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わが国における多文化教育の現状と課題

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わが国における多文化教育の現状と課題
わが国における多文化教育の現状と課題 ∼現代日本の“教育マイノリティ”∼
わが国における多文化教育の現状と課題
∼現代日本の“教育マイノリティ”∼
堀 家 由妃代
1、はじめに
に取りくむ」教育であり、「生徒たちが複数の
本稿は、2009年3月に開催されたハワイ大
集団に属しながら、肯定的な自己概念を発達さ
学・佛教大学の国際カンファレンスにおいて筆
せ、自分が何者であるのかを気づかせるのを支
者が報告したものに加筆・修正を試みたもので
援する」哲学的概念であり教育プロセスであ
ある。このカンファレンスのテーマは「変化と
る ii。
挑戦の時代における教育」であり、筆者は「日
すなわち、多文化教育とは、多文化状況にあ
本における多文化教育の現状と課題」というタ
る国家がその文化の多様性や支配的−被支配的
イトルで日本の多文化化の様相を紹介した。
文化関係において、いかに教育改革をなしえる
多文化教育・多文化問題に関しては、“人種
かという運動なのである。しかしながら、昨今
のるつぼ”から“サラダボウル”へのパラダイ
の世界的潮流を鑑みると、理想的な社会の在り
ムシフトを完成させた米国がその教育的・社会
方としてのソーシャル・インクルージョンを志
的実践において先駆的であるといえるが、わが
向しながらも、実際は市場原理に基づく新自由
国も「文化」の枠組みを拡大すれば、ある意味
主義の影響を教育・社会の側面において少なか
非常に“多文化な国”であるといえる。しかし
らず受けており、それはわが国とて例外ではな
ながら、そうした多文化状況におかれながらも、
い。今回のわが国の教育改革(教育基本法や学
わが国の公教育において多文化教育が十分にな
校教育法の一部改正とそれをうけた新学習指導
されているとは言い難い。
要領を含む)においても、新自由主義の影響は
わが国において「国際化」が叫ばれて久しい
色濃く表れている。そうしたなか、「“多文化な
が、これまでの日本社会、とりわけ公教育にお
国”日本」において、我々はどのような教育を
いては、自国の多民族状況や多文化状況につい
提供しうるのか。
てあまり関心を寄せてこなかったのではないだ
従来の公教育においても周辺的なものとされ
ろうか。誤解を恐れず述べるならば、日本の公
てきた多文化の問題が、昨今の教育改革のな
教育は、「多文化」や「文化の多様性」の実態
か、さらに周辺化されつつある可能性が高まっ
を目の当たりにしながらも、「日本的平等観」i
ている。本稿では、わが国における多文化化の
のもと、そうした実態に対し、見て見ぬふりを
現状を概観し、これまでの教育の在り方および
してきたといえる。
新しい教育の流れがそうした多文化状態にある
多文化教育事典によれば、多文化教育とは
学校現場といかにコンフリクトを起こしうるか
「人種、エスニシティ、社会・経済的階層、ジェ
を明らかにする。
ンダー、性的指向性、障害にかかわる社会問題
47
佛教大学教育学部学会紀要 第9号(2010年3月)
2、日本の公教育が考慮すべき「多文化」
問題とは何か?
く一部の中学生は卒後、高校進学という道を選
昨年改訂された新学習指導要領においては、
いる。そのわずか数パーセントが、本稿で提起
択しない(あるいはできない)状況におかれて
国際化・グローバル化の名の下に、「小学校に
する日本における多文化化の問題と関係がある
おける外国語活動」が新設された。小学校学習
と考えられるのである。改革の方向性のなかに
指導要領によれば、外国語活動の目的は「外国
反映されない、こうした子どもたちに光を当て
語を通じて,言語や文化について体験的に理解
る必要はないのだろうか。
を深め,積極的にコミュニケーションを図ろう
先に筆者は日本という国がある意味「多文化」
とする態度の育成を図り,外国語の音声や基本
であり、学校教育の恩恵を被りにくい子どもた
的な表現に慣れ親しませながら,コミュニケー
ちとこの多文化化の問題との関係を示唆した
ション能力の素地を養う」ことであり、内容に
が、本稿を進めるにあたっては、「文化」とい
ついてはコミュニケーション力の育成に加え、
う言葉の定義づけが必要になるだろう。C・ギ
「日本と外国との生活,習慣,行事などの違い
アーツによれば、文化とは「社会的にきめられ
を知り,多様なものの見方や考え方があること
た意味の構造」であり、具体的には言語や習慣
に気付くこと」や「異なる文化をもつ人々との
やふるまいなど、人間の生活経験が象徴化され
交流等を体験し,文化等に対する理解を深める
た形態のことを意味する vi。本稿では、こうし
こと」という、多文化化に対する一定の耐性を
た文化の差異によって、教育上の不利益を被っ
子どもたちに身につけさせることがねらいとさ
たり、不平等な状況に置かれたりしている、特
れている。しかしながら、「外国語活動におい
定の文化的・社会的集団に属する子どもたちを
ては,中学校における外国語科では英語を履修
“教育マイノリティ”とし、その多様性につい
することが原則とされているのと同様,英語を
