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欧米の自然観(パストラル)について

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欧米の自然観(パストラル)について
アメリカにおける pastoral image
As cultural symbol
多くのアメリカ人が共有する特別な意味、思想、感情を伝えるイメージとして重要
元々の意味
無垢な羊飼いとして、この世をすてて、清らかで緑したたる風景の名かで新しい生活を始めるという強い願
望を意味した。
アメリカ人にとっての意味
ヨーロッパ白人にとって、上のような詩的幻想としてしか考えられなかったものが、実現可能な処女大陸に
アメリカは見えた。調和のとれ、喜びに満ちあふれるオアシス「エデンの園」に最初の人類「アダム」とし
て隠棲したいという夢が実現可能に思えた。
パストラルの魅力
アート=人工的な世界—訓練された精神、組織化された共同社会において発達した諸々の技術—から逃避し
たいという願望の現れ。文明から逃れ自然へ向かう。洗練された状況から素朴さを求める。都会から農村へ
向かう。
パストラルの位置
自然と文明、相対立するものの中間に位置する。この二つを超絶する関係にもある。未開でもなければ都会
的でもない、人間は低い存在と高い存在、動物的存在と知的存在をむすぶ中間部分に位置する被像物。自ら
の中の動物的性格と知的性格を調和させねばならないという18世紀的な考え方が背景にあった。その調和
がとれたとき、つまり中間の状態において、人間はもっとも幸福な状態にあると考えられた。自然の風物に
対する美的関心が頂点に達したのも18世紀になってからである。
第3代アメリカ大統領、Thomas Jefferson は独立時営農民こそがパストラル的アメリカをになうと考えた。
アメリカ全体が永遠にパストラルの姿をとどめられるなら、アメリカ市民はヨーロッパが経験していたよう
な恐ろしい権力闘争や戦争、悲惨な抑圧を免れることができるだろうと彼は考えた。
これ以降、手入れの行き届いた緑の庭園のイメージはパストラルのイメージとなった。そこには農家や清楚
な美しい村落が描かれた。この風景の中では自然の事物が中心におかれた。牧草地や曲がりくねって流れる
小川、草をはむ家畜、
、丘の上のニレの木立、遙か西に広がる山の連なりが汚れなきアメリカの姿となった。
パストラルの意義
都市的、商業的な力に対する優位性、パストラル思想に含まれる道徳的、美的、経常的な優位性があった。
パストラル的観念と原始的観念の違い
ともに文明生活に伴う、苦痛と責任から逃れたいという願望からきている用の思える。パストラル的観念の
場合、主人公は自然と人工という対立した席あの調和の可能性を追求する。一方、原始観念の場合、主人公
は価値のあるものを求めて、それが空間的、時間的に組織社会からできる限り遠ざかったところにあるのを
見いだすまで前進を続ける。
アメリカの歴史
1607 年、イギリスによる北米植民開始
イギリスによる北米での植民は、1607 年ヴァージニア会社によるジェームズタウン設立により始まる。南
部の大西洋岸の肥沃な土地、ヴァージニアやメリーランドでタバコや米の栽培が行われ輸出された。文化的
に英国に近かった植民者の子弟は英国に学び、貴族的雰囲気が残った。宗教的にも英国国教徒が多く、ピュ
ーリタン的宗教改革意識は希薄だった。
1620 年、ピルグリム・ファーザーズ(分離派)渡米
1534 年のヘンリー8世による英国国教会設立と政教における国王絶対主義に反対し、宗教改革を推進する
人々、ピューリタンは、王権を侵す者として迫害を受けた。一時オランダのライデンに逃れ、1620 年国王
の勅許状を得て、メイフラワー号でプリマスへ渡り、植民開始。ピルグリム・ファーザーズ, Pilgrim Fathers
が宗教革命を推進するために、メイフラワー号, the Mayflower でプリマス, Plymouth へ到着。コトン・マ
ザー, Cotton Mather は著書のなかで、彼らの移住を、モーセに率いられて約束の地、カナンを目指してエ
ジプトを出発したイスラエルの民になぞらえた。個人の宗教的目覚め(回心体験、conversion experience)
を重視し、その体験をした「見える聖徒」visible saint の教会員のみが、政治的、社会的に重要な権限を
持つとした。
1630 年、非分離派によるマサチューセッツ湾植民地設立
ジョン・ウィンスロップの率いる非分離派ピューリタンは、「丘の上の町」の建設を目指し植民開始。カル
ビン主義の「予定説」(神から救済を予定された「恵みの契約」を与えられたとする)に基づき、自らを厳
しい信仰心と道徳心のもとに束縛する生活を始める。
