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第57巻-4を掲載しました
アジア政経学会 Asian Studies 第 57 巻 第 4 号 2011 年 10 月 目 次 · 特集:新興大国・中国とインドの経済発展 · 新興大国・中国とインドの経済発展 : 政府・市場・企業 厳 善平 1 中国における私営企業の発展とその制約要因 呉 柏鈞 3 Aradhna Aggarwal 13 宮島良明 30 河野 正 52 権 香淑著『移動する朝鮮族―エスニック・マイノリティの自己統治』 田嶋淳子 70 益尾知佐子著『中国政治外交の転換点 ―改革開放と「独立自主の対外政策」』 家永真幸 75 増原綾子著『スハルト体制のインドネシア ―個人支配の変容と一九九八年政変』 小黒啓一 79 谷川真一著『中国文化大革命のダイナミクス』 三宅康之 82 Strategising of SEZs: China vis-à-vis India 中国とインドの台頭を比較する ―東アジアとの経済的な関係をよりどころに · 論 説 · 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 · 書 評 · 英文要旨 87 【アジア政経学会 2011 年度全国大会・国際シンポジウム】 新興大国・中国とインドの経済発展 政府・市場・企業 厳 善平 日欧米の経済回復が遅れる中、中国とインドの高度成長は一層際立って見える。世界一 位と二位の人口大国、共に BRICS の構成メンバーである両大国だが、間には大きな相違 点もある。1 人あたり GDP では、中国は 4382 米ドル、インドは 1265 米ドルと 3 倍以上の 開きがあり、対内投資額や貿易総額にいたっては、さらに大きな落差がある(2010 年)。国 民の平均教育水準は中国がはるかに高く、人口の年齢構成はインドが随分若い(20 歳未満 人口割合は中国 27.7%、インド 40.8%、2010 年) 。政治体制をみると、中国は共産党による独裁 国家であるのに対して、インドは半世紀も議会民主主義体制を実施している。2 つの新興 大国は多くの点で対照的な存在ではあるが、両方ともいま、世界経済を牽引する存在とし てそのプレゼンスを高めつつあることも確かである。 インドは 1970 年代まで年平均 3.5% のヒンドゥー成長率に甘んじていたが、80 年代以降、 経済自由化を進め、市場競争で効率を高めるように方向転換し、さらに 90 年代以降、公 共部門の独占体制を弱め、民間企業の成長を促進するような自由化改革、そして、外資利 用と貿易拡大を中核とする対外開放あるいは国際化を推し進めた。その結果、インドの経 済は高い成長率を見せ、しかも安定的に推移している。 他方の中国は 1978 年に改革開放政策を打ち出し、公有制から私有制を含む多元的な所 有形態下の市場化改革を断行すると同時に、比較優位に立脚した「両頭在外、大進大出」 という沿海開放戦略を採った。以来の 30 余年間にわたって、年平均 10% 近くの高度成長 が遂げられ、国内総生産は 16 倍以上拡大し世界第二位に躍り出た。輸出入総額、対内投 資総額、外貨準備残高などのいずれも世界の首位となっている。 中国もインドも閉鎖から開放への転換を果たしてこそ、高度成長を実現したのだから、 それぞれの成長ストリーは国際経済、なかでも、近くのアジア各国との関係を抜きにして は語れない。中国もインドも日本をはじめ、アジアニーズ、アセアン諸国とのモノ・カネ・ ヒトの相互依存関係を強化しながら、経済発展のチャンスを確かなものにしたのである。 以上のような問題意識を踏まえて、今回のシンポジウムでは、まず、インド、中国から の専門家に、自国の経済発展のダイナミズムを語って頂きたい。具体的には、①過去 2、30 年間の高度成長の概観、②経済成長過程における政府・市場・企業の役割、③経済 発展過程にみられる特徴や問題について、それぞれの立場から報告する。 インド、中国の外にある日本から、両国経済の発展過程を眺めるとどのような姿が浮か ????? 1 び上がるのか。これについては主として、インド、中国のアジア各国との貿易関係、およ び各国間における貿易関係の変化を検証し、相互依存関係が強まりつつある実態を明らか にする。 インドと中国から招聘した専門家および学会員に、インドと中国の経済発展、東アジア 経済における両国の相互関係について研究報告して頂き、また、討論者によるコメント、 会場との質疑応答もセッティングした。以下はその概要である(『ニューズレター』No.37 号 の担当箇所を加筆した) 。 インド・デリー大学のアガルワル氏は「インドの経済特区と経済発展」というタイトル で講演した。アガルワル氏は、まず経済特区と工業化・経済発展の関係に関する一般的理 解を示し、その上で、インドが進める経済特区建設の政策、実態と課題について分析し、 さらに、先行者である中国の経済特区と比較しながら、インドの経済特区の持つ特色や問 題点を明らかにした。他地域に対する経済特区の波及効果、あるいは、経済特区と工業 化・経済発展の相乗効果といったところでは、中国の経験はインドに多くの示唆を与える 一方、土地の所有制度で両国間に公有と私有の違いが存在し、それが経済特区の発展に一 定の影響を及ぼしている事実も無視できないと論じた。 中国・華東理工大学の呉柏鈞氏の「中国の民営企業と経済発展」では、まず中国におけ る民営企業の全体状況を概観しその主な特徴、問題点を明らかにした。その上で、事例研 究を通して民営企業の成長経路と成長モデルを考察し、民営企業の発展を制約する要因を 分析した。その結果、民間企業を主とする非国有経済の成長を国の基本戦略とすべきで、 そのために資本市場の自由化や政府の市場からの退出が欠かせない。また、民営企業は、 技術革新、経営管理体制の改善、吸収・合併による構造の高度化、国際市場とのリンケー ジの強化などを通じて、自らも進化し続ける必要があると力説した。 宮島良明氏(北海学園大学)は「中国とインドの台頭による東アジア経済へのインパクト」 というタイトルで日ごろの研究成果を発表した。宮島氏は膨大な貿易統計を駆使して、域 内貿易の拡大と貿易構造の変化を明らかにしている。中国の急速な工業化が東アジア「域 内」における経済的相互関係(分業体制)の深化のなかで達成されてきたのに対して、イ ンドの場合、現時点では中国のような外国企業による「生産拠点化」の動きは確認できず、 あくまで巨大なインド国内市場を前提とした企業(国家)間競争が中心となっている、と いう事実発見は興味深い。 3 報告が終わった後、中兼和津次東大名誉教授、絵所秀紀法政大教授、および中国・復 旦大学張楽天教授は、それぞれ政府、市場および企業の機能や 3 者間のあるべき関係をめ ぐって、3 報告者に対してコメントし、会場からも多くの質問があった。パネル討論では 3 報告者は多くの質問に丁寧に答えた。 (げん・ぜんへい 同志社大学大学院 E-mail: [email protected]) 2 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 中国における私営企業の発展とその制約要因 1) 呉 柏鈞 はじめに 中国の私営企業は 1979 年の経済改革以来、経済発展と体制移行に伴い著しく成長した。 伝統的な経済体制の外で経済成長を促すという中国経済の改革モデルが形成し、国有企 業、外資企業と私営企業を主体とする「三位一体」の国民経済体系が形作られた。憲法で も私営経済の機能が公有経済の「必要かつ有益な補充」から社会主義市場経済の「重要な 構成部分」に改正された。 ところが近年、私営企業の発展は制度、市場、技術などの面で制約を受け、成長ペース が落ちている。世界金融危機の影響もあって、多くの製造業企業は国際市場の需要減少と 国内市場の競争激化から大きな打撃を受けている。それに、人件費などの生産コストが上 昇し、一部の企業は操業短縮を余儀なくされている。利潤が低下し、経営赤字に陥った企 2) 業も少なくない 。中国の私営企業は長期的な発展に必要な基礎条件を持っておらず、短 期的な市場変動からも影響を受けやすいのである。 中国の私営企業に関する既存研究において、現地調査に基づく実証研究が少なく、事業 主の視角から制度、政策、市場環境などの外部要因が企業の発展に与える影響を捉えたも のも少ない。また、企業の製品、経営状況を観察することが困難であることから、特定の 制度と市場環境における経営投資戦略やビジネスモデルの選択行為を観察し、企業の成長 経路を分析するものも限られている。本稿は現地調査に基づいて主に私営企業の成長経 路、成長パターンおよび成長の制約要因を分析し、若干の政策提言を行うものである。 Ⅰ 調査企業の基本状況 1. 標本企業と調査地域 本研究の目的に則し、我々は浙江省、江蘇省および上海市で私営企業の経営者または オーナーを対象に訪問調査を行った(調査対象企業の選定に際して企業の設立時期や業種を問わ ない) 。具体的には、浙江省の寧波市に位置する余姚市と慈溪市、江蘇省の無錫市および南 通市に位置する通州区と如皋市、そして上海市である。企業の運営状況を観察するため、 調査は基本的に企業の中で行われた。 余姚市と慈溪市を選んだのは、両市とも先進的な県レベルの地方都市であり、ここ 30 ????? 3 年間にわたって急速な発展を遂げたためである。2011 年に、慈溪市と余姚市はそれぞれ全 国経済力トップ百県の第 7 位、第 11 位であった。両市では公有経済が発達せず、私営企 業が経済成長の牽引役を担っている。通州区と如皋市を選んだのは、南通市は伝統的な繊 維産業の発達した地域として知られ、近年、服装、造船を主とする私営経済の成長が目立 つからである。改革開放以降、南通市の経済は蘇南地域に比べて遅れてはいたが、ここ 10 年間で先進地域への追い上げが速まった。2011 年通州区は全国経済力トップ百県の第 39 位に上り詰めた。また、後発組の南通市と先進地域の上海市、無錫市と比較することによ り、私営企業の置かれる全体状況を見ることができる。 2. 調査企業の基本状況 本項では、対象企業 17 社の聞き取り調査記録および企業が回答したアンケートの集計 3) 結果に基づいて、私営企業、事業主の基本状況およびその特徴を概説する 。 (1)事業主の基本状況 事業主の年齢、企業の創業時期と職業などについて、以下のような調査結果が得られた。 事業主の平均年齢は 48.3 歳であり、そのほとんどが 36∼60 歳に分布する(94.4%)。46∼55 歳の事業主は 50% を占める。会社を起した時の年齢は、33∼36 歳が最も多く 38.9% を占め るが、29∼32 歳、37∼40 歳に分布する人も比較的多い。29∼40 歳の事業主はだいたい 3∼5 年の実務経験を持っている。 また、企業の設立時期は 1995∼2000 年に最も多く集中し、次に多いのが 2001∼2005 年 である。開業直前の事業主の職業は、集団所有企業の従業員が最も多く約 5 割を占める。 (2)業種および製品 調査企業の業種は分散しており、扱っている製品も幅広い。全体的に、機械加工、繊維 服装、家電など 11 業種に及ぶが、機械加工と繊維服装が比較的多く、全体の 36.8% を占 める。 多くの企業は複数の業種にまたがっている。2 つ以上の業種に関わる企業は 7 社あり、 全体の 41.2% を占める。企業の従事する業種の平均数は 2.3、中には 5 つの業種に関わっ ている企業もある。事業主がこれまで従事した業種のうち、最も多かったのは機械加工で あり、それに次ぐのは繊維服装業、商業(卸売り、小売り、代理販売)である。 (3)資産総額と生産高 調査対象企業の資産規模は比較的小さい。総資産は 1000∼5000 万元に集中し、1 億元以 上を超えるものは 2 社だけである。企業の売上高は 1000 万元∼1 億元、純資産の収益率は 5∼30% である。 (4)企業の経営方式 調査企業の中には、生産から販売までを一貫して行うものが多く、全体の 57.9% を占め る。国内企業の業務代行、または外資系企業の委託加工という経営方式をとる企業も 15.8% と高い割合を占めている。 4 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 Ⅱ 私営企業の成長経路 中国の私営企業は資金不足の下で急成長を実現した。その成長プロセスを振り返ってみ れば、2 つの成長パターンを見出すことができる。1 つはほとんど何もない状態から起業 し、小さな商売や加工場から事業を始め少しずつ蓄積し発展したもの、もう 1 つは社会的 ネットワークや市場での影響力を利用し独占的な資源を獲得して得た暴利を様々な分野に 投資し規模拡大を果たしたもの、である。ほかに、密輸、営業許可書の売買など違法的な 手段で資金を集め、製造業、サービス産業に投資し成長したものもあるが、本稿では主に 前の 2 つについて分析する。 中国の私営企業のほとんどは中小企業である。私営中小企業の進化過程、成長のペース および特徴を明らかにするため、調査対象企業の沿革についても調べた。 1. 零細企業からの成長パターン 中国の中小私営企業の多くは、成熟した市場経済国家の企業と異なる独特な成長経路を 歩んできた。一部の企業は、発展の初期段階で 1 つの製品または業務を選択し専業化的な 経営を行うことをせず、常に市場の需求変化に応じて製品および業務を変更したり、投資 の対象産業を調整する。我々はこのような成長パターンを「小さな商売を 1 つずつこなす、 ハイブリッド型の成長パターン」と呼ぶ。 調査対象企業 17 社のうち、設立してから基本的に同じ業種に特化し、業務内容もほと んど変わっていないものはわずか 5 社しかない。一方、6 割の企業は、資本の蓄積ととも に新たな事業を開拓し、市場と投資機会の変化に応じて複数の業務に従事し、または業務 内容を臨機応変に変える経営戦略を採った。これら企業の投資、事業内容をみると、新規 事業は従来の経営業務との技術的関連性や市場関連性が低く、関連性の高い業務にまたが る多様化経営が稀であることがわかる。ある事業に投資しては、その原資を速やかに回収 しようとし、市場競争が激化すれば、生産停止や経営規模の縮小をし、新たな事業を探し て投資するのである。 同じような情況は、全国各地でも見られる。温州市政府金融事務室が 2010 年に 324 社 を対象に行った調査によると、本業以外の事業に投資した企業は、2008 年時点で 119 社で 4) あったが、2009 年には 138 社、2010 年第 1 四半期には 163 社に増加したという 。 2. 資源の利用を通じた成長パターン 企業は合法的または非合法的なルートを通じて、政府の関係部門から土地使用権、鉱物 採掘権、特殊商品やサービスの貿易経営権、特別許可が必要な事業投資権、または独占的 な資源を獲得し、企業経営の資産に転化する。一部の企業はこれらの資源を、金融市場を 通して株式に転化することもある。 中国における私営企業の発展とその制約要因 5 企業調査でわかったことだが、南通市の 3 社は集団所有企業から民営化され、相当の土 地、工場と設備を有している。これらの企業の株主は民営化の過程で低い価格で集団所有 の資産を手にした。寧波市の 2 社は、50 畆位の工業用地の使用権を購入したが、この間、 年率 20% 以上の地価上昇の含み益を得ただけでなく、生産規模の拡大に必要な工場用建物 なども確保できた。慈溪市と余姚市の工業用地価格は 10 年間で 1 畆あたり 10 万元余りか ら 60∼80 万元に上昇したから、土地の値上がりによる純利益はおよそ 3000 万元に及ぶと 推測される。この額は普通の零細企業の 10 年分の利潤に相当する。そしてより重要なの は、金融機関が企業向け融資の担保として実物資産を必要としており、長期的な土地使用 権を持つこれらの企業は融資を簡単に受けられることである。 ところが、上述した企業は政府と密接な関係を持っていない。これらの企業にとっては 経済的な資源や特権を得られるのが困難であり、低い価格で入手した土地も経営上の必要 を満たす程度にすぎない。本稿でいう資源を資本に転化する成長パターンは、経済的資源 の獲得を目的とし、転売、キャピタルゲイン、産業独占などを通じて暴利を得る発展方式 である。具体的にいうと、次のとおりである。 第 1 に、地方政府の企業誘致、投資促進政策を利用して製造業に投資する形で、土地な どの不動産を低価格で入手し、転売または商業地開発を通じて地価上昇に伴う含み益や商 業開発の収益を獲得する。第 2 に、いろいろな方法で金鉱、炭鉱、有色金属鉱産の採掘権 を獲得し、中国の経済発展に伴うエネルギー、原材料資源の需要増と価格高騰をねらって 利潤を図る。第 3 に、レントシーキング(Rent seeking)などを通じて、特殊商品の国際貿 易代理権や政府規制産業の特別事業投資開発権などを獲得し、行政的独占利益を得る。第 4 に、様々な手段を使って金融取引市場の上場資格を獲得し、株式や債券の売買を通じて 資金を集める。 2011 年中国私営企業富豪ランキングによれば、トップ 10 の 4 人、トップ 50 の 29 人は 不動産業に従事している。他方、2011 年中国私営企業トップ 500 の業種と業務内容をみる と、3 分の 1 が資源関連の企業であることが明らかとなった。ほかの企業は資源産業と直 接関係しないが、そのうちの 3 割以上の企業が不動産業ないし鉱業に関わっている。こう したことから、私営企業トップ 500 の半数以上が経済的資源の獲得を目的とした 4 パター 5) ンに属する、ということができる 。 Ⅲ 私営企業の発展に影響を及ぼす長期的要素 本項では、生産要素の供給、市場の需要と競争環境、政府政策、技術的要素など企業を 取り巻く外部環境から、私営企業の創業と成長に影響を及ぼす長期的要素を分析する。 6 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 1. 企業融資と金融市場 資金供給は企業の発展を制約する重要な要因である。地方政府は中小私営企業の資金不 足に注目し融資環境の改善に向けて取り組んできたが、中小企業の融資環境は実質的に変 わっていない。産業投資出資金、金融機関からの資金調達、とくに創業および長期貸付の 際の融資は依然として困難である。 調査企業のうち、郷鎮所有の集団企業から転身した数社を除き、大多数の企業は創業時 の資金不足を経験し、フォーマルな金融市場から資金調達ができなかった。郷鎮企業は従 業員からの出資を主とし、郷鎮の公的資金を従とする方法で資金を調達しており、金融機 関からの融資や政府からの創業支援金を獲得した例は少ない。 調査対象企業の中に、金融機関からの融資または産業投資出資金で創立したものは 1 つ もなく、家族の貯蓄または友人からの借金で創立資金を調達したケースがほとんどであっ た。多くの調査企業は、経営状態が正常化してからも資金不足に悩まされていたという。 調査企業の資金需要状況について、次のような特徴が挙げられる。第 1 に、企業の資金 需要と、実際の業務発展、経営規模とは互いに関連している。業務の規模が縮小すると、 資金需要も減少する。調査企業の中に、価格を引き下げ、損失を被りながらも、正常な運 営を維持し競争力を高めようとする企業はほとんどなかった。 第 2 に、企業の生産経営活動が正常に行われ、さらに担保となる資産を提供できる企業 は、資金収支のバランスがよく取れ、銀行からの流動資金も獲得しやすい。2011 年に銀行 融資が引き締められる中、銀行は調査企業への貸付を続けている。融資額の規制が強化さ れたが、その代わりに返済期間を延長したのである。 第 3 に、生産規模を拡大し新事業に投資しようとしても、投資額が大きく、担保に必要 な資産を提供できなければ、銀行などからの資金調達は困難である。 第 4 に、製造業企業の場合、経営業務に必要な資金が比較的安定し、投資規模を拡大し なければ、資金不足の圧力は小さい。一方、不動産、建設事業、貿易代理など政府緊縮策 の影響を受けやすい業界と流動資金の需要が大きい企業は深刻な資金不足に陥っている。 製造業が衰退し投機が活発に行われる一部の地域では、近年政府によるマクロコントロー ル政策や信用収縮を背景に、高利貸し市場の規模が急速に拡大し、金融秩序が混乱状態に 6) 陥った。これを背景に、倒産の危機に追いやられた企業も少なくない 。 企業融資の制約要因に関して、核心的な問題は金融市場のコントロール、金融部門の深 化と自由化の不十分さである。国営金融機関が各種金融業務を独占しているため、金融資 源および融資機会は国有企業に傾斜している。有能な起業者やベンチャー企業は金融機関 から支援を受けにくく、私営企業の発展、新しい企業の創立が妨げられているのである。 政府による金融市場のコントロールも民間金融の発展を阻害している。とくに、土地使用 権を担保とする融資が禁じられるなど、農村民間金融の発展が抑制され、私営企業の独占 的な金融市場以外での資金調達が困難となっている。その結果、違法な資金集めや高利貸 中国における私営企業の発展とその制約要因 7 しといった地下金融システムが発達したのである。 2. 土地と労働力の供給 調査企業のほとんどは労働集約型の企業である。企業の経営と発展に対する労働力の影 響は主として人件費の上昇によるものであり、低コストという競争戦略を維持することが 難しくなっている。労働者不足の原因は、労働者の総供給量の不足ではなく、労働市場に おける需給バランスの不均衡にある。技術構造が変化し、労働者の質に対するニーズが高 まる中、熟練労働者や技術者への需要増が際立っている。しかし、農民工に対する職業・ 技能訓練への投資が乏しく、有能な労働者の供給増が緩慢である。このようにして、技能 を持つ熟練労働者の不足がますます顕著になったのである。 中西部では、経済発展と新規企業の増加に伴い、雇用機会が増えている。東部沿海に比 べて賃金が低いものの、地域間移動にかかる諸費用を考慮すると、地元で就業することは 合理的な選択であろう。このような状況下で、先進地域の企業は 2 つの困難に直面してい る。第 1 に、国内外市場の供給過剰と競争激化を背景に、製品の価格が低く抑えられ、賃 金の引き上げが難しい。第 2 に、低い賃金では労働者を集めることができず、企業の優位 を生かすことが困難である。 土地は企業の長期的発展を制約する重要な要因である。調査対象企業の中に、集団所有 企業から変身したものを除き、創立時、土地を持った企業は 1 つもない。ところが、企業 創設後の発展状況は土地の保有状況と深く関係する。数年前に土地を購入し工場を立てた 企業は、その経営状況が比較的安定している。市場が変動し生産能力が落ちても、資産価 値が上がった土地を担保に銀行から融資を受けられるため、流動資金が確保できる。そし て、景気がよくなると、企業は速やかに規模を拡大できるからである。 我々の調査によれば、政府による土地利用の規制は厳しく、単位面積あたりの投資額と 産出額が重視される。寧波市と南通市では、工業団地が作られ、団地内での用地取得は一 定規模以上の投資を必要条件としている。これも私営企業の規模拡大と新規事業への参入 を阻害している。 3. 市場需要と競争環境 ここ 30 余年間に、工業化の進展、第二次、第三次産業の発展および可処分所得の増加は、 私営企業の成長に良好な市場環境を提供してきた。とくに、消費構造の多元化と市場構造 の多層化に伴い、技術水準や生産能力の異なる各種の私営企業に細分化された市場が提供 され、技術や資金、管理で水準の低い企業も成長することができた。 ところが、そうした状況は近年変わりつつある。ほとんどの調査対象企業は市場構造の 変化と競争激化から影響を受け、経営がますます困難になっている。ライバル企業が増え、 製品の供給過剰で価格が低下したことは主な原因である。原料価格、人件費が上昇してお り、市場競争も厳しさを増している。今回の調査によれば、ほとんどの企業の利潤率は 8 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 5% 位にとどまっている。 私営企業と外資系企業、国有企業との競争も激化している。我々の調査によると、スー パーマーケットだけでなく、エレベーター、家電分野でも、外資系企業が私営企業の主力 市場に参入する現象が増えている。中国では商業活動に対する規制が緩く、それに起因す る様々な不当な商業行為が横行し、市場の過度競争がもたらされている。 近年、東南アジアとヨーロッパ向けの輸出が増え、貿易への依存度が高まっている。海 外市場の変動が中国の私営企業に及ぼす影響はますます大きくなっているのである。なか でも、輸出志向の労働集約型企業や OEM 企業は、国際市場から影響を受けやすい。 ほかに、産業組織や産業政策などの制度的要因も私営企業の発展に大きな影響を与えて いる。市場参入許可の差別により、私営企業の参入できる産業が狭まっている。私営企業 は繊維、服装、製造加工、飲食など、伝統的な労働集約型産業に集中しているが、通信、 鉄道、金融、石油、天然ガスなどの分野への参入が事実上禁止されていた。近年、私営企 業の参入規制が緩和されたものの、資金力、役所との関係、人的資本、市場組織などで国 有企業に劣り、国有企業が占めている分野への参入は依然として難しい。 4. 政府関係と政策環境 中国では、企業発展における政府の影響と役割を論じたものが多い。我々の調査経験から すると、私営企業に与える政府の影響は、以下の 3 つの側面から説明できる。第 1 は、土地 資源、金融資源に対する政府のコントロールが企業発展に及ぼす影響、第 2 は、政策の企業 発展に与える影響、第 3 は、企業に対する政府の直接介入の影響、である。本項では、企業 サイドから企業と政府の関係、関連する制度・政策の企業発展に及ぼす影響を検討する。 普通、政府のコントロールする資源と関連度の低い企業ほど、政府からの関与も少ない。 企業が拡大するにつれ、政府との関連度が高まり、政府による規制も増強する。したがっ て、政府から支持を得られない企業は競争で劣位に陥りがちである。 多くの私営企業経営者は、政策の曖昧さに不安を覚え、変わりやすいマクロ経済政策の 企業経営への影響に神経をとがらせている。私有財産制度が企業の投資行動に影響してい るかについて、ほとんどの経営者から明確な答えがなかった。 地方政府が地域経済を主導する体制の下では(呉・銭、2009)、私営企業の発展に対する 中央政府の影響は基本的な制度や総合的な政策に限定され、具体的な資金サポートがな い。これと対照的に、地方政府は私営企業の発展を積極的にサポートする政策を採ってき た。とくに 1990 年代以降、地方政府は私営経済の発展に大きな力を注いだ(Blecher and Shue, 2001) 。問題は、企業の性質によって異なる資源配分政策を実施することが企業間の 不公平な競争をもたらすことである。そのため、私営企業間では資源配分の不均衡、レン トシーキングがもたらされ、私営企業と政府の間でいびつな関係が形成されたのである。 調査対象企業と政府の関係について、基本的に 2 つのタイプに分けられよう。1 つは、 企業は法律に則って経営活動を行い、市場の変化をみて自主的に意思決定を行うというタ 中国における私営企業の発展とその制約要因 9 イプである。政府は私営企業の経営活動に関与せず、企業または経営者と密接な関係を持 たない。寧波市と南通市の調査対象企業はこのタイプに属する。 もう 1 つは、地方政府は土地や資金、技術、政策的支援などのサービスを包括的に提供 し、私営企業をサポートし地域の経済発展に貢献するというタイプである。私営企業は地 方政府を企業発展のための重要な支持機構とみなし、経営難に陥った時に地方政府に支援 を要請する。その際には、地方政府は努力を尽くし私営企業を助けるのだ。我々の調査で は、地方政府が政府部門の利益を追求するため、私営企業の合法的な権益を害し、私営企 業の正常な経営活動を邪魔し、その結果、企業の発展が妨げられたようなケースはなかっ た。 5. 技術的要素の影響 企業の研究開発能力と生産技術はすでに企業製品の市場競争力を規定する重要な要素で あり、私営企業の発展に大きく影響する。アジア経済危機(1997 年)が起きた翌年以降、 多くの私営企業は国際市場で厳しい競争に晒されるようになった。それを背景に、研究開 発への投資意識が高まり、新製品の開発能力が大幅に向上した。近年、中国の自主的技術 革新の 70%、特許の 75%、新製品の 80% は中小企業が占めているが、中小企業の 85% は 私営企業なのである。 ところが、我々の調査企業では、企業で使われている技術の多くは伝統的なものであっ たり、模倣的なものも多い。このように、製品の開発能力は全体として低いが、すべての 企業は製品開発の重要性を認識し、品質の向上を実現するために技術の改善や新製品の研 究開発が決定的に重要だと理解している。 私営企業の技術革新と製品開発を制約する要因として、資金と人材の不足、技術革新の リスクに耐える能力の低さが挙げられる。政府は技術革新のための制度・政策整備で大き な努力を払っている。しかし今のところ、政府が多くの資源を占有しており、市場を通じ て配分されるものは少ない。このように、制度、政策も私営企業の技術革新に大きな影響 を与えるのである。 おわりに 長い間、政府と私営企業の関係が問題視されてきているが、本研究で明らかにしたよう に、政府の私営企業に対するコントロールがすでに弱まっており、諸政策・法規では私営 企業の成長を促進する基本原則が明示され、地方政府も私営企業に対して比較的自由放任 的な管理方式を採っている。いま、私営企業の成長に対する根源的な制約または消極的な 影響は、様々な資源に対する行政の配分方式に起因している。許認可制の下では、政府は 土地、鉱山、金融、産業や市場への参入に関して強い権限を持つ。それが原因で、私営企 10 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 業と国有企業、あるいは、私営企業同士の間で、資源利用において大きな不公平が存在す る。企業への資源供給は、往々にして企業の生産能力や必要性、市場競争を基本原則とし ておらず、企業の所有形態(国有か私営か)、人間関係、権力者の意思、行政命令などに依 拠する。その結果、私営企業は資源の獲得で不利な状況に陥りやすい。 私営企業の発展を制約するもう 1 つの要因は、国有企業が長年にわたり国有の生産手段 と行政特権を利用し市場に対する絶対的な支配力を持つようになり、そうした中で、私営 企業が多くの分野で国有企業と対等に競争できなくなっているということである。大規模 な産業プロジェクトや公共投資では、国有企業はおのずと投資者、管理者として主役を演 じ、現場作業などは私営企業が下請けの形で行う、という関係が形成されている。国有企 業は大型プロジェクトを通して短期間で資産規模を拡大する一方、経営面では赤字が恒常 化する。それに対して、私営企業は国有企業の取り仕切るプロジェクトの一部を下請けし 儲けの機会を得る。それで資産規模における私営企業と国有企業の格差がますます広が り、 「国進民退」が顕在化したのである。 我々の調査からもわかるように、市場競争の激化とともに、企業融資、生産要素の供給 と価格、市場の需給変動および技術革新といった基礎的側面で、私営企業はますます不利 な影響を被っている。全国工商連合会が 2010 年に行った民営企業調査でも、融資、税金、 7) 法制度および参入規制は、企業の発展に影響を及ぼす重要な要素であると指摘している 。 このような経済構造、産業組織と市場環境の下で、零細な企業を起しそれを徐々に発展 させていくパターンも、様々な社会関係や市場の力を利用し独占的な資源を使って急成長 を遂げた企業も、その経営内容は工業化の初期段階あるいは市場経済の成長期にある特徴 を持たざるを得ない。このようなプロセスを辿って成長した企業は今後、長期的な発展方 式、合理的な企業組織と管理体制への転換に直面している。 ほかに、長い目でみると、中国の私営企業は国際市場の需要をベースに、グローバルな サプライチェーンの一環として発展を図っていくべきか、それとも、国内市場のサプライ チェーンに位置を定め、私営企業と国有大企業、外資系企業からなる産業組織、市場シス テムを構築していくべきか、という大きな問題が存在する。これは中国自身、様々な企業 が考えなければならない長期的な発展戦略であろう。 (注) 1)本稿は、2011 年度アジア政経学会全国大会の国際シンポジウムで行った報告を加筆してまとめたもの である。 2)楊晶晶・張一君「温州中小企業集体逃離製造業」中国経営報 2011 年 9 月 17 日。 3)次の資料を基に整理した。華東理工大学経済研究所(2011 年 7 月− 8 月) 『浙江省寧波市、江蘇省南通 市和無錫市、上海市私営企業訪談実録』 、華東理工大学経済研究所(2011 年 8 月) 『浙江省寧波市、江蘇 省南通市和無錫市、上海市私営企業成長調査表』 。 4)商宜盈、張和平「温州 10 天内 3 老板跳楼自殺、大量明星企業倒下」和訊新聞(WEB サイト)2011 年 10 月 2 日、http://news.hexun.com/2011-10-02/133922786.html。 5)中華全国工商聯合会「2011 中国民営企業 500 強」2011 年 8 月 25 日。 ;樊殿華「河南:瘋狂担保如何刹車」 6)馮禹丁「逃跑的炒銭団」 、南方周末 2011 年 9 月 22 日。 7)中華全国工商聯合会(2011) 『中国私営経済年鑑 2008.6–2010.6』中華工商聯合出版社。 中国における私営企業の発展とその制約要因 11 (参考文献) 英語 Blecher, M. and V. Shue (2001), Into leather: State-led development and the private sector in Xinji, Cambridge University Press. 中国語 劉義聖(2003) 、 「民間資本市場準入的障碍与超越」 『経済学動態』2003 年第 9 期。 呉柏鈞・銭世超(2009) 、 『政府主導下的区域経済発展』華東理工大学出版社。 王勁松他(2005) 、 「中国民営経済的産業結構演進」 『管理世界』2005 年第 10 期。 黄孟復他編(2010) 、 『中国民営経済発展報告 2009–2010』社会科学文献出版社。 史晋川(2006) 、 『中国私営経済発展報告』経済科学出版社。 尉建文(2009) 、 『中国私営企業主関係網絡調査』中国社会科学出版社。 陳建馨(2009) 、 「論政府和企業的関係」 『山東社会科学』2009 年第 5 期。 叶賢・厳建雯・邢学亮(2008) 、 「民営企業家創業傾向的影響因素研究」 『心理研究』2008 年第 6 期。 黄孟復(2011) 、 『中国民営経済発展報告』社会科学文献出版社。 鄭紅亮・呂建雲(2008) 、 「中国私営経済発展 30 年:理論争鳴和改革探索」 『管理世界』2008 年第 10 期。 『管理世界』2008 賈生華他(2006) 、 「民営企業技術創新能力的影響因素及其差異分析:以浙江省為例」 年第 10 期。 (ご・はくきん 中国・華東理工大学) (翻訳:孟 哲男[桃山学院大学] 、監訳:厳 善平[同志社大学] ) 12 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 Strategising of SEZs: China vis-à-vis India Aradhna AGGARWAL 1. Introduction A growing number of countries are increasingly focusing upon special economic zones (SEZs) as engines of industrialization. According to ILO (2007), the number of SEZs increased from a mere 79 across 29 countries in 1975 to 3500 across 130 countries in 2006. Not only has the number of SEZs increased recently, but so have the varieties of SEZs. New varieties of zones have evolved and are subsumed within the category of SEZs. Several countries are upgrading their SEZs into mega-industrial clusters and commercial hubs with generous incentives to take advantage of their potential (Aggarwal, 2012). The usefulness of SEZs for the domestic economy however remains highly controversial. Evidence suggests that while SEZs may bring significant benefits, they can also have negative welfare effects on the nation due to government revenue loss and distortions in the growth process. It has been argued that the zones have high maintenance costs; employ low-wage, unskilled female labor; offer an unstable employment base; generate little domestic added value; develop few labor or managerial skills; transfer little modern technology or know-how; have weak links to domestic manufacturers; and hence generate little net benefits. The net results can be significantly negative with losses outweighing the positive effects. The SEZ literature is replete with studies on the factors crucial for the success of zones as engines of industrialization and growth (Madani, 1999; Kusago and Tzannatos, 1998; Aggarwal, 2012). A variety of micro, meso and macro climatic factors are believed to determine the success of SEZs. Some observers argue that the location matters while others consider that an export processing zone is more likely to succeed when monetary and fiscal policies are sound and stable, and private property and investment laws are clear. Still others underscore the need for liberalising the outside economy to ensure that the benefits of SEZs outweigh the costs. Little attention however has been paid to strategic approaches adopted by different countries in the conceptualisation, creation and promotion of SEZs; and their implications for the contribution of SEZs to the domestic economy. This study is an attempt to fill this gap. ‘Strategic approach’ is a broad framework that encompasses the vision, mission, objectives and strategies that are required to achieve the objectives. It is a perspective, a way of creating the roadmap to achieve the goals. More specifically, it is a plan to do things a certain way to achieve a desired outcome. Despite the central role it plays in the long-term success of a SEZ program, strategic approach is often ignored in the literature; too much focus remains on the policy related matters. A policy is a mere set of rules designed for the implementation of the strategy and hence is an element of the overall strategic approach. This paper analyses the SEZ programme of India and China with a particular focus on the strategic approaches adopted by these countries to exploit the SEZ-generated benefits, and examines their implications. Both these countries have a relatively long history of the programme. India established its first Zone in 1965 while China in 1979. However they adopted different strategic approaches and traversed along divergent evolutionary trajectories to meet with varied success with their SEZ programme. It would be of interest to analyse the SEZ strategies and performance in these countries to better understand the links between SEZ perspective, strategy and performance. The rest of the chapter is organized into 4 Sections. Section 2 presents the theoretical ????? 13 discussion on the strategic approaches to the SEZ policy. Sections 3 and 4 analyse the SEZ strategies in China and India respectively and examine their impact on the contribution of SEZs to their economies. Finally, Section 5 concludes the analysis with policy implications. 