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第3回 パソコンの登場とソフトウェア産業、マイクロソフト支配 1、マイクロ

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第3回 パソコンの登場とソフトウェア産業、マイクロソフト支配 1、マイクロ
情報産業論
情報技術の発達と情報産業の成立
第3回 パソコンの登場とソフトウェア産業、マイクロソフト支配
1、マイクロプロセッサの登場と半導体産業
(1)電卓とマイクロプロセッサの登場
日本の電卓メーカー、ビジコン社は機能の異なるモデルの電卓の開発を容易
にするために、1969 年にIntel社と「マイクロコンピュータ」(事実上は電卓)
の開発のため契約を結ぶ 1。日本からは嶋正利氏が参加し、1971 年に 3mm×
4mmの小片の上に 2,300 個のトランジスタを集積して実現したIntel 4004 が完
成・発表された。Intel 4004 は電卓のモデル変更をプログラムによって対応し
ようとしたものであるが、コンピュータの基本機能を小型のワンチップ上にす
べて集約させて実現したもので、ICからLSI(Large Scale Integration:大規模
集積回路) 2への転換であり、マイクロプロセッサの出発点であった。
その後Intelは 1974 年にIntel 8080 マイクロプロセッサ(右図)を発売、大型
コンピュータに必要な回路がほとんど組み込まれて
いた。このマイクロプロセッサ 3の登場によって大型
コンピュータの処理能力を小型のワンチップで、低
価格で手に入れることが可能になり、パーソナル・
コンピュータの実現が可能になったのである。また
マイクロプロセッサは電卓の他、炊飯器、テレビ、
自動車のエンジンなどの機器に組み込むことによっ
て、これらの機器の制御も可能になるのであり、後
のユビキタス技術にもつながるものでもあった。
当時いくつもの企業へ電卓の OEM(Original Equipment Manufacture)製造を行って
いたビジコン社は、OEM の相手先ごとに様々な電卓とそれに用いる IC チップを作り変え
る必要があった。しかしこれにはたいへんな人手と時間を要し、IC チップメーカーも製造
を引き受けたがらなかった。このためビジコン社は電卓の機能の変更について、IC チップ
の設計変更などハード面の対応ではなく、プログラムの変更というソフト面の変更で対応
する方式をとることを考え、この開発を Intel 社と共同で行うことになる。
2 IC のうちチップに収められた素子数が数千~数万程度のものを LSI、10 万を超えるもの
を VLSI(Very Large Scale Integration)、さらに 100 万を超えるものを ULSI(Ultra-Large
Scale Integration )と呼ぶ。
3 なお、コンピュータの心臓部分 CPU(Central Processing Unit、中央処理装置)は、様々
な数値計算や情報処理、機器制御などを行うコンピュータにおける中心的な回路で、プロ
グラムを読み込むことによってこれらの処理を行うのであるが、これが現在では 1 チップ
の LSI に集積されて実現されていることによって CPU=マイクロプロセッサとなり、また
MPU(Micro Processing Unit)と呼ぶ場合もある。
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情報産業論
情報技術の発達と情報産業の成立
(2)メモリとムーアの法則
コンピュータにマイクロプロセッサとともにプログラムやデータを保存する
メモリが必要である。この回路構造は単純なパターンを並べるだけあったので
日本の得意な量産技術、歩留まり、品質管理で勝負できる分野であった。1975
年には日本政府の主導で、各社共同の研究体制によって特にDRAM(Dynamic
Random Access Memory) 4の開発に力を入れる。その結果 1977 年には 64 キ
ロビットのDRAMの開発に成功、それ以降世界のメモリ市場を制圧する 5。
Intel の設立者の 1 人である Gordon E. Moore(1929-)
によると、「半導体素子に集積されるトランジスタの数は、
18 ヶ月で倍増する」(いわゆるムーアの法則、下左図)。
事実、ムーアの法則はメモリについても当てはまり(下中図)
容量は増え、需要を創出し、しかも量産効果によって値段は
変わらないので(下右図)、それがまたメモリの用途と需要を
