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大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの

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大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの
田
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
中
崇
において世論が重視されるようになる。外交においても同様に、国際
第一次世界大戦前後の世界的な国民の政治参加の潮流のなか、政治
る が、 説 得 を 拒 否 し た 場 合 の 報 復 や 不 利 益 を 提 示 す る 場 合 が 多
﹁自立性﹂において実現することを究極目標とする情報活動であ
称。組織的なシンボル操作によって宣伝主体の意図を宣伝客体の
え、意図した方向に行動を誘う説得コミュニケーション活動の総
︱用語の問題を中心に︱
に紹介する。
世論の動向は、一国の外交政策を推進する上で、無視することのでき
い。
特定の目的に従って個人あるいは集団の態度と思考に影響を与
ないものとなったのである。ハロルド・ニコルソン﹃外交﹄は、外交
や﹃広告﹄との境界が曖昧である。実際、主に政治宣伝を指す﹃宣伝﹄
も使用されている言葉である。ただし、﹁宣伝﹂は、﹁当時も現在も学
プロパガンダは、戦前の日本で﹁宣伝﹂と翻訳され、もちろん現在
れば﹃記憶の負荷﹄と言えよう。﹂と述べている。佐藤氏の説明に従え
﹃広告﹄と区別される理由は、宣伝概念の歴史性、より正確に表現す
に公共性を強調する﹁公報/PR﹂
︵
︶は、現実にはあ
public
relations
まり区別されることなく使われている。
︵中略︶
﹃宣伝﹄が一般に﹃広報﹄
− −
1
はじめに
には交渉と政策の両面があると述べるが、世論に働きかけるプロパガ
ンダ︵ propaganda
︶は、この後者の政策面に属し、前者の交渉を支え
る役割を担うものといえる。こうしたなか日本外交においてもプロパ
問的用語であると同時に、政治的用語であり、多義的﹂な言葉である。
ば、プロパガンダ=﹁宣伝﹂と﹁広報﹂
、
﹁広告﹂とを区別するものは、
﹁宣
︶
、さら
advertisement
そこで現在の研究者によるプロパガンダ=宣伝の定義を紹介しておき
伝概念の歴史性﹂、﹁記憶の負荷﹂である。
︶と商業宣伝を意味する﹃広告﹄︵
Propaganda
たい。佐藤卓己氏は、プロパガンダを﹁辞書的に定義﹂して次のよう
2
て情報部が設置された。
︵
なお佐藤氏は、この定義に続けて﹁もっとも、この定義では﹃広報﹄
3
ガンダの役割が着目され、第一次世界大戦後、外務省に専門部署とし
1
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
総称されている。
﹁広報外交﹂は、日本外交におけるプロパガンダの
行ったプロパガンダに関し、
﹁外国新聞操縦﹂を含めて﹁広報外交﹂と
ど、使用時期や概念が異なるため、戦前期日本外交におけるプロパガ
それぞれ類似した言葉であるとはいえ、﹁文化外交﹂をも包含するな
か。というのは、プロパガンダ=﹁宣伝﹂と﹁広報外交﹂や﹁広報﹂とは、
用 さ れ 始 め た 翻 訳 語 で あ り、 戦 前 期 に 使 用 す る こ と は 適 切 で あ ろ う
重要性に着目してきた先駆的研究者である松村正義氏が提唱する用語
ンダへの理解に無用の混乱を生じさせる恐れがあるからである。
ところで現在、日本外交史研究では、戦前期全般を通じ、外務省が
で あ り、
﹁ 広 報 文 化 外 交 ﹂ と と も に、 パ ブ リ ッ ク・ デ ィ プ ロ マ シ ー
報外交﹂や﹁広報﹂が戦前期日本外交におけるプロパガンダの用語と
本外交におけるプロパガンダの用語として使用している。現在、﹁広
に使用され始めた翻訳語であるとしつつ、この﹁広報﹂も、戦前期日
︵ public diplomacy
︶の翻訳語である。後述するように、松村氏は、
﹁広
報外交﹂という言葉の翻訳の前提に、﹁広報﹂という言葉があり、戦後
パガンダの実態が、今日の﹁広報外交﹂や﹁広報﹂に近い性格を有して
にかけての日本のプロパガンダに関する考え方や外務省が行ったプロ
すなわち、大正・昭和初期、少なくとも一九三〇年代の昭和初期まで
考えられる。その理由は、実際のプロパガンダの性格に求められる。
外交﹂や﹁広報﹂が使用されてきたことにも相応の理由があるものと
もっとも戦前期日本外交におけるプロパガンダを対象として﹁広報
して使用されているのは、管見の限り、松村氏の影響であると言って
次世界大戦前後になっ
検討を試みるものである。
化外交﹂と呼ぶにしても、それら三者の呼称の間には、詰まると
と名づけている。それを、単に﹁広報外交﹂といい、あるいは﹁文
フツ大学フレッチャー法律外交大学院院長、当時︶によって、﹁初め
という言葉は、一九六五年に米国の元外交官エドムンド・ガリオン︵タ
︶とは、いつから使用され、また、どのように定義される
diplomacy
言葉なのであろうか。渡辺靖氏によれば、パブリック・ディプロマシー
public
そして戦前に使用されていた﹁宣伝外交﹂という用語の問題を通して
日本外交におけるプロパガンダの性格について、
﹁広報外交﹂、
﹁広報﹂、
いたと考えられるからである。そこで本稿では、大正・昭和戦前期の
現 代 に 入 っ て、 も っ と 具 体 的 に は 第
べている。
︵一︶パブリック・ディプロマシー
一 戦後の翻訳語﹁広報外交﹂
たソフトな面での国や政府による対外的な施策や行為などが、高
﹁ 広 報 外 交 ﹂ の 原 語 で あ る パ ブ リ ッ ク・ デ ィ プ ロ マ シ ー︵
ころ究極的にはほとんど差異がないといい得よう。
の領域における一国政府の対外関係を、筆者は﹁広報文化外交﹂
く評価され重要視されるようになったのである。そのような後者
スポーツ・観光・親善などという従来あまり注目されてこなかっ
て、 外 交 の 分 野 で も、 文 化・ 教 育・ 情 報・ 科 学︵ 技 術 ︶・ 芸 術・
1
そして、松村氏は、
﹁広報外交﹂
、﹁広報文化外交﹂を次のように述
よいであろう。
4
しかしながら﹁広報外交﹂と﹁広報﹂という言葉は、ともに戦後に使
て〝パブリック〟な場﹂で用いられたとされている。ガリオンの表現
7
6
− −
2
5
・ドゥレイニーが述べるところによれば、﹁新た
アーサー・ホフマン編﹃国際コミュニケーションと新たな外交﹄のな
いが、近藤誠一氏が紹介する定義は簡潔なので、紹介しておきたい。
ること﹂が、
﹁パブリック・ディプロマシー﹂である。少しわかりにく
ること、その結果立案された政策に関して相手国に説明し影響を与え
略︺政策決定者に伝えてアドバイスすること、それが政策に反映され
相手国の国民と意見、関心、文化を交換して理解すること、それを︹中
に よ れ ば、
﹁ 政 府 が 自 国 の 政 策 を 外 国 に 伝 達 す る 際 に 重 要 な こ と は、
広報外交と言葉どおりに直訳するよりも、﹁広報文化外交﹂と意
よう。すなわち、米国でいう﹁パブリック・ディプロマシー﹂とは、
外交には、文化事業、つまり文化外交も含まれていると推察でき
るに至ったために論争が起きていることからみても、米国の広報
分離させ、後者を非政治化させるべきであるという主張もなされ
のパブリック・ディプロマシー、つまり広報外交から文化事業を
いう言葉が使用されるようになった。そして最近では、米国のそ
に代わるものとして、戦後は﹁パブリック・ディプロマシー﹂と
かで、ロバート・
訳的に呼ぶ方が日本語の表現としても内容的に適切なように思わ
松村氏は、﹁﹃広報文化外交﹄ないし﹃広報外交﹄という言葉﹂が、米
な外交、すなわち〝パブリック・ディプロマシー〟とは、他国政府の
直接または間接に影響を与える方法﹂である。ドゥレイニーの言葉に
︶という言葉﹂が使用されていたか否かについ
propaganda diplomacy
てはあとで検討するが、松村氏自身が述べるようにパブリック・ディ
︵
プロマシーの翻訳語たる﹁
﹃広報文化外交﹄ないし﹃広報外交﹄という
言葉﹂は、﹁主に戦後期の用語﹂なのである。そして、戦後に米国から
シーを﹁広報外交﹂と翻訳し、さらに文化事業を含むことを考えれば
日本に伝えられた用語パブリック・リレーションズ︵ public relations
︶
が﹁広報﹂と邦訳されていることを前提に、パブリック・ディプロマ
﹁広報文化外交﹂ないし﹁広報外交﹂という言葉は、主に戦後期
﹁広報文化外交﹂と意訳することが適切であると主張しているのであ
国 か ら 伝 え ら れ た 用 語﹁ パ ブ リ ッ ク・ リ レ ー シ ョ ン ズ ﹂︵
︶の邦訳に他ならない。いまや、その米国でも、戦前・
relations
戦中に使用された宣伝外交︵ propaganda diplomacy
︶という言葉
として使用することには疑問が生じる。また﹁広報文化外交﹂とも翻
public る。
﹁ 主 に 戦 後 期 の 用 語 ﹂ と い う 松 村 氏 の 説 明 だ け で も、 戦 前 期 の 用 語
