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SAO EX6

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SAO EX6
第一章
闇を貫く『ヴォーパル・ストライク』の血色の閃光が、大型の昆虫モンスター二匹の HP
を、同時にゼロにした。
ポリゴンの抜け殻が四散するのを目の端で捉えながら、硬直時間が解けると同時に剣を
引き戻し、振り向きざま背中に迫りつつあった鋭い大顎の攻撃を弾き返す。ギイイイと耳
障りな哭き声を上げて仰け反る巨大アリを、もう一度同じ技を繰り出し仕留める。
ほんの三日ほど前、片手直剣スキルが熟練度 950 に達すると同時に剣技リストに出現し
たこの単発重攻撃技は、その使い勝手の良さで俺を驚かせた。技後の硬直時間はやや長い
が、刀身の倍以上のリーチと、両手用の重槍に匹敵する威力はそれを補って余りある。無
論、対人戦でこうも使いまくればすぐにタイミングを読まれてしまうだろうが、単純な AI
の動かすモンスター相手なら関係ない。遠慮なしに連発し、押し寄せる敵群を真紅のライ
トエフェクトとともに吹き飛ばしていく。
――とは言え、わずかな松明の灯りの中一時間近くもぶっとおしで続く戦闘に、さすが
に集中力が尽きかけているのを俺は自覚していた。大顎による噛み付きと、そこから吐き
出す酸性の粘液だけという単純な攻撃パターンに少し前から即応できなくなりつつある。
大アリどもは、数は多いが決して雑魚ではない。現在の最前線フロアである49層からほ
んの二層下に棲息する、充分に強力なモンスターだ。レベル的には安全マージン内だが、
数匹に囲まれて立て続けに攻撃を受ければ、HP バーはたちまち黄色くなるだろう。
そんな危険を冒してまで既攻略層で単身戦闘を続ける理由はただ一つ、この場所が、現
在知られているなかで最も効率のよい経験値稼ぎが可能な人気スポットだからだ。周囲の
ガケにいくつも開いている巣穴からぞろぞろ湧き出す巨大アリは、攻撃力は高いが HP、防
御力ともに低いタイプのモンスターで、攻撃さえ避けつづけられれば短時間で大量に倒す
ことができる。もっとも、前述したとおり四方を囲まれて攻撃を被弾すると、体勢を立て
直す間もなく一気に"持っていかれる"ので、とてもソロ向けの狩場とは言えない。人気スポ
ットゆえに一パーティー一時間まで、という協定が張られているが、順番待ちの列に単独
で並ぶのは俺だけだ。今も、谷の入り口で顔馴染みのギルドの連中が俺の狩りが終わるの
を待っているが、その首の上には判を押したように呆れ面が並んでいるはずだ。いや、呆
れられるならまだいい方かもしれない。仲間意識の強い大ギルドのプレイヤー達からは、"
最強バカ""はぐれビーター"と笑い者扱いらしい。――だが、もちろん、知ったことではな
い。
視界左端に表示されたタイマーが五十七分を回るのを見て、俺は次にモンスター湧きの
波が切れたタイミングで撤収することを決め、最後の集中力をかき集めるべく大きく息を
吸うとぐっと止めた。
左右から同時に接近してきたアリの、右の奴にピックを投げつけて動きを牽制しておい
て、左の奴を隙の少ない三連撃技『シャープネイル』で仕留める。振り向くのと同時に『ヴ
ォーパルストライク』を、大きく開いた顎の中央にぶち込む。硬直中に、少し離れたとこ
ろから発射された緑色の酸を左腕のグローブで振り払い、じゅっという音とともにわずか
に減少する HP バーに舌打ちしながら地面を蹴って大きくジャンプ。空中からアリの柔ら
かい腹を掻っ捌いて息の根を止め、その向こうにいたラスト二匹を、現在マスターしてい
る最長連続技の六連撃を半分ずつ使って屠ると、次の波が巣穴から湧き出す前に猛然とダ
ッシュした。
全長三十メートルほどのアリ谷を五秒足らずで駆け抜け、狭い出口から転がるように脱
出したところで、初めて息を吐く。新鮮な空気を求めて激しく喘ぎながら、この苦しさは
意識の中だけのことなのか、それとも現実の肉体の呼吸も止まっていたのだろうかと考え
る。答えが出る間もなく胃が痙攣するような感覚が訪れ、堪えようもなく数回えずいてか
ら襤褸切れのごとく真冬の凍った地面に突っ伏した。
倒れたままの俺の耳に、近づいてくる複数の足音が届いた。顔見知りの奴らだが、今は
挨拶するのも億劫だ。行ってくれというふうに右手をのろのろと振ると、ふうっという太
い溜息とともに錆びた声が言うのが聞こえた。
「ちょっとお前らとレベル差がついちまったから、オリャあ今日は抜けるわ。いいな、円
陣を崩さねえで、両隣の奴のカバーを常に意識するんだぞ。危なくなったら遠慮しねえで
大声で呼べ。女王が出たらすぐ逃げろ」
リーダーぶりが板についた指示に、うす、おう、と六、七人の声が答え、ざくざくと下
草を鳴らして靴音が遠ざかっていった。俺はようやく整ってきた呼吸をゆっくりと繰り返
しながら、右手を突いて上体を起こし、傍らの木の幹にぐったりと寄りかかった。
「ほれ」
飛んできた回復ポーションの小瓶をありがたく受け取り、栓を親指で弾くと、貪るよう
に呷る。苦みのあるレモンジュースといった味が、途方もなく美味く思える。空になった
瓶を地面に放り、それが小さな光とともに消滅するのを見てから顔を上げた。
三ヶ月ほど前、最前線の迷宮区で知り合った、ギルド『風林火山』リーダーのクライン
は、相も変らぬ趣味の悪いバンダナの下で無精ひげに囲まれた口もとを歪め、言った。
「いくらなんでも無茶しすぎなんじゃねェのか、キリトよ。今日は何時からここでやって
んだ?」
「ええと……夜八時くらいか」
俺が掠れた声で答えると、クラインは大袈裟な渋面を作る。
「おいおい、今三時だから、七時間も篭りっ放しかよ。こんな危ねえ狩場、気力が切れた
ら即死ぬぞ」
「平気さ、待ちがいりゃあ一、二時間休める」
「いなきゃあぶっ通しなんだろうが」
「そのためにわざわざこんな時間に来てるんだ。昼間のここは五、六時間待たされるから
な」
このバカったれが、と舌打ち混じりに
吐き捨てると、クラインは腰からレア武
器の日本刀を外し、俺の前にどかっと座
り込んだ。
「……まあ、お前ェが強いのは知ってる
けどよ。アリんこ共をソロであのペース
だからな……。レベル、どんくれえにな
った」
レベルを含むステータス情報はプレ
イヤーの生命線であり、おいそれとは尋
ねないのがこの SAO のマナーではあるが、クラインが口は悪いが"いい奴"なのはこの数ヶ
月で充分に知っているし、風林火山は攻略組の中でも名の通った存在で、決して陰で PK 行
為に手を染めるようなギルドではないので、俺は肩をすくめながら正直に答えた。
「今日上がって69だ」
ざらざらとアゴを撫でていた手を止め、クラインはバンダナに半ば隠れた目を丸くした。
「……おい、マジかよ。オレよか10も上か……。――なら、尚のこと解んねぇぜ。ここ
最近のお前ェのレベル上げは常軌を逸してるぞ。どうせ昼間も過疎い狩場に篭ってンだ
ろ?
