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記号の図像性の再考 - 大阪大学大学院文学研究科・文学部

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記号の図像性の再考 - 大阪大学大学院文学研究科・文学部
第 159 回大阪言語研究会例会(於大阪大学) 2008/05/17
下郡健志 1 of 22
記号の図像性の再考 :日英露のアスペクト形式から
下郡健志 (名古屋学院大学非常勤講師)
[email protected]
0. 導 入
様々な文法対立は対等な内容を持つ対等な形式の対立なのか。つまり文法的に対立する
形式 X と Y が存在する場合、それらは正と負のようなもの、すなわち、それぞれ恣意的に定め
れ何ら根拠を持たない形式であり、それらの意味は互いに排他的な矛盾対等の関係にあり常
にどちらかが絶対的に選択されるものであろうか。
日本語の膠着言語としての性質や、英語の様々な迂言的表現、ロシア語の語形成におけ
る膠着的性質に目を向けると、そのような対等な対立は考えにくいはずである。しかし文法研
究における様々な議論では、時に上記のような対等な対立像が支配しており、そのためにそ
の対立像に合致するように説明の論理が操作されているのではないかと思われる。
たとえば日本語のアスペクト対立は一般にル形とテイル形と呼ばれる二つの系列がそれぞ
れ完了アスペクトと未完了アスペクトを担うとされる。しかし、「結婚している」や「死んでいる」
といったいわゆる瞬間動詞
*1
のテ形に状態動詞起源の補助動詞「いる」が付加した形式は存
続、すなわちパーフェクトを表す。パーフェクトはその定義上、事態が完了していることを前提
としているが、このことは未完了アスペクト形式が用いられていることと矛盾する。従ってこのよ
うなテイル形のパーフェクトに対し、事態の成立時点の前後の時間を取り込んだ期間を言語
上の事態全体としてとらえ、その全体が成立する時点に対して未完了であるといった説明がな
される。
同じように英語の完了アスペクト:未完了アスペクトの対立は単純形式:進行形形式による
とされる。しかし完了アスペクトであるはずの単純形式現在形が状態動詞をのぞけば実際に
は反復・習慣を表す。このような不都合な現象に対しては、反復される複数の事態全てを包み
込む集合体を全体ととらえることによって完了アスペクト性を説明することとなる。
確かに上記のような整合性を重視した諸説明が誤りだと論証することは困難であろう。しか
しこれらの説明には形式に対する考慮が決定的に欠けているのは確かである。先に述べた膠
着言語としての特性や迂言形式としての特性を考慮に入れずに、それぞれの機能のみを分析
するわけにはいかない。形式と意味とは切り離せない関係にあることを常に念頭に置かねば
ならないのである。そして形式と意味との普遍的な関係の仕組みを基に様々な言語現象を説
明する必要があろう。
そこで本発表では以下のような点について話を進めたい。
・日英露における状態動詞と反復・習慣表現の相違点について
*1 筆 者 は 「 限 界 動 詞 」 の 名 称 を 支 持 す る 。 た だ し 便 宜 上 、 一 般 化 し た 「 瞬 間 動 詞 」 を 用 い る 。
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・その相違点の要因として:汎時的である単純形式と限定的時制である拡張形式について
・単純形式と拡張形式の間の図像性について
・そのほかのいくつかの問題について
先に進む前に議論の中心となる日英露のアスペクト形式を確認しておきたい。それぞれの
言語の時制アスペクト体系は次のようになる
*2
。 ま た ( 1) は 完 了 ア ス ペ ク ト 、 ( 2) は 未 完 了 ア ス
*3
ペクトを持つとされる形式である 。
日本語
完了
英語
未完
完了
ロシア語
未完
完了
未完
未来 ル形 テイル形 単純未来 未来進行 完了体現在
不完了体未来
現在
単純現在 現在進行
不完了体現在
単純過去 過去進行 完了体過去
不完了体過去
過去 タ形
テイタ形
完了アスペクト
(1)
R. молодой человек вдруг остановился и судорожно схватился за свою шляпу.
«Molodoj chelovek vdrug ostanovils'a i sudorozhno skhvatils'a za svoju shl'apu»
【若い 人 突然 止まった(完了体過去) そして 発作的に つかまる ~に 自分の
の 帽子】
E. the young man stopped suddenly and clutched tremulously at his hat.
J.
青年は思わず立ちどまって、あわてて帽子へ手をやった。
未完了アスペクト
(2)
R. Он сидел особо, перед своею посудинкой, изредка отпивая и посматривая кругом.
«On sidel osobo, pered svoeju posudinkoj, izredka otpivaja i posmatrivaja krugom.»
【彼 座る(不完了体過去) 離れて 前 自分の 瓶 時折 飲む(不完了体
副動詞=ナガラ分詞) そして 時折見る(不完了体副動詞) 周囲を】
E. He was sitting apart, now and then sipping from his pot and looking round at the company.
J.
彼は一人はなれて、瓶をまえにし、ときどきちびりちびり飲みながら、あたりを見まわ
していた。
1. 状態動詞と習慣・反復形式
1-1. 状態動詞
*2 英 語 の 完 了 は こ こ で は 扱 わ な い 。
*3 例 文 は 特 に 断 り が な い 場 合 は ド ス ト エ フ ス キ ー 『 罪 と 罰 』 の 対 訳 テ キ ス ト か ら で あ る 。 英 訳 は
Constance Garnett 、 日 本 語 訳 は 工 藤 精 一 郎 に よ る も の を 使 用 し た 。
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状態動詞とは何ら文法形式を付加することなく状態性を表す動詞であるため、文法カテゴ
リとしてのアスペクトではなく、個々の動詞固有の時間的特性であるアクチオンス・アルトに属
すものである。状態動詞が表す事態は本来的に常に真であり、開始点や終了点、進行中の任
意の時点における局面を表すことがない。従って一般に日本語のアスペクト研究においては
状 態 動 詞 は 考 慮 の 対 象 か ら 除 外 さ れ る ( 奥 田 1978,
町 田 1989 な ど ) 。 し か し 状 態 動 詞 を 形 式
的に区別する活格構造言語などを除いて、多くの言語は状態性を持つ動詞に対して特別な
形式を持つのではなく、完了アスペクトあるいは未完了アスペクトと同じ形式が用いられ、どち
らが用いられるかは言語によって異なる。日本語ではル形やタ形が用いられ完了アスペクトの
形式が用いられている。また英語は単純時制が用いられる。一方、ロシア語については不完
了体が用いられる。
(3)
R. В одной комнате помещаются, а Соня свою имеет особую, с перегородкой...
«v odnoj komnate pomeshchajuts'a, a Son'a svoju imeet osobuju, s peregorodkoj»
【中 1 つの 部屋 占める(不完了体現在)、一方 ソーニャ 自分の 持つ
(不完了体現在) 自身の 共に 仕切り壁】
E. They all live in one room, but Sonia has her own, partitioned off...
J.
みな一つ部屋に住んでるが、ソーニャだけは別に部屋があるんですよ、板壁で仕
切った……
ロ シ ア 語 で は помещаются «pomeshchajuts'a» と имеет «imeet» が 用 い ら れ て い る が 、 と も に 不
完 了 体 で あ る 。 一 方 英 語 は live と has の 単 純 形 式 が 用 い ら れ て い る 。 た だ し 周 知 の よ う に 英 語
の状態動詞は必ずしも単純形のみで現れるのではない。むしろ、恒久的な状態を表す場合に
のみ単純形になるのであり、それ以外の場合は未完了アスペクトである進行形で現れるとす
べきであろう。
(4)
a. The accused was remaining silent.
(被告は默り続けていた)
b. You are being a real bully again.