の用語である。そもそも、
﹁広報﹂という言葉自体が、戦後に米
ている。
訳 し た も の と 述 べ て い る。 戦 前・ 戦 中 の 米 国 で﹁﹃ 宣 伝 外 交 ﹄
国で戦後に使用されるようになったパブリック・ディプロマシーを直
いるのであろうか。松村氏は、二〇〇二年の著書﹃新版 国際交流史
︱近現代日本の広報文化外交と民間交流︱﹄において次のように述べ
それでは﹁広報外交﹂の提唱者である松村氏は、どのように述べて
︵二︶戦後の翻訳語﹁広報外交﹂
す用語と見て間違いないであろう。
従えば、パブリック・ディプロマシーは、戦後の﹁新たな外交﹂を指
れる。
8
外交政策決定に直接影響を与える世論に対して、政府や個人、団体が
F
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
− −
3
9
10
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
訳されるように、
﹁文化外交﹂をも包含する用語であることを考えれ
ば、なおさら無理があるように思われる。
︶の邦訳﹂であり、
﹁広報外交﹂という翻訳語の前提となる言
relations
葉である。松村氏は、﹁広報外交﹂とともに、この﹁広報﹂という言葉
第一次世界大戦後の一九二〇年︵大正九年︶四月に事実上の活動を
開始した外務省情報部は、翌一九二一年︵大正十年︶八月、官制上、
を戦前期日本外交におけるプロパガンダの用語として使用している。
考えられるので、松村氏の定義を紹介しておきたい。松村氏は、﹁広
正式に発足した。外務省は、それまでも﹁外国新聞操縦﹂を行い、外
それでは、その戦後の用語を何ゆえに戦前に使用するようになった
報外交﹂
、
﹁広報文化外交﹂
、または﹁宣伝外交﹂を次のとおりに定義し
国で新聞社を経営し、国際的ニュース配信を目指して国際通信社を設
のかという疑問が生じるが、これは用語の定義と関係しているものと
ている。
成される他国民の友好的な世論によってその他国政府を動かし、
しめようとして広報的または宣伝的に働き掛け、それによって形
て、そのターゲットとする他国の国民世論を自国に親善友好なら
一国の政府がその対外政策を海外へ向けて実施するに当たっ
報﹂という言葉を多用している。例えば、本論文の冒頭である。
た一九七一年の論文﹁外務省情報部の創設と伊集院初代部長﹂で﹁広
であった。松村氏は、この外務省情報部の設立経緯や活動を対象とし
ロパガンダ、すなわち﹁対外宣伝﹂を担う専門部局を初めて設けたの
置・経営するなど外国世論工作を行っていたが、主に外国に対するプ
における戦前の﹁宣伝外交﹂と戦後の﹁広報外交﹂とを区別せず、﹁情
松村氏は、
﹁広報的または宣伝的に﹂と併記しているように、米国
三十三年︵一九〇〇年︶の北清事変であったといわれる。
不 利 益 な ら し め な い よ う に 配 慮 す る 契 機 を 作 っ た も の は、 明 治
ささかなりとも組織的に対外広報活動を開始し、その外交政策を
明治二年︵一八六九年︶に創設されて以来、日本の外務省がい
報拡散の対外活動﹂として同列に扱っており、ここに戦後の用語を戦
展開させようとする情報拡散の対外活動のことである。
もって自国とその他国との間の懸案の交渉や関係を自国に有利に
12
前に使用することになった源が見出される。そして﹁広報外交﹂とい
﹁宣伝﹂、﹁広報﹂、﹁広報外交﹂を併用しているが、そのいずれの言葉
この論文中、松村氏は、パリ講和会議の叙述において、次のように
も区別して使用していない。
第一次世界大戦における宣伝技術の急激な発達と、同大戦の終
かつ巧妙な対日広報活動とが、日本政府の広報外交への覚醒を痛
了に伴って引き続き討議されたパリー講和会議での中国側の激烈
︵一︶外務省情報部と﹁広報﹂
public
打するかのように、その雷管を刺激する撃鉄の作用を果すことに
二 ﹁宣伝﹂から﹁広報﹂へ
のと考えられるので次に検討していきたい。
う翻訳の前提となった﹁広報﹂という言葉にその原因が求められるも
13
﹁広報﹂という言葉は、先の引用において、松村氏が述べるように﹁戦
後に米国から伝えられた用語﹃パブリック・リレーションズ﹄
︵
なったからである。
14
− −
4
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かである。
区別していないことは、
﹁広報外交﹂についての註記によっても明ら
ることがわかる。
﹁宣伝﹂
、
﹁広報﹂
、﹁広報外交﹂という三つの言葉を
﹁宣伝技術﹂
、
﹁広報活動﹂
、
﹁広報外交﹂というように併用されてい
して其プロパガンダは随分努めたるものなりしが、後には余りに
全く無勢力となり、顧維鈞、王正廷等専横を極めたるが如し、而
我を敵とするに至り盛んに宣伝等をなしたる︵中略︶聞けば陸は
を失はざりしも会議に臨むに至りて支那委員等は態度一変し全く
割が高まり、支持世論の獲得のために外交ないし国際問題に関す
使用していた言葉が、﹁宣伝﹂、
﹁プロパガンダ﹂であったことを示す。
ロパガンダ﹂に苦しめられたかを物語るものであるとともに、当時、
牧野の報告は、パリ講和会議で日本側がいかに中国の﹁宣伝﹂と﹁プ
執拗なりしに因り却って他の排斥を受くる様になれり
る宣伝行為の重要性がはっきりと認識されるようになった結果、
交︵ public diplomacy
︶と呼ぶようになってきた。
このように﹁広報﹂という言葉は、﹁広報外交﹂とともに、戦前期日
立経緯の研究として、管見の限り、参照しうる唯一の研究である。そ
なく、使用されている。なお松村氏のこの論文は、外務省情報部の設
解ニ訴フル必要益々切実ナルモノアル所以ニ顧ミ此際速カニ完備
交ノ将来ハ我国ノ地位政策ニ対スル列強政府及国民ノ正当ナル理
ノ列国施設ノ実例ト我国ノ遭遇シタル苦キ経験ニ顧ミ将又我国外
今日何人モ異存ナキ所ニシテ︵中略︶政府ハ宜シク戦乱勃発以来
我外交政策ノ遂行上対外宣伝ノ緊要欠クヘカラサルモノアルハ
文書では、どのような言葉が使われていたのであろうか。
の影響で、現在では、外務省情報部は、﹁対外広報、つまり外国向け
本外交におけるプロパガンダの用語として﹁宣伝﹂と区別されること
次に、情報部発足以前の外務省内における﹁宣伝機関﹂をめぐる検討
最近ではそのような外における世論形成活動を総称して、広報外
近代民主主義の発達とともに一国の外交活動に世論の占める役
17
の広報・宣伝﹂を担う﹁広報機関﹂であり、﹁情報﹂とは﹁広報﹂を意味
し、
﹁いわゆる情報︵ intelligence
︶の収集・分析を担当する部署では﹂
なく、
﹁あくまでプロパガンダ、宣伝・広報﹂の担当部署であったと
ではプロパガンダについて、同時代には、どのような言葉が使用さ
遭遇シタル苦キ経験﹂を顧みて﹁宣伝機関﹂の整備の急務を説くもの
野の前記報告に示されたパリ講和会議での中国側宣伝による﹁我国ノ
の言葉にないわけではない。論文中で松村氏が紹介する、一九一九年
ただし﹁広報﹂という言葉は、松村氏が前記論文中に引用する当時
た。
れていたのか、外務省情報部の設立までの経緯と構想にふれつつ、同
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
支那委員陸徴祥は日本に於ては勿論巴里に於て日支提携の趣旨
帰国後、原敬首相を訪問して行った報告である。
︵大正八年︶九月十三日、パリ講和会議の日本全権委員の牧野伸顕が
であった。ここでも使用されていたのは、
﹁対外宣伝﹂、
﹁宣伝﹂であっ
とは自明であり、第一次世界大戦における列国の宣伝機関の実例と牧
外交政策を推進するうえで﹁対外宣伝﹂が﹁緊要欠クヘカラサル﹂こ
セル機関ヲ整ヘテ宣伝ノ実施ニ着手スルヲ要ス。
18
− −
5
15
論文中の松村氏自身の引用箇所からみてみよう。以下は、一九一九年
理解されている。
16
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
一九二〇年刊行の﹃外務省年鑑﹄をみると、一九一九年七月二日に施
七 月 に 外 務 省 通 商 局 に 新 設 さ れ た﹁ 通 商 広 報 係 ﹂ で あ る。 そ こ で
して使用していたのである。
た。松村氏は、戦前に使用されていたプロパガンダとその訳語の﹁宣
国から伝えられた用語﹂の邦訳として使用されていたことを確認し
︵二︶
﹁情報﹂と﹁宣伝﹂
伝﹂を戦後に使用されるようになった﹁広報﹂に置き換え、また併記
行 さ れ た 外 務 省 分 課 規 程 の﹁ 第 九 条 通 商 局 ニ 於 テ ハ 左 ノ 事 務 ヲ 掌
ル﹂に﹁八、通商公報ニ関スル事項﹂とあり、第十条に﹁通商局ニ第一
課、第二課、第三課及通商公報係ヲ置ク﹂と記されていた。当時の表
記は、
﹁通商公報係﹂であり、
﹁公報﹂であった。
め原本を確認すると、外務省記録﹁東方通信社関係雑纂﹂中の原史料
ており、引用中に﹁広報及宣伝﹂の言葉が見出せる。しかし、念のた
二点とし、東方に代わる新通信社設立の必要性を力説する﹂と紹介し
誤解ヲ解キ、我公正ナル態度ヲ周知セシムヘキ広報及宣伝ノ事業﹄の
通信社設立の目的を﹁中国情報の収集と﹃多面我ニ対スル支那国民ノ
た﹁東方通信社拡張ニ関スル件﹂を引用している。この史料では、新
