述べた人間観の違いに起因している。ミラーが貧困に部分的に責任を負う主体と
込められている。これは、ミラーのそれと決定的に異なる点である。
務と積極的義務の質的な違いをより重視し、世界の貧困が消極的義務の問題であることを強調するメッセージが
の遠近やナショナリティに関係がない普遍的なものであることを認めているが、ポッゲのリストには、消極的義
それが︵1︶
、︵2a︶
∼︵2z︶となっていることは偶然ではなく、意味がある。両者とも、消極的義務が関係性
両者のリストはその構造は似通っているが、ミラーのリストが︵1︶
∼︵4︶となっているのに対し、ポッゲの
途 上 国 で 政 府 の 失 策 に よ る 飢 饉 が 生 じ て も 、 よ り 深 刻 で は な い 国 内 の 貧 困 者 を 救 済 し て も よい 。
7
0
正義原理が、積極的義務として無償の奉仕を要求することもあろう。筆者も含めた多くのリベラルナショナリス
8
7
Ë
½
説》
《論
トが描く国民共同体における正義原理は、国民間に何らかの平等主義を実現するための積極的義務を要求するこ
とがあるが、そのことは、より小さな共同体では、それよりも大きな積極的義務が要求されることを排除するも
のではない。
逆に、平等より弱い積極的義務が、国民共同体よりも大きな枠組みで主張されることも考えられる。たとえば、
グローバルな格差原理である。しかし、グローバルな格差原理の是非が問われるのは、ロールズ主義者が、国内
社会ではそれを適用するのに、国際社会では適用しないのはおかしいという問題意識に由来する。ここでの核心
的な問題は、国内外で別様の扱いをするということの是非である。そこで、ここでは、平等主義を採用するリベ
ラルナショナリストを前提にして、そのような論者は、国内では平等主義を採るのだから、なぜそれを国際的に
も採らないのかという批判に答えることを試みたい。
前述のように、平等原理は、道徳的に恣意な要素が持つ効果を中和するという論拠から導出される。もし、ナ
ショナルな所属を道徳的に恣意的と考え、その効果を中和することを要求するなら、国民国家においてすべての
個人は等しく善の構想を実現する機会 ︵選択の文脈︶にアクセスできるべきであるという筆者のリベラルナショ
ナリズムの立場からすれば、そのような国内での正義原理と同じものを、国際的にも適用すべきことになる。そ
の原理は、
︵原理3︶世界の全ての者が、等しい選択の文脈にアクセスできるよう保障すべき
ということになるだろう。
では、この原理の是非を検討するために、ミラーの平等原理批判を参考にしよう。ミラーは、人々が、生まれ
た社会にかかわらず、等しい成功 ︵福利の達成︶の見込みへのアクセス ︵機会︶を持つという意味で の グ ロ ー バ
8
8
国際的な分配的正義に関する一試論
ルな平等主義を取り上げている。ここで彼が問題にしているのは、機会の平等が要求するものとしての、﹁同一
の ︵ identical
﹂機会と﹁同等の ︵ equivalent
﹂機会 と の 区 別 で あ る。モ ザ ン ビ ー ク の 貧 し い 農 村 に 生 ま れ た 子 供
︶
︶
と、スイス銀行の重役の子供が、共に銀行の頭取になるという等しい野心と努力を有しているとしよう。同一の
機会を保障するとは、両者共に、スイス銀行の頭取になる機会を提供することである。モザンビークの子供にも
スイスの銀行頭取になる機会を実質的に保障するためには、多額の教育費その他の支出が必要になるだろう。ミ
ラーによれば、そこまでしてモザンビークの子供にスイスの銀行頭取になる実質的な機会を保障しなくても、決
して不正義ではない。むしろ、より重要な問題は、同等な機会を保障することの是非である。モザンビークの銀
行頭取が、モザンビークにおいて、その社会的・経済的地位からして、スイス銀行のそれと類似したレベルのも
のであれば、モザンビークの子供がモザンビークで銀行頭取になる機会と、スイスの子供がスイス銀行頭取にな