2. Strategic approaches to SEZs: Theoretical discussion Traditionally, SEZs are defined as ‘economic enclaves’ within which manufacturing for export occurs under virtual free trade. According to the neo classical (orthodox) theory they are established to offer duty free access to raw materials for export production to offset the antiexport bias of import substituting regimes which are characterised by anti-export bias in terms of high tariff barriers and distorted exchange rate regime. In this framework, SEZs are the second best solution to overall economic reforms and lose their significance as countries implement country-wide systemic trade and macroeconomic and exchange rate reforms. An extended version of the theory (World Bank, 1992) considers SEZs as a policy means of achieving greater economic openness and growth. This theory however has little relevance in the current context. Recent experience shows that the considerable increase in the number SEZs across the world has followed the adoption of trade and economic reforms in the rest of the economy rather than preceded them. In that sense, in most countries they are the outcome of a liberalized regime. The heterodox school emerged in the 1980s explains the rationale of SEZs in open export oriented regimes (Baissac, 2003). According to this school of thought, the development of SEZs is the outcome of a move for export-oriented industrialization in developing countries. It argues that the countries that have adopted the model of “export oriented industrialization” (EOI) rely heavily on exports and FDI for rapid industrialisation. In general, export markets are characterized by fierce competition, thin profit margins and high volatility putting pressure on companies in developing countries to enhance their efficiency, reduce production costs, and become internationally competitive. Domestic companies find it difficult to compete in these markets due to inadequate production technology, inefficient management, and a lack of market access and marketing know-how. This packaging is provided by FDI. But the numerous market and production failures that the developing countries face due to a chronic lack of capable institutional actors affect their investment climate adversely by increasing both, production and transaction costs. This has dampening effects on FDI. Addressing these failures on economy would require time and resources due to socio-economic and political realities embedded in these economies. In this scenario, the establishment of industrial enclaves (SEZs) is an alternative second best policy tool by which these countries seek to address the structural deficiencies over limited geographical area and expedite the process of trade-based industrialization. SEZs offer numerous benefits (Madani, 1999; Aggarwal, 2006, among several others) including, tax incentives, provision of standard factories/plots at low rents with extended lease period, provision of infrastructure and utilities, single window clearance, simplified procedures and relaxed labour laws, which reduce cost of doing business in the host country and offer a more conducive business environment to attract foreign direct investment, which would not otherwise have been forthcoming. Foreign direct investment (FDI) is believed to have catalytic effect by bringing positive spillovers to domestic firms in the host country, initiating a shift in the orientation of the domestic private sector toward export activities. Clearly, there has been evolution in the theoretical literature on SEZs. While traditional (orthodox) theories focus on the tax incentives offered by SEZs in an import substituting regime, heterodox economists suggest that SEZs offer an increased ease of doing business to promote exports and investment in an export oriented regime. Further, while the traditional approach finds SEZs useful in generating foreign exchange and providing employment, the 14 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 latter approach views them as an instrument for expanding and modernizing the host economy through additional foreign investment/capital formation, technology transfer and technology spill-overs. These differences notwithstanding both the schools essentially treat SEZs as the second best solution to promote trade, directly a la orthodox approach and indirectly a la heterodox approach. We argue that the trade based second best solution approach to SEZs is erroneous. It has affected the design and performance of SEZs in most countries rather adversely. Zones are evolving over time and their characteristics have also been changing (FIAS, 2007; Meng, 2005). There is a need, therefore, to move to new theoretical paradigms to capture their potential benefits and consider them as part of the overall industrial policy of promoting clusterbased industrialisation. This study thus proposes to embed the establishment of SEZ within the economics of agglomeration in general and industrial clustering in particular. Although SEZs are concentrations of firms, the agglomeration economies associated with them are assumed to be of minor importance. They are being promoted as a mere trade enclaves; the relevance of localization economies and their role in promoting the competitive advantages of SEZs has gone unnoticed. The concept of industrial clusters was introduced and popularized by Porter in his book “Competitive advantages of nations”.1) Porter defines clusters as geographic concentrations of similar/ related firms that together create competitive advantages for member firms and regional and national economies (Porter, 1998). He roots and promotes his cluster concept with an overarching focus on “competitiveness” (of firms, industries, regions and nations) in a global economy, which makes his clusters trade-oriented. He identifies exposure to foreign competition of firms and industries as both a driving factor and a distinctive feature of cluster formation and development. His clusters draw on Marshall’s industrial districts (Marshall, 1890).2) Since Marshallian industrial districts are based on the principle of comparative advantages, exposure to foreign competition happens to be a characteristic of neo-Marshallian industrial districts as well. They too are nodes of global networks (Amin and Thrift, 1992). The concept of SEZs thus bears clear commonalities with both Porterian clusters and Marshalian industrial districts. SEZs therefore need to be viewed as highly geographically concentrated government-promoted agglomerations of internationally competitive enterprise’ equipped with inherent advantages of efficient infrastructure and quality services and a favorable business environment, few regulatory restrictions, and a minimum of red tape. Their advantages are, thus, rooted in localization economies arising out of knowledge spillovers, resource sharing, and labor pooling (Marshall, 1890). The specialization of activities within these clusters creates a pool of skilled labor; external economies in the form of lower transport and logistics costs; lower communications costs and (to the extent that utilities are shared) lower infrastructure costs; and knowledge spillovers. These external economies can have strong positive effects on investment inflows in the first place, a link that is overlooked in the SEZ literature (see, for example, Ng and Tuan, 2006, among others). Initial investment attracts more foreign and domestic firms due to localization economies and promotes further specialization, thus launching a process of “circular and cumulative causation” (Myrdal, 1957) or chain reactions (Kaldor, 1966). The cluster can further expand by the tendency of spin-offs and suppliers of both the clustered industry and related industries to locate near the zone. This simultaneous expansion of activities may be linked with the theory of big push (Lewis, 1954; Nurkse, 1952; Rosenstein and Rodan, 1943) or the concept of growth poles (Hirschman,1958). Whether it results in Rosenstein-Rodan type growth or Hirschman type growth, the process remains the same (Mathews, 2010). SEZs can, thus, act as self-reinforcing systems in which the clustered industries make up a mutually supporting whole with “benefits flowing forward, backward, and horizontally” and have the capacity to expand given that “one competitive industry begets another” (Porter, 1990: 151). The concept of a cumulative and circular process Strategising of SEZs: China vis-à-vis India 15 has been re-emphasized in the ‘new economic geography’ (NEG) theories wherein a concentration of manufacturing in one region can lead to a still larger concentration of manufacturing in that region and international trade assists this process (Fujita et al., 1999; Krugman, 1991). Apparently, SEZs which are agglomerations of highly competitive exporting firms provide impetus to investment in the rest of the host country. Geographic proximity of firms can also act as a major driving force for innovation, learning and knowledge spillovers and, in turn, promote competitiveness (Marshall, 1890; Porter, 1990). According to Porter, these processes can take place in all clusters, but ‘traded’ (export-oriented) clusters are more important than ‘non-traded’ clusters. It is widely recognized in the literature that openness to flows of knowledge, capital and people is an important condition for the cluster success and its competitiveness. The new economic geography theory carries this argument further. It argues that trade gains are higher when goods are subject to agglomeration economies because the concentration of world production in a single location allows greater exploitation of external economies and, hence, raises efficiency. They can thus generate a process of development that is: a) accelerated; b) circular, in that one gain feeds off another; c) cumulative in its effects; d) self-reinforcing; e) capable of generating systemic gains through “increasing returns” (Mathews, 2010, for clusters); (f) is driven by innovations and knowledge spillovers; and (g) is efficient and competitive. We thus identify two strategic approaches to establish SEZs: the trade based second best approach and the cluster approach. These have different implications for economic linkages and economic impact. From the perspective of the trade based second best approach, SEZs offer a platform for internationally mobile productive units; create an environment conducive to concentrated exchanges between domestic and foreign private sector actors within the zone; generate externalities through backward linkages upgrading those outside the zone; and initiate a shift in the orientation of the domestic private sector toward export activities. The strength of backward linkages depends on the government policies, level of sophistication of the wider domestic economy, the composition of economic activity within the zones and the ownership of firms, among others. The cluster approach however treats the SEZ as a typical cluster and indicates that the success of SEZs depends on their potential of activating synergetic forces that generate a process of circular and cumulative causation leading to decreasing costs of production and continuing concentration. The underlying principle is that (given interdependences between all factors in a social context) “any change in any one of the factors will cause changes in the others; these secondary changes are generally of a nature to support the initial change; through a process of interactions, where change in one factor continuously will be supported by reactions of the other factors, the whole system will have been given momentum to move in the direction of primary change, though much further” (Myrdal, 1956: 15–16). Thus, change becomes progressive and propagates itself in a cumulative way. An SEZ may fail to trigger this self-reinforcing mechanism if it is not embedded in the local economic milieu and ends up maintaining negligible linkages with the outside economy. Unless it represents a synergy with other actors in the region, it cannot initiate or augment the dynamics of a cumulative and circular process. In the proposed framework, therefore, SEZs should be strategically located in or around existing clusters, either natural or government-promoted. Alternatively, the government can plan large open SEZs or foster the development of clusters of several small SEZs. In that case, the objective should be to generate a critical mass of activity to attract more economic activity in the region. Clearly, there is need to distinguish between the trade based and cluster based approaches of SEZ development. They may have different implication for growth and call for different set of policies. In the rest of the analysis we focus on the SEZ approaches adopted in China and India and analyse their impact on SEZs’ performance. 16 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 3. China: Success unmatched The SEZs in China were launched in 1979 as part of Deng Xiaoping’s programme called ‘Four modernisations’ which aimed at the modernisation of agriculture, industry, science and technology, and national defense to ‘turn the country into a relatively advanced industrialized nation by the year 2000’ (McKenney, 1993). In Deng’s view, foreign investment and technology were needed to move China’s industrial base into the 21st century. Initially, four SEZs—Shenzhen, Zhuhai, Xiamen and Shantou were set up to ‘open up a window to the outside world (Chang, 1988). China evolved its own model of Special Economic Zones and discarded traditional closed processing zones. Unlike the latter, China’s SEZs are open industrial mega towns spread over several square kms. Shenzhen, for instance, spans nearly 2,000 square km; Shanghai’s Pudong district is 522 square km; and Hainan, 34,000 square km. Overall, Chinese SEZs are spread over more than 40,000 square km area. Finally, the choice of coastal areas was not merely to facilitate trade as is generally believed; cheap land, active participation by officials in these provinces, long tradition of trade and entrepreneurship in these regions and a greater likelihood of attracting nonresident Chinese investment to these areas were other important factors that factored into the choice of location (Lai, 2006). Chinese SEZs were thus a new generation zones and aimed at creating large clusters of highly competitive export industries in the locations where the outside investment climate was already conducive for spin-off activity. Nevertheless, these SEZs were not instant success. Haywood (2004) describes the special economic zone performance between 1979 and 1984 as somewhere ‘between disappointing to disastrous’. Money was flowing freely from the central government and bureaucrats’ powers were unrestrained. This created opportunities for corruption in the bureaucracy. Smuggling of both people and goods was rampant (Haywood, 2004; Kung, 1985). Further, SEZs were predominated by Chinese investment; most foreign investment was in real estate, which led to a real estate boom. Uncontrolled immigration was occurring and labor agencies were taking huge commissions of 30 to 40%. The policy was widely criticized in China. Media, intelligentsia and general public, all, attacked them as ‘spiritual pollution’, rented territory, selling of nation, real estate proposition, and land grab (Kung, 1985). Interestingly, even the central government bureaucracy opposed the concept of SEZs because they eroded their power base in these regions. But neither the disastrous performance nor the criticism deterred the leadership, which decided not to scrap the zones but to learn from the errors. Official delegations were sent to various countries to visit their SEZs. Better and more complete regulations were created. Several administrative reforms were introduced: the government was trimmed, corrupt officials were cracked down, huge money was pumped into infrastructure, and lucrative offers were made to skilled labour with spacious apartments within the zone. The SEZs, in particular, Shenzhen SEZ began to show signs of economic progress during the mid 1980s. Initial interest in the Shenzhen SEZ’s real estate market and tourist industry shifted to the development of production capacity. McKenney (1993) informs that in 1983, there were 60 establishments in Shenzhen SEZ employing 15,000 workers and it accounted for 69% of the industrial value and 82% of actual FDI of the city. Inspired by the initial success of SEZs, the government extended the SEZ sector by designating Hainan Province and the new Pudong districts in Shanghai as the fifth and Sixth SEZs in 1988 and 1990 respectively. The Newly Developed Area of Tianjin Binhai was authorized as the seventh SEZ in 2006. All these seven SEZs will be referred to as city-SEZs in the rest of the text. In addition, the government established a myriad of zones, as follows. Economic and Technological Development zones: At the beginning of 1984, China decided to establish economic and technological development zones (Hereinafter referred to ETDZ). Strategising of SEZs: China vis-à-vis India 17 They were conceptualised as relatively small areas of land carved up within cities, and focused on attracting mainly the high-tech industry by offering attractive hard and soft investment environment. They are set up in highly developed areas near existing industrial clusters with good industrial foundation and convenient communication. To offer single window governance, the government has awarded economic managing right, which is equal to that of local government, to management committee of Economic-Technological Development Area. From 1984 to 1988, 14 ETDZs were established, all in the coastal cities. In 1992 and 1993, eighteen other national ETDZs were established and finally, from 2000 to 2002, the government decided to build the third group in the rest of the provinces taking the total number of ETDZs to 49. To date, there are 54 national-level ETDZ, of which, 33 are in eastern coastal regions; the rest are in Middle West regions. In addition, hundreds of provincial and municipal ETDZs have been established all over China. The total area of these 54 economic and technological development zones is about 400 sq.km. equal to 0.004% of the total area of China (Herrle, 2005). Initially, these clusters were set up for attracting the foreign capital though the present positioning, targets and investment subjects are no longer restrained by the objective of attracting the foreign funds. National Hi-Tech Industrial Development Zones: In 1998, the government started establishing National Hi-Tech Industrial Development Zones (HIDZ) under the ‘Torch Plan’ to promote domestic R&D capabilities. These are established for purposes of promoting local new/high tech industries oriented to both domestic and overseas markets and based on China’s local scientific and technological strength. Currently, there are 53 State Council approved HIDZs, located primarily in the vicinity of ETDZs. National Border and Economic Cooperation Zones: In 1992, the government introduced another innovative concept of National Border and Economic Cooperation Zones (BECZ). The BECZ (Kudo, 2009) is the area to develop frontier trade and carry out processing for re-exports along the border, exploiting cross country complementarities in resources. The objective is to develop trade, economy and good relationship with the neighbouring countries. They also play positive roles in promoting the economy of the backward border areas. The State Council has approved 14 BECZs since 1992. Export Processing Zones: In April 2000, traditional zones of closed industrial estate variety were launched within the existing ETDZs and HIDZs. These are supervised by the Customs. There are 15 such zones set up within ETDZs and HIDZs. National Tourist and Holiday Resort (THR): In order to exploit rich tourist resources and speed up the tourist industry, the State Council decided to choose the regions with ripe conditions as National Tourist and Holiday Resort (THR), where the enterprises and the tourist equipment and projects by foreign businessmen are encouraged. To date, there are 11 national holiday and tourist resorts by the approval of the State Council. Taiwanese Investment Zones: In 1989, three ‘Taiwanese Investment Zones’ (TIZ) were approved in Fujian province by the State Council to encourage Taiwanese investment in China. The fourth one was set up in the same province in December, 1992. To date, four Taiwanese Investment Zone are operating, all in the Fujian province. National Agriculture High-Tech Industry Demonstration Zone: In 1997, a National Agriculture High-Tech Industry Demonstration Zone (AHIDZ) was founded, aiming to radically develop the