日付けで内田康哉外務大臣から中華民国駐在公使・各領事宛に送られ
の設立﹂であり、このことを明示する史料として一九二〇年九月三十
一九二〇年に活動を開始した情報部の﹁最初の仕事の一つが新通信社
外宣伝﹄へ︱明治・大正期の外務省対中国宣伝活動の変遷︱﹂では、
う言葉を見出すことができた。大谷正氏の論文﹁﹃新聞操縦﹄から﹃対
の設置動機の一つであった対中国宣伝に関する研究中に﹁広報﹂とい
それでは不十分であるので、他に用例を探したところ、外務省情報部
主要目的ヲ明示スヘキ名称ヲ以テスルハ穏当ナラサル﹂ため﹁姑ク情
しも相副わない憾みがなくはない﹂としつつも、
﹁宣伝部﹂のように﹁其
伝機関﹂をめぐる検討文書では、﹁情報部﹂という名称は、﹁名実必ず
を示している。これはいかなる事情であろうか。前出の外務省内の﹁宣
及配布﹂というように﹁宣伝﹂という言葉が多用され、その主要任務
情報及宣伝ニ関シ必要ナル諸方面トノ聨絡並外交ニ関スル情報ノ供給
て﹁︵一︶内外情報ノ蒐集及整理、
︵二︶宣伝刊行物ノ編纂及配布、
︵三︶
内規では、﹁第一条﹂で﹁情報部ハ左記事項ニ関スル事務ヲ掌ル﹂とし
務及組織、分課規程、及各局課ト情報部トノ執務上ノ連絡﹂に関する
情報部の活動開始にともない外務省で作成された﹁外務省情報部ノ任
制には、
﹁宣伝﹂の文字はないのである。他方で前年の一九二〇年四月、
条に﹁情報部ニ於テハ情報ニ関スル事務ヲ掌ル﹂と定めた。外務省官
情報部ヲ置ク﹂と定め、同様に改正された外務省分課規程は、第十五
外務省官制は、第九条に﹁情報ニ関スル事務ヲ掌ラシムル為外務省ニ
一九二一年、外務省情報部が官制上、正式に発足した際、改正された
と こ ろ で 情 報 部 と い う 名 称 は、 ど の よ う に 説 明 さ れ る の か。
では﹁・・・我公正ナル態度ヲ周知セシムヘキ諜報及宣伝ノ事業﹂と
ここまで松村氏の使用した史料を中心に当時の用例を見てきたが、
記されていた。大谷氏が﹁諜報﹂を﹁広報﹂と読み間違えていたのであ
る。
21
以上の通り、
﹁広報﹂という言葉は、松村氏の説明通り、﹁戦後に米
24
と い う 言 葉 の 意 識 的 な 使 い 分 け に つ い て、 有 山 輝 雄 氏 の 説 明 が 詳 し
報部ナル名称ニ拠ルコト﹂としたとされる。ここでの﹁宣伝﹂と﹁情報﹂
25
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− −
6
19
20
22
宣伝であることを隠すのは常態であって、第一次世界大戦における英
ラージュに使用したのである。さらに﹁宣伝を効果的に行なうために
う言葉を表面に出すのを避け、
﹁
﹃情報﹄という曖昧な言葉﹂をカモフ
よぶことが多かった﹂ため、受け手に警戒を呼び起こす﹁宣伝﹂とい
をさして宣伝というように、敵対的な相手が行う活動を指して宣伝と
いが強く、例えばパリ講和会議において日本を非難する中国側の活動
い。
﹁当時、宣伝という言葉が公然と使われる場合は、否定的意味合
一般的に用いられるようになってきた﹂と述べている。そして﹁民主
め、悪い印象が附着したので、戦後はそれに代って広報という言葉が
らの言葉は主として﹃民衆を錯覚に陥しいれる技術﹄に使用されたた
を、かつては、﹃情報﹄または﹃宣伝﹄と呼んでいた。然し戦時中これ
ミュニケーションをコントロールして輿論形成を行なおうとする努力
しい。小山は、一九五四年刊行の著書﹃広報学﹄の序文で、﹁マス・コ
戦後は、﹁広報学﹂の研究者として知られた小山栄三の﹃広報学﹄に詳
つまり当時、
﹁宣伝﹂という言葉は、﹁否定的な意味合い﹂が強く、公
後の宣伝活動の成否を大きく左右することになる﹂と説明している。
テップであり、各国とも﹃情報﹄と﹃宣伝﹄とを使い分けることがその
す る 過 程 で﹃ 情 報 ﹄ と 意 味 変 換 さ せ る こ と こ そ 宣 伝 活 動 の 最 初 の ス
と名乗って﹂おり、﹁外務省情報部もそれらの例に
Public Information
従っている。内部で﹃宣伝﹄として生産したメッセージを外部に発信
と 述 べ る に い た っ た が、
﹁ こ れ は 一 部、 国 民 に 説 得 す る 努 力 を 怠 り、
国人が﹁日本人くらい自分が選んだ政府を非難攻撃する国民はない﹂
て﹁世界の日本に対する反感は終戦直後よりもかえって増加﹂し、外
り、また対外的にも﹁格別の努力をはらわなかった﹂。その結果とし
う 過 去 の 亡 霊 に 怯 え る 民 間 の 報 道 機 関 の 反 対 の た め、 P R 活 動 を 怠
の輿論形成のためにPR活動を展開するべきであるが、戦時宣伝とい
国の機関も
然とした使用が憚られたため、任務が﹁宣伝﹂であることは承知のう
民衆にPRを忘れた政府の怠慢の報いとも云える﹂と指摘している。
Committee on 国家においては、政府は公共の福祉のために行政をつかさどる機関で
あり、︵中略︶政府は輿論を基礎として成立して﹂いることから、国民
えで﹁情報﹂という﹁曖昧な言葉﹂を使用し、それは﹁宣伝﹂の成否を
つまり小山は、﹁宣伝﹂という言葉には、戦時宣伝の否定的印象が付
、米国の機関も
Ministry of Information
左右するものであった。情報部の主要任務が﹁宣伝﹂であったことは
間違いないのである。
︵三︶
﹁宣伝﹂と﹁広報﹂
もっとも戦後、戦前期のプロパガンダや﹁宣伝﹂という言葉を、﹁広
28
かった。むしろ相応の理由をもったことと理解されていたと考えた方
官公庁の行うマス・コンミュニケーションを取り扱う部門に対
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
しては、宣伝、普及、弘報、情報、公聴、連絡、交渉、広報、こ
一方で﹁広報﹂について、小山は、次のように述べている。
解できる。
山の説明から、戦後、いかに﹁宣伝﹂という言葉が忌避されたかが理
に消極的となった結果、不利益を生じたと説明しているのである。小
きまとい、また戦時宣伝の悪印象の影響で、戦後、政府が﹁PR活動﹂
30
がよいであろう。こうした戦後の事情については、戦前には﹁宣伝﹂の、
報﹂という言葉に置き換え、また併記することは、珍しいことではな
31
− −
7
29
27
26
う報、報道、啓発等種々の名称が与えられているが、漸次広報と
会変動に規定された﹂結果であるというのである。この﹁社会変動﹂
ション研究の一部﹂であり、﹁マス・コミュニケーション研究﹂が﹁社
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
いう言葉に統一されるようになってきた。
収録するにあたり、
﹁戦争と宣伝﹂と原著にあった表記を変更し、﹁第
山は、絶版となっていた戦時中の著作﹃戦時宣伝論﹄の一部を同書に
野の研究を﹁広報学﹂として﹁広報﹂を使用して行くのである。なお小
次第に﹁広報という言葉﹂に統一されてきたと述べ、その後、この分
り扱う部門﹂では﹁宣伝﹂をはじめ複数の名称が使用されてきたが、
つまり、小山は、
﹁官公庁の行うマス・コンミュニケーションを取
れた﹂結果、もたらされたというのである。
S操作といった対立軸で論じる﹃広報の道徳哲学﹄がことさら唱導さ
と考えるアメリカ流PR観、すなわち民主主義VS全体主義、参加V
隠蔽するために、﹁広報=PRを民主的コミュニケーションへの啓発
﹁政治の広告化﹂を世論制御の技術として磨き上げたという連続性を
手が戦後、﹁﹃アメリカ志向の熱気﹄の中で、﹃広告への復員﹄
﹂を遂げ、
を指すものこそ、敗戦であり、
﹁ 重 心 移 動 ﹂ は、 戦 時 宣 伝 の 同 じ 担 い
35
十四編 広報と戦争関係﹂のように﹁宣伝﹂を﹁広報﹂に置き換え、さ
らに他にも﹁宣伝﹂の前に﹁広報﹂を加え、﹁広報宣伝﹂と表記して
32
いる。戦後、
﹁広報﹂が主流となるなか、否定的印象のしみついた﹁宣
かで主流となり、戦前とは逆に、﹁宣伝﹂を包含する言葉となったこ
を﹁広報﹂と表記した背景には、戦後、﹁広報﹂という言葉が類語のな
に入っても変わらないようである。佐藤卓己氏は、二〇〇一年の論文
なくとも否定的な印象という点では、戦後数十年を経た二〇〇〇年代
プロパガンダや﹁宣伝﹂という言葉をめぐる、こうした状況は、少
いう言葉が説得力をもって受け入れられてきた背景であったのであ
設置されていたことも、プロパガンダや﹁宣伝﹂ではなく、﹁広報﹂と
とを紹介している。つまり外務省情報部が平時の﹁宣伝機関﹂として
﹁特ニ戦争目的ノ為ニスルニアラサル宣伝機関﹂と想定されていたこ
外務省情報部が、第一次世界大戦中の欧米諸国の類似機関と異なり、
とがある。また松村氏は、前出の﹁宣伝機関﹂の検討史料中において
冒頭で﹁
﹃プロパガンダ﹄という言葉は今日では明確に否定的な意味で
後においては、宣伝を包含するように変化したという指摘であり、こ
る。戦前においては、
﹁宣伝﹂に包含されていた﹁PR︵広報︶﹂は、戦
﹁広報外交﹂、﹁広報﹂という言葉と、戦前期日本外交におけるプロ
︵一︶外務省の対米宣伝機関設置論
る。
使われている。とりわけナチ宣伝、またわが国の大本営発表などの、
ておくべきであろう。
伝﹂から﹁広報﹂へと用語の置き換えが進められたことも念頭に置い
