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新聞記事にみる賀川豊彦(36)

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新聞記事にみる賀川豊彦(36)
「賀川豊彦のお宝発見」その3
新聞記事にみる賀川豊彦(36)
1910(明治43)年∼1963(昭和38)年(神戸版)
第 36 回 「消費生協を語る座談会」
「家庭経済の背骨」
1952(昭和27)年 10 月15日「神戸新聞」
家
庭
経
済
の
背
骨
消費生活協組を語る座談会
家庭経済のバック・ボーンともいうべき消費生活協同組合法が施行されてさる一日で満
四周年になるので、兵庫県では月末までの一ヵ月を「消費生活協同組合趣旨普及月間」と
して各種の行事が行われているが、これに呼応して
県下の消費生活協同組合を語る
談会を開き、発足から苦難時代を経て育成された歩みの道を聞いてみた。
座
以下その要旨
発祥の地は兵庫県
組合さんで呼ばれた愛称
松本 生協運動といえば兵庫県が発祥地で、全国生協運動のメッカともいわれているぐ
らいなので現在でも一週に一度の割合で各県から視察者が来るが、この古い歴史に輝く運
動の現状を神戸を中心に語っていただきたい。
涌井 神戸生協は大正九年ごろ、川崎労組員たちを中心として購買消費組合を結成、お
たがいの生活難打開をはかろうという声が高まり、当時神戸葺合区の新川で社会運動に心
血を注いでいた賀川豊彦氏に相談を持ちかけ、彼の研究になる英国の消費組合を範として
目先の生活難打開よりも、永久に個人の生活に深く根をおろす生協運動のさきがけを起こ
し、約一年間全市に宣伝普及を行ったところ約一千名の組合員ができた。
ところがこの周到な準備期間にもかかわらず発足後二年余りのうちに出資金を食ってし
まうという赤字経営の連続で閉鎖の声も起こったが、これを支持する進歩的な組合主婦た
ちの切実な叫びでふたたび存置継続することになり、苦境時代を乗り越えて昭和十年ごろ
からようやく京阪神各地区組合員が歩調を合わせて拡張にあたったので、急激に組合員も
ふえていったものだ。
次家 灘生協は大正十年創立されたが、当時は欧州大戦後のパニックで倒産相つぎ、物
価高で阪神間はことに住みにくかったので元文相平生釟三郎、安宅弥吉、初代組合長那須
善治氏らが発起人となり、賀川氏の尽力もあって当初三百名の組合員をもって創立された。
まずしょうゆを作ったり古本を回収して組合員に回覧したり、教育面にも力を入れていっ
たが神戸生協と違って組合員獲得には消極的で、賛成者だけを集めたが、昭和四年ごろに
はそれでも約一千名になっていた。昭和五年芦屋支部に家庭科を設け店も開いてはじめて
生果を扱ったところ灘地区三千名の業者が真向から「営業妨害だ」とわれわれの運動に反
対、県議を先頭にノボリを押し立てデモったものだが、一方組合の牛乳配達員が組合外の
牛乳屋に殴られるなど苦しい思い出もかずかずあるしかし組合員は毎年々々ふえていった。
昭和十二、三年ごろには芦屋地区に十万円を投じて工員福利のための栄養食を三食三十銭
で一万人に配給、いまの工場給食のさきがけを作った。組合運動を通じて感じることは戦
前の組合と組合員の関係は非常に密接で組合職員は全部「組合さん」という愛称で呼ばれ、
組合員が留守をするときには留守番まで頼まれるほどの親しさ、集金に行っても他の一般
商人が裏口で頭を下げて待っているのをシリ目に玄関から堂々とすぐ金を支払ってもらっ
たものだ。商人たちが何より組合を強敵だと思ったのは組合月報でこれには物価一覧表を
詳しく掲載、各家庭の台所に張付けさせたので、一般商人も刺激されて物価値下げに役立
ったものだが、それより当時配達に回ると子供までが「購買さぁーん」といってリヤカー
を追っかけて来たあの家庭的親しみを一日も早く取りもどしてほしいものだ。
松下 播磨生協は創立して満五年になるが、造船所が播磨にできるという前から同地の
物価はうなぎ上りで、労組員たちの間で購買組合設立の問題が真剣に討議されるようにな