る機会に、大きな相違がない限り、両者の同等な機会の平等は保障されている。それが保障されていれば、両者
の人生の成功の見込みやチャンスは、同等なものであり、モザンビークの子供がスイス銀行頭取になる機会を提
供する必要はない。したがって、平等の同等性の適切な抽象レベルというものが存在する。﹁スイス銀行頭取﹂
︵ ︶
というのは、具体的すぎるのであり、ここでは﹁銀行頭取﹂が適切な基準ということになる。同じような機会を
提 供 し て い る 文 化 が 並 列 し て い る 場 合 、 そ の 文 化 的 境 界 線 を 越 え る 機 会 ま で 保 障 す る 必 要 は な い と い う の で ある 。
このような発想は、人生の成功の見込みを意味づけるものが、ナショナルな文化であることを前提にしている。
もちろん、ナショナルな文化﹁のみ﹂が、その役割を担っているわけではないことに注意する必要がある。人生
の野心は、時に国際的な文脈で形成されることもある。しかし、リベラルナショナリストは、依然として多くの
人々の野心や人生の目的を形成する文脈として、ナショナルな文化が果たす役割は、最も重要なものであると考
8
9
7
1
ここでいう害とは何を意味しているのか。害悪や危害は、いくつかのレベルに区分して考えることができる。た
9
0
えている。
ただし、ミラーが主張するのは、このような同等な機会としての平等さえ、不可能であるということである。
その論拠は、平等の同等性の基準が、文化の所産であるということである。たとえば、わが国にある村Aはサッ
カー場を持っており、村Bはテニスコートを持っている。両者はスポーツ施設を建設するための平等な予算を享
受したからである。他方で、村Cには小中学校が完備されているのに、村Dにはそれが存在しない。そのかわり
に、村Dには、多様な宗派の教会が立ち並んでいる。しかし、村CとDの住人が、平等な生活を享受していると
は 考 え に く い 。 で は 、 と あ る 外 国 の 類 似 し た ケ ー ス は ど う か 。 村´
Aは サ ッ カ ー 場 を 持 ち 、 村 ´
Bはテニスコートを
有 し て い る 。 し か し 、 そ の 国 の 国 民 は 、 サ ッ カ ー は 、 テ ニ ス に は 還 元 で き な い 価 値 が あ る と 考 え て お り 、 村´
Bの
住民は村´
A と 比 べ 不 満 を 漏 ら す だ ろ う 。 他 方 で 、 こ の 国 の 村´
Cに は 学 校 が あ る の に 対 し 、 村´
Dには教会があるが、
︵ ︶
こ の 国 民 は 、 教 会 が 学 校 の 同 等 な 代 替 物 で あ る と 考 え て い る 。 村´
Cと ´
Dは、啓蒙への機会の平等を享受している
危害原理の検討
も同定できないのである。
はないとミラーは主張するのである。グローバルな機会の平等を要求するとしても、そのようなものは、そもそ
る。したがって、生活に意味を与える文化を共有していない人々の間には、機会の平等の意味も共有されること
機会の同等性の基準は、抽象的すぎても具体的すぎても良くないが、その適切なレベルは、文化によって異な
のである。
7
2
次に、消極的義務の内容について考えたい。消極的義務とは、他者を害さないことを要求するものであるが、
Ì
½
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
と え ば、
あらゆるダメージ ︵嵐によって家 の 窓 が 割 れ た な ど︶を 包 含 す る も の、
故意による利益享受の妨害
不正な権利の侵害、と い う 区 分 が あ り
*
の権利侵害であり、特にミラーが言うような生存の必須条件であ
、
︵ただし、妨害者には妨害するだけの正当な理由が存在するかもしれない︶
︵ ︶
+
界では、世界経済の潮流をいち早く察知し、対処した者が富を手にする。ここでは、自然的要素は全く重要では