このように、松村氏が、戦前の外務省情報部の任務である﹁宣伝﹂
36
パガンダに関する考え方とプロパガンダの実態が関係していると考え
三 対米宣伝と﹁広報﹂
37
うした﹁重心移動﹂は、
﹁宣伝﹂
・
﹁広報﹂の研究が﹁マス・コミュニケー
いる。
﹁宣伝﹂と﹁広報﹂という概念の包含関係の時系列的な変化であ
に、佐藤氏は、翌年の論文で、ドイツの研究から興味深い指摘をして
﹃戦争の記憶﹄は今なお根強い影響をもっている﹂と述べている。さら
34
− −
8
33
伝﹂への考え方や﹁宣伝﹂の実態を検討する。
に関して、大正・昭和戦前期の日本外交におけるプロパガンダ=﹁宣
られるのは、対米宣伝に関してである。そこでここからは、対米宣伝
目的に一九一四年︵大正三年︶に東京に設立した通信社を指す。そし
ニュース発信の必要性を痛感した外務省が国際的ニュースの送受信を
ると主張した。なお、ここでいう国際通信社とは、日露戦争後、対外
アメリカにおける日本の宣伝機関が東西通信社と太平洋通信社という
置し、アメリカの対日世論善導を目指し﹁対米啓発運動﹂を開始した。
コに宣伝局︵東西通信社・太平洋通信社︶と啓発運動部をそれぞれ設
すると、日本政府は、善後策として、ニューヨークとサンフランシス
一九一三年︵大正二年︶
、カリフォルニア州で﹁排日土地法﹂が成立
で﹁昨年山東問題ニ関シ支那ガ当国ノ輿論ヲ動カサンガ為メ劇甚ナル
明等の発表を除き、宣伝に関与すべきではないと主張した。そのうえ
﹁ 独 逸 ノ 覆 轍 ニ 顧 ミ 有 害 無 益 ﹂ な た め、 在 米 日 本 公 館 は 日 本 政 府 の 声
揮、実行することは、現在、アメリカ人に嫌悪されており、戦時中の
て、 在 米 の 外 国 公 館 が ア メ リ カ 世 論 の 誘 導 を 目 的 に 秘 か に 宣 伝 を 指
部分もあったが、大戦後、パリ講和会議での山東問題やシベリア出兵
戦中、日米両国とも同陣営に属したこともあり、ある程度功を奏した
カメディアに直接供給することであった。この運動は、第一次世界大
ジュするとともに、
﹁通信社﹂として日本に関するニュースをアメリ
よ う に 通 信 社 を 名 乗 っ た 目 的 は、 宣 伝 機 関 で あ る こ と を カ モ フ ラ ー
と同様に、意見の主張ではなく、単純な事実や関係写真、その他調査
らに既存の在米宣伝機関である東西通信社についても、在米日本公館
置クハ不必要ニシテ徒ニ疑惑ヲ招クノ虞無シトセズ﹂と警告した。さ
当然ナルベシト雖モ右ハ特殊ノ場合ニ属シ是ガ為メ常設ノ宣伝機関ヲ
宣伝ヲ行ヒタル時ノ如キ吾ハ是ニ応ジテ臨機ニ適宜ノ手段ヲ講スル事
り、日本に不利なアメリカの新聞記事是正には極東から国際通信社や
日世論の好転と悪化防止には極東での新聞通信員の善導が根本であ
論が極東からの新聞報道及び通信により形成されたことに鑑みて、対
した。このなかで幣原は、日本の極東政策へのアメリカでの流説や評
こ れ に 対 し、 幣 原 は、 一 九 二 〇 年 六 月 二 十 四 日、 自 身 の 意 見 を 具 申
臣は、駐米大使の幣原喜重郎に対し、対米宣伝方針について諮問した。
外務省情報部の活動開始後の時期と考えられるが、内田康哉外務大
動 ﹂ を 指 揮 し、 パ リ 講 和 会 議 で は 全 権 委 員 随 員 と し て 報 道 係 主 任 を
一九一三年以降、﹁排日﹂の気運が高まる米国に赴任して﹁対米啓発運
間 見 ら れ る。 松 岡 が 対 米 宣 伝 事 業 に 積 極 的 で あ っ た 背 景 に は、
ていたようで、前出の幣原電報に記されたコメントにはその一端が垣
になったとされる。対米宣伝に関しても松岡は、積極的な意見をもっ
ぐって激しく衝突して以来、幣原と対照的な外交スタイルをとるよう
右 で あ っ た。 松 岡 は、 外 務 次 官 当 時 の 幣 原 と シ ベ リ ア 経 済 開 発 を め
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
担った経験と教訓があった。その経験と教訓から、松岡は、アメリカ
とになり、これを担当することになったのが情報部第二部主任松岡洋
外務省では、幣原の意見を参考に、対米宣伝事業方針を立案するこ
資料の発表という方針に基づいて経営するべきであると主張した。
れた。こうした事態を受け、日本では対米宣伝政策のあり方に再検討
の影響でアメリカの対日世論が再び悪化したため、挫折を余儀なくさ
42
米国AP通信社を利用し、ニュース発信を行なわせることが肝心であ
がなされた。
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40
側の疑惑を招く常設的宣伝機関は不要とする幣原の意見に対し、反論
ク﹂と前置きして次のように考えを述べている。
一時姑息ノ観アルモ入リ易ク行ヒ易キ方面ヨリ漸次進行スル事然へ
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
する。
措ヲ懈ラザルヲ要ス山東問題ノ際宣伝機関ノ必要ヲ痛切ニ感ジ
洋ニ於ケル対米通信社ノ操縦︵四︶有望ナル米国操觚者トノ連絡
従テ差当リ︵一︶東西社 東
[ 西通信社 及
] 太平社 太
[ 平洋通信社 ]
ノ改革︵二︶華府及シカゴ等ニ何等カ適当ナル機関ノ設置︵三︶東
事アルニ臨ンデ周章対策ヲ講ズルモ効果尠ナシ居常系統アル施
タリ
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義ヲ否宣伝ノ最善方法ヲ知レリヤ?﹂と記し、幣原の見識を痛烈に批
社の経営もこの方針に基づく必要を説いたことにも﹁大使ハ宣伝ノ意
さらに在米公館の役割を日本政府の声明等の発表に限定し、東西通信
行することを嫌うというが﹁大使ハ事実ヲ知レリヤ﹂と疑問を呈した。
ナシ﹂と主張し、アメリカ人一般が在米公館の隠密に宣伝を指揮、実
のである。次いで﹁宣伝局ヲ或程度迄テ監督裏面ノ指導スルコト差支
できないので、アメリカに常設的宣伝機関を設置することを主張した
何か大変な事態が発生した時に慌てて対策を講じても宣伝効果は期待
︵ [ 内
] は執筆者の補足。︶
なお、﹁東西通信社﹂と﹁太平洋通信社﹂は、アメリカでは日本に関す
外公館其他ノ機関ヲ一層有効ニ利用シ之カ対策研究ニ資シ度
タク尚米国ニ於ケル対日与論ノ趨向ヲ考察スル方法ニツキテモ在
︵八︶以上ノ目的ヲ助成スヘキ民間施設ノ後援等ノ方面ヲ開拓シ
︵七︶日米双方ノ善解ニ資スヘキ人士ノ往来ニ対スル便宜供与
︵六︶日本ノ事情ヲ正解セシムル為メ印刷物其他ノ資料ノ供給
︵五︶国際通信社等ヲ利用シ幾分ニテモ対米通信圏内ニ喰入ル事
告にも両社の社名から﹁通信﹂の文字が消え、﹁東西社﹂、
﹁太平社﹂と
る報道への需要が多くないため、経営困難とされ、在米公館からの報
しかしながら結果として幣原の意見が採用され、松岡が求める常設
記されていた。この訓電には引き続き、
﹁対米弘報機関設置案﹂とい
判した。
的な対米宣伝機関の設置は見送られた。一九二一年六月、松岡は、満
う題名の文書が綴られている。同案によると、外務省は、アメリカ国
せることを想定していた。﹁弘報局﹂は、︵一︶情報部・在米公館・本
クに﹁弘報局﹂を設置し、アメリカ人の主任及び助手に経営を担当さ
民一般に日本関係の正確な知識及び情報を供給する目的でニューヨー
鉄に新天地を求め、外務省を退職した。
︵二︶
﹁対米弘報機関設置案﹂と駐米大使幣原喜重郎の提案
一九二一年八月、情報部の官制公布を前に内田外務大臣は、幣原駐
係を結び、﹁政府筋ノ公表物ハ勿論本邦各方面ノ代表的人物ノ演説論
Frederick 邦新聞・雑誌から得た情報をアメリカ各地の新聞、雑誌、図書館その
他一般個人に対して無償供給し、殊に新聞や雑誌とは努めて特別な関
︶と対米宣伝について協議するよう指示した。その際、﹁所謂
Moore
プロパガンダ式ノ手段ニ出スルハ日米関係ノ現状ヨリ見ルニ甚不得
文会見談等ヲ広ク掲載セシムル﹂こと、
︵二︶絶えずアメリカ輿論に注
米 大 使 に 対 し、 大 使 館 顧 問 の フ レ デ リ ッ ク・ モ ア ー︵
策﹂と幣原の意見を容れ、
﹁此際ハ必シモ応急ノ効果ニ重キヲ措カス
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意し、情報部に対し、必要な提案をすること、︵三︶﹁如何ナル場合ニ
案し、役割を以下のように説明している。
情報部ハ我方ニ於テ米国輿論ヲ研究スルヲ主タル目的トスルモ
ノニシテ外部ニ対スル宣伝機関ニ非サルコトヲ標榜スルコト必要
と思われる。内田外務大臣の電報に対し、幣原は、モアーと協議し、
付の有無も不明であるが、幣原の具申を容れて情報部が立案したもの
﹂が提供されることで通信社と﹁異ル色彩ト興趣﹂を持たせるこ
news
とになっていた。この文書の作成日が記載されておらず、幣原への送
ノ論調等ヲ整理シ置キ随時之ヲ発表スルコトトシ米国記者ヲシテ
ルヲ以テ我ガ方ニ於テモ本省ヨリ接受スル情報及ビ本邦新聞雑誌
記者ガ随時本邦及ビ極東ニ関スル情報ヲ要求シ来ル可キハ必然ナ
ノ米人ト米国新聞記者トノ間ニ必然的ニ親密ナル関係ヲ生ジ之等
ナリト雖モ一旦公館内ニ斯クノ如キ組織ヲ有スル時ハ我方雇入レ
同年八月一三日、長文の意見を電報している。その主要部分を引用す
所要ノ情報我方ニ求メ来ルノ習慣ヲ作ルコトトスベシ
