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福井県文書館研究紀要
ISSN 1349−2160 福井県文書館研究紀要 第 3 号 福井県文書館講演 江戸時代庶民の破産と再興 宇佐美英機 1 古代越前国と愛発関 舘野 和己 21 一地方新聞の軌跡 ―第2次福井新聞の1年9か月と南越倶楽部― 池内 啓 45 貞享の半知における家臣団 ―福井藩政史研究ノート― 吉川喜代江 75 福井藩家中絵図(山内秋郎家文書)を利用して 吉田 健 83 福井史料ネットワークの活動から見えてきたこと 長野 栄俊 93 都道府県・政令指定都市等の文書館における インターネット上での情報提供 柳沢芙美子 105 山内秋郎家の新出中世文書 松原 信之 115 論 文 動向・資料紹介 平成18年3月 福井県文書館 BULLETIN OF FUKUI PREFECTURAL ARCHIVES No.3 March 2006 CONTENTS Transcript of Lecture: Bankruptcy and Revival among the Common People in the Edo Period USAMI Hideki 1 Articles Ancient Echizen and the Arachinoseki Checkpoint TATENO Kazumi 21 Tracing the Course of a Local Newspaper: 21 Months of the 2nd Fukui Shimbun and the Nan-Etsu Club IKEUCHI Hiromu 45 Information The Impact of Half Enfeoffment on the Vassal Corps in the Jokyo Period: Research Notes on the History of the Fukui-han YOSHIKAWA Kiyoe 75 Utilization of the Map Illustrating the Vassal Estates of the Fukui-han YOSHIDA Takeshi 83 Things Made Clear through Volunteer Activities of the Fukui-Shiryo-Network relating to the Flood Disaster in Fukui NAGANO Eishun 93 Information Services over the Internet: Web Browsing of Archives of Prefectures and Cities Designated by Ordinance in Japan YANAGISAWA Fumiko 105 Newly-Discovered Medieval Documents of the Yamauchi Akiro Family MATSUBARA Nobuyuki 115 Fukui Prefectural Archives Fukui, Japan 江戸時代庶民の破産と再興 福井県文書館講演 江戸時代庶民の破産と再興 宇佐美英機* はじめに 1.「分散」とは 2.「出世証文」とは 3.結びにかえて はじめに ただ今ご紹介いただきました滋賀大学の宇佐美でございます。紹介にもございましたように勝山出 身ですが、勝山の方では「かっちゃま」と言います。勝山の方では両親もおかげさまで健在でおりま して、年に1・2回は戻ってきますので、最初の挨拶を勝山弁で申し上げようかなと思ったんですが、 どうも私の勝山弁は勝山在住の甥っ子にすら「おっちゃん何て言ったんや」と言われるぐらい古語の 勝山弁しか覚えてないみたいでありますので、勝山訛の関西弁でお話しをさせていただきたいと思い ます。 今日お話しさせていただきますのは「江戸時代庶民の破産と再興」という、まことに景気のよくな い話しでありまして、人々がどのようにして破産していたのかという話しがメインであります。今日 の講演の依頼を受けたときに、さて何を言おうかと考えました。その時に幸いというか、たまたまで ありますが、私が教わりました先生がこの春に退職されるということで、30年前に提出しました卒業 論文が手元に戻りました。それで30年前の卒業論文を、記憶も薄れておったような物を読み返しまし て、現在の研究がその卒業論文で利用した1点の史料に対する好奇心から始まったんだということに 改めて気づきました。そこでそのことを中心にしまして、私の研究の流れというものによってお話し をさせていただけたらというふうに思いまして、本日の主題になったわけでございます。 レジュメをご覧いただきたいと思います。「1 はじめに」というところは、「私の研究の始まり」 ということでございます。私は生まれ育ったのが近世風に申しますと大野郡東遅羽口村でございます。 この東遅羽口村、現在は勝山市鹿谷町東遅羽口という区ですけれども、そこに区の伝来文書が、ずっ と区長持ち回り箪笥の中にございました。これが180数点ほどの史料でございまして、たまたま自分 の父親が区長であったときに、借用証を入れまして、それを全部京都へ借り出しまして、1年半かか って全部読みました。それをもとにして卒業論文を書いたわけであります。その卒業論文の中で1点 の史料に非常に好奇心を抱きました。 *滋賀大学経済学部教授・同附属史料館長 1 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 この史料は、『勝山市史』の資料篇第3巻に収めていただいております。この「分散目録」を見つ けて、これはいったい何という史料かということ、そこに書かれている内容をどう考えていくかとい うことが一番興味深かったわけであります。この「分散目録」については後ほど話させていただきま す。 この東遅羽口村は、後ほど触れますけれども、小さな貧しい村でございます。私の卒業論文の題は、 「近世中・後期の村落―越前国大野郡東遅羽口村の分析―」ということで、残っていた180数点の史料 を全部使ってとにかく書きました。原稿用紙でいいますと400字で150枚の卒業論文を書いておりまし た。この150枚の論文というのは私がいままで書いた論文の中で一番長いんでありますが、30年ぶり に読み返してまあ冗漫な論文ではありますけれども、自慢話をするわけではないですが、今客観的に 研究者として見たらとてもいい論文でした。多分これが自分じゃなくて、もし自分の教え子だったら、 君は大学院へ行きなさいというふうに言っただろうと思います。ただし、現在の研究水準からいうと かなり文書を読み違っていますし、拡大解釈もしています。しかしまあ、史料と格闘しながらのたう ち回っているという姿が見えますので、教師としてはその学生に対して非常に好感を持てる論文だな あと思いました。現在のようにワープロだとかパソコンだとかございませんので、当時売られていた 「ボールぺんてる」というので多分書いていると思います。ですから字が初めの頃はきれいですが 段々と汚い字になっているという、まあ苦闘の跡がみえる論文でありました。 この論文を書きまして、「分散目録」というものに非常に興味を持ったわけであります。この「分 散目録」の中の「分散」というのはいったい何であるかということを考えました。文献等をあたりま して、その当時見つけたのが2・3本の論文でありました。これに興味を持ったのと、一応古文書を 読むということに興味を持ちましたので大学院へ進みまして、「分散」について中心的に研究をしよ うということで、「近世における分散と身代限り―研究序説―」というかたちで修士論文を書きまし た。 ところがこの論文はいまだ活字にしておりません。実はこの論文は一所懸命書いたのではあります が、「分散」ということと「身代限り」とは法律的にどう違うのかということについて検討しました。 2年間いろいろ研究しまして、一所懸命考えて結論を出して論文を書いたわけでありますが、出して から後に一所懸命自分の頭で解明したと思って喜んでおりましたら、戦前段階に実は法制史の先生が すでに論文を書いてはりまして、そこで書かれていることとほとんど一緒だということに気づきまし たものですから、二番煎じの論文ということで学会報告をすることはないと、今までうっちゃらかし たわけであります。ただ、この私が書いた論文の中では実態と法規定を取り上げ、実際におきている 「分散」、実際に生じている「身代限り」と、法律で決められている法条文との間にはかなりの齟齬が あるということ、それからその齟齬の状態というのは地域によって大きく違うということ、これは少 なくとも事例を付け加えることができただろうというふうに思っております。その過程の中で、後ほ ど取り上げることになりますが、敦賀の史料を分散の関係で見つけることができたということになり ます。 その後に引き続きましてやり始めていったのは、そういう法制的なもの、江戸時代における法律の 規定について関心を抱きました。学部が商学部を出ておりますので、どうしても経済的な社会のあり 2 江戸時代庶民の破産と再興 方とか経済的な行為ということについての関心がございますので、主要には京都町奉行所の金銀出入 取捌規定という、まあ難しいことでありますが、お金をめぐる争いでどういう法律が制定されていっ ているのかということを明らかにしよう、ということが修士論文をかいて以降の私の研究の流れであ ります。 「分散」とか「身代限り」というのは、後ほど詳しくお話しを申しますけれども、これは経済活動 が発展していくとか、あるいは貨幣経済が進展していくという、一般的に言われている経済発展であ りますが、社会がだんだん豊かになっていくという状態においては、必然的に生じることであります。 ただこういう貨幣とかそういうものをめぐる争いは必然的に生じるのですが、「分散」とか「身代限 り」というような法規制自体は、江戸時代以降しか実は存在しません。中世以前の日本社会には「分 散」「身代限り」というようなことに相当するような解決方法というのが、実は言葉としては存在し ない。しかし勿論解決するわけですから、解決する手段はいろいろ、それぞれの時代においてあると いうことは間違いございません。そこでは金銀出入すなわち金銀をめぐる紛争というものをどういう ふうに人々は解決しているのか、あるいは町奉行所とかそういう権力者はどういう法規定を適用させ て解決しているのかということに関心がありました。で、そういうことをまあ10年ほどやってきたわ けであります。 「分散」という研究史を見ていきますとそこにどうしても、「跡懸り権」という債権の再請求権と いう問題がございまして、そこで作られる証文というのが「出世証文」であるということを「分散」 を勉強する中で知ってはおりました。ところが、「出世証文」とそれ自体は1970年代の終わりに1通 見つけておったわけですけれども、1980年代の終わりぐらいに滋賀県の五個荘町という、つい2月1 日から東近江市になりましたけれども、その五個荘町史の編さんをしておりましたら、30通ぐらいの 「出世証文」が見つかりました。で、そこから私は一体これは何だ、「出世証文」というのはどういう 意味がある証文なのかということで、ここ10年ほど「出世証文」を集めながら考えているということ であります。 「出世証文」というのは「分散」にさいして、債権に対する「跡懸り権」を留保するために必要な 証文であるというのが従来の法制史の通説でありました。ところがそういう通説とは異なる局面で作 成されている様々な事例がある、というところで、ちょっとはまりこんでいるということになります。 そういうことで卒業論文を書く段階、30年前に見つけた東遅羽口村のたった1つの史料に対する好奇 心が30年とりあえず持続しているという状況であるということのお話しであります。 2.「分散」とは そこでその「分散」ということで、30年前に見つけた史料というものの、どこに私が惹かれたのか ということで、「2.「分散」とは」というところに話しを移らせていただきます。「分散」というの は年輩の方でしたら普通の言葉として、「あそこのうちは分散した」とか、或いは「あそこのうちは 身代限りした」とかいうように、現代語として使われておったわけであります。ところが「分散」と 「身代限り」というのは似て非なるもの、非常に形態的には似てるんですけれども、これは違う行為 であります。「分散」というのは一般的な慣習でありますし、「身代限り」というのは法的な手段であ 3 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 りますので、違うわけであります。 ただ、「分散」というのは、他に「身上仕舞い」であるとか「身代仕舞い」あるいは「割賦」とか、 まあさまざまな言い方が地方ではあったということがわかっております。この「分散」については、 古くは中田薫さんという法制史の大家が『徳川時代の文学に見えたる私法』(岩波文庫)の中で規定 というか、説明を書かれております。この規定・説明がいわゆる日本における法制史の通説であるわ けであります。 そこでは、「徳川時代分散と称するはフランスの中世に破産手続きの一種として行われたる財産委 付に相当するものにして、競合せる多数債権を満足せしむること能わざる債務者が、債権者の同意を 得て自己の総財産を彼らに委付し、その価額を各債権に配当せしむる制度なり。この分散は身代限と は全然別物なり。身代限は債務者の財産に対する裁判上の強制執行にして、これが実行には必ずしも 多数の債権が競合することを要せず。これに反して分散は常に多数債権の競合を前提とするものにし て、かつ裁判外における債務者と債権者との協約に依りて成立するものなり」というふうに書かれて おります。 これは、法律的な社会科学的な表現方法でありますけれども、要は、「分散」というのは現在の法 に照らしてみますと自己破産であります。「身代限り」というのは強制執行であると、こういう風に イメージしていただいたら結構かと思います。ただし、現代の自己破産は当然裁判所が関わってくる ので、公権力が入りますけれども、江戸時代の「分散」というのは、公権力が介入しませんので法律 の埒外の行為だというふうに考えていただいたらいいかと思います。 レジュメには、中田さんの本に書いてあることを整理しておきました。「分散」は自己破産です。 この行為は債権者が多数で生じます。裁判外の行為です。これを行うには債権者の同意が必要です、 というのが「分散」であります。これに対して「身代限り」は強制執行です。ですから誰か1人が訴 えてもこれは可能でありますので、債権者は1名でも成立します。法律上、裁判所に提起しますので、 裁判上の行為です。したがって、他にたくさん債権者がおっても、全員が一緒に訴える必要はないの で、1人でも成立する。だから他の債権者の同意は不必要だと。つまり他の債権者が一緒に訴えるか 訴えないかいちいち聞く必要はないわけでありまして、1人でも成立する行為だという違いがあるの だということであります。 私は主要にはこの「分散」に関心を持っておったわけであります。日本社会の中では、幕末から明 治の初年ごろには全国的に「分散」の慣行があったということが確認できます。それはお配りしまし た資料の『司法省蔵版 全国民事慣例類集』(明治13年7月)を読んでいくとよくわかります。これ は新政府が民法典を編纂するために役立てようということで、明治初年代に全国的に古老たちに地域 の慣習を聞いたものであります。 結果的にこの『全国民事慣例類集』は日本の民法典編纂に生かされることはありませんでした。し かし調査報告というものがこういうかたちで出まして、幕末から明治ぐらいにかけて日本社会の中で 民事的にどういう慣習があったかのかということがよくわかる資料になっております。その中でいわ ゆる「分散」に関わっては、「第三篇 契約、第一章 契約ノ諸事、第一 財産抛棄」というとこ ろに規定と慣習が書かれております。これをちょっと読ませていただきますが、傍線があるところに 4 江戸時代庶民の破産と再興 注意してみていただければいいわけであります。 「凡ソ負債嵩ミ身代分散スル者ハ親類組合周旋シ各債主ヘ協議シ、一切ノ財産ヲ売払ヒ其金ヲ分配シテ義務ヲ果ス、 債主中配当金ヲ受ルヲ肯ンセサル者アルトキハ役場ニテ其金ヲ預リ置ク、之ヲ協議上ノ分散ト云、若シ貢租未進ニテ 分散スルトキハ役場立合其額ヲ第一ニ引去ル、之ヲ官ニ対スル分散ト云、分散セシ者ハ多ク他領ヘ出稼ヲ為シ、或ハ 其地ニ居住スルモ財産ニ離ルヽヲ以、同等ノ交際ヲ為ス能ハサルコト一般ノ通例ナリ、其中稍異ナル条 左ノ如シ」 ということで、傍線に書いてあるところが全国的に見て最大公約数的な「分散」であったというこ とがわかります。そこではいろんな負債が嵩む、つまりお金を借りて返せないとか、或いは商品を手 に入れて代金を払えないとか、年貢・小作の代金を払えないというような状況になって身代を「分散」 する者は親類とか組合、五人組組合だと思いますが、それが仲介周旋してそれぞれの債権者に対して 一切の財産を提供する、それを売り払ってお金に換えて分配して義務を果たす、というのがどうも一 般的であるということがわかります。 その中には「協議上の分散」とそれから「官に対する分散」というのがあるわけですけれども、こ れは話し合いの上のものと、官に対するというのは、要するに税金ですね、税金をまずは優先的に取 っていくということであります。これは現在でも、税金は最初に引かれていくのと同じでありますね。 そういうことを意味しております。 つぎにその「分散」した者は、多くの場合は居住地を離れてどこかに出ていって出稼ぎをするとい う場合が多い。あるいはその場所におって出ていかずにそのままそこに住んだとしても、破産したの だから、普段と同等の取扱いというか交際はしてはくれない、というのが一般の例であったというふ うに報告されているわけです。その中でやや違う「異ナル条 左ノ如シ」ということで、配布史料 では北陸道と東山道の例をあげておきました。これについては次の段階でお話しをしますけれども、 今読み上げましたところを他の事例と照らし合わせながら見ていきますと、「分散」の執行過程とい うのは、レジュメに書いたように(1)から(7)までの過程を経ているということがわかります。 (1)まず債務が発生します。この債務の発生というのは、借金銀の返済滞りであるとか、商品代金 支払いの滞りであるとか、年貢或いは小作料の未進(未払い)、こういうかたちでまず債務が発生し ます。これ以上の債務が嵩んだらもう返済できないというような状況にたち至った時に、この債務者 は、(2)債権者へ「分散」をしたいということを申し入れます。その際に、先ほどの資料にあったよ うに親類組合が周旋するというのが、一般的であったようですけれども、必ず仲介をする人が必要で あったかというとそれは違います。私の知っている限りにおいては、ほとんど仲介をしない方が多い のではないかと思います。直接債務者が債権者に申し入れるか、間に立った人が「分散」、こいつを 「分散」させてやってくれということでありますけれども、そういうことを申し入れます。 そうしますとそれをうけたお金を貸している側の人、 (3) 債権者は合意をする。しょうがないなと。 「分散」に合意するということです。合意しますと引き続き、(4)債務者の全財産は提供させられま す。つまり家財産すべて、家屋敷から家財諸色、竈の灰まで提供されて、それにペタペタと紙が貼ら れて1点1点の目録が取られまして、それが「分散」財産ということで売り払われる原資というかた ちになります。(5)これらの家財諸色はいずれも競売に付されまして、現金に換えられます。この現 金を(6)各債権者に対して一定の比率で配分する。そうしますと、(7)その段階で受け取った人は 5 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 再請求権を放棄した、つまり以降は免責にするということになります。そうしますと「分散」をした 人は、そこからもう一度家産を再興するという努力が始まるという、こういう手続きが一般的であっ たというふうにみられるわけであります。 もっとも「分散」に同意するのはいやだという人は必ずおりますから、じゃあその人はどうするの か。「分散」に同意しない人に対してはどうか、ということであります。そうすると、その「分散に 同意するようにいうてくれへんか」ということを、町奉行所なんかに申し出ることはあるんですが、 つまり公権力に対して「分散」に同意するように勧奨してほしいということを訴えることはできます。 町奉行所等も「分散に同意してやったらどうや」という勧奨はしますけれども、同意しろという命令 は下しません。「分散」はそういうものです。だから強制力はないということであります。公権力に ついては。 そうしますと、不同意者つまり「分散」に同意しないという人はどうなるのかということで、「分 散」不同意者に対する幕府、これは江戸法の規定でありますが、通例法制史の教科書なんかにも出て くることによれば、1740年(元文5)以前は「分散」に同意しない人の債権についても一緒くたにし て、分散勘定してしまう。それで換金してしまいますと、お金に換えた取り分、配当金についてはそ の不同意債権者が所属する町の名主に預けておいた。供託するということになっております。 ところが誰も供託金を取っていかない。受け取る債権者が誰も出てこないということで、これでは 実質免責ということにはなっていないという状況になりますので、元文5年に改めて法律を変えまし て、分散に納得しない人にはお金は配当しない。配当を受理した人、つまりたとえば100両貸してお って、分散した人の財産を全部売り払ったお金から100両貸したうちに20両だけ返ってきた。そうす ると残りの80両についてはもう1回訴えることができるというかたちにしました。初めから受け取ら なかった人間は、例えば100両貸しておって20両ももらわずに初めから不同意だからという人は、100 両について再請求権を認める。ということで配当受理者それから不受理者ともに「跡懸り権」、これ が再請求権ですが、再請求権を認めております。 ところが1800年(寛政12)以降は、いったんお金を分散配当したらたとえ1割であろうが2割であ ろうが受け取った人はもう「跡懸り権」を認めない。後の債権分については放棄する。免責であると いうかたちになります。基本的にはこういうかたちになります。しかし、それでもやっぱり全部の債 権をいつかは返してほしいというふうに思う人は、「跡懸り権」というもの、後に再請求する権利を 保留するという必要があるんだということをいうわけであります。 そこで、「跡懸り権」の留保つまり配当の財源を受理しないということで、債務者の家産が再興し たときにあらためて債権の請求を行う、そのためには「出世証文」をとっておく必要があるのだと、 こういう風に決めたわけであります。これが法制史的な通説として、「出世証文」というのは「分散」 に関わって出てくるものとして説明されていたということであります。これが実は違うということは また後ほど申します。 「分散」というのは今申し上げたようなかたちで進行するのが全国的には最大公約数、普通の進め られ方だということがわかります。 次に史料1をご覧下さい。 6 江戸時代庶民の破産と再興 是 ハ ほ う き 無 尽 壱 会 分 一 同 四 匁 六 分 三 厘 一 同 四 匁 四 分 九 厘 一 同 三 拾 八 匁 壱 分 六 厘 一 同山 是 壱 ハ 匁 西 六 又 分 兵 五 衛 厘 後 借 一 同 壱 匁 七 分 壱 厘 是 ハ 本 保 割 元 借 門 残 高 御 未 進 金 出 来 及 潰 候 共 、 此 度 割 賦 中 間 へ 懸 ケ 申 間 敷 候 、 書 面 之 通 り 村 役 人 立 会 相 定 メ 申 候 、 然 ル 上 は 此 末 何 程 北 左 衛 被 下 候 ︵ 天一 、 八 保三 為 二一 後 卯︶ 日 四 村 月 役 人 加 判 之 目 録 相 同 東 渡 善村 惣 長 相 庄 本 遅 申 百 庄 羽 処 四 安代 弥姓 宇屋 九屋 北人 口 仍 郎 右 兵 右 兵 左 村 而 如 衛 衛 殿 衛 件 門 衛 門 衛 門 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 印 印 印 印 印 ︶ ︶ ︶ ︶ ︶ 村 法 卯 通 四 り 月 い た し 可 申 候 、 為 念 添 紙 相 渡 庄 本 シ 候 九や 北人 、 左 以 兵 衛 上 衛 門 ︵ ︵ 印 印 ︶ ︶ 是 ハ 西 又 兵 衛 ・ 十 兵 衛 借 此 分 相 済 申 候 是 ハ 五 月 取 立 残 拾 四 匁 九 分 七 厘 九 月 廿 五 日 入 是 ハ 今 取 立 高 地 面 平 均 仕 小 役 等 迄 割 渡 し 候 故 ハ 、 貴 殿 御 勝 手 次 第 御 捌 可 内 三 両 七 月 七 日 請 取 一 正 銀 百 九 拾 四 匁 九 分 七 厘 一 米 三 合 用 木 一 漆 目 壱 匁 五 分 八 厘 役 漆 乍 少 分 茂 百 姓 名 目 ヲ 不 絶 相 続 仕 候 、 難 有 奉 存 候 、 然 ル 上 は 御 中 へ 御 未 進 金 不 残 御 引 請 被 下 御 勘 弁 を 以 屋 敷 高 御 残 シ 被 下 、 り 、 最 早 百 姓 相 続 難 相 成 候 付 持 高 六 拾 弐 石 余 売 渡 シ 候 、 御 連 右 は 我 等 儀 年 来 困 窮 ニ 落 入 庄 屋 手 前 御 未 進 惣 借 年 賦 者 迄 相 重 〆 三 高 壱 内 石 弐 斗 斗 壱 弐 升 升 三 六 合 合 四 三 勺 勺 引 高 外 ニ 六 升 三 合 三 勺 無 土 高 一 高 三 石 壱 斗 六 升 三 合 史 料 1 分 散 目 録 ︵ ﹃ 勝 山 市 史 ﹄ 資 料 篇 第 三 巻 ︶ 一 一 一 一 外 〆 米 是 同 此 同 是 正 壱 ハ 壱 り 弐 ハ 銀 ニ 石 西 匁 米 拾 気 壱 寅 九 引 四 壱 弐 比 匁 御 勺 高 分 升 匁 庄 五 年 年 五 五 壱 年︵ 分 貢 道 ふ 厘 合 分 ふ賦 七 添 ︶ 厘 弐 九 ノ 勺 厘 上 利 森 米 目 利 米 『勝山市史』資料篇の第3巻に現在は活字になっております。一応、念のために原本のコピーと照 合しておりますので、これでよろしいかと思います。一部のところは多分後筆ではないかと思ってい るのですが。まずは東遅羽口村でありますが、これは村高は298石2升6合でありました。面積は19 町6反9畝21歩というのが、江戸時代の数値として残っております。戸数は私が見た限りにおいては 最大で28戸でありますし、30戸を越えたことはないという伝承は聞いております。まあ22、3戸ぐら いではないでしょうかね、大体まあ家数が22、3から25、6ぐらいまでのところでずっと推移しておっ た村であります。 この村は決して豊かではございません。地図上で確認していただければ、勝山の九頭竜川左岸の方 で鹿谷町という山の中、または山の付け根にございます。この「分散目録」は、1831年(天保2)4 月の前の部分の「右は」というところだけをまず読ませていただきます。 「右は我等儀年来困窮ニ落入、庄屋手前御未進惣借年賦者迄相重り、最早百姓相続難相成候付、持 高六拾弐石余売渡シ候、」ここ、「候」に点ついているんですが、「候御連中へ」やと思うんです。多 分点なくてもいいのだろうと思います。ただ、原文は確かに候のところで点がついています。どうも 意味上からいうと、「六拾弐石余売渡シ候御連中へ御未進金不残御引請被下、御勘弁を以屋敷高御残 7 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 シ被下、乍少分茂百姓名目ヲ不絶相続仕候、難有奉存候、然ル上は御高地面平均仕、小役等迄割渡し 候故ハ、貴殿御勝手次第御捌可被下候、為後日村役人加判之目録相渡申処、仍而如件」ということで す。 これは結論的にいえば、本人北左衛門が「分散」をしておるわけであります。我等は年来困窮で庄 屋手前の年貢であるとかあるいは村で借りたお金の年賦払いとか、そういうものをもう返済できない 経済状況になって、百姓相続ができないような状況になっておる。それで62石余り売り渡したという ような話しになっております。いずれにしても経済的に没落をしていて、土地を売った、田畑を売っ たということが分かるわけです。ここではこの売り方が問題です。 1831年時点、天保2年のこの年に北左衛門が62石余を売ったのではなくて、すでにこの段階以前、 もっと前から62石をずっと売ってきているという意味だと思います。持ち高を見ても62石ありません。 レジュメに書いてありますけれども、文化6年以降は庄屋役として名前が出てこないのです。もうそ の段階ぐらいでほとんど売ってしまっています。帳簿上はこの天保2年の時点では北左衛門は10石ほ どしか所持高はないはずであります。この10石の高もほとんどが書入で質に入れておりますので、自 分の持ち高、純粋な持ち高というかたちでいえばほとんどゼロに等しかった状況だと思います。です から、この62石余というのは長い間、今までに売ってしまったということであります。ある時点で62 石もっておったけれども、それを売払ってきたという意味で理解していただいたらいいと思います。 この年は3石1斗6升3合はあったわけでありますが、その他に無土地、高はあるけれども土地が ないというような状況があって、全体として3石2斗2升6合3勺の土地を売ったわけです。そこに は引高とか役高とか年貢の物成高がついております。この土地の「御未進金不残御引請被下」という ことで、土地を買ってくれた人には、どうも借金付きの土地を引き取ってもらっているというふうに 考えることができる。「是ハ西又兵衛・十兵衛借」、隣村の西遅羽口村の又兵衛さんと十兵衛さんから 借りたお金とか、あるいは「本保割元借」、これは本保陣屋ですね、東遅羽口村は幕領の村でありま すので、武生の本保に幕府代官所・陣屋がございましたので、そこの割元の借りであるとか、西の又 兵衛さんから後で借りた分とか「ほうき無尽壱会分」、これは 羽町の「 崎村という、現在で言うと勝山市遅 崎」であります。私の母親の生まれた村でありますが。「森目利米」、これは大野の森目村 ですね、「道ノ上利米」これがよくわからないのでありますが、こういうさまざまなところから借り ている債務についてもいっしょくたに、3石余を譲られた善四郎さんのところにこの債務が一緒にく っついていっているというふうにどうも読めそうである、ということであります。 ここでは土地を譲り受けたんだけれども、北左衛門の債務付きで受取者が債務を支払っていくとい うかたちで「分散」しているのではないかということであります。他の史料、関連史料を見てもどう もそういうかたちでこの村では土地を売っている例が出てきますので、多分そうなんだろうというふ うに考えておるわけであります。 この段階の「分散目録」では、北左衛門が善四郎にこれを渡してしまいました。最後の奥書で、書 面の通り村役人が立ち会ってこのように定めたんだから、この末どのようなことがあって北左衛門が 残りの高に「御未進金出来及潰候共」、ということで、これは先ほどの本文でいうと、御勘弁をもっ て屋敷高を残してくださったので屋敷高については持っているわけです。それすらも今後なくしてし 8 江戸時代庶民の破産と再興 まうというようなことで潰れたとしても、この度この土地を全部引き受けた割符中間、つまり「分散」 を引き受けた割符中間にもう一度債務がかかってくるということはない、ということで村法通りしま す。こういう奥書がつきました。具体的に村法がわずか1・2通残っておりますけれども、その中に は「分散」した場合にどうのこうのという村法規定はありませんので、ここで具体的に村法がどうい う規定になっておったかはわかりません。 いずれにしましても、先ほどの一般的な「分散」のされ方ではすべてを取り上げて現金に換えてい くというシステムであったけれども、東遅羽口村ではどうも違う。では何でなんだろうかということ を当時、30年前に考えたわけであります。現在も多分そうだと思ってはいるのですが、この村には同 族団が2つあります。1つは私ども「宇佐美」という同族団、もう1つは「石田」という同族団があ ります。小さな村なんだけれども2つの組に分かれておりまして、いっとき「相庄屋」というのがお ります。1人の庄屋がおって相庄屋がおります。ここでいえば九兵衛と宇右衛門がおりますが、九兵 衛さんは宇佐美同族団です。宇右衛門さんは石田同族団であります。だから多分同族団ごとにまとま り、小さな村なのに組を2つ持っておったんだろうというふうに思います。この村がそういう組ごと になっておったときに、村借というかたちで村の名前でお金を借りているんだけれども、実はその中 の宇佐美組か石田組が借りているというような証文もございますので、実質こういう2つで動いたの だと思います。 この宇佐美の同族団の本家が実は北左衛門でありました。屋敷高が北左衛門に残されたということ は、残してもらえるだけの理由があったのだろうと思います。百姓名目を存続する、つまり無高にな らないというかたちで割賦仲間が同意したのは、北左衛門が村内の同族団の本家であったということ が一番関わっていると推測しております。そこにでている「庄屋九兵衛」はこの時期はほとんどずっ と庄屋を続けますが、これが北左衛門家の長男分家でありました。たぶん宝暦年間(1751∼63)に北 左衛門家から長男が分家してできた家であります。その時に多分大きな高をもらって分家したと思い ます。そこの宛先に「同村善四郎」とありますが、この善四郎も北左衛門家の分家であります。 北左衛門家は早い段階での史料は残されておりませんけれども、多いときでは村高298石を越える 土地を集積しておりました。したがって隣村に行くのに自分の土地以外を踏んでは行かなかったとい う話しが伝わっております。確かに通常270石を持っている時期を史料上確認できますが、300石を越 えていたかどうかは残されている史料ではわかりません。だから隣村へ行くのによその土地を踏まな かったというのは村の伝承であります。伝承といっても私が学生時代に父親のもう一つ前の世代、つ まり私の祖父の世代のおじいさん方に聞き取りをした時にそういうふうにおっしゃっていました。 北左衛門がそういう大きな本家であったわけですが、宝暦年間に九兵衛の初代が分家した。これは 九兵衛家の位牌を見ますと初代がそのころに出ているということがわかりますので、分家したものと 思われます。実際、北左衛門は1809年(文化6)以降は庄屋役というかたちでもはや登場はしており ません。ですからこれ以降は基本的には宇佐美の同族団の本家筋は九兵衛家が大体名のっていく、名 のっていくというとおかしいのですが署名はほとんど彼が代表しています。 (来場者質問)「北左衛門さんはなぜつぶれたんですかねえ?」 9 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 たぶんですね、その本家分家、長男分家の九兵衛さんが出た時、その時にほとんど財産の半分以上 は九兵衛さんが持って出たんだと思います。それでも60何石は持っていたことは先ほどの史料で明ら かでありますが、それ以降それこそ当主が何したかとかはわかりませんけれども、段々と没落してい くということだけはわかります。同時にこの村は豊かではないのにそうやって分家を出していくので、 段々と細分化していくんですよね。だから最後はみんなおしなべて貧しいやつ、といったら先祖に申 し訳ないですけど、そういう横並びになって突出した持ち高の人はいなくなります。ちなみに申しま すと、私の曾祖父さんはこの九兵衛家から明治18年に分家した、宇佐美小次郎といいます。宇佐美小 次郎が明治18年に分家し、私の父が三代目で、私は三代目の次男坊ということであります。 余談ですけれども、私の実家に残っている分家したときの財産目録を見ますと、九兵衛さんのとこ ろから1町歩、田畑山林になおして1町歩をもらって分家しております。ところがそのもらった土地 を、地券なんかがございますので探してみましたら、いわゆる山の棚田でありまして、1反歩で30何 枚の地券というぐらいですから、それこそ傘の下に1枚あったという、そういう日当たりの悪い山の 棚田をもらっている。まあ父に言わせれば、もらって分家しただけでもよかった。もらわずに分家し た人が結構おるんだということで、そういうもらえただけよかったという家の末裔であります。 ここの村だけの話をしていくと、またそれはそれでおもしろい話が出てくるわけでありますけれど も、ここの村では現在でもそうですが、基本的に区長さんになるのは庄屋の血筋を引いた家しかなり ません。代替りが続いていってもそういう状況が続いているようであります。まあ、かなり貧しいが ゆえに多分結束力が強いのだろうと思いますが、宇佐美同族団の本家、北左衛門さんのお家はもちろ んもうございません。私が子供、小さい頃に村を出はりました。で、石田というもう1つの同族団の 本家は、これは道場守のお家でありましたが、この家もございません。ですからいわゆる同族団本家 は、最早今の村にはいらっしゃらないという状況であります。 東遅羽口村については、そういうことで一般的に伝えられている「分散」の仕方とは違うというと ころに興味をもって見ていったわけであります。そこで修論段階ぐらいのときに、他にないかなと思 って見ていたのが、この『全国民事慣例類集』でありました。 福井の事例を紹介しておきたいというふうに思います。敦賀の事例ですね。史料2にあたります。 これは「寛文雑記」という『敦賀市史』の史料編第5巻に収められている史料であります。これは長 大な史料でございますが、第5巻の40番史料に「分散」とおぼしき史料がございましたので、これを 引用しておきました。 これは蔵宿から米を買う商人と一般の商人とで「分散」した場合にどう取り扱い方が違うかという ことが書かれています。一番最初の条文ですが、「敦賀町人方々之金銀米銭等引負身躰禿れ候時、有 銀は不及申ニ家屋敷并家財諸商内物割符之儀、様子ニ (より)品御座候」とあります。身代が倒れ た時、破産した時だというふうに思ったらいいのですが、その時に有銀は言うに及ばず、家屋敷とか 家財諸色と商い物を割符すること、「分散」することについては様子によって品御座候、つまり一様 ではないというふうに言っているわけです。だから普通は有り銀をみんな割符するんだと思います。 けれどもそれは一様ではない。いろいろ違いがありますということで、いくつかの事例がのっていま す。 10 江戸時代庶民の破産と再興 ハ ヽ 、 是 ハ 商 人 並 ニ 罷 成 可 申 候 、 候 て 当 座 売 ニ 仕 候 時 、 其 買 人 た を れ 候 一 割 御 ハ 符 大 商 ニ 名 人 入 衆 並 申 直 ニ 候 売 罷 、 之 成 俵 割 物 符 は ニ 跡 入 直 不 同 申 事 候 ニ ニ 、 請 罷 込 成 一 御 大 名 衆 俵 物 蔵 宿 仕 候 者 、 跡 直 ︵ 後 略 ︶ 奉 行 之 時 分 ニ も 右 之 通 ニ 罷 成 候 、 を 、 敦 賀 宿 買 候 者 た を れ 候 ハ ヽ 、 是 一 御 大 名 衆 俵 物 を 他 領 之 者 元 ニ て 請 来 候 間 損 直 座 敷 懸 を 候 候 り 出 、 ニ 、 し 其 付 以 申 通 、 来 蔵 り 後 は 宿 ニ 々 御 た 候 ハ 大 を へ 所 名 れ は 衰 衆 、 う 微 之 御 め 可 俵 大 草 仕 物 名 ニ と 当 衆 罷 、 地 へ 成 先 江 も 、 町 参 御 跡 一 人 売 御 並 ニ 大 ニ 仕 名 割 候 衆 符 時 俵 ニ 、 物 入 其 蔵 不 買 宿 申 人 候 た 跡 、 を 直 れ ニ 候 取 ハ 申 ヽ 者 、 、 商 又 座 取 之 商 人 之 方 へ 跡 直 之 代 銀 参 ル 事 済 不 申 候 内 ニ た を れ 申 者 御 座 候 へ は ニ 、 御 当 取 渡 し 仕 候 、 左 候 へ は 永 々 敷 跡 直 之 代 銀 も 、 又 品 々 借 銀 之 方 へ も 取 申 候 、 も の 取 候 取 申 候 、 勿 論 商 人 之 売 物 之 代 銀 借 銀 御 屋 敷 ・ 家 財 ・ 諸 商 内 物 共 地 直 ニ 段 て ニ 延 少 銀 之 ニ 増 売 銀 付 を 、 い 代 た 銀 し は 蔵 一 宿 年 請 二 込 年 、 、 則 又 当 或 は 大 津 、 或 は 大 坂 座 候 て も 而 割 、 符 余 ニ り 入 御 不 座 申 候 候 は 、 商 自 人 然 の 跡 方 直 へ 之 事 ハ ニ 三 御 年 座 目 候 ニ 、 て 商 も 人 平 之 均 売 直 物 段 之 相 代 極 銀 次 は 第 当 取 座 立 ニ 申 ニ 跡 直 之 方 へ ニ て 御 払 被 成 候 平 均 借 銀 御 座 候 て も 、 有 銀 は 不 及 申 候 、 家 者 、 身 躰 禿 れ 候 時 、 商 人 之 買 掛 り 其 外 候 子 細 は 、 跡 直 ト 申 候 御 大 名 衆 之 俵 物 、 売 物 之 代 銀 、 其 外 借 銀 等 は 割 符 ニ 一 一 四 御 候 財 れ 敦 〇 諸 候 賀 大 商 時 町 名 内 、 人 衆 物 有 方 俵 割 銀 々 物 符 は 之 当 之 不 金 津 儀 及 銀 蔵 、 申 米 宿 様 ニ 銭 子 、 等 ニ 家 引 跡 直 屋 負 ニ 品 敷 身 取 御 并 躰 申 座 家 禿 を れ 候 者 之 家 屋 敷 家 財 共 ニ 取 候 而 入 、 不 商 申 人 右 之 通 御 大 名 衆 俵 物 跡 直 之 代 銀 之 方 へ た 人 之 売 物 之 代 銀 は 割 符 ニ 入 不 申 候 、 れ と て も 跡 直 之 者 合 点 不 仕 候 得 は 、 商 売 物 之 代 銀 も 割 符 ニ 入 候 事 御 座 候 、 そ 之 者 も 同 心 仕 候 へ は 、 相 対 ニ て 商 人 之 ︵ ﹁ 史 寛 料 文 2 雑 記 ﹂ ﹃ 敦 賀 市 史 ﹄ 史 料 編 第 五 巻 ︶ 一 取 物 御 申 之 大 筈 代 名 ニ 銀 衆 候 ニ 俵 得 無 物 共 構 跡 、 、 直 自 跡 之 然 直 代 之 銀 ニ 方 は 罷 へ 、 成 家 商 、 財 人 跡 共 之 直 ニ 売 要約していきますと、町人の場合は有銀とか家屋敷とか家財、諸商い物を割符していくのが一般的 ですが、様々な方法で実施されます。例えば大名衆の俵物を敦賀の蔵宿から代金後払いで購入してい る商人については、他の商人の破産執行に際しては優先的に債権を回収できる。だから俵物を購入し ている商人は一般商人と違う。つまり、蔵宿から大名の米を買っている商人というのは優先権を持っ ている、配分してもらう財産について優先権を持っている。他の債権者、蔵宿から米を買っている商 人ではない商人たちは、蔵宿から米を買った商人がまず配当を受けて、残りが余っておったらそこか ら配当を受けることができる。ただし、跡直のもの、跡直というのは史料によれば、蔵宿から俵物を 買っておって、後で代金を支払うことだというふうに思いますが、跡直のものが同意すれば他の商人 についても売掛金、配当金を受けることができる、ということになっている。 それは何故なのかということですが、大名衆の俵物は大津とか大坂における払い米直段の平均に若 干の増し銀をして蔵宿が請け負っているんだと。それを敦賀で現金払いで売るんじゃなく、延べ払い で売却していると。その売却代金は1ないし3年後に平均直段が決定してから回収するということで す。ところが、一般の商人は商品売買をした時に、代金の支払いは当座払いだと。しかるに跡直の、 大名衆の俵物を蔵宿から買うような代金支払いというのは長い期間の後に払いますから、代金を回収 しないうちに倒れてしまったらこれは困るわけです。 だからそういう人については優先的に債権を回収することができるというシステムになっておった ということが、この史料からわかる。それは敦賀というひとつの港湾都市が持つ特徴というか、これ 11 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 が敦賀の方式であったのだろうということがわかります。跡直で取り扱う商人とそうではない商人と の間に債権の回収において優先権が違っておったというのが、敦賀の町の「分散」の際の処理の仕方 だということです。これも先ほど見た一般的な執行の仕方とは若干、債権回収というところでは違っ ています。そこで敦賀郡の事例ということで、『全国民事慣例類集』にもう一度戻っていただきたい と思います。 先ほど申しましたように、一般的に全国で見られる方式の中で「稍異ナル条 左ノ如シ」というこ とであげられている、北陸道の事例として敦賀がでてきます。この北陸道の部分では福井県に関わっ て、若狭国の遠敷郡とそれから越前国足羽郡、越前国敦賀郡の事例がちょっと違うというふうに書か れています。 遠敷郡の方では「身代分散スル者ハ至テ稀ナルコトニテ、四千余戸ノ町方ニテ十年ニ一家位ノ割合 ナリ、村方ニテハ絶テナキコトナリ、大概負債嵩ミシ者ハ親類組合周旋シテ債主ニ協議シ一段ノ改革 ヲ為シ、身代持直ヲ取計フ例ナリ」ということで、「分散」なんてことはほとんどみられない。4000 戸あっても、町方では10年に1家ぐらいの割合、村方ではそんなこと見たこともないという報告であ ります。ですから、これが事実だとすれば、遠敷郡の方では、「分散」というものは10年に1回ぐら いの割合であるくらいなので、史料がなくても全然不思議ではない、ということになります。 これに対しまして、敦賀郡の方でありますが「身代分散スル者ハ債主ノ承諾ヲ得テ其財産ヲ入札払 ニ為シ、其金ヲ分配シテ義務ヲ免ルヽ例ナリ」と。ここまでは一般的なやり方と一緒であります。そ こから先でありますが、「債主ニテ仕合証文ト唱ヘ他日仕合アルトキハ義務ヲ行フヘシト云証書ヲ取 置ク者ハ格別、其他ハ後日身代持直ストモ催促セサル習慣ナリ、分散人ハ多ク他国ヘ出ルコトナレト モ、其町内ニ住居スレハ大ニ権利ノ劣ル者トシ、尋常ノ交際ヲ為サヽルコトナリ」ということで、こ れは一般的なやり方とほとんど似てるのでありますが、「債主ニテ仕合証文」をとっているというこ とがわかります。仕合証文と称する、他日仕合ある時は義務を行うという証書を取るという慣習が存 在したということがわかります。実はこの『全国民事慣例類集』の中では、敦賀郡以外には2か所し か「出世証文」について記述がありません。その中のひとつで極めて珍しいというか、貴重な報告事 例なわけであります。敦賀郡ですから、敦賀町だけじゃなくて郡域まで含めてでありますけれども、 ここでは明らかに「分散」しています。「分散」事例は敦賀郡にはあるということがわかって、それ はほとんど一般的な他国の例と一緒である。だから分散人が多くは他国へ出るとか、町内に住んだ場 合には権利が劣るというようなことも、また共通しておりました。同時にそこで一番重要だったのは 今言った「仕合証文」。これは「出世証文」と同じなんですが、「仕合証文」を敦賀郡ではとっておっ たということであります。 この「仕合証文」を取り置いた者は後日に債務者が身代を持ち直したときに債権の支払いを催促で きるということであります。町内に住居したら権利が劣る、通常の交際をされないというのはどうい うことかというと、大体他の事例とか見ていきますと、例えば村の中においては、兵庫県出石郡なん かに出てきますけれども、雨が降っても傘をさしてはいけない。村で寄合をしたときに一般の人々は 玄関から上がった畳の間におってもいいけれど、分散した人はずっと土間におれとか、あるいは村の はずれに小屋を造ってあるからそこに住めとか、そういうペナルティが科されています。だから村八 12 江戸時代庶民の破産と再興 分みたいな状態の権利の落とされ方がなされる。お金を返してしまえば再び普通のつきあいをしても らえるということです。敦賀郡では町内に居住すれば権利が劣る、これは多分敦賀の町の中のことだ と思います。こういうことがなされておったようであります。 ただそれに関わった史料は『敦賀市史』の中では載せられていませんし、私も確認はしておりませ んけれども、多分出てくるだろうと思います。探せば出てくる可能性があるということがこの敦賀郡 の事例から分かる。 さらに足羽郡の事例でありますが、分散する者は事前に親族とか組合の者が仲介して債権者に同意 を求めて、一切の財産を売り払って換金するとそれを分配して免責される、というふうに言っており ます。これも全国の一般的なやり方と一緒です。ただ抵当権が認められた不動産を売却する際に、そ の額が債務額に及ばない場合、つまり借金を全額返済する額まで及ばなかった場合には、町内が不足 金を償還する義務があるというのは、ここで始めて見るもので、非常におもしろいというか、特異な 事例だと思います。 この場合は抵当権が認められた不動産、というものに限るのだと思います。これは正式な証書が作 られている場合の不動産の売買に限っており、全額に対して不足額を町内が償還するという義務を負 っているのではないと思います。特定の債権についてはこういう義務を負っているというのが足羽郡 の慣習なんだという報告がなされています。寡聞にして足羽郡の方について全く知識がございません ので、ここに書かれていることが事実であるということを証明する史料を見たことはありません。い ずれにしても足羽郡においては、分散者は多少権利が劣るということは書かれておりますし、分散の 手続きに役場は関係しないということも書かれておりますので、基本的には当事者間で決着をつけて いく、ということがわかります。 3.「出世証文」とは そこで話しは先の敦賀のところに出て きました「仕合証文」というものになり ます。これは別名「出世証文」です。先 ほども申しましたが、従来は「出世証文」 というのは分散に際して作成されると考 えられていました。私はそれは基本的に 誤りであるというふうに思っておりま す。そこで史料3であります。 そこに「仕合証文」というのをあげて おります。「仕合証文」とはこういうか たちになるということで事例をあげまし た。この「仕合証文」は1760年(宝暦10) のものです。これは私が知っている限り 日 本 で 一 番 古 い 年 紀 1 )を 持 つ い わ ゆ る 日 野 屋 七 郎 兵 衛 殿 ︵ 宝一 暦七 六 十〇 年︶ 辰 五 月 播 磨 屋 吉 左 衛 門 ︵ 印 ︶ 13 為 後 日 仕 合 証 文 、 仍 而 如 件 間 敷 旨 被 仰 聞 、 是 又 忝 奉 存 候 、 何 卒 仕 合 を 以 相 渡 し 候 様 可 仕 候 、 候 、 此 以 後 右 残 銀 五 歩 通 り 之 儀 ニ 付 、 其 元 様 重 而 御 催 促 ハ 被 成 仕 合 次 第 御 渡 可 申 上 旨 御 断 申 入 候 処 、 御 聞 届 之 上 御 済 被 下 忝 奉 存 当 時 相 渡 、 残 り 五 歩 通 り 、 此 銀 壱 貫 七 拾 八 匁 五 分 四 厘 之 儀 ハ 、 私 相 立 候 故 、 此 度 右 銀 高 之 内 五 歩 通 、 此 銀 壱 貫 七 拾 八 匁 五 分 四 厘 、 右 者 指 引 残 銀 ニ 而 御 座 候 処 、 私 儀 此 度 損 銀 多 く 難 渋 ニ 付 、 勘 定 難 残 り 、 壱 貫 七 拾 八 匁 五 分 四 厘 内 、 壱 貫 七 拾 八 匁 五 分 四 厘 相 売 渡 買 ス 物 差 引 銀 也 史 一 料 銀 3 弐 貫 仕 百 合 五 証 拾 文 七 之 匁︵ 事 九マ マ 厘︶ 但 、 三 月 切 六 月 切 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 「出世証文」、「仕合証文」であります。大坂の薬種問屋であります日野屋七郎兵衛家のところに残っ たものです。この史料自体は私がおります滋賀大学の経済学部附属史料館の方にある史料でございま すが、これが一番古い物だというふうにお考えいただければ結構です。 「九厘」の九の横の「ママ」というのは、内訳と残りの四厘と四厘を足すと八厘じゃあないとおか しいんですが、九厘とあるものですから原文の「ママ」だということです。 播磨屋吉左衛門は、3月支払い、6月支払い期限があったところの売買物、商品代金の差し引き銀 を支払うことができなかった。その残り銀は2貫157匁9厘、これだけの債務がある。これを払わな ければならないが払えない。損銀が多くて難渋しておって勘定できないといっております。そこで、 この額のうち半分、5歩通りの1貫78匁5分4厘を渡します。残りの1貫78匁5分4厘については仕 合次第にお渡しします、ということを申し入れた。出世払いにしてくださいといったところお聞き届 けくだされたとあります。したがって、残り銀の1貫78匁5分4厘については、あなた様つまり日野 屋七郎兵衛さんから重ねての催促はされないと。再請求というか、もう一回払えというようなことは しない、と言われた。これまたありがたいということで、この上は将来何とか仕合をもって相渡した いというふうに言っています。そういう意味で仕合を得たらということを言っているわけです。 だから債権者の日野屋七郎兵衛はこの「仕合証文」を手渡した以上は、再度支払いを催促すること はない、播磨屋の経営が立ち直るまで待つという条件になっている。この証文は当然のことながら債 権者のところに残ります。債務者のところに残るはずはないのであって、債権者のところに残ってい るということは、まだ播磨屋さんは払ってないんです。播磨屋さんは出世してないということであり ます。払いますと多分この証文は墨線が書かれるか、廃棄されるか、名前を切り取られます。この 「出世証文」は大坂のものであります。大坂のものではこれが初見であります。 現在私が知っている限りで100通余りが残っていることが知られております。そのうちの大多数は 滋賀県、近江国に残っております。50通以上は滋賀県に残っております。あとは上方に残っていると いうことです。