栄は、その人々が世界経済にどれだけ深く統合されているかに依存する。通信・交通・輸送コストが低下した世
に恣意的であるという論拠の重大性が増してくる。第二は、統合テーゼであり、これによれば、人々の経済的繁
る天然資源の分布や、海峡など交通の要所の占有が、最も重要であり、このような要素の不均等な分布が道徳的
む地域の、気候・資源・風土病・交通コストなどの自然的要因に由来する。このテーゼによれば、地球上におけ
テーゼによって分類している。第一は、地理テーゼであり、これによれば、人々の経済的繁栄は、その人々が住
経済的な繁栄の原因は何なのかについては、様々な説明が可能であるが、マシアス・リッセは、それを三つの
ている。これに対して、ミラーは懐疑的であった。この点をもう一度考えたい。
説明的ナショナリズムを批判しながら、彼らの貧困の原因は、全ての先進国の政府と企業と市民にあると主張し
に、現今の我々の国際経済体制は、世界の貧困者の人権を侵害していると言えるのか。ポッゲは、前述のように、
ここで生じる問題は、どのような場合に、基本的ニーズへの人権の侵害が生じているといえるのかである。特
︵原理4︶世界中のあらゆる者の基本的ニーズへの権利を侵害してはならない
原理と言えるものが導かれる。
る基本的ニーズへの権利としての基本的人権 ︵社会権や生存権︶が問題とされる。ここから、グローバルな危害
うる。国際正義において問題とされるのは、
+
)
ない。社会的協力に基づく契約論的な論拠が、ここでは重要である。第三は、制度テーゼであり、これは、経済
9
1
7
3
︵ ︶
豊かな者が貧しい者に制度的秩序を押しつけている ︵豊かな者が制度を構築し、貧しい者はそれから離脱あるいは
現 実 的 な よ り 良 い 代 替 案 が 存 在 す る、
7
7
既 存 の 制 度 は 極 度 の 不 平等を
+
9
2
的繁栄が、財産権のルール・法の支配の定着・官僚の能力・裁判所の独立・人々の社会的な信頼の程度などに由
来すると考える。﹁社会の幅広い支持と実践によって生まれ・維持される相互作用のルールとその結果﹂として
︵ ︶
︵ ︶
の制度の性質が、その制度に服する人々の経済的繁栄を決定するという発想であり、リッセはこれが三つのうち
で最も重大な要因であると考えている。
︵ ︶
・ウッズ体制の五〇年間でも、一九五〇年に一日一ドル以下で暮らしていた者は四二%であったから、状況は改
ル以下で暮らしていたのに対し、現在ではそれは二〇%まで減少している。現在の国際秩序を形作ったブレトン
済んでいると考えることもできる。歴史を通じて人類は皆貧しかった。一八二〇年には人類の七五%が一日一ド
な国際秩序のせいであるとポッゲは言うが、逆に、そのようなグローバルな秩序のおかげで、その程度の被害で
リッセは、ポッゲとは異なる解釈を展開している。毎日三万人を越える子供が飢餓で死亡しているのは、不正
者を害しているのか。
、ど ち ら に よ り 重 点 を 置 く か に よ っ て 両 者 の 立 場 は 異 な る の で あ る。結 局、現 在 の 国 際 制 度 は、貧 困
て消極的︶
うし、ミラー・ポッゲの両人ともそれは認めるだろうが ︵ただしポッゲは、ナショナルな要因については言及に極め
か、グローバルな制度に見るかである。もちろん、現実の貧困の要因としては両方の制度が関与しているであろ
ポッゲもミラーも制度テーゼを認めているが、両者の対立は、その制度をローカルでナショナルな制度に見る
7
5
7
4
ポッゲは、グローバルな制度が貧困者を不正に害しているという状況を、四つの要素に分析しており、それは、
善されている。
7
6
、
それを再交渉する取引能力を持たない︶
*
)
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
含意している、
その原因が当該制度以外に遡れない、というものである。このうち、リッセが問題にしている
