Comments
Transcript
Title オズボーン判決(1909年)(II) : イギリス労働史におけるリベラリズムと
Title Author Publisher Jtitle Abstract Genre URL Powered by TCPDF (www.tcpdf.org) オズボーン判決(1909年)(II) : イギリス労働史におけるリベラリズムとソーシャリズム 松村, 高夫 慶應義塾経済学会 三田学会雑誌 (Keio journal of economics). Vol.90, No.1 (1997. 4) ,p.72- 88 Journal Article http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234610-19970401 -0072 「 三田学会雑誌」90巻 1 号 ( 1997年 4 月) オズボーン判決( 1909年) ( II)* イギリ ス 労 働 史 に お け る リ ベ ラ リ ズ ム と ソ ー シ ャ リズム — — 松 村 高 夫 v. 高等裁判所で の経 緯と ネヴィ ル判 決 合同鉄道従業員組合( A.S_R_S_ ) が 労 働 党 に 寄 金 す る こ と は 違 法 で あ る と す る オ ズ ボ ー ン の 訴 え にかんしては,計 3 回 の 判 決 が 下 さ れ た 。 ま ず, 高 等 裁 判 所 で は A .S.R .S. の 勝 訴 = オ ズ ボ ー ン の 敗訴となり,控訴審ではそれが逆転し, オズボーンの勝訴= A .S.R .S. の 敗 訴 と な り , さ ら に 上 院 で は 控 訴 審 と 同 じ 判 決 を 下 し た 。 こ の 1909 年 の オ ズ ボ ー ン が 勝 訴 し た 最 終 判 決 ( オズボーン判決とい うばあいは狭くこれを指すことが多い) は, 1913 年 労 働 争 議 法 制 定 に よ り 無 効 と な る ま で は , 効力を 発揮しつづけた。 3 回の裁判は, 当時の労働運動史におけるリベラリズムとソーシャリズムの対立 の 法 的 表 現 で あ っ た 。 以 下 , こ れ ら の 3 回 の 裁 判 に お け る 審 議 過 程 と 判 決 内 容 を 検 討 し , さらにそ の影響を具体的に明らかにしたい。 高 等 裁 判 所 で は 1908 年 7 月 2 1 日と2 2 日 に 審 議 が な さ れ た が , オ ズ ボ ー ン 側 の 弁 護 士 ジ ェ ン キ ン ス (C. E. E. J e n k in s) は, 主 と し て 2 つ の 点 を と り あ げ て A .S .R .S •の 労 働 党 へ の 政 治 寄 金 を 批 判 し た 。 第 1 は, 政 治 寄 金 を 可 能 と し た 1906 年 の 組 合 規 約 の 変 更 が , 手 続 き 上 の 正 当 性 を も っ て い な い と し た 点 で あ る 。 政 治 寄 金 を 認 め た A .S.R .S•の 規 約 は , 1906 年 10 月 の A .S.R .S .年 次 大 会 で 明 確 に 賛 否 を 問 う た 結 果 承 認 さ れ た も の で は な い し , A .S .R .S •の 各 支 部 が そ の 規 約 の 内 容 を 十 分 周 知 し て い た わ け で も な い , と 主 張 し た 。 また, A .S.R .S • 年 次 大 会 で 決 定 さ れ た 議 会 代 表 基 金 に か ん す る 規 約 変 更 は , 3 年 毎 に 変 更 可 能 と し て い る 組 合 規 約 18 条 に 違 反 し て い る の で 無 効 で あ る と し た 。 す な わ ち , 議 会 基 金 徴 収 の 規 約 13 条 の 変 更 は , 1905 年 の 年 次 大 会 で 行 わ れ て い る の で , 3 年 後 の 1908 年までは 変 更 で き な い は ず だ と 主 張 し た の で あ る 。 こ れ は 極 め て 技 術 的 な 手 続 き 上 の 批 判 で あ っ た。 もっと も そ の 規 約 は , A .S.R .S. 執 行 委 員 会 が 緊 急 に 必 要 と 認 め れ ば 3 年 経 ず と も 変 更 は 可 能 で あ る と 規 定 し て い た の で , 当 然 A .S .R .S •側 の 弁 護 士 は 規 約 変 更 が 「緊 急 に 必 要 と 認 め 」 て な さ れ た の だ と 主 * 前 稿 ⑴ は 『 三田学会雑誌』 86 卷 2 号, 1993年 7 月に掲載されている。 72 張し, 現 に 友 愛 組 合 登 記 所 が 変 更 し た 規 約 を 受 理 し 証 明 書 を だ し て い る で は な い か , と反論した。 第 2 は, 労 働 党 へ の 政 治 寄 金 に か ん す る よ り 本 質 的 な 問 題 で あ る 。 ジ ェ ン キ ン ス は , 労 働 組 合 が 議員に直接支払うことは認められるとしても,労働党のような労働組合の外部の団体に寄金するこ とは認められない, と主張した。 労 働 党 は 社 会 主 義 を 掲 げ , 労 働 組 合 の 目 的 と は異なる目的をもっ ているから, というのがその理由であった。選出された議員は労働党に投票することを強制される ので, 組合に利益になる法律であっても賛成投票ができないかもしれないというのである。 ネヴィル( J_ N e v ille ) 裁 判 長 は , 審 理 2 日 目 の 7 月 2 2 日 に ジ ヱ ン キ ン ス の 主 張 を 中 断 し , 早々と A .S .R .S . 勝 訴 の 判 決 を 下 し た 。 判 決 は , 手 続 き 上 の 不 備 と い う 点 に つ い て は , 登 記 所 の 規 約 変 更 を 認 め た 証 明 書 を 重 視 し て オ ズ ボ ー ン 側 の 主 張 を 斥 け , また, 立 法 化 を 促 進 す る た め に 議 員 に 支 出 す る こ と は , 労 働 組 合 員 の 利 益 を 追 求 す る 労 働 組 合 に と っ て 合 理 的 方 法 で あ る と し た 。 組合が選ん だ 議 員 は , 独 立 し た 議 員 と し て 議 会 に い 〈の か , そ れ と も あ る 政 党 の 支 持 者 と し て い く の か は , 全 く労働組合の自由に属することであるとしたのである。 ジェンキンスが社会主義は労働組合の存在 を 脅 す と 主 張 し た の に た い し , 判 決 は 社 会 主 義 を 選 ぶ か ど う か は 「政 策 の 問 題 」 ( question of policy) (l) であり,社会主義を掲げる政党に寄金するから違法であるとはいえないとしたのである。 このネヴィル判決の背景には, そ の 直 前 に な さ れ た ス テ ィ ー ル ( Steele ) 対 南 ウ ェ ー ル ズ 炭 鉱 夫 連 盟 ( S.W _M .F_) の 訴 訟 に た い す る 判 決 が あ っ た 。 そ の 訴 訟 は S.W .M .F •が 議 会 代 表 基 金 の 設 置 を 投 票 多 数 で 決 定 し 大 会 で も 承 認 し て い た な か で , 1906 年 ス テ ィ ー ル と い う 4 年 間 そ の 基 金 を 支 払 っ た 組 合 員 が 当 組 合 の 執 行 委 員 会 を 訴 え た も の で あ る 。 裁 判 の な か で 1876 年 法 16 条 を ど う 解 釈 す る か が論争点となったが,判決は炭鉱夫組合を勝たせ, 高等裁判所としては労働組合の政治寄金を合法 とした最初の判決となったものである。 ネ ヴ ィ ル 判 決 に た い す る 反 応 は さ ま ざ ま だ っ た 。 保 守 的 新 聞 『デ イ リ ー . エ ク ス プ レ ス 』 は, コ メントなしで, 「 社 会 主 義 者 に 支 払 っ て も よ い と い う 判 決 」 を 見 出 し と し た 。 自 由 主 義 的 新 聞 『レ ノ ル ズ . ニ ュ ー ズ ペ イ パ 一 』 は, R . ベ ル ( A.S.R.S•総書記) が 判 決 は 意 外 だ っ た と 語 っ た と 報 じ た 。 『レ イ バ ー • リーダー』 は, 「この判 決 は , 今 回 だ け 労 働 組 合 の 労 働 党 支 持 を 否 定 す る 努 力 か ら 労 働 (2 ) 組 合 を 守 る だ ろ う 」 と書いた。 「 今 回 だ け 」 という予測は, その後的中することになるのだが, こ のネヴィル判決にたいしてはまだ労働界全体は強い関心を示したようにはみえない。 A .S .R .S •の 年 次 大 会 で は , ネ ヴ ィ ル 判 決 が 労 働 組 合 の 政 治 活 動 を 認 め た も の と し て 歓 迎 さ れ た の は当然である。支部のなかにはオズボーンにたいして組合除名などの強い措置をとるべきだと主張 ( 1 ) Philip S. Bagwell, The Railwaymen: The History of the National Union of Railwaymen, vol.I, chapter 9; M. J. Klarman, The Osborne Judgment/Historical Analysis, D. Phil, thesis, 1987, Oxford, chapter 3. ( 2 ) Daily Express、July 2 2 ,1908; Reynolds’ Newspaper, July 2 6 ,1908; Labour Leader, July 24,1908, quoted in Klarman, ibid., pp.89-90. 73 する支部もあった。 