ほとんどは「分散」と関係ありません。レジュメに近江国以西と書いてしまいました がこれは間違い、以東であります。西を東に直してください。近江国から東の方では現在私が知って いる限りでは明治期のものが長野県に1通、それから幕末の上野国、群馬県に1通確認できるわけで あります2)。つまりほとんどが上方に見られる証文です。 配布史料では『全国民事慣例類集』から東山道の事例として三河国渥美郡と但馬国出石郡をあげま した。三河国渥美郡のところに、「出世辨金」というシステムがあると。それから但馬国出石郡、兵 庫県の方ですが、ここに「出世証文」を書いているということが明らかにありますので、三河国渥美 郡とかあるいは但馬国出石郡というところには、「出世証文」を書く慣習はあったので、ここら辺は 出てくる可能性がある。現在調べているところでは、兵庫県加東郡から東、近江国までの間、南は和 歌山県の方にあります。ここは確認しております。少なくとも東の方で言えば、現在は長野と上野国、 群馬県で見つけております。三河国渥美郡にはどうもあったはずなので、愛知県の東の方の地域では、 「出世証文」が見つかってもいいわけですが、現在のところはまだ報告されておりません。 そうしますと地域的に非常に限られたところに残っていることがわかります。このことをどう判断 するかということで、「出世証文」というのは、いろいろみてみますと、「将来の不定時において、債 14 江戸時代庶民の破産と再興 務を弁済することを約束した証文」つまり、いつという約束はしないがいつかは返すというふうに約 束している証文です。これらは今まで残っている状況を考えますとおそらく18世紀の初めか中期ごろ に、大坂とか京都などの都市において成立した慣習を反映してるのではないか。そして次第に上方の 近国、まあ摂津国とか山城国とかを中心として、その周辺部の方に浸透していったのではないかとい うふうに推測しているわけです。直接的には「分散」することが必要十分条件ではなかったと思いま す。 いちばんそれが発達し残っているのが近江国でありますので、近江国のひとつの近世社会の特質を 示す証文として私は考えているのですが、それはまあ近江の問題として、全国的に浸透していくとい うことは多分ないのだと思います。あったとすれば、それは近代社会においてだろうというふうに思 います。 そして「出世証文」というものは現在通用しない証文なのかというと、それは違うのであります。 これは法律的に認められております。消費貸借で現在でも「出世証文」を書いても、法律上は認めら れます。したがって、パソコンをやられる方がいらっしゃいましたら、Yahoo! Japanでもいいんです が、そこでキーワードで「出世証文」と打ち込んでいただきますと、私の論文などが出てきますけれ ども、ほかに衆議院議員の弁護士事務所につながります。そこに「身内での貸借問題」というコーナ ーがあり、質問と答えが作られています。そのコーナーを見ていても消費貸借で現在でも使える証文 なのです。だから「出世証文」を書くことは相手が認めてくれれば書くことは可能です。私はこうい う話をして、家を買うときに、滋賀県の銀行の研修会みたいなところへ行って、滋賀県は「出世証文」 がいちばんたくさん残っているところですから、私は「出世証文を書きますから家のローン組んでく ださい」といったら、「話は分かりましたけど、それだけは堪忍してください」と、とうとう書かせ てもらえなかったので、家屋敷を担保にしましてローンを組んでおりますけれど、兄弟同士の金の貸 し借りとかそういうのは「出世証文」でもありうるということです。使おうと思ったら使えるんです。 だから決して過去の問題ではなくて現在の問題でもあります。 出世払いが全国的に浸透するのは多分近代以降であると思います。今皆さんが何気なく、飲み屋へ 行って金ないわ、出世払いにしてとか、あるいは出世払いにするわと、友達同士でやる。出世払い、 つまりこれはわかりやすく言うと催促なしのある時払いということです。この出世払いというのは 「出世証文」がある社会でないと成立しない事柄ですから、江戸時代においては上方では使えるけれ ども、東国へ行って出世払いしてって言っても多分何のこっちゃ分からなかったんだろうと思います。 それが現在は日本全国、誰でも出世払いというふうに言っているということは、出世払いという言葉 が浸透していったのは近代社会だろうと思います。 つまり出世払いという言葉や慣習というのは、江戸時代においては上方地方に限定されていたのだ ろうと思います。敦賀はしたがって畿内近国でありまして出世払いという慣習があっただろうと思い ます。たぶんあったのだろうというふうに思っております。「出世証文」は先ほどのように「仕合証 文」とも記されております。字としては「情」とか「精」を出すとかいう字がいっぱいありますけれ ども、出世ということは、仕合と同じ意味をもっておる。仕合というのは、決してHappyだ、幸福で あるという精神的なものではなく、即物的なもの、要はこの出世の場合はお金があるかどうかという 15 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 ことが重要なのであって、債務を弁済できるだけの資産があることを前提にして、出世という言葉が 使われている。 そこで、いったん経営が破綻してしまうと家産を再興して債務を弁済できるような経済的・社会的 な環境にないようなところでは、この証文は成立しない。つまり「出世証文」は出世して払ってくれ ることの見込みがあるから書かせるのであって、見込みのないようなところでは書かすことがないと いうことであります。出世することができる、破産した人間がもう1回立て直すことができるような 社会、経済的な環境にあるのであればこういう証文は成立しますけれども、どう頑張ったって2度と 立ち直れそうもないような経済の地域であれば、こんな証文は成り立たない。作られるはずはない、 ということです。 現実に「出世証文」を書いた人物が債務を弁済して証文を廃棄した例を確認できますから、これも 近江の場合なんですが、だから形式だけの証文ではなくてこれは実効性をともなった証文なんです。 ですから、私が生まれ育った東遅羽口村では多分「出世証文」は成り立たんと思います。なんぼ頑張 っても北左衛門さんが家を立て直すことは可能であったかというと、それは絶対無理であったと思い ますから。私の生まれ育った村にはこの証文はありません。 ただしこれは債権を全部回収するということを本当に前提にしたかというと、実際そうまで言えな いと思います。先ほどの証文をみますと担保はありません。半分だけ払ったらあとは待つという話に なっています。そこには何ら不動産も担保に入っていませんし、その金について利子が付いてるかと いうと、利子もついていません。したがって無利子無担保になっています。 しかし私は、この証文を作るときには、担保はあるんだというふうに考えております。では何が担 保かというと、債務者および子孫の栄誉であるというふうに考えております。これは「栄誉の質入れ」 ということで法制史の中にあるのですが、ヨーロッパ中世社会にもあったことですが、個人の栄誉、 名誉を担保に入れてるんだというふうに思っております。個人の栄誉が担保になりうるのは当事者間 の信義則ですね。お互いの信義則に基づいていると思っております。ここの論証は非常に難しいので すが、仮説として、そこに書いたように、大きな社会通念に変化があるんだろうというふうに私は考 えております。 それは借金をして返さないことは盗人と同じであるという社会通念があって、盗人と同じなんだか ら、死刑にするというか、命を取るということが戦国法の規定に出てきます。そこでは借金をして返 さないことは盗人と同じであるということでありますから、借金を返さない人が命を取られるという 世界が戦国期まではありました。ところが江戸時代になって、借金して返さなかった、だからおまえ は死刑だという話しは聞いたことはないわけです。そうすると明らかに通念が変わったのだろうと思 います。社会の通底には借金をして返さないのは盗人と同じであるということはあります。そういう 証文は江戸時代も残っていますが、それ以上に、借金をして返せないのは恥であるという社会通念が 江戸時代以降に一般化してくるのだろうと思います。 だから恥だというのは先ほどで言えば、いろんな「分散」をしたときに、さまざまなペナルティを 科せられて、雨の降る日に傘をさせないとか、土間におれといわれたりとか、あるいは、但馬国の出 石郡の例で、「村方ニテハ分散人一代ハ羽織着用ヲ許サス、天保時代前ハ元結ヲ用ヒテ結髪セシメサ 16 江戸時代庶民の破産と再興 ル習慣」だから、結髪するのに結局は藁でも使えとか、縄でも使ってせざるをえなかった。そういう 恥をかかされるということであります。 だからそういう恥をそそがなければなりませんから、一代で許されるということであれば、出石郡 の例で言えば一代の債務者だけが恥をかけばいいわけでありますが、子々孫々までというふうになっ てくると、子々孫々のためにも恥辱をそそがなければならないということで、家産再興のために努力 するための動機付け、つまり頑張らなあかんよということの動機付けにもなっているんだろうという ふうに解釈もしております。だから両方の側面が多分あるんだろうと。現実に返しうる環境であるが ゆえに書かせる。あるいは他方では返せないかもしれないけれども、働くための動機付けにはなると いうことで、書かせている、という両者を考えているということであります。 そういう意味で「出世証文」というものは江戸時代における債務弁済慣行の違いを明らかにする上 で非常に大切な指標になるというふうに私は考えております。貨幣経済とか市場経済の発展の度合い を考えていく上でも、一方では「分散」が行われているか「身代限」が行われたか、他方では「出世 証文」が残されているのか残されていないのか、というようなことを組み合わせながら史料をみてい く必要があるだろうと思っています。 結びの前に、配付史料の余白がありますので何かいい絵はないかなあと思って、先ほどご紹介した 『徳川時代の文学に見えたる私法』の中で中田薫さんが引用している図版をそのまま貼ってきました。 亭主は隠れて女房が応接す(享和3年、山東京伝著、北尾重政画「悟道迷所独案内」) 多数の債鬼に責めらるる男(享和3年、十返舎一九著、歌川豊国画「善悪角力勝負附」)、 中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』岩波文庫、1984年による。 17 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 「分散」に関わって記述されているページから取ってきています。ひとつは「亭主は隠れて女房が 応接す」というもので、「借金の淵より分散寺へいたる道の図」ということで山東京伝の本の中に 「とてもらちはあくめへ、百貫の鰹にかさご一めいだ、お持仏のあみだ、神棚の徳利でも用捨はねへ」 の洒落文句を並べてあるようです。「らちはあくめへ、百貫の鰹にかさご一めいだ」ですから、鰹と いう商品があってたくさんの売掛金があるんですよね。米屋・酒屋・肴屋の提灯がありますから、彼 たちが売掛金を持ってるんでしょう。それに対して払う金がないということで、神棚の徳利でもお持 仏さんの阿弥陀でもともかく持って帰るぞというような話になっています。そこで応接してるのが奥 さんで、亭主が後ろのこたつの中に入って頬杖をついておりますから、まあ、男というのはいざとな ると無責任だというのがよくわかります。 もう1つの方は、「多数の債鬼に責めらるる男」ということで、これは十返舎一九の本の中に歌川 豊国が描いた絵だそうでありますが、ここでも多数の債権者がわあわあと押し掛けてきたときに、債 務者はどうしているかというと、横柄にキセルくわえていますよね。これはどういう文脈のなかで出 てくるかというと、その当時ぐらいになりますと、浄瑠璃の中で「分散」もせんようなやつは男じゃ あねえというような言い方が一方で出てくる。都市部では何回倒産してもまたやり直したらいい、そ ういうことが可能な社会になり、金を借りて潰れることなんか別にどうってことはないというふうに 考える状況が江戸の社会、あるいは大坂の社会には生じてくるのかもしれないということであります。 したがって村の中における「分散」について図版などに描いたものはまだ知りませんから、たぶん都 市においてはそれだけの多様性があるということだろうと思います。まあ、いつの世でも債権者と債 務者の取立の状況はこういう状況であります。 4.結びにかえて さて、結びでありますが、江戸時代の村とか町というのも、単純に自給自足ですますことができる 生活ではないのであって、自給自足の経済社会ということはまず考えられない。少なからずの現金、 貨幣というものが手元にないと過ごせない。少なくとも年貢を支払う時に本途物成だけではなくて、 現実にはお金で払って代金納するとか、あるいは先ほどの北左衛門さんの場合で言えば、講に入って てその講の掛け金がどうしても必要であるとか、そういったことで必ず日常的にお金が必要であった わけです。 ましてや都市部においては、お金なしでは過ごせないのであって、すべてが貨幣経済である。少な からずの現金が必要なのです。こういう社会では金銀をめぐる紛争というのは必然的に発生する。つ まり売った買ったであっても、契約書がきちんと作られているかどうかとか、口約束であったとか、 本来では信義則が成り立っておって信頼できる関係であれば、別に字に書く必要はなくって、口約束 でいいわけですが、いざ裁判ということになった時に、知らんと言ったらそれで終わりですから、証 文を書けというふうに権力側は勧めるわけであります。 金銀をめぐる紛争は貨幣経済が浸透すればするほど必ず発生していきます。この紛争を解決するた めには、当事者同士で話し合いの上で解決するか、公権力、つまり奉行所などに訴えていって最終的 に裁許してもらうかという2つの方法しか基本的にはないわけであります。江戸時代においては、当 18 江戸時代庶民の破産と再興 事者同士による解決の方法として「分散」というものが最終局面にありました。これは最後の手段で す。途中で、まだ返せる段階で個別に解消していくというのはいっぱいありますけれども、最終的に にっちもさっちもいかなくなったという段階においては「分散」という解決方法がありました。 公権力による裁許は、「身代限り」というのが最終的な判決として下されます。「分散」はしたがっ て社会的な慣習に属しますから、各地域や社会において、さまざまな「分散」の執行方法があったと いうふうに思われます。それは多数の債権者に同等の満足を与えるという形式をとって、全国的に共 通したということが、先ほどの『全国民事慣例類集』に出てきます。多数の債権者に同等の満足を与 えるというのは、現在の法律で言ったら破産法がそうでありますね。全部の債権者に同じ比率で返済 をするわけですから、全部の債権者はみな平等なんで同等の満足というふうに言ってるわけです。同 等の満足ということは、裏返しをすれば、10貸したのに最高で4しか返ってこない、6は放棄せない かんわけですから、それは同等の不満足である。しかしどこかで差が付いているのではなく、債権者 全員が同額の比率で返済を受けるということでは、同等の満足ということで決着をつけるという方式 が共通しておったんだということです。 「分散」するということは、経営の破綻を意味するために、そのことが単に個人の問題としてのみ 片づけられない場合であれば、全財産を取り上げずに寛容に解決するという事例となっていたし、免 責についても一様ではありませんでした。つまりこれは東遅羽口村の例をみてもそうであって、全部 取り上げたのではなくって、多分北左衛門だから許されたんだと思います。これが北左衛門と同族団 の分家のそのまた分かれとか、そういう同族団の末端にいるような人がもし「分散」に陥ったとした ら、多分村には残してくれなかったんだろうと思います。家屋敷は全部やっぱり取り上げられる、と いうことになると思います。 だから私が子どもの頃に聞いた古老の人たちによると、「あそこの家は昔乞食やった」とかそんな ことばっかり言いましたね。乞食というのは当然差別語でありますけれども、乞食だったと言うのは 別に乞食だと物笑いしてたんじゃなくて、家がいったん破産状態になって、なおかつ村におって物を 貰いながら再興していったということの反映なのだと思いますが、そういう言い方を年寄りの人はし ておったという記憶があります。 いずれにしても、それぞれの村とか町とか債権者・債務者をめぐる関係の中でさまざまな事例が出 てきたのだろうと思います。しかし、免責をするかしないかということで言えば、債務の全額につい て免責を与えないということについては、「出世証文」が交わされたのだろうと思います。この証文 が、「出世証文」がかたちではなくって本当に実効性を持つためには、家産を再興させることができ る経済的・社会的な環境が成立している必要があって、こういう環境が主に上方地方に成立しておっ たんだろうと思います。だから、東国日本で一般的に成立していた可能性は低いというふうに私は考 えています。それにはいくつかの仮説というか推測をする条件があると考えてはいるんですが、多分 東日本は「出世証文」は出てこないんじゃないか、西日本は出てくる可能性があるというふうに思っ てます。 それは、近江国を例で考えていきますと、近江国の商家はほとんどが奉公人に対して立身出世せよ ということで、立身出世を鼓舞するわけです。頑張って立身出世せよということを主人が奉公人に向 19 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 かって言っております。九州のある商家でもそういうことを言ってますので、多分立身とか出世とか いう言葉が日常的に使われているような地域であれば、ひょっとすると立身出世することが社会のひ とつの通念になっていく可能性がありますので、そういう地域では「出世証文」が出てくる可能性が あるかなというふうに踏んでおる、ということです。西日本の場合はそういう可能性はあるというこ とであります。 越前の国においては、敦賀郡には多分「出世証文」が成立する環境があったんだろうと。だから 「出世証文」 「仕合証文」を取るということが実際あったんだろうと思います。見つけてはおりません。 そして足羽郡ではないと。遠敷郡も多分ないんだと。遠敷郡に至っては「分散」自体も非常に稀だっ たという状況がわかります。ただしそれが商家において成立していたのか、村落においてもそうであ ったのかについて判断するにはやはり史料を見つけざるを得ないので、そういう史料の発掘が必要で ある。そういう意味では福井の方で「出世証文」が見つかれば、それは最初の福井における「出世証 文」のはずであります。石川県の方は目録で残されていることは確認しているんですけれど、福井の 方の目録ではみたことがありません。まあ、見る機会というのがあんまりなかったということもあり ますけれど。少なくとも敦賀郡は「分散」もする地域でありますので、なんとかして「仕合証文」を 見つけて仕合な国にしたいというふうに思うわけでありますけれども。ぜひ皆様方も、もしお気づき で、見つけられるようなことがありましたら、ご教示いただければ幸いです。 それではつたない話しではございましたけれども、わたしの話しはこれで終わりということにさせ ていただきます。どうもご静聴ありがとうございました(拍手)。 注 1) 報告当時には、この証文が最も古い年紀のものであったが、その後、大坂の商家に「宝暦九年卯閏七月」付のも のが伝来したことが明らかになっている。 2) 報告後、埼玉県の商家にも数通残されていることを確認している。 20 古代越前国と愛発関 論 文 古代越前国と愛発関 舘野 和己* はじめに 1.三関の中の愛発関 (1)三関と愛発関 (2)三関の廃止と復活 (3)不破関と鈴鹿関 2.恵美押勝の乱と愛発関 (1)乱の経緯 (2)押勝のめざした愛発関 (3)北陸道のルート変更と愛発関 3.愛発関をめぐる諸問題 (1)三関の配置 (2)愛発関の廃止 (3)越前国府の位置 おわりに はじめに 古代の越前国を考えるとき、忘れてはならないものに愛発関がある。三関の1つとして古代の関の 中で最も重要な位置づけを与えられ、また恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の時にその機能を大いに発揮 し、戦闘の命運を決定づけた関でありながら、奈良時代のみでその姿を消してしまった関。 愛発関はその位置すらまだ明確になっていない。敦賀市は愛発関調査委員会を設け、1996年度から 99年度まで8次にわたる発掘調査を、有力な関跡候補地である疋田・追分地区で実施したが、残念な がらその痕跡はもちろん、道路跡も見つけるには至らなかった1)。しかし調査地付近で路線の存在を 想定できる範囲はそう広くはない。おそらく古代道路跡は現在の道路、国道161号線と重なっており、 現路面の下に眠っているのであろう。そうであるなら発掘調査を実施して、道路遺構を確認すること は現実には難しい。しかし関跡は道路を包み込むようにある程度の広さを占めたはずであるが、残念 ながら確認することはできなかった。 こうした結果を受けて、疋田・追分以外に関が位置した可能性も含め、もう一度愛発関関係史料を *奈良女子大学教授、福井県文書館記録資料アドバイザー 21 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 読み直す必要があろう。そこで本稿では文献史料から愛発関の位置を考えるとともに、同関に関連す るいくつかの問題に触れてみることにする2)。 1.三関の中の愛発関 (1) 三関と愛発関 律令国家は本貫地主義を維持するため3)、また軍事的緊急時に備えるため、関を置いて兵に守固さ せた。関の位置が国境にあたることは多くの事例から明らかである。軍防令置関条には「凡そ関を置 き守固すべくは、並びに兵士を置配し、分番上下せよ」と関を兵士が守るべきことを規定する。この 部分への『令義解』の注釈は「謂(い)うこころは、境界の上に臨時に関を置き守固すべきも皆是也」 というものであり、臨時に置かれた関も国境にあるべきものであった。ただし国境と言っても、隣接 する2つの国のうち、都からより遠い側の国に置かれたことが実例からわかる。すなわち都から各地 へ伸びる道が国境を越え、次の国に入った辺りが関の所在地であった。 関はその重要度によって3つのランクに分かれていた。そのことは衛禁律私度関条から知ることが できる。すなわち「凡そ私に関を越えたらば徒一年(謂うこころは三関なり)、摂津・長門、一等を 減ぜよ。余関また二等を減ぜよ(後略)」によれば、私度という不法行為への処罰規定は、①三関、 ②摂津・長門(関)、③余関に区別されている。私度とは許可を得ずに勝手に関を越えようとするこ とであり、見つかれば①三関では徒(懲役)1年、②摂津・長門関ではそれより1段階低い杖100、 そして③その他の関では2段階低い杖90であった。このうち摂津・長門関は瀬戸内海の東西両端に置 かれた船の関である(『令義解』関市令欲度関条)。 それでは三関とは何かということが問題になるが、それには先の軍防令置関条の続きの部分を見る 必要がある。そこには「其れ三関には、鼓吹・軍器を設け、国司分当して守固せよ。配するところの 兵士の数は、別式に依れ」とある。この「三関」について『令義解』は「謂うこころは、伊勢鈴鹿、 美濃不破、越前愛発等是也」と注釈を加えており、その名を知ることができる。すなわち三関とは、 東海道を伊賀国から伊勢国に入った所に置かれた鈴鹿関、東山道を近江国から美濃国に入った所に置 かれた不破関、そして北陸道上に置かれた越前国の愛発関である。愛発関がどこにあったかは第2章 で考察する。 右の規定によると、三関には太鼓や笛、武器などが備えられ、また各関に置かれる兵士の定数は、 別の規定で定められることになっていた。そして三関には国司が交替で赴き守備にあたることになっ ていた。逆に言えば三関以外の関には国司は行かず、関の事務を執る関司と兵士のみが駐在していた のである。この規定が実際に行われていたことは、天平2年(730)度の「越前国大税帳」(『大日本 古文書(編年文書)』巻1−428頁、『福井県史 資料編1 古代』越前国関係公文類2)末尾の国司 が連署した部分に、「正七位上行掾勳九等坂合部宿禰」については自署がなく、「監関」と注記されて いることからわかる。越前掾(国司の第3等官)坂合部宿禰葛木麻呂は当時関の監督に出かけており 国府にいなかったため、この文書に署名することができなかったのである。この関とはもちろん愛発 関のことである。ちなみにこの時の越前国司は守大伴宿禰邑治麻呂・介大蔵伊美吉石村・掾坂合部宿 禰葛木麻呂・大目土師宿祢(名は不詳)・少目林連上麻呂の5人であったが、このうちここに自署し 22 古代越前国と愛発関 ているのは守と介の2人だけで、他の3人は掾は先述のように愛発関に赴任中、大目は朝集使として 上京中、少目は班田使として国内を巡行中であり、国府にはいなかったのである。 関の構造を考えるときに参考になるのは、職員令大国条である。国司の定員と職掌を規定した条文 だが、そのなかに「三関国はまた関 及び関契の事を掌れ」という部分がある。このうち関契は、後 述する固関の時に、中央から関に派遣されてきた使者の身分を証明する割符のことで、一片を固関使 が持ち、他の一片を三関国司が保管していたのである4)。問題は関 は「謂うこころは、律に依るに、関は検判の処、 関は交通の取り調べをする所、 は塹柵の所、是なり」と解釈する。これによれば は壕や柵で交通を遮断する所というような意味になろう。しかるに 『令集解』の当該箇所に引く諸法家の説を見ると、釈説は「 て「名例律云わく、 である。これについて『令義解』 は柵也。閣也」としつつ、それに続け は塹柵の所を謂う。関の左右の小関、亦 と云うべき也」とする。この名例律 は日本律では逸文しか伝わらないが、共犯罪本罪別条のことであり5)、その条文は「 は塹柵の所を 謂う」までの部分である。ここでは釈がさらに「関の左右の小関」と言っていることに注目したい。 また伴説も「 は諸人の往来に障るべきを皆 と謂う」と解しており、基本的に関と変わらぬ機能を 果たすようである。同じ関でありながら、相坂関(『文徳天皇実録』天安元年4月庚寅条)・相坂 (『日本紀略』延暦14年8月己卯条)というように両者の表記を用いている例もある6)。したがって関 と はその機能は同じでありながら、 は釈説のように主な関門(大関)の左右にある小関と理解す ることができよう。 このように見てくると三関は大関と小関という構成であったとみられるのであり、愛発関を復元す る際にも、複合的構造であったということを念頭に置かねばならないのである。 さて三関はもちろん全ての関を通過するには、過所という通行許可証が必要であった。過所は関市 令欲度関条と公式令過所式条によれば、申請者が移動の事由、越える関の名と目的国名、本人の官位 姓、同行する従者、携行する荷物、馬牛などを記し、その人が官人の場合は務める官司を、官人でな い場合は郡司を経て申請し、京の人なら左・右京職が、それ以外は国司が発給することになっていた。 関司は関に来た人の持つ過所を調べ、それに間違いがなければ通過させたのである(そうした行為を 勘過という)。したがって過所がないのに関を通過しようとしたり、虚偽の申請書を書いて過所を入 手する行為は厳しく処罰された。 愛発関の通過の難しさを窺わせる歌が『万葉集』に残っている。それは「中臣朝臣宅守の、蔵部の 女嬬狭野弟上娘子を娶(ま)きし時に、勅して流罪に断じて、越前国に配(なが)しき。ここに夫婦 の別れ易く会ひ難きを相嘆き、各々慟む情を陳(の)べて贈答する歌六十三首」(巻15目録)中の歌 である。中臣宅守は天平12年(740)6月15日に実施された大赦において、赦免されなかった6人の 1人として見えるから(『続日本紀』同月庚午条)、越前に配流となったのはそれ以前のこととわかる。 宅守は越前に送られる途中に関を通った。「遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしの無きがさぶ しさ」(3734)は、山関を越えたことにより、二人の仲が裂かれたことが決定的になったことを嘆い たものである。この山関はおそらく愛発関のことであろう。彼が通った関としては、「吾妹子(わぎ もこ)に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしも無し」(3762)という歌から、逢坂山を山背 から近江に入った所に置かれた逢坂関もあったろう。しかしそこを過ぎてもまだ近江国である。近江 23 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 はかつて天智天皇の時に都が置かれた所でもある。やはり三関の1つである愛発関を越えて越前国に 入ったことが、決定的に絶望感を深めたことであろう。 これ以外にも宅守が関を詠んだ歌がある。「過所無しに関飛び越ゆる霍公鳥(ほととぎす)まねく 吾子(あこ)にも止(や)まず通はむ」(3754)、「吾(あ)が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹 に寄りにしものを」(3757)。いずれも流刑地の越前にいて、二人を引き裂く関を詠み込んだものであ り、先の歌からは、過所が無くても関を越えることのできる霍公鳥を羨望の眼で見ている宅守の姿が 浮かんでくるのである。 なお彼が流された先は味真野であった。それは娘子の詠んだ「あぢま野に宿れる君が帰り来む時の 迎へを何時(いつ)とか待たむ」(3770)から知られる。味真野は越前国今立郡味真郷の地で、越前 市(旧武生市)東部にあたる。 関は日の出とともに開けられ、日の入りとともに閉じられた(関市令関門条)。しかし閉鎖された ままになることがあった。それを固関というが、天皇の崩御や反乱など、政治的危機が発生したとき に、反乱を起こそうとする者が都から東国へ向かうことを防ぐための措置であった。かつては関は、 東国から都に攻めてくることを防ぐための施設だと考えられたこともあるが7)、三関のそれぞれの国 内での位置を見ると、国府の外側ではなく京に近い国境にあったことから、それは外敵に備えるため というよりも、京に反乱が起こったときに、その逆謀者が東国へ逃入しそこを拠点とし、あるいは東 国の勢力を動員して行われる反撃を未然に抑える役割のほうが重要であったということが岸俊男氏に よって明らかにされている8)。固関の初見は養老5年(721)12月の元明太上天皇の崩御時で、崩御当 日に固関使が派遣されている(『続日本紀』同月己卯条)。固関使は身分を証明する関契の1片を持ち、 関側に置かれたもう1片と合わせて、ぴったり合えば正しい固関使であるということになるのである。 この時には史書に記録が見えないが、数日経って事態が落ち着くと今度は開関使が派遣され、固関措 置が停止されたのである。 この時を嚆矢として、以後『続日本紀』を見ていくと、天平元年(729)2月の長屋王の変、天平 勝宝8歳(756)5月の聖武太上天皇の崩御、天平宝字8年(764)9月の恵美押勝の乱、天平神護元 年(765)10月の称徳天皇の紀伊国行幸準備時、宝亀元年(770)8月の称徳天皇の崩御時、天応元年 (781)4月の光仁天皇の不予時、同年12月の光仁太上天皇の崩御時、延暦元年(782)閏正月の因幡 守氷上川継の乱時に固関が行われているのである。 (2) 三関の廃止と復活 前節で見たような機能を果たした三関であるが、延暦8年(789)7月に停廃された。それを語る 『続日本紀』同月甲寅(14)条は次のようである。「伊勢・美濃・越前等の国に勅して曰く、『関を置 く設けは、本、非常に備う。今正朔の施す所、区宇無外なり。徒(いたずら)に関険を設けて防禦を 用いること勿(な)く、遂に中外隔絶して、既に通利の便を失い、公私の往来、毎(つね)に稽留の 苦を致さしむ。時務に益無くして民の憂いに切なること有り。思うに、前の弊を革(あらた)めて以 て変通に適せんことを。その三国の関は一切停め廃(や)めて、有(たも)てる兵器・粮糒は国府に 運び収め、自外の館舎は便郡に移し建つべし』とのたまう」。これによれば、三関廃止の理由は、軍 24 古代越前国と愛発関 事的防禦に用いることがなく、交通にとって阻害要因になっているということである。三関が実際に 戦闘を防ぐ機能を果たしたのは、前節で見た多くの固関時の中でも、第2章で見る恵美押勝の乱のと きのみであった。ここに愛発関に置かれていた兵器や粮糒は越前国府に移され、建物は便郡に、おそ らく多くは敦賀郡のどこかに移築されたのであろう。 ところでこの時廃止されたのは三関だけではなく、他の関も順次廃止されたようである。そのこと を明確に示す史料はないが、三関停廃の4カ月後の延暦8年11月に摂津職の勘過が停止されているの は(『続日本紀』同月壬午〈壬子の誤りか〉条)、摂津関に関わるものである。またやや遅れて延暦14 年(795)8月には、近江の逢坂関が廃止された(『日本紀略』同月己卯条)。さらに『類聚三代格』 に収載された、先の三関停廃を示す延暦8年7月14日勅では、「三国の関」という限定が見えず、「一 切停廃」すべきことが命じられている。これは当初勅が出されたときは三関のみを停廃するという趣 旨であったが、その後基本的に全ての関を廃止することになったので9)、その後勅の内容を一部改訂 し、三関という限定を削除したものが『類聚三代格』に収載された結果であるとみられるのである10)。 ところがその後も三関は記録に登場する。その最初は大同元年(806)3月の桓武天皇崩御の時で ある(『日本後紀』同月辛巳条)。桓武がその日70歳で崩御するとすぐさま使者を派遣して、伊勢・美 濃・越前三国の故関を固守したのである。ここで「故関」とあるのは、もちろん既に廃止されている からである。停廃時の措置によれば既に関の施設も備品も無くなっているはずである。おそらくは臨 時にかつての関跡に兵士を送り、道を遮断したのであろう。それまである程度はまだ関の施設が残っ ていた可能性もあろう。 さらにそれから4年後、弘仁元年(810)9月には、嵯峨天皇に皇位を譲り平城宮にいた平城太上 天皇が、再び皇位に戻ろうと平城京遷都を宣言するに至った。上皇のクーデターであり、いわゆる藤 原薬子の変である。この時、嵯峨天皇側はやはり固関の措置を取ったが、そこでは「伊勢・近江・美 濃等三国の府并(なら)びに故関を鎮固」したのであった(『日本後紀』同月丁未条)。三国の関のみ ならず国府も固守対象になったことは新しい措置だが、それよりもここで注意されるのは越前が消え て近江が出てきたことである。近江の故関といえば逢坂関である。すなわちここでは愛発関に替わっ て逢坂関が三関の1つになったのであり、以後固関が行われる時は、近江・伊勢・美濃の三関となっ た11)。こうして三関はそれを構成する関が当初とは変わりながら、政治的危機にあたって固関される という形で復活したのである。ただそれは固関時のみのことであり、日常的には既に勘過は行われな かったようである12)。 こうした動きの中で愛発関は完全に姿を消してしまった。都が平安京に遷った状況の中で、逢坂関 を抑えれば東海・東山・北陸3道をすべて抑えられるようになったので、愛発関を存続させるよりも 効率的だと考えられるようになったのであろう。さらにはそれにとどまらない理由もあると考えるが、 それについては第3章でまた述べることにしよう。 (3) 不破関と鈴鹿関 ここで愛発関の様相を考えるために、三関の中の他の2関、すなわち不破関と鈴鹿関を見ていこう。 まずは不破関から始める。それは東山道が近江国から美濃国に入った地点、今の岐阜県関ヶ原町松尾 25 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 地区に位置し、三関の中でただ1つ位置が明らかになっている関であり、また発掘調査も行われて、 ある程度その構造も判明しているところである13)。 それによると、図1のように 北辺は長さ460m、東辺は432m、 南辺は112mの土塁で囲まれ、 西辺は北西から南東へと流れる 藤古川の段丘崖で限られ、不整 形な逆台形の平面形を呈してい る。そのほぼ中央を東西に旧中 山道が貫いているが、それこそ 古代の東山道の名残とみられ る。そしてその北側にほぼ1町 四方を占めると想定される築地 塀で囲まれた一郭がある。その 中には数頭の掘立柱建物が並ん でおり、関司が事務を執る館舎 図1 不破関の構造 舘野和己『日本古代の交通と社会』から転載。 であったとみられる。東北隅に は8世紀の竪穴住居があり、関を守固する兵士の住居と考えられている。 関の建設年代を推定できる資料の1つは軒瓦であり、それによると7世紀末葉から8世紀初頭に創 設され、8世紀中葉に大規模な改作がなされたとみられるが、さらに東北隅の外郭土塁からは、地鎮 のため土師器の甕に入れられた3枚の和同開珎が出土しており、その土塁が和銅年間以降に築かれた ことがわかる。 以上が不破関の構造であるが、興味深いのはそこが江戸時代には大関村と呼ばれたこと、そしてそ の北方1㎞強の所に、小関の名が残っていることである(図2)。小関は伊吹山の西麓を通り琵琶湖 岸に出る旧北国街道に面した所にあたる。逆方向に進めば東山道と交わり伊勢街道となる。大関・小 関の名は前節で検討した関・ (小関)を思 い起こさせるものである。したがって不破関 は、東山道上に大関が、そして後に北国街道 と呼ばれる道路上に小関が配置されるという 複合的構造を取っていたとみられるのであ る。関が十全な機能を果たすためには、いく つかの道を扼することによって、不法な交通 を取り締まれることが求められたであろう。 大関・小関はまさにそれに対応する構造であ ったのである。 図2 不破関の大関・小関 次に鈴鹿関を見る。同関については『続日 舘野和己『日本古代の交通と社会』から転載。 26 古代越前国と愛発関 本紀』に興味深い記事が現れる。すなわちa宝亀11年(780)6月辛酉(28)条には、6月16日に鈴 鹿関内の西内城の大鼓が、b天応元年(781)3月乙酉(26)条には、3月16日に西中城門の大鼓が 自然に鳴ったという話が見える。おそらく西内城と西中城は同じものであろう。またc同年5月甲戌 (16)条によると、14日から15日まで鈴鹿関の城門と守屋4間が、やはり自然に木で衝くような音を 出したという。こうした不可思議な話なのだが、注意されるのはこれによって、鈴鹿関にはa西内城 あるいはb西中城と呼ばれる施設があることがわかり、cの城門には「西」という限定が付かないか ら、それはabとは別のものと考えられる。すなわち鈴鹿関には2つの城と呼ばれる施設があり、そ れぞれに城門が設けられていたのである。そしてまた各城門には大鼓が置かれていたが、それは関門 の開閉の時や非常を告げるためのものであろう。また守屋は兵士の詰め所であろうか。 さて鈴鹿関では発掘調査は行われていない。しかし八賀晋氏らによる地形調査によると14)、その比 定地である三重県関町中心部の台地上は、小谷によって東西2つの地域に分かれており、西側では近 世の東海道の南側に位置する城山の山頂部と、北側にある観音山に続く丘陵上に一部土塁の跡がみつ かり、また東海道と直交する「長土居」と呼ばれた土塁の跡がかつてはあり、これらが西内(中)城 と呼ばれたものの外郭線とみられる。また東側にもやはり関の施設が想定できる。西内(中)城とさ れるものの南北長は約600m、東西幅は340mになるので、やはり関はかなり大規模なものであったこ とが窺える。さらに鈴鹿関の西では近世東海道(平安時代以降の東海道)から大和街道(これが奈良 時代の東海道であろう)が、東では伊勢別街道が分岐する。すなわちこの辺りで複数の道が交差する わけであり、2つの「城」はあるいは大関・小関の関係を示すものかもしれない。 以上、不破関と鈴鹿関という三関に属する他の2つの関の様相を見てきた。そこから言えることは、 いずれもその規模がかなり大きいこと、複数の道を抑えるように配置されていたこと、そして特に不 破関では明確に大関・小関という複合的構造を取っていたということである15)。そこでいよいよ次章 以下で愛発関の実相を探ることにする。 2.恵美押勝の乱と愛発関 (1) 乱の経緯 愛発関が史上その姿を明確に現すのは、天平宝字8年(764)9月におきた恵美押勝の乱の時であ る。乱の経緯を辿ることによって、愛発関の位置を探る手がかりを得ることができると考える。そこ で図3を見ながら『続日本紀』を繙くことにしよう16)。この図は後述する私の考えとやや異なる点が あるが、大まかな経緯を知るには十分である。 さて孝謙天皇の時、その母である光明皇太后の紫微中台(皇后時代の皇后宮職を改めたもの)を足 場として、天平勝宝元年(749)8月にその長官たる紫微令に就き、ついで天平宝字元年(757)5月に 軍事権も掌握した紫微内相となって権勢を益してきた藤原仲麻呂は、翌年8月に彼が擁立した淳仁天 皇が即位すると、天皇から藤原恵美押勝の名を賜り、諸官司の名を中国風に改めるとともに、自ら大 保(右大臣を改めたもの)の職につき、重心を紫微中台から太政官に移すようになった。これは光明 皇太后の年齢を鑑みてのことである。そしてさらに天平宝字4年正月には大師の地位に昇った。これ は太政大臣を改称したものであり、臣下で生前に太政大臣にまで達したのは押勝が初めてであった。 27 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 ところがその年6月に光明皇太后が60歳で亡く なると、次第に彼の権勢は衰えるようになり、特 に翌天平宝字5年10月から平城宮の改築のために 暫く滞在した近江の保良宮で、病気を治療した僧 道鏡を孝謙太上天皇が寵愛するようになると、そ れを批判する淳仁天皇との間に対立が生じた。そ して翌年5月に平城宮に戻ってくると、天皇は中 宮院に入ったのに対し、上皇は法華寺に入るとい うように両者の決裂は決定的になり、上皇が政治 の実権を握ると宣言したのである。こうして次第 に追いつめられていった恵美押勝は、遂に天平宝 字8年(764)9月クーデターを起こすに至った。 すなわち11日に押勝の不穏な動きを知った上皇 方が、淳仁天皇のいた中宮院に置かれていた天皇 権力のシンボルである鈴印(駅鈴と天皇御璽)を 掌握したことから事件は始まった。押勝は息子の 訓儒麻呂を遣わし一旦は奪い返したが、上皇方が 攻撃し訓儒麻呂を射殺し、再び鈴印を確保した。 これに対し押勝は中衛将監矢田部老を派遣して攻 撃させたが、彼も射殺された。押勝は上皇に対し 公然と反旗を翻したことになったのである。上皇 は押勝の官位を剥奪し、三関を固守させた。ここ に愛発関も閉じられた。そしてこの夜、押勝は太 図3 恵美押勝の乱の戦闘要図 『福井県史 通史編1 原始・古代』から転載。 政官印を持って近江に逃げ、上皇方の兵がそれを 追った。近江は彼自身長く国守を勤め、また藤原氏との関係も深かった国である。そこでそこを拠点 に立て直しを図ろうとしたのであろう。押勝方は宇治から近江に向かったが、追討軍の山背守日下部 子麻呂や衛門少尉佐伯伊多智らは直に田原道を取り、先回りして近江に至り勢多橋を焼いた。これは 瀬田川の東にあった近江国府に押勝方が行くことを阻止する行動であった。押勝は平城京から宇治を 経て山科に出、逢坂山を越えて近江に至る東山道を進んだのであろう。それに対し追討軍は、宇治よ り手前で東山道から東へはずれ、現・京都府宇治田原町を経由して瀬田川に出て勢多橋に至る捷路で ある田原道を取ったのである。 勢多橋を焼かれたことを知った押勝は、慌てて今度は琵琶湖西岸の北陸道を北上し、高島郡の前少 領角家足の宅に泊まった。押勝は越前国守を務める子息の辛加知を頼ろうとしたのであろう。その夜 彼の寝ていた家の上に、甕ほどの大きさの星が落ちたという。ところが佐伯伊多智らはまたも越前国 に先回りして、辛加知を斬り殺してしまった。 そうとは知らない押勝は、同行した氷上塩焼(天武天皇の孫で新田部親王の子)に今帝と名乗らせ、 28 古代越前国と愛発関 自分の息子の真先や朝 らを親王に準えて三品とした。完全な反逆行為である。そしていよいよ越前 国に近づいて行き、愛発関が登場するようになる。 すなわち押勝は、数十人の精兵を遣わして愛発関に入らせようとしたのである。ところが上皇方が 既に関を抑えており、授刀物部広成らがその攻撃を防ぎ、退却させた。そのため「進退拠(ところ) を失」った押勝は、船に乗り浅井郡塩津に向かった。現在の滋賀県伊香郡浅井町にある琵琶湖北岸の 津であった。そこから愛発関に向かおうとしたのであろう。ところが急に逆風が吹き、船が沈みかけ た。そこで上陸し、今度は山道を取って直に愛発を目指したが、再び伊多智らがそれを迎え撃った。 そのため8、9人が矢に当たって死んだ。押勝は一旦高島郡三尾埼(現在の高島市明神崎)まで退却 し、そこで追討軍の佐伯三野・大野真本らとの間で、午の時から申の時まで戦闘を繰り広げた。追討 軍の疲弊が目立ったところへ藤原蔵下麻呂の援軍が到着し、攻守所を変えたため、押勝の息子の真先 率いる軍は退却せざるを得なかった。そこで佐伯三野軍はこの勢いに乗り攻撃し、真先軍の兵をかな り殺傷した。 こうして敗色濃厚な戦闘を見た押勝は船に乗って湖上に逃げ、追討軍の将たちは水陸両道からこれ を攻めた。そのため押勝は勝野の鬼江(高島市の勝野にある乙女ケ池がその名残という)に拠って、 精鋭を尽くして最後の反撃を試みたのであるが、追討軍の攻撃は激しく、押勝軍は壊滅的打撃を受け てしまった。仕方なく押勝は妻子3、4人と船に乗って江上に出たが、石村石楯に捕らえられて首を 斬られ、妻子と徒党34人が鬼江の畔で斬られたのである。押勝の首が都に届けられたのは18日であっ たから、わずか8日間の逃避行であった。これが恵美押勝の乱の顛末である。14日には押勝によって 退けられていた兄の豊成が右大臣に復し、20日には道鏡が大臣禅師となり、政界の様相は大きく変わ った。さらに10月9日には淳仁天皇が皇位から引きずり下ろされ、淡路に流された。そしてその日付 は不詳であるが、孝謙太上天皇が再び皇位につき、称徳天皇となったのである。 ここで見てきた乱の経緯こそ、愛発関の位置を探る手がかりとなる。すなわち関係箇所をもう一度 整理すると、押勝軍は、①まず愛発関に入ろうとしたが失敗し、次に②塩津からも向かおうとしたと みられるが、塩津への途中で漂没しかけて上陸し、③山道を取って愛発関を目指したが再び阻止され、 ④そこから三尾埼まで退却した、ということがわかる。 これをもとにして愛発関の位置は詳しくは次節で検討するが、もう1つ確認しておかねばならない ことがある。それは上の4点からもわかるように、一連の戦闘は琵琶湖北岸から西岸にかけて繰り広 げられたということである。そして押勝は湖北から北上して越前に入るために、愛発関を越えようと したのであった。したがって愛発関は、近江と越前との国境を越えた地点にあったとみられる。 このことはまた別のことからもわかる。それは乱後の9月29日に発せられた上皇の詔の中で、押勝 が「近江国に奔(はし)り拠りて越前関に亡(に)げ入る」と言われていること、11月癸丑(20)条 に「使を遣わして幣を近江国の名神の社に奉らしむ。是より先、仲麻呂が近江に奔(はし)り拠るや、 朝庭遙かに望みて国神に祷(の)み請う。而して境内を出づること莫くして、即ちその誅に伏す。所 以(ゆえ)に宿祷を賽(かえりもう)す」とあることである。ここでは押勝討滅を近江国の名神に祈 ったところ、押勝はその境内、すなわち近江国内から出ることなく誅に伏したと言っているのである。 さらに次のようなこともある。翌天平神護元年(765)正月8日に勅があり、調・庸を近江国高島 29 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 郡は2年間、滋賀・浅井郡は1年間免除するとともに、没 官の物(押勝から国が没収した財産)を使って賑恤を加え ることにしたのである。ここで対象となったのは、乱時に 追討軍が通った諸郡であった。5月7日には追討軍を助け たということを理由に、敦賀嶋麻呂に外従五位下が授けら れた。その氏の名からすれば越前国敦賀郡の人であろう。 敦賀郡は越前国西端の郡で、湖北から北上した所に位置す る郡である。 やはり恵美押勝は、近江から北上して越前に入ろうとす る動きをしたのであった。 (2) 押勝のめざした愛発関 前節で確認したことから、愛発関は近江の湖北から北上 し、越前に入った所にあったということがわかる。そして それ以上のことを窺わせるのが、先の4点である。これを 図4のような現実の交通路に当てるわけであるが、愛発関 図4 近江・越前国境付近の交通路 『福井県史 通史編1 原始・古代』から転載。 への道には、①の他に②塩津からの道と、③山道があった。 このうち①はまずその道を取ったこと、そこからの入関に失敗しやむなく②③に向かおうとしたこと からして、湖西を北上した場合の最も普通の道、すなわち関へ向かう主要な道路であったと考えられ る。それはマキノ町を流れる知内川に沿って遡り、小荒路から同町国境を過ぎ、越前側に入り五位川 に沿って敦賀市山中・駄口・追分・疋田・道口と下ってくる、後に西近江路とか七里半越えと呼ばれ る道ではなかろうか。この道は後述するように、『延喜式』に見える北陸道のルートであったとみら れ、近江−越前を結ぶメインルートであった。 そして②塩津からの道は、西浅井町塩津浜から北西方向へ大川沿いに遡って深坂峠に向かう塩津街 道(深坂越え)と考えて間違いない。近江・越前の国境をなす深坂峠は深坂地蔵で知られるが、鈴木 景二氏は「気比の神楽」の中の「我が船は 能登の早船 鳥なれば みさか越えて おほきみに 仕 へまつらむ…」に見える「みさか(原文は見左加)」は、深坂峠のことではないかと述べられている17)。 確かに各地の国境となっている峠に「みさか」峠という名は多いし、「深坂」はまた「みさか」とも 読める。氏によれば地元の古老が実際に同峠を「みさか」と呼んでいることもわかったという。深坂 峠が重要な国境越えの道であったことを示すものである18)。 それでは③はどこか。そもそも押勝は西近江路から愛発関に入るのに失敗し、船で塩津に向かった が、これも逆風が吹いて塩津にたどり着けなかったのだから、船出したのはおそらく知内川の河口付 近か海津かであろう。そしてそこから東へ漕ぎ出したが逆風が吹いたというのであるから、今度上陸 したのは当然塩津より西側である。しかも③からの入関に失敗した後、退却して三尾埼に至ったとい うのであるから、③は琵琶湖西岸に近いと考えた方がよさそうである。さらに「山道」という表現に ふさわしい交通路ということになると、それはマキノ町白谷から知内川の支流である八王子川沿いを 30 古代越前国と愛発関 北上し、国境を越えて黒河川の上流に出て、今度は川 沿いに下り敦賀市雨谷・公文名と続く白谷越えではな かろうか。ここは狭い谷筋を通る道で、「山道」と呼 ぶにふさわしい。それ以外に湖北から越前に向かう道 としては、西浅井町大浦から大浦川を遡って北上し山 門を過ぎて、塩津から深坂峠へと向かう塩津街道に合 流するというルートもあるが、「山道」という表現や、 そこから三尾埼への退却ということにふさわしくな い。白谷越えのルートであれば、白谷に退却した後、 そのまま南下すれば湖西の北陸道に入り、三尾埼へと 向かうことは自然の動きということになる。すなわち 船出した所と上陸した地は、ほとんど変わらなかった のである。これを図示すれば、図5のようになる。 こうして押勝の動きを確定すると、当然彼が越えよ うとした愛発関はこれらいずれのルートからも行ける 所にあったということになる。そこで近江と越前の間 にあった愛発関の位置に関する先行学説を振り返って 見てみると、大きくは4つの説に分けることができる。 1つ目は西近江路上の山中にあったという説19)、2つ 目は西近江路と塩津街道の合流点説で、これにはさら に追分説20)と疋田説21)とがある。そして3つ目は、白谷 図5 奈良時代の官道と恵美押勝の逃走図 舘野和己「愛発の関に阻まれた恵美押勝の乱」 『週刊司馬遼太郎街道をゆく31』より転載。 越えの道が越前に出てきた敦賀市雨谷、山あるいは御 名付近とする説22)、4つ目は西近江路が平野部に出た辺りの敦賀市道口説である23)。2番目の説は、 関は複数の道を抑えるものであるという見地から導き出されたものであり、4番目の説も、やはり西 近江路と塩津街道が合流して以後の地点であるから同様である。それに対し3番目の説は、白谷越え が当時の駅路であったという説24)に基づくものである。 このうち敦賀市の愛発関調査委員会は、2番目の説を重視し疋田・追分地区で8次にわたる発掘調 査を実施したが、残念ながら関跡の手がかりをつかめなかったことは前述したとおりである。また4 番目の説の白谷越えは狭く急峻で、かなりの規模を持つ駅路25)を置くにはふさわしくない。それでは どう考えるべきか。不破関や鈴鹿関の調査で明らかになった、関はかなりの規模を持ち、かつ複数の 道を抑えるものであるということを前提にしなければならないだろう。すなわち関はある程度広い平 地がある所でないと、置けなかったのである。そうであるなら、これまでに出されている説の中では、 山中や追分・疋田は少し狭いのではなかろうか。したがって道口説が最も適切であると考える。道口 付近の谷への入口部なら、一定の広さを確保することが可能であるし、西近江路・塩津街道そして白 谷越え、いずれの道を通ったとしても、それを検察することができる。まさに関を置くにふさわしい 場所であろう。 31 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 (3) 北陸道のルート変更と愛発関 前節で愛発関は敦賀市道口付近にあったと推定した。しかしそれで問題はすべて解決したのであろ うか。私はそれでは十分な解決ではないと思う。