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平安時代国際交流の 一 軸
平安時代国際交流の一前 田 、ー 青 1菅原道真・島田忠臣と潮海使裴顯との贈答詩を読む 弁 肋海は八世紀から十世札にかけて、もとの高句腿の領地を含み、 現在の中凶東北部、沿海州にまたがる地城を支配した国である。こ の劼海とU本との開には翻糸な使鄭の往来かあったが、"に勃海か 一、初めに 小ノなくとも近代以前においては、東アジアの諸倒、すなわち中 リーダー格には、詩文の才の豊かな人物の当てられることが多く、 らΠ本への使節来訪は五十二回に及んでいる。潮河からの使節の 援待に当たった日本側の文人との開でしぱしば詩歌の応酬が行われ 同・日本・朝鮮の人々は公式の応対においては、他の凶の人々に対 ついては舌うまでもないが、日木や物鮮においても、中国に対する 曙)を大使とする劼海使節は、■年に入京した。初廷の計議にょ た。一迷六(ハハニ)年にWに来着した益(木国では文籍院少 して、いすれも中華思杣心をもつて接した。中国の人々の中華思想に 国であるとし、相手を蒋国として一等下に見る冉罷がかなり古くか 、、 が゛、 その接待をすることになったのだが、その際、次のようなこと り肌佑の礼訊侍則に仔命された轡<と、王客U中に壬命された忠臣 場合はともかく、小国以^の国に対しては、^こそは世界に冠たる それは他風に対する,国国の文化的侵越という一点にあった。した ら発生していたのである。中・紙纖の基準は何であるかと胃えぱ、 かい合っているとき以外は詩を泳まないことにしよう﹂。この肌契 て枇想していたものと疑われる恐れがある。そこで宴席で相手と向 通り、彼らは難敞など加えず、すべて即興で詩を詠みあげた。唱酬 三契した。すなわち、え篇以外の場で詩倫符をすると、前もつ 井迦り合いとなるのが兇であった。近年盛んに研究されるように がって、外囚使節が来訪して催される鼓晏は単なるお遊びではな なった江戸片代の朝僻通作使とΠ木の文人との開四論にも、その は四乃二十九Πの﹁行﹂,輸の詩から始まって牙十一日まで続き、 く、表面上は優雅に振る獅いつつも、内鞭πいのメンツをかけた ような一而か見られるが、より古いものとして、私が今回取り上げ わせて五十八首に上り、これに江郎中なる人物の〒目を加えて、﹃鴻 道真・忠臣のほか、坂上茂樹・紀長谷雄の二典客と劭海側の作を合 嘘野介亘と題する一Ⅷに綿んだという。 る劼海仙裴卿と日本四胤道真・島田忠臣との詩の応酬も、小ノなく まったものであった。 ともΠ本側の二人に関する限りは、そのような対抗・愆識の下で始 -23- 継 と﹃田氏家集一巻中に灰録されている逝真と忠臣のd十六負に過き このうち今Π読むことのできるのは、それぞれ吾家,釜﹄竺 うに、裴卿の詩を称賛し且?Hらを謙遜する二畢にあふれている。 であるが、内容について一吾えぱ、彼らのΠ取初の作はいずれも次のよ ^^^H^と小^^^^^^村^^日^斜^^・"^^^と^敲^^も^ 、 U印^^^^、^^^^^。 ル衞^^^嚇^^。^中^^恨^^々^四^引"^^^遇^雋 また、舌を刺す翁のように鋭い。(その作品にょって、大使の 詩句の訊(人使の詩は)掌に叔せた明珠のように美しく、 ,'^L^〒。川^W^一"^^^^^e 下篇 客囲子紀十二丞見寄之長句感而玩之川依本診﹂堂上明珠舌 ^^^J^^^^一^り寸^^^^ナ巾^十^.凶^Π^^^4^"、^^^^^^、^^^リ^"^ ないが、二百年鯰にわたるΠ劭文化甕乢の雁史の中で、この迷七 年夏の詩作にょる交歓は、,災はΠ.取も資判の業品な雁史の一剤なので ある。 (庄1) 私はかつてこれらの詩の鯏釈上の開誓一について詳細な検討を 行った。本稿ではその成果に基づいして、名計全係の解釈を示しつつ 0 昭酬のプロセスを氾い、そこに見られる道十Π.