たとえば,ペ イ ズ リ 一 ( P a is le y ) 支 部 は , 本 部 の R . ベ ル 宛 に , 「オ ズ ボ ー ン 敗 訴の判決がなされたので, この件にかんし当組合に生じた全支出はオズボーンが支払うべきであり, (3 ) か れ が 組 合 員 と し て 残 る の に 妥 当 な 人 物 で あ る か 否 か , つ ぎ の 執 行 委 員 会 の 議 題 に す る よ う 」要 請 し てい る 。 こ の 時 点 で は 執 行 委 員 会 は オ ズ ボ ー ン を 除 名 す る こ と は し な か っ た し , また, できるこ と で も な か っ た 。 じ じ つ 9 月 中 旬 の A .S.R .S•執 行 委 員 会 は オ ズ ボ ー ン 問 題 を 討 議 し た が , 何 の 決 (4) 定 も し て いない。後述す る よ う に , 組合がオ ズ ボ ー ン を 除 名 し 新 た な 訴 訟 が 起 こ る の は , 上院の最 終判決がでた後のことである。 一方, オズボーンはネヴィル判決に落胆したが,控 訴 す る 決意を固めた。 オズボーンはその理由 を つ ぎ の よ う に 書 い て い る 。 「わ た し の 最 近 の 行 動 は わ た し の 名 前 で な さ れ た が , しかし, 本当は A .S .R .S •の ウ ォ ル サ ム ス ト ウ 支 部 で あ っ た 。 わ た し は 2 つ の 目 的 を も っ て い た 。 第 1 は, 組 合 が 外 部 の 政 治 団 体 と 連 携 し 基 金 を 使 う こ と を 防 止 す る 禁 止 命 令 を 得 る こ と で あ っ た 。 … …社 会 主 義 が 労 働組合の関門であることが, いまや明らかである。 われわれの情報源によると,労働組合に加入す ることにより, あなたは全ての政治的自由を奪われ,政 党 を 1 つだけ支持しなければならない。ベ ル 氏 と T •ハ ー ト や ス テ ドマンのような良心的な人々は排除され, そ れ に 代 わ っ て 無 節 操 な ( 利己 的な)政 治 的 山 師 が 入 っ て く る こ と に な る 。 か よ う な 重 大 な 決 定 は , 一 人 の 裁 判 官 の 意 見 に 依 拠 す (5 ) べ き で は な い 。 そ れ 故 わ た し は 控 訴 す る べ く 試 み て い る 。」 そ の 年 の 夏 の 終 わ り に , 炭 鉱 夫 組 合 が 労 働 党 へ の 参 加 を 決 定 し た こ と が オ ズ ボ ー ン の 危 機 感 を 増 し , 控 訴 の 意 志 を 固 め さ せ た 。 オズボー ンは敗訴した結果,裁判費用を支払わねばならず, 資金不足に悩まされたが, かれの弁護士ウィル キンソン( C. T. W ilk in so n ) か ら 借 金 し て よ う や く 控 訴 し た 。 オ ズ ボ ー ン は 回 顧 録 の な か で , 「わ (6 ) たしは寄 付 さ れ た 金 の 全 て を 失 っ た 」 と書いている。 オ ズ ボ ー ン は , 自 ら の 主 張 を 新 聞 を と お し て 訴 え た 。 1908 年 11 月 4 日 の 『デ イ リ 一 • エ ク ス プ レ ス』 に は , 「わ た し は 国 中 の 労 働 組 合 員 た ち か ら , か れ ら が 社 会 主 義 労 働 党 へ の 寄 金 を 強 制 さ れ て ( 3 ) Letter from Wm_ Weir, secretary of Paisley branch, A.S.R.S. to R. Bell, August 8 ,1908. (MSS. 127/A S/O C /3/4/22) (4 ) 1 9 0 8 年 9 月2 0 日にオズボーンはベル宛の葉書で,最近の執行委員会でオズボーン問題を討議した が, それは本人に通知されなかったし,招 聘 も さ れ な か っ た こ と は 「かなり特異である」 と書き, 明日シティ一にいき A.S.R.S. の本部事務所に寄るので経緯を説明してほしい旨求めた。 これにたい しべルは 9 月21 日付けで,執行委員会の議事録がオズボーンのもとに着いたら見てほしい, 「 会議で 何が語られたかを貴兄や何人かの人に報告するのはわたしの任務ではない。 わたしは同じ決定を伝 えるだけである。 あなたの行動にかんするかぎり,決定は何もなされなかった」 と返信している。 (Letter from W.V. Osborne, W althamstow branch, A.S.R.S. to R. Bell, September 20,1908, MS. M SS.127/A S/O C /3/13/36 ;Letter from R. Bell to W.V. Osborne, September 21 ,1908, MSS. 127/ A S/O C /3/4/28) (5 ) Letter from W.V. Osborne to probably Edward Charles, EC, August 14,1908. (M SS.127/AS/ O C /3/4/24/i) (6 ) W.V. Osborne, My Case, 1910, p.22, f. 74 い る と の 多 数 の 不 満 を 受 け と っ て い る 。 わ た し が 個 々 の 組 合 に た い し て 禁 止 命 令 を だ す た め , 政治 基金に良心的に反対する組合員がいるばあいには, わたしの弁護士に推薦する用意があると知らせ (7) _ て く れ る よ う 願 う 」 と, 控 訴 を 支 持 す る 組 合 員 の 拡 大 を 訴 え , 控 訴 の 正 式 な 申 請 は 近 い と 書 い て い る。 V I. 1. 控訴審判決 判決の経緯と内容 1908 年 11 月 1 2 日, 1 3 日, 1 6 日 に , 3 人 の 控 訴 院 判 事 , コ ウ ズ ン ズ = ハ ー デ ィ 一 (Cozens-Hardy) , モ ウ ル ト ン (Fletcher M oulton) , フ ァ 一 ウ エ ル (F arw ellL . JJ . ) の も と で 開 か 控訴審は れ た 。 オ ズ ボ ー ン 側 の 弁 護 士 と し て ふ た た び ジ ェ ン キ ン ス が 立 ち , 前 回 と 同 様 A_S.R_S .の 議 会 代 表基金にかんする規約の手続き上の有効性も問題にしたが,今回力点を置いたのは規約そのものの 違法性であった。寄金先の労働党が社会主義政党であることを印象づけるために,労働党大会で生 産手段の公的所有( パ ブ リ ッ ク • オーナーシップ) を 党 の 目 的 と し て 決 定 し て い る こ と を 引 用 し , 国 会議員が一国の利益という観点からではなく, かれに寄金を支払った団体の単なる代弁者となるこ 2 人の判事コウズン ズ = ハ ー デ ィ ー と モ ウ ル ト ン は , 1906 年 労 働 争 議 法 の 労 働 組 合 基 金 を 規 定 し た 4 条を と く に 問 題 と したが, こ れ に た い し , A .S.R .S.側 は 1871 年 • 76 年 労 働 組 合 法 を も っ て 対 抗 し た 。 同 労 働 組 合 法 は とを強制している組合規約は違法である, と主張したのである。 そのさい, 労働組合が代表を議会に選出することを制限していないので,組合は自由に議員を選出できるはず だと主張したのである。 だ が , 判 事 が A .S.R .S .側 の 弁 護 士 ピ ー タ ー ソ ン に 向 か っ て , 執 行 委 員 が 非 産 業 的 目 的 で 行 動 し た ば あ い , 組 合 の 財 政 上 の 責 任 は 問 わ れ な い の か と 尋 問 し た の に た い し , ピ ー タ ー ソ ン は財政上は 免 責 さ れ る と 答 え た が , こ の 回 答 に 2 人 の 判 事 は 不 満 だ っ た 。 また, も う 1 人 の 判 事 フ ァ ー ウ ェ ル も, 組 合 員 に は 政 党 を 選 択 す る 自 由 が な く , 組 合 員 は 「奴 隸 な の か ?」 と 尋 問 し た 。 このような判 事 た ち の 反 労 働 組 合 的 態 度 は , 審 議 の 途 中 で 明 白 と な っ た 。 こ こ で, 判 事 が 議 会 代 表 基 金 の 強 制 徴 収と特定候補者への強制投票を混同していたことは,留意しておく必要があろう。 控 訴 審 判 決 は 1908 年 11 月 2 8 日 に だ さ れ た 。 予 測 さ れ た と お り 3 人 の 判 事 は ほ ぼ 同 意 見 で , 先のネ ヴィル判決を覆し, オズボーンを勝訴とした。判 決 は 1 時間を越える長いものであった。判決は, A .S .R .S . と そ の 信 託 者 が 組 合 規 約 13 条 4 項が規定する目的で組合基金を支出することを禁止し,議 員 の 給 与 支 払 い も 停 止 し な け れ ば な ら な い , と す る も の で あ っ た 。 A .S.R .S •の 議 会 代 表 基 金 に か ん す る 組 合 規 約 は 正 当 な 手 続 き で 通 過 し た の で な く , また, そ れ 自 体 が 違 法 性 を 有 す る と い う の が そ ( 7 ) Daily Express, November 4 ,1908. 75 の理由であった。 以下, 判決内容をやや詳しくみてみよう。 判 決 の な か で コ ウ ズ ン ズ = ハ ー デ ィ 一 は , 1871 年 . 76 年 労 働 組 合 法 16 条 は 「制 限 さ れ 限 定 さ れ た 規 定 」 で あ る か ら , 議 会 代 表 支 持 の よ う な そ れ 以 外 の 目 的 を 付 加 し て は な ら な い , と し て いる 。 か れ は こ う い う 。 「わ た し が 厳 格 な 労 働 組 合 の 目 的 と 呼 ぶ も の に 付 加 し た な ん ら か の 労 働 組 合 の 行 動 に, 〔 1906年労働争議法による〕免 責 と 除 外 が 適 用 さ れ る こ と が 可 能 で あ る と 考 え る の は , わたしに は 無 茶 で あ る よ う に 思 わ れ る 。」 