の現実的な代替案の存在であり、彼は、ブレトン・ウッズ体制に替わる制度によって、危害の総量を減
︵ ︶
体制が、基本的ニーズを満たされていない者の人数を果たしてどれくらい増やして・あるいは減らしているのか
存の高まる世界で、﹁何もしなかった場合﹂を考えるのは難しく、様々な架空の国際制度秩序と比べて、現今の
がなかった場合という基準をどこに設けるかが、制度による危害を考える場合、非常に難しい。国際的な相互依
することの意味を考える場合、何もしなかった場合の状態からの悪化ということになるが、このような危害行為
し、どのような代替案が現実的で、最善であるかを同定することは困難である。消極的義務の観点から他者を害
ずか一%を供出するだけで、全員が一日二ドル以上の所得を得ることができるようになると主張している。しか
らすことの可能性をかなり厳しく見ている。これに対して、ポッゲは、かなり楽天的であり、全人類の所得のわ
のは、
,
は難しい。他方で、たとえ現今の体制が、どれほど貧困者の人数の減少に貢献してきたといえど、現実に基本的
べてきたように、我々の国際経済体制が世界の貧困者を果たしてそしてどの程度害しているのかを同定すること
にとって最も適合的であろう。そうすると、上記の ︵原理4︶が最もそれに近いことになる。しかし、以上で述
基本的には、ミラーが言う基本的人権の保護を国際正義の根本に据えることが、リベラルナショナリズムの思想
国際正義の原理に関する以上の議論を前提に、リベラルナショナリズムは、どのような原理を採用すべきか。
4 小括︱リベラルナショナリズムの立場︱
は、明らかではないからである。
7
8
ニーズを満たされていないものは多く存在する。それを看過すべきではない。したがって、我々は消極的義務で
9
3
*
積極的に行動せよ
国家・国際制度と ︵派生的には︶市民は、世界のあらゆる人々が基本的ニーズを満たされるように
︵原理5︶保護される人々の集団的な自己決定を侵害しない限りにおいて、世界のすべての ︵一次的には︶
︶
︶
‘
’
︶
︵
︶
︱
Mack, op. cit.
supra
n.
42
,
pp.
57
61.
︵ ed
︶ , Theories of Secession , Routledge, 1998, pp. 66︱ 69.
Hillel Steiner, Territorial Justice in Percy B. Kehning
︵
︶
︱
邦訳三九︱四二頁
Miller, op. cit.
supra
n.
2
,
pp.
31
34.
︵ supra n. 32
︶ , pp. 240
︱
Pogge, op. cit.
259.
9
4
はなく、我々が実際に貧困者を害しているかどうかに関係なく、彼らに対する積極的義務として、彼らの社会権
・生存権という基本的人権を保護するべき、と考えたい。社会権は、そもそも﹁からの自由﹂という消極的義務
に対応するものというより、﹁による自由﹂という積極的義務に対応するものとして考える方が素直である。上
で検討した平等主義としての積極的義務は、不可能であるし、過度の要求であるが、貧困者の状況を一定の閾値
で述べたように、そのような積極的義務を果たすことが、貧困者の﹁への自由﹂を侵
以上にする﹁十分主義 ︵ sufficientism
﹂としての積極的義務であれば、リベラルナショナリズムの理想とも合致
︶
する。
他方で、第一節の3
するものであってはならない。そこで、本稿が提起したい、リベラルナショナリズムの国際的な分配的正義の原
害するものであってはならない。つまり、彼らが自らの国民国家の行く末を決定する過程に参加する権利を侵害
¹
`
理は、次のようなものである。
︵
︵
︵ ︶
︵
51 50 49 48
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︶
︵ supra n.︶
︱
邦訳二〇〇︱二二一頁
Miller, op. cit.