於テモ人身攻撃又ハ政治ニ関繋シ propaganda
﹂は避けること、が要求
された。加えて情報部から諸般の事件に関する歴史、統計等の﹁ feature
ると以下の通りである。
ダシク其ノ度ヲ高メタル為メ同社等ハ之ヲ存続スルモ有効ニ
シテ斯ノ如キ機関ニ対スル米国政府及米国一般ノ反感近時甚
︵一︶東西社及太平社ハ一般ニ我政府ノ宣伝機関ト目セラレ居リ而
伝機関である東西通信社と太平洋通信社を廃止した。一九二九年︵昭
と提案している。この後、外務省は、幣原の意見通り、既存の在米宣
米国ノ有力ナル新聞記者ヲ招待スルコト等ハ有効ナリト思考セラル﹂
また﹁有力ナル米人ノ本邦視察議員団ノ渡日又ハ然ル可キ方法ニ依リ
し、積極的に情報を供給することを推奨しているのである。幣原は、
わる有効な策としてアメリカの新聞記者と日常的な友好関係を形成
国新聞操縦﹂や在米通信社援助等の対米宣伝政策を否定し、それにか
幣原は、モアーの言葉を借りて、外務省がこれまで採用してきた﹁外
する、現在でいう広報活動である﹂とし、﹁この広報は、基本的に宣
に伝達することによって自らに対する好意的環境を形成していこうと
的な情報提供活動を、﹁自らの政策・見解を広くメディアや一般公衆
析し、幣原の提唱するアメリカ新聞記者やアメリカ輿論に対する積極
ところで、有山輝雄氏は、大正・昭和期の日本の対米宣伝活動を分
︵三︶対米宣伝としての﹁広報﹂と﹁弘報﹂という言葉
幣原の提案が実行に移されたことがわかる。
団主催の形式をとり、アメリカ新聞記者団の日本招待が行なわれた。
和四年︶には、外務省と満鉄で費用を負担し、カーネギー国際平和財
50
伝の一方法であるが、裏面で金銭を提供する﹃操縦﹄や色つきのニュー
意見ナリ
ヘ及買収ヲ試ムルガ如キハ絶対ニ不可ナリトノ﹁モーア﹂ノ
コト夫レ自身ガ最効力アル操縦方法ニシテ金銭上ノ利益ヲ与
良好ナル関係ヲ保持シ迅速且ツ親切ニ諸般ノ事情ヲ供給スル
︵三︶東洋ニ於ケル対米通信ニ対シテハ本省及在外公館ニ於テ常ニ
︵中略︶
活動スルコト能ハザルニ付断然廃止スルコトト致シタシ。
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具体案として大使館とニューヨーク総領事館に﹁情報部﹂の設置を提
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
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48
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
を承知したうえで、それを利用することに自己の主体性を誇る。有山
が自己に有利な状況を形成するために情報を供給する主体であること
体性を公然とさせるとともに相手の主体性を認める。受け手も、相手
ことを含め情報を伝えるが、判断については受け手に委ね、自己の主
と述べる。つまり送り手は、自己の立場に理解を得るために不都合な
相手の主体性を認め、平等な関係であるという形式をとることにある
を否定している。さらに広報活動の特色は、送り手と受け手が相互に
なく、また軍国主義的なものでもない﹂と前記の﹁広報の道徳哲学﹂
伝の一方法であり、
﹁広報﹂それ自体は﹁決して民主的であるわけでは
になるのは戦後であるが、
﹁政治では戦前期から行なわれていた﹂宣
アメリカが持ち込んだ民主的方法﹂といわれ、企業の広報活動が盛ん
いる。そして﹁いわゆる広報・広聴活動は、戦後に民主主義とともに
ら昭和期にかけて日本の重要な宣伝の方法となってきた﹂と指摘して
の情報を積極的に相手国のメディアに提供する広報活動が大正末期か
おいても、﹁広報﹂が、少なくとも﹁宣伝﹂に関する考え方として存在
対米宣伝策であったといえる。つまり、対米宣伝に関しては、戦前に
でいう﹁広報﹂であり、戦前における﹁宣伝の一方法﹂として消極的な
米大使の幣原喜重郎が提案した方法は、本人の認識はともかく、現在
方法﹂と考えていたのである。プロパガンダや﹁宣伝﹂を否定して駐
の考えに由来する。しかし、バーネイズ自身も﹁広報﹂を﹁宣伝の一
な宣伝﹂という﹁広報の道徳哲学﹂に基づく区別は、このバーネイズ
めであったようである。前記の﹁民主主義的な広報﹂と﹁全体主義的
想起させるプロパガンダとを異なるものと考え、両者を差別化するた
が、パブリック・リレーションズと﹁操作的コミュニケーション﹂を
﹁説得的コミュニケーション﹂であるプロパガンダとを区別している
出版した﹃世論の結晶化﹄
︵ Crystallizing Public Opinion
︶のなかでは、
﹁ 参 加 型 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン ﹂ で あ る パ ブ リ ッ ク・ リ レ ー シ ョ ン ズ と
R会社を設立している。バーネイズは、一九二三年︵大正十二年︶に
る様々なプロパガンダの手法を学び、大戦終了後、ニューヨークにP
イズ︵
︶の一九二八年︵昭和三年︶の著作
Edward
Bernays,
1891-1995
﹃プロパガンダ﹄
︵ Propaganda
︶の叙述にも符合する。バーネイズは、
ク・リレーションズをプロパガンダの一部とするエドワード・バーネ
﹁広報﹂が﹁宣伝の一方法﹂であるとする有山氏の説明は、パブリッ
酬性を仮構し合っている﹂と説明しているのである。
氏は、
﹁そこには、情報の発信受信についてルールの合意があり、互
スを流すという見えすいた﹃宣伝﹄ではなく、自己を開示し、〝無色〟 ﹁クリール委員会﹂
︶に二十歳半ばで参加し、ここで人々の意識を変え
53
なお幣原の提案を容れて作成された﹁対米弘報機関設置案﹂には、
していたということである。
﹁弘報﹂という言葉が使用されているが、これは、﹁広告﹂の意味で知
られていた言葉を当てたものと考えられる。北野邦彦氏は、明治期に
アメリカで﹁近代パブリック・リレーションズの父﹂と言われた人物
に当てられたが、漢字制限により﹁広報﹂に置き換えられたとし、﹁弘
中心に使用され、戦後、官公庁でパブリック・リレーションズの訳語
広告の意味で知られた﹁弘報﹂という言葉が、戦前・戦中に官公庁を
である。第一次世界大戦時、アメリカ国民の戦意高揚のため作られた
報﹂という言葉の波及経緯を次のように説明している。明治時代には
宣伝機関の公共情報委員会︵
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54
56
51
、通称
Committee on Public Information
52
あった。満鉄社長室弘報係は、後に総裁室弘報課に拡大する。弘報課
渉外情報担当理事として満鉄に在任した松岡洋右が誘ったので
些細な事件のために予備役編入となった退役陸軍中将の高柳を当時、
なっていったというのが、
﹁弘報﹂波及経緯である。シベリア出兵後、
弘 報 班 や 満 鉄 社 長 室 弘 報 係 に 用 い、 後 に 満 洲 国 で 使 用 さ れ る よ う に
人の高柳保太郎が、その名称から﹁弘報﹂を借りて、シベリア派遣軍
そして﹁ひろめ屋﹂としての有力広告業﹁弘報堂﹂を知っていた陸軍軍
て﹁当時のマスコミ関係者や知識人には広く知られた存在﹂であった。
大取次の一つに弘報堂があり、
﹁弘報堂﹂の名称は、﹁ひろめ屋﹂とし
広告業は﹁ひろめ屋﹂と呼ぶ習わしがあった。明治末期の広告業の五
うか。
て﹁宣伝外交﹂という言葉が、使用されていたのは、どうしてであろ
との避けられてきたことが浮き彫りになった。にもかかわらず、あえ
かで、﹁宣伝﹂という言葉は、否定的印象のため、公然と使用するこ
そして﹁宣伝外交︵ propaganda diplomacy
︶﹂という言葉がアメリカで
﹁戦前・戦中に使用された﹂と述べている。ここまで検討してきたな
した内容の﹃宣伝外交﹄という言葉が、よく使われていた﹂と述べる。
あるけれども、現今の広報文化外交というものに実際上ほとんど酷似
という用語で表現され、昭和初期になると﹁ニュアンスに少々違いが
は、﹁外国新聞操縦﹂、﹁宣伝﹂、
﹁啓発﹂、﹁世論﹂、または﹁文化外交﹂
すか﹂と質問された時、高柳は、
﹁弘報係とは広告ひろめ屋のことぢゃ
たが、
﹁日本では、
﹃宣伝﹄というと、一種の詐術、ゴマカシの意味に
とられがちの傾向が強く感じられ、﹃あれは宣伝だ﹄と言えば、真実
は正しい仕事であることとして認識させるため﹂に用いられたとされ
際に使用されていれば、一件は、見出せると考えていたが、この結果
た結果、タイトル中︵サブタイトルを含む︶に propaganda diplomacy
を含むものは、①の五十四件中〇件、②の四十件中〇件であった。実
明治時代から太平洋戦争で敗北するまでの戦前期において外務省で
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
アメリカでは、プロパガンダという言葉は、﹁悪質な情報操作を指
たのではないかと考える。
ロマシー﹂という言葉は、管見の限り、アメリカで使用されていなかっ
ブスターの辞書にも見当たらないことから、﹁プロパガンダ・ディプ
る。このように﹁弘報﹂という言葉は、﹁宣伝﹂という言葉の否定的な
︵一︶
﹁プロパガンダ・ディプロマシー﹂?