(また弱いものいじめをして)
(4)a は 一 般 に 人 が 主 語 で あ り 、 意 志 で 左 右 で き る か ら 進 行 形 に す る こ と が で き る と さ れ る も
のである。文法的な時制アスペクトの要素を取り除いた個々の動詞句固有の時間的意味は動
詞単独にのみ依存するのではなく、主語や目的語といった要素も関係することを考慮すれば、
これは状態性を持たない動詞句であるということになろう。
一 方 の (4)b は 一 時 的 な 状 態 を 表 す も の と し て 説 明 さ れ る 。 こ れ に 対 し て 、 1 ) to be a real
bully は 場 合 に よ っ て は 起 点 と 終 点 を 持 っ た 時 間 的 制 限 の あ る 事 態 と し て 解 釈 さ れ る 場 合 が あ
る ( た と え ば 二 枝 2007 : 72f.) ; 2 ) 単 純 形 式 で 表 示 で き る は ず の 状 態 に 対 し 、 さ ら に 未 完 了 性
を表示することによって言わば有標的な形式が得られ、それに併せて何らかの有標的な意味
を加えるなどといったアプローチによって説明することが可能であろう。しかし、同じ形式が時
に様々な意味を持つものとして解釈される仕組みや、単純形式が拡張形式へと派生する仕組
みを明らかにしなければならない。
話 を ( 3) に 戻 す 。 日 本 語 で は 「 住 ん で る 」 に つ い て は テ イ ル 形 が 用 い ら れ て い る が 、 「 あ る 」
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についてはル形が用いられている。これは日本語の「住む」が状態動詞として扱われないため
であり、問題とはならないであろう。このような言語間の振る舞いの違いに対するアプローチと
し て 、 1) そ れ ぞ れ の 言 語 に よ っ て ア ス ペ ク ト の 表 す 意 味 が 異 な る た め に 、 日 英 で は 完 了 ア ス
ペ ク ト が 用 い ら れ る の に 対 し 、 ロ シ ア 語 で は 未 完 了 ア ス ペ ク ト が 用 い ら れ る ; 2) ア ス ペ ク ト の 対
立が無い場合は常に単純な形式が用いられる、という 2 つの切り口がある。一般に状態動詞
を考察対象から除外するということは、それは後者の立場を取るものである。しかしその場合、
単純な形式と複雑な形式とが存在していることを前提としており、形式的側面を考慮に入れな
がらアスペクトを論じる必要が出てくる。従って、状態動詞をアスペクト対立の外にあるとして
考察対象から外しておきながら、形式の問題に触れずアスペクトを語ることは問題が残ると言
わざるを得ない。そして何より状態動詞を考慮から外してはならない。
1-2. 習慣・反復形式
時にアスペクトに属すと考えられるものに反復・習慣がある。これらの意味は事態の数に関
係するものであり、動作の局面といったアスペクトの定義では分類できない概念である。従っ
て over and over again と い っ た 副 詞 的 状 況 語 や cried and cried な ど の 同 語 反 復 な ど に よ っ て 明 示
的 に 複 数 性 を 表 す ほ か 、 リ ト ア ニ ア 語 の 接 尾 辞 -yva- な ど 、 言 語 に よ っ て は 反 復 や 習 慣 を 表 す
ための特別な形態が用意されている場合がある。ここで取り上げる 3 つの言語においても英
語 の used to や ロ シ ア 語 видать «vidat'» 「 し ば し ば 見 か け る 」 と い っ た 多 回 体 動 詞 な ど 、 反 復 ・ 習
慣を特別に表す形態がある。しかしこのような語彙的な反復性は一部の動作にのみ適用され
るだけであり、あらゆる動作に適用される文法形式としては、一般に完了アスペクト形式あるい
は未完了アスペクト形式のいずれかで表される。その場合、本来的なアスペクトの意味ではな
いことを明示化するために、副詞などの状況語が共に用いられることが多い。
(5)
R. Молодой человек несколько раз припоминал потом это первое впечатление и даже
приписывал его предчувствию.
« Molodoj chelovek neskol'ko raz pripominal potom eto pervoe vpechatlenie i dazhe pripicyval
ego predchuvstviju »
【若い 男 いくつかの 回 思い返す(不完了体過去) 後で これ 1 番目の 印象 そ
して ~でさえ みなす(不完了体過去) 彼の 虫の知らせ】
E. The young man often recalled this impression afterwards, and even ascribed it to presentiment.
J.
青年はあとになって何度かこの第一印象を思いかえしてみて、それを虫の知らせだと
さえ思った。
上記の例では「何度か」という副詞の存在によって明確に反復性が認められる文脈である
が、ここではロシア語で不完了体が、英語で単純形が、日本語でタ形が用いられている。先ほ
どの状態動詞と同じく、未完了アスペクト形式を用いるロシア語型と、完了アスペクト形式を用
いる日英語型とに分かれる。反復・習慣は本来的なアスペクト的意味ではないため、個々の言
語内の現象に対しては完了アスペクトと未完了アスペクトのそれぞれの本質的意味を適用さ
せることによって生じた違いとして説明ができるかもしれない。例えば完了アスペクトを用いる
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言語(すなわち英語や日本語)に対しては、反復は複数の事態の集合であり、それら集合全
体を指す全一的、全体的なとらえ方をすることから完了アスペクトが用いられるといった説明
が可能となろう。未完了アスペクトを用いる言語(すなわちロシア語)に対しては、反復・習慣
を複数の事態の集合を全体ととらえ、その内部のある時点において真であるととらえるならば、
事態の内部に入り込む未完了アスペクトが用いられる理論的土台が得られる。
反復を取り上げる際に考慮に入れなければならない事実として、状態動詞の場合と同じ
く、これらに対立するそれぞれの形式が決して反復を表さないという訳ではないという点があ
る。ロシア語の完了体も反復に用いられることがあり、その場合は不定期の反復を表すという。
次 の 例 は 磯 谷 ( 1975 : 16 ) か ら で あ る 。
(6)
В этих условиях могут развиваться бактерии. Может быть, могут развиться и другие
микроорганизмы.
« V etikh uslovijakh mogut razvivat's'a bakterii. Mozhet byt', mogut razvit's'a i drugie
mikroorganismy. »
【中 この 条件 可能性がある 成長する(不完了体不定形) バクテリヤ 可能性がある
成長する(完了体不定形) そして 別の 微生物】
「これらの条件なら、バクテリヤは繁殖することができる。ひょっとしたら他の微生物を繁殖
するかもしれない。」
こ こ で 前 者 の 不 完 了 体 不 定 形 развиваться «razvivat's'a»
は恒常的反復性、普遍的可能性、
性 質 を 表 す の に 対 し 、 後 者 の 完 了 体 不 定 形 развиться «razvit's'a» は 仮 定 的 、 潜 在 的 可 能 性 、 不
規則な反復可能性を表すという。これは後に見るように完了アスペクトは事態を全体としてとら
えるのと同時に、個別的、具体的な事態をとらえることを前提としているため、規則的に繰り返
される事態をそのまま進行中のプロセスとして表すのではなく、いわば典型的な 1 回の事態を
例示することによって反復性を表すからだとされる。
ま た 英 語 で は よ く 知 ら れ て い る よ う に 、 現 在 進 行 形 が always な ど と 共 起 し た 場 合 に 反 復 を
表 す 。 た だ し こ の 場 合 は よ く 知 ら れ る よ う に 否 定 的 な 意 味 が 出 る 。 こ れ に 対 し て 鈴 木 ( 2003 )
は、反復はアスペクトの対立が無いため単純形が用いられるが、それはあくまで感情的に中
立の意味であり、何らかの感情表現を表すためには非中立的な形式である進行形を用いると
する。また肯定的感情と否定的感情を比べた場合、肯定的感情はある基準を満たせば生じる
ものの、否定的感情はある基準に到達しなかった場合に生じるものとみなせば、特別に表示さ
れる進行形の反復が多くの場合において否定的感情が出ることが説明されるとしている。
日 本 語 は 上 記 の (6) で は ル 形 で あ る が 、 場 合 に よ っ て は テ イ ル 形 も 可 能 で あ る 。 次 の (7)
は 寺 村 ( 1984 : 97 ) か ら の 引 用 で あ る が 、 彼 に よ れ ば b の テ イ ル 形 で は 「 最 近 は じ め て 、 今 そ
の習慣が続いている(そのうちにやめるかもしれない)、という含みが感じられるのに対して、 a
のほうはそういう感じがない。」とし、「この頃」や「このところ毎日」といった修飾語が a にはつ
けにくいと指摘している。すなわち「一時性」といった性質があると考えられよう。
(7)
a. 私 は 毎 朝 30 分 ほ ど 散 歩 を し ま す 。
b. 私 は 毎 朝 30 分 ほ ど 散 歩 を し て い ま す 。
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このように、反復・習慣を表す文法手段には一般的な意味を表示する形式とやや特殊な
意 味 を 表 示 す る 形 式 と が 備 わ っ て い る 。 こ れ に 対 し て は 先 の (4) の 英 語 に お け る 状 態 動 詞 の
場合と同じく、いくつかの説明が可能であろうが、いずれにせよ一貫した仕組みを明らかにし
