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野口雨情が石川啄木を
わ
け
認めなかった理由
―『小樽日報』陰謀事件の顛末
北斗 露草
目次
わ
け
「野口雨情が石川啄木を認めなかった理由」―『小樽日報』陰謀事件の顛末
1 野口雨情の歌
一 歌われなくなった童謡
二 雨情の童謡
三 雨情と民謡
2 啄木の雨情観
一 二人の歌
二 雨情の啄木評価
三 節子の信頼
四 雨情の記憶
五 雨情の作為
1「札幌時代の石川啄木」
2「石川啄木と小奴」
3 雨情の手ほどき
3 北国の彷徨 一 雨情と啄木
二 雨情と樺太
三 雨情と北海道
四 啄木と函館
五 津軽海峡を渡った作家たち
六 苜蓿社と啄木
七 開拓期の新聞社
八 小国露堂
4 小樽日報社
一 主筆追放の陰謀
二 陰謀の発覚
三 賞罰の分岐点
四 小樽日報退社
五 再検証
六 雨情の言い分
七 その後の雨情 5 雨情と北海道
一 一通の手紙
二 雨情にとっての北海道
1 樺太から北海道へ
2 啄木との邂逅
3 小樽日報陰謀事件
4 引責馘首
5 長女の死
6 室蘭時代の検挙拘留 7 岩野泡鳴
8 ひろ夫人
三 その後の雨情
1 啄木の離道
2 小奴を巡って
3 鬱積の心情
あとがき
関連年表
【凡 例】
①氏名は全て敬称を略させて頂きました。
②(*)は筆者の注です。
③ルビは資料・文献のママです。
④〈 ルビ 〉は筆者に よるものです 。
⑤年表は筆者の作成です。
はしがき
本 書 は 野 口 雨 情 と 石 川啄 木 の 北 海 道 時 代 を 巡 る 問 題 に 焦 点 を あ て た も の で す 。 そ
の 意 図 は 好 人 物 と 言 わ れ る 雨 情 が こ と啄 木 に 及 ぶ と 豹 変 し て 底 意 地 の 悪 い 偏 屈 な お
じ いさ ん に 変 身 す る 理 由 を 探 る こ と で す。 この こと は 一 部 の 人 に し か 伝 わ っ て い な
い の で 意 外 か も 知 れ ま せ ん が 、 い つ も は に こ に こ し て 好 々 爺 然 と し た 雨 情 が啄 木 と
いう言葉を聞いた途端に鬼の形相をして彼の悪口をまくし立てる風なのです。
啄 木 の フ ァ ン で あ る 私 は 雨 情 の こ の 態 度 に 納 得 が い き ま せ ん で し た 。 そ こ で 、 い
ろ いろ調 べ てみ ました が合点 の いく 文献を 見 つける こと が 出来な く て、 とうと う自
分でこの謎 を解いてみることにしました。 とは いっ て も この 二 人 が な く なっ て もう
か なり 歳 月 が経 ち 、 生 き 証人 もあ まり い ま せん 。 尤 も証 言 と いう も の は そ れほ ど当
てになら ないものであ ること も実感 していま したか ら信頼 に足る文献の 方が役 立つ
場 合 もあ る の で す。 そ こ で少 し ず つ 資 料 を 集 め て、 か つ て 柳 田 国 男 と い う 民 俗 学 者
が採った重 出立証法に習ってデータを比較検討してみました。 この 方法では異なっ
た 角度で 資料を比 較で きますし、デ ータとデ ータの 間の疑 似事 実の 想定 もあ る程度
できるのです。
し か し 最 大 の 難 関 は啄 木 が 記録 保 存 の 〝 極 端 者〟 であ る の に 比 し て 雨 情 は 記 録 を
残 さ な い 〝 極 端 者 〟 で あ る と い う こ と で し た 。 少 し 誇 張 し て 言 え ば啄 木 は 昨 日 の 行
動 を 克明 に 復 元 出来 る の に 雨 情 と き た ら 生 年 月 日と 死 亡 年 月 日 以 外 は 曖 昧 模 糊 と し
て復元不能に近い存在だということです。
ですから本書は一見すると小説のように感じられるむきがあるかも知れませんが、
基 本 的 に は 事 実 と い う 要 素 を 複 合 的 に 重 ね 合 わせ た 疑 似 結 果 を 抽 出 し た もの と 思 っ
て いた だ きた いの で す。 とり わけ会 話 風の 部 分 はその 具体的 記 述の 典 型で す。 確か
に 小説 風 な 作品 に なっ てい る か も知 れ ません が極力 筆者の 思 惑や 恣意的 推 測に よっ
て筆を進めることを排したつもりです。
ま た 本 書 で は 雨 情 と い う 人 物 に 焦 点 を 当 て て啄 木 と い う 存 在 を そ の 影 に 据 え て 分
析 すること にしました 。 そう するこ とによって 雨情という人物がよく見えてき まし
たし、逆にこれまで見えなかった啄木の姿も見えてくるように思えたからです。
本 書を書 き上 げ てか ら私は 雨情 が以 前よ り も 好きに なり ま した 。 雨情には 迷 惑か
も知れませんが、できればもう少しおつき合いを願いたいと思っている次第です。
二〇一一年八月一日 一 野口雨情の歌
【雨情の仕事場・童心居(吉祥寺井の頭公園内)】
一 歌われなくなった童謡
最 近 はこ ど もたち もあ まり 童謡 を歌 わな く なっ て し まい ま した 。 いや もう少 し正
確 に 言 う と 歌 っ ては い る の で すがテ レ ビ の 影 響 で し ょ う か 、 若 い ア イ ド ル 歌 手 の 歌
を 真似 て歌 っ てい る 姿 が目 に つき ま す。 以 前 は 童 謡 は 親 が 子 守 歌 と し て こ ど も た ち
に 聞か せ る 歌 で し た 。 と こ ろ が そ の 親の 世 代 が 子 供 に 歌 っ て 子 育 て を し な く な っ て
しまいました。 また学校で習う唱歌 もヨコモジの歌が取り入れられるようになり本
来 歌 い継 が れ るべ き歌 がどん どん 音 楽の 教 科 書か ら 削 除 さ れ て い ま す。 文 科省 と そ
の 取り持 ち学者 が時代 に迎合 して本来残すべ き歌を 教科書から消 して雑音と音 楽の
区 別 も 出来 な い 人 間 を 育 て よう と し て い る の で す。 視 聴 率 を気 に す るテ レ ビ と 人 を
育 てる学校 と 一 緒にさ れてはた ま り ません 。 学 校は 日本 の 文化と 芸 術 を継 承 す る場
で もあ るの で す。 「時 代 に 合 わ な く なっ た」 と いう だ け でこ れ を排 除 するの は 文 化
と 芸術 を 否 定 す るもの であ り 、我 が 国の歴 史 を歪 め るもの だと い わなけ ればな り ま
せん。
例 え ば 「冬の 夜」 ( 一九 一 一 ・明 治 四 十四 年『 尋 常小 学 唱歌 ( 三)』 ) を 取 り上
げてみましょう。
ともしび
はる
あそび
きぬ ぬ
たの
はは
かた
一 燈火ちかく衣縫う母は
い なら
こ
ゆび
お
春の 遊 の楽しさ語る。
ひかず
よろこび
いさ
居並ぶ子どもは指を折りつつ
い
ろ
り
び
ふぶき
り
ちち
日数かぞえて 喜 び勇む。
そと
ろ
なは
囲炉裏火はとろとろ
い
外は吹雪。
す
てがら
かた
二 囲炉裏のはたに縄なう父は
い なら
こ
わす
過ぎしいくさの手柄を語る。
みみ
かたむ
にぎ
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
い
ろ
り
び
耳を 傾 けこぶしを握る。
そと
ふぶき
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪。
作詞作 曲 者不 詳の こ の歌は 「ソー ラン節」 や 「五 木の子 守歌」 の 民謡 の よう に誰
ら 抹 消さ れ ま し た 。 「燈 火」 や 「 囲 炉 裏」 は 農 民 や 庶 民 の 文 化 を 伝 え る 遺 産 で す。
と か 「い くさの 手 柄 」 を讃 え るの は 如 何 な も の か と ばか り に 戦 後 い ち 早 く 教 科 書か
もが歌った国民歌になっていました。 それを「燈火」や 「囲炉裏」のある家はない
1 野口雨情の歌
また 「い くさの 手柄」 を讃え るとい いますが 、これ もまた 民族の 歴 史と して善悪両
面 か ら 教材 と し て広 い 視 野 で捉 え れば済 む こと で す。 そ の よう なこ と より 、 こ の 歌
に込めら れてい る親子 で囲炉 裏を囲みながら ささやかな幸 せで温かいぬくもり を与
えるこの歌のどこが悪いというのでしょう。
もう 一 つ 「 わ れ は 海 の 子 」 (『 尋 常 小 学 読 本 唱 歌 』 作 詞 、 作 曲 不 詳 一 九 一 〇 ・
明 治 四 十 三 年 ) を 考 え て み ま し ょ う 。 こ れ は 実 は 七 番 ま であ っ て 学 校 で は 概ね 三、
うみ
こ しらなみ
四番までを歌っていました。
われ
まつばら
一 我は海の子白浪の
けむり
さわぐいそべの松原に
わ
すみか
煙 たなびくとまやこそ
うま
ゆあみ
我がなつかしき住家なれ。
なみ
こもり
うた
き
二 生れてしおに 浴 みして
せんり よ
うみ
き
浪を子守の歌と聞き、
す
千里寄せくる海の気を
たか
はな
か
吸いてわらべとなりにけり。
ふだ ん
はな
三 高く鼻つくいその香に
不断 の 花 の か を り あ り 。
まつ
がく
ふ
われ
かぜ
き
なぎさの松に吹く風を
じやうよ
あやつ
いみじき楽と我は聞く。
ゆくて さだ
なみ
四 丈余のろかい 操 りて
ももひろちひろ うみ
そこ
行手定めぬ浪まくら、
あそ
にはひろ
百尋千尋海の底
いくとせ
遊びなれたる庭広し。
てt
かた
五 幾年ここにきたへたる
ふ
しをかぜ
くろ
鉄より堅きかいなあり。
しやくだう
吹く塩風に黒みたる
なみ
ひやう ざ ん
は だ は 赤 銅 かながらに。
きた
きた
おそ
六 浪にただやう 氷山 も
うみ
あ
来らば来れ恐れんや。
おこ
おこ
おどろ
海まき上ぐるたつまきも
おおふね
の りだ
起らば起れ 驚 かじ。
ひろ
うみ
とみ
のりく
うみ
くに
我は守らん海の国。
われ
いで 軍艦 に乗組みて
ぐんくわん
我は拾はん海の富。
われ
七 いで大船を乗出して
1 野口雨情の歌
これも名曲中の名曲だと思いますが、文部省(当時)の 教科書専門委員のなかに
は大げさで時代錯誤の歌だとか女性委員が「これは男児の歌で現代に相応しくな
い 」 と強 硬 に 主 張 し て 教科 書か ら 外さ せた と いう 話を 聞いた こと があ り ま す 。 役 人
に 選ばれ る専門 委員に 見識あ る人々 がいると も思い ません が、こ の よう なケチ な判
断 で除外さ れるのはなんとも情け ない話ではないでしょうか。 尤 もこの歌が排除さ
れた表向きの意 見は七番が好戦的で侵略を正当化する危険 な考え をこど もたちに植
え付けかねないとするものだったそうです。
その う ち 「は なさか じじ い 」 (う らの はた け で、 ぽち が なく) 「浦 島 太郎」 (む
か しむか しう ら し まは ) 「う さ ぎ」 (うさ ぎ う さ ぎ な に み てはね る) 「 さ く ら さ く
ら 」 ( の や ま も さ と も み わ た すか ぎ り ) 「花 」 ( は るの う ら ら の すみ だ が わ ) 「田
植え」(そろた でそろたさなえがそろた)「夏は来 ぬ」(うのは なのに おうか きね
に)「海」(まつばらとおくきゆるところ) 「つき」(でたでたつきが)「村祭
り 」 ( む ら の ち ん じ ゅ の か み さ まの ) な ど と い う 歌 を歌 え る 日 本 人 は 、 や が て い な
くなることでしょう。
また 「赤 と ん ぼ」 の よう な 童 謡 で すら 「負 わ れ て みたの は い つ の 日か 」 を 「 追 わ
れてみたのは」と誤解したり「七つの子」のようにカラスが啼くのは「勝手で
し ょ」 と 茶 化さ れ て い るご 時 世 で す。 「故 郷」 や 「蛍の 光」 は 立身 出世 を煽 る 歌 だ
と 一方的 に非 難 する声 も戦後 高まり 、 い まで は 殆 ど 歌 わ れ な く な っ て い ま す が 「 兎
追いしかの山」や「忘れがたきふるさと」も忘れ去られようとしています。
また 世界 中 で歌 わ れ たゆ か しい 曲 も 教科 書か ら〝放 逐〟 さ れ つ つあ り ま す 。 その
典 型は 「 埴 生の 宿」 で す。 一 八 二 三 年イ ン グラ ン ドの H ・ロ ー リー ・ビ シ ョ ッ プに
よって作曲された「ミラノの少女」というオペラの中で歌われたのが〝
e
m
o
H
e
m
o
H
t
e
e
w
S
ただし
〟 「 埴 生の 宿」 で す。 こ の 歌 を 「庭 の 千 草 」 や 「ア ニ ー ・ロ リ ー」 な
どの訳詞を手がけた里見 義 が見事な日本の詩に仕上げてくれました。
よそお
うらやま
一 埴生の宿も、わが宿、
玉の 装 い、 羨 まじ。
のどかなりや、春の空、
花はあるじ、鳥は友。
おお わが宿よ、
ふみ
楽しとも、たのもしや。
うらやま
よは
月はあるじ、むしは友。
清らかなりや、秋の夜半、
瑠璃の床も、 羨 じ。
るり
二 書読む窓も、わが窓、
1 野口雨情の歌
おお わが窓よ、
楽しとも、たのもしや。
なんと この歌 が一八 八九(明治二 十二)年の『中 等唱歌 集』に収めら れてい るの
たぬき
で す。 歌 に国 境 は な いと 言 われ てい ま すが、 そ の 歌 を 巧 みに 日本的 詩情 に移 し 替 え
ばやし
る そ の 力 量 と 努 力 に 頭 がさ がり ま す 。 そ う い え ば 野 口 雨 情 が 作 詞 し た 「 證 城 寺 の 狸
囃 」 ( 一 九 二 五 ・ 大 正 十 四 年 ) は 敗 戦 後 占 領 軍の 兵 士 が 口 伝 え で 歌 い 出 し 、 と う と
う ア メ リ カ に渡 っ て 「 カ ム カ ム ・エ ブ リバ デ ィ」の 歌 と し て歌 わ れ、さ ら に 日 本 に
逆 上 陸 し て 大 ヒ ッ ト し ま し た 。 作 曲 の 中 山 晋 平 の 力 に も より ま す が 、 まさ し く 歌 は
国 境を越え ている好例の一つです。 一概に外国の曲だか らと言って退けるのも考え
ものなのです。
そして これか ら紹介 する野 口 雨情 という人 物は最 近は人 々の口 に上 る 機会 も なく
ひっそりと忘れられつつある歌人です。 しかし彼が作った歌を言えば「あ、それ
知ってるー」とか「歌ったことあるー」ということになるかもしれません。
二 雨情の童謡
﹆
﹆
次 の 歌 は 野 口 雨 情 の 作 品 で す が 、 皆 さ ん は 幾 つ知 っ て い る で し ょ う か 。 お年 寄り
の方はおそらく全部をそらで歌えるでしょう。それほど親しまれた歌ばかりです。
①十五夜お月さん
②七つの子
③青い眼の人形
④雨降りお月さん
⑤兎のダンス
⑥しゃぼん玉
⑦證城寺の狸囃(*「囃子」にあらず)
⑧あの町この町
⑪黄金虫
⑩赤い靴
⑨キューピー・ピーちゃん
1 野口雨情の歌
⑫俵はごろごろ
世代に もよると思い ますが当然の ことながら年齢 が高く なれば なるほ ど知っ てい
ると答える確率は高くなると思いますが、小 学校あ たりで童謡を 教える時間が減っ
て い ま す し 、 な に よ り 教 科 書 に 載 っ て い る 童 謡 自 体 が 削 除 さ れ 続 け て い ま すの で 世
代が若くなるにつれて認知度は低くなってしまいます。 それに最近の携帯プレー
ヤ ー や オ ー デ ィ オ 機 器 な ど と 童 謡 と の 関 係 は 限 り な く 希 薄 に な っ て い ま すの で 、 こ
の 世代は童謡と無縁で過ごしてしまう結果になっています。 今後、童謡は急速 にす
たれていってしまうかも知れません。
また 、 こ れ ら の 歌 は 中 山 晋 平 な ど と 言 っ た 作 曲 家 が そ れ ぞ れの 作品 に 相 応 し い メ
ロ デ ィ を つ け る こ と に よ っ て 普 及 した 経 緯 があ り ま す 。 その 初 期 に は 楽 譜 を 読 め る
小学校教師がオルガンを弾いて子供達に歌を伝えたものです。 しかし、大正期に
入 っ て 蓄 音 機 が 普 及 し 出 すと 、 ひと り の こ ど も が 一 つの 歌 を 覚 え て遊 び 仲 間 と 歌 い
出 し、やが てこどもの 世界へと歌 い継がれ て全国に広 がっていくのでした。 この時
期 に 童 謡 を 積 極 的 に 書 い て い た の は 北 原白秋 、 三 木 露 風な ど で す が 、 い ず れ も 曲 が
つ く こ と に よっ て歌 詞 が より 魅力 を 増 し て歌 の 世 界 を 風靡 したと い う こ と が 大 き な
特徴だと思います。
そ れに しても 大ヒ ッ ト した 雨情の 童謡の 特 徴 は童 心 を し っかり 捉え つ つ も、 世 間
や人生そ してその宿命 といっ たもの をその世 界に捨象して投影し ているという こと
で す。 あ り きた りの 〝 こ ど もの 世界 〟 だ け で な く 大人の 生き 様と そ の 悲 哀 を し っか
り 捉 え て い るの で す。 そ の こ と がこ ど もか ら 大 人 ま で 雨 情の 作 品 が 愛さ れ続 け る 所
以だと思います。
例えば「しゃぼん玉」がその好例の一つではないでしょうか。 それは、ごくあり
き た り な 何 処 に で も 誰 に で も 共 有 で き る 日 常 的 な 平 凡 な 題 材 で す 。 しか し 、 こ れ が
雨 情 の 筆 に か か る と 〝 大変 身〟 す るの で す 。 ( な お 、 引 用は 雨 情 会 編 『 野 口 雨 情 民
謡童謡選』金の星社 一九六二・昭和三十七年 所収の表記に拠りました)
しゃぼん玉 とんだ
屋根までとんだ
屋根までとんで
こわれて消えた
しゃぼん玉 消えた
こわれて消えた
うまれてすぐに
とばずに消えた
1 野口雨情の歌
風 風 吹くな
しゃぼん玉 とばそ
この 歌 は 一九 二 二 ・ 大 正 十一年 の 作で す 。 一 説 に この 作品は 雨情 の 亡 く なっ た子
を 悼ん だ も の と も言 わ れ て い ま す 。 雨 情 に は 前 夫 人 ひ ろ と の 間 に 一 男 二 女 、 後 妻 の
つ る と の 間 に 二 男 四 女 が い ま し た が、 そ の う ち 二 人 が 亡 く な っ て い ま す。 一 人 は 小
く ま
お
樽 でひろとの間に出来 た長女 みとり (一九〇 八・明 治四十一年歿)、もう一人 はつ
る と の 間 に 生 れ た 九萬 男 ( 一 九 三 六 ・ 昭 和 六 年 歿 ) で す 。 こ の 説 が 正 し け れ ば み と
さなか
りを偲んだ歌ということになります。 (この件に関しては「5 長女の死」で後
こ
述 ) 没 し て 十 四 年 、 し か も 身 寄 り の な い 北 の 果 て で の 厳 し い 流 浪 生 活 、 そ の 最中 の
我が娘との 別れは雨情の心から消え去ることはなかったのかも知れません。 この説
を 「勝手 な解 釈 の 記 述 やア ニ メ放 映 がみら れ る が 、 い ず れ も興 味 本 位 の フ ィ ク シ ョ
ンである。 詩人の感覚は、そのように単純即物的のものではない」(長島和太郎
『 詩人 野口雨情』有 峰書店新社 一九八一 ・昭和 五十六 年)と して一蹴 する人も
おられますが、雨情はまた一九二四・大正十三年に知人から頼まれて色紙に
このこに珊瑚の首かざり
七つになつたら買うてやろ
七つになれなれあしたなれ
と 揮 毫 し て い ま す。 一 茶に 「匍へ 笑 へ 二 つに な るぞ明 日か ら は」 と いう 句 が あ り
ま す。 この 子 は そ の 夜 亡 く な っ て し ま う の で す が 、 親の 子 を 思 う 一 途 な 思 い が 溢 れ
て い ま す。 「し ゃ ぼ ん 玉 」 に 托 した 思 い が 、 こ の 「珊 瑚 の 首か ざ り 」 に も繋 が っ て
いるような気がしてなりません。
もう一つ 、 「十五夜 お月さん」 を見てみ ましょう。 こ れは本居長世が作曲を 担当
しました。
ごきげん
いとま
十五夜お月さん
ばあ
御機嫌さん
婆 や は お 暇 とり ました
十五夜お月さん
も
田舎へ 貰られてゆきました
いなか
妹は
1 野口雨情の歌
いちど
あ
かあ
十五夜お月さん 母さんに
も一度
わたしは 逢ひ た い な
十五夜の 月はまんま るで下界の 人間模様 をくまなく照らしてみ ています。 あ の 家
で 朝か ら 晩 ま で こ き 使 わ れ て 働き づ く め の 婆 さ ん が 身 体 を 壊 し て お じ い さ ん が 亡 く
なって三年経ったもと いたボロ小 屋に独り 寂しく帰り ます。 そしてお月さんの 目に
と まったのは貧 しい百姓の 家、たっ た一人の 妹が口 減らしのため に 遠い田舎に 貰 わ
れ ていくと ころです。 わたしはでき るだけ明るく照らし てこの妹さ んの 足許を照ら
し てあ げ ま し ょ う 。 お や 、 わ た し を 見上 げ て 泣 い て い る 男 の 子 、 昨 年 亡 く な っ た お
母 さ ん を 思 い 出 し て い るの で すね 。 今 夜 は 明 け 方 ま であ な た の そ ば に い てあ げ ま す
よ 。 … … 私 は 十 五 夜 お 月 さ ん 。 ( 私 流の 勝 手 な 解 釈 で す 。 雨 情 に 失 礼 を お 詫 び し な
ければなりません。)
雨情の 魅力は 人間の 心の 機 微が実にさりげ なく表現さ れ るとこ ろにあ ると思 いま
す。 しかもダイ レクトにそれを語るのではなく婉曲に間 接に比喩的 に表現されるの
で 読みとる 側はか なり 自 分流に解 釈 できる 幅を愉しむ こと ができ るの で す。 そ の こ
と は内 容を 曖昧に解釈 できるということではありません。 読む側の 心の機微に 委ね
ているのです。奥が深く幅が広いからこその鑑賞ができる作品なのだと思います。
しか し 、 メ ロ デ ィ を つ け な か っ た 歌 に も 、 そ れ に 劣 ら な い 素 晴 ら し い 作 品 を 雨情
は 残し て い ま す。 そ の い く つ か を 紹 介 し ま し ょ う 。 逆 に 言 え ば メ ロ デ ィ が 伴 わ な い
純 粋 な 作 詞 だ け の 方 が 想 像 力 や創 造 性 を 読 者 に か き 立て る 作 用 が より 働 く 余 地 があ
るといっ て も過言ではあり ません 。 以下、二、 三紹介 し ますが、こ れらの歌は 自 由
に思い思いの想像力を膨らませて味わえる作品だと思います。
こ うぞ
ねぎ
葱
ねぎ
葱 と 楮 と
故郷を思ふ
故郷出たとき
今でも思ふ
風に吹かれてた
葱も楮も
1 野口雨情の歌
もろこしばたけ
おや
蜀黍畑
せど
つるべ
お背 戸 の 親 なし
はね 釣瓶
海山千里に
風が吹く
もろこし
蜀黍畑も
日が暮れた
にはとり
鶏 さ がし に
往かないか
哀別
海は見たれど
海照らず
山は見たれど
山照らず
しぐれ
時雨の雲の
雨の戸に
わがためぬれた
人もあり
なかせんどう
中仙道は
ひたちかしま
山の国
これがたまだま
海の国
常陸鹿島は
1 野口雨情の歌
五十里の
山を越えたる
別れかよ
な
烏しば啼く
しばらくは
山のあなたで
啼けばよい
こよひいちや
あいべつ
今宵一夜を
哀別の
涙で共に
語らうよ
旅人の唄
山は高いし
野はただ広し
一人とぼとぼ
旅路の長さ
ひま
かはく暇なく
涙は落ちて
恋しきものは
故郷の空よ
今日も夕日の
落ちゆくさきは
どこの国やら
果さへ知れず
水の流れよ
恋しき空よ
遠い故郷の
浮寝の鳥よ
1 野口雨情の歌
あ す
明日も夕日の
落ちゆくさきは
どこの国かよ
果さへ知れず
少し横路に入ってしまいますが、雨情の作詞に関する姿勢を伝える面白いエピ
ソ ードがあ ります。 それは雨情が詩作に打ち込 んで『枯草』(一九〇五・明治 三十
八 年 ) に 次 ぐ 第 二の 詩 集『 十 五夜 お 月さん 』 (一九 十九 ・ 大 正 十 年 ) を 出 し新 進 詩
人の地位を固めつつあった頃のことです。 この『 十五夜……』に収められている
「トマト畑」なのですが、先ず一通り目を通してみてください。
雨降り雲は
なぜ来ない
トマト畑が
みな枯れる
トマト畑に
おひさま
太 陽は
じりりじりりと
照らしてる
雨降り雲は
なぜ来ない
トマト畑が
みな枯れる
トマト畑の
百姓は
赤いトマトを
眺めてる。
一 見 す ると 、 なん の 変 哲 も な い ご く 自 然 な トマ ト 畑の 描 写の よ う なの で すが 、 こ
う してで し ょうか 」 と 。 講 演に 出掛 けた会場か ら も教師 や 若 者が 立 ち上 がっ て 同じ
と いうの で す。 「トマ ト は 枯 れるか も知 れ ませ ん がトマ ト 畑が枯 れ ると いうの は ど
の 歌 を 読 ん だ 読 者 、 と り わ け 小 学 校 の こ ど も た ち か ら次 の よ う な 疑 問 が 寄 せ ら れ た
1 野口雨情の歌
ような質問をしたといいます。
こ の 疑 問 に つ い て 雨 情 は 文 芸は 科 学 と 違 う 、 「 ト マ ト は 枯 れ る 」 が 「 ト マ ト 畑は
枯 れない」というよう な科学的事実だけでは文学や 芸術は成り 立たないと婉曲 に答
え ています。 十 五夜の月でなくとも、「月で餅 つき兎さ ん」という夢やロマンスは
科学では求 めようがあ りません。 雨情は科学を一方的に否定するの ではなく、それ
を 超 え た 存 在と し ての 文 芸 こ そ 重 要だ と 言 っ て い ま す 。 「こ こ に 文 芸の 科 学 を 超 越
し 、 理智 を 超 越 した 世 界 が 開 け て 居 り ま す 。 こ の 世 界 の 中 に 入 る こ と の 出来 な い も
の は、 真 の 文 芸 を味 ひ 知 るこ との 出 来 な い人 であ り 、 同 時 に童謡 の 正 風 を 理解 する
こ と も 、 ま た そ の 世 界 に 遊 ぶ こ と も 出来 な い 人 であ り ま す。 」 ( 「 童 謡 十 講 」 一 九
二三・大正十二年『定本 野口雨情』第七巻所収)
先に「なんの変哲もない」と筆を滑らせてしまいました が、雨情の作品は常に何
度 も何 度 も 納得の い く まで書き改 め ら れ て い るの で す 。 雨情の 自 宅 を 訪れた 仙 台 で
童 謡 誌 の 発 刊 し よう と し て い た 天 江 富 弥 はそ の 様 子 の 一 部 を次 の よう に 語 っ て い ま
す 。 「その 日 わ た しの 頭 に 灼 き つ い て忘 れ 得 ぬ 思 い 出は 、 先 生の 謡 の 原 稿 が 、 まっ
黒 に 推 敲 の 筆 が 入 っ た ま ま 壁 面 の 下 部 に は ら れ てあ っ た こ と で 、 こ れ は 先 生 が 寝 床
を 敷いて枕 にあ た る部 分なの で し た。 先 生は枕 に つか れ たあ と も、 この 謡 稿を 繰返
し 朗 詠 し な が ら も ま だ 未 完成 の も の な の で し た 。 先 生 は 申 さ れ ま し た 。 / 「天 江 さ
ん 。 う た と ゆ う も の は 字 で 書 い た だ け で は 駄 目 で す。 な ん べ ん も 、 な ん べ ん も 口 に
出 し て 、 う た っ て う た っ て 、 ト コ ト ン ま で 推 敲 せ ね ば 」 ( 「『 お て ん と さ ん 』 と 雨
情」『みんなで書いた野口雨情伝』金の星社 一九七三年)
実際、雨情の 家に訪れた人々は書斎「童中居」に籠もって自分の作品に墨筆を
取って推敲 に 推敲を重 ねる姿を目 撃 してま す。 言 葉を超 え る所でさ らに新たな言葉
を求めるー雨情の文芸はそうした推敲に継ぐ推敲の世界から生れた文芸なのです。
三 雨情と民謡
もう 一 つ 、 雨情 は数 多 くの 民謡 を 作り ま した 。 「民謡 は 、 民衆 の 詩であ り ま す。
民 衆 の 芸術 で あ り ま す。 真の 国 民 詩 で あ り ま す 。 」 ( 「 民 謡 と 童 謡 の 作 り や う 」 一
九 二四 ・ 大 正 十 三年『 定本 第八巻 』 所収 ) と いう よう に 雨情 は 民謡 を 国 民 芸 術 と
位 置 づけ 、これ を蒐集 、分析 しつつ、自身で もいく つもの 素晴ら しい民 謡を創 り 世
に送りました。 また、全国 を歩いて失われつつある民謡の復活を図りました。 その
触れておきたいと思います。
功 績だけ で も充 分で す が、こ こ では 雨情の 名 を不朽 の もの と した 二 つの 作品に だけ
1 野口雨情の歌
船頭小唄
一
おれは河原の
枯れすすき
同じお前も
枯れすすき
どうせ二人は
この世では
花の咲かない
枯れすすき
二
死ぬも生きるも
ねーお前
かは
水の流れに
何変ろ
おれもお前も
利根川の
船の船頭で
まこも
暮らさうよ
三
枯れた真菰に
いたこでじま
照らしてる
潮来出島の
お月さん
わたしやこれから
暮すのよ
船の船頭で
利根川の
1 野口雨情の歌
四
なぜに冷たい
吹く風が
枯れたすすきの
二人ゆゑ
熱い涙の
出たときは
汲んでお呉れよ
お月さん
五
どうせ二人は
この世では
花の咲かない
枯れすすき
水を枕に
利根川の
船の船頭で
暮らさうよ
実 に 簡 明 直 截 な 誰 に で も 分 か る 歌 で すか ら 、 余 計 な 注 釈 は 不 要 だ と 思 い ま す が 、
ただ、この作品 が生れたのが一九一九・大正八年八 月、雨情三十七歳の 時でした。
そ れまで 雨情は 童謡や 俚謡を細々と 書いては いましたが、 なにしろ樺太、北海 道で
の 〝 流浪〟 の 旅路の 途上 で本格 的 な 作詞活 動 に 書か れ ません で し た 。 相 馬御 風 、人
見 東 明 、 三 木 露 風 、 加 藤介春 と い っ た 早 稲 田 時 代 の 仲間 は 既 に 詩 壇 の 地 歩 を 固 め て
い ました。 茨 城の田舎に隠栖して同人仲間とも会わず一人悶々と苦 悩していたので
す。 二度目の結 婚で文学 に関心を持 つ中里つると再婚し新居を水戸 に構えると 雨情
はそれまでの煩悶を吹き払うかの ようにまっしぐらに 作詞活動に邁進します。 この
年六月にはそれまで文芸誌に発表していた作品『都会と田園』(銀座書房)を出版、
この詩集を読んで東京のかつての仲間が水戸に雨情を訪ねて賞賛、激励しています。
を 「枯 れ す すき 」 と し て い た の で す が、 雨情 が中 山 晋 平 に 作曲 を 頼 み に ゆ く と 晋 平
を 省 み な が ら そ こ か ら の 静 か な訣 別を 図 ろ う と し た 作 品 だ っ た の で す 。 雨 情 は 原題
「船 頭 小 唄」 は 哀 愁 を帯 び た 虚 無 的 な 詩 情 と な っ てい ま す が 、 迷走 し て き た 自 分
1 野口雨情の歌
は「その題も悪くはないけどそのまんますぎですよ。 船頭小唄とした方がいいか
も 」 と い う と 「 そ う で や ん す な 。 そ の ほ う が い い で や ん す」 と 珍 し く 引 き 下 が り ま
した。 普段はいったん決 めた言葉を 相手の意 見で換えることのない 雨情でした がこ
の と き は 雨情 が じ か に 晋 平 に 作 曲 を お 願 い に 上 がっ た こ と もあ り 「船 頭 小 唄」 に変
え たの で し た 。 い まさ ら で すが 「枯 れ す すき」 の 方 が よ か っ た よう な気 が しな い で
もありません。 ただ、晋平はこの歌 詞を見たと き、あまりにも暗 すぎるので乗り気
に な れ ず し ば ら く放 っ て お き ま し た 。 一年 近 く 音 沙 汰 な いの で し び れ を 切 ら し た 雨
情 が 晋 平 宅 に 催 促 に い き ま した 。 「 ど う も 、 調 子 が 出 な く て 困 っ て ま す」 と い う と
雨 情 が 「そ う で がん す か 。 先 生の 前 で す が 、 わ し は こ ん な 風に歌 っ て るん で や ん す
け ど」と言 いな がら節 をつけ て歌 い 出しま した。 それがこの歌にぴったりだったの
で 晋 平 は そ れに 少 し手 を加 え て 作 曲 したの が現 在の 「 船 頭小 唄」 の 原曲 で し た 。 雨
情 は作詞 は歌っ てみな いと 分か らな いという の が口 癖 でい つも自 分流に 歌っ て 善し
悪 しをき め るの で した 。 仲間内 では こ れを 「雨 情節」 と 言 っ て重 宝 していた も の で
す。
この 作 品は初 期には 大道 芸人の演歌士たち に よっ て街 頭 で歌わ れ、またたく まに
全 国 に 拡 が り ま し た 。 こ の 歌 を 客 が 歌 い 出 すと 店内 の 客 全 員 が斉 唱 する と い う 珍 し
い 光景が日 本中に 見ら れたという ことで す。 池 袋の 飲 み 屋で 酔っ 払 っ た 客 が 雨 情 と
は 知 ら ず 、 「 な ん で 暗 い 顔 し て 飲 ん で るん だ 、 景気 づけ に 〝 枯 れ す すき 〟 で も 歌 っ
てみろ」と絡まれたこともあったということです。
た だ 、 こ の 歌 が爆 発 的 な 流行 を し た 翌 年 、 関 東 大 震 災 が お き ま し た 。 す る と 学 者
や 評論 家 が 、 こ ん な 歌 を 歌 っ てい る か ら 震 災 に 遭 う ん だ と 言 い 出 し て 雨 情 や 晋 平 は
一 時 外 出を 遠慮 するほ どだっ たと いう こと で す。 げ に 有 識 者と い わ れ る人 種 ほ ど 愚
かで扱い憎い存在だということは今も少しもかわりません。
も う 一 つの 作 品 「波 浮 の 港 」 は 幾 つか興 味 あ る 制 作 に ま つ わ る エ ピ ソ ー ド が 潜ん
で い ま す。 先 ず 、 最 初 に こ の 詞 が掲 載さ れ た『 婦人 世 界 』 一 九 二 四 ・大 正 十 三 年 六
月号の歌詞は次のようでした。
ハブの港
礒 の 鵜 の 鳥 ャ 日暮れに帰る
ハブの港にや
明日の日和は
夕焼け小焼け
1 野口雨情の歌
凪ぎるやら
船もせかれりや
出船の仕度
島の娘達ャ
御神火暮し
なじよな心で
ゐるのやら
ふ
し
そして『定本 第一巻』の『雨情民謡百編』に収まっているのは次の歌詞です。
波浮の港
礒の鵜の鳥ャ
日暮れに帰る
はぶ
波浮の港にや
ひよ り
夕焼け小焼け
あす
明日の日和は
なぎ
ヤレ ホンニサ 凪るやら
船もせかれりや
出船の仕度
ごじんか
島の娘達ャ
後 陣 家 暮 し
なじよな心で
ヤレ ホンニサ ゐるのやら
つ いては 雨情の 〝個人 秘書〟 的役割 を果した 泉漾太郎の『 野口雨情回想』(筑波書
家 で す。 一 見 し て 大 し た 違 い は な いの で す が こ の 裏 話 が面 白 いの で す。 こ の 顛 末 に
修正点 は①ハ ブ→波 浮 ② 合 いの 手 「ヤ レ ホ ン ニサ」 の 挿 入 ③御 神 火→ 後陣
1 野口雨情の歌
林 一 九 七 八 ・ 昭 和 五 十 三 年 ) が 詳 し く そ の い き さ つ を 述 べ て い ま す。 以 下 は 泉が
雨情から直接聞き出したお話です。少し傾聴することにしましょう。
雨情 が 吉祥 寺 に 居 を 構え て まもな く『 婦人 世界』 と いう 雑誌 社 の 編 集 者がや っ て
き て 一 枚 の 写 真 を 雨 情 に 見 せ 、『 婦 人 世 界 』 の 巻 頭 口 絵 に 載せ る の で 一 つ 相 応 し い
詩を書いてもらえまいか、という用向きでした。以下、記者と雨情のやり取りです。
ながめ
「景色のいいとこでやんすな、どこですか?」
「ハブの港です」
「はあ、南洋の港の写真でやんすか」 「ゑ? 南洋ぢゃありません。日本です。伊豆の大島にある港です」
「大島でやんすか。私は、ハブちゅうから、あの蛇のいる南の国の方かと思いや
んした」
「日本です」 「ハブとは、どんな字を書きやんす?」
雨情先生は硯の蓋を払って巻紙を構えた。
「さあ、どんな字ですかー?」
「あんた、知りやんせんので?」
「社に帰ってしらべます」
「とにかく、ハブと仮名にしときやしょ」
と いう わ け でこの 時 は 「波 浮 」 では な く 「ハ ブ」 な の で した 。 ② に つ い ては もう
少 し説 明 を 付 け 加 え な け れ ば な り ま せ ん 。 「ハ ブの 港 」 は 雑 誌 の 口 絵 に 使 わ れ た あ
うた
り ふれた説 明文と して 注目されず 三年が経 ちました。 中 山晋平が年 始にきて歓 談し
て酔いが回った頃「雨情さん、何かレコードにする詞はありませんか」「さあねえ、
わ し も こ こ ん と こ ろ 忙 し く て ゆ っ く り 作 る 暇 が な い ん で や ん す」 する と 横 で 話 を き
い ていた つる夫 人が『 婦人世 界』を持ってき て「こ れ、どうにか なるか しら」 一読
し た 晋 平 が 「こ れ は い い 、 リ ズ ム があ る。 で も 、 こ れ だ け で は レ コ ー ド に する に は
足りません。 先生、あと二、三章を追加 してくださいよ」というわけで雨情は 急遽
三,四番を作らされる羽目になりました。それが以下の詞です。
島で暮すにや
とぼしうてならぬ
郵便だより
伊豆の伊東とは
1 野口雨情の歌
下田港とは
ヤレ ホンニサ風だより
風はしほかぜ
御神火おろし
島の娘達ャ
出船のときにや
船のともづな
ヤレ ホンニサ 泣いて解く
実は合 いの 手 と して 「ヤレ ホン ニサ」は 雨情の 言 葉で はなく 晋 平の 発案 で す。
晋 平 は 作曲 家 で すか ら リズム を 考 え ま す。 こ れ を 入 れ な いと 曲 自 体 が死 ん で し まう
こ と があ る の で 、 雨情 も強 情 を 張 れ ま せん 。 例 の 「證 城 寺の 狸 囃」 で 頭に 「證 證
( 證 城 寺 )」 と 合 い の 手 を 入 れさ せたの と 同じ 手 口 をこ の 時 も 使っ た わけ で す。
③は「御神火」を二度も使いたくなかったからで深い意味はありません。
もう一つ、大事なエ ピソードを 付け加え ておかなけ ればなりま せん。 雨情が民謡
を つ く る 場 合 、 ほ と ん ど は 現 地 に 赴 き そ の 風土 や歴 史を く み 取っ てその 地 に ふ さ わ
し い 歌 に 仕 上 げ ま す。 と こ ろ が 今 回 は 雑 誌 記者 が持っ て きた 一枚の 写真だけ で 一気
に 仕上 げ て しまいまし た。 間の悪 い ことに 作曲 した中 山 晋平 も大島 には行 っ た こと
がありません。このため作詞の〝綻び〟に二人とも気づきませんでした。
た だ 、 少 し気 に なっ たの は この 追 加 さ れた 歌 詞 は 『 定本 』 で は 削除 さ れ最 初 の 二
番 まで し か 所収 して い な い こ と 、 に も 拘 ら ず 「 ヤ レ ホ ン ニ サ 」 と い う 晋 平 が 入 れ
た 合 い の 手 は 認 知 さ れ て い る と い う こ と で す。 実 質 的 に 編 集 権 を 持 っ て い た 子 息の
野口存彌の判断だと思いますが、その意図がはっきりしません。 その 後 、 この 唄 が大 ヒ ッ ト し て 二 人 は すっ か り気 を よく し て、 この成 功 を 素 直 に
喜 ん で い ま した 。 あ る 日 、 吉 祥 寺 の 雨情の 家に 当 時 は 東 京 で も 滅 多 に 見 ら れ な い 黒
塗りの外車が横付けになり、クロックコートを着た大会社の社長とおぼしき紳 士が
玄関をくぐりました。 雨情は講演で家を空けることが多 かったの で戸締まりは厳重
で来客は玄関横の小窓に面通 して許可をとら なければ開け られないようになっ てい
ま した。 「本当 は小 窓な ど つけた く なかっ たん でやん す が、 なに し ろ いろん な 人 が
きやんすで」と友人に言い訳をしたものです。なにしろ物乞いから寄付の申し込み、
某 」 とあ り ま した 。 ご祝 儀 用の 大 き な 風呂 敷包 み を持っ た重 役 さ ん は 「実は 野 口 先
書役〟の泉漾太郎が小窓から応対にでました。 名刺は 「 東京湾 汽船 株式会社重 役 何
冷 やか し、 酔っ ぱら い が引 き も切 ら なか っ たか ら無 理 もあ り ませ ん 。 その 日も 〝 秘
1 野口雨情の歌
生のあの 唄のお陰で大島に観 光客が多勢くるようになり我 が社は新しくむらさ き丸
を造りその初航海に先生と中山晋平先生ともどもご招待たしたく参上いたした次
第」という口上 、それを聞いて雨情 先生も愛好をくずした こともちろん ですが重役
殿 の 次 の 言 葉 に 雨 情 は 思 わ ぬ 返 事 を し て し ま い ま し た 。 「と こ ろ で あ の 唄 は 波 浮 の
光 景を 実に よくと ら え て おら れ て 感服 いた し ま した 。 先 生は い つ波 浮 に 見え ら れた
のでしょうか。中山晋平先生もご一緒されていたのでしょうね」