agriculture. Up till now, there is only one national grade agriculture high18 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 tech industry demonstration zone in China located near Xian, Shaanxi Province. Free Trade Zone (FTZ): It is a trade oriented zone for international trade and bonded operations with bonded warehouses and processing for re-export. Presently, 13 free trade zones in China are in operation. China has also set up more than 10 Bonded Zones (BZ) in SEZs and coastal cities. Six of them were turned into bonded Logistics Parks in 2004. China thus has continuously been expanding SEZ sector both vertically and horizontally, as a key element of its industrial strategy since 1978. It introduced ETDZs as early as in 1984, which were followed by several other types of zones. Large city-SEZs are set up as open clusters while smaller SEZs (ETDZs and HIIDZs) are being promoted in industrially developed areas in the proximity of existing clusters/estates/zones. China’s manufacturing landscape is characterized by a large number of industrial clusters. As part of the industrial-cluster strategy, a variety of zones are being located in the proximity of each other and of other industrial clusters to augment and reinforce each other (Kim and Zhang, 2008). By 2007, 300 of 326 municipalities had 1346 zones (Wang, 2009). Zones are being developed not only by the national, provincial, or municipal level government but also in the private sector. The success of SEZs and other development zones in China has been phenomenal. The share of the overall SEZ sector in GDP, industry value added, FDI, exports, and even tax revenue increased continuously over the period since 1979 (Ministry of Commerce, China website). In 2006, their share in real GDP was estimated to be 18.5% which increased further to 21.8% in 2007. They also accounted for 46% of the total FDI inflows which amounted to 74.8 billion in 2007. Their share in total exports went up to 60% and they absorbed 4% of national and 10% of urban employment (Zheng, 2010). This made up the employment of 30 million people in this sector alone. Of all the SEZs, Shenzhen remained the largest SEZ which accounted for over 77% of the total exports of 218 billion produced by five city-SEZs. In 2009, the GDP of 54 ETDZs alone was 1.712 trillion RMB, occupying 5.3% of total GDP of China. Their share in exports was around 16%. They accounted for 22.5% of total FDI and 5% of government tax revenue. Further, the government policy of promoting different varieties of zones and locating them in the proximity of the existing industrial clusters ensured the integration of local supply chain networks with global value chains to upgrade them, in turn. Kim and Zhang (2008) illustrate this point excellently by examining how the supplier–buyer linkages between foreign invested enterprises (FIEs) in the ETDZs of Qingdao and local firms in the existing clusters of that region drove the development of a successful electronic industry cluster around the zone. An industrial cluster of electronic plants emerged in Qingdao during 1966 to 1969. A turning point in its development process came when two ETDZs were set up in proximity, one in 1984 and another in 1992. These ETDZs attracted several foreign firms to the region. While the local firms remained the leaders, foreign firms got into contract with them for the supply of components, instantly inserting them into the global value chains which they had developed. This changed the structure of supply chains in the region. Knowledge started flowing through these chains and pushed local firms into improving their own technological capabilities. This contributed to the emergence of a highly sophisticated electronics industry in the region. Evidence suggests that the SEZ sector has also played an important role in promoting and strengthening technological capabilities of the country. According to Zheng (2010), in 2007, the HIDZs accounted for almost half of the total high tech industries; almost half of high tech output and one third of high tech exports of the country. They had 1.2 million of R&D personnel and registered 50,000 patents which were more than 70% of total patents registered by local industries. The ETDZs also accounted for one third of total high tech exports. The early city-SEZs have also upgraded in terms of the technology content. As late as 1991, only 2.8% of the Shenzhen’s manufactured exports were high-tech. By 2004 they amounted to $30.6 Strategising of SEZs: China vis-à-vis India 19 billion and accounted for 51.2% of the manufactured exports (Li, 2006). By 2007, in all citySEZs taken together, over 40% of the total industrial output was from high tech industries (Zheng, 2010). Fu and Gao (2007) have shown that the ETDZs have been playing an important role in employment generation and human capital formation, as well. They have been incurring large expenditures to support education and training. In 2005, the ETDZs used 6.69% of all their expenditure to support related education and training; this was 4.24 billion Yuan per year. The Central China’s 10 zones spent 8.8% of their expenditures on education, which on average was nearly three times of China’s public finance. They also show that the 32 eastern zones share 73.8% of all education expenditure incurred in the region. They found a positive correlation between the number of provincial Development Zones and GDP per capita concluding that the provincial development zones are also engines of the regional economy of China. Wang (2009) uses experimental designs to show that having Special Economic Zone status increases total productivity growth by 0.6% points. 4. SEZs in India: Landed before they could take off In India, the process of industrial growth was initiated as early as in 1948, when the government announced its first Industrial Policy Resolution, IPR 1948. The centerpiece of the development strategy was the promotion of import-substitution based industrialization with a particular emphasis placed on the basic and heavy industries. The country, however, faced a severe foreign exchange crisis in the early 1960s due to multiple failures such as, the failure of agriculture, growing imports, and two border conflicts. To promote exports, several fiscal incentives were offered to exporters. In 1965, the government set up Asia’s first export processing zone (EPZ) in Kandla, as part of these programs. Since EPZs were viewed merely as a tool for offering fiscal incentives for export promotion, the programme was not supported by any legislation or administrative infrastructure (Aggarwal, 2004; Kundra, 2000). The first zone was set up in Kandla as early as in 1965. It was followed by the Santacruz Export Processing Zone which came into operation in 1973. The government set up five more zones during the late 1980s. These were at Noida (Uttar Pradesh), Falta (West Bengal), Cochin (Kerala), Chennai (Tamil Nadu) and Visakhapatnam (Andhra Pradesh). These were geographically closed small industrial estates3) and were located in port areas (with one exception). Thus unlike China, the EPZ programme of India was driven by the traditional trade based second best approach. Further, these zones were subjected to numerous controls and regulations to prevent misuse of incentives by firms. In 1991, a massive dose of liberalization was administered in the Indian economy. In this context, wide-ranging measures were initiated by the government for revamping and restructuring EPZs also (Aggarwal, 2004). The focus had been on improving investment climate by delegating powers to zone authorities, providing additional fiscal incentives, simplifying policy provisions and providing greater facilities with the objective of improving investment climate in these zones. A major shift in approach and policy was introduced, when the government motivated by the success of Chinese SEZs, launched a new scheme of Special Economic Zones (SEZs) in 2000. The main difference between the SEZ and the EPZ was that the former was conceived as an integrated township with fully-developed, world-class infrastructure, whereas the EPZ was just an industrial enclave. Further, while EPZs were set up mainly by the central government, SEZs were permitted to be set up in the public, private, or joint sectors or by the state governments or any of their agencies. Several incentives, both fiscal and non-fiscal, were extended to the units operating in SEZs and measures were adopted to improve the quality of governance of the zones. However, the policy did not motivate private investors into action in a significant way 20 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 and eventually, all the existing eight EPZs were converted into SEZs. To provide a significant ‘push’ to the policy, a comprehensive SEZ Act was promulgated in 2005. The Act became operative w.e.f. February 2006 when SEZ rules were also finalized. With the introduction of this Act EPZs ceased to exist while the scope and coverage of the SEZ scheme was enlarged. Under the Act, SEZs encompass a wide variety of export oriented zones such as single enterprise zones, sector specific zones, multiproduct zones with large townships and logistics oriented free trade zones. A wide variety of economic activities has been permitted in SEZs including services, manufacturing, trading, re-engineering and reconditioning. The principal objective of the policy is to promote economic activity. The policy is not accompanied by vision, mission statement or roadmap to achieve the objectives. However, a major departure from the earlier approach is that it seeks to promote economic activity unlike EPZs which aimed at promoting trade. As a result, it does not regulate the location of SEZs, allowing market forces to determine where they should be located. During our field visits across nine SEZ-active states,4) we observed that the market forces have shaped the SEZ location strategically in such a way that SEZs can play an important role in promoting cluster based industrialization in the country. The strategies adopted in the establishment of SEZs are as under. Augmenting existing industrial clusters and industrial estates: A large number of SEZs are being promoted within existing clusters and industrial estates to augment and reinforce them. Many private SEZs are coming up in or around natural clusters or industrial complexes. Some state governments are also focusing on natural clusters and/ or existing industrial estates. The state government of Gujarat, for instance, has identified six regions that have already acquired industrial capabilities. Most SEZs are located in these regions to revitalize their core competencies and transform them into internationally competitive hubs by generating positive synergies between them. These are Ahmedabad (pharmaceuticals and textiles), Gandhinagar (information technology), Bharuch (chemicals), Vodadara (engineering), Jamnagar (petrochemicals), and Kutchh (heavy metals and logistics). Most of them (except Jamnagar and Gandhinagar) are natural clusters and both the state government and private sector developers have focused their efforts in these regions. Uttar Pradesh, Haryana, Punjab and Rajasthan seem to have adopted a similar strategy. Most SEZs in Uttar Pradesh and Haryana are in the information technology (IT) sector and are clustered in the existing IT hubs of Noida and Gurgaon. The state government of Uttar Pradesh has been promoteing two handicrafts SEZs in the natural clusters of Moradabad and Bhadohi; other state-promoted SEZs are in the industrial town of Kanpur. The Rajasthan government’s handicraft SEZs are in Jodhpur and the gems and jewelry SEZ in Jaipur; and Kerala’s food park and animation and gaming SEZs are carved out of the existing industrial estates. Several IT SEZs in Kerala are situated in or around the upcoming IT hubs of Kochi and Thiruvananthapuram and will reinforce them further. In Andhra Pradesh, also, many IT-based private SEZs are clustered near the IT hub of Hyderabad. In Maharashtra, most private SEZs are being set up in the industrially developed belt of the State, namely, Nashik–Pune–Mumbai. This strategy is likely to augment the inward-looking clusters/estates by creating opportunities for mutual learning, and innovation with the presence of outward-looking clusters in the close proximity. In today’s increasingly knowledge-intensive and globalised world, inward-looking clusters and industrial estates face serious challenges in terms of technology flows, skills, environment, and quality control. The strategy of situating SEZs in and around them will create synergies and enhance regional agglomeration economies. The plan is to synthesize the setting up of SEZs with the development of industrial corridors and national investment and manufacturing zones (NIMZs). Several SEZs are projected to be located in investment regions, industrial hubs, and multi-model logistic hubs planned along the upcoming Strategising of SEZs: China vis-à-vis India 21 Delhi–Mumbai industrial corridor. Each hub is to have world-class infrastructure, business centers, transport facilities, and good connectivity. SEZs are, thus, expected to benefit from these industrial nodes and, in turn, are expected to reinforce them. Promoting new clusters through SEZs: An alternative strategy is to promote new industries by creating several small SEZs clustered in a region and reinforcing them by developing industrial estates in the proximity. The Andhra Pradesh government, for instance, has adopted this strategy as a route to industrial diversification. New industries such as gems and jewelry, bio-tech, engineering, sports shoes and high end pharmaceuticals are being implanted by promoting large-scale production facilities through SEZs. Following a similar strategy, the Tamil Nadu government is using SEZs to move up the value chain in industrial production. It is promoting ‘Industrial Corridors of Excellence’ using SEZs to kick-start their development. In the first phase, the Chennai–Manali–Ennore and the Chengalpattu–Sriperumbudur–Ranipet corridors will be developed with several SEZs clustered in this belt supported by industrial and IT parks, R&D institutions, universities, and social infrastructure like housing, healthcare and schools. This will be followed by the Madurai–Thoothukkudi and Coimbatore–Salem corridors. The Maharashtra government has also taken up large ambitious projects in manufacturing and infrastructure development in the industrially backward districts of Nagpur, Jalna, Nanded, Latur, Amravati, and Akola, among others. The state agency has played a significant role in promoting industrialization in these regions, with 19 projects being developed directly by it. Interestingly, some private sector zones have also followed this pattern. Several private sector IT SEZs are coming up in Gandhinagar (Gujarat), Mohali (Punjab) and Jaipur (Rajasthan) to exploit the locational advantage of the skilled human capital in these regions. They are likely to implant the IT industry in these regions. Promoting integrated industrial parks: Localizing global value chains: Large original brand manufacturing (OBM) companies, such as Nokia, Suzlon, Gitanjali, and Uniparts have been promoting integrated parks to cut the cost of logistics. They are using SEZs to attract upstream and downstream links in the global value chain within an SEZ and forge an industrial chain by creating all the necessary backward and forward linkages of the firms. This process of localization of international chains enhances industrial efficiency by reducing transport and inventory costs and ensures all the advantages of vertical integration. Apparently, there has been a shift from the ‘trade based second best solution’ in SEZ strategy to ‘cluster based’ SEZ strategy. Interestingly, this shift is not strategically planned as in China but is guided by the market. Efforts are directed at locating SEZs close to existing clusters/ industrial estates, or clustering them in one location, or creating large-scale integrated production facilities through them. This is expected to create synergies between sectors looking at the domestic market and outward-looking SEZs, and between various SEZs within the same region. These synergies, drawing on both local production systems and global resources, would enhance regional competitiveness. The passage of the SEZ act invoked unprecedented interest among private investors to develop SEZs in the initial stages. As on 18 November 2010, 580 new SEZs across 23 states were formally approved, with 367 of them across 16 states already notified. There has been phenomenal increase in SEZ investment, employment and exports. Investment: During the first phase of their development, India’s zones had been dominated by domestic investment. Total investment in seven EPZs in 1998 stood at a mere $407 million, generating a miniscule 0.33 percent of the total manufacturing investment in that year. During the period 1965–2000, only 8 export processing zones were set up across 7 states, occupying an area of 2521 acres. Between 2000 and 2005, 11 new EPZs were set up. But most these zones were the result of State government initiatives; the policy did not induce private investment in 22 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 SEZs. In February 2006 (40 years after the first EPZ was set up in Kandla), total investment stood at $888 million. Within less than five years of the SEZ Act, by November 2010, investment was staggering at $39 billion (Table 1). Two caveats need mention here. One, this investment includes investment in land and infrastructure development and hence cannot be compared with SEZ investment in other countries. Two, over 85 percent of the total investment is from domestic sources. Employment: The total (direct) SEZ employment stood at 81371 in 2000. It increased to 134,704 by February 2006. Within 5 years of the new SEZ Act, the number increased to 620,824. Exports: Average annual exports increased from $0.5 million during 1966–70 to $1.988 billion during 2000–2003. The share of erstwhile EPZs in national exports peaked in 1986 when it reached 5 percent of manufacturing exports. But most EPZ exports were directed to the USSR and other East European countries during this period because of protected export markets offered to Indian firms under the umbrella of bilateral trade arrangements with these countries (Kumar, 1989). After the collapse of the USSR, exports from EPZs declined sharply. In the late 1980s however four more EPZs became operational which pushed EPZ exports up and in the 1990s EPZ exports grew again and slowly reached 5.2 per cent. This was marginally higher than the previous peak. Table 1 reveals that the enactment of the SEZ policy provided a major push to SEZs’ export performance. Figure 1 indicates that in 2007–08, the average annual growth rate of physical exports (outside India) zoomed to over 100 per cent. It dropped to 32 percent in the recession year 2008–09 but to pick up again to over 100 per cent. Since 2006–07, SEZ exports have been rising much faster than the domestic tariff area exports. As a result, in 2009–10, the share of SEZs in total national exports stood at over 17%. Table 2 shows that the operational newly notified SEZs accounted for 53.4% of the total SEZ Table 1 Direct employment, investment and exports in Special Economic Zones: Feb. 10, 2006 and Nov. 30, 2010 Employment Central government Transition phase Newly notified. Total Investment February, 2006 2010 Feb., 2006 (bn) 158197 20566 – 129,704 205395 63080 352349 620824 33.51 16.08 – 49.5 Exports 2010 (bn) 2006 (bn) 2010 (bn) 70.68 73.38 1617.43 1761.49 194.23 7.024 – 201.25 580.70 447.29 1179.46 2207.72 Source: Based on the Ministry of Commerce, Indian Government database. Figure 1 Annual growth rates of SEZ exports and total national exports*: 1992–93 to 2009–10 *: Total national exports are inclusive of service exports. Source: Calculations based data from the Ministry of Commerce and Reserve Bank of India. Strategising of SEZs: China vis-à-vis India 23 exports in 2009–10. Further, physical exports accounted for 87% of the total SEZ production. The share of deemed exports and DTA sales had been as small as 5.5% and 7.5% respectively. Finally, notwithstanding the fact that IT zones have far outnumbered other zones, manufacturing accounted for almost 50% of their total physical exports in 2008–09; its share increased to over 77% in 2009–10. Further, while in the first phase (1965–2005) zones were dominated by labour intensive activities, industries of different generations co-exist in them since 2005 (Figure 2). While Apache in Andhra Pradesh, Cheyyar in Tamil Nadu, Brandix in Andhra Pradesh, and Apparel Park in Gujarat are the prominent examples of labor-intensive low-tech SEZs; Nokia SEZ, SIPCOT high tech SEZ, Flextronics and Velankani SEZ all in Tamil Nadu; and Moser Baer SEZ in UP among many others, are high tech SEZs. In addition, there are several IT, auto components, electronic components, pharmaceutical, and metal fabrication-based skill intensive SEZs. It is expected that low tech SEZs would generate employment while high-tech SEZs would produce dynamic externalities for creating new paradigms and industries. SEZs can thus catalyse economic activity simultaneously in many sectors and can create conditions for self sustaining industrialization if they offer an attractive package to investors, other things remaining the same. Table 2 Export performance of SEZs: Type-wise disaggregated analysis 2009–10 (%) Share in physical exports IT/ITeS Trading Manufacturing Physical exports Deemed exports DTA sales Total Production 26.3 5.03 5.91 84.19 95.13 0.78 4.08 100 20.3 5.45 0.01 78.52 83.98 3.23 12.80 100 53.4 100.0 27.44 17.44 1.47 2.23 55.59 67.28 84.50 86.95 8.41 5.49 7.09 7.56 100 100 SEZs Central Government Set up between 2000–05 Newly notified Overall Composition of SEZ production by sector (%) Source: Ministry of Commerce. Figure 2 Sectoral composition of notified SEZs as on September 2010 Source: Ministry of Commerce, India. 