なければならない。
さてこのようなロシア語型と日英語型の違いは何に由来するものであろうか。状態動詞の
場合と同じように、 1 )それぞれの言語によってアスペクトの表す意味が異なるために、日英で
は完了アスペクトが用いられるのに対し、ロシア語では未完了アスペクトが用いられる; 2 )ア
スペクトの対立が無い場合は原則として単純な形式が用いられる、という 2 つの切り口がある。
前者のアプローチとは結局のところ各言語におけるアスペクトの意味機能の違いとするが、で
はそのアスペクトの違いは何に由来するのかという問題に結びつく。また後者のアプローチを
取 る こ と は 、 反 復 が い わ ば timeless な 現 象 で あ る と ら え る の で あ り 、 そ れ 故 に 単 純 な 形 式 が 用 い
られるという見方である。このようなとらえ方はすなわち完了アスペクトと未完了アスペクトの形
式的な差異に言及するものであり、形式を除外して分析することは許されないことになる。
以上において概観したこれらの相違点はいかにして生じるものであろうか。これらの言語
にそもそも共通のアスペクト対立など存在しないとも思えるほどである。しかしこれらの言語に
おける最大の相違点である形式に目を向けると、表面的な相違とは逆に共通した記号メカニ
ズムが存在していることが理解できよう。以下、第 2 章においては言語全体に貫く記号システ
ムの一般的性質について概観し、汎時的形式とその派生形式について議論する。
2. 汎時制形式と有標形式
2-1. 図像性理論
ソシュールが近代言語学の祖であることに間違いはないが、少なくともシニフィアンとシニ
フィエの関係が恣意的であるという主張についてのみ見れば、その主張は彼とその後継者た
ちによって殊更に強調されてきた感が否めない。それは既に広く知られているように、名前の
恣 意 性 が プ ラ ト ン の 『 ク ラ テ ュ ロ ス 』 や 、 イ ン ド 哲 学 に お い て 2000 年 以 上 も 前 に 述 べ ら れ て い る
か ら で は な い 。 ま た 、 そ の 評 価 が 死 語 20 年 を 経 て か ら と は い え 、 ア メ リ カ 記 号 論 の 祖 で あ る パ
ースがソシュール以前に記号の象徴性について述べているからでもない。問題は主張内容の
プライオリティではなく、恣意性に対する様々な反証が見られることにある。
その過剰とも言える主張は既に当初から批判されてきた。よく知られているように、かのバ
ン ヴ ェ ニ ス ト ( Benveniste 1939 : 57 ) は 「 能 記 と 所 記 の 間 に お い て 、 そ の き ず な は 恣 意 的 で は な
い 。 そ れ ど こ ろ か 、 そ の き づ な は 必 然 的 で あ る 。 bœuf 「 牛 」 と い う 概 念 ( 《 所 記 》 ) は 、 私 の 意 識
の 中 で は 、 böf と い う 音 の 全 体 ( 《 能 記 》 ) と ど う し て も 同 一 で あ る 」 と 述 べ て い る 。 し か し 彼 の 指
摘は記号におけるシニフィアンとシニフィエの結びつきが慣習によって固定されていることを
述 べ て い る に 過 ぎ ず 、 böf と い う 音 形 と 「 牛 」 と い う 内 容 の 結 び つ き の 起 源 が 図 像 的 で 必 然 性
があると述べている訳ではない点に注意しなければならない。
となれば、慣習化され、我々の意識の中に深く根付いた記号に対してではなく、個々の記
号の成立過程においては恣意性があると言えそうなのだが、ただしそれは語根に限られること
に注意しなければならない。たとえそれ自体は恣意性を持つ記号であったとしても、それを素
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材として別の概念が生まれるときには、その派生概念と記号形式の拡張の間に恣意性はな
い 。 つ ま り 、 例 え ば car 「 車 ( 単 数 ) 」 か ら cars 「 車 ( 複 数 ) 」 の 概 念 を 得 る 過 程 を 例 に 見 れ ば 、 確
か に car の 音 形 と 概 念 、 お よ び -s の 音 形 と 「 複 数 性 」 と い う 概 念 に は そ れ ぞ れ 恣 意 性 が 存 在 し
て い る も の の 、 「 car に -s を 付 加 す れ ば 複 数 性 が 得 ら れ る 」 と い う プ ロ セ ス に 対 し て は 恣 意 性
はなく、そこには形式的延長と概念の延長という図像性が見て取れるのである。
そ の よ う な 意 味 で の 図 像 性 に つ い て の 言 及 と し て 有 名 な の は ヤ コ ブ ソ ン ( Jakobson 1965 ) で
あ る 。 彼 は ソ シ ュ ー ル の 恣 意 性 を 批 判 し 、 パ ー ス の い わ ゆ る 記 号 の 3 分 類 、 す な わ ち 図 像 icon
と 指 標 index と 象 徴 symbol を 評 価 す る 。 ま た 特 に 図 像 の 下 位 分 類 で あ る 画 像 image と 図 表
diagram の う ち 、 言 語 に お け る 図 表 性 を 強 調 す る 。 図 表 と は 代 数 方 程 式 や グ ラ フ な ど 、 関 係 を
表す図像記号である。そして言語は一種の代数に他ならないとし、そのような図像性として語
順 と い う 線 状 的 図 像 性 に つ い て 述 べ る 。 ゼ ラ の 戦 い に 勝 利 し た カ エ サ ル の 有 名 な 言 葉 Vēnī,
vīdī, vīcī 「 見 た 、 来 た 、 勝 っ た 」 に お い て 、 語 に よ っ て 表 さ れ る 行 為 が 現 実 の 行 為 の 順 序 と 等 し
いことを取り上げる。その他にも条件節が帰結節に先行すること、平叙文においては主語が目
的語に先行すること、印欧語において形容詞の原級、比較級、最上級は音素数の漸進的増
加を見せること、単数に形態素を加えることによって複数形を形成することなどを挙げる。
これらはごく単純な現象であるとはいえ、様々な文法現象の成立原理を示すものとして評
価しなければならない。このような言語形式と概念の図像的関係におけるより複雑な対応につ
い て は 、 1980 年 代 か ら 現 在 に 至 る ま で 、 図 像 性 理 論 Iconic
1983,
Principle と し て ヘ イ マ ン ( Haiman
1985 ほ か ) を 中 心 に 展 開 さ れ て い る 。 そ こ で は 以 下 の よ う な 点 に つ い て 様 々 な デ ー タ に
よ っ て 実 証 さ れ る ( Haiman 1983 ) 。
a)
表現間の言語上の距離は表現間の概念的距離に対応する。
b)
ある表現の分離度はそれが表す対象や事態の概念上の独立度に対応する。
c)
メッセージの内容が等しい場合、話者間の社会的距離はメッセージの長さに対応する。
a に つ い て は 使 役 性 や 等 位 構 文 な ど が 検 討 さ れ る 。 使 役 性 に つ い て は kill X と cause X to
die と で は 音 形 の 長 い 後 者 は 前 者 に 比 べ て X に 対 し て 間 接 的 な 影 響 し か 与 え な い と い っ た 違
い が あ る 。 ま た X and Y と い う 等 位 構 文 は 、 X, Y と い っ た 接 続 表 現 を 用 い な い 表 現 に 比 べ て X
と Y 間の因果関係や時間的同時性といった関係性が弱いという。
b については、名詞包合における参照性が挙げられる。一般に動詞+名詞という連続と比
べ、名詞包合における名詞は参照性が低い。日本語でも「花を見る」と「花見する」の違いを
見れば明らかである。またロシア語のように再帰代名詞を完全形式と接辞との 2 種類がある場
合 、 接 辞 で 表 さ れ る 再 帰 代 名 詞 は 参 照 性 が 低 い 。 例 え ば ロ シ ア 語 の бояться «bojat's'a» 「 恐 れ
る 」 で は 再 帰 代 名 詞 が 接 辞 -ся «-s'a» と し て 埋 め 込 ま れ て い る 。 こ れ は 対 格 接 辞 な の で 、 恐 れ
る対象は本来的には属格で表さなければならないが、実際には対格として現れうる。これも接
辞 -ся «-s'a» に 本 来 は 含 ま れ て い る 「 自 分 」 が 参 照 性 を 失 い 、 形 骸 し て い る た め で あ る と 考 え る
ことができよう。
c の 社 会 的 距 離 に つ い て は 、 婉 曲 的 表 現 が 挙 げ ら れ る 。 社 会 的 距 離 と は 滝 浦 ( 2005 ) な ど
で紹介されるポライトネスの概念へとつながる。一般に敬意を持つことは対人的あるいは対素
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材的距離を取ることであり、逆に距離を狭めることは対人的、対素材的な親密性が増加するこ
とである。滝浦の主張するところでは距離の表示は言語的素材を様々に駆使してなされるた
め、語用論の問題となる。効率性を犠牲にして直接的表現を避け、婉曲的表現を用いるのは
まさにポライトネスの表現であり、社会的距離の表現であると言えよう。我々の用いる日本語に
は敬語という距離を専門に表示するツールが備わっているが、「~ダ」に対して「~デス」、「言
う」に対して「おっしゃる」、「トイレはあちらです」よりも「お手洗いはあちらの方にございます」
といった表現を見れば、敬語に対しては形式的に長いものが用いられていると言えそうであ
る。
このような理論は何よりその分かり易さにおいて優れている。また人間の持つ認知能力に
対応しているといった説明もそれなりの説得力があるように思える。しかし一方で、その形式的
な長さが常に概念的長さに対応しているとまで主張できるであろうか。あるいは一見したところ
では対応していないように見える場合でも、一貫した別の説明によって個別に例外として処理
で き る で あ ろ う か が 問 題 と な ろ う 。 例 え ば 、 ロ シ ア 語 の 完 了 体 動 詞 переписать «perepisat'» 「 書 き