何でそこまでしなきゃならん。ゲームクリアの為……なんてお題目は聞きたかねぇ
ぞ。お前ェ一人がどんだけ強くなったところで、ボス攻略のペースは KoB とかの強力ギル
ドが決めるんだからな」
「放っとけよ。レベルホリックなんだよ、経験値稼ぎ自体が気持ちいいんだよ」
自虐的な笑みとともに吐き出した俺のセリフを、クラインはふっと真面目な顔になって
退けた。
「なわけねえだろうが……そんなボロボロになるまでする狩りがどんだけキツいか、それ
くれぇオレだって知ってるつもりだ。ソロは神経磨り減らすからな……。いくらレベル7
0近くても、この狩場で単騎じゃ安全マージンなんてあって無いようなもんだぞ。綱渡り
もいいところだ、"向こう側"に転げ落ちるギリギリの線でレベル上げを続ける意味がどこに
あるんだって聞いてンだよ」
風林火山は、もともと攻略組の中でもソロ志向のプレイヤーが必要に迫られやむなく作
ったギルドだと聞いている。メンバーはどいつも過干渉嫌いの無頼派で、それはリーダー
のクラインも例外ではないはずだ。
いい奴ではあるが、そんな男がここまで俺のようなはぐれビーターに気を使って見せる
のは、恐らくその振りをせざるを得ない事情があるのだろう。そして、俺はその事情にあ
る程度検討がついているのだった。苦手な言葉の駆け引きを続けるクラインに助け舟を出
すつもりで、俺は苦笑しながら口を開いた。
「いいぜ、そんな心配する振りなんかしないで。知りたいんだろ、俺がフラグ Mob を狙っ
てるのかどうか」
フラグ Mob、とはクエスト等の攻略キーとなっているモンスターのことである。大概の
ものは数日、あるいは数時間に一回というペースで出現するが、中にはたった一度しか倒
す機会のない、言わば準ボスモンスターのようなものも存在する。当然強さも半端ではな
く、ボス攻略に準じた大パーティー構成を持ってあたるのが常識である。
クラインは、正直に顔を強張らせると、そっぽを向いてアゴをごしごし擦った。
「……オリャぁ別に、そんなつもりじゃあ……」
「ぶっちゃけて話そうぜ。俺がアルゴからクリスマスボスの情報を買った、っていう情報
をお前が買った……という情報を俺も買ったのさ」
「ンだと」
クラインはもう一度目を見張り、次いで派手な舌打ちをした。
「アルゴの野郎……鼠の仇名はダテじゃねえな」
「あいつは売れるネタなら自分のステータスだって売るさ。――ともかく、だから俺たち
は、互いに相手がクリスマスボスを狙ってることを知ってるわけだ。現段階で NPC から入
手できるヒントも全て購入済みだってこともな。なら、俺がこんな無謀な経験値稼ぎをし
てる理由、そしてどんなに忠告されても止めない理由もお前には明らかだろう」
「ああ……悪かったよ、カマかけるみてェな言い方してよ」
クラインはアゴから離した手でがりがりと頭を掻き、続けた。
「二十四日夜まであと五日を切ったからな……。ボス出現に備えてちっとでも戦力を上げ
ときたいのは、どこのギルドも一緒だ。さすがにこんなクソ寒ぃ真夜中に狩場に篭るよう
なバカは少ねぇけどな。だがな……、うちはこれでもギルメンが十人以上いるんだぜ。充
分に勝算あってのボス狙いだ。仮にも、"年イチ"なんていう大物のフラグ Mob が、ソロで
狩れるようなモンじゃねえことくらい、お前ェにもわかってるだろうが」
「…………」
反論できず、俺は薄茶色に枯れた下生えに視線を落とす。
SAO 開始後一年。二度目のクリスマスを目前に、いまアインクラッドじゅうをある一つ
の噂話が駆け巡っていた。一ヶ月ほど前から、各層の NPC が、こぞって同じクエストの情
報を口にするようになったのだ。
曰く、ヒイラギの月――つまり十二月の二十四日夜二十四時ちょうど、どこかの森にあ
る樅の巨木の下に、"背教者ニコラス"なる伝説の怪物が出現する。もし倒すことができれば、
怪物が背中に担いだ大袋の中にたっぷりと詰まった財宝が手に入るだろう――。
いつもは迷宮区の踏破にしか興味を示さない攻略組の有力ギルド連も、今度ばかりは色
めき立った。財宝とやらが巨額のコルにせよレアな武器にせよ、フロアボス攻略の大きな
助けになるのは明らかだからだ。これまでプレイヤーから奪い取ることしかしなかった
SAO システムからの、気前のよいクリスマス・プレゼントだと言うならば、受け取るに否
応のあろうはずもない。
ソロプレイヤーの俺はしかし、当初その噂にはまるで興味を引かれなかった。クライン
に言われるまでもなく単独で狩れる相手とは思えなかったし、これまでのソロプレイを通
してその気になれば部屋が買えるほどの金も手に入れている。何より、誰もが狙っている
フラグ Mob 攻略に名乗りを上げて無用の注目を浴びるのは真っ平だ。
だが――二週間前、そんな俺の心情を、ある NPC 情報が百八十度変えた。それ以後、俺
はこの人気狩場に日参し、大勢の笑い者になりながら、狂ったようにレベル上げに邁進し
てきたのだった。
クラインは、押し黙った俺に付き合ってしばらく口を噤んだあと、低くつぶやいた。
「やっぱり、あの話のせいかよ。――"蘇生アイテム"の……」
「……ああ」
ここまで話したのなら今更隠しても仕方ない。俺が素っ気無く肯定すると、刀使いは、
何度目かの太い溜息をつきながら、絞り出すように言った。
「気持ちはわかるぜ……まさに夢のアイテムだからな。"ニコラスの大袋の中には、命尽き
た者の魂を呼び戻す神器さえもが隠されている"……。でもな……大方の奴らが言ってると
おり、オレもそいつだけはガセネタだと思うぜ。ガセというか、SAO が本来の、普通の
VRMMO として開発されてたときに組み込まれた NPC のセリフが、そのまま残っちまっ
た……。つまり、本来は、経験値のデスペナルティ無しにプレイヤーを蘇生させるアイテ
ムだったんだろうさ。だが、今の SAO じゃ、ンなことは有り得ねえ。ペナルティはすなわ
ち、プレイヤー本人の命なんだからよ。思い出したくもねェけど、あの最初の日、茅場の
野郎が言ってたじゃねェかよ」
俺の耳にも、事件初日のチュートリアルで、茅場晶彦のクリスタルマスクが発した言葉
が甦った。"HPがゼロになった時点でプレイヤーの意識はこの世界から消え、現実の肉体
に戻ることは永遠になくなる"。
その言葉が欺瞞だったとは思えない。だが――だが、しかし。
「しかし、この世界で死んだあと実際にどうなるのか、知ってる奴はここには一人も居な
いんだ」
俺は何かに抗うようにそう口にした。途端、クラインが鼻筋に皺を寄せ、吐き捨てるよ
うに言う。
「死んだあと向こうに戻ったら実は生きてて、目の前で茅場が"なーんちゃって"とでも言う
ってか?
ふざけんなよ手前ェ、そんなの一年も前に決着がついてる議論だろうが。もし
そんな糞みてえなジョークなら、速攻プレイヤー全員のナーヴギアを剥ぎ取りゃあ事件解
決だ。それが出来ねェからには、このデスゲームはマジなんだよ。HP がゼロになった瞬間、
ナーヴギアが電子レンジに早変わりして、オレらの脳をチンすんだよ。そうでなきゃよ―
―これまで――これまで糞モンスにやられて、死にたくねえって泣きながら消えてった奴
らは――何のためによ――」
「黙れよ」
自分でもぎょっとするほどしわがれた声で、俺はクラインの台詞を遮った。
「そのくらいのことが、俺にわかってないと本気で思ってるなら、もうお前と話すことは
ない。……確かに、あの日茅場はああ言ったさ。だがな、このあいだのフロアボス合同攻
略の時、KoB のヒースクリフが言ってただろうが。"仲間の命が助かる確率が一パーセント
でもあるなら全力でその可能性を追え、それができない者にパーティーを組む資格は無い"
ってな。あの男は好きになれないが、言ってることは正しい。可能性の話を俺はしてるん
だ。例えばこうだ。この世界で死んだ者の意識は、現実に戻りはしないが、しかし消えも
しない。言わば保留エリアみたいなとこに移されて、そこで最終的にゲームがどうなるか
待っている。それなら、蘇生アイテムが成立する余地は残る」
珍しく長広舌をふるい、ここ最近の俺が縋り付いている頼りない仮説を披露すると、ク
ラインは怒りの色を収め、替わりに憐れみにも似た目でじっと俺を見た。
「……そうか」
やがて発せられたその声は、打って変わって静かだった。
「キリト……お前ェ、まだ忘れらんねえんだな、前のギルドのことが……。もう半年にも
なるってのによ……」
俺はそっぽを向き、言い訳のように言葉を吐き出す。
「それを言うなら、まだ半年だ。忘れられるわけがないだろうが……全滅したんだぞ、俺
以外……」
「"月夜の黒猫団"だったか? ……攻略ギルドでもねえのに、前線近くまで上ってきた挙句、
シーフがアラームトラップ引いたんだろう。お前ェの責任じゃねえよ。生き残ったお前ェ
を褒めこそすれ、誰も責めたりしねえ」
「そうじゃないんだ……俺の責任だ。前線に上るのを止めることも、宝箱を無視させるこ