り、設立後は自分たちの組合だという観念で終始したので品物もコストに近い値段で販売
したので物価が次第に値下がり気味となり、最初のころ安本の指数を一〇〇として阪神が
一〇四、播磨一〇六だったのが、生協結成後は八八の指数にまで下がった。
家庭の台所と直結するため六カ月後に家庭会を作ったが、現在では組合員の方から炭、
毛糸など一括して注文を持ってくるので品物も買付けやすく安価に販売できるようになっ
た。しかし組合が独善におちいらぬよう常に運営委員会を開いて民衆的な運営方針を組合
員の声で決定するようはかっている。
小泉 むかしの一般商店では品物の良否も業者のいいなりで主婦には分からず、値段も
目方もデタラメで、値切ることのできない心臓の弱い者は高く売りつけられたもので、こ
うしたことを根本から是正してかかった組合活動は大いに主婦たちに喜ばれた。それだけ
に商人たちの敵視を受け別荘地帯で一番物の高かった須磨地区に支部結成のころは、わた
しもいつ殺されるかとセンセンキョウキョウと毎日を過ごし、六甲支部でもこうした心配
を胸にたたんで毎日組合員獲得に各戸別にご用聞きに回ったものです。戦時中の隣組制度
が誕生するまでは都会生活といえば隣人との交際はほとんどなく、結婚だ、お産だといっ
ても近所では知らぬ顔をしていたものだが組合ができてからは親近感が深くなり何事にも
協力しあって、組合が生活のオアシスとして主婦たちの一種の社交場ともなった。戦後の
組合活動は単なる物品販売だけでなく本部、支部を通じて手芸、人形製作、料理、編物、
洋裁などあらゆる講習を行っているが、それぞれ各支部に特徴があり長田は講演会、灘は
手芸、籠池、平野は料理にお菓子の講習が盛んで祇園祭では家庭会が祇園団子を売り出し
て大いにもうけており、赤字の支部に鼻高々と業績を誇っている。
(2011年4月5日記す。鳥飼慶陽)
知らせたい特色
足りぬ
家庭の認識
永谷 現在の主婦の考えには生活が苦しいためゲタをすりへらしても安い物を探し歩く
というのと、自分の特技を生かして収入の増収をはかるという二つの傾向があるが、灘で
はこの両者にアッピールする行き方を探っている。すなわち生活の拠点として安い物を仕
入れ販売に当ると同時に内職あっせんに力を入れている最近では電気センタク機を組合で
購入、月、水、金は各主婦に開放、二十円の使用料と十五円の石けん代で使用させている
がその他の日は組合が五百匁七十円で委託クリーニングを引き受けている。五百匁といっ
てもゆかた二枚にワイシャツ一枚は十分あるので安いと非常に好評だ。そのほか料理、洋
裁、活花など各講習を開催しているが出席率もよい。
朝倉 私の宅では昭和三年ごろ組合員になったが、一般にはまだ組合活動というのが十
分に分っていないのではないか。最近住吉方面でも市場同士の販売競争が激しく、タクシ
ーやバスを買切りマーケットまで無料で案内してくれるサービス時代だけに組合の活動も
やり難いとは思うが手軽で安ければよいという販売政策だけでなく、もっと組合の特色と
いったものを知らすべきだ。「購買さん」とむかしから呼ばれている組合が家庭の生活全体
にタッチしている大事な組合だということが一般に認識されておらず、デパートの地下室
の食料品だけしか扱っていないという観念からもっと向上を図るべきだ。
田中 英国の場合では地元生産品を販売しているので非常によいものを組合員に配給し
ている。それだけに資金も豊かで生協バンクは英国五大銀行の一つとして数えられている。
日本でも農林のために農林中金、商工業者に商工中金があるように、協同組合金庫かこれ
に匹敵する金融面の援助がほしいものだ。
横山 最後にいいたいことは朝倉さんが指摘された生協活動の再認識と同時に、田中さ
んが切望される説にはまったく同感だ、政府はなぜ消費者だけをまま子扱いするのか分か
らない。長い間の伝統を持つ兵庫県の生協活動が戦中の空白からふたたびやっと回復した
のであるから政府も一般の人ももっともっと長い目で消費生活協同組合というわれわれの
活動を達成していってもらいたい。
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