1871 年 • 76 年 労 働 組 合 法 の 目 的 か ら し て , 「そ の 意 志 の な い 少 数 者 」 を 罰 金 • 除 名 な ど に よ り 強 制 し て , 「心 か ら 賛 成 し て い な い 目 的 の た め に 」 寄 金 さ せ る こ と は で き な い, と。 こ う し て , 労 働 組 合 が 議 会 代 表 の た め に 強 制 基 金 を 用 意 す る こ と は 違 法 で あ る と 明 言 し た 。 コウズンズ= ハ一ディ一 は ま た , A .S.R .S. の 規 約 変 更 を 認 め た 登 記 所 の 証 明 書 に つ い て は , 登 記 証 明書は規約が正当に通過したことの証拠にはならないと判定した。 つ ぎ に , 判 事 モ ウ ル ト ン は , A .S.R .S. の 規 約 変 更 の 問 題 を 重 視 し , 組 合 規 約 2 条 4 a 項は大会で 承 認 後 3 年毎しか変更できないと規定している, 緊急のばあいはその限りではないとしているが, A .S.R .S •の 大 会 で 緊 急 で あ る と 指 定 す る 決 議 は な さ れ て い な い , と 判 定 し た 。 具 体 的 に は , 力一 デ ィ フ の 1906 年 A_S_R.S•年 次 大 会 に お け る エ ム ブ レ ム 氏 の 演 説 は , 執 行 委 員 会 が 規 約 変 更 を 緊 急 で あ る と 扱 っ た よ う な 内 容 で は な く , し た が っ て 執 行 委 員 会 は 大 会 の 決 定 を 越 権 (ウルトラ•ヴァイラ ス) し て い る の で あ り , 規 約 変 更 は 正 当 に 通 過 し た と は い え な い , と し た の で あ る 。 さ ら に 登 記 証 明 書 が あ る か ら と い っ て , そ の 規 約 変 更 が 有 効 な も の と は い え な い と し た 。 そ の 理 由 と し て , 登記 官は相反する内容をもつ申請書を同時に受け取った例もあったように, いかなる申請でも受け付け る と し て い る 。 最 後 に モ ウ ル ト ン は , 組 合 の 政 治 活 動 自 体 の 違 法 性 を 問 題 に す る 。 1876 年 労 働 組 合 法 16 条 は , 労 働 組 合 活 動 の 「包 含 的 規 定 」 (イ ン ク ルー シヴ • ディフィニション)で あ っ て , 組 合 活 動 は 規 定 が 含 意 す る こ と (お よ び そ の 補 助 的 事 項 と 閨 連 し た 事 項 ) だ け に 限 る と 解 釈 し , そ こ に は 政 治 的 活 動 は 含 ま れ て い な い と し た 。 そして, 組 合 員 に た い し 組 合 推 薦 の 候 補 者 に 投 票 す る こ と が 強 制されることを批判しただけでなく,組合による寄金を交換条件にして議員が選出母体の利害に則 し て 行 動 す る こ と は , ハ。 プ リ ッ ク • ポ リ シ ー に 反 す る と し , こ の よ う な 契 約 を し た A_S_R.S •の規約 13 条 4 a 項 と 1906 年 の カ ー デ ィ フ 大 会 で 通 過 し た 新 第 7 条 と は と も に 無 効 で あ る と し た の で あ る 。 モ ウ ル ト ン は そ の 例 え と し て , プリストノレ選出の議員はプリストル選挙区民のために行動してはな らず, 英 国 国 民 全 体 の た め に 行 動 し な け れ ば な ら な い と 主 張 し た 。 こ れ は い う ま で も な く , エドモ ン ド • パ' ー ク の 主 張 し た 保 守 主 義 を 特 徴 づ け る 有 名 な フ レ イ ズ で あ る 。 判 事 フ ァ ー ウ ヱ ル も 同 様 に , パ ブ リ ッ ク . ポ リ シ ー の 観 点 か ら A .S.R .S. の 組 合 規 約 は 越 権 ( ウ ル ト ラ • ヴァイラス) で あ る と の 判 (8 ) 決をだしている。 (8) 控訴審の判決内容に つ い て は , Letter from Pattinson & Brewer to R. Bell, November 2 8 ,1908. (MSS. 1 2 7 /A S /O C /3 /2 /2 8 ) が タ イ プ 用 紙 6 枚に詳しく報告している。 76 2 . 判 決 に た い す る A .S.R .S •などの対応 控 訴 審 判 決 の で た 日 , 破 れ た A .S.R .S. の 担 当 弁 護 士 事 務 所 パ テ ィ ン ソ ン . ア ン ド _ ブ ル ー 了 一 は, そ の 判 決 内 容 の 要 約 を 総 書 記 R • ベ ル に 伝 え , そ の な か で , 「こ の 判 決 の 結 果 , 議 員 を 支 持 す (9) る た め に 寄 金 す る こ と は 全 く 不 可 能 に な る だ ろ う 」 と書いた。 しかし, ベ ル に と っ て は 予 想 外 の 判 決であり, 判決にともないさまざまな問題が生じることが予想された。ベルはつぎのような点を弁 護士ピ一ターソンに至急問い合わせてくれるよう求めている。 r1 執 委 員 会 ま た は 年 次 大 会 は ,組合員にたいし議会または地方議会の代表への寄金を強制 できるか? 2 3 組合は,現在の国会議員の給与と支出を組合基金から支払うことを継続できるか? 執行委員会は,議会基金規則により寄金された議会基金のなかの手持ちの金を分配しつづ けることができるか? 4 5 組合は, その基金から労働党の加盟費を寄金できるか? 執 行 委 員 会 は , 組 合 員 か ら 自 発 的 (ヴォランタリー)基 金 を 求 め 管 理 す る こ と が で き る か ? 6 7 議会代表にかんする規約または規約の一部は, いまや無効なのか? 組合は組合基金からハドソン氏に組織書記として給与を支払っているが, かれの時間を議 会にだけ費やさせることはできるか? 8 9 10 控訴審の決定を覆すために, いかなる示唆が得られるか? 議会代表を合法化するために,労働組合法のいかなる改正が必要か? (10) 「組 合 の 目 的 」 を 特 定 し な い 規 約 と い う も の は 可 能 か ?」 上 記 の 10 項 目 の 問 い 合 わ せ に た い し , ハ。 テ ィ ン ソ ン . ア ン ド • ブ ル ー ア ー 法 律 事 務 所 は , 12 月 10 日 ピ 一 タ 一 ソ ン か ら の 「レイバ ー . コ ン グ レ ス へ 参 加 す る費 用 を だ す こ と が 判 決 の 禁 止 命 令 違 反 に (11) なるか否かは,議事の内容いかんである」 との返事を伝えた。 各 支 部 か ら も 問 い 合 わ せ が あ っ た 。 11 月 3 0 日 に は ハ ス ラ ン ド ( H a sla n d ) 支 部 か ら 「控 訴 審 の 判 決により,議会基金をわれわれは組合員に強制できないことになったが, もしかれらが同額を自発 的寄金として払うと考えたならば, われわれは同額を受け取ることが正当であろうとわたしは考え (12) る」 と して, そ れ に つ い て 意 見 を 求 め て い る 。 ま た, ラ ン カ ス タ ー ( L a n ca ster) 支 部 は , 12 月 1 ( 13) 日 に 議 会 基 金 を 12 月 の 分 と し て 徴 収 で き る か を 問 う て い る 。 こ れ に た い し て ベ ル は 明 確 に , 「あな (9) (10) (11) (12) Ibid. Letter from R.Bell to Pattinson & Brewer, November 30 ,1908. (M SS.127/AS/O C/3/2/29) Letter from Pattinson & Brewer to R. Bell, December 1 0 ,1908. (M SS.127/AS/O C/3/2/33) Letter from A. Singler, secretary of Hasland branch, A.S.R.S. to R. Bell, November 30,1908. MS. (M SS.127/A S/O C /3/8/3) (13) Letter from A. Chamberlain, secretary of Lancaster branch, A.S.R.S to R. Bell, December 1,パ 77 ( 14) _ た は 議 会 基 金 を 要 求 で き な い 」 と 答 え て い る 。 12 月 8 日にはベルは総書記として各支部に向かって, 議会基金は要求できない旨通告し徹底しなければならなかった。 一 方 , オ ズ ボ ー ン は , 12 月 6 日執行委員会に宛てて「 私 信 ( private) 」 を 送 っ た 。 オ ズ ボ ー ン の 訴訟の費用など資金の出所についてはさまざまな憶測がながれていた。訴訟の背景には資金を提供 す る 「誰 か が 背 後 に い る 」 と い う 憶 測 で あ る 。 か れ は そ の 私 信 の な か で , 「わ た し の 支 部 が っ て き た 政 治 寄 金 に た い す る 4 年 半 の 闘 い に か ん し て お か し な 点 は 何 も な い 。 わたしの全会計帳簿はあ な た の 検 査 の た め に 公 開 さ れ て い る し , も し あ な た が 望 む な ら , つ ぎ の 年 4 回 の [執 行 委 員 会 ] 会 議 に よ ろ こ ん で 報 告 書 を 提 出 し た い 。 た だ し , そ の 時 に 訴 訟 の 決 着 が つ い て い た ら の 話 だ が 。」 