とも、アラーム鳴った後でさえ全員を脱出させることだって、俺にはできたはずなんだ…
…」
――俺が、自分のレベルとスキルを仲間に隠してさえいなければ。クラインにも教えて
いないその事実を、胸の奥で苦々しく噛み締める。不器用な刀使いが、慣れない慰めを口
にしようとする前に、俺は続けて言った。
「確かに、一パーセントもない確率だろうさ。俺がクリスマスボスを見つけられる可能性、
そいつをソロで倒せる可能性、蘇生アイテムが実在する可能性、そして死んだ奴の意識が
保存されてる可能性……全部合わせたら、砂漠から砂を一粒探し出すようなものかも知れ
ん。だが……だがゼロじゃない。ゼロじゃないなら、俺はそれに向かって最大限の努力を
しなきゃいけないんだ。大体な……クライン、お前だって別に金に困ってるわけじゃない
だろ。なら、ボスを狙う理由は俺と同じじゃないのか」
俺の問いに、フンを鼻を鳴らすと、クラインは地面に置いてあった刀の鞘を掴みながら
答えた。
「オリャあお前ェみたいな夢想家じゃねェよ。ただよ……うちのギルドも、前に一人やら
れちまってるからな。あいつの為に、やるべきことはやってやんねえと、寝覚めが悪りィ
からな……」
立ち上がったクラインに向かって、俺は小さく苦笑した。
「同じだよ」
「違うね。あくまでオレたちゃ財宝狙いのついでにやってんだ。……どれ、連中だけだと
心配だからな、ちょっくらオレも様子見てくら」
「ああ」
短く頷き、目を閉じて木の幹に深く寄りかかった俺の耳に、遠ざかる刀使いの言葉が小
さく届いた。
「それからよ、オレがお前ェの心配したのは、別に情報聞き出すためのカマかけばっかり
じゃねえぞこの野郎。無理してこんなとこで死んでも、お前ェの為に蘇生アイテムは使わ
ねえぞ」
第二章
「心配してくれて、どうもありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて、出口まで護衛頼んで
もいいですか」
それが、ギルド"月夜の黒猫団"リーダー・ケイタの第一声だった。
SAO という名のデスゲームが始まって五ヶ月ほど経過したある春の夕暮れ、俺は当時の
前線から十層以上も下のフロアの迷宮区に、武器の素材となるアイテムの収集を目的に潜
っていた。
ビーター、つまりベータプレイヤーとしての知識を活かしたスタートダッシュと、強引
なソロプレイによる高経験値効率のせいですでに最前線のモンスターと単独でやりあえる
ほどのレベルに達していた俺にとって、その場所での狩りは退屈に思えるほど楽な作業だ
った。他のプレイヤーを避けながらもたった二時間ほどで必要量のアイテムを集め、さて
帰ろうと出口に向かったとき、通路を少し大きめのモンスター群に追われながら撤退して
くるパーティーと遭遇したのだった。
ソロプレイヤーの俺から見ても、バランスの悪いパーティーだった。五人編成のうち、
前衛と言えるのは盾とメイスを装備した男一人で、あとは短剣のみのシーフ型に、クォー
タースタッフを持った棍使い、長槍使いが二人。メイス使いの HP が減ってもスイッチし
て盾となる仲間が居らず、ずるずると後退するのは必至の構成である。
全員に視線を合わせて HP バーを確認してみたところ、このまま出口まで逃げ切るほど
の余裕はありそうだったが、その途中で他のモンスター群をひっかけてしまえばその限り
ではない。俺はしばし迷ったあと、隠れていた脇道から飛び出し、リーダー格とおぼしき
棍使いに声を掛けた。
「ちょっと前、支えてましょうか?」
棍使いは目を見開いて俺を見ると、一瞬迷ったようだったが、すぐに頷いた。
「すいません、お願いします。やばそうだったらすぐ逃げていいですから」
頷き返し、俺は背中から剣を抜くと、メイス使いに背後からスイッチと叫ぶと同時に、
無理矢理モンスターの前に割り込んだ。
敵は、さっきまで俺がソロで散々狩っていた武装ゴブリンの一団だった。ソードスキル
を全力で放てば即座に一掃できるし、あるいは無抵抗で撃たれるままになったとしても、
バトルヒーリングスキルによる HP 回復だけで相当時間耐えることも可能だ。
だが、瞬間、俺は恐れた。ゴブリンをではなく、背後のプレイヤー達の視線をである。
一般的に、ハイレベルのプレイヤーが下層の狩場を我が物顔に荒らしまわるのは、とて
も褒められた行為ではない。長期間続ければ、上層のギルドに排除依頼が飛んで、散々吊
るし上げられた挙句に新聞の非マナープレイヤーリストに載ってしまう、などという目に
も合う。勿論この場合は緊急なのだから問題ない、と俺も考えはしたが、しかしそれでも
俺は怖かったのだ。恐らく礼を言うだろう彼らの目に、ビーターと俺を嘲る色が浮かぶの
を。
俺は、使用するソードスキルをごく初歩的なものに限定し、わざと時間をかけてゴブリ
ン達と戦った。それが、最終的に取り返しのつかない過ちへと繋がることになるとも知ら
ずに。
ポーションで HP を回復させたメイス使いと数回のスイッチを繰り返し、ゴブリン群を
全て倒した途端、見知らぬパーティーの五人は俺が驚くほどの盛大な歓声を上げた。次々
とハイタッチを交わし、勝利を喜び合う。
内心で戸惑いながらも、俺は慣れない笑顔を浮かべ、差し出された手を次々と握り返し
た。最後に両手で俺の手を取った、紅一点の黒髪の槍使いは、目に涙を滲ませながら何度
も繰り返した。
「ありがとう……ほんとに、ありがとう。凄い、怖かったから……助けにきてくれたとき、
ほんとに嬉しかった。ほんとにありがとう」
その言葉を聞き揺れる涙を見たとき、俺の胸に去来した感情に、俺は今でも名前を付け
ることはできない。ただ、助けに入ってよかった、そして彼らを助けられるくらいに自分
が強くてよかった、と思ったことは覚えている。
ゲーム開始以来ソロプレイヤーを通していた俺だったが、前線フロアで他パーティーの
助太刀に入ったことが初めてというわけではなかった。しかし、攻略組の間では、フィー
ルドでの助力はお互い様という暗黙の了解がある。自分がいつ助けられる側に回るかわか
らない訳で、助太刀しても殊更に礼など求めないし、された方も短い挨拶を口にする程度
だ。手早く戦闘後処理を済ませ、無言で次の戦闘へと向かう。そこにあるのは、求めうる
最大の効率で己を強化し続けるための、単純な合理性だけだ。
だが、彼ら――月夜の黒猫団は違
った。たった一つの戦闘に勝利した
ことを全員で大いに喜び、健闘を称
えあっていた。スタンドアロン
RPG では必須の、勝利ファンファ
ーレが聞こえてきそうなその光景
が一段落したあと、俺が自分から出
口までの同行を提案したのは、彼ら
のいかにも仲間然とした雰囲気に
惹かれたからかもしれなかった。もっと言えば、この SAO という狂ったゲームを本当の意
味で攻略しているのは、彼らのほうだと思ったからかもしれなかった。
「俺もちょっと残りのポーションが心許なくて……よかったら、出口まで一緒に行きませ
んか」
俺の嘘に、ケイタは大きく顔をほころばせ、頷いた。
「心配してくれて、どうもありがとう」
――いや、黒猫団の潰滅から半年経った今ならわかる。俺は単に気持ちよかったのだ。
利己的なソロプレイヤーとして積み上げたステータスで、自分より遥かに弱い彼らを守り、
頼られるのが快感だったのだ。ただそれだけのことなのだ。
迷宮区から脱出し、主街区に戻った俺は、酒場で一杯やりましょうというケイタの言葉
にすぐに頷いた。彼らにとっては高価であったろうワインで祝杯を上げ、自己紹介も終わ
って場が落ち着くと、ケイタは小声で、さも言いづらそうに俺のレベルを聞いた。
俺はその質問を半ば予期していた。だから、その時までに、適切と思われる偽の数字の
見当をつけていた。俺の口にした数字は、狙い違わず彼らの平均レベルより三ほど上――
そして俺の本当のレベルの二十も下だった。
「へえ、そのレベルで、あの場所でソロ狩りができるんですか!」
驚き顔のケイタに、俺は苦笑してみせた。
「敬語はやめにしよう。――ソロって言っても、基本的には隠れ回って、一匹だけの敵を
狙うとかそんな狩りなんだ。効率はあんまり良くないよ」
「そう――そうか。じゃあさ……キリト、急にこんなこと言ってなんだけど……君ならす
ぐにほかのギルドに誘われちゃうと思うからさ……よかったら、うちに入ってくれないか」
「え……?」
白々しく問い返した俺に、丸顔を上気させながらケイタは言い募った。
「ほら、僕ら、レベル的にはさっきのダンジョンくらいなら充分狩れるはずなんだよ。た
だ、スキル構成がさ……君ももう分かってると思うけど、前衛できるのはテツオだけでさ。
どうしても回復がおっつかなくて、戦ってるうちにジリ貧になっちゃうんだよね。キリト
が入ってくれればずいぶん楽になるし、それに……おーい、サチ、ちょっと来てよ」
ケイタが手を上げて呼んだのは、あの黒髪の槍使いだった。ワイングラスを持ったまま
やってきた、サチいう名らしい小柄な女性は、俺を見ると恥ずかしそうに会釈した。ケイ