<と忠険の思怨・感mの 推移を迫跡し氾捉してみたい ないので)威儀を正して公式に相まみぇて案内撚何の亊に気を (')(私は仮にネ穫として冶剖人州の亊§たらねぱなら 人柄は)瓜情を加え文采を増して、使名の役以を輝かせます。 使わねばならないのが恨めしい。(そのように詩作に集小する ニ、第一回の唱酬 それぞれiか残っている。先に詠まれたと兌られゑ北の作 叫酬の初H、四打二十九Πの﹁行﹂マ附の竹としては、-Nと忠 <小裕のない私と述い)あなたかその場その場に心じ工夫しい言 .ー.、 蓼τたくさん繰り出されることを大したものだと忠います。も " 一丞見術之長句感而玩之娜依本誠﹂という長い恕のものであるが、 は﹁去詳誘溺河火史与川只"円司暢増谷之数林厶励重咋痢1客作子勺し ためにも、非公式に)数行の梦τ作るのを惜しみたまうなかれ。 し小ノしでも笵のお膿なHがあれば、ゆったりした契刀で(私の UP﹂U.ー、、示Ⅱノ,ニニJ,了^小^Ⅱ^ この廻はこのままでは意眛か取れない。私は﹁*界詠﹂と﹁勤海大 ^W﹂ー^^^冷ーイ^^Tートノ 使﹂が誤って転倒しているものと見て、次のように州釈する。﹁劼 ^^^^^^ソ^^^、Ⅲ^^^上^タ爪と^一'^^^^゛^U^さり^ブ、g はまたⅢ<客岡子の紀十二丞、すなわち紀長谷節ガ窃せた七ご.が詩に 1ⅡU写一.確滂成古十文﹁グ樹f勺一N珍貨明H之吏 1 刀刃以呆宅揣征悔及余光多才丈口^^・レ使少^^為由佃則 けではありません。あなたの一発は敵を突き刺し、詩の応酬は 詩句の^^^の詩はただその鋭利な刃か衡に似て鋭いだ 耿雁一汀。 曲随、爪"一小1 もちょつとそれらの詩の設を用い、詩を作ってみょう﹂。加賀の国 和された。私はそれらの詩の昭酬に感心し、面皮く忠ったので私 は、この時の潮海使か獄和し、入京するまで一靴していたところで こ﹁行﹂窯岐の詩を作り、裴卿がこれに和していたことが分かる。 ある。さて、題をこのように解釈すれぱ、このHの朝、長谷雄か既 -24- い使節でいらっしやいますか、若く畷んなお年頃で、まだ白而 手に詩の唱酬をしたいとい、つ意味に読み取ることができる。また、 詩才の優れた人たちを呼び笥せたい﹂、すなわち優秀な人たちを相 忠臣の第五句の内容とぢぇ合わせれば、これまでの日本側の文人に タ界れ時にまで及びました。才釘溢れる大使は本当に真心の早 の"父厶子でいらつしやいます。あなたの評判は風と共に吹い は大した人物かいなかったという意味も込められていたかもしれな 0 て、俗なものJ扇ぎ去り、あなたの詩のインスピレーシヨンは で、どのような珍しく貴玉な品物を兇つけられましたか(あな 稲光のように激して、彩となります。文人の架まったこの場所 たのような優れたオ能を判った力力ら珂ルれば、我か日木の文塀 には大した詩人や作品は見つからないでしょ、つね)。明打のよ ナメき大し うなすぱらしいあなたの詩作に我々Π本の文人をりードしてい このような最大級の贅辞を贈ったのは、裴緻が加鴛姉在中にもH いて、裴卿の力吊を知っていたからではあろうが、それと同時に、 本の文人たちと唱酬したであろう詩を、導一<と忠臣が亊前に読んで 初対而の挑敵をΠの前にして千加減を小し入れる<永裕を示しつつ も、ひどく収泰した気分であったことも窺われる。 ﹂:寸 この二首の後、裴轍も鴛腺の詩を恕したことが、恕臣の﹁敬利裴 という詩題にょって知られる。裴卿の作の全体は残っていないが、 大使重題行韻詩︹敬んで裴火使の重ね恵す互1の詩に和す︺﹂ 一句のみは忠臣のこの詩の第五句 7見恬当時希駛釆︹党恬す当 Q剛略)覚恬当片示驥乗、 挑戦状とも言えるこの裴纐の1木に対して、忠臣は次のように、泳 んで、返している。 忠師﹁敬和裴人使重題行剖晶﹂ ^U^^日^^、^,^H汗。川^'心^^^^^^^^、^^^.^六^。 