と 書 い て い る 。 また, 「わ た し は 明 確 に 誓 っ て い う が , い か な る 個 人 も 団 体 も そ の 行 動 の 背 後 に は いないし, わたしの支部以外にそれに関わっているものはいない。 わたしの支部も支持決定をとお し た 以 外 に ほ と ん ど 何 も し て い な い 」, 「わ れ わ れ の 組 合 員 の 憤 激 し た 良 心 の 自 然 発 生 的 爆 発 」 であ ( 15) るとも述べている。 控訴審判決が労働党への寄金を禁止しただけでなく, それ以外の政党への寄金も禁止した点は, オ ズ ボ ー ン の 最 初 の 思 惑 を 越 え た も の で あ っ た こ と は 間 違 い な い 。保 守 党 や 自 由 党 へ の 寄 金 も 禁 止 さ れ た の で あ る 。 A .S.R .S•に 則 し て い え ば , リ ブ . ラ ブ 派 の R _ベ ル へ の 寄 金 も で き な い と い う こ と になった。 この点をオズボーンは止むをえなかったとして, つぎのように書いている。 「 今 回 の 決 定 は わ た し の 意 図 し て い た 以 上 に 進 ん で し ま っ た (ようにみえる) が , 必ずしもそう ではない。 そ こ で は 〔 ネヴィル法廷では〕 , スティール訴訟の判決にわれわれは縛られていたし, わ たしもまさしくそう考えていた。 あの法廷で, ご存じのようにわれわれは敗訴し,控訴に向けて準 備 し た 。 しかしいまや炭鉱夫たちが, 多数の組合員の反対にもかかわらず,社会主義労働党への加 盟 を 決 定 し た 」 と い う よ う な 状 況 下 で は , 労 働 党 以 外 の 「良 き 議 員 た ち 」 も 禁 止 さ れ る こ と は 止 む を え な い と 考 え て 訴 訟 し た 。 す な わ ち , 「わ た し は 個 々 の 議 員 の た め で は な く , 原 則 の た め に 闘 わ ざ る を え な か っ た 。 … …半 分 は 認 め , 半 分 は 反 対 す る と い う の は 困 難 だ っ た 。 状 況 を よ り 明 確 に す (16) る た め に わ れ わ れ は 全 て の こ と は パ ブ リ ッ ク • ポ リ シ ー に 反 す る と 主 張 し た 」。 そ し て , オ ズ ボ ー ン は 上 院 に ア ピ ー ル し な い よ う , つ ぎ の よ う に 要 求 し た 。 「も し あ な た が 上 院 に 持 ち込むならが, そ こ で あ な た と 会 う よ う に し た い 。 た と え 資 金 の た め に ロンドンの街頭で物乞 い せ ざ る を え な く と も 。 い く つ か の 組 合 は A .S.R .S•へ の 禁 止 命 令 を 無 視 す る と い っ て い る 。 もし そうであるならば, わたしは自由になった奴隸として, わたしの仲間の奴隸を自由にすることを助 \ 1908, MS. (M SS.127/A S/O C /3/8/6) (14) Letter from R. Bell to A. Chamberlain, December 2 , 1908. MS. (M SS.127/AS/O C/3/8/14) (15) letter from W.V. Osborne to E. C., A.S.R.S., December 6,1908, MS. (private). (M SS.127/AS/ OC/3/13/41) (16) Ibid. 78 ける用意がある。 自由はわたしにとって生命の息吹である。 雇用者には被雇用者にたいしてトーリ 一 党 を 支 持 す る よ う に , そ う で な け れ ば 解 雇 す る と い う 脅 し で も っ て 強 制 す る 権 利 が あ る と , 法廷 であなたは認めたことを想起されたい。裁判長が厳しく問い詰めたとき, あなたはそれを認めたの ( 17) で あ る 。 自 発 的 基 金 に は 干 渉 し な い か ら , こ の 訴 訟 を 上 院 ま で も っ て い て は な ら な い 。」 1908 年 12 月 1 1 日, A .S .R .S .執 行 委 員 会 は 上 院 18 に ア ピ ー ル す る こ と を 全 員 一 致 で 決 定 し た が , そ れ を ォ ズ ボ ー ン は r社 会 主 義 者 の 最 後 の 逃 避 所 」 と 揶 揄 し た 。 A .S.R .S•に と っ て は , 従 来 か ら 労 働 組 合 が 政 治 寄 金 を つ づ け て き た と い う 歴 史 も さ る こ と な が ら , g 由 党 や 保 守 党 に 比 べ て 控 訴 審 の 判 決 は 余 り に も 不 公 平 に み え た 。 と い う の は ,1900 年 か ら 6 年 に か け て 議 会 に は 鉄 道 会 社 の 利 益 代 表 者 は 53 人 お り , 1906 年 の 選 挙 で 21 人 に 減 っ た と は いえ , 労 働 者 の 代 表 は 3 名 に す ぎ な か っ た か ら で あ る 。 その 21 名 は 鉄 道 会 社 か ら 支 払 わ れ て い た の 19 に た い し , A .S.R .S•だ け が 議 員 へ の 支 払 い を 禁 止 さ れ た の は い か に も 不 公 平 で あ っ た 。 だが,上 院 へ の ア ピ ー ル は 時 間 の 問 題 で あ っ た 。 ( ( ) ) 控訴審判決にたいし, 労働界の反応は概して楽観的だった。他の組合はまだこの判決にたいして 闘うという姿勢はとらなかった。 判決は労働組合を団結させ, 労働党を最終的には強化するだろう (20 ) との見解もあった。遠からぬうちに自由党政権は, 判決を覆す立法をなすだろうとの見方もあった。 1906 年 労 働 争 議 法 に よ り タ フ • ヴヱイル判決が覆った2 年前の余韻がまだ残っていたのである。 ま (2 1 ) た, 判 決 は 自 発 的 政 治 寄 金 を 禁 止 し て は い な い の で , 従 来 通 り 寄 金 で き る と す る 解 釈 も あ っ た 。 労 働 者 の 新 聞 よ り も , 『グ ラ ス ゴ ウ ■ヘ ラ ル ド 』, 『マ ン チ ェ ス タ ー . ガ ー デ ィ ア ン 』, 『 ペル . メ ル •ガ セット』 などの自由主義的新聞のほうが危機感を抱き, こ の 判 決 を タ フ •ヴ ェ イ ル に 匹 敵 す る 反 労 (2 2 ) 働者的な弾圧判決であると警告していた。 判決の直接的影響は,すぐに現れはじめた。判 決 が で た 1 週間後には, 南ウェールズ炭鉱夫連盟 (S .W .M .F .) や ロ ン ド ン 植 字 エ 組 合 に み ら れ た よ う に , 登 記 所 が 中 央 や 地 方 の 議 員 を 支 持 す る 規 約 をもつ労働組合の規約登録を拒否した。労働党に反対する組合員が法的に訴えるケースも現れた。 (23) S.W .M .F . 所 属 の 炭 鉱 夫 は , す で に 過 去 5 年 間 支 払 っ た 議 会 代 表 基 金 の 払 い も ど し を 組 合 に 求 め た 。 1909 年 1 月 2 7 日には, S.W .M .F •の 議 会 基 金 は 違 法 で あ る と す る 訴 訟 が マ ウ ン テ イ ン . ア ッ シ ュ • 力 (17) Ibid. (18) Osborne, My Case, op.cit” p .49. 上院にアピールするためには通常の担保金が 200 ポンド, それに 保障金が 500 ボンド要る。 これを労働組合のばあいには上院に収めなければならないので, その額を 送るようにとハ。 テ ィ ン ソ ン . ア ン ド • ブ ル ー ア ー 法 律 事 務 所 は ベ ル 宛 に 12 月 14 日に書いている。 (M SS.127/AS/O C/3/2/38) (19) Bagwell, op. cit” p.89. (20) Labour Leader, December 4 ,1908. (21) Ibid., March 1 5 ,1909. (22) Glasgow Herald, November 30 ,1908; Manchester Guardian, November 30 ,1908; Pall Mall Gazette, November 30,1908, quoted in Klarman, op. cit., pp.98-99. (23) Times, December 14,1908. 79 ウンティ一裁判所におこされ, 同 年 2 月 れた。植 字 エ の 組 合 で も 同 年 2 月 5 4 日には払い戻しを認め,政治寄金を禁止する判決がださ 日, 同 じ く 議 会 代 表 基 金 の 禁 止 命 令 が 決 定 さ れ , 自発的寄金に 切 り 換 え ざ る を え な く な っ た 。鋳 鉄 工 や 大 工 指 物 師 の 組 合 も , それぞれ安全のため自発的寄金に切 り換えた。 A .S .R .S . 内 部 へ の 控 訴 審 判 決 の 衝 撃 は 大 き か っ た 。 ト ー ト ン 第 2 支 部 は , 1908 年 12 月 7 日に 50 名の支部組合員の要請として,執行委員会にたいしべルがどれだけオズボーンと連座していたのか 調 査 せ よ , オ ズ ボ ー ン は 組 合 を 破 壊 す る た め に や っ た か 否 か を 調 査 せ よ , も し そ う な ら ば 「規約に よ っ て 関 係 者 全 員 を 組 合 か ら 除 名 す る よ う 手 段 を と る こ と 」 を求め, ベ ル の 議 会 費 用 も す ぐ に 止 め (24) よと書き送った。ベ ル は リ ブ • ラ ブ 派 と し て 国 会 議 員 に 選 出 さ れ て い た の で , 労働党支持者からは 根深い反発があり, オズボーンと通底しているのではないかとの疑惑がかけられたのである。 