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中国の暦

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中国の暦
せん ぎょく
顓頊暦以降、清朝にいたるまで50回近くになる。
中国の暦
おもな理由は、日月の運行の観測データと実際の
早稲田大学教授 近藤一成
天体運行の周期とに差があり、長い年月がたつと、
日月食の予測がはずれるなど暦と天文現象が合わ
時の管理は天子の専権事項 中国は過去3000年、
なくなるために修正が必要となるからである。し
干支による日付を1日も欠かすことなく連続させ、
かし改暦数は、その必要をはるかにうわまわる。
天文現象をほぼ絶やすことなく記録しつづけた世
前漢の太初暦 新たに天命を受けた王朝は、
「受
界に類のない歴史をもつ。中国歴代王朝の天子・
命改制」といって前王朝とは異なる正朔と服色を
皇帝は、天命をうけ天の代理者として世界を統治
採用するという考えがある。各王朝は、独自の暦
するという理念にもとづく存在であり、時の管理
を編纂して受命の事実を広く知らせた。前漢武帝
は天子の専権事項であった。暦の作成は天子のみ
の太初元(前104)年に施行された太初暦は、す
に許された行為であり、
「正朔(暦)を奉ず」と
でに戦国時代から行われていた、1年を365日と
は天子の暦を使用すること、すなわち、その統治
4分の1日、19年間に7閏月を置いて季節を調整
に服することを意味した。明の建文帝が、足利義
していた四分暦を継承し、しかも1年の長さはご
満を日本国王に封じたときに大統暦を賜ったこと
くわずかではあるが先行暦より誤差が大きい。改
は、その一例である。
暦の理由は、五徳説による秦水徳・漢火徳説の確
中国独自の要素をもつ太陰太陽暦 中国の暦は
立にともない、開国の皇帝でもない武帝がここに
太陰太陽暦であるが、中国独自の要素を併せもつ。
いたって「受命改暦」の断行をはかったことにあ
それはまず第1に、早くから太陽と月の動きだけ
ろう。以降、政治的要因による改暦が通例となる。
でなく、五惑星の天球上の位置を示し、日食月食
元の授時暦 郭守敬編纂の授時暦は、一般にイ
の予報、食の状況についても記す天体暦であった
スラーム暦を参考に作成されたと説明されるが、
ことである。これは暦を編纂する術数学が、儒学
中国科学史家の薮内清によれば、中国古来の伝統
の古典である経書を解釈する経学の範疇内にあり、
的な暦である。その特徴は、イスラーム天文学の
その経学による世界認識が陰陽五行の運動から説
影響を受け精妙に作成された観測機器の作成にあ
明される世界生成論を基礎にしたからである。月
り、それを使用した入念な観測結果と計算方法の
と太陽が陰陽に、木火土金水の五惑星が五行に配
改良によって優秀な暦となったのである。次の明
当され、それらの位置関係が記された暦は、紀元
の大統暦も中味は授時暦であり、日本でも江戸時
前後、前漢末の三統暦から始まる。ちなみにヨー
代に貞享暦としてとりいれられた。
ロッパでの天体暦は、17世紀後期のパリ天文台発
清の時憲暦 イエズス会士による西洋の最新の
行が最初といわれる。
天文知識を集大成した明の崇禎暦書にもとづく。
第2に、天文現象を注意深く観測し、異常があ
反キリスト教勢力の讒言によって起こされた暦獄
れば、天子の言動とどう関係するのかを論議する
によって、時憲暦作成の中心にいたアダム=シャ
天人相関説が行われた。すなわち天体暦は占術の
ールは、不敬罪で死刑の判決を受け獄死。しかし
書でもあった。占術書としての暦は、庶民レベル
再度採用された明の大統暦と回回(イスラーム)
になると農事を記載する農暦の性格のみならず、
暦は、すぐにその疎漏さが明らかとなり、シャー
日々の吉凶や禁忌、逆に行うべきことを事細かに
ルを継いだフェルビーストが欽天監に復帰し、時
記す具注暦の姿をとることになった。それは、今
憲暦は清末まで使用された。ただし、その中国暦
日の日本でもカレンダーの先勝・友引・仏滅など
としての特色は最後まで維持された。しかし、清
六曜として形を残している。
朝の滅亡にともない、1912年、中国でもグレゴリ
第3は、改暦数の多さである。その数は秦漢の
ウス暦が採用された。
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