Comments
Description
Transcript
ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン)
人物を通して 見る世界史 ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン) 栃木県高等学校教諭 でいた彼の短慮が招い ナポレオン3世を扱う意味 たことであった。その ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン 1808〜73)は1848 後アム要塞に監禁され 年から1852年までフランス共和国大統領、1852年から ていた数年間、多方面 1870年まで皇帝として君臨した人物である。彼は大統 にわたる研究をすすめ、 領として、あるいは皇帝として内政・外交に尽力した 『貧困の根絶』という 人物として知られている。彼の活動を幅広くおさえるこ 労働者階級の現状を的 とで、当時のヨーロッパ・アジアの状況を包括的に理 確に分析した著作も完 解させられるとともに、幕末の日本とも関係の深いこと から、新学習指導要領で指摘されている「日本史との 成させている。1846年、 『最新世界史図説 タペストリー 十訂版』p.185 父の危篤を機にアム要 関連」に注目させることのできる素材でもある。 塞を脱出し、ロンドンへ移った。 1848年二月革命が勃発すると、一時的にパリに滞在 ナポレオン3世の前半生〜大統領就任まで したものの、臨時政府のラマルティーヌの助言に従い ここで、あまり知られていない大統領就任以前のナ ロンドンに戻った。そこで彼は労働者・社会主義者と ポレオン3世を紹介しておこう。 共和派との対立が表面化するのを待ち、9月の補欠選 彼は1808年ナポレオン=ボナパルト(ナポレオン1 挙に当選、議員となった。また、憲法が制定され、大 世)の弟ルイの息子として誕生した。しかし、父ルイ はルイ=ナポレオンを自分の息子であるか疑っていた ようで、ナポレオン1世が没落し、ボナパルト家が諸 統領選挙が行われることになると、彼は立候補し、 「ナポレオン=ボナパルト」の名に親しみを感じる農民 の支持により当選した。 国へ亡命することとなると、ルイ=ナポレオンは母オ 教材化の視点 ルタンスに従って亡命生活を送ることとなった。 亡命生活のなかで、彼はナポレオン1世の皇位継承 (1)フランスの産業革命の進展 者であるとの自覚を強めていく。1830年の七月革命の ナポレオン3世が皇帝として権力をふるった時期は 発生に心を動かされながらフランスへの帰国が叶わな フランスの産業革命が大いに進展した時期である。ナ かった彼は、政情不安定のイタリアで兄とともに蜂起 ポレオン3世の諸政策も、経済の発展をめざしたもの を計画して失敗、ロンドンへ移住することとなった。 が多かった。この点は軍事中心であった伯父ナポレオ 当時のロンドンは産業革命が進行する一方でさまざま ン1世と対照的である。 な社会問題も発生していた。こうして彼はサン=シモ 彼の経済政策を丹念に扱うことで、産業革命の進展 ンの思想を学ぶようになり、民衆の権利について考察 のようすや、これに伴い発生する社会問題の解決に を深めていくこととなる。 人々がどのように取り組んでいったのか理解を深める フランス東部のストラスブール(1836年)や、ドー ことができよう。以下に具体的な経済政策を紹介する。 ヴァー海峡の港町ブーローニュ(1840年)で駐屯軍を ①英仏通商協定の締結(1860年) 扇動して蜂起を企てたがいずれも失敗した。ナポレオ この協定は、石炭・綿花・羊毛などの原材料の関税 ンの名前を聞いただけで、兵隊がひれ伏すと思いこん をそれまでの最高100%から最高30%に引き下げると −6− いうものであった。商工業の振興には関税の撤廃が不 可欠であると信じていたからである。 アジアでも、イギリスの誘いに乗じてアロー戦争 (1856〜60)をともに戦い、通商上の利権を獲得した。 