重役 殿の 篤い思い入 れに、 いやあ れは一枚 の 写真 を 見た だけで 作りま したと は言
え ず 、 つ い て 出 た 言 葉 は 「左 様、 何 年 前 で し た か な あ 、 確 か 中 山 さ ん と 二 人 で 遊 び
に 行 き や ん し ま し てね え 、 い い 景 色 に 見と れ ま し た で や ん す」 と 言 っ て し まっ た の
で す。 満 足 し た よう に 深 く 頷 い た 重 役 殿 は 「 こ れか ら 中 山先 生 に も に お 会 い し て お
礼とご招待のご挨拶に伺います」と言って帰っていきました。
慌 て た の は 雨 情 で し た 。 一 度 も行 っ た こ と の な い 大 島 、 そ れ も 余 計 な い か に も 見
て きた よう な言 葉 まで 発 して しま っ たの で す。 なに しろ 木訥 ・謙虚 ・実直 を地 でい
く よう な人 間 で す。 ま し て人 前で嘘 を言 う こと な どほと ん ど なか っ たの にフ ロ ッ ク
コートが運んできた大風呂敷につられて、つい心にもないことを口走ったのでした。
重役が 立ち帰った後、雨情 は真っ 青になっ て受 話器を取り上げ 中山晋 平を呼び出
しました。
1 野口雨情の歌
「 中 山 さ ん で すか 、 晋 平 さ ん で す か 。 野 口 で す 。 雨 情 で す 。 わ し ぁ 今 、 と ん で も
な い 嘘 を つ き や し た 。 嘘 を で す 。 あ の 、 名 刺 ! 大 島 航路 の 重 役 さ ん が こ れ か ら
そ っ ち へ … … ( か くか く し か じ か ) そ ん な わけ で なん と か 口 裏 を 合 わ せ て く れ ま
せ んか 。 お 願い で すか ら 、 な ん なら わ し がそ っ ち へ行 き ま し ょう か 。 なに 、あ な
おび
うろた
たも大島へ行ったことがないんですか。参ったな。困ったな」
中山晋平はすっかり怯えて狼狽えながら懇請する雨情の様子が目に浮かぶよう
で 、少 しか ら かっ て やろ うと 思 いま した。 雨 情の お人 好 しぶ り は知 っ て い ました
が、これしきの嘘で気を動転させている雨情が微笑ましいとも思ったものです。
「 雨情 さ ん 、 私 に も 同 じ 嘘 を つ け と お っ し ゃ る ん で す か 。 自 慢 じ ゃ あ り ま せん が
私はこれまで一度も嘘をついたことがないんですよ」
「え ! 参っ たな 、こ りや。 わし ぁど う す れば よがん しょか 。 わし もいま まで 人
に 嘘 を つ いた こと は あ ま り な が ん す よ 。 い や 一、 二 回 く ら い 、 いや 二、 三 回く ら
い あ っ た か も知 ら な い け ど 、 今 度 ば か り は 立ち 直 れ ま せ ん 、 な ん と か な り ま せ ん
かのう。 なん とか 願いやす。ほんと に」
受 話 器 を 握 り な が ら 「 願 い や す 」 を 何 度 も 繰 り 返 し て 平 身 低 頭 する 雨 情 の 姿 を
思い浮かべて晋平は
「 雨 情 さ ん 、 分か り ま し た よ 。 何 の 為 に 私 の ペ ン ネ ー ム があ る か 知 ら な か っ た で
しょう。 実は こう いう 時の為 に つけた ん で すよ。 シン ペー すん なと ね。 重 役さ ん
に は う ま い こ と 言 っ て お き ま す よ。 そ の か わ り 初 航海 に は 必 ず 行 き ま し ょ う や 。
私も波浮の港は一度くらい見ておきたいですからね」
かくて事なきを得たのですが、問題はこれだけでは済みません でした。 やはり現
地 を知らな いために、 どうしても綻びが露 呈してしまうのでした 。 その一つは歌詞
一、二番です、 雨情の フアン 層はと ても広く て、なかには 鳥類研 究家と いう強 者が
お り ま し て 大 島 に は 鵜 は い な いと いう 原稿 を新 聞に 投 稿 し て く れ たの で す。 雨 情の
故 郷 磯 原 には 鵜 がいく ら もお り まし た し、そ の 風情 は一服 の 絵 を 醸 し出 してい た も
の で す。 ま た 伊 豆 や 伊 東 に は 鵜 は い ま すの で 大 島 に い る の は 当 然 と 雨 情 は 考 え た の
で すが、 やはり現地で 作らな いと駄 目だ、少 し甘か ったと 反省せ ざるを 得ませんで
した。 また二番ですが港のあ る位置は朝日が昇りこそすれ夕日は見えません。 大島
自 体 は 円 方 形 で すか ら 日の 出 も 日の 入り もあ り ま す が波 浮 と 限 定 さ れ れ ば 「夕 焼け
小 焼け」と はいきません。 ところがこの唄はた ちまち大ヒットして しまい、口 さが
な い 人 々 が 「 鵜 」 や 「 夕 日」 を ほ じ く り 出 し た の で 、 一 時 「ほ ら 吹 き 雨 情 」 の 名 が
ついてしまいました。
そう言えば啄木にも似たケースがありました。釧路時代を思い起こして作った
こほり
しらしらと 氷 かがやき
ちどり
くしろ
うみ
千 鳥な く
ふゆ
つき
釧路の海の冬の月かな
この季節、釧路には千鳥はいないし、まして冬に鳴くことはない、というのです。
科 学 と 文 芸の 違 い に つ い て 雨 情 も事 実と 想 像 の 差 だ と 言 っ てい ま す が 、 詩 情 は 科 学
を 超 え て い る と いう こ と を 未 だ に 認 識 で き な い 〝 専 門 家〟 は ど こ に で も い る よ う で
す。
と もか く 雨情 と いう 人 は 文 字 通 り の 詩人 であ り 謡 い 手 で す。 そ し て天 衣無 縫 、無
邪気で素朴 で奢りや驕 慢とは全く無関係の 人物です。 そ してこういう人間がや がて
石川啄木という実に対照的な人間と出会うことになるのです。
1 野口雨情の歌
二 雨情の啄木観
じま
【啄木が下宿した跡(小樽市花園町)現料理屋「た志満」
雨情の下宿とはあまり離れていなかった】
一 二人の歌
こ れか らの お 話は我 が国 で最 も有名な歌人 、野口 雨情と石 川啄 木という 二人の
〝 巨匠〟の お話です。 この二人の名を知らない 日本人は先ずいない でしょう。 そし
てこの二人が残した作品を口 ずさまなかった 日本人 はいなかったと言っ ていほ どで
した。
例えば雨情でいうと「黄金虫」です。
黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
飴屋で水飴
買つて来た
黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
子供に 水飴
なめさせた。
この歌 は今な お歌い継がれ ていま すが実は 野口雨情の作詞ということ はあ まり知
られていません。 雨情は数多くの童謡(「雨降 り お 月さ ん 」 「しゃ ぼん 玉」 「 十 五
夜 お 月さ ん 」 「 七 つの 子 」 な ど ) や 民 謡 ( 「 波 浮 の 港」 「 千代の 松 原」 「 よい と ま
け の 唄」 「 山ほ と と ぎ す」 な ど ) を 残 し て い ま すが 、 大 事 な こ と は 作 詞 者や 作 曲 家
で は な い 、 ど れ だ け 多 くの 人 々 に歌 い継 が れ て い く と いう こと だ 、 すぐ れた 童 謡 や
うことは逆に言えば雨情の望むところだったかも知れません。
れ て い るか ら だ 、 と 言 っ て い ま す 。 で すか ら 雨 情 の 名 が あ まり 知 ら れ て い な い と い
民 謡 ほ ど 作 詞 者 や 作曲 家の 名 前は 残 っ て い な い 、 そ れ は無 名の 民 衆 の な か か ら う ま
2 啄木の雨情観
こひ
一 方 、啄 木 と い え ば いう ま で も な く こ れ ま た こ ど も か ら 大人 ま で 広 く 親 し ま れ た
歌人です。
しぶたみむら
やま
かにかくに渋民村は恋しかり
かは
おもひでの山
おもひでの川
む つ か し い 解 釈 や 理 屈 は 必 要 あ り ま せ ん 。 読 ん だ と お り の 世 界 そ の も の が啄 木 の
歌 の 世 界 で す 。 尤 も 多 く の啄 木 の 研 究 家 た ち は 素 人 に は 全 く 理 解 で き な い 〝 高 度 〟
な 理論 や 〝精 緻〟 な 理 屈を 振 り 回し てい ま す が、そ れはこ の 際、 相手に しない こと
にしましょう。
この 二人 は 四 歳違い で すがほぼ 同世 代と いっていいでしょう。 その人生は雨情六
十四年、啄木二十六年とかなり違いましたが、二人は明治という時代に足許を固め、
あ る時には職場をおなじくして机 を並べて仕事をした こともあり ま す。 二人は 離 れ
ば な れ に な っ て も 文 通 を 交 わ し 、 ま た啄 木 が 流 浪 の 旅 に 区 切 り を つ け て 北 海 道 か ら
立ち去る時には小樽で浪人生活をしている雨情に別れを告げて東京での 飛躍を共に
約束したほどでした。
あ る 時 、啄 木 は 新 聞 紙 上 で 「 野 口 氏 死 す 」 と い う 記 事 を 読 ん で 驚 く と 共 に 早 速 筆
ママ
<
>
を執って「野口君の思出」という長い心のこもった追悼文を書きました。 ただ、数
日 後 こ の 記 事 は 誤 報 と 分 か る の で す が 、 そ れ ほ ど啄 木 は 雨 情 に 対 し て そ の 才 能 と 友
情を高くかっていたのです。
そして、やがて雨情 は郷里に戻り 作詞の道 を模索 し、啄 木は東 京に出 て小説 を書
き だします。 この間は二人の つき合いは見られ なくなり、疎遠になります。 やがて
啄 木 は 二 十 六 歳 と い う 短 い 生 涯 を 終 え て し ま い ま す。 啄 木 は 生 前 、 ご く 一 部 の 文 芸
仲 間か ら は 高く 評価さ れ ては いた も の の 、 そ れは 極 く僅 か な 身内 の 友人 た ち で 、 ほ
と ん ど知 ら れず に ひっ そり と その 人 生を終 え ま した 。 啄 木 が次 第 に 有 名 に な っ て い
く の は 死 後 お よ そ 十 年 後 の こ と で す 。 啄 木 晩 年 の 親 友 土 岐 哀 果 の 奔 走 で啄 木 の 原 稿
を相次いで出版、少しずつ啄木の名前が知られ出します。
ちょうどその頃、雨情の書いた作品「船頭小唄」(原題「枯れすすき」)が大
ヒ ッ ト し ま す。 この 作 品 は 雨 情 の 活 躍 の 場 を 推 進 す る 大 き な 契 機 に な り ま し た 。 そ
れ は 蓄音機の普及で す。 雨情 は 作曲 家中 山晋平 を 訪ね て作曲を依頼 しました。 作詞
と 作 曲 が 結 び つ い て こ の 作 品 を 世 に 広 め た の で し た 。 こ の よ う に啄 木 と 雨 情 は ほ ぼ
わけ
同時期にその名が知られるようになったのです。
い て啄 木 の 凄 惨 な 生 活 を 語 り 出 し た の で す 。 金 田 一 の 誠 実 で 真 摯 な 姿 勢 は 啄 木 へ の
啄 木に「歴 史的 友情」 と称さ れるほ どの 救いの手を差 し伸 べた金 田一が重い口 を開
啄 木 が 一 躍 有 名 に な っ た も う 一 つ の 理由 は 金 田 一 京 助 と い う 人 物 で す 。 窮 迫 し た
2 啄木の雨情観
同 情 と 結 び つ い て 〝啄 木 ブ ー ム 〟 と な り 、 ま た た く 間 に 国 民 的 歌 人 と な っ た の で し
た。
二 雨情の啄木評価
こ う し て 奇 し く も 雨 情 と啄 木 は ほ ぼ 時 期 を 同 じ く し て 世 間 に そ の 名 と 作 品 を 知 ら
れ るように なり ました 。 そしてこの 二人には共 通 するあ る接点のあ ることも分かっ
てきました。 二人が北海道各地を転々と漂流しながら新 聞記者をし、ある時には同
じ新聞社 で机を並べた という 小説 を 地で行く ような 奇縁に人々は 好奇心 をそそ られ
るのでした。
以 来 、啄 木 に つ い て 雨 情 は し ば し ば 取 材 を 受 け 、啄 木 に つ い て 語 る よ う に な り ま
す。そして実際次の様な問題点を指摘しています。
なくな
いは
石川啄木が 歿 つてからいまだ二十年かそこらにしかならないのに、石川の伝記
が往々誤り伝へられてゐるのは石川のためにも喜ばしいことではない。況んや石
川 が存 生 中 の知 人 は今 な ほ 沢 山あ るに も拘 は ら ず 、 そ の 伝 記 が た また ま 誤 り 伝 へ
ら れて ゐ る の を 考 へ る と 、 百年 と か 二 百 年 とか さ きの 人 々の 伝 記 なぞ は 随 分 信 を
お け な い 杜撰 な も の であ ると も 思 へ ば 思 は れ ま す 。 で すか ら 一 片の 記録 に よ つ て
そ の人 の 一 生を速 断 す る と いふ こ とは 、 考 へ て み れば 早 計な こ と では な いで し ょ
うか。(「石川啄木と小奴」『週刊朝日』一九二九・昭和四年十二月八日号)
この 指 摘 は 正論 であ り 、 意義 や 疑 問の 差 し挟 む余 地 はあ り ま せ ん 。 た だ 、 一 点 だ
おそ
け 問題があ ると すれば 、こう した表現 はこれ を読む人々に 雨情自 身が伝 記とい う も
のに対する客観的表現の遵法者だという誤った考えを読者に与えてしまう懼れがあ
る と い う こ と で す 。 つ ま り 、 雨 情 が啄 木 を 語 る 際 に は 〝 真 実 〟 や 〝 正 確 〟 さ を 伝 え
て く れ る 筈 だ と い う 先 入 観 を 与 え る 可 能 性 が強 い と い う こ と で す 。 しか も 、 雨 情 と
い う 人 物 は 腰の 低い 穏 やか な 性 格 で 、 人 の 悪 口 な ど ほ と ん ど口 に した こ と が な いと
い わ れ て い ま す。 そ の こ と を 何 より啄 木 自 身 が 初 め て 雨 情 に 会 っ た 時 の 印 象 に は っ
き り 書 い て い ま す。 「温 厚 に し て 丁 寧 、 色 青 く して 髯黒 く、 見 る か ら に 内 気 な る 人
なり。」(「九月二十三日」『明治四十丁末日誌』)
ま た 雨 情 はあ る知 人 に よ る と 「小 さ い 恩 を 大 き く 感じ る 人 」 で 、 こ れ は 品 位 の 高
することは無かったと口を揃えて述べています。 欠点と いえば人目 を憚らずど こで
の 証言 や 資 料 を 見て も 確 か に 雨情 は 好 人 物 で 人 に 功 を 譲 っ て も こ れ を 自 分の も の に
い 人 物 の み が 持 つ 徳 なの だ と 言 っ て い ま す。 実 に 正 鵠 を 射 た 言 葉 だ と 思 い ま す。 ど
2 啄木の雨情観
も 立ち小便 を すること ぐらいだっ たかも知 れ ません。 尤 もこれには 雨情独特の 理 由
がありまして小便は土に戻ることが自然の理だというのです。
ま た 、 前 に も 述 べ ま し た が 、 雨 情 の 苦 心 し て 完成 さ せ た 作 詞 を 作 曲 の 都 合 で 中 山
晋 平 が 勝手 に変 え て し まっ た こと があ るの で す。 「證 城 寺の 狸 囃」 は 雨情 が 「 證 城
寺 證城寺の庭 は」で始まっ ているのですが、これでは弾 みがつかないというので
晋 平 が 勝 手 に 「 證 證 證 城 寺 」 と 「 證」 の 二 文 字 の 相の 手 を 出 だ し に 挿 入 し て し
ま っ た の で す。 普 段 は 相 手 が誰 であ ろ う と 例 え 一 文 字 た ろ う と も 作 詞 の 修 正 や 変 更
を 認めな い雨情 でした が、や がて少 し考えて 「それ でよご ざん す、その ほうが いい
で や ん す」 と あ っ さ り 認 め て し ま っ た の で す。 以来 、 味 を 占 め た 晋 平 は 時 折 作 詞 家
に 〝 転進〟 しま した 。 兎 に 角、相手 を困ら せな い、 怒ら せな いと い う こと が 信 条で
あるかのような性格が雨情の骨頂でありました。
で すか ら 、 雨 情 と い う 人 は 誠 実 ・ 温 和 と い う 人 間 で 悪 意 を もっ た 虚 偽 や 捏 造 な ど
す る 筈 が な い と い う 印 象 を 与 え る の で す。 そ し て 、 殆 ど の 場 合 、 こ の 評判 は 正 当 な
ものでした。 多 くの証言 が雨情の天衣無縫とも言える実直で真摯な人柄を示してい
ます。
し か し 、 そ の 雨 情 が啄 木 に 対 し て だ け は な ぜ か 異 な る 反 応 を 示 すの で す 。 雨 情 に
は 人 に 対 し て 反 発 する と き に は決 ま っ て 相 手 の 顔 色 を覗 う よう に 遠慮 が ち に 話 すの
が 常 で し た 。 「 そ う で や ん す が 、 必 ず し も そう で な い場 合 があ ると お もうの で やん
ひろ
す」と、間合いを取り、相手に一呼吸つかせてから自分の意見を穏やかに展開げて
いく、それが雨情のやり方なのです。
まだ 名 の 知 ら れて い な い 時 期で す か ら 北 海 道 か ら 戻っ て 水 戸 あ たり で 生 活 し て い
た 頃のこ とかと 思 いま すが詩 では食 べていけ ないの で 将棋で食い つない でいた こと
もありました。 各地で祭りがあると周囲に様々 な出店ができます。 駄菓子 は勿論、
風変 わりな ゲーム、飲 み物など大 人 も子 供 もこの 出店 を楽しみに したもの で す。 ま
た 、大道芸人が出て器 用に道具を扱い、可 愛い娘たち が獅子舞を 披露します。 観客
達 は 前に置 か れたザル (籠)に思 い思いの 見物代の小 銭やお札を 投げ 入れま す。 雨
情 は こ の 出 店 の 一 隅 に 将 棋盤 を並 べ て マ チ 将 棋 と い う 商 売 を し て 食 い つ な い で い た
の で す。 「お兄 さん、ス ジがいい で すなあ 。 こ れではワ シは形無 しでやん す」 と
言 っ て 相 手 の 肩 を 持 ち な が ら 「あ 、 お 兄 さ ん ち ょ っ と 手 を 間 違 え て し ま い ま し た な
あ 」 と か 「こん な強 い 人 と 相 手 さ せ て も らっ たの は 初 め て で やん す」 と 相手 を 持 ち
上 げ て土 壇 場 で 勝ち 「 え ろう すん ま せん な あ。 まぐ れ で 勝た せ て も ら い ま し た 」 と
いいながら小銭を貰う日々が続いたのです。
ついでにもう 一つ脱 線しま すが、東京に出てきた 雨情が文壇では将棋の〝名人〟
そ ういう手もありま したか。 参ったな」とか 「もう少し加減してく ださいよ。 先生
なると相手してもらえるだけで勝負はどうでもいいでやんす」といいながら「あれ、
と 言 わ れ て いた菊 池寛 と 対決 した こ と があ り ま す。 その 時 も 「やあ 、 先 生く ら い に
2 啄木の雨情観
の 高 飛 車 は ほ ん も の で あ ん す な 。 こ れ で は 降 参 する し か な い で や ん す」 と い い な が
ら、とうと う一本を取ってしまい ました。 「本当は先生が譲ってく れただけでやん
す」深々と頭を下げて菊池寛の面目を立てたというエピソードが残っています。
そ う い う 雨 情 で し た が啄 木 に 対 し て 次 の 様 な 言 葉 を 述 べ て い る 事 は あ ま り 知 ら れ
て い ま せ ん 。 そ れ も啄 木 が 亡 く な っ て お よ そ 三 十 年 、 世 情 で は 啄 木 は 既 に 天 才 歌 人
と し て の 評 価 が 定 ま り 、 国 民 的 人 気 を 勝 ち 得 て い た 昭 和 の 前 半 で の 雨 情 の啄 木 に 対
する評価です。雨情は先ず啄木の歌に対して次の様な厳しい評価を下したのです。
いけない
石 川啄 木 の 代 表 作 は 和 歌 に あ る 。 或 る 人 の 言 は る ゝ に は 、 啄 木 の 作 品 の ど れ を
見 て も 深 み が 乏 し い 、 も つ と も つ と 深 み が な く て は 不可 、 要 す る に 歳 が 若 か つ た
為 め だ ら う 、 今 二 三 十 年 も 生存 し てゐ た ら 、 良 い 作品 も 沢 山 残 し た だ ら う と 、 斯
ふ した 見 方 も 一 つ の 見方 か も し れな い が、 私は さ うと は 考へ てゐ な い。 ( 「札 幌
時代の石川啄木」『現代』一九三八・昭和十三年十月号)
確 か に啄 木 の 歌 に 関 し て は 感傷 に 溺 れ すぎ る と か 安 易 に 涙 を 流 し すぎ る と い う 批
判 が あ る こ と は 周 知 の 事 実 で す 。 に も か か わ ら ず そ の 歌 風 に よ っ て啄 木 は 国 民 的 評
価 を 勝ち 得 た の で すか ら 雨情 の こ う した 評 価 は 個人 的次 元 の もの と受 け 止 め る こ と
が で き る で し ょう 。 雨情 は この 後 で も専 門 的 な 立場 か ら さ ら に 手 厳 し い 批 判 を 行 っ
ています。雨情はさらに踏み込んだ厳しい一言をあびせるのです。
啄 木 も 生 存 中 は 、 今 日 世 人 の 考 へ る や う な 優 れ た 歌 人 で も 詩 人 で も な か つ た 、
普 通一般の文学青年に過ぎなか つた。 死 後に名声 が出てその 作 品も持て囃さるる
や う に な つ たの だ が、 そ れ も同 郷 の 先 輩 金 田 一 京 助氏 と 土 岐 善 麿 氏の 力 と言 つ て
も い い と 私 は 思 ふ 。 こ の 両 氏 は 函 館 の 岩 崎 郁 雨 氏 と と も に啄 木 の 伝 記 中 に 逸 す る
ことの出来ない大恩人である。(同)
あ の 温 厚 な 雨 情 が 名 声 固 ま っ て い る啄 木 を 「 普 通 一 般 の 文 学 青 年 」 と 断 じ て い る
の で すか ら 驚 き で す。 雨 情 と い う 人 は 別の 言 葉 で 表現 す る な ら ば 〝 抵 抗〟 し な い 人
だ と 言 え る と 思 う の で す。 そ の 具 体 的 な 生 き 様 に つ い て は 後 に 述 べ ま す が 、 北 海 道
の 流浪 時 代 に 受 け た い く つ か の 事 件か ら 特 に そ の 傾 向 が 生 ず る よ う に な り ま す。 そ
してその 後、いくつもの大ヒット曲 を出して童謡と民謡の 世界で不動の 地位を占め
てからはいっそうその 傾向は強 まりました 。 世 間を荒波 どころかさ ざ波 すら立てな
い ようにおとなしく静かに生きる ことが雨情の 信条だ ったの で す。 しか し、その 雨
した態度を啄木にだけ示したのでしょうか。
に言えば どうして他人 には一 度も見せなかっ たいわば闘志 むき出しのごとき毅然と
情 が何 で ま た 、 ど う し て こ の よう な 態 度 を 示 したの で し ょう か 。 い や 、 もっと 正確
2 啄木の雨情観
三 節子の信頼
さ ら に も う 一 つ 、気 がか り な 言 葉 を 雨情 は 残 し て い ま す。 そ れ は あ るア ン ケ ー ト
へ の 回 答 で す 。 そ れ は 大 阪啄 木 会 が 一 九 二 九 ( 昭 和 四 ) 年 に 各 界 著 名 人 に 出 し た ア
ン ケ ー ト 「 石 川啄 木 の 歌 の 中 で 御 記 憶 の 歌 、 又 は 最 も 感 銘 深 い 歌 」 に 対 す る 雨 情 の
回答です。(『大阪啄木』第2号)
啄 木 が 歌 を 作 れ ば 誰 よ り も さ き に 細 君 の 節 子 さ ん に 見 せ て 、 よ しあ し の 意 見 を
聞 い て か ら で な け れ ば 発 表 し ま せ ん で し た 。 そ れ ほ ど啄 木 は 節 子 さ ん を 信 頼 し て
ゐました。
と い う 短 い も の な の で す が 、 い く ら啄 木 が 妻 の 節 子 と 相 思 相 愛 で あ っ て も 自 分 の
作 品の 発 表 ま で 任 せ て い た と い う の は 〝 暴走 〟 に 近 い 発言 と しか 言 い よ う があ り ま
せん。 雨情が節子と会ったとすれば小樽時代で すが、そのときに雨情にそう言った
可 能性 は無 くはあり ま せん。 余計 な 事 を口 に し なか っ た 聡明 な節子 が 雨情 にこ の よ
う な僭越な事を言うはずはないと思います。 あ るとすれば雨情が「きみたちは 仲が
い い ね え 」 と啄 木 を 冷 や か し た 際 に 「 な に し ろ 僕 は 作 っ た 歌 は 節 子 に 決 ま っ て み せ
る か ら ね え 」 と い う 程 度 の 会 話 で し ょ う 。 い く ら啄 木 が 節 子 に ぞ っ こ ん で あ っ た と
し て も 作 品の 「 よ しあ し」 や 「発 表 」 ま で 彼 女 に 委 ね た と いうの は 百 パ ー セ ン トあ
り 得 な い 話 で す 。 こ の 発 言 は 雨 情 の 善 意 か ら 発 せ ら れ た と し て も 結 果 的 に は啄 木の
歌 人としての 立場を否 定するもの といわなければなり ません。 ここ にも雨情の 〝異
かわら
常〟な攻撃的姿勢が匂うのです。
た だ 、 結 婚 ま も な く 盛 岡 の 磧 町 の 新 居 で 文 芸 仲 間 と啄 木 が 編 集 長 と な っ て 『 小 天
地 』 を 発 行 した こ と が あ り ま す。 こ の 時 は 節 子 は編 集 に 積 極 的 に 参 加 し 、 ま た 節 子
自 身 も 自 分 の 作 品 を啄 木 と 肩 を 並 べ て 発 表 し て い ま す か ら 、 こ の 時 な ら 和 気 藹 々 と
した雰囲気から節子が啄木の作品を評したことぐらいはあったことでしょう。
節子と いう女性は歌のセンスもか なりあっ たよう で、もし詩作に時間 が取れたな
ら 与 謝 野 晶 子 と 肩 を並 べ るこ と がで きたか も 知 れ な いと い う 文 芸 評論 家 もい る ほ ど
で す。 ち な み に 『 小 天 地 』 に掲 載さ れた 「こ ほ ろ ぎ」 と 題さ れた 節 子 の 作品の 一部
を紹介しておきましょう。
こがねばな
初秋やまさぬ一夜を髪を梳きかなしきとききぬ歌やこほろぎ
ひぐるまは 焔 吐くなる我がうたにふと咲き出でし黄金花かな
ほの お は
よき衣を草にまろねのあかつきやこほろぎなきぬ人は夢みぬ
2 啄木の雨情観
くりや
今日も又夢は追ひつと人に云ひかくれてききぬ 厨 こほろぎ
光り淡くこほろぎ啼きし夕べより秋の入り来とこの胸抱きぬ
後 に 節 子 は啄 木 の あ ま り の 暴 君 ぶ り に 無 断 で 実 家 に 帰 り ま す が 、 そ の と き啄 木 は
恥 も 外 聞 も か な ぐ り 捨 て て 親 友 の 金 田 一 京 助 の も と に 駆 け 込 ん で 「か か ぁ に 逃 げ ら
れあんした。 あれがいないと 僕は生きて行けな い。 助け てく れ」 と泣 き つ い ていま
す 。 ま さ し く 節 子 は 「あ れ が い な い と 生 き て ゆ け な い 」 存 在 で し た 。 啄 木 が病 魔 に
ぜひ
だ
おも
ほん
襲われ再起が危うくなったときに作った歌にもその心情の一端が現れています。
へうし
いつか、是非、出さんと思ふ本のこと、
つま
表紙のことなど
妻に語れる
もう経 済的に も体力 的にも新 しい 本の 出版は無 理か も知 れない 、と 感じつつ もそ
の 夢 を 傍 ら に い る妻 節 子 に 語 らず に は 居 ら れ な い 、 そ う い う せ つ な い 思 いの 伝 わ る
歌です。節子という女性の存在をこれほど力強く表現した歌を他に知りません。
その よ う な 節 子 を 夫 の 文 筆 表 現 を 〝 支 配 〟 し 〝 統 制〟 し て い た か の 如 き 印 象 を 与
え か ね な い 雨 情 の コ メ ン ト は ど う 考 え て も啄 木 を 斜 に 構 え て 見 て い た と し か 思 え な
いのです。
四 雨情の記憶
と こ ろ で 前 節 で 引 用 し た 雨 情 の 「 札 幌 時 代 の 石 川啄 木 」 と い う 僅 か 数 行 で す が 、
こ の なか に あ る 「岩 崎 郁 雨」 は 間 違 い で 正 し く は 「 宮 崎 郁 雨」 で す。 と は 言 っ て も
揚げ 足をと る積りは全 くありません。 それに雨情はメモ とか記録と 言うものに ほと
ん ど無 関心 で した。 啄 木 は こ まめ に 日記や 手 紙 をか いた の で資 料の 記録 性ナ ン バ ー
ワ ン の 資 格 を も っ て い ま す。 しか し 、 雨 情 は 自 分の 作 品 の 完成 日 時 も 記録 せ ず 、 い
わんや日々の行動は一切残してい ません。 日常的なこと には無頓着で例えば着 るも
の もほ と ん ど変 ら ず 旅 行 で も 講 演 で も 褪 せた 和服 か 、 昭 和 期に 入 ると 学 生服 の よう
な いわゆ る国民服 でした。 アルバム には三つ揃 いを決 めた背広姿がありますがこれ
は例外で二番目の奥さんから「今日はカメラマンが来るそうですからこれを着て
で すか ら 雨 情 は 何 か を 思 い 出 す場 合 、 記 憶 に の み 頼 っ て し ま い ま すの で 、 ど う し
が総てであってその時日や服装は論外なのです。
い っ て く だ さ い 」 と 〝 命 じ 〟 ら れ た 時 の も の な の で す 。 雨 情 に と っ て は 作 品 の 完成
2 啄木の雨情観
て もミ ス は 避 け ら れ ま せ ん 。 で すか ら 、 さ き の 記 憶 違 い は 雨 情 に と っ て は 当 た り 前
の 事 象 な の で す、言 い 換 え れ ば 許 容範 囲 と いう こ と に な る の で す 。 そ れゆ え 雨 情 に
関 しては 記憶違いは〝 正常〟 であっ て、いち いちこのミス に目くじら立てたなら雨
情を正しく理解出来ないということになってしまいます。
しか し 、 そ の よう な こ と を 前 提 と し た う え で も や は り 首 をか し げ た く な る よ う な
こ と が起 こ り ま す。 例 え ば 一 九 二 五 ・大 正十 四 年 一 月 十 五 日 付 『 夕 刊 岩 手 日 報 』
に 載 っ た イ ン タ ビ ュ ー 記 事 「 石 川啄 木 の こ と / け さ 来 盛 し た / 野 口 雨 情 氏 談 」 を 取
り 上 げ て み ま し ょ う 。 数 多 い啄 木 研 究 の な か で も こ の 記 事 に 直 接 触 れ た も の を ま だ
見ておりま せんので、敢えてここ で紹介し ておきたいと思います。 お断りして おき
ま す が 内 容 は 雨 情 自 身 が 書 い た 「 札 幌 時 代 の 石 川啄 木 」 と 似 通 っ て い ま す が 肝 心 な
点がいくつか微妙に異なっているのでまた改めて検討することにしたいと思います。
雨 情 が 記 者 に 話 し た 内 容 は 大 体 三 部 に 分か れ て い ま す 。 その 冒 頭 は 次 の 通 り で す。
( な お、 漢 字 全 文 にル ビ が つ い てい ま すが一 部 を除 い て割 愛 し、 句 読点 は 筆 者 が つ
け まし た。 )
茲 ま で や つ て来 た つい でに 郷 里 渋 民 の 碑 を 訪 ね て 見 た いと 思 つ て ゐ る 。 わた し
が啄 木 を 知 つ た の は 私 が 郷 里 を と び 出 し て 北 海 道 に 来 た 年 の 秋 で あ る 。 そ れ は も
う 十一 月 の 寒 い 頃 で あ つ た 。 当 時 わ た し が 札 幌 の 北 海 新 聞に 務 め て ゐ た 或 日下 宿
屋に小さい紙片に石川啄 木と書いた名刺をもつてたづねて来た男があつた。 宿の
主 婦さ ん に 案内 さ れる 儘 に した に 降り て 見 ると あ た ま を 短 か く 刈 り 込 ん で 絹 の 薄
つ ぺ ら な 夏の 紋 付 羽 織 に 、 夏 帽 子 と い ふ 実 に み す ぼ ら し い 男 がた つ て ゐ た 。 初 め
は ど つ か の 和 尚さ ん か と 思 つ た が私 の 顔を み る な り『 私 は 石 川で す』 と いふ 。 そ
れ か ら 二 か いに あ が つ て 貰 ひ、 い ろ い ろ 話 した 末 、新 聞 社 で 使 つ てく れ との こ と
で あ る 。 社 長に 聞 い て み ると 欠 員 が な い か ら 駄 目 だ つ た 。 そ こ で 同 県 宮 古 出 身 の
小 国 露 堂 と い ふ 人 が北 門 新 聞に 務 め て ゐ る の で そ こ に 推 薦 し て 校 正係 に 八 円 で 使
つ て 貰 ふ こ と に し た 。 そ れ か ら 間 も な く 私 の ゐる 北海 が つぶ れ たの で私 は 小樽 日
報に移つた。
こ れ は 取 材 記 事 で 記 者 が 書 い た も の で すか ら 雨情 自 身 が 書 い た もの と 比 べ る と 正
確 さ の 点 で 劣 る の は 当 然 で す。 新 聞 社 の 名 が 「 北 海 新 聞 」 で は な く 「 北 鳴 新 聞 」 で
あ り、露堂は「北門新 聞」ではなく 「北門新 報」だったことは取材記者のメモ 違い
という可能性もありますか ら目くじら立てる必要はありません。 しかし、雨情が
「 北 門 新 聞 」 に 校 正 係 と し て啄 木 を 推 薦 し て 月 給 八 円 に し て 貰 っ た と い う の は ど う
取 っ て お り 、 又 九 月 十 二 日付 宮 崎 郁 雨宛の 手 紙 で は 月給 十 五 円 に 決 ま っ た こ と を知
し ていた 苜蓿社 仲間の 向井栄 太郎か ら北門新 報校正係に内 定した という 連絡を受け
も 眉 唾 な の で す 。 と い う の は こ の 年 九 月 八 日 ま だ 函 館 に い た啄 木 は 札 幌 道 庁 に 勤 務
2 啄木の雨情観
ら せ てい る の で す。 月 給 八 円は 渋民 での 代 用教 員の 給料 で、 こ れ で 貧 した 一 家 が離
散 し 単 身啄 木 が 函 館 に 渡 る こ と に な る の で す か ら 、 い か な啄 木 で も こ の 金 額 で 札 幌
に 行 く は ず が な い の で す 。 ま た 雨 情 は 十 一 月 に啄 木 に 会 っ た と し て い ま す が 、 こ れ
は啄 木 の 日 記 で は 九 月 二 十 三 日 に 露 堂 の 下 宿 で 「鮪 の サ シ ミ を つ つ い て 飲 む 」 と あ
り ま すか ら 雨 情 の 記 憶 違 い は 間 違 いあ り ま せ ん 。 た だ 、啄 木 は こ の 時 は ま だ 酒 を 知
ら ず下 戸 で 一 種の 〝 見 栄 〟 で こ う 書 いた こ と を知 っ て お く 必 要 が あ り ま す。 大 胆 に
言 え ば啄 木 の 日 記 は 事 実 の 記 録 で は な く啄 木 の 〝 作 品 〟 で あ る こ と に 留 意 し て く だ
さ い 。 た だ し、 雨情 は 酒 に強 く 、 こ の と き は ご 機 嫌 で 「 う ま い すな あ 、 こ う し て気
の合う同志で飲む酒は格別でやんす」と本音で啄木と愉しんだことでしょう。
で すか ら 、 この 程 度 の 間 違 い は そ れ ほ ど 問題 で はあ り ま せん 。 む しろ 問題 な の は
雨 情 が啄 木 に 如 何 に も 「 恩 着 せ が ま し い 」 態 度 を 取 っ て い る と い う こ と で す 。 啄 木
を北門新報に斡旋したのは雨情ではなく、露堂であることははっきりしていますし、
「校正係に八円で使つて貰うことにした」 というのも正しくあり ません。 雨情とい
う人は自分の功績や手柄は人に譲るという美徳の持ち主で、そのことを示 すエピ
ソードは枚挙に暇がないほどです。しかし、どういうわけか啄木に対してはなぜか、
その面影はすっかり消え失せてしまうのです。
さ て次 に 進 み ま し ょ う 。 今 度は 小 樽 時 代 に は い り ま す 。 小 樽 で は 小 国 露 堂 の 推 薦
で小樽日報に移りますが、この時、雨情も小樽日報で机を並べることになります。
石 川 君 を 二 十 五 円 で 推 薦 し 、 三面 の 主任 と し て 働 い て 貰 つ てゐ た 。 主 筆 の 岩 泉
浩 東 と い ふ 人 は 警 部 上 が り で 頭 の バ カ に 固 い 人 であ つ た 。 あ る と き 石 川 君 がそ の
主 筆の 文 章 に 手 を 入 れ た の が 問 題 と な り 編 集 長 の 私 が 責 任上 そ こ の 社 を ひ か な く
てはならなかつた。私が退社してから石川君が社のものに撲られて釧路に逃げた。
詩集の中にある『激しい議論の後』にといふのはそれを唄つたものである。
先 ず 、 最 初 の 記 憶 違 い は 「 三 十 五 円 で 推 薦 し」 た と あ り ま す が 、 既 に 記 し た よう
に 月 給は 十 五円 であ り 、 雨情 が推 薦 したと い うの は 事 実で は なく 小国 露 堂の 誘 いに
よ るものであ ることが いくつかの 資料から明らかになっています。 また二十五円と
い う 金 額 は 小 学 校 や 巡 査の 初 任 給 が 十 三円 ほ ど 、 東 京 での 山の 手 の 長 屋 一 軒 が 四 円
ほ どでしたから二十五円というのは〝超高給〟に近 く、この頃島崎藤村は十円の収
入 し か 無 く や り く り に 苦 し ん で い ま し た 。 ま だ 二 十 歳 過 ぎ た ば か り の啄 木 が 貰 え る
は ず が あ り ま せ ん 。 雨 情 が こ の 時 、 い く ら 貰 っ た の か は っ き り し ま せ ん が 多 分 、啄
木と同額の十五円ではなかったでしょうか。
ま た 小 樽 日 報 で啄 木 に 三 面 の 主 任 を し て 貰 っ た 、 と 自 分 が 編 集 長 だ っ た か ら 如 何
啄 木は 三面 主任 に なり ま すが 雨情 は 「クビ 」 に な るの で す。 また 主 筆の 岩 泉江 東 を
法 で す 。 実 際 は 雨 情 と啄 木 は ふ た り と も 「 ヒ ラ 」 で 机 を 並 べ た に 過 ぎ ま せ ん 。 後 に
に も人 事 権 を持 っ てい たか の よう な 言 い方 を してい ま すが 、 こ れ も〝 恩 貸 し〟 の 筆
2 啄木の雨情観
「警部上がりで頭が固い」と言っていますが、これは正確な消息ではないようです。
と いうの は小樽 日報の 話を持 っ てき たのは北 門新報の小国 露堂で 、この 人物は啄 木
に 社 会 主 義 思 想 を 伝 え た 人 物 で す 。 当 時 は 文 芸 界 や 新 聞 界 に も 言 論 統 制の 手 が 延 び
つ つあ り 、 実 際 に は 社 会 主義 者で は あ り ま せ ん が、 小 国 に は 当 局 の 監 視 が及ん で い
た 可 能 性 が あ り ま す。 岩 泉 が 本 当 に 警 官 あ が り な ら 露 堂 の 息 の か か っ た 雨 情 や啄 木
を警戒するに違いありません。しかしその気配はほとんどありません。
と こ ろ が 、 こ の 記 事 で は啄 木 が 主 筆 で あ る 岩 泉 の 文 章 に 勝 手 に 手 を 加 え た 、 と い
う こと に し てい ま す。 そ して編 集 長 と しての責 任 を取ら さ れ て自 分 は小 樽 日報 を退
社 さ せ ら れ た と 言 っ て い ま す 。 こ の 間 の 詳 し い 顛 末 は 雨 情 の啄 木 観 を 一 変 さ せ る ほ
ど の 転 機 に な り ま すの で 後 ほ ど 取 り 上 げ る こ と に し ま す が 、 こ と ほ ど 左 様 に 雨 情 は
記憶違いを連発します。
つ い で に 言 え ば啄 木 が 釧 路 に 「 逃 げ た 」 と い う 表 現 も 少 し 気 に な り ま す 。 小 樽 日
報 は啄 木 自 身 が 事 務 長 に 暴 力 を 振 る わ れ て 自 分 で 退 社 を 決 め た の で あ っ て 社 か ら 追
わ れた わけ ではあり ま せんか ら 「逃げ た」 と いうの は 雨情の 主観 的 判 断 で す 。 もう