一方べルはベルで, オズボーンを陰謀罪で告訴できないかと弁護士ピーターソンに問うている (12 月14 日)が , ピ ー タ ー ソ ン は 「か れ は 組 合 を 傷 つ け る 目 的 で 団 結 し て は い な い 。 か れ の 目 的 は 組 合が, かれが信じるように, また控訴審が考えたように, 非合法な方法で行動することを阻止する ことであった。 わたしの意見では, たとえかれや他のひとびとが法定団体の力の行き過ぎを阻止す (2 5 ) る 目 的 で 共 同 行 動 を し よ う と も , そ の ひ と は 陰 謀 罪 に は な ら な い 」 と, 回 答 し て い る ( 12 月 17 日)。 A .S .R .S •は 弁 護 士 の 助 言 を 得 て 自 発 的 寄 金 に 切 り 換 え , また, 1909 年 3 月には同年度の労働党大会 には代表を送らないと決定することになった。 3. 「自 発 的 議 会 基 金 」 の 創 設 禁 止 さ れ た 強 制 的 基 金 に 代 わ っ て , A .S .R .S •は 自 発 的 に 基 金 を 集 め る 方 法 を 案 出 し た 。 「鉄 道 従 業員自発的議会代表協会」 ( Railwaymen’s Voluntary Parliamentary Representation Association ) が そ れ で あ る 。 そ の 協 会 の 書 記 に は , 『レ イ ル ウ ヱ イ . レ ビ ュ ー 』 編 集 長 で 労 働 党 の 議 員 で あ る ウ ォ ー ド ル ( W a r d le ) が な っ た 。 ベ ル は こ の 組 織 を A .S.R .S•か ら 独 立 し た も の す る 必 要 が あ り , 各 支 部 からの問い合わせにたいして, 自分は答える立場にはないから, 直接ウォードルに問うようしばし (26) ば回答している。 つぎのビラは, グ ロ ー ス タ ー 支 部 が 自 発 的 基 金 の 集 会 を 呼 び か け た も の で あ る 。 しかしこのばあ い も, 同 支 部 と 自 発 的 基 金 の 組 織 と は 建 前 上 切 り 離 さ ね ば な ら な か っ た 。 (24) Letter from F. Newman, secretary of Toton No.2 branch, Notts, A.S.R.S. to R. Bell, December 7,1908, MS. (M SS.127/AS/O C/3/13/42) (25) Letter from Pattinson & Brewer to R. Bell, December 10,1908 (M SS.127/A S/O C /3/2/33); Opinion by A. F. Peterson, Lincolns Inn, December 1 7 ,1908. (M SS.127/AS/O C/3/2/44) ( 2 6 ) 例えば ,Letters from H. Payne ,Monmouth, January 12,1909 ,(M SS.127/A S/O C /3/8/93), and from C. Hammonds, Craven Arms branch, December 29,1908. (M SS.127/AS/O C/3/8/88) 80 「 特別 鉄道労働者代表協会( Railwaymen’s Labour Repesentation Association) 鉄道労働者の仲間へ オ ズ ボ ー ン 対 A .S.R .S. 訴 訟 の 控 訴 審 の 判 決 に よ り , 労 働 組 合 は 現 在 議 会 ま た は 地 方 の 労 働 代 表 の ために基金を集めることが禁止されている。 それ故グロースターに協会を結成する見通しをもって 集 会 を 開 〈こ と が 決 定 さ れ た 。 わ れ わ れ は 皆 わ れ わ れ の 議 会 代 表 -------- ^ル, ノヽドソン, ウ ォ ー ド ル の諸氏が良い仕事をしていると認識している。 それ故われわれは, かれらをわれわれの代表として 継続するために基金を実現することを理解しなければならない。労働の大義は偉大なものであり, 全ての労働者の協同を必要としている。 ア ー サ ー • ホ ー ル ダ ー 集 会 日 , 日曜, 3 月2 8 日 集会場所, ヴ ォ ク ソ ル ホ テ ル 集 会 時 間 , 午 後 6 時 30 分 (27) 来たれ! 」 こ の ビ ラ は グ ロ ー ス タ ー 支 部 の 書 記 ホ ー ル ダ ー より本 部 の ベ ル 宛 に 送 付 さ れ た も の で あ る が , 添 付 さ れ た 書 簡 に は 自 発 的 協 会 は A .S .R .S •の組 合 員 に か ぎ る の か , そ れ と も 鉄 道 労 働 者 全 員 で よい の か と 問 う て お り , さ ら に 組 合 員 カ ー ド に 議 会 基 金 を 記 入 す る の は 禁 止 命 令 違 反 に な る の か も問う て い る 。 また, ア サ リ ン ト ン 支 部 か ら も 問 い 合 わ せ が あ っ た よ う に , 12 月 末 に 集 金 し た 強 制 基 金 は (2 8 ) _ 判決が最終的にでるまでそのままにすベきかどうかも問うている。控訴審判決後数力月経っても, 各支部は依然として控訴審判決の意味や自発的基金との関係を明確には捉えていなかったことがわ か る 。 ベ ル は 3 月 2 7 日, ホ '一 ル ダ 一 宛 に , 組 合 員 力 一 ド に 議 会 基 金 を 記 入 す る の は 禁 止 命 令 に よ り 違 法 と な る , 議 会 の 目 的 で 集 め た 資 金 を 支 部 運 営 の 目 的 で 使 用 す る こ と も で き な い , 自発的基金の (29) ことは全てウォードルに聞け, と答えている。 自発的基金は控訴審判決から逃れる方法として考案 されたものであったが, その後の経過をみると成功したとは評価できない。 4. 「ノ ヽ ド ソ ン 問 題 」 (3 0 ) こ の よ う な な か で , 組 合 に と っ て の 難 問 は 「ハ ド ソ ン 問 題 」 で あ っ た 。 「ハ ド ソ ン 問 題 」 とは, ( 2 7 ) ビラは, M SS.127/A S/O C /3/8/120/iv. (28) Letter from Arthur Holder, Gloucester branch, A.S.R.S. to R. Bell, March 26,1909, MS. (MSS. 127/A S/O C /3/8/120/ii) (29) Letter from R. Bell to A. Holder, March 2 7 ,1909. (M SS.127/AS/O C/3/8/120) (30) ノヽドソン問題は, M SS_127/A S/O C /3/4/115. に E. C. M in u tes などが一括してまとめられている (30ページ)。 81 A .S.R .S •の オ ル グ 書 記 で あ っ た ハ ド ソ ン ( Walter H u d so n ) が , 1906 年 の 総 選 挙 で 労 働 党 議 員 に 選 出 さ れ て 以 降 も , A .S.R .S•が か れ に 給 与 を 支 払 っ て き た こ と に 端 を 発 す る 。 オ ズ ボ ー ン は こ れ を 控 訴 審 判 決 違 反 で あ る と し て 攻 撃 し た 。 も と も と A .S .R .S . は 規 約 6 条 1 項 に よ り 6 名 の オ ル グ 書 記 を 任 命 し て い た 。 そ の う ち 4 名 は イ ン グ ラ ン ド と ウ ェ ー ル ズ , 1 名 は ス コ ッ ト ラ ン ド , 1 名はアイ ル ラ ン ド か ら 選 出 さ れ た 。 ノヽドソンは, 1898 年 の A .S .R .S .年 次 大 会 で ア イ ル ラ ン ド の オ ル グ 書 記 と し て 選 出 さ れ , ダ ブ リ ン で 1906 年 1 月 ま で そ の 任 に あ っ た 。 と こ ろ が 同 年 1 月 の 総 選 挙 で 当 選 し た た め 問 題 が 複 雑 化 し た の で あ る 。 議 会 活 動 の た め 年 間 100 ボ ン ド が , 選 挙 区 で の 活 動 の た め 150 ポ ン ド が 支 払 わ れ る こ と に な り , こ れ が 1908 年 7 月 ま で つ づ い た 。 オ ズ ボ ー ン 裁 判 が 進 す る な か で , A .S.R .S•執 行 委 員 会 は 弁 護 士 に 助 言 を 求 め , 1908 年 12 月 の 執 行 委 員 会 で は 年 間 156 ボ ン ド を 支 給 す る こ と を 決 議 し た 。 そ の 156 ボ ン ド を オ ズ ボ ー ン は 標 的 に し た の で あ る 。 そ の 12 月 の 執 行 委 員 会 の 決 議 と は , 「オ ズ ボ ー ン 対 A .S.R .S • の 控 訴 審 判 決 に よ り 議 会 代 表 と し て の ハ ド ソ ン 氏 の 地 位 が 影 響 を受けたので, 執行委員会はつぎの決議をした。ハドソン氏が極めて多数の調停委員会に選出され た結果任務が急増したことに鑑み, かれがオルグの一般的な任務にかんするかぎり助言者として行 動し,総書記の指示のもとに組合員が調停にかけられたときには組合員を支持する証拠を準備する (3 1 ) よ う 助 力 す る こ と を 認 め , 年 156 ポ ン ド の 給 与 を 支 払 う も の と す る 」 と い う も の で あ っ た 。 これは 従来のオルグ書記としての任務にたいし支払うのであって, 国会議員としての活動に支払うのでは ないと理由づけしたことを意味する。控訴審判決で敗訴した組合が苦境に陥り,ハドソンへの支給 を正当化しようとするものであった。 