増やす好循環を生んだ。
ムーアの法則(MPU)
半導体やコンピュータの標準化が進むと、技術レベルのグローバルな拡散が
生じる。半導体産業も 1990 年代に入るとより人件費の安い韓国、台湾、東南ア
ジア、中国の順に工場移転と技術移転が進み、日本の半導体産業は失速した。
読み書きが自由に行なえる RAM の一種で、コンデンサとトランジスタにより電荷を蓄え
る回路を記憶素子に用いる。コンピュータの電源を落とすと記憶内容は消去されるが、回
路が単純で、集積度も簡単に上げることができ、価格も安いため、コンピュータのメイン
メモリはほとんどが DRAM である。なお Intel はマイクロプロセッサに特化することによ
って現在の地位を築いている。
5 アメリカは 1985 年に不公正貿易の提訴から緊急輸入制限をするなど「日米半導体戦争」
といわれた貿易摩擦を経て、1986 年には日米半導体協定によって政治的決着した。1987
年には日本は DRAM 市場で世界シェアの7割を占めた。
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情報産業論
情報技術の発達と情報産業の成立
2、マイクロプロセッサとパソコンの時代
(1)マイクロコンピュータとマイクロソフトの成立
インテルが 1974 年に 8080 マイクロプロセッサを発売した直後、ニューメキ
シコ州のアルバカーキの MITS(Micro Instrumental and Telemetry Systems)
という小さな会社が技術的にも、価格的にもパーソナル機と呼ぶにふさわしい
マイクロコンピュータ(マイコン)、Altair 8800(下図)を発表した。Altair 8800
の価格はキットが 395 ドル、完成品が 498 ドルで、発売後 3 ヶ月で 4000 台の
受注を受けることになる。
Altair 8800 の開発者 H. Edward Roberts は、
コンピュータの仕様を公開し(オープン・アー
キテクチャー)他のメーカーがこの仕様に基づ
いてメモリ・カードやプリンタなどの各種装置
を自由に追加することが可能になった。そして
この Altair 8800 のためにプログラムを開発し
たのが当時まだ 20 歳の William Henry Gates(1955-)、ビ
ル・ゲイツであった。ゲイツと Paul G. Allen(1953-)が
1975 年に創立した Microsoft 社は BASIC 言語の開発会社
として出発し、この世界最初のマイクロコンピュータのた
めの BASIC を書き上げたのである。
(2)Apple II とパソコン時代の幕開け
Altairを始めとしたIntel 8080 を使ったマイコンはコンピュータ・マニアの間
で熱狂的に迎え入れられたが、信頼性に問題があり、ビジネス向けのアプリケ
ーション・ソフトウェアもほとんどなかったので、最初は趣味の領域を出なか
った。しかし、1976 年にカリフォルニア州
のクパティーノでSteven Paul Jobs(1955-)
とSteve Wozniakによって設立されたApple
Computer社が 1977 年に発表したApple II
(右図)は、システムとしての完成度が高く、
技術的な知識がないユーザでも設定して使
用ができる機種であり、1,200 ドルという値段にかかわらず最も
よく売れた 6。また表計算ソフト、会計用ソフト、ワープロ・ソフトなどが揃っ
ていたのが成功の要因であった。Apple IIはパーソナル・コンピュータ(パソコ
ン)時代の幕開けであった。
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Apple II は 80 年末までに 12 万台以上が販売された。
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情報産業論
情報技術の発達と情報産業の成立
(3)IBM-PC の登場と MS-DOS
ミニコンピュータ、そしてパーソナル・コンピュータへの市場の拡大に対し
て、コンピュータ業界の巨人 IBM もこの市場への参入を図ることになる。1981
年に発売にこぎつけた IBM-PC(IBM 5150、下図)は Altair や Apple II と同
様にオープン・アーキテクチャーを採用していたが、これは IBM-PC の開発に
あたって、マイクロプロセッサ、ディスク・ドライ
ブ、プリンタなどの多くの部品を他社からの調達に
頼らざるを得なかったからであった。そして、
IBM-PC の OS、オペレーティング・システムに採