2 , pp. 163
185.
︵
︶
︱
Miller, op. cit.
supra
n.
11
,
pp.
206
213.
︵ supra n.︶
︱
邦訳二二一︱二三一頁
Miller, op. cit.
2 , pp. 185
194.
︱
邦訳二三一︱二三八頁
Ibid, pp.194
200.
︵
︶
︱
O neil, op. cit.
supra
n.
2
,
pp.
284
290.
︵ supra n.︶
︱
O Neil, op. cit.
8 , pp. 77
78.
︵
︶
︱
Singer, op. cit.
supra
n.
1 , pp. 232
233.
︵ supra n. 34
︶ , p. 38.
Beitz, op. cit.
︱
Ibid, pp. 31
34.
︵
︶
︱
Risse, op. cit.
supra
n.
1
,
pp.
359
363.
︵ supra n. 42
︶ , pp. 55
︱
Mack, op. cit.
57.
︵ supra n.︶
他方で、極度の貧困は、かえって限界効用を低くするという指摘もある。絶望し
Singer, op. cit.
1 , pp. 231︱ 235.
て人生を諦めてしまった者の 限 界 効 用 が 、 先 進 国 の 市 民 の 限 界 効 用 と 同 レ ベ ル に な れ ば 、 必 ず し も こ の 原 理 は 平 等 主 義 的 な
’
‘
’
’
Robert Goodin, What Is So Special about Our Fellow Countrymen? , Ethics , 98, 1988, pp. 667︱ 671.
‘
’
︱
Ibid, pp. 675
686. David Miller, The Ethical Significance of Nationality Ethics , 98, 1988, pp. 651︱ 653.
’
︵
︶
︱
Pogge, op. cit.
supra
n.
1
,
pp.
129
139.
︵ supra n.︶
︱
邦訳五一︱五九頁
Miller, op. cit.
2 , pp. 43
50.
︱
邦訳七八︱八〇頁
Ibid, pp. 62
64.
Andrew Mason, Special Obligations to Compatriots , Ethics , 107, 1997. pp. 439︱ 446.
‘
︶
︶
︶
︶
︶
含意を持たないことになる。 O Neil, op. cit.
︵ supra n.︶
2 , p. 284.
︶
︵
︶
︱
Singer,
op.
cit.
supra
n.
1
,
pp.
231,
240
243.
︵ supra n.︶
︱
O Neil, op. cit.
2 , pp. 282
284.
︶
︶
’ ’
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵ ︶
9
5
55
35
65
6
36
26
16
05
95
85
75
45
2
71 70 69 68 67 6
66
56
4
な制度の三つの相互作用と考えている。 Miller, op. cit.
︵ supra n.︶
邦訳二九二頁
2 , p. 242.
むすびにかえて︱残された課題
︵ supra n.︶
︱
︵ supra n.︶
︱
Pogge, op. cit.
1 , pp. 199
201. Risse, op. cit.
1 , pp. 366
368.
︵ supra n.︶
︱
Risse, op. cit.
1 , pp. 368
371.
︶ ポッゲは、︵相対的な︶不平等と言っているが、ここでは絶対的貧困と言うほうが適切だろう。
︶
︶
第四節
のは、特別な義務と一般的な義務のくだりで生じた、なぜ正義の多層性を認めることによって、同胞国民を特別
視するのかという問題である。なぜ特別視する単位が国民国家であるのかは、リベラルナショナリズムが国民国
家の重要性を盛んに主張しているが、そもそもなぜ特殊主義が許されるのかが、国際正義において問題になるの
である。
︵ ︶
ティモシー・キングは、決定的に重要な問題は、リベラリズムなのか、功利主義なのか、リバタリアンなのか、
共 同 体 主 義 な の か と い う よ り も 、 そ れ を ロ ー カ ル に 適 用 す る の か 、 グ ロ ー バ ル に 適 用 す る の か で あ る と 言う 。 リ
7
9
9
6
︶
︱
邦訳八〇︱八四頁
Ibid, pp. 64
68.