直 す 」 に 対 し て 不 完 了 体 動 詞 переписывать «perepisyvat'» は 、 派 生 接 尾 辞 -ыва- «-yva-» を 持 つ
点で長いのであるが、完了アスペクトよりも未完了アスペクトの方が概念的に長いということに
なるのであろうか。同様に、日本語のシタよりもシテイルの方が概念的に長いのであろうか。
ヤ コ ブ ソ ン ( 1966 ) の よ う に 、 「 不 完 了 体 は 意 味 的 に 非 限 定 的 で あ り 、 あ る い は 展 開 的 で あ
る」という点で概念的に長く、語幹の延長と対応すると主張することも可能であろう。では別の
動 詞 の ア ス ペ ク ト の 対 に お い て は 、 例 え ば 不 完 了 体 動 詞 писать «pisat'» 「 書 く 」 と 完 了 体 動 詞
написать «napisat'» に お い て は 、 完 了 体 動 詞 が 接 頭 辞 を 持 つ 点 に お い て 長 く 形 成 さ れ て い る の
であるが、この場合はいかなる説明をすべきであろうか。またヤコブソンの説明をそのまま日
本語に適用しようとすれば、日本語のル形が反復という複数性を表すという事実と合わなくな
るのでは無かろうか。
このような様々な事例を見る限り、ヘイマン的な図像性理論に対しては依然として慎重な
態度を取らざるを得ない。あくまでも記号の長さが概念の長さに対応するのは部分的であり、
より上位に存在するメカニズムの 1 つの現れとみなすべきかもしれない。
そこで形式的長さと概念的長さの対応という認知能力による説明を離れ、そもそもある形
式が別の形式へと派生するメカニズムの原則に立ち戻ってみたいと思う。その上でヘイマン的
な図像性理論を評価しなければならない。
2-2. 記号の拡張と限定・詳述性
非現実的ではあるが実に単純で素朴な仮定から話を進めたい。仮に表現形式が 1 つの音
しかない世界を仮定しよう。しかし世界は現実と同じく森羅万象である。当然ながら、その 1 つ
の音形式が担う機能負担量は計り知れない。従って、できる限り誤解のないコミュニケーショ
ンを可能にするためには、表現形式を増やすしかない。
人間が実際にどれだけの音声を区別できる能力を持つかは知らない。しかし処理が可能
な音声の数は数十であろう。しかしそれだけの数では、当然ながら森羅万象を表現するには
依然として不足である。従ってそれぞれの音を組み合わせて語を生産することになる。それら
の語でも不足ならば、音調によって区別したり、あるいは語と語を組み合わせて拡張させたり
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することによってそれぞれの機能負担量を減らすことになる。つまり、当初は 1 つの音形が担
っ て い た 機 能 量 は 2 つ の 音 形 に な れ ば 単 純 に 見 れ ば 50 % と な り 、 4 つ に な れ ば 25%と な る 。
一方、それぞれの形式はより個別性、具体性を増して限定される。すなわち詳述が可能と
なるわけである。記号体系の拡張の根本原理は、意味の限定と詳述性の拡張なのである*
*4
。
さて、現実の言語に戻れば、一般にある概念が新たに生じる際において、全く新たなシニ
フィアンを用意してその概念に当てるというのは非常にまれであることが分かる。つまり、ソシ
ュールやその支持者が述べるような記号の恣意性はもはや見あたらず、既に周囲に存在して
いる素材を活用するのが普通であろう。すなわち、新たな概念の導入は記号形式を単純に拡
張することである。
ど う 猛 な ネ コ 科 の 動 物 に 対 す る lion は 、 そ の 個 体 性 を 表 示 す る た め に a lion と な り 、 若 い ラ
イ オ ン や 雌 の ラ イ オ ン を 表 示 す る た め に a young lion や a female lion と な る 。 ま た こ れ ら は lionet
や lioness と い っ た 語 と し て 表 さ れ る よ う に な る こ と も あ ろ う 。 こ こ に 見 ら れ る 派 生 の プ ロ セ ス は 、
全 て を 汎 用 的 に 表 す lion に 対 し 、 詳 細 な 特 性 を 持 つ も の を 表 示 す る 拡 張 形 式 の 誕 生 で あ る 。
元の単純形式は本来的に汎用的であるため、詳細な特性を表示する拡張形式が表しきれな
いものを表すだけでなく、時には拡張形式が表すものと同じものを表示することが可能となる。
ここに「拡張形式=詳述的な意味」:「単純形式=汎用」という対立項間の非対称性が自然に
生じることとなる。
ヤ コ ブ ソ ン ( Jakobson 1932 ) は 歴 史 的 な 「 ロ シ ア 語 動 詞 の 構 造 に つ い て 」 に お い て 、 こ の よ う
な非対称的な対立項に対して有標項(=拡張形式):無標項(=単純汎用形式)という枠組み
を 導 入 し た 。 осёл «os'ol» 「 ロ バ 、 雄 ロ バ 」 と ослица «oslica» 「 雌 ロ バ 」 を 例 に 出 し 、 こ れ は こ れ ら
の語が互いに排他的な矛盾対当の関係にあるのではなく、一方が片方を包摂するような非対
称 的 な 欠 如 的 対 立 で あ る こ と を 示 し た も の で あ る 。 つ ま り 、 ослица «oslica» は 「 雌 」 と い う 積 極 的
な 意 味 を 持 つ の に 対 し 、 осёл «os'ol» は 「 雄 」 と い う 意 味 を 積 極 的 に 表 す の で は な く 、 「 雌 」 信 号
化 そ の も の が 欠 如 し て い る こ と を 表 示 す る と い う 。 従 っ て 、 осёл «os'ol» は 雄 雌 の 対 立 が 考 慮 さ
れない一般的な種類を表す場合もあるが、文脈によって限定されるのであれば、雄を意味す
る こ と と な る 。 彼 の 提 示 し た 文 脈 と は 非 常 に 単 純 な も の で 、 "Это ослица ? «eto oslica?» 【 こ れ 雌
ロ バ 】 "「 こ れ は 雌 ロ バ で す か ? 」 と い う 問 い に 対 す る 返 答 に 対 し "Нет, осёл. «net, os'ol.» 【 い い
え 、 雄 ロ バ 】 "「 い い え 、 雄 ロ バ で す 」 と い っ た よ う に 、 「 雄 」 で あ る こ と を 表 示 す る 義 務 が 生 じ る よ
うな場合である。
ここでの彼の目的は、このような「 A の信号化(有標)」と「 A の信号化の欠如(無標)」とい
う関係が文法対立の中にも存在することを提示するためであった。彼は「構造的文法の章の
ひとつを暫定的かつ要約的に素描したにすぎない」と断りながらも、このような欠如的対立、あ
るいは包摂的関係がロシア語の完了体と不完了体にも見られると指摘する。そして不完了体
動詞が積極的信号化を行わない無標項であり、完了体動詞が積極的信号化を行う有標項で
*4*
ただし、「山川」や「太郎と花子」、「走ったり歩いたりする」など、並列関係にある場合は
形式の拡大は意味の詳述・限定ではなく単純に意味の拡大となるが、これは例外と考えても良
いだろう。一般に A と B の形式が並ぶ場合、その関係は「山川」のごとき A ∨ B ではなく、「自
動車」のような A ∧ B の関係となる。
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あるとするのである。
ところで「一般 : 個別」といった包摂関係が「雄 : 雌」のような矛盾対当へ発達するプロセ
スが通常だと考えることに問題はないのだろか。現実には矛盾対当を成す組が包摂関係へと
発 達 す る プ ロ セ ス も 存 在 す る 。 有 名 な 例 は ス ペ イ ン 語 の padre 「 父 」 : madre 「 母 」 と い う 矛 盾 対
当 の 関 係 に あ る 組 の う ち 、 padre が 一 般 的 な 「 親 」 を 指 す よ う な 場 合 で あ る 。 ま た こ れ は 矛 盾 対
当ではなく反対対当にある関係だが、「多い : 少ない」や「大きい : 小さい」といった組では、
正の意味を持つ語が一般的意味(「多さ」や「大きさ」)を持つ。しかし形式を見れば明らかな
ように、これらの組は全て異なる語根を用いたものであり、 1 つの形式から派生して得られたも
のではない。記号形式の拡張とそれに伴う意味発達のメカニズムに関して言えば、排他関係
から包摂関係へと発達するプロセスは確認できない。ヤコブソンのロバの問題は、形式的特徴
と関連させて捉えることによってより確かなものとなるのである。
同 じ こ と は 図 像 性 理 論 に 対 す る ア ン ダ ソ ン ( Andersen 2001: 48 ) に よ る 批 判 に も 言 え る 。 彼 は
かならずしも長いものが有標ではないことの例として、ロシア語における形容詞の対義関係に
あ る 組 の う ち 、 無 標 の 形 式 の 方 が 接 辞 が 長 く 、 有 標 の 形 容 詞 が 接 辞 が 短 い こ と を 指 摘 す る *。
有標
無標
низ-к-ий «niz-k-ij» 「 低 い 」
вис-ок-ий «vis-ok-ij» 「 高 い 」
близ-к-ий «bliz-k-ij» 「 近 い 」
далёкий «dal'-ok-ij» 「 遠 い 」
уз-к-ий «uz-k-ij» 「 狭 い 」
шир-ок-ий «shir-ok-ij» 「 広 い 」
мел-к-ий «mel-k-ij» 「 浅 い 」
глуб-ок-ий «glub-ok-ij» 「 深 い 」
確かにヘイマンらが主張する図像性理論では必ずしも同じ形式をもとにした形式的長短に
限 っ て い る わ け で は な い た め ( 例 え ば kill X と cause X to die ) 、 こ の よ う な 事 実 は 図 像 性 理 論 に
対する反証として有効なのは間違いがない。しかし繰り返すが、記号の図像性について語る
ならば、同じ基底形を土台として比較しなければならない。