それはまだ北陸道のルートを検討していないし、関 の構造という視点からの検討、すなわち先に不破関などについて指摘した大関・小関という複合的構 造が、愛発関ではどうだったのかという考察がまだすんでいないからである。こうした問題を解いて いかなければ、愛発関の実態解明はできないであろう。 そこで同関の位置問題のカギとなる、当時の北陸道のルートから考えていきたい。北陸道のルート を復元する手がかりは、『延喜式』兵部省諸国駅伝条に載せる駅名である。そこで『延喜式』から関 係地域の駅を抜き出してみると、近江国の北陸道上には穴太・和爾・三尾・鞆結駅があり、越前は松 原・鹿蒜・淑羅と続く。さらに若狭を見ると弥美・濃飯駅があった。弥美駅は三方郡弥美郷の地にあ たる御浜町の耳川下流域に位置したとみられる26)。濃飯駅は「若狭国遠敷郡野駅家」と記す木簡も出 土しているので27)、同郡野郷(里)28)、すなわち『和名類聚抄』の野里郷にあったとみられるが、それ は若狭町(旧上中町)上野木・中野木・下野木付近に比定される。弥美・濃飯駅の順に記される駅路 は、明らかに東から西へと向かっていたのである。 これらから復元される北陸道は、穴太駅から北上し、近江最北端の鞆結駅を過ぎると国境を越えて 越前の松原駅に至る。そこから道は二手に分かれ、メインルートは鹿蒜・淑羅駅へと北上するが、も う一方は西へ向かい若狭に入り、弥美・濃飯駅と辿って若狭国府に至るというものである。すなわち ここでは若狭国内の駅路は、北陸道からの枝分かれ路と位置づけられているのである。 このルートでは近江北端の鞆結駅は、『和名類聚抄』に見える同国高島郡鞆結郷に置かれていたと みられるが、それはマキノ町の知内川流域の石庭に今も鞆結の小字名が残るので、その辺りに比定さ れる29)。先に見た押勝の取った③「山道」の入り口にあたる。そして越前最初の松原駅は、敦賀市の 気比の松原の近くにあったとみられる30)。そうするとその間はいずれのルートを通ったかということ が問題になるが、駅路は発掘調査の成果によってかなりの幅を持つことが明らかになっているから、 鞆結駅比定地から③のルートがそれにあたるとの説もあるが、先に述べたようにそこは狭く急峻な道 であるから、駅路にはふさわしくない。やはり後世に西近江路(七里半越え)として引き継がれるル ートこそふさわしいであろう。したがってa鞆結駅から大きく東へ屈曲する知内川に沿って東行して 小荒路付近に出て、そこからまた北へと流れを変える同川に沿って北上するか、それともb鞆結駅か らは東北方へ進み知内川を渡り、上開田から熊路峠越えで東に曲がった知内川沿いの浦に出て、先の ルートに合流するか、あるいはc鞆結駅から東へ向かい、山崎山の麓を南から東へ回り海津に至り、 そこから追坂峠を越えて小荒路の知内川沿いに出るか31)、いずれかのルートを取ったのであろう。c の場合は鞆結駅は、今の石庭の地よりも南の湖岸寄りにあったのかもしれない。 『延喜式』主税上諸国運漕功条によると、越前から平安京へ向かうルートのうち海路は、敦賀津か ら塩津まで陸上を行き、そこから大津まで船を利用するというものである。すなわち敦賀からは北陸 道(西近江路)を利用していないことがわかるが、それは海津から敦賀津へ向かう陸上路が整備され ていなかったためであろう。その時問題になるのが、追坂峠である。したがってcは除外されること になる。またこのことによって、押勝が最初取った①のルートも、海津を経由したものではなかった 32 古代越前国と愛発関 であろうことが窺われる。 これが『延喜式』の北陸道ルートである。しかしそれ以前、奈良時代においてもこのルートであっ たかというと、そうではないのではなかろうか。そもそも越前は北陸道に属する国であるが、北陸道 の最初の国は若狭である。近江は国内を北陸道の他に東山道も通るので、東山道に属した。したがっ て北陸道諸国の国を列挙するときも、若狭・越前の順となる32)。 さらに『日本紀略』に注目される記事がある。それは延暦14年(795)7月辛卯(26)条の「左兵 衛佐橘入居を遣わして、近江・若狭両国の駅路を検ぜしむ」というものである。そしてこのすぐ後の 閏7月辛亥(17)条には「駅路を廃す」と書かれている。これだけ見るとこの時、全国の駅路が廃止 された、つまり駅制が停止されたかのようであるが、そうは考えがたい。そもそもこの辺りの記事は 『続日本紀』に続く『日本後紀』に記録されていた。ところが同書は全40巻のうち10巻しか現存しな い。しかしそこに書かれていた記事の一部が『日本紀略』に収録されているので、我々は『日本後紀』 の欠の一部を補うことができるのであるが、同書はその名の通り抄録、すなわちダイジェスト版であ り、載せるにしても記事の全文を記さずに省略している場合が多い。たとえば『日本後紀』には具体 的に人名と官職名を記す任官記事も、『日本紀略』では「任官」とのみ書いている。ここもその1例 であろう。すなわち「駅路を廃す」というのは、その前の「近江・若狭両国の駅路」を受けての表現 であろう。この2つの記事の間には閏7月の4日分の短い記事があるだけであるから、このように略 記しても、その意味は十分通じるのである。 こう考えてよいなら、延暦14年に近江と若狭で駅路の改変がなされ、両国をつなぐ駅路が廃された とみることができよう。すなわちそれまでは、近江−若狭−越前とつながっていた北陸道が、この時 点から『延喜式』の近江−越前−若狭というルートに変わったのである。 ところで奈良時代の若狭国には、『延喜式』には見えない駅のあったことが、平城宮跡から出土し た木簡から判明している。すなわち玉置駅と葦田駅である33)。このうち玉置駅は遠敷郡玉置郷の地、 すなわち若狭町(旧上中町)玉置に比定されるが、そこは濃飯駅に近い。したがって両者は同時併存 したものではなく、天平勝宝4年(752)に玉置郷が東大寺の封戸として施入されたことにより 34)、 そこに置かれていた駅が濃飯に移されたと考えられる。一方葦田駅は木簡に若狭国三方郡と記されて いる。その比定地は明確ではないが、弥美駅と濃飯駅との間隔が長いから、その中間の若狭町(旧三 方町)横渡付近に置かれていたとみられている35)。 したがって奈良時代当初は、近江から若狭に向かい、玉置駅(後に濃飯駅に変更)−葦田駅−弥美 駅と辿った後、関峠を越えて越前に入り、松原駅に至ったと考えられる。そして若狭国府に行く場合 は、玉置駅(濃飯駅)から西へ少し駅路をそれたのである。鞆結駅はこのルートからはずれるから、 駅路の変更にともなって新たに設けられた駅ということになろう。 このように奈良時代の駅路を想定すると、愛発関は当然このルート上にあったことになる。すなわ ち若狭から国境を越えて越前に入ってきた所に置かれたのである。こうした見解は私が初めてではな い。歴史地理学の立場から足利健亮氏と金田章裕氏が相次いで、奈良時代の北陸道は近江−若狭−越 前と続くものであるとして、若狭国からの北陸道が関峠を越えて敦賀平野に出た地点にある敦賀市関 付近に愛発関を比定されたのである36)。図6は金田氏の作成されたものである。私も敦賀市関付近と 33 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 いうこの説に魅力を感じる。それは不破・鈴鹿関 で見たように、関はかなりの規模を有するから国 境上ではなく、そこから少し入った、ある程度の 平地が開けた所に置かれるものだったからであ る。そうであるなら関峠を越えた北陸道が、谷部 を過ぎて平地部に出てきた関付近こそが、最もふ さわしい。ちょうど道口と同じような立地である。 ただし両氏が、恵美押勝軍がこのルートを通ろ うとしたと考えられていることには、賛成できな い。先に見たように、押勝の乱は近江国内に留ま ったのであり、若狭には及んでいない。したがっ て押勝は北陸道上に置かれた愛発関を通らずに、 湖北から愛発関に入ろうとしたのであった。この 一見すると矛盾するような事態を整合的に理解す るには、やはり不破関について指摘したように、 大関・小関という複合的構造を持つものとして愛 発関を見るしかない。すなわち愛発関の大関が、 北陸道上を若狭から越前に入った敦賀市関付近に 置かれ、小関が湖北からの道が越前国に入った同 市道口付近に置かれていたと理解するわけであ る。小関については、湖北からそこへ向かうメイ 図6 北陸道の経路変更 『今津町史 第1巻』から転載。 ンルートであった西近江路、すなわち押勝の取っ たルート①の上に、小荒路という地名があることが注目される。これは小関としての愛発関への道と いうことから生まれた地名と考えられるかもしれない。押勝は近江国府に向かう際には東山道を取っ たため、田原道を進んだ追討軍に先回りされてしまった。そこで今度は越前に向かうのに若狭経由で 遠回りとなる北陸道ではなく、湖北から直接越前に入る捷路を取ったが、そこに置かれた小関で入国 を阻止され、敗退せざるをえなくなったのである。大関・小関という視点を加えることで初めて、愛 発関の実態は解明できると考えるところである。 このように愛発関は大関・小関で、都から敦賀平野へとつながる2つの道を押さえたわけである。 そうすると押勝が最後に取った③山道は、その2つの関の中間に出るようなルートであった。これは 急峻な谷道であまり使われないルートであったから、この出口には小関は置かれなかったのか、ある いはやはり置かれていたのかはよくわからないが、 「山道を取りて直に愛発関を」目指したと、 「直に」 という表現が使われて入ることからすると、関が置かれていないルートを取って直接関が守ろうとし た地域の内部に入ろうとした、すなわち「門に由らず」に関を抜けようとする越度(衛禁律私度関条) にあたる行為をした可能性が大きかろう。この道を取っても、敦賀平野を進めば、道口付近に置かれ た小関でその動きを掌握することができたであろう。 34 古代越前国と愛発関 このように奈良時代の北陸道ルートと愛発関の位置を復元すると、『類聚国史』巻83政理5正税天 長9年(832)6月己丑(28)条の「越前国の正税三百束を、彼の国の荒道山道を作りし人、坂井郡 の秦乙麻呂に給う」という記事が注目される。この「荒道山道」は愛発の山道であり、駅路変更後に 西近江路を北陸道として整備する工事を、秦乙麻呂が行ったことを示すものであろう。すなわち押勝 が取った①のルートの、北陸道とするには不十分な箇所を、拡幅したり側溝を掘るなどの工事に協力 したのであろう。 3.愛発関をめぐる諸問題 (1) 三関の配置 前章で愛発関の大関・小関問題や北陸道のルート変更などについての私見を述べた。最後にそれを 受けて、さらにいくつかの問題点について触れてみたい。 その1つは、三関がなぜ美濃・不破関、伊勢・鈴鹿関、越前・愛発関という形で成立したかという 問題である。これは根本的な問題であり、解答を与えることは非常に難しい。そもそも三関で画され た地域の性格をどうみるかという、律令国家の有した地域概念、領域概念などを明らかにしなければ 解明できないであろう。そこでここでは歴史的観点から見た点だけを指摘しておきたい。すなわち三 関がなぜそこに置かれたのかということの背景には、壬申の乱の記憶があるのではないかということ である。あるいはそこからの教訓といってもよいかもしれない。 そもそも三関は、近江の東と北に置かれたようにみえることから、近江大津宮に都が置かれた天智 朝に設置されたものとみる見方もあった37)。しかし壬申の乱の時には鈴鹿関は『日本書紀』天武天皇 元年(672)6月甲申(24)条に登場するが、不破関は見えず、単に「不破道を塞ぐ」(天武天皇元年 6月壬午条)とのみあることから、当時はまだ成立していなかったとみられる。かつ不破関跡の発掘 調査で外郭土塁の中から和同開珎が出土したため、その成立が和銅元年(708)以後に下ることが確 実になった。したがって三関は大宝令で規定され、実際にはそれよりやや下って築造されたと考えら れるのである。そしてその際、三関は実態としては伊賀と伊勢、近江と美濃、若狭(近江)と越前の間 を画する配置を取っていたが、イデオロギー的には畿内と畿外を分けるものと意識されたであろう38)。 したがってその実態と理念の相違は、どこから生じたのかということを明らかにする必要があるので ある。それが先に述べた地域概念、領域概念の問題である。 しかしこれは畿内とは何かという問題を深める必要があるので、今暫くそれは置いておき、近江が 三関のいずれにも関わっていることに注意したい。すなわち不破関は大関・小関とも、愛発関は小関 が近江から出る道に置かれたことは既に見たが、更に鈴鹿関についても、その小関かとみられる関が 抑える近世東海道(すなわち平安時代以降の東海道)は近江から伊勢に入る道であった。またその道 は、壬申の乱で使われた道であり、当時の鈴鹿関が置かれたのも、このルート上であった。 こうしたことから私は、三関の配置と壬申の乱の経験とはやはり大いに関係があると考える39)。す なわち天智天皇10年(671)12月に天皇が崩御する前から、大海人皇子は近江を離れ吉野に隠棲して いたが、近江方が自分を攻撃しようとしていることを知り、翌年6月22日に吉野から使者を美濃国に 派遣して、安八磨郡の湯沐令多品治に挙兵を促し、また国司たちに兵を率いて不破道を塞ぐように指 35 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 示したうえで、自ら出立することを宣言し、24日に東国に向けて出発した。そして伊賀を経て翌日伊 勢の鈴鹿郡に入ると、伊勢国司や湯沐令田中足麻呂らと合流し、そこで兵を集めて鈴鹿山道を塞ごう とした。この鈴鹿山道とは近江から鈴鹿峠を越えて伊勢に至る道、すなわち平安時代以降の東海道で あろう。ここを塞いだのは、近江朝廷側の追っ手を防ぐためである。その夜三重郡家に宿泊している と、鈴鹿関司の遣わした使者が、山部王・石川王(いずれも系譜関係未詳。翌日、実は大海人の子の 大津皇子であることが判明)が到着し関にいることを報告してきた。これにより当時既に鈴鹿関があ ったことがわかる。 翌26日、朝明郡家に到着寸前に、美濃国に先発していた村国男依が、美濃の兵士3000人を集め、不 破道を塞ぐことに成功したと知らせてきた。そこで長子の高市皇子を不破に遣わし、軍事の指揮を執 らせるとともに、東海と東山の軍を集めるために使者を派遣した。その後27日に大海人皇子は美濃国 不破郡の野上に入り、以後そこを本拠とした。そして7月2日には、紀阿閉麻呂や村国男依らにそれ ぞれ数万の兵を率いさせ、前者は伊勢の大山を越えて、すなわち加太越えで倭(大和)に、後者は不 破から近江に攻め込ませている。こうして大海人方と近江朝廷方の間で戦闘が、倭・河内・近江国内 などで繰り広げられ、各地で大海人方が勝利を収めた。近江国内では湖東が主戦場であったが、湖西 の三尾でも戦闘があった。それは7月22日に羽田矢国らが三尾城を攻略したというものである。矢国 はもと近江方の将軍であったが、7月2日に犬上から不破を攻撃しようとしていた近江軍の中から離 れて、大海人方に降伏して将軍に任ぜられ、越に入ったのであった。北方から近江を攻めるためであ り、不破から湖東を北上して、越の西端にあたる後の越前に入らせたのであろう40)。そしてその後、 湖西を南下し三尾城を攻撃したのであった。それはまさに後に愛発小関が抑えたルートであった。三 尾城での戦闘の行われた22日には、村国男依らが勢多橋を渡って攻め込み、近江朝廷方は総崩れとな り、翌日に大友皇子が自殺して、壬申の乱に決着が付いた。その後大海人皇子は天武天皇として即位 したのである。 このように乱の経緯を見てくると、大海人皇子方は鈴鹿・不破・愛発から倭・近江に攻め込んだの であり、また鈴鹿と不破の道を塞ぐことにより、近江軍の進撃を防いだのであった。この経験こそ、 三関が鈴鹿・不破・愛発に置かれた理由であろう。三関は前述したように大宝律令によって制度的に 確立したが、時の天皇は天武の孫の文武天皇であり、以後奈良時代は光仁天皇が登場するまで、天武 天皇の後裔が天皇位に就き続けた。 したがっていわば創業の祖である天武天皇が皇位に就くきっかけになった壬申の乱の時に、重要な 役割を果たした3カ所を選んで三関を置くということが行われたのではなかろうか。大海人皇子は近 江朝廷からすれば反逆者である。そうした人物が東国を本拠に近江に攻め込んだ。大海人皇子が6月 22日に向かったのは、「東(あずま)」「東国」であった。律令制下の三関は、皮肉にもまさに父祖の 天皇が取ったような動きをする人物が、再び出ないように防止する機能を持つものであった。三関を 置こうとする時、壬申の乱時の教訓を想起したことは十分に考えられることであろう。三関が東国方 面にのみ置かれ、西側に置かれないのも、やはり壬申の乱の時の経験、すなわち東国の兵を集めて朝 廷に攻め込んだという経験と無関係ではなかろう。 ただし三関が置かれたとき、都は藤原京にあった。したがって大和国を囲むように、あるいはまた 36 古代越前国と愛発関 畿内と畿外との境に、三関が置かれても不思議ではない。そうであるなら近江は関の外になったはず である。しかし実際はそうはなっていない。むしろ近江を取り囲むかのような配置になっているのは、 何度も言うように壬申の乱の経験によるとともに、天武系の天皇による天智朝あるいは近江の位置づ けにも起因するように思える。すなわち天智天皇を完全に否定した上に天武系があるのではなく、元 明天皇以後の歴代天皇の即位宣命に、天智天皇が定めたという「不改常典」による即位であるとの文 言が見えるようになること41)から窺えるように、天智天皇を受け継ぐとの意識があるのであり、天智 の置いた大津宮のあった近江を三関の外に追い出すことはできなかったのであろう。しかしこの問題 は、まだ深めなければならないことが多い。ここでは1つの問題提起に留める。 (2) 愛発関の廃止 次に愛発関が平安時代には三関から排除された理由について考えてみたい。第1章第2節で述べた ように、三関を固関することは延暦8年(789)7月の三関廃止後も行われたが、そこに愛発関が見 えるのは大同元年(806)3月の桓武天皇崩御時が最後となり、次の弘仁元年(810)9月の薬子の変 以後は、愛発関に替わり逢坂関が登場するようになった。これは何故なのであろうか。 1つには、より現実的な措置を取ったという事情が考えられる。平安時代になると、平安京を出発 した東海・東山・北陸道は3本重なって山科を過ぎ、逢坂関に至ることになった。そしてそこで二手 に分かれ、東海・東山道は大関越えで東へ向かい、北陸道は小関越えで湖西を北上した。そして東へ 向かった2道は、勢多橋を渡り湖東に出て近江国府を過ぎ、今暫く重なって東北方に進んだ後に、栗 太郡内で二手に分かれ、東海道は東南方向に向かい、後述するように初めは伊賀国の柘植へ、後には 鈴鹿峠を越えて伊勢国の鈴鹿関へと向かい、東山道はさらに北上した後に東へ向かい不破関へと進ん だのである。したがって逢坂関と鈴鹿・不破関を閉じることによって、もともと三関が置かれた3道 を、しかもそのうち2つについては二重に抑えることが可能になったのである。平安時代においては 事変が起こったときに、三関の固関のみならず、宇治橋・山崎橋・淀渡など平安京の周囲の交通の要 衝を固めるというように42)、より現実的措置を取るようになったが43)、愛発関から逢坂関への変更も やはり、その一環であったろう。そこで3道のうち、より重要度の低い北陸道上の愛発関をはずし、 他の2道は二重に警戒するということになったのであろう。 しかしさらにもう1つ重要な要因があると考える。それは愛発関を通る北陸道のルートの変更であ る。第2章第3節で指摘したように、奈良時代に近江−若狭−越前と続いた北陸道は、延暦14年 (795)に近江−越前−若狭というように変わった。ところで関が置かれた位置は、これも第1章第1 節で見たように、国境を挟んだ2国のうち、都からより遠い側の国であった。だからこそ奈良時代の 愛発関では、大関は若狭から越前に入った所、小関は近江から越前に入った地点に置かれたのであっ た。ところが北陸道のルート変更後は、大関と小関の位置づけが変化し、大関はそれ以前の小関が昇 格して、近江から越前に入った所に置かれ、小関はそれまでの大関の位置とは異なり、越前から若狭 に入った地点に置かれるべきであった。そうであるなら大関は越前、小関は若狭にあることになり、 どちらの国が管轄すべきか取り扱いに困ることになる。これでは関を置き続けることはできない。 実はルート変更は東海道でも生じた。すなわち奈良時代の東海道は大和−伊賀−伊勢へと続いたが、 37 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 平安時代には『延喜式』兵部省に見える駅家によれば、山城−近江−伊勢へというルートが復元でき る。それは奈良時代の鈴鹿関の小関が抑えていた、鈴鹿峠を越える道である。ここに伊賀−伊勢間で は若狭−越前間と同じような問題が起こる可能性もあった。しかし『延喜式』のルートは、仁和2年 (886)の阿須波道の開通によって、近江国甲賀郡から鈴鹿峠を越えて伊勢国の鈴鹿駅に向かうように なったものと考えられている44)。それまでは、『日本後紀』延暦24年(805)11月壬申(7)条によれ ば、伊豆掾の山田豊濱が上京する途中、伊勢から伊賀を経由していることがわかるように、山城−近 江−伊賀−伊勢というコースであったのであろう。したがって鈴鹿関では、大関・小関の関係は仁和 2年まで変わらず、伊勢国の関として続いたのである。また『延喜式』兵部省によれば伊賀には駅家 が置かれていない。『延喜式』ルートに変更されても、駅路として伊勢−伊賀という流れはなかった のである。したがってそうなっても、大関と小関の立場の逆転だけですんだのかもしれない。 このように北陸道のルート変更により、関を置くべき場所が変わり、大関・小関の管轄国が異なっ てしまうことになったこと、これが愛発関が姿を消したもう1つの、そして主な理由であったのでは なかろうか。 (3) 越前国府の位置 最後に愛発関と直接の関係はないが、越前国府の位置について若干述べておきたい。これまで同国 府は『和名類聚抄』によって丹生郡に置かれていたことが知られ、それは越前市(旧武生市)にあっ たと考えられてきた。ところが最近、水野和雄氏はa「越前敦賀の復権」とb「『越前敦賀の復権』 執筆その後」という2本の論文を著し、奈良時代の国府は敦賀市の道口にあり、それが後に丹生郡に 移転したという、通説とは大いに異なる説を公表された 45)。たしかに国府が奈良時代以来、越前市 (旧武生市)にあったことを明示する史料はない。そこを突かれた大変興味深い説である。しかし私 はまだこの説に納得できない点がいくつかある。そこで越前国府の位置論を全面的に展開する用意は ないが、それを考える材料をいくつか提示したい。なおb論文はa論文への批判に対する反論の意味 を込めて書かれたものである。私は失礼ながらその批判を読んでいないので、あるいはこれから述べ ることを既に指摘された方もあるかもしれないが、b論文を読んでもなお疑問に感じたことを書かせ ていただく。 1つは水野氏が道口所在説の大きな根拠とされる催馬楽20「道の口」の「道の口 武生の国府に 我はありと 親に申したべ 心あひの風や さきむだちや」46)という歌である。これにより越前の国 府は敦賀市道口にあったと水野氏は考えられたのである。問題となる冒頭部分の原文は「見知乃久知 太介不乃己不尓」である。水野氏はa論文では、上にあげた訓読に従い「己不」を「国府」と読ん でいたが、b論文では上代仮名遣いの見地から「古府」、すなわち古い国府の意味に解されるように なった。その結果、敦賀から丹生郡への国府の移転は、催馬楽の成立時期(8世紀末から9世紀初め) 以前のこととされた。さらに『続日本紀』の記載の変化に注目されている。それは丹生郡の雨夜神・ 大虫神などは延暦10年(791)以前はその前に郡名を付して記されているのに、10年からはその郡名 記載がなくなっている。それは国府が丹生郡に移転したため、わざわざ郡名を書く必要がなくなった のではないかと考え、延暦10年頃あるいは同13年の平安京遷都を契機として国府が移転したのではな 38 古代越前国と愛発関 いかと推定されたのである。 まず問題になるのは、「道の口」を敦賀市道口のことと解することが妥当かどうかという点である。 既にa論文に対し、これは「古之乃三知乃久知(コシノミチノクチ)」(『和名類聚抄』)、すなわち越 前のことではないかという批判が出されており、b論文ではそれに対し、「みちのくち」だけでは備 前(きびのみちのくち)、筑前(つくしのみちのくち)などとの区別がつかないし、催馬楽の歌で国 名を詠み込んだものは33「紀の国(支乃久尓)」以外に見えず、他は16「朝津」 (浅水)や19「近江路」 などの地名であるから、この「道の口」も敦賀郡所在の地名だと反論されている。 しかしやはり右のことだけでは、「道の口」を敦賀の地名とする論拠としては弱いと考える。それ はやはり古歌である神楽歌の「気比の神楽」の中に94「道の口 隈坂山の や 葛の葉の 揺(あゆ) ける我を 夜独り寝よとや 神の 夜独り寝よとや おけ」47)という歌があるからである。この隈坂 山は加賀(現・石川県加賀市大聖寺)から越前へと続く牛ノ谷峠のある一帯の山地のことと考えられ ている48)。そうであるならこの「道の口(原文は見千乃久千)」は「古之乃三知乃久知(コシノミチ ノクチ)」のことと考えざるを得ない。なぜなら加賀は弘仁14年(823)に越前から分離独立したので あり(『日本紀略』同年3月丙辰朔条)、それ以前は越前国に属していたからである。こうした事例が ある以上、問題の「道の口」を敦賀の地名と考えるには慎重にならざるをえない。なお「気比の神楽」 という題であるから、そこに後の加賀のことがでてくるのは疑問であるとみられるかもしれないが、 そこには95「越の海」、96「能登の早船」「御坂」49)、98「気比」、99「瀬田の唐橋」、102「三尾が崎」 を詠み込んだ歌もあり、能登を含めた越の地域から近江までを含んでいるのであって、後の加賀の地 域が出てくるのも不思議ではない。 しかも催馬楽に見える国名は、決して水野氏の言われるように「紀の国」のみではない。そもそも 氏のあげた19「近江路」も国名によるものだし、10「伊勢」、31「山城」、32・50「吉備」、41「美作」、 51「美濃」など多数ある。「道の口」だけでは越前のこととわからないという点も、その歌が越で詠 まれたものなら、「道の口」=越前ということは自明のことであり、不思議ではない。 また神名への郡名表記の有無の変化の問題だが、越前のみを見るのではなく、全ての同種の記事を 見る必要がある。私も厳密に調べたわけではないが、神名への郡名記載の有無にあまり大きな意味は なさそうである。たとえば『続日本紀』の延暦年間のみを見ても、国名さえないもの、国名だけのも の、国郡名のあるものの3種があり、住吉神や賀茂上下社、松尾社など、よく知られた神名は国名も 省略されているようにみえる。また国府が置かれたから、その郡名が省略されたということについて は、たとえば宝亀11年(780)12月甲辰(14)条に、「越前国丹生郡大虫神、越中国射水郡二上神、礪 波郡高瀬神」が見えるが、越中の国府は射水郡にあるにもかかわらず、二上神にはその郡名が記され ている。こうした例があるので、郡名の有無の変化から国府の移転を導き出すのは危険ではなかろう か。これはむしろ『続日本紀』や『日本後紀』の編纂態度の問題として捉えるべきことであろう。 第2に武生市幸町から出土した「国大寺」「国寺」「大寺」などと書かれた墨書土器である。これら は8世紀末から9世紀頃のものという50)。この国大寺については、水野b論文でも指摘されているよ うに、根津美術館所蔵の『大唐内典録巻第十』の奥書が注目される 51)。それによると天平勝宝7歳 (755)に行われたこの書写を発願した六人部東人は越前の国医師であり、丹生郡の秦嶋主が一校、国 39 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 大寺僧闡光が二校というように校正を担当した。また書写と装 は左京の人が行った。そもそも国医 師は各国に1人ずつ置かれ、基本的に当国の人をあてることになっていた(職員令国博士医師条・選 叙令国博士条)。そして国府の一員として、国司と同様の職務を行うこともあった。すなわちこの書 写は六人部東人が、国医師として越前と京とを往来する中で形成された、人的ネットワークを通して 実現したものであった。東人がどこの人かは不明だが、六人部姓は丹生郡にいたことが知られる52)。 国大寺も墨書土器から丹生郡にあったとみられる。そうするとここに登場する越前関係者はすべて丹 生郡の人と考えてよいのではないか。そうであるなら国医師である六人部東人がいるのは丹生郡であ ることから、やはり彼が勤務した国府は丹生郡にあったとみられるし、国大寺とは国府の近辺にあっ た国分寺のことと解せよう。国分寺の寺田が丹生郡にあったことも傍証となろう53)。 水野氏は墨書土器の出土地が、従来の国府域比定地内であることから、国分寺と考えることは困難 だとされるが、国府域が8町四方というような領域を占め、条坊制的方格地割が施工されているとい うことは、近年の調査成果からは考えがたくなっている54)。やはり国府と国分寺は近接していたので あろう。なお道口の国府城として6町四方を想定されている点も、問題が残ろう。 第3にもし水野氏の言われるように敦賀市の道口に愛発関があった場合、第1章第1節で見た天平 2年度「越前国大税帳」と整合的かという問題がある。そこでは各国司が自署すべきところ、掾の坂 合部葛木麻呂は「監関」に出かけており、国府にいなかったため自署を加えていなかった。もし水野 氏のように愛発関を敦賀市雨谷、山あるいは公文名に、国府を道口に比定すると、その距離はせいぜ い3㎞程度である。それなら彼が国府に来て自署する機会も十分あったであろう。もし私の言うよう に愛発関が関や道口にあったとしても、状況はそう変わらない。やはり国府と愛発関はかなり距離が 離れているからこそ、自署できなかったと考えるほうが妥当ではなかろうか。 水野氏の説は魅力的ではあるが、こうした問題がある以上、当初から国府は丹生郡にあったという これまでの通説を覆すには、まだ検討すべき問題が多く残されていると考える次第である。 おわりに 以上3章にわたって、愛発関の所在地とその成立・廃止の事情などについて検討を加えてきた。位 置については一応の結論を得たが、これが的を射ているかどうかは、最終的には発掘調査によって関 跡が確認されなくては、決着を付けることはできない。いつの日か、関跡が見つかることを期待した い。また愛発関をはじめとする三関の配置については、やはり畿内の意味と近江の位置づけなどを明 確にする必要がある。これは本文中でも述べたように、律令国家の地域概念・領域概念と関わる問題 であり、今回は検討することができなかった。また越前国府の位置も、まだ十分に検証できていない。 これらの点は他日を期したい。 〔付記〕本来、本稿で考えたようなことは、地理をよく理解していないと、的はずれな議論になってしまうものです。 一応は各ルートを通ったことはありますが、地元の方からすれば、成り立たないとのご批判があるかもしれま せん。また水野和雄氏には非礼を省みず、ご論文に批判を加えることになってしまいましたが、ご寛恕の程を お願いしたいと思います。目的は愛発関や国府の位置の確定です。それに一歩でも近づくために、水野氏をは じめとして読者の方々の、ご批判、ご教示を賜ることができましたら幸いです。 40 古代越前国と愛発関 注 1)愛発関調査委員会・敦賀市教育委員会『越前愛発関調査概報Ⅰ』∼『同Ⅳ』(1998∼2001年) 。 2)筆者は愛発関調査委員会に委員の1人として参加し、本稿で述べるような愛発関の位置についての私見を述べた ことがある。それについては既に注1)前掲『越前愛発関調査概報Ⅰ』に史料研究会講議録の形で掲載されてい る(「愛発関をめぐる研究状況」)。また福井県史研究会第4回研究大会(2000年10月28日)で「都と若越をつなぐ 道」と題した講演の中でも、それに触れたところである。後者は『福井県史研究会会報4』(2001年)にやはり講 演録の形で掲載された。しかし論文として執筆してはいないので、内容的には重複するところはあるが、改めて ここで愛発関に関する私見をまとめさせていただきたい。こうした場を提供していただいた県文書館に感謝したい。 3)人々を戸籍・計帳に登録し、戸籍に基づいて口分田を基本的にその本貫地(=本籍地)の郡内に、もし郡内に十 分な土地がなければ当国内の他郡に班給して生活の安定を図り、その上で計帳によって税を徴収した。こうした 支配の仕方を維持するには、人々が勝手に住居を変えて移動することを防がなくてはならなかった。そこで人々 の基本的行動圏を郡内とし、最大でも国内に限り、許可なしに国境を越えて他国に行くことを、浮浪や逃亡と呼 んで禁じた。こうした支配方式を本貫地主義と呼ぶ。本貫地主義及び関の性格などについては舘野和己『日本古 代の交通と社会』(塙書房 1998年)参照。 4)宮内庁書陵部には近世の物ではあるが、檜製の関契(木契)が伝存している。それは2片1組で、2片を合わせ ると長さ約9.2㎝、幅・厚さ各約3㎝となる木片の中央に「賜伊勢国」と墨書されている。他に「賜美濃国」「賜 近江国」の右片のみのものもある。これらはもと九条家に伝わったもので、宝永6年(1709)6月21日の東山天 皇譲位に伴う固関時のものとみられている(平林盛得「資料紹介 固関木契」『書陵部紀要』39 1987年)。ここ で越前国の替わりに近江国が見えることについては、後述する。 5)律令研究會編『譯註日本律令2(律本文篇上巻)』(東京堂出版 1975年)。 6)この関については、本稿では以後「逢坂関」と表記することにする。 7)田名網宏『古代の交通』(吉川弘文館 1969年)、横田健一「大和国家権力の交通的基礎」『白鳳天平の世界』(創 元社 1973年。初出は1962年)など。 8)岸俊男「元明太上天皇の崩御」『日本古代政治史研究』(塙書房 1966年。初出は1965年)。既に早く喜田新六「上 代の関の研究」 (『歴史地理』57−4 1931年)にも同様の主張が見える。 9)基本的にと言ったのは、陸奥や長門においては関が存続していたからである(『類聚三代格』延暦21年12月某日太 政官符・承和2年12月3日太政官符)。 10)『類聚三代格』の勅は鼇頭に「弘兵」とあるように、もともと弘仁兵部格に収録されたものである。その際に勅の 内容を一部改変したのであろう。 11)たとえば承和7年(840)5月の淳和太上天皇の崩御(『続日本後紀』同月癸未条)、承和9年7月の嵯峨太上天皇 の崩御(『同』同月丁未条)の時など。なお固関は形式的には近世末まで行われたが(注4)前掲平林論文参照)、 それは固関使の任命に留まった。 12)たとえば不破関については、仁寿3年(853)4月26日太政官符(『類聚三代格』)の中に引かれた美濃国解は「此 の国、関を停むるの後、往来を制せず」と述べている。 13)岐阜県教育委員会・不破関跡調査委員会『美濃不破関』(1978年)。なお奈良文化財研究所『古代の官衙遺跡Ⅱ 遺物・遺構編』(2004年)参照。 14)『伊勢国鈴鹿関に関する基礎的研究 研究成果報告書』(平成3年度文部省科学研究費補助金 一般研究A 研究 代表者八賀晋 1992年)、八賀晋「伊勢国鈴鹿関について」 『三重県史研究』8(1992年)。 15)大関・小関の構造は近江の逢坂関についても指摘できる。同関は逢坂山を越える道におかれたが、それには大関 越えと小関越えという2つのコースがあり、前者は奈良時代の東山道(平安時代以降の東海道・東山道)、後者は 北陸道となっていた。舘野注3)前掲書第2編第1章「古代国家と勢多橋」参照。 16)以下の恵美押勝の乱の経緯についての史料の読みは、新日本古典文学大系『続日本紀四』(岩波書店 1995年)に よる。また一々の出典は省略する。なお岸俊男『藤原仲麻呂』 (吉川弘文館 1969年)参照。 17)鈴木景二「わたしの現地調査−峠と島の事例から−」『展望 日本歴史 月報15』(東京堂出版 2002年)。 18)「笠朝臣金村、塩津山にして作る歌二首」(『万葉集』巻3−364・365)からも、敦賀へ向かうのに塩津山を通った ことがわかる。 19)吉田東伍『大日本地名辞書 北国・東国』(冨山房 1907年)、大槻如電『駅路通』(六合館 1915年)、山本元 「愛発古関考」『歴史地理』13−5(1909年)など。 41 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 20)藤田明「愛発関址」『歴史地理』5−10(1903年)など。 21)井上通泰『上代歴史地理新考 南海道・山陽道・山陰道・北陸道』(三省堂 1941年)、藤岡謙二郎『都市と交通 路の歴史地理学的研究』(大明堂 1960年)、木下良「敦賀・湖北間の古代交通路に関する三つの考察」『敦賀市史 研究』2(1981年) 、『敦賀市史 通史編上』 (1985年)など。 22)水野和雄「越前敦賀の復権」敦賀市立博物館『紀要』14(1999年)、同「『越前敦賀の復権』執筆その後」『福井考 古学評論』10(1999年) 。 23)木下良「三関跡考定試論」 『織田武雄先生退官記念人文地理学論叢』 (柳原書店 1971年)など。 24)山尾幸久「古代近江の早馬道」上田正昭編『古代の日本と渡来の文化』(学生社 1997年) 。 25)古代駅路は発掘調査の成果により、できるだけ直線になるように設定され、かなりの道幅で、両側溝を有するこ とが判明している。その規模は10m以上に昇るところもあるが、北陸道は石川県加茂遺跡では、奈良時代に路面 幅7mであったものが、9世紀には約5mに狭められ、富山県境の倶利伽羅峠では6、7mの古道が確認されて いる。古代交通研究会編『日本古代道路事典』 (八木書店 2004年)参照。 26)郷推定地の比定については『福井県史 通史編1 原始・古代』(1993年)第4章第1節2「若越の郷(里)」(舘 野和己執筆)参照。 27)奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』15。 28)奈良国立文化財研究所『飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報』5、『平城宮木簡1』347号木簡、『平城京木簡1』 13号木簡、『平城宮発掘調査出土木簡概報』34など。 29)藤岡注21)前掲書、山尾注24)前掲論文。 30)注26)前掲書第4章第3節「都につながる北陸道」(真柄甚松執筆)は敦賀市松島地区あるいは櫛川町付近に比定 する。なお水野和雄「越前敦賀の復権(注22)前掲)は、御名または公文名付近が有力とする。 31)藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』(大明堂 1978年)第4章第1節「近江国」(田端与利男執筆)。 32)『続日本紀』養老6年8月丁卯条・天平宝字6年5月壬午条など。 33)前者は天平4年の「玉置駅家三家人黒万呂」の調の荷札(奈良国立文化財研究所『平城宮木簡一』346号木簡)、 後者は「若狭国三方郡葦田駅子三家人国□」の調塩の荷札(同『平城宮発掘調査出土木簡概報』19)である。 34)天平勝宝4年10月25日「造東大寺司牒」(『大日本古文書 家わけ18東大寺文書1』4頁、『福井県史 資料編1 古代』文書類22)。 35)注30)に同じ。 36)『志賀町史 第1巻』(1996年)第3章第2節「律令体制の時代」中の「古北陸道の変遷と条里遺構」(足利健亮執 筆)、『今津町史 第1巻』(1997年)第2章第2節「古道と条里」(金田章裕執筆) 。 37)横田注7)前掲論文、喜田注8)前掲論文など。 38)舘野注3)前掲書第1編第1章「律令制下の交通と人民支配」。 39)以下の記述は一々出典を示さないが、『日本書紀』天武天皇元年の記事による。なおそこに見える郡・郡家や国司 など当時はまだなかった用語も、そのまま用いる。 40)越前の初見は、『日本書紀』持統天皇6年9月癸丑条である。それ以前は越中・越後を含めて越国と言った(『同』 天智天皇7年7月条など)。木簡では高志国と表記されている(奈良文化財研究所『飛鳥・藤原宮発掘調査出土木 簡概報』15、卜部行弘・鶴見泰寿「奈良・飛鳥京跡苑池遺構」(木簡学会『木簡研究』25 2003年))。 41)『続日本紀』慶雲4年7月壬子条・神亀元年2月甲午条など。 42)弘仁元年9月の薬子の変の時には、本文で述べたように三関固守とともに、「宇治・山埼の両橋、与渡市の津に頓 兵を置」き(『日本後紀』同月丁未・戊申条)、承和9年7月の嵯峨上皇の崩御と承和の変の時には、やはり三関 固守を行い、また京職に街巷を警固させるとともに、宇治橋・大原道・大枝道・山埼橋・淀渡という「山城国の 五道を固め」させた( 『続日本後紀』同月丁未・己酉条) 。 43)舘野注3)前掲書第1編第2章「律令制下の渡河点交通」。 44)『日本三代実録』仁和2年5月15日癸巳条に近江に新たに阿須波道を通すことの利害を検査させていること、同年 6月21日己巳条に伊勢斎王が近江の新道を取って伊勢神宮に入ったことが見える。藤岡謙二郎編『古代日本の交 通路Ⅰ』(大明堂 1978年)第2章第1節「近江国」(桑原公徳執筆)、足利健亮『日本古代地理研究』(大明堂 1985年)第7章「近江の土地計画」参照。 45)abともに水野注22)前掲論文。 46)読み及び本文に付した歌の番号は日本古典文学大系『古代歌謡集』(岩波書店 1957年)による。 42 古代越前国と愛発関 47)注46)に同じ。 48)『石川県の地名』 (平凡社 1991年) 。 49)これが深坂峠である可能性については、第2章第2節で述べた。鈴木注17)前掲論文参照。 50)武生市教育委員会文化振興課「越前国衙跡確認調査の成果から」 『武生市史編さんだより』28(1997年)。 51)『福井県史 資料編1 古代』文書類33。この墨書土器と『大唐内典録巻第十』奥書との関係については、舘野注 3)前掲書第3編第4章「日本古代の都鄙間交通」でも指摘した。 52)天平神護2年10月21日「越前国司解」(『大日本古文書(編年文書)』巻5−554頁、『福井県史 資料編1 古代』 越前国東大寺領荘園関係文書44)。 53)注52)に同じ。 54)奈良文化財研究所注13)前掲書参照。 43 一地方新聞の軌跡 一地方新聞の軌跡 ―第2次福井新聞の1年9か月と南越倶楽部― 池内 啓* 1.創刊より第1回総選挙まで 2.第1回総選挙後より廃刊まで 1.創刊より第1回総選挙まで 明治22年(1889)10月10日福井新報廃刊後同新聞のスタッフの一部を引きついで福井市佐久良下町 15番地で創刊され、約1年9か月後の24年6月30日の短期間で廃刊を見るに至った第二次福井新聞の 政治的立場の変遷の経緯をその紙面、主として社説(論説)を通じて考察することが本稿の目的であ る1)。 さて、福井新報はかねてよりの経営不振に加え社主の藤井五郎兵衛を中心とする経営陣と主幹山本 鏘二を中心とする編輯陣との角逐が表面化していた。そして先ずは20年の暮にその勢力を残しつつ社 主藤井の一応の退社を見、他方改進党勢力の扶植に失敗し、第1回の総選挙を前に改進党候補者を出 し得なかった福井の政治状況に新聞続刊の意欲を失いつつあった主幹山本の処遇未定のまま新しい新 聞経営を模索しつつ、兎も角も新聞購読層を確保しておく意図の下、新報の一部スタッフにより新し い新聞の刊行に至ったのであった2)。それは発行人兼印刷人奥村定松、編輯人山田海平、定価1枚1 銭4厘、1ケ月前金32銭、紙面は福井県録事、官報、社説、雑報、広告欄といった構成であった。そ して発刊第1号に社会の元気なるもとは独立不偏の言論と操觚者の社会的地位の独立とであるとこと さらに言論の旺盛と自由を強調し、我が福井新聞社大いに此に見るところあり独立の位置を以て本日 その第1号を発刊せりと書いた3)。そこにはある意味で福井新報後期における社内部の空気を物語る ものがあり、ともかくも新出発にあたっての編輯陣の決意を示したものが窺われた。 なおまた新聞創刊前後の状況に関して22年9月19日(第2317号)刊行後休刊し10月10日廃刊に至る までの数日間における同新聞社内の動静についての定かなる面は不明であるものの、後に述べる如く 南越倶楽部の動向に対する打診等が若干行われていたものと想像できる。このことについては、1通 の書翰がその辺の事情の一端を教えてくれる。それは新聞創刊2日後、杉田定一の上京の前日に福井 新報以来の編輯陣の主要人物であった牧本一秋が10月12日付で杉田に宛てたものである4)。それは新 報内での藤井と山本との確執を縷々説明すると同時に独立した山本による新しい新聞発行について杉 田の援助を求めたものであり、また上京する杉田に長谷川豊吉等南越倶楽部内の暁グループとの相談 を依頼したものであって、杉田と南越倶楽部の動静を打診する微妙な様相が窺われるものがあった。 そしてこの時期一方の南越倶楽部の側にも新聞刊行の思惑が生まれつつあった。それは22年4月10日 *福井大学名誉教授、元福井県史近現代史部会長 45 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 に武生、向陽社より第1号を刊行した南越倶楽部の機関誌「暁」が月刊であり、発行部数もそれ程多 くなく、また同誌の刊行目的(大同団結運動の県内機関誌)が一応達成を見たことと相まって第1回 の総選挙に対応すべき同倶楽部の機関日刊新聞の必要が配慮されつつあったのである5)。なお、第二 次福井新聞について当時の中央新聞の報道等に見られた第1回総選挙をひかえ県内第3選挙区より立 候補する予定の中島又五郎(武生町出身、在東京、再興自由党)の選挙用の新聞としての姿勢を明ら かにするのは、やや後日に属することであった。 新聞が発刊された10月より11月にかけての政局は条約改正の中止断行の論議が沸騰するなか遂に大 隈外相の遭難事件を惹起することになり、結局黒田内閣の退陣、三条暫定内閣の成立、条約改正延期 となり、しばらくは政局の混迷を続けることになった。そして伊藤、山県特に井上等藩閥功臣の去就 が注目されていた。新聞はこの間、政治的立場を鮮明にはせず、雑報欄中に東京通信並に東京の新聞 紙の抜粋を数多く載せ、主として中央政局の推移を中心に紙面を構成することを続けた。社説欄に於 いても雑報欄の内容に若干のコメントをつけて政府部内の動静を論ずるものが多くを占めたのであっ た。そこには政治的立場に関するものはとりたてて見るべきものはなかった6)。 次いで22年の暮が迫るなか民間の政情は新しく動き始めることになる。それは『明治政史』にも爰 に条約改正の波瀾漸く収り、旧自由党再興の事又起ると誌した如く7)、高知に帰臥していた板垣がこ の10月、先に大同団結運動の過程で分裂し抗争を続けるに至った政社派(大同倶楽部)非政社派(大 同協和会)の人々に書き送った書状8)で強調した両派の統一の問題であった。それは第1回総選挙並 に議会開設を目睫にした焦眉の課題でもあった。かかる板垣の書状を導火線にして両派の動きが活発 に行われることになる。しかし非政社派は自由党再興の線を譲らず、政社派も再興否定の線を譲らず、 それぞれ自派を中心に板垣を擁せんと彼を軸とした両派の綱引が展開されることになる。かくて板垣 は若干の経緯を経て12月大阪に出で、旧友懇親会の名の下に同志を集め愛国公党と名づける一政党を 結成、その名の下に両派の統一を計らんとした。12月19日旧友懇親会は大阪東成郡桃山産湯楼で開催 された。しかしそれは見事に失敗、彼の意図する統一と反対に両派の対立は一層激しさを加えること になったのである。 以下しばらくこの間の杉田並に南越倶楽部員の行動を大同倶楽部事務報告(自明治22年5月至23年 4月9))並に『明治政史』の記述から抽出して見ておこう。10月13日上京した杉田は早速活動を開始、 10月17日に予定されていた大同倶楽部臨時大会に増田耕二郎、河野彦三郎と共に出席、18・19日に及 ぶ会議に参加し、11月20日杉田は福井県の常議員として出席の旨を届出、その日の臨時常議委員会に 出席、11月25日杉田と高橋基一の両名神戸を出発、高知へ、板垣を訪う。12月始杉田帰京、12月2日 より4日の常議員会に出席、12月17日来阪、12月18日板垣の招聘により杉田、永田定右衛門、時岡又 左衛門板垣を宿所に訪う。12月19日旧友懇親会に杉田、永田定右衛門、湯浅徳太郎、増田耕二郎等出 席、12月20日中ノ島洗心館にての大同倶楽部臨時大会に杉田、永田、増田、湯浅、松下豊吉出席と以 上のように杉田並に南越倶楽部員の活発な行動が続けられた10)。この間新聞は「大同団結派の近状11)」 を掲げ、そのなかで自由党再興をめぐる大同団結の政社非政社両派の対立が来る17日の大阪大会に於 いて板垣の提起せる愛国公党の名の下に自由主義の一大政党として結合することを期し「嗚呼伯の主 義自由に在て動かさること山の如くならんにはその党名の如何の如きその小異の合し難きが如き何ぞ 46 一地方新聞の軌跡 豁然たる大悟の眼を開きて之を堪へ大同団結の党友挙げて協同の運動を為し改進党に自治党に保守党 諸派に当りて明年の国会議員撰挙場裏に愉快なる活競争を試みられさるや今日に於て分裂の徴あらん とするが如きは東京大同両倶楽部の為に深く惜まんとするところなり」と書いた。そこには板垣を核 とした旧自由党派の統一への熱い眼差が窺われた。そして以後17日に至るまでの両派の動きを雑報の なかにしばしば掲載して行くのであった12)。そして12月15日より「自由党再興に関する大坂諸新聞の 記事」と題する欄を設け同月27日に渉る間報道するところがあった13)。また12月22日より3日間板垣 が旧友懇親会で行った意見書を連載したのであった。そして24・25日の両日に「板垣伯旧友大懇親会 の結果14)」を掲げ旧友懇親会で板垣の下に政社、非政社両派が合して一大政党を創造するに至るやと の予測が外れ、かえって両派の外に関西自由党(旧友懇親会後の大同倶楽部より別れ高知県人を中心 に結成された15))を見て結局3派に分裂するに至った大懇親会前後の一連の経緯を叙し「伯は愛国公 党樹立の初志は全く断念し三派共に自由主義を奉じ異主義の大同団結中に現出せざりしをせめてもの 家土産として病痾癒ゆるの日には再び南海潮江の旧草陋に締鈎し三派合同以て他の異主義者に当らざ るを得ざる時運の到来するを待たれんとするか」と書き、あくまでも板垣の意図を支持した。そして 各派の種々の画策の風説を否定して「唯折角板垣伯が円滑に一大政党の下に政社非政社両派の人々を 収拾せんと幾多の苦心と熱心とを以て試みられしに関せすその終に成功せざりしを悲しむなり」と旧 友大懇親会の不成功を惜み板垣伯の再起を望んだのであった。 越えて23年1月3日板垣伯の立案「愛国公党の趣意書」が発表された。1月9日紙面に兼て噂の高 かりし板垣伯の愛国公党の趣意書は此程愈々脱稿したりとて其案を得たれば左に之を掲載すと書いて 同書の一部(前半)を掲載した16)。そして他方また予定されていた再興自由党の結党式が1月21日挙 行され、趣意書及び盟約書が発表された。創立委員の一人に中島又五郎の名が認められた17)。 1月11日南越倶楽部の委員総会が羽畔月見亭で行われ、客月同委員の大阪大会出席の報告と、愛国 公党に加盟するか大同団結に賛成するかを議し、協議の末愛国公党に加盟することを決議し、各郡の 倶楽部員に通知した18)。 かくて再分裂した旧自由党系の各派、即ち大同倶楽部、再興自由党、関西自由党、青年自由党19)、 愛国公党はそれぞれ各自党勢の拡大を期して運動を続けることになった。新聞はこれらの情勢につい て「自由主義に対する或者の一説20)」を書き、そのなかで現在の自由主義者の分裂状況もいずれ板垣 伯の唱道する愛国公党を中心に団結する時期を見るに至ることを予知したのである。 22年の暮から23年1月の期間における自由党再興の動静を報ずる紙面のなかに自由党への傾斜の色 合いと論調が見え始めていた。このことは恐らく創刊前後種々の思惑を秘めて行われていたであろう 福井新聞側と南越倶楽部の暁グループの間の談合が漸次結実しつつあったことを想像させるものがあ った。このことは2月11日に至って新聞の題字の改定のことにも表われていると云えよう。また2月 19日福井新聞社編輯局員の名で以て謹で我投書通信の特志家諸君に懇請すと題する社告を出し、読者 よりの投書通信の内容について一定の基準を設ける意図を表明したことのなかに紙面構成及び編輯方 (ママ) 針の変化を窺わせるものがあった。更に「憲法発布紀年祭日21)」のなかで各政党の第1回総選挙を目 睫にした動静を報じ、特に「我が地方の志士が政党に於ける熱心は未だ今日には敢て表面には顕はれ ざるも必ずや其裏情には期するところあるに相異なかるべきか。特に吾人面前著しき運動を見るべく 47 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 思はるゝは南越倶楽部にして、既に大阪の旧友懇親会にもその委員を派出し、その後本年に入つても その委員会を開設し頓てその惣会をも開くとの事なれば、同倶楽部の運動は是よりして吾人の眼界に 浮ぶなるべし」と政情の漸く動きつつあるなか南越倶楽部の動向に世人の注意を向けたのであり、こ の段階で前述の如く南越倶楽部の機関紙としての性格は明らかに見てとられることになったのであ る。 3月に入って紙面は更に南越倶楽部の機関紙としての旗色を鮮明にすることになる。県内では総選 挙の投票日に向けて各選挙区内に於ける準備は進められつつあった。第3区に於いても3月2日武生 町で丹南3郡の地主有志家2百名程が集会し、増田耕二郎、松下豊吉、山本喜平等の主導の下、武生 出身であり再興自由党の重鎮である中島又五郎を候補者とて推挙することを決議した22)。既にこの時 期までに南越倶楽部の執行部である増田、松下を中核とした武生グループによる中島擁立が倶楽部内 での意思統一を俟たずに画策されており、それと引き換えに新聞に対する中島側よりの資金提供等の 約束がなされていたものと想像される。