一つ、その時に『激しい議論の後』 という作品を残したと言っていますが、これは
記 憶違いと いうより勘 違いだと思 います。 啄 木 に は『 は て しなき 議 論 の 後』と いう
作 品 があ り ま す が、 こ れ は 一 九 一 一 (明 治 四 十四 ) 年の 作 品 で 釧 路 と は 関 係あ り ま
せん。
たまたま、野口雨情の研究誌『枯れすすき』(第二号 一九七七・昭和五十二
年)にこの時の 新聞記事の取材に立ち会った 池野藤兵衛が当時の 印象を 「一枚の写
真」として寄せているのを発見しました。 雨情 は講演に 出掛けると きは今と違って
列 車 や バ ス が 定 刻 通 り 運行 さ れ る こ と は なか っ た の で 遅刻 し な い よう に い つ も 早 め
に 現 地 に 入 る よう に 心 掛 け て い た の で す。 この 時 も 雨情 は 約 束 より 数 時 間 早 く 盛 岡
に 着 き ま し た 。 幸 い 案 内 係の 池 野 藤 兵 衛 が気 を 利 か し て 駅に 早 く 待 ち 構 え て い ま し
た の で 落 ち 合 っ た 二人 は 盛 岡 に 二 軒 しか な い 西 洋 料 理の 日 盛 軒 に 入り 昼 食 を 取 るこ
と に しまし た。 と ころ が この 日、 ど う いう わけ か 店の 調 理 が手 間 取 り なか なか 出て
き ま せん 。 あ せ る 池 野 に 雨情 は 「 ま だ 時 間 は沢 山あ り や ん すか ら」 と 言 っ て 煙 草 と
日 本 酒 を ゆ っ く り 楽 し み 「 暇 で や ん すか ら 一 筆 書 き や し ょ う 」 と 色 紙 に 「 岩 手 片 富
士 」 と 銘 し 即興 で 「岩 手 片 富 士 /あ の 山 陰 で / な じ ょな 心 で /あ ね こ た ち /暮 すや
ら」と揮毫し池野に渡したのだそうです。食事が終って三嶋屋旅館に案内しますが、
が 折 目 正 し い 方 だ っ た の で し ょ う 。 旅 館 で は つ い ぞ 丹 前 を 召 さ れ た の を お 見受 け
十 本 入 り 缶 を 持 ち 、 い つ も口 に 煙 草 を く わ え て お ら れ ま した 。 失 礼 な い い 分で す
そ して 色あ せた 小 さ な 手 提 カバ ン を右 手 に 、左 手 には エ ヤー シ ッ プ(* 煙草 ) 五
先 生 は 五 ツ ボ タ ン 栗 の 詰 襟 洋 服 、胸 ポ ケ ッ ト に 無 雑 作 に差 さ れ た 鉛 筆 、無 帽 、
その出で立ちといえば
2 啄木の雨情観
せず、洋服のままコタツの前にチョコンと座っておられたのが印象的です。
雨情と いう人 柄はここに示されている通り 、どこへ出掛 けても誰と会っても初対
面であろうとなかろうと腰が低くて穏やかで、サービス精神を欠かしませんでした。
酒 もほどほ どでこれで 迷惑をかけ たことは ほとんどあ りませんで した。 そういう雨
情 の イ メ ー ジ か ら す る と 編 集 長 だ っ た 、 と か 二 十 五 円 で 推 薦 し た 、 あ る い は啄 木 が
勝 手 に 主 筆の 文 章 に 入 れ た 責 任 を と っ て社 を 辞 め た な ど と い う 出 鱈 目 な 言 辞 は ど う
しても違和感が残るのです。
そしてこの記事の談話は釧路時代へと続きますが、それは後ほどまた 述べること
にして、記事の終りの項は釧路を飛出す話から次の様に結ばれています。
材 木 を 積 む 帆 船 で宮 古 に の が れ 、 そ れか ら 盛 岡 に 出 た か ど う か 知 ら な い が 、 東
京にや つ て来たもの だ。 そ れか ら朝日新聞社 にでるやうになつた私はその 後も交
際 を つ づ け てゐ た が、 間 も な く 私 があ つ ち こ つ ち 流浪 生 活 を や つ てゐ た か ら 晩 年
にはつひに逢 ふことができ なか つた 。
こ れを読 むと 実に 奇 妙 な 感覚 に と ら わ れ て しまい ま す。 一 つは 釧 路か ら 材 木 運搬
の 帆 船 で 宮 古 に 出 た と い う 話 で す 。 こ の 当 時 、啄 木 の 日 記 も 書 簡 も 公 開 さ れ て い ま
せ ん か ら 帆 船 で 東 京 に 向 か っ た と い う 話 を知 っ て い るの は ご く 限 ら れ て い て 雨 情 は
こ の ル ー ト すら 知 ら な か っ た は ず で す 。 そ し て 「盛 岡 に 出た か ど う か 知 ら な い 」 と
述べていま すが、なぜ こんな事を 記者に話 したの でし ょうか。 その 後も交 際を つづ
けていたのなら、こん なことはとうに聞いて知っているは ずで話す必要 がないこと
で す。 岩 手 日 報 の 記 者へ の リッ プ サ ー ビ ス と 思 え ばあ る 程 度 納 得 で き ま すが、 ど う
も不可思議な談話です。
そして驚くことに雨情が「朝日新聞に出るやうになつた」と言っていることです。
啄 木 が 朝 日新 聞 の 校 正 係 を や っ た こ と は 事 実 で す が 、 雨 情 は 朝 日 新 聞 と は 全 く 関 係
が あ り ま せ ん で した 。 記 憶 違 い もこ こ ま で く れ ば 雨情の 話の 信憑 性 は もは や 地 に 落
ちたも同然です。
そ れ に啄 木 と の 交 際 が続 い た と い う の も 、 そ の ま ま 鵜 呑 み に す る わ け に は い き ま
せ ん 。 そ れ は こ の 期 間 の啄 木 の 日 記 が 失 わ れ て おり 、 ま た 書 簡 も 見 当 た ら な い か ら
で す。 この 間 、啄 木 が 雨 情 の 名 を 挙 げ るの は 、 雨 情 が亡 く な っ た と い う 新 聞 記 事
( 誤 報 ) を 読 ん だ啄 木 は 「 悲 し き 思 出 」 ( 一 九 〇 八 ・ 明 治 四 十 一 年 九 月 二 十 一 日 )
と い う 原 稿 を 書 き ま す が 、 誤 報 と わか り 行 李の 底 に し ま わ れ ま す 。 こ の こ と は ま た
いずれ詳しく触れることになると思います。
2 啄木の雨情観
五 雨情の作為
1「札幌時代の石川啄木」
記 憶 違 い や 勘 違 い は 誰 に で もあ るこ と で す。 日記 を ま め に つ け た啄 木 で す ら 時 に
そ う した 失 敗 を 起 し て い る く ら い で すか ら 、 自 分の 作 品の 作成 年 時 すら 記録 せ ず 、
お か ま い な し だ っ た 雨 情 が 人 一倍 の 記 憶 違 い や 勘 違 い を 起 すこ と は む し ろ 当 た り 前
で す。 こ の事を以て雨情を非 難 することは酷と いうものです。 温厚で、誰 に でも、
年下の人 間にも 「君」 づけで 呼ばず 「さん」 づけで 呼び、挨 拶 も 相手より先に 頭を
上 げ な い 腰の 低 い人 間 の 出来 た 雨情 をその よ う なこ と で貶 め る よ う なこ と があ っ て
は な ら な い と 思 い ま す 。 こ の 点 、 目 上 で も 上 司 で も 平 気 で 「 君 」 づ け で 呼 ん だ啄 木
と 対照 的 で す。 もち ろ ん 四 歳 年 長 の 雨 情 は た だ の 一 度 も 「さ ん 」 付 け で 呼 ば れ た こ
とはありませんでした。
何より 心温ま るいく つもの 歌を遺 してくれたこと を思う とむしろ雨情 は日本人の
誇 り で す。 「お れ は河 原 の 枯 れ す す き」 を歌 っ て 日 常の 苦 し みか ら 解 か れた 人 々 が
ど れ だ け い た こ と で し ょ う か 。 「 證 城寺の 狸 囃 」 で 憂さ をや 愁 い を 吹 き 飛 ば し て 明
日の活力を貰ったこど もやおとなはどれだけいたこと でしょうか 。 「しゃぼん 玉」
で癒された心は日本中に広まったではありませんか。
こ れ か ら お 話 し す る こ と は 一 つ の 前 提 が あ り ま す 。 そ れ は 石 川啄 木 と 野 口 雨 情 と
いう二人の 歌人の関係 に限られた 話だということです。 言い換えれば二人の作品の
文 芸的 価 値 や そ の 位 置 と 評 価 と は 関 係 が な く 、あ く ま で も この 二 人 の 間 に 派 生 した
問 題 に 限 定 した 問 題 だ と い う こ と で す。 この 二 人 の 文 学 的 、 芸術 的 、歴 史的 評 価 と
は 関 係あ り ま せん 。 この 二人 に 対 す る筆者の 畏 敬の 念 は 毫 も揺 るぐ もの ではあ り ま
せん。 むしろ逆 にこの二人だからこ そ、その 隙間に生れた微妙でか つ屈折した 相克
を追ってみたいと思うだけなのです。
そ の 意 味 で 雨 情 が 語 っ た啄 木 に つ い て の 証 言 は 貴 重 な も の で す 。 と は い っ て も そ
れは多くはありません。現在発見されているのは次の三編にしか過ぎません。
「啄木の『悲しき思ひ出』について(『赭土』一九二九・昭和四年八月号)
「石川啄木と小奴」(『週刊朝日』一九二九・昭和四年十二月八日号)
「 札 幌 時 代 の 石 川啄 木 」 ( 『 現 代 』 一 九 三 八 ・ 昭 和 十 三 年 十 月 号 ) ( い ず れ も
『定本 野口雨情 第六巻』未来社所収)
こ こ で は 取 り 敢 え ず 「 札 幌 時 代 の 石 川啄 木 」 を 使 い た い と 思 い ま す 。 こ の 文 章 は
〝 画期的〟 な 原稿で す。 啄 木に対し て好きや嫌 いという 人 は沢 山い るでしょう が、
人 で も 詩人 で も なか つ た 」 と い う よう に 雨情 の啄 木 観 が 明 瞭 に 打 ち 出 さ れ て い る
既 に 一 部 引 用 し ま し た よ う に 「啄 木 も 生 存 中 は 、 今 日 世 人 の 考 へ る や う な 優 れ た 歌
2 啄木の雨情観
い わ ば 面 と 向 か っ て啄 木 を こ の よ う に 〝 凡 人 〟 扱 い し た 人 物 は 雨 情 を 以 て 嚆 矢 と す
ると言っていいかもしれません。
そ し て こ の 原 稿 に は 随 分 と 念 の 入 っ た 作 為 が 施 さ れ て い る の で 、啄 木 愛 好 家 か ら
は 完全黙 殺 状態になり つつあ る文 献 なの で す。 しか し、 考えてみれ ば明らか な 作為
と いう の であ れ ば 逆 に な ぜ 雨 情 がそ う した行 為 に で た の か と い う こ と が 分か る の で
は な い で し ょ う か 。 全体 は 四 百 字 詰 原 稿 用 紙 で 十四 、 五 枚 程 度の も の で す が 札 幌 で
会 っ た 時 の こ と が 細 か く 描 か れ て い ま す 。 た だ 、 冒 頭 で 雨 情 は 正 直 に 「 私 が啄 木 と
おもひで
知り合つたのは、北海 道の 札幌であ る。 今か ら 三十数年 の 昔で明治 の終り 頃であ つ
たが歳月の記憶も失念してゐるし、記憶も全く薄らいで仕舞つたが思出をそのまま
書 い て み る こ と に する 」 と 断 っ て い ま す。 正直 者の 雨情 で すか ら 、 この 前置 き を忘
れ ること なく率 直 に語 っ てく れ るに 違いな い と 期 待 するの は無 理 か ら ぬ こと で しょ
う 。 最 初 に 会 っ た 時 の 話 は ま た 後 に 詳 し く 取り 上 げ な け れ ば なり ま せん の で 、 こ こ
では二度目に啄木に会ったときの話を紹介しようと思います。
啄 木 は 佐 々 木 氏 か 小 国 氏 か 二 人 を 訪 ね て 北 門 新 聞 社 へ 行 つ た 。 私 は 途 中 で 別 れ
て 自 分 の ゐ る 新 聞 社 へ 行 つた 。 そ の 夕 方 電 話 で 北 門の 校 正 に は い る こ と が 出来 て
社 内 の 小 使 い 部 屋 の 三 畳 に 寄寓 す る と 報ら せ て 来 た 、 月 給は 九 円 だ が 大 に 助 か つ
たとよろこんだ電話だ。
2 啄木の雨情観
そ れ か ら 三 日 程 経 つ と 小 国 氏 か ら 、啄 木 の 家 族 三 人 が 突 然 札 幌 へ 来 て 小 使 部 屋
に 同 居 し て ゐ る が 、 新 聞 社 だか ら 女 や 子 供 がゐ て は 狭 く て困 る 、 東 十 六 条に 家 を
借 り て 夕 方 越 すか ら 今 夜 自 分 も 行 く が 一 緒 に 来 て 呉 れ と 言 ふ 電 話 が あ つ た 。 私 は
承知 し て 待つ てゐ た 。 そ の 頃東 十六 条と言 へ ば札 幌農 学 校か ら 十丁 程も 東 の藪 の
中 で人 家 な ぞ の あ る べ き 所と 思 は れ な い。 そ の う ち に 小 国 氏 は 五 合 位 は い つた 酒
瓶 を 下 げ て や つ て 来 た 、 私 は啄 木 の 引 越 し 祝 ひ の 心 で 豚 肉 を 三 十 銭 ば か り 買 つ て
持 つ て 行 つ た 。 日は 暮 れ てゐ る 、 薄 寒 い 風 も 吹 い てゐ た 。 小 国 氏 は歩 き な が ら 、
『 君 の 紹 介 で 彼 (啄 木 の こ と ) を 社 長 に 周 旋 し た が 、 函 館 か ら 三 人 も 後 を 追 つ て
家 族 が 来 る と は 判 ら な か っ た 、 社 長か ら は 女 や 子 供 は 連 れ て 行 け と 叱 ら れ る し 、
僕 も 困 つ て 彼 に 話 すと 彼 も 行 く と こ ろ が 無 い と 言 ふ し 、 や つ と 一 月 八 十 銭 の 割 で
荷 馬車 曳 き の 納 屋 を 借 り た 、 彼 は 諦 め て ゐ るか ら い い や う な も の の 、 三 人の 家 族
達は可哀想なもんだな』と南部弁で語つた。
うまや
藪の中の細い道をあつちへ曲りこつちへ曲り小国氏の案内で漸く啄 木の所へ着
いた。行つて見ると納屋でなく 厩 である。馬がゐないので厩の屋根裏へ板をなら
うち
べた藁置き場であつた。
隣が荷馬車曳の家でこの広い野ツ原の藪の中には家はない、啄木は私達を待つ
て 表へ 出 て 道 ツ 端 に 立 つ て ゐ た 、 腰の 曲 が つた お 母さ ん も赤 ん 坊 の 京 子 ち や ん を
抱 い た 細 君 の 節 子 さ ん も 一 緒 に 立 つ て ゐ た 。 厩の 屋 根 裏 に は 野 梯子 が 掛 か つ て ゐ
あぶな
る、薄暗い中を啄 木は、『危険いから、危険いから』と言ひながら先に立つて梯
子 を上 が つ て ゆ く 、 皆ん な 後 か ら 続 い て上 つ た 。 屋 根 裏 に は 小 さ い 手 ラ ン プ が 一
つ点いてゐるが、誰の顔も薄暗くてはつきり見えなかつた。
これが札幌で二度目に会つた印象である。
正直 に 告 白 し ま すと こ の 文 章 を初 め て 読ん だ と き は リア リテ ィ の 溢 れ る 描写 で 、
こ れ が よ も や 「 作 文 」 で あ る と は つ ゆ 思 わ ず 、 札 幌 に 於 け る啄 木 の 生 活 の 過 酷 な 状
況 に 胸 を痛 め た もの で す。 しか し、 改 め て よく 読ん で 見 ると 不 自 然 さ に気 づ き ま し
た 。 こ の 時 は啄 木 に つ い て 単 身 で 札 幌 に い る 事 実 さ え 知 ら ず 白 紙 の 状 態 で 、 啄 木 の
母 カ ツの 腰 が曲 がっ て い る こ と な ど か ら 実 際 に 家 族 に 会 わ な け れ ば 書け な い こ と な
ので信じていました。しかし、読み直して見ると妙な事に気づいたのです。
啄 木 が 勤 め る こ と に な っ た 北 門 新 報 は 現 在 の 札 幌 駅近 く に あ り ( 北 四 条 西 一 丁 目
付 近 ) 、 そ こ か ら 小 国 が 借 り て 呉 れ た 〝 厩〟 ま で は 直 線 コ ー ス で 東 十 六 条 ま で は 最
短 で五六キ ロはあり ま す。 さらに東 十六条は西 と東に二 十丁ずつあ り ますか ら その
場 所に も 拠 り ま すがそ の 中 間 を 取 る と して も 駅前の 社 屋ま でに は 都 合 十 キ ロ は 歩 か
ね ば な ら な い 計 算に な るの で す。 し か も交 通は 道 無 き ケ モ ノ道 を 徒 歩 で 通 わね ば な
り ませんか ら 通勤は 好 天 に 恵 まれ たと して も片道 一 時 間 以上 はか か り ま す。 ま して
街灯一本もない夜道は歩行はできません。
こう 考え てく ると 雨 情の 話はと たん に灰 色か ら真っ 黒 に なっ て しまいまし た。 大
体 、新 聞 社の 小 使 室に 一 時的 と は言 え 親子 四 人 が暮 したと いう 話 はと て も 信じ ら れ
な い 話 で す 。 こ の よう な 生々 し い 話 を 雨情 は 小 国 か ら 聞 い た と し て い るの で す が 、
小 国 が そ の よう なあ り 得 な い 話 を する は ず があ り ま せ ん 。 と す れ ば 雨 情 が 勝 手 に 作
り 上 げ た と い う こ と 意 外 に 考 え ら れ ま せ ん 。 ま た 、 さ ら に 奇 妙 な の は 厩の 中 二 階 と
い う 設 定 で す。 通 勤 不 可 能 な 札 幌 郊 外と い う の も不 自 然 で すが、 幼 子 と 腰の 曲 がっ
た年寄りが野梯子を伝って藁置場にその都度上がれるでしょうか。
こ う 考 え て く る と 雨 情 の リ ア リテ ィ 溢 れ る啄 木 一 家 の 描 写 は よ く 言 え ば 雨 情 の 創
作 力 と 想 像 力 の 所産 で あ り 、 別の 言 い 方 で 言 え ば 悪 意 と 捏 造 に よ っ て 作 ら れ た 話と
いうことになります。 どう贔屓目に見てもこれらの描写は啄 木に対して好意ある視
線 が感じら れません 。 む しろ 憎悪と 蔑 みに近い 感情か ら もたらさ れ ている明ら か な
「作為」のように思えてしまうのです。
2「石川啄木と小奴」
代の石川のことについては全く知る人が少いやうに思ふの でそれをここで述べてみ
すが、これは一九二九 (昭和四)年に書かれたもの で「北海道時代、ことに釧路時
も う 一 つ啄 木 の 釧 路 時 代 に つ い て 「 石 川 啄 木 と 小 奴 」 と い う 雨 情 の 文 章 が あ り ま
2 啄木の雨情観
よ う 。 」 と 前 書 き さ れ て い ま す 。 こ の 頃 の啄 木 人 気 は 着 実 に 広 ま っ て い ま し た が 、
確 か に 釧 路 時 代 の こ と に つ い て は ご く 一 部 の 愛 好 家の 知 る と こ ろ で し た 。 啄 木 の 釧
路 時 代 の こ と が 明 ら か に な っ て く る の は啄 木 が 残 し た 多 く の 書 簡 と 膨 大 な 日 記 が 関
係者の賛否渦巻く中でようやく刊行された一九四八・昭和二十三年以降のことです。
こ れ ら の 書 簡 と 日 記 に よ っ て啄 木 の 日 常 的 な 言 動 が 克 明 に な り ま し た 。 以 来 、 こ の
第 一 級 資 料 を も と に啄 木 研 究 が よ り 深 化 し 、 そ の 評 伝 も 相 次 い で 出 さ れ る よ う に な
り ま し た 。 釧路 時 代 に つ い て の 論 考 も 相次 い で 発 表 さ れ る よ う に な り ま す が 主 な 著
作 と 言 え ば 宮 の 内 一 平 『啄 木 ・ 釧 路 の 七 十 六 日 』 ( 一 九 七 五 ・ 昭 和 五 十 年 札 幌 氷
川 出 版 社 ) 、 鳥 居 省 三 『 石 川啄 木 ― そ の 釧 路 時 代 』 ( 一 九 八 〇 ・ 昭 和 五 十 五 年 釧
路 選 書)、小林 芳弘『啄 木 と 釧 路 の 芸 妓達』 (一 九 八 五 ・ 昭 和 六 十 年 み や ま 書
えき
お
た
房)に集約されるでしょう。
ゆき
まち
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
家族を小樽に 残して文字通り 「さ いはて」 のマチ 釧路に 単身赴任した 時はこの歌
にあるよう に恐らく不 安と孤独感にさいな まれていた ことでしょう。 そしてや がて
啄 木はその 不安と寂寥 感を花街の 芸妓との放蕩三昧に溺れていき ます。 そして釧路
と 言 え ば決 まっ て登場 するの が小 奴 と いう 芸 者で す。 釧 路 では多 く の 芸 者や女 性 と
をんな
のつき合いがありましたが、実名(芸名)を挙げての歌は小奴だけです。
こやつこ
わす
小奴といひし 女 の
みみた ぼ
やはらかき
耳朶なども忘れがたかり
雨 情 は 先 に 岩 手 日 報 の イ ン タ ビ ュ ー で も 「 家内 の もの を 小 樽 に 残 し て 釧 路 に 行 つ
けつだう
た 。 そ し て、小奴と いふ 芸者 にあ つく な つたの はその 当 時 であ る。 こ れに つい ては
い ろ い ろ 面 白 い 話 し が あ る が 小 奴 も 真 実 に 啄 木 の た め血 道 を 上 げ て あ つ く な つ た も
のだ。」とあたかも見て来たかのように自信たっぷりな発言をしています。
「啄 木 と 小 奴 」 の 原 稿 に 戻 り ま す と 雨 情 は 実 際 に 小 奴 と 会 っ て き た と か な り 具 体
的 に 述べ て い ま す。 時 は啄 木 が 「 釧 路 を 去 っ て 約 一 年 後 であ つ た 」 と い い ま す か ら
一 九 〇 九 ( 明 治 四 十二 ) 年 前 後と いう こ と で す。 もっ と も 雨情 が 釧 路 に行 っ た の は
「 約 一 年 後」 と あ るの は 記 憶 違 い ) 、 「 定 本 」 年 譜 に よ る と 八 月 十八 日 か ら 九 月 十
情 が当 時 勤め て いた 「 グラヒ ッ ク社 」の 記 者と し て 随行 し た 折 ( した が っ て 雨 情の
小 奴 と 会 う た め で は な く 東 宮 殿下 の 北 海 道行 啓 の ( 一九 一 一 ・明 治 四 十 四 ) 年 に 雨
2 啄木の雨情観
まるまんどう
二 日の 間 で す。 釧路 で の 日程 を 終 え て 十 数 人 の 記 者 団 は 例 の 如 く 料 亭 に 繰 り 出 し て
しゃもとら
宴会となりました。会場は雨情によれば「釧路第一の料理亭、○万楼」だそうです。
し か し 、 当 時 、 釧路 で 高 級 料 亭 と さ れ た の は 「 ○ 喜 望 楼 」 「 鶤寅 」 『 鹿 島 屋 」 の 三
軒です。おそらく「○喜望楼」の間違いでしょう。
さていよいよ宴会が始まります。(引用文名①から③の連番は筆者)
げい しや
時 は 丁 度 灯 と も しご ろ 、 会場 は ○ 万 楼 の 階上 の 大 広 間 で市 庁 長 始 め 、 十数 名 の
官民有志が出席して、釧路一流の芸妓も十数名酒間を斡旋した。 その時私がふと
思 ひだ し たの は 、 嘗 て石 川か ら 聞い て ゐ た 芸 者 小 奴 の こ と で あ つ た 。 私 は この 席
に小奴がゐるかどうか を尋 ねてみると、女中のいふには
『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』
見 る と 小 奴 は 今 支 庁 長 の 前 で 、 徳 利 を上 げ て 酌 を し て ゐ る と こ ろ で あ る 。 齢 は
二 十 二 、 三 位 、 丸 顔 で 色 の 浅 黒 い 、 ど つ ち か と い へ ば 豊 艶 な 男 好 きの す る女 で あ
つた。その中 に小奴は 順々 に酌 をしながら私の 前 に来 た。 そこ で私は
『小奴とは君かい』
と聞いてみた。すると、
『ええ、わたしですが何故ですか。』
と不思議さう に私の顔 をみ る、 私は
2 啄木の雨情観
『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』
といふと小奴は
『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頬を染めながら伏目勝ちになつて
『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』
『いいや、君のことは石川君からよく聞ひてゐたものだから……』
『 あ ら、あ なた は 東京の 方 でせう 、そ れ に どう し て石 川さん を知 つてら つしや る
のですか。』
『 私は 、 今 は 東 京 に ゐ る が ①一 、 二年 前 ま では 小 樽や 札 幌に ゐ た か ら そ ん な こ と
はよく知つてゐるよ。』
実は 私 は 札幌 で 石 川 を 始 め て 知 つ て 、 そ れか ら 小 樽 の 小 樽 日 報 へ 一 緒 に 入 社 し
たのであつた。小奴は
『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』
と不安さうな瞳をみは つて尋ね るの であ つた。
『私は野口といつて石川くんとは札幌からの懇意だもの。』
「 まあ 、 あ な た が 野 口 さ ん で し た か 、 そ れ で は 石 川さ ん か ら 始 終 あ な た の お 噂 を
聞いてゐました。 それにしても②今石川さんは何処にゐらつしやるのでせう
か。』
小奴 は 石 川 が 釧 路 を 去 つ てか ら の そ の 後 は 石 川 の く は しい 消 息 は 全 く 知 ら な い
らしかつた。
『 い まは 東京にゐ るが、君 は知 らな いのか。』
『 え え 、 東 京へ 行 つ て ゐ る と い ふ こ と は う すう す 聞 い て ゐ ま し た が、 ③ 東 京 の 何
処にゐら つしやるのか その 後音 信がないので存じ ません。』と いふ。
この 部 分 だけ で も疑 問点 は いく つか 残り ま す。 先ず① の 件 で すが 、東 宮 殿下 随行
が 一 九 一 一 ( 明 治 四 十 四 ) 年 八 月 、 雨 情 と啄 木 が 初 め て 顔 を 合 わ し た の が 一 九 〇 七
( 明 治 四 十 ) 年 九 月 で すか ら 「一 、 二 年 前 」 で は 時 期 が 合 い ま せ ん 。 ま た ② で す が
雨 情 の こ の 言 葉 を 信 じ れ ば啄 木 が 釧 路 を 去 っ て か ら ほ ぼ 四 年 近 く 小 奴 と 音 信 不 通 で
こ の た め 小 奴 は 雨情 に 「今 石 川さ ん は 何 処 に 」 と 聞 い て き た と 言 っ て い ま す 。 しか
し 、啄 木 の 釧 路 を 去 っ た 年 の 日 記 に は 「 寝 て か ら 、 床 の 上 で 釧 路 の 坪 仁 子 ( * 小 奴
の 本名)へ 別れてから初めての手 紙をかいた。 」 (「十月三十一日」『明治四 十一
年 日誌 』 ) とあ り ま す 。 啄 木 は で き れ ば 小 奴 に 早 く 消 息 を 伝 え た か っ た の で し ょう
が 、 な に し ろ 高 級 料 亭 で 豪遊 しそ の 借 金 を 殆 ど 返 済 せず 釧 路 か ら 雲 隠 れ し ま し た の
で所在を知られると追い立てられるのは必至でしょうから しばらく鳴り を潜めてい
たのでしょう。しかし、これを機に二人は改めて急接近をします。
一九〇九(明治四十二)年一月十一日「坪仁子か らハガキ」一月二十一日「仁子
より釧路、北東、二新聞おくり来る」一月二十二日「スバル一号仁へ」二月三日
「坪仁子から手紙、今年中にはまた出京すると、」二月二十五日「羽織を質におき、
古雑誌を売つて、坪仁子及び堀田秀子へ電報」二月二十六日仁子から電報二〇デン
カワセ云 々、予は感謝 (中略)帰つてくると 二十円の電為 替が届いてゐ た」 三月一
日「ツボへ感謝の電報」三月六日「一時ごろまでかゝつて仁子へやる手紙認め
た。」
二 月 二 十 五 日 の 小 奴 と 堀 田 秀 子 宛 の 電 報 は啄 木 が 朝 日 新 聞 社 校 正 係 に 決 ま っ た の
で 背 広 を 新 調 し よ う と し て 二 人 に その 費 用 をね だ っ た もの で した 。 啄 木 は 一 度 も 背
広 を着たこ とがあり ま せん。 朝日に 出勤 すると いうの で意を決 して背広にしようと
し た の で す 。 そ し て 小 奴 が 二 十 円 も の 大 金 を 送 っ て く れ た の で し た が啄 木 は こ の 金
を 溜まっ た下宿代や借金の 返済に充 ててしまい、つ いに私たちは啄 木の 背広 姿 をみ
る こ と が 出 来 な く なっ て し ま い ま した 。 そん な わけ で ② 、 ③ は 全 く の 作り 話と いう
ことがわかります。
釧 路 時 代 の 啄 木 と 小 奴 に つ い て 多 く の 評 伝 や啄 木 研 究 家 た ち は 深 い 仲 と 決 め つ け
て い る よう で す が 、 ち ょっ と 違 う よう に 思 い ま す。 小 静 や 梅 川 操 と い っ た 女 性 と は
そういう関係だったと思いますが小奴に「妹になってくれ」と言った啄 木の言葉を
奴 は こ の 年 ( 明 治 四 十 一 年 ) 十 二 月 一 日 、 パ ト ロ ン と お ぼ し き 男 と 上 京 し啄 木 と 単
化 し男 と 女 の 感情 を共 有 する よう に なっ た の では な い か と 思 い ま す。 その 証拠 に小
信じるべきだと思いま す。 ただ、先のやり取り を見てい ると二人の 思いが急激 に変
2 啄木の雨情観
独 面 会 し 、 連 日 〝 密 度 の 濃 い 〟 デ ー ト を し 、 最 後 に啄 木 が 「結 婚 し た 方 が い い 」 と
言 っ て 別れ てい ま す。 こ の 時の 二人 は 正 しく男 と 女 だっ た と 考 え て 間 違 い な い と 思
い ま す。
もう少し雨情の話に耳を傾けましょう。 宴会のあと雨情は小奴か ら家に寄っ てく
れというメモを貰ったので人力車 で駆けつけます。 下心あるなしに 拘らず小奴 ほど
の 芸者から 誘われて断 る男はまず いないで しょう。 小奴 が手早く整えた「酒と 酢の
もの」のもてなしで会話は続きます。その会話の終りの部分です。
『 ① こ こ を た つ て か ら は 一 度の 音 信 も あ り ま せ ん か ら 、 釧路 の こ と も 、 私の こ と
も、もう忘れてしまつたのだと思はれます。 』と 話して小奴は泪をさへうかべて
ゐました。私は小奴が気の毒になつたので、
『 私 が 東 京 へ 帰 つ た ら 、 石 川に 早 速 話 し て 石 川 を 慕 つ て ゐ る 君 の 心 を よ く 伝 へ る
か ら。』と慰 めの 言葉 を残して 旅館に帰 つて来た。
その 後 東 京へ 帰 つ て か ら 、 ② 東 京 朝 日新 聞社 に 石 川 を 尋 ね て 小 奴の 話 を伝 へ る
と 、 石 川 は き まり 悪 さ う に笑 ひ に ま ぎ ら し て何 と も答 へ なか つた 。 同じ そ の 晩 石
川 と 銀 座の そば や で一 杯 や り な が ら再 び 小 奴の こ と を 話 しだ すと 石 川 も感 慨 無
量 の 面 も ち で う な だ れ て し ま つ た の で 、 も う そ れ 以上 私 は 石 川 に 小 奴 の 話 を す る
勇気がなくなつてしなつた。 そ して③その 後幾度か石 川には逢 つてもついその 話
はせずにしまつた。
④そ れ か ら 余程 経 つた 後であ つた 。 小奴 に その うち 石 川と 一 緒に 釧路 へ 君 を尋
ね ると い ふ 葉 書 を 出 し た こ と が あ つた が 、 小奴 か らは 南 夫 返 事 も な く 、 石 川 も 他
界 して し ま つた の で、 ⑤ 時 折歌 集 を繙 く 度 に小 奴 の 名 の 出て く る の を 見 ると 、 釧
路 の 夕 を 思 ひ 出 し ては 芸 者 小奴 は 今 、 ど う して ゐ るか と いふ こ と を考 へ るの で あ
つた。
①に つ い て は もう 証 明 済 み 、 ② 東 宮 殿 下 随 行 は 一 九 一 一 ( 明 治 四 十 四 ) 年 八 月か
ら九月十二日までですから雨情が東京へ戻ったのは九 月下旬です。 この年の 二月、
啄 木は慢性腹膜炎で入 院手術 を受け ますが自 宅療養 を余儀 なくさ れ、連 日高熱に苦
し め ら れ 朝 日 新 聞 社 に 長 期 休 暇 中 で し た か ら 、 雨 情 が 朝 日 新 聞 に啄 木 を 訪 ね て も 会
え な か っ た 筈 で す 。 ③ 「 そ の 後 幾 度 か 」啄 木 に 会 っ た と 雨 情 は 言 っ て い ま す が こ の
間 は啄 木 の 日 記 に 雨 情 の 名 は 出 て き ま せ ん 。 そ し て ④ 小 奴 に 石 川 と 一 緒 に 釧 路 を 訪
ね る 葉 書 と の こ と で す が 、啄 木 退 院 後 に 雨 情 が 一 度 で も啄 木 の 家 を 訪 ね て い れ ば 母
カ ツは床 についたまま、節子 は結核症状を呈 し一家の悲惨 な状態 を目の 当たり にし
せ ん が 雨 情 が啄 木 を 評 価 し て い な か っ た こ と は 明 ら か で す か ら お そ ら く 目 を 通 す と
⑤ ど こ ま で 雨 情 は啄 木 の 歌 集 を 真 面 目 に 繙 い た の で し ょ う か 。 確 か な 根 拠 は あ り ま
て 、 と て も一 緒 に 釧路 に 出掛 け よう と いう 話 な ど言 い 出 せ なか っ た こ と で し ょ う 。
2 啄木の雨情観
し て も 一 度 く ら い だ っ た と 考 え て い い と 思 い ま す 。 な に し ろ啄 木 の 歌 で も っ と も 有
やま
む
名な故郷の山河を詠んだ名句
い
ふるさとの山に向かひて
やま
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
を 雨 情 は啄 木 の 表 現 の 重 要 な 特 徴 で あ る 三 行 表 記 を 無 視 し て 一 行 に し 、 ま た 勝 手
に漢字を使った引用をしています。
ふるさと
故 郷 の 山 に向かひ て 言ふ こと なし 故 郷の 山は 有り難 きか な
詩歌 を 作 る人 間にと っ てその 表 現 の 仕 方 は 生命 で す 。 勝手 に その 表現 を変 え ては
な り ま せ ん 。 実 際 に こ の よ う に啄 木 が 意 図 的 に 三 行 に 表 現 し た 歌 が 一 行 に さ れ 、 ひ
らがなが勝手に漢字にされてしまって比べて見るとまるで風情が変ってしまいます。
雨 情 と もあ ろう 歌 人 に し て は 如 何 に も 不 躾 な 態 度か と 言 わ ざ る を 得 ま せ ん 。 ま た こ
の 歌 を 「 こ れ は啄 木 の 北 海 道 時 代 の 頃 の 作 」 ( 「 札 幌 時 代 の 石 川啄 木 」 ) と 言 っ て
い るの も気 に な り ま す 。 誰 で も こ の 歌 は 渋 民 時 代 を 思 い 起 し た 作 品 だ と い う こ と ぐ
ら い は 知 っ て い ま す 。 言 い 換 え れ ば 雨 情 は啄 木 の 歌 集 と 一 度 も き ち ん と 向 き 合 わ な
かったと言っていいと思います。
3 雨情の手ほどき
雨 情 が啄 木 の 詩 人 と し て の 能 力 を 認 め て い な か っ た こ と は 既 に 指 摘 し ま し た 。 そ
の 事 をあ か らさ まに 提 示 した 〝 事 件〟 があ り ま す。 雨情 と いう 人 は 自 分の 記録 を 残
す こ と に 全 く 無 関 心 で 、 そ の た め 彼 の 生 涯 の 詳 し い 事 実 が 分か ら ず 伝 記 に し よ う に
も 纏 め る こ と が 出 来 に く か っ た か らだ と 言 わ れ て い ま す。 人 気 の あ る 雨 情 の 本 格 的
な伝記が出たとき多くのフアンがこぞってこの伝記を手にとって喜びました。 それ
が長久保源蔵『野口雨情の生涯』(暁書院館 一九八〇・昭和五十五年)です。
〝事件〟は この本の一節から始まりました 。 少 し、長く なりますが重要な一件 なの
我 を愛 する歌
ら出されるのである。
歌集「一握の砂」は「 犬 の年の大水後」、即ち明治四十三年十二月に東雲堂か
(戌 )
で、その部分を引用しておきます。
2 啄木の雨情観
東海の小島の磯の白砂に
われ泣き ぬれ て
蟹とたはむる
ほほ
頬につたふ
なみだの ごは ず
一握の 砂 を示 しし人を忘れず
などが歌集のトップにある短歌である。話は変わるが、この原作は
なぎさ べ
東海の小島の磯の渚辺に
○
○
○
われ泣き ぬれ て
蟹と遊べり よ
なぎさ べ
だ っ た と い う 。 こ れ を 一 杯 や り な が ら啄 木 か ら 示 さ れ る と 、 暫 く 眺 め て い た 雨
わ
情は、「石川さん、これでも良がんしょうが、渚辺は白砂に直した方が良いと思
いやんすね。 それに遊べりでは子供ッぽく聞こえるので「たはむる」と書き直し
た 方 が 良 い ん じ ゃ あ り ゃ せ んか 、 私は そ の 方 が 良 いと 思 いや ん す がね 」 と言 っ た
そ う で 、啄 木 は そ の 助 言 に 従 っ て あ の 歌 が 生 れ た の だ と い う 裏 話 を 泉 漾 太 郎 氏 か
らお聴きしている。これは雨情から直接聞かされたという泉氏の又聞きであるが、
充 分考 え ら れ る こ と で あ り 、 だ と すれ ば 、 この 名 歌 は 、 雨情 の 指 導 助 言 に よ る 合
ふん
○
○
○
作 と い う こ と に な る 。 尚 、 「一 握 の 砂 」 の 中 に は 、 「 遊 べり 」 と 表 現 さ れ てい る
ものに次 のような歌もある。
ね
草に臥て
ぬか
おもうことなし
ゑ
○
○
わが額に糞して鳥は空に遊べり
ち
○
智慧とその深き慈悲とを
もちあぐみ
為すこともなく友は遊べり
な どの 凡 作で あ る 。 雨情 か ら智 慧を 借 り れ ば 或 は もっ と 有名 な 歌 に な れ た か も 知
れない。
先 ず 、 事 実 関 係 を 明 ら か に し て お き ま し ょ う 。 『 一 握 の 砂 』 は啄 木 が 北 海 道 を 去
2 啄木の雨情観
り東京に出てから書いたものです。 即ち一九〇八(明治四十一)年六月十四日から
十 月 十 日 に か け て 六 百 五 十 二 首 詠 ん だ 中 の 一 首 が 「 東 海 の … … 」 で す。 『 暇ナ 時 』
と 題して一冊のノートに編まれています。 この 「東海… …」はこの ノートの最 後に
筆 書き 五行 で 記さ れ てい ま す。 啄 木 会 心 の 作 だ っ た こ と が 分 か り ま す。 函 館 の 立 待
岬 に あ る啄 木 一 族 の 墓 に 彫 ら れ て い る の は こ の 歌 で 『 暇 ナ 時 』 の 筆 書 き の 残 さ れ た
筆 書 で す。 函 館 文 学 館 の 竹 原 三哉 に よ り ま すと 歌 は こ の ノ ー ト の も の に 間 違 い な い
けれども書名の「啄木」はどこから取ったのか確信をもてないと仰っていました。
さまよ
雨 情 が啄 木 に こ の 歌 の 〝 指 導 〟 を し た 時 期 は啄 木 は 東 京 、 雨 情 は ま だ 北 海 道 を
彷徨っていましたから、どう見てもこの〝事件〟は捏造としか言いようがありませ
ん 。 もっとも長久保 源蔵 は 「雨情か ら直接聞か さ れた泉氏の 又聞き」と言って いま
す か ら 、 も と も と 根 拠 薄 弱 な こ と は明 白 で す。 長年 雨 情 の 謦 咳 に 接 し て 自 称 雨 情 の
「 門 下 生 」 を 名 乗 る 泉 漾 太 郎 の 名 が こ こ で上 げ ら れ て い ま すが、 その 著 『 野 口 雨情
回想』(筑波書林 一九七九・昭和五十四年)にもそのような話題は出てきません。
氏 の 名誉 の 為 に い い ま すが、 この よ う なセン セ ーシ ョナ ル な 作り 話の 介 添 え を 喜ぶ
おとし
人 物 では決 してあ り ま せん 。 作り 話 を 「充 分考 え ら れ る 」 と した 伝 記 作 家に は 泉漾
太郎も当惑したことでしょう。
もと
それにしてもこのようなあり得ないこと、そして啄木の作品を 貶 めるような話題
を伝記に収めること自体が雨情評価をすら歪める因になるのではないでしょうか。
もし、この件に関わる話題が雨情から出たとすれば「ワシならばこの東海の歌を
『 渚 辺 』 や『 遊 べ り 』 に し た 方 が 良 か っ た と 思 う ん で や ん す」 程 度の コ メ ン ト を し