て述べることとする。具体的には、①ニューカ
取り扱うことを原則とすることが適当である」
マー②オールドカマー③被差別部落④障害児、
と、結局のところ「英語教育」と同義となって
というカテゴリーに属する子どもたちの4つの
いるのが実情でもある。すなわち、今回の外国
マイノリティ・グループの様相について概観し、
語活動の導入は、英語主流の国際社会における
その教育的課題について指摘する。
競争力の向上をねらいとするものであり、多文
次に、“教育マイノリティ”を語るためには
化への涵養を意図するものではなくなっている
「マイノリティ」という言葉の定義にも触れて
のである 。
おく必要があるだろう。マイノリティとは、社
iii
ところで、わが国における高校進学率は平成
会学事典によれば「国家や社会の成員ではある
iv
20年度で97.9%である 。日本の高校は義務教
が、身体的あるいは文化的特性によって他の成
育ではなく、有償であり、基本的には入試を伴
員から差別的に区別される集団。この集団は、
うが、この数値をみる限り、ほとんどの生徒が
形式的平等を与えられているにしても、一般成
中学卒業後には高校進学をめざすことがあたり
員から異化するだけの文化的・歴史的条件を内
まえとされていることがわかる。そして、平成
在的に意識し、差別をバネとすることで、逆に
21年度の大学進学率が53.9%であることから、
集合的アイデンティティを凝結し、真正な人間
高校に入ったならば、その半数以上が大学に進
的平等化の課題を歴史的に問い直す契機を現代
学する志向性を持っていることがわかる v。し
に突きだしている」とある vii。
かしながら、こうした趨勢にもかかわらず、ご
アメリカの文化人類学者 J・オグブは、そう
48
わが国における多文化教育の現状と課題 ∼現代日本の“教育マイノリティ”∼
したマイノリティをまず「自治/自律的マイノ
のなかで一定程度整理することは有意味である
リティ(autonomous minorities)」
「カースト的
と考えられる。
マイノリティ( castelike minorities )」
「移民マ
イ ノ リ ティ( immigrant minorities )」に 分 類
した。「自治/自律的マイノリティ」とは、ホ
3、
“教育マイノリティ”の実際
スト社会への参入の初期から必ずしも低い社会
的・経済的地位を占めているわけではないグ
3−1 ニューカマーの問題
ループ、「カースト的マイノリティ」とは、学
まずに挙げられるのが、ここ10年ほど顕在化
校教育などの地位上昇システムに関与しながら
してきている外国籍児童の教育問題である。か
も集団全体として上昇移動できないでいるグ
れらは一般に「ニューカマー児童」と呼ばれて
ループ、「移民マイノリティ」とは文字通り移
いる。ニューカマーとは、近年になってさまざ
民のように集団全体としてその社会の中で地位
まな理由・経緯のもとに、諸外国から日本にやっ
の上昇を果たしたグループである。後にオグブ
てくるようになった外国人のことである。日本
は移民マイノリティを「自発的マイノリティ」、
にニューカマーが入国するようになったのは、
カースト的マイノリティを「非自発的マイノリ
1970年代後半からの、フィリピンやタイからの
ティ」とに再分類している 。
風俗・サービス業につく女性外国人労働者を皮
オグブの類型は、いわゆるエスニック・グ
切りに、ベトナム・カンボジア・ラオスからの
ループを強く意識したものとなっており、本稿
いわゆるインドシナ難民、中国東北部からの帰
でとりあげる“教育マイノリティ”の4つのグ
国者、欧米諸国からのビジネスマンなどがいる。
ループは必ずしも人種を基盤としたものに限定
さらに、1980年代後半以降は、南アジア・アラ
されていないが、その内実においてこの枠組み
ブ諸国からの非正規の外国人労働者やラテンア
viii
グラフ1:外国人登録者数と我が国の総人口の推移 ix
49
佛教大学教育学部学会紀要 第9号(2010年3月)
メリカ諸国からの日系出稼ぎ労働者、そして日
が、前年に比べると12.5パーセント増加してお
本人との国際結婚によって定住するようになっ
り、今後も増加が見込まれる。
た外国人などが急速に増加した。
日本語指導が必要な子どもたちを母語別にみ
法務省入国管理局の統計によれば、2008年末
ていくと、ポルトガル語11,386人、中国語5,831
の外国人登録者数は2,217,426人となり、過去
人、スペイン語3,634人、その他の母語7,724人
最高を更新している。そして、その数は日本の
となっており、ポルトガル語、中国語及びスペ
総人口の1.74%を占める。前頁のグラフを見て
イン語の3言語で全体の7割以上を占めている
もわかるように、日本における外国人の数は増
(この傾向はここ10年以上変わっていない)xi。
加の一途をたどっている。
志水はオグブのマイノリティの類型に依拠し
また、その国籍(出身地)の構成は、中国が
ながら、欧米からの駐在などの「自律的マイノ
全体の30% 弱を占めており、つづいて韓国・朝
リティ」を除けば、かれらの多くが「自発的マ
鮮、ブラジル、フィリピン、ペルー、アメリカ
イノリティ」と「非自発的マイノリティ」の中
と続くが、そのうちの約60% がニューカマーで