24 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 Apparently, the SEZ policy has made useful contribution to investment and exports in the initial phases. The erstwhile EPZs could not forge strong linkages with the rest of the economy due to their small size, isolated locations near ports and tight government regulations on transactions between domestic and EPZ units. The rules for domestic procurement, subcontracting and domestic sales had been highly rigid to prevent misuse of the fiscal incentives offered to EPZ units. There were success stories of learning- by -exporting for EPZ manufacturing units which had a spillover effect on the economy, as reported in Aggarwal (2006). But nonetheless overall gains were not substantial and could not become visible. Most zones failed to make an impact because of poor locations, and the absence of a well-designed policy framework within which EPZs could be used strategically. One would expect that the new SEZs succeed in forging these linkages by reinforcing existing clusters/ promoting new ones due to their strategic locations. The SEZ policy has however been caught in a countrywide controversy due to land acquisition (Aggarwal, 2006). A massive intellectual support to the agitation against SEZs has come from the media, activists, and academia, both the right and left wings. Political parties also exploited the upsurge against land acquisition to target the government. The government itself appears a house divided. State governments have been directed not to acquire land for SEZs. Many states have adopted the policy of ‘go slow’. Furthermore, the Finance Ministry has expressed serious apprehensions on the revenue outgo due to tax exemptions offered in SEZs. In September 2006 the Reserve Bank of India directed the banks not to treat SEZs as infrastructure projects but as real estate development activity. This not only raised the cost of debt but also prohibited SEZ developers to go for external commercial borrowings. The order was rescinded in September 2009. These controversies have sent wrong signals across the world regarding the sincerity of the government with respect to its policy and discouraged both local and foreign investors. In response to these controversies, the government has diluted not only the policy but also its support to SEZ investors. This in turn has affected the investors’ confidence badly. The lack of cooperation from state governments has also become a matter of concern. Though the SEZ policy has been in effect since February 2006, state laws have not been amended suitably. This provides a loophole in the system and is a major roadblock for the entrepreneurs to take advantage of SEZ benefits. Indeed they have registered an impressive growth in employment and investment; yet, their performance has been much below expectations for all these reasons. Five observations could be made (Aggarwal, 2012). First, as of now, less than two third of the approved zones have been notified. Of them, only one-third are functional. Second, of the 20 states that have their own notified SEZ, 16 states have reported some development activity. However, most activity is concentrated in five states, namely, Gujarat, Andhra Pradesh, Maharashtra, Karnataka and Tamil Nadu. As a result, their share in total SEZ employment and investment between 2006 and 2009 increased from 73 percent to 77 percent and 57 to 85 percent, respectively. Other states are laggards. Third, while investment activity has been substantial across states, actual employment generation remains far below the proposed employment figures. Maharashtra, Tamil Nadu, Haryana and Orissa have generated one fourth of the proposed employment. Other states have shown rather poor performance in terms of the gap between proposed and actual achievements. Fourth, IT/ITES and electronics zones have together contributed 84 percent of employment and 60 percent of investment. Among the manufacturing zones, engineering and pharmaceutical zones have been successfully initiated. Other zones are slow to pick up. One caveat is that capturing employment generation potential in manufacturing zones will involve long gestation period. Finally, the SEZ-induced benefits are highly concentrated with top five SEZs contributing more than 30% of employment, 42% of investment and 64% of exports (Table 3). It may be observed that the Jamnagar refinery alone contributed one third of the total SEZ exports in 2009–10. Strategising of SEZs: China vis-à-vis India 25 Table 3 Share of five top performing SEZs in employment, investment and exports: 2010 SEZ Share in employment (%) SEEPZ SEZ 12.6 MEPZ SEZ 5.7 Noida SEZ 5.5 DLF Info city Developers (Chennai) Ltd. Kandla SEZ total 3.4 3.1 30.3 SEZ Reliance Jamnagar Infrastructure Limited Mundra Port & SEZ Ltd. Infosys Technologies Limited(Mysore) Vedanta Aluminum Ltd. Dahej SEZ Share in I (%) SEZ Share in exports (%) 18.4 Reliance Jamnagar Infrastructure Ltd. 32.7 11.6 4.5 4.1 4.0 42.6 Surat Special Economic Zone Infosys Technologies SEZ Mangalore Cochin Special Economic Zone Nokia SEZ 12.1 9.3 5.7 4.3 64.1 Source: The Ministry of Commerce, Government of India. 5. A comparative analysis of India and China India’s SEZ experience has been in sharp contrast to that of China. In the initial phases (for the first 35 years), India essentially adopted the traditional approach towards SEZs and promoted them as trade enclaves with a focus on promoting trade first by offering fiscal incentives a la orthodox approach and then by improving investment climate a la heterodox approach; China on the other hand viewed SEZs as a key element of its cluster-based industrialization strategy in the initial stage itself. The institutional structure of SEZs which provided considerable economic incentives and leeway to local authorities, large city-size, and openness of SEZs facilitated domestic linkages with SEZs in the initial stages itself. Subsequently, smaller zones were created in the proximity of the existing zones or near industrially developed locations/clusters to generate synergies between them and promote a critical size of economic activity. Further, the SEZ sector has been expanded both, horizontally (stretching from east costal region to inland middle and west region) and vertically (creation of zones within zones). The outlying localities have thus immediately integrated with the interiors due to economic dependencies of the latter on the former and triggered the process of circulation and cumulative causation. Agglomeration economies generated in the process facilitated further entrants, in particular foreign investors. There is a strong empirical evidence which suggests that existing SEZs have been a strong mechanism of attracting further FDI in China due to the possibility of backward and forward linkages (Amiti and Javorcik, 2008; Wang, 2009; Debaere et al., 2010). Wang (2009) shows that increasing investment in SEZs affects domestic investment also positively in the process. The strategy of locating HIDZs and ETDZs in the same region also paid off. It may be recalled that ETDZs have been set up to attract high tech foreign enterprises whereas HIDZs aim originally and specifically at fostering the development of high-tech indigenous firms. It is found that they are mutually reinforcing. Liu and Wu (2010) find that an ETDZ with a HIDZ located in the same region (city) attracts significantly more FDI after controlling the effects of other factors. To reinforce the dynamism, more recently, newer varieties of SEZs are being created within the existing zones. As a result of the dynamic forces generated by agglomeration economies, China succeeded in developing ‘growth poles’ around its large SEZs (Mathews, 2010). Two of the most powerful growth poles are: the Pearl River Delta (PRD) in the south with Shenzhen at the core and the Yangtze River 26 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 Delta (YRD) in the east, with Shanghai as its principal cosmopolis. Mathews (2010) argues that as industrial concentration in Shenzhen and Shanghai grew, firms agglomerated around them. As a result, industrial towns and cities also emerged. He reports that there are more than 200 specialised towns in the PRD alone. Thus the success of Chinese SEZs is not due to their location in coastal areas as it is made out to be. In fact, in most countries, SEZs are located in coastal areas. China succeeded due to the spirit of experimentation with imaginative strategic approach adopted in the development of SEZs. Inspired by the success of China, India has also upgraded its SEZ programme to transform the country into a business, logistics and financial hub of the region and create world class cities. India started expanding their zone programme in 2000 when a paradigm shift was introduced in the policy. In 2005, an SEZ Act was passed with high expectations. While it lacks strategic vision and roadmap for the future, it does signify a major change in the approach towards SEZs. The initial success indicates that the programme does have a potential of driving industrialization in the country. However, the government has never demonstrated strong commitment to the programme. In the wake of criticism, the government diluted the policy through policy reversals. Now new policy blocks are under consideration, which threaten to take away exemptions that make the SEZs attractive to investors. This has created uncertainty among investors and has already slowed down the process of establishing SEZs. There is a veritable queue of companies asking for extensions, resizing and denotification of proposed projects. By July 2010, 12 SEZs were already denotified; many other are waiting to be denotified. The weak commitment, policy reversals and lack of vision in policy design and implementation may seriously jeopardize efforts to promote industrialisation through SEZs in future. There is thus a compelling need for the strategizing of SEZs such that they generate selfreinforcing processes and synergies with the domestic economy to the success of EPZ-led industrialization. However, an important ingredient to implementing a successful SEZ strategy is strong commitment that reflects intense focus on growth, knowledge of the necessary and sufficient conditions for growth, and belief in the strategy adopted for growth. Notes 1) His work has had a great influence in policy circles with a substantial growth in the number of cluster-based economic development initiatives in many parts of the world (Martin and Sunley, 2003). 2) While Marshallian industrial districts were based on comparative advantages, Porter promoted the notion of competitive advantages. 3) The largest EPZ at Kandla was merely 1000 acres in size. 4) Punjab, Haryana, UP, Rajasthan, Gujarat, Maharashtra, Kerala, Andhra Pradesh and Tamil Nadu. References Aggarwal, A. (2004), Export Performance of Export Processing Zones in India, ICRIER Working Paper 148. ― (2006), Special Economic Zones: Revisiting the Policy Debate. Economic and Political Weekly, Vol. XLI, Nos. 43 and 44, November 4–10. ― (2012), SEZs in India: Socio-economic impact, New Delhi: Oxford University Press, Forthcoming. Amin, Ash and Thrift, Nigel (1992), “Neo-Marshallian nodes in global networks,” International Journal of Urban and Regional Research, 16, pp. 571–587. 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(Aradhna Aggarwal, University of Delhi, India Email: [email protected]) Strategising of SEZs: China vis-à-vis India 29 中国とインドの台頭を比較する 東アジアとの経済的な関係をよりどころに 宮島良明 はじめに 世界経済の先行き不透明感が強まるなか、世界経済の牽引役として、新興国、とりわけ 中国とインドへの期待は高まっている。いまだにリーマンショックの影響を完全に払拭で きず、また、深刻な債務危機にも直面する欧米諸国を尻目に、中国とインドは何事もな かったかのごとく、成長軌道を維持しているように見えるからである。 ともすると中国とインドは、並べて語られることが少なくない。それは、両者ともに超 大国であり、かつ、近年の著しい経済成長と将来への成長可能性という共通項で括ること ができそうだからである。たしかに、現時点での、両者の経済的な「勢い」や「加速度」 には目を見張るものがある。 しかし、そのような「期待」のなかにあって、中国とインドの経済成長のパターンには、 いくつかの異なる点もありそうだ。本稿では、この「違い」について着目し、東アジア経 済との関連、とくに貿易と直接投資の側面を中心に検討を行うものである。以下、本論文 の構成である。 Ⅰでは、2000 年以降、中国の台頭が東アジア地域にとって、どのようなインパクトをも たらしたのか、これまでの私たちの研究をもとに整理する。Ⅱでは、種々のデータに基づ いて、中国とインドの貿易と直接投資の現状を比較検討する。Ⅲでは、これらの議論から、 産業構造の特徴や東アジア地域との「距離」 、および両国が直面する「課題」の差異につ いて検討し、中国とインドの経済成長パターンの「違い」を明らかにする。このことによ り、今後の中国とインドの経済を見据え、東アジア経済との関わりを考えるきっかけとし たい。 Ⅰ 東アジアへの中国台頭のインパクト 1) 1. 東アジア域内貿易の拡大 2000 年代のアジア経済には、とくに顕著な特徴が 2 つある。1 つは中国の台頭であり、 2) もう 1 つは域内貿易の拡大である。これまでの私たちの研究により 、2000 年以降の中国 の台頭は、東アジア地域における域内貿易の拡大を加速させたことがわかっている。 30 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 図 1 東アジアの域内向け輸出とアメリカ向け輸出(輸出額) (出所)UN COMTRADE、IFS、台湾統計(財政部)より宮島作成(初出は、宮島、2010: 34) 。 振り返ると、東アジア地域の域内貿易がその存在感を増してきたのは、プラザ合意後の 1980 年代半ば以降のことであった。当時の東アジアの貿易構造は、日本とアジア NIES の 「成長 輸出を、アメリカが最終製品市場(アブソーバー)として支える構造になっており、 3) のトライアングル」と呼ばれた 。1985 年の時点では、アメリカ向け輸出が 1,170 億ドル と東アジアの輸出総額の 32.4% を占め、東アジア域内向け輸出の 1,210 億ドル(33.5%)と ほぼ同規模であった(図 1)。 ところが、アメリカの貿易収支赤字の常態化やプラザ合意後の急速な円高は、東アジア にアメリカ一辺倒の輸出構造を許さなくなった。この難局に対して、とくに日本企業は生 産・輸出拠点を国外である東アジア(ASEAN 諸国、中国)へ移転し、さらには、アメリカ における現地生産に乗り出すことで対応した。その結果、 「成長のトライアングル」構造 は次第に瓦解し、図 1 より明らかなように、東アジアのアメリカ向け輸出の伸びは相対的 に低いものとなった。 一方、対照的に 1990 年代に入ると東アジアの域内向け輸出は急拡大した。1990 年に 2,785 億ドルだった域内貿易は、1995 年に 6,286 億ドルに達し、5 年間で倍増した。その後、 1997 年のアジア通貨危機による影響で、域内貿易は一旦減少に転じるものの、2000 年に は 7,691 億ドルと、通貨危機前の水準を上回るにいたった。 さらに、2000 年代に入ると中国の本格的な経済成長により、東アジアの域内貿易の拡大 は勢いを増した。域内貿易額は、リーマンショックのあった 2008 年には 1 兆 9,458 億ドル と、2000 年の 2.5 倍に達した。また、域内貿易率は、2004 年に 49.9% まで上昇し、その後、 40% 代後半で推移している。 このように、東アジア地域では 1980 年代、90 年代をとおして、域内貿易が拡大してき 中国とインドの台頭を比較する 31 ているが、とくに 2000 年代に入ると拡大幅が大きくなっている。これは、中国の台頭に よるところが大きいと考えられるが、それでは、その中国の台頭がどのような形で東アジ ア域内貿易の拡大・深化に作用したのか。次項では、2000 年代の東アジア域内貿易の「中 身」について検討を行う。 2. 東アジア域内貿易拡大の理由 2000 年代に東アジアの域内貿易が急拡大したのには、いくつかの理由があった。1 つ目 は、前項でも触れたように、世界経済・アジア経済のなかに、中国が本格的に登場してき たことである。それにともなって、中国は東アジア諸国にとっても、もっとも重要な貿易 パートナーの 1 つとなっていった。表 1 は、東アジア諸国(とアメリカ、EU)にとって、中 表 1 東アジア諸国の貿易相手国としての中国とインドの順位および貿易額とシェア 2000 順位 中国 輸出 インド 日本 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド 韓国 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド 台湾 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド 香港 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド シンガ ポール 中国 輸入 インド 32 2003 順位 2006 順位 2009 順位 金額 シェア 金額 シェア 金額 シェア 金額 シェア (100 万ドル) (%) (100 万ドル) (%) (100 万ドル) (%) (100 万ドル) (%) 4 2 2 1 30,325 6.3 57,474 12.2 92,722 14.3 109,577 18.9 25 25 25 20 2,487 0.5 2,397 0.5 4,451 0.7 6,329 1.1 2 1 1 1 55,090 14.5 75,579 19.7 118,437 20.5 122,515 22.2 29 30 27 28 2,636 0.7 2,179 0.6 4,054 0.7 3,728 0.7 3 1 1 1 18,455 10.7 35,110 18.1 69,459 21.3 86,703 23.9 25 13 10 9 1,326 0.8 2,853 1.5 5,533 1.7 8,013 2.2 3 3 2 1 12,348 7.7 21,909 12.3 48,557 15.7 54,246 16.8 26 27 18 16 983 0.6 1,233 0.7 3,641 1.2 4,142 1.3 8 3 1 1 4,195 2.8 21,399 14.9 48,315 22.7 50,919 26.3 25 22 20 15 715 0.5 770 0.5 1,448 0.7 2,497 1.3 4 3 2 2 6,212 4.4 10,983 8.6 24,567 12.2 24,347 14.0 32 29 27 21 513 0.4 625 0.5 1,246 0.6 1,621 0.9 1 1 1 1 69,888 34.5 95,572 41.7 149,512 46.3 164,360 49.8 19 16 15 7 1,269 0.6 2,142 0.9 3,177 1.0 7,170 2.2 1 1 1 1 87,773 41.0 97,511 41.7 151,965 45.3 161,607 45.8 12 12 10 9 2,942 1.4 3,685 1.6 5,701 1.7 8,005 2.3 7 5 4 3 5,373 3.9 10,146 6.3 26,514 9.8 26,320 9.8 14 15 11 10 2,784 2.1 3,094 1.9 7,671 2.8 9,243 3.8 4 4 3 3 7,110 5.3 11,084 8.1 27,248 11.4 25,959 10.6 22 20 13 12 1,075 0.8 1,446 1.1 4,885 2.0 5,608 2.3 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 表 1 東アジア諸国の貿易相手国としての中国とインドの順位および貿易額とシェア 表 1 (続き) 2000 順位 中国 輸出 インド タイ 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド マレーシア 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド インド ネシア 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド フィリピン 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド アメリカ 中国 輸入 インド 中国 輸出 インド EU 15 中国 輸入 インド 2003 順位 2006 順位 2009 順位 金額 シェア 金額 シェア 金額 シェア 金額 シェア (100 万ドル) (%) (100 万ドル) (%) (100 万ドル) (%) (100 万ドル) (%) 5 4 3 2 2,795 4.1 5,693 7.1 11,797 9.0 16,059 10.6 24 23 16 11 492 0.7 639 0.8 1,815 1.4 3,213 2.1 4 3 2 2 3,368 5.5 6,056 8.0 13,642 10.6 17,149 12.7 21 21 16 21 618 1.0 877 1.2 1,625 1.3 1,740 1.3 10 4 4 2 3,028 3.1 6,427 6.4 11,642 7.2 19,169 12.2 13 11 9 11 1,925 2.0 2,508 2.5 5,201 3.2 4,830 3.1 6 4 3 1 3,237 3.9 6,729 8.4 15,905 12.2 17,287 14.0 18 17 17 12 725 0.9 669 0.8 1,353 1.0 2,233 1.8 5 5 4 2 2,768 4.5 3,803 6.2 8,344 8.3 11,499 9.9 13 9 7 6 1,151 1.9 1,742 2.9 3,391 3.4 7,433 6.4 5 3 2 2 2,032 6.0 2,957 9.1 6,637 10.9 14,002 14.5 15 14 13 12 526 1.6 666 2.0 1,407 2.3 2,209 2.3 12 663 8 1.7 2,143 26 64 0.2 102 2.3 0.5 28,368 0.5 4,980 100,063 8.2 152,436 10,686 0.9 13,055 23,064 2.7 45,218 12,164 1.4 15,856 64,022 6.7 108,563 11,381 15,095 107,965 1.8 225,879 36,060 27,158 2.1 1 12.5 271,371 16 1.3 6.3 11 1 9.7 1.4 3 4.6 29,137 18 1.2 21,166 13 1.4 19.0 15 1.2 76,486 2 21 296,374 4 4.1 1.6 1 15.5 21,831 16 3 16,441 18 1.0 6.6 17 0.9 287,774 3 20 69,497 2 12.1 1.2 3 5.2 9,674 18 7 502 21 0.7 8.9 18 0.8 53,673 2 21 3,807 4 3.9 0.5 3 7.0 400 24 4 200 18 0.8 7.6 22 0.3 3,647 6 2.1 2,930 5 4.5 304 31 3,663 120 19 11 16,253 0.3 1,815 5 9.8 22 6 29 167 4,628 23 13 786 4 5.9 15.0 13 1.5 32,872 1.8 (注)1 位、2 位、3 位を網かけした。 (出所)World Trade Atlas より宮島作成。 中国とインドの台頭を比較する 33 国(とインド)が貿易相手国として、どのような位置にあるのかを示したものである。た とえば、2000 年の時点で、中国は、日本では輸出相手国として第 4 位、輸入相手国として 第 2 位、韓国では両者とも第 3 位であったが、2009 年をみると日本と韓国においては、輸 出相手国、輸入相手国ともに中国が第 1 位となっている。この間、中国のシェアが、日本 の輸出で 6.3% から 18.9% へ、輸入で 14.5% から 22.2% へ、韓国の輸出で 10.7% から 23.9% へ、輸入で 7.7% から 16.8% へ大幅に伸びた。 同様の動きは、ASEAN 諸国でも観察できる。とくにタイ、マレーシア、インドネシア においては、2000 年代をとおして貿易パートナーとしての中国の重要性は高まり続け、 2009 年には輸出入ともに第 1 位、もしくは第 2 位の相手国となっていることがわかる。つ まり、東アジア諸国と中国との貿易は、2000 年代に一気に関係を深め、域内貿易活発化の 原動力となったのである。 それでは、両者は何を取引することで貿易量を急激に増やしたのだろうか。それが、2 つ目の理由である。 2000 年代、世界の経済社会にもっとも強い影響を与えたもの、それは急速に普及した 「インターネット」であったと言っても過言ではないだろう。絶え間のない「情報」の行 き来は、世界規模で人間の生活スタイルを激変させるほどであった。このインターネット に参加し、利用するためには、パソコンや携帯電話などのいわゆる「端末」が必要である し、世界中のネットワークを維持し、拡大していくためには、随所に「サーバー(コンピュー タ) 」を置かなければならない。インターネットの普及・浸透は、これら「情報端末(IT 関 連製品) 」の需要を爆発的に増加させ、世界に一大マーケットを出現させた。 この IT 関連製品の生産を一手に担ったのが、東アジアであった。たとえば、末廣(2010) は、2009 年 の 携 帯 電 話(GSM; 第 二 世 代 規 格) の 世 界 生 産 に 対 す る ア ジ ア 生 産 比 率 が 93.5%、また、ノートパソコンにいたっては 100% であったことなどを指摘し、IT 関連製 4) 品の生産について「アジア一極集中化現象」が起こっているとした(末廣、2010: 9–12) 。 