引^^^^^々Π^^,^^^、^一^^^剖^^^^^凧^^^ の応酬の扣手として優れた人材を望まれた(あるいは我が力に 優れた人材が少なかった)ことを強く"戴してきましたので、 後日^△7回^は何とかあなたの非凡な文才に釣り合うことので の聆く賢い人柄を釧下問になりましたら、かの応奉先生も本を きるようにと覗献してきたのです。明王(天邑がもしあなた ましょ、つ0 (●3 五行しか啼記できないことを恥じるくらいだとお答え小し上げ これま罪六顯に対する称賛と謙遜の部であるが、,災はこのとき逝 取れるのである。 牙益に和した作からは、これまでとはやや券二た感恬が読み W希様鞭畷﹂を手がか 駛乎希なりしを︺﹂に刈する自注﹁来亦有一 ﹂^H^^^はヒ一.喬の詩句としては一字口とりないし、また、誤・.^^^酷ま ﹁重依行字和裴大使被酬之什﹂一松不変貿款碕而 礼何須仮粉光。漣淵梁剛釜谷婆裟孔卯N琴郎。千年山牙孤 -N りとして、そのもとの形を想像することができる。ただ、﹁一聰希 一応まともな中ル語になり、﹁自分はいったん詩の唱酬を始めたら、 れている可能性もある。私見では、﹁麻﹂を﹁雁﹂器亦りと見れぱ、 -25- し、 、^^^^^^ヨ炉^^^,^、白^。^^^^^^、^^^、^^^^^.^^仏^打。 詩句の訊松は寒い冬にもいつもと喪わらすしげく降る 霜をもしのぎます。操をしつかり執り守っている人は、常に変 わらぬ姿を人の前に見せるものです。ですから、ーしてこの ような公的な交流を行う場合も、外而を粉飾する必要はありま せん。あなたも私も文人批客の流れをくんで、文学の勉強をし する親愛倫を募らせているのである。 以上が今Π窺い知ることのできる四月二十九日の唱酬のあらまし である。 三、第二回の唱酬 ても、あなたの松のように気高い心が亦磊即することがありま み宵に入ってからの作と見られる。そのうちの〒W、-Nの竹に" 武徳殿で批"上篤の儀が執り行われたのであるが、二首は雨がや う。﹃.二代絵﹄詣十三の器に拠れば、このΠは大、男降る中 ^^^、泊打.^日^一、^ま^^とΠ^ら^る一^ギ伺^^討を・^リ^^^^よ しょうか。あなたは一堂どこへいらっしゃつても、御千で作る 徴的なのは次の部分である。 ており、鰯十の勉強をして百吏の近をΠ指しました。千年たっ しゃつても、その文才にょって名声を博することができるで -N<﹁過大使房娘雨後熱﹂(前略)抑汗界官応問我、飲氷 詩や文を拠り所となさるに述いありません(どこへいらつ ますが、(私はほかの人たちとは述い)あなたを恭って、 別れ しょう)。傍らの人たちがW合い笑い合っているの附こえ 村句の謬(前略)利か治割の俳でひどく汗を力いた(熱 海路池愁汎。(小略)言笑不知移夜淋、将妨梦到故山雲。 う)と珀し上げたので、あなたがご、心配になって、私にお尋ね 時の治部火帖を仰せつかって奮削していることの比喩であろ 綴がきっとあなたの婦途についていこうとするでしょう。 需 方 ﹁萬里轟竺再十冨坐当に恕るべし一千邑というのは 裴卿の詩才に対する寳蔀で、これまでと変わらないか、 る必要はないでしょう。(中略)私たちの鷲夫はあまり遅くま しょうから、ひどく熱いからといって、あなたのことを、心配す 小 で氷を飲まれたはすですので、それが今でも効いているで に対する親近感を表明している。笑は二人ともこのとき四十歳で、 になるのは尤もですけれども、あなたは日木に波ってくる^の 同年だったのであるが、そのことがこのとき判明したか、あるいは で続けない力かいいでしょう。遅くま一瓢笑していると、睡眠 池梁係冷{L客、婆姿孔1告則︹泌南に淵親してず6と為り、孔男 裴緻からも詩において親器お表明があったのではないかと想像さ でしょうから0 時問が短くなって、古県の山の吸拳医見ることができなくなる に^饗たり足れオ^郎^とあるように、逝肖^<はここに至って"^に"^^ れる。