間に位置すると解釈している xii。そして、エス
ある。
ニック・グループによって日本社会での生き残
そうしたニューカマーの子どもたちの教育に
り戦略がそれぞれ異なることをフィールドワー
ついてみてみよう。文科省の「日本語指導が必
クから見出している。このフィールドワークに
要な外国人児童生徒の受入れ状況等に関する調
ついては筆者も参加したので、それぞれを簡単
査(平成20年度)」によれば、我が国の公立小・
にまとめてみたい。
中・高等学校、中等教育学校及び特別支援学校
表1は、それぞれのエスニック・グループが
に在籍する日本語指導が必要な外国人児童生徒
どのような動機で来日し(渡日目的)、家族と
数は、28,575人(小学校19,504人、中学校7,576
していかなる移民論理を有し(家族の物語)、
人、高等学校1,365人、中等教育学校32人、特
そのためにどのような教育戦略を選択している
別支援学校98人)であり、その数は日本の学校
のか(教育戦略)を示したものであるが、はじ
教育を受けている子どもたちの0.2%弱である
めの「東アジア系」ニューカマーが社会的上昇
グラフ2:国籍(出身地)別構成比の推移 x
50
わが国における多文化教育の現状と課題 ∼現代日本の“教育マイノリティ”∼
表1:エスニック・グループごとの日本での生き残り戦略の比較 xiii
渡日目的
家族の物語
教育戦略
マイノリティ類型
東アジア系
社会的上昇
チャレンジ
家庭での母語教育の熱心さ
日本の学校の戦略的利用
家族の将来に方向づけられた進路
インドシナ系
難民
安住
母語としつけによる親子関係維持
日本の教育制度への信頼
子ども任せの進路選択と将来像
自発的?
非自発的?
南米系
出稼ぎ
一時的回帰
母語・母文化の積極的継承
日本文化の称揚
市場価値のある言語習得の奨励
自発的?
非自発的?
自発的
をねらいとした自発的マイノリティである以外
ルドカマー」である。オールドカマーとは、主
は、自発的/非自発的どちらかの型に大別する
に1950年代に朝鮮半島や台湾から移住してきた
ことは難しい。例えばボートピープルなどの難
人々をさすが、本稿においてはいわゆる「在日
民は、移動に関して一定の自発性はありながら
コリアン」と呼ばれる朝鮮半島にルーツをもつ
も政治的背景などにより「やむをえず」という
人々について述べる。かれらの多くが日本の強
点においては非自発的と解釈することも可能で
制連行による非自発的移住者であり、いまだに
あり、また出稼ぎのために渡日した日系南米人
日本社会においては被差別の対象となっている
なども本国での経済事情の過度の劣悪さなどに
(日本社会において結婚差別問題や就職差別問
よるため、こちらも必ずしも自発的なグループ
題に直面している)エスニック・マイノリティ
と限定することは困難なのである。
である。わが国がかれらに対して社会的にも教
こうしたニューカマーに対する学校での教育
育的にも徹底的な「同化」を強いてきたことで、
支援については、主に日本語力の育成をはかる
かれらはすでに日本語や日本の文化を獲得して
「日本語指導」と日本の学校や生活に適応する
いるため、ニューカマーと異なり顕在的な「文
ための「適応指導」とに大別できる。こうした
化適応の問題」はほとんどないと考えられるが、
指導のあり方は、欧米における ESL の形態と
裏を返せば課題の見えにくさそのものがかれら
似通ったものであると考えられるが、ESL が子
の抱えるマイノリティゆえの課題なのかもしれ
どもだけでなく大人にも提供されているのに対
ない。
し、日本の学校教育は、その学校に籍をおく子
オール ド カ マーた ち を オ グ ブ の マ イ ノ リ
どもたちのみに提供される。したがって、子ど
ティ・モデルに照らし合わせるならば、かれら
もたちがかれらの家族と日本社会との通訳者と
は典型的な「非自発的マイノリティ」であると
なってその生活を支えなければならないという
いえる。ただし、その在りようは多様化の様相
実態がある。また、かれらの母語や母文化への
を示している。
支援についての国の方向性が特に示されていな
朴は、在日コリアンの教育達成および社会的
い点も問題であるといえよう。
成功に関して、日本人と変わりなく、あるいは
それ以上の教育達成や社会的成功をおさめるグ
3−2 オールドカマーの問題
ループと、社会の底辺に位置し続けるグループ
3−1で、ニューカマーは60% であると述べ
とに二極化していることを指摘し、オグブの非
たが、残りの40% 近くは日本に永住する「オー
自発的マイノリティ・モデルが必ずしもあては
51
佛教大学教育学部学会紀要 第9号(2010年3月)
まるというわけではないとしている xiv。しかし
し、現在の「リキッド・モダン」では「アイデ
ながら、歴史的文脈において在日コリアンが非
ンティティの規制緩和、フレキシブル化」が起
自発的マイノリティ(朴は“強制マイノリティ”
こっており、アイデンティティを自由に選択・
と訳している)であることに間違いはなく、朴
構築できるグローバル・エリートたちに解放を
が指摘する実態の二極化は、個々やその家族の
もたらす一方で、そうでない人々にとっては不
在日アイデンティティの多様化によるものが大
安をもたらす世の中になっている事を指摘して
きいのではないかと考えられる。