この協定の締結が発表されると、保守的な産業資本 インドシナ半島でも仏越戦争、カンボジアの保護国化 家は関税率が引き下げられればイギリスの安価な繊維 など、ナポレオン3世即位当時と比べるとその支配圏 製品がフランスに流入し、産業を破壊するとして反発 は3倍に拡大した。 した。しかし、設備の機械化を怠ってはイギリスとの ②幕末日本との関係 競争に勝てないと考え、結果的には設備投資を拡大さ 日本に対してもペリー来航に便乗して日仏修好通商 せる工場も増えたうえ、原材料費の低下は工業発展の 条約を結ぶなど、日本との貿易を開始した。さらに、 追い風となった。また、商業の面でも、商業資本家の 幕府と薩長の対立が激化すると、横須賀製鉄所を建設 経営するデパートなどでは、仕入れ価格が低下し、大 したり、幕府との貿易の拡大、軍事技術の指導などに 量販売が可能になることから、この協定を歓迎した。 よって、幕府に対する影響力を強めるとともに、国内 こうして協定締結の翌年には商業・鉱工業ともに未曾 のブルジョワ階級の利益につながるような外交政策を 有の繁栄を示すことになるのである。 展開した。 ②オスマンによるパリの大改造 1867年、パリで万国博覧会を開いた際には、幕府か ナポレオン3世が皇帝に即位した当時のパリの生活 ら派遣された徳川昭武(徳川慶喜の弟)とテュイルリ 環境は劣悪であった。街路は汚水で満たされ、空気も ー宮殿にて面会し、歓待している。万国博覧会には諸 よどみ、多くの者が感染症に苦しんでいた。狭く、曲 外国の君主を幅広く招聘し、オスマンが大改造したパ がりくねった街路では、バリケードを構築することも リの姿を示しながら、国威の発揚をねらったものであ 容易で、これまでたびたび革命に利用されてきた。産 る。幕府としても、徳川昭武が諸外国を歴訪すること 業革命に成功したロンドンで暮らしていたナポレオン で、その存在感を誇示するねらいがあったとみられる。 3世は、大統領になる以前からパリの改造を計画して なお、徳川昭武はフランスでフランス語を学んだり、 いたようである。 ナポレオン3世と面会するなどしている。 ナポレオン3世の計画に従い、セーヌ県知事オスマ ③イタリア統一の支援 ン(1809〜91)はパリの大改造を実施、老朽化した建 サルデーニャ王国のイタリアの統一に関与し、サヴ 築物の撤去、道路の拡張、上下水道の整備などが大々 ォイア・ニースなどを手に入れた。この地域は現在の 的に進められた。これらの政策は、住み慣れた住居を フランスでも重要な観光資源となっており、ヨーロッ 撤去された市民にとって苦痛を伴うものであったろう パ各地から観光客を集めている。 が、大きな抵抗もなくすすめられた。 おわりに (2)外交政策 ナポレオン3世は、帝国の威信を内外に示すべく世 ナポレオン3世は多岐にわたる活躍を遂げた人物で 界各地へ進出した。進出地域も幅広く、アジア・アフ ある。 「ボナパルティズム」という政治手法ばかりが リカのみならず、中米とも関わりをもっており、同時 注目され、具体的な政策に踏み込んで扱うことも多い 代史的な視点から、世界史を横につなげる格好の材料 が、第二帝政期の多岐にわたる政策を生徒に分析させ といえる。また、幕末期の日本との関係も深く、日本 ることにより、当時の為政者がいかに困難な政治的課 史との関連にも気づかせることができる点も重要であ 題に立ち向かっていったのか気づかせたい。 る。以下に具体的な事例を一部紹介しよう。 ①アフリカやアジアへの侵略と植民地の大幅拡大 アルジェリアの民族反乱の鎮圧をすすめるかたわら、 フランス人入植者が先住民の土地を奪ったり、アフリカ 諸国に財政借款を行ったりして影響力を強めていった。 [参考文献] 鹿島茂『怪帝ナポレオンⅢ世』 講談社 2010年 ティエリー・ランツ著 幸田礼雅訳『ナポレオン三世』 白水社 2010年 谷川稔他『世界の歴史22』 中央公論新社 1999年 高村忠成「幕末日本とフランス第二帝政の政治状況」『創 価法学』33巻1号 創価大学 2003年 −7−