表 2 世界および東アジアのコンピュータ製品(SITC 752)とコンピュータ部品(SITC 759)の貿易 額(単位:100 万ドル、%) コンピュータ製品(SITC 752) 輸出 世界 コンピュータ部品(SITC 759) 輸入 東アジア 世界 東アジア 輸出 世界 輸入 東アジア 世界 東アジア 2000 199,048 74,536 37.4 219,760 40,303 18.3 165,851 78,325 47.2 153,732 48,970 31.9 2001 184,380 69,206 37.5 199,989 37,979 19.0 148,747 68,071 45.8 140,190 46,576 33.2 2002 181,242 78,165 43.1 200,698 39,126 19.5 149,110 76,332 51.2 138,682 50,638 36.5 2003 209,415 99,067 47.3 224,652 45,918 20.4 162,135 85,854 53.0 155,437 59,896 38.5 2004 249,188 124,304 49.9 263,086 52,739 20.0 182,847 103,084 56.4 180,567 70,043 38.8 2005 271,980 145,903 53.6 286,407 60,380 21.1 201,016 114,649 57.0 198,689 79,771 40.1 2006 298,346 166,357 55.8 305,807 64,874 21.2 222,140 127,251 57.3 220,206 85,122 38.7 2007 289,500 183,389 63.3 299,285 60,465 20.2 218,221 126,671 58.0 208,179 85,875 41.3 2008 294,600 190,806 64.8 301,476 68,353 22.7 213,409 124,595 58.4 204,774 83,304 40.7 (注)本表の作成には国連のデータを用いているため、ここでは東アジアに台湾のデータは含まれない。 (出所)UN COMTRADE より宮島作成。 34 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 それにともなって、実際に東アジアの IT 関連製品の輸出入額も急増した。コンピュー タ製品(SITC 752)の輸出額をみると(表 2)、2000 年には東アジア全体で 745 億ドル、世界 の輸出総額の 37.4% であったが、2008 年には 1,908 億ドルに増加し、そのシェアは 64.8% に達した。輸入も同様に 2000 年の 403 億ドル(同 18.3%) から 2008 年の 684 億ドル(同 22.7%)に増加した。 さらに注目すべきは、東アジアにおけるコンピュータ「部品」(SITC 759)の輸出入額の 多さである(表 2)。2000 年に 783 億ドルだった輸出額は、2008 年には 1,246 億ドルとなった。 世界の輸出総額に占める割合も、47.2% から 58.4% に増加した。また、コンピュータ部品 の輸入額も同じ期間に 490 億ドルから 833 億ドルに増加し、世界の輸入総額に占める割合 も 31.9% から 40.7% に拡大した。 このように東アジアは、2000 年代、世界規模での需要急増の機をうまくとらえ、IT 関 連製品の生産・輸出拠点となった。域内でコンピュータ「部品」を相互にやりとりしなが ら、コンピュータ「製品」を作り、世界市場、または域内市場にそれを輸出し、また輸入 しているのである。自動車や繊維などのほかの製品とは異なり、コンピュータの生産には、 大量のコンピュータそのものが必要となるため、生産量が増えれば増えるほど、消費量も また増える。このような域内における新しい「循環」は、最終製品市場(アブソーバー)を 5) アメリカにのみ求めるのではない、新しい発展メカニズムを東アジアに生みつつある 。 3. 東アジア地域における分業体制の形成 2000 年代、東アジアで域内貿易が急拡大した理由は、①東アジア諸国と中国との貿易が 急拡大したこと、かつ、②世界的な需要の急増に応じる形で東アジアが IT 関連製品の生 産拠点になったことであった。つまり、これは、東アジア地域に中国をハブとする IT 関 連製品の生産ネットワークが形成され、分業体制が着実に構築されてきたことを意味す る。このことを貿易データから確認しておこう。表 3 は、東アジア諸国と中国との貿易に おいて、いわゆる「水平貿易(産業内貿易)」がどの程度、行われているかのかを示したも のである。この指数は、HS コードの 4 桁分類(全部で約 1,270 品目)に基づいて算出されて いる。1 品目ごとに産業内貿易指数(貿易特化係数)を計算し、値により 5 つのカテゴリー に分類する。その後、 「水平貿易」のカテゴリーに分類される品目の貿易全体に占める割 6) 合を合算し、指数化したものである 。 表内では、30% 以上の部分を網かけしているが、左の「全品目」で計算をした場合より、 「IT 関連製品」を抜き出して計算した場合のほうが、明らかに網かけ部分が多いことがわ かる。そして、台湾、香港、フィリピンを除けば、日本を含めた東アジア諸国と中国との 貿易において、IT 関連製品の分野については、水平貿易指数が 2000 年代をとおして高い 水準で推移していることが見て取れる。 ところで、東アジア地域に IT 関連製品の生産が集中し、分業が進んだ背景はどのよう なものであったのだろうか。これには外資企業、とくに日系企業の戦略が大きく関わって 中国とインドの台頭を比較する 35 表 3 東アジア諸国の対中国貿易(全品目、IT)における水平貿易指数の変化 単位:% IT 関連製品 2001 2004 56.3 43.0 日本 1995 24.0 1998 29.4 全品目 2001 29.6 2004 28.6 2008 34.4 1995 62.1 1998 69.5 韓国 台湾 香港 シンガポール 26.2 15.0 35.3 26.5 19.8 22.8 30.6 48.8 24.9 19.7 28.7 57.0 26.0 18.8 15.1 63.0 35.8 22.2 2.9 47.3 66.4 41.7 61.6 63.5 55.8 47.9 57.6 91.7 58.1 32.0 35.0 81.6 46.5 23.9 15.9 85.5 52.7 21.6 0.1 65.1 タイ マレーシア インドネシア フィリピン 11.6 12.5 6.6 7.8 20.9 23.5 7.6 23.0 33.9 33.0 27.3 19.9 29.0 30.1 30.6 13.9 24.7 24.9 16.6 14.2 35.7 34.7 3.7 12.3 27.1 47.8 49.2 54.6 63.8 45.2 48.2 23.6 34.7 36.7 45.1 10.4 29.1 34.3 50.2 11.9 アメリカ EU 17.5 12.3 24.6 20.4 25.6 29.8 15.4 24.1 15.6 25.4 56.4 17.9 72.1 38.2 59.7 52.3 15.7 26.0 9.6 10.3 2008 43.1 (注)30% 以上の部分を網掛けした。 (出所)World Trade Atlas より宮島作成(初出は、宮島、2010: 45) 。 いると考えられる。中国という巨大なマーケットのなかにあっても、日系企業は中国国内 の現地子会社を、中国国内マーケットへの対応のみに専念させなかった。つまり、中国か ら世界市場やアジア市場をカバーしていくべく、中国国内に一大生産・輸出拠点を築く戦 略をとった。日系企業の中には、すでにプラザ合意以降の円高局面において、ASEAN 諸 国や中国に足場を築いていたところも多かったという事情もあり、日本の本社と中国の現 地子会社、また ASEAN 諸国の現地子会社と中国の現地子会社など、さまざまな経路で生 産ネットワークを形成していくことが可能であったからだ。これにより「企業内貿易」が 増加し、東アジア域内貿易の拡大につながった。 さらに、IT 関連製品を中心とした「機械・機器」の製品特性、および中国の企業やマー ケットの特性がこれらを後押しした。もともとパソコンなどの IT 関連製品は川上から川 下まで 1 つの企業が、1 つの国で、一貫生産をする必要がない製品である。そして、日本 の企業とは異なり、中国の企業の中には、この一貫生産に対するこだわりがないところも 多い。だから、主要な基幹部品を外国(日系)企業から買い付けて組み立てることに、と くに抵抗感がなく、かつ、中国国内の消費市場にもすんなり受け入れられる土壌があっ 7) た 。丸川(2007)は、これを「垂直分裂」型産業と呼ぶが、この特性が IT 関連の産業内 において、分業が進んだ 1 つの理由であると考えられる。 以上のように、2000 年代の中国の台頭は、東アジア地域の貿易構造や産業構造を大きく 変化させた。中国における IT 関連製品を中心とした「機械・機器」の世界的な生産・輸 出拠点化の動きとともに、東アジア域内には生産プロセスにおける分業体制が形成されて きた。それにより域内貿易が拡大し、東アジアに新しい発展のメカニズムが生じてきてい 36 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 る。アジア経済の「自立」への道も垣間見えるところである。中国台頭のインパクトとは、 東アジアにとってそれほど大きなものであった。 Ⅱ 中国とインドの貿易と直接投資 1. 貿易構造の比較 中国とインドの台頭について、貿易構造の比較から行おう。図 2 から図 5 は、中国とイ ンドの輸出構造と輸入構造の変化を、それぞれ示したものである。はじめにわかることは、 両者ともに近年の輸出入額が大幅に伸びているということである。2000 年の中国の輸出額 は 2,493 億ドル、輸入額は 2,251 億ドルであったが、2009 年には輸出が 4.8 倍の 1 兆 2,020 億ドル、輸入が 4.5 倍の 1 兆 39 億ドルとなり、輸出入ともに大きく増加したことがわかる。 同様に 2000 年に 423 億ドル、506 億ドルだったインドの輸出入額は、2009 年には輸出が 1,651 億ドルの 3.9 倍、輸入が 2,518 億ドルの 5.0 倍へと増加し、こちらも著しい伸びを示 した。 両者ともに近年、大幅に貿易を伸ばしているということは共通しているのだが、その中 身に目を向けると違いが大きい。中国の場合は、やはり「機械・機器」の割合が高く、 2000 年代を通じてシェアを伸ばしてきた。これは、前節で検討した、東アジア域内で IT 関連製品の生産(分業体制)と貿易が拡大しているという議論と符合する。2009 年に「機 械・機器」は中国の全輸出のうち、53.0% を占めるにいたった(図 2 の棒グラフの一番上の区 分) 。2000 年には 36.2% であったので、9 年間で 16.8%、割合を増やしたことになる。金額 ベースでみると、2000 年の 903 億ドルが 2009 年には 6,376 億ドルへと 7.1 倍に増加してい る。同じく中国の場合、輸入においても、2009 年には「機械・機器」が 47.2% を占めてい る。つまり、現在の中国貿易の約半分が「機械・機器」によるものであるということになる。 一方、インドの「機械・機器」の割合は、決して高くはない。2009 年に輸出で 16.0%、 輸入で 22.8% を占めるにすぎない。ただし、2000 年にはそれぞれ 8.5%、16.9% であったの で、現時点で割合の拡大傾向は見て取れる。それ以外のインドの貿易における近年のはっ きりとした傾向は、輸出、輸入ともに、石油を中心とする「鉱物性燃料」が大きな割合を 占めているということである(図 3 および図 5 の棒グラフの下から 2 番目の区分)。2009 年に輸 出で 14.6%、輸入で 32.8% が「鉱物性燃料」である。経済成長によるエネルギー消費の増 加を背景とした輸入の増加のみならず、とくに輸出においても近年の増加は著しく、2000 年の 3.3% と比較して、2009 年には 10% 以上、割合を増やしたことになる。主に「原油」 を輸入し、精製後「石油・同製品」を輸出していることになるが、この背景には、リライ アンスやエッサールなどの民間企業の参入による石油精製能力の急拡大がある(日本貿易 振興機構、2010: 137) 。逆に 2000 年に 26.4% の割合を占めた「繊維・同製品」の輸出は縮小 傾向が続き、2009 年には 13.2% になった。 中国とインドの台頭を比較する 37 このように中国とインドの貿易構造には、はっきりとした違いがあることがわかる。輸 出入ともに「機械・機器」が中心の中国に対して、インドの貿易においては、現時点で「機 械・機器」の割合はそれほど高くはない。この「違い」の背景については、改めて第Ⅲ節 で議論する。 図 2 中国の輸出構造の変化(1995 年∼ 2009 年) (注)製品分類(HS コード 4 桁)は、ジェトロの分類による。日本貿易振興機構(ジェトロ)編『ジェト ロ貿易投資白書 2009 年版』JETRO、2009 年、381 頁。 (出所)World Trade Atlas より宮島作成。 図 3 インドの輸出構造の変化(1999 年∼ 2009 年) (注)製品分類(HS コード 4 桁)は、ジェトロの分類による。日本貿易振興機構(ジェトロ)編『ジェト ロ貿易投資白書 2009 年版』JETRO、2009 年、381 頁。 (出所)World Trade Atlas より宮島作成。 38 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 2. 貿易品目と貿易相手国の比較 中国とインドの主要な貿易品目について確認しておこう。表 4 では、中国とインドの 2000 年と 2009 年の輸出入品目のうち、貿易額が大きいものから順番に 15 品目を示した。 ここでは、HS コード 4 桁分類(約 1270 品目)を使用している。 図 4 中国の輸入構造の変化(1995 年∼ 2009 年) (注)製品分類(HS コード 4 桁)は、ジェトロの分類による。日本貿易振興機構(ジェトロ)編『ジェト ロ貿易投資白書 2009 年版』JETRO、2009 年、381 頁。 (出所)World Trade Atlas より宮島作成。 図 5 インドの輸入構造の変化(1999 年∼ 2009 年) (注)製品分類(HS コード 4 桁)は、ジェトロの分類による。日本貿易振興機構(ジェトロ)編『ジェト ロ貿易投資白書 2009 年版』JETRO、2009 年、381 頁。 (出所)World Trade Atlas より宮島作成。 中国とインドの台頭を比較する 39 40 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 8527 8542 15 8525 11 14 6402 10 8517 8504 9 13 4202 8 3926 6203 7 12 6110 6204 4 6403 9503 3 6 8473 2 5 8471 HS コード 1 金額 合計 249,240 T シャツ 合計 6109 その他 15 革製衣類 42,299 24,876 481 496 504 綿織物 (綿重量が 80% 以上、1 平米 200 グラム以下) 2,938 4203 5208 589 632 651 663 739 818 831 883 964 1,111 1,343 6,719 金額 室内用布製品 コメ インド特有 医薬品 女性用シャツ 貴金属の身辺用細貨 男性用シャツ 綿糸 甲殻類 女性用スーツ 石油精製品 183,392 14 13 6304 1006 9991 3004 6206 品目名 ダイヤモンド 集積回路 3,017 3,124 12 11 10 9 8 7113 6205 5205 0306 6204 2710 7102 HS コード インドの輸出品目 (単位:100 万ドル) 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 2710 4202 6204 9403 8504 6110 8541 8443 9013 8542 8901 8473 8528 8517 8471 HS コード 金額 合計 その他 石油精製品 鞄 女性用スーツ 家具部品 トランスフォーマー 1,202,047 779,039 12,546 12,792 13,151 13,661 14,681 14,907 ジャージ、カーデガン、 トレーナー 15 14 13 12 11 10 9 8 17,078 15,509 7 6 5 4 3 2 1 20,337 23,634 23,800 26,200 26,662 86,458 101,591 2009 年 半導体デバイス 印刷機 レーザー 集積回路 一般船舶 コンピュータ関連部品 テレビ 携帯電話を含む通信機器 コンピュータ関連製品 品目名 中国の輸出品目 (単位:100 万ドル) 表 4 中国とインドの貿易品目の比較 2000 年と 2009 年 その他 無線受信機器 携帯電話を含む通信機器 3,283 3,288 デジタルカメラなど記録 媒体 プラスチック雑品 3,442 3,611 3,847 ゴム履物 トランスフォーマー 鞄 男性用スーツ 7 6 4,298 4,186 5 4,578 皮履物 ジャージ、カーデガン、 トレーナー 4 3 2 1 4,591 4,980 5,675 10,991 女性用スーツ 玩具 コンピュータ関連部品 コンピュータ関連製品 品目名 中国の輸出品目 (単位:100 万ドル) 2000 年 5407 8901 6109 6204 9993 2942 8517 1006 8703 9999 3004 2601 7113 7102 2710 HS コード 金額 合計 165,144 87,567 1,410 その他 1,694 一般船舶 1,834 1,936 2,041 2,159 2,162 2,392 2,953 3,129 3,954 5,314 7,973 15,232 23,396 合成繊維(長繊維)の織 物 T シャツ 女性用スーツ インド特有 有機化合物(その他) 携帯電話を含む通信機器 コメ 乗用車 その他(各国特有) 医薬品 鉄鉱 貴金属の身辺用細貨 ダイヤモンド 石油精製品 品目名 インドの輸出品目 (単位:100 万ドル) 中国とインドの台頭を比較する 41 2,971 2,485 特殊機械 スチレン重合体 合成繊維(長繊維)の織 物 8471 8517 8540 2710 8529 8541 8479 3903 5407 3901 1201 8522 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 225,095 合計 (出所)World Trade Atras より宮島作成。 151,998 2,125 2,270 2,360 3,589 3,593 3,607 3,657 3,763 4,029 4,517 5,499 その他 再生機部品 大豆 エチレン重合体 半導体デバイス 通信機器部品 石油精製品 陰極線管 携帯電話を含む通信機器 コンピュータ関連製品 コンピュータ関連部品 13,801 8473 集積回路 8542 金額 14,832 3 品目名 2 原油 2709 1 HS コード 中国の輸入品目 (単位:100 万ドル) 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 2000 年 5201 8524 2707 4403 7106 9801 2809 8473 8471 1511 2701 2710 7108 7102 2709 HS コード 品目名 金額 合計 50,577 印刷回路 石炭 自動車部品 コンピュータ関連部品 乗用車 半導体デバイス 精製銅 石油精製品 大豆 携帯電話を含む通信機器 合計 8534 品目名 コンピュータ関連製品 レーザー 鉄鉱 原油 集積回路 その他 15 2701 8708 8473 8703 8541 7403 2710 1201 8517 8471 9013 2601 2709 8542 HS コード 19,097 330 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 中国の輸入品目 (単位:100 万ドル) その他 綿 364 460 ベンゾールなど芳香族化 合物 記録用媒体 468 559 611 661 664 691 882 883 1,830 3,964 5,202 13,911 原木 銀 その他(各国特有) 五酸化二りん コンピュータ関連部品 コンピュータ関連製品 パーム油 石炭 石油精製品 金 ダイヤモンド 原油 インドの輸入品目 (単位:100 万ドル) 表 4 (続き) 金額 1,003,893 537,723 9,469 10,578 12,390 13,658 14,354 15,578 15 14 13 12 11 10 9 8 16,561 15,879 7 6 5 4 3 2 1 18,790 19,087 21,764 38,247 50,168 88,896 120,752 2009 年 8708 8523 3105 7208 3104 2603 1511 9801 2711 2710 2701 8517 7102 7108 2709 HS コード 品目名 金額 合計 その他 自動車部品 録音用媒体 251,777 105,457 2,130 2,210 2,321 2,430 配合肥料 2,542 鉄鋼フラットロール製品 (熱間圧延) 3,033 3,515 3,926 4,091 4,509 7,585 8,490 13,460 21,072 65,008 カリ肥料 銅鉱 パーム油 その他(各国特有) 軽油 石油精製品 石炭 携帯電話を含む通信機器 ダイヤモンド 金 原油 インドの輸入品目 (単位:100 万ドル) 前項の貿易構造からもわかるように、中国の場合は、やはり「機械・機器」に分類され る品目が上位を占めている。とくに 2009 年の輸出をみると、第 1 位から第 9 位までが「機 械・機器」ということになる。なかでも、コンピュータ関連製品(HS 8471)、コンピュー タ関連部品(同 8473)、集積回路(同 8542)などの IT 関連製品が、東アジアにおける「域内 貿易」の主役であることは、前節で述べたとおりである。コンピュータ関連製品(同 8471) は、2000 年にも第 1 位の輸出品目となっているが、2009 年にはその輸出額が 9 倍以上の 1,016 億ドルへと急増していることに注目する必要がある。 そのほか、2000 年と 2009 年を比較すると、輸出では 2000 年に上位に位置した玩具(同 9503)や女性用スーツ(同 6204) 、ジャージなど(同 6110)、皮履物(同 6403)などの雑貨や 衣類が順位を下げた。輸入の場合も、IT 関連製品が上位に位置することに変わりはないが、 少しずつ構造変化の兆しも見える。それは、近年の中国の旺盛な「消費力」を反映し、原 油(同 2709)、石油精製品(同 2710)、石炭(同 2701)などのエネルギー関連品目や、鉄鉱(同 2601) 、精製銅(同 7403)などの鉱物資源や原材料、また大豆(同 1201)などの食糧・飼料 関連の品目が上位に位置するようになってきていることからもわかる。 一方、インドの場合に特徴的なのは、石油関連製品と、ダイヤモンドや金などの貴石・ 貴金属が上位に位置する点であろう。2009 年の輸出の第 1 位は石油精製品(同 2710)であ り、輸入の第 1 位が原油(同 2709)である。近年、インドが石油精製に力を入れていると いうことは前述したとおりである。また、輸出の第 2 位がダイヤモンド(同 7102)、第 3 位 が貴金属の身辺用細貨(同 7113)であり、輸入の第 2 位が金(同 7108)、第 3 位がダイヤモ ンド(同 7102)である。いずれも、原材料を輸入し、研磨・加工後、輸出するパターンで 輸出入が増加しているものと考えられる。2000 年と 2009 年を比較すると、輸出の場合、 女性用スーツ(同 6204)、綿糸(同 5205)、男性用シャツ(同 6205)など、衣類・繊維製品が 順位を下げる一方、鉄鉱(同 2601)、医薬品(同 3004)、乗用車(同 8703)、コメ(同 1006)、 携帯電話(同 8517)が上位に登場してきた。とくに携帯電話(同 8517)は、2009 年に輸入 でも第 4 位となっており、この輸出入の拡大については、今後、インドがさきにみた東ア ジア地域の分業体制のなかに、参入していく兆しを示しているものなのかどうか、注視す る必要がある。また、もう 1 つ、近年の乗用車(同 8703)の輸出増加について、インドが、 ヨーロッパやアフリカ向けの小型乗用車の輸出基地になりつつあることを示すものなのか どうかに、今後も注目していきたい。 さて、中国とインドの 2000 年と 2009 年の貿易相手国を比較したものが、表 5 である。1 つ目の特徴は、近年、中国とインドは相互に貿易相手国としての重要性を増しているとい うことである。中国にとって貿易相手国としてのインドは、2000 年には輸出入ともに 15 位以内には入っていなかったが、2009 年には輸出で第 9 位、輸入で第 15 位と順位を上げた。 また、インドにとって貿易相手国としての中国は、2000 年には輸出で第 15 位、輸入で第 7 位にすぎなかったが、2009 年にはそれぞれ第 3 位、第 1 位へと順位を急上昇させた。イ ンドにとって中国は 2000 年代をとおして、まさに主要な貿易相手国となったことがわかる。 42 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 中国とインドの台頭を比較する 43 金額 41,520 25,497 23,208 22,365 10,411 9,431 7,180 5,769 5,480 5,060 5,025 4,402 4,380 3,950 3,751 47,664 225,095 シェア 18.4 11.3 10.3 9.9 4.6 4.2 3.2 2.6 2.4 2.2 2.2 2.0 1.9 1.8 1.7 21.2 100.0 その他 合計 国名 ベルギー イギリス アメリカ スイス 日本 ドイツ 中国 シンガポール マレーシア 南アフリカ サウジアラビア オーストラリア インドネシア 香港 UAE 金額 3,248 3,155 2,859 2,775 2,057 1,813 1,465 1,388 1,306 1,255 1,072 1,035 983 908 823 24,435 50,577 シェア 6.4 6.2 5.7 5.5 4.1 3.6 2.9 2.7 2.6 2.5 2.1 2.0 1.9 1.8 1.6 48.3 100.0 インドの輸入相手国(単位:100 万ドル) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 2000 年 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 国名 日本 韓国 中国 台湾 アメリカ ドイツ オーストラリア マレーシア ブラジル タイ サウジアラビア ロシア シンガポール アンゴラ インド その他 合計 金額 130,749 102,125 86,380 85,706 77,433 55,904 39,175 32,206 28,311 24,846 23,582 21,099 17,636 14,661 13,704 250,376 1,003,893 シェア 13.0 10.2 8.6 8.5 7.7 5.6 3.9 3.2 2.8 2.5 2.3 2.1 1.8 1.5 1.4 24.9 100.0 中国の輸入相手国(単位:100 万ドル) 中国の輸出相手国(単位:100 万ドル) 国名 金額 シェア 1 220,706 18.4 アメリカ 2 166,109 13.8 香港 3 97,209 8.1 日本 4 53,630 4.5 韓国 5 49,932 4.2 ドイツ 6 36,689 3.1 オランダ 7 31,267 2.6 イギリス 8 30,050 2.5 シンガポール 9 29,570 2.5 インド 10 21,445 1.8 フランス 11 オーストラリア 20,660 1.7 12 20,466 1.7 台湾 13 20,246 1.7 イタリア 14 19,632 1.6 マレーシア 15 UAE 18,573 1.5 365,863 30.4 その他 1,202,047 100.0 合計 表 5 中国とインドの貿易相手国の比較 2000 年と 2009 年 インドの輸出相手国(単位:100 万ドル) 国名 金額 シェア 1 9,297 22.0 アメリカ 2 2,761 6.5 香港 3 UAE 2,430 5.7 4 2,207 5.2 イギリス 5 1,827 4.3 日本 6 1,822 4.3 ドイツ 7 1,432 3.4 ベルギー 8 1,269 3.0 イタリア 9 968 2.3 フランス 10 857 2.0 オランダ 11 856 2.0 ロシア 12 サウジアラビア 809 1.9 13 783 1.9 シンガポール 14 バングラデシュ 771 1.8 15 732 1.7 中国 13,476 31.9 その他 42,299 100.0 合計 (出所)World Trade Atras より宮島作成。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 国名 日本 台湾 韓国 アメリカ ドイツ 香港 中国 ロシア マレーシア シンガポール オーストラリア インドネシア タイ フランス カナダ その他 合計 中国の輸入相手国(単位:100 万ドル) 中国の輸出相手国(単位:100 万ドル) 国名 金額 シェア 1 52,142 20.9 アメリカ 2 44,530 17.9 香港 3 41,611 16.7 日本 4 11,287 4.5 韓国 5 9,278 3.7 ドイツ 6 6,684 2.7 オランダ 7 6,311 2.5 イギリス 8 5,755 2.3 シンガポール 9 5,040 2.0 台湾 10 3,802 1.5 イタリア 11 3,707 1.5 フランス 12 オーストラリア 3,429 1.4 13 3,158 1.3 カナダ 14 3,061 1.2 インドネシア 15 2,565 1.0 マレーシア 46,880 18.8 その他 249,240 100.0 合計 2000 年 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 2009 年 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 2009 年 インドの輸入相手国(単位:100 万ドル) 国名 金額 シェア 28,788 11.4 中国 UAE 15,396 6.1 14,643 5.8 アメリカ 14,545 5.8 サウジアラビア 10,564 4.2 オーストラリア 10,550 4.2 イラン 10,332 4.1 ドイツ 10,221 4.1 スイス 7,691 3.1 韓国 7,583 3.0 インドネシア 7,526 3.0 クウェート 6,347 2.5 日本 5,841 2.3 イラク 5,763 2.3 シンガポール 5,674 2.3 ナイジェリア 90,314 35.9 その他 251,777 100.0 合計 インド(単位:100 万ドル) 国名 金額 シェア UAE 20,665 12.5 18,186 11.0 アメリカ 10,155 6.1 中国 6,938 4.2 香港 6,721 4.1 シンガポール 6,407 3.9 オランダ 6,182 3.7 イギリス 5,451 3.3 ドイツ 3,732 2.3 韓国 3,728 2.3 サウジアラビア 3,464 2.1 マレーシア 3,450 2.1 ベルギー 3,237 2.0 イタリア 3,186 1.9 日本 3,178 1.9 フランス 60,462 36.6 その他 165,144 100.0 合計 もう 1 つは、東アジア諸国との関係である。中国の場合、域内貿易の拡大を背景として、 輸出入それぞれ上位にアジア NIES や ASEAN 諸国を含む東アジア諸国が位置する。2009 8) 年には、輸出で 35.3%、輸入で 42.5% が東アジア諸国との貿易である 。一方、インドの 場合は、2009 年の輸出でこそ第 4 位に香港、第 5 位にシンガポールが位置するが、輸入に おいては第 1 位の中国から第 9 位の韓国まで、東アジア諸国は登場しない。2009 年の輸出 9) 入における東アジア諸国の割合も、18.5%、16.9% と中国とくらべると高くはない 。 ただし、中国とインドに共通点もある。それは、アメリカへの輸出である。両者ともに、 アメリカが主要な輸出先の 1 つとなっている。中国では 2000 年、2009 年ともに輸出先第 1 位はアメリカである。インドの場合、直近では中国が第 1 位となっているものの、2000 年 代、アメリカがもっとも重要な輸出先であったことに違いはない。 3. 対内直接投資の比較 中国とインドにおいて貿易が堅調に拡大してきた理由の 1 つとして、近年の外国企業に よる両国への投資の増大があげられる。図 6 には、中国とインドの直接投資受入額(フロー) と、直接投資残高(ストック)の GDP 比を示した。両国とも 2000 年代をとおして、おおむ ね直接投資の受入額を増加させていることは共通している。中国の場合は、2000 年に 408 億ドルであったが、2010 年には 1,057 億ドルと、2.6 倍に増加した。インドの場合は、2000 年代半ば以降に顕著な増加傾向を示している。2000 年に 40 億ドルだった直接投資受入額 は、2005 年に 90 億ドル、2010 年に 304 億ドルへと増加した。2000 年と 2010 年を比較す ると、その規模は 7.5 倍となった。 一方、直接投資残高の GDP 比の推移をみると、中国とインドが違う段階にあることが わかる。中国では、直接投資そのものは増加しているにも関わらず、2000 年代の経済 図 6 中国とインドの直接投資受入額と直接投資残高の GDP 比 (出所)中国商務部ホームページの「中国投資指南」 (中国の直接投資受入額) 、インド商工省ホームペー ジの SIA Newsletter July 2011(インドの直接投資受入額) 、JETRO ホームページ(中国とインドの 直接投資残高 GDP 比)より宮島作成。 44 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 (GDP)の高成長により、残高の GDP 比率は減少傾向にある。つまり、中国経済は直接投 資の役割が経済規模とくらべた場合に、相対的に縮小してきている段階にあるとみること ができる。他方、インドはまさに現在、海外からの直接投資を 1 つの原動力として、経済 成長が進む最中にあると言えよう。実際に 2000 年代半ばから顕著に増加し始めた直接投 資により、残高の GDP 比率は 2005 年の 5.1% から 2009 年には 13.0% まで増加した。リー 表 6 中国とインドの対内直接投資 上位 10 カ国 (2010 年の実行ベースの順位、単位:100 万ドル、%) 中国 順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 国・地域 香港 台湾 シンガポール 日本 アメリカ 韓国 イギリス フランス オランダ ドイツ その他 合計 2010 年 67,474 6,701 5,657 4,242 4,052 2,693 1,642 1,239 952 933 10,150 105,735 構成比 63.8 6.3 5.4 4.0 3.8 2.5 1.6 1.2 0.9 0.9 9.6 100.0 2000 年∼ 2009 の累計 239,774 25,583 26,409 44,434 36,422 35,675 8,762 5,917 7,778 11,458 192,799 635,011 構成比 37.8 4.0 4.2 7.0 5.7 5.6 1.4 0.9 1.2 1.8 30.4 100.0 インド 順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 国・地域 モーリシャス シンガポール アメリカ 日本 オランダ キプロス スイス イギリス フランス インドネシア その他 合計 2010 年 構成比 7,208 2,121 1,414 1,295 1,147 920 884 748 746 433 4,092 21,007 34.3 10.1 6.7 6.2 5.5 4.4 4.2 3.6 3.6 2.1 19.5 100.0 2000 年 4 月∼ 2011 年 9 月の累計 60,690 15,106 10,019 7,099 6,525 5,441 1,991 9,175 2,656 606 29,666 148,974 構成比 40.7 10.1 6.7 4.8 4.4 3.7 1.3 6.2 1.8 0.4 19.9 100.0 (注)1)2010 年の中国への国・地域別直接投資額には、ケイマン諸島、サモア、モーリシャス、バ ルバドスなどを経由したものを含むが、2000 年∼ 20009 年までの累計額には含まない。 2)2005 年以降、中国の直接投資のデータには「金融」部門のものが含まれる。ただし、2010 年の中国のデータは、速報値のため、 「金融」部門のものは含まれていない。 ( 『ジェトロ世界貿 易投資報告 2011』JETRO、182 頁。 ) 3)インドのデータには、 「株式取得」分のみ含まれ、 「再投資」などの金額は含まれない。 (出所)JETRO ホームページ(http://www.jetro.go.jp/indexj.html、最終アクセス日 2011 年 11 月 29 日) 、 ジェトロ『中国データ・ファイル 2010 年版』海外調査シリーズ No. 382、中華人民共和国 国家統計局編『中国統計年鑑』各年版、SIA Newsletter September 2011(Department of Industrial Policy & Promotion, Ministry of Commerce & Industry, Government of India のホームページ(http:// dipp.nic.in/English/Default.aspx、最終アクセス日 2011 年 11 月 29 日) )より宮島作成。 中国とインドの台頭を比較する 45 マンショックの影響により、2010 年には減少に転じているが、今後の趨勢に注目する必要 がある。 それでは、増えている投資はどこからのものが多いのであろうか。表 6 は、2010 年の両 国に対する直接投資が多い上位 10 カ国を示したものである。また、表の右の欄には、そ の国・地域の 2000 年代の両国への直接投資累計額とその割合を示した。中国の場合は 2000 年から 2009 年、インドの場合は 2000 年 4 月から 2011 年 9 月までの累計額である。 中国、インドともに、第 1 位が全体に占める割合が大きくなっている。2010 年、中国へ の直接投資が一番多いのは、香港で全体の 63.8% を占める。累計額でも全体の 37.8% を占 め、香港が中国投資の拠点となっていることがわかる。とくに 2010 年のシェアが拡大し ている理由は、2008 年 1 月に施行された「企業所得税実施条例」により、香港経由で中国 に投資するほうが有利と考える欧米や日本の企業が増えたことである 10) 。 インドの場合は、2010 年、モーリシャスからの直接投資が全体の 34.3%、累計額でも 40.7% を占めている。インドとモーリシャスは、1982 年に二重課税制廃止取り決め(Double Taxation Avoidance Agreement, DTAA)を締結しており、モーリシャス居住者はインド株の売買 を行っても課税されることがない。このため、アメリカやシンガポールなどを含む外国の 表 7 中国とインドの対内直接投資 セクター別累計額(実行額ベース、単位:100 万ドル、%) 2000 年∼ 2009 年 の累計額 構成比 インド 製造業 393,565 62.0 不動産 92,765 14.6 サービスセクター(金融含 む) 通信(無線、携帯電話、有 線電話) 社 会 サ ー ビ ス・ ビ ジ ネ ス サービス 運輸・倉庫・郵便・通信 商業・飲食業 40,633 6.4 25,665 25,195 4.0 4.0 15,878 9,579 7,641 7,201 5,228 3,070 中国 電気・ガス・水道 農林・畜産・漁業 調査研究・公共施設管理 建築 鉱業 教育・文化・健康・福祉・ エンターテイメント 金融・保険 その他 合計 2000 年 4 月∼ 2011 年 9 月 構成比 の累計額 30,386 20.4 12,456 8.4 10,842 7.3 10,835 9,506 7.3 6.4 2.5 1.5 1.2 1.1 0.8 0.5 コンピュータソフト・ハー ド 住宅、不動産 建築(一般道路、高速道路 含む) 電力 自動車 金融 医薬 石油・天然ガス 化学(肥料をのぞく) 6,900 6,365 5,653 4,983 3,281 3,125 4.6 4.3 3.8 3.3 2.2 2.1 2,502 6,089 0.4 1.0 ホテル・旅行 その他 2,880 41,762 1.9 28.0 635,011 100.0 148,975 100.0 合計 (注) 中国の直接投資のデータは、2004 年よりセクターの分類が若干変更されて発表されている。ここ で示した 2000 年から 2009 年の累計額は、それをふまえて、再集計したものである。 (出所)中華人民共和国国家統計局編『中国統計年鑑』各年版、SIA Newsletter September 2011(Department of Industrial Policy & Promotion, Ministry of Commerce & Industry, Government of India のホームペー ジ(http://dipp.nic.in/English/Default.aspx、最終アクセス日、2011 年 11 月 29 日) )より宮島作成。 46 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 投資家や、さらにインドの企業においても、モーリシャスを経由した、いわゆる迂回投資 (ラウンド・トリッピング)を多く行っている実態がある(絵所、2011: 217) 。 もう 1 つ、中国の場合の特徴は、貿易実態に反映されているとおり、香港以外にも 2010 年には第 2 位の台湾、第 3 位のシンガポール、第 4 位の日本、第 6 位の韓国と、東アジア 地域の国が上位に位置していることである。香港を含めれば、2010 年の 5 カ国の合計が 82.1%、2000 年から 2009 年の累計額でも 58.6% を占め、東アジアからの投資が多いことが 11) わかる 。 最後に、中国とインドにおいて、どのセクターに直接投資がなされているのかを比較し ておこう。表 7 は、中国とインドの 2000 年代の直接投資について、セクター別の累計額 とその割合を比較したものである。ここでのデータは、中国政府、インド政府のそれぞれ の発表によるものなので、必ずしも両者の「セクター」の分類(定義)が一致はしていない。 しかし、大まかな傾向をつかみ、それぞれの国における特徴を知るには有用であろう。 中国の場合、2000 年から 2009 年までの累計額でみると、直接投資されるセクターは、 「製 造業」が圧倒的に多く、全体の 62.0% を占めている。さきにみたように、中国は、 「機械・ 機器」を中心とした貿易構造を有していた。つまり、2000 年代、東アジア諸国を含む、多 くの外国の企業が、直接投資によって「機械・機器」の生産拠点を中国に築き、そこから 世界へと輸出を展開していったということがわかる。 他方、インドの場合は、第 1 位が金融を含む「サービスセクター」である。2000 年 4 月 から 2011 年 9 月までの累計額は、304 億ドルと全体の 20.4% を占めている。第 2 位が携帯 電話を含む「通信」分野で 8.4%、第 3 位が「コンピュータソフト・ハード」で 7.3% とつ づく。これらのいわゆる IT 関連の「サービス」分野で合計 36.0% となる。これに相当す るセクターが、中国の分類では第 3 位の「社会サービス・ビジネスサービス」 、第 4 位の「運 輸・倉庫・郵便・通信」であるが 12) 、中国では単純に合計しても 10% あまりにすぎない。 すなわち、インドでは、この「サービス」分野に海外から相対的に多くの直接投資が集まっ ていることがわかる。 Ⅲ 中国とインドの「違い」 1. 産業構造と東アジアのポジション これまでの検討から、中国とインドの経済的な台頭には、いくつかの違いや特徴がある ことがわかった。本節では、この点を整理しておく。 1 つ目は、2000 年代の中国が、 「機械・機器」を中心とした製造業分野に傾注した工業 化を進めてきたのに対し、インドでは、 「機械・機器」の分野が必ずしも成長の主力には なっていないということである。