た か も しれ ません 。 しか し、 こ れは 詩人の 感性 と 品位の 問題 であ り 、 こ こ では こ れ
以上の詮索は止めておきましょう。
と も か く 雨 情 が啄 木 に 対 す る 見 方 は 、 ど う 考 え て も 尋 常 で は あ り ま せ ん 。 雨 情 の
人 柄 を 以 て す れ ば も っ と啄 木 を 評 価 し て も い い と 思 い ま す し 、 そ れ が 自 然 な こ と だ
と 思 う の で す 。 そ し て 雨 情 支 持 者 の 中 に 見 ら れ る啄 木 へ の 不 当 な 評 価 の 傾 向 は 雨 情
の 啄 木 観 と 比 例 し 連 動 し て い ま す か ら 余 計 に啄 木 の 居 心 地 は よ く あ り ま せ ん 。 さ ら
に言えば啄木支持者の方にもそうした傾向があることは否めません。
誠意と善意溢れる雨情がどうしてこれまで見てきたよう な〝歪んだ〟 とも思われ
る啄木観を抱くに至ったのか、もう少し考え続けていきたいと思います。
2 啄木の雨情観
三 北国の彷徨
【二人が出会ったマチ・札幌大通公園】
一 雨情と啄木
雨情と いう人 は自 分の記録 を残すことに全 くといってい いほど 関心を持ちま せん
で し た 。 こ の 点 、 あ き れ る ほ ど の エ ネ ル ギ ー を 日 記 と 書 簡 に 注 い だ啄 木 と は 実 に 対
照 的 な存在 で した。 啄 木は二十六歳という若さ でなくなりましたか ら自伝を残せな
か っ た の は 当 然 で す が 雨 情 は 六 十 四 歳 ま で 生 き ま し た か ら 自 伝 を 残 す気 があ れ ば 残
せたはずです。
そして雨情の手によって書かれた「自伝」原稿は確かに一本あるのです。しかし、
そ れは 四 〇 〇 字 に 満 た な い も の で 「 自 伝 」 と い う よ り 〝 メ モ 〟 と いう に 等 し い もの
で した。 そ れ以 外雨情の 生涯 を知 る た めには彼 が残した 他の 原稿や 手紙 をつな ぎ合
わ せ て〝創 造〟 してい く 外は な い の で す。 で すか らこの 四 百字の 「 自 伝」 は貴 重 な
ものと言わなければなりません。
その 「 自 伝」 は新潮 社 が一 九 三〇 ( 昭和 五 ) 年 に 出 した 『 現 代 詩人 全 集』の 第 十
一 巻 の 「野 口 雨情」 編 の 冒 頭一ペ ー ジ に掲 げ ら れ て い ま す。 この 『 全 集 』 は 全 十 二
巻 、湯浅 半月か ら百田 宗治に 至るま で文字通りこの 時代の 詩人四 十一人 を網羅 した
も の で 、 編 集 部 の 企 画 と し て 各自 が 「自 伝」 を 四 百 字 以内 で 提 出 する こ と に な っ て
い ました。 中に はそんな短いものな ら断るとか 、編集部 に任せると いう声もあ った
の で すが企 画の中 核に 当った河 井 酔茗の 発案だと知 る と全員納得 しました。 酔 茗 は
当時、泣く子も黙らせる文壇の鬼編集長だったからです。
さ て、 その 雨 情の 「自 伝」 と は ど の よう な もの だ っ たか と いう と 、そ の 全文 は次
太 、 台 湾 、 朝 鮮、 満 州 に ま で 部 分的 で はあ る が 足 跡 を 印 した 。 現 住 所は 東 京 府 下
尽 すと こ ろ があ っ た が 、 大 正 五 年 以 来 、 日 本 全 国 民 謡 童 謡 の 行 脚 を 思 い 立ち 、 樺
夙 に 童 心 中 心 主 義 の 児 童 教育 を 唱 へ 、 貧 民街 の 路 頭 に 立ち て 貧 児 教 育 の た め に
教本」等の外数種がある。
「 十 五 夜 お 月さ ん 」 「 童 謡 十講 」 「童 謡 と 児 童 の 教育 」 「雨 情 民 謡 百 編 」 「 童 謡
著書には「枯れ草」詩集パンフレット「朝花夜花」 「都会と田園」 「別後」
ある時は公吏となり、ある時は自作農となり、極めて多様の生活を送った。
二十三歳の暮、父を亡ひ、爾来数奇の運命をたどり、ある時は新聞記者となり、
の試作につとめた。
中 学 を 卒 り て東 京 専 門 学 校 文 科 に 入り 、 坪内 逍 遙 博士 に 師事 し て 専 ら 新 しき 歌 謡
明治十五年十二月、茨城県多賀郡磯原町観海邸に生る。十五歳の春東京に出て、
野口雨情自伝
の通り、およそ三百字という短いものです。
3 北国の彷徨
吉祥寺七八七である。
甚 だ 簡 潔 極 ま り な い 「自 伝 」 で 、 こ れ に よ っ て 雨 情 の 生 涯 を知 るに は 明 ら か に言
葉 が 足り ま せん 。 しか し な がら、 こ の 短 い記 述 に も関 わ らず、 こ れ までに 著 わ さ れ
た 雨情の ど の 「 評伝」 で も触 れ ら れ て い な い 〝 事 実〟 が 二箇 所あ るの で す。 そ れ は
「 公 吏 」 を や っ て い た と い う こ と 「貧 民 街 の路 頭に 立 」 っ て いた と いう点 で す。 前
者についてはあ る程度の推測ができるのですが後者について部分的なことしか分
か っ て い ま せ ん 。 た だ わ ず か 三 百 字 の 自 伝 に わ ざ わ ざ 〝 特 記 〟 し て い るの で す か ら
雨 情 に と っ て は 人 生の 中 で比 重 の か か っ た もの だ っ た と い う こ と だ け は は っ き り し
て い ま す。 児 童 の 芸術 的 関 心 を 高揚 さ せ るべ く その 先 頭 に 立っ た と いうの は 事 実で
すがなぜ「貧民街」がここに出てくるのか 見当がつかないのです。 『 定本 第一
巻 』の 「解説 」 を 書い た伊 藤 信吉に より ま すと 「童 謡 年鑑 」『 日 本童謡 集』 ( 一九
二 五 ・大 正十四 年 版) に一九 二二 ・ 大 正十一 年六 月 に 「野 口 雨情 第一 回 路 傍童 話童
謡会を十三日小石川区細民窟西丸町の露天に開く」 という 一項があり、 「東京は小
石 川、そ の中で も唯一 の貧民 窟と言 はれる西丸町の 路 傍に 立つて 、その 辺りの 薄汚
い 子 供 を 集 め て は 節 面 白 く 童 謡 を 語 り 聞 か せ て 居 た 二 人 づ れ の 男 があ つた 。 一 人 は
童 謡 詩人と して隠 れな き野口 雨情 氏で、一 人は活弁研 究会の八木笠雪氏であ る。 」
(『サンデ ー毎日』一九二一・大 正十年六 月)という 記事を紹介 しています。 既に
童謡詩人としての名をあげていた雨情が貧民 窟のこどもたちに童 話を語り、童謡を
歌 っ て聞か せた と いう の は、 そ れ が どの程 度 続 いた のか 分か り ま せん が 注目 す べき
一事だと思 います。 童謡 や童話がもっとも必要な存在、それが貧民児童だというこ
の ぶや
とを雨情は肌で確かめたのでしょう。もっと評価されていい足跡だと思います。
ま た 「 公 吏 」 と あ る の は 雨 情 の 子 息 存 彌が 『 定 本 』 に 載 せ た 「 年 表 」 に よ り ま す
と 一 九 〇 六 ・明 治 三 十 九 年 に 雨情 が 樺 太 に 出 か け た 際 「国 境 線 を 画 定さ せ る劃 境 委
員 の 一行 に 加 わっ た 可 能性 が強 い 」 と 書 い て い ま す。 「 委員 と し て 」 と 書か ず 「一
行 に加わった可能性」としているの はその事 実を裏付ける確証がなかったからだと
思 い ま す が 、 雨 情 の 人 生の な か で役 人 と い う か 官 僚 と の 関 わり を 彷 彿 さ せ るの は 、
この時だけであり、雨情が樺太で一時的に臨時か嘱託として事務的〝公務〟に関
わった可能性は否定できません。 あ る評伝では樺太では字がうまいので民間会社に
雇われたとするものもあるくらいです。
北大路魯山人 が若い頃、朝鮮に渡り、やはり字がうまいというので軍部の書記に
半 年 ほ ど 雇 わ れ た 話 が 残っ て い ま す が、 当 時 樺 太 で は 記録 を 留 め た り 官 庁 の 通 達 な
ど 書記的 仕事を こ なせ る 日本 人 は多 くいませんでしたから雨情の ような人間は案外
ることです。 雨情という人物は家族にも友人たちにも自 分を語ることをほとん どし
ま た さ ら に 注 目 さ れ るの は 自 ら の 生 涯 を 「 数 奇 の 運命 を た ど り 」 云 々 と 記 し て い
重宝されて「公吏」に登用された可能性は高かったのです。
3 北国の彷徨
ま せ ん で し た 。 こ の 点 、 膨 大 な 日 記 と 手 紙 を 残 し た 石 川啄 木 と は 正 反 対 で す 。 で す
か ら 雨情の 生涯 は謎 だ らけ で す。 そ の せい で し ょうか 、 いく つか 残 さ れ てい る 彼の
評 伝はそ の人物 像は大 雑把 な ものに なっ てい るか、 読 者を 喜ばせ る よう な面 白 可笑
しい〝捏造〟されたエピソードに包まれていたりするのです。
そ う い う 雨情 が自 分 の 境 涯 を 「数 奇 の 運 命 を た ど 」 っ た と 称 し た こ と は 非 常 に興
味 深 い もの があ り ま す 。 つ まり 人 に は 殆 ど語 り ま せん で した が、 自 ら 顧 み て己 の 人
生 は 〝 波 瀾 万丈 〟 だ っ た と い う の で す。 言 い 換 え れ ば 雨 情 は 自 らの 生 涯 を 誇 ら しげ
な 感慨 を込 め て数奇 な 運命 を 振り 返っ てい ると いえ な いで しょう か 。 つまり こ れは
自 分の 人 生に 対 する肯 定的 評 価と い う べ き で あ っ て 、 そ こ に 雨情 と いう 人 間の 生き
方というものが読み取れるような気がしてなりません。
さ て も う 一 人 、 石 川啄 木 に つ い て み る こ と に し ま し ょ う 。 啄 木 に 関 し て は 数 多 く
の 評 伝 、 小 説 、 研 究 書 、 論 文 が あ り ま す し 、 な に よ り 膨 大 な 日 記 や 書 簡 が 雄 弁 に啄
木像をつまびらかにしています。 そこでここでは敢えて不遜を顧みず、雨情を真似
て三百字以内で啄木の「自伝」を残してみましょう。
石川啄木自伝
明 治 十九 年 二 月 、岩 手 県 南 岩 手 郡 日戸 村 常 光 寺 に 生 る 。 十 六 歳 に て 盛 岡 中 学
退 学 後 、 東 京 に 出 て 与 謝 野 鉄幹 に 師 事 し 歌 壇 進 出 を 図 る も病 気 の た め 故 郷 渋 民 村
・
に戻りて再起を期す。十九歳の時初詩集『あこがれ』出版、父一禎 宝徳時住職馘
首 に よ り 一 家 窮迫 、 渋 民 村 に て 代 用 教 員 を し な が ら 作 歌 し上 京 の 機 会 を 窺 う 。 こ
の こ ろ か ら 小説 家 を 志 し 初 の 作 品 『 雲 は 天 才 で あ る』 執 筆 す る も 出 版 に 至 ら ず 。
家 庭 逼 迫 一 家 離散 と なり 単 身 函 館へ 渡 り 文 芸同 人 「苜 蓿 社」 に加 わ る。 三 ヶ 月 後
函 館 大 火 に 遭 い 札 幌 に 出 る 、 以 後 小 樽 、 釧 路 の 新 聞社 で 三面 担当 。 小 樽 時 代 に 野
口雨情と机を並べる。この間日記や書簡を除いて創作活動なし。明治四十年五月、
作 家を 目 指 し て上 京 する も 作 品 は 売 れ ず 自 暴自 棄 の 生 活 を送 る。 明 治 四 十 年『 一
握 の 砂 』 出 版、 前 後病 魔 に 襲 わ れ 闘病 む な しく 明 治 四 十 五年 四 月 逝 去 二 十六 歳 。
『哀しき玩具』は没後出版。墓は故郷渋民ではなく函館立待岬にある。
啄 木 の 場 合 は 二 十 六 歳 と い う 早 死 に で し た か ら 自 身 で 自 伝 を 書 く な ど と い う こ と
は 思 っ て も み なか っ た こ と で し ょ う 。 で すか ら啄 木 の 〝 晩年 〟 と い う 言 葉 自 体 が 奇
妙 な響 き を 持 っ て し ま い ま す。 自 伝 は や む を 得 ま せ ん が 追 随 を 許 さ な い 膨 大 な 評 伝
の 存 するこ と は特 筆さ れていいと 思 い ま す。 な に しろ八 十八 歳まで 生きた我 が 国の
誇 る 碩学 柳 田 國 男 で す ら自 伝 は 一冊 、 評伝 は 五指に 満ち て い ま せ ん し、 民 芸論 で 日
ら啄木がいかに人気があるかが分かります。
料 理 な ど の 世 界 を 凌駕 、 活 躍 した 北 大 路 魯 山 人 は 自 伝 は な く 評 伝 は 五冊 前 後 で すか
本 文 化 を リ ー ド し た 柳 宗悦 は 自 伝 は な く 評 伝 は 二 冊 で す。 ま た 陶 芸 、 書 道 、 篆 刻 、
3 北国の彷徨
で す か ら啄 木 の 生 涯 を 詳 し く 知 り た い 方 は そ れ ら の 評 伝 を 手 に と っ て 読 ま れ る こ
と を お 薦 め し ま す 。 大 体 、啄 木 の 評 伝 を 書 か れ る 方 は 啄 木 賛 美 者 と か 崇 拝 者 が 多 い
の で 彼の 生 涯 は 好意 的 に 描か れ る の が普 通 で す。 しか し 中 に は 茶 化 した り 皮肉 っ た
り する も の も 存 在 し ま すの で 出来 れ ば そ れ ら を 比 較 し な が ら 読 ま れ る の も 一 つ の 方
法かと思います。
評伝 以 外 の 評論 、 研 究論 文 な ど の 資 料 は 文 字 通 り 膨 大 な 数 に な り ま す。 一 つ 一 つ
真 剣に目を 通したなら 一生かかっ ても無 理か も知 れま せん。 いろい ろ比 較した わけ
で はあ り ま せん が棟 方 志 功と いう 芸 術 家( 板 画) に 関 する 評論 も 広 範多 岐 に わ た っ
て いて驚いたことがあ ります。 棟方 志功の場合 は七十二 歳という比 較的長めの 人 生
で し た か ら 評 論 や 研 究 の 対 象 に な る の は 分 か る よ う な 気 が し ま す が啄 木 の よ う な 短
い 生涯 を 思 う と そ の 注 目 度の 高 さ は桁 外 れ と言 っ て い い で し ょ う 。 た だ 、 問 題 点 が
ないわけではありません。 それは熱心さのあまりでしょうか重箱の 隅をほじくるよ
う な針 小 棒 大 な 傾 向 が つ き ま と う こ と もか なり 目 に つ き ま す。 ま た 、 専 門 家と 称 さ
れ る 人 々 が啄 木 像 を 一 方 的 に 増 幅 さ せ た り 、 あ る い は 過 大 評 価 し て 意 味 の な い 祭 り
上げをしてしまう傾向は依然として続いているような気がします。
で す か ら啄 木 の 実 像 を 知 る と い っ て も 、 な に し ろ 二 十 代 過 ぎ た ば か り で 生 涯 を 終
え て し ま う の で すか ら 、 ど ん な に 優 れ て 人 間 の 出 来 た 人 物 で も そ の 境 涯 は 未 完 と 考
え る べ き だ と 思 い ま す 。 未 完 で すか ら 欠 点 、 欠 陥 、 拙 速 、 稚 拙 、 早 熟 と い う 側 面 は
必 ず つ き ま と い ま す 。 多 く の啄 木 研 究 家 は こ の 側 面 を 見 落 と す か 無 視 し て 完 成 し た
啄 木 像 を 追 い求 め て い るの で は な いか と い つ も気 に な るの で す。 こ の た め 生じ る過
度 な 評 価 や 不 適 切 な 分 析 が 一 方 的 な啄 木 像 と な っ て ま か り 通 っ て い る 、 と い う よ う
に思えてなりません。
と こ ろ で 雨 情 と啄 木 に お け る 「 自 伝 」 だ け で は と う て い 二 人 の 境 涯 を 正 し く 把 握
出 来 る もの で は あ り ませ ん 。 二人 の 大 まか な 圧 縮 さ れ た デ ッ サ ン に 過 ぎ ま せ ん 。 幸
い 、 二人に は 共通 する というか 共 有 するキ ーワードがあり ま す。 そ れは 「北海 道」
で す。 北 海 道 を 仲 立 ち に し て 二 人 は 相 ま み え ま す。 そ し て同 じ 職 場 で 机 を 共に し ま
す 。 そ こ での 二 人 の 生 き 様 が少 し 大 げ さ に 言 え ば その 後 の 二 人 の 人 生 を決 定 づ け る
こ と に な る の で す。 そ こ で 以下 、 そ れぞ れの 北 海 道 との 関 わり を 見 て い く こ と に し
ま しょ う 。
二 雨情と樺太
まず雨情と北海道の 関わりから始めましょう。 茨城磯 原生まれの 雨情は早くから
3 北国の彷徨
文 芸に関 心を持 ち東京 神田の 中学時 代雑誌『 文庫』 に俳句 を投稿 し(雅 号烏城)入
選 した り 、 里 謡 風の 詩 を 書 い た り 、 専 門 学 校 (早 稲 田 大 学 ) で は 坪内 逍 遙の 知 遇 を
得て本格的な文芸活動の道にはいりました。
少 し 横 道 に そ れ ま す が 日 常 的 な メ モ を ほ と ん ど 残 さ なか っ た 雨 情 の 足 跡 を知 る上
で 雨情 を よ く知 る幾人 か の 人々の 手 に よる 「年 譜」 は 非 常に貴 重 で す。 その 主 な年
譜には次のものがあります。(作成年順)
(1)雨情会編「野口雨情略年譜」『野口雨情民謡童謡選』
(金の星社 一九六二・昭和三十七年)
(2)長久保源蔵「雨情関係略年譜」『野口雨情の生涯』
(暁印書館 一九八〇・昭和五十五年)
(3)野口存彌編「野口雨情年譜」『野口雨情 回想と研究』
(あい書林 一九八二・昭和五十七年)
(4)野口存彌「野口雨情年譜」『野口雨情』(未来社 一九八五・昭和六十年)
(5)野口存彌編「年譜」『定本 野口雨情 第八巻 童謡論・民謡論Ⅱ』
(未来社 一九八七・昭和六十二年)
記録 に 乏 しい 雨情の 生涯 に 対 し て 、 そ れぞ れの 方 々 の 年 譜に 賭 け た 熱 意 と 努 力 に
は 本当 に 頭が下 がるば か り で すが、 そう いう 献 身的 な 作業 を以 て して も こ れら の 年
譜 に よ っ て 雨 情 の た ど っ た 人 生の 多 く は ぼ ん や り と しか 浮 か び 上 がら な い の で す。
そ れどこ ろか 時 に誤っ た情報 すら紛 れ込ん で いて混 乱に拍 車 をか け るこ とさえ あ り
ます。
例えば 雨情最 初の年 譜とい われる 雨情会編の(1 )で「編纂後記」を 書いた浜田
廣 介 は 「 年 譜の 作 製に つ い て は 、 作 品 を中 心 に し て 、 藤田 健次 、 古 茂田 信男の 両 氏
があたり、特に藤田氏 よりは詳細 な資料がだされた。 わが民謡に関 しての多年にわ
た る 藤田 氏の 資 料の 採 集 、 保 存の 熱 意 は 敬服 すべ く 、 こ ん どの ば あ い も 、 ま こ と に
貴 重 な提供となった。 ほかには、人 見東明 、権 藤円 立、 古茂田の諸 氏 より各資 料の
提 供 、 な ら び に 助言 が あ た え ら れ た 。 そ し て校 正、校合 には、もっ ぱら古茂田 氏 が
あ たり 、 各 作 品 と も 原 典 に よ ら し め て い る 」 と 述 べ て い ま す。 こ こ に 名 前の 出 て く
る 藤田 、 古 茂田 は 雨情 の 側 近 中 の 側 近 であ り 最 も 雨 情 の 人 柄 と 生 活 を知 り 尽 く した
人 物 と 言 わ れ て い ま す 。 で すか ら こ の 年 譜 に も 十 分の 信 頼 を お い て い い と 思 う の は
当然です。
その 年 譜 で 注目 すべ き項 目 が一 九 〇 三 ・ 明 治 三 十六 年の 記事 な の で す。 そ こ に は
と に なりま す。 日時こそ 特 定してい ませんが固有名詞や 具体的な場 所が明記さ れ て
聞社長伊東山華氏と 会い、共に北海道に渡る。 」とあるのです。 雨情二十一歳のこ
「 春 、 坪 内 逍 遙 の 紹 介 で 小 石 川鼠 坂 上 の 梅沢 和 軒 を 訪ね 、 更 に 上 京 中 の 北 海 道 の 新
3 北国の彷徨
い ま すの で 誰 で も 信 憑 性 の 高 い 記 事 だ と 思 う の は 当 然 だ と 思 い ま す。 しか し 、 こ の
〝 裏〟 が取 れな いの で す。 しか も( 2 ) 以下の 年 譜 では この 一項 は すべ て掲 載さ れ
て い な いの で す。 と いう こと は その 後の 研 究や 検討 に よ っ てこの 時 期に 雨情 が 北海
道へ行った事実はない、ということを意味します。
ためら
しか し 、 私 は 雨情 が この 時 期に 北 海 道 へ 出 か け た 事 実は な い 、 と いう こ と を すん
なり認めるには躊躇いを持っています。 なぜなら藤田健次や古茂田信男といった雨
情 を よ く 知 る 立 場 に あ っ た 直 近 の 仲 間 が デ タ ラ メ を 残 す人 た ち で は な い と 思 う か ら
で す。 〝 裏〟 が取れないからその事 実はなかっ た 、とい い ますが、 それを認め れば
雨 情 の 生 涯 を 辿 る こ と は 不 可 能 に な り ま す 。 他 の ほ と ん どの 場 面 、 雨情か ら 〝 裏〟
をとることは出来ません。 こ れでは評伝を書くことすら不可能にな るでしょう。 し
た がっ て 大事 な こと は 限り な く事 実 に 近 い 〝 推 測〟 と いう 〝 裏〟 を 取っ て い く こと
だと思います。
こ の こ と に な ぜ こ だ わ るか と 言 い ま すと 雨 情 と 北 海 道 は か な り 重 要 な 関 係 を 含 ん
で い ると 考 え るか ら な の で す。 後 で もふ れ ま す が 雨情 は 北海 道の み な ら ず 当 時 日本
領 となった ばかりの 樺 太にも関心 を持ち 実 際に出かけ ています。 こ う した 雨情 の北
方性志向は単に青年期の好奇心や冒 険心からだけではなく、雨情の自己形成 は無論
の こと文 芸志向 に様々 な意味 で影響 を与える ものであったことは疑いないと思うか
ら で す。 そ の 点 か ら も 第 一歩 と な っ た 時 期 が 何 時 であ っ た か と い う こ と は 存 外 重 要
な意味を持っていると考えるのです。
雨情 が 最 初 に 樺 太 に 渡 っ た 時 ( 一 九 〇 六 ・ 明 治 三 十九 年 ) 西 海 岸ア モ ベ ツ で 見た
「悽愴たる月の光」を見て
故郷の常陸の国よ
あこがれのわが眼に映れ
妹の歳も忘れた
父母の歳も忘れた
(『主婦の友』一九二二・大正十一年十月号
*「私が一番深く印象された月夜の思出」アンケート回答)
と いう歌 を 挙げ てい ま す。 この 時 以来 雨情の 北 方性 志 向 は決 定的 なものと な っ た
と見てよいでしょう。 ま た 、 話 は か わ り ま す が 石 川啄 木 は 一 九 〇 四 ・ 明 治 三 十 七 年 、 十 九 歳 の 時 、 つ ま
父 が住職 の職を 追われたために経済的に困窮 し、その 打開の為、北海道の親戚筋に
訪 れ て い ま すし、 一九 〇 六 ・明 治 三 十九 年 に も再 度函 館 に 出か け て い ま す。 啄 木は
り 雨情 が 北海道 へ最 初 に渡っ た (は ずの)翌 年、単 身で北 海 道 へ 渡り函 館、小 樽 を
3 北国の彷徨
東 京へ 出 るた め の 金策 の 旅で した が 、 雨情の 場 合 は 父 親 が 武 家の 血筋 を 持 つ 地 主 で
あ り 村長 も 務め ていて経済的 には何 一 つ不自 由して いません で し たか ら 、その 気 に
な れ ば ど こ へ で も 出か け る こ と が で き ま し た 。 で すか ら 坪内 逍 遙 か ら 「君 、 ど う 、
こ の 夏 休 み の 間 、 北 海 道 に行 っ て は 。 私の 友 人 が新 聞 を や っ て い る か ら 記 者の 見習
で も し ては どう だ ろう 。 そう いう 文 章 修行 も悪 く な い」 と 言 わ れ て 渡 道 した 可 能性
は 否 定でき ません。 二十二歳だった 雨情は浮き 立つよう な思いで北 海道に旅立った
のだと思います。
そ れ に 北 海 道 と い え ば 雨 情 は 以 前 か ら あ る郷 愁 め い た 感 慨 を 持 っ て い ま し た 。 雨
情 が東 京 での 在 学中 、 教会 で 内 村鑑 三の 話に 感動 し て氏 が 札幌 農 学 校 出 身と い う こ
と を知って まだ見ぬ地 北海道への 憧 れにつ な がったと いうこともあ るでしょう。 当
時の若者は新大地アメ リカ、それに劣らない北の大地北海 道に憧 れを抱いていたも
の で す。 おそ ら くこの 時 の 旅は 雨情 にとっ て初 め ての 旅行 で したか らあ まり 欲 張ら
ず に函 館と 札幌だけ を 廻 る もの だ っ たと 思 いま す。 札幌 で は 逍 遙か ら 紹介 さ れ た 新
聞 社 を 訪 れ 社 長の 伊 東 山 華 の 歓 迎 を受 け ま し た 。 「 出来 るだ け 早 く 札 幌 に 来 て こ こ
で 働 い て く れ 。 北海 道 は こ れ か ら の 地 だ 。 やり が い があ るぞ 」 と 激 励 さ れ 、 そ し て
尊 敬 する内 村鑑 三も学 ん だ 札 幌農学 校の 生き 生きと した 同 世代の 若 者の 姿を目 の 当
たりにして雨情は北海道に対する憧憬の念を強くして一旦東京へ戻りました。
そ して (1) 以降の 年 譜に 見ら れ る北方と の 関 わ り を示 す記事 は一九 〇 六 ・ 明 治
三十九年以外はそれぞれ次の通りです。
(2)「七月樺太(サハリン)に渡り滞在。のち帰り上京。」
( 3)「七月ご ろ、樺 太に赴 き、夏の末、敷香付近 に、秋 、北緯 五十度線に近 い西
海の安別に滞在する。」
(4)(3)に同じ
( 5 ) 「 七 月ご ろ 、 樺 太に 赴 き 、 夏 の 末 敷香 付近 に 、秋 、 北 緯 五 十 度線 に近 い 西海
岸 の 安 別 に 滞 在 する が 、 国 境 線 を 画 定さ せ る 劃 境 委 員 の 一 行 に 加 わっ た 可 能 性 が強
い。」
( 3 ) か ら ( 5 ) は 野 口 存 彌の 監 修 に な っ て い て ( 5 ) に は 樺 太行 き の 背 景 が国
境線画定委員として提示されています。 しかし、その根拠となる資料は明示さ れて
い ま せ ん 。 岩 城 之 徳 を 中 心 と す る 筑 摩 書 房 の 『 石 川啄 木 全 集 』 ( 全 八 巻 ) の 編 集 の
厳 しい方 針 は有 名 で す が、そ こ まで ほ どでは ないに しても 資 料の 乏しい 中 での 編集
は 苦労の連 続だっただ ろうと思い ます。 しか し、(5)の記述はどうも納得で きま
せ ん 。 「 可 能 性 が強 い」 と い う の は 何 を 根拠 に した の で し ょうか 。 こ れ を 明 示 し な
野口存 彌が雨情について私心を捨 てて資料の発掘収集に真摯に 取り組 み、そのお
正ではありません。
い で 「可 能性」 だけ を 強 調 し て 正当 化 つまり 事 実と して容 認さ せ ようと するの は公
3 北国の彷徨
陰 で『 定 本 』 刊行 に こ ぎ 着 け た成 果 は 誰 も が 認 め る と こ ろ で す。 そ の 一 方 で 他 者か
ら み れば 子 息と いう 存 在やそ の 功績 を慮ばか り差 し 出がま しいこ と は避 け て通 る 雰
囲気 が醸成 さ れたよう で す。 加 藤唐九郎という 陶 芸の〝 巨匠〟 が亡 くなっ て追 悼集
が編まれましたが編集員に子息が入っていました。 著名人への追悼アンケートで
〝巨匠〟への批判や嫌み、皮肉な内容はすべてカットされたという話がありますが、
こ う いう 〝 取り 巻 き〟 感覚 は 本人 の 最 も 好 まな い もの だ と 思 い ま す。 『 定本』 の 編
集 で は 子 息 存 彌の 意 向 が 強 く 働 い た と 言 わ れ て い ま す 。 『 棟 方 志 功 全 集 』 ( 講 談社
版 )の 編 集 で も 娘 婿の 宇 賀 田 達 雄 が 強 い 発言 力 を行 使 し『 月 報 』 の 巻 頭 原 稿は 他 人
を 寄 せ 付 け ず すべ て 彼 自 身 が 書 い て 読 者の 顰 蹙をか っ た もの で す 。 野 口 存 彌編 『 回
想 と 研 究 』 原 稿 も 彼の 意 向 で 取 捨 選 択 が行 わ れ た と いう 話 を さ る 編 集 者 か ら 聞 いた
こ と があ り ま す が、 い ず れも 〝 身内 〟 に よる 弊害の 例と い う べき か もし れませ ん 。
国 境線 確 定委員 と いう 正体不 明の ポ ス トを無 理に つ け て ま で父 親 を少 し で も高 く 評
価 しようと した私情が垣間見える ような編 集は避けるべきでした。 むしろ樺太とい
う 最 北 の 辺 境 で 苦闘 し な が ら 流浪 す る 雨情 像 の 方 が 彼 に ふ さ わ し い よう に 思 え て な
りません。
三 雨情と北海道
さて、雨情が〝正式〟に北海道へ渡ったとされるのが一九〇九・明治四十年です。
た だ 、 そ の 細 か な 月 日 に つ い て は こ れ ま た 分か れ ま す 。 で すか ら こ こ で は 七 月 頃 と
しておきましょう。この四年前、雨情は栃木県の高塩家の雨情と同年のひろと結婚、
長 男 雅 男 が 生 ま れ ま し た が 父 を亡 く し 家 計 が 傾 き 生 活 も創 作 活 動 に も行 き 詰 ま っ て
い まし た。
言 い 伝 え で は ひ ろ 夫 人 と は 折り 合 い が悪 く 不 幸 な 家庭 生 活 と な っ て い ま すが 後 に
述 べ る よう に そ れ は 誤 解 で ひ ろ 夫 人 は 雨情 を しっか り 支え て い ま す。 た だ 、 ひ ろ 夫
人 は文芸関係には関心 がなか ったようで、創 作に苦悶 する 雨情を 傍から 見てい るこ
と しか 出来 なか っ た の で す。 地 元 磯 原に い て も 朝か ら 晩 ま で部 屋に 隠 っ て 詩 作 に 耽
り 、 時 に は へ べ れけ に なっ て 磯 原の 海 岸 で 見 つか っ た り 地 元の 人 間 と 疎 遠に な っ て
い き ま し た 。 そ ん な 雨 情 を み て 心 機 一 転さ せ よ う と ひ ろ は 栃 木 県 の 知 人 宅 に 移 転 さ
事によって雨情は自分の詩歌への道の基礎を固めることができたのです。
十一年には民謡集『朝花夜花』を第一編か ら第三編までをまとめ ています。 この仕
せ ま した。 こ れがよか ったの で しょう。 雨情の創作意欲 が高まり一九〇八 ・明治四
3 北国の彷徨
しか し 、 こ の 当 時 詩 集 の 出 版 は 自 分 で 全 額 負 担 し な け れ ば な り ませ ん で し た 。 印
税 が入る わけ で はあ り ません か ら 生 活 は苦 し く、 ひ ろ夫人 がなん とか 工 面 を し て雨
情 を 後 ろ か ら 支え て い ま し た 。 雨 情 が『 朝 花 夜 花 』 を 恩 師 の 坪内 逍 遙 に 持 参 す る と
「今の まま では歌どこ ろでなくな るだろう 。 い つか 紹介 した伊東君 に言ってお くか
ら しばらく北海道で足場を固めてはどうか 。 今、若い歌人や作家たちは南方ではな
く 北方に目 をむけてい る。 幸田露伴 や国木田独歩 、岩野 泡鳴、葛西 善蔵君など がそ
う だ。 君は まだ 若い し北 海道へ行 っ ても苦労 す るだろう が、 未開の 北の 大地の エ ネ
ルギーを吸収するつもりで頑張って来たまえ」と激励されました。
まだ幼 い子 が いま すか ら渡 道の決 意 をひろ に伝え ると 「 家族と いう もの は一 緒に
い て 家 族 で す。 貧 乏 も 共 に し て こ そ の 家 族 な ん で すか ら 」 と い っ て 雨 情 を 励 ま し た
の で す。 しか し 雨情 は 単 身 渡 道 し 札 幌 に 北 鳴 新 聞の 門 を く ぐ り ま す 。 社 長 の 伊 東 山
華とは一度会っているから話は簡単でした。「月給は十五円、主筆は岩泉江東君だ。
君 は主 筆代 行 と いう こ と で補佐 し てく れ」 と岩 泉に引 き合 わせ ま した。 岩 泉は 無 愛
想でしたが気骨のありそうな武人の面影のあ る人物で雨情は 好感を持ちました。
「今は札幌では 弱小新 聞と言 われているが力 を合わせて販売を伸 ばそう」といわれ
て雨情は安心しました 。 当時、新聞記者はバンカラ風をふかしデタラメな記事ばか
り 書くと いうの で社会 的地位 は高くあり ません でした が社内 は穏 やか な空気 が 流れ
て いて、こ こならやっ てゆけそう だという 安堵感を持 つことがで きました。 た だ、
岩 泉は 雨 情 があ まり の ヘ ビ ー ス モ ー カ ー で 煙 草 を 手 か ら放 さ な い の で 「 君 、 そ ん な
に 吸 っ ち ゃ 長 生 き で き ん ぞ」 と 言 う と 「はあ 、こっ ちへき てから また少 し増えたよ
う でやん すが、 なにしろ札幌 ではどんなに吸 っても おいしい空気 がいっ ぱいあ りや
すんで心 配いり ません」見ていると 一本が消えないうちに次の一本にもう火がつい
ているというような具合でした。
社 屋は 北 一 条 西 二 丁 目 にあ り 札 幌 駅に 近 く 北 海 道 一 と い わ れ る 五 番 館 と いう 出来
た ばか り の 百貨 店が近 くにあ っ て 五 番の目の ように 広 がる街 路 は 田舎暮 ら しに 慣れ
て い た 雨情 を 満 足さ せ ま した 。 下 宿 か ら 社 ま で は 徒歩 で 七 、 八 分、 十 時 に 出社 し、
岩 泉か ら 指示 を う け て 企 画の 手 配を したり 、 記 者 が あ げ て きた 原 稿に 手 を 入 れ 夕刻
に は 朝 刊 の 校 正 を し 午 後 五 時 に は 自 由 に な れ ま す 。 雨情 が気 に 入 っ た の は 社 か ら歩
い て 五 、 六 分でゆ け る 札 幌 農 学 校 で し た 。 こ こ か ら 尊 敬 す る内 村 鑑 三、 そ し て 新 渡
戸 稲造 ら が 育っ ていっ たと思うと 身震 い が するほ どの 感動 を覚 え るの で した 。 いわ
ゆ る時 計 台と 称 さ れ る 「演武 場 」 は 一 階 が講 堂 、 会 議 室、 二 階 に は 図 書 室があ り 、
一 般 に は 開放 さ れ て い ません で した が新 聞記 者は名 刺 で自 由に 出 入り で き ま し たか
ら 、 時 間 があ る と 雨情 は 二 階 の 図 書 室に上 が り 窓 際 で広 い 街 路 を 眺 め な がら 読 書 を
酒と女におぼれ作品を 残しません で した。 (函 館時代に歌と小説を書きました が大
と 違います。啄 木は北海 道に渡り函 館、札幌、小樽、釧路で新聞記 者をやりま すが
愉 し ん だ り 、 作 詞 に 励 む の で し た 。 こ の 点 、 次 に 述 べ る こ と に し て い ま す 石 川啄 木
3 北国の彷徨
火で焼失してしまいました。)
そ う し た 日々 を す ご し て い た 時 で す。 あ る時 、 下 宿 に 一 人 の 訪 問 者 が や っ て き ま
し た 。 そ れ が啄 木 で し た 。 こ の こ と を 回 想 し た の が 例 の 「 札 幌 時 代 の 石 川 啄 木 」 な
の で す。
四 啄木と函館
さ て 、 今 度 は 石 川啄 木 の 話 に な り ま す 。 雨 情 の 下 宿 に や っ て き た 客 、 そ れ が 啄 木
で した。 啄 木が 渋民村を 出て函館へ 渡ってくる までにつ いては「自 伝」で概略 を述
べ ました が、こ れでは あ まり に も不 十 分なの で もう 少 し付 け加 え ておき ましょ う。
お
啄木の歌の中で最も知られているのが
いし
い
石をもて追はるるごとく
き
とき
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
と いう 歌 で す。 盛岡 中 学 を初 恋 や 授 業 の つ ま ら なさ か ら 怠業 する よ う に な り 、 つ い
に 試 験の カ ン ニ ン グ が 発覚 し て苦境 に 立たさ れた 時 に 詩歌 界 を代 表 する 文 芸誌 『 明
星』に三年越しの投稿が実って「白蘋」という雅号で次の一句が掲載されたのです。
血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋
この 〝 快 挙 〟 でカ ン ニ ン グ の 件 は 無 罪 放 免 と な り ま し た が 、 得 意 満 面 の啄 木 は 魅
力 の な い 中 学 に さ っ さ と 見切 り を つ け て 筆一 本 で 生 き よう と決 心 し退 学 届 け を だ し
て 上 京 し 、 新 詩 社 を 主 宰 する 与 謝 野 鉄幹 と 会 い 詩 壇 進 出 を 図 り ま すが 病 臥 に 伏 し て
渋民に戻ります。それまでの啄木は父一禎が渋民村宝徳寺の住職をしていましたし、
啄 木庫裡の 六畳の 書斎 を持つ優雅 な生活を 送っていま した。 啄 木庵 と名付けた その
書 斎か ら は 小 池 の 見え る庭 園 を眺 め 、 庭 先 に はヒバ 、 閑 古 鳥 がや っ て き て何一 つ不
自由ない学生生活を送っていたのです。 啄 木の生涯が困窮を極め闘病の果てに終
わ っ た と い う 見 方 があ り ま す が 、 そ れ は 〝 晩 年 〟 の お よ そ 五 年 間 であ っ て そ れ ま で
は人並み以上に恵まれた暮らしであったことを見逃してはならないと思います。
い 打ち をか け る事 件 が起 こり ま す。 父一 禎が本 山への 納 付金 滞納の か どで宝徳 寺住
く 再 度上 京 し ま す が 、 思 う 通 り に こ と が 運 ば ず に 苦 境 に 立 た さ れ ま す が 、 さ ら に 追
そ して一旦渋民に戻って療 養 しな がら再起 を図り 初 詩集『あこ がれ』 を出版 すべ
3 北国の彷徨
職 を 追放 に なっ て しま うの で す。 よ うやく『あ こ がれ』 は 出版に漕 ぎ つけ ま す がこ
れ か ら の 見 通 し は 全 く 立 た な く な っ て し ま し ま し た 。 そ れ で も啄 木 は 初 恋 の 堀 合 節
子 と結婚、盛岡に一軒 をかりて一 家揃って暮らしました。 この頃盛岡の仲間と『小
天地』という文芸誌を作りますが「一号」で終わります。 この時の生活が啄 木に
とって最も幸福で平和な時代でした。
しか し 、 仕 事 もな く 父 は 失 業 、 た ま に 依 頼 の 来 る 新 聞 や 文 芸 誌 の 原 稿 料 で は と う
ていやっ てゆけ ず父は 青森の知り合 いの寺に、妹光子は盛岡の親戚に、 そして母と
節 子 、啄 木 は 渋 民 の 農 家 の 六 畳 一 間 に 仮 寓 す る こ と に な り ま す 。 啄 木 は こ こ で 小 学
校の月給八円の代用教員になり、「日本一の代用教員」を自負し全力で教育にあた
ぼく しゅく
べに
り ま した 。 しか し、や が て精 神的 に 疲労 困 憊、 生活 に行 き詰 まり 一 禎の 復職 運 動 が
失敗に終わり万事窮します。
まごやし
ち ょう ど この 少 し 前 、 函 館 の 若 き 詩 人 た ち の 作 る 「 苜 蓿 社 」 同 人 か ら 文 芸 誌 『 紅
苜 蓿』 へ の 寄 稿 を 依 頼 さ れ て い ま し た 。 苜 蓿 社 の メ ン バ ー は 『 明 星 』 の 愛 読 者 で も
あ り 、 ま た『あ こ がれ 』の 読 者で もあ ったの で東北 の 生ん だ若き 天才 詩 人 に目 をつ
け ての 寄 稿 依 頼 で した 。 啄 木はさっ そく筆を取り同人への賛辞と詩 三編を送っ て激
励 したの で した。 苜蓿 社 の 同人 たち か ら北海 道 へ こ ら れ る場 合は是 非顔 を 出し てい
た だ き た い 旨 の 丁 重 な 返 礼 を も ら っ て い た こ と を 思 い 出 し て啄 木 は 一 通 の 手 紙 を 函
館 に出したのです。 「で きれば近い 機会に苜蓿 社の方々 にお会いしたく云々」 これ
を読んだ面々は飛び上がって歓声をあげました。東北の若き天才がやってくる!