こ の 1908 年 12 月 の 執 行 委 員 会 で は , 2 名の執行委員が労働党議員ハドソンとウォードルにたいし 3 年 間 支 払 わ れ て き た 1200 ボ ン ド を , 控 訴 審 判 決 に も と づ い て 組 合 に 返 却 す べ き だ と い う 動 議 を だ したが, こ れ は 採 決 の 結 果 4 名 が 賛 成 す る だ け で 否 決 さ れ た 。 つ づ い て 上 院 判 決 が で る ま で は 現 在 の A_S.R_S•の 政 治 基 金 3961 ポ ン ド を 凍 結 す べ き だ と す る 第 1 の 修 正 案 も , ま た 否 決 さ れ た 。 結 局 , 労 働 党 の 執 行 委 員 会 , T .U .C . の 議 会 委 員 会 , 労 働 組 合 総 連 合 (G.F.T.U . ) の 執 行 委 員 会 の 三 者 の 合 同 会 議 を 「創 出 さ れ た 危 機 的 状 況 を い か に し て ま た ど の よ う に 扱 う べ き か 検 討 す る 目 的 で 」 開くと (3 2) い う 第 2 の修正案が, 4 名 を 除 く 全 員 で 可 決 さ れ た 。 す ぐ に 関 係 3 団 体 に 通 告 さ れ , 12 月 1 5 日に小 委 員 会 を 開 く こ と に な り , A .S .R .S •か ら は リ マ ー , レ イ ト ン , チ ャ ー ル ズ と い う 3 人 の 執 行 委 員 が参加した。 (33) このような動きにたいし, オズボーンは激しく反対した。 反対の根拠は,控訴審判決で政治寄金 ( 3 1 ) E. C. Minutes, December 1908. (32) Ibid. (33) 1908 年 11 月 4 日, オズボーンは執行委員会宛てに書簡を送り, 『レイルウエイ • レビュー』 に投稿 したが, 「 執行部に重大な影響を与えるから」 との理由で掲載を拒否されたことを抗議した。 12 月 6 日にはオズボーンはこの問題で執行委員会と討議したい旨申しいれたが, 12 月の執行委員会は, 「 慎 重に考慮した結果, かれの提案に同意することはできない」 と決定した。 82 は 違 法 で あ る と さ れ た に も か か わ ら ず , A .S.R .S • が 依 然 と し て 労 働 党 員 ハ ド ソ ン に 支 払 い を つ づ け て い る の は , 判 決 を 無 視 す る こ と に な る と い う 点 に あ っ た 。 こ の 見 解 に た い し て は A .S.R .S •執行 委員会も認めざるをえず, その後の経過では完全にオズボーンが圧倒する。 — 方 , ハ ド ソ ン と ウ ォ ー ド ル は 12 月 8 日, 弁 護 士 と 法 廷 弁 護 士 の 同 席 の も と で A .S.R .S .執 行 委 員 会 に 出 席 し た 。 ノ、ド ソ ン は 議 会 に 上 程 さ れ て あ っ た グ レ イ ト . ノ ー ザ ン , グ レ イ 卜 • セ ン ト ラ ノレ, グ レ イ ト . イ ー ス タ ン の 3 つの 鉄 道 会 社 の 合 併 法 案 の 審 議 に 忙 し か っ た の で , 組合のしごとはほと ん ど し て い な か っ た 。 し た が っ て , 政 治 活 動 へ の 組 合 寄 金 が 違 法 で あ る こ と は 明 白 で あ った。 1906 年 6 月 の A .S.R .S. 執 行 委 員 会 で は , ハ ド ソ ン は 1906 年 3 月の執行委員会の決議により組合基金に 払 い こ ん だ 600 ポ ン ド の 返 却 を 求 め た 。 選 挙 資 金 に 使 う た め と い う の が 理 由 で あ っ た 。 執 行 委 員 会 は 「わ れ わ れ の 労 働 党 議 員 に 支 払 う こ と は で き な い と す る オ ズ ボ ー ン 判 決 を め ぐ る 困 難 性 に 鑑 み , 上 院 判 決 が で る ま で は ハ ド ソ ン 氏 の 申 し 立 て は 決 定 を 延 期 す る 。 また, 判 決 が く だ さ れ し だ い た だ (34) ち に こ の 執 行 委 員 会 を 招 集 す る よ う 総 書 記 に 指 示 す る 」 と 決 定 し た 。 こ う し て , ノ、ド ソ ン と A.S. R .S. 執 行 委 員 会 と の 確 執 は し だ い に 増 幅 さ れ て い っ た 。 ハ ド ソ ン は 執 行 委 員 会 が 記 録 な ど の 全 て の 情報をかならずしも送ってくれないとの不満を表明すれば,一方執行委員会はハドソンが議会での 活 動 を 全 く 組 合 に 知 ら せ て こ な い と 批 判 す る , と い う 状 態 に な っ た 。 1909 年 6 月の執行委員会の議 事 録 に は , 「彼 〔 ノヽドソン〕 は 私 〔 ベル〕 にどこにいるのか, とか何をしているのか知らせたこと (35) は な い 」とある。 1909 年 9 月 の 執 行 委 員 会 で は , ハ ド ソ ン の 活 動 は A .S.R .S .の 総 書 記 の コ ン ト ロ ー ル下になければならないことが確認され,一定の制限が加えられることになった。 1909 年 10 月 4 日 の レ ス タ ー で の A .S .R .S •年 次 大 会 で , ハ ド ソ ン は 窮 状 を 訴 え , そ の 結 果 , 大 会 はハドソンが議会開催中は宣伝目的のために議会活動に専念し執行委員会に示唆をあたえるとの条 件 のもとで,従来どおり支払えるとしたが, オズボーンはこれを禁止命令違反であるとして追撃し た。 オ ズ ボ ー ン は 10 月 1 2 日に, 「ノヽドソンの給与について」 ベ ル 宛 に , つ ぎ の よ う に 書 い て い る 。 1909 年 9 月 の 執 行 委 員 会 の 議 事 録 を み る と ハ ド ソ ン に 給 与 が ま だ 支 払 わ れ て お り , 1908 年 11 月の組 合側弁護士の支払い禁止の助言すら破っている。組合本部のためにオルグ書記としてどのような活 動 を し て い る か は 知 ら な い が , 1909 年 6 月末までは議会や他の政治的職務をしてきたことは知って い る 。 こ れ は 控 訴 審 判 決 に 反 し て い る , と。 そ し て , つ ぎ の 点 に 明 確 に 答 え て ほ し い , としてつぎ 5 点 を 挙 げ , A .S.R .S•の 書 記 か 会 長 の 署 名 入 り の 回 答 を 求 め た 。 「1 ) な ぜ ノ ヽ ド ソ ン 氏 の 給 与 は 払 わ れ て き た の か ? 2 ) 1909 年 6 月3 0 日 ま で の 半 年 の 間 , か れ の オ ル グ の 任 務 は 何 で あ っ た の か ? 3 ) かれの給与はなお支払われているのか? の (34) E.C.Minutes, June 1909. (35) Ibid. 83 ) 執イ亍委員会はかれが組合基金から支払われていることを知っているのか ) 同 じ 質 問 は 他 の 支 払 い に も 当 て は ま る 。」 (36) こ れ に た い し べ ル は 10 月 1 4 日, ハ ド ソ ン の 給 与 は 1908 年 12 月 の 執 行 委 員 会 の 決 議 に よ り 執 行 委 員 一 (37) 会 の 指 示 の も と で べ ル が 払 っ て き た , い ま も 支 払 わ れ て い る と 返 答 せ ざ る を え な か っ た 。 これは控 訴 審 判 決 で 敗 訴 し て い る か ぎ り 組 合 に と っ て は 防 御 で き な い オ ズ ボ ー ン に よ る 攻 撃 で あ っ た 。組合 と し て は ハ ド ソ ン の こ れ ま で の し ご と の 様 式 を 変 更 す る 以 外 に と る べ き 方 法 は な か っ た 。 同 じ 1 4 日, ベ ル は ハ ド ソ ン に た い し て , 「こ の 罰 則 は 極 め て 厳 し く , わ た し は い か な る 個 人 的 リ ス ク も こ れ 以 上 負 う 用 意 が な い 」 旨 通 告 し , 「グ レ イ ト • ウ ェ ス タ ン 鉄 道 の 調 停 が 終 わ っ た な ら ば , 貴 兄 に は 本 部 (38) の 任 務 を 助 け る た め に 本 部 に 毎 日 午 前 9 時 か ら 午 後 5 時 ま で こ な け れ ば な ら な い 」 と書き送った。 これはオズボ一ンの攻撃を避けるためのいわば弁明作りであるが, いままで支払われてきた事実に た い し て 反 論 で き る も の で は な か っ た 。 そ れ 故 オ ズ ボ ー ン は さ ら に 追 い 打 ち を か け た 。 10 月 2 1 日の 書簡では, オズボーンはベル宛に, 前回よりもさらに鋭く具体的につぎのように問いただしている。 「1 ) 1908 年 12 月, 執行委員会がノヽドソン氏を 156 ポ ン ド で 特 別 の し ご と に た い し 任 命 し た と き , いかなる規約によってその任命がなされたのか? 2 ) そ の よ う な 特 別 な し ご と は オ ル グ 書 記 た ち に よ っ て な さ れ る の か , それとも特別な任務をも つ特別な任命を意図していたのか? 3 ) 1909 年 6 月 3 0 日 ま で の 半 年 間 に ハ ド ソ ン 氏 は , 特 別 な も の で あ れ 通 常 の も の で あ れ , じっさ いに組合のしごとをしたのか? 4 ) 5 ) その間のかれのしごとは本部の統制下にあったのか? (39) か れ が 議 会 の し ご と に 時 間 を 費 や し て い る 間 , 組 合 は か れ に 支 払 っ た の か ?」 ベ ル と 本 部 は 追 い 込 ま れ た 。 