ヤコブソンのロバの問題についての問題としてもう 1 点だけ触れなければならない。それ
は包摂関係にある組が排他関係にもなる過程の結果、本来的な包摂関係を失ったと思われる
例 が 無 い わ け で は な い と い う こ と で あ る 。 よ く 指 摘 さ れ る の は count 「 伯 爵 」 : countess 「 伯 爵 夫
人 、 女 性 の 伯 爵 」 で あ る 。 「 伯 爵 夫 人 」 と い う 意 味 で 用 い ら れ る 場 合 は 、 当 然 な が ら count に て
表すことはできない。つまり完全に排他関係である。現時点では残念ながらこのような問題が
アスペクトなどの文法現象には見られないとは断言することは困難であるように思える。いかな
る場合に完全に排他関係へと転じる可能性があるのかを今後詳しく検討する必要があるであ
ろう。
2-3. 汎時的単純形式と限定的拡張形式
さて、このような汎時性を持つ単純形式と限定的な意味を持つ拡張形式が記号システムの
基本であるならば、その関係はそのまま動詞構造にも当てはまらなければならない。先に確認
した状態動詞や習慣・反復の表現は日本語と英語においては単純形式で表されていたので
あるが、それはまさに汎時的意味であると考えることができよう。すなわち、アスペクト対立の
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存在し得ない場合においては、何ら事態を限定する必要がないため、単純形式で表せばよい
からである。一方、大雑把ではあるが事態が現在に関わるものと限定する場合はテイルや進
行形といった拡張形式を用いればよい。ではこれらとロシア語との違いは何であろうか。
2-3-1. ロシア語のアスペクト形式
実はロシア語においても完了体と不完了体の対立は等質な対立ではなく、完了体が有標
であるような非対称的な対立であることはもはや当然のこととして受け入れられている。
たとえばマスロフは『言語学百科事典』で「意味的な基礎となるのは限界動詞であり、完了
体動詞は限界への到達を信号化し、それによって事態を不可分な全一性として表す。一方、
不完了体は限界への到達に対して、また全一性という特徴に対して中立的である」とし
( Ярцева 1990: 83 ) 、 ま た ボ ン ダ ル コ は ア カ デ ミ ー 文 法 に て 「 限 界 に よ っ て 限 定 さ れ た 全 一 的 な
事態を表す動詞(完了体動詞)と、限界によって限定された全一的な事態の指標を持たない
動詞(不完了体)」といったように、ロシア語の完了体:不完了体の対立が有標:無標の非対称
的 な 欠 如 的 対 立 で あ る こ と を 述 べ て い る ( Шведова 1982: 583 ) 。 ま た 、 無 標 性 が 場 面 に 従 っ て
様々な意味を表示するといった点も広く受け入れられている。
ではロシア語において不完了体が無標項であり、完了体が有標項であると判断する根拠
を い く つ か 挙 げ て お こ う ( Binnick 1991: 152f.) 。
a) 無標項の形成方法は不規則的で有標項の形成方法は規則的であることが多い。
例 え ば 英 語 の 単 数 : 複 数 の 関 係 は dog
:
dogs の よ う な 規 則 的 な も の だ け で な く 、 goose
:
geese や man : men の よ う に 不 規 則 な も の ま で あ る 。 し か し gosling : goslings や boy : boys の よ う に 、
意味的に詳細で有標的であるととらえられるものについては規則的な対応が見られることが多
い。同じようにロシア語の完了体は規則的に得られるのに対して不完了体の形成は不規則的
であるという。この形態的関係については後に見るが、大まかに見て完了体は接頭辞を付加
させることによって表示されることが多いのに対し、不完了体は接頭辞のない単純形式と接尾
辞のある形式の 2 通りがある。しかし接頭辞と接尾辞の種類を見れば明らかに接頭辞の方が
多く、一概に完了体が規則的形式で不完了体が不規則的形式であるとは言い難いように思え
る。
b) 有標項はカテゴリが欠けていたり、融合したりする。
英語の過去形は人称と数の表示が欠けているが、意味的に無標的と考えられる現在形に
ついては 3 人称単数が表示される。ロシア語においても不完了体が現在・過去・未来の 3 時
制を持つのに対し、完了体は過去と非過去の 2 時制しか持たない。
c) 環境によって 中和する場合、無標項が現れる。
これはトゥルベツコイが示した本来的な有標 :
無標の対立である。つまり、体系的理由に
よって定まる有標性である。ドイツ語の音節末尾は有声音と有声音は中和して無声音として現
れるが、そのような場合は中和位置に現れる無声音が無標項である。アスペクトの問題に関し
てみれば、それは行為の局面を問題にするのではなく、単に行為を名指しするような場合で
あ る と 思 わ れ る 。 次 の 例 は 「 昨 日 何 を し た か 」 と い っ た 漠 然 と し た 質 問 ( a) と そ の 返 答 ( b) で
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あり、アスペクト的には典型的に中立であると言えよう。
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a. Вчера что вы делали?
«Vchera chto vy delali?»
【昨日 何を あなた した(不完了体過去)】「昨日あなたは何をしましたか?」
b. Вчера я читал журналы в библиотеке.
«Vchera ja chital zhurnaly v biblioteke.»
【昨日 私 読む(不完了体過去) 雑誌 中 図書館】
「昨日私は図書館で雑誌を読みました。」
さて、以上のようにロシア語では完了体が有標であり、不完了体が無標であるということが
広く受け入れられている。最近において図像性理論や有標性理論は不必要であり、そのよう
な 用 語 や 概 念 は 制 限 も し く は 排 除 す べ き で あ る と 主 張 す る ハ ス ペ ル マ ト ( Haspelmath 2006: 41 )
は、「ヤコブソンによる完了アスペクト:未完了アスペクトの対立(における有標性)についての
主張はロシア語にのみ関係するものである」として否定する。確かに有標性という用語やその
概念の扱いについては、それがあまりにも多くの現象を含んでしまっており科学的厳密さを損
ねる恐れがあるためにその使用を控えるべきであるという彼の姿勢には大いに賛成である。し
かし、彼の上記の批判は不完了体=無標という決定された等式に対してであり、記号の派生
メカニズムそのものに対するものではない点に注意しておく必要がある。
では次の問題として、完了体が有標、すなわち限定的な意味を持つことはどのような仕組
みによるものであろうか。これはロシア語動詞の語構成から明らかにすることができる。本発表
では詳細に紹介することはできないが、アスペクト対立は次の二段階で発達したと考えられて
いる。
第一段階
無接頭動詞への接頭辞付加による限界性の表示
第二段階
接頭辞が付加された限界動詞への接尾辞付加による不完了体動
詞の形成と、それによる無接尾辞動詞の完了体動詞化
無接頭辞動詞
接頭辞動詞
接尾辞動詞
不完了体動詞
完了体動詞
上記のような発達の結果、ロシア語のアスペクトの対を形成する動詞の形式的特徴は以下
のように大きく 3 つのパターンに分類することができることになる。
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1) 接 頭 辞 な し ( 不 完 了 体 ) : 接 頭 辞 付 加 ( 完 了 体 ) ← 完 了 体 派 生 型
2) 接 尾 辞 付 加 ( 不 完 了 体 ) : 接 尾 辞 な し ( 完 了 体 ) ← 不 完 了 体 派 生 型
3) 補 充 方 法
完了体派生型
不完了体
: 完了体
будить «budit'» : раз-будить «raz-budit'»
「起こす」
видеть «videt'» : у-видеть «u-videt'»
「見る、会う」
готовить «gotovit'» : при-готовить «pri-gotovit'»
「準備する」
ждать «zhdat'» : подо-ждать «podo-zhdat'»
「待つ」
кипятить «kip'at'» : вс-кипятить «vs-kip'at'»
「わかす」
купать «kupat'» : ис-купать «is-kupat'»
「入浴する」
мужать «muzhat'» : воз-мужать «voz-muzhat'»
「成人する」
петь «pet'» : с-петь «s-pet'»
「歌う」
писать «pisat'» : на-писать «na-pisat'»
「書く」
платить «platit'» : заплатить «za-platit'»
「払う」
потеть «potet'» : вспотеть «vs-potet'»
「汗をかく」
сиротеть «sirotet'» : осиротеть «o-sirotet'»
「孤児になる」
редактировать «redaktirovat'» : от-редактировать
「編集する」
«ot-redaktirovat'»
ночевать «nochevat'» : пере-ночевать «pere-nochevat'»
「夜を過ごす」
смотреть «smotret'» : по-смотреть «po-smotret'»
「見る」
учить «uchit'» : вы-учить «vy-uchit'»
「学ぶ」
читать «chitat'» : про-читать «pro-chitat'»
「読む」
ここで注意すべきは完了体を派生させている接頭辞が様々に異なるという点である。接頭
辞のない不完了体から完了体を得る場合にどの接頭辞が用いられるかを予測することは不可
能であり、それぞれの対応は常に記憶になければならない。
不完了対派生型
говорить «govorit'» 「 話 す 」 よ り