四 ﹁宣伝外交﹂
イメージを避け、戦前においてすでに代替語として使用されていた。
ワ ー ド 検 索 を し た。 Library of Congress Online Catalog
で propaganda
を そ れ ぞ れ ① Keyword
と ② Title Keyword
の二通り検索し
diplomacy
マシー﹂
︵ propaganda diplomacy
︶という言葉について検討してみる。
ア メ リ カ で の 用 例 を 探 す た め、 米 国 議 会 図 書 館 の オ ン ラ イ ン 目 録 で
まず、アメリカで使用されていたという﹁プロパガンダ・ディプロ
62
か ら、 少 な く と も タ イ ト ル に propaganda diplomacy
を使用した本は
ないことが判明した。実際に使用されていたのか疑問が生じる。ウェ
とちがうことのように思われるのが普通になっていた。そこで、これ
63
57
長の松本豊三︵戦後、電通に入社︶によれば、﹁弘報とは何をするんで
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よ﹂と答えたという。なお当時、
﹁弘報﹂は、﹁宣伝﹂の﹁別称﹂であっ
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松村氏は、
﹃外務省記録総目録﹄全三巻を一覧すればわかるように、
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大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
トの国では﹁プロパガンダ﹂という言葉には、否定的な意味が込めら
リウス十五世がカトリックの布教聖省を設立して以降、プロテスタン
げられる。元々、十七世紀の﹁宗教改革﹂の時代にローマ教皇グレゴ
す軽蔑語﹂で、自国の活動をプロパガンダと認めないことも理由にあ
を旨とする外交が宣伝を用ふるに何の遠慮があらうか。
一般に外交の宣伝を悪むは怒を移すものである。平和を愛し正義
一の方便に過ぎない。侵略政策の遂行に用ひらるる宣伝を見て、
として悪むべきは計画の本に在りて宣伝の末にはあらず、宣伝は
64
マシーを﹁広報外交﹂と翻訳したように、﹁宣伝外交﹂もアメリカで使
という言葉が使用されていたことから、自身がパブリック・ディプロ
れていたからである。推測ではあるが、松村氏は、日本で﹁宣伝外交﹂
自身、外交の一手段と考えていたことがわかる。
﹁釈明﹂という言葉は、
とみなされているため、使い方次第であると﹁宣伝﹂への偏見を戒め、
したうえで、一九三〇年︵昭和五年︶の日本では、
﹁宣伝﹂が﹁欺瞞行為﹂
以上の引用から、石井は、
﹁宣伝外交﹂を事前・事後の﹁釈明﹂と定義
字義通り﹁いいわけ﹂と考えるのではなく、事前に﹁釈明﹂ということ
ていたのであろうか。松村氏は、一九一七年︵大正六年︶の石井・ラ
それでは、
﹁宣伝外交﹂という言葉は、日本でどのように使用され
上の意味は見出しえない。そこで他を探すと、外交評論家の伊藤正徳
良いであろう。ただし﹁宣伝外交﹂には、文中から﹁外交の宣伝﹂、以
は言葉の意味からしておかしいので、説明という意味だと考えた方が
ン シ ン グ 協 定 で 有 名 な 戦 前 期 の 外 務 大 臣 石 井 菊 次 郎 の 著 作﹃ 外 交 余
排他的に亙るを免れない。世の中には斯る場合の宣伝にのみ注目
計画が野心を包蔵して侵略的のものであれば、其宣伝も亦利己的
行動の釈明に在る。主動的宣伝の場合に於て、其遂行せんとする
後者は重に受動的宣伝であるが、其目的に至つては両者均しく我
正するために行はるる場合とがある。前者は主動的宣伝に係り、
我態度を説明して世上の誤解を予防し又は巳に起りたる誤解を是
の思潮を我欲する方向に導くの予備行動として為さるる場合と、
は、この本の﹁第三章 何々外交といふもの﹂で、﹁国民外交﹂、
﹁公開
外交﹂を論じたあと、﹁自主外交と追随外交︱濫用を慎むべき定義︱﹂
外交﹂という言葉が使用されたことへのヒントを与えてくれた。伊藤
は、対外宣伝を意味していることがわかる。それでも同書は、
﹁宣伝
う言葉には何の説明もしていないが、この後に続く文意から、ここで
なお、当時、自明のことであったからであろうか、﹁宣伝外交﹂とい
支 那 宣 伝 外 交 の 成 功 を 記 念 す る も の に 外 な ら な い ﹂ と 使 用 し て い た。
件で、
﹁﹃二十一ケ條﹄とは、
︵中略︶支那側が、 “Twenty-one Demands”
と稱して世界に訴へ、事情に疎い世界の通り言葉となつたもの、即ち
宣伝外交には一定計画の遂行を容易ならしむるために、内外人
するの余り、宣伝其物を欺瞞行為と視て、遂に外交の宣伝を一般
と題して次のように述べている。
録﹄
︵一九三〇年︶で﹁宣伝外交﹂を説明した次の叙述を引用している。
の著作﹃世界と日本 日本外交の再建﹄
︵一九四〇年︶に用例を見つけ
た。伊藤は、大隈内閣のいわゆる対華二十一ヵ条要求に関して述べた
︵二︶
﹁宣伝外交﹂
用されていた言葉の翻訳語であると考えたのではないかと思われる。
66
に悪むものがあるも、夫は本末を誤りたる見方である。欺瞞行為
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かし、その定義を問はれるなら、果たして概念を正確に説明して
も簡単に用ひられてゐる。自主外交、追随外交は前者の一例。し
まい。外務大臣の名に﹁外交﹂を付ける呼び方も亦日方に於て最
﹁外交﹂の頭へ形容詞を冠すること、日本の如く多い国はある
和会議所感﹂で次のように述べている。
随員として加わった近衛文麿も﹃戦後欧米見聞録﹄
︵一九二〇年︶の﹁講
集中シタルノ観アリタリ﹂と強調している。そして、パリ講和会議に
﹃プロパガンダ﹄中最モ顕著ナルモノニシテ支那ハ実ニ其勢力ヲ茲ニ
ゐるか何うか頗る怪しい。また、世上、これを叫ぶもの、果たし
専門外交秘密外交がようやく過去の遺物となりて国民外交公開
ま使用されていることもあり、
﹁濫用を慎むべき﹂と述べている。伊
用されていたことがわかったのである。しかも定義や概念も不明なま
伊藤の叙述から、戦前の日本では、﹁何々外交﹂という言葉がよく使
りを免れざるところなりといへども、巴里会議を以て百年前の維
に、今日秘密外交の時代全く去れりと即断するは素より軽率の譏
の講和会議においてほとんど無視せらるる運命に陥りたるが故
開的の条約﹂てふ主義は、大統領の他の多くの理想と同じく今度
ソン氏が十四個条原則の第一に掲げたる﹁公開的に作られたる公
外交の時代将に来らむとするの兆あることこれなり。勿論ウィル
藤には、
﹁宣伝外交﹂についても説明して欲しいところだが、おそら
せざりし大規模のプロパガンダが今次の講和会議において重大な
く外交に関する宣伝くらいの意味で使用されていたのではないかと思
る役目を演じたりし事実は、たまたま以てこの時代の推移を最も
納会議に比較する時は、吾人はそこに顕著なる差異の存すること
ただし、それでは、何ゆえに﹁外交﹂という言葉の上にわざわざ﹁宣
われる。いずれにせよ、
﹁宣伝外交﹂という言葉は、世間一般で使用
伝﹂という否定的印象のある言葉を冠したのであろうか。この疑問解
能く説明するものたらずんばあらず。
を認めざるを得ず、然して維納時代の政治家がほとんど夢想だに
消への糸口は、日本政府において、外務省に情報部を設置した時期が、
された言葉であり、外務省で用語として使用された言葉ではない。
て定見を持ち合せるかといへば、必ずしもさうではなかろう。
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て﹁此ノ間支那側ニ於テハ大規模ノ﹃プロパガンダ﹄ヲ行ヒ這回ノ会
牧野伸顕は、パリ講和会議から帰国後の﹁総括的報告﹂の結論におい
られた経験が大きかったからである。先にも引用したが、全権委員の
戦の教訓以上に、パリ講和会議において中国のプロパガンダに苦しめ
重要性を認識する上で、総力戦としての第一次世界大戦における宣伝
実に求められるように思われる。それは、日本では、プロパガンダの
第一次世界大戦後、もっといえばパリ講和会議の後であったという事
従来の外交に対し、外国に対して公然と自国の立場を主張する新鮮な
否定的印象を付与されていたが、二国間の秘密交渉と理解されてきた
果、﹁宣伝﹂という言葉自体は、第一次世界大戦の戦時宣伝によって
為 で あ る と 強 く 印 象 つ け る の に 十 分 で あ っ た と 考 え ら れ る。 そ の 結
ンダとは、国際場裏で自国の立場を堂々と主張し、情報を発信する行
潮流と相まって、日本全権団参加者を中心として日本側に、プロパガ
ルソン大統領が主張した﹁秘密外交﹂から﹁公開外交﹂へという新しい
つまり、パリ講和会議での経験は、アメリカ代表ウッドロー・ウィ
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
議中最モ広ク且頻繁ニ行ハレ著シク目立チタルモノニシテ蓋シ各国ノ
70
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68
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
外交の手法という意味で﹁宣伝外交﹂という言葉が使用されるように
なったのではないかと思われる。さらに近衛が同書でアメリカに対し
てプロパガンダを行うよう提案した次の件は、﹁宣伝外交﹂という言
おわりに
本稿では、大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格
に篤と了解せしむるためにプロパガンダの必要起り来る。然るに
の地を要求すれば可なり。然して我国のこの立場を米国人その他
我国民たる者は宜しく正々堂々と自己の生存のためにその発展
は、実際のプロパガンダの性格、すなわち、大正末期から昭和初期、
て使用されるにいたったのかが本稿執筆の動機であったが、この理由
が何ゆえに戦前期日本外交におけるプロパガンダを総称する用語とし