啄 木 は 母 を 渋 民 の 知 人 宅 に 、 節 子 と 年 末 に 生 ま れ た 長 女 の 京 子 を 実 家 の 盛 岡 に 、
妹 は 小 樽 で 駅 長 を し て い る義 兄 に 預 け る こ と に し 、 家財 を 売 り 払 っ て 足 り な い 分は
実 家に頭を下げ てよう やく旅費を 拵えて単 身津軽海峡 を渡るので した。 一九〇 七 ・
明治四十年五月五日、啄木二十一歳のことでした。
五 津軽海峡を渡った作家たち
少 し横道 に入り ま す がこの 時 期 、北海道 には続々 作 家たち がや っ てきました。 早
い時期には国木田独歩 がいます。 一八九五・明治二十八年の初秋に札幌駅に降り
立った独歩 は札幌農学 校に新渡戸稲造を訪ねて歓 談しています。 そ して道庁で土地
選 定の 相 談 を し ま した 。 定住 が 実現 し なか っ た の は 婚 約 者 がア メ リ カ へ 発 つと い う
の で独歩 が急遽 東京へ もどらなければならなくなっ てこの 話はたち消えになっ てし
作風を生んだとも言われています。
家 と い っ て い い か も 知 れ ま せ ん 。 わ ず か 五 日 間 の 滞 道 は や が て『 武 蔵 野 』 へ と 続 く
ま い ま し た 。 彼 は 旅行 者 と し て で は な く 北 海 道 へ の 定 住 を 本 格 的 に 考 え た 最 初 の 作
3 北国の彷徨
啄 木 が 渡 道 し た 時 期 前 後 に 北 海 道 に や っ て き た 作 家 た ち で い い ま すと 、 ま ず 徳 富
(
蘆花でしょう。 『不如帰』 一八九八・明治三十一年)『自然と人生』『思ひ出の
記 』 ( 一 九 〇 〇 ・明 治 三 十 三 年 ) で 既 に 文 壇 で 不 動 の 地 位 を 固 め て い ま した が 一 九
〇 三 ・明 治 三十六 年 に 北海 道 に渡 っ てい ま す。 こ れは 後 に 出る『 寄 生木 上 ・ 中 ・
下 』 (一 九 〇 九 ・明 治 四 十二 年 ) 三 巻 と いう 旭 川師 団の 兵 士の 物 語 の 為 の 取 材 旅行
でした。
また 島 崎 藤村 は 一 九 〇 四 ・ 明 治 三 十 七 年 、 日 露 戦 争 開 戦 の 最 中 露艦 船 が 津 軽 海 峡
で青函連絡船を撃沈して一週間後に函館にやってきています。 当時、藤村は『 破
戒 』 を貧 困の な か で 書 き上 げ 、こ れ を自 費 出 版 すべ く函 館 で手広 く商 売 を して い る
岳 父 に その 費 用の 借金 の 依 頼 で し た 。 岳 父 は 「 わざ わざ 危 険 を冒 し て海 峡 を渡 るこ
しりべし
と な ど せ ず 手 紙 で済 ん だの に」 と い い な が ら 快 く 引 き 受 け て く れ たの で す。 藤 村は
感謝の気持ちを『家』に書いています。
葛西善蔵は一八八九・明治二十二年に一家で後志の寿都に移住し、ニシン漁で一
旗揚げようとして失敗 、二度目は一九〇三・明治三十六年、善蔵単身で渡道し道内
を 放 浪 し ま す。 その 体 験 が『 雪 を ん な 』 ( 一 九 一 七 ・ 大 正六 年 ) や 『 姉 を 訪ね て』
(一九二〇・大正九年)などに集約されています。
また 、 有 島 武 郎 は 第 十九 期 生と し て 一 九 〇 一 ・明 治 三 十 四 年 札 幌 農 学 校 を 卒 業 、
ハ ーバ ー ド 大 な ど 留 学 生 活 を 終 え て 母 校 札 幌 農 学 校 教授 と な り 恵 廸寮 舎 監 、新 渡 戸
稲 造 が創 設 し た 遠友 夜 学 校 の 運営 に あ た り 、 ま た 日 本 文 学 に お け る リア リ ズ ム の 騎
手として確 固とした地 位を築きま した。 『カイ ンの末裔』『 生まれ 出づる悩み』は
まさしく北海道の風土から醸成された作品です。
武 者 小 路 実 篤は 有 島 武 郎 の 招 待 で 札 幌 を 訪ね て い ま す。 武 者 小 路 実 篤 も 一 時 は 札
幌 に 移 住 し よう と 考 え た よ う で す 。 有 島 武 郎 に 頼 ん で 一 軒 家 を 借 り て い る の で す。
そ して友人 の 志 賀直哉 に遊 びに く る よう 手 紙 を 書い て い ま す。 しか し 定住 まで はゆ
きませんでした。
また長田幹彦は谷崎 潤一郎 と並ん で文壇に 登場 し ますが北海道 との関 わりは 青年
時代からの北海 道放浪 に始まり、何 度目かの 渡道では旅芸人と共に各地 を〝巡業〟
みお
し、芸人の道の魅力にとりつか れ彼等と行動を共にし、時には自ら〝菊五郎〟や
〝団十郎〟に扮して舞台でオヒネリをもらう〝光栄〟に浴します。 『澪』(一九一
一 ・明 治 四 十 四 年 ) 『 零 落 』 (一 九 一 二 ・ 明 治 四 十 五 年 ) は 北 海 道 で の 旅役 者 の 体
験 が リアル に 描か れた 優れた 作品 に なっ て い ま す。 劇 団 が岩内 町で 解散 したあ と 町
の娘に口説かれてまた放浪を続けるといった小説を地でいく作家でした。
最 後に岩 野 泡鳴 をあ げ ておき ま しょう 。 泡鳴 は『 耽溺 』 (一九〇 九 ・明 治 四 十二
揚 げ な いか と 誘っ て 屋 敷、印 税 を すべ て こ れ に 注 ぎ ま す。 田 山花 袋 に 宛 てた 手 紙 に
れ て荒んだ 生活を送り ました。 そこへ従弟の小 林宰 作が樺太で蟹の 缶詰事業で一旗
年 ) で文 壇デビ ュ ーを 果 た し 売 れっ 子 作 家に なり ま した が 酒と女 に明 け 暮 れ 筆 は 荒
3 北国の彷徨
は 、 その 悲 壮 な 決 意 が 述べ ら れ てい ま す、 従 弟 に 工 場 経 営 を一切 任 せ て い ま し た が
約 束の利益 金 が一向に 届きません 。 気になった 泡鳴は気 乗りの しな いまま樺太へ自
分の工場 の運営 を確か めにゆ くこと にして東 京から海路函 館雪小 樽に着 いたの が一
九 〇 八 ・明 治 四 十 一 年 六 月 二 十 三 日の こ と で し た 。 そ れ か ら 樺 太 に 向 か い 、 マ カ オ
ほうほう
に 迎えにき た 従弟の 話 は いろ いろ 努力 した が破産寸 前 と いう こと で した。 泡鳴 は失
望と自棄で酒色に溺れ這々の体で樺太を逃れ小樽に戻ります。 やがて札幌に出ます
が 酒色三昧 は変 わり ま せん が地元の人士た ちとの交 際 も欠か しま せんでした 。 野口
雨情とあっ たの もこの 時で す。 転ん でもただで は起きな い人という のはこの泡 鳴の
こ とか も知 れ ま せん 。 『 耽溺 』 (一 九 〇 九 ・明 治 四 十二 年 )『 放 浪 』 (一九 一 〇 ・
明 治 四 十 三年) 『 断橋 』 (一 九 一一 ・明治 四 十四年 )は い ず れ も 泡鳴の 私 生活 と北
海道を背景に生まれた作品でした。
こうして見てきますと多くの作家たちが北 海道に関心をもっ ていたことが分かり
ます。 そしてやがて北海道から新人作家たちが相次いで輩出し北海道文学という
ジ ャ ンル が 育 っ ていく こと に なり ま す。 作 家の み な らず 文 芸批 評と いう 分野 で も優
れ た 人 材 が 相次 い で 生 ま れ ま した 。 また 戦 後は ベ ス ト セ ラ ー 作 家 も 誕 生 し ま し た 。
そ れらは次第にローカルなものからやがて日本文芸船体に影響力 を持つにいたりま
す。それはやはり北海道という独特な風土と密接に関わっているに違いありません。
六 苜蓿社と啄木
函 館の 苜 蓿 社 の メ ン バ ー は啄 木 が 生 活 に 追 い 詰 め ら れ て函 館へ や っ て き た と は
思 っ て も い ま せ ん で し た 。 東 北 の 歌 の 天 才 が気 まぐ れ に 一 時 的 に や っ て き た と 考 え
て い たの で す。 しか し内 情 を 知 ると メ ン バ ー は む しろ 喜ん だ もの で す。 こ の 若 き歌
人にこれからずうっと 指導 してもらえると思ったからです。 そ して創刊まもない
『 紅苜蓿 』 の 編集 長に なっ てもら え れば い う こと はあ り ません 。 た だ『 紅苜蓿 』 が
商 業 ベ ー ス に 乗 ら な け れ ば啄 木 の 生 活 は 確 保 で き ま せ ん 。 そ こ で メ ン バ ー は 当 座 を
凌 ぐ た め の 仕 事 探 し に 奔 走 し ま し た 。 あ る 者 は 函 館 商 工 会 議 所の 事 務の バ イ ト を 、
ま た あ る 者 は 月 給 十 二 円の 小 学 校 の 代 用 教員 の 仕 事 を 、 そ し てあ る もの は 函 館 日々
新聞の記者の口を持って来てくれました。
啄 木 は か つ て 故 郷 の 渋 民 村 で 代 用 教 員 を や っ て い ま し た 。 全力 を 挙 げ て の ユ ニ ー
ク な 教 育 実 践 を 試 み ま し た 。 こ ど も た ち か ら 大 人 気 の 先 生 で し た 。 しか し 月 給 八 円
り 切って大活躍 するか と思いきや学 校の方は女教師への関心ばか りで授 業はそっち
自作のストライキの歌を森に木魂させて憂さを晴らして村をでたのです。 今度も張
こだま
で は 親 子 三 人 と 母 を 養 う こ と は 困 難 で し た 。 学 校 を や め る と き啄 木 は こ ど も た ち に
3 北国の彷徨
の け、サボ ること もしば しばでし た。 啄 木が熱を入れたのは『紅苜蓿』の編集と函
館日々新聞の文芸欄でした。
は
た
ち
生 活 の メ ド が 立 っ た の で 彼 は 家 族 を 函 館 の 下 宿 に 呼 び 寄 せ ま し た 。 な に し ろ啄 木
はこの時は二十歳を過ぎたばかり、一家離散という悲劇はつらい経験だったでしょ
う。しかし、それは啄木に取ってこれから始まる悲劇の序曲にすぎなかったのです。
そ れ で も 函 館 で の 生 活 に啄 木 は 満 足 し て い ま し た 。 家 族 五 人 に 二 間 は 狭 す ぎ て 机
を お く こ と も 出 来 ま せ ん で し た が笑 い 声 が 絶 え ま せ ん で し た し 、 苜 蓿 社 仲 間 は み ん
な 気 の い い 人 間 で 、 そ の 輪 の 中 心 が 啄 木 で し た 。 た い て い メ ン バ ー が 質 問 し啄 木 が
答 え る の で す 。 時 折 、 東 北 弁 の 混 じ る啄 木 の 話 を 一 語 一 句 聞 き 逃 す ま い と 真 剣 で し
ひとびと
た 。 な に しろ 相 手 は 時の 人 、 与 謝 野 鉄幹 と 晶 子 と 対 等 に 話の 出来 る 人 間 なの で すか
ら。
え
さけ
ばしょ
こころざし得ぬ人人の
わ
いへ
あつまりて酒のむ場所が
我が家なりしかな
「 こ こ ろ ざ し 得 ぬ 人 人 」 と い う の は 実 は啄 木 自 身 で 、 メ ン バ ー は そ れ ど こ ろ か 満
足 していました。 この歌は逆 に解釈されているきらいがあ るように思います。 そし
ひ
て啄 木 が こ の 環 境 に 満 足 し て い な か っ た こ と も あ き ら か で す 。 し か し 、 と り わ け あ
るメンバーが啄 木の注意を惹きました。 その人物は口数も少なく感情をほとんど表
に 出さ ず 、 周り の 意 見 を黙 々 と 聞 い て い る だ け で自 分か ら 言 葉 を 発 する こ と は あ り
ま せ ん で し た 。 啄 木 は 直 感 で 人 を 見抜 く 独 特 の 才 能 が あ り ま し た 。 第 一 印 象 で そ の
人物を見極めるのです。 それがまた的を外すことがないのです。 その人物に啄 木は
苜 蓿社の 会合の 終えたあと、 「もし よければ 二人で お話を しませんか」 と声をかけ
ました。 その人物は宮崎大四郎(郁雨)といいました。 郁雨は思いがけない言葉を
かけられて恐縮してしまいました。 なにしろ雲の上のような存在の天才歌人に声を
か け ら れ て 感激 し ま し た 。 啄 木 は無 口 で 木訥 、 一 見無 愛 想 に 見え る この 人 物 が 揺 る
ぎ な い 信 念 の 持 ち 主 で あ る こ と を 見抜 き ま し た 。 以 後 、 二 人 は 肝 胆 相 照 ら す 仲 に な
り ま し た 。 右 京 も 述 べ て い た よ う に 金 田 一 京 助 と な ら ん で 郁 雨 の 存 在 は啄 木 を 語 る
上 で は 欠 か せ ま せ ん 。 故 郷 で も な か っ た 函 館 に啄 木 の 墓 があ る の は 一 重 に こ の 郁 雨
みづ
おもて
み
あってのことなのです。
おほか わ
いくう
大川の水の 面 を見るごとに
おも
君のなやみを思ふ
きみ
郁雨 よ
3 北国の彷徨
哀 し い こ と に啄 木 は 病 に 伏 し て 再 起 不 能 と な っ た 〝 晩年 〟 に 郁 雨と 義 絶 し ま す。
そ れ は啄 木 が 本 心 か ら 願 っ た こ と で は な く 、 む し ろ そ の 逆 で 自 分 の 生 涯 を 支 え た く
れた恩人への最後のわがままだったと言ってもいいかと思えてならないのです。
生活は決 して楽ではあり ません で した が 順調でした 。 商 工会議所のバイ トは なく
な り ま し た が 代 用教員 の 十 二 円 と 函 館 日々 新 聞の 十 五 円 合 わ せ て 二 十 七 円 が 定 期的
に 入っ てく れば なん と か なり ま す 。 生活の 見通 し が思 い がけ な く早 く つ い て『 紅苜
蓿』の編集にも力がはいり小説『面影』(百四十枚)を書き、函館日々新聞には
「月曜文壇」 「日々歌 壇」 「辻講 釈」の企 画を立て筆 も取ってい ます。 この調子で
は 当 分 函 館 に 落 ち 着 い て 暮 ら せ る か ら 、 こ こ で 力 を 蓄 え て 上 京 の 機 会 を 狙 お う と啄
木は考えました。
と こ ろ が一九 〇 七 ・ 明 治 四 十年 八 月 二 十 五 日 午 後 十時 東 川町の 民 家か ら 出 火 、 折
か らの 強 風 に 煽 ら れ て 火 炎 は 市 街 地 を 襲 い 街 の 三 分の 一 を な め 尽 く し た の で す。 駅
舎、官公庁、旅館、学校、病院、企業など主要な建物が啄 木の勤める弥生小学校、
函 館 日 々 新 聞 社 も 焼 失 し ま し た 。 幸 い啄 木 の 家 屋 は す ん で の と こ ろ で 延 焼 を ま ぬ が
れ ました が 、学校や新 聞社の 再興 の メドが 立ちません 。 啄 木は苜蓿 社仲間と相 談し
て 札幌へ 出 ることに な り ま した。 札 幌 に いた仲 間の 一人 が友人の 小 国 露 堂 を 通 じ て
北 門新報社の校正係の口を見つけ てくれました。 えり好みしている場合ではあ りま
せん。啄木は家族を函館の仲間に託し単身札幌を目指します。
函館はわずか百三十一日でしたがこの滞在は二つの大きな意味を持っていました。
一 つ は 弥 生 小 学 校 で 生 涯 の 心 の 恋 人 に 出 会 っ た こ と で す 。 こ こ で啄 木 は 橘 智 恵 子 と
い う 女 教員 を 見初 め た の で す。 実 際 に 二人 だ け で 会 っ た の は 一 回だ け 、函 館 を 去 る
日 『 あ こ が れ 』 を 持 っ て 智 恵 子 の 下 宿 に 行 っ た 時 で啄 木 は 一 時 間 ほ ど 語 り 合 っ た と
言 っ て い ま す 。 し か し こ れ は啄 木 の 思 慕 が 言 わ せ た 言 葉 で 実 際 は 玄 関 先 で の 会 話 の
みだったと見るのが自然です。
し か し 、啄 木 の 脳 裏 に 焼 き 付 い た 智 恵 子 の 楚 々 と し た 容 姿 は 容 易 に 消 え 去 り ま せ
んでした。それどころか北海道を去って東京で身を立てるため苦闘の日々が続く中、
あこがれ
ひ
と
そ の 思 慕 は ま す ま す 増 幅 し 、 つ い に は 理 想 の 恋 人 に 昇 華 さ れ て啄 木 の 報 わ れ な い
日々の憧憬の女性でした。 せっかく書いた小説 も売れず、自殺まで考えた啄 木がこ
の 女性の お 陰 で 救われ ていたの で した。 啄 木が亡くなる少し前に出版された『 一握
の 砂』 に は 五 百 五 十 一 首 の 歌 が収 ま っ てい ま す が 、 その う ち 橘 智 恵子 を 思 っ て 作ら
れ た 歌 は 二 十 二 首 、死 後 に 出 さ れ た 『 哀 し き 玩具』 には一 句、そ れもいずれもが名
こ
句とされ広く国民に口ずさまれたものでした。ここでは一句だけ紹介しましょう。
やま
おも
きみ
おも
かなしき時は君を思へり
とき
山を思ふがごとくにも
やま
山の子の
3 北国の彷徨
一 人 の 女 性 へ の 思 い を こ う し た 句 に 啄 木 が 残 し て く れ た の も啄 木 が 函 館 と い う 地
で 弥 生小学 校 と い う 場 所 で橘 智 恵 子 に 出会 っ た か ら で した 。 そ し て もう 一 つの 意 味
は 渋 民 村 を 追 わ れ 、 一 家 離 散 の ど ん 底 状 態 か ら函 館 に 渡 り よう や く に し て つか ん だ
安 定し た 日々 、 そ れ が こ の 大 火で 一 挙 に 灰 燼 に 帰 し て し ま い 、 函 館 を 出 な け れ ば な
ら ない 状況 に陥っ て し まいま した 。 も し大 火が なけ れば この 後続 く 札幌、小樽 、 釧
路 へ の 漂 白 の 旅 は な か っ た に 違 い な い と い う こ と で す 。 函 館 大 火 は啄 木 の 短 か っ た
人 生に 大 火 を超 え る煉 獄の 世 界 へ 突 き 落と す結 果 に な り ま した 。 し か し、 この 時 、
啄 木 は そ こ ま で 自 分の 人 生 が 厳 し い 試練 に 立 た さ れ て い る と は 思 っ て も い ま せ ん で
し た 。 意 外 か も 知 れ ま せ ん が啄 木 は 基 本 的 に 楽 天 家 な の で す 。 く よ く よ す る と い う
こ とは嫌いでした。 いつも「なんとか なる」と いう気 持ちを持って いました。 とて
こと
も有名で親しまれている
なん
ことし
何となく、
ぐあんじつ
あさ
は
かぜ な
今年はよい事あるごとし。
元日 の朝、晴れて風無し。
と い う 歌 は 一 九 一 一 ・明 治 四 十 四 年 の 元 日 の 風 景 と こ の 日の啄 木 心 象 を詠 ん だ も
の で す 。 実 は こ の 年 が 明 け る 前 の 十 二 月 二 十 九 日 、啄 木 は 西 村 真 次 と い う 編 集 者 に
原稿料の前借りの長い手紙を書いているのです。その一部を引用しますと、
西村さん。 兎ても申上げ られない程の無 理なお願ひなので御 座いますが、万一
出 来 ま す事 なら ば 、 原 稿 料 の 前 借 と い ふ や う な 名 で 金 拾 五円 許 り 御 都 合 し て 助 け
て頂けますまいか。 これが健康な時なら、こんなお願ひをするにしても、徹夜
で ゞ も 何 か 書 い て 、 直 接 お 訪ね し て お 願 ひ する の で す け れ ど 、 今 の か ら だ で は そ
れ も 出 来 ませ ん 。 但 しお 許 し下 さ れ ば 、あ な たの 御 命 令 の も の を是 非か き ま す 。
私 で出来 るものなら何で も書き ます。 学生に 読ませるやうな短 編で も、 感想の や
う な も の で も 、 或 は また 歌 で も 、 何 で も御 命 令 通 り に 書 き ま す。 ま た 、 名 前 を 出
さなくて済むやうな種類のものでもよう御座います。
十五 円 と い ふと 私 にと つて は 大金 で 御 座 い ま す。 しか し実 際の 不 足額 の 約 四 分
の 一 で 御 座い ま す 。 十五 円 あ れ ば 、 四 方八 方 切り つめ て 、さ う して 一 円 か 二 円 正
月 の 小 遣 が 残 る 勘 定 な の で す 。 何 と か して ( 無 理 を 極 め た お 願 ひ で す が ) 助け て
いたゞけませんでせうか。(「明治四十四年十二月二十九日」西村真次宛書簡)
と 書 い て い る の で す 。 誇 り の 高 い啄 木 が ど れ ほ ど 屈 辱 に 耐 え て こ の 手 紙 を か い た こ
そして三十一日の大晦日に間に合わせたいので返事のあり次第妻節子を伺わせる、
3 北国の彷徨
と でしょうか。 恥も外聞 も投げ捨て なければ生きてゆけ ない状況に 追い詰めら れて
い た こ と が わか り ま す。 そ し て 大晦 日 を 迎 え ま すが 返事 はあ り ま せ ん 。 大 勢の 債 鬼
に 深々 と 頭 を下 げ て い るう ち に除 夜 の 鐘 が なり だ し ま す。 一 睡 も せ ず 元 日の 朝 を 迎
えます。うとうとと居眠りをしていると電報為替が届きました。西村真次からです。
「申し訳ない。 東京にいなくて返事遅れた」と添えてあった。 この時の喜びのこと
を啄 木 は 歌 っ た の で す。 そ し て こ の 十 五 円 が な く な る の は 目 に 見 え て い ま す。 こ れ
だけどん 底におちても、この ような希望に満ちた歌 が読め るのは楽天的性格の なせ
る業というしかありません。
か く し て啄 木 は 函 館 を 立 ち 札 幌 へ 向 か い ま す 。 一 九 〇 七 ・ 明 治 四 十 年 九 月 十 三 日
の夕刻仲間に見送られて函館を旅立ちました。
七 開拓期の新聞界
当 時 、 北海 道 は新 聞 も また 開拓 期 の まっ た だ中 に あ り 、 相次 い で創 刊 が続 き 、 ま
たその離合集散が絶えませんでした。 北海道で最初の新 聞は函館か ら生まれていま
す。以下簡略に紹介します。
◇一八七八・明治十一年創刊「函館新聞」→一八九八・明治三十一年「函館毎日新聞」
◇一八八〇・明治十三年「札幌新聞」
◇一八八七・明治二十年「北海新聞」→「北海道毎日新聞」(年不詳)
◇一八八九・明治二十二年「北友」(翌年「根室新聞」)
◇一八九一・明治二十四年「北門新聞」(小樽)」→一年後札幌で発行。主筆中江兆民
◇一八九三・明治二十六年「北海民燈」(札幌)→一八九四・明治二十七年「小樽新聞」(小
樽)
◇一八九四・明治二十七年「北のめざまし」→一八九八・明治三十一年「函館日日新聞」→一九
〇七・明治四十 年「函館新聞」
◇一八九八・明治三十一年「帯広新聞」
◇一八九九・明治三十二年「北海時事」
◇一九〇〇・明治三十三年「釧路新聞」(二年後「北東日報」)
◇一九〇一・明治三十四年「北鳴新聞」「北海旭新聞」
◇一九〇二・明治三十五年「室蘭日報」「網走週報」(三年後「北見新聞」六年後「北見実業新
聞 」 ) 「釧 路 新 聞 」 ( 一 九 〇 〇 年 の 「 釧 路 新 聞 」 と は 別 、啄 木 が 参 加 ) 「十 勝 新 聞 」 ( 二 年 後
◇一九〇一・明治三十四年「北海道毎日新聞」「北海時事」→合同後「北海タイムス」
◇一九〇五・明治三十八年「室蘭新報」「上川新聞」
「とかち新聞」)
3 北国の彷徨
◇一九〇七・明治明治四十年「小樽日報」「胆振新報」
◇一九〇八・明治四十一年「室蘭新聞」
◇一九〇九・明治四十二年「室蘭タイムス」「旭川毎日新聞」
という具合で新 聞界 は群雄割拠の体をなしていました。 当時は資産を持つ個人が
議員進出のための媒体として新聞を利用する ケースが多く、文化的使命 としての自
覚 は比 較 的 浅 く 、 そ の 利 権 や 縄 張 り 争 い が 目 立ち新 聞記 者 の 社 会 的 地 位 は 高 く あ り
ませんでした。 また、乱 暴で粗雑な仕草言動が目に余り社会の嫌われ者になっ てい
た 時 期 もあ り ま した 。 そ ん な 中 、 雨 情 が 小 樽か ら 室蘭 に 移 っ た 頃 、 警察 に 数 ヶ 月 留
置されると いう事件がおこりました。 ここでは 委細は尽 くせません が、ライバル紙
同 士の争 いに巻 きこま れたとか、恐喝 まがいの記事 を書い て警察 ににら まれた とい
う 背 景 があ っ た と 言 わ れた 事 件 で す。 雨情 が小 林 多 喜 二 を 虐 殺 した 北 海 道 警察 の 残
虐さを知 らなか ったは ずはあ りませんから、 この時は恐怖 におの のいた ことで しょ
う 。 中央紙のみ ならず地 方新 聞もまた特定企業 や官庁と 結託してその 宣伝の場 と化
す場合は少 なくありませんでした 。啄 木と雨情 が共に机 を並べた小 樽日報は社 長白
石 義 郎 が 社 員 に 「本 紙 の 目 指 すと こ ろ は 自 己 宣 伝 に あ ら ず 住 民 が 求 め る 情 報 を 与 え
ることだ」と述べ、こういう新聞人は珍しいと友人に手紙をかいています。
また一方で事 件性ばかりを追求 するばかり ではなく、もっと静的な文化・文 芸方
面 に目 を向 け ようと す る傾向 も少 しず つ芽 生え てもき ました。 新 聞 ジャ ーナ リ ズム
が 「社 会 の 木 鐸 」 と し て の 使 命 感 を 持 つ よ う に な る 前 史 と し て 北 海 道 で の 新 聞 界 は
試 行 錯 誤 を 繰 り 返 し て い た の で す 。 そ う し た 時 期 に 雨 情 と啄 木 は こ の 世 界 に 飛 び 込
ん で き た の で し た 。 ま た 釧 路 新 聞 に も 席 を お い た啄 木 は 宮 崎 郁 雨 宛 の 手 紙 で 「 釧 路
で は新 聞記 者として成 すべき事業 も少なく ない。 青年町 民の強 固な る団結を作 る事
や 、 教育 機関の 改善拡 張や、 図書館 の 設置 や 、其 他 まだ ま だ沢 山あ る」 と 書き 送っ
ています。 ここ にも新しいジャーナ リズムの方向性を垣 間見ること ができると 思い
ます。
八 小国露堂
雨情 と啄 木 が 札 幌 で 初 顔 合 わ せ を した 陰 に は 一 人 の 新 聞 記 者の 仲 立ち があ り ま し
た 。 雨情 が札幌で入った北鳴新聞によく出入り している人物がいま した。 名は小国
館 新 聞に 入 り 、 ま も な く 札 幌の 北 門新 報 に 移 り ま す。 こ の 頃は新 聞 社 が 雨 後の 竹の
五 ・明治三十八年、地 元に妻と子 供 三人、義母を残して函館に渡 り ます。 そ して函
善平、岩 手宮古 出身で地元で 出版業 を志していましたが大 火で無 一文に なり一九〇
3 北国の彷徨
子 の よう に 日替 わりの ように 生まれ ては 消え てゆ く の で社 員の 相次 ぐ移 動はむ しろ
常識になっていました。
北 門新 報 の こ ろか ら 善平は 露 堂 を名乗っ てい ま す。 善 平 は 札 幌 に き てか ら 社 会 主
義 者た ち と 付 き 合 い が あ っ た と い い ま す。 その 理論 と 運 動 発 祥 の 地 ロ シ ア の 地 名 を
取ったのか もしれません。 露堂は道庁幹部の不 正キャンペーンを張り園田安賢 長官
の 首 を 取 る な ど や り 手 の 記 者 だ っ た よ う で す。 ( 鬼 山 親 芳『 評 伝 小 国 露 堂 』 熊谷
出版部 二〇〇七年)
こ う い う 記 者 は ハ ナ が利 き ま す。 特 に 記 者 仲 間 の 情 報 は 筒 抜 け で す。 あ る時 、 露
堂 は 友人か ら 「北 門 に 入っ た 野 口 雨情 と い う 人 間 、知 っ て るか い 」 「誰 だ? そ れ
は 」 「何だ 早耳の 露堂 が知 らんの か。 詩人上 がりの 腰つ きバッタだ よ」 「何だ 、そ
の 腰つき バ ッタ っ ての は」 「うん 、 酒 好き煙 草 好 き 、 ポ ー カ ー フ ェイ ス 何 を 言 っ て
も 何 処 吹 く 風っ てや つ で 、 東 京 か ら き た や つ ら は み ん な 威 張り く さ る が や っ こ さ ん
やたらと腰が低いんだ」
露 堂 は 早 速 雨情 に 会 い に行 き ま した 。 北 門新 聞は 北 鳴 新 聞か ら 五 分とか か り ませ
ん 。 編集 室にゆ くと気の せいか紫煙 がやたらと 濃く漂っ ているあたりに一人の 男が
机 に 向か っ て 筆を 取っ てい ま した 。 露 堂 が軽 く 会 釈 して 近 くの 椅子 に 腰 を おろ すと
そ の 男 は ま だ 頭 を下 げ て い るの で す。 呆気 に と ら れ て 露 堂 が 声 をか け ると よう や く
頭 を上 げ て 「本 日は ど う も、 野 口 雨 情 で や ん す」 露 堂 は す っ か り 調子 を 崩 し て し ま
い ま し た 。 しか し 話 し て み る と 東 京 の 事 情 に く わ し く 坪 内 逍 遙 や 三 木 露 風 な ど の 名
み
も
が ポ ン ポ ン 飛 び 出 し て く る の で す 。 そ れ が 嫌 み がな く 自 然 に 感 じ ら れ て 露 堂 は すっ
じ
けれんみ
か り 雨 情 が 気 に 入 っ て し ま い ま し た 。 「 露 堂 、 ろ ど う 、 い い 響 き で や ん す な 。 三文
字は韻が特に生きるんでやんす」というお世辞にも少しも外連味がありません。 こ
の日、二人の姿はススキノの方面に消えていきました。
と こ ろ で 、 函 館 大 火 直 前 に 札 幌 に や っ て き て い た 向 井 永 太 郎 は啄 木 の 依 頼 で 札 幌
の新聞社探しをしていました。
いろい ろ当た っ てみ たとこ ろ小国 露堂と い う世話 好きの 新 聞記 者がい るとい う噂
を 聞き早速 面 会 しま す 。 有 能な歌 人 で函 館 大 火 に遭 い函 館 日々 新 聞 をや めざ る を得
なくなったが文才は保 証するというので、それでは一度会 ってみようという話にな
り まし た。
こ の 話 が 野 口 雨 情 の 「 札 幌 時 代 の 石 川啄 木 」 と つ な が っ て 話 が や や こ し く な っ て
く る わ け で す が 、 実 際 は 札 幌 に や っ て き た啄 木 に 最 初 に 会 っ た の は こ の 露 堂 だ っ た
と思います。 雨情はその 露堂から聞いた話をあ たかも自 分が直接会ったかのように
話 を 〝創 作 〟 し た の で す。 そ う 考 え る と 雨 情 の啄 木 へ の 〝 証 言 〟 は す ん な り 辻 褄 が
露 堂 が啄 木 と 会 っ た の は 雨 情 が 〝 証 言 〟 し て い る よ う に 夏 の 終 わ り 、 秋 風 が 吹 き
に回しましょう。
あ い ま す。 どう して 雨情 が こ の よう な偽 証 を し た の か 、 と い う 問 題 は 残り ま す が 後
3 北国の彷徨
始 め た 頃 と い う の は 確 か な よ う で す 。 な ぜ な ら 露 堂 は啄 木 と 二 言 三 言 話 し て す っ か
り この 人 物 を気 に 入 っ て し ま い ま し た 。 そ し て 雨情 に こ の こ と を 直 ぐ に 話 し た の で
す。 すると雨情は「石川さんの名は知っていま すよ。 小 川未明さんから噂は聞いて
い ま した でやん す。 あ の 方 も 北海 道 へ やっ てき ま したか 。 お 互い 彷徨の 身 と いう や
つでがんすねえ」と感慨深げでした。
啄 木 の 日 記 に は 一 九 〇 七 ・ 明 治 四 十 年 九 月 二 十 三 日 に 露 堂 の 下 宿 で 雨 情 と 初 め て
会 っ た と あ り ま す。 「温 厚 に し て 丁 寧 、 色 青 く し て 髭黒 く、 見 るか ら内 気 な る 人 な
り 。 共 に 鮪 の サ シ ミ を つ つ い て 飲 む 」 と あ っ て啄 木 は 好 印 象 を 持 っ た こ と が 分 か り
ま す。 一 方 、 雨 情の 方 は と いう と 頭 の 回 転 が速 く 話の う まい人 と い う 印 象と 同 時 に
「あ、 すみません もう 一本い いですか」と言 いなが ら露堂と 雨情の煙草 をスパ スパ
吸 い続 け る の で 遠慮の な い男 と い う 印 象 を 持っ た よう で す。 この 時 、 露 堂は既 に 雨
情 と啄 木 に 内 々 で 小 樽 に 創 刊 さ れ る 「 小 樽 日 報 」 に 移 る 約 束 を 個 別 に 交 わ し て い ま
したが改めてここで三人小樽での活躍を誓い合いました。
以 後 、啄 木 と 雨 情 は 頻 繁 に 接 触 し て い ま す 。 二 人 の 波 瀾 万 丈 の 青 春 は い く ら 語 り
合 っ て も尽 き ること は あ り ま せん 。 雨情 が 紹介 状 な しに 乃 木 希 典 に 会 っ た 話を する
と啄 木 は 思 い つ き で 尾 崎 行 雄 東 京 市 長 と 昼 飯 を 食 っ た 話 、 樺 太 で 芸 者 に 有 り 金 盗ら
れ た 話 を 「 ま っ た く 馬 鹿 な こ と を し で か し た で や ん す」 と 雨 情 、 する と 負 け て は な
ら じ と ば か り に啄 木 は 文 芸誌 『 小 天 地 』 を 編 集 し た と き 、 必 ず ヒ ッ ト す る と 思 っ て
同 人 か ら 預か っ た 編 集 費 と 広 告 費 を 勝手放 題 に 使っ て告 訴 さ れか か っ て 青 く な っ た
ことなど夜の明けるまで二人の放談は尽きることがありませんでした。
あると き雨情 が「石 川さん 、小樽にはわしの上司 だった岩泉江東という男が主筆
で 一 緒に行 くん でやん すが、 この人 物は警部 上 がり という 噂があ っ て融 通が利 か な
さげす
い、詩心がない、ユーモアの分からない男でわしはあまり好かんのでやん す」と
言 っ た の で す 。 雨 情 と い う 人 間 は も と も と 無 口 で すが 、 と り わけ 人 を 蔑 ん だ り 貶 め
た り す る こ と の 嫌 い な 人 間 で す 。 そ の 雨 情 が 会 っ て 間 も な い啄 木 に こ う 言 っ た の で
三人が力 を合 わせ れば いい紙面 をつくれるよ」
「 ま あ 、 こ れ か ら は 小 樽 日 報 は 雨 情 、 露 堂 、啄 木 の 三 羽 が ら す で や っ て ゆ け る 。
には血も涙もあるんでやんすから」
「その 筆というの が世の中や世間と いうものが全く見ない筆なん でやん すよ。 人
「 で も 一 応 主 筆 に な る く ら い な んだから筆は 立つんでしょう」
という感じですかな。夢やロマンというものの一片もありやしないでやんす」
「 な ん て 言 う か 面 白 み が な い と い え ば よ が ん す か な 。 世 の 中 規 則々 々 で 動 い て る
は見えなかったなあ。例えば具体的に言ってみてくれないか」
「 へ ー 、 そ う な の か 。 見 た と こ ろ 確 か に頑 迷 と い う 気 は した け れ ど 、 悪 い 人 間 に
す。それは啄木を信頼した証拠です。
3 北国の彷徨
「 は あ ー 、 そ う で が ん す な 。 で も 、 で き る だ け は や く あ ん た が 主 筆 に な っ て下 さ
いよ」
「悪い冗談はな しで すよ。 私は 二十歳を過ぎたばかり ですよ。 そ れに主筆という
柄ではありませんよ」
啄 木 の 頭 の 隅 に か つ て 予 想 だ に し な か っ た 「 主 筆 」 と い う 言 葉 が 一 瞬 現 れ て 消 え
ました。しかし雨情のこの一言は妙に心に残ったのです。
四 小樽日報時代
【二人が編輯した小樽日報、現在残っている唯一の紙面】