タはぽんとサチの頭に手を置き、言葉を続けた。
「こいつ、見てのとおりメインスキルは両手用長槍なんだけど、もう一人の槍使いに比べ
てまだスキル値が低いんで、今のうちに盾持ち片手剣士に転向させようと思ってるんだよ
ね。でも、なかなか修行の時間も取れないし、片手剣の勝手がよく分からないみたいでさ。
よかったら、ちょっとコーチしてやってくれないかなあ」
「何よ、人をみそっかすみたいに」
サチはぷうっと頬を膨らませて見せると、ちらりと舌を出しながら笑った。
「だってさー、私ずっと遠くから敵をちくちく突っつく役だったじゃん。それが急に前に
出て接近戦やれって言われても、おっかないよ」
「盾の陰に隠れてりゃいいんだって何度言えばわかるのかなぁー。まったくお前は昔っか
ら怖がりすぎるんだよ」
これまでずっと殺伐とした最前線でのみ暮らし、SAO を――いやすべての MMORPG を
リソースの奪い合いとしか理解していなかった俺にとって、彼らのやり取りは微笑ましく、
そして眩しいものに映った。俺の視線に気付いたケイタは、照れたように笑うと言った。
「いやー、うちのギルド、現実ではみんな同じ高校のパソコン研究会のメンバーなんだよ
ね。特に僕とこいつは家が近所なもんだから……。あ、でも、心配しなくていいよ。みん
ないい奴だから、キリトもすぐ仲良くなれるよ、絶対」
そういうケイタを含め全員がいい奴なのは、迷宮区からここまでの道行きだけでもう分
かっていた。そんな連中を騙していることに、ちくりと罪悪感の疼きを感じながら、俺も
笑顔を作り、こくりと頷いた。
「じゃあ……仲間に入れてもらおうかな。改めて、よろしく」
前衛が二枚になっただけで、黒猫団のパーティーバランスは大幅に改善された。
いや、もしも彼らのうち一人でも疑いの気持ちで俺の HP バーを見ていれば、それが不
自然に減少しないことにいずれ気が付いたはずだ。しかし、気のいい仲間たちは、コート
がレア素材製なんだという――これは嘘ではなかったが――俺の説明を信じ、まったく疑
問を持った様子はなかった。
パーティーでの戦闘中、俺はひたすら防御に徹し、背後のメンバーに敵の止めを刺させ
ることによって経験値ボーナスを譲りつづけた。ケイタたちのレベルは快調に上昇し、俺
の加入後一週間でメイン狩場を一フロア上にするほどだった。
ダンジョンの安全エリアで車座になって、サチ手作りの弁当を頬張りながら、ケイタは
丸い目を輝かせて俺に夢を語った。
「もちろん、仲間の安全が第一だよ。でもさ……安全だけを求めるなら、はじまりの街に
篭ってればいいわけでさ。こうして狩りをして、レベルを上げてるからには、いつか僕ら
も攻略組の仲間入りをしたいって思うんだ。今は、最前線はずっと上で、血盟騎士団とか
聖竜連合なんていうトップギルドに攻略を任せっぱなしにしちゃってるけどさ……。ねえ
キリト、彼らと僕たちは、何が違うんだろうなあ?」
「え……うーん、情報力かな。あいつらは、どこの狩場が効率いいかとか、どうやれば強
い武器が手に入るなんて情報を独占してるからさ」
それはまさに俺が攻略組足り得た理由だったが、ケイタはその答えが不満なようだった。
「そりゃ……そういうのもあるだろうけどさ。僕は意思力だと思うんだよ。仲間を守り、
そして全プレイヤーを守ろうっていう意思の強さっていうかな。そういう力があるからこ
そ、彼らは危険なボス戦に勝ちつづけられるんだ。僕らは今はまだ守ってもらう側だけど、
気持ちじゃ負けてないつもりだよ。だからさ……このままがんばれば、いつかは彼らに追
いつけるって、そう思うんだよ」
「そうか……そうだな」
口ではそう言いながらも、俺は内心で、そんな大層なもんじゃない、と思っていた。攻
略組を攻略組たらしめているモチベーションはただ一つ、数万人のプレイヤーの頂点に立
つ最強剣士で有り続けたいという執着心それ自体だ。その証拠に、SAO 攻略、プレイヤー
保護だけが目的なら、トッププレイヤー達は手に入れた情報とアイテムを最大限、中層プ
レイヤーに提供するべきなのだ。そうすることでプレイヤー全体のレベルが底上げされ、
攻略組に加わる者の数も今とは比較にならないほど増加するはずだった。
それをしないのは、自分たちが常に最強でいたいからだ。勿論俺も例外ではなかった。
その頃の俺は、深夜になると宿屋を抜け出し、最前線に移動してソロでレベル上げを続け
ていた。その行為が黒猫団メンバーとのレベル差を拡大させ、結果として彼らを裏切りつ
づけることになると分かっていたにもかかわらず。
だが、あの頃、俺は少しだけ信じてもいたのだ。もし本当に黒猫団のレベルが急上昇し、
最前線で戦うプレイヤー達に加わるようなことがあれば、そのときこそケイタの理想が、
閉塞的な攻略組の雰囲気を変えていくということも有り得るかもしれない、と。
実際、黒猫団の戦力強化は特筆すべきスピードだったと言える。当時戦場にしていたフ
ィールドは、俺にとってはずっと以前に攻略を終え、危険なスポットも稼ぎのいいスポッ
トも知り尽くした場所だった。それとなく彼らを誘導し、最大限の効率を叩き出し続ける
ことで、やがて黒猫団の平均レベルは完全にボリュームゾーンから頭ひとつ抜け出した。
俺の加入時には十あった前線層との差は、短期間で五にまで縮まった。貯金額も見る見る
増加し、ギルドホームの購入さえも現実的な話となりつつあった。
しかし、たった一つ、サチの盾剣士転向計画だけははかばかしくなかった。
それも無理もないと言えた。至近距離で凶悪なモンスターと剣を交えるためには、数値
的ステータス以前に、恐怖に耐えて踏みとどまる胆力が必要となる。SAO 開始直後には、
接近戦でのパニックが原因で多くのプレイヤーが命を落としたのだ。サチはどちらかと言
えば大人しい、怖がりな性格で、とても前衛に向いているとは思えなかった。
俺は、自分が盾として充分以上のステータスを持っていると知っていたせいもあってサ
チの転向を急ぐ必要はないと考えていたが、他のメンバーはそうは思っていないようだっ
た。むしろ、途中加入の俺ひとりに、しんどい前衛を押し付け続けるのは心苦しいと感じ
ていたようで、仲良しグループゆえに言葉には出なかったがサチへのプレッシャーは強く
なり続けていた。
そんなある夜、宿屋からサチの姿が消えた。
ギルドメンバーリストから居場所を確認できないのは、単独で迷宮区にいるせいと思わ
れた。ケイタ以下のメンバーは大騒ぎとなり、すぐさま皆で探しに行くことになった。
だが、俺は、一人で迷宮区以外の場所を探すと言い張った。フィールドにもいくつか、
追跡不能の場所があるからというのが表向きの理由だったが、本当は、索敵スキルから派
生する上位スキルの"追跡"をすでに獲得していたからだった。もちろん、仲間にそれを打ち
明けるわけにはいかなかった。
ケイタ達がその層の迷宮区目指して駆け出したあと、俺は宿屋のサチの部屋の前で追跡
スキルを発動させ、視界に表示された薄緑色の足跡を追った。
小さい靴跡は、皆と俺の予想に反し、主街区の外れにある水路の中に消えていた。首を
捻りながら中に踏み込んだ俺は、水の滴る音だけが響く暗闇のかたすみで、最近手に入れ
たばかりの隠蔽能力つきのマントを羽織ってうずくまっているサチの姿を見つけた。
「……サチ」
声を掛けると、肩までの黒い髪を揺らして彼女は顔を上げ、びっくりしたように呟いた。
「キリト。……どうしてこんなとこがわかったの?」
俺はどう答えたものか迷った挙句、言った。
「カンかな」
「……そっか」
サチはかすかに笑ったあと、再び抱えた膝の上に顔を伏せた。俺は再度懸命に言葉を捜
し、工夫のない台詞を口にした。
「……みんな心配してるよ。迷宮区に探しにいった。早く帰ろう」
今度は、長い間答えはなかった。一分か二分待ったあと、もう一度同じことを言おうと
した俺に、俯いたままのサチの囁き声が聞こえた。
「ねえ、キリト。一緒にどっか逃げよ」
反射的に聞き返した。
「逃げるって……何から」
「この街から。黒猫団のみんなから。モンスターから。……SAO から」
その言葉に、即座に答えられるほど、俺は女の子を――人間を知らなかった。再び長い
間考えてから、俺は恐る恐る尋ねた。
「それは……心中しようってこと?」
しばらく沈黙したあと、サチは小さく笑い声を漏らした。
「ふふ……そうだね。それもいいかもね。……ううん、ごめん、嘘。死ぬ勇気があるなら、
こんな街の圏内に隠れてないよね。……立ってないで、座ったら」
どうすべきなのかまるで分からないまま、俺はサチから少し間を空けて石畳の上に座っ
た。半月形の水路の出口から、街の明かりが星のように小さく見えた。
「……私、死ぬの怖い。怖くて、この頃あんまり眠れないの」
やがて、サチがぽつりと呟いた。
「ねえ、何でこんなことになっちゃったの?
なんでゲームから出られないの?
ゲームなのに、ほんとに死ななきゃならないの?