完了体
不完了体
вз-говорить
вз-говари-ва-ть
「語る」
«vz-govorit'»
«vz-govari-va-t'»
воз-говорить
воз-говари-ва-ть
( вз-«vz-» 「 上 へ の 動 作 、 完 成 」 )
「言う、言い出す」
«voz-govorit'»
«voz-govari-va-t'»
( воз-«voz-» 「 動 作 の 急 激 な 開 始 」 )
вы-говорить
вы-говари-ва-ть
«vy-govorit'»
«vy-govari-va-t'»
( вы-«vy-» 「 内 か ら 外 へ の 動 作 」 )
до-говорить
до-говари-ва-ть
「最後まで話す」
「口に出す、発音する」
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«do-govorit'»
«do-govari-va-t'»
за-говорить
за-говари-ва-ть
( до-«do-» 「 行 為 の 完 了 」 )
«za-govorit'»
«za-govari-va-t'»
за-говорить
за-говари-ва-ть
「話して相手をうんざりさせる」
«za-govorit'»
«za-govari-va-t'»
( за-«za-» 「 過 度 な 動 作 」 )
из-говорить
из-говари-ва-ть
«iz-govorit'»
«iz-govari-va-t'»
( из-«iz-» 「 内 部 よ り 外 部 へ の 動 作 」 )
на-говорить
на-говари-ва-ть
「たくさん話す」
( на-«na-» 「 十 分 に 行 わ れ る 動 作 」 )
「話し始める」
( за-«za-» 「 動 作 の 開 始 」 )
「話す」
«na-govorit'»
«na-govari-va-t'»
недо-говорить
недо-говари-ва-ть
「言わないでおく、言い落とす」
«nedo-govorit'»
«nedo-govari-va-t'»
( недо-«nedo-» 「 不 完 全 な 動 作 」 )
о-говорить
о-говари-ва-ть
「中傷する」
«o-govorit'»
«o-govari-va-t'»
( о-«o-» 「 周 囲 へ の 動 作 、 損 害 を 与 え る 動 作 」 )
об-говорить
об-говари-ва-ть
「議論する」
«ob-govorit'»
«ob-govari-va-t'»
( об-«ob-» 「 周 囲 へ の 動 作 、 損 害 を 与 え る 動 作 」 )
от-говорить
от-говари-ва-ть
「思いとどまらせる」
«ot-govorit'»
«ot-govari-va-t'»
пере-говорить
пере-говари-ва-ть
( от-«ot-» 「 分 離 す る 動 作 」 )
「手短に話し合う」
«pere-govorit'»
«pere-govari-va-t'»
( пере-«pere-» 「 物 と 物 と の 間 の 動 作 」 )
по-говорить
по-говари-ва-ть
「しばらく話す」
«po-govorit'»
«po-govari-va-t'»
( по-«po-» 「 短 い 時 間 の 動 作 」 )
под-говорить
под-говари-ва-ть
「そそのかす」
«pod-govorit'»
«pod-govari-va-t'»
( под-«pod-» 「 下 方 へ の 動 作 」 )
при-говорить
при-говари-ва-ть
「判決を下す」
«pri-govorit'»
«pri-govari-va-t'»
( при-«pri-» 「 到 達 を 表 す 」 )
про-говорить
про-говари-ва-ть
「言う、ある時間話して過ごす」
«pro-govorit'»
«pro-govari-va-t'»
( про-«pro-» 「 あ る 時 間 の 動 作 」 )
раз-говорить
рза-говари-ва-ть
「会話する」
«raz-govorit'»
«raz-govari-va-t'»
( раз-«raz-» 「 諸 方 向 へ の 動 作 」 )
с-говорить
с-говари-ва-ть
「結婚に同意する」
«s-govorit'»
«s-govari-va-t'»
( с-«s-» 「 一 カ 所 に 向 か う 動 作 」 )
у-говорить
у-говари-ва-ть
«u-govorit'»
«u-govari-va-t'»
「説得する」
( у-«u-» 「 満 足 の い く 結 果 に 到 達 す る 行 」 )
アスペクトの対を成す多くの動詞の組がこのタイプに含まれる。不完了体から完了体を派
生させる多くの動詞接頭辞はアスペクトの変更に伴い付加される接頭辞に従って語義が変化
するが、このような語義の変化を伴った完了体はもはや元の接頭辞のない不完了体とアスペ
クトの対を成すとは認められない。従って新たな不完了体を派生させたものである。
2-3-2. 限界性
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さて、このような形式的対立を見て分かるように、ロシア語の場合は英語や日本語と異な
り、常にある一方のアスペクト形式が他方を派生する関係にはない。完了体派生型では接頭
辞のない不完了体動詞から完了体動詞が得られ、不完了体派生型では接頭辞付きの完了体
動詞から不完了体動詞が得られるからである。従って、文における振る舞いのみを注目する
のではなく形式を重視する立場の者にとっては大きな問題点となる。特に形式の拡張が意味
的な限定・詳述性をもたらすことを想定する場合には特に大きな問題となろう。ヤコブソン
( 1966 : 160 ) は 「 現 代 ロ シ ア 語 ア ス ペ ク ト の デ ザ イ ン が 持 つ 図 像 的 性 格 は 明 白 で あ る 」 と 力 強
く述べるものの、実際にそこで議論されるのは上記の不完了体派生型のみである。すなわち、
不完了体動詞の持つ「限定されない展開」と接尾辞との関係に限定しているのである。またビ
ニ ッ ク ( Binnick 1991 : 152 ) に お い て は 、 ヤ コ ブ ソ ン と は 逆 に 完 了 体 派 生 型 に の み 注 目 し 、 多 く
の接頭辞のない単純形が不完了体動詞であることから不完了体動詞が無標形式であり、意味
的な無標性と一致するとする。またさらには完了体派生型によって生じた対は実はアスペクト
の対ではなく、不完了体派生型において生じた対のみアスペクトの関係にある、とみなす研究
者も少なくない。またマスロフやボンダルコは完了体派生型を語彙的対立とみなすものの、不
完 了 体 派 生 型 は 同 じ 動 詞 の パ ラ ダ イ ム の 関 係 に あ る と み な す が ( Шведова 584 ) 、 こ れ も 単 純
に意味的対立と形式的対立の複雑さを考慮しているからであろう。
フ ォ ー サ イ ス ( Forsyth 1970 : 28f.) の 説 明 は 興 味 深 い 。 彼 は 接 尾 辞 に よ る 派 生 方 法 が 完 了
体から不完了体を派生させるだけではなく、不完了体から反復を表す多回体を派生させる場
合 に も 用 い ら れ て い る こ と に 着 目 す る 。 す な わ ち 、 不 完 了 体 動 詞 の говорить «govorit'» か ら 多 回
体 で あ る 不 完 了 体 動 詞 の говаривать «govarivat'» が 得 ら れ る の で あ る 。 こ の 事 実 か ら 想 定 さ れ る
の は 接 尾 辞 -v-
は本来は反復を表すものであるということある。仮にその通りだとすれば、反
復の持つ複数性が形式的長さと対応することになり、ヘイマン的な図像性に合致する。フォー
サイスはさらに、本来は反復を表すこのタイプの形式は接尾辞が付加された有標形式である
が、時とともに本来の無標の不完了体動詞(すなわち接頭辞のない単純動詞)に倣って進行
中のプロセスなどを意味するようになり、接尾辞のある不完了体は有標項から無標項へと転じ
る こ と に な っ た の だ と い う 。 そ の 証 拠 と し て 、 выпить
«vypit'» 「 飲 む 」 の 不 完 了 体 выпивать
«vypivat'» 「 よ く 飲 む 」 な ど の い く つ か の 不 完 了 体 動 詞 は 進 行 中 の プ ロ セ ス を 表 さ ず 、 反 復 の み
表すことを指摘する。
このように接頭辞付きの完了体と接尾辞による不完了体は本来は非反復 : 反復の関係で
あり、既に存在していた完了体 :
不完了体に倣ったものだとすれば、単純動詞である不完了
体と接頭辞による完了体が大きな意味を持つことになる。しかし接頭辞のある完了体に対応
する不完了体にも接頭辞は付加されているため、接頭辞が直接に完了体に結びつくのではな
い。またロシア語のような完全なアスペクト体系を形成していない古代教会スラブ語やバルト
語派のリトアニア語においても接頭辞による単純動詞からの派生は見られるものの、それらは
必ずしも完了アスペクトを表示するわけではない。例えば古代教会スラブ語では接頭辞のつ
いた動詞が必ずしも完了アスペクトを表すとは限らず,現在の過程として用いられる。またロシ
ア語にも古代教会スラブ語からの借用語が単純動詞に接頭辞が付加された動詞が不完了体
と し て 存 在 し て い る 。 стоять «stojat'» 「 立 っ て い る 」 に 接 頭 辞 со- «so-» 「 一 緒 に 」 が 付 加 さ れ た
со-стоять
«so-stojat'» 「 ~ か ら な る 」 は そ の 形 式 に も 関 わ ら ず 不 完 了 体 で あ る 。 同 様 に видеть
«videt'» 「 見 る 」 に 接 頭 辞 пред- «pred-» が 付 加 さ れ た пред-видеть «pred-videt'» 「 予 見 す る 」 も 同 様