用 さ れ た の が Microsoft で あ り 、 IBM-PC は
MS-DOS(Microsoft Disk Operating System)を
搭載し、MS-DOS 上で動くソフトウェアによって
その機能を発揮することになる。
IBMがオープン・アーキテクチャー戦略をとったことで、IBM-PCのクローン
製品や周辺機器、ソフトウェアが次々と発売され、それがまたIBM-PCの売上げ
を拡大することにつながった 7。だがそれ以上に、仕様の公開されないOSであ
るMS-DOSの、そしてその開発・販売者であるMicrosoft社のソフトウェア市場
とコンピュータ業界における支配を強めていくことになったのである。
IBM-PC が発売された翌年、1983 年の雑誌
TIME の表紙、MAN OF THE YEAR を飾ったの
は、MACHINE OF THE YEAR、パーソナル・コ
ンピュータであり、パソコン時代への突入を象徴す
る出来事であった。
IBM-PC は当初の販売台数予測を「5 年間で 24 万 1683 台」と見込んだが、この数字を
わずか 1 カ月で達成してしまうほどの勢い(IBM 社)で、結果的に数百万台を販売するこ
とになる。その後、1984 年に IBM が新規格の IBM PC/AT を発売し、これが現在まで続く
パソコンの基本になっている。PC/AT も多くの互換機が発売され、それらのパソコンを総
称して AT 互換機と呼んでいる。特に 1985 年に発売された Compac 社(後に Hewlett
Packard 社により買収)の AT 互換機の技術力は本家の IBM を凌駕しており、以降 Compac
はパソコンの新規格の策定に大きな影響力を持つようになる。
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情報技術の発達と情報産業の成立
(4)GUI と Macintosh、そして Windows
アメリカ国防省の ARPA(Advanced Research Project Agency:高等研究計
画局)にいた Douglas Engelbart(1925-)は人間に使いやすいコンピュータの
研究を進め、1968 年に GUI(Graphical User Interface)、画面上に複数のウィ
ンドウを開き、それをマウスで操作するという構想を発表する。Engelbart の
GUI の思想は、Xerox 社の PARC
(Palo Alto Research Center )にいた Alan Kay
(1940-)が 1974 年に
開発したAltoによって実現した 8。
1979 年に PARC で Alto を見学した Apple 社の Steven Paul Jobs はその先進
性に感銘を受け、1984 年にその機能を 2,000 ドル
で実現する Macintosh(右図)を発表。プロセッサ
に Motorola 社の 68000 を使用、パーソナル・コン
ピュータ市場に独自の地位を築いた。
Microsoft 社も翌年から GUI の機能を持つ Windows の開発・販売を始め、1990
年に Windows3.0 が、1993 年に Windows3.1、そして、1995 年に発売された
Windows95 が世界的な大ヒットとなり、Windows は PC/AT 互換機用 OS の標
準となった。
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Alto は結局市販されず、1500 台が製造されて研究機関などに納入された。
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情報技術の発達と情報産業の成立
3、パソコンの普及とソフトウェア産業
(1)パソコンの普及とコンピュータ・ハードウェア産業
ICの高度化と相まってコンピュータ・ハードウェアの性能が高度化し、小型
化し、そして低価格化したことによってコンピュータの普及は爆発的に拡大し
た。2004 年度の世界全体のパソコン出荷台数は 1 億 7800 万台、毎年 10%を超
える成長率で拡大している 9。一方、オープン・アーキテクチャー戦略をとった
ことで、半導体同様技術レベルのグローバルな拡散が進み、人件費の安い台湾
や東南アジア、中国へと工場移転と技術移転が進んだ 10。
パソコンの製造はもはや研究開発型の産業分野ではなく、低コストの人件費
に頼った組み立て型の産業なのである。
(2)パソコンの普及とソフトウェア産業