なんで
あの茅場って人は、こんなことして、
何の得があるの? こんなことに、何の意味があるの……?」
その五つの質問に、個別に回答することは可能だった。しかし、サチがそんな答えを求
めているわけではないことくらいは、俺にもわかった。懸命に考え、俺は――嘘を吐いた。
「多分、意味なんてない……誰も得なんてしないんだ。この世界が出来たときにもう、大
事なことはみんな終わっちゃったんだ」
涙を流さずに泣いている女の子に、俺は酷い嘘を吐いた。なぜなら、少なくとも俺は自
分の強さを隠して黒猫団に潜りこむことで密かな快感を得ていたからだ。その意味で、俺
だけは明らかに得をしていたからだ。
俺はこのとき、すべてをサチに打ち明けるべきだった。誠意というものをひとかけらで
も持ち合わせていたのなら、己の醜いエゴを包み隠さず話すべきだった。そうすれば少な
くとも、サチはある程度プレッシャーから逃れることができたはずだし、ささやかな安心
感さえ得られたかもしれなかったのだ。
だが、俺に言えたのは、嘘で塗り固めた一言だけだった。
「……君は死なないよ」
「なんでそんなことが言えるの?」
「……黒猫団は今のままでも充分に強いギルドだ。マージンも必要以上に取っている。あ
のギルドにいる限り君は安全だ。別に、無理に剣士に転向することなんてないんだ」
サチは顔を上げ、俺にすがるような視線を向けた。俺は、その目をまっすぐ受け止める
ことができなかった。
「……ほんとに? ほんとに私は死なずに済むの?
いつか現実に戻れるの?」
「ああ……君は死なない。……死なない」
説得力など欠片もない、薄っぺらい言葉だった。だが、それでも、サチは俺の近くにに
じり寄り、俺の左肩に顔を当てて、少しだけ泣いた。
しばらくしてからケイタ達にメッセージを飛ばし、俺とサチは宿屋へと戻った。サチを
部屋で休ませ、ケイタ達が帰ってくるのを一階の酒場で待って、俺は彼らに告げた。サチ
が盾剣士に転向するのには時間がかかること、可能なら今のまま槍戦士を続けたほうがい
いこと、俺に前衛の負担がかかることには何ら問題ないということを。
ケイタ達は、俺とサチの間でどのようなやり取りがあったのか気になったようだったが、
それでも俺の提案を快く受け入れた。俺はほっと胸を撫で下ろしたが、しかしもちろん、
それで本質的な問題まで解決したわけではなかったのだ。
翌日の夜から、サチは夜が更けると俺の部屋にやってきて眠るようになった。俺にくっ
つき、君は死なない、という言葉を聞くと
どうにか眠れるのだ、と彼女は言った。必
然的に、俺は深夜の経験値稼ぎに出ること
はできなくなったが、だからと言ってサチ
と他の仲間たちを欺いていることの罪悪
感が消えることはなかった。
あの頃の記憶は、何故か押し固めた雪球
のように小さく縮こまって、詳細に思い出
すのが困難だ。ひとつだけ言えるとすれば、
俺とサチは決して恋愛をしていたわけで
はなかった。同じベッドで眠っても、互いに触れることも、恋の言葉を囁くことも、見詰
め合うことすらしなかった。
俺たちは多分、互いの傷を嘗め合う野良猫のようなものだったのだろう。サチは俺の言
葉を聞くことで少しだけ恐怖を忘れ、俺は彼女に頼られることで汚いビーターである後ろ
めたさを少しだけ忘れた。
そう――俺はサチの苦悩をかいま見ることで、初めてこの SAO 事件の本質の一部を知る
ことができたのだと思う。それまで、俺は、デスゲームと化した SAO の恐怖を本当の意味
で感じることは一度も無かった。低層フロアの、すでに知り尽くしたモンスターを機械的
に倒してレベルを上げ、あとはその安全マージンをたっぷりと維持したまま攻略組に名を
連ね続けた。聖騎士ヒースクリフではないが、俺の HP バーが危険域に落ちたことは、考
えてみればただの一度も無かったのだ……。
俺が苦労もせずに掻っ攫った膨大なリソースの陰に、こうして死の恐怖に怯える無数の
プレイヤーが存在したのだ――と認識することによって、俺はついに自分の罪悪感を正当
化する方法を見出したような気がしていた。その方法とは無論、サチを、そして黒猫団の
メンバーを守り続けることである。
俺は、自分が快感を得るためにレベルを偽ってギルドに潜り込んだのだという事実を無
理やりに忘れ、俺の行為は彼らを守り、一流の攻略ギルドに育て上げるためだったのだ、
と都合のいいように記憶を塗り替えた。夜毎、夜毎、ベッドの隣で心細そうに丸くなるサ
チに向かって、君は死なない、君は死なない、絶対に生き延びる、と呪文のように唱えつ
づけた。俺がそう言葉を掛けると、サチは毛布の下でちらりと上目遣いに俺を見て、ほん
の少し微笑んでから、浅い眠りに落ちていった。
だが、結局、サチは死んだ。
あの地下水路の夜からたった一ヶ月足らず後、俺の目の前でモンスターに斬り倒され、
その体と魂を四散させた。
その日、ケイタは、ついに目標額に達したギルド資金の全額を持って、ギルドハウス向
けの小さな一軒家を売りに出していた不動産仲介プレイヤーの元に出かけていた。俺とサ
チ、他の三人の仲間は、ゼロに近くなってしまったギルドメンバー共通アイテム欄のコル
残額を眺めては笑いながら宿屋でケイタの帰りを待っていたが、やがてメイサーのテツオ
が言った。
「ケイタが帰ってくるまでに、迷宮区でちょっと金を稼いで、新しい家用の家具を全部揃
えちまって、あいつをびっくりさせてやろうぜ」
俺たち五人は、それまで行ったことのなかった、最前線からわずか三層下の迷宮区に向
かうことになった。もちろん俺は以前にそのダンジョンで戦ったことがあり、そこが稼ぎ
はいいがトラップ多発地帯であることも知っていた。だが、それを告げることはできなか
った。
迷宮区では、レベル的には安全圏内だったということもあり、順調な狩りが続いた。一
時間ほどで目標額を稼ぎ上げ、さっさと戻って買い物をしよう、という時になって、シー
フ役のメンバーが宝箱を見つけた。
俺は、その時ばかりは放置することを主張した。しかし、理由を聞かれたとき、この層
からトラップの難易度が一段上がるから、とは言えずに、何となくやばそうだから、と口
ごもることしかできなかった。
アラームトラップがけたたましく鳴り響き、三つあった部屋の入り口から怒涛のように
モンスターが押し寄せてきた。これはムリだと瞬間的に判断した俺は、全員に転移クリス
タルで緊急脱出しろと叫んだ。しかし、その部屋はクリスタル無効エリアに指定されてお
り――その時点で、俺を含む全員が、程度の軽重はあれパニックに陥った。
最初に死んだのは、アラームを鳴らしたシーフだった。次にメイサーのテツオが死に、
槍使いの男が続いた。
俺は完全に恐慌に陥り、それまで制限していた上位ソードスキルを滅茶苦茶に繰り出し
て、殺到するモンスターを倒しつづけた。だが、その数はあまりに多すぎた。宝箱を破壊
すればよかったのだと気づいたのは、全てが終わったはるか後だった。
サチは、モンスターの波に飲み込まれ、HP を全て失うその瞬間、俺に向かって右手を伸
ばし、何かを言おうと口を開いた。見開かれたその瞳に浮かんでいたのは、夜ごと俺に向
けていたのと同じ、すがり付くような、痛々しいまでの信頼の光だった。
どうやって生き残ったのか、俺はよく憶えていない。ふと気付くとあれほどいたモンス
ターの姿も、そして四人の仲間の姿も、その部屋にはなかった。しかしそんな状況にあっ
ても、俺の HP バーは半分を割り込んだ程度だった。
俺は、何を考えることもできず、一人呆然と宿屋へ戻った。
新しいギルドハウスの鍵をテーブルに載せ、俺たちの帰りを待っていたケイタは、俺の
話を――四人が何故死に、俺が何故生き残ったのか、その全てを聞くと、あらゆる表情を
失った眼で俺を見て、ただ一言こう言った。ビーターのお前が、俺たちに関わる資格なん
てなかったんだ、と。
彼はその足で街外れのアインクラッド外周部へ向かい、後を追った俺の眼前で、何のた
めらいもなく柵を乗り越え、無限の虚空へと身を躍らせた。
ケイタの言ったことは、まったくの真実だった。俺が、俺の思い上がりが月夜の黒猫団
の四人――いや五人を殺したことには何の疑いもない。俺が関わりさえしなければ、彼ら
はずっと安全なミドルゾーンに留まり、無茶なトラップ解除に手を出したりすることもな
かったろう。SAO で生き残るためにまず必要なのは、反射神経でも、数値的ステータスで
もなく、必要充分な情報である。俺は、彼らに高効率のパワーレベリングを施しながら、
情報を分けることを怠った。あれは、起こるべくして起きた悲劇だった。守ると誓ったサ
チを、俺はこの手で殺した。
最後の瞬間、彼女が発しようとした言葉がどれほどの悪罵であろうとも、俺はそれを受