*ルターの改革:
*1517年、ドイツ人のマルティン・ルターはローマ・カトリック教会の財源を売るための免罪符の過度
な発行に抗議し、教皇の権威を否定し聖書のみが信仰のよりどころとする改革をおしすすめる。
*その後フランス人カルビンが、全ての職業を天職とし、勤労を重視し、その結果得られた富を神の恩恵と
考え、人々が富みをろうひすることなく、その増殖につとめることは信仰上も正しいと説いた。彼の説は成
長しつつあった市民階級に支持され、資本主義社会の形成・発展に大きな思想的影響を与えた。聖書に基づ
き、神の意志を絶対的なものとし、人間の自由意志は認めない。神が全てを決定する(予定説。職業をもち、
蓄財することは神の思し召しに叶っているとしたので、市民階層に支持され、資本主義の形成に役立った。
カルビン派は、イングランドでは Puritans、スコットランドでは Presbyterians,フランスでは Hugunots、
オランダでは Geusen とよばれた。
17世紀—18世紀のピューリタニズム衰退の原因:
*経済面での発展
人口増加に伴う、北部の貿易商業主義、南部での黒人奴隷を使ったプランテーション農業の発展。
*世界を合理的・科学的に観察する啓蒙思想(enlightenment)が、絶対的な神の主権を主張するカルビン
主義思想を弱体化した。それに伴い理神論が広まる。キリスト教から人間の理性で理解できない自然現象を
排除し、世界を神の創造した完璧な機械と考える思想であった。17世紀末から18世紀にかけて、ヨーロ
ッパでは、人間の無限の可能性を信じる合理主義が受け入れられた。Issac Newton(the law of universal
gravitation), John Locke
from God-centered age to Man-centered age
これ以降信仰心よりも、道徳が重んじられるようになり宗教が世俗化していく。
理性を重視したベンジャミン・フランクリン Benjamin Franklin, 1706-90 は宗教の世俗化と啓蒙主義の台
頭をもっともよくあらわす人物である。
原罪. the original sin
人性の腐敗または悪への性情は人類生得のもので,アダムとエバの堕落の結果として人類に遺伝したものと
される罪.
理神論 Deism
神は、奇跡によってではなく、人間の理性によって把握できる法則によって世界を支配していると考える。
人間の理性と宗教心と科学を結合したような考え方。
1776年、独立宣言がだされ、13の植民地が独立する。この中で述べられた基本的人権、人民主権、抵
抗権は、イギリスの思想家ジョン・ロックが体系づけたイギリスの革命思想と、植民地で培われた自由の精
神とが結びついたものである。
1787年、合衆国憲法成立、憲法に内包された理念と現実の矛盾:
「全ての人間は平等につくられている」、「生命、自由、幸福の追求」という理念を掲げたが、一方では奴隷
制の導入、Manifest Destiny(明白な天命)という神がかった理念によりネイティブ・アメリカンの駆逐を
正当化し、西部の開拓をすすめた。南部ではジョン・カルフーンのように、奴隷制を前提としたギリシア型
民主主義こそがアメリカの政治形態としてふさわしいと主張するものもいた。
政治的には合衆国憲法はイギリスの法体系に依存しており、経済的にもイギリスに従属する面が多かった。
1803 年、領土拡張の始まりと開拓者精神の形成
ジェファソンがルイジアナをフランスより購入。ミシシッピ川以西への領土拡張が始まる。以降、自然法に
かない、なおかつ阻止してはならないとされた「マニフェスト・デスティニー(明白な宿命)」を掲げ、イ
ギリス、スペイン、メキシコからの割譲、併合、購入を繰り返し、アリゾナ・メキシコ国境地帯購入(1853
年)まで北米大陸での領土拡張を続ける原動力とした。拡張する辺境では独立心、勇気、平等の開拓者精神
(フロンティア・スピリッツ)が培われ、民主主義と結びつき独自の国民性形成へとつながった。一方この
拡張主義は、ピューリタン以来の独善主義を内包する侵略思想という側面をかねそなえていた。
第二次英米戦争の結果高揚する愛国心と自由と民主主義の輸出
1812年、イギリス本国との戦争の結果、合衆国は一つにまとまって国土を防衛し勝利した。そのことは
ヨーロッパ各国の自由主義革命や南米諸国の独立運動に影響を与えた。
国内問題
連邦主義の衰退と南部諸州による州権主義の台頭により、奴隷制を巡り北部と南部の対立が深まり、南北戦
争へとむかっていく。
1829 年、ジャクソニアン・デモクラシー
アンドリュー・ジャクソンが西部出身者ではじめて大統領に当選する。ジャクソニアン・デモクラシーは、
この民主党の第 7 代大統領の、南北戦争までの治世や、その時代思潮をさす。この時代、農民と労働者を地