コンピュータのソフトウェアはプログラムの集合体であり、プログラム言語
の発達とともに科学技術計算、統計処理、業務処理などの分野で拡充をしてい
ったが、大型コンピュータの時代にはソフトウェアはハードウェアに付随する
「サービス」の側面が強かった。1969 年の IBM によるアンバンドリング(価
格分離)政策によって ソフトウェアは、それ自身が価値=価格をもつ独自の
商品として自立し、ソフトウェアを開発・販売するソフトウェア産業が、産業
としての存立基盤を与えられたことになった(第2回)。
コンピュータ・ハードウェアが小型化し、そしてパーソナル・コンピュータ
の登場によってコンピュータの市場が急速に拡大し、応用分野が広がるにつれ
た、ソフトウェアに対する需要も拡大していくことになる。企業の業務分野に
おける経理や人事管理、販売管理・在庫管理、製造工程の合理化を目的とした
CAD(Computer Aided Design)・CAM(Computer Aided Manufacturing)
、
新聞・出版業におけるDTP(Desk Top Publishing)など様々な分野でソフトウ
ェアのパッケージが開発、販売されている 11。パーソナル=個人の利用分野で
2004 年の日本のパソコン市場は、出荷台数は前年比 3.8%増の 1318 万台、出荷金額は前
年比 3.7%減の 1 兆 7601 億円。デスクトップパソコンが 49.8%、ノートパソコンが 50.2%
で、ベンダー別シェアは、1 位が日本電気 (19.9%)、2 位が富士通 (19.0%)、3 位がデル
(10.2%)、4 位が東芝(8.3%)、5 位が日本アイ・ビー・エム (6.8%)となっている(ガートナ
ー ジャパンのデータクエスト部門調査)
。
10 半導体に続き、コンピュータも生産拠点と技術の移転が進み、2004 年に IBM は PC 事
業部門を中国 Lenovo Group に売却したのは象徴的な出来事である。
11 日本では IT=情報産業は一般的には、コンピュータ産業(コンピュータおよびハードウ
ェアの開発・製造)
、通信産業(通信機器の開発・製造、通信サービス)、そして情報サー
ビス産業に分類され、ソフトウェア産業=情報サービス産業である。アメリカではパッケ
ージソフト開発を中心としたソフトウェア・プロダクツが全体の半数を占めているが、日
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情報産業論
情報技術の発達と情報産業の成立
も、ワード・プロセッサー、表計算、グラフ作成、そしてゲーム・ソフトも普
及して、インターネットに代表されるネットワーク技術の革新はソフトウェア
の応用分野をさらに広げ、市場を拡大し続けている。
また、Apple IIやIBM-PCの成功の背景に充実したソフトウェアのラインナッ
プが必要であったように、パソコンの普及にはソフトウェアの拡充も不可欠で
あった 12。
(3)モジュール化とソフトウェア産業
コンピュータ・ハードウェアの生産過程において、もともとシステムを構成
する機能をグループ化して分解するモジュールの考え方が一般的であり、IBM
Sytem/360 の設計で生まれたモジュールによるハードウェアの設計と製造が生
産性の向上に寄与し、またオープン・アーキテクチャーにもつながってきた 13。
プログラム言語の発達とこれによって開発されたOSを含めたソースのオープ
ン化(第5回)によってソフトウェア産業でもモジュール化の思想は進んでい
る 14。日本の情報サービス産業も他産業の連関と同時に、産業内・業界内での
連関が多重であり、同業者間での委託・受託の連鎖が複雑に連なりあっている 15。
そして技術のオープン化によってハードウェア同様にソフトウェア技術のグロ
ーバルな拡大とオフショア(海外生産拠点)化は着実に進行している 16。
本では受注システム開発 46.7%と圧倒的に大きく、ソフトウェア・プロダクツは僅かに
10.4%でアメリカの状況と全く逆であり、特にこの傾向は小規模企業で高い(経済産業省『平
成 16 年 特定サービス産業実態調査』より)
。
12 Harvard 大学の Business School の学生であった Daniel Bricklin とプログラマーの
Bob Frankston(左)が 1979 年に開発した表計算ソフト VISICALC は 1 年間で 10 万本を
販売する大ヒット商品となり、Apple II の販売に貢献した。これに対して 1983 年には
IBM-PC 用に Lotus 社の表計算ソフト Lotus1-2-3 が発売され、IBM は Apple II からパソ