ともあれ、﹁削衡仞人相語笑幽誤別一咲喪仏羽︹倒き得たり うに、楽しく談笑する人々に混じつて、進卜呉だけは一気に裴卿に対 傍人俳川笑するを、君に囚りて別返疋めし行に添わん︺﹂とあるよ -26- ﹁判汗赤,リ心川我、剣氷河路1慰岩︹汗を春官に沖いたれま応に Π劼双力の文人の.'、回Πの対面は五河七日か、八日か、九日のい 四、第三回の唱酬 モラスな表現であり、二度Πの対而に至って"お気持ちに余象 ずれかであったと見られるか、この時はまず梁の沈約の﹁詠打﹂詩 我に問うべきも、氷を海路に飲みたれば,少ぐ沿を愁えん︺﹂はユー 出てきたことをう力力わせる。マ旦不牙移夜滞、将妨夢到故ル生 の一句^打華肌赤夜^打華岐^に臨む^から靜を^り、 1字 冒笑須く夜淋を移すべからず、将にψの故山の生に到るを妨げん とす︺﹂ の 句 も 余 裕 の 表 れ で あ ろ う 。 一 力 、 山 雀 の 詩 に は 、 ^9^ム^^^一^薪f^一^^^劃^^^瓢四、^^^^さ^^。^^^^^^^ 初のものは迫真の﹁酔中脱衣邪六大使叙一絶寄以謝之︹酔中衣を これに引き紗き誹まれたと見られる詩が五首残っている。その最 にも、やはり劼油使に刈する道,央・恕戸の友陪の表明か見られる。 脱ぎて裴大使に贈り一絶を叙し寄せて以て之に謝す︺﹂で、酒 いで裴卿に則り、劃忠を表した作である。自分の衣を則るという行 の配いも程よく血り、詩貝も盛り上がって、凶分の新ていた衣を悦 ^^^"ト^,﹂^Z7,"^r、匠 詩句の訳(前略)いずれも非U捗剛なこととはいぇ、 真 のような気持ちを歌い上げ、同侍に技巧も凝らしている。 為そのものが既に朝当な親しみの表現と言えようが、詩の小でもそ 験なのです。私か(深夜まであなたと一績にいて)真、心を披歴 つまでも覚えていて下さるなら、お互いに打ち觧けた今夜の ゛、、 が、これより前には導お詩には技巧らしい技巧が見られなか0た 技巧と育ったのは、衣との関述で﹁領杣﹂の撃用いた点である ん。 ですから、一座の領袖に任じられるのは、あなたしかありませ 情を表すものです。一座の客はみなあなたより後進の者ぱかり やくできあがりました。衣を同じくするということは、深い友 詩句の訳彩りもあやに美しい往お模リ瓢って、よう ^部内住^山9^^。・^・^^H^^一^^^^^・利^出^^。 道女﹁酔井悦衣艸裴火使叙一絶給以訓之﹂呉花越鳥搬初 ることなのですが、もともとはるかに扣隔たって暮らしてきた 夜中に客の接待をすることは、その気になれぱ、いつでもでき ^^﹂、^、^^^切。^U^^^^^一一ト^^、^^^^^^^。也^^^、^ 巾^、^^^訓^^^^^^、^^^小^^一^^^,^^^・^^﹂、^^^^、 ノ、 者同士か心を迎わせるということは、今しかできない賢埀な経 しなかったわけではないのは、ひとえにあなたが立派な風采と い 物嫉を貝えた力でいら0しやるからです。故郷に邑てからも こと を ど う か 忘 れ な い で く だ さ い 。 とあるように、当"はめったに体験することのできなかった囲墜X することができる。これらもまた、忠臣のh尋ちに余裕が出てきた 流の夕我についての彼の感順が泳まれ、また、友情の芽生えも酒取 ことの表れであろう。 -27ー ー」 てきたことの表れであろう。これに﹁詞﹂した小伶の作は下記のと から、これも友mの深まりと同喝に、詩竹における料判的<ホ袷か川 ある。ここまで二首は談が同じである。裴卿の"壽ももちろん岡誠 忠臣の詩は、裴姻の祚詩繋早さと彼に対する友情を誠んだもので ︹裴大使の攸需に酬ゆ︺(木韻)﹂という詩題にょり知られる。この 之﹂と題するもので、韻を変えている。こ綴もやや難解であるが、 ^は^^^^一^誹^中^心^出^少^^^〒ソ^中^冶副一^司^^四一'劇^、^^ であっただろう。導一<も裴卿の"弁に対して誌を作って返すか、そ おりである。 