この点については、前節で検討した貿易構造の違いや、 直接投資のセクター別のウェートから明らかである。 中国とインドの台頭を比較する 47 ここでは、そのことを前提に、それでは中国とは異なるインドの経済成長の原動力はな にか、ということについて考えておかなければならない。たびたび議論されるところでは、 同じ IT 関連でも中国の場合とは異なり、インドの場合は、そのソフトウェアの開発、お よびサービスに強みを持っているということである。実際に 2000 年代半ばには、インド のサービス貿易は急増しており、その 6 割程度がソフトウェア・サービスの輸出によるも 13) のとの指摘もある(絵所、2009: 26–28) 。 ただし、インドの経済成長を全面的に牽引しているのは、必ずしもソフトウェア開発や ビジネスサービスだけではない。二階堂(2010)の研究によれば、経済成長とともに GDP に占める比率を伸ばしているのは第三次産業であったが、そのなかでも成長を主導したの は、卸売・小売業、ホテル・レストラン、公共サービスであった(二階堂、2010: 149)。イ ンドの場合は、中国と比較して、より内需主導型、サービス主導型の経済成長であると言 えそうである。この点が、リーマンショックにより IT 関連産業などの外需がしぼんだ局 面においても、インド経済がそれほど強烈な影響を受けなかった理由とも考えられる。 2 つ目は、中国、インドと東アジア諸国との関係についてのものである。これまで検討 してきたように、中国の場合は、東アジア地域との経済的な相互関係の深化のなかでこそ、 その急速な工業化を実現し、経済成長を達成しえた側面が強い。換言すれば、中国と東ア ジア諸国の相乗作用により、域内貿易の拡大と分業体制の進展がもたらされたと言える。 さきにも述べたように、この背景には、日系企業を含む外資企業が中国を、世界マーケッ ト向け最終製品の生産拠点、輸出拠点として位置づけていたということがあった。 現時点において、インドではそのような動きが弱いようである。つまり、インドに進出 する外資企業は、インドに対して、生産拠点、輸出拠点としてというよりは、大きなマー ケットとしてアプローチしている段階のようである。たとえば、日系企業のなかには、今 までの東アジア域内での分業体制などの蓄積を利用しながら、ASEAN 諸国からインドへ 最終製品を輸出する戦略をとるところもあるようだ。東アジアで作ってインドで売るとい う戦略である。こうした日系企業の中国とインドに対するスタンスの違いは、両国に対す る ASEAN 諸国の戦略的な位置づけの違いにも現れているようだ。 2. 「課題」の違い 3 つ目に触れておきたいのは、貿易から少し離れるが、中国とインドが直面している「課 題」の違いという点である。昨今、中国や ASEAN4(タイ、マレーシア、インドネシア、フィ リピン)など東アジア諸国は、さまざまな解決すべき問題を抱えつつあるとされる。1 つは、 「中所得国の罠」と言われるもので、世界銀行のレポートにより指摘された(Gill and Kharas, 2007) 。これは、 「中所得」に達した国が、いつまでも資本と労働の投入量の増加に頼った 経済成長を続けていると、どこかで行き詰まり、 「罠」にはってしまうという危険性を指 摘し、同時にその回避方法について示したものである 14) 。 「中進国の それに対して、大泉(2011)は、この「中所得国の罠」を回避するためにも、 48 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 課題」を解決することこそが重要であると主張した(大泉、2011: 164–166)。これは、経済 成長が進むにつれて、これらの国の主要な問題が、貧困の解決から、国内における都市と 農村の地域間所得格差の是正へと移行しつつあることを提起したものである。都市部では 先進国同様の生活スタイルが普及しつつあるが、農村部ではいまだ低所得の状態から抜け 出せない場合も少なくはない。皮肉にも、いわゆる南北問題から脱しつつある東アジア諸 国は、大泉(2011)の言葉を借りれば、国内に新たな「南北問題」を抱えこんでしまった ことになり、社会的摩擦や政治的不安が誘発されやすい状況となってしまった。 さらに、ゆゆしき事態は、これと平行して、中国や ASEAN4 を含む東アジア諸国で急速 に高齢化が進んでいることである(大泉、2007)。そのうえ、若い人が農村部から大都市部 にどんどん出て行く現状にあるとすれば、農村部においてこそ高齢化が加速することにな る。すなわち、いまだ低所得の段階にあるであろう、中国や ASEAN4 の農村部において、 だれが、どのように高齢者のケアをしていくのか、という問題に直面しているのである。 「先進国」の日本においてでさえ、介護や年金や医療の問題については、なかなか出口が 見えないのにである。 翻って、インドは、いまだに「若い」国であるとされる。生産年齢人口の割合が増加す る「人口ボーナス」の期間を中国と比較すると、中国では 2015 年頃には終わりを迎えるが、 インドでは 2040 年頃まで続くとみられている(大泉、2007: 64, 129–131)。また、浦田ほか (2010: 72)の研究によれば、インドの場合、購買力を持つ人が必ずしも都市部に集中して おらず、農村部にも多く存在している 15) 。このような事情が、中国の次はインドだという、 インドへの期待感につながっているのかもしれない。 おわりに 本稿では、中国とインドの経済的な台頭について、貿易や直接投資の側面から比較を 行ってきた。とくに中国と東アジアとの経済的な関係に焦点をあて、インドの経済成長の パターンとの「違い」を考えるよりどころとした。 現時点までの暫定的な結論は、インド経済の成長パターンには、東アジア(アジア NIES、 ASEAN、中国)の経験とは異なる部分が多いということである。東アジアのように貿易や 分業を通じて市場にアクセスするというよりは、インドの場合は内需主導の側面が強い。 それゆえ、中国とインドの貿易を比較した場合、 「機械・機器」を中心とした製造業の割 合に大きな差があった。 また、東アジアには、中国が台頭してきた 2000 年代、域内に IT 関連製品の分業による 新たな市場が生まれた。その市場へアクセスすることにより、中国と東アジア諸国との貿 易に相乗効果が生まれ、相互に経済の成長を押し上げるという構図があった。今後、この 構図がどのように変化していくのか、また、インドがこの東アジアの分業体制に加わるこ 中国とインドの台頭を比較する 49 とがあるのかどうか、注目していきたいところである。 (付記) 本稿は、アジア政経学会 2011 年度全国大会の国際シンポジウム「新興大国・中国とイ ンドの経済発展:政府・市場・企業」において、筆者が行った報告をもとに構成されてい る。座長の厳善平先生、コメンテーターの中兼和津次先生、絵所秀紀先生、張楽天先生を はじめ、フロアからも多くの先生がたから貴重なコメントを頂戴した。ここに記してお礼 を申し上げたい。 (注) 1)貿易データへのアクセスという観点から、とくに断りのない限り、本稿では、日本、中国、アジア NIES(韓国、台湾、香港、シンガポール) 、ASEAN4(タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン) から構成される地域を「東アジア」と呼ぶ。 2)この研究は、筆者が東京大学社会科学研究所・現代中国研究拠点・貿易班のメンバーとして行ったも のである。研究成果としては、宮島・大泉(2008) (中国と東アジア諸国との貿易について、データの整 理と分析を行ったもの) 、Suehiro et al.(2008) (貿易班の研究成果のエッセンスを紹介したもの)などが ある。 3)たとえば、凃(1990: 25–28) 、末廣(1995: 170–176)を参照。 4)ここでのデータの原典は、富士キメラ総研『2010 ワールドワイド・エレクトロニクス市場総調査』 2010 年 3 月。ちなみに、携帯電話(GSM)の世界生産に対する中国の生産比率は 69.6%、ノートパソコ ンは、93.7% であった。 5)末廣(2010: 12)は、 「これは、東アジアが過去追求してきた、アメリカを最終的なアブソーバーとす る『国際加工基地型』の工業発展(衣類、家電、家具、玩具など)とは全く異なる発展メカニズムであっ た」と指摘する。 6)計算方法の詳細は、宮島・大泉(2008) 、および宮島(2010)を参照。 7)丸川(2007)の第 4 章を参照。2000 年代の前半においても、中国のパソコン市場の 4 割程度が、いわ ゆるノーブランドのパソコン( 「兼容機」 )であったと指摘されている(丸川、2007: 161) 。 8)東アジアの 9 カ国(日本、韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、マレーシア、インドネシア、フィ リピン)との貿易の合計値。 9)注 8 同様、中国を除く東アジア 9 カ国の合計値。 10)日本貿易振興機構(2009: 168) 。2008 年 1 月以降、中国へ進出した企業が本国の親会社などへ配当をす る場合、10% の源泉徴収納税が課されることとなった。一方、香港の親会社などへの配当は、中国と香 港が二重課税防止協定を締結しているため、25% 以上の出資企業の場合、源泉徴収納税額が 5% ですむ。 これにより、税制面で有利な「香港経由」の投資が活発化している。 11) ただし、注 10 でも述べたとおり、欧米企業からも、香港経由で中国に投資されている場合があること に留意する必要がある。 12)ここでは、分類の都合上、 「通信」のなかに、 「情報通信、コンピュータサービス、ソフトウェア」が 含まれている。中国では、 「情報通信、コンピュータサービス、ソフトウェア」の直接投資額のデータが 2004 年から独立した項目として発表されており、2004 年から 2009 年までの累計額は、95 億ドルである (中華人民共和国国家統計局編『中国統計年鑑』各年版) 。 13)絵所(2009: 28)は、インドの貿易が「商品」貿易ではなく、サービス貿易依存型であること、および、 そのなかでもソフトウェア・サービスの輸出が、サービス貿易勘定(ネット)の黒字のほぼすべてを支 えていることなどから、インドの貿易の現状を「ソフトウェア・モノカルチャ型貿易構造」と呼んだ。 このことは、インド経済の「強み」を表していると同時に、 「危うさ」もはらんでいることを示している。 14)罠を避けるためには、①生産と雇用の特化、②イノベーション、③教育制度の改革、が必要であると する(Gill and Kharas, 2007: 17–18) 。 15)たとえば、インド国内市場の過半数のシェアを占めるヒーロー・ホンダの 2008 年度バイク国内販売に おける農村シェアは 60%、インド最大の携帯電話会社バルティ・エアテルの新規加入者のうち農村地域 の人の割合は 2009 年 3 月時点で 57% であったことが指摘されている(浦田ほか、2010: 72) 。 50 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 (参考文献) 日本語 浦田秀次郎・小島眞・日本経済研究センター編(2010) 、 『インド:成長ビジネス地図』日本経済新 聞社。 絵所秀紀(2009) 、 「台頭するインドと東南アジアの経済関係:予備的概観(1) 」 『経済志林』第 77 巻 第 1 号。 ―(2011) 、 「台頭するインドと東南アジアの経済関係:予備的概観(2) 」 『経済志林』第 78 巻第 4 号。 大泉啓一郎(2007) 、 『老いてゆくアジア:繁栄の構図が変わるとき』中公新書。 ―(2011) 、 『消費するアジア:新興国市場の可能性と不安』中公新書。 末廣昭(1995) 、 「アジア工業化のダイナミズム」工藤章編『20 世紀資本主義Ⅱ:覇権の変容と福祉 国家』東京大学出版会。 ―(2010) 、 「東アジア経済をどう捉えるか?:開発途上国論から新興中進国群論へ」 『環太平洋 ビジネス情報 RIM』Vol. 10, No. 38。 凃照彦(1990) 、 『東洋資本主義』講談社現代新書。 二階堂有子(2010) 、 「グローバル化とインドの経済自由化」横川信治・板垣博編『中国とインドの 経済発展の衝撃』御茶の水書房。 日本貿易振興機構(2009) 、 『ジェトロ貿易投資白書 2009』JETRO。 ―(2010) 、 『ジェトロ世界貿易投資報告 2010』JETRO。 ―(2010) 、 『中国データ・ファイル 2010 年版』海外調査シリーズ No. 382。 ―(2011) 、 『ジェトロ世界貿易投資報告 2011』JETRO。 丸川知雄(2007) 、 『現代中国の産業:勃興する中国企業の強さと危うさ』中公新書。 宮島良明(2010) 、 「自立に向かう東アジア:域内貿易の拡大と分業体制の形成」 『環太平洋ビジネス 情報 RIM』Vol. 10, No. 38。 宮島良明・大泉啓一郎(2008) 、 『中国の台頭と東アジア域内貿易:World Trade Atlas(1996–2006)の 分析から』東京大学社会科学研究所・現代中国研究拠点・研究シリーズ No. 1。 英語 IMF, International Financial Statistics Yearbook, each year. Indermit Gill, Homi Kharase (2007), An East Asian Renaissance: Ideas for Economic Growth, The World Bank. Suehiro Akira, Miyajima Yoshiaki, Oizumi Keiichiro (2008), “The Rise of China and Development of IntraRegional Trade: Findings from the World Trade Atlas (1996–2006),” Social Science Japan, No. 39, Newsletter of the Institute of Social Science, University of Tokyo. 中国語 中華人民共和国国家統計局編『中国統計年鑑』各年版。 (ホームページ) インド商工省ホームページ(SIA Newsletter 各号) 。 JETRO ホームページ。 台湾財政部ホームページ。 中国商務部ホームページ( 「中国投資指南」 ) 。 (貿易データ) UN Comtrade(国連のデータベース) 。 World Trade Atlas(GTI 社のデータベース) 。 (みやじま・よしあき 北海学園大学経済学部 E-mail: [email protected]) 中国とインドの台頭を比較する 51 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 河野 正 はじめに 華北村落のあり方については、今まで多くの研究がされてきた。そこで描かれるのは、 境界や領域が定まらず、それが定まっているところでも飛び地などが入り組み、農民にも 明確な村界意識が無い、という村落像であった。村として確固とした共同体が形成されて いなかったことも指摘されている。しかし後述するように先行研究の多くは、日中戦争中 に満鉄調査部によって行われた調査の記録である『中国農村慣行調査』に拠るものである。 近年省レベルでの檔案の公開や地方新聞の利用が進んでおり、新たな史料から改めて華北 農村像を再検討する必要があろう。また 1940 年代後半以降、中国共産党(以下中共)が、 農村まで直接的に支配する政権を打ち立てていくが、その過程における農村社会の変化は 十分に明らかではない。 そのため本稿では「村意識」について、2 つの作業を行いたい。1 つは中華人民共和国 建国時において、華北農村の「村意識」がいかなるものだったのかを再検討することであ る。その上で、 「村意識」が中華人民共和国時期にいかに変化したのかを明らかにする。 その目的はまず、 『中国農村慣行調査』に拠る従来の農村像に対し、新史料による修正を 行うことにある。そうすることにより、中共が農村で行った土地改革や農業集団化などの 諸改革が、いかなる環境の下で行われたのかを明らかにするとともに、諸改革が農村社会 に与えた影響を分析することが可能となるだろう。結論を先取りするならば、本稿で考察 の対象とした農村においては、一定程度の村の土地意識や同村人としての意識は存在して いた。そして村レベルでは、村意識の存在ゆえに上級の意向とは異なった方針で工作を行 うことや、その村意識が工作の順調な進行を阻害することさえもあったのである。このよ うな視点に立てば、後述するような「受け皿論」とは異なる視点から、村の在り方と中共 との関係を位置づけることが可能となるだろう。 なお本稿で使用する「村」という言葉の指す範囲は、基本的には自然村たる村落である。 華北の村落は一般に村落間の距離が遠く孤立分散して存在しており(福武、1976)、土地改 革や初級農業生産合作社の組織は、実質的に村落が単位とされている。華北農村に関する 先行研究が「村」として想定しているのも、この村落であると言える。また「村意識」に 関する議論の内、本稿では特に重要と思われる村の領域や境界など村の空間的広がりと、 村人意識や村人の資格など人間的広がりの 2 つに焦点を当て、考察の対象としたい。その 理由は、村の領域は土地改革の分配に密接に関わるものであり、村民の範囲も土地財産の 52 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 分配や、農業集団化時期の入社対象として重要となり、それぞれの影響が軽視できないた めである。 華北の地域の中で、本稿では檔案史料や地方新聞、史料集など多くの史料が利用可能な 河北省を対象に考察したい。時間的な区切りとしては、村が政策執行の単位として重要に なる、中華人民共和国建国から土地改革を経て、農業集団化までを対象とする。 Ⅰ 従来の華北農村像 1. 先行研究による華北農村像 冒頭でも触れたが、従来の研究によって示される華北の農村像について整理しておきた い。まず村界について考えてみよう。旗田巍は、華北における村の範囲とは、村の看青(農 作物の見張り。詳細は後述)の範囲であると説明している(旗田、1973) 。また王福明も旗田 の意見を踏襲し、華北農村の村界は古くから存在したものではなく、近代以来政府による 攤派などの徴収が増え、その徴収範囲確定のために、発生したものだと説明している(王、 1995) 。そしてこの村界が定まっている所においても、実際には多くの飛び地が見られ、境 界は入り乱れた状態となっていたと言われている(Myers, 1970)。国民党政権下でも村界画 定の試みはあったが、それは十分に機能しなかった(Duara, 1988)。 このように華北の村の在り方に関する従来の研究は、多くが明確な村の土地の境界の不 在を示すものであり、それも中華人民共和国建国前のものに集中している。これについて 中華人民共和国時期を対象に考察を行ったのが小林弘二である(小林、1997)。小林による と中共は、戦後内戦期の土地改革において、村同士の飛び地の解消を図っていた。農業集 団化においても、慎重ながらも土地の連続化(つまり飛び地の解消)を行っていたが、一連 の村界の画定は十分な成果を得られないまま人民公社時期に突入した、と述べている。つ まり小林は中華人民共和国建国初期の華北農村について、やはり確固とした村の土地意識 がなかったと考えていた。しかし小林の研究は主に中共側の方針が対象であり、実際に政 策の対象となる村レベルにおいて、いかなる対応があったのかは十分に明らかではない。 では村民についてはどうだろうか。これに関しては主に、村の共同体的性格の有無につ いて議論がされている。旗田巍は以前より華北の農村について、共同体的性格が希薄であ ると指摘してきた(旗田、1973)。これは共同行為や落ち穂拾いなどを分析し、その過程で 村民としての強いまとまりが見られないことによって導かれた結論である。一方で福武直 も華北の村落に集団的意識は存在していたとするものの、それは村民を拘束する程の強い ものではなかったと説明している(福武、1976)。近年では内山雅生が、村内の共同行為に ついて分析し、共同行為が経済的に格差のある農民同士で行われていると指摘した上で、 それが共同体を維持するための機能を持つと指摘し、そのような共同行為の存在が、農民 が農業集団化を受け入れる受け皿となったと説明している(内山、2003)。これに対して奥 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 53 村哲や三品英憲は、共同行為は私的なものであり、それによって共同体的集団を維持して いるとは言えないとして内山を批判する(奥村、2003; 三品、2003a、2003b)。張思は、実際 には経済的に格差のある農民同士の共同行為は少なく、多くは同程度の経済状況の農民同 士で共同行為を行っていた、として内山を批判している(張、2005)。他方、李懐印は河北 省の農村を対象に村規の機能等について分析を行い、村としてのまとまりを自明なものと して扱っているが、村内には対立や衝突が存在しているとして、 「そのような村落社会は、 日本の研究者たちの言う共同体とは異なるものである」と指摘する(Li, 2005)。 このように、華北農村の村民に関する研究では、現在に至るまで、その共同体的性格の 有無について積極的な議論が行われており、共同体的性格を否定する見方と、共同体的性 格が存在し、それが農業集団化の受け皿になったという受け皿論という 2 種類の議論に分 化してきたと言える。その際、共同体的性格を肯定する論者も否定する論者も、その条件 としては、排他的凝集性や集団を拘束する強い集団意識の有無、そして村内の共同行為の 性格などを問題としていた。しかしその前提となる村民の条件や意識といった側面は、十 分に注目されてこなかったと言える。三品はまさに村意識について考察を行い、 「本村人」 とは、ある時点でその村に居住している住人ということ以上に積極的な意味をほとんど持 たないと述べている(三品、2003a)。しかしこれは三品本人が「覚書」と前置きするように、 理念の提示に留まっている。また、主に『中国農村慣行調査』に依拠しており、華北農村 に対する従来の見方を超えるものではない。また上述の受け皿論も、中華人民共和国時期 の農村像の説明には不十分かと思われる。吉沢南は互助組について「共産党の天下になっ て上から押し付けられた、まったくの新生物ではな」く、共産党の方が農民の相互扶助の 慣行を利用したものであると説明している(吉沢、1987: 77)。内山も、生産力の低位な段階 にあった農民は、生産力向上のために集団化を認めて活路を見出す必要があり、また農民 たちは農業集団化の概念を労働力や生産用具の相互利用という共同化の概念で理解し、政 策を受け止めたと説明する(内山、2003: 155)。土地改革によって土地が分配された後、労 働力や生産手段の不足により、互助組が必要であったのは事実であり、その組織に当たっ て旧来の互助慣行の枠組みが利用されたことは筆者も同意するところである。一方で農業 集団化、特に農業生産合作社の組織化には多くの困難が伴っており、農民が積極的ではな かったことも小林弘二らの研究で明らかになっている(小林、1997)。ここから考えると、 農業集団化が、村落の互助慣行を基礎として、下からの必要によって進められたものなの か、それとも中共によって上からの必要によって進められたものなのかは、依然として議 論の余地があると思われる。また、従来の受け皿論の多くはその考察を、主に互助組時期 までに留めている。農業集団化と村落社会との関係について、農業生産合作社時期にまで 視野を広げて考察する必要があるだろう。そこで本稿では合作社化と村落社会の関係につ いて、受け皿論とは異なる形で位置づけたい。 この他、山本真は山西省における聞き取り調査を利用し、土地改革における村民意識の 問題について考察を行い、土地改革時期にも本村人と外村人の区別や差別は存在してお 54 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 り、それが土地改革に影響を与え、また土地改革自体が本村人と外村人との対立を高める こともあったと指摘する(山本、2011)。祁建民は人民公社時期の村民意識について言及し ている。祁の研究によると、人民公社時期に至っても村には「同じ村人」という村落意識 が存在しており、それは闘争の内容にも影響を与えていた(祁、2006)。しかし山本、祁両 氏の研究では土地改革の後、人民公社成立までの期間については史料的制約もあり、十分 に触れられていない。人民公社時期の村民意識がいかなる経緯の上で成り立っているのか を確認するためにも、土地改革から農業生産合作社時期の変容について考察することが必 要であろう。 そこで本稿の目的は、まずは従来『中国農村慣行調査』に拠っていた華北農村像につい て、その他の史料によって再検討を行うことにある。そして中華人民共和国建国後の農村 における村意識を整理し、それが土地改革や農業集団化といかなる影響を与え合ったのか を明らかにしたい。 2. 史料 前節までに見てきた問題関心に基づき、本稿では主に以下の史料に基づいて考察を行 う。まず未刊行史料として、河北省檔案館所蔵の檔案を利用する。また、定期刊行物とし て、 『河北日報』と『内部参考』を利用したい。前者は中国共産党河北省委員会の機関紙 であり、報道として事実関係を知る他に、それぞれの事例に対して、中共が省委員会レベ ルでいかなる認識を持っていたのかを知ることができる(拙稿、2010)。また、紙面には「問 与答」という欄があり(1950 年以降は「問事処」と改称)、ここでは農民からの投書と、それ に対する省レベルの意見を確認することができる。後者は全国規模で発行されていた中共 の内部発行の刊行物である。これは、河北省以外の全国の状況を知るために利用したい。 加えていくつかの史料集を使用する。1 つは『河北土地改革檔案史料選編』である(以 下『河北史料』 ) 。これは河北省檔案館が同館所蔵の檔案を編集、出版したものであり、内 戦期から 1950 年代までの、河北省における土地改革関係の史料を集めたものである。ま た、村民意識の在り方を考える上で、農業税制度を確認するため、 『中華人民共和国農業 税条例問答』(以下『農業税条例問答』)を利用する。これは 1958 年に「中華人民共和国農業 条例」が公布された際に、それを巡る問答およびそれ以前の農業税条例を収録した冊子で ある。そして、河北省の農村における聞き取り記録も 2 つ利用したい。1 つは日中戦争中 に満鉄が華北の農村で行った調査の記録である『中国農村慣行調査』であり、2 つ目は『中 国農村変革と家族・村落・国家』である(以下『中国農村変革』)。これは三谷孝らを中心に、 『中国農村慣行調査』の対象村落において 1980 年代から 1990 年代にかけて行われた再調 査の記録である。この 2 つの調査記録を利用することにより、伝統的華北村落の様子を明 らかにすることができるのと同時に、その社会の 1940 年代以降の変容を考察することが 可能となる。 これらの史料を利用することにより、何を明らかにできるのであろうか。整理しておき 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 55 たい。まず『中国農村慣行調査』と『中国農村変革』を利用することにより、日中戦争以 前における農村の様子と、その後の変化を明らかにすることができる。しかしこれは対象 地域が限られており、また中共の政策や意向、そしてそれに対する下級での対応を知るに は不向きである。それを補うために、利用するのが上述の檔案や定期刊行物、史料集を利 用する。これらを踏まえて、以下で考察をしていきたい。 Ⅱ 村の土地と中共 1. 土地改革時期の土地 前述の通り従来の研究では、華北農村では村の境界は多くの所で定まらず、他方でそれ が定まっている村においても、飛び地等により不明確なものであったと指摘されている。 またその境界は必ずしも古くから存在したものではなく、近代における村の困窮化、そし て攤派など上級からの徴収の増加する過程で発生したものであった。そして農民自身の感 覚としても、明確な村界意識は存在していなかったと説明されている(旗田、1973: 116– 120) 。ここでは村の土地について改めて検討してみたい。 小林弘二の研究では、土地改革時期に中共は村の土地を整理する必要性を感じていたと 説明されている。小林によると中共は、国共内戦期の土地改革において、積極的に解決を 促進した。そこでは地主・富農が他村に所有する小作地は一律に没収するという属地主義 を採っている。また自作地についても、徹底的な均分が行われた地域では、かなり減少し ている。同時に、村界の画定も指示していた(小林、1997: 758–764)。一方で建国後、江南 を中心とする地域の土地改革を指示した 1950 年 6 月制定の「中華人民共和国土地改革法」 第 11 条では、 「郷と郷の間で交錯する土地については、元々耕作していた者が属する郷の 土地として分配する」と規定し、属人主義で処理するよう指示している(『建国以来重要文 献選編』第 1 冊 : 338) 。 しかしながら建国後の 1949 年に、江南の土地改革に先駆けて華北の新解放区の土地改 革を命じた、華北新区土地改革に関する華北局の指示の中では、土地の帰属に関する言及 は見られない(『中華人民共和国経済檔案資料選編』農村経済体制巻 : 36–39)。この時期の村の土 地を巡る状況について、省レベルと県・村レベルの状況を考えてみたい。1949 年 10 月 10 日、華北局は「新区土地改革に関する決定」を発布し、河北省を含む華北の新解放区の土 地改革を指示する。それを受け中共河北省委員会は、1949 年 10 月 15 日に「華北局の『新 区土地改革の決定』を具体的に執行し、旧解放区と半旧解放区で土地改革を完了させるこ とに関する指示」を発布する。そこでは 2 つの村に跨る土地の処理について、 「生産に有 利なように処理をする。そして、裕福な村が貧しい村に譲るという原則によって処理をす る」と指示している(『河北史料』: 650)。また『河北日報』紙面でも 1950 年 1 月 27 日の「問 事処」にて、同様の土地については両村の話し合いによって解決するべきだとの意見を示 56 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 している。このように省レベルでは、属地主義や属人主義のような原則を想定しておらず、 飛び地の解決も意図されていない。 このように省レベルの方針としては、飛び地の解決に消極的であった。それでは、土地 改革以降に改めて発生し得る飛び地についてはどうだろうか。従来土地の売買は村を超え て行われることもあり、それが土地の交錯を一層促進していた(『中国農村変革』第 1 巻 : 514) 。土地の売買に対する中共の対応の例として、衡水県韓家荘の状況を見てみよう。そ こでは土地改革を行った後、農民たちは早期に社会主義に移行すると考え、私有財産が侵 害されることを恐れるようになった。そのため農民は積極的に生産をすることを止め、生 産のために土地や家畜を購入することも少なくなった。これに危機感を抱いた村の党支部 書記は、近隣の後韓荘で土地が売られた時に、率先して土地を購入した。それを見た他の 村民たちは、党員が土地を購入したことで私有財産が保護されると信じ、率先して土地を 購入して農業生産を行うようになった、と報じられている(『河北日報』、1950 年 5 月 29 日)。 ここでは、他村の土地も含む土地の購入が奨励されている。この方針は、同時期の省政 府の報告からも確認でき、第 1 回河北省各界人民代表会議でも農民が土地改革で得た土地 を売買する自由を保障すると宣言している(資料 1)。このように、土地改革後の村の土地 の固定や、村界の確定について省政府は積極的ではなく、村を超えた土地の売買について 禁止されることはなく、むしろ奨励されていた。 一方で下級では、属地主義によって積極的に飛び地を解消しようとする事例も見られ た。欒城県寺北柴、順義県沙井村ではそれぞれ、土地改革によって村内にある他村の地主 の土地を、耕作者である農民に分配しており、それを「村の土地が増えた」と認識してい る(『中国農村変革』第 1 巻 : 176、825)。また沙井村では、隣村との間の土地を、道路を境に 分けている(『中国農村変革』第 1 巻 : 820)。これを経て同村では村の境界が確定するに至っ たが、それは 2 年ほどでまた無くなっている(『中国農村変革』第 1 巻 : 841)。また、抵当に入っ ている土地についても同様の傾向を見ることができる。寺北柴では、他村に住む王賛周が 村内で 200 畝余りの土地の抵当権を所有していた。同村では土地改革の際に王と闘争して 土地を回収したが、それについて「土地が実家に戻ってきた」と認識していた(『中国農村 変革』第 1 巻 : 106) 。ここでは、上級の意向に反して自主的に土地改革の機会を利用し、飛 び地の回収や村の土地の拡大を図っていたと言える。このように、固定された範囲として の村の土地という意識はないものの、村では「村の土地」という意識は存在しており、土 地改革に影響を与えていた。 その上で、それらの村の土地に対する侵害とそれに対する反応についても考察しておき たい。密雲県では土地改革後の 1950 年、季荘村の公産地に、隣村の農民が勝手に植え付 けをするという事件が発生している(『河北日報』、1950 年 5 月 28 日)。また同時期には束鹿 県でも、北智邱村の農民が「自分の土地が足りない」という理由で、隣村の農民の土地か ら、麦を勝手に刈り取るという事件が発生した(『河北日報』、1950 年 7 月 19 日)。これらは どちらも個人ではなく、村同士が話し合いを行って解決を図るが、決着がつかず区と県に 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 57 訴えに行っている。しかしどちらの例も区や県は真面目に対応せず、困った農民が『河北 日報』宛に投書をするという結果に至ったのである。 このような例は、村と上級との間の村の土地を巡る認識の違いを反映するものである。 これまで見てきた通り、上級にとって村の土地の帰属は、大きな問題ではなかった。一方 で小田則子によると、清代の華北において他村の農民との争いに際して村が単位となって 対応することもあった(小田、1997)。小田の紹介する例は水利を巡る争いであるが、ここ で見るように村や個人の土地争いにおいても、そして中華人民共和国建国後も変わらず村 として対応していたのである。つまり、村の公産地のみならず、個々の村民の土地に対す る侵害も、村の問題であると考え対応されていた。これは、個々の村民の土地を、村とし て対応するべき村の土地であると認識していたことの表れである。 このように見ると旗田の指摘とは異なり、建国初期の河北省の農村では、村の土地とい う意識が存在していたと認められよう。そのような土地意識によって、土地改革の過程で、 上級の方針とは無関係に、村として自主的な飛び地の調整なども行っていたのである。 2. 農業集団化時期における状況 前節までに見てきた村の土地を巡る状況は、農業集団化時期にはどのような状態にあっ たのであろうか。この時期の村の土地について小林弘二は、中共は合作社段階において地 片の連続化を図ったが、それは慎重に行われ、そして土地を巡る問題は十分に解決されな いままに、人民公社段階へ突入したと説明する(小林、1997: 772–783)。本節では具体例を 通じて、この時期の状況について考察してみよう。 農業集団化時期に至っても、河北省の農村には多くの飛び地が存在しており、省以上で はその解消について、やはり無関心であった。しかし県や村では土地改革時期と同じく、 自発的に土地の調整を行っていた。その例として、寺北柴では初級合作社時期に、県の決 定により近くの土地の少ない村に土地を提供していた(『中国農村変革』第 1 巻 : 176)。また 沙井村ではその後の人民公社時期にも他村に土地を分けており、そのため自分たちの村の 土地が減少するという状態にあった。またこのような一方的な土地の提供の他に、他村と 土地を交換するようなこともあった(『中国農村変革』第 1 巻 : 579)。しかしこれらは明確な 規定に基づいた措置ではなかったようであり、実際の現場では問題や混乱が発生していた (資料 2) 。県や村で独自に行っていたという性格が強かったのである。 このように省以上の方針とは異なり、村や県では村の境界の画定や土地の調整を行って いた。この要因としては、土地改革時期にも見られた、村の土地意識が存在していたと言 える。村として自ら土地を整理する必要が認識されていたのである。河北省全体を見た時、 ここで紹介した村が一般的な事例と言えるのか、それともごく一部の特異な例と考えるべ きなのかは、史料からは明らかにすることはできない。とはいえ、県や村では「村の土地」 という意識は存在しており、自ら土地の調整を行う必要を考え、それを実行していたので ある。これは下級における土地意識の一面を表していると言えるだろう。 58 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 小結 本章で見てきた通り、中華人民共和国建国初期の河北省の農村においては、多くの飛び 地が存在していたが、省レベルでは村外の土地の購入を奨励するなど、その是正には積極 的でなかった。 一方で村民レベルでは、上級の方針とは無関係に自発的に土地の調整を行い、飛び地の 解消や村界の画定を進めていた。その上で、村民の土地が侵害されたならば、それを村の 問題として他村と話し合い、また上級政府へ訴えたのであった。村民の土地=村の土地、 という意味での土地意識はしっかりと存在していた。そして村の土地は村民にとって重要 なものとして認識されていたのである。このような構図は農業集団化時期に至っても変化 することはなく、そのような土地意識に基づき、下級では自発的な土地の交換や調整を進 めていたのであった。 Ⅲ 看青と村 1. 看青の経緯 すでに触れたとおり旗田巍は、華北の村の範囲とは、多くの場合で村の青苗会の行う看 青の範囲であったと説明している(旗田、1973: 116)。ということは、中共の改革によって 村の在り方に変化が生じるならば、それは看青の在り方にも変化が生じた可能性が考えら れる。本章では看青の見張りの範囲即ち村の範囲と言えるのか否かを改めて検証し、中華 人民共和国建国前から 1950 年代における看青の変化について考察をしてみたい。ここで はまず、看青の概要について説明しよう。なお看青とは主に中華人民共和国建国以前の華 北で使われていた言葉であり、地域や時期によって言葉は異なる。例えば後述するように、 『河北日報』紙面では「護麦」という言葉が使われている。しかし本稿では煩雑さを避け るため、作物の見張り全般を指す言葉として看青という単語を使うこととする。 農業で生計を立てる農民にとって、作物泥棒は常に頭の痛い問題である。そのため多く の場合、農民たちは耕作地の見張りを行っているが、その方法は多岐にわたる。それは、 村において青苗会などの団体を作り、その団体を通じて見張り人を選び規約に則って行う ものや、村民全体で交代に見張りを行うもの、組織せずに村民が個々に特定の見張人に見 張りをさせるもの、そして村民がそれぞれ自分の作物だけを見張るものなどがあった(旗 田、1973: 177–178) 。例えば寺北柴などでは、中華人民共和国建国の時点で、組織された看 青はなく、農民たちは各家で自分の土地を見張っていた。隣接する土地の耕作者との関係 が良ければ共同で見張りをすることもあったが、この際村が単位となることはなく、他村 の人でも同様に協力することもあった(『中国農村変革』第 1 巻 : 410)。沙井村では青苗会に よって組織され、村の事業として農作物の見張りが行われている(旗田、1973: 175–232)。 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 59 清末までの同村は、土地の多い農民はそれぞれ村の無頼漢を雇って私的な看青を行い、ま た土地の少ない農民は自ら見張りを行っていた。これは一定の効果はあったが、見張人と 農民との関係が個別的関係であるために不便も存在した。そのため、青苗会という組織が 誕生し、村民たちが集団で看青を行うようになったのであった。 その後、中華人民共和国の建国を経て、看青はいかに変化するのだろうか。例えば沙井 村では建国後も、旧来と同じ人が引き続き見張りをしていたが(『中国農村変革』第 1 巻 : 748) 、内山雅生はこの点から、 「民国時代の看青のシステムが中華人民共和国成立後でも、 名称を変えただけで事実上存続した」と指摘しているが(内山、2003: 100)これは推測の域 を出ていない。ここでは、史料に基づいて建国後の看青の実態を確認してみたい。 まず建国後の作物の見張りは、農村が自主的に行っていたこれまでの見張りとは異な り、村を単位とした上級からの呼びかけと指導によって行われている。例えば滄県では県 が指導をし、区村幹部会議を開いて見張りの準備をした。その上で多くの村で大衆を動員 して自由に組を組ませて見張りをさせたと報道されている(『河北日報』、1950 年 6 月 8 日)。 また 1950 年 6 月 9 日の『河北日報』によると、任県、趙県、元氏などの県では民兵を中心 として大衆を組織して麦の監視を行っている。また同日の紙面によると、遷安県では互助 組を基礎として見張りが行われたところも存在し、民兵の仕事として作物の見張りを行っ ているところもあったことを報道している。これも建国後の看青の特徴と言えるだろう。 2. 村と看青 前節では看青を巡る環境の変化について説明を行ったが、ここでは看青の具体的な内容 面での変化について考えてみたい。建国前から組織された看青が存在していた村と、して いなかった村の 2 パターンを考察してみよう。 沙井村では従来から、看青の範囲が定められていた(『中国農村変革』第 1 巻 : 558)。この 範囲の中で、村の中にある他村の人の土地については、基本的には他村の人が見張る範囲 とし、沙井村では見回りは行わなかった。しかし当然、沙井村の人が他村に土地を所有す ることもあり、そのような場合に村同士で相互に土地を交換して見張ることはあった(『中 国農村変革』第 1 巻 : 596) 。このような、従来から看青を行っていた村ではどのような変化 が生じたのだろうか。上述の滄県の例を見てみよう。1950 年 6 月 8 日の『河北日報』紙面 では、滄県の看青について、以下のように報道している。 杜林区の趙官倪など 4 村では、村内に他村の人が植えた麦も、真面目に見張り、失わ ないよう保証しなければならないと相互に提起した。西河頭・斉家務などの村では、 話し合い、自分の村の近くにある他村の麦を盗まれないよう保証する契約を結んだ。 まずこの例から、従来の滄県の農村では、村の近くの土地であっても、 「本村の麦」と 「他村の麦」をしっかりと区別していたことが改めて確認できる。旗田の言うように、看 60 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 青の範囲は村の範囲と関わりがあると言えるだろう。またこの記事では、村内にある他村 の土地の作物も見張ることが人民共和国建国後の新しい、そして良い傾向として報道され ている。沙井村などでは、以前より周囲の村と協定を結び、飛び地として存在する他の村 の土地についても、自分たちの村の土地と同じように見回りを行うところも存在した(旗 田、1973: 77–85) 。しかし滄県の例をみると、従来そうしていなかったところでも、中共は 新たに他村の土地を見張ることを推奨していたのである。この他に、従来組織された看青 の存在していなかった村でも変化が起き、組織して作物の見張りを行うようになった。寺 北柴では農業生産合作社が組織され、土地が集団の所有になってから作物の見張りを組織 し始めている(『中国農村変革』第 1 巻 : 396)。これらの村では概ね農業集団化時期に組織さ れた作物の見張りが開始されている(『中国農村変革』第 1 巻 : 410)。 ここで 1 つの問題を考えなければならない。滄県の例では上級から看青の組織が指示さ れ、看青が展開されている。一方で饒陽県北関村では、看青工作がうまくいかず、 「破壊 分子」に麦を刈り取られたり、果実を盗まれたりする事件が発生していたが、これについ て 1950 年 6 月 7 日の『河北日報』では、幹部の大衆に対する看青工作の指導が不十分であっ たとして県や区、村の幹部の対応を批判している。このように、看青工作がしっかりと実 施されないことは批判の対象になることであった。そうならば、寺北柴などの村でも、建 国初期から組織された見張りの呼びかけはあったと考えるのが自然であろう。しかしなが ら史料の示す通り、寺北柴では農業集団化時期まで組織された見張りが行われることはな かった。これは上級による見張りの呼びかけも、結局は従来村の青苗会などで組織された 看青が存在したところでは十分に機能したが、そのような基礎がなかったところでは、た だちに効力を発揮するものではなかったと言うことであろう。一方で農業集団化の過程で 村民が組織され、また土地が集団の所有となることにより、それまで組織された看青の存 在していなかった村でも看青が行われるようになったのであった。それによってそれぞれ の村で定まった看青の範囲が作られることになり、 「村の土地」の範囲は一応の定着に向 かったのである。 小結 本章の内容を簡単にまとめてみたい。中華人民共和国建国後、農業集団化時期になると 村民の組織化が進み、また土地が集団所有となることによって、従来組織された看青が行 われていなかった村でも、集団での看青が本格的に展開された。また、建国後の看青にお いては、従来村内の飛び地の見回りをしていなかった所でも、新たに見回りを始めた。