そして「我地方の国会議員の候補者23)」で冒頭本年も2月は 既に過ぎて3月に入り国会議員選挙期なる7月1日は百日を出ずして吾人の頭上に来らんとすと述 べ、各選挙区の状況について、第1区はなお静かなり、第2区は別に候補者を予定せざるも早くその .... 人の存せるが如く、第3区はその一部に於て予選会を開き、その候補者早くも定まり、第4区では大 飯、遠敷より政治上同主義の二人を推せんとせりと、また我地方に顕れしは第3区と第4区の3人な り。蓋し何れも自由主義にして愛国公党と再興自由党に属せるに似たりと書いた。そして中央の自由 主義者は分れて数個にも為り、大同団結は孤立し、愛国公党は新立し、この他に2派の自由党あり、 自由党には我地方の自由主義者は左袒するの模様無きが如くなるも、愛国公党と大同団結は第1より 第3に至る3区に在ては未決の問題たるなり。この問題決まるところ則ち国会議員の選挙に尠からざ る影響を与ふべきかと書き、第3区に於ける中島の擁立のことを暗に側面より主張したのである。そ してまた衆議院議員本郡の模様は第1土着の人を推すか他郷の人を推すかの二途に分れ、この定議の 決により略其候補者定まりたる者の如し、土着なれば永田定右衛門氏、他郷人なれば中島又五郎氏な らん。其他斎藤修一郎、山村貞輔氏その他の人は永田中島の2氏に迚も及び難からんと書いた24)。更 に「板垣伯の来遊に於ける我地方の感情25)」のなかで、先ず板垣の自由主義の統一に対する熱情に賛 意を表し、伯の来福を歓迎することを強調すると同時に、「愛国公党に賛成を表するの一事に至ては 今些し天下の形勢を観察すべしと云うの分子をも同倶楽部に生出すべきか。今日の南越倶楽部が衆議 院議員候補者に対して意見を異にするを以て、その抱合親和の情感まで前日の比にあらずとは一般に 疑を懐くところにして、東京二三新聞紙の如きは福井電報として早くも之を上欄に記載せるにあらず や」と書いた。また伯に対する歓迎は歓迎なり、愛国公党加盟は愛国公党加盟なり、自から別問題と して、観察すべきかとも書き、問題は南越倶楽部が第1区より第3区に於いて自由主義の候補者に絞 り、選挙運動を推進し成功させることが愛国公党の隆替、南越倶楽部の盛衰に関する大問題だと論じ た。そして最後に南越倶楽部の一部の人々が再興自由党の役員を第3区の候補者に選挙しても南越倶 楽部全体が同党に加盟したとは断言出来ず、自由主義派のいずれ一つの旗色にまとまるかは自由党と も旧大同団結とも愛国公党とも今日の未定問題たりと追記したのである。そこには南越倶楽部の愛国 公党加盟問題と第3区に再興自由党の中島を推す新聞社の立場との間に交錯した微妙な違和感を否定 48 一地方新聞の軌跡 し得ないものが横たわっていたのである。 さて、南越倶楽部は3月23日、7郡の重立たる有志者80余名会合の下総会を開き、会頭杉田の政況 演説の後 一、南越倶楽部は同主義の合同を図る為愛国公党に加盟す。一、右の趣意を以て直ちに大 同倶楽部の関係を絶つべし。一、脱党の趣意書は役員に托す。との協議案を満場一致で可決し、また 倶楽部を政社組織にすることを可決した。そして次に板垣伯の来福にかかる諸案件を議し、伯出迎え のための上坂委員2名を選んだのである26)。かくて種々の経緯の下、板垣の北陸漫遊を契機に南越倶 楽部は愛国公党に加盟することになった。早速紙面に「南越倶楽部愛国公党に加盟す27)」を掲げ、南 越倶楽部が愛国公党に加盟するの政治的立場を解説したのであった。先ず冒頭「我地方の政治上に於 ける一大団体あり。南越倶楽部と号す。その主義は自由を戴き、従来は大同団結に加盟せり。」と書 き、去る大阪に於ける旧友懇親会後分裂した旧自由党派のいずれに同倶楽部が加盟するかにつき種々 の経緯のあったことを論述したあと、23日の総会で愛国公党に加盟し、板垣伯と運動を共にすること に決したことを説明した。しかし同倶楽部が愛国公党に加盟したことは、再興自由党の中島を第3区 の候補者に推す新聞の立場との間には微妙な違和感を生ぜざるを得ない問題であった。そこで「南越 倶楽部が大同団結の旧盟を脱し、愛国公党に加盟したる精神は同主義の合同を謀らんとするに在りて、 その眼界の最も広大、他の小異に拘泥して瑣事に齷齪せんとする比にあらざる如く推想さるれば、倶 楽部の各分子は永く今日の精神を忘るべからず」と強弁し、板垣伯の愛国公党樹立の目的が将来の各 派の合同を期するものである点を強調し、総選挙に於いて再興自由党、大同団結党、愛国公党所属の それぞれの候補者を選定し、その立場を異にすること、それは選挙場裡のこと、禍根を後に残すべき でないと殊更に新聞の立場を弁明した。なお、南越倶楽部は翌24日役員及評議委員会を開き、総会の 議定で役員及評議員に嘱託したる規約修正其他細則等を評議し、板垣伯接待及懇親会開設準備の打合 せとまた大同倶楽部脱党の趣意書を起草郵送した。趣意書の文面は「拝啓我南越倶楽部ハ深ク天下ノ 大勢ヲ顧慮スル所アリ茲ニ貴党ト関係ヲ絶ツ此段申込候也 明治廿三年三月廿四日 南越倶楽部 大 同倶楽部御中」であった28)。 また23日の総会出席者は坂井郡30名、吉田郡11名、足羽郡12名、福井市2名、丹生郡9名、今立郡 5名、南条郡5名であり、当時の南越倶楽部の主要な倶楽部員達であった29)。また板垣伯接待委員に は松村甚左衛門(才吉)、丹尾頼馬の両名が上坂することになった30)。 さて、一方しばらく新しい活動の地を求めて新聞社内に不遇の身をとどめていた山本鏘二にようや く改進党系の高田新聞の主筆という新天地が開かれることになった。4月7日福井を去り、越後高田 に移ることになった31)。そして4月8日の社説欄に前主幹山本鏘二の署名入りで彼の退社の辞「留別」 が掲載された。それは冒頭に「桃紅柳緑実に一年の最好時節、山笑ひ水楽しむの今日に在て、生が哀 別の涙を福井新聞社に濺がざるを得ざるに べるは抑も何ぞや」と続いて彼の第1次福井新聞に於け る10年に渉る苦闘を語り、「唯十年の星霜長からざりしにあらずと雖も国会開設の準備としては甚だ 短く、生が予期の年を以て来り、実地の年を以て去れる一身の上より見るも黄梁の一夢、筆硯其効少 なかりしに釈然自失するのみ」と敗残の辞を述べたのである。そこには福井に於ける新聞界、政界に 対する不満が横たわっていたのであり、また敢て紙上に山本の留別の文を掲載したことは、過去行を 共にして来た編輯陣の彼に対するはなむけの一つであったといえよう。そして翌9日、社員一統の名 49 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 で「送別」と題する社説を掲げ、山本の新聞社に於ける功績をたたえた。既に当時の紙面には、しば らくは残存していた福井新報の色調は全く失われていたのである。山本が離福する前後の紙面には板 垣来福に関する記事が溢れ、4月6日には板垣の肖像画が大きく掲げられ、「板垣伯を歓迎す」との 社説が掲載されていた。板垣の来福と山本の離福が期を一にしたことは、福井新聞にとって歴史的な 運命を物語るものといえる。 さて、かかる新聞の政治的立場の漸次変化を見つつあるなか愛国公党の党勢拡大の為の運動が活発 化することになる。即ち23年1月板垣の愛国公党樹立の趣意書の発表を契機に全国各地の有志者より 板垣招請の機運が高まり、彼による愛国公党結党へ向けての遊説行が始まることとなった。3月9日 より23日の間、数名の随行員と共に、関西、中国、四国地方を、続いて4月2日より12日の間、福井、 三重県に渉る遊説が行われた32)。新聞の報道によれば、福井県での行程は下記のごときものであって、 それぞれ各地で懇親会、政談演説会が盛大に挙行された。4月2日神戸発大津へ、3日大津より小浜 へ、4日小浜より敦賀へ、5日敦賀より武生へ、6日武生より福井へ、8日離福、三重県へというも のであった 33)。かくて紙面はしばらく板垣来福の記事で埋まることになる。先ず4月3日の紙面に 「来五日の福井新聞紙上には今般来県さるゝ南陽臥竜翁板垣退助君の肖像を掲くべし 福井新聞社」 との社告を掲載し、予告より1日遅れの6日の第2面に大きく肖像画を掲げた。また4月5日には7 日に予定された板垣伯招待大懇親会の広告が福井市内の交同社グループと南越倶楽部とによって大き く載せられた。特に南越倶楽部のそれには板垣を迎えて意気熾んなるものがあった34)。次いで「板垣 伯を歓迎す35)」を掲載、その冒頭に板垣伯が自由主義か、自由主義が板垣伯か、世人実に之を識別す るに苦しむと書き、彼の自由民権運動での一貫した政歴を叙した上、本日の紙上伯の肖像を掲げたる に就て読者吾儕微意の在るところを諒せよ。然れども不偏不党の我社決して板垣伯に媚ぶるにあらず、 また自由主義に諛ねるにあらず、伯が一貫の節義、知らず覚へず然らざるを得ざらしむるなりと書い た。そこには板垣を歓迎するなかに、愛国公党一辺倒なるを得ない新聞の立場を内包した一抹の軋み に似たものを覚えさすものがあった。そして6日夜の板垣伯慰労会、7日の大懇親会、並に当日の板 垣の演説等を詳細に報道するところがあった。それによれば、6日夜の五岳楼での慰労会には福井市 内及び県内、更に石川県より2百余名が参集、本会々主、大野の広瀬明が開会の主意を述べ、随行員 栗原亮一が挨拶並に演説、板垣の懇篤な卓上演説、続いて植木枝盛の演説が行われ、それぞれ自由主 義派の合同統一を強調したものであった。なお、来会者は概ね従来より何らかの形に於いて自由主義 派に左袒して来た人々であった36)。また7日の大懇親会には雨天にも拘わらず千6百余名が参集、正 午頃伯の一行は杉田、永田、山田(卓介)、青山(庄兵衛)、加藤(与次兵衛)、増田、松下等接待委 員諸氏と共に五岳楼より西別院に到着、臨席後山田卓介発起人総代が開会の趣意書を朗読、随行員の 直原守次、栗原亮一の演説後、板垣の演説が行われた。板垣の演説内容は、自由主義の歴史を述べ、 総選挙、議会開設の時期、愛国公党の下に自由主義派の合同団結を強調するものであった37)。以上の 如く板垣の来福に際して新聞は自由主義派の盟主としての彼を大歓迎したのであった。しかし前述し た如く板垣来福に対する祝意と南越倶楽部の愛国公党加盟問題との間に横たわる隙間風の存在を否定 できなかった。新聞は両問題の錯綜するなかしばらく動揺を隠し得なかった。社説「愛国公党38)」が それらのことをよく物語っていたのである。社説は板垣の自由主義の立場を貫いた政歴を称賛し、ま 50 一地方新聞の軌跡 た愛国公党の名の下に分裂した自由主義各派の合同統一を企図した立場に理解を示しつつ、なお現状 各派の分裂が氷解せざる状況を述べ、終わりに次の如く強調した点、新聞の立場を余すなく物語るも のがあった。「吾人は思ふ。若し愛国公党其物にして、遂に自由党各派の軋轢を調停和睦し一致合同 の運動を為さしむる能はずんば、寧ろ最初より其調停和睦の策を講ずるなく、彼れ大同団結党は大同 団結党たらしめて自然の淘汰を待たしめ、自分はもう一直線に旧自由主義を取って旧自由党を樹て、 来る者は来れ、去る者は去れと進で天下に号呼し、真に為すあるの勇気あるに加ずと、故に吾人は理 論一片より之を云う時分には、則ち其再興自由党が唱ふる所と甚だ同意同感を抱く者なり」と。明ら かに再興自由党の中島又五郎を擁立するに至った新聞の立場を明白に表明していたのであった。 4月に入って福井県に於ける総選挙への運動は熾烈さを加えつつあった。新聞は4月1日「第一区 足羽郡・大野郡国会議員候補者予見」を皮切りに漸次候補者の予見を社説欄に載せはじめた39)。そし て予見の掲載につき「先づ候補者の競争は五月中旬より六月初旬にかけてその熱度を極むべくおぼゆ れば三月下旬の現状はたゞ未だ以て正確なる予見と為すに十分ならずと寄稿者の添言是なり。吾儕亦 た疾く之を知れり。而も三月下旬に予見を編述するに躊躇せざりしは各郡選挙者が参考上に於て競争 熱度の未だ盛んならざるに之を得るの大に便利なるを信ずればなり」と書いた。そこには紙面で以て、 むしろ意中の候補者を推薦せんとする意図が窺われた。更にまた「蓋し我地方全体の上に脉め来れば、 曩きにも記述せしが如く公に顕れたる政治上の団体は客月二十三日を以て大同団結を脱党し、新に愛 国公党に加盟したる南越倶楽部の外吾人眼界一個の遮ぎる者無きが如しと雖も隠々裡種々の関係より して保守に心を傾る者あり、改進に意を属する者あり、他猶大同団結に未練を存する者の如きも亦少 からず、手品師の傀儡箱開かざれば其の真相看破し難く、此間の錯雑は実に名状すべきにあらず」と 書いた。そこには南越倶楽部の候補者に対する応援の姿勢が窺われ、南越倶楽部の機関紙の立場が、 むしろ露骨に表わされていた。そしてまた予見欄連載の背後に第3区に於ける中島推挙の意図が秘め られていたことも以下に見る如きものであった。即ち第3区の予見欄に於て、南越倶楽部の武生派が 倶楽部の総会以前に、いち早く中島又五郎を推薦したことを叙し、彼の政歴を強調、また彼自身莫大 なる選挙運動費の出費もかえりみず第3区に出馬するの覚悟の程を強説して、対抗候補者の永田を県 内自由派の代表的人士としつつ、その小量胆小なる人物上の欠点をことさらに指摘した。そして武生 派南越倶楽部と丹生派南越倶楽部の間の調停を杉田に期待したのである。 次いで、紙面は4月中旬から5月にかけて中島の選挙用機関紙としての構成が、一段と強められる ことになる。その1つは雑報欄に於ける中島に関する消息の報道が、その他のものに比して、かなり 多くなっていることが、それを証明する。 別表に雑報欄に於ける中島後援の紙面作りを纏めたが、そこには自らも含めて選挙に関する新聞報 道の公正と選挙そのものの公正を訴えつつも40)第3選挙区に於ける南越倶楽部内での軋轢を用捨しな いかなり一方的な姿勢が見られた。なお、このことは寄書という形式で紙面に登場する次の内容が如 実に物語っていた。先ず5月30日、6月1日の両日、在東京中幸生の名で「福井県の代議士」が載せ られる。そこには福井県に於いて代議士に足る資格を有するは杉田、中島以外に無しと露骨なまでに 強説し、更に5月4日から17日まで7回にわたって「中島又五郎氏を推すの可否に就て」を連載した41)。 寄書という形を取るものの恐らくそれは松下豊吉辺が書いたものと推察出来る。それは先ず第一に愛 51 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 表 雑報欄に於ける中島又五郎の消息(明治23年) 掲載日付 見 出 し 記 事 内 容 4月12日 中島又五郎氏 近々来県の予告 4月13日 如何なる人の為め… 如可なる人たち… 第3区の候補者として商工業社会は斎藤修一郎氏を、農業社会は誰なりとも土 着の人をと望まれているなかで来県する中島氏を望むは如何なる人々かと自画 自讃の宣伝 4月16日 中島又五郎氏 13日武生へ帰省せし由 4月25日 斎藤修一郎氏 嗚呼奈何せん 立候補の意思なく、中島に譲りたる美徳と称すべし 杉田の仲裁を永田が受けざることへの諷刺 4月27日 中島又五郎等の政談 演説 17日の武生魚八楼での有志者百余名による懇談会、23日の武生曙座にて政談演 説会、会主内田廉、山口憲「立憲国の民」松下豊吉「国会議員の候補に就て」 中島又五郎「強国策の一」なる演説 4月30日 中島又五郎氏 今立郡 江地方有力者による抱琴亭にての懇親会、主唱者代表桑原甚六、松下、 山口の席上演説、中島の演説 5月2日 中島又五郎氏の来福 5月4日来福、当市にて大懇親会計画中 中島又五郎氏の一行 江地方の有志者滝波慶助、福島文右衛門、桑原甚六、山田墾、藤田徳十郎外 10数氏に送られて西田中村豊仙院にて政談演説会、同地方は兼てより反対者の 巣窟、その故傭壮士、無頼漢による松下、山口の演説に対する妨害のありしこ と、中島の演説には妨害を断念し退去したこと、敵永田側にとって逆効果であ ったこと、同夜同地方の有志50余名鍛冶屋与平方にて談話会 5月4日来福、風月楼に於ける当市の紳士豪商諸氏の発起による懇親会、市及 び近郷の富豪紳士代言人及有志者70余名参集、発起人代表笹倉練平、中島の選 挙に関する弊害に関する内容の演説、山口憲の演説「立憲国民の心得」当市慶 福寺住職惠美竜円の講話「政治と宗教」 、中島5日武生へ、6日帰京の予定 5月6日 中島又五郎氏来福の 景況 5月7日 中島又五郎氏巡遊の 景況 丹南3郡内巡遊の景況、4月28日丹生郡大虫村片屋にて政談演説会来会者500 余名、松下の演説「国会議員候補者に就て」山口憲「議員選挙に関する国民の 注意」中島「今日に於ける我邦の政略」後懇親会、来会者180余名、中島の卓 上演説、4月30日今立郡粟田部にて演説会、来会者300余名、松下、山口、中 島の演説、後清水頭に於て懇親会、来会者170余名 5月13日 三郡同好会・三郡同 好会の意見 丹南3郡の有志者により三郡同好会を組織、武生町に本部事務所、5月5日会 同100余名、翠玉楼にて将来の運動に関し評議、中島も招請により臨席演説、 同会は支部を今立郡 江、粟田部、丹生郡西田中、折(織)田、天津、南条郡 王子保等に設置。衆議院議員候補者に就て協議、中島推選に決定 5月14日 武生撰挙人の決心、 中島氏の勢力 5月9日武生町の有権者50余名集会、候補者一件につき協議、中島推選のこと を決議、また是より各郡村に遊説、選挙の公正を訴えることを決める。主唱者 土生忠、浅井権兵衛、和田彦六、内田甚右衛門、大月九一郎 5月29日 中島又五郎氏 来月中旬頃帰省するよし 6月20日 中島又五郎氏 選挙期も切迫したるに付至急来県すべき筈の所、頃日来例の流行性感冒にて遷 延していしに、少しく快気を覚ゆれば直に来県の予定、選挙に関する用向は山 口憲が担任 6月27日 中島又五郎氏 6月26日来福、丹生郡本堂の政談演説会に出発 国公党に加盟した南越倶楽部としては同党員を推すのが立て前である。しかし「我々は我党の人を挙 げんと力むると同時に亦其の人物の良否を精査せざる可らず。而して其人物を精査するに於いては 我々は勢中島氏を推さざるを得ざる者あるなり。何となれば我第三選挙区内に於ては、我等の人々中 は勿論縦令反対派若くは我党に関係なきの人々を網羅するも、我々が見て以て帝国議会の議員に適当 なりとする人士は中島氏を措て他に之れあるを知らざるなり」と強調し、更にまた「我党は自由党と 大同派を調和せんとして起りたる者にして、其政治上の主義は毫も両党と異なる所あらず」と将来合 同帰一のあかつきに喜んで愛国公党の名を棄てこれに投ずるものであると述べ、自由党にまれ、大同 派にまれ将た我党にまれ成るへく之が勢力を養成せしめて異主義の党派に拮抗することが我党の本心 52 一地方新聞の軌跡 ならずやと、更に中島氏は籍を自由党に掲ぐれど、我党の志士杉田定一氏等と信友会なるものを設立、 両党の調和を計画しつつあること我党のなす所と異ならざるに於てをやと論じた。次いで第2では南 越倶楽部の一部が再興自由党の中島を排除することは、自由、大同の統一が目的である愛国公党設立 の旨意に反し、また大に議員選挙の本性を誤るものと再論し、中島氏を非なりとする南越倶楽部の一 部の人々に対し議員候補者としての人物として非なりとする理由を正々堂々と議すべしと論戦を挑ん だ。そして第3回に於いて中島の人物論に入り、先ず彼が南越倶楽部全体の人々が採る所の自由主義 の人なることは天下万人の是認する所であるとし、彼の明治15年自由党に加盟した以後の政歴を叙し、 特に彼が党常議員に挙げられ、大いに党の運動に画策したること、自由新聞評議員として社務の枢要 に参加したこと、河野広中氏等の国事犯事件その他自由党員に関する事件の弁護代言の任に当ったこ と、21年の大同団結に入り、今は杉田と共に信友会を起し、同主義者の軋轢の調停に尽力しているこ と等々を掲げ、彼の自由主義者として一貫しての経歴を強調した。次いで第4回から中島氏は政治思 想を有する人なるや如何と書き、政治思想といえるものは県会議員になったが故に出来るものに非ず、 県会副議長に進みたる故に生るるものに非らざるなりと暗に永田を評し、第3区人物に乏しからずと 雖も中島氏を凌駕するの人は甚だ乏しかるべし、其れも其筈なり中島氏は東京組合代言人中特に錚々 の名あり、自由主義者中の大頭株にて、云わば全国を通じて屈指の政治家にあらずやと推称した。更 に第5回で人才という面で、また第6回では学識如何の点で、第7回では性行如何といったことに関 し、それぞれ彼の卓越した面を強調し、最後に「吾人は実に淡泊にして吾人が眼中中島氏なく吾人か 心中⃝⃝(永田)氏なく吾人は唯充分に議員たるの性格を備へたる人を挙けんと欲するのみ。吾人の みならず南越倶楽部大部分の人々の精神亦此の如くなるべし。故に一部分の人々深思再考果して中島 氏に過くるの人あるを発見せは遠慮なく其人を公示すべし。其人果して中島氏に過くるの性格あらは 大部分の人々は勿論中島氏其人と雖も謹んで歩を譲りて吝ならざるべし。其人を公示せずして単に中 島氏を傷けんとす是れ豈大丈夫の為すべきことならんや。但し一部分の人々は⃝⃝⃝⃝⃝(永田定右 衛門)氏を挙げんとして隠然卑劣の策略を廻しつゝあること吾人疾くより之を知れり。然れとも⃝⃝ ⃝⃝⃝(永田定右衛門)氏の如きは斗 の小人のみ。無識の農夫のみ。歯牙に掛くるに足らざるな り」と永田を評して文を締め括ったのである。次いで社末某稿の「弁妄42)」が5月20日に掲載された。 それは東京及び大阪の各新聞紙が福井新聞を福井県第3選挙区に於ける中島又五郎候補の機関紙であ ると名差したことに対する反論であった。福井新聞は自由主義の機関紙であり、中島の機関紙ではな く、ただ彼が自由主義を採る故に彼を推挙するのだと強弁し、吾人は中島氏が第3選挙区に雄を争は んとしつつあるを知る故に吾人は其事に係る報道を為せり。吾人は中島を賛する人あるを知る故に其 事に係る寄書を載せたり。吾人は報道の確実ならんことを力む。吾人は寄書に於て関せずと、いささ か開き直った内容の言辞を掲載した。そのことは逆に自らの中島の機関紙なることを明かにすること であった。また翌21日に「議員は土着の人ならざるへからずと云へるの非を論ず43)」で国会議員は国 民全体の意志を代表するもので選挙区内の機関でないことを力説し、端的に土着(永田)非土着(中 島)の基準で判断するの非を強調し、中島の機関紙として彼を推す立場を明示した。また「某氏善後 策44)」で中島を再度推称し、落選後の某氏(永田)の末路こそ気の毒なりと彼の善後策として選挙戦 からの撤退を推めた。まさに中島派の明々白々たる立場を示したものであった。 53 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 さて、いよいよ6月10日の貴族院多額納税議員の選挙も終り、総選挙も終盤を迎えることとなる。 6月28日「選挙期切迫に際して45)」を載せ、改めて金権選挙と金権議員の誕生を警告し、永田陣営を 諷した。永田批判は執拗に続けられた。かくて7月1日を迎えることになったのである。 2.第1回総選挙後より廃刊まで 明治23年(1890)7月1日第1回総選挙の投票が終り、それまでの激しい選挙戦に結末がついた。 第3選挙区の結果は永田1,321票、中島740票の差で永田に凱歌が上った。さて、この選挙に勝利を収 めることを一つの目的として結成された南越倶楽部は小選挙区制の下、倶楽部全体としての運動をな すことが出来ず、各選挙区それぞれの候補者によるばらばらの運動が展開され、倶楽部員同志間での 凄じい対立競争がなされた。このことは前述の如く第3選挙区で最も甚しかった。そして以後同倶楽 部の粉糾の最大の要因となり、また第2次福井新聞の政治的立場の変更をもたらすものであった。新 聞社内部には既に微妙な変化が生じつつあったことが垣間見られた。選挙期間中中島の運動を積極的 に進めて来た新聞社内の武生派勢力は、彼の敗北によって当然に失われることになり、彼の帰京後は その資金面にも苦しくなった46)。この間隙を拔ってしばらく社内に逼塞していた福井新報派の連中が 再び藤井五郎兵衛等、福井市の商工層の資金力を背景に南越倶楽部武生派を排除し、かつて新報の出 発時に於けるが如く福井市の商工層及び旧士族達による新しい自由派の結集が所期されていたと考え られる47)。そのことは漸次紙面にはっきりと表われて来るのであるが、選挙後の数日間はなお旧体制 による紙面作りが、残務整理といった形で続けられた。投票日の当日「競争の終結」と題して 48)、 虚々実々の選挙戦の凄じかったことを述べ、先に行った国会議員候補者予見の必ずしも的確でなかっ たことを暗示しつつ各選挙区の開票結果を予見したのであった。そこには特に第3選挙区に於ける中 島の敗北を予想外とする思いがこめられていた。更にまた永田陣営の運動に関して、「二十三年」を 候補新聞と風刺し、買収事犯を早々と報ずるところがあった49)。そして翌2日、武生某生稿を掲げ、 そのなかで南越倶楽部内での武生派と永田派との確執の起因は設立時の役員争いにあり、永田の浅近 なる功名心によるものだと強調した50)。恐らく武生某生とは松下豊吉あたりかと想われる。そして7 月5、6、9日の3日間、論説「衆議院議員選挙せらる」で特に今回の落選者に対して、4年後の改 選期を期すべきことと、むしろ民間政治家として世論の喚起に務めることの必要とを強調した。論点 は第3選挙区の中島の今後の立場と暗合するものであった。また今回の再興自由党派の一般の予期に 反する劣勢について、彼等が進取の気象に富むのみにして、内部の整理を怠った点にあったとし、そ の原因を自らの内部での結束の不足と不統一とを挙げたのである51)。それはまた第3選挙区での戦の 反省と弁明につながるものであった。紙面にはまだ中島の立場、再興自由党の立場が残されていた。 さて、南越倶楽部は7月10日選挙後の委員会を開き、将来の運動に付き種々協議を行い、15・16日 頃に総会を開くことを決定したこと、またそのために杉田が帰福、元浜町雀屋に逗留していることが 報じられていた52)。紙面は除々に変化を見せはじめつつあった。そのことは7月9日から編輯人が井 上外蔵に変わったことにも表われていた。そして7月12・13日の両日、前註で書いた如く、10日に帰 京した中島の帰京挨拶文が掲載された。このことは彼が新聞との関係を断ったことを明確に物語るも のであった。次いで紙面には本県選出国会議員の履歴として7月9日山田穣、7月11日山田と青山庄 54 一地方新聞の軌跡 兵衛、7月12、17日杉田定一、7月18日永田定右衛門、7月19日藤田孫平を連載する。そこで山田、 青山については単なる政治歴と愛国公党員たることを述べるにとどまり、次いで杉田に関して彼の 赫々たる政治歴を述べるとともに彼の欠点として地方の開拓に従事し見事にその地方の政治思想を喚 起する点に於いて高知での片岡建吉、福島の河野広中、愛知の内藤魯一に比して遜色のあったこと、 即ち彼の郷国福井に対する政治的影響の欠如を批判的に指摘した点注目に値する。彼の中央に於ける 地位と地元福井に於ける立場とは、その政治的指導力の面に於いて漸次落差を生みはじめつつあった。 また永田については、彼の土着政治主義と金権体質への批判を続け、藤田については、その日和見御 都合主義をその政治経歴とともに述べているのである。以上のように彼等の履歴を述べるに際しても 選挙戦を通じて味った苦渋のごときものが垣間見られ、彼等の自嘲とも受け取ることも出来た。局面 の変化は真近であった。7月22日、紙面に大々的に8月1日を以て福井新聞社屋を佐佳枝中町132番 地に移転、紙面の大改良を行うとした「社告」を掲載したのであった。そして社告は7月一ぱい続け られた。社告の文面は下記の如くである。 社 告 福井新聞社は今般新に鮮明なる活字及び最良の印刷器械を購入し来る八月一日を以て佐佳枝中町百三十二番地に 移転し移転の日を期として福井新聞紙面に一大改良を行ふべし 八月一日後の福井新聞は紙面大に拡張せられ従来の福井新聞に比すれは全面五号活字を以て二千六百四十字を増 加すべし。 改良後の福井新聞は政治、法律、経済、社会、教育、宗教、文学及び諸般の学術技芸等に就き斬新奇拔にして且 つ正確緻密なる論説を載せ小説は優美高尚なる思想を基礎として流麗洒落なる句を用ひ雑報は確実と迅速を旨とし てありとあらゆる社会の出来事を記し又時を撰みて詞苑、雑録、寄書等の諸欄を設け詞苑欄には詩歌、文章、俳諧、 発句等の秀英なる者を載せ雑録欄には逸事、奇談、諷刺、警世、賞賛、攻撃滑稽及び諸般の学術技芸等に関し人の 看て以て感動し若くは有益なる者を載せ寄書欄には広く世の人より投寄せらるゝ記事、論説等の見るべきものを載 せ仍ほ他に種々の改良を行ふべし若し夫れ文章の巧妙、印刷の鮮明、体裁の具備等所謂紙面の光彩なるものに至り ては看客眼あり読者心あり本社妄に他を譏りて自ら賛することを為さす唯謹て改良後の新聞紙を閲せられんことを 乞ふ耳 明治廿三年七月 福井新聞社 以上やや長きにわたって社告を引用した。表面上はただ当時の新聞の紙面改良の一般的な文面を例 記しているのみに見える。しかしその裏面には新聞社内に於ける政治的立場の変更を一大改良という 大文字に窺うことが出来るのであった53)。 以上のような新聞社の動きと平行して南越倶楽部の臨時総会が7月20日開催された。来会者は36名、 その内訳は福井市1名、足羽郡2名、吉田郡8名、坂井郡17名、今立郡2名、丹生郡2名、南条郡4 名で、選挙区別でいえば、第1選挙区で3名、第2選挙区で25名、第3選挙区で8名と、第2選挙区 で3分の2を占めていた。なお、増田、松下の両理事は出席しているものの副会頭永田の顔は見えな かった。会議では役員改選及び決算報告は来る9月の定期総会に於いて行うことと、一二規約の修正 すべきものを評決し、また庚寅倶楽部54)派遣委員は貴族院1名を併せて4名の国会議員に嘱託するこ と、その他として倶楽部の維持法等について協議をなし散会した55)。新聞は7月23日の総会の模様を 55 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 報ずると同時に伏字の多い文面で総会での武生派に対する攻撃の状況を揶揄的に書いた。特にそのな かで本部を福井に移し、増田、松下の両理事の退陣を求める声の多かったことを暗に仄めかしていた56)。 次いで24日「福井県に政治思想の発起するを望むものは…」に於いて政治勢力なるものは反対乃至批 判勢力の存在をまって、はじめて真成の勢力たり得ることを述べ、その例として真成の自由派の地点 として高知、福島、愛知をあげ、それに比して福井に於ける杉田の南越倶楽部に反対批判勢力の皆無 なることを強調した。「世には南越倶楽部に反対するものなきを見て福井一円自由主義を以て充たさ れたりと速断するものあれとも是れ実に浅慮の極なり。思ふに南越倶楽部に反対するものなきは南越 倶楽部か動力の薄弱反動力を生ずる能はざるに因るものにして即ち南越倶楽部が勢力なき所以なり。 (ママ) 若し夫れ南越倶楽部にして真に大なる勢力を有し、真に政治上に運動するの力あらんか、事物の元則 として其反対を生ぜざるを得ざること猶ほ彼の高知愛知福島等の如くなるべし」と書いた。そして 「県下に政治思想の発起を希ふものは南越倶楽部に反対する政団の起らんことを望むなり」とも書い たのである57)。そこには南越倶楽部を改革して、再生の福井新聞派の機関たらしめ、福井市のグルー プに政治的主導権を奪回せんとした意図が秘められていたと考えられる。 そして新しい出発日の8月1日を迎えた。その日「謹んで読者に告知す」と題する論説を掲げる58)。 そのなかで「本年は是れ如何なる年か、吾人か専制政治の下より移て立憲政治の下に入んとするの年 にあらずや。吾人は宜しく専制政治の下にあるの思想を抛棄して立憲政治の下にあるの思想を有せざ る可からざるなり。是れ今回吾福井新聞紙面に一大改良を行ふ所以の重なるものなり」と述べまた先 の社告の内容を繰返し書き、続いて主義とするところは破壊に非ずして進歩、退歩に非ずして保守、 即ち穏健なる進歩主義なりと強調し、殊更に一私人法人若くは政府の器械たることなしと書いた。文 面は進歩主義、政治的中立を装いながら、これまでの南越倶楽部武生派の機関紙的立場からの明確な 離脱宣言でもあったのであり、以後紙面でしばしば南越倶楽部に対する批判攻撃を加えて行くのであ った。 さて、8月に入って南越倶楽部の下部組織にも総選挙を通じての軋轢からの動揺が目立ちはじめ た。三郡同好会に対抗していた同志会(永田派)は南越倶楽部の金城湯池と見なされていた今立郡へ その触手を伸し始め三郡同好会に動揺が拡がっていた59)。また足羽倶楽部の一部が南越倶楽部からの 離脱を決定していた60)。そして倶楽部内に於ける武生派と永田派の対立は決定的な様相を呈し、武生 派の退却以外には感情的にも思想的にも再建の目途は立たない状況となっていた。杉田のブレンであ る金津の阿部精は杉田に書翰61)を送り、山田、藤田、青山、永田の動向を報ずるとともに南越倶楽部 の立て直しのためには来る定期会で役員を全廃し新組織を構築すること、そして増田、松下両理事の 退陣が必要であることを報じていた。書翰の背後には倶楽部に対すると各政治勢力に対するとの杉田 の指導力と調整力を期待するものが横たわっていた。 政局は第1議会を前にして山県内閣は旧集会条例を手直した集会及政社法を7月25日に公布し、9 月より実施することにした。それは旧条例の8条と同様に28条で「政社ハ委員若クハ文書ヲ発シテ公 衆ヲ誘導シ又ハ支社ヲ置キ若クハ他ノ政社ト連絡通信スルコトヲ得ズ」として政党各派の連合連絡を 禁じ、政党の手足を束縛するものであるとともに結社の自由集会の自由を制約するものであった。当 然のことながら地方の政治団体も中央並に他の団体との連絡が困難となり、行動に制約を与えるもの 56 一地方新聞の軌跡 であった。南越倶楽部もまたその例にもれなかった。増田は「政社法強行以来甚ダ不自由ヲ感ジ南越 倶楽部善後ノ策ニ付種々御勘考願上度」と杉田に書き送った62)。 政況はかねて企図されていた旧愛国、自由、大同と九州同志4派及び群馬公議会、京都公友会の合 同による立憲自由党が8月27日に結成され、9月15日結党大会を開くことになっていた。倶楽部内部 で漸次その立場が不利となりつつあった武生派は眼を中央の政局に向けることになる。そして議会開 会後院外団として活躍する人員派遣のため県人倶楽部を設け、義捐金を各郡の有志に求め、且つ各郡 よりの出京人を募る運動を展開することになった63)。しかしこれもまた成功とまでには至らなかった。 かくて松下は9月8日後事を増田に托し上京、中央での活躍を所期することになる。こうした情勢の なか9月に予定されていた南越倶楽部の総会が10月6日ようやく開かれることになった。出席者は僅 か50余名で、正副会頭の杉田、永田の出席はなく、奥田与兵衛を座長に会議を始め、増田の事務所費 収支の報告、青山の会計全般の報告の後、種々議論の末、政社組織を解き、更に社交倶楽部と為すこ とに決し、正副会頭を廃し、3名の理事と2名の主計を置くことを決め、理事には奥田与兵衛、橋本 直規、大橋松二郎、主計には坪田仁兵衛、加藤与次兵衛が当選、事務所は福井市に移すことになった。 なお、9月10日に新理事への事務引継ぎと武生事務所の引払いが行われた。なお、この総会で福井新 聞の主筆木村斌任が特に非政社論を強調したことが報ぜられ、総会後の懇親会に招かれた帰郷中の立 憲自由党員松下豊吉が政党人のための郷党の後援の必要と、そのための地方の団結の要とを強調、あ わせて東京での政党の状況を述べたことが報ぜられた64)。南越倶楽部に於ける武生派即ち増田、松下 の立場は完全に変貌していたのである。 さて、新しく衣更えをした非政社倶楽部の組織については10月中に協議すべく集会を開く予定であ ったが、予定通りには行かず、やっと11月4日に特別集会、5日に臨時総会を開く段取となった。杉 田宛大橋の書翰65)によれば4日の集会には倶楽部事務所(福井市佐佳枝下町64番地)に60人程招集し たが集った者は10名足らず、それも坂井吉田足羽の者ばかり、そして状況は「或は倶楽部死亡論を称 ひ葬式しては如何など説くに至る実に以て以外の事乍然退而考ひたれば第三区の人員実に何ぞ無情な るやの嘆なき能はず」といつた惨憺たるものであった。結局具体的な相談もなく翌5日の臨時総会を 迎えた。それも基本会員以上3百名程招集したものの集った者は35名それも殆んど坂井吉田足羽の連 中、南条今立丹生からはお義理での出席者一両名づつという状態であった。しかも会議は政社非政社 の実状を確かめるための福井警察署警部の臨監下で行われ、提出予定の立憲自由党に係る件、上京有 志に係る件、同宿所有志補助及運動費の件等は議題に供することが出来ず、ただ懇談会という形で談 笑裡に終ったとある。そして9月の総会で政社組織を解き社交倶楽部にしたことの失敗であったこと、 今一度政社組織にして倶楽部の立て直しを計りたいこと、非政社組織への変更に積極的に動いた福井 新聞派勢力に対する反撃を期していることを書き加えているのである。そのことは後述の如く既に新 しい機関新聞即ち若越自由新聞の刊行間近いことを匂わせていたと考えられる。ともかく社交倶楽部 となった南越倶楽部は一路衰退の道を辿ることになり、開店休業といった状態で24年を迎えることに なった66)。 先きに述べた如く8月新体制に入った福井新聞は一連の南越倶楽部の状況に対して批判的な発言を 続けて行くことになる。先ず8月5日の「南越倶楽部のこと」で増田のことを大政治家、松下のこと 57 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 を大記者と誹謗し、彼等による倶楽部支配を批判、また暗にかろうじて続刊されていた彼等の機関誌 「暁」のことを揶揄した。それは武生派を排除して倶楽部を新生の福井新聞と彼等のものに組み変え る意図を物語っていた67)。次いで「敢て問ふ南越倶楽部足下68)」で再度倶楽部を福井新聞派の拠点に せんとする意図を鮮明にする。そして9月に施行される集会及政社法の下倶楽部が一たん解散して非 政社組織を取ることなく、政社組織を維持して新しい倶楽部の構成の下再出発することを強調した。 なお、この論説がT・H生の投書として掲げられているのは、恐らくT・H即ち長谷川豊吉を捩った 思惑が秘められていたものと考えられる。そこにはこれまで倶楽部を支配して来た武生派に対する痛 烈な皮肉が横たわっていたと云えよう。更に9月に入り、倶楽部が迷走を続けている期間に彼等に対 し最後通牒ともいうべき論説を掲げた。それは9月6・7日の両日に渡って倶楽部の存在価値を問う ものであった69)。先ず彼等が今後政社組織としての運動の展望が皆無なることを突き、次いで倶楽部 の構成について批判を加える。即ち彼等の多くは政治、法律の何たるかを知らぬ地方の財産家、所謂 田舎紳士の集りであり、それもお義理で参加した者が多く、その上にこれら財産家達も例の武生派の 連中によって篭絡された者であると決めつけた。そして繰返し倶楽部を主導して来た武生派を排除し、 福井に倶楽部の本拠を移す要を主張したのであった。これらの論点は結局倶楽部の再生のためには武 生派から主導権を福井新聞派に移し、倶楽部員の構成を旧来の地方の地主層中心から福井の商工層中 心に組替えることに主眼があったのである。10月に入り、漸く南越倶楽部の総会がまたれることにな った。そして倶楽部が政社組織を解き社交倶楽部に転じたことは前述したところであるが、新聞はこ の挙を革命なりと賛意を呈し70)、非政社組織としての倶楽部の再生と、またこれに対する諸々の団体 の結成が促がされ代議政体下の政治思想の旺盛となることへの希望を書いた。そこには再生された倶 楽部に対する福井新聞派の媚態とも見えるものが窺われ、また新しい政況に対する期待のようなもの が垣間見られたのである。しかし結局は10月中に予定された新しい倶楽部への再組織のための準備は 進められず、新聞派の期待は画餅に帰することになる。彼等は結局に於いて南越倶楽部とは袂を分た ねばならなかった。彼等は10月19、21、22日の3日間論説「民間の政治家も須らく分業専門の法を行 ふべし」で人にはそれぞれ適材適所なるものがあり、政治運動にも人の能力に応じて分業専門の法が 必要なりとして、南越倶楽部が杉田永田を会頭副会頭に祭り上げたことを批判した。曰く「杉田氏は 熱心なる政治家なり氏が満脳政治の改良を措て他の分子を混ぜざるは氏が従来の経歴に徴して明白な れば氏が能所は熱心なる点に於て之れありと云ふことを得れども氏が才略到底一政党を統御するに適 せざるは吾人が氏を傷けんとするの言にはあらずして南越倶楽部員過半の明言する所、氏も亦此評言 に不服はなかるべく殊に氏は常に眼を社会の大局にのみ注いで毫も心を地方部分に用ゐることなく所 謂二兎を逐ふて一兎を獲ざるの傾あるは永年政治の事に奔走して或は鉄窓の苦を嘗め或は幾多の財産 を蕩尽したるにも拘はらず毫も越前に於ける政治の事に関して稗益したる所なきを以て知るべく要す るに氏は勇往敢為の気象を以て政論社会の大局に奔走するは或は其能あるべしと雖ども一政党の首領 として党員を統師するが如きは其最とも不得意とする所なるべし」と。杉田永田の統率力の欠除を指 摘し南越倶楽部の組織上の問題を強調した。また倶楽部の構成が地方財産家に偏した点を再度批判し 智者、学者、財産家、弁論家、文章家、交際家各々其能を以て事に当るにあらずんば恐らく真正なる 運動をなすこと能はざるべしと述べた。そこには商工層その他の人々の抬頭を所期する彼等の思いが 58 一地方新聞の軌跡 こめられていた。また執拗に南越倶楽部の非政社組織のための動きの見えない状況に対して苦言を重 ねた71)。そして11月5日の倶楽部の最後ともいえる総会に関しては簡単な形式的な報道をなしたにと どまったのである72)。 これまで述べて来た如く8月以降の福井新聞派と南越倶楽部との関係は漸次悪化の路をたどったの であり、議会開設を控えた新しい状況下県内自由派としての紙面作りを同新聞に求めることは困難な 状況であった。こうした情勢のなか既に8月の段階に於いて同新聞に代る県内自由派の機関紙の刊行 が杉田を巡る吉田坂井両郡の有志によって企図されていた。この点に関して杉田定一文書内の数通の 書翰73)がその経緯について物語ってくれる。それによれば橋本より坂井郡有志に対して新しい新聞刊 行のことを杉田より勧説することの急が告げられ、また彼による吉田坂井両郡の有志への遊説が行わ れていた。更にまた両郡に敢為会なる団体が作られ橋本直規(福井)、阿部精(坂井)、大橋松二郎 (吉田)が理事、川端薫一(坂井)、渡辺環(吉田)が会計ということであった。恐らくこれらのこと は両郡の主導の下に南越倶楽部の補強乃至それに替るべき政治組織の樹立並に新しい機関紙刊行の準 備工作であったと考えられる。そして若干の経緯を経て11月の中旬大橋松二郎を中心に両郡の青年層 によるやや強引な形での新聞刊行のことが決められ、12月2日若越自由新聞第1号を出すことになっ た74)。前途に波瀾を含みながら立憲自由党の県内機関紙が発足したのである。かかる動向は当然に福 井新聞に対し多大の影響を与えることになった。そのことは前述した如く同新聞の南越倶楽部に対す る批判的な紙面作りが物語っていた。しかしなお同新聞は自由党色を継続し、県内自由党の福井新聞 派を形成することを意図し、福井の商工層に対する働きかけを紙面に展開して行くことになる。それ らの動向は8月以降の紙面に漸次表われることになった。その一つとして23年4月に公布され、翌24 年1月に実施予定(実際は23年12月商法施行延期法の公布により実施を2か年延期)の商法に関して 通俗的な解説を8月の初頭から論説欄に「商法講話」と題し数日間連載したことである。このことは 同紙が8月以降福井市の商工層を自らの基盤に求めていたことの証左ともなろう。冒頭「延期すると か延期せざるとかの議論はあることながら兎に角来年一月一日より施行することゝ定められたるは商 法なり延期せざれば尚更のこと縦令延期せらるゝとするも知らで叶はぬは商法なり此際法律に志ある ものどもが研磨攻究して世人の注意を促すべきは商法なり然れども総体一千余条之れを遂一講読する ときは日も亦足らざるは商法なり仍て本社は爰に世人が商法に付て注意すべき廉々気付くに任せて平 (ママ) 易に講話することを為すべし之れを名けて商法講話と申すなり」と前書をして、8月1日の「商法の 支配するは商人のみに止らず」から始まり以下下記の如き順序で講話を続けた。8月3日「民法とは 如何なるものを指すか」。8月4日「特種の商事又は商人の為めに発布せられたる法律命令及び規則 の効力」。8月5、6、9日「商取引とは如何なるものを指すか」。8月10日「商を為すことを得ざる ものあるか」。8月12、14、15日「商業登記」。8月16日「会社の文字は会社に限る」。8月17、21、 22、27日「商業帳簿」。8月28日、9月3日「数人共同代務人のこと」。9月4日「代務人が為したる 所業の効果」「代務人は其代務権を他人に転付することを得ず」。9月5日「代務人は其代務権を他人 に転付することを得ず」(承前)「妄りに罪を代務人に被らしむることを得ず」「商業使用人」。9月11 日「商業使用人」(承前)。9月12日「共算商業組合」「商事契約」。9月13日「商事契約」(承前)「中 立人及び仲買人」「売買」と以上で終り、そして最後の9月13日には「編者日商法講話既に数十日を 59 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 重ねて掲載せり猶ほ此後信用、保険、手形及小切手、并に海商、破産等の編章あれども是等は一般商 (ママ) 人に関してあまり必要ならざるものもなきに付今爰暫く講話を休むことゝすべし」と結んでいる。な お、以上の商法講話の連載に関し「商法研究に付て更らに謀る75)」を書き、連載の意図を述べ、それ らは商法中特に心得べき諸点を説明したもので、決して充分なものではなく、今後一般に商法研究会 の如きものが設けられ、研究の盛んになることを期待した。曰く「福井の人々既に商法研究の必要を 感じて其計画ある以上は、法律家及び商人連中一致協同今一層其の規模を拡張して実際商人を益し得 る様にしては如何吾人は先に此事に付て聊か論述したる所あり今又更らに謀ること此の如し」と結ん でいる。 また、23年9月11日法律第81号で以て商業会議所条例が公布されたことに関して、商業会議所の商 業社会に必要なるは今更ら論ずるを要せざる所とその公布を喜悦せる意を表明し、条例の内容を説明 して「新条例の規定するが如く商業会議所なるものが大なる権力を有して商業社会に活動するとすれ ば其会員の人物如何によりて直ちに商業者の頭上に利害の関係を及ぼすべく商業者たるものの深く注 意せざるべからず」と新条例の支配を受くる所の商業者が第一に注意すべきことは会員選挙のことで あると結んだ76)。 以上の如くこれ以後同紙は商工層市民を意識した紙面作りが目立つようになった。例えば地租軽減 のスローガンの下に選挙戦での勝利を収めた地主議員達を地租軽減議員と名付け「地租軽減するは可 なり、国庫の収支を考察せざるべからざるなり」と書き、果して議会開設の暁に彼等が如何にこの問 題を処理するかを問いかけ、地租軽減、政費節減の主張が選挙用の放言に終らざることを強調、地主 議員へ苦言を呈した77)。また当時一部の議員達の間に論じられていた選挙区の問題に関して小選挙区 制の弊害を強調、賄賂、脅迫、腕力、詐偽等の手段が選挙場裡に可能なのも小選挙区という郡村単位 の選挙区のなさせるものであると論じ、大選挙区による国会議員としての真の代表選出の要を論じた。 曰く「要するに選挙拡張案の議は今日具眼者一般の議論する所にして之れを妨げんとするは彼の郷原 及び彼れ賄賂其の他の卑劣手段を行ふの輩なること争ふべからざる事実なりとす」と書いた。要する に地租軽減問題にしろ選挙区拡張論にしろその根底には福井新聞派の南越倶楽部への批判にあった如 く農村地主層に対する不信と福井市の商工層に対する期待が窺われた。しかし紙面はなおしばらく自 由党関係の報道が比較的多くを占める。9月に入り議会開設を目睫にして民党の動静、特に自由党に 関する記事が増える。特に9月15日の立憲自由党結党式を前にして大会に提出される党の旨趣、主義、 綱領、党議及び党則等を詳細に報じ78)、次いで9月15日の結党式の次第を詳しく報じた79)。また木村 斌任の署名入りで立憲自由党の結党を賀する論説を掲げる。それは22年の春大同団結の分裂後立憲自 由党結党に至るまでに於ける民党勢力の動静を略述し、立憲自由党結党を賀し「可賀々々立憲自由党 万歳」と結んだ80)。そして更に立憲自由党の議員の一部に党の本旨をも弁へない連中、特に金銭を以 て当選し、田夫野翁を瞞着して議員となった者の多き点を指摘し、彼等は党の未来に恐るべき存在で あり、今にして対策を立てる要があり、その良策は彼等を選出した地方の人心を固むることが肝要な りとし「今や立憲自由党は其組織を了せり進んで勢を地方に拡張し一は進取又は一は守成の策を講せ んこと甚だ緊要なるへし立憲自由党の人々以て如何んと為す」と結んだ。そこには党所属の一部議員 の特に地方農村出身の地主議員に対する不信感が露骨に示され、福井新聞派の立場を物語るものがあ 60 一地方新聞の軌跡 った81)。また議会開設後の経済社会について政府による民業保護政策の新機軸を要請すると共に商工 業者自身の独立自営努力の必要を論じ、そのための要件として新条例による完全なる商業会議所の設 立の要を強調した82)。ここにも同紙の商工層への眼差しが垣間見えた。更に11月14日より数回に渉っ て木村斌任の署名入りで連載された「政費節減策の一」は当時の民党のスローガンであったことと相 まって所謂官公吏と民間との勤務内容俸給等を比較して官公庁の冗員冗費を追求したものであり商工 層の意識を代弁するものであった83)。 11月25日第1回議会が召集され、次いで29日に開院式が行われ、我が国に於ける議会政治がここに スタートすることになった。新聞は11月28日の論説で「両院の成立を祝す」と題して、議会の成立し たこと、衆議院の議長副議長が選挙の結果勅選されたことを祝し、両者の略歴を掲載した。また欄外 に福井市に於ける国会開院式の祝典及祝宴の広告を掲げ84)、そして以後数日間市内県内各地での祝祭 行事が報じられた。そして11月29日の論説「祝帝国議会開院式」で「帝国議会開院式と同時に帝国に (ママ) 起れる現象の最大なるものを憲法効力を有つのことなりとす憲法効力を有つ国家統治の大権是に於て 明かに定まり臣民の権利義務及び財産の安全是に於て明かに保障せらる帝国臣民たるもの豈に之れを 祝せずんば可ならんや謹祝帝国議会開院式」と書いた。そこには当時の国民一般に抱かれた意識を背 景にした新聞の素直な考えの表明であった。 さて、前述した如く議会開設直後に若越自由新聞が創刊された(発行兼印刷人大橋松二郎、編輯人 松原栄 福井市佐佳枝町2番地、定価1枚1銭5厘、1ケ月前金25銭85))。同紙の創刊については12 月5日に雑報欄に簡単な記事を掲載するに止ったものの86)、かねて予想されたことであったが、福井 新聞にとっては大きな打撃であった。それは新しい政況の下福井に於ける自由党派の新聞としての統 制の取れた紙面作りを困難にすることであり、なお自由派の色合いを継続したものの自らも加わった 県内自由党派内部の軋轢の下その自由党系新聞としての影響力の低下は否定し得ないものがあった。 なお、立憲自由党結成後、非合同を唱えた旧大同派の一部の保守派と九州の国権党諸派とが合同、 更に民党分断の意図を含めた政府側よりの策動の下吏党の一部が加わり、国権主義を標榜する勢力の 結合が画され、種々の経緯の結果議会開設後12月暮れに国民自由党として誕生した87)。この国民自由 党の結成に至るまでの動静について新聞は可成詳細に報道を続け88)、また「国民自由党」なる論説を 掲げ批判するところがあった。そこでは同党形成までの若干の経緯を述べ、「国民自由党を樹立する 可なり同一主義の人々相集りて一党を成す素より可なり」と書き、翻えってそれは立憲自由党の活動 を制するためのものであり、結局政党分裂を望む政府を利するものだと論じた89)。そして更に議会開 設後早々に「今日以後の政党90)」を掲げ、そのなかで先ず政党の政治上に有する勢力は代議制度の実 施される今日以前は間接且微弱その内幕は単純であったが以後は直接にして強大そして内幕は複雑な りとし、今日以後その複雑を加えんとするに際して秘密の策略将に政党内部に行はれんとすと述べ、 合同ならざりし自由改進両党はなお民党として相提携を維持し得るものの、立憲自由党より旧大同派 の一部が分離して組織せんとしつつある国民自由党が吏党の大成会に秋波を送り、また自治党との穏 微な関係を取沙汰さる点を指摘し、立場、主義と無関係に利権による政党政派の離合集散を批判した。 そして今日は実に政党の乱世にしてまた政党の創業なりと書き、今後の政党特に民党の健全な発達を 所期した。このことはまた一面自らもその渦中にあった県内自由派即ち南越倶楽部を巡る過去の対応 61 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 になお拘泥し、また若干苦渋に似た思いが秘められていたものと想われる。 さて、紙面は12月の始めより雑報欄の主要内容を第一議会の状況報道で以て埋めることとなり、12 月5日、雑報「第一日よりの衆議院」に始まり以後祥細に衆、貴両院の審議内容を報じ翌年3月11日 の雑報欄まで続けることになった。そして紙面全般に立憲自由党一色といった色合いのやや薄らいだ ものが感じられた。このことは若越自由新聞の出現と新聞が意図した福井の商工層を中心にした県内 自由派勢力の抬頭が予期通りに進まなかった県内情勢に左右されたものと考えられる。かくて23年の 歳末を迎え「歳晩の感慨」を掲げた91)。そのなかで「帝国に始めて代議制度の実施せられて帝国臣民 の始めて参政の権を行用したるもの明治二十三年にありとすれば明治二十三年は実に多幸の年と謂は ざるべからず多幸の年は即ち是れ多事の年なり曰く議員選挙、曰く議院成立、曰く議院整頓、曰く議 案頻出、曰く何、曰く何、而して他亦事多し曰く大演習、曰く法典公布、曰く政党の分合、曰く何、 曰く何、嗚呼明治二十三年は実に多事の年なりし」と多事多幸の年なる語を繰返し、また往事を追想 すれば胸中転た感慨の情なき能はずとも書いた。