盤として、民衆の力が大きくなり、自由と平等が謳歌される。産業革命と西部開拓の進展により、民主主義
国家としての自信をつけた 1820 年代 30 年代に、エマソンの超絶主義のような、アメリカ独自の思想と文化
を生み出す素地が整う。
1837 年、ラルフ・ウォルドー・エマソンの知的独立宣言
著書「アメリカの学者」により、超絶主義(トランセンデンタリズム)を提唱。彼の説は、カルビン主義の
予定説や三位一体説を退け、人間理性を信仰の根本にすえ、聖書を理性的に解釈するユニテリアニズムを基
盤にして発展した。身の回りの物質界と精神界を超越し、あらゆる束縛を逃れた、自由な個人の魂を獲得し、
直感的に神や万物の真理の認識へ到達することを希求する。超絶主義は、宗教の枠組みを越えた、人間主義
的な理想主義や人生態度をさす。当時物質的になり金銭が支配する世界で、人々の趣味は低俗化の一途をた
どり、形式的な道徳観、パッションの失せた、俗悪な状況における人間存在の空虚感が社会に漂っていた。
超絶主義はそういった社会を改良する運動へも展開し、禁酒、奴隷解放、平和運動などへ結びつく。また自
分が絶対的な権威者となることで個人主義へとつらなり、全ての人がそれを実践すれば平等主義へと帰結す
る。またこの思想は解放思想としても考えられる。それは17世紀のピューリタニズムからの解放、18世
紀的な合理主義一辺倒の人間観からの自己解放、19世紀的物質主義からの自己解放である。
1861-65 年、南北戦争と、1863 年、奴隷解放宣言
奴隷解放主義をとなえるエイブラハム・リンカーンが、1860 年に大統領に当選したことをきっかけに南部 7
州が連邦を脱退、国内戦争に突入。当時アメリカ南部諸州は奴隷制を基礎に、少数の白人支配者が大農園経
営を行う非近代的経済体制のもと行き詰まっていた。しかし北部産業資本はアメリカ北西部で順調に発展し、
南部でも力を伸張していた。経済的に行き詰まった南部は、北部の自由労働者、西部の自営農民がささえる
社会体制とは相いれず、政治的にも孤立を深めた。合衆国は成立時、憲法で万人の平等と生命、自由及び幸
福の追求の権利を保障しながら、黒人奴隷制度を温存したため、国家的内部矛盾を抱え込んできた。この戦
争はそれを解消するための不可避の道程であった。またこの戦争は近代兵器による大量殺人をした世界では
じめての戦争としても記憶されている。
1869 年、大陸横断鉄道の完成と産業、工業、科学の発展と金メッキ時代
鉄道路線網は、大陸横断鉄道の完成以降も拡張を続け、西部の資源、農産物を東部の都市消費地へと供給し、
東部の工業製品を西部へ運んだ。農業や牧畜業も企業化された。国内市場の拡大により経済成長を加速。1890
年、辺境線(フロンティア)の消滅により、人の東部から西部辺境地への移動から、西から東部都市への移
動が始まる。都市が新たなフロンティア精神を発揮する場となる。電話(1876)
、電灯(1879)
、電力(1882)
、
電車(1887)、活動写真(1893)、飛行機(1903)、タイプライター(1873)などの機械が、アメリカ人の夢
を実現する道具となる。工業生産は飛躍的発展を遂げ、立身出世の夢(アメリカン・ドリーム)が生まれた。
企業家はトラストにより原材料や価格を自由に操作し、富を自らに集中させた結果、鉄道資本家スタンフォ
ード、US スティールのモーガン、石油、鉄鋼王カーネギー、スタンダード石油会社のロックフェラーらの
新興成金の資本家を生んだ。
1865年、社会ダーウィニズムと資本主義の発展
適者生存と自由放任主義を基礎とする、19世紀アメリカ資本主義社会の構造を正当化する社会改革の理論
の登場。チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859)の思想はこの年以降、ハーバート・スペンサ
ーの社会哲学と結びつく。そして自然界での適者生存を社会に適応し、経済競争を正当化した。その結果、
巨大化した資本家は、劣悪な条件下で働く労働者に犠牲を強いた。労働災害での多数の死者、1873、9
3、1907、1919に経済恐慌が起こる。それに応じて労働組合の結成、ストライキ、革新運動、社会
党結成(1900)される。
1870-1920 年、移民のピークと都市化
80 年代には 530 万人、90 年代には 400 万人の移民が、アメリカに渡る。この時代は南欧東欧からの移民が
大部分を占めた。彼らは本国での農村共同体での生活から、都市スラムでの根無し草生活、同民族で形成し
たゲットーでの生活の中、企業家に劣悪な労働条件下で搾取され、孤独と疎外感にさいなまれる。さらに安
価な労働力としてアジアからの移民も増加した。
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