一 主筆追放の陰謀
い よい よ 小 樽 日報 で の 仕事 がは じ まり ま した。 一九〇 七 ・明 治 四 十年 十月一 日、
初 の 編 輯会 議 で す。 山県 勇 三郎 、 社 主 、 社 長、 主 筆 以下 揃 い 踏 み 、啄 木はこの 日、
能弁で居並ぶ面々を圧倒します。雨情はうつむいて紫煙を黙々とくゆらせています。
創刊号は十月十五日発行十八頁建てで各面の担当を決めて夜は静養軒で大宴会。
小 樽 日 報 時 代 の こ と は啄 木 日 記 に 詳 細 に 書 か れ て い ま す が 、 そ れ は 当 然 の こ と な
が ら啄 木 の 視 点 か ら の も の で す 。 そ し て ま た ほ と ん ど の 啄 木 評 伝 は そ の 日 記 を 全 面
的 に 信 用 し て ほ と ん ど そ の ま ま 採 用 し て い ま す 。 特 に 雨 情 に 関 し て は啄 木の 記 述 を
そ の ま ま 鵜 呑 み に し て い る の で す 。 と い っ て も そ れ は啄 木 の 言 葉 を 大 事 に し て 出 来
る だ け 彼 の 意 志 を 尊重 、忖 度 した い と いう 発 露 で すか ら 一 概に否 定で き る もの で は
ありません。
とりこ
例 え ば 雨 情 に 関 す る 小 樽 時 代 の 初 期 の 記 述 は啄 木 が 雨 情 と 意 気 投 合 し た と い う よ
りそれを通り越してすっかり雨情の〝 虜 〟になっている感じなのです。初対面の印
象 もさ る こと な がら 出 社 三日 目の 十 月 三日 「 野口 雨 情君と 予との 交 情 は 既 に 十 年の
如 し。 遠からず共に一雑誌を経営せむことを相 談したり。 」十月五日「野口君を携
え て来 り 、 共 に 豚 汁 を 啜 り 、 八 時半 より 程 近 き 佐田 君 を 訪 ね て初 め ての 蕎麦を おご
られ、一時頃再び野口君をつれて来て同じ床の中に雑魚寝す。」といった調子です。
念 の 為 に 一 言 し て お き ま すが 「交 情 」 と か 同 じ 布 団 に 「雑 魚 寝」 と い う の は現 代 風
に言えば〝過激〟な表現かもしれませんが、そのような意味ではありません。
大 体 、啄 木 は 気 に 入 っ た 相 手 と 会 え ば 必 ず と い っ て い い ほ ど 雑 誌 ( 文 芸誌 ) を 作
ろ う と 呼 び か け る 癖 が あ り ま し た 。 こ れ ほ ど啄 木 が 入 れ 込 ん だ 相 手 は こ れ が 初 め て
と いっ てい いと思 い ま す。 後に函 館 の 宮崎 郁雨 と か 東 京 で の 金 田 一 京 助 、土 岐 善麿
( 哀 歌 ) と い う啄 木 に と っ て 非 常 に 大 切 な 役 割 を 果 た す 親 友 が 現 れ ま す が 、 そ れ ま
で は こ れ ほ ど気 に 入っ た 仲 間 は い なか っ た の で す。 本来 な ら 北 門新 報 に 仕 事 を 斡 旋
してくれた小国 露堂は 同郷で、代用教員や大 火罹災 などと いう境遇に共 通点を持っ
て い て彼 と 懇意 に なっ て不 思 議はあ り ま せん が 風采 の上 が ら な い 慇 懃 な 雨情の ほ う
が気に入ったのです。
と こ ろ で 十月 五 日 、 つ ま り 「 雑 魚 寝 す。 」 と いう 日 記 は そ の 直 後 に 次 の よ う に続
くのです。 少し長くなりますが非常に重要なところなのでそのまま引用します。
長 文 庫 」 と 記 せ る 故 な り 。 局 長 は 前 科 三犯 な り と い ふ 話 出 で 話 は 話 を 生 ん で 、 遂
( 1 ) 社 の 岩 泉 江 東 を 目 して 予 等 は 「 局 長 」 と 呼 べ り 。 社の 編 輯文 庫 に 「 編 輯 局
(*(1)(2)は筆者)
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に 予等 は 局 長 に服 す る 能 は ざ る 事 を 決 議 せ り 。 予 等 は 早 晩彼 を 追 ひ て は 社 を共 和
政治の下に置かむ。
( 2 ) 野 口 君 より 詳 し き 身の 上 話 を き ゝ ぬ 。 嘗 て 戦役 中 、 五 十 万金 を献 じ て男 爵
た ら む と し て 以 来 、 失 敗 又 失敗 、 一 度 は 樺 太 に 流 浪 し て 具 さ に 死 生の 苦 辛 を 嘗 め
た り と か 。 彼 は其 風 采 の 温 順に し て 何 人の 前 に も 頭を 低 く す る に 似 合 は ぬ 陰 謀 の
子 なり 。 自 ら 曰 く 、 予は 善 事 を な す 能 は ざ れ ど も 悪 事 の た め に は如 何 な る 計 画 を
も成 しう るなりと 。 時代 が 生め る危 険の児 な れど も、其 趣味 を 同じ うし社 会に 反
逆するが故にまた我党の士なり焉。
入社 五 日目で 岩 泉江 東主筆 を追い 出そうと いうの で すか ら(以下 「陰 謀」と 称 す
る こ と に し ま す。 ) その 大義 名 分はと もか く と し て も呆 れた 話 で す 。 しか もその 理
由というのが文庫を私的利 用したとか前科三犯という根拠のない 話で児 戯に等 しい
企 て と 言 わ な け れ ば な り ま せ ん 。 ど う み て も啄 木 に ふ さ わ し く な い 行 動 で す 。 か と
いって雨情がこのような軽挙妄動な軽はずみなことをするはずがありません。
それに啄木のこの記述は巧妙です。ご覧の通り記述は(1)と(2)の二つです。
まず(1 )陰謀の話で すが、 その主役というか首謀 者はここでは 「予等」となって
い て 漠 然 と し て い ま す 。 雨 情 と啄 木 あ る い は 強 い て 言 え ば 編 集 部 員 と い う こ と に な
り ま す。 ま た こ の 陰 謀 の 根拠 は 主 筆 の 話 を し て い る う ち に 「 話 が 話 を 生ん で 」 つ ま
り 話の は ず み で こ の 陰 謀 と な っ た と い う わ け で す。 どう 考 え て も こ の 話自 体 が 不 自
然で、なにかある作為が感じられてなりません。
そ して次 に は (2 ) この 陰 謀と は がらり と 変 わっ て 雨情 の 身の 上 話と なり ま す。
家系に爵位を取り込 もうとし て大金 をはたいた話、 樺太で一旗揚げ よう として失敗
し た 話 は 大 筋 で 正 し い の で し ょう 。 注 目 さ れ る の は 雨情 が次 の よう に 語 っ た と い う
い
言 葉 で す 。 曰 く 「 予 は 善 事 を な す 能 は ざ れ ど も 悪 事 の た め に は 如 何 な る 計 画 を も成
し う る な り 」 つ ま り善 い こ と は 不 得 手 だ が 悪 事 な ら ど ん な こ と で も や っ て み せ る 、
と言ったと いうのです。 (1)で陰謀を提示し、(2) で雨情のこの言葉をつなげ
れば、否応なく雨情はこの陰謀の加担者になってしまいます。
そ し て その 趣 意 を 共 に する 雨情 こ そ 「我 党 の 士」 我 等 が 同 志 だ と いう わけ で す。
こ れ で 雨 情 は啄 木 に よ っ て 「 実 行 犯 」 に さ れ て し ま い ま し た 。 「 死 人 に 口 な し 」 と
い い ま すが 、 この 場 合 生き て い て も弁 明の し よう があ り ま せん 。 い つの まにか 雨情
は陰謀の張本人にされてしまったのでした。
三 人 に て 相語 る 。 此 日 野 口 君 の 語 る 所 に よ れ ば 、 白 石 社 長は 大 に 我 等 に 肩 を持 ち
◇ 九 日 「 夜 、 兄 ( * 義 兄 山本 千 三郎 ) を 訪ね て 帰 り 来 れ ば 野 口 君 来 る 。 園 田 君 と
◇十月八日「この日野口君札幌なる細君病気の電報に接して急行せり。」
その後、啄木の日記から雨情がらみの記述は順に並べてみますと次の通りです。
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居 り 、 又岩 泉局 長 も 予 の 為 め に 報 ゆ る 所 を 多 か ら し め む と す と 言 明 せ る 由 、 社 に
於 け る 予の 地 位 は 好 望な り 、 遠 か ら ず して 二面 に 廻 る べ し。 」 「野 口 君 と 園田 君
は枕を並べて雑魚寝したり。」
◇十日「野口君手相を見る、其云ふ所多く当たれり。」
◇ 十 三 日 「 野 口 君 の 移 転 に 行 き て 手 伝 ふ 。 野 口 君 の 妻 君 の 不 躾 と 同 君 の 不 見識 に
一驚を喫し、愍然の情に不堪。」
◇ 十六 日 「 此 頃 予 が寓 は 集 会 所 の 如 く な り 、 今 日 も佐 田 君 西 村 君 金 子 君 来り 、 野
口 君 来 り 、 隣 室の 天 口 堂 主 人 来 る 。 何 故 か 予 が 家 は 函 館 に て も 常 に 友 人 の 中 心 に
なるなり、」
こ こ ま で は 雨 情 の 妻 君 へ の 憤 懣 以 外 は 、啄 木 へ の 社 長 や 主 筆 に よ る 高 い 評 価 と や
が て 二 面 主 任 へ の 昇 格 が 見 込 ま れ て啄 木 の 前 途 は 有 望 で 、 こ の ま ま 順 調 に こ と が 運
べ ば 言 う こ と は あ り ま せ ん 。 追 放 し よ う と し て い た 岩 泉 主 筆 ま で が啄 木 を 支 持 し て
く れ て い る こ と が 明 白 に な っ た の で すか ら 、 こ の 段 階 で 陰 謀 を 進 め る 利 点 は 消 失 し
て し まっ て い ま す。 雨情 をはじめと する編集部 員の 同 志 た ちの動き を今 度はむ しろ
阻 止 しなけ れば なり ま せん。 啄 木は慌てました。 この処置を誤ると自分自 身の処遇
も危うくなるからです。
二 陰謀の発覚
雨情と 二人の 〝雑魚 寝会 談〟か ら 生まれた主筆追放の陰謀でしたが、どうもこの
話 は啄 木 の 独 走 で 雨 情 は 「 社 を 共 和 政 治 の 下 に 置 」 こ う と い う よ う な 大 そ れ た 考 え
は 全くなく、た だ岩泉とは気 が合わないという不満を口に しただけだっ たと思 いま
す 。 人 と 争 っ た り 人 を 出 し抜 い た り す る こ と の 嫌 い な 雨 情 が 陰 謀 を 企 て る な ど 論 外
です。
し か し 、啄 木 は 雨 情 を 善 い こ と は 出 来 な い が 悪 い こ と は 如 何 な る こ と で も 実 行 す
る性格と一方的に〝役割〟を決めつけてこの陰謀の主役に仕立て上げたのです。
こ の 計 画 を 実 行 し よ う と す る 矢 先 に 社 長 や 主 筆 が啄 木 を 高 く 評 価 し て い る と い う
話 を 雨情 か ら 耳 に し て啄 木 は 驚 い て 自 分の 考 え の 浅 は か だ っ た こ と に気 づ き ま す。
し か し 、 話 は啄 木 は 「 こ こ だ け の 話 だ が 」 と 言 っ て 編 集 部 の 何 人 か に 計 画 を 既 に 漏
ためら
らしてしまった為に、今更これを中止だとは言えません。 もちろん 雨情にも本心を
ろ ではあり ません。 雨情 はもうこの 話のことは 忘れて煙 草をうまそ うに吸いな がら
小 樽 日 報 の 創 刊 を 数 日 後 に 控 え て 徹 夜 の 仕 事 が 続 い て啄 木 も 陰 謀 の も み 消 し ど こ
言うには躊躇いがありました。
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「 石 川 さ ん 、こ の ご ろ 主 筆 は 機 嫌 が よ がん すな 。 あ あ い う 人 の 下 で 働 く の は 大 変 で
や ん すか ら 」 と ケ ロ ッ と し て い ま す。 十 五 日、 創 刊号 が 出 て 楽 隊 つ きの 宣 伝 も 効 い
て 評 判 は 上 々 で 夜 の 宴 会 も 盛 り 上 が り ま し た 。 た だ 、啄 木 の 心 の 中 は 穏 や か で は あ
り ま せん 。 陰 謀 の 落と し ど こ ろ を ど う するか で 頭の 中 は いっ ぱ い で 、 美酒 もあ まり
喉を通りません。
翌 、 十 六 日啄 木 の 日 記 に 驚 く よ う な 記 述 が 出 て き ま す 。 そ れ は 先 に 雨 情 が ら み の
日 記 で 紹 介 した 編 集 部 員 、隣 室の 占 い 師 、 そ し て 雨 情 が や っ て き て昨 日 の どん ち ゃ
ん 騒 ぎの 続 き を 記 した 後の 部 分で す。 自 分の 下 宿 は い つ も友人 た ち の 集 会 所に なっ
て 「友 人 の 中 心 に そ の 中 心 に あ る 、 と 書 い た す ぐ 後 で す。 「中 心 に な る な り 、 」 と
句 読点 「。 」 で は なく 読 点 「、」 で 行 替 え を行 い、文 頭 と 文 末を わ ざ わざ 「〈 〉
」で括っています。啄木はこの部分を意識的に強調したかったからでしょう。
〈 この 日 一 大事 を 発 見 し た り 、 そ は 予 等 本 日に 至 る 迄 岩 泉主 筆 に 対 し 不 快の 感 を
ママ
な し、 こ れ が排 斥 運動 を内 密 に 試 み つ つ あ り き 、 然 れ ど もこ れ 一 に野 口 君の 使 嘱
<
>
によれる者、彼「詩人」野口は予等を甘言を以て抱き込み、秘かに予等と主筆と
を 離 間 し 、 己 れ そ の 中 間 に 立ち て 以 て 予等 を 売 り 、己 れ 一人 う ま き餌 を 貪 ら む と
したる形跡歴然たるに至り ぬ、 予と佐田君と西村君と 三人は大に憤れり、彼何 者
ぞ 、噫 彼 の 低 頭 と 甘言 と は 何 人 を か 欺 か ざ ら む 、 予は 彼 に 欺 か れ た る を 知 り て 今
〈アマ〉
怒 髪 天 を 衝 か む と す、 彼 は 其 悪 詩 を 持 ち て 先 輩 の 間 に 手 を 擦 り 、 其 助 け に よ り て
多少の名を 贏 ち得たる文壇の奸児なりき、而 して今や我らを売つて一人欲を充
たさむとす、「詩人」とは抑ゝ何ぞや、/今日より六日間休み。〉
この 部 分 は その 前の 行 か らか な り 時 間 が 経っ た 後 で 書 か れ た も の で し ょ う 。 おそ
ら く雨情 を含む編輯部 のメンバーが祝杯を挙げ てご 機嫌で 帰ったあとに 筆を取った
の だ と 思 い ま す。 一 同 が 帰っ たあ と啄 木 は 陰 謀 の 幕 引 き を 早 く し な け れ ば ま ず い こ
と になると 心 配になり 閃 いたのは 雨情 を〝 犯人〟に仕 立てること で した。 内気 でお
人 好 しの 雨情 な ら 陰 謀 の 首 謀 者に 仕 立て上 げ ら れ て も 抵 抗 や 反 撃 は しな いだ ろ う 、
そ う 考 え た啄 木 は 日 記 で そ の 筋 書 き を 書 い て み た の だ と 思 う の で す。 そ し て こ の 話
を早速翌日陰謀仲間を集めて雨情に詰め腹を切らせることを告げるのです。
十七 日 の 日記 には 「夜 八 時 迄社 に 居たり 、 佐田 西 村、金 子 野口 の 四名 と 談ず 」 と
あ りますが、こ れは細 工があ って四 者が一同に会したのではなく 二度に 分けて二人
ず つ 啄 木 が 会 っ た も の と 見 な け れ ば な り ま せ ん 。 前 者 二 名 が啄 木 派 で 後 者 は 雨 情 派
で す。 前者には 雨情の〝 裏切り〟 を 、後者には 陰 謀が社 長や主筆に ばれたから 覚悟
し か な いと 思 う 。 自 分も そ れなり に 責 任 は 取 る つ もり だ 」 雨情 は 顔 色 を失 く し て押
た の では な い で し ょう か 。 「こう な っ た 以上 は 悪あ がき を しな い で 社の 意 向 に 従う
を し た 方 が い い と い う 趣 旨 を 伝 え た の で し ょ う 。 そ し て啄 木 は 次 の 言 葉 を 付 け 加 え
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し 黙 り ま し た 。 そ の 態 度 を 見 た啄 木 は こ の 日 の 日 記 に 「 〈 野 口 は 愈 々 悪 む べ し 、 〉
」と記します、往生が悪いやつという意味でしょう。
そして翌十八日午後、雨情は金子や他の仲間と連れだって啄木の所へやってきて、
石 川さん昨 日は混乱して取り乱してしまっ た。 わ しが一 番年輩だか ら社の処分はわ
しも甘んじて受けるつもりだ」と〝謝罪〟しました。
雨 情 に し て み れ ば 岩 泉 へ の 不 満 を啄 木 に 言 っ た だ け な の に い つ の 間 に か 陰 謀 に 巻
き 込 ま れ 、 な ぜ か そ の 首 謀 者 に 祭 り 上 げ ら れ て し ま っ た の で すか ら 憤 懣 や る か た あ
り ま せ ん が 、 こ こ は 忍 の 一 字 で 謝 罪 し た の で す 。 こ の 態 度 を 見 て啄 木 は 日 記 に こ う
書きます、 「午後野口 君他の諸君 に伴はれ て来り謝罪 したり。 其状態愍むに堪 えへ
たり。許すことにす」
そ して この四 日後二 十二日 には 「 社 は暗闘 の う ち にあ り 、野口 君 は謹 慎の 状あ ら
は る 。 」 こ こ で啄 木 は 社 内 は 依 然 と し て 「 暗 闘 」 の ま っ た だ 中 に あ る 、 と 書 い て い
ま す 。 不 思 議 な の は 元 々 の 陰 謀 の 発 端 は啄 木 が 雨 情 を 巻 き 込 ん で 主 筆 追 放 と い う 大
義 名 分 を 掲 げ た も の で す 。 こ れ は 雨 情 が啄 木 に 白 旗 を 掲 げ た 十 八 日 で 収 拾 し た は ず
な の で す 。 に も 関 わ ら ず 「 暗 闘 中 」 と い う の は 別 の 問 題 が 生 じ て い る こ と を啄 木 が
独特の言葉で表現したものなのです。
三 賞罰の分岐点
陰 謀 事 件 は 一 応 十 月 十 八 日 、 雨 情 が啄 木 に 〝 謝 罪 〟 し 、 啄 木 が こ れ を 受 け 入 れ た
こ と で 一 件 落 着 、 収 束 し ま し た 。 に も 関 わ ら ず啄 木 が な お 「 暗 闘 中 」 と し た の に は
理 由 があ っ たの で す。 雨 情 にと っ て この 件 で被 害 を被 っ た 者は 出 ま せん で した し、
い いだしっ ぺと してお詫びを 済 ませ たのだか らこれ で解決 したものと思 っ てい たの
ですが啄木はそうは考えていなかったのです。
と い う の も啄 木 は こ の 陰 謀 を あ る 程 度 真 剣 に 考 え て 、 あ わ あ よ く ば 社 内 で の 共 和
体 制を築こうと思っていましたからこの挫折を利 用しよう と考え直した のではない
か と思うの です。 なぜならこのまま陰謀を闇に 葬ったなら何にも変 わらないし全く
の 無 駄 に 終 わっ て し ま う 、 ど う せ の こ と な ら もう 一策 打っ て み よ う 。 そ れ が 「 暗 闘
中 」 と い う 言 葉 と し て 表 現 さ れ て い る の で す。 つ ま り 「 策 略 中 」 と い う の が 本 当 の
意味なのです。
啄 木は読ん だのでしょう。 啄 木は賭 け事は一切 やりませんでしたが、この選択 には
に 正直 に 話 し て み よ う 、 結 果 は 分か ら な い が 今 よ り 悪 い よ う に は な ら な い は ず 、 と
具 体 的 に 言 い ま す と 岩 泉 主 筆 は啄 木 を 高 く 買 っ て い ま し た か ら 、 今 回 の 件 を 岩 泉
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か なり 勇気 が 必要 だっ たか も し れ ま せん 。 おそ ら く 十八 日か 翌 日、 岩 泉主 筆に この
ことをこっ そり打ち明 けます。 おそ らく次のような会話になったの ではないで しょ
うか。ただし、主筆追放の陰謀とは言わず、社内改良という名義にしてです。
「 岩 泉 さ ん 、 も う お耳 に 入 っ て い るか も し れ ま せ ん が 実 は… … … … と い う こ と が
ありまして」
「いや、なんか若いもんが落ち着かないということはうすうす分かってはいたが、
そんなことは知らなかった」
「 雨 情 君 は 私 よ り 年 上 な も ん で すか ら な か な か 止 め よ う と は 言 え な く て 。 しか し
誤解しないで下さい、雨情君は本気で社の今後を心配してみんなに呼びかけたん
ですから」
「 い や 、 よ く 分 か っ た 、 若 い 君 た ち の そ う した 考 えは む しろ 褒 め てや り た い く ら
いだ。白石社長と相談する。君はみんなによく言い聞かせておいてくれ」
こ う し て や が て社 の 断 が下 り ま す。 十 月 三 十 日か ら 十 一 月 一 日 ま での 三 日 間 の 日
記全文です。
◇十月三十日
主 筆 此 日 予 を 別 室 に 呼 び 、 俸 給 二 十 五 円と す る事 及 び 、 明 後 日 よ り 三面 を 独
立させて予に帳面を持たせる事 を云ひ、野口君の件を談れり。
野口君は悪しきに非ざりき、主筆の権謀のみ。
◇十月三十一日
野口君遂に退社す。主筆に売られたるなり。
◇十一月一日
此日より三面を主宰す。 こ こ で 言 う 「 主 筆 」 を 「 我 」 か 「啄 木 」 に 置 き 換 え て 見 て く だ さ い 。 喧 嘩 両 成 敗
ど こ ろ か啄 木 の 一 人 勝 ち で す 。 ま た 岩 泉 主 筆 は そ の 後 、 売 れ 行 き 不 振 と 社 内 の 別 の
ご た ご た と し て 不 始 末 の 責 任 を 問 わ れ て 辞 職 して い ま す。 啄 木 は と いう と 主 筆 の 後
釜に函館の苜蓿社仲間で当時道庁に勤めていた沢田信太郎 を据え、編集部に数人自
分の手で入社人事を手がけるなど小樽日報の陰の編集長と呼ばれるに至っています。
と こ ろ で 伊 東 整 に よ れ ば 、 こ の 陰 謀 事 件 の 後 「啄 木 は 、 佐 田 と い ふ 記 者 以 外 は 初
期の編輯局員を全部追ひ出して、一種の独 裁制を社内 に作り出した。 」(「自然主
義の最盛期」『日本文壇史 Ⅻ
』 )と 述べ てい ま す。 共 和 制どこ ろ か 一気 に独 裁 制
うように進めるなど得意満面といったところでした。
で し ょ う 。 こ の 時 、啄 木 ま だ 二 十 一 歳 で す 。 こ の 若 さ で 陰 謀 を 企 て 、 主 筆 人 事 を 思
に 持 っ て 行 っ た と い う の で す か ら啄 木 恐 る べ し と い う 〝 大 事 件 〟 だ っ た と い う べ き
4 小樽日報社
ところで雨情の〝裏切り〟を感情 むき出しにして罵った啄 木の 十月十 六 日の 「怒
髪 天 を 衝 く 」 云 々 の 記 述 の 部 分 は啄 木 自 身 の 手 に よ っ て 八 行 が 斜 線 で 消 さ れ て い ま
す。それはせめてもの啄木の良心の痛みだったのでしょうか。
一 方 、 雨 情 は 小 樽 日 報 を 追 わ れ て 以 後 、 ど の よ う に し て 食 べ て い た の か 記録 が全
く あ り ませ ん 。 もっと不 可解 なこと は 十年来の 知 己とか 意気 投合、 雑魚寝 まで して
語 り 合 っ た啄 木 が こ れ 以 後 雨 情 の 名 を 口 に し な く な る の で す。 も ち ろ ん 日 記 に も 登
場 しません 。 雨情はしば らく小樽にとどまって苦しい日々を過ごしていたよう です
が 、 や が て 室蘭 の 新 聞 社 を 転々 と し、 や が て 北 海 道 を 後 に し ま す 。 そ の 話 は ま た 後
ほどにしましよう。
四 小樽日報退社
啄 木 は 陰 謀 事 件 後 、 編 集 局 の 総 入 れ 替 え 、 新 編 集 長 に 腹 心 の 沢 田 信 太 郎 を 迎 え 、
事 務体 制 に ま で 手 を だ そ う と し ま す。 と こ ろ が 事 務 長 の 小 林 寅 吉 は啄 木 の や り 方 に
そろばん
不 満を持っ ていました 。 小林はこの 時四十代、 福 島か ら 北海道に渡 っ てきたい わゆ
る一旗組で算盤が得意なことからニシン帳場を任され道内各地を転々とし、小樽で
白石社長に 雇われ小樽 日報の経理を任され ていました 。 また腕っぷ しも強かっ たの
で 社 長の ボ デ ィ ガ ード もか っ て 出 て い ま し た 。 社内 の も め事 に は決 まっ て顔 を 出 し
て ケ リ を つ け るの が 常 で した 。 今 回 の 陰 謀 を 小 林 は 全 く 知 ら ず に い ま した が 主 筆の
岩 泉が社 を 辞 め て行 く 時に 彼の 口 か ら顛 末 を 聞い て憤 慨 していた の で す。 「生 意気
な 小 僧 め 、 何 時 か 思 い 知 ら せ て や る 」 と い う 気 持 ち で い た 所 へ啄 木 を 懲 ら し め る 絶
好の機会がやってきたのです。
編 集 部 に 沢 田 信 太 郎 を 迎 え た啄 木 に は 社 内 で は 誰 に も 遠 慮 す る 必 要 が な く な っ て
い ま し た 。 好 き な 時 間 に 出 社 し 気 の 向 く ま ま に 退 社 し ま し た 。 ま た 、 こ の こ ろ啄 木
は しば し ば 札 幌 へ 出か け る よう に な り ま し た。 はじめの 頃は道庁の行政情報の 取材
だ と 言 っ て ま し た が 、 あ ま り 頻 繁 に 出か け る の で 沢 田 が 問 い た だ すと 「 ぼ く が い て
は君も仕事がしづらいだろう。 近々札幌に出来る新しい新聞社に移る交渉のため
だ 」 と い う の で す 。 確 か に啄 木 が 居 ら れ る と ど っ ち が 編 集 長 だ か わ か ら な く な る 時
があるので沢田は反対しませんでした。
啄 木 は 札 幌 に 出か け る と き は 一 度 は 社 へ 顔 を だ し ま す 。 と い う の も 汽 車 賃 手 当 を
経 理 か ら 受 け と る た め で す 。 そ の 度 に啄 啄 木 は 小 林 事 務 長 の 席 の 前 を 通 り ま す 。 あ
小 林 に啄 木 は 「 新 聞 記 者 に 出 張 を 止 め ろ と い う の は 記 者 を や め ろ と い う に 等 し い 、
り だ。 あ んたは今週だけで四 度目だ。 今 月はもう出せん ぞ」不機嫌な顔を している
る と き 事 務 長 の 小 林 が啄 木 に 声 を か け ま し た 。 「 石 川 君 、 汽 車 手 当 は 月 一 回 が 決 ま
4 小樽日報社
あ んたは黙って伝票を切っていれば いいんだ」と捨 てゼリフを残して社 を出てゆき
ま し た 。 い つ も は 日 帰 り で 戻 っ て く る の に こ の 日 は啄 木 は 無 断 で 札 幌 の 小 国 露 堂 の
所 に 泊 ま っ た の で し た 。 そ れ で な く と も啄 木 の 出 勤 状 態 を マ ー ク し て 折 り あ ら ば 懲
ら しめて やろう と考え ていた 小林は この無断 欠勤を ここぞ とばか りにの うのう と社
に戻ってきた啄木を責めました。
「 や あ 、 今 ご ろ ご 出 勤 か ね 。 岩 泉さ ん を 追 い 出 し てか ら あ ん た も 羽 振り が い い ね
え、無断 外出、無 断外泊、 好き放題だなあ」
「 い ち い ち 人 の 行 動 の 揚 げ 足 取 り する ほ ど ヒ マ があ る ん なら 散 ら か り 放 題 の 事 務
室の掃除でもしていたらどうですか」
「なんだと、この 若僧が!」
問 答 無 用 と ば か り に 小 林 は ポ カ リ と啄 木 の 頭 に 一 発 食 ら わ せ ま す 。 驚 い た啄 木 は
﹆
﹆
身 じ ろ ぎ も せ ず つっ 立 っ た ま ま で す。 この 時の 情 景 を い ろ い ろ 着 色 し て面 白 可 笑 し
く 描 く 評 伝 や 小 説 が あ り ま す が 、 も っ と も 正 確 な 描 写 は啄 木 の も と で 編 集 長 を し て
いた沢田信一郎の証言でしょう。
沢田が帰宅して夕飯を取っているところへ啄木が蒼白な顔をしてやってきた。
今 小 林 に 社 で 殴 ぐ ら れ て 来 た 、 僕 を 突 き 飛ば し て置 い て 足 蹴 に した 、 僕は 断 然
退 社 す る 、 ア ン ナ 畜 生 同 然 の 奴 と どう し て 同 社 な ど 出 来 るも の か と、 血 走 っ た 眼
か ら ボ ロ ボ ロ 涙 を 零 し て る 、 見 る と 羽 織 の 紐 が 結 ん だ ま ゝ 千 切 れ て ブ ラ リと 吊 が
り 、綻 び に 袖口 か ら痩 せ た 腕を 出 して 手 の 甲に 擦 過傷 があ り 、 平 常か ら 蒼白 の 顔
を 硬 張 ら せ て、 突 き 出 た 額 に 二 つ ばか り 大 瘤を こ しら へ 、ハ ア ハ ア息 を 切っ て 体
が ブ ル ブ ル 悸 へ て 居 た 。 ( 「啄 木 散 華 」 『 回 想の 石 川啄 木 』 八 木 書 店 一 九 六
七・昭和四十二年)
確 か に こ の 怪 我 は 拳 骨 一 個 で は 済 ま な い 相 当 な 症 状 で す 。 お ま け に啄 木 は 幼 少 か
ら この 時 に 至る 迄人か ら 手 を 挙げ ら れた こ と があ り ま せん 。 過保 護 な両 親に育 てら
れ たせい もあり ま すが 、この ような環境 しか しらな い人間 が人か ら暴力 を揮 わ れる
と 記 憶 が一 時 喪失 する 程の シ ョ ッ ク を受 け るで し ょう 。 啄 木はまさ にその 寸 前でし
た 。 この よう な 暴力 を揮 う 人 間の 前 に 出 ること は 自 殺行 為 、と 思 っ たの で し ょ う 。
「辞める、辞める、あんなケダモノみたいな奴と一緒に働くことなどとんでもな
い !! 」 と い っ て そ の 日 か ら 出 社 を し な く な り ま し た 。 ど の よ う な 勤 め 人 で も 暴 力
考えずに憤然退社しました。そう、啄木にはこらえ性というものがないのです。
そこを家族や親の為踏ん張っているのが人の社会です。 しかし、啄 木は後先を全く
と まではゆ き ません が 堪忍袋の 緒 が切れそ うになるこ とはあ る ものです。 しか し、
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同 時 に 小 林 も 「あ ん な 馬鹿 僧 と 一 緒 に 働 け る か ! 」 と い っ て 辞 め ま し た 。 小 林 は
この後、北海道余市の資産家中野義 一の養子 となり中野寅吉と改名、東京に出て警
視庁に入り警部となり ますが組織の内紛に巻 き込まれ郷里の福島に戻り大正期に憲
政会から衆議院に出馬、当選後は言うことを聞かない議員に拳を振り上げ るので
「蛮寅」と呼ばれる代議士になりました。
晩年は 福島高 田町(現 大沼 郡会津 美里町雀 林)法 用寺の 住職 を して波 乱の多 い 生
涯 を終 えた と いう こと で す。 啄 木の ことで何人 もの人 が中村に取材 を申し込ん だの
で すが 、 「あ ん な ヤ ツ の こ と は 話 し た く な い 」 と 言 っ て 誰 に も 会 おう と し ま せ ん で
した。享年八十四歳でした。現在この寺には啄木の歌碑が二基あります。
あらそひて
いたく憎みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来ぬ
敵として憎みし友と
やや長く手をば握りき
わかれといふに
この歌碑の 建てられたのは寅吉和尚がなく なってかなり 後のこ とですが、 「握手
も したく なかっ た奴の 歌がなんでこ こに建っ ているんだ」 と憤慨 してい るか も しれ
ません。
退 社 後 の 啄 木 は 収 入 が 途 絶 え 散 々 な 生 活 を 送 り ま す 。 蕎 麦 の 大 好 き な啄 木 で し た
が 年 越 し 蕎 麦 に もあ り つ け ず 債鬼 に 追 い 立 て ら れ ほ う ほ う の 体 で 北 海 道 初 の 新 年 を
迎 え るの で し た 。 沢 田 信 太 郎 の 奔 走 で 釧 路 に 出 来 る 新 聞 社 に よ う や く 話 が き ま り 単
身 釧路 へ む か う の で し た 。 小 樽 駅 を 下 り て 左 の 方 角 に 有 名 な 三 角 市 場 があ り ま す。
お
ふ
ていしゃば
その入り口に建っているのが次の句です。
こ
ゆき
子を負ひて
みお
つま
まゆ
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
啄木には小樽よりもさらに厳しい釧路での苦闘の幕開けが待ち受けていました。
4 小樽日報社
五 再検証
も う 少 し こ の 陰 謀 事 件 を 検 証 し た い と 思 い ま す 。 こ れ ま で は啄 木 の 日 記 を 中 心 に
見てきましたが、実は啄木にはこの件に関して別の二つの資料を残しているのです。
こ れ ま で は 日 記 と い う 同 時 進 行 形 の 状 況 分析 で した が こ れ か らの 二 つの 資 料 は 一 件
落着後に記録されたもので日記よりはやや客観性を帯びたものと言えるでしょう。
そ の 一 つ は啄 木 が 「 蛮 寅 」 こ と 小 林 寅 吉 に 撲 ら れ 即 刻 小 樽 日 報 を 退 社 し て ヒ マ に
な っ た 際 に 在職 中 に 書 い た 原 稿、 記 事 を まと め た『 小 樽の か た み 』 ( 一 九 〇 七 ・明
治 四 十 年 十 二 月 ) ( 『 石 川啄 木 全 集 』 第 四 巻 筑 摩 書 房 ) で す 。 今 ひ と つ は 啄 木 が
北 海 道 を 去っ て 東 京 に 出 て 苦 闘 し て い た 時 に 『 読 売 新 聞』 で 「野 口 雨情 、 札 幌 で 客
死 す」という記事を読み、その 追悼として「悲しき思出―野口雨情君の北海道時
代 」 ( 『 石 川啄 木 全 集 』 第 八 巻 ) と い う 原 稿 を か き ま し た 。 そ の 二 日 後 、 こ れ は 誤
報 であ る こと が 判 明 し て 筆を 中 絶 し ま すがこ こ で も 当然 、 か の 陰 謀事 件 に言 及 して
い ま す。 この 二 つの 資 料 を比 較検討 する事 に よ っ て陰 謀 の 顛 末を も う少 し解 明 して
みたいと思います。
『 小 樽 の か た み 』 に は啄 木 自 身 に よ る 〝 ま え が き 〟 と し て 「 小 樽 日 報 と 予 」 が 書
か れ てい ま す。 入社か ら退 社 に 至る経 緯がか な り 詳 しく 述べ ら れ て い ま す。 その う
ち陰謀に関わる部分だけを抄出します。
あまつさ
( 1 ) 予と 野 口 君 と の 間 に 主 筆 排 斥 の 企 あ り 。 佐 田 西 村亦 加 は る 。 要 は 江 東 の 人
すべから
格 遂 に 我 等 の 長 と す べ か ら ず 、 且 つ 其 編 輯 の 技倆 陳 に し て 拙 、 剰 へ 前 科 数 犯あ