け入れなくてはならない。あやふやな噂でしかない蘇生アイテムをひたすらに求めるのは、
ただその一言を聞くためでしかない。
第三章
残された四日間で、俺はさらにレベルをひとつ上げ、70の大台に乗せた。
その間、俺は文字通り一睡もしなかった。代償なのか、時折鉄釘を打たれるような頭痛
に襲われたが、恐らく寝ようとしても眠れなかっただろう。
クラインの風林火山はあれ以来、アリ谷の狩場に現れることはなかった。他ギルドの大
パーティーに混じって列に並び、機械のように単騎ひたすらにアリを狩りつづける俺を見
るプレイヤー達の眼は、やがて嘲笑から嫌悪へと変わった。時折何か話し掛けてきた奴も
いたようだったが、俺と視線が合うや顔をそむけ、立ち去っていった。
クリスマスプレゼントを狙う多くの者たちの間で最大の懸案だった、"背教者ニコラス"
が出現するというモミの巨樹が一体どこにあるのか――という問題については、俺はアリ
谷でのレベル上げに勤しむ合間を縫ってほぼ確信を得るに至っていた。
何人もの情報屋から買った幾つもの樹の座標に、俺は全て赴いて確かめてみたが、それ
らは形こそいかにもクリスマスツリー然としていたものの実際にはモミではなくスギ類だ
った。針のような葉を持つスギと違い、モミの葉は先が丸まった細長い楕円形なのだ。
数ヶ月前、35層のフィールドにあるランダムテレポート・ダンジョン"迷いの森"の一角
で、俺は一本の捻じくれた巨木を見つけていた。いかにも意味ありげな形状だったので、
未知クエストの開始点かもしれないと仔細に調べたのだが、その時は何も発見することは
できなかった。思い返してみれば、あの巨木こそモミの木なのだった。クリスマス――つ
まり今夜、あの木の下にフラグ Mob"背教者ニコラス"が出現するのはほぼ間違いないと思
われた。
レベルが70に上昇したことを告げるファンファーレを無感動に聞きながら、俺は周囲
のアリを一掃すると、ポーチから転移クリスタルを取り出した。順番を待っているプレイ
ヤー達に一声かけることもせず、宿がある最前線・49層主街区へとひとまず戻る。
転移門広場で時計台を見上げると、零時まであと三時間と迫っていた。広場には、イブ
を共に過ごそうというたくさんの二人連れのプレイヤー達が、腕を組み、肩を抱きながら、
ゆっくりと歩いていた。その間を早足で縫い、俺は宿屋へと急いだ。
長期滞在にしてある部屋に駆け込むと、まず備え付けの収納チェストを開き、出現した
アイテムウインドウからありったけの回復・解毒クリスタルとポーション類と自分の所持
品ウインドウに移動させる。これだけで一財産だが、もちろんその全てを使い尽くしても
惜しくはない。
取って置きのレアな片手剣も取り出し、耐久度を確認したあと、アリ相手にぼろぼろに
なった背中の剣と交換する。レザーコートを含む防具類も全て新品と換える。
全ての作業が終了し、俺は窓を消そうとしたが、ふと手を止めて自分のアイテム欄の上
部を見つめた。
そこには、『Self』、つまり俺自身のアイテム欄を示すタブと並んで、『サチ』の名前が記
されたタブが残っていた。
これは、仲はいいが結婚には至らない――というプレイヤー同士で設定する、共通アイ
テムウインドウというものだ。問答無用ですべてのアイテムと金が共有設定になってしま
う結婚と違って、このタブ内のアイテムだけが二人の間で共有されるという仕組みだ。
愛の言葉も、手を繋ぐことさえ求めなかったサチが、死ぬ少し前に作ろう、と言ったの
だった。理由を聞くと、ポーション類の受け渡しが楽だから、とやや納得しにくいことを
――その目的のためにすでにギルドメンバー共通タブがあったので――言ったが、それで
も俺は了承し、サチだけとの共通タブを設定した。
サチが死んでも、その窓は残っていた。無論フレンドリストにもまだサチの名はある。
だが、そちらのサチの名は連絡不可のグレーに変わり、この共通アイテム欄に残るいくつ
かのポーションやクリスタル類も、最早使われることはない。
半年経っても、俺はサチの名がついたタブを消すことはできなかった。ギルド用のタブ
は無感動に消去したにもかかわらず。彼女の蘇生の可能性を信じているから――というわ
けではない。ただ、それを消すことで、自分が少しでも楽になってしまうのが許せないだ
けだ。
十分近くもサチの名を眺めたあと、俺は我にかえってウインドウを消した。零時まであ
と二時間。
部屋を出て転移門に向かう間じゅう、俺は何度も最後の瞬間のサチの顔を思い出してい
た。あの時、彼女は何を言おうとしたのか、それだけを考えながら。
35層に転移し、ゲートから出ると、前線とは打って変わって広場は静まりかえってい
た。中層プレイヤーの主戦場とは少しずれているし、主街区は取り立てて見所のない農村
ふうの造りだからだ。しかしそれでもちらほらと見えるプレイヤーの目を避けるように、
俺はコートの襟を引き寄せると、足早に街区から出た。
雑魚モンスターの相手をしている暇も、精神的余裕も無かった。背後を振り返り、尾行
者がいないことを確かめるや、全力で走り始める。ここ一ヶ月の無茶なレベル上げで俺の
敏捷度パラメータ補正もかなりアップしており、積もった雪を蹴る足は羽のように軽かっ
た。相変わらず鈍痛がこめかみのあたりで疼いていたが、そのお陰で眠気も脳に忍び込め
ないようだった。
ほんの十分ほどの疾駆で、迷いの森の入り口に到達した。このフィールド・ダンジョン
は無数の四角いエリアに区切られ、それぞれを結ぶポイントがランダムに入れ替わるため、
地図アイテムを持っていないととても踏破することはできない。
俺は地図を広げると、マーカーを点けてある区画を睨み、そこへ至る経路を逆に辿った。
頭の中にルートを刻み付けると、深夜の真っ暗な森のなかに、独り足を踏み入れた。
どうしても避けきれない戦闘を二度ほどこなしただけで、俺はさしたる障害も無く、目
標のモミの木があるエリアのひとつ手前まで到達した。時間はあと三十分以上残っている。
これから、自分の命を奪うかもしれない――恐らくはその可能性が非常に高いボスモン
スターと単独で闘うというのに、俺の心に恐怖の到来する気配すらもなかった。あるいは、
むしろ、俺はそうなることを望んでさえいるのかもしれない、そう思えた。サチの命を呼
び戻すための闘いで死ぬのなら、それは唯一俺に許された死に方と言えるのではないか―
―。
死に場所を探している、などとヒロイックなことを言うつもりはない。己の死に意味を
求める資格が、サチを、そして四人の仲間を無為に死なせた俺にあろうはずもないのだ。
こんなことに何の意味があるの、サチは俺にそう問うた。それに対して俺は、意味など
ない、と答えた。
今こそ、俺はあの言葉を真実にすることができる。茅場晶彦という狂った天才が作り出
した、無意味なデスゲーム SAO の中でサチは無意味に死んだ。同じように、俺は誰の目に
も止まらない場所で、誰の記憶にも残らず、いかなる意味も残さずに死ぬのだ。
もし、仮に俺が生き延び、ボスを倒すことができれば、その時は蘇生アイテムの噂は真
実となるに違いない。俺は根拠も無くそう考える。サチの魂は黄泉平坂だかレテ河だかか
ら舞い戻り、その時こそ俺は彼女の最後の言葉を聞くことができる。ようやく――ようや
く、その時が来る……。
最後の数十メートルを歩くために、俺が足を踏み出そうとしたそのとき、背後のワープ
ポイントから複数のプレイヤーが出現する気配がした。俺は息を飲んで飛び退り、背中の
剣の柄に手をかけた。
現れた集団はおよそ十人。先頭に立つのは、サムライのような軽鎧に身を固め、腰に長
刀を差したバンダナの男――クラインだった。
ギルド風林火山の主要メンバーたちは、各々表情に緊張を漲らせながら、最後のワープ
ポイント前に立つ俺に近づいてきた。クラインの顔だけをまっすぐ凝視し、俺はしゃがれ
た声を絞り出した。
「……尾けてたのか」
クラインは髪を逆立てた頭をがりがり掻きながら頷いた。
「まあな。追跡スキルの達人がいるんでな」
「なぜ俺なんだ」
「お前ェが全部のツリー座標の情報を買ったっつう情報を買った。そしたら、念のため4
9層の転移門に貼り付けといた奴が、お前ェがどこの情報にも出てないフロアに向かった
っつうじゃねェか。オレは、こう言っちゃなんだけどよ、お前ェの戦闘能力とゲーム勘だ
けはマジですげぇと思ってるんだよ。攻略組の中でも最強……あのヒースクリフ以上だと
な。だからこそなぁ……お前ェを、こんなとこで死なすわけにはいかねえんだよ、キリト!」
伸ばした指先で、まっすぐに俺を指差し、クラインは叫んだ。
「ソロ攻略とか無謀なことは諦めろ!