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に不完了体動詞として扱われる。このことは借用元となった古代教会スラブ語ではロシア語の
ようなアスペクトのシステムが不完全であり、単純動詞に接頭辞が付加されたものが完了アス
ペクトを表示するとは限らないことを示しているものである。一方、リトアニア語では純粋なアス
ペ ク ト の 対 と し て 成 立 し て い る の は daryti : padaryti 「 行 う 」 や vykdyti : ivykdyti 「 実 行 す る 」 と い っ
た ご く わ ず か で あ る と い う ( 櫻 井 1997 : 100 ) 。 さ ら に ア ス ペ ク ト 対 立 が 欠 け て い る ド イ ツ 語 に お
いては当然ながら接頭辞とアスペクトは無関係である。
ここで接頭辞のない不完了体動詞である単純形式に注目したい。その中でも接頭辞のつ
いた完了体動詞と対を成さないタイプの特性を明らかにすることによって接頭辞の本源的な
機能が明らかになるであろう。
アスペクトの対を成さないタイプとしてまず挙げられるのが状態動詞であろう。状態性は動
作の局面を持たないものとして扱うため、アスペクトの対立はないと考えられるからである。日
本語では状態動詞の位置づけは重要であった。アルやイルといった状態動詞は原則として未
完了アスペクトの形式、すなわちテイル形にはならないという制限があるからである。そのよう
な動詞がそれぞれ拡張した形式を持たず、常に単純形で現れる点は注目しなければならない
事実である。
一方ロシア語にも当然ながら状態動詞はあるのだが、それは不完了体として扱われるた
め、日本語と制限が異なり、逆に対応する完了体がないことになる。さらに注目すべき相違点
は、日本語が状態性のみに限られる問題なのに対し、ロシア語の場合は限界性の有無によっ
て現象が異なることである。つまり、不完了体としてのみ扱われる動詞は状態動詞を含む様々
な限界性を持たない動詞である。
限界性とは終結点を持つ特性のことで、「壊れる」や「死ぬ」のように語彙が単独で内的に
限界性を含んでいるような場合のほか、「読む」や「書く」といった本来的には何ら終結点を含
んでいない場合でも「 2 冊の本を読む」といった数量をともなう目的語が表示される場合や、
「手紙を書き始める」のように「書く」という行為のプロセスの過程をある時点で区切ることによ
って限界性を表示することができる。
これらは決してアスペクトと論理的な関わりはない。限界性の表示と限界点の到達は全く
別の問題である。従って時に起動相や終結相としてアスペクトの問題とされる「~し始める」や
「~し終える」といった形式はアスペクトを表すものではない。このような起動点や終結点は確
かに事態の局面を表すため、広い意味で定義した場合のアスペクトとされることもある。その 2
点以外にも、例えば典型的な例として「書く」を取り上げると、「書く行為を始める直前」「書き
始める瞬間」「書いている最中」「書き終わる直前」「書き終える瞬間」「書き終えた直後」「書き
終えた影響が持続する期間」などといった局面が想定される。いや、むしろ無理矢理に局面を
切 り 取 れ ば 、 「 書 き 始 め て 10 分 の 1 の 段 階 」 「 書 き 始 め て 5 分 の 1 の 段 階 」 な ど と い っ た よ う
に、理論上は無限に局面が切り取ることが可能となる。確かに人間の処理能力や実用性とい
った点を考慮に入れても、「完了」と「未完了」といったわずか 2 面に限られる理由はないよう
に思えるかもしれない。
しかしある時点を指定することと、その時点に到達したかどうかは別の問題である。従っ
て、その時点に到達したかどうかを表示する必要性が生じる。その手法は事態全体の到達を
表示する手法と同じ手法を用いるのが効率的であるため、少なくともここで考察する 2 つの言
語においては、起動点や終結点の到達の有無は事態全体の到達の有無と同じ形式、すなわ
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ち ア ス ペ ク ト 形 式 が 用 い ら れ る の で あ る 。 例 え ば ロ シ ア 語 で は говорить «govorit'» 「 話 す ( 不 完
了 体 ) 」 に 起 動 を 表 す 接 頭 辞 за- «za-» を 付 加 さ せ る こ と に よ っ て заговорить «zagovorit'» 「 話 し 始
める(完了体)」が得られるが、この形式も具体的な開始時点の到達を意味しない不完了体動
詞 заговаривать «zagovarivat'» と 対 を 成 す 。 同 じ く 日 本 語 で は 「 話 し 始 め る 」 と 「 話 し 始 め て い る 」
が対立する。多くの言語でアスペクトが二項対立であるのも以上のような限界性の表示とアス
ペクトを分離することによって可能となっていると思われる。
さ て 、 そ の よ う な 限 界 性 を 持 た な い 非 限 界 動 詞 に は 、 存 在 を 表 す быть «byt'» 「 あ る 」 、 や 関
係 を 表 す являться «javl'at's'a» 「 ~ で あ る 」 、 思 考 を 表 す думать «dumat'» 「 考 え る 」 、 хотеть
«khotet'» 「 欲 す る 」 、 желать
«zhelat'» 「 望 む 」 、 感 情 を 表 す любить «l'ubit'» 「 愛 す る 」 、 уважать
«uvazhat'» 「 尊 敬 す る 」 、 知 的 活 動 を 表 す знать «znat'» 「 知 っ て い る 」 、 помнить «pomnit'» 「 理 解 す
る 」 、 所 有 を 表 す иметь «imet'» 「 所 有 す る 」 、 知 覚 動 詞 の видеть «videt'» 「 見 る 」 、 смотреть
«smotret'» 「 見 る 」 、 слышать «slyshat'» 「 聞 く 」 、 слушать «slushat'» 「 聞 く 」 、 身 体 の 状 態 を 表 す 動 詞
спать «spat'» 「 眠 る 」 、 дремать «dremat'» 「 ま ど ろ む 」 、 сидеть «sidet'» 「 座 っ て い る 」 、 стоять «stojat'»
「 立 っ て い る 」 、 лежать «lezhat'» 「 横 に な っ て い る 」 等 の よ う に 英 語 な ど と 比 べ て 状 態 性 を 持 つ こ
とが理解しやすい動詞が含まれる。このような動詞は状況語や補助動詞の力を借りなければ
事態の局面を表さないため、対応する完了体を持たない。
また先ほども触れたように、非状態性動詞であっても単なる行為の名指しといった意味の
場合は完了体で表すことはできない。限界点を表示しないからである。次の例では、返答の b
と し て 完 了 体 動 詞 прочитал «prochital» 「 読 ん だ 」 を 用 い る こ と は で き な い 。
(9)
a.
Вчера что вы делали?
«Vchera chto vy delali?»
【昨日 何を あなた した(不完了体過去)】
「昨日あなたは何をしましたか?」
b.
Вчера я читал журналы в библиотеке.
«Vchera ja chital zhurnaly v biblioteke.»
【昨日 私 読む(不完了体過去) 雑誌 中 図書館】
「昨日私は図書館で雑誌を読みました。」
( 8 の再掲)
言語記号は経済性と効率性の理由から、本来は個別性を表示せず曖昧でなければならな
い。従って限界点の表示は、曖昧な表示からの詳述したものである。となれば、接頭辞の付加
といった形式の拡張によって様々な限界性の表示が行われることも頷けよう。
先ほど見たようにドイツ語や古代教会スラブ語、リトアニア語はこの発達時点における言語
状態にあると言える。現代ロシア語はその後の段階として接頭辞のついた限界性動詞から反
復性の表示として接尾辞を付加させ、非限界的な単純形式とともに不完了体を形成した点が
大きく異なるのである。
ところでここまでの議論の中では接頭辞のない単純動詞は全て不完了体動詞として扱っ
てきた。しかし、そのような単純動詞の中には数多くはないが以下のような完了体動詞も含ま
れる。そのような動詞は不完了派生型によって得られる不完了体動詞とアスペクトの対をな
す。
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完了体
不完了体
арестовать «arestovat'»
арестовывать «arestovyvat»
「逮捕する」
атаковать «atakovat'»
атаковывать «atakovyvat'»
「攻撃する」
бросить «brosit'»
бросать «brosat'»
「投げる」
дать «dat'»
давать «davat'»
「与える」
кончить «konhit'»
кончать «konchat'»
「終える」
лишить «lishit'»
лишать «lishat'»
「奪う」
решить «reshit'»
решать «reshat'»
「決定する」
пасть «past'»
падать «padat'»
「落ちる、倒れる」
простить «prostit'»
прощать «proshchat'»
「許す」
пустить «pustit'»
пускать «puskat'»
「放す」
стать «stat'»
становиться «stanovit's'»
「なる」
このような動詞はわずかであり、ティンバーレイクに至っては「古いアスペクトの対」として
大 き く は 取 り 上 げ な い ( 408 ) 。 彼 は 接 頭 辞 の な い 「 単 純 動 詞 は 原 則 と し て 不 完 了 体 」 ( 402 ) と
まで言い切っているためでもあろうか。
ではこのような動詞群に対してはどのように分析すべきであろうか。形式的に単純な動詞
が完了体であるならば、それはこれらの動詞が本来的に限界性を持つと考えることができよ
う。確かに語義を一覧する限りにおいては少なくとも本来的な単純形式には限界性が伺える。