る凶児なるが故に、 須 く彼を社外に一擲して、以て編輯局内に一種の共和政治
を 布 か む と す る に あ り き 。 之 実 に 第 一 回編 輯 会 議 の 日 に 於 て 既 に 予 らの 話 題 に 上
とみ
が り し 事 た り し 也 。 金 子 之 を 主 筆 に 通 じ 、 事 露 見 す。 初 号 発 刊の 夜 、 主 筆 野 口 君
に 云 ふ 所 あ り 、 翌 日 同 志 相 議 す 。 皆 頓に 軟 化 し て 真 骨 頂 な し 、 予 一 人 蛮 勇 を 奮 は
むとして抑へられ、事遂に画餅に帰せり。
陰謀の 理由は変わっ ていませんが、ここで注目さ れるの は①陰謀が十月十五日夜
には既に金子記者による主筆への密告で発覚 してい ること 、②こ れを主 筆が雨情を
呼 び 出 し 忠 告 し て い る こ と 、 ③ こ の た め 同 志 が 意 気 消 沈 、啄 木 一 人 が 最 後 ま で 陰 謀
実 行 を 唱 え て陰 謀 は 露 と 消 え た 、 と い う こ と で す。 特 に 、 主 筆 が 雨 情 を 呼 び 出 し て
「社長予に主筆解任の内意を洩ら し、後事 を託して札幌に去る。 」 そして主筆は社
つ ま り啄 木 は 雨 情 を 裏 切 り 者 と 考 え た と し て も 不 思 議 は あ り ま せ ん 。 十 一 月 九 日 、
翻 意 を 促 し た 結 果 、 同 志 が ひ る ん だ と い う啄 木 の 認 識 は 注 目 す べ き だ と 思 い ま す 。
4 小樽日報社
を去りますが社内は騒然となります。 ( 2 ) ( * 十 一 月 ) 十九 日 に は 予の ( 主 筆 江 東 氏 を 送 る ) の 一 文 を 載 せ た り 。 金
子 狂 せ る が 如 く 、 小 林 事 務 長 は 岩 泉の た め に 籠 絡 せ ら れ て 、 社 中 第 二 の 禍 根 茲 に
根 ざ せ り 。 予 は 囚 人 環 視 の 中 に 立ち て 隠 謀 の 張 本 人 を 以 て目 せ ら れ 、 一 挙 一 動 社
中 の 人 の 進退 に 関 す る が 如 く 思 惟 せ ら れ き 。 乃 ち 社 を 騒 が す を 快か ら ず と し、 辞
意を社長に訴ふ。社長笑うて用いず。
啄 木 が ど こ ま で 本気 で 「辞 意 」 を 考 え て い た か 分 か り ま せ ん が 半 月 ま え に 月 給 が
二 十五円 になり 、社内 の 実権 を 掌握 していたのですから、 これは 形 だけのこと 、 む
し ろ 内 心 は 自 分 の 思 い 通 り に なっ て 得 意 満 面 だ っ た こと は 間 違 い な い と 思 い ま す。
た だ こ こ で は啄 木 も こ の 件 を 「 隠 謀 」 と 認 め た こ と を 確 認 す れ ば 十 分 で す 。 そ し て
十 二 月 十 二 日 の 事 務 長 の 暴 力 に よ っ て せ っ か く 築 い た 安 定 し た啄 木 の 生 活 は 奈 落 の
底 へ 突 き 落 と さ れ て し ま い ま す 。 明 智 光 秀 は 三 日 天 下 と 云 わ れ ま す が啄 木 の 場 合 は
半月天下でした。
さてもう一つの資料は新聞誤報に よって生 まれた 雨情への追悼文「悲 しき思 出―
野 口 雨 情 君 の 北 海 道 時 代 」 で す 。 一 足 先 に 上 京 し た啄 木 が 雨 情 死 去 の 誤 報 を 知 っ た
の は一九〇 八 ・明治四 十一年九 月 十九 日で した。 その 日の 日記には 「口語 詩人 と し
て の 君 の 作 物 の 価 値 は 、 僕 は 知 ら ぬ 。 然 し 予は 昨 年九 月 札幌 で初 め て知 つ て 以 来 、
共 に 小 樽 日 報 に 入 り 、 或 る 計 画 を 共 に し た 。 」 と あ る よ う に啄 木 に と っ て 雨 情 と 言
えば例の隠謀事件とは切り離せない問題だったことがわかります。
そ こ で 追 悼文 「悲 しき 思 出」 で す。 隠 謀事 件 に 関 わ る箇 所の み を 使 い ま す。 番 号
は先の『小樽のかたみ』以降連番とします。
(3)此会議(*第一回編輯会議)が済んで、社主の招待で或洋食店に行く途中、
どんな
時 は夕 方 、 名 高 い 小 樽 の 悪 路 を 肩 を並 べ て歩 き 乍 ら、 野 口 君 と 予 と は 主 筆排 斥 の
まへ
隠謀を企てたのだ。 編輯の連中が初対面の挨拶をした許りの日、誰が其麼人やら
も 知 ら ぬ の に 、 随 分 乱 暴 な 話 で 、 主 筆 氏 の 事 も 、 野 口 君 は 以 前か ら 知 つ て 居 ら れ
た が、 予 に 至 つて は 初 め て逢 つ て会 議 の 際 に多 少 議論 し ただ けの 事 。 若 し 何等 か
の 不 満 があ ると す れば 、 其 主 筆の 眉 が 濃 く て、 予 の 大 嫌 い な 毛 虫 に よ く 似 て ゐ た
位のもの。
を 予 定 し て 書か れ て い る こ と に 注 意 し て下 さ い 。 と は 言 っ て も この ほ う が 個人 攻 撃
刊を考え ていない前提での文章ですが(3)は明らかにどこぞの新聞か 雑誌に投稿
( 1 ) ( 2 ) は啄 木 個 人 の 思 い 出 フ ァ イ ル で す か ら 日 記 と 同 様 、 こ の 段 階 で は 公
4 小樽日報社
が強い印象がありますが。
やま
(4)此隠謀は、野口君の北海道時代の唯一の波瀾であり、且つは予の同君に関
す る思 出 の 最 も 重 要 な 部 分 であ る の だ が 、 何 分 事 が余 り 新 ら し く 、 関 係 者 が 皆 東
あいつ
京 小 樽 札 幌の 間 に 現 存 し てゐ る の で 、 遺憾 な が ら 詳 し く 書く 事 が 出 来 な い。 最 初
「彼奴何とかしようやありませんか。 」いふ様な話で起つた此隠謀は、二三日の
中 に 立派 (? ) な 理 由 が 三 つ も 四 つ も 出 来 た 。 其 理 由 も 書 く 事 が 出 来 な い 。 兎 角
し て二 人 の 密 議 が 着々 進 ん で、 四 日目 あ た り に な ると 、 編 集 局 に 多 数 を 制 す る だ
け の 見 方 も得 た 。 サ テ 其 目 的 は と い ふ と 、 我 々 二 人 の 外 にモ 一 人 硬 派 の ○ 田 君 と
都 合 三 頭 政 治 で 、 一種 の 共 和組 織 を編 輯局 に布 か う と い ふ 、 頗 る 小 供 み た 考 へ な
の であ つ た が、 自 白 す る と 予自 身 は 、 そ れ が我 々 の 為 、 また 社 の 為 、 良 い事 か 悪
い 事 か 別 段 考 へ な か つ た 。 言 は ば 、 此 隠 謀 は 予の 趣 味 で 、 意 志 で や つ た の で は な
い。野口君は少し違つてゐた様だ。
啄 木 の 眼 か ら み て こ の 陰 謀 は 雨 情 に と っ て 北 海 道 時 代 の 「 唯 一 の 波 瀾 」 と い い ま
す が啄 木 は そ の 後 の 雨 情 の そ れ こ そ 波 瀾 の 生 活 を 知 り ま せ ん か ら 裏 返 せ ば 啄 木 の 小
樽 時 代 の 「 唯 一 の 波 瀾 」 と い う こ と に な り ま す 。 そ し て啄 木 は 「 趣 味 」 で や っ た が
雨 情 は もっ と 別の 意 味 があ っ た と 何 や ら 思 わ せ ぶ り な 示唆 を し て い ま す。 また 当 時
は西村という記者もいたはずですがここではなぜか外されています。
ま
すき
むかふみず
( 5 ) 野 口 君 は 予 よ り も 年 長 で もあ り 、 世 故 に も 長け て ゐ た 。 例 の 隠 謀 で も 、 予
も
は間がな隙がな向不見の痛快な事許りやりたがる。 野口君は何時でもそれを穏か
に 制 し た 。 ま た 、 予 の 現 在 有つ て ゐ る 新 聞 編 輯 に 関 す る 多 少 の 知 識 も 、 野 口 君 よ
り得た事が土台になつてゐる。これは長く故人に徳としなければならぬ事だ。
それかと云つて、野口君は決して
原稿 は 最 後の 行 が 途 中 で 終 わ っ てい ま す 。 続 き を 書 く つ もり で い た の で す が ち ょ
う ど友人か ら送 ら れ て きた 手 紙 で 雨情の 誤 報 を知 っ て 筆を おいた の で す。 (5 ) で
は啄 木 が 直 情 径 行 の 性 格 で 雨 情 は 隠 忍 自 重 の 風 が あ っ た と 述 べ て い ま す 。 こ れ は 隠
謀の言い出しっぺが自分で雨情はむしろその無謀を諫めたというようにも読めます。
( 1)か ら(5 )まで を通じ てこの 隠謀が雨情か ら 出たと いう表現 はひとつも なく
常 に 「 予等 」 と し て い ま す。 「野 口 君 は 何 時 で も」 自 分 を 「 制 した 」 つ まり 今 回の
隠 謀 も 雨 情 は 乗 り 気 で は な く 、 む し ろ啄 木 を 諫 め た の で は な い か と お も う の で す 。
おうとしなかった。 今回の隠謀の場 合は驚いた ことに野口君は非常に乗り気であっ
「 そ れか と 云 つ て 、 野 口 く ん は決 し て」 に 続 け よ う と し ま す。 お そ ら く 「無 謀 を 厭
し か し 、 そ う 解 釈 さ れ る と啄 木 が 隠 謀 の 首 謀 者 に な っ て し ま い ま すの で 行 を 変 え て
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た」と書こうとしたのではないかと思うのです。
六 雨情の言い分
一方、 雨情はというと小樽 時代の ことは岩 手新報に語っ た談話しか 残ってい ませ
ん 。 そ の 内 容 は 既 に 「 2 啄 木 の 雨 情 観 」 で 紹 介 し て お き ま し た 。 重 複 し ま す が 厭
わずにその時の雨情の〝証言〟を再現しますと
ママ
私の ゐ る北 海 が つ ぶ れ たの で 私は 小 樽 日 報に 移 っ た 。 石 川 君 を二 十五 円 で推 薦
し三面の主任として働いてもらってゐた。 主筆の岩泉浩東といふ人は警部上がり
の 頭の バ カ に 固 い 人 であ っ た 。 あ る と き 石 川 君 が その 主 筆の 文 章 に 筆を 入 れた の
が 問題 と なり 編 集 長 の 私 が責 任 上 そ こ の社 を ひ か な く て は な ら な か っ た 。 私 が 退
社 して か ら 石 川 君 が 社 の 者に 撲 ら れ て 釧 路 に逃 げ た 。 ( 『 岩 手 日 報 』 一 九 二 五 ・
大 正十 四 年 一 月 十 五 日 付 )
と いう もの で した 。 啄 木の 言 い 分と は 全く 違 っ てい ま す。 特に隠 謀の 件 に 限 定し
て 考 え て み ま し ょ う 。 自 分 が 小 樽 日 報 を 辞 め た の は啄 木 が 筆 禍 問 題 を ひ き お こ し た
の で編 集 長 であ る自 分 が責 任 を 取 っ て辞 め たの だ 、と 言 っ てい ま す。 その 事 件 と い
ア
カ
う の が啄 木 が 勝 手 に 主 筆 の 原 稿 に 筆 を 入 れ た か ら だ と い う の で す 。 二 十 一 歳 の 駆 け
こけん
出し記者が五十代ベテランの主筆の原稿に〝朱色〟を入れたというのです。 これが
本当だと すれば新聞社の沽券に関わる重大問題で編集長が責任をとらされてもおか
し く あ り ま せ ん 。 最 も啄 木 で あ れ ば こ の よ う な 問 題 を 引 き 起 こ し て も 不 思 議 は な い
よ う に も思 い ま す。 しか し、 困 っ た こ と に 雨情 は 編 集 長 で は な く た だ の 三面 担 当 の
〝ヒラ〟で した。 ただ、 雨情が小樽 日報を辞めたことは 確かな事 実 で、問題は その
辞 職 理 由 で す。 この こ と に 関 し て 雨 情 は 隠 謀 説 を 認 め た く な か っ た 可 能 性 があ り ま
す。
隠謀は啄木が勝手に言い出し、いつの間にか自分を巻き込んで始まってしまった。
ク ビ
案 の 定、 話は密 告さ れ 三四日 で露見 してしま い終息 したが 、どう いうわ けか自 分が
首 謀 者 に さ せ ら れ 馘首 に な っ た 、 そ う し て 何 故 か 啄 木 は 社 長 や 主 筆 に 認 め ら れ て 俸
給 は上 が る 、 三 面 主 任 に な る 、 人 事 に ま で 手 を つけ て編 集 長や編 集 部 員 の 総 入 れ替
え を強行 して社内の 実権 を掌握 した 、そうい う鬱勃と した 苦い思 いなど 振り 返りた
すと雨情の顔も立つわけです。
自 身は 四方 が円く収 ま る よう な形 でこの 談 話の よう に したの だと 思 い ま す。 こ れで
く ない、と 雨情 が考え るに 至っ た と して不 思 議はあ り ません 。 その 厭 な思 いを 雨情
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そ の 上 、 無 職 と な っ た 雨 情 に啄 木 は 冷 淡 で 何 の 支 援 も し ま せ ん で し た 。 か た や 二
十 五 円 の 月 給 、 か た や 無 収 入 、 歩 い て 数 分 で 通 え る 指 呼 の 間 の 距 離 に い な が ら啄 木
は 雨情の辞 職 後、 家の 敷居 を跨ご う と し ま せん で した 。 雨情 は人の 情 け を知 る 人 間
で すが人の 情 け に 預か る事の 嫌 い な人 間 で した 。 雨情 は 仕 事 を ク ビ に なっ て 以 来 、
友人たちにこのことを一切知らせません でした。 小樽日報を斡旋してくれた小国露
堂にもこの ことを直ぐには話していません 。 小 樽には友人も知人もおらずその 寂寥
感と無念さ は いかばか りであった で しょうか。 隠 謀事件 をめぐる一 連の啄 木の 動き
を 見 て 雨 情 は啄 木 と い う 人 物 の 性 格 に 疑 い を 抱 き だ し た と し て も 不 思 議 は あ り ま せ
ん。事件後の雨情の心情を忖度すれば次のようなものだったのではないでしょうか。
《 今 回 の 事 件 の 発 端 は 主 筆 へ の 不 満 を 口 に し た こ と を啄 木 が 味 方 し て く れ た こ と か
ら始まったことは確かだったけれども、どうもやり方が度をすぎていたのではな
か っ た か 。 啄 木 は 自 分の 愚 痴 を編 集 局 員 を故 意 に 巻 き込 ん で事 を 必 要 以上 に 大 き く
し て し まっ た 、 途中 で 何 度も 諫め た が 「野 口 君 、 僕に すべ て任 せ てく れ。 こう なっ
た ら 大 暴 れ す る し か な い 」 と ば か り に啄 木 は 勝 手 な 〝 暴 走 〟 を 始 め て 、 何 時 知 ら ず
首 謀 者 = 野 口 、 支 援 者 =啄 木 と い う 構 図 が 社 内 に で き あ が っ て し ま っ た 。 主 筆 の 子
飼 い の 金 子 記 者 が 主 筆 に 密 告 し て 事 件 が 露 見 し て か ら も啄 木 は 周 り を 煽 り 続 け 、 結
果的に自分ばかりがワリを食うことになってしまった。》
事件の終息した後の啄木の態度をみていて雨情はいたく失望したのだと思います。
野 心 に 燃 え た や り 手 で 見 所 の あ る啄 木 、 と い う 雨 情 が 持 っ て い た イ メ ー ジ は 自 分 の
ことばかり考えて周囲の迷惑を顧みないエゴイストに変わります。 こん な人間とつ
き あ う の は も う ご 免 だ 、 二 度 と 顔 も 見 た く な い 、 そ う い う 思 い で 小 樽 日 報 を 去 り啄
木 と訣 別し た の だ と 思 い ま す。 雨情 と い う 人 間 は どの よ う な場 面 で も面 前 で 人 を罵
倒したり、悪態をつく ようなこと はしませんでした。 啄 木に対しても文句一つ言わ
ず 彼の 前か ら黙然 と 姿 を 消 したの で す。 雨情 が ひっ そり 室蘭 に移 り 胆 振新 報の 記 者
に な っ た こ と を 知 る 人 間 は 一 人 も い ま せ ん で し た 。 こ の 間 、啄 木 と は 対 照 的 に 雨 情
は こ つこ つと 詩 を 書き 続 け て 東 京の 文 芸誌 に 投 稿 し てい ま した が 雨情の 苦 しい 生活
の話は全く伝わっていませんでした。
この間、小樽日報時代に雨情が書いた作品は以下の通りです。
◇一九〇七・明治四十年
(1)「小室小笹』『早稲田文学』八月号
◇一九〇八・明治四十一
(3)「神話人馬宮」(エッセイ)『ハガキ文学』十一月号
(2)「小猿」『新婦人』八月号
4 小樽日報社
(1)「独唱」『自然』一月号
(2)「機屋」『文章世界』四月号
(3)「聟取り唄」『早稲田文学』五月号
(4)「噫独歩氏逝く」(エッセイ)『北海タイムス』六月二十七日付
(5)「窓の戸」(小説)『新婦人』七月号
(6)「船中」『新天地』十月号
中 で も 小 樽 日 報 を 追 わ れ て 浪 々 の 身の上 中 に 書 い た ギ リ シ ャ 神 話の 「 人 馬宮 」 を
題 材にし てこの 宮の 由来に触 れ、最 も賢明で 操行 真 正なヒ ロンが死 後、 神エピ テル
に よっ て 十 二宮の 一 に 列せら れた 話を 書い てい ま す。 啄 木 に よ っ て 仕 組 ま れ た 奸 計
によっていわば列外に置かれた我が身を例えてのエッセイだったのでしょうか。
また翌 年 、 た ぶん 胆 振新 報 時 代 、 室蘭 で 作 ら れた歌 に 「機 屋」 があ り ま す 。 雨情
の詩情の源を感じさせる一作とは言えないでしょうか。
畑の畑の
葱坊主
親無し坊主に
日が暮れる。
こやすがひ
紅いは海辺の
あひ
蚕安貝。
なには
いちやぶね
逢とは浪速の
一夜舟。
このすけ
『助さん助さん此助さん。』
つばくら
俺らが在所の
乙鳥は
やなぎ
めと
浪速の小舟で妻娶る。
まんなか
東に花妻
真中に
川端 楊 の
木の枕。』
つ ば く らめ 。
見たいは海辺の
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逢とは浪速の
一夜舟。
おはま
く ぐ も り 小浜 の
はたや
海の音は
機屋の窓まで
響くぞえ。
啄 木 は 雨 情 に つ い て 「 新 体 詩 を 作 る 人 と 聞 く と 、 怎 や ら 屹 度 自 分の 虫 の 好か ぬ 人
に 違 ひ な い」 ( 「悲 し き思 出 」 )と いう 先 入 観 を持 っ て い た こと を 白 状 し て い ま す
が 、 そ う い う 考 え が 雨 情 を 見 る 際 、 ど こか に 潜ん で い た の か も知 れ ま せん 。 た だ 、
面 白 い 事 に啄 木 は 小 樽 日 報 第 三 号 ( 一 九 〇 七 ・ 明 治 四 十 年 十 月 四 日 ) に 「 燕 」 と い
はるさめ
う歌を山崎濤声というペンネームで一面真ん中に割り付けています。
ぬ
るりいろ
しとしと降る春雨に、
はるつばくらめ
しつぽり濡れた瑠璃色の
ふるす
春 燕 しよんがいな、
去年の古巣をたづね来て
こち
のきば
きのふ
此家の軒端に子を生んだ、
けふ
はつあきあめ
そ れ も 昨 日と思 ふた に、 今日は初秋雨がふる、
ひとりみ
つめたい雨に濡れ々々て
おやどりことり
秋燕、しょんがいな
い
親鳥小鳥むつまじく
南の空へ飛んで去ぬ
さびしいものだよ独身者は。
雨 情 は こ の 新 体 詩 風 の 作 品 を 見 て啄 木 に な ん と 言 っ た で し ょ う か 。 「 い や 、 な か
うた
な か う ま い で や ん すな 。 石 川さん 、 こ れか ら は 俚 謡 に も 手 を だ した ら ど う で や ん す
か」と言ったのか、あ るいは「これではまだ謡とはいえないでやんす。 韻もありま
せんしただ情景の説明 だけでやん すから」思うに雨情はコメントのしようがなくて
黙 っ て 煙 草 を や た らと 吹か し て い たの で は な いか と 思 い ま す。 と い う の も 雨情 は 基
た か ら こ れ は 雨情の 反 応 を 試 した もの だ っ た の か も し れ ま せん 。 糠 に 釘の よう な 雨
と も 嫌 い で し た 。 そ れ に し て も 日 頃 、 新 体 詩 を 軽 視 す る よ う に 言 っ て い た啄 木 で し
本 的 に 相 手 を傷 つけ る ような こ と を 言 うの が 嫌 い で した し 、 不 要 な波 風 を 立て るこ
4 小樽日報社
ひそ
情 の 反 応 を 見 て 、啄 木 は こ の 後 「 恋 」 「 公 孫 樹 」 「 雪 の 夜 を 掲 載 し て い ま す が 新 体
詩風はすっかり陰を潜めてしまっているからです。
七 それからの雨情
これまでに雨情についてもっとも詳しいの は長久保 源藏 が書いた『野口雨情の生
涯』(一九八〇 ・昭和 五十五年 暁印書館) ですが、小樽 日報を辞めた 後について
は 「小樽の地に 留まっ ており 、翌年 五月にはここか ら 札幌の北海 タイム スへ通勤し
た よ う であ る 。 或 は 失職 中 か も知 れ ぬ 。 」 と 心 細 い 記 述 に な っ て い ま す。 そ れ も無
理からぬ 話で、それ以 前に書かれた 平輪光三『野口 雨情』 (一九 五七・昭和三十二
年 雄 山 閣 ) で は 小 樽 時 代 の 雨 情 に つ い て は啄 木 の 「 悲 し き 思 出 」 の 引 用 で 終 わ っ
ています。他の年譜関連でも同様、この前後については雲をつかむような状況です。
た だ 、 こ の 間 、啄 木 の 日 記 に わ ず か 二 回 で す が 雨 情 が 登 場 し ま す 。 こ の 点 、 啄 木
の 〝 記 録 魔 癖 〟 は 意 外 な 貢 献 を し て く れ る の で す 。 失 職 中 の啄 木 は 大 晦 日 に 大 好 き
な 蕎麦 も 食 え ず 、 そ れ どこ ろ か 借金 の 取り 立 てに 頭 を下げ っ ぱな しの 厳 しい年 末を
なんとかしのいで新年を迎えます。 三が日は友人や知人宅で屠蘇にありつきますが
思 い の 外 健 気 に 振 る 舞 っ て い ま す 。 な に し ろ啄 木 は タ フ な 楽 天 家 で す か ら 他 人 の メ
シ も気 に な ら なか っ た の で し ょう 。 日報退職 後 は 自 分一 人 の メ シ も 食 べ る こ と が 出
来 ないと いうの に新しく編集 長に据 えた沢田 信太郎 に嫁を持たせ ようと 連日奔走 し
て い るの で す。 楽天 家と人の 世 話好き、どこか 共 通しているの でし ょうか 。 ただ、
残された 母(カ ツ)妻 (節子 )長女 (京子)は大変 つらい 日々が続いた ことは言う
までもありません。
一月十五日、北海道ではこの日を小正月と言って祝い日として食卓に馳走を並べ
る習慣が 根付き 始めて いましたが、 もちろん啄 木の 家族は 暖をと る薪 すらあり ませ
ん 。 そう いう家にも関わらず 友人たちが次々と やって来ます。 この 日も何 人も押 し
掛けてきましたが、なんと雨情もやって来たのです。
斉 藤 君 が 帰 る と 、 奥村 君 が 来 た 。 本 田 君 が 来 た 。 野 口 雨情 君 が 久 振 り で 来 た 。
本 田 君 は 別 れ の つ も り で 蜜 柑 を ド ツ サ リ買 つ て 来 た 。 野 口 君 は 天 下 の 形 勢 日 に 非
な り だ か ら 、 東 京 へ 帰 る つ も り で そ れ ぞ れ 手 紙 を 出 し た と い ふ 。 見 ると 着 て 居 る
着 物 は マ ル で 垢だ ら け 、 髭 も 生 え次 第 に な つ て 居 る。 自 分は 何 と も 云 へ ぬ 同 情 の
念を起した。此人の一生も誠に哀れなものである。
の 身 分で 入社 が決 まっ ていた こと もあ っ て 雨 情の零 落ぶり が余 計 際だっ て 見え たの
実 は こ の 二 日 前 に啄 木 は 沢 田 信 太 郎 の 斡 旋 で 釧 路 新 聞 社 に 三 面 主 任 月 給 二 十 五 円
4 小樽日報社
だ ろ う と 思 い ま す 。 主 筆 追 放 で 共 に 連 携 し た 相 手 が か く も 落 ち ぶ れ て い る 姿 を啄 木
は 「 此 人 の 一 生 も哀 れ な もの 」 と 一 刀 両 断 し て い る あ た り啄 木 の 人 柄 が に じ み 出 て
い る よ う で 興 味 深 い も の があ り ま す。 こう い う 場 合 は 例 え 社 交 辞 令 で も 「 そ の う ち
釧路新聞に呼ぶから君も来ないか」というくらいの気遣いが〝詩人〟ではないで
し ょ う か 。 お そ ら く 雨 情 は こ の と き啄 木 の 冷 た い 言 葉 と 態 度 を 肌 で 感 じ 取 っ た の で
し ょう 。 困った と きの 友 こ そ 真の 友 、 雨情の 心 に哀 しみ が 満ち てく る よう で し た 。
落ちぶれ果 てても雨情はこの逆境下でも詩を忘れてい ませんでした。 ようやく買っ
た 原 稿 用 紙 に 懸 命 に 歌 を 書 き 込 み ま し た 。 お そ ら く こ の 日 、 雨 情 は啄 木 と い う 人 間
の 本性 を 見 た の で は な い か と 思 う の で す。 どこ に で も い る 野 心 だ け の 若 僧 だ 、 と 。
思 い 起 こ す と 意 気 投 合 し て い い 気 に な っ て 主 筆 追 放 に 荷 担 し ま し た が啄 木 が あ ま り
に も手の 込 ん だ策 を 弄 するの で気 に は なっ て い たの で す。 そ れ に 会 合の 度の 飲 食 代
は ほ と ん ど が 雨 情 持 ち で し た 。 み ん な より 年 長 で すか ら 仕 方 な い と は 思 い ま し た が
啄 木 は 一 度 も 支払 い を した こ と は あ り ま せ ん で した 。 落 ち ぶ れ て 一 銭 で もあ り がた
いと思うようになってみてあらためて啄木の仕打ちを思い知りました。
ところで 、いま一度の 雨情の登 場は翌年 四月四日の ことになり ます。 啄 木が小樽
お
た
から釧路に入ったのは一月二十一日のことでした。
えき
さいはての駅に下り立ち
ゆき
雪あかり
まち
い
さびしき町にあゆみ入りにき
釧路 での啄 木の 生活 は こ こ で は 述べ る い と ま があ り ません 。 しか し、 ど う し て も
と 言 わ れ る な ら ば 酒 池 肉 林 に ま み れ た 七 十 六 日 と だ け 申 し上 げ て お き ま し ょ う 。 さ
すがにこの ままでは自 分は駄目に なると自 覚 したので しょう。 四月上 旬逃げる よう
に して釧路 を脱 出し函 館に出ます。 幸い、この 時 期には 宮崎大四郎 (郁雨)と いう
親 友 が 生活 すべ ての 面 倒 を 見 て く れ ま した 。 ま だ 小 樽 に 家 族 を置 い た ま ま で し た の
で 郁 雨 の 同 意 を と っ て啄 木 は 家 族 を 函 館 に 迎 え る た め 小 樽 へ 向 か い ま す 。 そ の 時 に
雨情と会うのです。
十四 日朝 八 時 小樽 着。 俥 を 走 せて 花 園 町 畑 十四 星川 方の 我 家に 入る 。 感 多少 。
京子が自由に歩き廻り、廻らぬ舌で物を云ふ。一時頃野口雨情君を海運町に訪ひ、
共に散歩。明日立つて札幌にゆき、本月中に上京するとの事。
啄 木 は こ こ か ら 小 樽 日 報 に 毎 日歩 い て 通 っ て い た ( 現 本 間 病 院 、 小 樽 駅 か ら 一 分 )
きな荷物があるわけでもないのに人力車で行ったというので少し驚きました。実際、
小 樽 駅 か ら啄 木 の 家 の あ っ た 花 園 町 ま で は 徒 歩 で 十 分 も か か り ま せ ん 。 そ れ に 大
4 小樽日報社
のです。しかも今回の費用はすべて宮崎郁雨が持ってくれたものです。
そ れ は 兎 も 角 、啄 木 は 小 樽 に 一 週 間 滞 在 し ま す が 、 そ の 初 日 、 最 初 に 雨 情 を 訪 ね
て い ること は 注目 し て い いと 思 い ま す。 小 樽 に 久々 に 戻 っ て多 くの 友人 をさ て お い
て 雨情 に 真っ 先 に 会っ たの は そ れな り に 理 由 があ っ たと 考 え てい いと 思 うの で す。
そ れはやはり例の陰謀事件が尾を引いていたからでは ないでしょうか。 四ヶ月 前、
小樽を発つとき、駅頭には期待していた雨情の姿はあ りませんでした。 事件以来自
分ばかり 一人 勝ちして貧乏く じを引 いた雨情のこと は指先 に刺さ った棘の よう に忘
れ ら れ なか っ た の か も し れ ま せん 。 で すか ら こ の わ だか まり を解 い て お き たか っ た
の だ と 思 い ま す 。 つ ま り 〝 お 詫 び 〟 で す 。 し か し プ ラ イ ド の 高 い啄 木 は ひ ろ 夫 人 に
こ の 話 を 知 ら れ た く な か っ た の で 外へ 連 れ 出し た の で し ょ う 。 ど の 程 度の 謝 罪 だっ
た の か 知 る 由 も あ り ま せ ん が啄 木 ら し い あ っ さ り と し た 釈 明 だ っ た の で し ょ う 。 雨
情は大人ですから機嫌良く「もう過ぎたことでやんすから」と答えました。しかし、
雨 情 は 頑 固 な 性 格 で す 。 一 応 は啄 木 の 詫 び を 受 け 入 れ ま し た が 、 わ だ か ま り が 氷 解
したわけではありませんでした。
例の啄木の「悲しき思出」にはこの時の情景をもう少し詳しく述べています。
月の 末 頃に は 必 ず 帰京 の 途 に 就 く と の 事 で、 大 分元気 が よ か つ た 。 恰 度 予も 同
じ 決 心 を し てゐ た 時 だ か ら 、成 る べ く は 函 館 で 待 合 し て 、 相 携 へ て津 軽 海 峡 を 渡
ら うと 約 束し て 別 れ た。 不 幸 に して其 約 束 は 約 束 だけ に 止 まり 、 予は同 月の二 十
五日、一人函館を去つて海路から上京したのである。
も し 小 樽 で の 啄 木 の 詫 び を 雨 情 が 坦 懐 に 受 け 入 れ て啄 木 と 仲 直 り が 出 来 て い れ ば
二 人 が 一 緒 に上 京 し て い た か も知 れ ま せん 。 そ の 実現 は 必 ず し も不 可 能 で は な か っ
た で し ょ う 。 し か し 、啄 木 が あ わ た だ し く 四 月 下 旬 単 身 上 京 し た こ と で そ の 実 現 は
な り ま せん で した。 なお 、 もう 一 言 付 け 加 え て お け ば 宮 崎 郁 雨宛 の 手 紙 の 一説 に 雨
情 と 会 っ た こ と にふ れ 雨 情 が 「北 海 道 は 筆 を 持 つ て 来 る 所 で は な いと 申 さ れ 居 候」
(「四月十七日」)と言ったことを紹介しています。
雨 情 が 小 樽 で啄 木 と 会 っ た 翌 日 、 札 幌 に 出 た と い う こ と は 事 実 の よ う で す 。 お そ
ら く小 国 露 堂 と 相 談 し て 札 幌 の ど こ ぞ の 新 聞 社 に 入 っ た 可 能 性 が 高 い と 思 い ま す。
例 え ば 雨 情 自 身 が啄 木 と 別 れ た 後 の 事 に つ い て 「 啄 木 は 私 よ り 先 き に 北 海 道 を 捨 て
あか
て 上 京 し ま し た が 、 私 は 札 幌 に 残 つ て 北 海 道 新 聞 の 編 集 を し て ゐ ま し た 。 」 ( 「啄
木 の 『 悲 し き 思 ひ 出 』 に つ い て 」 『 赭土 』 一 九 二 九 ・ 昭 和 四 年 八 月 号 『 定 本 第 六
巻』所収)
い るのか も しれません 。 雨情の 評伝の中にはこの 原稿を 「原稿代か せぎの投稿 で、
十 七 日付 ) を 書 い て い ま すか ら 雨情 は 北 海 道 新 聞 で な く 北 海 タ イ ム ス と 勘 違 い し て
この 頃 雨情 は 北 海 タ イ ム ス に 「噫 独歩 氏 逝 く」 ( 一 九 〇 八 ・明 治 四 十 一 年 六 月 二
4 小樽日報社
社 員と し て書い た もの ではな い」と している もの もあり ま すがこ の 原稿 は六百 字程
で あ り 、 原 稿料 狙 いと し ては内 容 が 乏 し過 ぎ ま す。 記事 内 容か ら 見 て も社内 原 稿の
可能性が高いと 見るべきで、ここでは北海タイムス 記者だったと しておきたいと思
い ます。 北海タイムスは当時 、道内の新聞とし ては読者数も多く有力紙でした。 雨
情 は 記 者 と し て 月 給 二 十 五 円 を も ら っ て い た よ う で すか ら 生活 は 安 定 し 始 め て い ま
した。
ところ が何故か北海 タイム スを数 ヶ月で辞 め室蘭新聞社 に移り 、ここ もまた 数ヶ
月 で 飛 び 出 し胆 振新 報 、 旭 川の 北 海 旭新 聞 を 転々 と し ま す。 この め ま ぐ る し い 移 動
の 背 景に は ひろ 夫 人 を 一旦先 に茨 城の 実 家に 戻して 身軽 に なった と いう こと も あ る
で しょ う し 、 も う 一 つ は 胆 振 新 報 時 代 に 記 者 の 一 人 が強 引 な 取 材 を し た と さ れ て恐
喝 罪で逮捕され、同僚 だった 雨情も巻き込まれて検 挙され留置所に二週 間ほど 留め
置かれるという〝事件〟があって早々に同社を辞め、声のかかった北海旭新聞に
這々の体で〝逃亡〟したというのが真相のようです。
この 間 、 樺 太 に カ ニ 缶工場 を 作り 一 旗揚げ ようと 目論 ん で失敗 した岩 野 泡鳴 がど
こ で 雨情の 存 在を知 っ たの か 旭川 に連絡 し てき ま す。 「 宿 屋へ行 つ てか ら初 め て初
対 面 の 挨 拶 を し た 。 氏 は 明 日 出 発 、 東 京 に 向 ふ 予 定 だ 。 氏 は こ の 六 月 頃 、 無 実の 罪
に落されかけて、予審獄にまでぶち込まれたのは酒を飲んだためだといふのに感じ、
全くこの頃は禁酒してゐる。 」(「旅中印象記」『北海 タイムス』 一九〇九・明治
四十二年十月十二日付)
また 泡 鳴 の 代 表 作 と 言 わ れ る『 断 橋 』 ( 一 九 一 一 ・明 治 四 十 四 年 ) に も 雨 情 が登
場 し て い ま す。 泡 鳴 は北 海 道 で道 議 会 議 長の 知 己 を得 て 道内 視察 の 官 費 旅行 を し て
ママ
開拓に関わる報告を しています。 その体験が『 断橋』に語られてい ます。 帯広から
<
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狩勝峠のトンネルを抜け、十勝原野に出ると「丸で雄大なおほパノラマの様な幻影
だ 。 義 雄 は この 幻 影 に よつ て 実際の 北海 道 を内 的 に 抱擁 して し まつ たと 思 ふ 。 」 以
来るのだ、な、と思つた。
義 雄 も 、 こ れ を 聴 い て 、 自 分の う か う か し て ゐ る う ち に 、 も う 、 段 々 冬 が迫 つ て
払 われない為め、 まご まご してゐ ては、 越年の 用意に も困るか らといふ わけだ。
業 中の 雲 右衛 門の 補 助に すが り 、東 京 へ 帰 ると 云 ふ。 / 社 で 満 足に 約 束 の 俸 給 を
早 朝、 新 聞 社 に 内 証で 旭 川 を 家 族 もろ と も逃げ 出 し、 先 づ小 樽 へ 行 き 、 そこ に 興