︵ supra n.︶
︱
Risse, op. cit.
1 , pp. 352
354.
︶ Ibid, pp. 355
︱
359.
︶ ミ ラ ー は、経 済 的 繁 栄 の 要 因 を、 天 然 資 源・気 候・地 政 学 的 位 置 の よ う な 物 理 的 要 素、 国 内 の 文 化・制 度、 国 際 的
+
︵
︵
︵
︵
*
これが、リベラルナショナリストが考える国際正義のあり方の一例であるが、依然として明瞭になっていない
︵
)
︵
︵ ︶
37
7
57
47
2
6
7
87
77
説》
《論
国際的な分配的正義に関する一試論
ベラルナショナリストは、なぜ正義が特殊主義的でもありうるのかを説明しなくてはならない。
︵ ︶
フィリップ・コールは、国内外の一貫性を明確に諦めている。彼は、国内ではリベラリズム、国際的にはホッ
︵ ︶
は死者を出さないが、アフガニスタンでは多数の死者を出す。天災がどれほどの被害をもたらすかは、社会経済
や構造の改革にある。貧困の原因に関する制度テーゼが指摘するのはまさにこの点で、多少の寒波はミネソタで
の対症療法に過ぎない。今日パンを提供しても、明日にはまた空腹になるのである。むしろ、根本問題は、制度
にとの正義原理が要求するニーズの充足は、そのつど貧困者のニーズを満たすかもしれないが、それはそのつど
さらに、もうひとつ、言及しなくてはならない未解決の問題がある。生存権としての基本的人権を満たすよう
社会にも正と不正を問うことが可能であり、完全にホッブズ的な自然状態になっているわけではないのである。
おいても国内社会には遠く及ばないにしても、わずかな正義の環境が存在しているのであり、その意味で、国際
が違うから、正義の内容も多層的でよいというのが、リベラルナショナリストの立場である。また、国際社会に
国内外で異なる程度の配慮を示すのであれば、それに劣らぬ偽善かもしれない。しかし、国内外では正義の環境
己利益とは異なる規範的な姿勢を装うのは偽善と見えるかもしれない。また、仮に国際正義を主張するとしても、
である。このような立場からすれば、リベラルナショナリズムの国際﹁正義﹂として、あくまで、国際的にも自
同胞国民を厚く遇するのは、ひとえに国益のためであり、国際社会はホッブズ的な利己主義の世界だというもの
ブ ズ 主 義 を 擁 護 し 、 特 殊 主 義 を 正 当 化 す る に は ホ ッ ブ ズ 主 義 し か な い と 主 張 する 。 そ の 議 論 は 簡 潔 明 瞭 で あ り 、
8
0
制度の脆弱さに依存している。世界の貧困者の基本的ニーズを満たすことを積極的に推し進めるのなら、問題は
食料・インフラなどの物質的な援助だけではなく、その運用面にまで及ぶ、制度改革の支援が必要になる。しか
し、国際制度の改革ならさておき、国内制度の改革まで踏み込むのは、ナショナルな自決の侵害に当たる可能性
9
7
8
1
‘
’
Timothy King, Immigration from Developing Countries: Some Philosophical Isues , Ethics , 1983, p. 532.
Phillip Cole, Philosophies of Exclusion: Liberal Political Theory and Immigration , Edinburgh University Press, 2000, pp.
11︱ 15.
︵ supra n.︶
︱
︵ supra n.︶
Risse, op. cit.
1 , pp. 371
373. O Neil, op. cit.
8 , p. 68.
9
8
がある。
リベラルナショナリズムは、これらの問題に答えられなければ、説得力ある国際的な分配的正義論を展開する
︶
︶
︶
ことはできないだろう。
︵
︵
︵
8
07
9
8
1
説》
《論
’
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