そこには創刊以来1年を経過した自らの歩みに対す るやや自嘲気味の感慨が横たわってもいたのである。 政局は24年に入って民力休養、政費節減を旗印に政府予算の削減を求める民党と政府との攻防戦に 入った。衆議院の予算委員会は民党多数の下、政府の歳出予算8332万余円を7443万余円と約1割にあ たる8百万余円の削減を求める査定案を決議した。それは憲法第67条の保障する歳出削減を含み政府 の同意を必要とするものであり、またこの同意の時期を巡って政府と民党は対立した。政府は当然の ことながらこの査定案を拒否し、両者の対立は将に危機一髪の情況を招くことになった。この間新聞 は終始民党硬派の立場を支持する論説を書き続けた。先ず「予算査定額概評」で以て予算委員が政府 要求の予算を査定して歳出8百万円を減じたるは要求総額8千万円に対する10分の1にして且つ其著 るしく節減を加えたるは官制の変更、官員の減給等であり当然のこととした。また当今の官員俸給高 きに過ぎて且つ諸庁冗員を存するの多きは動かすべからざる一般の公評なり予算委員が是に見る所あ りて之が弊を矯めんとするは吾人の最も喜ぶ所なりと書いた92)。また松方蔵相の衆議院に於ける世の 常の徳義として政府と議会との互譲を求めた演説に対して「社会不景気を極めて庶業衰退の極に陷る の時に当り巨額の歳出を議会に要求して民間の疾苦を顧みざる如きは守るべきの徳義を失はざるもの と謂ふべからず」と書き、また暗に解散を以てする政府の強迫手段に屈することなく民党の立場を貫 徹することを要求した93)。次いで1月13日衆議院は査定案廃棄の動議を16票の差で否決し、査定案を 巡る攻防は予測のつかぬ事態となった。新聞は1月20日、論説「硬派勝つ」で吾人は初より硬派即ち 8百万円減額を賛成したるものなりと繰返し、今や硬派の勢は真に破竹の如し、努めよや硬派と一応 その勝利を称えた。また立憲自由党内の硬軟2派につき硬派は党議を尊重するもの軟派はこれに反す る党員なりとして党員にして党議を尊重するは党員の本色なりと強調し党内の内紛を批判し、更に民 党の一致団結を要望するところがあった94)。さて、事態が急を告げつつあるなか1月20日漏電による 議事堂の焼失という事態が生じ、議会は29日迄休会ということになった。この変事を利用して、かね てより進められていた土佐出身の後藤、土佐に縁故多き陸奥を介しての政府による土佐派(立憲自由 党内に於ける土佐を中心に四国及び兵庫県出身者により形成された95))に対する工作がより積極的に 行われた。そして彼等は後日立憲自由党を離れることになる。 62 一地方新聞の軌跡 一方議会開設後の県内自由派の活動はやや休眠状態を呈していた。県内自由派勢力を福井新聞派の 下に再編しようとの試みは容易なことではなかった96)。そして紙面に於ける動向も政費節減民力休養 の立場に立って民党特に硬派を支持し、論説欄に論陣を展開してはいたがその基底にあるものは商工 層の要望に沿うものであり、政論としての音程は表面上のものよりも若干低いものであったと考えら れる。そのことはこの前後の論説欄の構成のなかにも表われていた。即ち1月27日より突如として横 浜某生による「越前商工雑纂」なるものが数日間論説欄を埋めることとなる97)。それは条約改正内地 雑居後一外人が越前での起業のためにその産物を調査したというものであって、暗に福井の商工層に 対する問題提起でもあった。項目は菜種及製油、米商会所、絹織物、鉱山、生糸及養蚕、煙草、製茶 であった。また当時結成された福井商人会についてその経緯を詳しく報じ 98)、2月1日の論説欄で 「商人会興る、商人会興る、商人会は実に福井市に興れり商人、平民、吾人は敢て文飾燦爛たる好ま ず、短刀直入、其主義とするところを立て徹し倦ず厭す撓まず退かず、断々乎として鋭進せんことを 望む、聞く嶺北に百姓倶楽部99)ありと噫平民なる哉平民なる哉破れたる温袍を着て愧づるなきは是れ 平民なる哉」と強説した100)。これら福井商人会に関する記事に比べ1月25日開かれた南越倶楽部の臨 時総会が雑報欄の一行記事ですまされている点とはまさに対照的であった101)。また当時政府による民 業保護不要論に対し「政府が民業に向て特別なる保護を与ふるの可否を論ずるものは須らく其事業の 性質を吟味するを可とす製茶の如き生糸の如き将た或地より某所に通ずる鉄道の如きに至っては財政 の許す限之を保護するを可とす暫く之れを保護し其自立を得るに及んで之を絶つ盍し事業奨励の道な りとす」と書き、事業の性質によっては、なお民業保護の必要を論じた102)。また取引所条例の不備に より米商会所株式取引所がその機能に支障を来たしていることに代議士当事者が不問に附しているこ とを論難した103)。このように24年に入り一段と福井の商工層を意識した紙面作りが目立つようになり、 同紙の姿勢の著しい変化を物語るものがあった。 他方政局は政府と民党との査定案を巡る攻防が民党硬派に有利に展開しつつあったが、問題は憲法 67条(憲法上の大権に基づける規定の歳出及法律の結果に由り又は法律上政府の義務に属する歳出は 政府の同意なくして帝国議会之を廃除し又は削減することを得ず)の政府の同意を得べき順序につい ての攻防が残っていた。即ち政府は一院毎に確定議前に同意を求むべきものとし、民党硬派は同条に 帝国議会を総称し各院といっていないのは貴衆両院確定議の後に同意不同意を表すべき意なりとする 両者の見解の衝突であった。新聞は民党硬派が断固自説を貫徹することを要請する104)。憲法67条の政 府の同意なる文字は衆議院に於ける硬軟両派の争闘の骨子であったが、2月20日吏党大成会の天野若 円の政府の同意を求むるは衆議院三読会の前に於いて為すべしとの緊急動議が、吏党と立憲自由党内 の土佐派の協力の下可決され、福井の青山、藤田の両名が硬派より鞍替して讃成側に廻った。新聞は 論説「天野案の可決、我県民の心情105)」でこの事態を奇中の奇なりと酷評し、青山、藤田両氏の挙動 を県民として許すべからずと強調、また解散を恐れて硬派より軟派に変じた議員を批判した106)。そし て天野動議に賛成した立憲自由党員29名は2月24日党を脱することとなった。そして彼等は自由倶楽 部を設立し板垣もまた責任を取り党を離れることとなった。将に政府の分断策が成功したのであり、 民党の動揺は免れ難いものがあった。そしてこの段階で新聞は兼ねてより論じて来た立憲自由党と立 憲改進党の合同論の音調を めることになる107)。それは議会の攻防のなか民党として硬派の立場を共 63 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 通にして戦った点に合同の可能性を求め、政府に対抗する民党の戦線統一を期するものであった。ま た「自由党内部の整理108)」と題して結党の際の旧大同派の一部による国民自由党の結成、また今回の 旧愛国公党派の一部の離党といった党内部に潜在せる諸々の対立を整理し、新しく再出発することの 要を述べ、本来の敵である吏党に対抗することを強調し、また更に民党分裂の現況は政府を利するも のであり、現内閣も亦甚だ多幸なるかなと109)、民党の結集の要を繰返したのである。 第1議会開設後の論調は政費節減民力休養を旗印に民党並びに民間の要望を背景にして民党硬派の 立場を貫徹したのであり、また硬派の立場での民党の再編を論じたのであるが、兼て同紙が抱いてい た県内自由派の再編に対する熱意は薄れていたのであり、その政治的立場はなお自由党への傾斜を保 持しながらも民党全般に対する等間隔を置く立場が除々に表われていたのであった。そしてこのこと は当然県内に於ける自由党派への働きが希薄化して行くことになり、引いては紙面の政治色を薄める ことにも繋がったのである。その上に若越自由新聞の出現後は経営的にも不振を招きつつあった。こ のことはその発行部数にも現われていた。県統計書によれば23年の第2次福井新聞は202,500、24年 は88,762(6か月刊行)であり、その経営不振は覆うべくもなかった。かくて2月17日より連日にわ たって3月1日より定価引き下げと紙面改良の社告を出すことになる。それは若越自由新聞と同一の 1か月代価前金25銭(従来は32銭)にする対抗策であった。そして3月1日社告で改めて定価引下げ 実施の社告を出し、且つ題字を創刊時のものに復旧し新出発を策したのである。しかしその経営不振 は簡単には改め得なかった(定価1枚1銭3厘、1か月前金25銭、これまでは1枚1銭4厘、1か月 前金32銭、若越自由新聞1枚1銭五厘、1か月前金25銭)。 さて議会は3月の閉会に向け最後の段階に入って、政府と民党軟派との裏工作が結実することとな り、自由倶楽部の三崎亀之助の「九名の特別委員を挙げて政府と交渉せしめ、更に予算修正案を編成 せしむべし」との緊急動議が可決、その結果政府原案より歳出削減額を651万余円に止むることで妥 協がなされ予算案を巡る攻防に終止符が打たれた。かくて議会は一応解散といった激変を回避して3 月8日ともかくも閉会式を迎えたのであった。3月に入り新聞は立憲自由党の分裂の要因について紙 面を割く。そして分裂の遠因は党内の土佐派と九州進歩派及び大井派(関東派)との確執によるもの と指摘し110)「軽佻浮薄の男子政治社会に横行す111)」で以て「立憲自由党近時の風波は啻に吾人をして 同党の為めに悲ましめるのみならず竟に板垣伯をして身を政界の外に置かしめんとするに至りたりと 云へば悲一層深きを覚えずんばあらざるなり」と書き板垣が薄徳を理由に離党したことを惜み土佐派 を軽佻浮薄の男子なりと難詰した。そして県民の今後の政治思想について「我福井県に於ける政治思 想は従来凡て立憲自由党に傾向せしこと争ふを許さす然るに今や立憲自由党は二分せんとす此際我福 井県は方針を如何なる点に取らんとするか今にして之を定むること甚だ肝要ならん」と将来の県内の 政況に対する危惧を論じた。そのことは社自らの今後の政治的立場に対する昏迷を物語るものでもあ った112)。そして議会終了後も再度軟派議員の行蔵を批判し彼等に対する世論の糾弾の喚起を期し、更 に今後強固なる新しい民党の結成を期待した113)。また第1議会に自らの主張を貫徹出来なかった硬派 議員の挽回策は自由改進両党の再度の結束が肝要と述べ、暗に両党の合同を期したのである114)。そし て紙面はしばらく立憲自由党の大会並にその周辺の動静についての記事が連載される115)。一方3月16 日に開かれた南越倶楽部の総会については一行の雑報欄記事ですませている点注目に値する116)。この 64 一地方新聞の軌跡 ことは前述の如く同紙が県内自由派の結集に全く意欲を失ったことを象徴しているものであった。3 月20日立憲自由党の大阪大会が開かれ、党則改正案の審議、党名を自由党と改称、板垣の復党と総理 選出、23、24日の両日浪花座での大演説会の開催等々が決まった117)。3月26日の論説「自由党大坂大 会に付て」を掲載する。そこで分裂後の同党の運命を左右する程の重大なものであった大阪大会が 粛々と行われたことを賀し、また将来の着実なる党の運営を期した。次いで「一名の総理を置くの可 否を論ず118)」で以て立憲の文字を除去したことは単に名称の変更に過ぎないが、総理1名に絞ったこ とは同党の一致協同に資する大なる利点なりと書いた。そこには実利を越えた板垣への傾倒がなお同 紙のなかに存在していたことを物語る。そして雑報で大会の状況を詳細に報道し、大会決議案の各条 を記載し更に大会を巡る周辺の動静を報じた119)。また3月28日の論説「政党の交は宜しく正さに此の 如くせざるべからず」で立憲改進党事務所及び党員島田三郎が大阪大会に向けて祝詞を送ったことを 賞し、両党の関係の修復しつつあること我邦の政党社会に一光彩を着けたるものと書いた。そこには 兼々匂わせていた民党合同論の意図が滲んでいた。かくて立憲自由党の再出発に際して板垣及び彼を 推戴した自由党員に再度賛意を表したのである120)。なおまた板垣が総理受諾の条件として五か条の意 見書の内容をも精しく報道した121)。紙面は議会閉会後、それまでにも漸次散見された自由党一遍倒で ない色調がより強く見られるようになった。と云うよりかむしろ板垣への傾倒の姿勢は続けられてい るものの民党に対する報道のなかにかなり第三者的な姿勢が強まっていたことが窺われた。そしてそ のことはまた新聞の政治色の希薄化を物語っていたのであった。さて自由党大阪大会の決議により各 地へ遊説員が派遣され、福井県にも小久保喜七、石田貫之助、新井章吾の3名が来県することになっ た。新聞はこのことに関して「如何なる方法を以て三名を迎えんとするか122)」を掲げ自由派一色の県 内有志者に対し形式的な演説会、懇親会のみに終ることなく、真に党勢拡大のため、手段を考慮すべ きだと強調した。そこには県内の政治思想の低調を一面揶揄する色彩が滲んでいた。また吏党側の動 静(末松謙澄井上角五郎等による協同倶楽部の各地遊説)に対する民党側の警戒の要を訴え、また自 由党内の九州派の離脱を警告する123)等民党支持の立場を維持しつつも同紙の自由党よりの立場の希薄 化は争えないものがあった。 この間新聞は社員某の稿として「時事に感ずる所あり一言を記す」を掲げ124)、吏党民党共に次の議 会次の総選挙に向けての対応が開始され各派とも地方遊説が盛行しつつある現況のなか地方人士特に 県内有志の政治思想の高揚を訴えた。そのことは一般的な政治論時務論に過ぎず、ある意味に於いて 政治的立場の無色化を意味した。新聞はその政治色を薄めつつ他面経営不振の度を深めつつあった。 4月7日大きく紙面改良の社告を掲載125)、改良のため11・12の両日及び13日(日曜定期休日)を休刊 とし、14・15日を以て決行することを報じた。そして14日題字と紙面構成とを変更し、「改良の巻首 に題して読者に自す126)」と題して社会の変化と相俟って新聞紙の改良の必要なるとの一般論を述べ、 末尾に「福井新聞は所謂地方新聞なるものなり若越の地居を福井に構へて所謂社会の耳目たらんとす るものを福井新聞と為すとすれば旗幟を皇城の下に翻して直ちに社会の中心たる所の東京新聞なるも のに比して自ら性格を異にするものあるべく性格の異なる所即ち分を殊にす我福井新聞は此東京新聞 と殊なる所の分即ち地方新聞たる福井新聞の分を守りて忘れざるべく」と自らが地方新聞たることを 主張した。このことはある意味でこれまでの新聞社の性格の変更を自ら語るものであり、特定の政治 65 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 的立場即ち政党の機関紙乃至若干の政党色を維持した一般的政論新聞からの脱却を物語るものであっ た。若越自由新聞の出現は経営面のみではなく彼等に決定的な新聞の性格の変更を余儀なくせしめた のであった。以後紙面には福井並に地方に関する雑報記事が比較的多くなって行くことになる。 政局は5月6日山県内閣が退陣し、第1次松方内閣が誕生した。そしてその成立早々に例の大津事 件が勃発した。新聞はこの間松方内閣成立前後の中央の動静を中央新聞の記事を利用しながら報道し たのであるが、その政治的立場は中立的なものであった。そしてまた大津事件についても詳報し、そ の公判に関し5月27日より6月2日にかけて大津特派員報を連載した。ただ議会閉会後に再度台頭し て来た条約改正問題に於いてやや改進党よりの姿勢が若干見られたこと、それはかつての条約改正問 題により被った同党の失地回復のための運動を期待し、同問題に対する同党の積極的な姿勢を要求す るものであった。また自由、改進両党が実地問題(予算案審議、大津事件に対する政府問責問題)で 共闘をなし得たこと、そしてその延長線上での合同と、繰返し両党の合同論を論じ、民党の強化策を 強調したことは注目に値しよう127)。ともかく政治的立場はそれぞれの党に対して等距離の姿勢を続け、 そのことのなかで政治にかかる論説の内容も格調の低いものとなった。かくて6月の終刊を迎えるこ とになったのである。そして終刊を目前にして連日経済社会の問題を以て論説欄を埋めたことは新聞 の終幕にふさわしいものであった。即ち社会の不景気なるを託ち128)、海外への経済進出を論じ129)、輸 出品の最たる生糸に関し蚕種改良と海外の販路拡張を論じ130)、第六銀行の破産、東京米商会所の臨時 休業について筆を取り131)、更に欧米列強と肩を並べるための経済発展と国威発揚を論じた132)ことは政 治的立場を放棄した新聞の終幕にふさわしいものであった。そして終刊に際して「一大蟹行新聞」と ..... 題する井字楼主人(傍点筆者)よりの寄書を掲げた133)。それは現在刊行されているあまたの大小新聞 はすべて国内向けのもので、また新聞記者達がいかに健筆を奮っても海外の人々に対し何らの影響を 与え得るものでないと論じ、多年の懸案である条約改正問題の解決のための一助として、華族社会よ りの資金援助の下政府の一部の人達による欧字新聞の刊行計画に賛意を表し「若夫れ此計画の新聞紙 . が果して能く日本の与論を代表するか、果して能く条約改正の挙を助成するに足るか、果して能く国 ..... 内用の陋態を脱却して世界用の新聞紙たるを得へきかは発刊の日を待て論評せんのみ」(傍点筆者) と述べている。条約改正問題はさることながら、寄書という形で以上の如き問題を提起したことのな かには自社新聞の終刊に際して新聞界一般へのある虚勢の如きものが窺われ、また終刊に対する一種 の自嘲ともとれるようなものがあったと考えられようか。 第二次福井新聞は創刊後しばらくはなお編輯陣に残存する改進党支持の色調と新しく注入されよう とする県内自由派支持の色調の混在するなかで、やや政治的中立の紙面作りが見られた。しかし23年 に入って県内自由派即ち南越倶楽部の機関紙としての色調を漸次明らかにし、同倶楽部の愛国公党加 盟後また第1回の総選挙に向けては公党加盟の同倶楽部の立場と倶楽部内での主導権を握っていた武 生派(再興自由党支持)との二つの立場との間を微妙に振幅する過程で紙面作りを続け、選挙後に於 いては武生派勢力の後退後の同倶楽部に福井市内の自由派勢力を新しく結集して、その下で県内自由 派の勢力挽回を企図したのであるが、若越自由新聞の出現によりその目途は挫かれたのであった。そ して以後自由党系の新聞として一応その立場を維持しつつも南越倶楽部の政治的立場の動揺と同倶楽 部の分裂に自らも加担し、その衰退の過程を新聞社として体験した1年9か月であった。 66 一地方新聞の軌跡 そしてまたその創刊時に彼等が主張した操觚者の地位の独立といったことも終にその結果を出せな かったように思われる。即ち編輯と経営の両立の難しさを結局は克服し得なかった。このことは後年、 松方内閣によって衆議院の解散が行われ、25年2月第2回の総選挙が挙行された際に有名な大選挙干 渉が行われ、また吏党援助の目的で政府の資金援助による吏党新聞が誕生したことが知られている。 その一つとして福井県に於いても25年2月5日に創刊された「福井」があった。それは福井の交同社 によって刊行され、第2次福井新聞のスタッフの一部が参加したことが知られている。このことは編 輯と経営との2つの両立の困難性を物語り、新聞の政治的命運の一面をも物語っているものといえよ う。ともあれ我が国に於ける国会開設前後の政治的激動期に創刊しまた終刊を迎えた新聞の1年9か 月であり、県内自由派の南越倶楽部の動静に自らも影響を与え、また同倶楽部のその歴史の一端を担 った1年9か月であった。 注 1)明治14年10月16日創刊され、後20年12月15日(以下元号(明治)省略)より福井新報と一たんは改題後22年10月 10日廃刊に至った福井新聞を第1次とし、以下本論の対象である福井新聞を第2次福井新聞とする。なお、本稿 における福井新聞はすべて第2次福井新聞を指すことは云うまでもない。なお、第2次福井新聞はかって宮内庁 書陵部に所蔵され(現在は国会図書館に移管されている)、東京大学明治新聞雑誌文庫によりマイクロフィルム化 されて利用可能であることを附記しておく。また第1次福井新聞の廃刊に至る経緯については拙稿「第一次福井 新聞考(一)∼(三) 」(『福井県史研究』第7・9・10号 1990−91)を参照。 2)これらの件に関して発刊後の数日間、広告欄に下記のような文面を掲載していることに注目しておきたい。「福井 新報廃刊仕候ニ付テハ是迄新報代前金御払込ミ有之候向キハ右前金期日中福井新聞ヲ以テ代送可仕候間此段拝告 候 以上 福井市佐佳枝中町三十五番地 福井新報社残務掛」。また福井県統計書の新聞年次発行部数の以下の数 字も参考になる。「福井新報」250,009(21年) 171,129(22年) 「第2次福井新聞」48,410(22年) 。 3)22年10月10日の社説「福井新聞発刊の趣意」。なお、以下引用する新聞の社(論)説その他に於いて使用されてい る片仮名は一部筆者に於いて平仮名に書換え、また適宜句読点を加えたものもある。なお、別途ことわらない限 り、引用の新聞の社(論)説記事並びに日付等はすべて第2次福井新聞のそれである。 4)22年10月12日付杉田定一(在福井元浜町雀屋)宛牧本一秋書翰(杉田定一関係文書)。以下全文を引用しておく。 拝啓、本朝ハ推参致シ失敬仕候。付テハ山本氏友誼上ニ付種々御心配重々奉感謝候。今朝程モ御咄シ致セシ通 リ、目下ノ福井新聞ニシテ仮令利益アルモ一文モ山本ノ為メニハナラザル故、何卒シテ山本氏独立、則チ藤井 氏ニ関セサル新聞社ヲ設立スル様御取計ヒ被下間敷ヤ、尤モ其資本云々拝承シ一々感佩仕候得共、保証金三百 五拾円アレバ新聞社ヲ設立シ得ルナリ。併シ印刷ハ他活板所ト特約スレバ、今更ニ器械等ヲ購入セザルモ為シ 得ベキナリ。而シテ新聞ヲ本県公布式ニ致シ、且ツ貴君諸氏ノ尽力ヲ辱シ、県令掲載料トシテ何程カ下附ナル 様ニ運ブニ至レバ、実ニ此ノ上モ無キ良事ニシテ、山本氏ハ之レニヨリ充分将来ノ活計ヲ為スニ至ランカ。公 布式新聞ニシテ充分節約ヲ為セバ、少シナリトモ利益ノ無キ如キコトハナシ。充分御勘考奉希候。何ヲ云フモ 三百五拾円ノ保証金ヲ納ムル能ハザルヨリ、不愉快ヲ忍ンデ過日モ藤井氏設立ノ新聞記者トナリシ訳ケナリ。 右第一案。次ニ目下月ニ一回ヲ発刊スル公文全報ナルモノアリ。是ハ山本氏ノ発行人ナリ。併シ福井県庁中央 政府ノ令達ヲ掲載スルモノナレバ保証金ヲ要セズ。前年永田氏等ニシテ此ノ公文全報ヲ月ニ三回兌トシ、各町 村総代並ニ役場ヘ配布スルヲ本県会ニ可決シ、毎月弐千何百部ヲ買ヒ上ゲトナリ余程利益アリシモ、其頃ハ藤 井氏ヲ充分ニ信シ打チ任セ置キタルヨリ、益ハ藤井氏ノ手ニ落チ山本氏ハ其粕ヲ嘗メ居タリ。尤モ右ハ二十一 年度限リニテ、二十二年度ハ議事ニ附セラレザリシ。其節永田氏等ニ依頼セシモ、何レモ藤井氏ノコトヲ知ル 故、県会へ持チ出ス能ハザリシ。依テ今更ノ様ナレド、来ル十一月開会ノ二十三年度通常会ニ於テ更ニ之レヲ 再興ナシ被下様ノ場合ニハ運バザルヤ。左スレバ其利益金ヲ以テ新聞保証金等ヲ調ヘ、何トカ見込ヲ立ツル様 ニスレバ同氏モ嘸々喜ブコトナラン。何レニシモ県会ノ可決ヲ得サレバ為シ能ハズ。以上第二案。御勘考被下 度候。本朝右等委シク御話シ申上ベキノ処、○○○○失敬ヲ顧ミズ概略ヲ書面ヲ以テ御依頼ニ及ビ置キ候間、 御上京ノ際長谷川氏并ニ今一人ノ諸君ニ篤ト御熟談被下度、山本氏ノ身ノ立ツ様御取計之程奉御希候。以上。 67 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 二ニ明日御出達ニテ御座候得者御道中充分御注意御自愛専一聊も山本氏ニ代リコヽニ別意ヲ書ス。敬具。 十月十二日 牧本一秋 杉田定一殿 5)雑誌「暁」に関しては拙稿「第一次福井新聞考(二) 」、前掲注1)を参照。 6)22年10月11日、社説「山県内務大臣の帰朝」。22年10月16日、19日、社説「伊藤伯枢密院議長の桂冠」。そのなか で伊藤の辞意表明に関し「朝野共にその不意に愕然として一驚を喫したる去る十一日に於ける東京の情況は、読 者本日の東京通信及び東京の新聞紙抜粋を一閲せられんには之を推知せらるゝに難からさるへし。是れ他無し枢 密院議長伊藤博文伯の辞職是れなり。」と冒頭に、そして末尾に「吾儕は次報の東京通信者より達するの日を以て 更に論述すべく今日は本日の雑報に於ても知らるヽ如く諸説紛々何れを何れと適従するに苦しむ場合なれは軽率 の筆下さん事は抑も吾儕の本意にてあらさればなり。」と16日の社説に書いている点本論述べたことを物語ってい よう。22年10月23日、社説「大隈外務大臣の遭難」。22年10月27日、社説「内閣大臣挙て辞表を呈せらる」。22年 10月30・31日、社説「新内閣は如何」。22年11月1・2日、社説「三条公内閣」。22年11月3日、社説「伊藤枢密 院議長の辞表聞届けらる」。22年11月5日、社説「井上伯の進退」。22年11月8日、社説「井上伯帰京の時」。22年 11月20・21日、社説「井上伯井上伯」。22年12月1日、社説「政界の現況終に如何」。 7)指原安三『明治政史』下篇(明治文化全集 第3巻)、111頁「大井渡辺の二人自由党を再興せんとし板垣伯を高 知に訪ふ」参照。同書はこの項目に続いて両派の動きを日時を追って詳細に記している(111−125頁)。即ち「大 同倶楽部大阪大会に関する通知書」「大同倶楽部員杉田高橋の二人板垣伯を訪ふ」「大井渡辺の二人板垣伯を訪ひ し問答書」「大同倶楽部臨時大会を大坂に開くに決す並に其通知書」「板垣伯の書簡」「大坂に於ける政治熱」「板 垣伯神戸に着す」「政社派員及非政社派員の内会議」「非政社派員板垣伯を神戸に訪ひ遂に分離に決す」「政社派員 板垣伯を神戸に訪ふ」「板垣伯旧友懇親を開く」「板垣伯の意見書」「非政社派同志の懇親会」「大同倶楽部の臨時 総会」「大同倶楽部の懇親会」 。 8)前掲注7)、104−106頁「板垣伯同盟諸氏に贈りて其争闘を調和するの書」参照。 9)庄司吉之助『日本政社政党発達史―福島県自由民権運動史料を中心として―』お茶の水書房 1959年 578−600 頁参照。 10)22年12月15日、雑報「上坂委員」 。 11)22年12月10・11日、社説。 12)22年12月10日、雑報「大井渡辺両氏の証明書」「愛国公党の実否取調」「四氏覚悟」(以上2件12月7日関西日報)。 22年12月11日、雑報「非政社派の諸氏と愛国公党」「大井渡辺両氏の証明書(承前)」。22年12月12日、雑報「大井 渡辺両氏の証明書(承前)」。22年12月13日、雑報「非政社派の運動」「大同倶楽部委員、壮士の来坂を制す」「大 井氏は面会を謝絶す」(以上2件関西日報)「旧自由党員の小集会」「大同倶楽部員の会議」(以上2件新世界)「板 垣伯の旅宿」。22年12月17日、雑報「又囈語か」「大同倶楽部員の書簡」「板垣伯を出迎ふ」(以上3件関西日報) 「板垣伯懇話の要旨」「板垣伯出発せり」「壮士の遠足運動」(以上3件東雲新聞)「再興自由党々議の綱領」(朝日 新聞)。 (ママ) 13)「この程来掲載するが自由党再興説に関しては大坂諸新聞之を是とするあり非とするあり中立するあり随分賑やか なる事なるをもて特に本欄を設けて同地諸新聞よりその記事のこゝに関するものを抜載すべし」と書き、以下の 如く連載した。22年12月15日、「自由党再興論」「関東勢の大挙」「警察の注意周密なり」(以上3件12月13日関西 日報)「旧友懇親会と月曜会」(朝日新聞)「壮士の来阪」(東雲新聞)「板垣伯の旧友懇親会に就て」「政社。非政 社と自由党」(以上2件東雲新聞)「有志大懇親会」「有志大演説会の会場」(以上2件新世界)。22年12月19日、 「旧友懇親会の延期」「板垣伯の説話」「在坂政社派員の集会」「杉田氏は来らず」(以上4件関西日報)「板垣君の 病状」「一九日の旧友懇親会」(以上2件東雲新聞)「関東自由党員の内訳」(新世界)。22年12月20日、「板伯有志 者を招く」「唯だ不賛成なり」「杉田定一氏」(以上3件12月18日関西日報)「鈴木(重遠)、前田(案山子)、菊池 (侃二)3氏らの神戸行(カッコ内筆者)」。22年12月21日、「板垣伯を訪ひし有志者」「遂に明答を得ず」「大同倶 楽部臨時総会」(以上3件関西日報)「有志者の臨時会議」(東雲新聞)「東京倶楽部の決断」(朝日新聞)「板垣伯 との談判」「板垣伯」「板垣伯の回答」(以上3件新世界)。22年12月22日、「板垣伯の来阪」(関西日報)「旧友懇親 会」(朝日新聞)「板垣伯の帰神」(関西日報)「関東自由党」「関西自由党」(以上2件東雲新聞)「板垣伯と自由党 復形論者」(新世界)。22年12月24日、「大同倶楽部の決議」「大坂苦楽部大同派を脱す」(以上2件中外電報)「小 間粛氏殴打せらる」(東雲新聞)「大阪苦楽部員の方針」「関東自由党と関西自由党」「産湯楼の懇親会」(以上3件 68 一地方新聞の軌跡 新世界)「旧自由党員板垣伯を招せんとす」「中江氏の暗涙一滴」(以上2件新世界)。22年12月25日、「自由党再興 後」 「愛国公党」 (以上2件12月22日朝日新聞) 「自由懇親会の景況」 「大同派の決議」 (以上2件12月22日東雲新聞)。 22年12月26日、「委員板垣伯に面会す」(12月24日関西日報)「兵庫県は挙て大同倶楽部を脱す」「兵庫県の大同派 の決心」(以上2件12月24日東雲新聞)「十三県聯合の調和団体」(12月24日大阪朝日新聞)。22年12月27日、「兵庫 有志者の茶話会」(「兵庫県同志会」)「関西有志懇親会」「板垣伯の旅館」(以上4件12月25日東雲新聞)「自由党の 運動」(12月25日関西日報)。なお、関西日報は政社派系、東雲新聞、新世界は非政社派系、朝日新聞、中外電報 は中立系であることを附記しておく。 14)22年12月24・25日、社説。 15)前掲『明治政史』下篇123頁。 16)23年1月9・10日、雑報。「愛国公党の趣意書」。 17)前掲『明治政史』下篇143−144頁。 18)23年1月10日、雑報「南越倶楽部の惣会」。14日、雑報「南越倶楽部の決議」。 19)前掲『明治政史』下篇123−124頁。 20)23年1月28日、社説。 21)23年2月11日、社説。 22)23年3月5日、雑報「第三区衆議院議員の候補」。 23)23年3月9日、社説。 24)23年3月11日、雑報「衆議院議員」。 25)23年3月16日、18日、社説。 26)23年3月25日、雑報「南越倶楽部総会の概況」。 27)23年3月26日、社説。 28)23年3月26日、雑報「南越倶楽部役員及ひ評議委員会」。 29)同上「南越倶楽部総会出席氏名」。 30)同上「板垣伯迎待委員」。 31)23年4月8日より15日に至る数日間広告欄に彼の離福の挨拶文が掲載されている。 32)前掲『明治政史』下編157−158頁「板垣伯の遊説」161−162頁「板垣伯の巡遊」 33)23年4月2日、雑報「南陽の臥竜翁」。23年4月3日、雑報「板垣伯の来福」「小浜通信」(3月31日発)。23年4 月5日、雑報「板垣君の大懇親会」「南越倶楽部の電報」。23年4月8日、雑報「板垣伯慰労会の概況」「板垣君の 一行」「小浜通信」。23年4月9日、雑報「板垣伯の一行」「板垣君慰労会概況の続き」「板垣君招聘大懇親会の概 況」。23年4月10日、雑報「板垣君の演説」 「若州通信」 (4月4日発) 「南陽臥竜翁板垣伯の一行」 。23年4月11日、 「敦賀通信」(4月9日発) 「板垣伯の一行」 「大懇親会」 「伯一行の出発」 。 34)23年4月5日、広告「伯一度ビ足ヲ挙ゲナバ天下豈ニ風靡セザル者アランヤト苟モ具眼ノ士ノ口ヲ揃テ予告シタ ル南陽ノ臥竜翁板垣伯ニハ弥々五日ヲ以テ敦賀ニ翌六日敦賀発福井ニ着サル事ニ相決シタリ付テハ福井市西別院 ニ於テ翌七日午前第十時ヨリ伯ガ為ニ有志大懇親会ヲ開設ス此段我南越倶楽部員ニ告グ 但シ会費金十銭 四月 五日 南越倶楽部」。 35)23年4月6日、社説。 36)23年4月8・9日、雑報「板垣伯慰労会の概況」。 37)23年4月9日、雑報「板垣君招聘大懇親会の概況」。23年4月10日、雑報「板垣君の演説」。 38)23年4月9日、社説「愛国公党 第一稿」。4月12日、社説「愛国公党 第二稿」。4月29日、社説「愛国公党 第三稿」。 39)23年4月5日、社説「国会議員候補者予見、第一区足羽郡大野郡(続き)」。4月20日、社説「第二区坂井郡吉田 郡」。4月22日、24日、社説「第三区南条郡今立郡丹生郡」 。4月27日、社説「第四区敦賀郡三方郡遠敷郡大飯郡」。 5月7日、9日、社説「貴族院議員」 。 40)23年6月3日、論説「新聞の公平心」。6月4日、論説「一種のパチルレン」 。 41)23年5月4日、6日、8日、10日、14日、15日、17日、寄書。 42)23年5月20日、論説。 43)23年5月21日、論説。 44)23年5月28日、論説。 69 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 45)23年6月28日、論説。 46)23年7月12日、広告欄に次のような挨拶文が掲載された。「謹告 小生帰省中ハ到処有志諸君ノ御懇待ヲ蒙リ感謝 ノ至ニ奉存候昨十日無恙帰京候ニ付早速御礼状可差上筈ノ処留守中事務福湊シ其閑無之候間乍略儀新聞紙ヲ以テ 拝謝仕候也 東京築地二丁目三十六番地 七月十一日 中島又五郎」。簡単な儀礼的文面であるが、一面彼の福井 県人士に対する冷やかな不満の意図が窺われようか。 47)やや後日に属するが、10月28、29日の論説「荒唐無稽の妄言を吐露する朝野新聞」のなかで10月24日の杉田定一 山田卓介等を主領とせる士族党は福井新聞を機関として財産党(南越倶楽部内の地主層を指せるものか。筆者) を攻撃すという朝野の通信記事を荒唐無稽の妄言なりと批判し、福井新聞は独立特行なり他の為めに機関とせら るるものにあらず又他に媚ぶることを為すものにあらずと再度特定の政党政派とは無関係なることを強調してい るのであるが、所謂士族党なるものの内容はともかくとして朝野の記事が一部当っていることは否定出来ない。 また12月26日より数日間の広告欄に「生等多忙ニ付歳末年始トモ欠礼ス」との広告を以下のような新聞社内一同 の連名(藤井五郎兵衛、木村斌任、牧本一秋、和田義廣、大野淑人、奥村定松、滝沢忠七、井上外蔵)で出して いる点に注目したい。 48)23年7月1日、論説。 49)23年7月1日、雑報「候補新聞の運命」「投票売買事件の発覚」 。 50)23年7月2日、論説「浅近なる功名心」。 51)23年7月10日、論説「内部の整理も亦必要なり」。 52)23年7月12日、雑報「南越倶楽部の委員会」「杉田定一氏」 。 53)なお、同紙面に福井市街への新聞紙の配達を7月8日より北斗館より本社に変更することと、7月分の新聞代金 を直接本社よりの受取人に支払うことを要請する事務連絡的社告を掲載している。7月8日以後新聞社が新体制 となったことを窺わせるのである。 54)庚寅倶楽部は23年5月の愛国公党組織大会後種々の経緯を経て3派は合同する協議会を開き、合同の上成立した る政党を一と先ず庚寅倶楽部と称することとなした。なお合同の準備をなした3党は、なお解党を延期、3党の 名で第1回総選挙を迎えたのであった。 55)23年7月23日、雑報「南越倶楽部総会」。なお、来会者36名の郡別氏名は左の通りである(印刷の誤りは適宜筆者 により訂正、また一部地名も筆者) 。 〔福井市〕橋本直規 〔足羽郡〕青山庄兵衛 奥田与兵衛 〔吉田郡〕大橋松二郎 松原 栄 矢野利右衛門 (山室) 藪下八郎右衛門 浅田仁右衛門(中角) 吉村喜右衛門 山田六右衛門 河田正直 〔坂井郡〕杉田定 一 山田 穣 坪田仁兵衛 杉本新左衛門 高原伊平 土屋久左衛門 阿部 精 川端薫一 牧田直正 上田 大蔵 高嶋安平(玉木) 庄) 坂井精一(細呂木) 藤田文右衛門(中番) 石黒新右衛門(大味) 佐藤 耕(太郎丸) 吉田 卓(四十谷) 沢崎弥右衛門(下新 〔今立郡〕桑原甚六 河端 魏 〔丹生郡〕河野彦三郎 竹 内 淇 〔南条郡〕増田耕二郎 今村七平 松下豊吉 山本庄三郎 なお、杉田定一文書のなかに倶楽部の幹部宛に7月20日前後に書かれた杉田の次のような書翰草稿が残されてい る。「啓上本日午後永田氏相見ヘ曰ク今般南越倶楽部会議ニ於而国会議員ヲ庚寅倶楽部派遣委員ニ選定相成タルモ 元来同倶楽部ハ今般衆議院選挙ニ関シ更ニ利益ナキノミナラズ却テ害アリ其他県会議員選挙等ニモ功能無之因而 右代表者トシテ出京スル事ハ謝断スルト因而生曰ク元来南越倶楽部ハ国会議員又ハ県会議員□□選挙ノミノ機関 ノ為メニ設クルニ非ズ外広ク天下同主義者ノ聯合内ハ一地方ノ団結ヲ図リ政治思想ヲ発達セシメ吾人ノ目的ヲ達 スル為メ設タル者ナリ故ニ会員タル者選挙ノ機関利用トスルヲ目的トシ入ル者ニ非ザラン若シ夫倶楽部ノ功能ノ 一例ヲ挙ゲバ彼ノ条約改正建白ノ如キ又ハ三派合同ノ如キ此他少ナカラズ譬ヘ失措アリトスルモ各自会員ノ所有 ノ倶楽部ナレバ自分ノ物トシテ之ヲ矯正益々隆盛ナラシメズンバアルベカラズ云々申述ベタリ然レトモ同氏ハ前 説ヲ取ツテ動カズ南越倶楽部代表者トシテ出京スル事ハ断ハルトノ言ニ有之生因テ然ラバ其趣事務所ニ貴下ヨリ 御通知アレト申述タリ右応対ノ大要御参考ニ迄供シ候」。右はこの時期の南越倶楽部をめぐる杉田と永田との対応 を物語るものとして興味深い。 56)23年7月23日、雑報「南越倶楽部…」。 57)23年7月24日、論説。 .... 58)23年8月1日、社告「明日の休刊」で「福井新聞改良の際社務整理の為め来る四日の月曜休刊と繰り替ひ明日は 休刊として四日の月曜は休刊せず」(傍点筆者)と告げ、更に祝電、大阪 高橋敬、東京 岡部広、井上経世、若 林友之を、また寄書欄に「革新を祝す 在東京 原口令成」「福井新聞ノ改良ヲ祝ス 松原秀成」を掲げ、引き続 70 一地方新聞の軌跡 いて8月3日寄書欄に西村玄道、在東京 斎藤修一郎の祝文を載せ、また8月5日の寄書欄に本社の移転及び紙 面改良の祝宴会上での社員の祝詞演説の内の3篇を載せ、また再度紙面改良社務改革の社告を掲げた。なお、8 月10日の寄書欄に土生笙東「福井新聞の改良に就て」があり注目したい。彼は「抑も地方新聞には、自ら地方新 聞たるの特質を備へざるべからず。然るに従来の地方新聞記者たるものは、曽て此の特質を描写することを勉め ず、却て都会新聞の に傲ふに汲々たりしなり、否な寧しろ直言せば、編輯の材料を地方に採ること少なくして、 却て多く都会新聞の唾余を拾ひしなり」また「余は望む、足下の幸に渠等の所為に傲ふことなく、その縦横の健 筆を以て、能く地方新聞の特質を描出し、以て抜粋新聞の汚名を取ることなからんことを」と。そして終りに 「余は敢て他家の祝詞に雷同せず、特に足下と同じく新聞記者たりしの故を以て、敢て従来地方新聞記者の不注意 なりし点を述べ以て祝規となす、知らず足下一笑して之を納るや否や」と祝詞を述べているのである。 59)23年8月1日、雑報「今立通信」。 60)23年8月6日、雑報「足羽倶楽部」。 61)23年8月13日付杉田定一宛阿部精書翰(杉田定一文書)。 62)23年9月9日付杉田定一宛増田耕二郎書翰(同上)。 63)23年10月18日付杉田宛増田書翰(同上)。なお、杉田定一文書のなかに「越前倶楽部組織案」なる文書が残ってい る。それによれば斯倶楽部ハ国会開会中傍聴人出京便利ノ為メニ設クルコトとあり、出京、滞在及びその費用に ついての細かな規程とともに「倶楽部ハ各郡有志共同ノ出金ヨリ成立スルコト」「東京ニ取締二名ヲ置キ倶楽部一 切ノ事務ヲ提理セシム」「倶楽部創立委員ハ資金整頓ノ上十一月五日迄ニ出京スルコト」とある。増田のいう県人 倶楽部のことであろうが、具体的にこの案が機能したか否かは不明である。 64)同前、杉田宛増田の書翰。並に23年10月8・9日、雑報「南越倶楽部例会の景況」。なお、50余名の内、重立ちた る人名は下記の人々であった。 〔坂井郡〕高橋七左衛門 川端薫一 田谷治右衛門 藤沢清右衛門 小林季太郎 高原伊平 坪田五郎左衛門 阿部 精 〔足羽郡〕川栄奥左衛門 高波武右衛門 玉岡伊平 内藤藤左衛門 村田甚右衛門 奥田与兵衛 青山庄兵衛 〔吉田郡〕大橋松二郎 〔丹生郡〕河野彦三郎 〔南条郡〕増田耕二郎 〔福井市〕木村斌任 65)23年11月6日付杉田宛大橋松二郎書翰(杉田定一文書)。 66)24年1月6日付奥田与兵衛宛加藤与次兵衛書翰(奥田与兵衛家文書)。それは県会常置委員の新年宴会欠席のこと と地租軽減建議書提出のための上京日程のことを報じた後、南越倶楽部事務所費1月分金10円を奥田に預け置く ことの依頼を書き次に「先般迄ノ義ニ付将来ニ関シ南越倶楽部の処置等も相定リ候ヘハ直ニ東京方ヘ御一報煩し 候此中ハ強て解散を申候得共又熟考致し候時ハ今日ニ至リ火の消ヘタル様ニ致すハ他のきこへも如何存し事務所 費拾円ハ適当の様被存候間節減して置くハ又一策かも知れ不申候何分細々と維持し行くハ第一の得策と奉存候」 とある。 67)23年8月5日、雑報「南越倶楽部のこと」。そのなかで武生派を批判した後に「去る二日の東京諸新聞にも亦福井 県下愛国公党派の南越倶楽部は部員分裂し将さに解散せんとするの状ありとのことを記せり」と引用し終りに 「兎に角折角団結したるものに分裂せんとするは政治界の為めに歎くべきのことなれば嫌な分子はスツカリ取り除 きて立派に成立せしめられんことこそ望ましけれ」と本音を匂わせていた。なお、ここで雑誌「暁」のことを整 理しておきたい。暁は南越倶楽部の機関雑誌として22年4月10日に第1号が出された。現在22年10月刊の第7号 まで(但し1号と5号は欠)を見ることが出来る(東京大学明治新聞雑誌文庫)。福井県統計書によれば発行部数 は22年3,968部、23年171部となっている。このことから推計して恐らく1回の刊行を5百部と見て22年には7、 8回の発行、23年には総選挙時福井新聞の補完用として何らかの形で出されたものと思われる。現に選挙時に永 田派の「二十三年」に対抗して向陽社発行暁の号外が、武生の石倉家文書中に残存している。恐らく発行部数か ら推して23年にはまともな形では刊行されなかったと云えよう。拙稿「第一次福井新聞考(二)―改題から廃刊 まで―」(『福井県史研究』第9号、1991年3月)参照。 68)23年8月10日、論説。 69)23年9月6・7日、論説「南越倶楽部を論ず」。 70)23年10月9日、論説「南越倶楽部の革命」。 71)23年10月23日、論説「南越倶楽部は其精神上の団結をもまた解きたるか」。 72)23年11月7日、雑報「南越倶楽部の総会」。 73)23年8月5日付杉田定一宛橋本直規書翰、23年8月26日付杉田定一宛松原栄書翰(杉田定一文書)。 74)23年11月18日付杉田定一宛大橋松二郎書翰、23年11月18日付杉田宛橋本直規書翰(同上)。 71 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 75)23年8月16日、論説。 76)23年9月16、18、19日、論説「商業会議所条例公布せらる」。 77)23年9月9日、論説「吾人をして知言の名を成さしむるなかれ」 。 78)23年9月10日、雑報「立憲自由党の主義綱領」。9月13・14日、雑報「立憲自由党々規草案」。 79)23年9月19日、雑報「立憲自由党の結党式」「板垣伯臨場す」 「立憲自由党常議員」「立憲自由党東京部員の会合」 80)23年9月20日、論説「賀立憲自由党結党」。 81)23年9月27日、論説「立憲自由党は今や地方の人心を固むるの時来れり」。 82)23年9月30日、10月1日、論説「議会開会後の経済社会に就て」。 83)23年11月14、15、16、18、19、20、22、23、26、27日、論説。 84)23年11月27・28日、欄外広告「国会開院式ノ祝宴ヲ挙ク 祝典ハ福井市役所ニ於テ宴席ハ其際案内ス 同感ノ諸 君ハ至急福井新聞社ニ於テ会券購受アリタシ 会費ハ金弐拾五銭 日時ハ追テ広告ス 福井主唱者」。29日、欄外 広告「帝国議会開院式ノ祝典及祝宴ハ今廿九日挙行ス 祝典ハ午后第一時市役所楼上ニ於テ挙ケ宴席ハ月見亭ニ 於テ開ク」。 85)創刊号は現在発見されていない。なお、今日見ることの出来る同紙は24年より30年までの各年の数日分と31年11 月1日より20日終刊号までである。 86)23年12月5日、雑報「若越自由新聞」「若越自由新聞社の祝宴」 。 87)前掲『明治政史』下篇、275−277頁、「国民自由党興る」「国民自由党第二の懇親会」。279−281頁、「新政党員全 国有志大懇親会を江東中村楼に開く」「新政党の委員会」。また三宅雪嶺『同時代史』第2巻(1950年岩波書店刊) 417−418頁参照。 88)以下総て雑報。23年10月9日「保守党の合同説熟せんとす」(熊本国権党福岡玄洋社長崎鶴鳴会広島政友会等の動 向)。11日「国民自由党」。12日「国民自由党に就ての噂」(同党を巡る政府筋の動向、9日の報知より)。30日 「対等条約会と国民自由党」(旧大同派の設立にかかる対等条約会の動向)「国民自由派の会合」。11月5日「国民自 由党と後藤伯」(後藤井上等の策動、政府による野党分断策)。「新政党は公然発表せざるべし」(同グループ内で の新政党発表に関する早急派と慎重派の対立の内幕)。6日「各府県委員会」(国民自由党設立のための11月2日 の相談会の内容)「国民自由党の大会」(11月20日の大懇親会で以後同党が非政社の運動にとどまるか公然政党を 名乗るのか世人注目の的)。7日「綾井氏の演説」(同党懇親会で綾井武夫の演説の内容)。9日「国民自由党の手 配」(全国枢要の地方へ誘説の件)。11日「井上伯と国民自由党」(井上は関係否定)「大江卓氏果して野心あるか」 (大江卓が新政党発起人の1人として奔走しているの風説を石塚重平が否定)「立憲自由党東京部員の運動」(国民 自由党懇親会に公然臨席せる同党員を糾断する談判の委員選定)「後藤伯の談話」(国民自由党とは無関係との弁 明、7日の江湖新聞)。14日「国民自由党の主義問答」(我輩は立憲自由党と文字上に於ける差異を見ず、感情の 上の区別なり)。16日「新政党の旨意書なりと云ふは左の如しと云ふ」(旨意書の内容)「新政党第二の懇親会」 (第二の懇親会23日に延期の連絡書状)。20日「国民自由党員朝野記者を語る」「濡衣を着せられたる人々」(国民 自由党に関し発起人賛成者なり等濡衣を着せられ迷惑したる人名、16日の読売新聞)。25日「国民自由党の機関新 聞」(発行と周旋中)。28日「秋山氏が述べし開会の主意」(新政党員全国有志懇親会に於ける秋山小太郎の開会の 主意の内容)。 89)23年11月5日、論説。 90)23年12月5・6日、論説。 91)23年12月28日、論説。 92)24年1月7日、論説。1月13日、論説「九百万円豈に敢て過激なりとせんや」。 93)24年1月15日、論説「松方大蔵大臣の演説について」。9日、論説「解散を恐るとは虚ならん」 。 94)24年1月20日、論説「違憲の民売国の臣」。 95)前掲、『同時代史』第2巻、426−427頁参照。 96)24年1月22日、論説「告地方政論家」 97)24年1月27、28、29、30日、2月4・5日、論説。 98)先ず1月20日の雑報「福井商人会」で福井市商工業有志者による福井商人会の組織計画を報じ、また1月25日開 会の総会で検討される会則の草案を載せた。それは下記のようなものであった。 福井商人会々則草案 一 本会は当市商工業の隆盛を図り幸福を増進せんがため一致団結するを以て目的とす 72 一地方新聞の軌跡 二 会員たる者は本会の決議に悖るの所為あるべからず 三 会員中実事問題につき本会の決議を得んと欲する者は集会前予しめ其事由を幹事へ通告し承諾を得べし 四 集会は毎年春秋両同(三日十日)を以つて定式とし及必要の事件あるとき臨時開催す 五 会員の入退会は委員の合議を経べし 六 会員は本会の雑費として毎月金二銭を支出す 但毎定式会に於て半ケ年分を前納すべし 七 会務整理の為め会員中より委員十五名を選任し又委員中より正副幹事各一名を互撰す 但任期は一ケ年とし春期定式会に於て投票撰挙す 再撰するも妨なし 八 委員の事務分担は委員の協議に任す 九 会則の修正増補は会員の協議に拠る また1月22日の雑報「福井市商工業有志家の集合」で1月20日同会の組織について有志者10余名が協議したこと を報じ、1月27日、雑報「福井商人会」で同会の1月25日の組織会について詳報した。同会は80名程が参集、先 ず主唱者総代藤井五郎兵衛の開会の主意の演説後議事に入り藤井氏を会長に推し次で会則の審議に入り種々討論 の末、定式会を年4回に、委員数を20名に変更、他は起案通りに可決、委員選挙の結果、左の人員が決った。 藤井五郎兵衛 平沢潤介 和木本久右衛門 鷲田土三郎 林 末治 山田清兵衛 上田清十郎 宗 義諦 佐藤彦三郎 田中円八郎 坪川 清 杉山喜平 土川与平 福田源三郎 高階寅吉 佐々木安五郎 辻 茂兵衛 白崎藤三郎 川島伊三郎 尾崎 直 なお、末尾に本席は当市実業者中屈指の有志会のみにして会運鞏固なるに至らば実に商工業社会の一大藩屏なら んかしと書いた。更に2月2日の雑報「商人会」で1月30日開催の委員会で幹事に藤井五郎兵衛、副幹事に鷲田 土三郎、会計事務に坪川 清、川島伊三郎が選任され、会務上の事が協議されたことを報じ、2月10日の雑報で 商人会の委員会は毎月11日を定日となしたこと、明11日元夷町成覚寺に集会のことが報じられている。 99)百姓倶楽部は敦賀郡の有志者(愛発の松山民之助、粟野の柴田早苗、東浦の宮原繁三等)により23年1月12日設 立総会を開き(仮会頭柴田早苗)、創立事務所を敦賀町神楽に置き、とりあえず衆議院議員及び改選県議候補者の 予選を目途に設立されたもので、その内容は左の規約題案に窺われる(23年2月19日、雑報、敦賀通信「倶楽部 設立」)。 百姓倶楽部規約題案 第一条 百姓倶楽部ハ地方自治ノ根基ヲ固クシ敦賀郡民ノ幸福ヲ増進スルヲ以テ目的 トス 第二条 一町村ヲ以テ一部トシ毎部常設委員三名ヲ撰挙スベシ 第三条 常設委員ハ其部下ノ会員ヲ代 表シ会則其他必要ノ事項ヲ議定スベシ 100)24年2月1日、論説「福井市商人会」。 101)24年1月27日、雑報「南越倶楽部臨時総会」。 102)24年2月6日、論説「民業保護」。 103)24年2月10日、論説「知らざるなるか将た知つて云はざるなるか」。 104)24年2月15日、論説「議会は断言不動たるべし」。 105)24年2月24日、論説。 106)24年2月25日、論説「或人の解釈果して当を得るや否や」。 107)24年2月17日、論説「改進党」 、2月18日、論説「合同の時期来れり」、24年2月26日、論説「両党合同論」。 108)24年2月27日、論説。 109)24年2月28日、論説「小党分裂現内閣」。 110)24年3月1日、雑報「自由党の過去未来」。 111)同上、論説。 112)24年3月5日、論説「我が県の方針を定むべし」。 113)24年3月11日、論説「隔履掻痒」 。 114)24年3月13日、論説「自由改進両党の為めに計る」。 115)以下すべて雑報。24年3月13日「立憲自由党大会」「大会提出の原案」「立憲自由党の協議会」「自由倶楽部」「大 坂立憲自由党の脱党」。3月15日「立憲自由党の掃除説」「第二の脱党者」。3月17日「立憲自由党常議員会」(3 月13日大坂大会に提出すべき同党々則改正案を審議決議のことと改正案を掲載)。3月18日「自由党員の下坂」。 3月19日「自由倶楽部の規約」 「新自由党将に起らんとす」 (自由倶楽部の片岡植木林等による新自由党樹立計画、 その主意書、大憲を掲載) 。3月20日「立憲自由党の下坂」。3月24日「立憲自由党の会議」 (3月19日の常議員会) 73 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 「立憲自由党大会の后報」 。3月25日「大坂脱党者の覆水盆に返らず」 。 116)24年3月17日、雑報「南越倶楽部総会」。 117)24年3月25日、雑報「立憲自由党大坂大会廿日の景況」。 118)24年3月26日、論説。 119)24年3月26日、雑報「大坂大会」「自由党大会の決議案」。3月27日、雑報「自由党の条約改正取調委員」「立憲 自由党分離派諸氏の意見」 。3月28日、雑報「大坂に於ける自由党の演説会」 「大会々同者の出発」。 120)24年3月29日、論説「板垣伯及自由党済々の多士に要望す」。 121)23年3月31日、雑報「板垣伯五ヶ条の意見書」。それは「第一 中央組織之事 第二 地方組織之事 第三 中 央と地方と関繋之事 第四 選挙人と被撰挙人との関繋之事 第五 政党運用之事」の5項目につき彼の考えを 述べたものである。 122)24年4月1日、論説。 123)24年4月2日、論説「協同倶楽部は自由党及改進党の大敵にあらざるか」 「九州派の人々乞ふ再思せよ」 。 124)24年4月3日、論説。 125)予て広告も致候本社福井新聞紙面改良の義準備の未だ全く整頓せざるもの有之候為め遷延致来候処此際百事緒に 就き候に付愈々来十四五日を以て決行可仕候 改良後の福井新聞紙面に於ける光彩たるものに至ては本社妄に自 ら賛することを止めて一に愛顧諸君の御批判に任すべく候得共新に記者を聘して一同鋭勤精、論説は木村斌任、 雑報は高橋北雷、小説は迷花散史主として之に任し他若干の編輯員各其部門に従て筆を執り尚江湖有名の人士に 請て記事論説及小説等の寄送を受け特に小説には今村浪花氏の筆に成り精功なる彫刻師刀を執りたる密画を挿入 し又福井県公文は保存の便を図かり附録として冊子に製すべき別紙に印刷可致候間改良後即ち十五日よりの新聞 一層の御注意を以て御覧被下度候 右改良を決行する為め且つ社業の繁昌に由り新に印刷所(松ヶ枝中町二番地 内)を分散せる為め来る十一十二の両日及び十三日(日曜定期休日)を休刊仕り候但し右休刊仕候とも改良後は 填補として臨時附録を添へ候により定価は減却不仕且休刊中緊要の事件起り候得者号外を発し報道可仕候以上 福井新聞社 126)24年4月14日、論説。 127)24年2月29日、論説「改進党智謀に富む哉」。24年5月20日、論説「改進党の意見を発表すべきは方に此時にあ らざるか」。24年6月14日、論説「自由改進両党の近状に付て」。 128)24年6月24日、論説「満目荒涼」 。 129)24年6月25日、論説「海外に我が美を発揚せよ」。 130)24年6月26日、論説「眼光を四囲の趨勢に注げよ」。 131)24年6月27日、論説「破綻又露はる商界の恐惶を如何せん」。 132)24年6月28日、論説「国体の大罪人」。 