いる xvii。
たとえば福岡は、マイノリティとしての在日
かれらのアイデンティティの在りようがその
3世のアイデンティティの類型を図1のように
置かれている環境により(例えば帰化者、ダブ
試みているが、この類型に整理することが困難
ルといった戸籍上の混乱、在日コミュニティの
な状況にあるのが現在のオールドカマーの様相
なかに埋没しすぎることの問題や反対に日本人
コミュニティのなかでの孤立)無限の広がりを
朝鮮人の被抑圧の歴史への重視度
日本社会における自己の
生育地への愛着度
見せることは、かれらに選択の自由を与える一
強
「祖国志向」
方で、混乱や混沌ももたらすのである。先の金
は、「在日コリアンであることのアイデンティ
「共生志向」
弱
強
「個人志向」
「帰化志向」
弱
図1:福岡による在日のアイデンティティ類型 xv
ティはますます主観的なものとなっていく」と
し、ニューカマーの動向をにらみながら各々が
どのようなアイデンティティを発達させていく
か、「脱マイノリティ・非マジョリティ」とし
ての在日の在り方を提起している。
現在のところ、かれらに対する公教育での支
ではないだろうか。
援は、主に放課後の時間帯に実施される「民族
在日コリアンが依然として日本社会における
学級」と呼ばれる特別なクラスの開講程度であ
マイノリティであることに変わりはないが、
「在
る。それも、一部の学校で課外の抽出の取り組
日」として人括りにされ、非自発的マイノリティ
みとして行われている程度であり、民族学級の
としての確固たるアイデンティティを持たなけ
対象者(いわゆる“ダブル”の存在をどのよう
ればならないという抑圧のなかにおかれている
に捉えるか)や提供する内容(何をもって民族
ことそのものが、かれらの生きにくさとなって
学級とするのか、多様なアイデンティティを有
いることは、金らの研究においても指摘されて
する子どもたちに共通して何を提供しうるのか)
いるところである。金は、在日コリアンの子ど
などに関する新たな課題も表出してきている。
もたちが所属する子ども会でのフィールドワー
また、全国で唯一課内カリキュラムとしての民
クをもとに、子どもたちに課せられた民族役割
族学級を有していた京都市が、今後の在り方と
がかれらのアイデンティティを複雑に揺さぶる
して課外プログラムとするという消極的な施策
様子を描き出している 。アイデンティティ問
が展開されようとしていることも大きな問題で
題についてバウマンは、これまでの「ソリッド・
あろう。
xvi
モダン」の世の中におけるアイデンティティが
さらに、一部のオールドカマーはかれらの
「ある領土に属す者は、その国家に属す」とい
ルーツである朝鮮半島の民族教育を中心に据え
う原則によって明確に表現されていたのに対
た学校教育を展開している「民族学校」に子ど
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わが国における多文化教育の現状と課題 ∼現代日本の“教育マイノリティ”∼
もを通わせているが、これらの学校は日本の公
の問題は、行政が対応すべき社会問題とされ、
教育の範疇にはなく、大学進学や就職などに制
「同和問題」として、そこに暮らす人々の生活
約を伴う「特別な学校」として日本社会に位置
水準の改善や教育水準の改善が目指された。ア
づけられているという、いわゆる「一条校問題」
ファーマティブアクションによって被差別部落
も残されている。
に暮らす多くの人々が安定した職につき公営住
宅に暮らし、教育環境も改善された。1963年当
3−3 被差別部落の子どもの問題
時、全国の高校進学率が66.8% であったのに対
上の2つのマイノリティがエスニック・マイ
して、被差別部落の高校進学率は30.0% と、全
ノリティであるのに対し、被差別部落の子ども
体の半分にも満たない状況であったが、1995年
はいわゆる社会階層の問題を孕んでいる。日本
には、全国の高校進学率が96.7%であったのに
社会は、旧来の身分制度においてある特定の社
対し、被差別部落の生徒は92.4% となった。と
会階層を設定し、被差別や社会的排除の対象と
ころが、行政上、同和問題は一定の解決をみた
した。明治時代になって身分制度は廃止された
とされ、2001年、被差別部落にかかわるすべて
が、実態としての差別は残った。1950年代の被
の公的事業が解消された xviii。
差別部落の子どもたちは貧困による長期欠席や
しかしながら、社会的にいまだ目に見えにく
不就学がつづき、学校に来ても露骨な差別の対
い差別が多く存在しており(この点はオールド
象となっていた。1960年代に入り、被差別部落
カマーと似通っている)、そして、
「低学力」
、
「低
グラフ3:被差別部落と全国の最終学歴の比較 xix
53
佛教大学教育学部学会紀要 第9号(2010年3月)
進学意欲」、
「将来展望の希薄さ」、
「アイデンティ
ローチとして、いわゆる「力のある学校」研究
ティ問題」など、教育的不平等は解消されてい
がある。力のある学校とは、家庭環境などに不
ない。
利な条件を抱えている子どもたちを含みつつ一
グラフ3は1990年当時の全国と被差別部落で
定程度の学力水準を維持している学校のことで
の最終学歴を比較したものである。全体と比較