そ の 結 果 , 10 月 2 7 日 に A .S .R .S . の 財 務 委 員 会 が こ の 問 題 を 検 討 し , 「オ ズ ボ ー ン 訴 訟 の 上 院 判 決 は で て い な い が , ハ ド ソ ン に は 賃 金 も 他 の 支 払 い も こ れ 以 上 支 払 う こ とはしない。 ただし, グ レ イ ト . ノ ー ザ ン 鉄 道 の 調 停 と 関 連 す る 任 務 , あるいは総書記の命令によ (40) り 組 合 の た め に 遂 行 す る 任 務 は 除 か れ る 」 と決定し, そ の 結 果 は 翌 日 オ ズ ボ ー ン に 伝 え ら れ た 。 じっさいには,ハ ド ソ ン に は 調 停 な ど に た い し 支 払 わ れ る こ と は な か っ た 。 同 年 10 月 4 日 の A .S.R .S. の レ ス タ ー で の 年 次 大 会 で , 新 た に 議 会 書 記 を 任 命 す る 決 定 を し た の (36) Letter from W.V. Osborne to R. Bell, re Hudson’s Salary, October 12,1909. ( M SS.127/AS/ OC/3/4/115) (37) Letter from R. Bell to W.V. Osborne, October 1 4 ,1909. ( MSS. 127/AS/O C /3/4/115) (38) Letter from R. Bell to W. Hudson, October 14,1909. (M SS.127/AS/O C/3/4/115) (39) Letter from W.V. Osborne to R. Bell, re Hudson’s Position, October 21 ,1909. (M SS.127/AS/ OC/3/4/115) (40) Trustees and Finance Committee’s Report, October 23 ,1909. (M SS.127/AS/O C/3/3/26) 84 に た い し , 11 月 2 9 日 に オ ズ ボ ー ン は , 議 会 書 記 に 支 払 い が な さ れ た ば あ い に は 委 託 委 員 会 と べ ル を 訴えると圧力をかけた。ベ ル は 法 廷 弁 護 士 デ ュ ー ク ( H mond Browne) .E .D u k e ) と エ ド モ ン ド • ブラウン( Ed の見解を求めたところ,議会書記という名称と使おうが, そのような支出は禁止命 令違反に な る と の 回 答 を 得 た 。 それ以降, ベルはオズボーンとこの点では同じ見解を表明すること になる。 V II . 上院判決ニオズボーン判決 1 . 上院判決とその影響 A .S .R .S . の 上 院 へ の ア ピ ー ル は , 1909 年 7 月 2 2 日 と 2 3 日 に 審 議 さ れ た 。 ホ ー ル ズ ベ リ 一 (Halsbury ) , ア ト キ ン ソ ン (Atkinson ) , マ ク ノ ー ト ン (M acNaughton) , シ ョ ウ (S h a w ) , ジエ イムズ• オヴ. ハーフォード( James of H e rfo rd ) の 5 名 が 法 制 議 員 で あ っ た 。 オ ズ ボ 一 ン 側 は ふ た た び ジェンキンスを立て, そ の 指 示 の も と で バ ウ ア ー ( Bower ) が 国 会 議 員 に 労 働 組 合 が 寄 金 を 提 供することはすべて違法であると主張し, その理由として,議員に歳費を支払うことは議員を堕落 させ, パ ブ リ ッ ク . ポ リ シ 一 の 観 点 で は な く , 個 々 の 支 持 団 体 の 利 害 に よ っ て 行 動 す る こ と に な る からと指摘した。 これは控訴審での勝利判決の内容を繰り返したものである。 こ れ に た い し A .S.R .S .側 は 前 検 事 総 長 ロ バ ー ト •フ ィ ン レ イ 卿 (Sir Robert F in la y ) を立て, 議員 を支持するのは労働組合の目的に沿った法律を制定するためであり,労働組合の目的を逸脱してい な い と 論 陣 を は っ た 。 し か し 判 事 ア ト キ ン ソ ン と ホ 一 ル ズ ベ リ ー は , 控 訴 審 の と き の 3 人の判事と 同様の見解を採り,労働組合の政治活動にまで労働争議法の免責を拡大することに批判的であった。 上 院 で は 下 級 審 に 比 べ , A .S.R .S. の 規 約 だ け で な く , 労 働 党 の 規 約 も 重 視 し た 。 上 院 は 1909 年 12 月 2 1 日 に 判 決 を 下 し た 。 5 人 の 法 制 議 員 全 員 が A .S .R .S •側 の ア ピ ー ル を 退 け , オ ズボーンを勝訴とした。 ホールズベリー, アトキンソン, マ ク ノ ー ト ン の 3 人は, 労働組合の政治 寄 金 は 1971 年 . 76 年 労 働 組 合 法 が 規 定 し た 以 外 の こ と で あ る と 認 定 し , 越 権 (ウルトラ • ヴァィラス) で あ る と 判 定 し た 。 他 の 2 人 ジ ェ イ ム ズ と シ ョ ウ は 政 治 寄 金 を 越 権 と は 認 定 せ ず , 代 わ っ て 1906 年 法 が 選 出 さ れ る 議 員 は 労 働 党 支 持 の 署 名 を し な け れ ば な ら な い と し て い る 点 を 批 判 し た 。議員歳費 は労働組合の活動を越えるものであり, イギリス議会の長年培ってきた独立と自由に反すると主張 (41) した。 オ ズ ボ ー ン は そ の 判 決 を 聞 く 場 に お り , 「7 年 戦 争 の 終 わ り で あ る 」 といっ た。 判決 2 (4 2 ) 日後の 12 月 2 3 日, オ ズ ボ ー ン は つ ぎ の 3 点 を 組 合 に た い し て 申 し い れ た 。 第 S . の 現 有 の 議 会 基 金 4000 ポ ン ド を 議 会 候 補 者 に 使 用 し な い こ と 。 第 2 1 は, A.S.R. は, 国 会 議 員 ウ ォ ル タ ー • ハ (41) 1909年 12 月21 日の上院判決は, M SS.127/AS/O C/3/4/17. (42) Letter from Cas. T. Wilkinson, to R. Bell, December 2 3 ,1909. (M SS.127/AS/O C/3/3/36) 85 3 に, もし 1909 年 10 月 の A .S.R .S. 年 次 大 会 の 決 定 に も と づ き 議 会 書 記 を 任 命 し た ら 違 法 で あ る 。 以 上 の 3 点 で あ る が , 最後の議会書記については若干説明 が必要だろう。議 会 書 記 ( パ ー リ ア メ ン タ リ ー • セクレタリー) は, 1909 年 10 月 の A .S.R .S•年 次 大 会 で リ ー ズ . セ ン ト ラ ル , セ ン ト • ボ ア ン ク ラ ス , ニ ュ ー ト ン ドソンに歳費を払わないこと。 もし支払いを続けるならば, 法廷 に 訴 え る 。 第 ヒ ー ス の 各 支 部 の 提 案 に も と づ き 審 議 決 定 し た も の で あ る 。 それは, 議会にかんする事項が増大し ているので従来の総書記をその職務から免除し, その職務に専念する書記を新たに任命するもので あった。ベル自身はオズボーン訴訟との関係でそのような議会書記の任命が効力を有するかという 点 で 懐 疑 的 で あ り , じじつ 12 月 9 (43) 日 に は 弁 護 士 に そ の 点 を 質 し て い た 。 同 時 に , ハドソンに 支払 う ベきか否かも問うている。 労 働 党 , T.U.C., G .F .T .U の 合 同 評 議 会 は , オ ズ ボ ー ン 上 院 判 決 を 検 討 す る た め 特 別 会 議 を ニ ュ 44 一ポートで開くことを決定した。判 決 は 「 極 め て 重 要 」な の で , 1 日 討 議 す る 必 要 が あ る と さ れ た 。 その開催を伝達するビラは, ス テ ッ ド マ ン ( W .C.Steadman) , ア プ ル ト ン (A.Appleton) , マ ク ド 45 ナルド( J.Ramsay M acD o n ald ) の 3 名 の 名 前 で 出 さ れ て い る 。 た だ ち に 起 こ っ た 問 題 は , このよ う な 会 議 に A .S.R .S .が 代 表 を 派 遣 す る こ と 自 体 が オ ズ ボ ー ン 判 決 に 違 反 す る の で は な い か , とい 「 ( ( ) ) う点であった。 もし違法であるとすると, オ ズボーン判決を覆すための会議がその判決によって開 け な い と い う こ と に な る 。 A_S_R.S•は 弁 護 士 ピ ー タ ー ソ ン に そ の 点 を 問 う た 。 ピ ー タ ー ソ ン は ニ ュ (46) 一 ポ ー ト 会 議 へ の 代 表 者 の 費 用 は 組 合 か ら だ し て も よ い と の 見 解 を 示 し た 。 そ の 理 由 と し て , オズ ボーン判決により鉄道員の代表を議会に送ることはできないが,組合が下院に鉄道員の代表を送る こ と を 可 能 に す るために法律をいかにして変更するかを考察することはできる, としたのである。 ニューポートの特別会議では, ケ ア • ハーディーは判決が立法により覆されないならば, タ フ •ヴ エ イ ル よ り も 労 働 運 動 に と っ て 有 害 で あ る こ と が 証 明 さ れ る だ ろ う , と述べ た 。 ヘ ン ダ ー ソ ン も ス ノー ドンも, 判 決 は 労 働 党 の 存 在 を 脅 か す こ と に な る と 警 告 し た 。 