オレらと合同パーティーを組むんだ。蘇生アイテ
ムは、ドロップさせた奴の物で恨みっこ無し、それで文句ねえだろう!」
「……それじゃあ……」
クラインの言葉が、俺の身を案じる友情から出ているのだということすら、俺にはもう
信じることはできなかった。
「それじゃあ、意味ないんだよ……俺独りでやらなきゃ……」
剣の柄を強く握りながら、俺は狂熱にうかされた頭で考えた。
――全員斬るか。
ごくごく少ない、友人と呼べるプレイヤーの一人であるクラインを斬り殺し、レッドプ
レイヤーに墜ちてまで目的を完遂することを、俺はそのとき真剣に考えた。そんなことは
まったく無意味だ、とかすかに叫ぶ声に、無意味な死こそ望むところだ、と圧倒的な音量
でもうひとつの声が喚きかえす。
わずかでも剣を抜けば、その瞬間からもう俺は自分を止められないだろう。そんな確信
があった。右手をぶるぶると震わせ、ぎりぎりの鬩ぎあいを続ける俺を、クラインはどこ
か悲しそうな眼でじっと見ていた。
エリアに、第三の侵入者が姿を現したのは、まさにその瞬間だった。
しかも今度のパーティーは、十人どころではなかった。ざっと見ただけでその三倍はい
るだろうか。俺は愕然とその大集団を眺め、同じように呆気にとられて振り向いているク
ラインに、ぼそりと声を投げかけた。
「お前らも尾けられたな、クライン」
「……ああ、そうみてェだな……」
五十メートルほど離れたエリアの端から、風林火山と俺を無言で見つめる集団の中には、
ここしばらくアリ谷で頻繁に見かけた顔がいくつも混じっていた。クラインの隣に立って
いた風林火山の剣士が、リーダーに顔を近づけ、低く囁いた。
「あいつら、聖竜連合っす。モメるとあとが面倒っすよ」
その名前は俺もよく知っていた。血盟騎士団と並ぶ名声を誇る、攻略組中の名門ギルド
だ。個々のプレイヤーのレベルは俺より下であろうが、あの人数相手に戦って勝つ自信は
さすがに無かった。
だが――それも、結局は同じことなのだろうか?
ボスモンスターに殺されようと、大ギルドに殺されようと、それが犬死にであることに
変わりは無いかもしれない。ふと俺はそう思った。少なくとも、クラインと戦うよりはず
いぶんマシな選択ではないだろうか?
今度こそ、俺は背中の剣を抜こうとした。もう、あれこれ考えるのは億劫だった。ただ
の機械になってしまえばいい。ひたすらに剣を振るい、視界に入るものを殺し、そしてそ
のうちに壊れて止まる。
だが、クラインの叫び声が、俺の手を押しとどめた。
「くそッ! くそったれがッ!!」
刀使いは、俺より先に腰の武器を抜き放つと、背中を向けたまま怒鳴った。
「行けッ、キリト!
ここはオレらが食い止める!
お前は行ってボスを倒せ!
だがな
ぁ、死ぬなよ手前ェ! オレの前で死んだら許さねェぞ、ぜってえ許さねェぞ!!」
「…………」
もう時間はほとんど残っていなかった。俺は、クラインに背を向けると、礼の言葉ひと
つ口にすることなく、最後のワープポイントへと足を踏み入れた。
モミの巨木は、記憶にあるとおりの場所に、記憶にあるとおりの捻じくれた姿で静かに
立っていた。他に樹のほとんどない四角いエリアは、積もった雪で真っ白に輝き、全ての
生命が死に絶えた平原のように見えた。
視界端の時計が零時になると同時に、どこからともなく鈴の音が響いてきて、俺は梢の
天辺を見上げた。
漆黒の夜空、正確には上層の底を背景に、ふた筋の光が延びていた。よくよく凝視すれ
ば、何か奇怪な形のモンスターに引かれた巨大なソリらしい。
モミの木の真上に達すると同時に、ソリから黒い影が飛び降りてきて、俺は数歩後退っ
た。
盛大に雪を蹴散らして着地したのは、背丈が俺の三倍はあろうかという怪物だった。一
応人間型だが、腕が異常に長く、前屈みの姿勢ゆえにほとんど地面に擦りそうだ。せり出
した額の下の暗闇で、小さな赤い眼が輝き、顔の下半分からは捻じれた灰色のヒゲが長く
伸びて下腹部まで届いている。
グロテスクなのは、その怪物が、赤と白の上着に同色の三角帽子をかぶり、右手に斧、
左手に大きな頭陀袋をぶら下げていることだった。おそらく、こいつをデザインした開発
者の意図したところでは、大勢のプレイヤーがこの、サンタクロースを醜悪にカリカチュ
アライズしたボスを見て、怖がったり笑ったりするはずだったのだろう。だが、たった一
人"背教者ニコラス"と対峙する俺にとって、ボスの意匠などもうどうでもいいことだった。
ニコラスは、クエストに沿ったセリフを口にするつもりなのか、縺れたヒゲを動かそう
とした。
「うるせえよ」
俺は呟き、剣を抜くと、右足で思い切り雪を蹴った。
第四章
一年の SAO プレイを通して、俺の HP は初めて赤の危険域に突入し、そこで止まった。
ボスが倒れ、頭陀袋を残して爆散したとき、俺のアイテム欄にはもうひとつの回復クリ
スタルも残ってはいなかった。かつてないほど死に近づき、しかしぎりぎりで生き残った
のに、俺の心には歓喜の念も、安堵すら湧いてこなかった。むしろ、生き延びてしまった、
という失望に似たものが、そこにはあった。
のろのろと剣を納めると同時に、残された頭陀袋も光芒を散らして消滅した。ボスがド
ロップしたアイテムは、すべて俺のウインドウに格納されたはずだ。大きくひとつ息を吐
いてから、震える手を振り、窓を呼び出す。
新規入手欄には、うんざりするほど多くのアイテム名が並んでいた。武器防具らしきも
の、宝石類、クリスタル類、食材に至るまでがごっちゃり列挙されている窓を慎重にスク
ロールし、ただひとつの物を探す。
数秒後、それは拍子抜けするほどあっさりと、俺の目に飛び込んできた。
『還魂の聖晶石』
、それはそういう名前だった。俺の心臓がどくんと跳ね、ここ数日――
あるいは数ヶ月に渡って麻痺していた心の一部に、突然血が通ったような気がした。
本当に……本当にサチは生き返るのか? ならば、ケイタも、テツオも、今まで SAO 内
で命を落としたプレイヤー達の魂は、すべて消滅したわけではなかったのか……?
サチ……サチにもう一度会えるかもしれない。そう考えるだけで、俺の心は震えた。ど
んな言葉で罵られようと、どれだけ嘘を責められようと、今度こそ、俺は彼女をこの腕に
抱きしめ、真っ直ぐにあの黒い瞳を見て、心の底から言おう、そう思った。君は死なない、
ではなく、俺が君を守ると。そのためだけに、俺はがんばって強くなったのだ、と。
指が震えて、何度も操作をミスりながら、俺はようやく還魂の聖晶石を実体化させた。
ウインドウの上に浮かび上がったそれは、卵ほども大きな、そして七色に輝く途方も無く
美しい宝石だった。
「サチ……サチ……」
声に出して彼女の名を呼びながら、俺は宝石をワンクリックし、ポップアップメニュー
からヘルプを選択した。そこには、馴染んだフォントで、簡素な解説が記されていた。
『このアイテムのポップアップメニューから使用を選ぶか、あるいは手に保持して『蘇
生 【プレイヤー名】
』と発声することで、対象プレイヤーが死亡してからその効果光が完
全に消滅するまでの間(およそ十秒間)ならば、対象プレイヤーを蘇生させることができ
ます』
およそ十秒間。
取ってつけたようなその一文が、これ以上ないほど明確に、冷徹に、サチが死にもう二
度と戻ってこないことを俺に告げていた。
およそ十秒。それが、プレイヤーの HP がゼロになり、仮想体が四散してから、ナーヴ
ギアがマイクロウェーブを発して生身のプレイヤーの脳を破壊するまでの時間なのだ。
俺は否応なく想像した。サチの体が消え、そのわずか十秒後、彼女のナーヴギアが主を
焼き殺す瞬間を。サチは苦しんだのだろうか?
十秒の猶予時間のあいだに、何を考えた
のだろうか? 俺に対する百通りの呪詛……?