133)24年6月30日、論説「一大蟹行新聞 井字楼主人寄」。 74 貞享の半知における家臣団 動向・資料紹介 貞享の半知における家臣団 ―福井藩政史研究ノート― 吉川喜代江* はじめに 1.貞享の半知 2.家臣団と知行制 (1)半知直後の家臣団 (2)家臣団と知行高 (3)知行制の変化 3.おわりにかえて はじめに 徳川家康の二男・結城秀康を藩祖とする福井藩は、家門としての家格をほこり、加賀前田に次ぐ68 万石1)という大藩であった。しかしながら、その藩政においては、第2代藩主忠直の隠居2)、さらに第 6代藩主綱昌の改易という憂き目にあっており、そのたびに藩領の一部が没収された。特に1686年 (貞享3)に綱昌が改易され、当時47万5280石あった藩領がほぼ半減したことは、福井藩に決定的な 打撃を与え、その後の藩政に多大な影響を与えた。 この半知によって、家格や藩領、家臣団、知行制などは大きく変化した。当然、事件の背景からす べて検討すべきところであるが、このことについては、既に、舟沢茂樹氏の研究3)や『福井県史』通 史編4)でも取り上げられており、それらを参考にさせていただき、今回は家臣団と知行制にのみ焦点 を当てて考察してみたい。 1.貞享の半知 1674年(延宝2)、福井藩第4代藩主光通の跡を継いで第5代藩主となったのは、当時吉江藩主で あった昌親であった。光通および昌親と松岡藩主の昌勝は兄弟であったが、昌親は兄の昌勝に気兼ね してか、藩主の座につくことを固辞したようだ5)。そのためか、昌勝の長男であった仙菊(綱昌)を 養子としたのである。かくして仙菊は75年に元服し、従4位下に叙せられ、侍従に任命され、越前守 を兼ねた。そして将軍家綱から偏諱を賜り名を綱昌と改め、翌年、家督を継いで第6代藩主となった。 この時綱昌は17歳、後見役となった昌親は36歳で、光通の跡を継いでわずか2年しか経っていなかった。 *福井県文書館企画主査 75 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 図1 福井藩主系図(『福井県史』通史編3より) 2 忠直 光長 4 3 1 昌勝 忠昌 5 秀康 直政 光通 昌親 宣富 6 9 8 綱昌 宗昌 10 宗矩 11 重昌 12 重富 13 治好 吉邦 (7 吉品) 14 斉承 15 斉善 16 慶永 17 茂昭 直基 は養子 直良 その後、綱昌は無難に藩政を行っていたようだが、81年(天和1)3月15日、江戸城から戻った後 発病し、以後藩邸に引きこもり、登城することも帰国することもなかったという。そして、第5代将 軍綱吉の治世下6)にあった86年(貞享3)閏3月6日、徳川一門の有力大名であった綱昌は改易され、 47万5280石の領知を没収されてしまった。代わって前藩主の昌親(後の吉品)が新規に25万石で再封 されたが、福井藩の藩領はほぼ半減してしまい、家格も著しく低下してしまった。この事件は一般に 貞享の半知、あるいは貞享の大法などと呼ばれている。 改易の理由は、『徳川実紀』によると「失心せるをもて」とあり、「家譜」には「気色宜しからず」 とある。すなわち精神的な病気を理由としているのであるが、昌親と綱昌の不和による昌親の陰謀説 などもあり7)、このことについては別の機会に考察してみたいと思う。 2.家臣団と知行制 (1) 半知直後の家臣団 半知を言い渡された昌親は、1686年(貞享3)閏3月6日、早速福井へ使者として家臣の滝明矩と 石川成政を遣わしており、11日には福井へ綱昌改易の知らせが届いた。さらに、4月13日には江戸よ りの使者である奏者番の荻野政封が福井に到着し、15日に昌親の意志を次のように家臣団へ申し渡し た(「家譜」)。 先月廿八日ニ御領知之御礼御首尾克被仰上候、爰元御屋敷無別条其許静之旨追々被聞召御満足被遊候、今度被仰出 趣ニ候得者御家久敷侍共之儀候間何卒被召仕度被思召候得共、御高大分減候得者難及御手当其段御難儀千万思召候、 何も侍共迷惑可仕旨御不便被思召候、御相談之上ニ而追々可被仰出候、先夫迄ハ其身共之為ニも候条何茂噪敷無之 様ニ仕可罷在候 つまり、家臣については、何とか召し抱えたいが、半知によってかなり領知高が減ってしまったの で、今までどおり手当できない。ただし、そのことについては追って知らせるので、それまでは騒が ないようにという内容である。 その後、6月6日には、江戸よりの使者である家老の稲葉正信が福井へ到着し、暇を出すことを家 臣へ10日に申し渡している(「家譜」)。 今度新規御領知被仰出候、何茂御家久敷者共ニ有之候間不残被召仕度被為思召候得共、只今之御高ニ而ハ難及候故 不被召抱候、何茂迷惑可仕旨其段別而御憐愍被為思召候、今度不被召抱候付御城下御領分之内又者一類共何方ニ成 76 貞享の半知における家臣団 共罷在儀少も不苦候、屋敷明候儀も勝手次第緩々と差上可申候、以上 つまり、何とか家臣についてはすべて召し抱えたいのだが、今の領知高ではすべてを召抱えること はできないので暇を出す。城下にそのままあっても構わないし、屋敷もゆっくりと明渡せばよいと申 し渡しているのである。 そして、11日には、残留の家臣団に対しても給禄の半知を申し渡した(「家譜」)。 今度御領知被仰出趣ニ候得者何茂新規被召仕候、只今迄被充行高 半減被成下候間可得其意候、何も迷惑可仕与御 不便思召候得共、今程之御高ニ而者被思召候様ニハ難被成候条、諸事軽仕可相勤候、以上8) すなわち、改易となったので残留の家臣団は新たに召し抱えられることになるわけであるが、藩の 領知高が減ったので、今までどおりにはいかないということを申し渡しているのである。そして、こ のあと家臣団に、原則的には知行高は半分とすること、ただし高が少ない150石取は100石とし、100 石取はそのまま100石、50石取もそのまま50石とすることを申し渡している(「家譜」貞享3年6月11 日条) 。 (2) 家臣団と知行高 表1 福井藩知行取の構成 家臣(士分)には知行取の他、扶持米取・切米取が あるが、さらに下級武士である卒分や陪臣などを加え ると広い意味の家臣はかなりの数になる。本稿は、そ の中で特に士分を対象にしたいと思う。 半知前の家臣団数については、「清浄院(綱昌)様 御代給帳」9) (以後「綱昌給帳」)をみてみると、士分は 知行取554人、扶持・切米取158人の計712人であった。 次に、半知後の家臣団数についてみると、昌親(吉品) が第7代藩主になった時の「探源院(吉品)様御再勤 後給帳」10) (以後「吉品給帳」)によると、士分は知行 取264人、扶持・切米取213人の計477人となっている。 この両給帳の知行取の内訳を見てみると、表1のよ うになる。「綱昌給帳」より半知までの間には期間が 綱昌 知行高 人 吉品 % 1万石以上 5,000∼1万 4,000∼5,000 3,000∼4,000 2,000∼3,000 1,000∼2,000 900∼1,000 800∼ 900 700∼ 800 600∼ 700 500∼ 600 400∼ 500 300∼ 400 200∼ 300 100∼ 200 100未満 2 8 2 3 7 33 3 6 12 10 34 32 110 121 165 6 11.8 計 554 100 1.8 8.1 25.6 21.8 30.9 人 1 0 2 2 4 11 2 3 1 4 11 6 16 39 156 6 264 % 0.4 7.2 8 8.3 14.7 61.4 100 注 「綱昌給帳」「吉品給帳」より作成。 あり、また、例えば「綱昌給帳」に1677年(延宝5)に失脚した飯田主米11)の名があるように、家臣 団内では絶えず昇進・降格、時には廃絶が繰り返されていたことを考えると、単純には比較できない のであるが、ともかく、半知後、1万石以上の知行高を有していたのは、4万石から2万石となった 本多長員一人だけとなってしまった。また、綱昌時代に1000石以上の高禄者が55人(9.9%)、300石 未満の少禄者が292人(52.7%)であったのに対し、吉品時代には高禄者が20人(7.6%)、少禄者が 201人(76.1%)となっており、ともに人数は減っているものの、給人総数の比率から考えると、少 禄者の比重が増大している。このことについては、『福井県史』の中で、初代藩主秀康から光通にい たる知行取の構成は時代が下るにつれて、上級の知行取が減り、下位とりわけ200石台以下の層が増 えていることが指摘されており12)、この事件後、給人の零細化が一層加速したことがわかるのである。 77 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 このことについては、舟沢氏の論文でも明らかにされている13)。 また、領知高に占める知行高の割合についても、両給帳より計算すると、綱昌時代が62%であった のに対し、半知後は43%に減少している。このことについても、『福井県史』によると、秀康時代の 割合が80%、光通時代が68%となっていること14)から、やはり半知後もその傾向が一層強まっている のがわかるのである。後述するが、この事件をきっかけに地方知行制のあり方も大きく変わったので、 藩の領知減のしわよせが、直接、家臣団を襲うことになった。 次に「貞享の半知」により暇を出された家臣団について「半知ニ付減員覚帳」15)によってみると、 士分については、知行取は202人、扶持・切米取が92人の計294人の家臣団に暇が出されている。前述 と同様、単純な比較はできないのではあるが、「綱昌給帳」の約41%の家臣に暇を出していることに なり、半知の結果、藩領のみならず家臣団数も半数近く減っていることになる。ともかく、約41%の 家臣団が暇を出されたということで、居住していた城下の毛屋町・木田町などはすっかりさびれてし まい、足羽川を往来する毛屋繰舟も止められてしまったようだ16)。 ところで、「吉品給帳」と「半知ニ付減員覚帳」の人数を足した数と「綱昌給帳」の人数とは、か なり数の開きがある。これは、前述したとおり「綱昌給帳」から半知までの時間に家臣団の変動があ ったことや、改易後、江戸の鳥越屋敷に移った綱昌に随った家臣、あるいは千本長右衛門のように半 知により一度暇を出されたが、再び召し抱えられた家臣、また、吉品時代に新たに召し抱えられた家 臣などがいるからだと考えられる。 さて、減知となった家臣団についてだが、実際に「綱昌給帳」と「吉品給帳」を比較すると、基準 通り高が半分となっているものが多く、200石取の者まで100石となっている。しかし、そうでない者 の人数も多い。例えば、酒井玄蕃の例を見てみると、「綱昌給帳」では8050石で、「吉品給帳」では 4050石となっており、きっちり半分とはなっていないのであるが、87年(貞享4)の「酒井玄蕃宛書 出」17)を見てみると、高は4025石となっており、基準通り半分になっている。したがって「吉品給帳」 で4050石となっているのは、87年以降に加増されたものと考えられる。このような例を考えると、半 知時の例外は少なかったのかもしれない。しかしながら、皆川多左衛門は「綱昌給帳」でも「吉品給 帳」でも高は変わらず1000石となっている。多左衛門は昌親が吉江に入った時に付人として随った家 臣であるが、明らかに優遇されていることがわかる。 (3) 知行制の変化 「貞享の半知」の際、残留した家臣団は知行高が半減したのみならず、藩の知行制そのものが変質 することになり、さらに大きな打撃を受けることになった。 知行の方法は大きく分けると2つある。1つは実際に知行地を与える「地方知行制」、もう1つは 藩から現米を支給する「俸禄制」である。福井藩は「地方知行制」をとっており、家臣(給人)が直 接知行地から年貢米を収納していた。そして、彼らは藩祖秀康時代には、年貢率の決定や法度の制定、 山や川の支配権、百姓に対する裁判権など強力な権限を有していた。しかし、その後、藩からの借知 や割替などにより給人の知行地に対する権限は徐々に制限されてきていた。 また、半知前までは、『国事叢記』(貞享3年6月11日条)に「是迄者知行分不残御朱印、御半知よ 78 貞享の半知における家臣団 り御書出」とあるように、藩主より次のような知行宛行状が出されていた。 松平綱昌知行宛行状18) (包紙) 彦坂又兵衛とのへ 『重庸』 (異筆) 充行領知事 高合三百石者 右如先規全可知行者也 延宝五丁巳年十二月日 (朱印) (松平綱昌) 彦坂又兵衛とのへ しかし、半知後は次のように変わっている。 彦坂又兵衛宛書出19) (包紙) 彦坂又兵衛殿 『重庸』 (異筆) 覚 高二百石 右之通被下置御蔵出ニ而相渡候間可被得其意候、御朱印者重而可被下旨候、已上 貞享四年卯七月日 根来 半兵衛 大谷儀左衛門 彦坂又兵衛殿 このように、藩主の朱印はなくなり、奉行人から発給されている「書出」に変わったのである。文中 に「御朱印者重而可被下旨候」とあるが、実際には行われなかった。 また、 「御用諸式目」(1691年 元禄4)20)によると、 一 知行高六百石より以上ハ地方、 高千石ニ一円村一ケ所宛被割渡之、其内山川共ニ支配之儀ハ本多孫太郎 一人之外不被許之 一 知行高五百五拾石より以下ハ御蔵出、但其年之御蔵免惣平均ニ而被下 右貞享三寅年依為 当御代始、翌年卯二月奉稲葉采女御家中拝知之地方割出来之節、如此可被定下旨被仰出 とある。すなわち、それまではすべて「地方知行制」であったのが、半知後600石以上が「地方知行」、 550石以下は「御蔵出」となってしまったのである。これを「吉品給帳」にあてはめてみると、 「地方」 は30人のみで、残りの234人が「御蔵出」ということになる。 では、「御蔵出」とは具体的にどういうものであろうか。まず、『国事叢記』(貞享3年6月11日条) には次のようにある。 御蔵出ト云ハ村ハ雖渡、御代官より免切万事指図ス、是御半知より始ル それまで給人は直接村から年貢米を収納していたのであるが、もはや年貢率などの決定権はなく、 代官の指示に従って収納することになったのである。 さらに、 『続片聾記』には次のようにある。 五百五十石以下者御蔵出しニ被仰付、夫米・口米相止取米計ニ而相渡、夫・口ハ御取入ニ罷成、却而御台所入ハ相 増可申事哉、右夫・口相止候儀御蔵出し面々永久之難儀相成候 79 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 つまり、今まで給人に入っていた夫米・口米が藩に入ることになったのである。夫米は、初めは人 夫を徴発していたものを、後に村高100石について米5石収めるようになったもの、口米は年貢高の 3%であった。これらの税収が給人には入らなくなったのであり、家臣の生活はさらに窮乏すること になったのである。そして、この税収が半知による藩財政の窮乏にあてられたと考えられる。 さて、30人と少人数になった「地方知行」の給人についても、前掲の史料にもあるように、本多長 員以外の給人には、もはや知行地内の山や川の支配権が認められなくなってしまった。 ところで、給知所務を見てみると、53年(承応2)に発令された法令21)は次のような内容になって いた。 条々 一 寺社領江非分申掛間鋪事 一 地下人迷惑之子細候而走候儀有之者、其村之庄屋・壱万石之与頭として留置可相達之、遂穿鑿可申付事 一 夏成其在所之畠方之高百石ニ付壱ツ半物成可納所之、但法之外悪所之地者見計可有用捨事 一 諸納所外之上秤目如御蔵入可納所事 一 高百石付而夫米納五石宛給人可相納、悪所者見立候而可有用捨、遠夫・小役等何にても申懸間敷之、若無拠用 在之時百姓を雇於召仕者扶持方を出、人足壱人ニ付一日ニ日用銀五分宛、馬壱疋付而飼料大豆弐升、銀壱匁五 分宛口付共ニ可致下行、但公儀御普請時ハ可為各別事 一 高百石ニ付而糠五斗入弐拾俵、藁弐拾把結六拾束宛可納之事 一 高百石ニ付而雪垣之代銀五匁宛可納之事右此旨可相守者也 この時点でも、第2条により逃亡を企てた百姓に対しての裁判権がなくなっており、また、第4条 に「如御蔵入」とあるように年貢率は蔵入地と同率であること、第5条で百姓の恣意的使役の禁止や 夫米などの公定など給人の権限が制限される内容となっていた。そして、半知後の87年(貞享4)の 給知所務に関する法令22)は次のようになった。 条々 一 給知之百姓公事諍論可任郡奉行之支配事 一 寺社領に対して理不尽不可有事 一 給知之百姓難儀之子細有之、出奔之宿意あらは其組頭庄屋留置之、早速郡奉行所へ可相達間僉議之上可沙汰事 一 知行之所務升秤之分量如蔵入可令収納事 一 高百石夫米納五歩之法を以可令収納、但各別之悪地ハ可有用捨事 一 夫米収納之上ハ夫役ハ一切不可申付、若無拠用事有之人馬を使ふ時ハ、人夫ハ扶持の外日用銀五分、馬ハ大豆 弐升銀七匁、口付ハ人夫同前、此法ヲ以可令下行事 一 高百石糠五斗入弐十俵、藁弐十把結六十束、雪垣代銀五匁、此法ヲ以可令収納事右可相守此旨者也 この2つの法令を比べると、まず、第1条が新たに追加され、百姓の「公事諍論」は「郡奉行之支 配」となった。したがって、この条目により給人の百姓に対する裁判権が完全に消失してしまったの である。さらに、その他の条目でも、内容的にはほとんど変わらないのだが、全体的に「一切不可申 付」とか「可令収納事」という強い表現になっていることがわかる。 このように、秀康時代には給人に認められていた知行地に対する年貢率の決定や山や川の支配権お 80 貞享の半知における家臣団 よび給人の百姓裁判権などの強い権限が、53年(承応2)の法令でも制限されているが、さらにこの 事件をきっかけに権限が弱体化している。したがって、知行地の半減のみならず、権限の弱体化によ り、家臣団は大きな痛手を負うことになった。 3.おわりにかえて 私が大学の卒論で選んだテーマが「福井藩政史の研究∼貞享の半知を中心に∼」であった。2年前 に卒論を返していただき、ほぼ17年ぶりに読み返してみた。卒論当時は、まだ、『福井県史』通史編 は刊行されておらず、また、現在、縁あって文書館に勤めることになり、もう一度、内容を再考し、 まとめなおしたいと思うようになった。 そこで、再び舟沢氏の論文や、新たに『福井県史』通史編を参考にさせていただいた。それらの中 で、半知までにも時代が下るにつれ、徐々に領知高にしめる知行地率が減少し、また、家臣団の持つ 権限も制限されてきていたことが述べられていた。本文でも述べたが、その流れは綱昌時代も同じで、 さらに、この事件をきっかけとして、一層その傾向が強まったといえる。 「はじめに」でも記したが、この原稿はほんの一部であり、まだまだ考察すべき点は多く、内容的 にもまだまだ検討すべき点が多い。今後さらに研究を深め、福井藩政史の大きな転機となった「貞享 の半知」についてまとめていきたいと思う。 注 1)秀康の拝領高には67万石や75万石の説があるが、「家譜」などが採用している68万石説が妥当であると考えられて いる。 2)隼田嘉彦「福井県史―近世編―の編さんを終えて」(『福井県史研究』第15号)の中で、忠直は改易ではなく隠居 であったことが説明されている。 3) 舟沢茂樹「福井藩家臣団と藩士の昇進」(『福井県地域史研究』創刊号)、同「福井藩における知行制について」 (『福井県地域史研究』第2号) 、「越前松平家の官位家格について」 (『福井県地域史研究』第4号) 。 4)『福井県史』通史編3・4。 5)昌勝は本藩を継いだ光通よりも数ケ月前に生まれていたが、母が側室であったために嫡男ではなかった。 6)綱吉の治世は独裁的な傾向が強く、幕政が安定期に入っていたにもかかわらず、藩とりわけ一門や譜代の改易数 が多いという特徴がある(藤野保『新訂 幕藩体制史の研究』 )。 7)『土芥冦讎記』によると、隠居した昌親は何事も自分の意のままにならず経済的にも不自由なために、再び越前を 「押領」しようと計画したという。 8)『福井市史』資料編6 近世四上 P.148。 9)松平文庫「隆芳院様御代給帳・大安院様御代給帳・清浄院様御代給帳」 。 10)松平文庫「探源院様御再勤後給帳」。「見性院様御代松岡給帳」「探源院様江大安院様 吉江御附人」の両書と合綴 されている。 11)第4代藩主光通は1668年(寛文8)に飯田主米を家老に抜擢し、多くの改革を行った。 12) 『福井県史』通史編3 P.217。 13)舟沢茂樹「福井藩における知行制について」(『福井県地域史研究』第2号) 。 14)『福井県史』通史編3 P.217、P.246。 15)松平文庫「貞享三寅年御家中末々迄被減覚」。 16)「国事叢記」貞享3年閏3月6日の条に「毛屋繰舟相止」とある。宗矩時代に再び行われたようだが、これは、宗 昌が松岡藩より本藩を継いだ際、松岡藩より随ってきた家臣が、半知後空き地になっていた毛屋などに移り住ん だためと思われる。 81 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 17)酒井康家文書「酒井玄蕃宛書出」(『福井市史』資料編4 近世二) 。 18)彦坂重雄家文書「松平綱昌知行宛行状」(『福井市史』資料編4 近世二) 。 19)彦坂重雄家文書「彦坂又兵衛宛書出」(『福井市史』資料編4 近世二) 。 20)松平文庫「御用諸式目」の「十 知行并扶持切米被下定、附御役料事」 (『福井県史』資料編3 中・近世一) 。 21)越葵文庫「家譜」(『福井市史』資料編6近世四上) 。 22)松平文庫「御用諸式目」の「九 給知所務之御定事」 (『福井県史』資料編3 中・近世一) 。 82 福井藩家中絵図 (山内秋郎家文書)を利用して 福井藩家中絵図 (山内秋郎家文書) を利用して 吉田 健* はじめに 1. 藩校明道館と横井小楠客館の位置について 2. 三岡八郎の新屋敷建設について おわりに はじめに 当館に寄贈された「福井藩家中絵図1)」(以下「家中絵図」)について、前号で福井藩人事関係記録2) (松平文庫)との照合による利用例を紹介したが、ここではその後に試みた若干の照合作業の結果に ついて報告する。 1.藩校明道館と横井小楠客館の位置について 前号では福井藩の藩校明道館の位置について、安政2年(1855)に三ノ丸に開館したあと、文久3 年(1863)10月以降に八軒町の元御鷹冷場に移り、翌元治1年(1864)10月までにはさらに足羽河畔 木蔵(木倉とも)の元酒井屋敷に、また明治2年(1869)の6月には城内の元北川屋敷に移ったと紹 介した(図1参照)。このうち明道館が元治1年に木蔵に移ったという事実から、たとえば「小楠居 館も明道館が八軒町にあった頃は何処であったかよく分らぬが、木倉町に移ってからは同館の構内な る河畔に設けられてあって3)」というような従来の記述は成り立たないことがわかる。小楠が文久3 年8月には熊本に帰ってしまうからで、つまり小楠が足羽川河畔の木蔵に住まいした頃には明道館は 三ノ丸を動いておらず、小楠と明道館が連動していたように考 えるのは間違いである。では小楠の客館はいつ木蔵に移ったの か、まずこの点を検討する。 前号では以下のことを紹介した。すなわち「家中絵図」に示 される木蔵の明道館(写真1)については、「御家中屋敷地絵 図 4)」(以下「家中屋敷図」)では酒井政衛の屋敷で文久3年に 御用屋敷となり後明道館となっていること。横井小楠の客館に ついては、安政5年(1858)3月に三ノ丸の明道館付近の渡辺 隼太屋敷が御用屋敷となって客館となり、文久1年7月には同 じく渡辺隼太に三ノ丸客館への屋敷替えが命じられているこ と、すなわち横井小楠は安政5年から文久1年まで三ノ丸の客 *福井県文書館文書専門員 83 写真1 木蔵の明道館 (福井藩家中絵図) 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 20 17 17 19 19 1 16 15 北 陸 4 1 10 道 木蔵 6 毛屋 足羽山 足 羽 川 1 明道館(安政2∼文久3) 2 明道館(文久3∼元治1) 3 明道館(元治1∼明治2) 4 横井小楠客館 (安政5∼文久1) (3) 横井小楠客館(文久1∼文久3) 5 三岡家屋敷(安永3∼文久1) 6 三岡家屋敷(文久1∼文久3) 7 三岡家屋敷(享保15∼?) 8 三岡家屋敷(?∼安永3) 9 勘定所・評定所(元禄14∼) 10 町奉行役宅(宝永3∼元文1) 11 町奉行役宅(元文1∼慶応1) 町奉行役所(慶応1∼慶応4) 12 郡役所(寛政5∼天保9) 13 郡役所(天保9∼) 14 幸橋 (文久2∼) 15 医学所(文化6∼) 16 金津奉行役屋敷(文化5∼嘉永4) 御預役所(嘉永4∼安政5) 17 御預役所(∼嘉永4) 除痘館(嘉永4∼) 18 金津役所(嘉永5∼安政5?) 御預役所(安政5?∼?) 19 松原多吉屋敷 20 製造方(安政4∼) 家中屋敷地 町屋など 注 各役所は「家中屋敷図」などに記述があるもののみ記載した。位置は「家中絵図」により確認した。 図1 福井城下関係屋敷など位置図 84 福井藩家中絵図 (山内秋郎家文書)を利用して 長野青樋畑内香松イ 崎村木口中田西永ヒ 藤四与悌久安弥郷 四郎右助兵右右右 郎右衛 衛衛衛衛 衛門 門門門 門 イ ヒ 拾 八 間 三 尺 二 百 十 四 坪 斗 長 崎 藤 四 郎 拾 八 間 八 尺 野村四郎右衛門 安政 2. 2.13 家屋敷国枝太兵衛家屋敷江替被下候 野村彦郎 (元治2年家督) 文久 3. 4. 6 農兵教授手伝被仰付 明治 2.12.24 今般御改革ニ付役儀被免、予備隊江被入、 毛矢元外塾所被下候事 長崎藤四郎 安政 2. 2.13 家屋敷野村四郎右衛門家屋敷ヘ 文久 2. 5.13 家屋敷御用屋敷ニ被仰付内田閑平家屋敷 ヘ替被下 3. 8.29 木倉御用屋敷ヘ替被下候 拾 五 間 五 尺 五 寸 北 拾 壱 間 三 尺 七 寸 表 ︵ 再 文酒イ 酒又久井シ 井明三六︶ 六道御郎 郎館用右 右と屋衛 衛成敷門 門ルと代 成々 ル イ シ 酒 井弐 百 政二 十 衛五 歩 酒井六郎右衛門 文久 1. 7.29 家屋敷御用屋敷ニ被仰付、三岡石五郎家 屋敷ヘ替被下相当之失脚料被下候旨 但木蔵より毛屋へ 酒井政衛 (文久1年12月家督) 文久 3. 8.29 中村市右衛門家屋敷江替被下候 9. 5 家屋敷中村市右衛門家屋敷江替被下候処 御都合も有之ニ付小川常太郎家屋敷ヘ替 被下候 明治 2. 6.19 家屋敷木蔵明新館被下候事 但同所新規建継且土蔵并廊下之分ハ不被 下候事 拾 三 間 八 分 間 六 注 屋敷図は「家中屋敷図」、人事記録は「剥札」などによる(以下同)。 図2 酒井・長崎屋敷図と人事記録 館に居住していたことを紹介した。そこで今回は「家中絵図」に示される木蔵の明道館の元住人酒井 家と、その隣の長崎家の人事記録から屋敷替えに関する記事を抽出し、小楠客館移動の痕跡をさぐっ た(図2)。その結果、酒井政衛の屋敷は先代六郎右衛門の時代の文久1(1861)年7月にすでに御 用屋敷となり、さらに翌同2年5月には隣の長崎屋敷も御用屋敷となっていること、そして、その翌 年の同3年8月、小楠が熊本に帰るのに併せて長崎藤四郎が元の屋敷に戻ることが確認される。この 時期の小楠の動きをみると、文久1年4月、慶永の招きで江戸に出たあと、10月頃福井に立ち寄って 熊本に帰省し、同2年6月福井に向かう途中、慶永の指示で江戸に急行し、12月江戸で士道忘却事件 をおこして失脚、福井に送られ、同3年8月熊本に帰っている。この動きは屋敷替と連動しており、 小楠が文久1年江戸に出たあと、福井の客館が三ノ丸から木蔵に移され、翌年6月の帰福(実際は途 中から江戸に出る)の際に、隣の長崎屋敷を併せて客館が拡張されたことがわかる。そして小楠退去 の際には拡張された分が元の住人長崎藤四郎に返還され、元酒井屋敷のほうは御用屋敷として残され た。「家中屋敷図」が酒井政衛の屋敷について文久3年に御用屋敷となり後明道館となったとする記 述はこのことを指しており、翌元治1年の少なくとも10月までにはここに明道館が移転してくるので ある。 2.三岡八郎の新屋敷建設について 次に注目したいのは、文久1年7月木蔵の屋敷が御用屋敷とされた際、酒井六郎右衛門が三岡石五 郎5)の家屋敷ヘ替えられていることである。これは小楠の客館の移動と三岡の屋敷の移動が連動して いることを示している。そこで次にこの三岡の屋敷の移動について検討を加えた。三岡の屋敷は「家 中絵図」(写真2)では毛屋(毛矢とも)の東南隅(写真左下)に示されており、『由利公正伝』など 85 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 写真2 毛屋 (福井藩家中絵図) により文久1年に足羽川河畔(写真右端)の「長谷部」と記載されている位置に新たに屋敷地を与え られたことが知られている6)。そこで三岡家と長谷部家の人事記録と「家中屋敷図」の記述を整理す ることにした(図3)。 「家中絵図」の三岡家屋敷に該当するところは、「家中屋敷図」では現住者が野村彦郎で歴代の居 住者は坂巻十右衛門、引間元泰、岡部八郎太夫、三岡次郎右衛門、酒井政右衛門、三岡友蔵となって いる。また「家中転宅考7)」によれば、坂巻が最初にこの地に屋敷を与えられたのは享保16年であり、 三岡の先祖次郎右衛門がこの地に住居を構えたのは安永3年であることがわかる。ところが三岡家の 人事記録では石五郎の祖父が安永3年(1774)に家督を継いでいることは確認できるが、屋敷替えの 記録は一切ない。ただ図には載せなかったが、曾祖父に当たる次郎右衛門が、宝暦11年(1761)郡奉 行となったあと明和5年(1768)7月「支配下取扱不応思召、其上不宜趣も有之、御城下町筋騒敷節 も不参届、不調法ニ付役儀御取上、大御番組ヘ被入、遠慮」となっており、八郎の祖父の安永3年の 家督相続の記事につながっている。つまり郡奉行であった曾祖父次郎右衛門は、明和5年の一揆が城 下を騒がした責任により役取上げのうえ遠慮を申し付けられたのであるが、安政3年処分が充分解除 されないままでの家督相続となり、屋敷替えが行われたことがわかる。この点、『由利公正伝』など では、松岡藩家中であった三岡家が、松岡藩の福井藩編入にともない松岡から直接毛屋町に移住した8) とされており、さらに先祖について郡奉行などの経歴には触れるものの、明和の一揆による処分には 一切触れていないことなどを鑑みると、三岡家にとって毛屋町への屋敷替えは負のイメージをともな ったものであったといえよう。ちなみに三岡家の屋敷の位置については、「家中屋敷図」と「家中転 宅考」を照合し「家中絵図」により特定することができる(図1)。これによれば享保15年に松岡か ら新屋敷の一番端に移住した三岡家は、その後出世をして役職に就くようになり同じ新屋敷でもより 86 福井藩家中絵図 (山内秋郎家文書)を利用して 高近堀高川河三 橋藤助屋村村岡 吉兵左源又一又 兵太衛兵平郎蔵 衛夫門衛 右 衛 門 高金伊 階子東 市半熊 之右三 丞衛郎 門 北 表 拾 四 間 三 尺 一 寸 拾 五 間 三 尺 高 階 関 三 拾 五 間 三 尺 二 百 二 十 五 坪 斗 享 保 十 八五 月庚 九戌 日歳 拾 五 間 三 尺 二 百 二 十 五 坪 斗 悪 水 三 尺 野 村 彦 郎 ウ ノ 拾 五 間 三 尺 悪 水 一 間 拾 四 間 三 尺 一 寸 道 幅 三 間 拾 四 間 三 尺 一 寸 文享宝 享今 化和暦 保近 十五六 十藤 五 近堀高川河三 藤武屋村村岡 八左源文一又 左衛兵平郎蔵 衛門衛 左 門 衛 門 安明 元享今 永和 文保三 三五 六十岡 六 三金岡引坂 岡子部間巻 次半八元十 郎右郎泰右 右衛太 衛 衛門夫 門 門 天安享今 明永保高 三三 階 高金伊 階子藤 勘半熊 左右三 衛衛郎 門門 皆片山三河ソ 崎山口岡村ス 次又長次一 右太十郎郎 衛郎郎左左 門 衛衛 市 門門 治 文 蔵 表 西 ソ セ 二 拾 三 間 三 尺 安安 享今 永永 保皆 四三 八崎 皆片山三河 崎山口岡村 次又長次一 右太十郎郎 衛郎郎左左 門 衛衛 門門 ︵ 福宮細 ソ 田塚井 セ 八三玄 ︶ 右太養 衛左 門衛 門 二 百 二 十 八 坪 斗 百 九 十 五 坪 斗 皆 崎 次 郎 七 大 悪 水 六 尺 二 拾 三 間 ・図は「家中屋敷図」による。 ・各図に対応する「御家中転宅考」の記事を で示した。 ・各屋敷の位置は図1に示した(右上5、左上7、右8)。 八 間 三 尺 南 表 二 拾 三 間 三 尺 拾 一 間 幅 三 間 三 尺 福 田 登 ソ ス 拾 三 間 五 尺 拾 四 間 悪 弐 水 尺 三 尺 弐 寸 表 付 替 子 サ 東 図3 三岡家屋敷 (右上 毛矢町時代、左上 新屋敷町時代①、右 新屋敷町時代②) 87 八 間 三 尺 二 百 二 十 五 坪 斗 高 橋 寛 輔 拾 四 間 三 尺 一 寸 拾 七 間 三 尺 表 拾 一 間 拾 四 間 弐 尺 弐 寸 同 断 ︵ 毛 矢 東 裏 丁 ︶ 三酒三岡引坂 岡井岡部間巻 友政次八元十 蔵右郎郎泰右 衛右太 衛 門衛夫 門 門 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 十 二 間 三 尺 表 北 三 間 四 尺 ロ テ 有 賀 弁 十 郎 堀武左衛門 天保15. 7.19 河崎清兵衛家屋敷ヘ替被下候 万延 2. 2. 9 家屋敷是迄鱸長左衛門罷在侯御役屋敷へ替被下候 廿 七 三 間 百 壱 二 拾 尺 十 三 五 間 坪 三 斗 尺 松原多吉(政吉) 万延 2. 2. 9 家屋敷堀武左衛門家屋敷ヘ替被下候 文久 1. 7.29 渡辺早太家屋敷ヘ替被下候 有賀弁十郎 文久 4. 2.20 堀武左衛門元屋敷ヘ替被下候 十 一 間 三 尺 廿 五 間 有松堀河有蟹江三今小慶 賀原武崎賀江口谷立柳長 弁多左三一十次七六沢 十吉衛郎右太郎左右右 郎 門助衛夫兵衛衛衛 門 衛門門門 図4 松原・有賀屋敷図と人事記録 本丸に近い部分に屋敷を与えられるのであるが、やがて前述の処分となり、その処分をうけたままで の代替わり相続を期に、毛屋町の端に左遷されてしまったという経緯を読み取ることができる。 三岡八郎は、三岡家にとって多分に不本意なこの毛屋の屋敷に生まれるのであるが、周知のように、 安政5年ころから横井小楠の指導をうけて藩財政再建に取り組み大きな成果をあげ、文久1年に御奉 行役見習、翌2年には御奉行本役に出世するのであるが、まさにその絶頂期に足羽川河畔に新しい屋 敷が与えられるのである。人事記録では、まず文久1年7月29日に一旦「当分松原多吉家屋敷ヘ替被 下」されひと月後の8月25日には「元屋敷相当ノ建物家作料被下置、普請出来之上ハ当時罷在候家屋 敷揚屋敷ニ被仰付候、但元屋敷長屋勝手次第可致事」とされる。この場合の松原多吉屋敷は城下の北 東江戸上町にあり(図4)、当時頭取であった制産方9)にも近く、従来より100坪近くも広い屋敷であ 弐 拾 六 間 文 久 三 癸 五亥 月年 廿 七 日 本 多 七 郎 平 南 表 本多七郎平 嘉永 7. 9.16 拝領屋敷地面与毛屋舟場茂右衛門与申者居住致居候地面与 是迄之拝地坪数同様ニ而御振替被下置候様願之通被仰付候 安政 4.11.20 御製造方見習被仰付候、 文久 3. 5.22 御先武具奉行并弾薬方兼帯被仰付候、 慶応 4. 2.29 御取締地御預所郡奉行被仰付 明治 2. 9. 拝領屋敷地地続東北方畑方地之内百六十坪余、先年より相 対受地且又佐々木衛士抱地之内六十坪余譲受,都合二百坪 今度抱地致度旨願之通被仰付、尤地子米之義ハ御定之通上 納可致旨被仰付、 図5 水野・本多屋敷図と人事記録 88 同 フ タ 本 多 真 事 此 歩 八 拾 五 坪 舟 場 新 開 町 表西 七 間 七 寸 此 歩 六 百 五 拾 坪 フ フ 弐 拾 五 間 弐 拾 六 間 水 野 太 郎 拝 領 地 同 東 水野小刑部 文久 3. 1.19 今般農兵御端立ニ付一組大谷丹下江被成候ニ付、其手ヘ 属シ丹下并掛り西尾十左衛門等厚申談致世話候様 2.18 屋敷地御用ニ被仰付、代地之儀ハ三ノ丸学問所地面之内 ニおいて相当之坪数被下置、建物之儀ハ是迄之居宅悉皆 引移候様被仰付、右引料之儀者取調之上追而可被下置候 間、猶委細之儀ハ御奉行、御目付ヘ可申談旨 2.29 内達も有之ニ付、拝地地所之儀御奉行御目付ヘ可申談旨 5.16 拝地毛屋船場地所之内ニ而相当之坪数被下置候旨 毛 屋 舟 場 弐 拾 五 間 表 水 野 小 刑 部 拾 二 間 嘉 永 子七 安寅 丁九 よ月 り廿 此一 所日 ヘ 振 替 相 成 三岡八郎 文久 1. 3. 3 御奉行役見習御役料五拾石被下置、御水主頭次席ニ被成下 御役人並ニ被仰付候、且又制産方頭取其侭被仰付銀三拾枚 之儀も是迄之通被下置候 7.29 家屋敷当分松原多吉家屋敷ヘ替被下候 8.25 家屋敷毛屋船場抱地ノ内御定ノ坪数拝地ニ被仰付、元屋敷 相当ノ建物家作料被下置、普請出来之上ハ当時罷在候家屋 敷揚屋敷ニ被仰付候、但元屋敷長屋勝手次第可致事、 文久 2. 9. 7 農兵御取調ニ付係り被仰付候 9.23 御奉行本役被仰付、御役料都合百五拾石被下置候 文久 3. 6.18 肥後薩摩へ罷越様被仰付 (7.5出帆/8.28晩帰着) 8.29 近来我意ニ募リ専ら自己之取計より既ニ人心を害ひ、其上品々 御政道ニ相触候儀共達御聴不届ニ付、蟄居被仰付、弟友蔵ニ 家督………屋敷之義ハ酒井政右衛門家屋敷へ替被下候、 元治 1.12. 6 今般非常之義ニ付思召を以於家内一家対面御免、 慶応 2. 6.23 格別之御憐悲を以御咎御免。 慶応 3.12.15 御用有之急々上京被仰付、同日出立、但子弟輩同様……… 17 思召を以隠居之御取扱ニ被成下……… 明治 1. 7.27 先般酒井温下屋敷御借被下候処、御含も有之、今度同姓彦 一へ旧宅被下候ニ付、追而可引移候事、 毛 舟屋 場 五 間 二 尺 此 歩 三 百 六 拾 坪 三 岡 彦 一 拝 領 地 フ ヤ 拾 七 間 九 寸 弐 拾 間 八 寸 拾 九 間 三 尺 九 寸 三 尺 通 り 悪 水 地 文 久 三 癸 亥 年 十 月 十 七 日 八 間 弐 尺 表東 ︵ 間 尺 記 載 略 ︶ 福井藩家中絵図 (山内秋郎家文書)を利用して フ 長三ヤ 谷岡 部石 五 協郎 三岡友蔵 慶応 1. 1.25 ……上を不憚挙動ニ及ひ重々不届至極ニ付、侍御削被成長 々揚り屋へ被入跡式之儀ハ………親類共之内見立相願候様 被仰付候 三岡彦一 慶応 1. 2. 2 親類共願之通友蔵跡式相続被仰付……… 明治 2. 7.22 家屋敷之儀、長谷部協罷有候居宅、先年親八郎取建候処ニ 付被下候 長谷部協 文久 3. 8. 3 長谷部甚平儀勤役中近来別而我意ニ募り自己之取計等も品 々有之御政道ニ相触候儀共追々達御聴不届ニ付蟄居被仰付、 伯父協へ家督相続…… 8.29 家屋敷御用ニ付三岡八郎家屋敷へ替被下候 明治 2. 7.22 居宅三岡彦市江被下候ニ付元御預所明地ヘ新規建被下候事 8.11 先般元御預役所明地ニ被下候処毛屋畑方地之内江御定之坪 数更ニ替被下候 九十九橋 十 ① 幸 幸橋 ② ①三岡 ②水野小刑部 ③長谷部協 ④野村四郎左衛門 ③ 妙経寺 顕本寺 西光寺 孝顕寺 ④ 注)明治2年石場畑方検地図(『福井市史』所収)による 図6 三岡・長谷部屋敷図と人事記録および位置図 89 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 るが、これがひと月足らずで変更され、全くの更地が建物の家作料をつけて与えられている。しかも 元の屋敷に附属する長屋を勝手にしてよいという優遇措置もついており、この屋敷替えが特別なもの であることをうかがわせる。すなわち、三岡八郎が松原屋敷に屋敷替えとなった7月29日には、木蔵 の酒井政衛屋敷が小楠の客館となり、このことをうけて、客館の対岸に新たな屋敷の建設が行われた のである。また繰舟で往来をしていた足羽川に、文久2年9月には八郎の建議により新橋(幸橋)も 掛けられる。また、評定所(勘定所)、郡役所が新橋のすぐ北にあって、小楠の客館と八郎の新屋敷 に近く、「制産方頭取其侭」で御奉行役見習となり、「財政再建」に仕事の比重が移っている八郎に都 合のよい位置にあることがわかる(図1)。さらには屋敷新築後の文久3年5月には水野小刑部が南 隣に移ってくるが、これは、中の馬場の水野屋敷が農兵のための調練場とされたからで、これも「農 兵取調係」である八郎との関連を想起させるものである(図5)。八郎の新屋敷建設には、彼の強い 意志が働いていたように思われる10)。もっとも「家中絵図」(写真2)にみえる本多七郎平が城下北 部の子安町から移って来たのは嘉永7年(1854)であり(図5)、八郎の屋敷新築以前にすでにこの 地の屋敷地化が始まっていることにも注意が必要で、むしろ八郎がこれに目をつけたとも考えられる。 八郎蟄居後の屋敷などの処分の経緯は、三岡、長谷部の人事記録でたどることができる(図6)。 それによると三岡家は弟友蔵が継ぎ屋敷は元に戻され、八郎は生まれた屋敷で長い蟄居生活を送る。 また三岡家移動後の屋敷は長谷部協に与えられる。協は八郎とともに蟄居処分をうけた長谷部甚平の 伯父で、甚平処分後の長谷部家の家督を継いだため、甚平はこの屋敷でこれも長い蟄居生活を送るこ とになる。八郎は慶応3年末、甚平は翌明治1年9月に新政府の徴士となると、その後の明治2年7 月八郎の長男彦一に「先年親八郎取建」の屋敷が、また長谷部協には同じ毛屋畑方に新屋敷地が与え られている。屋敷が長男に与えられたのは彼が隠居の扱いを受けていたからで、実質はこの時点で蟄 居処分により失った自分の屋敷を取り戻したのである。このことからもこの屋敷に対する彼の特別の 想いを感じるのである。 おわりに 「家中屋敷図」や「剥札」などの福井藩人事記録など松平文庫架蔵の諸資料の紹介のような結果に なった。しかし今回の作業が進められたのは、図1のように各屋敷の具体的な位置を確定できたから であり、これは「家中絵図」が各藩士のフルネームを記してくれていることに負うところが大きかっ た。大変使い勝手のよい資料であることを再確認した。多くの方々のご利用を期待したい。 注 1)「戊午屋舗絵図(福井藩家中屋舗絵図)」(資料番号X0142-00307、複製本X2697)。前号で仮の資料名「福井藩家中 絵図」を使用したので今回もこれを使用した。当館にて複製本閲覧可。 2)「剥札」「士族」「(士族略履歴) 」など。すべて松平文庫(県立図書館保管)。 3)山崎正董『横井小楠』伝記編773頁。 4)「御家中屋敷地絵図」(松平文庫、県立図書館保管)。同館にて写真版閲覧可。家中の屋敷地の見取図に歴代居住者 の名が列記されている。作成は嘉永5年。各屋敷地に付された「イロ」などの記号から、絵図とセットで使用さ れたと思われるが、該当する絵図は見当たらない。 5)三岡八郎の幼名、維新後は由利公正と改名する。ここでは三岡八郎あるいは八郎とした。 90 福井藩家中絵図 (山内秋郎家文書)を利用して 6)三岡丈夫『由利公正伝』は「同年(文久1)八月二十五日、毛矢舟場町に宅地を賜ふ、石五郎の出生地を北に距 ること約四町、足羽川の南岸に在りて、地味頗る膏腴なり、下ること数歩にして一帯の砂地あり」と記す。 7)「御家中転宅考」(松平文庫、県立図書館保管)。同館にて写真版閲覧可。天保2年作成。家中各屋敷の歴代の居住 者を年代を付して列記。越前史料に別系統の写本がある。 8)三岡丈夫『由利公正伝』は「川の南、別に士人の邸宅の一団を為す処あり毛矢町と称す、之を三岡家即ち由利家 の旧址の存する処とす」とするのみ。 9)制産方役所の位置は今のところ不明であるが、「家中屋敷図」では、安政4年3月志比口に御製産役所(3217坪)、 同年4月に御製造方御用地(面積不明)が確保されており、志比口に置かれた可能性は高い。 10)春嶽が江戸へ出発する茂昭に与えた家臣の処分などに関する覚書(伴五十嗣郎『松平春嶽公未公刊書簡』)には、 八郎について「万事一己之取斗有之」「甚平与同罪とハ乍申、其心術之姦計者甚平 も甚敷候、乍去咎者一所ニ相 成候とも、屋敷替ハ被仰付候方と存候」などとある。文意がはっきりしない部分もあるが、彼の強引な新屋敷建 設が処分の口実とされたことがうかがえる。 91 福井史料ネットワークの活動から見えてきたこと 福井史料ネットワークの活動から見えてきたこと 長野 栄俊* はじめに 1. 福井史料ネットワークの発足まで 2. 福井史料ネットによる現地調査 3. 問題点その1―「現地主義」の持つ限界― 4. 問題点その2―福井県における史料保存運動― 5. おわりにかえて―「現地主義」の復権と文書館に寄せる期待― はじめに 2005年2月6日に開催された第8回福井県史研究会研究大会で、筆者は福井史料ネットワーク(以 下「福井史料ネット」という)の活動について口頭報告を行った。福井県文書館(以下「文書館」と いう)から、この時の報告内容を活字化する話を頂いたが、これと前後して筆者を含めた史料ネット のメンバーが、様々な場において活動内容に関する口頭報告 1)や論稿の発表を行っている。また、 2005年6月25日には、敦賀短期大学を会場にして福井史料ネット主催のシンポジウム「史料の被災と 救済・保存」が開催され、福井史料ネットの活動として一つの区切りを付けた(シンポジウムの記録 集が近刊の予定2))。そこで、本稿ではそれらとなるべく重複しない限りにおいて、福井史料ネットの 活動および活動の中で見えてきた諸問題について論じてみたい。なお、福井史料ネットの活動につい ては、次に掲げる雑誌等に発表された福井史料ネット・メンバーの論稿、シンポジウムの記録も併せ て参照してほしい。 [1]長野栄俊「福井史料ネットワークの活動について」 (『北陸史学会会報』第7号、2004年10月) [2]松浦義則「福井史料ネット 中間総括」 ホームページ「福井史料ネットワーク情報」に2004年8月22日アップ) (http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~macchan/fukui_tyuukan.htm) [3]澤博勝「福井史料ネットワーク、半年間の成果と課題」 (『史料ネット News Letter』第40号、2005年3月) [4]澤博勝・多仁照廣・長野栄俊・柳沢芙美子「福井史料ネットワークの設立と活動」 (『歴史評論』第666号、2005年10月) [5]多仁照廣「福井史料ネットワークの活動と史料救済の課題と展望」 (『アーカイブズ』第22号、2006年1月) [6]『シンポジウム「史料の被災と救済・保存」記録集(仮題) 』(2006年春発行予定) *福井史料ネットワーク、福井県立図書館主査(司書) 93 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 この他、福井史料ネットの活動に参加した歴史資料ネットワーク(代表:奥村弘氏。以下「神戸史 料ネット」という)のメンバー諸氏も参加記を著している。併せて参照されたい。 [7]奥村弘「水害における史料ネットの役割を考える」 (『史料ネット News Letter』第38号、2004年9月) [8]松下正和「福井史料ネットワークの被災史料調査活動の現状―水害による被災の特徴―」 (『史料ネット News Letter』第38号、2004年9月) [9]山本陽一郎「 「福井集中豪雨」に関する資料保存作業に参加して」 (『史料ネット News Letter』第39号、2004年10月) [10]浅利文子「福井の車窓より」 (『史料ネット News Letter』第39号、2004年10月) 1.福井史料ネットワークの発足まで 2004年7月17日∼18日、福井県嶺北地方は局地的な豪雨に襲われ、足羽川流域を中心に各地で堤防 の決壊・溢水、土砂災害など甚大なる被害をもたらした。後に「福井豪雨」と名付けられたこの自然 災害の凄まじさは『7・18福井豪雨 報道記録集』(福井新聞社編集発行、2004年10月)に生々し く記録されており、『記録 福井豪雨 みんなでリポート』(ゆきのした文化協会編集発行、2004年9 月)や『7・18、あの日』(福井豪雨を考える会編集発行、2005年7月)、『その時、わたしは…』 (福井市教育委員会編集発行、2005年3月)などの体験文集等でも、被災者が味わうことになった恐 怖や復旧への思い等を知ることができる。 さて、災害発生1週間後の7月25日、神戸大学に事務局を持つ神戸史料ネットからの呼び掛けによ り、福井豪雨における歴史資料の救出を目的とした福井史料ネットが発足する(代表:松浦義則福井 大学教授、副代表:多仁照廣敦賀短期大学教授)。発足までの経緯については、表「福井史料ネット 活動記録」および先に掲げた諸論稿で詳細に述べられているので、そちらを参照してほしいが、この 1週間にも神戸史料ネットおよび文書館は、歴史資料保全のための様々なアクションを取っていたこ とを紹介しておきたい。 神戸史料ネットは7月21日に文書館と連携し、福井県内の各報道機関に対して「福井豪雨被災地に おける古文書等資料の救出のお願い」というFAXを流した(翌22日の福井新聞で「古文書捨てない で 汚れても歴史的価値 神戸の団体保存方法を出張相談」として掲載。文書館ではホームページに FAXと同内容の「お願い」をアップ3))。また22日には各ボランティア団体にも「歴史的、文化的 資料と遺産への配慮のお願い」のFAXを送信している。一方、文書館では県史編さん事業(1978∼ 1996年)および文書館の開館(2003年2月1日)準備等で蓄積されていた歴史資料所蔵者情報をもと に、人的ネットワークを通じての歴史資料の安否確認を行った。 筆者は福井市内において生活復旧ボランティアに参加したが、その過程で災害発生から非常に短期 間のうちに、被災した家財道具一般が躊躇なく廃棄されるのを頻繁に目にした(中には箪笥や襖とい った歴史資料が保存されることの多い容器も多数含まれていた)。また、その後の福井史料ネットの 現地聞き取り調査によっても、災害が発生してから、廃棄まで含めた復旧作業への取り掛かりが素早 く行われていたことを知った。そのような意味で、神戸史料ネットおよび文書館がとった初動は、今 94 福井史料ネットワークの活動から見えてきたこと 回のような水害の場合、特に的確かつ有効であったと評価できる。 2.福井史料ネットによる現地調査 7月25日、福井史料ネット発足のための打ち合わせの場において、神戸史料ネットからのアドバイ スにより、速やかに現地調査を開始することが方針として決められた。 この現地調査に先立つ作業として、被災地域における歴史資料所蔵者(以下「所蔵者」という)を 把握する作業が進められた。所蔵者把握作業は、主に筆者が担当することになったが、最も苦労した 点は、災害発生時における所蔵者が誰であるかを確認することであった。詳細は文献[4]で述べたの で繰り返さないが、最大の問題点は「災害が発生した時点において、どこの誰がどのような歴史資料 を所蔵しているか」を誰も(どの機関も)正確に把握できていないことであった。結局は1970∼80年 代に公刊された古文書目録等を下敷きに作業を進めることになったが、被災地区内にどれだけの所蔵 者がいるのか、その全貌を把握するのに10日以上の時間をかけることになった(最終的に把握できた 所蔵者の数は584件)。つまり、福井史料ネットが所蔵者に対して、何らかの接触を試みようにも、何 もできない時間が10日間もあったということになる。 以上のような準備を経て、福井史料ネットでは12回にわたる現地調査を行った(個々の現地調査の 概況についてはホームページ「福井史料ネットワーク情報」を参照4))。参加者人数は、のべ人数で 約50名、主な参加者は福井史料ネット発足時のメンバーである県内大学・短期大学の教官・大学院生 および博物館・文書館・図書館等の歴史資料利用保存機関の職員であったが、神戸史料ネットのメン バーや金沢大学の教官・大学院生の参加も見られた。調査過程では、幸いにも所蔵者宅において被災 した歴史資料に出会うことはほとんどなく、福井史料ネットでの調査結果に限って言うならば、福井 豪雨によって歴史資料が被害を蒙った例はほとんどなかったと言うことができる。その要因について は、メンバー諸氏が考察・言及しているように、所蔵者宅が水害に強い立地条件を有していたことや 保管場所が二階などの高所であったことなど、幸運な条件が重なったものと言えるが、もちろん福井 史料ネットが把握できなかった被災史料もあったはずである。 福井史料ネット発足から約1か月後の8月22日、6回にわたる現地調査を踏まえた結果、確認でき る限りでは被災した歴史資料はほとんど無く、また今後とも緊急性を要する歴史資料のレスキューが 発生する可能性は低い、との判断がなされ、今後の活動方針も含めた「福井史料ネットの中間総括」 がホームページ上にアップされることになる[2]。この中でも触れられている通り、福井史料ネット の現地調査の中で、「史料の被災と救済」という問題とは直接に関わりはないものの、「史料の保存」 という問題に関して大きな課題がいくつか見えてきた。以下、それらの問題について私見を述べてみ たい(以下に述べることは、あくまで筆者個人の私見であり、福井史料ネットの公式な見解ではない ことを断っておく)。 3.問題点その1―「現地主義」の持つ限界― 福井史料ネットの現地調査参加者の多くが経験したことであるが、「古文書は無事でしたか」とい う所蔵者への問いに対し、「所在がわからない」「存在自体を知らなかった」とする回答が多く見られ 95 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 た。中には「廃棄してしまった」というケースさえみられた。家族や地域共同体を含めた社会構造の 変化、生活様式の変化、また個人的な関心の所在など、様々な要因が複合的に絡み合った結果であろ うが、無関心ゆえに数百年来伝来してきた歴史資料がここ数十年の間に廃棄されてしまったり、行方 がわからなくなってしまったりしたケースが想像していた以上に多かった。その意味で、歴史資料は 福井豪雨という天災で滅失するより以前に、人災によって滅失していたケースもあったと言えよう。 この問題点が露わになるに従い、福井史料ネットでの活動目的も、緊急性のある「救出」から、漸次、 保存にむけた「啓発」活動にシフトさせる必要性があるのではないか、とする議論もメンバーの間で なされた。 歴史資料を含めた文化財の保存と利用に関しては、それが発生し、保管されてきた現地で保存され、 利用されるべきとする「現地(保存)主義」という考え方がある。