題を通して検討してきた。本来、戦後に誕生した﹁広報外交﹂や﹁広報﹂
について、﹁広報外交﹂、﹁広報﹂、そして﹁宣伝外交﹂という用語の問
何らの時代錯誤ぞ、彼の軍閥の徒輩は我帝国発展の策を講ずるに
少なくとも一九三〇年代までの日本のプロパガンダに関する考え方や
葉がなぜ使用されたかを物語るように思われる。
当りてこの近代的なる方法に依ることをなさず、大昔支那に流行
外務省が行ったプロパガンダの実態を探ることで明らかとなった。
も米国人も何ら異なるところなしといふことをよく彼等の脳裏に
て我立場を了解せしむると同時に、道徳的理想においては日本人
り、公々然と最も率直に我帝国の膨張の止むを得ざる所以を述べ
を誤るものなり。故に米国等に対してはプロパガンダの方法に依
智に非ず、目的に達するの捷径たるが如くにして実は反つて目的
あった。つまり﹁広報﹂という言葉は、﹁民主主義とともにアメリカが
た対立軸で論じる﹃広報の道徳哲学﹄がことさら唱導された﹂ことが
リカ流PR観、すなわち民主主義VS全体主義、参加VS操作といっ
は、﹁広報=PRを民主的コミュニケーションへの啓発と考えるアメ
が主流となり、﹁宣伝﹂との包含関係が戦前と戦後で逆転した背景に
戦 後、 使 用 が 避 け ら れ る 言 葉 に な っ て い た。 他 方 で、 戦 後、﹁ 広 報 ﹂
戦で戦時宣伝を指す言葉として記憶され、否定的印象を重ねた結果、
プロパガンダ、そして﹁宣伝﹂は、第一次、第二次と二度の世界大
せし戦国策を借用し来らむとす。思ふに今日の如き公開的民本的
徹底せしめ、且つ事実に依りてこれを立証することが最も賢明な
近衛は、
﹁公開的民本的﹂な今日、米国に対しては﹁プロパガンダの方
期日本外交におけるプロパガンダの用語として﹁宣伝﹂が﹁広報﹂に置
ありながらも、対照的に良い印象であった。これは、大正・昭和戦前
持ち込んだ民主的方法﹂として、
﹁宣伝﹂とほぼ同じ行為を指す言葉で
− −
16
時代において旧式なる権謀術数を弄することは、智に似て反つて
る方法なりと思惟す。
法に依り、公々然と最も率直に﹂
、日本の主張を展開するべきである
き換えられた最大の理由であったと言える。
けではない。大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格、
ただし、こうした戦後の事情だけが﹁広報﹂使用の理由であったわ
と述べている。つまり、
﹁宣伝外交﹂という言葉は、プロパガンダと
いう認識を反映した言葉であったのではないかと考えられる。
は自国の主張を﹁正々堂々と﹂
、
﹁公然と﹂と行なうべきものであると
71
として外務省が採用した方法の一つに、現在の日本でいう﹁広報﹂が
には、第一次世界大戦後、その存在感を増したアメリカへの宣伝方法
が﹁広報﹂という言葉の使用に説得力を与えてきたのである。具体的
つまり当時の﹁宣伝﹂についての考え方やそれを反映した宣伝の実態
あろう。
には﹁広報﹂、﹁広報外交﹂と言葉の開始時期を考慮して用いるべきで
後のものであり、用語の使用上は混同を避け、戦前は﹁宣伝﹂
、戦後
﹁広報外交﹂と同様に、戦前には、言葉として存在せず、あくまで戦
ン ト の 使 用 等 の 他 の 手 段 と と も に プ ロ パ ガ ン ダ の 一 方 法 で あ っ て、
︵
︵
︵
︵
註
︶ハロルド・ニコルソン﹃外交﹄
︵斎藤真・深谷満雄訳、東京大学出版会、
一九六五年︶二四五頁。
︶有山輝雄﹃情報覇権と帝国日本Ⅱ︱通信技術の拡大と宣伝戦︱﹄
︵吉川
弘文館、二〇一三︶四六六頁。
︶佐藤卓己﹁
﹃プロパガンダの世紀﹄と広報学の射程︱ファシスト的公共
性とナチ広報︱﹂津金澤聡廣・佐藤卓己編﹃広報・広告・プロパガンダ﹄
︵ミネルヴァ書房、二〇〇三年︶五頁。
︶藤 岡 由 佳﹁ 日 本 の 広 報 外 交 ﹂︵ 五 百 旗 頭 真 編﹃ 日 米 関 係 史 ﹄ 有 斐 閣、
二〇〇八年︶九〇∼九一頁。
︶松 村 氏 自 身 も 最 近 の 文 章 上 で﹁ 一 時 期 に は パ ブ リ ッ ク・ デ ィ プ ロ マ
シーとかソフトパワーとか片仮名で表示されたわが国の﹃広報外交﹄
は、標記のNHKテレビ放送の番組﹃さかのぼり日本史﹄の一つであ
る﹁日露戦争と広報外交︱金子堅太郎と末松謙澄︱﹂によって、大き
く日本語として市民権を得られたように思われる。筆者の欣快とする
ところに他ならない﹂とその普及を認めている。松村正義﹁NHKテ
レビ放送の歴史番組はこれでよいのだろうか︱﹃さかのぼり日本史﹄
の﹁日露戦争と広報外交﹂を視聴して︱﹂
﹃政治経済史学﹄第五五〇号、
二〇一二年八・九・一〇月特別号、一四九頁。
︶松村正義﹃新版 国際交流史︱近現代日本の広報文化外交と民間交流
︱﹄
︵地人館、二〇〇二年︶一〇頁。
あったからである。
満洲事変は、第一次世界大戦後、日本政府が最もプロパガンダを行
考えられる。そのため外交関係者のなかでプロパガンダの意義を認め
る者も、プロパガンダとは、外国に対して﹁公然と﹂、﹁正々堂々﹂と
自国の主張を展開する行為と考えていたのではないかと思われるので
ある。
しかし、いずれの場合にも、
﹁広報﹂は、大正・昭和戦前期日本外
交において、あくまで﹁外国新聞操縦﹂・通信社及び外国人エージェ
︵
なう必要に迫られた機会であったが、満洲事変期の日本外交を検討し
た研究では、
﹁日本の宣伝は政治宣伝︵プロパガンダ︶などではなく、 ︵
広報︵P・R︶もしくは啓蒙﹂であったと指摘されている。この指摘は、
あり、
﹁戦争宣伝﹂の実態が理解されるようになるのは後年のことと
本では、松岡洋右のように米国で宣伝を指揮した経験を持つ者は稀で
る場合、第一次世界大戦の戦争プロパガンダを想起するが、当時の日
しているからである。現在、大正・昭和戦前期のプロパガンダを考え
方法として採用した手法が昭和戦前期にも行なわれていたことを証明
指摘している点で興味深い。なぜなら外務省が大正期に対米宣伝の一
看過しているものの、満洲事変期の日本の宣伝を﹁広報﹂であったと
外務省のプロパガンダが元々、いかなる性格を持つものであったかを
同研究が満洲事変に際し、外務省が﹁外国新聞操縦﹂を行ったことや、
73
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
− −
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蔵︶
。
︵ ︶外 務 大 臣 官 房 人 事 課 編﹃ 外 務 省 年 鑑 大 正 年 ﹄
︵ ク レ ス 出 版、
一九九九年︶四 ∼八頁。
︵ ︶同註︵ ︶
。
︵ ︶有 山 輝 雄﹁ 満 州 事 変 期 日 本 の 対 米 宣 伝 活 動 ﹂ 東 京 経 済 大 学 大 学 院 コ
ミュニケーション学研究科編﹃日本の国際情報発信﹄
︵芙蓉書房出版、
二〇〇四年︶一三八頁。
︵ ︶有山輝雄﹃情報覇権と帝国日本Ⅰ︱海底ケーブルと通信社の誕生︱﹄
︵吉川弘文館、二〇一三︶三七〇頁。
︵ ︶同右。
︵ ︶小山栄三﹃広報学﹄
︵有斐閣、一九五四年︶二頁。なお小山栄三の戦時
下の宣伝研究については、佐藤正晴﹁戦時下日本の宣伝研究︱小山栄
三の宣伝論をめぐって︱﹂
﹃メディア史研究﹄第五号、一九九六年十一
月参照。
︵ ︶小山栄三﹃広報学﹄
、二頁。
︵ ︶佐藤卓己は、
﹁戦前には﹃情報宣伝﹄の四文字熟語で使われることの多
かった﹃情報﹄は、内閣情報部︵一九三七年︶︱情報局︵一九四〇年︶
のように国家宣伝の組織名称として一般に定着した﹂と述べる。佐藤
卓己﹁
﹃プロパガンダの世紀﹄と広報学の射程﹂
、一四頁。
︵ ︶小山栄三﹃広報学﹄
、三∼四頁。
︵ ︶同 右、 五 頁、 一 五 頁。﹃ 広 報 学 ﹄ で は、
﹃ 戦 時 宣 伝 論 ﹄︵ 三 省 堂、
一九四二年︶の﹁第二章 戦争と宣伝﹂を中心に収録した﹁第十四編﹂
の章題を﹁広報と戦争関係﹂と表記している。
︵ ︶佐藤卓己﹁プロパガンダと情報操作﹂山口功二・渡辺武達・岡満男﹃メ
ディア学の現在︹新版︺﹄
︵世界思想社、二〇〇三年︶一三四頁。
︶佐藤卓己﹁
﹃プロパガンダの世紀﹄と広報学の射程﹂
、九∼一〇頁。
︶同右、一九頁。なお﹁広報の道徳哲学﹂については、藤竹暁﹁コミュ
ニケーションとしての広報﹂
﹃広報研究﹄第二号、八頁参照。
︵
︵
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大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
︵ ︶渡辺靖﹃文化と外交︱パブリック・ディプロマシーの時代︱﹄
︵中央公
論新社、二〇一一年︶二二頁。
︵ ︶同右、二二頁 。
︵ ︶近 藤 誠 一﹃ 歪 め ら れ る 日 本 イ メ ー ジ ︱ ワ シ ン ト ン の パ ー セ プ シ ョ ン
ゲーム︱﹄
︵かまくら春秋社、二〇〇六年︶六八頁。
︵ ︶松村正義﹃新版 国際交流史﹄、一一∼一二頁。
︵ ︶同右、一二頁 。
︵ ︶松村正義﹁外務省情報部の創設と伊集院初代部長﹂
﹃国際法外交雑誌﹄
第七〇巻第二号、一九七一年、八六頁。
︵ ︶同右、七二頁 。
︵ ︶同右、七四頁 。
︵ ︶同右、七七頁 。
︵ ︶戸部良一﹃外務省革新派 世界新秩序の幻影﹄
︵中央公論新社・新書、
二〇一〇年︶一七∼一八頁。
︵ ︶原奎一郎編﹃原敬日記﹄第八巻︵乾元社、一九五〇年︶三二六∼三二七
頁。
︵ ︶﹁外務省内ニ情報部設置ニ関スル件﹂外務省記録 6.1.2.13
﹃帝国外務省
官制雑件﹄第四巻所収︵外務省外交史料館所蔵︶
。
︵ ︶松村正義﹁外務省情報部の創設と伊集院初代部長﹂
、七六頁。
︵ ︶外 務 大 臣 官 房 人 事 課 編 ﹃ 外 務 省 年 鑑 大 正 年 ﹄
︵ ク レ ス 出 版、
一九九九年︶六∼七頁。なお一九二〇年七月三日の﹁官報﹂掲載の﹁外
務省分課規程改正﹂では、通商局に関する第九条、第十条における表
記は、それぞれ﹁通商公報﹂、﹁通商公報係﹂であった。前掲﹃外務省
の百年 上巻﹄、一〇〇八∼一〇〇九頁。
︵ ︶大谷正﹁﹃新聞操縦﹄から﹃対外宣伝﹄へ︱明治・大正期の外務省対中
国宣伝活動の 変 遷 ︱ ﹂
﹃メディア史研究﹄第五号。
︵ ︶同右、八六頁 。
︵ ︶外務省記録 1.3.1.32.