当 然、飛び地の見回りが実体としてどれだけの広がりを持って行われたのかは、史料からは 明らかにすることはできない。しかし、中共が新しく、そして良い傾向として飛び地の見 回りを推奨し、少なくとも一部ではそれが実際に行われていたことは事実であろう。そう して、従来看青の範囲が存在していなかった村でも、その範囲が画定されることになる。 これは必ずしも飛び地がなく、他村の土地と交錯することもない「村の範囲」の成立を指 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 61 すものではない。しかしながら、飛び地に左右されない、看青の範囲としての村の範囲は、 このように画定されていったのであった。 Ⅳ 村民意識の変化 1. 村民意識 前章までは主に村の土地を巡る問題について考察をしてきたが、本章では村の人につい て考えてみたい。まず、そもそも華北における村の人とは何であるのかを整理しておこう。 旗田巍によると、村の土地とは違い、村の人という意識は、華北の村落において広く存 在していた(旗田、1973: 121)。しかしその資格の在り方や意味は、地域によってそれぞれ 異なっていた。例えば本村人の資格が緩い村では、よそから村にやってくればすぐに本村 人として認められ、その際に家や土地を所有する必要はなかった。また、村から出ていっ ても、家族を残していれば本村人として認められる場合もあった。一方で本村人の条件が 厳しい村においては、家と土地を村内に所有することが本村人の条件となっており、村に 居住し生活していても、その条件が整わなければ外村人のままであった。旗田巍はこれに ついて、単に土地や家屋の所有の問題と言うよりも、村費を負担するか否かが問題となる のだと述べている(旗田、1973: 127–174)。村費とは、上級から下りてくる徴税に、村自身 で必要とする費用を合わせて徴収するものである(旗田、1973: 72)。そして村費など上級か らの徴収は、近代以来の変容の下に置かれていた。具体的には個別の納税戸を徴税の対象 とする従来の制度から、村を徴税の単位とする制度への移行が進んでいた。中共も、中華 人民共和国建国前の段階から、個人を対象とした田賦を取り消し、村を対象とする徴税に 一本化している(劉、1994)。その中で、徴税の単位たる村としての結びつきが強化されて いったことが想像される。そして村内では、例えば本村人の条件が緩い村では、村内の土 地の耕作者から徴税を行う。この際、耕作者がどこの村の人間であるかは問わない。しか し本村人の条件が厳しい村においては、一切の村費について、本村人が負担していた。こ れは土地が例え他村に存在していたとしても、本村人の土地に対して、本村が徴収してい たのである。これが、本村人の条件が厳しい村においては、徴税と言う「苦を分担するよ うな形」で、本村人の在り方を規定したのである。 また、本村人であることの意味についても旗田による考察を参考にしながら整理してお こう(旗田、1973: 121–126)。ここでは様々な特権や負担の有無によって考えてみたい。ま ず義務としては、上述の村費の支払いがある。他方本村人の権利というものも存在してい た。旗田は主に、村廟の祭礼への参加権、農民が土地を売る時の先買権、村の採土地から の採土権、そして村の公共の農具の使用権や、村長選挙の選挙権と被選挙権などを挙げて いる。これらはどれも、本村人にのみ認められるものであった。しかし例えば土地の先買 権は、満鉄による聞き取りの時点ですでに崩れているところもあり、必ずしも本村人の特 62 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 権ではなかった(『中国農村慣行調査』第 1 巻 : 224)。また、公共の農具などの使用権は本村 人に絞る一方で、落ち穂拾いなどの権利は本村人に限らず、外村人にも許されており、農 業面での特権は限定的だったと言える(旗田、1973: 233–248)。むしろこの時点では、本村 人であることは権利よりも、村費の支払いなどの義務を負う意味が大きかったのである。 2. よそ者への土地の分配 土地改革を行うに当たって、村内にいる「よそ者」へ土地を分配するべきか否かは、幹 部たちの頭を悩ませる問題であった。ここでは村に住んでいるが本村人と認められていな い外村人と、他村から新たに移住してきた人の両方について考えてみたい。まず全国の状 況から見てみよう。湖南省で発行されていた新聞『新湖南報』へは当時、土地改革に関す る質問が読者から多く寄せられていたが、その中で「外から来た人に対しても、その土地 で戸籍を起こして土地を分配して良いのか」という質問がされている(『内部参考』、1950 年 11 月 6 日) 。これが『内部参考』に掲載されていることからも想像できる通り、これは決し て湖南省のみに限った問題ではなく、全国で広く共有されていた問題であった。 では河北省では、まず省委員会レベルではいかに対応したのだろうか。1949 年 11 月 4 日『河北日報』の「問与答」欄では読者からの質問に対して、二重に土地を分配されるの を防ぐために、本籍地へ照会する必要があるとしながらも、外籍の者に土地を分配して良 く、また分配された土地の所有権について他人が干渉してはならないとしている。省レベ ルでは、一応このように方針を示していたが、幹部たちにとってはこれはやはり悩ましい 問題であった。1950 年 6 月 2 日の『河北日報』 「問事処」では、渉県の幹部からの投書が 見られる。それによると、同県の東鹿頭村に前の年に河南省から来た青年がおり、1950 年 春、6 畝の土地が分配された。しかし幹部たちは彼に対しても土地証(土地の所有証明書) を発行するべきか否かが分らず、悩んだ末に『河北日報』へ投書したのであった。 その上で、農村社会における土地の持つ意味についておさえておきたい。1950 年 7 月 16 日『河北日報』の「群衆芸術」欄に掲載された、劉有庫なる人物による短編小説「土地 証によって根を下ろした」が、それについて示唆を与えてくれる。この小説の主人公は、 再婚した母親の連れ子として黄家荘という村にやってきた少年、小明である。彼はよそ者 であるということ、そして連れ子として村に来た者であるために、村内で差別され、虐げ られていた。迫害から逃げるため、彼はしばらく村外で生活をしていた時期もあったが、 中共によって村が「解放」されるのを待って村に戻り、土地改革の闘争に参加した。そし て小明には 7.8 畝の土地が分配され、それが正式に土地証に記入された。それによって彼 は、 「この時私は正式に黄家荘の人となったのだ」と思うに至った。その後家族で熱心に 耕作をし、父は小明に向かって「共産党が来てくれたおかげで、我々はこの土地に根を下 ろすことができた」と、口癖のように言っている。以上がこの小説の簡単な内容である。 これはフィクションであり、必ずしも現実を反映しているとは言えない。また当然、 『河 北日報』側にとってこの小説の重点は、 「共産党が来てくれたおかげで」という部分であ 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 63 る。とはいえ、文中で描かれる、村における土地所有の意味は注目するべきであろう。作 中では、よそ者であった小明が、土地を得たことによって「正式に黄家荘の人となった」 と実感する。また、小明の父も、土地改革の結果、土地を得たことによって「土地に根を 下ろすことができた」と考えている。このように農村社会で土地とは、単なる財産や耕作 の場ではなく、村内での立場や資格に関わるものであった。これは前述の本村人の資格が 厳しい村において、土地の所有が本村人の条件となることからも考えられるだろう。 ではそのような土地の分配に対して、下級の幹部たちは実際にはどのような対応を行っ たのだろうか。いくつかの村を例に見てみたい。静海県馮家村では土地改革に際して、本 村人か外村人を問わず、村に戸口がある人は皆土地を分配されていた(『中国農村変革』第 2 巻 : 540) 。なお同村は、20 年以上村に住んでいた廟の和尚が外村人として認識されるなど、 どちらかと言えば本村人の資格が厳しい村であった(『中国農村慣行調査』第 5 巻 : 654)。土 地改革の中で、このような本村人の資格が厳しい村の中でも、本村人や外村人の区別なし に土地や財産が分配された例は確かにあった。しかし、それが農村社会全体を反映してい る訳ではない。以下に見るように、他の史料からは異なる像が浮かび上がってくる。1950 年 1 月 4 日の『河北日報』紙面では、元氏県の状況について、以下のように伝えている。 4 区の殷村では、6 軒の農民が本来分配されるはずの果実〔土地や財産など、地主・ 富農から没収し、貧雇農に分配する土地改革の成果〕を分配されておらず、5 区でも 同じような現象があった。これらの一部は外来戸であり、村幹部のセクト思想のため に、果実を貰っていなかった。殷村はすでに 2 ∼ 3 世代住んでいる貧雇農に対して、 紹介状がないことを理由にして、土地を分配しなかった。 文中の紹介状とは、従来一部の村で移住の際に必要とされていた、元々住んでいた村の 村長に書いてもらう紹介状のことであると考えられる(旗田、1973: 130)このように、従来 入村に当たって紹介状が必要だった村では、土地改革の時期に至っても、すでに数世代に わたって村に住んでいたような者に対しても、紹介状がなければ本村の人間とは認めず、 土地を分配しなかったのである。つまり、ここでの土地の分配も、多くの所において結局 は、それぞれの持つ従来からの村民意識や村民の条件によって左右されていた。その一例 は石家荘でも見られる。1950 年 3 月 23 日に石家荘地区委員会から上級へ送られた報告に よると、石家荘では外来の貧農 2 軒から土地や家屋を取り上げ、それを中農に分配すると いう計画が進行していた(『河北史料』: 737)。ここでは土地や家屋を持っている農民でさえ も本村の人間とは認められず、よそ者として没収の対象になってしまったのである。 これらの例はどちらとも、中共は批判の対象として紹介している。そのように土地改革 の際に村レベルでは、上級の方針とは異なり、よそ者に対する差別が存在し、それが土地 の分配にも影響を与えていたのである。それは本村人であることの意味とも関連してくる だろう。従来本村人であることは、権利より義務という側面が強かったが、この時点では、 64 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 土地や財産の没収と分配において、本村人であることが重要な意味を持つようになってい た。例えば石家荘の例では、土地や家屋を取り上げられている。これは逆に言えば、この 貧農たちはそれまで差別などにより極端に辛い生活を送ることは無く、少なくとも土地や 家屋を所有できる程度の生活をしていたことが推測される。それが土地改革に際し、限り ある土地や家屋を分配する中で、よそ者に対する差別が表出し土地や家屋を取り上げられ る理由となったのである。つまり中共の農村レベルへの干渉が増し、土地改革を行うこと によって、従来以上に本村人であることの重要性が増したのであった。 それではその後、土地の所有が意味を失う農業集団化時期には、このような村民意識は いかに変化したのだろうか。次に考えてみたい。 3. 集団化時期 互助組を経て、1953 年頃から本格的に初級合作社が組織されるようになると、本村人と よそ者との対立は史料に見られなくなる。この時期に農業生産合作社内で見出される対立 は、むしろ貧富の差など、経済的な要因のものとなっていく。例えば 1954 年 10 月 16 日の 『河北日報』によると、清苑県では農業生産合作社の設立に当たって貧しい者を入社させ なかったとして問題になっていた。同県李七店では総戸数 47 軒の村において合作社 3 社 を建てたが、貧しく労働力が少ない 12 軒が入社できなかった。また、多額の「入社費」 を設け、それを支払える者にしか入社を認めない社もあった(『河北日報』、1954 年 10 月 20 日) 。そのため、例えば寺北柴では、貧しい農民が入社する際に、政府が貸し付けを行っ ていたことが明らかになっている(『中国農村変革』第 1 巻 : 330)。 このように農業集団化時期には、本村人と外村人との対立は影を潜め、むしろ経済的な 対立などの方が多く見られるようになる。この変化の要因こそが、先程も触れた、土地の 所有についての変化であると思われる。農業集団化時期においては、基本的には土地の公 有が前提となり、一旦入社してしまえば土地所有=本村人の条件という図式は意味を失 う。そのため、この段階ではよそ者に対する差別というよりも、経済的な要因での差別の 方が見られるようになったのである。 このような変化は、旗田巍の言う村費負担の有無という面からも考える必要があろう。 1951 年 10 月 25 日に公布された「華北区農業税暫行条例」の第 3 条によって、小作地につ いて、土地所有者と小作農の双方で収入を計算して、それぞれ納税するように規定してい る(『農業税条例問答』: 42–48)。その上で第 17 条では、納税するべき農民が、それぞれ自分 の所在地で納税するよう定めている。また、ほぼ同時期の 1950 年 9 月 5 日に公布された「新 解放区農業税暫行条例」では村の農家の 90% 以上を納税対象とするように指示をしている ( 『農業税条例問答』: 37) 。このように、村が徴税の単位とされ、なお且つ村内ではその出自 や土地の有無に関わらず、大部分の人間が農業税を負担することになった。そして農業税 は、村の社会にも密接に関わる存在であった。農業税は従来の村費と同じく、徴収の際に 村や地方レベルで附加税を取っており、これは村の費用として使われていた。 「華北区農 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 65 業税暫行条例」の第 15 条では、地方での附加税は税そのものの 20% を超えてはならない と規定しているが、少なくない量が徴収されていたと言えるだろう。 そのような意味で中華人民共和国における農業税は、以前の村費徴収と同じく、村人と しての在り方を左右し得るものであった。しかし結果として、建国後の農業税制度では、 村内のほとんどの農民が納税対象になることになり、村人意識には影響を与えないものと なったのである。これはその後高級合作社時期には、個人による納税ではなく社による納 税となり、この傾向は益々強まっていったと考えられる(『農業税条例問答』: 15)。 また農業集団化時期には、村内で村民の条件が変容するとともに、対外的な意味での村 の結びつきが強化されつつあった。1955 年前後のいわゆる社会主義高潮時期になると、従 来の 1 村 1 社が基本であった初級合作社に代わり、1 郷 1 社規模の高級合作社の組織が開 始されていく。その過程で村の団結と、同郷内の他村との対立が顕著に見られるように なってくる。例えば饒陽県の大曹荘郷では、2 つの社を合併させて 1 郷 1 社の規模の高級 合作社を作り上げたが、村ぐるみで土地の誤魔化しを行っているとして、2 つの村同士で 争いが起こっている(資料 3)。また満城県の紅旗社でも同時期に、社内の各村がお互い信 頼せず、疑い合っていると報告されている(資料 4)。これらは他の多くの合作社でも見ら れた現象で、中共側も問題として捉えており、1956 年 11 月には省委員会より、合作社を 1 村 1 社の規模まで分社する方針が打ち出されている(資料 5)。 このように高級合作社時期には、それぞれの村が他村とともに大規模社に編入されたこ とで、逆に 1 つ 1 つの村としての結び付きが強まり、他村との対立も強まったのであった。 小結 改めて本章の内容を整理してみたい。従来から農村に存在していた村民意識は、中華人 民共和国建国後、土地改革時期に至っても、それぞれの土地分配の基準に影響を与えてい た。そして本村人であることが土地の分配の中で意味を持つなど、一部では村民意識が強 化された側面も存在していた。 しかしながら農業集団化時期には土地の公有化が行われることとなる。そのため、従来 村民の条件が厳しかった村においても、伝統的な「土地所有=本村人の条件」という図式 は意味を失うこととなる。また中華人民共和国建国後の農業税制度も、結果として村内の 農民のほとんどが納税対象となり、従来の村費負担の有無という条件も意味を失ってい く。そのため農業集団化時期には、村内における本村人とよそ者との対立は以前ほど顕著 ではなくなり、経済的要因による対立が大きくなっていく中で、影を潜めていくことにな るのであった。そのように、村内で経済面以外の対立が減少するとともに、高級合作社時 期になると、従来に増して対外的にも村の結びつきは強まり、その一方で他村との対立も 増加していったのであった。高級合作社化が進められる中で、村落の結びつきはそれを促 進するどころか、逆に阻害し、分社を進める要因になっていたのである。 66 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 おわりに 最後に、本稿の内容を整理しておきたい。民国時期から引き続き、中華人民共和国初期 の河北省の農村においては、多くの飛び地が存在していた。この解決に対して上級は消極 的であったが、村レベルに目を移すと、そこでは違った状況が明らかになる。すでに見て きた通り村民には村としての土地意識は存在し、それに基づいて上級の方針と関係なく土 地改革や農業集団化の中で自主的に土地の調整などを行っていた。 では、ここで言う村の土地意識とは、旗田巍の言うところの、農民たちには明確な村界 意識が存在しなかったこととは対立するものだろうか。そうではないだろう。旗田の示す 通り、個人の土地の売買に左右されない、固定された村の領域というものは、村人たちの 意識の中にも存在していなかった。一方で、その時々で村人の所有している土地について は、守るべき対象としての意識は存在しており、それが侵害された場合には村が単位と なって対応するべきものとして認識されていた。そして、村人が土地を購入することが、 村の土地の膨張につながるという意識も存在していたのである。 そして建国後の看青では、村内にある他村の人の土地も見張りの対象となる。そして農 業集団化の過程で、従来組織された看青が行われなかったところでも、看青が開始される。 それによって、看青の範囲は多くの所で定まっていき、村の領域も画定に向かっていった と言えるだろう。 同時期には、土地に限らず、村人意識の面でも変化が起こっていた。土地改革時期の村 内でも、依然としてよそ者と本村人という意識は存在しており、また土地改革の過程で本 村人としての意識が強化された側面もあった。そして時に村人意識は基層レベルで土地の 分配基準などに影響を与え、中共の土地改革政策が上級の意向と異なる形で執行される原 因ともなった。その後農業集団化の中で土地所有=本村人の条件、という構図は意味を 失っていく。それに伴い、よそ者に対する差別は表立っては見られなくなっていった。一 方で高級合作社時期には他村とともに高級社が組織されたために、それまで以上に村とし ての結びつきが強まり、それが他村との衝突へつながっていったのである。これは一面で は、農業集団化を妨げる要因となり、一度組織された 1 郷 1 社規模の大規模社は、人民公 社によって再組織化されるまでの期間、一旦 1 村 1 社レベルにまで分社されることになっ た。ここから、村落社会と農業集団化との関係についても、新たな側面を見ることができる だろう。従来の受け皿論では、村落社会の結びつきと中共の政策、特に農業集団化との親和 性が注目されていた。しかし本稿で見た通り土地改革の執行や農業生産合作社の組織にお いては、それを促進するよりも、むしろ阻害する働きの方が強く発見されたのであった。 最後に、合作社の性格についても考えておきたい。互助組の組織に当たっては、先行研 究の指摘する通り、村内の結びつきが基礎となって行われたことは否定できない。しかし その後農業生産合作社を組織する段階になると情況は異なり、むしろ村落としての結びつ 1950 年代河北省農村の「村意識」とその変容 67 きのために高級合作社は困難に直面し、分社へと進んでいく。このように農業集団化は村 落社会側にとって必ずしも歓迎するものではなく、中共が上からの必要によって推し進め た結果であった。その後人民公社時期においては、村落社会と農業集団化はいかなる関係 にあるのだろうか。それは以後の課題としたい。 (参考文献) 日本語 内山雅生(2003) 、 『現代中国農村と「共同体」―転換期中国華北農村における社会構造と農民』御 茶の水書房。 奥村哲(2003) 、 「民国期中国の農村社会の変容」 『歴史学研究』第 779 号、18–24 ページ。 小田則子(1997) 、 「19 世紀の順天府宝坻県における「村庄」と「村庄」連合―清代華北における 農村組織の一考察」 『愛知大学国際問題研究所紀要』第 107 号、149–181 ページ。 祁建民(2006) 、 『中国における社会結合と国家権力―近現代華北農村の政治社会構造』御茶の水 書房。 河野正(2010) 、 「中華人民共和国初期、河北省における宣伝教育と農村社会―成人教育・機関紙 を中心に」 『東洋学報』第 92 巻 3 号、91–119 ページ。 小林弘二(1997) 、 『20 世紀の農民革命と共産主義運動―中国における農業集団化政策の生成と瓦 解』勁草書房。 中国農村慣行調査刊行会編(1952) 、 『中国農村慣行調査』第 1 巻 – 第 6 巻、岩波書店。 旗田巍(1973) 、 『中国村落と共同体理論』岩波書店。 福武直(1976) 、 『中国農村社会の構造』東京大学出版会。 三品英憲(2003a) 、 「近現代華北農村社会史研究についての覚書」 『史潮』新 54 号、27–46 ページ。 ―(2003b) 、 「書評 内山雅生『現代中国農村と「共同体」 』 」 『歴史学研究』第 783 号、31–34 ペー ジ。 三谷孝編(1999) 、 『中国農村変革と家族・村落・国家』第 1 巻 – 第 2 巻、汲古書院。 (三谷孝編 山本真(2011) 、 「土地改革・大衆運動と村指導層の変遷―外来移民の役割に着目して」 『中国内陸における農村変革と地域社会―山西省臨汾市近郊農村の変容』御茶の水書房) 、77–104 ページ。 吉沢南(1987) 、 『個と共同体―アジアの社会主義』東京大学出版会。 英語 Duara, Prasenjit (1988), Culture, Power, and the 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『移動する朝鮮族 』 ―エスニック・マイノリティの自己統治 田嶋淳子 Ⅰ はじめに 三世との出会いがある。同じルーツをもちな 中国朝鮮族は日本社会にあっては一般的に がら中国で育った青年と著者は 1 つのコイン 中国系移住者とみなされている。中国系移住 の両面のような存在であり、この青年との出 者は 2000 年以降、特に東北三省出身者が増 会いが著者に朝鮮族研究を促す契機となっ 加したが、その背景には IT 技術者として日 た。本書のそもそもの出発点が移動とアイデ 本語が堪能な朝鮮族の若者が数多く来住した ンティティに規定された研究でもあり、1996 ことがある。これらの人々は統計上中国とし 年以来、10 年の歳月をかけて、東北アジア て一括されているため、見えない(invisible) において積み上げられたフィールドワークの マイノリティである。1992 年の中韓国交樹 成果でもある。 立以降は、韓国にも同胞として、親族訪問や 研修などの形で数多く移動しており、その中 Ⅱ 本書の構成 には韓国国籍を取得後、日本にやってくる 本書はまえがきとあとがきを除き、全体が 人々もいる。そのため、韓国系移住者にも含 7 章で構成されている。以下簡略に概要を示 まれている。さらに、場合によっては日本の していこう。 在日韓国・朝鮮人と親族関係にあり、親族訪 まえがき―延辺、東北三省、そして東北ア 問でやってくるケースもある。 本書はこうしたインビジブル・マイノリ ティとしての「在日本中国朝鮮族」を対象と する研究として、2007 年度に著者が上智大 学大学院に提出した博士論文「エスニック・ マイノリティの自己統治に関する研究―東 ジアへ 序 章 朝鮮族という研究対象と問題の構成 第 1 章 朝鮮族社会の編成―〈グローバル・ アプローチ〉からの考察に向けて 第 2 章 重層的な生活実態の一断面―定量 的データから 北アジアにおける〈朝鮮族〉の移動とネット 第 3 章 来日メカニズムとエスニック・ネッ ワーク形成を事例として」に加筆修正したも トワーク―文化資本をめぐる二極 のである。 「まえがき」に記されているよう 化・階層化の諸問題 に、この研究に著者が取り組んだ端緒には在 日三世である著者の祖父と故郷の「洞」まで 同じ本籍をもつ、慶尚道なまりの中国朝鮮族 70 第 4 章 移動の歴史と朝鮮族のエスニック・ アイデンティテイ 第 5 章 「在日本中国朝鮮族」 ―脆弱性と アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 可能性 終 章 跨境人としての朝鮮族―エスニッ 討が行われる。その上で、仮説として「朝鮮 族の移動とネットワーク形成のダイナミズム ク・マイノリティの自己統治 は、東北アジアの政治・経済・社会的な地域 まえがきでは前述のとおり、本研究に取り 構造によって生み出される一方、朝鮮族の歴 組む上での契機が述べられる。その上で、中 史的経験に根ざした〈エスニック・マイノリ 国朝鮮族を「1949 年以降、中国で少数民族 ティの自己統治〉という営為にある」ことが 政策が実施される過程において、中国東北部 措定される(59 ページ)。 に居住する朝鮮人に与えられた少数民族の名 続けて、第 1 章では、朝鮮族をめぐるナ 称である」と定義する(8 ページ)。著者は本 ショナル、エスニック、グローバルな問題領 書の特徴を次のように記す。1 点目は物理的 域が示される。ナショナルな問題領域におい な移動に加え、移動に伴うアイデンティティ ては、国民としての朝鮮族の誕生の経緯およ の変容を位置づけること、2 点目は丹念な び中国国内における朝鮮族研究の現状が考察 フィールドワークを通じて、人々の「声」に される。すなわち、中華人民共和国成立時に 耳を傾けていく中で、東北アジアの近現代史 おける朝鮮人の扱いは「上からの国民形成の において翻弄され続けた人々への認識枠組を 一環」であり、その後の研究を規定する要因 変えていくことである。 ともなっている。また、エスニックな問題領 まず序章では朝鮮族の国籍と自己統治につ 域においても、エスニシティが同じと考えら いて述べる。朝鮮族の国籍問題は東北アジア れる韓国社会における差異とエスニック・ア の歴史的な構造変動と密接に関わる問題であ イデンティティの活性化を説明する上でエス る。清朝末期から朝鮮半島が植民地とされた ニックというレベルでの把握では不十分なこ 時期を経て、満州国期(無国籍)、中華民国期 とが指摘される。グローバルな問題領域にお (二重国籍容認) そして中華人民共和国期(中 ける問題状況の把握こそが「生きるための工 国籍)とそれぞれの時代と政策の中で、彼ら 夫」という視座から朝鮮族に関する問題群へ の国籍は常に支配権力によって上から規定さ の接近を試みる重要な視点をなす。これらの れてきた。しかし、グローバル時代に移動し 議論を踏まえ、第 2 章から第 5 章までの各章 始めた中国朝鮮族をとらえる上で、国民国家 で、朝鮮族の移動をめぐる実証的な調査結果 の枠組から国籍概念でこれらの人々をとらえ が示されていく。 ることに著者は疑問を提示する。そこで著者 第 2 章では、朝鮮族が不可視的エスニシ は「近代的な自己統治概念を新たな観点から ティであるがゆえの、実態把握の難しさが指 脱構築する作業」を朝鮮族という存在を通じ 摘される。2005 年 10 月から 2006 年 2 月まで て、 「東北アジア」という地域から検証し、 に著者が実施した調査(朝鮮族関連団体関係者 国民国家のあり方を問う存在であることの論 との面接および留め置き配布、インタ−ネットを 証を試みる。これらは「エスニック・マイノ 利用した調査など)の結果が示される。対象者 リティを前提とした人の移動の検討」 「地域 に規定され、 「民族教育歴」が高校までとい 枠組みからの考察」 「平和構築に向けた要件 う人は 81 %と高い比率を占め、出身地域は の提示」として問題設定され、先行研究の検 東北が 7 割、沿海都市が 3 割程度である。若 書評/権 香淑著『移動する朝鮮族―エスニック・マイノリティの自己統治』 71 年、高学歴かつ留学、就労ビザが中心だが、 いるという。 〈多重らせん構造〉と対になっ 生活言語の中心が朝鮮語である実態からは朴 て、把握される彼らの〈多元的帰属意識〉は 光星が指摘する「家族離散」ではなく「家族 さまざまなネットワーク形成の根幹に位置づ 分散」という移住生活の実態が叙述される。 けられている。調査結果からは、東北アジア また、わずかだが非正規滞在者も調査対象に の近現代の歴史と不可分な身体移動における 含まれており、朝鮮族の中での在留資格によ 意識のありようが、東北アジアの多元的な時 る格差の存在も注目される。 空間との関係性の中で観察される地域構造そ 第 3 章では 1996 年以降著者が「東北アジ のものとして把握される。しかし、既存の枠 ア」という地域枠組から行ってきた質的調査 組みではこれらの人々の多重かつ多元的な帰 結果をもとに分析が行われる。ここでは朝鮮 属意識のありようを半分も把握できないと結 族が文化資本としての朝鮮語、中国語、日本 論づける。 語という重層的な言語環境をもつことによ 第 5 章では、ローカル・レベルのエスニッ り、父母世代の韓国への出稼ぎを契機とし ク・コミュニティが 90 年代には相互扶助性 て、若年世代が就学や留学、そして就労など を基底として、 「運動会という集合行為の磁 を契機に来日する回路が開かれていることを 場が、朝鮮族という文化的アイデンティティ 指摘する。その一方で文化資本、社会資本を の確認及び再生産の場としての文化的機能と もたない朝鮮族が労働を目的として非正規滞 同時に、その場における経済効果やビジネス 在する状況と結婚移動により孤立化する女性 チャンスをも想定された場となっている」と たちとの二極化、階層化が指摘される。 いう(263 ページ)。これに対し、2000 年代に 第 4 章では朝鮮族の移動現象に内在的な 入り、サイバー上のエスニック・メディアの 〈多元的帰属意識〉の諸問題について考察す いくつかが結節点となって、 「在日本中国朝 る。ここでの移動の背景にあるものは「地域 鮮族」としての集合行為の活性化と社会層、 構造の特殊性」としての、著者が〈多重らせ 地域層の多様化が進み従来のコミュニティの ん 構 造〉(multi-spiral structure) と よ ぶ 状 況 と 姿を大きく転換していく。ここでの活動を支 「移動主体の文化的特性」であり、ここから える内在的論理としては、インタビュイーの 東北アジアにおける朝鮮族の「移動」が「通 言葉によれば「中国での民族観を相対化させ 時的には、朝鮮人、韓人、日本人、満州国臣 てくれると同時に、個人と民族の関係に関す 民、中国人、共時的には、朝鮮族(中国)、韓 る新たな気づきを与えてくれている」という 国系中国人または在中同胞(韓国)、在日外国 (270 ページ) 。 人(日本) といった、他称性の変遷に象徴さ これらの状況は著者により「再エスニシ れる」という(225 ページ)。しかし、事例分 ティ化」としてとらえ直され、 「朝鮮族が主 析を通じて、朝鮮族の調査対象者が抱く「自 催する集まりに参加し、故郷の歌や踊り友人 分とは何者か」は「朝鮮族であること」とい との再会を通して、日本での日常生活におい う自己意識の探求と模索のプロセスの中で ては潜在化せざるを得ない朝鮮族としてのア 「どこにいようが朝鮮族のマイノリティ性は イデンティティは、呼び起こされ、確認さ 変わらない」という自己認識へと統合されて れ、再構成される」という(274 ページ)。そ 72 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 の一方で、主体的な判断からこうした組織や いのではないかと考え、評者もモンゴル族、 集合行為の流れに加わらない朝鮮族も多数存 朝鮮族などの独自ネットワークの存在を調べ 在しており、中国および日本において認めら たことがある。そのとき、モンゴル族、朝鮮 れる「中国人」として,中心性を獲得するた 族など少数民族の中でも中国の外に独自の民 めの選択的な挑戦を「脱エスニシティ化」と 族国家をもつ場合、中国との関係においてそ 呼び、これらが生ずる重層的ダイナミズムを れが微妙な立場性を作り出していることが彼 「人的資本・文化資本であれ、エスニック・ らの在外活動においても一定の影響を与えて ネットワーク資源であれ、より『持てるも いることが明らかであった。ある人々は独立 の』が現実社会における世界の中心へとアク を志向し、ある人々は在外ネットワークを広 セスが可能な位置取りにあり、それは『トラ げ、ある人々は少数民族であることを改めて ンスナショナル化』の方向性、つまり国家を 選び取る。この違いとそれを止揚する方策は 超える文化的領域へと接合される」という どこにあるのかを考える 1 つの回答が本研究 (287 ページ) 。 さて、ここまでの議論を終章においてまと めていく中で、 「朝鮮族であること」という には示されている。著者の問題意識はこれを 「エスニック・マイノリティの自己統治」と いう言葉で示している。 自己意識(=多元的帰属意識)は、東北アジア 全体として、10 年におよぶ東北アジアで の〈多重らせん構造〉における重層的なマイ の丹念なフィールドワークは豊かな研究成果 ノリティ化の波に晒されつつ、地域的、社会 を示しており、著者の対象をみる目の確かさ 的、身体的な移動というプロセスを通して、 と深い理解が読み取れる。そのため、得られ 〈多元的帰属意識〉を有することになるとい た知見から導かれる結論は妥当なものであ う。周縁化された歴史的記憶とその構造的な り、本書は「在日本中国朝鮮族」研究の一定 制約をむしろ「生きるための工夫」によって の到達点を示すものとして評価したい。見え 創造していく。これこそが著者のいうところ ないものを見るという研究のスタンスは彼ら のエスニック・マイノリティによる自己統治 に寄り添う事によって初めて可能となる。そ である。 のことを本研究は示しているといえるだろう。 ただし、論文を読んで若干違和感を否めな Ⅲ 本書への評価と問題点 い点もある。区域自治と民族自決という問題 中国朝鮮族による日本への大量流入は である。 「中国朝鮮族」は朝鮮人でも、韓国 2000 年代以降と考えられるが、それ以前に 人でもなく、中国朝鮮族として生き続けるし 中国国内の大都市への移動と韓国への就労目 かないのだろうか。チベットやウィグルは独 的での移動がある。こうした傾向をも踏ま 立を目指す運動を世界規模で展開している。 え、著者がこの問題にいち早く取り組んだの 朝鮮族をあくまで中国朝鮮族としてとらえ続 が 1996 年である。中国という枠の中に、少 ければそれが彼らの本来の意味での自己統治 数民族としてのモンゴル族、ウィグル族、朝 を実現することになるのだろうか。自己統治 鮮族等が存在することは周知の事実だが、海 とは「社会的存在としての個人が、社会を構 外移住者の中に、とりわけこれらの人々が多 成し維持するための権力、すなわち政治権力 書評/権 香淑著『移動する朝鮮族―エスニック・マイノリティの自己統治』 73 を自ら行使するという民主制(民主主義) の (本書 25 ページの引用) 理念を示す規範的概念」 割は大きいと考えられるのである。 中国政府は朝鮮族が国民国家として南北統 であるならば、中国社会における「中国朝鮮 一がなされた後、いずれかに編入されてしま 族」の自己統治とは、彼らの政治権力を自ら うことに危惧を抱いており、その一方韓国で 行使するという民主制を実現することでし は、2000 年代以降コリアン・ディアスポラ か、創造され得ないのではないかという疑問 へのさまざまな働きかけを熱心に展開し始め がわいてくる。彼らが追求するのはもう 1 つ ている。朝鮮族に対して両政府がどのような の国民国家ではなく、朝鮮でも韓国でもな 対応をするのかが注目される。何よりも、中 い、国民国家の枠を超えた東北アジアの多元 国朝鮮族は著者が指摘するように、韓国での 的帰属意識だが、そこでの対象に朝鮮民主主 国籍回復が極めて簡単に行われ、一部ではす 義人民共和国で展開する政治的、経済的、社 でに 7 万人あまりが国籍回復をしたという。 会的状況はどのように影響を与え、そのこと この数値が確かだとするならば、韓国国内在 が彼らのこれからの選択をどう左右するのだ 住の朝鮮族は約 50 万人に達し、中国国内が ろうか。多重らせん構造のこれからを考える 150 万人へと減少していることを意味する。 時、この部分を抜きには東北アジアの何ごと そうした点からみても、国民国家を超えて、 も進まないだろうし、多元的帰属意識という トランスナショナルに展開する中国朝鮮族の ものがあるとするならば、彼らは跨境人とし 移動とネットワークはこれからの東北アジア て、このことをどのようにとらえているのだ に 1 つの起点を作り出す作用をするに違いな ろうか。 「在日本」という限定はあるのだが、 い。この面で、著者の研究がさらなる実り豊 家族分散の事実は、韓国のみならず北朝鮮に かな成果をあげることを期待したい。 おいても同様に見られるのではないか。残念 最後に、一言苦言を呈しておきたい。初め ながら、本書ではこの点についての言及がほ ての単著ということもあるのだが、それにし とんどなかった。 ても誤字脱字があまりに多く、誤字で内容を このように考えるのはグローバル化による 読み間違えてしまうのではないかと懸念され 急速かつ頻繁な移動が想定される今日、彼ら るようなものが散見される(特に 4 章)。こう が本当の意味でビジブルとなるのは一時的、 した誤りは豊かな内容の調査結果があるだけ 文化的な「運動会」ではなく、むしろ東北ア に極めて残念である。 ジアにおける情勢の変化を導く時ではないか と考えているからである。アジアの平和構築 (彩流社、2011 年 1 月、四六判、365 ページ、 定価 3,500 円[本体] ) を実現する上で、中国朝鮮族が果たすべき役 (たじま・じゅんこ 法政大学) 74 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 [書評] 益尾知佐子著 『中国政治外交の転換点 ―改革開放と「独立自主の対外政策」 』 家永真幸 「独立自主の対外政策」は、中国の共産党 政権が 1982 年 9 月に提起した外交の基本原 第 3 章 毛沢東外交の再検討 ― 1979 年∼ 1981 年、中ソ対立の過去と現在 則である。特定の敵や同盟国を作らずに各国 第 4 章 「独立自主の対外政策」の公式提起 との関係構築を目指すこの新政策は、それま ― 1981 年∼ 1982 年、対米戦略協 で常に「主要敵」との闘争を想定してきた中 力からの脱却 国外交の画期的な転換を示すものと評価され てきた(岡部、1989: 186–187)。 終 章 中国外交における「独立自主の対外 政策」 本書はこの理解を前提としつつも、近年公 刊された伝記、回想録や、著者が独自に行っ 本書に対してはすでに青山瑠妙氏および林 た聞き取り調査の成果を踏まえ、同政策の形 載桓氏による詳細な書評があり、各章ごとの 成過程を仔細に検討する。その結果、この間 内容も簡潔にまとめられている 。そこで、 の中国外交には、著者の造語で「国家一次元 本評では少し趣向を変え、本書全体を貫く論 化」と呼ぶべき構造転換が起こっていたと主 理構造を整理することに重点を置きながら、 張される。 各章の議論を紹介・検討したい。 以下では、まず本書の構成と概要を紹介し た上で、若干のコメントを述べたい。 1) 本書の狙いは、中国の政策決定者・関係者 の対外認識の変容過程を検証することで、そ れと国内政治との関連性を分析することにあ Ⅰ.構成と概要 る。著者によれば、82 年に「独立自主の対 本書は本論 4 章に序章と終章を加えた全 6 外政策」が正式に提起される過程において、 章から成る。目次は以下のとおり。 「79 年以降、何らかの契機によってそれまで の対外政策の見直しが始まり、 『プロレタリ 序 章 中国の改革開放と世界 ア国際主義』とその関連要素が否定され、近 第 1 章 中国外交における毛沢東と鄧小平の 代主権国家体制への考慮の下に中国の対外政 「一 本 共 鳴 ― 1974 年 ∼ 1975 年、 策決定が一次元化され」た(29 ページ)。 の線」戦略の提唱と推進をめぐって 71 年の米中和解以降、中国は対外的には 第 2 章 鄧小平の対外開放構想と国際関係 「三つの世界論」を掲げ、国際的な反ソ統一 ― 1978 年、中越戦争への道のり 書評/????? 戦線である「一本の線」戦略を採用する。同 75 戦略は毛沢東が提起したもので、ソ連を中国 「聞き取り調査で得られた知見が決定的な役 の実質的な主要敵と位置づけ、米国などソ連 割を果たした」ものの「中国側の回答者の名 との対決の最前線にある国々を「一本の線」 前は全面的に伏せ」ているほか、 「現段階で のように団結させ、ソ連の脅威を封じ込める は公表できない」内部資料も限定的に用いた ことを目指した。 としているため(33 ページ)、著者の主張には 本書は関係者への聞き取りにより、当時の 何らかの根拠があることも考えられる。読者 高位指導者の間で「毛の対外姿勢が全般的に としては、この論点は後に当該時期に対する 強硬すぎたという共通認識があった」ことを 歴史研究が進んだ際に検証すべき仮説と受け 明らかにしている(78 ページ)。ところが 76 止めておけばよいであろう。 年 9 月の毛沢東逝去後、鄧小平は対ソ「一本 いずれにしても、1981 年 6 月のいわゆる の線」戦略を継承した。本書は、そのことが 「歴史決議」に向かう過程で、党幹部の間で 鄧の政治的資源になったと主張する。これは は毛に批判的な意見が湧き上がってくる。本 一見、著者が明らかにした上の事実と矛盾し 書はそれらの議論を検討することで、指導部 そうに見える。しかし著者は、 「ソ連への脅 が「一本の線」戦略を放棄するにあたり、党 威感を共有する西側先進国が中国の強大化を の中央対外連絡部など「実務者の分析」が決 支援するようになり、中国が迅速な経済建設 定的な役割を果たしたと推論する(159 ペー を展開するためのチャンスが到来している」 ジ) 。 という鄧の主張が指導部と経済実務者たちに ここで見られた対外認識上の転換は、 「国 受け入れられたと指摘することで(77 ペー 際関係における国家やナショナリズムの重要 ジ) 、論理的な筋を通す。以上が、第 1 章お 性を再認識し、国益や国家主権の擁護を対外 よび第 2 章の大枠である。 政策の中心に位置づけ直」す過程と説明され では鄧はなぜ、一旦は継承した「一本の 「独立自主 る(175 ページ)。その上で本書は、 線」戦略をその後放棄することになるのか。 の 対 外 政 策」 が 提 起 さ れ た 直 接 の 原 因 を 第 3 章と第 4 章では、この問いに対する解答 1980 年代初頭のアメリカによる台湾への武 が試みられる。著者は「中国の対外政策の転 器輸出問題に求める先行研究に対し、より本 換は、国際情勢の変化や重大な対外的事件の 質的にはこの認識の変化が先行していたと指 発生を契機として打ち出されることが多い」 摘する。筆者が「国家一次元化」と命名する との経験則から、79 年 2 月から 3 月の中越戦 その変化は、終章において次のように図解さ 争に注目する(117 ページ)。 れる。すなわち、それまでの中国の対外政策 同戦争に毛の対外政策が見直される契機を は「x= 国益、y= 階級の利益」を変数とする 見出す本書の議論は、資料による裏づけが弱 二元方程式の解として決定されていたのに対 く、同年 1 月 18 日に始まる党の理論務虚会 し、 「独立自主の対外政策」の提起はそれが (新しい指導理論を話し合うための検討会) にお x のみを変数とする一元方程式に移行したこ いて開始早々から毛沢東批判が出始めたとす とを象徴しているのである(197 ページ)。 る著者自身の指摘とも抵触するように思われ る。 た だ し、 著 者 は 本 書 の 執 筆 に あ た り、 76 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 Ⅱ.コメント ただし、著者がこの変化を「国家一次元 本書を通じて著者が解答を試みた問いは、 化」という概念で統括したことは、かえって 次の 2 点に集約されると考えられる。1 つは、 本書の理解を妨げているように思われる。第 なぜ「独立自主の対外政策」の発表は 1982 1 に、この語によって要約されているのは、 年 9 月というタイミングなのかという問題。 指導部が共有する「認識枠組みが全体として もう 1 つは、同政策は中国の政治・外交にい 徐々に変容していく過程」についてである かなる変化が起こったことを意味しているの (31 ページ) 。本書内では外交政策決定や対外 かという問題である。 両者は根を同じくする問題ではあるが、本 書は前者の問いに対する取り組みとしてとり わけ貢献が大きいように読める。あらゆる歴 史事象はそれまでに起こったすべての物事の 活動に関与するアクターの変化についても示 唆に富む指摘がなされているにも関わらず、 「国家一次元化」という見取り図はそれらを 捨象してしまっている。 第 2 に「国家一次元化」の過程において、 重層的な流れの上に成り立っている。本書 中国の指導部は「主権国家を国際秩序の主要 は、先行研究が提示する「独立自主の対外政 な構成員とみなすウェストファリア体制を全 策」に中華人民共和国成立以来長く続いた 面的に受け入れ」たと本書は指摘している 「主要敵」論の放棄という画期性を見出す視 (190 ページ) 。