ある。これは、欧米で展開されてきた「エフェ
して被差別部落の高齢者の最終学歴に違いが見
クティブ・スクール論」、すなわち「性や人種・
られることは、かつての被差別部落固有の課題
民族、社会階層といった児童・生徒の学力形成
による不就学の歴史から解釈可能であるが、い
に不利に働く家庭背景要因を、学校を改革する
わゆる若者層においてもその最終学歴に顕著な
ことによって乗り越えることができる」という
差異が見受けられることがわかる。この結果は、
理念に依拠しており、子どもたちの文化背景を
これまでの同和教育が一定の成果を示しなが
考慮しながら、システマティックに学校改革に
ら、それでも教育達成の差異としてあらわれる
臨んでいる学校のことをさす xxi。
ような、根深い問題が依然として残されている
志水らは、関西のある県での量的および質的
ことを我々に示している。
調査研究から社会階層が低位にある人々の多い
オグブの分類に依拠するならば、被差別部落
地域においてもいくつかの「力のある学校」が
の子どもたちは典型的なカースト的マイノリ
あることを見出し、そのような学校となるため
ティであるといえるだろう。オグブは、カース
には①気持ちのそろった教職員集団②戦略的で
ト的マイノリティの低学力には「カーストバリ
柔軟な学校運営③豊かなつながりを生み出す生
アー」が影響していると指摘する。すなわち、
徒指導④すべての子どもの学びを支える学習指
支配層が非支配層に低い水準の教育を提供し続
導⑤ともに育つ地域・校種間連携⑥双方向的な
けることと、非支配層がそれ固有の構造的・文
家庭とのかかわり⑦安心して学べる学校環境⑧
化的特徴によって自身の社会的地位を維持しつ
前向きで活動的な学校文化、の8つの要素が必
づけることの連続性により、低学力が促進され
要であることを述べている xxii。
ていくということである。鍋島は、「マイノリ
ティの社会化過程が劣っているとする『文化剥
3−4 障害のある子どもの問題
奪論』や、マイノリティの持つ言語・文化が学
世界的に見て、障害のある子どもの教育は、
校で使用されている言語や文化の体系とは異
ここ30年の間に劇的なパラダイムシフトがなさ
なっているために、不適応が起こるとする『文
れたといえよう。1981年の国際障害者年によっ
化葛藤論』は、社会化過程や言語・文化の違い
て「ノーマライゼーション」という言葉が一般
そのものが実は陰に陽に存在するカーストバリ
に知られることとなり、1991年のサラマンカ宣
アーによって生成されたものである側面を見落
言により「インクルージョン」が世界的潮流と
としているばかりでなく、今日においてもこれ
なった。昨年には障害のある人がその人らしく
らの相違がカーストバリアーの存在によって維
生きるための諸権利について書かれた条約であ
持されているという側面をも見落としている」
る 障 害 者 権 利 条 約( Rights and Dignity of
とし、これらのカテゴリーに位置するマイノリ
Persons with Disabilities )が 発 効 し た。そ こ
ティ問題の分析枠組みとして、このカーストバ
では、障害のある人の教育については、「地域
リアー理論を高く評価している xx。
のなかで、インクルーシヴで質の高い教育にア
こうした被差別部落固有の教育課題へのアプ
クセスすることができること」とされている。
54
わが国における多文化教育の現状と課題 ∼現代日本の“教育マイノリティ”∼
世界的潮流を考えても、障害のある児童生徒の
に示したものである。文部科学省の学校基本調
教育が、インクルーシヴな方向に向かっている
査によると、2008年度の各種学校在籍者数は、
ことはいうまでもない。
小学校は約712万2千人とおよそ1万1千人の
他方、日本についてみてみると、学校教育法
減少、中学校は約359万2千人とおよそ2万2
の改正により、日本の障害児教育は2007年度か
千人の減少となり、過去最低の数を記録してい
ら、
「特殊教育」から「特別支援教育」となった。
る。そして、高等学校も減少傾向にある。しか
考え方としては、これまで「障害の程度や種類
しながら、特別支援学校はおよそ4千人増の11
によって特別な場所で教育すること」がよしと
万2千人と、過去最高の在籍者数となってい
されてきた価値観が、
「個別の教育ニーズによっ
る。子どもの数が全体的に減少傾向にあるにも
て教育支援をすること」に変化したということ
かかわらず、特別支援学校に通う児童生徒の数
である。具体的な変化は、これまでの盲・聾・
は増加している。
養護学校の学校種別をなくし、すべて特別支援
歴史的に見て、わが国の障害のある子どもの
学校とすることや、特別支援学校と一般学校の
教育は「分離」の一途をたどっていたが、ここ
連携をさらに深めることや、LD、ADHD など
にきて、「特別な教育ニーズ」という美しい文
の軽度の発達障害を伴う子どもたちを特別支援
言のもと、さらなる分離が強化されようとして
の対象とすることなどである。しかしながら、
いるのである。今回の新しい障害者の誕生は、
実態としては、障害児のメインストリームへの
1970年代に実施された養護学校義務化をめぐる
インクルージョンは十分ではない。それどころ
動きと同じ性質を有しているように筆者には見
か、これまで一般の教育の対象であった LD や