﹁東方通信社関係雑纂﹂所収︵外務省外交史料館所
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、九三頁。
︵ ︶松村正義﹁外務省情報部の創設と伊集院初代部長﹂
︵ ︶石井裕﹁第一次大戦期の河上清の活動︱外務省の対米世論工作︱﹂
﹃史
学雑誌﹄第一一四編第六号、二〇〇五年六月、六一∼八六頁参照。
︵ ︶高橋勝浩﹁第一次大戦後における日本の対米宣伝構想について﹂
﹃国史
学﹄第二〇三号、二〇〇一年、八一∼一一三頁。特に断らない限り、
第一次世界大戦後の対米宣伝構想に関し、同論文を参考にした。
︵ ︶一九二〇年六月二十四日付在ワシントン幣原喜重郎大使発内田外務大
臣宛電報第三一七号︵極秘︶、外務省記録 1.3.1.35.
﹃宣伝関係雑件﹄所
収︵外務省外交史料館所蔵︶。
︵ ︶有山輝雄﹃情報覇権と帝国日本Ⅰ︱海底ケーブルと通信社の誕生︱﹄
、
三一九頁。
︵ ︶一九二〇年六月二十五日付在ワシントン幣原喜重郎大使発内田外務大
臣宛電報第三一七号ノ二、外務省記録 1.3.1.35.
所収。
︵ ︶デービッド・J・ルー﹃松岡洋右とその時代﹄
︵長谷川進一訳、TBS
ブリタニカ、一九八一年︶五九、
六六∼六九頁。
︵ ︶石井裕﹁第一次大戦期の河上清の活動﹂
、六四頁。
︵ ︶松岡洋右のパリ講和会議とその後の活動については、デービッド・J・
ルー﹃松岡洋右とその時代﹄、七七∼八一頁参照。
︵ ︶一九二〇年六月二十五日付在ワシントン幣原大使発内田外務大臣宛電
報第三一七号ノ二、外務省記録 1.3.1.35.
所収。
︵ ︶年月日無記載、内田外務大臣発在ワシントン幣原大使宛電報第二七二
号 写、 外 務 省 記 録
﹃ 本 邦 通 信 機 関 及 通 信 員 関 係 雑 件 通 信
1.3.1.39-1.
機関ノ部﹄第一巻所収︵外務省外交史料館所蔵︶
。
︵ ︶一九二一年八月十三日付在ワシントン幣原大使発内田外務大臣宛電報
第五〇二号、外務省記録 1.3.1.39-1.
第一巻及び 1.3.1.35-1-1.
﹃宣伝関係
雑 件 別 冊 嘱 託 及 補 助 金 支 給 宣 伝 者 其 他 宣 伝 費 支 出 関 係 本 邦 ノ
部﹄第一巻所収︵外務省外交史料館所蔵︶
。
︵ ︶一九二一年八月十四日付在ワシントン幣原大使発内田外務大臣宛電報
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
︵
第五〇三号、外務省記録 1.3.1.39-1.
第一巻所収。
︶一九二一年八月十三日付在ワシントン幣原大使発内田外務大臣宛電報
第五〇二号、外務省記録 1.3.1.39-1.
第一巻所収。
︶有山輝雄﹁満州事変期日本の対米宣伝活動﹂
、一三八∼一四〇頁。
︶ Edward Bernays, Propaganda, New York: H. Liveright, 1928, chapt.3.
及
びエドワード・バーネイズ﹃プロパガンダ﹄
︵中田安彦訳・解説、成甲
書房、二〇一〇年︶第三章参照。
︶
﹁クリール委員会﹂とも呼称される Committee on Public Information
は、
﹁広報委員会﹂
﹁公報委員会﹂と翻訳されているが、本稿では直訳し、
公共情報委員会とした。
︶エドワード・バーネイズ﹃プロパガンダ﹄、二二三頁、巻末の訳者解
説参照。
︶ Edward Bernays, Crystallizing Public Opinion, New York,: Boni and
本書は、
﹁おそらくアメリカで︵ということは世界で︶
Liveright, 1923.
初めて﹂のパブリック・リレーションズに関する書籍とされる。猪狩
誠也﹁書評 エドワード・バーネイズ著、中田安彦訳・解説﹃プロパ
ガンダ﹄
︵ 成 甲 書 房、 二 〇 一 〇 年 一 〇 月 ﹂
﹃ 広 報 研 究 ﹄ 第 一 五 号、
二〇一一年、七六頁。
︶藤竹暁﹁コミュニケーションとしての広報﹂
、八頁。
︶北野邦彦﹁我が国における用語としてのPR、広報の語源と波及過程
について﹂
﹃広報研究﹄第一三号、二〇〇九年、一五頁。
︶同右、一六∼一七頁。
︶松岡洋右伝記刊行会編﹃松岡洋右︱その人と人物﹄
︵講談社、一九七四
年︶一三七∼一四〇頁。
︶松本豊三﹁満鉄と弘報業務﹂満洲国総務庁弘報処﹃宣撫月報﹄一九三八
年一〇月号、復刊本、山本武利解説﹃宣撫月報﹄第三巻、不二出版、
二〇〇六年、一三一頁。
︶石 原 厳 徹﹁ 大 陸 広 報 物 語︵ 一 ︶﹂ 満 鉄 会 編﹃ 満 鉄 会 報 ﹄ 第 四 三 号、
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︵
︵
大正・昭和戦前期日本外交におけるプロパガンダの性格について
一九六六年三 月 二 〇 日 、 一 一 頁 。
︶松村正義﹃新版 国際交流史﹄、一〇頁。
︶同右、一二頁 。
︶ナンシー・スノー﹃プロパガンダ株式会社 アメリカ文化の広告代理
店﹄
︵明石書店、二〇〇四年︶一七頁。
︶渡辺靖﹃文化と外交﹄、四二頁。
︶松村正義﹃新版 国際交流史﹄、一〇∼一一頁。なお引用箇所は、石
井菊次郎﹃外交余録﹄
︵岩波書店、一九三〇年︶四〇三∼四〇四頁参照。
︶伊 藤 正 徳﹃ 世 界 と 日 本 日 本 外 交 の 再 建 ﹄
︵ 鱒 書 房、 一 九 四 〇 年 ︶
一一四∼一一 六 頁 。
︶同右、五〇頁 。
︶﹃日本外交文書﹄大正八年第三冊上巻︵一九七一年︶八〇二頁。
︶近衛文麿﹃戦後欧米見聞録﹄
︵中央公論新社・文庫、一九八一年︶三七
頁。
︶同右、一四〇 ∼ 一 四 二 頁 。
︶倉山満﹁国際連盟脱退をめぐる日本外交の行政史的考察︱外交官と軍
人 の 知 見 を 中 心 に ﹂ 国 士 舘 大 学 日 本 政 教 研 究 所 編﹃ 政 教 研 紀 要 ﹄ 第
二八号、二〇〇六年三月、八〇頁。
︶満洲事変に際し、外務省がフランスで行った﹁外国新聞操縦﹂につい
ては、熱田見子﹁満州事変とフランス新聞操縦工作︱
﹃親日論調﹄の背
景︱﹂
﹃法学政治学論究﹄第三八号、一九九八年九月参照。
︶管見の限り、外交記録中に第一次世界大戦における戦時プロパガンダ
に関する書籍が参考として在外公館から外務省に送付されたことが確
認されるのは、一九三六年三月のニューヨーク総領事澤田廉三による
ものが最初である。一九三六年三月十九日付在ニューヨーク澤田廉三
総領事発広田弘毅外務大臣宛普通第一〇四号﹁
﹃プロパガンダ﹄ニ関ス
ル書籍送付ノ件﹂外務省記録 A-3-1-4.
﹁各国宣伝関係雑件﹂第四巻所収
︵外務省外交史料館所蔵︶。
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