ここで著者が「全面的に」とい 点も、台湾武器輸出問題をその直接の契機と う留保文言を入れているとおり、中国はそれ する視点も、決して否定しない。本書はあく 以前から国家の主権を尊重する対外観を有し まで、同政策の提起に至る 5 ∼ 10 年に焦点を ている。当時の外交官の思考回路の中で無条 あわせ、この間に指導部内で起こった認識変 件の前提だったプロレタリア国際主義が、 化を分析した。その意味で、本書は新たな視 1970 年代のアルバニアやベトナムとの関係 角から、従来の「独立自主の対外政策」形成 悪化を経て見直しを迫られ、その重要性を 史研究を緻密化したといえる。 失っていったという点については、著者が引 後者の問いに対しては、 「プロレタリア国 用する当事者の記述などからも説得力がある 際主義」を理念として遵守しようという姿勢 (楊、2002: 209–232) 。ところが、それがウェス が 79 年から揺らぎ始め、82 年には同理念と トファリア体制を受け入れることと等価かの それに関連する要素が一掃されたことを本書 ように論じられていることで、引用資料に対 は明らかにしている(28 ページ)。国内統合理 する解釈が牽強付会になっているような印象 論としての社会主義への依拠を中国共産党が を受ける個所が本書には散見される。 放棄するのは、2001 年 7 月に江沢民国家主席 国際社会におけるウェストファリア体制の が「三つの代表」論により資本家の入党を許 限界が指摘されるようになって久しい。相手 可し、階級政党から国民政党への転換に踏み 国の主権を尊重することよりも優先すべき理 出す時であるから(高原、2004: 35–36)、本書 念が放棄されていく過程を論じた本書は、な の議論はそれより 20 年も早い段階で対外的 ぜ中国では国家の主権を外に向けて強硬に主 な理念を放棄する過程を詳らかにするものと 張する傾向が見られるのか、といった今日的 して大変興味深く読める。 な問題意識にも通じる観点を提示していると 書評/益尾知佐子著『中国政治外交の転換点―改革開放と「独立自主の対外政策」 』 77 も読める。近年、外交史をはじめとする近現 代史研究の進展により、中国におけるウェス トファリア体制受容に関する議論は活発化し ている。評者を含め後続の研究者は、これら も踏まえより長期的な視野で本書の成果を位 置づけ、毛沢東時代の外交がどのような意味 で特殊であったのか議論を深めていくことが 求められるであろう。 (注) 1)青山瑠妙氏による書評は『中国研究月報』第 64 巻第 10 号、2010 年 10 月、41–43 ページ。林載桓氏 78 は『ア ジ ア 経 済』 第 52 巻 第 11 号、2011 年 11 月、 60–63 ページ所収。 (参考文献) 岡部達味(1989) 、 『中国近代化の政治経済学』PHP 研究所。 高原明生(2004) 、 「中国の政治体制と中国共産党」 日本比較政治学会編『比較のなかの中国政治』 早稲田大学出版部、25–46 ページ。 楊公素(2002) 、 『当代中国外交理論与実践(1949– 2001) 』香港:励志出版社。 (東京大学出版会、2010 年 3 月、A5 判、 v + 237 ページ、定価 6,200 円[本体] ) (いえなが・まさき 東京医科歯科大学) アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 [書評] 増原綾子著 『スハルト体制のインドネシア ―個人支配の変容と一九九八年政変』 小黒啓一 Ⅰ 本書の概要 に発生した東アジア通貨・経済危機の渦中 著者は地域研究と比較政治学の分析枠組み で、穏健な改革勢力が次第に増大し、体制内 を相互にフィードバックさせてスハルト体制 ハト派との間に次第に合意が形成され、1998 の構造、変容、崩壊を説明しようとする。ス 年 5 月のスハルト退陣という政権交代が実現 ハルト体制はなぜ 32 年も継続したのか、そ したという仮説を設定し検証することを本書 して大統領辞任という形で体制転換が可能に の目的としている。 なったのはなぜかを解明しようとする。 パトロネージ分配の拡大は翼賛与党である 従来の先行研究に共通するのは、スハルト ゴルカル(職能グループ)への政治的エリート 体制の長期安定についてパトロン – クライエ の取り込みにつながり、1980 年代にスハル ント関係のネットワークによる利益配分と国 ト側近のスダルモノ官房長官の総裁就任によ 軍による監視と暴力による政治的安定、経済 り実現された。単なる集票マシン、スハルト 開発による大衆の生活向上が基本的要因とさ の翼賛機関として軽視されてきたゴルカルが れてきたが、著者は「翼賛型個人支配」とい 政党として成長し、内部に人材が育成されて う分析概念を提示する。パトロネージ分配の いたことに注目する。さらに、大統領一族を 範囲、国家による監視と暴力のレベルという 含めた退役将軍の子供たち(国軍子息会)、ハ 2 つの座標軸により個人支配体制を孤立型、 ビビ科学技術担当国務大臣がリーダーとなる 恐怖政治型、分断型、翼賛型の 4 つに分類 イスラム知識人協会(ICMI)メンバーが加わ し、代表的な事例政権を当てはめる。分配の り、競争が激化する。スハルト後継問題が意 範囲が限られ、監視と暴力による治安機関の 識されるに至ると体制内エリートの利害対立 圧力が日常的な恐怖型の対極にあるのが翼賛 が鮮明となる。 型で、豊富な利益配分資源の存在と限定的な 暴力の行使がスハルト政権の特徴とする。 経済危機への大統領の対応が一貫性を欠 き、危機がさらに進行する中で、ゴルカル内 利益配分の範囲が拡大すればポスト・利益 部にも改革派と合意し、大統領退陣を要求す 機会などの資源が不足するようになり、配分 る動きが急速に増大、最終的にスハルトが追 の偏在は体制内不満分子を増加させる。エ い込まれてゆく姿を論述する。 リート層を体制内に取り込むうちに批判的な スハルト政権は残虐な共産党分子の大虐殺 グループが形成される。著者は 1997 年 7 月 で恐怖の記憶を埋め込んだが、その後の力の 書評/????? 79 行使は限定的で、有能な側近を活用し、影響 年に成立し、個人支配体制は制度的に完成し 力が強くなると名誉ポストに棚上げし、個人 た。最大の会員数を誇るイスラム勢力である 支配体制を長い時間をかけて強化していっ ナフダトゥル・ウラマ(NU)は宗教活動に専 た。支持基盤である国軍も人事権の行使によ 念することになった。 り分割統治、力関係はスハルトに有利になっ 国軍を掌握し、与党ゴルカルが強化されれば ていった。一方で、エリートの体制内取り込 スハルト親政体制は盤石となる。スハルトは巧 みに見られるように支持基盤の拡大に成功し みにこれを実現した。国軍は側近のムルダニに た。しかし、利益配分資源の不足、大統領一 再編成を担当させた。ゴルカルはスダルモノ 族への集中に対する不満など、基盤の緩みは 官房長官を総裁に任命し、組織強化とエリー 進行していた。 ト層のリクルートを実行させた。ムルダニ将 軍はキリスト教徒でジャワ人ではなく、スダ Ⅱ 個人支配体制とゴルカルの強化 ルモノ将軍は法務将校で国軍主流ではない。 著者は先行研究とインドネシア語資料を丹 1980 年代央になるとポスト・スハルト体 念に検討し、スハルト個人支配体制が強化さ 制が意識されるようになっていた。インドネ れる過程と政党としてのゴルカルの基盤確 シア人の平均寿命はまだ短く、石油価格の下 立、リクルートされた社会的エリート層を分 落でインドネシア経済は 1985 年に最悪の状 析、政権支持基盤の変容を詳述している。学 態であった。ルピア切り下げ、緊縮財政、構 生運動指導者、プリブミ企業家、45 年世代 造調整策による経済自由化を進めざるを得な と呼ばれる退役将軍の子供たち、イスラム知 い状態であった。現実的にみてスハルト後継 識人などの参加によりゴルカルの肥大化、競 者は国軍、イスラム教徒、ジャワ人であるこ 争による政治的能力の向上などを説得的に紹 とが必要条件と解釈されていた。ムルダニ、 介している。 スダルモノとも後継者となる可能性は薄いと スハルト体制はスカルノが指導民主主義と 見られていた。しかし、ゴルカル組織化に成 して 45 年憲法による国民協議会による大統 功し、国軍の協力なしに 1988 年総選挙に大 領の間接選挙という政治制度を継承してい 勝したスダルモノが 1989 年の 4 期目のスハ る。国民協議会は任命議員により大統領支持 ルト体制で副大統領になる際には国軍から猛 基盤を容易に確立できる政治制度であるが、 烈な反発があった。大統領に不慮の事態が発 スハルトは満場一致で推薦されることにより 生すれば副大統領が後継するためである。 正当性を確立することに成功してきた。与党 スダルモノ自身に野心があったかどうかは ゴルカル、旧政党をイスラム系は開発統一 不明であるが、ポスト・スハルトの時代は政 党、それ以外を民主党に集約させた。独立以 党とマスコミが政治基盤として重要になると 来、対立してきた政党がひとまとめにされれ 判断された。スダルモノはゴルカルを掌握 ば内紛で弱体化し、スハルト・国軍勢力によ し、マスコミにも基盤を広げていた。結局、 る調停に頼るようになった。イスラム急進派 ゴルカル総裁を辞任し、副大統領に専念する の排除、すべての社会団体にパンチャシラ原 ことになる。ムルダニも国軍司令官から国防 則を受け入れさせる政治関連 5 法案が 1985 大臣に昇格し、実権を喪失する。 80 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 スハルト個人支配の確立から、1998 年 5 月 のインサイダー情報を共有することがあり、 の退陣に至る政治的事件、とくにゴルカルの それが噂話となって広がることもある。1980 政治勢力の変動、改革勢力と連動した行動に 年代の後半に入ってからは、上層エリートの ついては非常に克明である。著者の翼賛型個 中で大統領一族のファミリー・ビジネス、利 人支配と平和的体制転換仮説が説得力をもつ 益配分の集中に不満が高まっていた。表面は 内容となっている。 パトロネージに感謝しているように振る舞い ながら、不満を募らせる人が増加していった。 Ⅲ スハルト政権と社会構造 国軍の退役将軍の中にも不満が蔓延していた。 個人支配体制は権力者の性格と同時に社会 スハルトに直言できたのはムルダニ将軍ま 基盤、あるいは社会の価値観に大きな影響を でで、後は命令に忠実な能吏しかいなくなっ 受けると思われる。スハルト政権はインドネ たとされる。スハルトはファミリー・ビジネ シア社会の産物という性格があり、スハルト スに象徴される汚職・癒着・身贔屓(KKN) は巧みに対応したが、支配体制の完成により に対する反発が充満していることを理解でき 自信過剰となり、判断を狂わせたという解釈 なくなっていた。士官学校卒業の士官は 45 が可能であると思われる。 年世代と違い、内外の世論に敏感であった。 オランダ植民地の統治は現地社会の支配層 と有力者を取り込むことにより、植民地エ スハルトの命令で治安活動を実行することを 逡巡するようになっていた。 リートを形成していった。その核となるのは 経済危機で社会不安が高まった際、プリブ 2500 家族の家系であるとする上層エリート ミ・エリート層は華人だけでなく、自分たち もいる。オランダ時代に高等学校(HIS) に にも貧困層の怒りの対象になっていることを 入った人はほぼこの家系に相当する。中核の 実感した。だれかが口火を切る勇気を出せ 周辺にも相対的な上層エリートが拡大してき ば、スハルト退陣を求める運動が急展開する ている。1960 年代までに国立大学に子女を エネルギーがあったと思われる。体制転換が 進学させることができたのはかなり上層とい 平和的に実現したのはエリート社会のネット える。このエリート層の社会はかなり狭く、 ワーク効果が大きかったのではなかろうか。 政府高官と反政府的な運動をするものが親族 スハルトの不正蓄財、旧政権の犯罪など多く であることも少なくない。スハルトの子女も の報道があったが、ほとんどが有耶無耶に 中核となるエリート家族の家系と婚姻してい なっている。国営銀行の不良債権のうち、内 る。オランダは植民地経営に必要な土木技師、 容が公表されずに償却された部分にはエリー 官僚、医者以外の教育に全く冷淡で、独立し ト層の債務帳消しがあると推定される。パト た共和国政府は植民地官僚を継承するしかな ロネージの配分は現実には分権化されていた かった。独立後の政党リーダーも旧エリート はずで、スハルト後も温存された部分と、新 層から出現した。 規の配分もある。 このエリート層は人間関係のネットワーク で繋がっており、国軍将官もこのネットに (東京大学出版会、2010 年 10 月、A5 判、351 ページ、 定価 6,200 円[本体] ) 入っていることも少なくない。この層は多く (おぐろ・けいいち 静岡県立大学名誉教授) 書評/増原綾子著『スハルト体制のインドネシア―個人支配の変容と一九九八年政変』 81 [書評] 谷川真一著 『中国文化大革命のダイナミクス』 三宅康之 中国で起きたプロレタリア文化大革命(以 ントを付したい。 下、文革) とはいったい、何だったのだろう 序章「文化大革命の動的分析に向けて」に か。1966 年の発動以来 40 数年を経た今日も おいて、先行研究の批判的紹介と本書で採用 なおこの問いをめぐる考察が続けられてお される政治社会学の新しいアプローチが提示 り、すでに汗牛充棟の先行研究が存在するう さ れ る。 す な わ ち、 「抗 争 政 治」(contentious え、毎年数冊(しかも大著が) 出版されてい politics) の手法により、ある特定の抗争をエ る。ここ数年日本国内に限っても、2008 年 ピソードととらえ、エピソードの中に他の問 『文化大革命の記憶と忘却』 、2009 年『墓標な 題と共通するプロセスを見出し、そのメカニ き草原 上・下』 、 『中国文化大革命の大宣伝 上・ 下』 、 『殺 劫 チ ベ ッ ト の 文 化 大 革 命』 、 ズムを分析する、という手続きに沿う。 第 1 章「 『経 験 交 流』 と 造 反 運 動 の 拡 散」 2010 年にも『毛沢東 最後の革命』 、 『日本人 では、農村部での文革は自発的なものでも、 の中国像―日本敗戦から文化大革命・日中 カリスマに盲従したものでもなく、紅衛兵の 復交まで』などが立ちどころに思いつく。 そうした努力の結果、文革は都市部が中心 「経験交流」によってもたらされ、拡散して いったことを計量分析も用いて示す。 であり、農村部では影響が少なかった、とい 第 2 章「造反派の成立から二極化へ」 。陝 う通説も再検討を余儀なくされるようになっ 西省では学校における文革初期の粛清運動と ている。むしろ近年、次のような問題群が問 その後の方針転換の結果、被害者らが名誉回 われるようになってきた。すなわち、文革の 復を求めて連合して「造反」に立ち上がって 嵐は都市部から農村部へどのように伝播した いった。67 年初の「奪権闘争」により地方 のか、そしてどのような結果を生み出したの 党政組織が麻痺するなか、派閥間で主導権争 か、それはなぜそうなったのか、である。陕 いが生じ、周辺の県にも越境して勢力を拡大 西省の農村部における文革の派閥抗争と政治 しつつ、二極化が進行していく過程を明らか 的暴力に焦点を合わせる本書は、これらの問 にする。派閥組織形成と二極化のプロセスを 題に正面から答える、文革研究の世界的最先 意識的に区別し、二極化を 67 年夏からの武 端の成果と位置付けることができる。 闘への道を開く結節点として重視している点 が新しい。 Ⅰ 内容紹介 まず、本書各章の骨子を確認し、適宜コメ 82 第 3 章「 『支 左』 政 策 と 軍 の 分 裂」 で は、 67 年夏からの「全面内戦」状況について述 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 べる。陝西省農村部では全国的に見ても多数 命」では総括を行ったうえ、文革研究へのイ の死者が出たが、詳細に見れば地域により差 ンプリケーションや今後の方向性を述べる。 が大きかった。毛沢東は左派にテコ入れする ため、人民解放軍が左派を支持する「支左」 Ⅱ 批判的検討 政策を命じたが、この政策は、攻撃を受けて 本書は、 「あとがき」で明記されているよ いた地方党委員会と共棲状態にあった地方軍 うに、著者がスタンフォード大学に提出した 区を分裂させ、混乱を深めることになった。 博士号学位申請論文を大幅に再構成したもの また、中央の「支左」政策に対し、地方で である。米国流に社会科学的アプローチを全 は軍分区(行政レベルでは地区に相当) ごとに 面的に採用している点で、本書は上記の「文 異なる介入が行われた。第 4 章から第 6 章で 革本」と異なる。分析枠組みを構築し、仮説 は、この軍の介入のパターンを 3 つに整理 を立て、計量分析も用いて検証する、という し、それぞれの事例研究を行う。第 4 章「軍 プロセスを各章で繰り返しながら一連の問題 の統一介入から局地紛争へ」では中央文革小 群に回答を与えていく本書のスタイルは、言 組が直接介入を行った楡林地区と省外から進 うまでもなく著者のバックグラウンドと密接 駐した軍主力部隊が統一的に介入した宝鶏地 に関係している。 区の事例を検討する。第 5 章「軍の分裂介入 著者はすでに立命館大学国際関係研究科在 から『全面内戦』へ」では、県レベルの軍当 籍中、中国の「単位」制度の解明に取り組 局(人民武装部) が相反する派閥を支援した み、 成 果 を 上 げ て い た。 渡 米 し て ス タ ン 結果大きな犠牲者を出した延安地区の事例を フォード大学社会学研究科でアンドリュー・ 取り上げる。第 6 章「軍の不介入から『全面 ウォルダー教授の指導を受け、テーマは文化 内戦』へ」では、軍分区の不介入が下級を混 大革命の研究に転じたが、政治社会学的アプ 乱させ、無政府状態のなか、暴力が激化した ローチについては一貫しており、 「抗争政治 安康地区、漢中地区を取り上げる。 論」のパイオニアであるダグ・マクアダム教 第 7 章「派閥による排他的支配と抑圧的暴 授に日常的に接し、最先端の動向を取り込ん 力の拡大」は、 「奪権」により麻痺した党政 で方法論にさらに磨きをかけたことは明らか 機関に代わって設立された統治機関である革 である。 命委員会の下での暴力を検討する。軍当局の 方法論以外に本書全体に通じた特徴として 一派への支持により早期に武闘が収まった地 特筆に値するのは、ケースの記述の詳細さと 区では一派独裁の「排他的」革命委員会が成 明晰さである。県レベルの事例についてリア 立したが、皮肉なことにその下では大規模な リティあふれる詳細な過程を、しかも社会科 抑圧的暴力が発生した。他方、軍当局が分裂 学的明晰さをもって描いており、評者は各章 し、武闘が長期継続した地区は、解放軍主力 を読了するまで息を止めるようにして一気に 部隊の介入を招き、複数派閥を含む「包摂 読み、読了後深呼吸することを繰り返した。 的」革命委員会が成立した。そこでは相互抑 この緻密な記述は、著者がかつてウォル 制により暴力は限定的であった。 終章「一つのエピソードとしての文化大革 書評/谷川真一著『中国文化大革命のダイナミクス』 ダー教授率いる文革研究チームの一員として 尽力した全国の「県誌」の整理作業に由来し 83 ている。周知のように、地方の公文書館(檔 が、評者は賢明なものと評価したい。 案館)が開放されるようになったが、やはり この評価はさておき、変数を設定し、因果 文革のように敏感な文書については、一部中 関係を推論する点においては従来の政治学の 国人研究者にはアクセスが認められていて アプローチと共通している。この点につい も、外国人には公開されていない。そこで次 て、本書では全体を通じて、文革期における 善の策として同時代の新聞、各県誌の精査が 農村部の暴力のパターンの相違を説明変数、 必要になる。これら以外にも参考文献リスト 軍分区・武装部の対応・介入パターンを独立 を一瞥すれば、現時点で可能な限りの文献収 変数としている。ではなぜ軍分区や武装部の 集を踏まえた叙述であることが了解されよ 対応が異なるのか、という疑問が浮かび上が う。 る。換言すれば、介入パターンは媒介変数で なお、本書は装丁にも工夫が凝らされてい あり、軍分区・武装部の選好、あるいは意思 ることを付け加えておきたい。カバーを外す 決定への影響要因が独立変数ではないか、と と本体は濃いオリーブグリーン、カバーの折 の疑問が浮かんでくる。政治社会学ではこの り返しは赤色になっている。この装丁に人民 点をどう処理するのだろうか。これは今後の 解放軍の軍服と襟章を想起させられるのは評 同アプローチによる研究者が取り組むべき課 者だけではあるまい。 題かもしれない。 つぎに、本書を通読して感じた疑問点から 第 3 に、分析視座に由来する問題点であ 今後の文革研究の課題について述べてみたい。 る。 文 革 期 の 地 方 の レ ベ ル に は 省、 地 区、 まず、史料、データについてである。陝西 県、人民公社、生産大隊(郷)、生産隊(行政 省の県誌は情報量が豊富であったようである 村)まで存在した。県レベルという分析視座 が、それでも著者も指摘するように、記述の の設定は実り豊かであったことは本書から判 水準が一定ではなく、情報量に差が存在する 明した。だが、人民公社レベル以下の分析は ことはおのずと免れない。被害者数(死傷者 終章で指摘されるように未踏の領域に属し、 数)の精度もばらつきがあるであろう。そう ここでは問わないにせよ、次のような犠牲も だとすれば、事例の一般化には慎重さが必要 払っているのではないか。1 つは、地区レベ となる。また、本書も計量分析に当たり 93 ルとの関連性である。各章は軍分区のある地 県中 18 県を除外したと明記している(27 ペー 区レベルで整理していることからは、地区レ ジ)が、今後の参考のため煩瑣を厭わず県名 ベルに分析視座を置いた研究もあり得そうで まで列記すべきでなかったか。 ある。今ひとつは、省レベルの動向との連動 第 2 に、アプローチについてである。 「抗 性である。おそらくは筆者が県レベルに絞り 争政治」という中範囲の問題設定を行い、さ 込むため、他のレベルでの文革の推移につい らに抗争政治の事例(エピソード) からプロ ての記述は意図的に避けたものと思われる セス、さらにメカニズムを発見するという分 が、背景情報として省レベル、地区レベルに 析手続きをとる。このように問題を無制限に ついての動向にもう少し記述があってもよ 拡大させないという姿勢は、小さくまとまっ かったのではないか。省、地区との相互作用 てしまいかねないという批判も成り立ちうる の分析は本書の範囲を超えるため、今後の課 84 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 題が示されたものと考えたい。 であって、本書の価値を減じるものではない。 最後に、本書に関して、評者から(自戒の 以上、さまざまな論点を挙げたが、本書の 念を込めて) 「望蜀の嘆」を述べることが許さ 果敢な挑戦によって従来の文革研究の水準が れるとすれば、記述の理解を深めるための図 一段高まり、さらなる問題点の所在が明らか 表・データがやや少なかったように思われた になったことを感謝したい。筆者は終章で文 ことを挙げておきたい。1 つは、たとえば、 革研究のみに即して本書のインプリケーショ 文革の拡散や対抗主要派閥・軍当局の関係図 ンを論じているが、その有用性は文革のみに を明示すると視覚的に分かりやすかったであ とどまるものではなく、中国の他の政治的事 ろう。また、各地区、各県の経済的状況の説 例への応用、中国以外の同様の抗争政治的事 明、データの提示があると参考になった。第 例との比較研究等々、本書のアプローチの汎 3 に、各章で取り上げられた事例それぞれの 用性は高い。文革研究、中国研究を越えて本 時系列的展開は明晰ではあるが、事例間の時 書が広く読まれること、本書の英語版が出版 間的関係までは明示していない。たとえば、 され日本(人)の中国研究が世界的に評価さ 各事例の展開を並行して一目に判明できるよ れることを、評者は心より望んでいる。 うな年表が付されていれば、さらにトータル な把握が容易になり、より多くの示唆が得や (御茶の水書房、2011 年 10 月、A5 判、227 ページ、 定価 6,800 円[本体] ) すくなったのではないかと思われる。もちろ (みやけ・やすゆき 関西学院大学) ん、読者の側で図や年表を作成すればよいの 書評/谷川真一著『中国文化大革命のダイナミクス』 85 SUMMARY Analysis of the Growth Path and Influential Factors of Chinese Private Firms WU Baijun Based on a study of private entrepreneurs in the Chinese Yangtze delta area, this article analyzes the major factors influencing the growth of Chinese private firms. The article also explores the influence of these factors on the growth path and business development of private firms. It is found that Chinese private firms typically follow two types of growth path. One is to start from scratch, accumulate business and thus achieve a rolling development. The other is to utilize a variety of social relations to obtain such monopolistic resources as land, franchise rights on the market, etc., all of which are then transformed into capital to develop the firm. Therefore, the basic factors influencing the growth of Chinese private firms are land resources, labor costs, financial capital, and the growth of market demand. Nevertheless, the key factor playing a decisive role in the development of a firm is often the policy support of the government, social networking, etc. Although there is a general lack of basic resources for Chinese private firms, the overall transaction cost of entrepreneurship is not high. Some firms are able to grow rapidly by acquiring key resources. The growth process of private firms, however, is limited by both resource scarcity and growing transaction costs, which restrains the growth of these firms. SUMMARY Comparing Economic Growth in China and India: From the Viewpoint of Their Economic Impact on the East Asian Region MIYAJIMA Yoshiaki Emerging countries, especially China and India, have been increasingly expected to play a leading role in the world economy since banking crisis precipitated by the Lehman Brothers failure. Both countries have maintained high rates of economic growth, whereas Europe and the USA have been experiencing serious recession. However, the patterns of industrialization in China and India do not seem to be the same, particularly from the viewpoint of their economic impact on the East Asian region. Here is a provisional conclusion. What this paper argues is that India’s economic growth differs in certain respects from the growth of East Asian countries, including China. For India, domestic demand on economic development is relatively stronger than that of East Asia; however, international trade and the division of labor inside the East Asian region is more active than in India. That is the reason why there is a notable difference between China and India with respect to the ratio in the trade of machinery and mechanical appliances: these are the two main items of intraregional trade in East Asia. SUMMARY 87 New markets in East Asia have been created due to the international division of labor in ITrelated products since the 2000s, while China has been gaining power. By gaining access to this market, East Asian countries and China have enjoyed the multiplier effect of intraregional trade; therefore their economies have helped each other grow. In what way will these economic structures in East Asia change in the future? Or will India join the division of labor in East Asia in IT-related products; will the division of labor begin to cover India as well? These are points to which we should henceforth pay attention. SUMMARY The Sense of Village and Transition in Rural Hebei Province in the 1950s KONO Tadashi Much research has been published on the subject of rural villages in north China, which describes a village as a non-community, borderless group. Because previous works have mostly been interested in the traditional village, they did not fully analyze the transitions that these villages underwent in the 1950s. In particular, these works are mainly interested in whether or not north China villages are closed communities, but are not interested in the requirements of villagers, and their sense for village land. However, these are issues that must be analyzed before considering whether or not north China villages are closed communities. In section 1 I briefly marshal the views on north China given in previous works, and in section 2 I analyze the problem of village land. It has been proven that north China villagers did have a definite border-consciousness concerning land reform. I have also undertaken some analysis of crop-watching practice, traditionally called kanqing, in section 3. Because village borders in north China are generally considered to be same as the borders of crop watching, any changes in the village border imply changes in crop watching. In section 4, I analyze the requirements for being a villager and the peasants’ sense or awareness as villagers. When the Chinese Communist Party (CCP) executed land reform in rural villages, specific distinctions were drawn between insiders and outsiders. Such distinctions had some influence on the distribution of land and properties. Although such distinctions were strengthened when the CCP executed land reform, during the time of collectivization such distinctions weakened because land ownership had lost its significance. This sense of village did not help the CCP to promote the execution of its policies such as land reform and collectivization, but rather hampered this process. At the time of higher-level collectivization, because every village had its own village consciousness, it was not easy to form a higher-level co-op. These difficulties reduced higher-level co-ops to smaller entities of similar size to primary level co-ops. 88 アジア研究 Vol. 57, No. 4, October 2011 編集後記 第 57 巻第 4 号をお届けします。前号が発行され てから 1 か月半での刊行は異例ですが、これも、刊 行予定が遅れているのを挽回しようとしてのことで す。 刊行スピードが速まったのは、今回の特集を組む にあたって厳善平会員以下、多くの方々が入稿から ゲラのチェックにいたるまで、敏速に対応してくだ さったからですが、これだけのスピード感で作業を しても、本来の刊行時期に戻すのは至難の業です。 では、どうしたらいいか。(1) 審査基準を緩やか にし、査読委員に厳しく審査をしないようお願いす る、(2) 投稿論文が増えるよう、会員以外からの投 稿を(有料で ?)受け付けるようにする、(3) 編集 委員会の方で特集を組み、投稿に依存しない体制を 作る、(4) 合併号を増やし、実質的な刊行回数を減 らす、などいくつかの方策があります。次号は (4) を利用しようと計画しているものの、いずれの方法 にも一長一短があり、決定打とはいえません。かく して編集委員会は、これからも悩みを抱え続けるこ ととなります。 (園田茂人) [編集委員会] 園田茂人(委員長) ・渡邉真理子(副委員長) ・阿南友亮・ 大島一二・梶谷懐・中岡まり・益尾知佐子・木宮正史・ 川上桃子・中野亜里・藤田麻衣・夏田郁・佐藤仁・ 遠藤元・玉田芳史・中溝和弥 [書評委員会] 三重野文晴(委員長) ・星野昌裕・大澤武司・寶剱久俊・ 倉田徹・山形辰史・舛谷鋭・中西嘉宏・後藤健太・ 福味敦 投稿要領(2006 年 7 月 1 日改訂) 1. 『アジア研究』は、アジア研究に関する論説、研究 ノート、書評論文、書評などにより構成され、1 年に 4 号刊行する。投稿については随時受け付ける。 2. 投稿できるのは、アジア政経学会の会員および編 集委員会・書評委員会が依頼した人とする。会員の 場合、投稿する当該年度までの学会費が納入済みで あることとする。 3. 投稿原稿は未発表のものでなければならず、同一 の原稿を『アジア研究』以外に同時に投稿すること はできない。 4. 同一会員による論説、研究ノート、書評論文を 2 年 以内に 2 回以上掲載することは原則としてしない。た だし、書評はこの限りではない。 5. 『アジア研究』に掲載されたすべての原稿の著作権 は財団法人アジア政経学会に帰属する。 6. 原著者が『アジア研究』に掲載された文章の全部 または一部を論文集等への再録などの形で複製利用 しようとする場合には、所定の様式の申請書にて事 前に編集委員長に申請する。特段の不都合がない限 り編集委員長はこれを受理し、複製利用を許可する。 7. 『アジア研究』に掲載されたすべての原稿は、アジ ア政経学会のホームページ(http://www.jaas.or.jp)に おいて PDF ファイルとして公開する。 8. 投稿に際しては、 「編集要領」および「執筆要領」 (本 学会ホームページに掲載)の内容を踏まえ、その規 定に準拠した完成原稿と論文要旨 (1200 字程度 ) を提 出する。 9. 『アジア研究』の本文で使用できる言語は日本語と する。ただし、注記などにおいてはその他の言語を 使用できる。特殊な文字、記号、図表などを含む場合 は、予め編集委員会および書評委員会に相談する。 「アジア研究」第 57 巻第 4 号 発行 2011 年 10 月 31 日 発行者/アジア政経学会 (連絡先)〒112-8610 東京都文京区大塚 2-1-1 お茶の水女子大学 理学部 3 号館 204 特定非営利活動法人 お茶の水学術事業会 アジア政経学会担当 Tel/Fax: 03-5976-1478 発行責任者/金子芳樹 編集責任者/園田茂人 制作協力/中西印刷株式会社 印刷所/中西印刷株式会社 10. 投稿する原稿の本文には、執筆者名を記入せず、 執筆者名、そのローマ字表記、所属機関、職名、お よび原稿表題の英文表記は、本文とは別にまとめて 付記する。 11. 投稿する原稿の枚数は、40字×30 行を 1 枚と換算 して、論説が 15–20 枚(注・図表・参考文献を含む) 、 研究ノートが 10–20 枚(注・図表・参考文献を含む) 、 書評論文が 10–15 枚(注・図表・参考文献を含む) 、 書評が 2–5 枚とする。原稿に挿入される図表につい ては、大小にかかわりなく 3 点を 1 枚と換算して、全 体の枚数から差し引く。 12. 投稿原稿は、E-mail の添付ファイルとして送付す る。ファイル形式は、MS-Word、一太郎のいずれか とする。やむをえずハードコピーで提出する場合は、 ワープロ原稿を 2 部提出する。採用が決定した原稿 の提出方法は、編集委員会から再度通知する。 13. 投稿された原稿は、レフェリーによる審査結果を 考慮の上、編集委員会が採否を決定する。 14. 採用された場合、約 400 語の英文要旨を提出する。 英文要旨は、提出前に必ずネイティブ・チェックを 受ける。 15. 執筆者は、別刷り(抜刷)の作製を印刷所に依頼す ることができる。費用は執筆者の自己負担とする。 16. 原稿の投稿先および問い合わせ先は次のとおりと する。なお、投稿者は、連絡先住所・電話番号・メー ルアドレスを明記する。 〒 113-0033 東京都文京区本郷 7-3-1 東京大学東洋文化研究所 園田茂人気付『アジア研究』編集委員会 E-mail: [email protected] Aziya Kenkyu (Asian Studies) is published quarterly in January, April, July, and October by the Aziya Seikei Gakkai (Japan Association for Asian Studies). Editorial office: Aziya Seikei Gakkai, c/o Shigeto Sonoda, Institute for Advanced Studies on Asia, the University of Tokyo, Hongo 7-3-1, Bunkyo-ku, Tokyo 113-0033, Japan Subscription rates: ¥6,300 per year. Multiple-year subscriptions are available. © 2011 Aziya Seikei Gakkai Asian Studies Vol. 57, No. 4, October 2011 CONTENTS International Symposium: Rising China and India Rising China and India: Government, Market and Enterprise YAN Shanping 1 Analysis of the Growth Path and Influential Factors of Chinese Private Firms WU Baijun 3 Strategising of SEZs: China vis-à-vis India Aradhna AGGARWAL 13 Comparing Economic Growth in China and India: From the Viewpoint of Their Economic Impact on the East Asian Region MIYAJIMA Yoshiaki 30 Article The Sense of Village and Transition in Rural Hebei Province in the 1950s KONO Tadashi 52 Book Reviews KWON Hyangsuk, Korean-Chinese Migration: Self-Governance of Ethnic Minority TAJIMA Junko 70 MASUO Chisako, China Looks Back: Mao's Legacy in the Open-Door Era IENAGA Masaki 75 MASUHARA Ayako, The End of Personal Rule in Indonesia: Golkar and the Transformation of the Suharto Regime TANIGAWA Shinichi, Dynamics of the Chinese Cultural Revolution OGURO Keiichi 79 MIYAKE Yasuyuki 82 Summaries in English 87 AZIYA SEIKEI GAKKAI ( Japan Association for Asian Studies ) TOKYO, JAPAN http://www.jaas.or.jp ISSN 0044-9237 定価1575円 (本体1500円)