ホ^^^^、目土寸町^ヰ^^^巾訓^^^^^"^^^街^^肉^ 北ビ統邪^^^増返^^^ロ^^県A^^^^アJ何川^心^ してくださった。その七絶の小に、どうやら私に対する感副のご'暴 ﹁私が酒に酔って衣を照ったのに対して、裴少幣は七絶を作って返 が述べられているように読み取れる。そこで私も今度はさらに四誠 詩句の訳淡い色や洪色や紅や翠で什立て上げた(この たい。これをあなたに差し上げるのは何のためかと言います 愆味と思われる。その誌は、 の詩<郁逃を諫んで、ことばの戯れをしてみょう﹂というような 衣を)、親しい友に別れるに際して、深い気持ちを託して勲り かわらず会えないため人知れ塗愛いが起きるようにしたのです。 一県Π一<﹁二十八字謝酔中賄衣裴小県酬答之小似冶聖目更述四謬 と、いつの日かあなたか首を仰ばして、私たちを思い、にもか この詩も前半でt深まった友怜を表咽するとともに、後半では技 ^^^ウ^^"叫^^^.^一^面和^^畔^^円^峻帯^^^ U^ 巧を誓している。忠臣の技巧は﹁領﹂豊昧を衣の襟と首とに掛 ^^^仁^ヅ^ヒ、,^^^。^・^一・凱^・^ー^^'^^^・^U^ するだけでももつたいない汎ですのに、今くださったお返しの 一吐羊人Ⅱ部・ー・、﹁仙 詩句の訳ひざを交えて、あなたの1硲わしいお二畢に接 寸旧口じ杠YⅡ1 けたもので、首の慈味にとると、後半は﹁これ(衣)をあなたに差 し上げるのは何のためかと言えぱ、それは、いしつのUかあなたが首 きるようにしたのです﹂という意眛になる。儀礼的な表現にとどま 、 を伸ぱして(私たち意い)、(会えないための)人知れぬ愁い廷 です。酒を一、三杯酌み﹂父わしているうちに、大帯(朝服耕川の は、ど、つい、つわけなのでしょ、つか。ますますもつたいないこと 際に用いる世を觧くほど打ち解けました。(私か衣を脱いで 角の中に私に対する副恵かこもっているように靜み取れるの 二句に﹁別﹂の字があるから、別れの日蛮り、忠臣の気持ち鳶 あなたに僻っ会持ちは)Πでしやべる代わりに、あの七絶の らず、一歩踏み込んで、扣乎の気拍ちを向八刀に引きつけようとする ぶっていたことも考えられる。なお、忠臣も技巧らしいものとして ねらいを込めたもので、さらに深まった友情の表明七盲えよう。第 は、﹁敬和裴大使憲行餓詩﹂の﹁応生謝五行︹応生も五行を謝ず︺﹂ 詩の小に詠み込んだつもりです。私はあなたと襖を分かった後 でも、知り合ったばかりのあなたのことを決して忘れはしない に続き、これが二つ冨である。 さて、ここ異卿が答詩を作ったことが、忠臣の﹁酬裴大使ル壽 -28- るなら、常にこの衣を着て、秋になって雁が南の空へ渡るのを を遂げられるでしょう。でも、もしあなたが私を思ってくださ でしょう。あなたは本国へ辯業さってから、より一層の栄述 展しつつぁったことを競い知ることができるのである。 と裴癒、両者四希がL条上の友、つまり詩友という境地にまで発 豆川観のみでなく、.筆観の断へと至ったのである。ここに道真 もとは﹁釜どの¥にちなんで詠んだのであったが、はしなくも彼の さて、Π劼双力の文人たちの対而の誤飛Hは、劼海使たちが尻途 五、第四回の唱酬 見ることに、その雁に暑さ突きの時候の挨拶の文を付けて送り 届けてほしいものです。 というもので、やはり親愛の惰の表明と谷ってょかろうが、 彼は再 に就く前Πの五月十一 Hだった。そのとミ従と忠臣はまずそれぞ するを棧す︺﹂と﹁七H旦夜於沈器修北待郷工凶﹂を詠んでい に酬ゆ︺﹂と題する詩も贈っている。 度同じ韻を用いて、﹁依言,釜酬裴火使︹言字に依り亟ねて裴大使 郡一<﹁依一一早重酬裴大使﹂多少交情見一言、何関節噂有 ライマックスに辻して、あなた力は宮中を出て行かれる)とあるの れ﹁聖孜戻浜城1北・卸捌(聖夜刈臘館に,上いて北客の帰郷 焦手労機杼泉師、心仔救縫委仙存。