受けられる。養護学校の義務化は、一見すると
ADHD など軽度の発達障害をもつ子どもが特
障害児の教育権が公的に認められたすばらしい
別支援の対象となったことで、日本の社会はイ
取り組みであるかのように思われるが、子ども
ンクルージョンと反対の方向へ向かった。
たちの生きる場の議論が十分になされないまま
下のグラフは学校ごとの在籍者の推移を簡単
踏み切られた点においては多くの課題が残され
グラフ4:各学校の在籍者の推移 xxiii
55
佛教大学教育学部学会紀要 第9号(2010年3月)
た。すなわち、かれらのライフチャンスの多様
れる。こうして、特別支援学校の子どもたちは、
性を無視した形で「障害児は養護学校へ」とい
メインストリームから分離されていることに加
う枠組みが確定したのである。何かが決まると
え、「労働力」という観点から障害児集団のな
いうことは、その“例外”にあるものが極めて
かで序列化されることになる。このような子ど
受容されにくくなるということである。今回の
もたちを、競争に巻き込まれない「幸せな障害
特別支援教育改革においても、「発達障害と呼
児」として楽観視しているわけにはいかないだ
ばれる子どもは(通常の学校から)支援学校へ」
ろう。
という排除の論理が明に暗に働くであろうこと
は否めない。
さらに、この新しい障害児が流入してきたこ
4、日本の多文化共生に向けて
とで、特別支援教育の場も変容し、市場への積
以上みてきたように、日本には多くの教育マ
極的な参入が試みられている。特別支援学校の
イノリティが存在する。そして、本稿では紹介
なかにも就職率100%をねらう高等部が次々に
できなかった別のマイノリティ問題も山積して
つくられたり、盲・聾学校での進学率の高い学
いる。これらの教育マイノリティ問題を今一度
校が優遇されたりという現象が現れはじめたの
ここで整理してみたい。
である。また、カリキュラムとしても新学習指
はじめに、3−1のニューカマー問題は、日
導要領から特別支援学校の高等部において「職
本社会にとって、非常に新しい教育問題である
業教育の一環としての」福祉科目の導入が行わ
といえる。上述したように、ニューカマー児童
れることとなった。ここにも新自由主義の影響
に対しては、教育実践としては「日本語指導」
を見てとることができるのである。
「母語・母文化の保持」に関する指導がなされ
就職率100%をねらう学校は、当然のことな
ている。しかしながら、これらの指導は一見子
がら意図的に軽度の障害児を入学させる。しか
どもたちのための支援に見えるが、実際は日本
しながら、昨今の経済不況による一般雇用事情、
社会への同化政策のひとつにすぎず、「同調」
また、これまでの障害児の就労状況を鑑みると、
「融和」
「協調」などを重んじる日本の学校が扱
限られたパイの奪い合いとなることは必至であ
いやすい子どもたちを作るための指導となって
り、結局のところ、新設された高等部は既存の
しまっているという批判がある。その点では、
養護学校の領分(就労先)を侵略せざるを得な
ニューカマーに対する教育は、60年以上も前に
いという現状がある
。
xxiv
オールドカマーに対して行った不適応な対策と
こうして、いわゆる「労働力となる障害児」
同じ筋道をたどっているといえる。また、国の
と「労働力にならない障害児」との線引きが行
支援施策として加配教員の国庫負担(1/3)
われる。通常の学校のなかで底辺に位置してい
や日本語指導者の講習会、就学ガイドブックの
た軽度の子どもたちは、「労働力とならない健
配布や帰国・外国人児童生徒受け入れ促進事業
常児」から「労働力となる障害児」への転身を
などを展開しているが、それも十分とはいえず、
はかる。どうにかして就労の機会が欲しい軽度
自治体によって受け入れの差が大きいことも指
の子どもたちとその家族と、法定雇用率をでき
摘されている。榎井は「『日本語』という入り
るだけ軽度の障害者で満たしたい企業との利害
口を超えて、日本人の子どもたちと同じように、
が一致し、これまで就労の対象になりえた中程
平等な機会を提供するための“教育保障”を考
度の障害のある子どもたちは、その機会を奪わ
えていかなくてはならない」としている xxv。
56
わが国における多文化教育の現状と課題 ∼現代日本の“教育マイノリティ”∼
ニューカマーの教育問題へのアプローチとし
施策が打ち切られた現在、学校現場レベルで多
ては、オールドカマーへのこれまでの教育の成
くの努力を重ねてきている。しかしながら、B・
果と課題をふまえた教育の在り方および諸外国
バーンステインがいうところの「言語コード」
の外国人教育研究が多くの示唆を与えてくれる
の問題や、P・ブルデューが示す「ハビトゥス」
だろう。
の問題、社会成功モデルの不在による将来展望
次に、いずれも非自発的マイノリティである
の希薄さ(これは、学校教育の存在意義の希薄
と考えられる3−2オールドカマー、3−3被
さにつながる)などがあり、低学力、低進学意
差別部落の子どもたちの問題は、これまで日本
欲の子どもたちの教育・生活課題がいまだ顕著
の教育が直面しながらも「見てみぬふり」をし
に残されているのが現状である。
「力のある学校」
続けてきた部分であるといえる。
研究からのさらなる知見が期待される。