と は い え 、 で は な ぜ ломать «lomat'» 「 壊 れ る ( 不 完 了 体 ) 」 や ставить «stavit'» 「 置 く 」 と い っ た 意
味的に限界性を持つと思われる動詞が本来的に不完了体なのかを説明する必要があるため、
慎重に議論すべき問題であろう。
以上のように、ロシア語のアスペクト体系では単純形を中心に形式を拡張させることによっ
て意味機能を限定、詳述するシステムを持つ。本来的には無味である単純形に接頭辞が限界
性という信号を与え、単純形は限界性を持たない。さらに限界性を持つ形式は接尾辞によっ
て反復という複数性を持つ。しかしこれは同時に複数の事態の集合の内部に入る特性を持つ
ため、一つの事態の内部に入り限界点に到達する過程を表すことが可能である。限界性を前
提としたこの過程は限界性を持つことのみを表示する形式に対しては限定・詳述された関係
にあり、いわゆる有標的価値を持つ。しかしロシア語が特徴的なのは非限界的な事態を漠然
と表す単純形式とともに非完了性という不完了体を成している点である。つまり不完了体に非
限界性という無標性と非完了性という有標性の 2 つの機能が混在している点によって単純な
図像性を確認することが困難なのである。
2-4. 日本語
日本語はル形やタ形の完了アスペクトとテイル形やテイタ形の未完了アスペクトである
ため、単純形と拡張形の形式的関係と意味的関係は一方向であり、ロシア語の際のような複
雑さはない。しかしロシア語の特徴であった限界性についてはル形とテイル形の関係につい
ては関与しない。限界性を持つ場合はテイル形で結果存続の意味が表示され、非限界的な
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行為は継続の意味が表示されるが、ともにル形やタ形で表示可能であることを見れば、限界
性はテイル形内部の処理に問題となるものの、完了アスペクト : 未完了アスペクトの対立に関
与することはないと思われる。例えば非限界的な事態である「読書する」はル形でもテイル形
でも表すことが可能であり、また限界的な事態である「ドアを開ける」もル形とテイル形の両方
が可能だからである。問題となるのは状態動詞で、この場合は先にも確認したようにテイル形
を持たない。
日本語の語形式と文法構造の関係を明らかにする際に常に考慮に入れなければならない
点がある。それは日本語が膠着言語であるという点である。つまり日本語は屈折言語と異な
り、閉じられた文法項目の中から 1 つを排他的に選び出す義務はなく、何らかの文法項目が
必 要 で あ る な ら ば そ れ を 付 け 加 え る と い う 言 語 構 造 を 持 つ の で あ る 。 峰 岸 ( 2000 ) は 語 構 造 と
文法範疇構造の関係から新たな言語記述のモデルを提唱しており、印欧語のような一定範疇
言語に対して、日本語は不定範疇言語であるとする。
同 様 の 点 は 丹 羽 ( 2005 ) に お い て も 主 張 さ れ て い る 。 彼 は 日 本 語 の 受 動 形 式 ラ レ に つ い
て、それは辞書的な意味であり、文法概念を文法的手段として表現したものではないと主張
す る 。 少 し 長 い が 彼 の 主 張 を 引 用 す る ( 2005 : 21 ) 。
「また意味としての受動は、『教わる』のように個々の語の意味に含まれる場合もある。接
辞ラレの意味として表される受動は現れ方が規則的であるが、語の意味によるのは個別的で
一般化できない。しかし接辞であれ、語であれ、日本語の受動は辞書的な意味であって、文
法的概念を文法的手段によって表現したものではない。~略~日本語の動詞述語は必須要
素に必要なオプション要素を付加したものであり、述語全体の意味は 1 形式 1 意味の形態素
の合計である。それらの要素の数は不定であり、それらを組み合わせた文成文の種類は極め
て多用である。」
確かに受動が文法概念ではないこと、ラレが文法的手段ではないことといった主張は行き
過ぎの感が否めない。というのも、トルコ語でも同様だそうだが、動詞語幹に付加される種々
の接辞は語幹に近い方がバリエーションが少ないという事実がある。例えば「殴られているか
もしれない」といった述語複合体においては、動詞語幹に接続するのは順番に「ヴォイス→ア
スペクト→時制→モダリティ」となる。ヴォイスはその機能から考えて、動詞述語に関わる名詞
項の数( n )と等しく、あるいは使役などを含めても( n
+
1 )しかなく、恐らくは普遍的に一定
数の項目しかないと思われる。アスペクトは必ずしも完了と未完了の二項対立とは限らないか
もしれないが、先ほど限界性の点で述べたように、事態の局面を複雑に切り取ろうが、多くの
場合は語彙的な内容を持つ要素に転嫁させるであろう。一方時制は日本語では過去と非過
去の二項対立であるが、英語のように未来やその他様々な相対時制を区別する可能性を持
ち、アスペクトに比して項目数は多くなるであろう。モダリティについては数え上げることが困
難であり、またその必要もない。従って、少なくとも語幹に密接に付加される要素については
一定数になると主張することができる。
丹羽の主張で重要なのは日本語のような言語では、「教わる」に受動形がないように、い
わゆる文法形式が必須要素(語幹とモダリティ要素のこと)に必要となる場合に付加されるオ
プションであるという点である。従って、本論の議論に照らし合わせれば、状態動詞に現在時
制の継続を表すテイルが付加される必要はないということになる。屈折言語のように、ある文
法的概念を持つのであれば、その概念を表す形式をパラダイムの中から常に選択しなければ
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ならないのではない。文法概念は語幹の表す意味に完全に従属しており、それに従っていわ
ば限定し、詳述しているに過ぎない。文法形式は自らを強固に主張して語幹の意味を修正す
ることは無いのである。テイル形が語幹の意味に従って意味を変えてしまうのは、まさにこのよ
うな文法の従属性を物語っている。となれば、日本語という言語は、本論で議論する記号メカ
ニズムが最も顕著に表れる言語構造を持つと思われる。
このような見方は実は随所で成されている。上記の「教わる」などの所相動詞や状態動詞
だけではない。例えばタ形が過去なのか完了なのかという議論が時折なされる。つまり「ご飯
を食べたか」の問いに対する返答として「食べなかった」と「食べていない」といった 2 通りが
可能だからである。しかし、その場の会話の参与者ならば様々な環境から問題の問いが現在
に関わるものなのか、それとも過去に関わるかということは知っているわけで、そのような場合
は区別する必要がないと説明することが可能である。従ってより単純な形式であるタ形が用い
られていると言うことになる。
「メガネをかけた少年」のように連体修飾節におけるタ形の問題も同様である。会話の参与
者が「少年」に関する知識がある以上、わざわざ現在もメガネをかけた結果が残存しているこ
とを明確にする必要がないであろう。その場合は単純形が用いられる。同様に「曲がりくねっ
た道」においても、「曲がりくねる」プロセスを確認することが不可能である以上は単純形式が
用いられるのである。
そのようにして見れば、ル形やタ形が果たして完了アスペクトと呼ぶのは適当なのかという
問題が出よう。ル形はそもそも非過去というネガティブな意味を持つという点、状態動詞の場
合は何ら特別な意味を出さないという点から見ても、積極的に完了アスペクトを表すとみなす
ことはできない。またタ形の場合は形容詞の過去形にも用いられているという事実も考慮に入
れなければならない。タ形は単に過去を表示するだけで、進行形であるテイタやテイルによる
行為の時間的、様態的な限定を積極的に表さないために完了アスペクト的な用いられ方がな
されると見なければならないのではなかろうか。
3. 最後に
日本語アスペクト論の黎明期においては、テイル形の持つ意味機能に従って動詞を分類
するという、アスペクトよりもむしろアクチオンス・アルトに関する研究が中心であった。そこで
テイル形のみならず、ル形との対立を考慮に入れることを主張し、その時期の頂点を極めたと
評 価 さ れ る の は 奥 田 ( 1977 ) で あ る 。 彼 は ア ス ペ ク ト を 体 系 的 に 捉 え る こ と を 主 張 し 、 そ の 結 果
として完了アスペクトと未完了アスペクトの排他的な二項対立であると考えている。
「 理 論 的 な 研 究 と し て 、 ま ず 第 一 に 留 意 し て お か な け れ ば な ら な い こ と は 、 aruite-iru 、
tonde-iru 、 odotte-iru...
の よ う な 形 態 論 的 な か た ち が 動 詞 の ア ス ペ ク ト で あ る と す れ ば 、 aruku 、
tobu 、 odoru 、 arau 、 kiru 、 kudaku 、 hanasu 、 yomu の よ う な 、 suru で 代 表 さ れ る 形 態 論 的 な か
た ち も ア ス ペ ク ト で あ っ て 、 ふ た つ の か た ち が 《 つ い 》 を な し な が ら 、 oppositional な 関 係 の な か
に あ る 、 と い う 事 実 で あ る 。 」 ( 奥 田 105f 。 )
奥田はその生い立ちからロシア語にかなり精通していたという。従ってロシア語の明確な
アスペクト対立の等価物を日本語においても求めたのは当然と言えよう。しかしその明確な対
立であるとされるロシア語ですら、非対称的な欠如的対立を持つ。ましてや単純形と拡張形が
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規則的に対立する日本語においてはその非対称性を遙かに重要視する必要があるのではな
かろうか。日本語のような膠着言語は不定範疇言語であり、付加される文法形式はオプション
であるという特徴を見れば、テイル形の付加の判断は語幹と文法形式とのシンタグマティック
な共起制限によってなされる。すなわち全ての基準は動詞語幹そのものに委ねられている。と
なればル形とテイル形とを等質な対立物とみなすのは誤りであろう。
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