後略) 詩句の訳厚い友悩もほんのご1表れるものです。ささ は、単にもてなしのみではなく、日劼双力の文人の心四需の深ま 別の竹を照り、これに対して導一<之徐した﹁酬裴大使智別之什(次 りも{傑として含んでいるのではないだろうか。この後、裴祭詔 るが、忠臣の作の小に﹁扶=慧極出烹"﹂(日木でのもてなしもク やかな贈り物に込めたちょつとした友情など大したことはあり ません。しかし、小手先でやたらと新奇な希キ構成ばかりに Uの作井ハ制のこもった感動的な内容のものぱかりであ J^^^^^^^^、^^ 悲しみはまるで(南力の?)陸地鳶んでしまうかのように、 詩句の訳友情は北海の深さにも劣らぬほど深く、別れの ^ロ^^^^ル、羽^。^ノ^^^^^^、^^^^^^^^、^。 ^^^^^コ^^^^^^^^^自^^^^。L局^^^^一^.^ ^仙、^^^^^^^^山^・^^^^W^^ るか、吋に導お六醐火使留別之什(次竺は、 五打十一 竺までが、現漢乢むことのできる﹁鴻體祥砂のすべてである。 骨を折っていると、由分か本当に伝述しようと思っていること を伝述する道は却って遮断されてしまうものです。(小手先を "するのではなく)、心の小から内然と湧き起ってくる三梁の 数々か互いに即いたり部れたりして、きれいな綾模様を織り成 していくその営みに任せておけぱ、わが胸の奥底にある忠いは おのずから、そのできあがった乢穫様、すなわち詩の中にこ もつているはずなのです。介候略) ここで注目すべきは、彼が裴卿からの謝礼に謙遜しながら、一再わ ば己が文学観の表明とでも一1ることを行っている点である。もと -29- りを結んだのはわずか十数Πに過ぎませんか、その渕に断釡の れ落ちる玉のような涙をごまかすことができましょうか。交わ 極めて大きな衝撃です。真夜中一妄'とはいっても茂を瀞 のである。Π池H酬の詩は他にもいくつか残っているか、少なくと この剛の、心の軌跡は、以上のようにかなり明暸に知ることができる 荷小の四分の一強に過ぎないか、小ノなくとも日本側の道真と忠臣の り、劼一穫の望郷の念を思いやっ工詠んだりといった打並みな内容 もΠ本側の什品に関する隈りは、単に宮中での儀式の様を詞んだ のものがほとんどであった。その{訣で、一豊と忠臣のこの時の作 深い契りを交わしたのですから。鶴か新たな高みに飛び立つの して下さっているけれども、辯国後は木国の文人の方々と詩を だろ、つ 品は、 H本漢文学史k、特笵に価するものと亘ても轡口ではない を仰ぎ見るとともに、あなたは今は我々日木の文人と詩を応酬 のだと思いますと、あなたの素帖らしい竹品に援することので 応酬され、われわれU木人はそれに魚かることができなくなる きる賀逓の方々か川ましく思われてなりま^ん。あなた力妬犯 後、ありかたくも私を思い出してくださるときは、あなたにお 肺、りした弘の七律力私の竹、<心そのものでオカらどう力この十,か 刈削 ﹁鴻總,ー"についての私同凸﹃武小1女子太嘉 要人文・社A魯輪﹄第五支﹂、-00三年)。 末句は後漢の'秀故*(﹃後瑞訂﹄木伝)を踏まえる。 ] 2 をよすがに私のことを思い出してください。 というもので、この十Π飢りの川に台んできた友陌の深さ詩友と ^^^^ル、胴^^^^^^^^中^^、"^^^^を^まえる。 (しばた・きよつぐ木学教授) 3 、献み△んで、述,只・忠臣と裴矧との文芋交泌の染大成とも高える竹 してのむへのⅢ板の念、、心の論の千段としての詩という観念を 品となっている。 六、終わりに H本の文人のプライドをかけ、非補に気 元喫七年の淋海使との詩の唱酬は、一出と忠臣にとっては、朝廷 の任人叩ということもあり、 負いこんだ対^赤^の下で火ぶたか切られたのであるか、Π劼^方 がしだいに打ち解け、司横蝶爰としての心の窪肌J美現するに 至った。現在残っているのは当時詠まれた日劫双力合わせて五十九 -30- 注