オールドカマーの教育に関しては、先の榎井
最後に、3−4の障害のある子どもの問題
がニューカマー問題との関連で重要な指摘をし
も、日本の教育にとっては古くて新しい問題で
ている。榎井は、ニューカマー児童の処遇の問
あるといえる。日本の特別支援教育が、名前が
題がはじめ文科省によって帰国子女教育の延長
変わっても障害児を社会的に排除するシステム
として捉えられていたこと、そして、こうした
に 変 化 は な く、ま た、新 し い 障 害 児( LD、
子どもたちの教育保障は、オールドカマーへの
ADHD など)が作られたことにより、学校現
教育運動にかかわってきた教育実践者や研究者
場は混乱している。これまで、「落ち着きがな
たちによってマイノリティの権利保障の問題と
い子」
「だらしがない子」
「学力不振」とされてき
捉えられるようになって初めてその充実が図ら
た子どもたちは、「 ADHD 」
「アスペルガー」や
れたことを示しながら、「歴史的には、戦後直
「LD」と呼ばれるようになった。そのことによ
後から、在日コリアンによる教育運動がマイノ
り、教師たちは、これまでとは違う何か新しい
リティの“教育保障”として取り組まれていた
取り組みをしなければならないと考えさせられ
が、そのことは、一貫して国から認識されてこ
ている。「同質」や「平等」がよしとされる日
なかった」と指摘している
。
xxvi
本の教育において、特別な教育の対象となるこ
オールドカマーの教育の問題は、国レベルに
とは、社会的排除の対象となることを意味する。
おいては回避されてきたが、学校現場において
しかしながら、国レベルでの障害者の排除が進
は前述したような取り組みがなされてきている。
む一方で、ローカルなレベルでは、顕著なイン
しかしながら、いまだ現存する社会の偏見と職
クルージョンの例もみられる。一部の都道府県
業的将来への不安が、進学モチベーションに消
では、一般高校に知的障害者を入学させる取り
極的な影響を与えていることは否定できない。
組みも行われている。
そして、帰化者の増加や日本人との国際結婚な
教育マイノリティに対する日本の学校の教育
どによる独自の文化の消失や、文化的葛藤・ア
支援は不十分である。不十分であるだけでなく、
イデンティティのゆらぎなど、新しい問題も現
これらの教育マイノリティは、公教育の文脈に
れはじめていることは前述した通りである。榎
おいて周辺化されていき、結果として日本の社
井が示唆するように、オールドカマーの教育に
会システムのなかで下位に位置し続けるとい
ついてはニューカマーの教育保障の問題と併せ
う、「再生産」が繰り返される。この文化的再
て検討する必要があるだろう。
生産の原因のひとつは、日本の学校文化にある
そして、被差別部落を含む学校も、あらゆる
といえる。
「(テストの)スコア至上主義」、
「(教
57
佛教大学教育学部学会紀要 第9号(2010年3月)
育内容の)量的平等主義」
「(子どもに求める態
けて見える支配文化の自明性を批判的に検討し
度として)同質性や協調性の重視」といったこ
つづけることは非常に重要である。
れまでの日本の学校文化に、昨今の新自由主義
2つには、こうしたマイノリティとの共生の
の流入による競争原理の一層の強化が、かれら
問題が、本学が直面している教育・社会問題で
を教育において、そして社会において周辺化さ
もあると考えたからである。本学はいわゆる被
せるのである。
差別部落に隣接し、視覚障害者のための学校や
しかしながら、教育マイノリティはそうした
施設、朝鮮学校などがすぐ近くにあるというロ
学校文化に一方的に抑圧され続けているだけで
ケーションにありながら、大学総体としてこう
はない。かれらの異質性は、学校にとっての「脅
した身近なマイノリティの問題に積極的にアプ
威」ともなり、既存の学校文化を揺さぶってい
ローチしてきたという履歴は少ない。
る。
1979年に採択された国連の「国際障害者年行
「マイノリティの存在は、私たちが所与のも
動計画」には、「ある社会がその構成員のいく
のとしていた学校文化を問い直す好機を提供し
らかの人々を閉め出すような場合、それは弱く
てくれる」。そのような見方を持って、かれら
もろい社会なのである」とある。これは、障害
を含み込んだ教育を積極的に展開していくこと
者問題について提起されているだけではなく、
こそが、日本が多文化共生の国として生き残る
本稿で取り上げた、また取り上げられなかった
ことのできる方法であると考えられる。
様々なマイノリティに対しても言えることであ
る。
また、昨今学力世界一で教育界を賑わした
5、おわりに
フィンランドでの聞き取り調査においてもこの
本稿では、いくつかの“教育マイノリティ”
理念を想起させる言葉を耳にした。学力世界一
を紹介しつつ、わが国の多文化化の現状とその
の秘訣に迫ろうという筆者の問いに対して返っ
教育課題について述べた。
てきたのはこのような答えだった。「信頼の文
ハワイ大学での国際カンファレンスにおいて
化…フィンランドは小さな国だから、すべての
筆者がこうしたテーマでこのような発表をした
人が信じあって支えあって社会を維持していか
理由は大きく2つある。1つは、ややもすれば
なくてはならないのです」。
単一民族的エスノセントリズムに陥りがちな日
我々の生きる場も決して大きいものではな