コン市場の覇権を奪うことになる日本のパソコンの普及においても徳島のソフトウェア企
業・ジャストシステムが 1985 年に開発した NEC の PC 用日本語ワープロ・ソフト「一太
郎」が大きな貢献をした。
13 このモジュール化の考え方はハードから組織へと概念が拡大し、90 年代におけるアメリ
カのシリコン・バレーを中心とした情報関連産業における集積と企業間の連関が生産性の
劇的な上昇を生み出したと言われている。
14 しかしながら「人月の神話」
(1 人で 100 時間かかるプロジェクトを、100 人を動員して
1 時間で行うことはできない)に代表されるように、ハードウェアにおける「モジュール化」
の成功をソフトウェアの製造工程にそのまま当てはめることもできない。特にソフトウェ
アの開発・製造においてはコミュニケーショとコラボレーションが必要とされ、この不足
は生産性の低下にもつながる。
15 製造業においても県外の大企業向けの中間財、部品製造を生産する中小企業の多い島根
県のケースは情報サービス産業においても当てはまると同時に、県内の情報サービス産業
同士においても委託・受託の連鎖を作りあっている。
16 2000 年代に入ってアメリカで始まった IT バブル崩壊~IT 不況によるコンピュータ需要
の落ち込みや通信業界の過剰投資などもあって、コンピュータ産業や通信産業もソフトや
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情報産業論
情報技術の発達と情報産業の成立
4、マイクロソフトのコンピュータ市場・情報産業支配
パソコンの登場によってハードウェアのオープン化は加速化したが、ハード
とソフトウェアをつなぐOSの重要性と需要を増した。Microsoft社もパソコン用
のプログラム、そしてOSを開発するソフトウェア産業としてスタートしたが、
パソコンのOSのアーキテクチャーはMicrosoft社がオープンにせず、独占状態が
続いている。この結果コンピュータ・ハードウェアメーカーもソフトウェア産
業も、Microsoft社の動向に支配される状況が続いてきた 17。
かつて大型コンピュータの市場シェアを高めた IBM がコンピュータ IT 産業
=情報産業全体の動向を左右したが、パソコンの時代には Microsoft が OS の市
場を独占することによって同じことを行っている。IBM の支配はコンピュータ
の小型化によって崩れ去ったが、Microsoft の支配はコンピュータのネットワー
ク化(第4回)と、ソフトウェアのオープン化(第5回)によって崩れ去ろう
としている。
【参考文献】
・ スミソニアン協会 『デジタル計算機の道具史』 ジャストシステム
・ 嶋正利 『マイクロコンピュータの誕生 わが青春の 4004』 岩波書店
・ マイケル・ヒルツィック 『未来をつくった人々』 毎日コミュニケーションズ
・ ビル・ゲイツ 『ビル・ゲイツ 未来を語る』 アスキー
・ ダニエル・イクビア、スーザン・ネッパー 『マイクロソフト』 アスキー
・ スティーブン・レヴィー 『マッキントッシュ物語』 翔泳社
・ 富田倫生 『パソコン創世記』 TBS ブリタニカ
サービス分野に重点を移しており、インドや中国の IT 産業のこの分野での追い上げもすさ
まじい。コンピュータ・ハードウェアでは既に中国や東南アジアを中心とした部品製造の
海外移転と、世界規模での生産から流通に至るまでのネットワーク化が進んでいるが、ソ
フトウェアの分野でもアメリカからインドへの大量のアウトソーシングに見られるように、
オフショア(海外生産拠点)化は着実に進行している。このことは、情報サービス産業の
成長とあわさったグローバルな供給能力の拡大によって、情報サービス産業も国際的な競
争からは逃れられないことを意味している。
17 結局は表計算ソフトも Microsoft Excel、ワープロ・ソフトも Microsoft Word の独占状
態である。1997 年にアメリカ司法省は Microsoft 社が OS 市場での独占的地位を維持する
ために「競争を阻害する行為をした」として独禁法違反で提訴した。2000 年 6 月の連邦地
裁の判決では同社の独禁法違反を認めるとともに、同社を OS 部門と応用ソフト部門に 2
分割する是正命令を出した。その後、Microsoft 社がパソコンメーカーと取り交わす OEM
契約の緩和(デスクトップの変更を含む大幅な選択権など)を認めることなどによって和
解している。
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