特に歴史資料に関しては、1964年、 旧帝国大学系大学にブロック内の歴史資料を集めて管理しようとした「日本史資料センター構想」が 打ち出されると、これに対する地方の研究者等による反対運動の中で、この「現地保存主義」が提唱 されるようになった。後に日本学術会議によって出された「歴史資料保存法の制定について(勧告)」 (1969年11月1日)においても、「第2 保存措置の大綱」として「歴史資料は、現地において現物の まま保存することを原則とする。」との考えが明示されている5)。 この主義の持つ理念は正しく、そしてこれからも歴史資料保存の現場でこの主義は堅持されていく べきものと、筆者自身も考える。しかし、実際の「現地」にこの考え方はどの程度浸透しているのだ ろうか。先に見たように、所蔵者の間に広がる歴史資料への無関心は、決して現地での保存、そして 利用には結びついていないのが実情である。残念ながら、こうした事態を惹き起こした一つの要因が、 これまでの自治体史編纂事業のあり方にあったことは否めない。編纂事業が終わりに近付く頃に問題 となるのは、編纂過程で撮影したマイクロフィルムや作成した複製本を、いかにして今後も利用でき るようにするか、といった「利用」の側面であって、歴史資料そのものの「保存」が問題となること は少ない。編纂事業終了後も現地で「保存」され続けていくはずの歴史資料に対して、何らかの措置 をとってきた事業がこれまでどの程度あったのだろうか。福井史料ネットの現地調査でも「○○史編 さんの調査で資料を見せてもらったことがあると思うのですが」と切り出すと、「○○史が刊行され たから、もう不要と思って廃棄した」「○○史には載らなかったから、大したものではないと思う」 などという答えが返ってきたことがあった。これでは、何のため、誰のための自治体史編纂事業だっ たのか。 自治体史編纂事業において、現地保存のために手間隙をかけようと思えば、例えば撮影後の歴史資 料を1点ずつ中性紙の保存容器に入れて整理し、目録を渡すなどの方法が考えられるが、時間的・財 政的な事情がそれを許さないであろう。しかし、現地の所蔵者や住民に、現地での保存に意識的でい てもらうためには、さほど手間やお金をかけずともできることがあるのではないだろうか。例えば、 現地でのマイクロフィルム撮影後に、簡単な保存の方法を書いた紙を一緒に渡してあげるとか、その 家の歴史資料がどのような形で編纂に役立ったのかを簡単に伝えてあげるとか、方法はいくらもある だろう。最も低コストかつ効果的な方法は、編纂事業終了後も何年かに一度は現地で保存されている 歴史資料の安否を問う通知を、所蔵者に出すことが考えられる。しかし、首長部局で主管されること 96 福井史料ネットワークの活動から見えてきたこと の多い編纂事業が終了した場合、どの部局でそれを引き継ぐのか(例えば教育委員会の文化財担当)、 といった縦割り行政の問題点も生じてくるかもしれない。行政がいわゆる「民間所在史料」に対し、 どこまで関与していけるのか、といった問題とも関わってくるが6)、真の意味での「現地保存主義」 の復権を図っていくために、行政が関わっていける余地はまだまだ残されていると考える。 4.問題点その2―福井県における史料保存運動― 次に福井史料ネットへの参加者の問題、そして地方における歴史資料保存運動の問題を考えてみた い。 福井史料ネットの活動には、残念ながら純粋な意味での市民・住民からの参加者は見られなかった し、またこれまで福井県の地域史研究に関わってきた研究者の直接的・積極的な参加もあまり見られ なかった。ネットの活動に参加していたメンバーの中にも、半ば職務との関連から生じる義務的な思 いから参加した者も少なからずいたものと推測される。かく言う筆者も、常日頃から歴史資料の保存 について心を砕いていたわけではなく、またこの種のボランティア活動に対しても、深い理解と積極 的な賛意を示していたわけでもなかった。たまたま自宅も職場(県立図書館)も被災することはなか ったという大前提にたった上で、日ごろ職務として歴史資料を扱うこともあるのだから、何かできる ことはないだろうか、といった程度の動機で活動に参加してきた。 もちろん福井史料ネットの活動に参加する方法は、実際に現地調査に加わることだけではなかった。 神戸史料ネットからの全国への呼びかけや、福井県史研究会・北陸史学会の会員への呼びかけにより、 50万円を超える活動資金が寄せられた。全くゼロからスタートした福井史料ネットの活動においては、 非常にありがたく心強い支援であった。 しかし、ここでは敢えて問うておきたいと思う。なぜ福井史料ネットの活動がさしたる盛り上がり も見せることなかったのか、また地元の研究者や住民を巻き込んだ形で活動が展開されなかったのか を。第一の要因は、これは心から喜ぶべきことなのであるが、実際に被災した歴史資料が出てこなか った、ということに拠るところが大きいのだろう。このような仮定は不謹慎であるが、仮に被災した 歴史資料が続々と出ていたのであれば、活動に直接参加された方も多かったに違いない。第二の要因 としては、福井県では組織化された歴史資料の保存運動が展開されてこなかったという歴史をあげる ことができよう。以下、この第二の点について考えてみたい。 福井県では昭和30年代の開発ラッシュに伴う遺跡の破壊をうけ、福井考古学研究会(1962∼71年) や福井の文化財を考える会(1975∼88年)が発足し、文化財の保存運動が展開された7)。しかし、こ こで運動の目的となったのは、まさに眼前で進められていた文化財=遺跡の破壊を防ぐことであって、 密かに滅失していたかもしれない古文書等の歴史資料が保存運動の対象とされることはなかった。一 方、1971∼73年には県立図書館が中心となって県下の古文書所在調査が行われ、その結果は『福井県 古文書所在調査報告書』として1979年3月に刊行されることになった。この報告書の「序」には「近 年農山漁村の社会的変化によって古文書の移動・散逸が顕在化している。このような憂慮すべき現状 に対して積極的な対策が講じられなければならないが、それにはまず県下における古文書の実態と分 布状況が解明されなければならない。」と、その調査目的が述べられている。この報告書が県史編さ 97 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 ん事業の基礎作業として位置付けられ、広く「利用」されたことはよく知られているが、残念なこと にこの報告書を元にして直接的に「憂慮すべき現状」の打開が図られたという事例を、筆者は寡聞に して知らない。 平野俊幸氏も指摘していることだが、地元研究者の層の薄さが、地元歴史研究団体をして歴史資料 保存運動に展開させなかったのであり、またこうした組織だった運動を踏まえずして、文書館が設置 されたという経緯も、福井県における歴史資料保存に対する関心の薄さを導き出したとは考えられな いだろうか8)。もちろん戦後、個々の研究者の良心的な行動のおかげで、廃棄目前の歴史資料が、県 立図書館やその他機関等で緊急的に保管され、保存に至った事例は何例もあげられる。しかし、一般 的に言って、自治体史編纂事業においても、個々の研究者の研究活動においても、歴史資料を「保存」 まで考えて「利用」したという事例は少数派であったことは間違いなかろう。 重機で破壊されることが目に見える遺跡等の滅失とは異なり、現地で保存されているはずの歴史資 料は人知れずひっそりと失われている。そのため保存運動の機運が芽生えなかったこともよくわかる が、その意味で今回の水害は現地における史料保存を考えるよい機会となった。しかし、この機会を どのように生かし、今後の史料保存に繋げていくかは、福井史料ネットという小さな団体単独の力だ けで解決できる問題ではないし、また多くの地域史研究に関わる人々が共有すべき課題と考える。 5.おわりにかえて―「現地主義」の復権と文書館に寄せる期待― 福井豪雨という災害を契機に発足した福井史料ネットの活動を通じ、これまではさして真剣に捉え られてこなかった歴史資料保存に関する様々な問題が見えてきた。本稿では詳しく触れなかったが、 所蔵者と研究者、行政の間で、歴史資料をめぐる認識についてギャップがあることも、現地での保存 を困難にしていると思われる。例えば、ある近代史料について、自治体史編纂に関わった研究者が 「歴史的に重要」と判断したものでも、所蔵者はそのように認識していない、という場合が往々にし てあり、また研究者が重要と判断しても、文化行政サイドではこれを文化財としては未指定であるが ゆえ、単なる個人財産には積極的に関与すべきでない、とする考えを持つに至る場合も多い。 きちんと自分たちで保存していきたい、と所蔵者や地域住民が考えているうちは、行政やボランテ ィアが関与せずとも歴史資料は現地で大切に保存されていくし、事実、そのようにして歴史資料は今 日まで伝えられてきた。逆に、所蔵者や地域住民が、自分の家や地域の歴史資料に価値を見出さず、 また関心を持たなくなった途端、それらは廃棄されたり、災害などを機に滅失したりすることになっ てしまう。行政やボランティア、研究者の果たすべき役割というのは、所蔵者や現地住民に、現地で 歴史資料を持ち続けていきたい、利用し続けていきたい、と思ってもらうための手助け、アドバイス をすることなのではないだろうか。そのためにも、非常に遠い道のりとはなるだろうが、文書館が果 たせる役割、果たすべき役割も、まだまだ他に考えられるであろうし、福井史料ネットも今後とも、 ささやかながら歴史資料の保存問題について考えていきたいと考えている(もちろん、発足当初の目 的である災害発生時の歴史資料救済についても「意識的」であり続けたい)。 「現地放任主義」を脱却し、真の意味での「現地主義」を復権させることが、歴史資料を次の世代 に伝えていくことにつながるのだと思う。 98 福井史料ネットワークの活動から見えてきたこと 附録「災害ボランティア活動マニュアル作成事業企画案」 2005年7月6日、福井県総務部男女参画・県民活動課は、災害ボランティア活動を効果的に実施 するために、県内の企業、社会貢献活動団体等から広く災害ボランティア活動マニュアル作成にか かる企画案を募集した。福井史料ネットも、災害時における歴史資料救済の重要性などを行政にア ピールする意味も込めて、松浦義則代表らが中心となり、ボランティア活動マニュアルの企画案を 作成し応募した。評価は、企画案の現実性、専門性、汎用性、事業効果など8つの項目に対して行 われたが、残念ながら福井史料ネットの企画案は採用されず、「特定非営利活動法人ふくい災害ボ ランティアネット」の案が採用される結果となった。否採用の原因は、活動内容の特殊性にあった とも考えられるが、ここで提案した企画内容は、福井史料ネットの今後の活動指針や歴史資料の現 地保存の問題、災害時の史料保存利用機関が果たすべき役割などを考える際に、示唆に富む内容を 持つものと考え、ネットのメンバーらの了解を得て、本稿に併録することにした。 マニュアル作成企画内容(福井史料ネットワーク) 編集方針 災害(地震・水害)により貴重な歴史的・文化的資料(古文書、行政・民間史料、文化財などの 歴史的史料。以下、「歴史資料」と略称)が被害を受けた場合、ボランティア活動により速やかに それらを救済するとともに、あらかじめそれらの被害発生時に対応できるように歴史資料の保存状 況について基礎的台帳を整備しておく。われわれ福井史料ネットワ−クは昨年7月の水害により被 害を受けた歴史資料を救済する目的でボランティア団体として結成され、別紙に示したように1年 間活動してきた。その経験を踏まえ、またこうした活動についての他の被害地や先進的団体の経験 に学んで、福井県における災害時の歴史資料の救済や保存のマニュアル作成について提案したい。 構成・掲載項目 [Ⅰ]災害に備えての基礎的台帳の整備 1.歴史資料の現状について把握し(現所蔵者の氏名、住所、保管場所、資料の内容など)、基礎 台帳にまとめる。そのためにどのようなやり方をするのが、最も正確で効果的かは研究課題で ある。 2.作成された基礎台帳と被害予想地図とを組み合わせて、迅速で効果的な歴史資料の救済活動に 役立てる。 3.日頃から歴史資料所蔵者に史料保存について注意を喚起し、保存についての相談に応じる。 4.歴史資料を扱うためには専門的知識を必要とするので、通常のボランティアでは対応できない ため、あらかじめ県内の歴史研究者・学生・地域史研究団体会員・文化財保護委員などに呼び かけ、組織しておく必要がある。われわれ福井史料ネットワ−クはその中心として活動したい と考えているが、それを越えた広範な組織であることが望ましい。 [Ⅱ]災害時の活動 1.災害発生より一定期間、行政は人命救出とライフラインの復旧に全力を傾注すべきであり、歴 史資料の救出に割く余裕はないと判断されるが、歴史資料も救出が遅れると、永久に失われて 99 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 しまう。歴史資料救済のボランティア活動はまさにこうした状況のなかで、活動の存在意義が ある。 2.現地の災害本部による広報活動のうちに、歴史資料が被害を受けても廃棄することなく、また 骨董屋などに売却せず、資料救出センタ−に連絡して欲しいとの趣旨を含めてもらう。そのと きにどのような文章とし、必要項目は何かなどは研究課題である。 3.救出資料(損壊家屋からの避難、水損資料など)を保管し、保存・修復を図るための場所の確 保とそのための施設(水害史料のための冷凍庫など)・道具を確保する。そのためには県内の 行政施設との協議が必要である。 4.救出など具体的な活動をする人の割り振り、救出先との連絡、活動日時の決定、交通手段の確 保など事務をどのようにこなすか。われわれ福井史料ネットワ−クの経験では、小規模な活動 であればボランティア間の電子メ−ル等で対応が可能であるが、大規模な活動になるとどのよ うにするかは研究課題である。 5.ボランティア活動であれ、通信連絡費(携帯電話費用など)、学生・院生への交通旅費の支給、 資料保存の啓蒙活動、活動経験の交流会などのために活動資金は必要である。われわれ福井史 料ネットワ−クは、その資金は先進的活動団体の支援を受けながら募金活動によってまかなっ た。今後ともこのやり方は基本方針として維持されるべきと考える。 6.活動の重点は被害を受けた歴史資料所蔵者の依頼により資料を救出することであるが、歴史資 料の被害状況を把握するために、実態調査を行う必要がある。われわれの経験からすれば、現 地に赴いて実際に個々の所蔵者について調査をする必要がある。しかしこのやり方では広範囲 調査は難しいので、郵送による問い合わせも検討する必要があろう。 期待できる効果 1.地域の先人の歴史や文化を示す資料は災害時には軽視され、廃棄されてしまう可能性があるが、 いったん廃棄されると貴重な資料は永久に失われてしまう。歴史資料の早期救出のを目的とし たボランティア活動は、そうした資料を災害時にも後世に伝えていく上で重要かつ必要な活動 である。 2.将来の展望としては、歴史資料救出に関する研究を深め、歴史資料を保存・修復するためのさ まざまな機械や資材を常備して、応急の歴史資料救出にただちに対応できる体制を構築するこ とをめざす。 3.このボランティアは災害時・平常時をつうじて活動することにより、資料所蔵者やその地域の 人々に、資料を保存しその地域の歴史を伝えていこうとする意識をたかめることに役立ちたい と考えている。 100 福井史料ネットワークの活動から見えてきたこと 表 福井史料ネット活動記録 2004.7.18 7.21 福井県嶺北地方を中心に局地的な豪雨( 「福井豪雨」) 歴史資料ネットワーク(以下「神戸史料ネット」 )から県文書館に電話 神戸史料ネットについて、FAXの連絡先を文書館とすることについて 7.21 神戸史料ネットから報道関係にFAX 「福井豪雨被災地に歴史資料・文化遺産への注意を喚起する記事掲載のお願い」 7.21 県文書館長から被災地の文化財担当者、資料所蔵者にFAX 「福井豪雨被災地における古文書等資料の救出のお願い」 (後に7.22文書館HPにアップ、7/27県・福井市HPにリンク) 7.22 『福井新聞』 「古文書捨てないで 汚れても歴史的価値 神戸の団体保存方法を出張相談」 7.22 神戸史料ネットからボランティア団体にFAX 「歴史的、文化的資料と遺産への配慮のお願い」 7.25 神戸史料ネット4名が被災地を視察 7.25 神戸史料ネットの呼びかけにより文書館で打ち合わせ[19名参加+新聞記者2名] 福井史料ネットワークが発足(以下「福井史料ネット」 ) 福井史料ネットのメーリングリスト始まる 7.25 被災地域の史料所蔵者リストアップ開始、史料調査台帳の作成(∼8/3) 7.25 神戸史料ネットHP 「福井豪雨被害情報・福井史料ネットワーク活動情報」のページがアップ 7.26 『福井新聞』 「“被災”古文書を救え!保存・修復部隊「福井史料ネット」発足 県、大学、県外団体がスクラム」 7.26 『神戸新聞』夕刊 「水害地に教訓継承 被災史料保全ネット発足 集中豪雨禍の福井 神大助教授ら呼び掛け」 7.27 神戸史料ネットが募金を呼び掛け(HP、ML) 「福井豪雨の被災歴史遺産保全活動への支援募金のお願い」 7.27 『神戸新聞』朝刊社説 「福井豪雨 経験生かし息長い支援を」 7.30 福井史料ネット打合せ[8名参加] 7.30 NHK福井「ニュースファイル」 文書館の史料救出・修復活動に関する報道 8. 1 第1回 被災史料現地調査(今立町岡本地区、服間地区) [8名参加+町職員+区長ら] 8. 3 福井史料ネット打合せ[6名参加] 8. 4 第2回 現地調査(今立町服間地区)[3名参加] 8. 4 福井史料ネットから福井県史研究会会員各位へ郵便 被災情報の提供、現地調査参加の呼びかけ。福井でも募金を開始 8. 8 第3回 現地調査(今立町南中山地区)[2名参加] 8. 9 8. 9 第4回 現地調査(今立町粟田部地区)[3名参加] 『史料ネット News Letter』特別号(神戸史料ネット発行) 松下正和「福井豪雨の被災歴史遺産保全活動と支援募金へのご協力のお願い」 8.10 第5回 現地調査(池田町全域)[2名参加+教育長・教委課長] 8.11 第6回 現地調査(今立町服間地区)[3名参加] 8.18 福井史料ネット打合せ[5名参加] 8.22 福井史料ネットHP 松浦義則「福井史料ネット 中間総括」 8.23 第7回 現地調査(福井市上文珠地区)[3名参加] 8.23 第8回 現地調査(福井市上文珠地区)[3名参加] 9. 3 『史料ネット News Letter』38号(神戸史料ネット発行) 奥村弘「水害における史料ネットの役割を考える」 松下正和「福井史料ネットワークの被災史料調査活動の現状―水害による被災の特徴―」 101 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 2004.9.22 9.24 9.25 9.27 10. 1 10. 8 10.10 10.21 10.22 11.26 2005.1. 6 2. 6 3.28 4. 2 6.18 文書整理(今立町立図書館) [8名参加] 第9回 現地調査(美山町下宇坂地区)[1名参加+文化財保護委員] 『毎日新聞』福井版 「福井豪雨被災の美山で史料調査 福井史料ネット」 第10回 現地調査(美山町上宇坂地区)[3名参加+現地文化財保護委員] 『文書館だより』第4号(福井県文書館発行) 「福井豪雨のあとに 資料保存のために」 報告:多仁照廣「福井水害と史料被災―「行政とアーカイヴズ」―のなかで紹介する」(於:国立公 文書館専門職員要請講座) 『北陸史学会会報』7号 長野栄俊「福井史料ネットワークの活動について」 、募金の呼びかけ 報告:多仁照廣「災害と史料保存」(於:長野県歴史館「文献史料保存活用講習会」 ) 『史料ネット News Letter』39号(神戸史料ネット発行) 山本陽一郎「 「福井集中豪雨」に関する資料保存作業に参加して」 浅利文子「福井の車窓より」 第11回 現地調査( 江市河和田地区)[2名参加+市職員] 福井史料ネット打合せ [10名参加] 活動をふりかえって、会計報告、今後の活動方針など 報告:長野栄俊「福井史料ネットワークの活動について」 (於:第8回福井県史研究会研究大会) 『史料ネット News Letter』40号(神戸史料ネット発行) 澤博勝「福井史料ネットワ−ク、半年間の成果と課題」 第12回 現地調査(福井市みのり地区) [3名参加] 報告:多仁照廣「福井史料ネットワークの活動」(於:平成17年度神戸史料ネット・シンポジウム 「風水害から歴史資料を守る」 ) 6.21 福井史料ネット打合せ[3名参加] シンポジウムの打ち合わせ 6.25 シンポジウム「史料の被災と防災」 (於:敦賀短期大学) 基調講演:松浦義則「2004年7月福井水害による史料被害と救済・保存」 報告:長野栄俊「被災状況の現地調査活動、および史料の「現地保存」における問題点」 報告:尾立和則「被災した資料の保存処置」 報告:松下正和「2004年台風23号による水損歴史資料の保全・修復活動について」 パネルディスカッション:司会:澤博勝、パネリスト:松浦・長野・尾立・松下 6.28 『福井新聞』 「福井豪雨から1年資料保存法を探る 敦賀でシンポ」 7.19 福井史料ネット打合せ[3名参加] 「災害ボランティア活動マニュアル作成事業企画案」について 7.27 福井県総務部男女参画・県民活動課の募集した 「災害ボランティア活動マニュアル作成事業企画案」 に福井史料ネットの案を提出 10. 1 『歴史評論』666号 澤博勝・多仁照廣・長野栄俊・柳沢芙美子「福井史料ネットワークの設立と活動」 10. 1 『地方史研究』317号 村田忠繁「被災史料の救済から何を学ぶのか(シンポジウム参加記) 」 10.15 ∼10.16 12.17 2006.1.27 2.23 地方史研究協議会、第56回(敦賀)大会(於:敦賀市プラザ萬象) ポスターセッションに参加 福井史料ネット打合せ[5名参加] シンポジウム記録集の編集方針など 『アーカイヴズ』22号 多仁照廣「福井史料ネットワークの活動と史料救済の課題と展望」 報告:柳沢芙美子「福井豪雨における福井県文書館の活動」(於:全史料協近畿部会第81回例会 「水害と史料保存対策について」 ) 102 福井史料ネットワークの活動から見えてきたこと 注 1)多仁照廣「福井水害と史料被災―「行政とアーカイブズ」―のなかで紹介する」(2004年10月8日、国立公文書館 専門職員養成講座、於:国立公文書館)、多仁照廣「災害と史料保存」(2004年10月21日、長野県歴史館「文献史 料保存活用講習会」、於:長野県歴史館)、長野栄俊「福井史料ネットワークの活動」(2005年2月6日、第8回福 井県史研究会大会、於:福井県文書館) 、多仁照廣「福井史料ネットワークの設立と活動」 (2005年6月18日、2005 年度歴史資料ネットワーク・シンポジウム、於:尼崎市立小田公民館)、報告:柳沢芙美子「福井豪雨における福 井県文書館の活動」(2006年2月23日、全史料協近畿部会第81回例会「水害と史料保存対策について」、於:京大 会館)。 2)シンポジウムの内容は、基調講演として松浦義則「2004年7月福井水害による史料被害と救済・保存」、パネルデ ィスカッション(司会:澤博勝)に先立つパネリストの個別報告として長野栄俊「被災状況の現地調査活動、お よび史料の「現地保存」における問題点」、尾立和則「被災した資料の保存処置」、松下正和「2004年台風23号に よる水損歴史資料の保全・修復活動について」 。 3)「福井豪雨被災地における古文書等資料の救出のお願い」 (福井豪雨被災地各教育委員会文化財担当者・資料所蔵 者各位、文書館第180号)(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/200407fukuifl.html) 4)http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~macchan/fukui_suigai.htm 5)全国歴史資料保存利用機関連絡協議会編『日本の文書館運動―全史料協の20年―』(岩田書院、1996年)p.246∼ 249。 6)白井哲哉「民間史料から文書館・公文書館をとらえ直す―問題提起として―」をはじめとする『地方史研究』第 314号(2005年4月)の小特集「民間所在史料のゆくえ」を参照。また、新潟県において「現地主義」に基づく歴 史資料調査保存活動を進める越佐歴史資料調査会の『地域と歩む史料保存活動(岩田書院ブックレット)』(岩田 書院、2003年11月)も参考となる。 7)沼弘『福井県の考古学史』(私家版、1985年9月)p.63∼76「文化財保護と今後の課題」、『福井の文化財を考える 会会報』第1∼32号(1975年7月∼1987年3月)などを参照。 8)平野俊幸「福井県文書館の設置経過について」(『記録と史料』第12号、2002年3月)。他に注5)『日本の文書館 運動』第3章「各地の史料保存の取組み」の福井県部分(p.161∼162)も参照のこと。 103 都道府県・政令指定都市等の文書館におけるインターネット上での情報提供 都道府県・政令指定都市等の文書館における インターネット上での情報提供 柳沢芙美子* はじめに 1.検索ツールとその他の情報提供 (1)基本的な情報 (2)検索ツール (3)展示・講座・出版物等 (4)その他 2.各館の情報提供の概要 はじめに 情報発信の手段としてインターネットが一般化するなかで、地方自治体が設置するほとんどの文書 館ではWebサイトを開設し、開館日・開館時間・案内図などの基本的な情報をはじめとして、収蔵す る文書館資料の概要、目録検索ツールのほかさまざまな情報を提供している1)。 インターネット上へのオンライン蔵書目録やその他のサービスにおいて先行している公共図書館2) の動向をみてみると、2005年(平成17)2月の段階ですべての都道府県・政令指定都市の図書館でイ ンターネット上から検索ができるようになっている。市町村においても962館(2006年1月16日調査3)) が検索可能となっている。これに対して自治体文書館においても、近年インターネット上へ目録を提 供する館が徐々に増えており4)、ここで紹介する各館Webページの閲覧調査では、46館中15館と約3 割の文書館がなんらかのかたちで文書館資料の目録データベースを公開していた。 自館が収蔵する文書館資料の目録情報は、文書館がインターネット上に提供すべき基本的な情報と いえようが、公共図書館のようなパッケージソフトが普及していない自治体文書館にとって、目録デ ータベースの開発やその修正は予算的な制約からままならない事情がある。この制約は自館の文書館 資料のデジタル化とその提供においても同様である。一方で、蔵書検索から地域的な横断検索、予約 やレファレンスサービスなどを着実に進めている公共図書館においても、「各ホームページに、その 公共図書館独自のサービスと情報をどのように付け加えていくのかが今後の大きな課題5)」とされて おり、そのサービスの実例も決して十分に蓄積されているわけではないという。 確かに「コンピュータとそれに関わる技術を使えば、アーカイブズの電子的情報を比較的簡単に作 ることができる6)」 ようになっており、文書館職員にはそうした技術やメタデータの管理・記述につ いての知識の習得がもとめられている。それと同時に各自治体文書館では、限られた予算的人的配置 *福井県文書館主任*福井大学名誉教授、元福井県史近現代史部会長 105 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 のなかで、文書館の固有の役割を見極めながら、インターネット上への情報提供を進めることが必要 であると思われる。 このための全国的な動向を知るために、2005年10月下旬、都道府県・政令指定都市等の各文書館の Webサイトを閲覧・調査した。対象を自治体文書館に限定したのは、ともに地域住民の利用を前提と し、予算規模や人的な体制が比較的似かよっており、展示・講座などの利用事業のひろがり、紀要・ 目録などの出版物等に共通する部分が多く対照しやすかったためである。具体的には国立公文書館の Webページ「都道府県・政令指定都市等公文書館一覧7)」 にリンクされている文書館を参考にし、国 の機関や近年整備されてきた大学文書館のサイトについては対象外とした。閲覧にあたってはできる だけ丁寧にサイトの全体をくまなくみるように心がけたが、見落としがあるかもしれない。ご教示い ただければさいわいである。 以下、1においてこの調査の概要を、2で各館の情報提供の概要を一覧表としてまとめた。なお、 この表は、第31回全国歴史資料保存利用機関連絡協議会全国(福井)大会において全体会1報告 (2005年11月10日)の際に配布した資料をもとにしたものである。 1.検索ツールとその他の情報提供 (1) 基本的な情報 開館日・開館時間・案内図などの一般的な情報の他に、施設の知名度の低さに配慮して「文書館と は」「文書館の仕事」「当館のあらましと沿革」といった各文書館の設置目的と主要な業務、設置の経 緯について説明している館が少なくない。開館日(休館日)については、公共図書館などで行われて いるようにカレンダーで具体的に示している館もある。連絡先として電話・住所はほとんどすべての 館で掲載されているが、e-mailのアドレスについては、迷惑メールをさけるためか6割ほどにとどま っている。また、サイト内の情報を見わたすために使われるサイトマップ、更新履歴を準備している のはそれぞれ8館であった。 電子申請・届出に関連して閲覧票や撮影・複写、施設の使用など各種申請・申込書をAdobeのPDF (pdf)やMicrosoft Excel(xls)でダウンロードできる施設が8館あり、神奈川県立公文書館では会 議室が「県公共施設利用予約システム」で予約できるようになっている。名古屋市市政資料館では、 予約状況の確認が可能である。 収蔵資料の概要に関する情報の示し方は、利用者が館の収蔵資料全体を簡潔に的確に概観するため に重要であると考え、2の表では「資料概要」の項目を別にたててまとめた。しかし、収蔵資料の蓄 積が大きくなるほど、一覧性の低いディスプレーの画面で的確に概要を表示するのは難しくなるため、 出版物を作成しpdfで掲載している神奈川県立公文書館の例はひとつの手だてであると思う。 (2) 検索ツール 調査時点で目録の検索データベースを提供していたのは、茨城県立歴史館、群馬県立文書館(「行 政文書」は準備中)、神奈川県立公文書館、福井県文書館、愛知県公文書館、京都府立総合資料館 (貴重書)、大阪府公文書館、岡山県立記録資料館、山口県文書館、徳島県立文書館、大分県立先哲史 料館、沖縄県公文書館、大阪市公文書館、神戸市文書館(「所蔵資料の一部」)、北九州市立文書館 106 都道府県・政令指定都市等の文書館におけるインターネット上での情報提供 (「行政資料等」)の15館であった。これに加えて調査直後の2005年11月1日から北海道立文書館で 「公文書」「私文書」「刊行物」が検索可能になっている。これらの検索データベースについては、そ の使い勝手や共通して提供すべき文書館資料の情報要素やその表示方法などについて、率直な批評や 議論が待たれる。 個人情報などへの配慮から利用制限を設けることがあるのは文書館資料の特徴であるが、当該資料 の目録掲載の有無、その表記の意味について解説している館はほとんどみられないなかで、愛知県公 文書館では「検索システムについて」で「個人若しくは団体の秘密保持のため、又は公益上の理由に より利用に供することが不適当な箇所がある場合、資料の一部を非公開としています」と案内してい る。オンライン検索の結果から、福井県文書館(閲覧非、一部非)、愛知県公文書館(無、全部、一 部)、岡山県記録資料館(「公開情報」の項目に要審査)、徳島県立文書館(「表題」に(利用制限あり) の注記)などで利用制限のある資料がデータベースに含まれていることがわかるが、一般の利用者に とっては案内が必要だろう。 全般的に利用制限も含めてデータベースの活用のための情報提供は十分ではないと思われる。この 点に関連して山口県文書館が「検索システムで使用されている記述項目について」「階層構造一覧」、 所蔵文書リストのうち検索可能な資料群をあわせて示している点に注目したい。またデータベースへ の追加情報は、たびたび検索システムを利用する熟練した文書館利用者にとっても、また初めて訪れ る利用者にとっても不可欠だろう。また、群馬県立文書館はデータベースの検索結果から「文書閲覧 票」を印刷するシステムを提供しており、来館前の予備調査に活用できる。 一方で、資料目録をhtmlで表示したり、pdfやxlsファイルで閲覧できる館も増えている。秋田県公 文書館(pdf)、千葉県文書館(pdf)、東京都公文書館(pdf、html)、鳥取県立公文書館(html)、大 分県公文書館(html)、川崎市公文書館(xls)、名古屋市市政資料館(xls)、板橋区公文書館(pdf) がこれにあたる。名古屋市や板橋区では、前年度までの受入資料目録を公開しており、迅速な目録提 供が注目される。名古屋市では、あわせて利用制限の変更があった資料についても一覧で公開してい る。pdfファイルでは、印刷目録として刊行されたものを活用する場合には、凡例やレコードの配列 などが吟味されている点で質の高いものとなっている。その意味で秋田県公文書館の目録は、移管機 関の組織機構、事務分掌などの研究蓄積に基づく参考情報が充実している。 (3) 展示・講座・出版物等 多くが参加者募集のための案内の掲載にとどまっているが、展示については、近年の展示用パンフ レットやチラシのpdfを掲載する館がでてきている。そうした中で埼玉県立文書館の「WEB常設展示 『行政情報史の130年―埼玉県設置から電子県庁構想まで』」や板橋区公文書館「電子展示室」は、行 政情報史というテーマ性や定期的な更新を積み重ねてきている点で注目される。文書館資料のデジタ ル化とその情報提供に関しては、京都府立総合資料館の「京都北山アーカイブズ」(デジタルデータ 閲覧システムのサンプル版)、山口県文書館の「文字情報データベース」 (山口県文化史年表、同概要、 検索)、「画像データベース」(毛利家文庫絵図・袋入絵図・毛利家文庫写真)、沖縄県公文書館「電子 閲覧室(「米国収集写真資料」検索、 「琉球政府公報」検索、 「琉球立法院会議録」検索)」などがある。 講座では、古文書講座で福島県歴史資料館(pdf、html)、群馬県立文書館(pdf、html)、東京都公 107 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 文書館(html)、新潟県立文書館(html)、福井県文書館(html)、和歌山県立文書館(pdf、html) で、学校向けの講座・資料集では、茨城県立歴史館(pdf)、群馬県立文書館(pdf)、新潟県立文書館 (html)で比較的まとまった情報提供を行っている。出版物では、近年刊行の文書館の館報・「たよ り」・「ニュース」、年報、事業報告などを中心にpdfやhtmlで掲載している館が多い。 (4) その他 業務や運営に関する答申類、運営審議会の議事録、アンケート結果などもいくつかの館で掲載され ているが、経営情報の公開という意味で、収集方針・利用制限基準・統計などとともに今後充実がも とめられるだろう。電子メールなどでレファレンスを受付けている公共図書館は、2006年1月段階で 都道府県立図書館で38館、区町村立図書館で47館にのぼっている8)が、文書館ではいまだに少数であ る。そうしたなかで宮城県公文書館が「メール検索サービス」を明示している。福井県文書館でもレ ファレンス受付のための「Q&A」を設けているが、電子メールの利用がすでに一般的になっている ため直接メールで問い合わせをうける場合が多い。リンクでは、福島県歴史資料館、新潟県立文書館 が地域内の関連機関のURLを丹念に集めている。これ以外では、北海道立文書館「市町村合併時にお ける『歴史資料として重要な公文書等』保存のためのガイド」、千葉県文書館の点字資料のダウンロ ードサービス、福島県歴史資料館の「ブログdeしりょうかん」、尼崎市立地域研究史料館の自主グ ループの活動紹介や・ボランティアの募集などは、時宜を得た、また新しい試みとして参考になった。 2.各館の情報提供の概要(文末表参照) 注 1)森内優子「公文書館におけるホームページのあり方について」『平成16年度公文書館専門職員養成課程修了研究論 文集』では、都道府県立の文書館29館のWebサイト上を検討しており、高齢者・障害者等が利用しやすい、いわ ゆるWebアクセシビリティを重視した評価を行っている。また、境野由美子「公文書館のホームページ公開の目 的」(『同上』)では、データベースの提供に留まらず「利用を促すようなコンテンツ作り」に注目し諸外国の National ArchivesのWebサイト69館を調査している。 2)図書館法第18条に関連する「公立図書館の設置及び運営上の望ましい基準」(文部科学省告示第132号、2001年) では、市町村立図書館では「電子資料の作成、収集及び提供」「インターネット等を活用した正確かつ迅速な検索 システムの整備」、広報や情報公開におけるインターネットの活用(いずれも都道府県立図書館にも準用)がその 業務に挙げられ、都道府県立図書館では「市町村立図書館との間に情報ネットワークを構築」が謳われている。 2001年度に全国公立図書館協議会が実施した「電子図書館のサービスと課題に関する実態調査」を分析したもの として、根本彰「公立図書館における電子図書館的サービス」同『続・情報基盤としての図書館』第5章、勁草 書房、2004.2がある。 3)「公共図書館Webサイトのサービス」http://www.soc.nii.ac.jp/jla/link/public2.html参照[引用2006.1.27] 。 4)文書館のWebサイト上における「1945年以降発生した資料」 (写真・刊行物を除く)への「検索手段」の調査では、 小川千代子・岩下ゆうき「公開された戦後資料へのアクセス−公文書館のHP調査から」(『図書館雑誌』99−7、 2005.7)がある。調査は2005年4月下旬から5月上旬にかけて行われており、「検索手段」として「対話形式の 検索システム」とHTML、PDF、MS Excelなどでの目録提供をあわせて、都道府県12館、市町村文書館6館(ホ ームページ開設は都道府県30館、市町村14館)が報告されている。 5)前川和子・志保田務「インターネット時代の情報的サービス:公共図書館の場合」 『図書館界』55−2(通巻311号) 、 2003.7。 6)編集・出版委員会「小特集 コンピュータ技術によるアーカイブズ情報への接近」 『記録と史料』第15号、2005.10。 7)http://www.archives.go.jp/link/japan.html 8)注2)参照。 108 109 埼玉県立文書館 群馬県立文書館 栃木県立文書館 茨城県立歴史館 福島県歴史資料館 秋田県公文書館 宮城県公文書館 北海道立文書館 機関名 http://www.pre f.saitama.lg.jp/ A20/BA18/top. html http://www.arc hives.pref.gunm a.jp/ http://www.pre f.tochigi.jp/sou mu/link/monjo kan/index.html http://www.rek ishikan.museum. ibk.ed.jp/ http://www.his toryarchives.fks.ed.j p/ http://arcs.apl.p ref.akita.jp/inde x.htm http://www.pre f.miyagi.jp/kou bun/ http://www.pre f.hokkaido.jp/so umu/smmonjy/welcom e.html URL 2005. 10.20 2005. 10.19 2005. 10.19 2005. 10.19 2005. 10.18 2005. 10.18 2005. 10.18 2005. 10.18 ○ 調査 サイト 年月日 マップ 資料概要 目録公開 出版物 講座等 たより1 (html) 、 2-7 (pdf) 、 年報H13-16( pdf) 所蔵資料目録・公文書 案内 件名目録・ 『北海道内私 文 書 所 在 情 報 一 覧』 ・ 史料集・研究紀要各リス ト ( 紀要は目次まで)館 報39・40号(pdf) ○、 カレンダー、「収蔵資料の内訳」 電話:有、 住所: 有、 e-mail:有 ○、 「文書館の 「行政文書」 「公文書」 仕事」、 カレンダ 「県史収集複製資料」 「図 ー 、電 話:有 、 書・行政資料」それぞれ 住所:有、 「mail に「詳細」あり。 please」のボタ ン有 ○、 「文書館の 「収蔵文書一覧」 仕 事 」、電 話: 有、 住所:有、 email:有 ○、 「沿革と概 「所蔵資料一覧表」 要 」電 話:有 、 住所:有、 e-mail: 有 施設使用申込 書等5種(pdf) 行政文書( 準備中) ・ 古文書・県史資料、 図 書・行政資料各DB、 「文 書閲覧票」印刷 企画展案内 案内 最新史料展示 インターネット古 (小・中学生用・ 文書講座(平成 一般用html) 17年1月から毎 月h tml・pd f、 『ぐ んまの古文書』 上下(群馬県立 文書館編)) リスト (「内容」を含む、 案内 「展示のご案 紀要目次、叢書は概要 「わくわくサタデ 内」 のhtml有) ーミュージアム」 WEB常設展 示「行政情報 史の 1 3 0 年− 埼玉県設置 から電子県庁 構想まで」 リスト (目録・紀要・県史・ 県史研究・ 『ぐんま史料 研究』 ・ 『ぐんまの古文書』 等) たより38-42号(pdf) 企画展案内 リンク集 更新履歴 その他 「今後の公文書館の在り方検討 会報告書」 9機関 7機関 「付属施設のご案内」 ( 歴史的 建造物) 「歴史館の四季」 (写真) 「埼玉県ホームページ作成ガイド ライン」の策定に伴いリニューアル 「学校との連携事業」 「文書館通信」No.1-6( html) 2003.8.1 「学校支援」 (資料紹介、 参考文献、 以降継続 展示パネル貸出)、 『授業で使え して掲載 るぐんまの資料』 (pd f) 、 「データ集」 (「館のあゆみ」 「展示のあゆみ」 「講演会のあゆみ」観覧者数・参 加者数)、 教育普及ビデオ「調べ てみよう!あなたのふるさと−文書 館を訪ねて−」 最新5件 「県内歴史 2003.7.8 「ふくしまbookレビュー」 (収蔵資 資料保存機 以降継続 料が引用されている図書)、 「ふく 関一覧」 して掲載 しま歴史データベース」9件 (html) 、 「思い出アーカイブズ」 (写真紹介) 、 「福島県内市町村史編纂状況」 「催し一覧」 「フィルム上映会」 「福 島県歴史資料館アンケート」、 「ブ ログdeしりょうかん」 「Q&A」 「 全 国の文 (4件) 書館」 案内、 出前講座 展示案内(最 「 徳 川 慶 ( 学 校 用・公 民 新展示チラシ 喜Q&A」 館用pdf )、 「小 pdf) 中学生を対象と する歴 史 館 行 事」、 民俗ビデオ テープの貸出 (学 校用) 文書館だより・研究紀要 案内 (目次)、 史料所在目録リ スト、 学校教材史料集(目 次) 行政文書・行政刊行物・ 『茨城県史』、 図録リスト 議会刊行物・行政資料・ 県報・古文書・図書・ 和書・漢籍各DB レファレンス 「よくある 「国・都府県 2001.12.17 「市町村合併時における『歴史 ご 質 問 」 の 文 書 館・ 以降継続 資料として重要な公文書等』保 ( 利 用 案 公文書館等」 存のためのガイド」 内を含む 「 北 海 道の 4テーマ) 歴史につい て」 常設展(pdf) 「メール検 索サービ ス」 展示 目録リスト (紀要は目次も) 案内、H15古文 展示案内 『福島県史料情報』1- 書講座(1-3回) ・ 13( html) 16古文書講座 (18回)、 17古文書 講 座( 1 - 2 / 8 回 予 定 )資 料 、解 読分( pdf )、解 説(html) 収蔵資料の概要(公文 秋田県庁文書群目録 紀要1-10号(目次 ) ・11 案内 書・古文書 )」 「主な収 (1・2集pdf) 号(pdf) 蔵 資 料( 公 文 書・古 文 たより17号(目次) ・18-19 書) 」 「主な絵図史料」 「県 号(pdf)、 リスト (『所蔵 政映画フイルム」 古 文 書目録』 『渋 江 和 光日記』) ○、 「館の仕事」 「収蔵資料のご案内」 「収 カレンダー、 電話: 蔵資料一覧」 有、 住所:有、 email:有 ○、 「公文書館 の役割」 「フロ アガイド」電話: 有、 住所:有、 email:有 ○、 「公文書館 とは…」 「公文 書 館の 仕 事 」 「施設の概要」、 電話:有、 住所: 有、 e-mail:有 ○、 「文書館と 「資料ガイド」 (公文書、(準備中) は」、 カレンダー、 私文書 (「五十音順一覧」 電話(管理係・ 「主題別一覧」 「地域別 閲覧室 ) :有 、 一 覧 」 「 主な文 書 群の 住所:有 解説」)) 利用案内 都道府県・政令指定都市等の文書館のWebページにおける情報提供 都道府県・政令指定都市等の文書館におけるインターネット上での情報提供 110 福井県文書館 富山県公文書館 新潟県立文書館 神奈川県立公文書館 東京都公文書館 千葉県文書館 機関名 http://www.arc hives.pref.fukui. jp/ http://www.pre f.toyama.jp/bra nches/1147/ http://www.lala net.gr.jp/npa/in dex.html http://www.pre f.kanagawa.jp/o sirase/02/0219/ index.htm http://www.sou mu.metro.tokyo. jp/01soumu/arc hives/index.htm http://www.pre f.chiba.jp/bunsy okan/index.html URL 2005. 10.21 2005. 10.20 2005. 10.20 2005. 10.20 2005. 10.20 2005. 10.20 利用案内 資料概要 目録公開 出版物 講座等 ○、 「文書館の 「収蔵資料」 「注目され 収蔵ビデオ目録(pdf) 『千葉県史』 (各巻概要) 、 案内 業務」 「 館 内 る文 書 等の詳 細 」 「収 『千葉県史研究』 (目次) 、 案内」、 カレンダ 蔵庫文書一覧」 「収蔵 古文書目録、 『千葉県の ー 、電 話:有 、 古文書一覧」 (地域別) 文書館』 (目次) 住所:有、 e-mail: 「行政資料の概要」 「新 有 着行政資料」 「累積行 政資料」 ○、 「公文書館 「公文書館の収蔵資料」 の概要」 「施設 案内」、 カレンダ ー 、電 話:有 、 住所:有、 e-mail: 有 ○、 「業務内容」 「所蔵資料」 (一覧) 、 「受 「施設」、 カレン 託史料」 (一覧) 、 「新聞」 ダー、 電話:有、(一覧) 住所:有、 e-mail: 「公文書」 有 「教科書」 (一覧) 「複製資料」 ○、 「ようこそ!」、「歴史的公文書」 「古文 カレンダー、 電話: 書」 (地域別集計表、 「目 有、 住所:有、 e- 録活用のために」 「寄贈 ○ mail:有、使用 寄託資料群一覧」 「概 承 認 申 請 書 要」) 「行政刊行物」 (pdf) ○ ○、 「公文書館 「収蔵資料の紹介」 の仕事」 「歴史 「 収 蔵 資 料のご案 内 」 資 料 の 収 集か (pdf) ら閲覧まで」 「公 文書等の選別」、 カレンダー、 電話: 有、 住所:有、 「お 問い合せ」ボタ ン有 、 「会議室 利用案内」、予 約システムリンク 収蔵資料DB(歴史的 公文書・古文書・行政 刊行物・写真 )、記事 検索DB( 福井県報・ 新聞記事) 利用案内(html)、 文書 館だより1-6号 (html・pdf) 、 福井県文書館年報1-2 号(pdf)、研究紀要1-2 号(pdf)、資料目録(概 要)、 資料叢書1( pdf)、 文書館新聞(pdf) リスト たより33-37号(pdf) 展示 レファレンス リンク集 「 全 国の文 書 館・関 連 機関」 「新潟 県の関連機 関」 「新潟県 史関係サイ ト」 特別企画展案 「 古 文 書 「 全 国の公 内 1 1 0 番 」 文 書 館・文 ( 解 読 や 書館へのリ 解 説 、修 ンクページ」 復 相 談 、(県内3施設 最 寄りの を含む) 古文書保 管機関な どを紹介) H16・17通常・ 企画展示(目 録・ポ スター pdf)、 ミニ展示 (目録・ポスタ ーpdf )、常設 展示解説 (pdf) 所 蔵 資 料 展 「レファレ 「 全 国の文 (H13-17、 概要、 ンスの杜」 書 館・関 連 H17出展資料 (6テーマ) 機関」 リストpdf) 「 東 京 都の 「みちくさロビ 関 連 団 体・ ー展」 (1-5回) 施設」 企画展 (html) 「よくある 常設店 (html) 質問」 (利 用案内) 案内、古文書入 2003-2005年 「Q&A」 5機関 門講座(html)、 度閲覧室展示 入 力フォ 古 文 書 初 級 講 (html)、 2004・ ーム 座(html) 2005年度パン フレット (h tml ・ pdf) 案内 『新潟県史』 (頒布中の 案内、 インターネ もののみ) ット古文書講座 紀要(1-10号目次) (入門、基礎、 テ キスト5 6 点 、管 理と保存につい てhtml)、 インタ ーネット歴 史 資 料活用講座 (小・ 中学校向、高等 学校向html) 歴史的公文書、 古文書・ たより4-6( html ) ・7-12 案 内 、ポスター 私文書、 行政刊行物・ (pdf) 、 年報H12-16 (pdf)(pdf) 図書、県史写真製本 各DB ○、 「あらまし」 「江戸期資料」 「明治期 『東京都公文書館所 年報H12-16( pdf )、紀 講演会(展示関 (沿革・事業内 資料」 「大正・昭和期資 蔵庁内刊行物目録』 要4号( pdf )、 『東京市 連 )案 内 、古 文 容・組織)、 カレ 料」 「庁内( 行政 )刊行 ( pdf ) 『東京都公文 史稿』 (1911年以来169 書解読チャレン ンダー、 電話:有、 物」 「所蔵図書案内」 (概 書館蔵書目録』 (1-3、 巻目次)、 『都市資料集 ジ講 座( 1・2 回 住所:有、 e-mail: 要) 、 「錦絵」 (画像) 、 「地 pdf) 成』 (1-4、 6概要・目次) 、 『史 html) 有 図類」 (概要)、 「東京府・ 「東京都の組織沿革」 料復刻』 (リスト、 新刊内 ○ 閲覧票・撮影許 東京市・東京都公文書 ( 東京府・東京市・東 容紹介) 、 『都市紀要』 (は 可申請書・複写 目録」 京都html) しがき、 目次)、 『東京都 申請票・複写申 公文書館ガイド』 (pdf)、 請票 (pdf・xls) 『東京都公文書館にお ける保存閲覧に関する 研究会報告』 (概要、 pdf)、 たより1-6( pdf) ○ 調査 サイト 年月日 マップ その他 「県内自治体史情報」 (書名、 構成、 刊行年、 頒布価格、 在庫状況、 問 合せ先) 「新史料協掲示板」 「過去の主題別図書コーナー」 (8 テーマ) ダウンロードサービス (点字資料) 2003.2.6 「デジタル歴史情報」 (福井県史 開館以降 通史編html、図説福井県史html、 継続 年表html、 統計編csv、 古文書資 料(全文テキスト)、 同検索) 「条例・規則等」 更新履歴 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 111 http://www.pre f.osaka.jp/archi ves/index.html http://www.pre f.kyoto.jp/shiry okan/ http://www.pre f.aichi.jp/kobun shokan/ http://cscns.csc. gifu.gifu.jp/virt ual_museum/sa npo/19/index.ht m http://www.np mh.net/ URL 鳥取県立公文書館 和歌山県立文書館 http://www.pre f.tottori.jp/kobu nsho/ http://www.wak ayamalib.go.jp/monjyo/ http://web.pref. hyogo.jp/bunsh 兵庫県公館県政資料館 oka/rekisi/siry okan/index.htm 大阪府公文書館 京都府立総合資料館 愛知県公文書館 岐阜県歴史資料館 長野県立歴史館 機関名 2005. 10.21 2005. 10.21 2005. 10.21 2005. 10.21 2005. 10.21 2005. 10.21 2005. 10.21 2005. 