本の実情を国内外に知らせ、米国の先駆的な取
い。支配文化にあるものだけが利益を追求でき
り組みから多文化国家として生きるヒントをも
るような昨今の潮流に抗い、近くの者同士が自
らいたいということである。新しいマイノリ
然につながり合うことができるようなソーシャ
ティのニューカマー問題は当然のことながら、
ルキャピタルの構築を目指したい。
過去の問題として処理されがちな在日コリアン
や被差別部落の問題にも光をあて続けることの
必要性、そして、いまだ文化としての認識がな
されにくい“障害”の問題などを「多文化」と
いう枠組みのなかで捉え、かれらが学校教育と
いう文脈においていかに周辺化されているかを
明らかにすること、そして、そうした課題に透
58
【注】
i
苅谷は、日本的平等観が、実態より感覚的な平
等感・不平等感にしたがっており、不平等の事
実に根差すよりも、処遇の画一性に目を向ける
「結果の平等」に横滑りしていることを指摘し
ている(苅谷剛彦2001『階層化日本と教育危機』
有信堂 p.166-168)。マイノリティを含む教育
わが国における多文化教育の現状と課題 ∼現代日本の“教育マイノリティ”∼
ii
iii
iv
v
vi
vii
viii
ix
x
xi
xii
xiii
xiv
xv
xvi
においては、そうした表面的な結果の平等にた
どり着くまでに至っていないのが現状であろう。
カール・A. グ ラ ン ト 他 編 中 島 智 子 ほ か 訳
(2002)
『多文化教育事典』明石書店 p.233
文 部 科 学 省 HP:http://www.mext.go.jp/a_
menu/shotou/new-cs/youryou/syo/gai.htm よ
り
文部科学省「学校基本調査」より
同上
C・ギアーツ著、吉田禎吾ほか訳(1987)
『文化
の解釈学』岩波書店
見田宗介ほか編(1997)
『社会学事典』弘文堂
p.458
Ogbu, J.U. 1978 Minority Educationand Caste :
The American system in a cross-cultural
perspective, Academic Press, New York
Ogbu, J.U. & Simons,H.D. 1998“ Voluntary and
Involuntary Minorities : A cultural-ecological
theory of school performance with some
implications for education“ Anthropology &
Education pp.155-188
総務省入国管理局「平成20年末現在における外
国 人 登 録 者 統 計 に つ い て」
( http://www.moj.
go.jp/PRESS/090710-1/090710-1.html)
同上
文 部 省 HP:http://www.mext.go.jp/b_menu/
houdou/ 27 / 071 _icsFiles/afieldfile/ 2009 /
07/03/1279262_1_1.pdf より
藤田英典・志水宏吉編(2000)
『変動社会のなか
の教育・知識・権力―問題としての教育改革・
教師・学校文化―』新曜社 pp.476-477
志水・堀家ほか「ニューカマー家庭の教育戦略
―3つのエスニック・グループの比較から―」
(日本教育社会学会第51回大会発表)を参照し、
筆者が作成
朴育美「教育の文脈における社会的再生産:在
日コリアンの教育と経験」佛教大学教育学部学
会紀要編集委員会編(2009)
『佛教大学教育学部
学会紀要第8号』佛教大学教育学部学会 pp.7677
福岡安則(1994)
『在日韓国・朝鮮人―若い世代
のアイデンティティ』中公新書 p.89 より筆者
が作成
金泰泳(1999)
『アイデンティティ・ポリティク
スを超えて:在日朝鮮人のエスニシティ』世界
思想社
xvii ジグムント・バウマン著 伊藤茂訳(2004)
『ア
イデンティティ』日本経済評論社
xviii 後藤直ほか編(2008)
『同和教育実践―新たな人
権教育の創造―』ミネルヴァ書房
xix 部落解放研究所編『図説・今日の部落差別(第
3版)各地の実態調査結果より』より
xx 鍋 島 祥 郎「『部 落』マ イ ノ リ ティと 教 育 達 成
―J.U. オグブの人類学的アプローチを手がかり
に―」教育社会学研究第52集(1993)p.208-231
xxi 堀家由妃代「力のある学校とインクルージョン」
志水宏吉編(2008)
『力のある学校の探求』大阪
大学出版会 p.249
xxii 同上 p.71
xxiii 文科省「学校基本調査」より筆者が作成
xxiv 堀家由妃代「障害者の就労と教育」山内乾史編
(2008)
『教育から職業へのトランジション』東
信堂 p.185
xxv 榎井縁「『多文化教育のいま』を考えるにあたっ
て」解 放 教 育研 究 所 編(2008)
『解放 教 育』№
493 明治図書 p.11
xxvi 榎井 前掲書 p.9
59
佛教大学教育学部学会紀要 第9号(2010年3月)
60
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