「うああ……あああああ……」
俺の口から獣のような叫び声が漏れた。
右手で、ウインドウの上に浮く還魂の聖晶石を掴み上げ、俺はそれを力いっぱい雪の上
に叩きつけた。
「あああ……ああああああ!!」
絶叫しながらブーツで何度も踏んだ。だが、宝石は無表情に煌めくのみで、割れること
も、ヒビが入る気配すらなかった。全身の力を振り絞って咆哮し、俺は地面に両手をつく
と、指で雪を掻き毟り、しまいには転げまわって叫びつづけた。
無意味、何もかもが無意味だった。サチが怯えと苦しみの果てに死んだこと、俺がボス
に挑んだこと、いや、この世界が生まれ、そこに五万の人間が囚われたということそのも
のに、意味など何も無かった。それだけが唯一絶対の真実だと、俺は今完全に悟った。
どれだけの時間そうしていただろうか。いくら喚こうと、叫ぼうと、涙が溢れる気配は
無かった。この世界にはそんな機能など無いのだろう。やがて、俺はのろのろと立ち上が
り、雪に埋まった聖晶石を拾い上げ、元のエリアへと戻るワープポイントへと向かった。
森の中に残っていたのは、クラインと風林火山メンバーだけだった。聖竜連合とやらの
姿はなかった。クライン達の人数が減っていないことを機械的に確認しながら、俺は地面
に座り込んでいる刀使いに歩み寄った。
クラインは、俺に負けず劣らず消耗しているように見えた。恐らく、聖竜連合との交渉
を、一対一のデュエルで決着させたのだと推測されたが、俺の胸中にはどのような感慨も
浮かぶことはなかった。
近づく俺を見上げた刀使いは、一瞬ほっとしたように顔を緩めたが、俺の顔にどのよう
な表情を見て取ったのか、すぐに口元を強張らせた。
「……キリト……」
割れた声で囁くクラインの、あぐらをかいた膝に、俺は聖晶石を放った。
「それが蘇生アイテムだ。過去に死んだ奴には使えなかった。次に、お前の目の前で死ん
だ奴に使ってやってくれ」
それだけ言い、出口に向かおうとした俺のコートを、クラインが掴んだ。
「キリト……キリトよぉ……」
その、無精ひげが生えた頬に、ふた筋の涙が伝うのを、俺は意外なものを見る気持ちで
眺めた。
「キリト……お前ェは……お前ェは生きろよ……もしお前ェ以外の全員が死んでも、お前
ェは最後まで生きろよぉ……」
泣きながら、何度も生きろと繰り返すクラインの手から、俺はコートの裾を引き抜いた。
「じゃあな」
それだけ言い、俺は迷いの森を出るために歩き去った。
どこをどう歩いたものか、気付くと俺は、49層の宿屋の部屋に戻っていた。
時刻は午前三時を回っていた。
これからどうしようかな、と俺は考えた。この一ヶ月、俺を生かしつづけてきた蘇生ア
イテムは、実在はしたものの俺が求めたものではなかった。それを手に入れるために、俺
は経験値に餓えた愚か者として笑われ、最後には貴重な友情さえも失ってしまった。
しばらく考えつづけてから、俺は、朝になったらこの層のフロアボスと戦いにいくこと
に決めた。もしそいつに勝ったら、次は足を止めることなく50層のボスと戦う。その次
は51層のボスと戦う。
愚かな道化に相応しい末路は、もうそれしか考えつかなかった。一度決めてしまうと気
持ちが楽になり、俺は椅子に座ったまま、何も見ず、何も考えずに朝を待った。
窓から差し込む月光がじりじりと位置を変えていき、やがて薄れ、灰色の曙光がそれに
取ってかわった。もう何時間眠っていないのか見当もつかなかったが、最悪の夜の次に来
た最後の朝にしては、悪くない気分だった。
壁の時計が七時を指し、椅子から立ち上がろうとしたその時、聞き慣れないアラーム音
が俺の耳に届いた。
部屋を見回したが、音源らしいものは見つけられなかった。ようやく視界の隅っこに、
メインウインドウを開くことを促す紫のマーカーが点滅していることに気づき、俺は手を
振った。
光っているのは、アイテムウインドウ中の、サチとの共通タブだった。そこに何か、時
限起動アイテムが格納されていたのだ。首を傾げながらわずかな一覧をスクロールし、見
つけたのは、タイマー起動のメッセージ録音クリスタルだった。
俺はそれを取り出し、ウインドウを消して、テーブルの上に置いた。
明滅するクリスタルをクリックすると、懐かしい、サチの声が聞こえた。
メリークリスマス、キリト。
君がこれを聞いてるとき、私はもう死んでると思います。もし生きてたら、クリスマス
の前の日にこのクリスタルは取り出して、自分の口で言うつもりだからです。
えっと……、最初に、なんでこんなメッセージを録音したのか、説明するね。
私は、たぶん、あんまり長い間生き延びられないと思います。もちろん、キリトを含め
た月夜の黒猫団の力が足りないとか、そんなこと考えてるわけじゃないよ。キリトはすご
く強いし、ほかの皆もどんどん強くなってるもん。
えっとね、何て説明したらいいかな……。このあいだね、長い間仲良くしてた、ユッチ
っていう友達が死んじゃったんだ。私と同じくらい怖がりで、ぜんぜん安全なはずの場所
でしか狩りをしなかった子なんだけど、それでも運悪く一人のときにモンスターに襲われ
て、死んじゃった。それから、私すごくいろいろ考えて、それで思ったんです。この世界
でずーっと生きてくためには、どんなに回りの仲間が強くても、本人に生きようっていう
意志が、ぜったいに生き残るんだって気持ちがなければだめなんだって。
私ね、ほんとのこと言うと、最初にフィールドに出たときからずっと怖かった。はじま
りの街から出たくなかった。黒猫団のみんなとは現実でもずっと仲良しだったし、一緒に
いるのは楽しかったけど、でも狩りに出るのはいやだった。そんな気持ちで戦ってたら、
やっぱりいつか死んじゃうよね。それは、誰のせいでもない、私本人の問題なんです。
キリトは、あの夜からずっと、毎晩、毎晩、私に大丈夫って言ってくれたよね。死なな
いって。だから、もし私が死んだら、キリトはきっとすごく自分を責めるでしょう。自分
が許せないって思うでしょう。だから、これを録音することにしたの。キリトのせいじゃ
ないよって。悪いのは、私なんだって、そう言いたかったから。タイマーを次のクリスマ
スにしたのは、せめてそれまでは頑張って生きたいなって思ったからです。君と一緒に、
雪の街を歩いてみたいから。
あのね……、私、ほんとは、キリトがどれだけ強いか知ってるんです。キリトのベッド
で目を覚ましたとき、君が開いてるウインドウ、後ろからのぞいちゃったから。
キリトが、本当のレベルを隠して私達と一緒に戦ってくれるわけは、一生懸命考えたけ
どよくわかりませんでした。でも、いつか自分から話してくれると思って、ほかの皆には
黙ってることにしました。それに、私、君がすっごく強いんだって知って、嬉しかった。
それを知ってから、君の隣でなら、怖がらずに眠ることができたよ。それに、もしかした
ら、私と一緒にいることが、君にとっても必要なことなのかもって思えたことも、すごく
嬉しかった。それなら、私みたいな怖がりが、ムリして上の層に上ってきた意味もあった
ことになるよね。
えっと……えっとね、私が言いたいのは、もし私が死んでも、キリトはがんばって生き
てね、ってことです。生きて、この世界の最後を見届けて、この世界が生まれた意味、私
みたいな弱虫がここに来ちゃった意味、そして君と私が出会った意味を見つけてください。
それだけが、私の願いです。
えっと……だいぶ時間余っちゃった
ね。これ、すごい一杯録れるんだね。
えっと、じゃあ、せっかくクリスマス
だし、歌を歌います。私ちょっと、歌
得意なんだよ。
『赤鼻のトナカイ』って
歌をうたいます。ほんとはもっと、ウ
ィンター・ワンダーランドとか、ホワ
イト・クリスマスとかかっこいい歌を
歌いたいんだけど、歌詞覚えてるのがそれだけなんだ。
なんで『赤鼻のトナカイ』だけは覚えてるかって言うと、こないだの夜、キリトが言っ
てくれたからです。どんな人でも、きっと誰かの役に立ってる、私みたいな子でもこの場
所にいる意味はある、って。それを聞いたとき、私すっごく嬉しくて、それでこの歌を思
い出したんです。なんだか、私がトナカイで、君がサンタさんみたいだな、って。……ほ
んというと、お父さんみたいだな、って思った。私のお父さん、ちっちゃい時に出て行っ
ちゃったから、お父さんってこんな感じかな、って君の隣で寝ながら毎晩思ったよ。えっ
と、じゃあ、歌います。
真っ赤なお鼻の トナカイさんは
いつもみんなの 笑い者
でも その年の クリスマスの日
サンタのおじさんは 言いました
暗い夜道は ピカピカの
お前の鼻が 役に立つのさ
いつも泣いてた トナカイさんは 今宵こそはと
喜びました
……私にとって、君は、暗い道の向こうでいつも私を照らしてくれた星みたいなものだ
ったよ。じゃあね、キリト。君と会えて、一緒にいられて、ほんとによかった。さよなら。
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