10.21 ○ 調査 サイト 年月日 マップ 資料概要 講座等 リスト ○、 「公文書館 「主な収蔵資料」 の仕事」、 電話: 有、 住所:有、 email:有 特別展示(1-8 回概要、一部 h t m l )、巡 回 展示案内 案内 リスト (目録、 和歌山県史) 、 案内、歴史講座 「Web Panel たより1-16号( pdf )、紀 ( テーマ 一 覧 、 G a l l e r y 要1-10号(目次)、 『開館 最新チラシpdf) 、 Monjyo」 (2 10周年記念誌』案内 古文書講座(テ テーマgif)、 1ーマ一 覧 、 「 古 22回テーマ一 文書講座控帳」 覧 pdf)、 文書館見 学(html) 公文書簿冊目録(第1 館報H15-17( pdf )、紀 講演会案内 集明治・大正、第2集 要(創刊号目次) 昭 和 編( 1 )戦 前 、作 成年順、 html) 統計資料・行政資料 ( 県 庁 統 計 課ホーム ページへリンク) ○、 「文書館の 種類別点数、 主な公文書、 仕事」 「施設・ 古文書、 行政資料、 歴史 設備」 「 歴 史 図書、 新聞 資料の収集」、 電話:有、 住所: 有 ○ 、電 話:有 、「収蔵資料の概要」 (資 明治期公文書等( 簿 『兵庫県史』と『兵庫県 住所:有、 e-mail: 料区分別収蔵数、代表 冊一覧、 一部html) 百年史』 (構成、購入案 有 的収蔵資料) 内)、 『兵庫のしおり』1-7 号(目次、 一部資料紹介 jpg) レファレンス 39機関 「博物館・資 料 館・文 書 館・研 究 機 関のホーム ページ」 リンク集 「国・都道府 県・政 令 指 定都市公文 書館一覧」 「よくある 「公文書館」 ご 質 問 」 ( 30機関 )、 ( 1 1テー 「関係機関」 マ) (県内6機関) 案内、 「ネット 展覧会 (html) 、 リーフレット (H14pdf) 企画展案内、 同 ポ スタ ー (pdf) 「先人顕彰企 画展」 展示 ○、 「沿革」 「事 「行政文書」 「行政刊行 所蔵資料検索DB(行 「館報『大阪あーかいぶ 案内、受講申込 企画展 業内容」 「 施 物」 「近年の大規模プロ 政文書・行政資料・古 ず』」1-36号(html) フォーム 設」、電話:有、 ジェクトに関する文書」 「古 文書) 住所:有、 e-mail: 文書など」 有 リスト、 たよりNo.127-145 案内 (pdf、 目次)、 紀要(1-33 号目次) 案内 たより126-143号(pdf)、 案内 紀要(1-11号目次) 常設展示図録・企画展 示図録・ 『歴史館ブック レット』リスト、年報2004 年度(pdf) 出版物 所蔵資料検索DB(全 年報H13-16( pdf) 所蔵文書・公文書・藩 庁・郡役所文書等・地 籍帳・地籍図・他機関 所蔵複製本・修史関 係資料・刊行物・古文 書等) 目録公開 ○、 「当館のあ 古文書(所蔵資料の概 貴重書DB らましと沿革」、 要、 一覧表) ・行政文書・ 電話:有、 住所: 写真資料・近代文学資 有、 e-mail:有、 料(所蔵資料の概要)、 閲 覧 申 請 書・ 「現物資料」 (概要) 複写申込書 (pdf) ○、 「 施 設 概 「本館所蔵公文書」 「藩 要」、電話:有、 庁・郡役所文書等」 「地 住所:有、 e-mail: 籍帳・地籍図」 「他機関 有 所蔵複製本」 「修史関 係資料」 「刊行物・古文 書等」 ○、 「設置目的」 「収蔵資料一覧」 「沿革」 「施設 の概要」 「主な 施設」電話:有、 住所:有 ○ 、電 話:有 、「行政文書・行政資料」 住所:有、 e-mail: 「古文書( 諸家文書 )」 有 「『信濃史料』収集写真 観覧申込書・使 史料」 「『長野県政史』 用料減免申請 収集史料」 「『長野県史』 書・資料利用申 収集史料」 「『長野県教 請書 (html・pdf) 育史』収集史料」 「現代 史資料」 利用案内 「京都北山アーカイブズ」 (デジタ ルデータ閲覧システムのサンプル版、 古写真・絵図) 、 「友の会のご案内」 「サービス基準の御案内」 「バーチャル・ミュージアム岐阜県 歴史資料館」 その他 「デジタル鳥府志録」 閲覧室防災グッズ 2003.5.16 「兵庫県のあゆみ」 (県域の歴史、 ホームペ 兵庫県史年表、 歴代兵庫県知事) ージ更新 以降継続 更新履歴 都道府県・政令指定都市等の文書館におけるインターネット上での情報提供 112 http://sentetusi ryokan-b.oita- http://www.pre f.oita.jp/11103/ http://www.pre f.kagawa.jp/bu nshokan/ http://www.arc hiv.comet.go.jp/ http://ymonjo.y sn21.jp/ http://www.pre f.hiroshima.jp/s oumu/bunsyo/ monjokan/inde x.htm http://archives.p ref.okayama.jp/ URL 沖縄県公文書館 http://www.arc hives.pref.okina wa.jp/ 大分県立先哲史料館 ed.jp/ 大分県公文書館 香川県立文書館 徳島県立文書館 山口県文書館 広島県立文書館 岡山県立記録資料館 機関名 2005. 10.22 2005. 10.24 2005. 10.22 2005. 10.22 2005. 10.22 2005. 10.22 2005. 10.21 2005. 10.21 ○ ○ 調査 サイト 年月日 マップ 資料概要 目録公開 出版物 講座等 たより (1-26号目次)、紀 インターネット版 要(1-8号目次)、 『広島 古文書講座(1県立資料館』 (3冊目次) 、 5回)、 保存管理 文書展・企画展・特別展 講座 (保存装備・ 図録リスト、 年報 (H15pdf) 整理) レファレンス Q&A(利 用案内な ど 5テー マ) 案内 案内 利 用 の 手 引き( p d f ) 案内 『ARCHIVES』1-28号 (html・pdf)、 年報4-6号 (pdf)、 『琉球政府の時 代』図版、戦後史年表、 統治機構の変遷(html) 図書・史料各DB、 「記 紀要1-9号(目次)、 『大 案内 録史料調査事業史料 分県先哲叢書』 ( 刊行 画像一覧」 計画・販売等) ○、 「沖縄県公 「沖縄県文書」 「琉球政 所蔵資料(階層ガイド 文書館の概要」 府文書」 「行政刊行物」 付)、 引渡文書各DB ( 設置目的・施 「米国の沖縄統治関係 設概要・業務・ 資料」 「琉球王国時代 開 館までの 歩 の資料」 「その他の資料」 み )電 話:有 、 住所:有、複写 申 請・出 版 物 等掲載許可申 請・館 外 貸 出 許可申請 (pdf) ○、 「施設のご 案内」電話:有、 住所:有、 e-mail: 有 ○、 「公文書館 公文書・行政資料・寄贈 公文書目録(簿冊、 明 設置目的・業務 寄託資料・複製本 治1-昭和10年html) 内 容・設 置 の 経緯」電話:有、 住所:有、 e-mail: 有 ○、 「文書館と は」 「文書館の ご案内」、 電話: 有、 住所:有 ○、 「文書館フ 公文書(公開時主管課 古文書(分類・家名)、 たより1-12号(html) ロアマップ」、 電 別簿冊数)、古文書(古 公文書・行政資料、 文 話:有、 住所:有 文書家名一覧) 書館図書情報各DB 案内 案内 案内 展示会( 1-29 回題名・内容 等) 「 全 国の文 書館」 ( 国・ 都道府県の 文 書 館 、政 令指定都市 の文書館、 市区町の文 書館) リンク集 「各都道府 県リンク」 (42 機関) 24機関 (概要) 展示のご案内 「よくある (2テーマ) 質問」 (利 用案内)、 「ご意見・ ご質問」 入 力フォ ーム 展示 ○、 「山口県文 「所蔵文書概要」 (藩政 所蔵文書検索DB(藩 『文書館ニュース』1-39 案内 、 「文書館 月間小展示案 「Q&A」 書 館の 歴 史 」 文書、 行政文書、 行政資 政文書、 行政文書、 行 号(pdf) デイズ」案内 内 ( 利用案 「 山 口 県 文 書 料、 諸家文書、 特設文庫、 政資料、 諸家文書、 特 内14テー 館の業務」、 電 各文書一覧) 設文庫、 各階層検索・ マ) 話:有、 住所:有 簡易検索・詳細検索) 「検索システムで使用 されている記述項目に ついて」 「階層構造一 覧」 ○、 「文書館っ 「収蔵資料の紹介」 (「行 て何?」 「設立 政文書」 「行政資料」 「古 のあゆみ」 「文 文書」 「複製資料」 「図 書 館の 仕 事 」 書資料」 「新聞資料」) 「施設の紹介」、「収蔵資料の詳細」 (古 電話:有、 住所: 文書資料群一覧、複製 有、 e-mail:有 資料地域別資料群一覧、 各種資料) ○、 「事業の内 所蔵資料(公文書・古文 資料検索DB(公文書 たより (1号pdf)、 展示図 案内 容」、電話:有、 書・複製資料) 簿冊・件名)、 古文書 録(目次) 住所:有 (文書群・資料)、 複製 資料(文書群・資料) 国立公文書館などの 所蔵資料と横断検索 が可能 利用案内 その他 年度内 電子閲覧室 (「米国収集写真資料」 検索、 「琉球政府公報」検索・pdf、 「琉球立法院会議録」検索・pdf) 「楽しみ学ぶビジュアル番組」 (古 文書クイズ・古文書クイズ−熟語 編−、 歴史人物クイズ) 「ご意見コ ーナー」入力フォーム、 「研究室」 (「文書館の逸品」紹介テーマ)、 阿波人形浄瑠璃 「文書館ギャラリー」 (10点)、 「文 字情報データベース」 (山口県文 化史年表、同概要、検索 )、 「画 像データベース」 (毛利家文庫絵 図・袋入絵図・毛利家文庫写真) 「市町村史の刊行状況」 2005.9.7 「岡山県の年表」 「条例・例規ほか」 H P 開 設 (pdf) 以降継続 更新履歴 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 113 板橋区公文書館 八潮市立資料館 久喜市公文書館 福岡市総合図書館 (文書資料室) 北九州市立文書館 広島市公文書館 神戸市文書館 大阪市公文書館 名古屋市市政資料館 川崎市公文書館 機関名 http://www.cit y.itabashi.tokyo. jp/kbunsho/ind ex.html http://www.city.ya shio.saitama.jp/shis etsu/shisetsu13shiryoukan.htm http://www.city. kuki.saitama.jp/i nfo/koubunsyo/ http://toshokan. city.fukuoka.jp/ http://www.city. kitakyushu.jp/~ k1402010/bunsy okan.html http://www.cit y.hiroshima.jp/ kikaku/koubun/ index.htm http://www.cit y.kobe.jp/cityof fice/06/014/top. html http://www.cit y.osaka.jp/soum u/menu_a/bun syo/index.htm http://www.cityarchives.city.nag oya.jp/ http://www.cit y.kawasaki.jp/1 6/16koubun/ho me/index.htm URL 2005. 10.24 2005. 10.24 2005. 10.24 2005. 10.24 2005. 10.24 2005. 10.23 2005. 10.23 2005. 10.23 2005. 10.23 2005. 10.23 調査 サイト 年月日 マップ 資料概要 出版物 管理公文書簿冊目録・ 市で発行した刊行物 DB 公文書(簿冊、 昭和20 『新修名古屋市史』 (リ 案内 年以前・平成16年に スト・目次) 利用を開始した公文 書xls)、 「利用制限を 変更した文書の一覧」 (xls) 行政資料等DB 『久喜市史』 (刊行物名・ 内容・価格) 「現在販売中の刊行物」 ○、 「公文書館 地図・写真等、 「区史編 「所蔵資料一覧」 (H12- たより1-19号(pdf)、 『広 の仕事」 (目的・ さん収集資料」 16年移管分、 pdf) 、 「行 報いたばし』掲載「シリ 設立の経緯 、 政刊行物」 (pdf) ーズ 公文書館って、 何?」 施設の状況)、 1-5回 (pdf) 、 『板橋区史』 電話:有、 住所: (概要、 章立て、 価格等) 有 ○ 、電 話:有 、 住所:有 ○、 「公文書館 「公文書館収蔵資料」 (行 のご案内」 「公 政文書・行政資料・古文 文書館資料の 書・マイクロフィルム・図書) 利 用の 流 れ 」 電話:有、 住所: 有、 e-mail:有 ○ 、電 話:有 、「文書資料」 (公文書資 住所:有 料・行政資料・古文書資 料(閲覧できる古文書の 資料紹介)) ○ 、電 話:有 、 住所:有、 e-mail: 有 ○、 「沿革」 「業 「主要所蔵資料」 (役場 務」、電話:有、 文書・市民からの寄贈・ 住所:有、 e-mail: その他歴史資料) 有 講座等 市 政 資 料 等( H 1 4 - 『川崎市史』リスト、 『戦 案内(doc) 17xls ) ・歴史資( 史 ) 災の記録』 『川崎市史3 料 (xls) ・新聞 (川崎版) 代記』案内 史料・複製古文書 (xls) 目録公開 ○、 「沿革」、 電 「収蔵資料のあらまし」 (古 古文書文書詳細、収 『新修神戸市史』 (リスト、 話:有、 住所:有 文書・新聞・神戸市行政 蔵資料リスト、 検索DB 目次)、 『神戸市史紀要』 資料・図書文献類) ( 神戸市文書館所蔵 (摘要、 1-24号目次)、 『神 資料の一部)、 収蔵図 戸市史』 (摘要・目次) 書検索(googleサイト 内検索) ○ 、電 話:有 、 住所:有、収蔵 文書閲覧申請 書・転 載 許 可 申請書(pdf) ○、 「市政資料 「主な所蔵資料」 (公文 館の事業」 「館 書・行政資料) 内案内図」、 電 話:有、 住所:有、 施設予約状況 ○、 「川崎市公 「完結した公文書」 「市 文書館」 「公文 政資料等」 「歴史資 (史) 書館の主な仕 料」 「新聞(川崎版 )史 事」 「主な施設」、 料」 「複製古文書」 電話:有、 住所: 有、 e-mail:有 利用案内 リンク集 「よくある 質問」 (10 テーマ) 「お問 合 「神戸市関 せ・刊 行 係」 「全国」 物申込 」 入 力フォ ーム レファレンス 電子展示室 (1- 「ご意見・ 3機関 36回html) ご感想・ご 要 望 」入 力フォー ム 案内 案内 案 内 、H 1 - 1 6 テーマ・概要 案内 展示 更新履歴 「板橋区公文書館開設並びに運 営に関する答申」 (pdf)、 「条例・ 規則・選別基準」 「公文書移管 の流れ」 「利用の状況」 「櫻井徳太郎文庫」 (分類別点数、 略歴、 桜井賞、 展示パネル) 「情報公開と個人情報保護」 (制度・ 条例・H14-16運用状況・運営審査 会会議録概要) 「第19回企画展アンケート調査報 告書」 (pdf)、 「第18回企画展CS (顧 客満足度) 調査報告書」 (h tml、 pdf) 「北九州市の情報公開制度・個 人情報保護制度」、 「行政文書 開示制度」 (開示請求の方法と 手続きの流れ・Q&A・情報公開 条例・同施行規則・年度別公開 件数・分野別請求件数・不服申立 て状況・不服申立てに対する答申) 「情報公開・個人情報保護」 「神戸史跡地図」 「神戸歴史年表」 「大阪市公文書館運営委員会」 (任 期・所管事務等・名簿) その他 都道府県・政令指定都市等の文書館におけるインターネット上での情報提供 114 http://www.ch atan.jp/kou0209 01.htm http://www.cit y.hondo.kumam oto.jp/ http://www.cit y.amagasaki.hy ogo.jp/web/con tents/info/city/ city03/chiiki%2 Dshiryokan/ http://www.cit y.moriyama.shi ga.jp (守山市) http://www.city. matsumoto.naga no.jp/tiiki/bunk a/bunsyokan/ http://www.cit y.fujisawa.kana gawa.jp/jyouho u/data06001.sht ml URL 2005. 10.24 2005. 10.24 2005. 10.24 2005. 10.24 2005. 10.24 2005. 10.24 調査 サイト 年月日 マップ 利用案内 資料概要 ○、 「公文書館 の仕事」 「開館 までの歩みと現 状」、電話:有、 住所:有 ○、 「アーカイブ 「現在、閲覧・利用がで ズとは」 「こん きる主な資料」 なことができま す」、電話:有、 住所:有、 e-mail: 有 ○、 「当館の概 「新着資料」 ( 同バック 要」、電話:有、 ナンバー) 「新着史料・ 住所:有、 e-mail: 文献・歴史論文紹介」 (同 有 バックナンバー) 電話:有、 住所: 有 、情 報 公 開 請 求 書・個 人 情報開示等請 求書(pdf) ○、 「文書館の 「保存文書の概要」 概要」 「文書 館の沿革」、 電 話:有、 住所:有、 e-mail:有 ○、 「文書館の 収蔵資料の概要(地域 役割と仕事」 歴史文書・マイクロフィル ム収集文書・郷土資料・ 行政資料、一般参考図 書、 絵地図資料、 映像資 料・音声資料) 目録公開 出版物 講座等 展示 「史料館事業報告」 H13-16( html)、 『尼崎 市史』、 『尼崎の地名』 『尼 崎地域史事典』 ・紀要『地 域史研究』案内 案 内( 1 - 1 2 8 回 例 会 講 師・内 容)、 「自主グル ープ 」案内 『守山市誌』 ( 概要・公 案内 謬方法)、 『守山市誌資 料古文書目録1』 (概要・ 購入方法) 『松本市史』案内(概要、 案内 申込み方法)、 「刊行物 のご案内」 (リスト・申し 込み方法) 案内 たより1-5号(pdf)、 「有 案内、受講者感 案内、2004年 償刊行物のご案内」 (新 想・意見 度展示資料解 刊案内・刊行物名・価格・ 説書(pdf) 送料・概要) 注1 2005年10月18日から24日にかけて、 各館のWebページを閲覧・調査したものである。 注2 「利用案内」の「○」は、 開館時間・休館日・地図など一般的な情報を示す。 注3 「目録公開」はWebページ上で閲覧できる目録情報を示し、 双方向の検索データベースシステム (DB) とhtml・pdf・xlsなどでの目録掲載を合わせて掲載している。 注4 「出版物」には「目録公開」に掲載したpdf等の出版目録は省略した。 北谷町公文書館 本渡市天草アーカイブズ 尼崎市立地域研究史料館 守山市公文書館 松本市文書館 藤沢市文書館 機関名 リンク集 「 尼 崎の 30機関 歴史相談 室」 ( 4テ ーマ) 、 「メ ールによ る問い合 わ せ 」受 付 レファレンス 更新履歴 「開館までの歩みと現状」 「本渡市立天草アーカイブズの業 務等に関する答申」 (pdf) 「運営 審議会会議録要約」H15・16 (pdf) 「尼崎の歴史」 「ボランティアの募 集」、 「新『尼崎市史』編さん事業」 (編別構成・第7回新尼崎市史編 集委員会会議結果概要) 「平成16年度事務事業評価シート」 (pdf) 「運営協議会」 (概要) その他 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 山内秋郎家の新出中世文書 山内秋郎家の新出中世文書 松原 信之* はじめに 1.「山内秋郎家文書」と「 神社文書」 2. 神社と織田庄 3. 神社と織田寺の構成と変貌 新出中世文書翻刻 1.「山内秋郎家文書」と「 神社文書」 「山内秋郎家文書」は神奈川県の山内英司氏より寄贈された文書である。英司氏の父の秋郎氏は 神社の禰宜職を勤めた上坂津右衛門氏の六男であったが、秋郎氏が母方の山内家を相続する際に転出 された 神社関係の文書の他、歌集や秋郎氏の論文を含めた873点が「山内秋郎家文書」である。こ のうち 神社関係の中世文書は「 神社文書」を検証するうえで実に貴重な文書というべきであろう。 『福井県史』資料編5に収載された「 神社文書」は、丹生郡越前町(旧織田町)に鎮座する 神 社に襲蔵された文書の他に、東京大学史料編纂所架蔵の影写本にのみ残された文書と『福井県丹生郡 誌』の「資料編」(昭和53年刊)に収載されているものとで構成されているが、今度寄贈された「山 内秋郎家文書」は、 神社に伝来しなかった新出文書のみならず、東京大学史料編纂所架蔵の影写本 により収載した文書の原本の他、『福井県丹生郡誌』資料編に収載されている文書の原本も発見され た。『福井県丹生郡誌』の「資料編」の収載文書(16点)は、それ自体が写筆本であった文書の刊本 であるから、原本と対校すると誤写や誤植が多く、新出文書と断定しても問題のない文書ばかりであ る。ただ、天正年間の「織田寺社代恵伝書状案」は織田信長の家臣宛の書状の下書であるが、文書の 上下に破損が多く解読不能の箇所がある。しかし『福井県丹生郡誌』資料編の収載文書では、この解 読不能の箇所の一部が判明できるので、破損以前に写本が作成されたのであろうか。 なお、『福井県史』資料編5に収載された「 神社文書」のうち45・78号の写本の原本が、逆に 18・19・63・132号の写本が「山内秋郎家文書」に存在する。本稿では新出文書(11点)とともに 『福井県丹生郡誌』資料編の収載文書をも含めて、主として中世文書のみの27点を翻刻した。 ところで、 神社関係の中世文書を検証すると、主として、別当織田寺関係・子院の玉蔵坊・千手 院関係に大別される。このうち玉蔵坊は中世末期に廃坊となり、その関係文書は千手院に伝来された と考えられ、千手院も近世初期に社家の上坂氏に転身したと考えられるが、明治維新に神仏分離令に より織田寺が廃寺となり 神社が成立すると、別当寺院が襲蔵してきた織田大明神関係文書は禰宜と なった上坂氏が管理することになったと考えられる。 以上の 神社関係文書を理解するためには、織田大明神( *福井県文書館資料調査員 115 神社)の歴史的背景を知る必要があり、 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 以下に、その概要を述べておきたい。 2. 神社と織田庄 丹生郡のほぼ中央の織田盆地に鎮座する 神社は、越前国二の宮として古くから崇敬されてきた式 内社で、『続日本紀』宝亀2年(771)10月16日条にも「詔宛越前国従四位下勲六等 神食封廿戸・田 二町」として見えるが、「延喜式」では当社は敦賀郡に属し、気比大神を配祀していることから、敦 賀郡気比神宮(敦賀市)との関係が深かったと考えられる。当社蔵の梵鐘(国宝)に「 神護景雲四年九月十一日」の銘があり、奈良時代すでに当社に「 御子寺鐘 御子寺」とする神宮寺が存在した。 ところで、文安2年(1445)に京都の教王護国寺(東寺)の修造のための料足を奉加した越前の真言 宗諸寺を記載した「東寺修造料足越前国寺々奉加人数注進状」 ( 「教王護国寺文書」京都大学文学部博物 館古文書室所蔵文書『福井県史』資料編2)によると、 「織田 大神宮寺 弐拾六人」が2貫600文を 奉加しているから、当初、織田神宮寺は真言宗であった。しかし、 社が鎮座する織田庄が天台宗京都 妙法院領であったことから、享徳2年(1453)に神宮寺の織田寺は天台宗延暦寺の東谷檀那院の末寺と なり(「 た) 、 神社文書」『福井県史』資料編5、4号、以下同書に依拠する文書は( 神社ともどもにその支配下に置かれた。このように、 )内に号数で示し 神社が鎮座する織田庄が妙法院門跡領 であったため、織田庄成立の経緯に関する主な文書史料は現在京都市東山区の妙法院に伝来する。 康永3年(1344)7月の「亮性法親王庁解」(「妙法院文書」)によって、まず織田庄の成立を概観 すると、鎌倉時代初期の建保6年(1218)に開発領主の高階宗泰が本家職を高倉天皇の妃、七条院 (藤原殖子)に寄進して立庄され、その後、安貞2年(1228)に七条院の孫で妙法院門跡の二品尊性 法親王に譲渡されたもので、領家職は同じく尊性法親王が管領する円音寺に付属された。当時国衙領 であったと推定される織田の地の開発権が認可された開発領主の高階宗泰、もしくはその祖先は、越 前国府在庁の下級官人ではなかったかと考えられる。この高階氏が開発した織田の地を、当時、越前 の分国主であった七条院に寄進して立庄し、実際の支配権を有する預所職を高階宗泰が知行したので あろう。建保6年10月の「越前国留守所下文」(「妙法院文書」)によれば、織田庄の四至に榜示を打 って庄域を定めると同時に、恒例であろうと臨時であろうと大小の国役のすべてが停止された。なお、 この「留守所下文」に「歓喜寿院御領織田庄壱所事」とあるのは、建保2年に七条院の御願によって 建立された歓喜寿院に、七条院が当初、この織田庄を付属させたものである。 織田庄内の村数については文和2年(1353)の「妙法院当知行目録案」(「妙法院文書」)に「越前 国織田庄 十三箇村」とあるが、もちろん近世の村数とは異なるから、これでもって庄域を確定する ことは不可能である。ただ、中世末期の庄郷域をまとめて描かれた慶長11年(1606)頃の「越前国絵 図」(松平文庫蔵)によれば、1754石4斗9升の「大明神村(織田村)」を中心に、2117石7斗3升7 合の「織田庄」(境野・茱原・頭谷・青野・金屋・内郡・朝日・開発)、3360石8斗1升8合の「織田 庄平村」(平楽・下川原・江波・樫津・蚊谷・八田)、3030石1升1合の「大田庄」(上山中・下山 中・四杉・三崎・大王丸・中・赤井谷・山田・細野・岩倉・桜谷・篠川・上戸)を総合した1万263 石5升6合という広大な庄域がほぼ中世の織田庄域と推定して間違いなく、凡そ旧織田町・旧宮崎村 から旧朝日町の一部にかけた広大な庄域であった。 116 山内秋郎家の新出中世文書 3. 神社と織田寺の構成と変貌 近代以前の 神社は、 大明神と織田寺によって構成された神仏混合の寺院であった。先の文安2 年(1445)に京都の教王護国寺(東寺)の修造のための料足を奉加した織田神宮寺は「織田 大神 宮寺 弐拾六人」とあり、26の僧坊が存在した。その後の朝倉時代の享禄元年(1528)の「 大明神 寺社領納米銭注文」(30号)によれば、「 は上9人・下16人の計25人により 大神宮寺 真禅院」を中心に寺僧は20人、宮仕2人、社家 大明神と織田寺が構成されていた。永禄元年(1558)の「織田寺 役者中裁許状」(40号)や翌2年の「織田寺役者中掟書」(41号)などによると、養躰院・延命院・玉 蔵坊・千手院など、20人の寺家名のほとんどが知られる。 天正2年(1574)の一向一揆によって全山焼亡したが、翌3年に織田信長が越前を平定すると、織 田氏の氏神とされた当社には、同5年の柴田勝家の検地に際して1489石余を除地として残した。しか し、慶長3年の太閤検地の際の除地帳では養躰坊など19屋敷しか残らず、江戸期に入ると、越前国主 の結城秀康や大野藩主松平直基らが社領を寄進して当社を外護したが、衰亡は止まらなかった。幕末 に成立した越前の地誌である『越前国名蹟考』には、 大明神について「老祝部 明神奉仕 上坂 筑前 忌部氏、権祝部、三官 上坂庄大夫」とあり社人の三職と称し、「社人 二十二人 三職合テ ニ十五人」とあり、また、寺家については「真言宗東寺末 別当 金栄山織田寺 神前院 社僧 養 泰院」とあり、神宮寺の「金栄山織田寺 神前院」の他は「社僧 養泰院」しか存在せず、「延命院 当時断絶、右之外、以前は千手院・不動院」が存在したという。「神前院は護摩堂の勤のみにて神前 へは不出由。是上代朝廷より被置し神宮寺なるへし」ともあり、神宮寺の「神前院」のみ、中世の 「真禅院」以来、明治維新まで連綿として存続した。 表 山内秋郎家の中世文書(編年順) 年 月 日 1* 2* 3* 4* 5* 6* 7* 8* 9* 10* 11* 12* 13* 14* 15* 16* 17* 18* 19* 20* 21* 22* 23* 24* 25* 26* 27* 明徳4(1393)7. 明応6(1497)4.19 永正17(1520) 4.23 永正17 5. 享禄1(1528)11.16 天文17(1548) 2.30 天文17(1548) 11. 16 永禄1(1558)5.11 永禄1 5.11 年未詳 11.13 年未詳 8. 13 永禄3(1560)5.29 年未詳 年未詳 天正1(1573)8.28 年未詳 9. 4 天正4(1576)1.18 (天正4) 1. 18 (天正4) 1. 18 (天正4) 1. 18 (天正4) 1. 18 (天正6) 8. 21 天正6 9.5 (天正8) 10.9 (天正8年10月).5 天正8(1580)10.18 年未詳 10.22 文 書 名 信昌公カナ書置文残簡 大明神灯明料注文 右衛門・正円兵衛連署請文 広部将監田畠目録注文 織田寺俊宥等連署書違状 後奈良天皇宣旨 常楽坊宗白・玉蔵坊宗慶連署書状 玉蔵坊分内田地作職安堵状 織田寺坊中・社家連署状写 社家代大祝・養躰院連署状 小泉長治書状 山本庄久恒名段銭分納請文 国役諸役免除停止ニ付奉書 永代売渡織田庄本所方年貢等注文 明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益連署状写 織田寺社代実民等連署書状 織田寺社代恵伝書状案 織田寺社代恵伝書状案 織田寺社代恵伝書状案 織田寺社代恵伝書状案 織田寺社代恵伝書状案 佐久問盛政書状 柴田勝家黒印状 織田寺社代恵伝書状案 織田寺社代恵伝書状案 織田寺社代恵伝書状案 織田寺社代恵伝書状案 文書番号、県史等掲載 00036 00034 00035、『県史』24号、『郡誌』 00032 00016、『県史』25号、『郡誌』 00037 00017、『県史』33号、『郡誌』 00018 00024 00007 00002、『県史』45号、『郡誌』 00020、『県史』43号、『郡誌』 00011 00021 00003、『県史』65号、『郡誌』 00006、 『県史』143号、 『郡誌』 00025、『県史』83号、『郡誌』 00027、『県史』84号、『郡誌』 00027、『県史』85号、『郡誌』 00028、『県史』82号、『郡誌』 00028、『県史』81号、『郡誌』 00008、 『県史』106号、 『郡誌』 00022 00031、 『県史』115号、 『郡誌』 00030、 『県史』114号、 『郡誌』 00029、 『県史』116号、 『郡誌』 00026 注1 *は、新出資料である。 2 「県史等掲載」の『県史』は、 『福井県史』資料編5中・近世三(1985年) 、 『郡誌』は『福井県丹生郡誌』収載分を示す。 5桁のコードは、山内秋郎家文書(資料群番号X0142)の文書番号である。 117 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 右 此 目 録 之 上 ニ 書 永 正 拾 七 年 五 月 □ 申 候 田 今 田 之 分 、 於 以 後 孝 景 様 之 御 判 形 之 由 広 被 守部 及 徳将 聞 ︵監 召 花 候 押 ︶ 者 可 被 召 者 也 、 仍 如 件 、 以 上 弐 ケ 所 宗 平 畠 共 ニ 末 宗 名 之 内 新 四 郎 有 坪 境 書 ハ 売 券 之 面 在 之 窪 ノ 兵 衛 ・ 末 宗 ノ お 徳 沽 却 小 卅 歩 重 清 名 之 内 有 坪 境 壱 段 奥 久 名 之 内 有 坪 堺 在 之 三 崎 之 問 ノ 衛 門 沽 却 面 ニ 在 之 同 郎 岡 ノ 兵 衛 太 郎 沽 却 半 相 之 事 田 有 坪 堺 書 ハ 売 券 之 面 在 之 い つ ミ ノ 兵 衛 次 郎 古 却 半 行 現 名 之 内 ・ 宗 貞 名 之 内 有 坪 境 書 ハ 売 券 面 在 之 加 谷 掌 一 同 子 ノ 衛 門 沽 却 半 壱 壱 段 所 印当 有 堅房 坪 名共 ハ 内 之 定 内 免 新 四 ハ 売 券 面 在 之 三 崎 正 円 兵 衛 ・ 川 上 新 左 衛 門 古 却 在 之 山 中 ノ 道 覚 兵 衛 沽 却 壱 大 四 段 ケ 井畠 所 料中 屋 山 有田 名 敷 畠 有 坪 坪よ 共 名 堺 ハり ニ 書 す立 有 ハ け 坪 売 ノ 境 券谷 書 ニ 弐 在 ハ 通 之 之 面 ニ 在 之 笠 □覚 山 原 兵円 中 ・ 源 衛 ・田 ノ 衛 次中 道 門 郎与 正 ・ 四次 兵 田 郎郎 衛 中 六・ 宇 四 人 ノ野 郎 賀・ 兵 判正 衛 ニ源 元 沽 て兵 ノ 却 沽衛 四 却 郎 次 郎 古 却 118 (8) 壱 段 半 公 事 免 有 坪 河 原 田 宇 野 隼 人 沽 却 弐 大 段 檜 徳 物 長 田︵ 名 □江 之 末カ 内 ︶ 弐 有 石 坪 公 境 方 書 へ ハ 参 売 御 券 散 ノ 田 面 在 之 末 朝 宗 日 ノ 納 助 道 三 孫 郎 太 ・ 郎 窪 沽 ノ 却 後 家 沽 却 参 大 壱 壱 段 四 段 段 ケ 半 半 国 所 山 五 年 □ 壱 ケ 名 □ ケ 所 之 所 山 兼 共 内 正 友 ニ 有 本 名券 宗 国 坪名 兼 之之之 境 内内面 延 弘国 書 年 ニ 名名 之名 ハ 光 在 之 内之 □ 名 之 内 券内 券 之有 面坪 之 ニ 面 在 ニ 之 在 之 樫 □ 石 衛赤 津 ミ 田 門井 ノ 嶋 九 次谷 田 ノ 郎 郎左 中 良 左 沽衛 左 源 衛 却門 衛 坊 門 ・ 沽 同 門 却 兵 ・ 衛 祝 太 六 尊 郎 郎 屋 ・ 次 方 道 郎 ノ 永 ・ 清 兵 道 次 衛 願 郎 掃 沽 部 却 沽 却 ︵ 前 欠 ︶ 四 広 部 将 監 田 畠 目 録 注 文 山内秋郎家の新出中世文書 聞 下 斎 御 宿 所 跡 書 候 、 天恐 十正 々 月八 十 八 日 織 田 寺 社 恵代 伝 捨 被 仰 付 候 参 百 間 ニ 候 者 由 可 承 畏 仰 者 存 候 、 候 、 三 、 驚 百 今 入 枚 度 存 程 之 候 ハ 雪 、 涯 ニ 御 分 取 神 取 よ 領 よ せ 分 せ 可 百 可 申 姓 申 候 等 候 段 少 、 難 分 委 調 之 細 候 儀 使 、 候 者 雖 条 可 然 、 被 天 有 申 気 御 入 能 用 候 て ハ 坂 之 雪 消 候 従 越 知 山 板 申 付 候 江 処 被 、 仰 御 渡 祝 候 着 様 子 ハ 参 御 百 礼 枚 本 と 望 御 之 座 至 候 候 、 、 今 仍 度 菅 之 九 御 右 折 殿 帋 □ ニ □ ハ □ 之 事 、 先 日 楽 定 坊 ﹁︵ 跡端 書裏 書 ﹂︶ 二 六 織 田 寺 社 代 恵 伝 書 状 案 申 御 一 行 之 而 旨 為 御 御 神 拝 領 見 分 御 御 一 免 行 除 令 候 持 而 参 候 、 以 上 存 候 、 重 人 々 御 中 五 日 織 田 寺 社 恵代 伝 申 之 趣 ニ 候 之 条 、 急 度 被 仰 遣 存 候 、 □ □ 山 口 文 右 衛 門 尉 聞 下 斎 御 宿 所 ﹁︵ 態 天端 令 正裏 啓 八書 ︶ 達 十 候 月 、 五 日 仍 板 従 公 越 事 知 之 山 儀 付 板 候 持 て 之 聞 夫諸 下 之役 へ 折 事御 免帋 、除 ノ 而 先之 跡 又 日旨 書 可 以御 ﹂ 被 寺朱 仰 官印 ・ 付 申同 之 入勝 由 候家 候 処様 而 ニ御 者 、 重一 行 同 上 而之 心 使 之筋 可 衆 夫目 昨 晩 門 前 へ 被 打 入 候 、 色 々 御 理 雖 申 候 、 彼 上 使 衆 へ 直 札 於 到 来 十 月 廿 二 日 織 田 寺 社 代 役 之 段 ハ 被 成 御 用 捨 之 旨 御 返 事 ニ 候 、 然 可 為 御 平 愈 候 様 可 抽 誠 精 懇 祈 候 、 恐 々 謹 言 ﹁︵ 御 跡端 所 書裏 労 書 ︶ 之 天 正 由 承 八 十 候 二 間 月 、 廿 於 二 御 神 聞 下 前 へ 致大 折 衆般 帋 跡 僧若 経 各 書 致 之 ﹂ 御 祈転 読 、 御 巻 数 令 進 入 候 、 早 速 119 (7) 二 五 織 田 寺 社 代 恵 伝 書 状 案 二 七 織 田 寺 社 代 恵 伝 書 状 案 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 自 然 於 他 納 織 田 寺 福 泉 者 坊 可 持 為 分 曲 田 事 畠 候 居 、 屋 為 敷 其 等 如 地 此 子 候 銭 、 年 謹 貢 言 米 之 事 、 行 光 坊 領 之 内 候 之 条 、 板 奉 行 衆 旨 御 旅 宿 所 出 度 表 祝 儀 計 候 、 猶 寺 官 可 被 申 入 候 、 印 へ 相 可 延 持 十 申 之 月 候 与 由 九 、 存 、 日 非 候 当 如 、 月 在 菅 五 候 九 日 、 へ ニ 猶 之 預 自 板 御 是 之 折 織 重 儀 紙 田 而 も 候 寺 可 近 間 社 申 日 人 恵代 入 取 夫 伝 候 ニ 被 、 可 遣 恐 遣 申 々 候 候 、 、 此 定 程 而 天 其 気 方 荒 へ 候 も に 案 付 内 菅 屋 九 右 衛 門 尉 殿 渡 申 板 之 内 京 間 廿 間 之 分 、 聞 下 斎 恐 ︵ □木 惶 □下 謹 □助 正 言 □左 月 □衛 十 □門 八 殿︶ 日 旨 御 宿 所 織 田 寺 社 恵代 伝 二 二 佐 久 間 盛 政 書 状 ︵ 折 紙 カ ︶ 而 越 知 山 天 正 八 可 有 御 座 新 春 可 之 然 御 之 慶 様 万 御 々 申 歳 望 、 入 不 存 可 候 有 、 休 随 期 而 候 雖 、 憚 仍 敷 至 上 極 様 候 年 、 頭 青 之 銅︵ 御 □百 礼 □疋 申 令︶ 上 進 候 入 、 候 二 、 位 目 法 江 ﹁︵ 天端 正裏 書 八︶ 十 月 九 日 越 知 山 板 奉 行 衆 へ 遣 申 候 折 帋 跡 書 也 ﹂ 二 一 織 田 寺 社 代 恵 伝 書 状 案 二 四 織 田 寺 社 代 恵 伝 書 状 案 羽 柴 筑 前 守 殿 人 々 御 中 コ レ ハ 状 ナ リ 正 月 十 八 日 織 田 寺 社 恵代 伝 恐 惶 謹 言 遂 織 田 算 大 天用 給明 九正 急 六 人神 領月 々 名 主 百 姓 中 江 御 借 候 由 候 て 北 庄 120 (6) 御 巻 数 牛 玉 当 春 之 御 吉 并 慶 青 千 銅 喜 百 万 疋 悦 令 、 進 猶 上 以 候 不 、 可 目 出 有 度 休 表 期 祝 候 儀 、 計 仍 候 於 、 神 尚 前 寺 勤 官 御 可 祈 被 申 修 上 正 候 会 、 、 大 明 神 領 内 五 可 寺 日 究 社 済 分 、 、 猶 年 於 々 如 令 在 無 者 沙 可 汰 加 由 成 太 敗 曲 者 事 也 候 、 、 仍 為 ︵︵ 柴如 催 黒田 印勝 件 促 、 中 ︶家 ︶ 間 弐 人 差 越 之 条 、 二 三 柴 田 勝 家 黒 印 状 ︵ 折 紙 ︶ 二 〇 織 田 寺 社 代 恵 伝 書 状 案 。 欠 損 部 分 ノ 傍 注 ハ ﹃ 福 井 県 丹 生 郡 誌 ﹄ ニ ヨ ル 。 其 外 作 人 中 佐 々 孫 十 郎 殿 旨 御 宿 所 正 月 十 八 日 織 田 寺 恵 伝 八 月 廿 一 日 平 宮 等 内 小 五ノ な 郎 わ 左 て 衛 左 門 衛 所 門 太 郎 盛 所 政 ︵ 花 押 ︶ 恐 々 謹 言 、 佐 玄 山内秋郎家の新出中世文書 ︵ □新 陽︶ 之 御 御 状 吉 天 兆 正 千 四 秋 子丙 万 年 歳 不 可 有 際 限 候 、 仍 於 神 前︵ □御 □祈 桂 田 次 太 夫 殿 一 七 織 田 寺 社 代 恵 伝 書 状 案 田 口 源 左 衛 門 尉 殿 ︶ 宗 雄 九 月 四 日 長 祐 ︵ 花 押 ︶ ︵ 花 押 ︶ 修 正 会 御 巻 数 牛 玉 候 条 、 彼 材 木 押 置 申 候 、 彼 者 被 寄 召 厳 寺 社重 実 被 民 仰 ︵ 付 花 候 押 ︶ 態 令 啓 達 候 、 仍 大 明 神 内 林 材 木 、 昨 日 上 野 村 大 工 者 ノ 忝 与 可 次 存 郎 候 と 、 申 恐 者 惶 盗 謹 取 言 申 、 下 候 、 可 為 御 神 忠 候 、 已 上 、 尚 々 申 上 候 、 年 来 山 を あ ら し 申 候 処 此 度 見 相 申 候 、 御 分 別 を 以 被 仰 付 候 一 六 織 田 寺 社 代 実 民 等 連 署 書 状 寺 家 中 滝 川 左 近 羽 柴 藤 吉 郎 一 益 秀 吉 光 秀 玄 以 法 印 人 々 御 中 書 ニ ハ 越 前 国 □仁 位︶ 法 印 正 人 月 々 十 御 八 中 日 如 此 調 文 章 ニ 候 、 天仍 正状 八元 如 月 件 廿 、 八 日 明︵ 知智 十︶ 兵 衛 尉 而 可 被 ︵ 前 改 大 年 般︵ 之 将 □若 御 亦 □経 慶 御 □百 万 捧 □巻 々 物 令︶ 歳 百 執 、 疋 行 不︵ 慥 □可 届 、 □有 申 則 □休 候 御 期︶ 、 巻 候 尚 数 、 期 令 仍 貴 進 旧 面 入 冬 之 候 御 時 、 祈 候 、 尚 以 之 以 可 儀 上 抽 被 、 誠 仰 精 候 之 之 懇 間 祈 、 候 於 神 、 一 九 織 田 寺 社 代 恵 伝 書 状 案 。 欠 損 部 分 ノ 傍 注 ハ ﹃ 福 井 県 丹 生 郡 誌 ﹄ ニ ヨ ル 。 佐 々 内 蔵 助 殿 旨 人 々 御 中 正 月 十 八 日 前 田 又 左 衛 門 尉 殿 旨 人 々 御 中 不 破 河 正 内 月 守 十 殿 八 旨 日 人 々 御 中 府 中 三 人 織 衆 田 へ 寺 社 恵代 伝 正 月 十 八 日 青 年 銅 頭 参 之 一 拾 御 八 疋 嘉 令 兆 織 進 千 田 上 喜 寺 候 万 社 、︵ 悦 代 □目 不 恵 □出 可 伝 □度 有 ︵ 書 □表 □ 尽 状 □祝 □ 期 案 □儀 □ 候 □計 □ 、 □候 □ 仍 猶、 ︶ □於 寺 □神 官 □前 可 □御 被 □祈 申 □ 入 御︶ 候 巻 、 数 恐 牛 惶 玉 并 121 (5) 。 欠 損 部 分 ノ 傍 注 ハ ﹃ 福 井 県 丹 生 郡 誌 ﹄ ニ ヨ ル 。 正 月 十 八 日 之 文 章 も 如 此 候 、 宛 所 ハ 而 色 々 た て 文 に て う わ つ ゝ ミ 候 、 裏 惶 謹 言 、 并 御 供 致 運 上 候 、 弥 々 可︵ □抽 □誠 精︶ 之 懇 祈 之 旨 、 此 等 之 趣 御 披 露 所 仰 候 、 恐 福井県文書館研究紀要3 2006. 3 ︵ 後 欠 ︶ 織 田 大 明 神 領 之 事 同 前 候 、 任 当 知 行 之 旨 不 可 有 相 違 之 由 候 、 全 領 知 簡 要 向 後 不 可 致 承 引 由 被 仰 出 候 、 此 旨 府 中 両 人 処 、 最 前 任 奉 書 之 旨 舟 役 今 度 御 兵 粮 米 人 夫 儀 苻 中 并 両 国 人 役 被 諸 申 役 懸 以 旨 下 、 国 当 江 中 庄 遣 雖 百 奉 並 姓 書 、 等 候 既 申 者 自 趣 也 余 高 、 相 橋 恐 替 新 々 高 介 謹 除 披 言 之 露 、 条 候 、 去 七 月 三 日 被 遣 奉 書 、 向 後 舟 役 子 細 有 之 付 当 庄 江 近 年 而 舟 自 役 余 諸 ニ 役 為 浦 相 里 替 共 高 ニ 除 依 并 筋 申 諸 目 懸 役 、︵ 、 従 已 英朝 倉 下 林孝 先 規 如 様景 ︶ 先 御 規 一 大 堅 行 明 被 懸 神 成 御 常 御 目 楽 停 、 会 止 百 相 旨 姓 勤 候 等 、 処 申 重 々 、 通 ﹁︵ 織異 田筆 ︶ 坊 一 領 五 并 山 林 由 、 以 写 可 為 同 前 候 、 以 上 ﹂ 明 智 光 秀 ・ 羽 柴 秀 吉 ・ 滝 川 一 益 連 署 状 写 一 三 国 役 諸 役 免 除 停 止 ニ 付 奉 書 并 代 方 者 依 在 ︵ 後 欠 ︶ ︵︵ 花裏 花 押押 ︶︶ 永 禄 参 年 五 月 ﹁︵ 廿 此異 九 壱筆 日 通︶ ハ 延 命 織 院 田 盗 寺 賊 社 代 分 ア 延 ラ 命 ワ 真院 レ 祐 テ ﹂ 右 件 之 年 貢 米 ﹁︵ 朝異 倉筆 ︶ 兵 庫 助 殿 之 御 判 ﹂ 青 木 隼 人 佐 殿 以 上 文 者 近 藤 民 部 丞 方 ヨ リ 相 立 呉 服 銭 ︵ 花 押 ︶ 仍 如 件 、 而 貫 七 百 弐 拾 文 ニ 被 為 相 定 候 、 此 内 拾 参 貫 弐 百 弐 拾 文 者 両 堅 度 可 ニ 有 沙 御 汰 催 申 促 候 候 、 残 、 七 貫 五 百 文 ハ 来 年 六 月 中 ニ 進 納 可 申 候 、 若 於 如 在 四 但 有 方 四 合坪 搦 杉 弐四 者 西 杉 西南 道 段村 ハハ 分 開海 之 分 お道 内 米 とヲ 壱 い堺 此 石 ノ・ 外 田東 壱 五 ヲハ 石 斗 堺杉 弐 七 ・之 斗 升 北木 五 者 大江 升 柿ヲ 四 立 之堺 杉 下 之木 岸 林定 ヲ 之 堺 宮 也 へ 、 相 立 、 122 (4) 山 本 庄 之 内 久 恒 名 御 段 銭 、 天 文 元 年 ヨ リ 永 禄 弐 年 迄 御 算 用 申 、 未 進 弐 拾 大 堺同 一 ﹁︵ 二 御異 公筆 ︶山 儀 之 本 御 庄 判 久 也 恒 ﹂ 名 ︵ 宛 名 欠 ︶ 段 銭 分 納 請 文 八 月 十 三 日 長 治 小 泉 藤 左 衛 門 尉 ︵ 花 押 ︶ 筆 、 其 方 ニ 在 之 由 候 間 、 何 も 此 者 可 給 候 、 自 然 本 文 無 之 候 者 、 写 成 共 可 有 ヲ但 有 合明 ・扱 合坪 堺服 合坪 合 北新 壱高 、部 壱ミ 五 弐神 や ヨ ハ出 橋 民扱 石リ 大来 所鳥 部新 段内 升 壱相 門分 分居 方出 馬 者 斗立 之内 米之 田来 分場 八本 江四 五南 在内 米道 立 升米 ヲ方 斗尻 之四 壱ヨ 木 堺搦 者石 、方 石リ 定 壱内 也 也者 子 搦 者東 合、 、 者 養 之 立 弐 躰本 南 重 夕 ハ 木次 南 立院 米 大 定郎 ハ 木作 内 明 作 江 定分 也 立 神 同分 ヲ 木 堺 修代 定 ・ 同 同 理百 東 代 前 田 寺大 弐 ヨ 文 ヲ 門兵 百 リ 堺在 ヲ衛 文 相 ・之 堺門 東 ・同 在 立 ハ 西在 之 同 大 明 神 田 ヲ 堺 ・ 西 ハ 道 ヲ 給 候 、 恐 々 謹 言 、 ハ之 道 ヲ 堺 ・ 北 ハ は り の 木 江 永 合 代 壱 売 石 渡 者 八 織 斗 田 雑 四 本 帳 升 庄 米 者 本 経 所 所 行 方 定 光 本 坊 役 相同 ヨ 米 立前 リ 并 ヨ 相 田 リ 立 地 本立 年 米木 貢 定 米 同 代 方 等 之 事 合 壱 斗 一 四 永 代 売 渡 織 田 庄 本 所 方 年 貢 等 注 文 山内秋郎家の新出中世文書 如 件 永、 玉 蔵 坊 以 一 筆 禅 佐 ニ 被 為 預 置 候 、 就 其 子 細 在 之 儀 候 条 、 彼 御 押 奉 書 写 月 十 一 日 常 楽 坊 馬 場 祝 新 四 郎 祝 奥 之 祢 宜 木 戸 政 所 千 手 院 養 躰 院 行 光 坊 延 命 院 福 寿 坊 舜 陽 坊 同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 年 以 御 意 、 彼 論 所 地 被 押 置 候 処 、 其 以 後 禅 佐 以 御 理 、 寺 社 態 以 折 紙 令 申 候 、 仍 山 本 庄 久 恒 名 之 内 禅 佐 買 得 分 之 儀 付 与 年 々 及 申 、 先 申 一 并 禅 途 佐 候 間 一 、 江 禄 五元 而 ︵ 一 一 小 泉 長 治 書 状 栂 越朝 野︵ 中 倉 三吉 守 景 連 郎仍 殿︶ ︶ 右 衛 門 尉 殿 人 々 御 中 御 糾 明 候 半 ニ 、 十 延 一 者 命 月 其 院 十 御 如 三 心 此 日 得 何 所 も 仰 仕 候 度 、 キ 為 儘 其 之 注 儀 養 社 進 共 躰 家 令 言 院 代 尊 大 申 語 永 祝 候 道 ︵ ︵ 、 断 花 花 恐 之 押 押 惶 ︶ ︶ 謹 次 第 言 ニ 、 御 座 候 、 被 成 者 新 御 寄 進 員 数 、 寺 家 123 (3) 一 常 厳 坊 之 戸 障 子 延 命 院 悉 馳 取 、 辻 堂 之 様 ニ 仕 被 置 候 儀 、 是 亦 不 相 届 之 ︵ 前 欠 ︶ 江 上 表 之 外 候 之 条 、 其 方 永 代 可 有 寺 務 之 状 書 判 旨 申 上 候 処 ニ 、 今 月 五 日 ニ 彼 戸 障 子 を 持 返 如 前 々 被 立 置 候 、 寺 社 申 候 右 此 分 一 智 法 院 之 持 而 仏 、 堂 当 木 月 蔵 九 之 日 様 ニ ニ 本 仕 尊 、 智 本 法 尊 院 を へ ハ 遷 延 被 命 申 院 候 ニ 、 置 被 申 候 、 諸 事 訴 訟 申 上 候 ニ 付 ふ れ 申 候 、 九 織 田 寺 坊 中 ・ 社 家 連 署 状 写 四 方 之 垣 其 外 さ く □ 以 下 悉 被 破 取 、 屋 迄 計 ニ 仕 被 置 候 間 、 彼 坊 軈 玉 蔵 坊 参 ニ 被 仕 候 段 、 不 相 届 之 旨 訴 訟 申 候 処 、 去 月 十 四 日 彼 下 人 坊 内 を 被 而 出 つ 、 ﹁︵ 御異 祈筆 ︶ 願 所 也 ﹂ ﹁︵ 後異 ハ筆 ︶ 千 手 院 ﹂ 一 最 前 乍 之 恐 一 以 書 一 ニ 書 相 注 載 進 如 令 令 申 申 候 候 、 ︵ 、 ︵ 円知 異 鏡法 筆 坊院 ︶ 立也 置 申 坊 ニ 延 命 院 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殊 彼 名 沽 却 散 在 之 地 算 合 之 儀 被 仁 仰 付 出 而 候 者 条 不 、 ﹁︵ 天異 之 由 文筆 ︶ 十 承 七 候 年 、 ﹂ 尤 十 以 一 目 月 出 十 存 六 候 日 、 各 不 可 有 玉 常 如 蔵 楽 在 坊 坊 候 宗 宗 、 慶 白 此 ︵ ︵ 由 花 花 押 押 可 ︶ ︶ 得 御 意 候 、 恐 惶 謹 言 、 御 札 令 拝 見 候 、 仍 千 手 院 後 住 之 事 、 富 田 式 部 入 道 方 息 亀 松 殿 江 被 仰 談 候 等 厳 重 被 致 其 沙 汰 、 内 徳 分 定 弐 拾 石 地 子 銭 伍 百 文 、 毎 年 無 懈 怠 御 寺 納 候 七 常 楽 坊 宗 白 ・ 玉 蔵 坊 宗 慶 連 署 書 状 大 明 神 御 神 領 之 内 山 本 庄 久 恒 壱 名 之 事 、 殿 様 五 織 田 寺 俊 宥 等 連 署 書 違 状 四 ︵ 翻 刻 文 末 参 照 ︶ 江 参 候 御 本 米 諸 納 所 夫 役 蔵 人 頭 右 近 衛 権 中 将 源 重 保 奉 従 四 位 上 忌 部 親 行 朝 臣 宜 任 権 少 輔 宣 旨 山内秋郎家の新出中世文書 一 経 所 ノ 不 動 灯 明 料 之 事 一 気 比 之 灯 明 料 田 畠 之 事 天 文 四 年 八 月 十 四 日 景 良 ︵ 花 押 ︶ ﹂ 二 当 社 灯 明 料 事 天 澤 様 之 御 裏 判 有 之 ﹁︵ 右裏 書 任︶ 此 証 文 之 旨 当 知 行 之 上 重 置 文 御 判 一 通 大 明 神 灯 ︵ 異明 筆料 ︶ 注 文 千 手 院 旨 者 、 不 可 有 相 違 之 状 如 件 、 正 円 兵 衛 ︵ 花 押 ︶ 右 為 末 代 置 文 状 如 件 し て 永 盗 正 賊 拾 之 七 御 年 罪 四 科 月 ニ 廿 被 三 行 日 可 申 大 候 王 丸 、 ノ 仍 右正 為 衛善 後 門之 日 子 証 ︵ 文 花 之 押 状 ︶ 如 件 、 又 添 記 一 通 申 候 、 於 以 後 我 々 子 々 孫 々 と し て と か く の 儀 申 者 出 来 候 一 一 御 修 管 理 領︵ 造 左斯 営 御 衛波 義 門将 感 守︶ 令 殿 旨 御 一 感 通 御預 所 書 状常 一陸 通法 橋 一 通 け 候 之 条 、 於 末 代 違 乱 煩 申 間 敷 候 、 為 其 三 崎 ノ 正 円 兵 衛 者 殿 、 支 公 証 方 人 地 に 下 立 と 被 一 日 御 供 此 箱 同 内 年 并 入 癸 修 状 酉 理 数 七 月 御 下 日 文 一 通 信 昌 七 十 八 田︵ 西 □を 山 仕︶ 宗 候 信 て 名 饗 之 之 内 事 壱 神 所 田 、 ニ 従 仕 本 付 千 候 手 、 院 此 御 田 買 ハ 得 千 候 手 之 院 内 御 を 買 、 得 院 之 中 山 西 之 之 中 地 を 下 ほ 衆 り ほ あ り 三 右 衛 門 ・ 正 円 兵 衛 連 署 請 文 125 (1) 孝 行 云 哉 、 敬 順 以 背 逆 将 広 加 判 無 隙 之 間 者 為 在 信 所 昌 有 奉 何 行 処 、 者 哉 云 孝 、 為 行 如 自 云 教 筆 哉 経 云 、 文 日 不 者 下 随 、 判 仰 不 形 者 背 孝 仁 非 無 行 義 其 云 哉 ・ 謂 、 礼 歟 智 、 ・ 為 信 末 法 代 以 於 親 令 織 田 庄 寺 社 中 ﹂ 明 応 六 年 十 二 月 九 日 貞 景 ︵ 花 押 ︶ ﹁︵ 此裏 書 分︶ 可 有 寺 務 之 状 如 件 就 将 広 加 判 為 次 第 逆 之 由 申 之 、 非 無 其 謂 歟 、 雖 然 如 置 文 之 言 ﹁︵ 信明付 昌徳箋 ︶ 公四 カ年 ナ癸 書酉 置七 文月 残 簡 ﹂ 新 出 中 世 文 書 翻 刻 一 信 昌 公 カ ナ 書 置 文 残 簡 者 将 広 進 上 真 禅 院 法 明 肝 応 要 六 候 年 、 巳丁 次 卯 ニ 月 頓 十 写 九 之 日 事 毎 年 取 沙 養 汰 躰 可 院 仕 隆 候 尊 、 ︵ 花 押 ︶ 右 此 条 々 御 口 入 付 候 て 去 年 分 よ り 渡 申 候 、 跡 々 算 用 之 事 寺 家 中 へ 御 調 一 講 堂 灯 明 料 坊 地 之 事 福井県文書館研究紀要 第3号 平成18年3月31日 発行 編集発行 福 井 県 文 書 館 〒918−8113 福井県福井市下馬町51−11 Tel.0776 (33)8890 印 刷 株式会社エクシート 〒919−0482 福井県坂井市春江町中庄61−32 Tel.0776 (51)5678