よ う や く オ ズ ボ ー ン 判 決 が 労 働 党の存続にとって決定的に重要であるとの認識が広まっていった。 1 年 以 内 に 25 の 組 合 が オ ズ ボ ー ン 判 決 に 呼 応 し て , 政 治 基 金 反 対 , 議 員 歳 費 反 対 の 訴 え が な さ れ , 24 人 の 労 働 党 議 員 の 収 47 入 が 影 響 を 受 け た 。. 禁 止 命 令 の 影 響 は , 鋳 型 工 , 郵 便 夫 , 印 刷 工 , 機 械 工 の 組 合 に 現 れ た 。 機 械 工 労働組合のなかでも判決の意味するところはすぐには理解されなかった。 ( 組 合 ) (A .S .E .) は 1911 年 4 月まで,禁止命令を避け る た め に 議 会 代 表 基 金 の 強 制 的 徴 収 を 中 止 し た 。 (43) Opinion re Parliamentary Representation, A.S.R.S. by Edmond Browne, February 12,1910. (M SS.127/AS/O C/3/3/36) (44) Labour Leader' February 11,1910. (45) Joint Board のビラは, M SS.127/A S/O C /3/6/1. Report of Special Joint Board Conference at Newport, February 8,1910. (46) Opinion re Osborne by Peterson, January 17,1910. (47) T.U.C. Parliamentary Committee, 7th Quarterly Report, December 1910. 86 炭鉱夫組合( M . F . G . B . ) , 繊 維 工 場 労 働 者 (U . T . F . W . A . ) , 織 布 エ (北部) (N. C_ W _)な ど 巨 大 組合もそれと同様に中止ないし規制した。 織 布 エ 組 合 の 議 員 デ イ ヴ ィ ッ ド • シャクルトンは,組合 (48) 費からではなく自費で賄うよう警告されたりした。 こ こ で 訴 訟 費 用 に つ い て み て お こ う 。 組 合 側 が オ ズ ボ ー ン 裁 判 の た め に 支 出 し た 費 用 は , 約 5500 ポ ン ド に も の ぼ っ た 。 そ の な か に は 組 合 が 敗 訴 し た た め 支 払 っ た オ ズ ボ ー ン 側 の 費 用 約 1500 ポンド (49) が含まれている。 その内訳は以下のようであった。 弁 護 士 費 用 一 般 支 出 法 廷 費 用 £ 3 6 2 5s 6d24116 0 2896 7 0 3500 8 6 ネヴイル判決までに 控訴審判決までに 上院判決までに 合計 全支出 £161 74 426 662 3500 4162 総計 7s 2d12 4 5 9 5 3 8 6 13 9 £632 130 630 1394 8s 0d15 2 11 6 14 8 4162 13 9 5556 8 5 この他に 控訴審のオズボーン氏の費用 上院のオズボーン氏の費用 2. £10 16 l l s 6d523 19 3 ウェッブのオズボーン判決批判 ウニッブはオズボーン判決が政治活動だけでなく,教育活動をも規制するほど大きな影響をあた (5 0 ) え た と し , 「オ ズ ボ ー ン 革 命 」 と 称 し た 。 図 書 館 の 創 立 , 大 学 拡 張 運 動 , 労 働 者 教 育 協 会 , ラスキ ン • コレッジなどの労働者教育にたいし労働組合が寄金することが違法とされたからである。 シドニ一 • ウ ヱ ッブは, ユ ニ ァ ィ 一 . ハ ウ ス の 開所式において, オズボ一ン判決を批判する演説 した。 そ れ は 長 い も の で , 『レ イ ル ウ ヱ イ • レ ヴ ュ ー 』 ( 1910年 9 月22 日) に 掲 載 さ れ た 全 文 は 2 面に わ た っ て い る 。 ウ ェ ッ ブ は い う 。 「か れ ら 〔 判事ら〕 は 労 働 組 合 と は 何 で あ る か , 労 働 組 合 は 過 去 に何であったのかを探究することを拒否し, また特定の組合がなすべきでないと裁判官閣下がいう ことを実行したのかどうかを理解する労をとらなかった。 か れらはかれら自身の意識から, 労働組 合が 何 の た め に あ る か を 帰 結 し , そして, そのなかに政治行動は含まれていないといったのである ( 笑い)。 じ っ さ い に , 100 年 前 の 労 働 組 合 は 政 治 行 動 を し た 。 労 働 組 合 は 1824 年 • 25 年 に 合 法 化 さ れ , そ れ 以 降 政 治 行 動 を し た 。 労 働 組 合 は ふ た た び 1871 年 に 合 法 化 さ れ , 当 時 の 議 会 を 知 っ て 政 治 (48) Parliamentary Debates,A p ril13,1910,xvi, col.1356. (49) Letter from Pattinson & Brewer to J.E. Williams, July 1,1910. (MSS. 127/A S/O C /3/6/65) (50) Sidney Webb, ‘Osborne Revolution’,in English Review ,January 1911. 87 行 動 を し た 。 1875 年 • 76 年 に 労 働 組 合 は 合 法 化 さ れ , 当 時 の 議 会 を 知 っ て 政 治 行 動 を し た 。 労 働 組 合 は 1906 年 に ふ た た び 合 法 化 さ れ , 議 会 を 知 っ て 政 治 行 動 を し た 。」 そ し て , 総 選 挙 の あ っ た 1868 年 , 74 年 , 80 年 , 85 年 , 95 年 , 1900 年 , 1906 年 に は 常 に 労 働 組 合 は 政 治 活 動 し た と 指 摘 し た あ と , 「こ れ ら の 選 挙 の と き は い つ で も , 労 働 組 合 は 選 挙 を 闘 う 目 的 で 組 合 員 か ら 寄 付 さ れ た 基 金 か ら 支 出 し た 」 (ヒア一, ヒア一) と述べ, さ ら に こ う 演 説 し た 。 「オ ズ ボ ー ン 判 決 は , タ フ . ヴ ェ イ ル 判 決 がそうであったように, 完全に永久に廃止されることを労働組合のために主張しなければならない。 なぜ労働組合は政治行動をとることが正当であるという基礎の上に形成されてはならないのか,十 (51) 分 な 理 由 が 示 さ れ て い な い 。 (ヒ ア 一 • ヒア一)」 このウヱッブの演 説 は 鉄 道 会 社 の 経 営 者 た ち を 激 怒 さ せ た 。 その結果, ウヱッブの創設したロン ドン. ス ク ー ル . オ ヴ . エ コ ノ ミ ッ ク ス ( L .S .E .) か ら , 5 年間務めてきた評議員が引き上げる事態 (52) に な っ た 。 『レ イ ル ウ ェ イ . レ ヴ ュ ー 』 ( 1910年 10 月28 日) は, 「シ ド ニ ー . ウ ェ ッ ブ の 鉄 道 員 に 向 け られた演説により, グ レ イ ト • イ ー ス タ ン 鉄 道 会 長 の ク ラ ウ ド • ハミルトン卿, グ レ イ ト •ノ ー ザ ン 鉄 道 の 経 営 責 任 者 バ リ 一 氏 , グ レ イ 卜 . ウ ヱ ス タ ン 鉄 道 の 経 営 責 任 者 イ ン グ リ ス 氏 が , L.S.E .評 議員を辞任した」 と報じている。 ウェッブのハミノレトン宛の手紙( 10 月2 2 日) は, ウ ェ ッ ブ が 10 月 1 8 日 に そ の 辞 職 を 知 っ た こ と を 示 し て い る 。 11 月 に は シ ン デ ィ 力 リ ズ ム の 組 織 形 態 で あ る 産 業 組 合 が 提 唱 さ れ は じ め , 「労 働 不 安 」 の 時 代 が 始 ま る 。 ウ ヱ ッ ブ は シ ン デ ィ 力 リ ズ ム に 激 し い 批 判 を 加 えることになる。 ( 続) (経済学部教授) (51) Railway Review, September 22 ,1910. ( 5 2 ) もともと L.S.E.はウェッブがパリのエコール.ポリテクニー クを一部モデルとして創設したもので あった。 1894年フェビアン協会会員ヘンリー . ハ ッ チ ン ソ ン ( Henry Hutchinson ) がフェビアンの 活動 の た め に 1 万ポンドの遺産を残して死去すると,ハッチンソンの委託者の一人であったウェッ ブはベアトリスと相談しただちにその半分は協会に,半分は経済学のための大学レヴヱルの研究所 をつくるために使うことを決めた。遺書にはなかったこの決定は, フヱビアン協会執行部に伝えら れたときには反対はなかったが,翌年バーナード . ショウはそれに抗議する私信を書いたし, ラムゼ イ • マクドナルドも反対した。 ウェッブは法廷弁護士 R_ B ■ハ ミ ル ト ン (Hamilton ) に自分のとっ た行動が合法かどうかを問い, L_S_E.の創設がフヱビアン主義の普及に沿うので違法ではないとの 回答をえたものの,ハッチンソン.トラストの全ての記録を委託者の生存中は封印するようはたらき かけた。 じじつ1955年 に 最 後の委託者ェドワード • ピ ア ー ズ ( Edward Pease ) が死去するまでこれ は封印され, 1963年にシドニ一 • ケ イ ン ( S id n ey C a in e) が 『L.S.E• 創立史』 を書くまで L.S.E •創設 初期の経緯は明らかにならなかったことは,現在ではよく知られている。 ウ ェ ッ ブ 自 身 は L.S.E .の 評議会会長を 1912年まで務めたが,鉄道国有化を擁護する演説をして鉄道会社の反発を再発させ, ついに辞任した。 その後は 1927年 ま で 行 政 教 授 ( 無給) と し て L.S.E •と関係を維持できただけであ った。 88