雄は心当てにした青年詩人 で、そこの某新 聞記者をしてゐるもの に会ふと、あ す
い 小 流 れ の 間 を そ ろ そ ろ と く だ り 出 すの で あ る 。 夜 に 入 つ て 旭 川の 宿 に 着 し、 義
もう 、 石 狩の 国 へ 這 入 つ たの で 、汽 車 は 細 い ナ ラ、 カ シハ 、 ハ ンの 木 、 松 や 清
下、義雄とあるのが泡鳴、青年詩人が雨情です。
4 小樽日報社
こ この部 分では二 つ の 問題 が浮 か び ま す 。 一 つは 家族 もろと も、 とあり ま す がこ
の 時 に は ひ ろ夫 人 は 実 家に 戻っ て い ま す。 また 雲 右衛 門 の 話は その 後 尾 ひ れ が つ い
て面白おかしく語り伝えられ ていま すが、この話は 雨情の 願望を言った だけで、仮
つて
に 接点 が あ っ た と すれ ば 雨情 の 水 戸 の 身内 に 雲 右衛 門 後援 会 の 有 力 な 世 話人 が い て
その伝手で旅費程度の援助を乞うものだったのではないでしょうか。
振り 返 っ て 見 れ ば 雨 情 が北 海 道 に い た 期 間 は 正 確 に は 分 か り ま せん が 一 九 〇 七 ・
明 治 四 十 年 七 月 か ら 一 九 〇 九 ・明 治 四 十 二 年 十一月 までお よそ二 年と四 ヶ月、 雨情
二 十五歳か ら二十七歳のまさに青春の彷徨 でした。 そしてこの間、 もっとも深くつ
きあったのが啄木だったのです。
五 雨 情 に と っ て の 北海 道
【二人が机を並べた小樽日報社跡、現在は病院になっている】
一 一通の手紙
一九 〇 九 ・明 治 四 十 一 年 二 月 中 旬の 事 で す。 行 く 先 定 ま ら ず 未 だ に 小 樽 に 留 まっ
ていた雨情の所へ一通の手紙が届きました。
小樽日報を馘首されたのは前年の十月三十一日でした。 小樽には 雨情は友人や知
人 が一人 もおらず、小樽日報の編集仲間も例の陰謀事件の 後遺症で誰も寄り つきま
せ ん 。 そ れ に啄 木 に よ る 社 内 〝 粛 清 〟 に よ っ て ほ と ん ど が 小 樽 を 去 っ て い ま し た か
ら余計に孤独になっていました。
な ん と 言 っ て も 信 頼 し て い た啄 木 に う ま く 立 ち 回 ら れ て ワ リ を 食 っ た 雨 情 に し て
みれば本心は穏やかではありません。 その上 、妻のひろには臨月近 いこどもが生ま
れ る の を い ま や 遅 し と 待っ て い ま す 。 せ め てミ ル ク 代 く ら い は 何 と か し な い と 心 は
あせりますが頼みにしていた札幌の小国露堂からはまだ仕事の話はきていません。
時間だけはたくさんありますから詩作に賭けようとしますが志気があがりません。
ちょうど一年前、自費出版で第二の詩集『朝花夜花』を出した事を思い出しました。
こ の 詩集 は 近 代 民 謡 の 確 立に 礎 石 を すえた 」 ( 古 茂 田 信男 「 雨情 の 民 謡 に つ い て」
『 野口雨情民謡童謡選』)と言われるほど評価が高く詩壇から注目された矢先 に雨
情 は さ っ さ と 北 海 道 へ 渡 っ て し ま う の で す 。 恩 師 坪内 逍 遙の 助言 に 従 っ た ま で 、 と
い う説 も あ り ま すが、 も しこ の ま ま 東 京 に い て活動 を続 け て い た と した ら もっ と 別
の野口雨情になっていたかもしれません。
話は少し横道に逸れますがこの詩集の中に「山がらす」という作品があります。
烏なぜ啼く烏は山に
可愛七つの子があれば
この 作品 が 十 三年 後 「七 つの 子 」 と し て 人 口 に 膾炙 する歌 に な るの で す。 こ う 考
え ると雨情の北海道での暮らしは決 して無 駄ではなか ったように 思えるので す。 逆
にこのまま東京にいたならば「七つの子」は生まれたでしょうか。 十三年の〝空
白〟と二年あまりの北海道生活がこの新しい歌を生み出したのではないかと言って
過言ではないと思うのです。
本 題 が 大 変 遅 く な り ま し た 。 雨 情 の 下 に や っ て き た 一 通 の 手 紙 は 石 川啄 木 か ら で
し た 。 こ れ は 中 身か ら 見 て 雨情か ら 出 した 手 紙 の 返 信 で あ る こ と が 分か り ま す が、
こでは文節毎に分けて丁寧にみて行くことにしましょう。
う こ と に な り ま す。 少 し 長 目 で す が 貴 重 な もの なの で ほ ぼ 全 文 を 紹 介 し ま す が 、 こ
客 観 的 に 見 て こ の 手 紙 は啄 木 が 雨 情 に 宛 て た 、 た っ た 一 本 、 し か も 最 後 の 手 紙 と い
5 雨情と北海道
そもそも
お 別 れ い た し 候 ふ て よ り 三 旬 に も な ん な ん と す る に 未 だ 一 度 の 消息 を も差 上 げ
ず と は 抑々 何 事 に 候 ふ べ き ぞ 、 去 る 頃 上 富 良 野 と い ふ 所 の 金 崎 某 氏 よ り ハ ガ キ ま
ゐり、大兄の安否を問合はするの句あり、その際御手紙差上げむと存じ候ひしも、
着 釧以 来 日 夕俗 事 に 忙 殺 せ ら れ 居 候身 に は 、 そ れ すら も 果 す 能 は ず今 日 に い た り
申 候 、 何 卒 不 悪 御 諒 察 被 下 度 願 上 候 、 小 生 御 地 出 立の 日 、 拙 宅 へ 御 出 下 さ れ 候 事
は 荊妻 よ り も申 参 り 居 、 奉 鳴謝 候 、御 帰 京 未だ の 由、 何 と申 し て よき や ら、 兎 角
こんな
うき世は憂き世と存じまゐらせ候、小生の如きも、喰はねばならぬ余儀なさに
這 麼所 ま で ま ゐ り 候 ふ も の の 、 時 々 は 何 と な く 人 間 の 世 界 か ら 余 り 遠 く 離 れ た や
うの感いたし候、
上 富 良 野 の 金 崎 某 は と もか く 雨 情 フ ァ ン が す で に 北 海 道 に い た こ と は 注 目 さ れま
す 。 ま た こ の 手 紙 が 雨 情 か ら も ら っ た 返 信 な の で す が 、 あ の 手 紙 好 き の啄 木 か ら で
は な く 、 ど ち ら か と い え ば 筆 無 精 の 雨 情 か ら の 手 紙 だ と い う こ と も興 味 深 い も の が
あ り ま す 。 こ の こ と は啄 木 は 出 来 る こ と な ら も う 雨 情 を 忘 れ よ う と し て い た 節 が 垣
間 見ら れる よう な気 が するの で す 。 しか し、小 樽 を発っ た 日、 そ れ と は知 らず 、 雨
情 がわ ざ わ ざ 花 園町 の 自 宅 を 訪ね て く れ た こ と を 知 っ て 雨 情 と い う 男 を 改 め て 見直
し た の で は な い で し ょ う か 。 そ れ に こ の 頃 は啄 木 は 記 者 と し て も 活 躍 し 、 小 奴 な ど
芸者遊びに熱を上げていましたので雨情に手紙を書くどころではありませんでした。
かうもり
○
○
但しこれも鳥なき里の蝙蝠の格にや、はた又自然の力には抗し難しと諦め候ふ
○
○
○
為 に や 、 当 地 に ま ゐ り て よ り 、 先 輩 な る 或人 よ り 白 菊 の 花 封 じ た る 手 紙 得 し 時 一
度 を 除 い て は 、 あ ま り 東京 病 を 起 さ ず 候 、 自 分 で は ま だ ま だ 死 な ぬ つ も り に 候 へ
ど もか く て か く し て再 び 南 の 春 に 逢 ふ 事 も な く 死 に果 て つべ き 事 と 悲 し く も 相 成
候、
ここに言う 「白菊の 花封じ たる手 紙得し時」というのは おそら く東京の与謝 野晶
子 女 史か ら 上 京 を 促 し た 手 紙 の こ と で は な い で し ょう か 。 夫の 鉄幹 か ら は 幾 た び か
上 京 を促 す手 紙 を もら っ てい ま した が、晶 子 夫人か ら も来 ていた と は知 り ませ ん で
し た 。 そ れ と も啄 木 独 特 の 〝 創 作 〟 癖 か ら 故 意 に 〝 女 性 〟 に 仕 立 て あ げ た の か も 知
れ ません。 兎も角、北海 道に来て以来、何とか して上京 しようという思いに駆り 立
の広さを忘るゝものに候ふべきか、
事 すら 何 と なく 縁 遠 い 様 の 心 地 も せら れ 候 、 蛙 一 度 井 底 に 入 り 候 ふ て は 遂 に 大 海
新聞十幾種、主なるもの は毎日大抵目 を通して居候へ ど、 此 頃では 札樽の 間の
てられ自ら「東京病」と名乗っていた焦慮感が強く滲んだ記述です。
5 雨情と北海道
さ て 宮 下 挙 輩 大 兄 に 対 し て不 埒 を 働 き 候 由、 お 手 紙 に て初 め て 承知 、 憤 慨 と 愍
笑 を一 時 に 洩 し 申 候、 何 と いう 事 に 候 ふ ぞ や 、 憐 むべ き 心事 に は 候へ 共 、 大 兄 の
御迷惑察し上候、
小 生 の 事 も 原 稿 捏 造 中 と の 事 に は思 は ず 哄笑 い た し 候 、小 生 は 一人 で も二 人 で
も 自 分の 心 事 を 以 心 伝 心 に 解 つ て く れ る 人 さ へ あ れば 、 世界 中 を 敵に し て も 恐 ろ
し く も な く 候、 と は云 日 乍 ら彼 等 如 き に 名 ざさ れ ると は 何と な く 遺憾 の 点 な き に
非ず、若し新聞に出候はヾ何卒一部御恵被下度候、実業新報とやらは社には参り
居らず候、
天 佑 の 再 び 大 兄 の上 に 帰 り 来 ら む事 を 心 より 祈 上 候 、 くだ く だ しく は 申 し上 げ
ず候へ共何卒小生の心中御察し被下度候。
文中 に 出て来 る宮下 某 と い うの は 小 樽 日報の創 刊 当 時か ら いた 記 者で 当 時は 札幌
支 社 勤 務 で し た が啄 木 が 去 っ て か ら は 小 樽 の 業 界 紙 「 実 業 新 報 」 に 移 っ て い ま す 。
あ る時、 市内の 飲み屋で宮下 はばっ たり雨情と顔を合わせた際に 「おや 、まだ こん
な 所 を ぶ ら つ い て い る ん で すか 」 と 言 っ た 調子 で 雨 情 を 侮 辱 し た ら し い の で す。 の
み な ら ず 宮 下 は啄 木 に つ い て も 「 な に し ろ 石 川 君 は 原 稿 捏 造 の 天 才 だ 」 と 悪 態 を つ
い たの で し ょう 。 あ まり 腹 を 立てた り 事 を 荒 立 てた り 、 あ る い は 人 の 悪 口 を 好 ま な
い雨情がやるかたない憤懣を啄木に書き送ったのでした。
も う 一 つ 「 小 生 の 事 も 原 稿 捏 造 中 」 云 々 に つ い て は 実 は啄 木 自 身 「 社 に て 諸 新 聞
よ り 切 抜 き た る 材 料 に よ り 、 『 浦 塩 特 信 』 な る もの を 書 け り 。 新 聞 記 者 と は 罪 な業
ウラジオ
な るか な。 」 ( 「十月 十 日」『 明 治 四 十丁 末歳 日誌 』 ) と この こと を既 に 認め てい
ます。 「浦塩特信」の 「浦塩」は当時ロシアのウラジオストックをもじった新聞世
界 の 隠語 で現 在の パク リに近い記 事 作り を 指 していた ようなの で す。 こういう こと
は 啄 木 は お 手 の も の だ っ た で し ょ う 。 そ れ に し て も啄 木 が 必 要 以 上 に 向 き に な っ て
反駁しているような気がします。
只 今 社 に は 編 輯 局 五 人 、 三 月 初 め 機 械 着 次 第 普 通 四 頁 の 新 聞 と する と の 事 に 御
座 候、 当 地 に ま ゐ つ て よ り は ま だ 一 度 も 喧 嘩 不 致 候、 主 筆氏 も 好 人 物 に て 万 事 私
・
・
・
・
・
の 我 儘 を 許 しく れ 候、 釧 路 は新 聞 記 者 的 に 云 へ ば 将来 誠 に 有 望 に し て 且 つ面 白 き
町 に 候 、 当 地 に て 一 番 発 達 し て 居 るの は 料 理 屋 に 候ふ べ し、 芸 妓 に は よ いの も 少
な く 候 へ ど も、 ○ 喜 望楼 と 申 す 料 理店の 如 きは 札 幌へ 出 して も 恥 か し く ない 位 に
候、
十 円と いう 大金 をだ ま し取るとい う 狼藉を 働いている 真っ最 中 で した。 小 静、 小奴
ま し た が 、 反 面 、啄 木 は 酒 池 肉 林 に 溺 れ 、 そ の 遊 蕩 費 捻 出 に 親 友 の 宮 崎 郁 雨 か ら 五
実はこの時期、社長や主筆、事務とも折り合いがよく、紙面作りに精 出してはい
5 雨情と北海道
等 と 言 っ た 芸 妓 が現 れ て は 消 え ると い う 淫 蕩 の 生活 に溺 れ 小 樽 に 残 した 家 族に 仕 送
り もせずに放蕩三昧で した。 一面ではこういう ふしだら な暮らしに も関わらず よく
雨情へ手紙を書いたものだとも思います。
目下 港 一 面 に 氷 結致 居 候 、氷 れ る海 は 初 め て 見 物 い た し 候 、 下 宿 屋 の 二 階 の 寒
さは格別に御座候、
小 生 、 家 計 二 つ に 分 れ て 居 て は 兎て も 間 に合 は ず 候 故 、 三 月 に で も な つた ら 家
族 皆 呼 び 寄 せ お う か と 考 居 候、 来 る時 は 一 寸の 考 なり し も白 石 氏 より の 懇々 の 話
も あ り 、 か た が た 一 二 年 当 地 に 暮 す考 に 御 座候 、 小 生 如 き 者 は 生活 の 烈 し い 所
は兎てもたまらず候事と悟り由候
い ず れ 近 く 社 宅 を 用 意 す る と い う 話 もあ っ て 、 こ の ま ま し ば ら く 釧 路 に 腰 を 下 ろ
し て 家 族 を 呼ん で少 し 落 ち 着 い てか ら上 京 し て も 自 分の 文 学 的 能 力 に は 衰 え は あ る
ま い 、 そ う 言 い たか っ たの で し ょう が、 そ れ より も 芸 者世 界の 歓 楽 に 負 け ての 弁 明
に しか 聞こ え ま せ ん 。 ほ ぼ 同 じ 頃 、 小 樽 時 代 に 出会 っ た 働き な が ら 文 学 を 志 し てい
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た 若い文 学 愛 好 家高田 治 作と 藤田武 治 には 「 一 二年 居 れば 小 生で も自 費 出版の 資金
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位 は 何 と か なり さ う に 候、 六 十 迄 は 生 き る決 心 故 、 少 し も 急 ぐ 必 要 な し と 、 乃 ち 何
と か な る 迄 居 る 事 に い た し 候 ふ次 第 に 候」 ( 「 二 月 十 七 日 」 書 簡 ) と 書 い て 淫 蕩 生
活を正当化しています。(傍点啄木)
結 局 、啄 木 は こ れ か ら 一 ヶ 月 後 、 釧 路 か ら の 離 脱 を 決 意 し ま す 。 こ の ま ま い て は
駄目になると観念したのでしょう。 飛びつくように釧路から函館に向かう商船酒田
川丸に乗船します。釧路七十六日の滞在でした。
そ し て 念 願 の 東 京 へ 出 た啄 木 は 小 説 家 と し て 文 壇 を 目 指 し 北 海 道 を 舞 台 と し た 作
品 『 病 院 の 窓 』 『 菊 池 君 』 な ど を 執 筆 し ま す が 文 壇 に は 受 け 入 れ ら れ ず 失 意 の 日々
を重ねることになります。
二 雨情にとっての北海道
と こ ろ で 雨情 は 北海 旭新 聞 を最 後 に上 京 を 決 心 し 北海 道 を 離 れ るの が 大体 一 九 〇
九 ・明 治 四 十二 年 で す 。 岩 野 泡 鳴 に よ る と 冬 を 迎 え る 前 に 雨 情 に 会 い 明 日 東 京 に 行
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く と 言 っ た そ う で すか ら 秋 か ら 初 冬 に か け て で し ょ う 。 札 幌 の 新 聞 社 に 勤 め 初 め て
は雨情に何をもたらしたのでしょうか。
一 年 に 満ち 足り ません で した が 雨 情 は 二年 半 を過 ご し た こと に な り ま す。 この 滞 在
お よそ 二 年 半 の 北 海 道 生 活 と い う こと に な り ま す。 啄 木 の 北 海 道 滞 在 が 三 五 六 日で
5 雨情と北海道
1 樺太から北海道へ
雨情の場 合、その北 方性志向は 北海道 で はなく樺太 にあり ました。 何故樺太 だっ
たのでしょうか。 当時の若者にはアメリカ遊学がブームとなっ ていました。 五十円
ほ どあ れ ば渡 航 でき る と いう ことと 、徴兵か ら逃 れ ると い うの で 富裕階 級の子 弟 は
多 く がこの 方法を選択 しました。 啄 木ですら真 剣に渡航を考えましたが経済的 問題
で 断 念 し て い ま す。 野口 家は 武 門と 貴 族 家の 流 れ を汲ん だ い わば 名 門 で その 長 男 と
して生まれた雨情は順調なら いいと ころのお坊ちゃん育ち で苦労 をすることなく恵
まれた生活 を送れるは ずでした。 学 校も東京で学び、好きな読書を していずれ 詩集
を 出 版 し よ う と 考 え て い た と こ ろ 父 が 急死 、 雨 情 は 二 十 二 歳 で 野 口 家の 跡 を 継 ぎ ま
す が、跡 取りに は嫁 が 要 ると いう わ け で二 十 三歳に は こ れ また名 門の 高 塩 ひろ と結
婚 し ま す。 当 時 の 結 婚 は 個 人 で決 ま る もの では な く 家同 士 で一 方的 に決 め て し まい
ま す。 で すか ら 相 思 相 愛 と い う こ と に は 先 ず な り ま せ ん 。 思 っ て も み い な か っ た 家
の 跡 取り 、父の 残した 借財、 意 に添 わない結 婚、詩 作の道 の断念 と いう 状況で 雨情
は荒れた生活にのめり込んで行きます。芸者遊びや酒浸りの日々が続きます。
そん な 折り 、 世 間 は 日露 戦 争の 勝 利 に沸 き 立ち町 々 に 提 灯行 列 がくり 出 し ま す。
こ の 勝利 で 日本 は新 し い領土 樺 太 を 獲得 し ま す。 新 聞は 政 府の キ ャ ンペ ー ン に 添 っ
て連日のように「夢の樺太」「いざ飛躍せよ、新領土へ」とばかり国民を煽ります。
ア メ リカ に 行 け ずと も 貧 乏人 に は 樺 太 があ る! 雨情 は この 流れに 飛び乗り ま す。
窒 息 しそ う な 田 舎暮 ら しを抜 け 出 し て心 機一 転、う まくゆ け ば 一 旗揚げ ること も不
可 能ではない。 落ちぶれたと は言っても野口家の看板はまだ死んでいません。 雨情
が 親戚 ・ 知 人 か ら多 額 の 借金 を 集 め て意気 揚々 樺 太 へ 渡 っ た の は 一 九 〇 六 ・明 治 三
十九年、雨情二十五歳のことでした。
ものの本ではこの時雨情は芸者と一緒に樺太に渡ったとか、その芸者が雨情の
持っていた 有り金 すべ てを盗んで男と逃げ た、という 話を伝えています。 さら に悪
質なのは 雨情が リンゴ を貨物 車一台ごと買っ て樺太に送り 一儲け をたく らんだ がリ
ン ゴ が 途中 で腐 っ て 大 損 した と い う 話 を 伝 え る 本 もあ り ま す。 この 時 分、 雨情 も 若
く 芸 者と つ るん だ と い う よう な類 の 話はあ り 得 な い こ と で は な い と 思 い ま すが 、 リ
ンゴの話は荒唐無稽もいいところです。
樺 太で なに を してい たのか 、 記録 が一切 残 っ てい ないの で推測 する し か ない の で
す が 野 口 存 彌の 作成 し た 年 表 に より ま すと 樺 太国 境 線 確 定 委員 を し て い た と 「 み ら
れる」とあります。 突然の日本領土化で樺太は混乱状態だったでしょうしなにが
あ っ て も 不 思 議 の な い 状 態 で し た か ら 雨 情 は 恐 い も の 見た さ と 驚 き の 日 々 を 過 ご し
た こと だけ は 確か で す 。 また 雨情 は 書 が堪 能な の で人 手 の 足り な い 公 務にうっ てつ
と こ ろ で 雨 情 に は 「 砂 金 採 」 と い う 作 品 があ り ま す 。 能 書 き 抜 き で 読 ん で み て く
いと思います。
け 、仕事 に不自 由は し なか っ たはず で 予想以上 に快 適な滞 在を楽 しん だ 可能性 は 高
5 雨情と北海道
ださい。
やまなか
ようじ
ゆびさ
父はと問へば幼児は北なる空を 指 して
石狩川の山中に砂金採りぢやと答へたり
うれひ
冷たき霧も流れては山に雲飛ぶ石狩の
ほら
いはかげ
きろき
おと
川の若葉の春の日を水に結べる 愁 あり
かみよ
神代の洞の岩陰に伐木の響の沈むとき
夕日めぐれる林には小鳥の群も帰るかな
ようじ
父はと問へば幼児は熱き涙をくもらせて
あした
しらくも
石狩川の山中に砂金採りぢやと答へたり
くはぶつ
夏も 朝 は北山の峯の白雲寒くして
果物実らぬ森陰に野の獣こそ迷ふなれ
秋の流に浮き草の緑葉に花は咲かねども
ようじ
いつつ
氷きらめく川中の水にぞ砂金は映るらむ
ちい
ひとみ
ゆ うべ
父に別れし幼児は五歳の春を迎へしが
小さき瞳孔をうるませて 夕 は見るよ北の空
こ れ は 一 九 〇 二 ・明 治 三 十 五年 『 小 国 民 』 九 月 号 に 載っ た 作 品 で す。 雨情 は この
時 二十歳で すがまだ北海道には渡っていな い時期です。 当時は本州の新聞にしばし
ば 北海 道 で の 砂金採 取 の 広 告 が 載 り ま した 。 「 砂金 採 取 人 募集 入 場 料 一 ヶ 月 金 参
円」といっ た具合です。 雨情はおそ らくこの ような広告 を目にして まだ見ぬ北 海道
に 暮 ら す 砂 金 採 り の 親 子 の 人 生 を 思 い 描い たの で は な い で し ょう か 。 この 頃か ら 雨
情の北方性への関心が芽生えていたとみて間違いないでしょう。
ついでながら、葛西善蔵の『雪をんな』(一九一四・大正三年)の中に「私は
ぢ っ と し て 暖か い春 を 待つだ け の 貯 へ が無 か つた 。 また この 島か ら さ ら に 北 の 涯 な
る島へ渡るには、時期を失つてゐた。 で私は丁 度、砂金人夫の収入の多いと云 ふ 話
に 釣ら れ て行 つ て 見た の だ が 、 身 を 切 ら るゝ や う な 凍 つ た 河 水 に 堪 へ 兼 ね て 、 都 へ
千金を夢見る人々への誘い水になっていたことがうかがえるのです。
文 中 にあ る 「北の 涯 な る島」 とあ るの は 樺 太で す。 当 時 は 砂金採 り と いうの は 一攫
舞 ひ 戻つた 処 であ つ た 。 」 と いう 一節 があ り ま す。 この 場 所は北海 道 岩 見沢 近 郊、
5 雨情と北海道
そうして翌年、坪内逍遙に勧められて北海道に渡り札幌の新聞社勤めに入ります。
札幌には二年前一度き ているので手慣れたと いうか 案 外早 く札幌の環境 に馴染 みま
す。 ここ で小国露堂を知 ることになります。 小国は雨情 にとって親しみや すい友人
と な り 、 長 く 交 わ り を 続 け ま し た 。 そ の つ き 合 い の 中 か ら啄 木 と の 思 い 出 が 増 幅 さ
れて語られることになります。
2 啄木との邂逅
何 と 言 っ て も 石 川啄 木 と の 出 会 い は 二 人 の 生 涯 に 様 々 な 彩 り を 添 え る 出 来 事 で し
た 。 こ れ も 小 国 露 堂 が 仲 を 取 り 持 っ て い ま すか ら 露 堂 と い う 人 物 は あ まり 評 価 さ れ
て い ま せん が思 いの 外 重 要 な キ ー パ ー ソ ン だ っ た こ と が 分か り ま す。 露 堂と い う 人
物 は啄 木 研 究 家 の 間 で は 社 会 主 義 者 と い う 位 置 づ け が さ れ て い ま す が 、 そ れ は 間 違
い で曲 が っ た こ と が嫌 いな 正義 感と 反 骨 感を 併 せ持 つ人 間 だっ た と 思っ てい ま す。
日 本の イ ンテ リ は な ぜ か い ま で も社 会 主義 と い う 言 葉 に 敏 感 に 反 応 し ま す、 雨 情 で
す ら 社 会 主義 思 想と の 関 わ り を も っ と も ら し く 関 連 づけ よ う と す る 研 究 者 は 少 なく
あ り ま せん 。 そ う い う 人 々 は 雨情 が 時 局 便 乗 に 積 極 的 だ っ た 側面 に は 目 を つ ぶ るの
で すか ら 、 そ う い う 見 識 の 底 の 浅 さ に は 呆 れ て し ま い ま す 。 今 回 は こ の 問 題 に つ い
ては触れませんが改めて考えてみるつもりです。
雨 情 と 啄 木 の 出 会 い の こ と は 、啄 木 や 雨 情 に つ い て 書 か れ た 本 で は 必 ず と 言 っ て
い い ほ ど 取 り 上 げ ら れ て い ま す。 し か し 、 い ず れ も が 奥 歯 に 物 が 挟 ま っ て い る か の
よ う な 記 述 ば か り で隔 靴 掻 痒 の 感 を 否 め ま せ ん 。 と い う の も 雨 情 を 支持 す る 人 々 と
啄 木を支持する人々が対照的 な見解 をとっていていずれが 正しいのか非 常にわかり
に く い 構 図 が で きあ が っ て し まっ て い る気 が し て な ら な い の で す 。 こ の 事 に つ い て
は 既に本 書で述 べてお きましたの で 繰り 返し ません が私の ような 見方もあ ると いう
ことが分かっていただければ幸いです。
た だ 、 この 二 人 が 相 まみえ た と い う 事 実だ け で も 大変 な 出来事 で、 も し 雨情 が 坪
内 逍 遙 か ら 北 海 道 行 き を 勧 め ら れ な か っ た ら 、 或 い は ま た啄 木 が 函 館 で 大 火 に 遭 わ
なかったなら二人の邂逅はなかったわけですし、また二人の間に小国露堂がいな
か っ た なら 二人 は 素通 り していた に 違いあ り ません 。 そ してこ れ も 既 に 述べた 通り
で す が 、 雨 情 が啄 木 と 袂 を 分 か つ 原 因 と な っ た 小 樽 日 報 で の 陰 謀 事 件 も 当 然 起 き な
かったわけです。
3 小樽日報陰謀事件
この件では詳しく述べましたので、ここでは一つだけ強 調して おきた いと思 いま
結 果 的 に 〝 真 犯 人 〟 に 追 い や っ た の で す 。 そ し て 詫 び の 一 言 も な く 、啄 木 が 良 心 の
で す 。 陰 謀 が 社 員 の 密 告 で ば れ て 首 謀 者 と 見 な さ れ た 雨 情 を啄 木 は か ば う ど こ ろ か
す 。 そ れ は こ の 事 件 を き っ か け に し て 雨 情 の啄 木 評 価 が 変 わ っ て い っ た と い う こ と
5 雨情と北海道
呵 責 に 耐 えか ね て した こ と は 雨情 を 悪 役 に 仕 立てた 自 分の 日記の 箇 所 を 八行 斜 線 を
引いて抹消したことでした。
い い わ け も 弁 明 も せ ず に 自 宅 に お と な し く 〝 蟄 居 〟 謹 慎 し て い た 雨 情 を啄 木 は 謝
罪はもちろんのこと、詫びや慰労のために訪れることもなく冷たく黙視したのです。
そ の 一 方 で 函 館 日々 新 聞 の 主 筆で 大 火 の 為 小 樽 に 引 き上 げ て い た 函 館 日 々 新 聞 主 筆
の 斉 藤大硯とは 連 日の ように 飲んだり、小樽 に来て 出来た 「若き商人」 こと 藤田武
治 や 高 田 紅 花 ら と も 頻 繁 に 会 っ て い ま すか ら 、 雨 情 に 一 度 も 会 わ な い と い う の は 逆
に啄 木の 本 心 を 表現 し て い るの だ と 思 い ま す。 すな わ ち 会 い た く て も 良 心 が 咎 め て
会えなかったのです。
この後釧路に 赴任する時、 雨情は 駅には間に合わず留守 宅の節子に会って見送れ
な か っ た 詫 び と 別 れ の 言 葉 を 伝 え た の で す 。 そ し て 雨 情 が 釧 路 の啄 木 へ 手 紙 を 書 い
て も啄 木 は 直 ぐ に は 返 事 を 書 き ま せ ん で し た 。 い や 、 こ れ も 正 し く言 え ば 書 け な
か っ たの だ と思 い ま す 。 こう み て来 ると人 間の 違いと い うか 品格 と いう ものの 違い
が に じ み 出 て い る よ う な 気 が し て な り ま せ ん 。 雨 情 が そ の よ う な啄 木 の 人 間 性 に 疑
問を持ち、その言動を目の当たりに して自分なりの判断と いうか 認識を変えていっ
たというのは無理からぬことだと思います。
温 厚 な 雨 情 が こ と啄 木 に つ い て は 極 端 と も 思 え る 辛 辣 な 批 評 を す る よ う に な る の
は思えば自然の成り行きではなかったでしょうか。
4 引責馘首
陰 謀 事 件 で 雨 情 が シ ョ ッ ク を 受 け た の は啄 木 の 背 信 行 為 で し た が 、 も う 一 つ は啄
木 が昇 級 、 昇 任 し な が ら 自 分 は ク ビ に な っ たと い う こ と で し た 。 そ れ ま で 雨 情 は 正
式 な勤 務 や職 場 を持っ た こと は なく 、 札幌 で の 北 鳴 新 聞は 短 期間 しか い なか っ たの
で 小 樽 日報 が 雨情に と っ ては初 め ての 職 場 と いっ て い い で し ょう 。 家 族 も 呼び 寄 せ
て安定した平和な家庭にしようとひろ夫人に誓ったばかりでした。
な に か と 借 金 や 煙 草 を 夫 に せ が む啄 木 を ひ ろ 夫 人 は 「 あ な た が は っ き り 断 ら な い
か らよ。 もっと しっかり して」というのですが雨情は「そうかといってむげ にも断
れ ないか らなあ 」借金 までは行かな くともタ バコは ほとん ど雨情の懐か ら出ていま
した。 特に謀議の後の飲食代はほとんどが雨情持ちでした。 陰謀事件以来雨情に
とって大切にしようと思っていた家庭も危うくなりかかっていました。
そ し て結 果 がクビ と いう最 悪 の 事 態 で す 。 真 面 目 に 勤 め上 げ よう と 思 っ て い た 矢
先のこの結 末に雨情は 青くなり ま した。 しばら くひろ夫 人にこのこ とを言えま せん
で した。 「今日は頭が痛 い」とか 「 お腹の具合 がどう も」と様子 が おか しいの でひ
ろ 夫 人 が 問 い つ め よ う や く ク ビ に な っ た こ と を 告 げ た の で す 。 そ の 後 、啄 木 も 日 報
クビに よ るショッ ク は 雨情 にと っ て痛 く 心の 棘と な っ て 遺り ま した 。 その 棘 はや
でクビとは大違いです。
を 辞 め ま す が こ れ は ク ビ に な っ た の で は な く バ ン 寅 事 務 長 の 暴力 で自 分 で辞 め た の
5 雨情と北海道
もと
がて少しずつ傷口を増幅してやがて、その因を作った啄木に向けられていきます。
5 長女の死
既 に 触 れ ま し た が 雨 情 に 関 わる 年 表 は い ろ い ろ あ り ま す が 、 な に し ろ 本 人 が 記録
を 残さ な い 人 間 だ っ た の で 生 存 者 の 〝 証 言 〟 に 頼 る し か あ り ま せ ん 。 しか し 、 そ の
証 言 も 時 に は あ まり 信 用 で き な い 場 合 があ るの で す。 以 前 、 北 大 路 魯 山人 に つ い て
取 材 した 時 の こ と で す 。 この 時 は 幸 い魯 山人と 直 接 関 係 した 生 存 者 が ま だ 健 在 で多
く の 関 係 者 に 会 う こ と が 出来 ま し た 。 しか し 、 人 に よっ て魯 山人 へ の 見方 、 評 価 が
が ら り と 変 わ る の で す 。 女 性 関 係 で もあ る 人 は だ ら し な か っ た と 言 い 、 ま た あ る 人
は 潔白だっ たと言いま した。 短気と いう人もい れば忍耐強いという 人もいました。
つく
ま た 会 っ た 年 齢 に よっ て も 評 価 や 証言 は変 わり ま した 。 また 人 に よ っ て は 故 意 に 話
を創 っ て い る と 感 じ る と き も あ り ま し た 。 そ れ は 回 顧 録 や 回 想 録 と い っ た 性 格 の 場
合でも同様な紛らわしさがつきまといます。
また 、啄 木 の よ う に 膨 大 な 記 録 、 証 言 が 残 っ て い て も 、 そ れ を 読 み と る 人 間 に
よって解釈、評価は変わります。 しかし、雨情の場合は語るべき資料が決 定的と
い っ て い い ほ ど 欠け て い ま す。 樺 太 行 き に つ い て も、北 海 道 に渡 っ た こ と に つ い て
も 信頼 に 足 る 生の 証言 は 皆無 に 等 しい 状態 で す。 なに し ろ 実の 父の 足跡 を 探求 し続
けた子息存彌でさえ手元に集まった資料は限定されたままなのです。
閑話休題―ところで、北海道に渡り札幌の 新聞社に入っ た前後のことは雨情自身
が 珍 し く 記 録 を 残 し て い ま す。 恩 師 の 坪内 逍 遙 が た ま た ま上 京 し て い た 札 幌 の 新 聞
社 主伊 藤 山華 を 紹介 し てく れ たの で 早速 会っ てみ る と 話が まと ま っ て翌 日一 緒 に 札
ためら
幌 に出かけ ることになりました。 雨情という人 は容貌か ら するとど こか おっと り し
ている印象ですが、このように決断には躊躇いがありません。 以下はその時の模様
一九三八・昭和十三年十月号『定本 第六巻』所収)
館に渡り再び汽車で札幌へ着いたのである。 (「札幌時代の石川啄 木」『現代』
汽車 の 中 は社 長 の 山 華 氏 と 二 人 切り で 、 翌 日 の 午後 に 青森 に 着 き 、 連 絡 船 で 函
て翌晩の十時に上野駅を立つて行つた。私はその時二十三歳の青年であつた。
沢山居るが、余り突然なので人見東明氏と関 石鐘 氏と二人だけに札幌行きを話し
せき しやう
来 た ら お 世 話 に な る で す か ら 』 と 無 理 に辞 退 し て 帰 つ た 。 東 京 に は 知 人 も 友 人 も
『 こ れ は 僅 だ が 、 汽 車 中 の 弁 当 料 に 』 と 紙 に 包 ん で 餞 別 を 呉 れ た が『 ま た 東 京 へ
意をしてくださつた。
『 北 海 道 に は ア イ ヌ が 居 る か ら ア イ ヌ を主 材と したもの を書 く 方 が良 い』と 御 注
私は直ぐに坪内先生のお宅へ上つて其旨を話すと先生は、
です。
5 雨情と北海道
へやかず
この 話では雨情は 家族と一緒ではあり ません。 いわゆ る単身赴任 です。 そして伊
藤 山 華 の 紹 介 し た 大 通 り の 一 角 の 下 宿 に 入 り ま す 。 「 室数 が 五 室 位 の バ ラ ッ ク 式 平
家 で 随 分 見 すぼ ら し い 下 宿 屋 であ つ た が 、 そ れ で も 下 宿人 は 満員 であ つ た 、 皆 な お
となしい人ばかりで高声一つ立てるものはない。」
そ し て 啄 木 と 会 う の が 九 月 下 旬 、 小 国 露 堂 の 世 話 で 雨 情 と啄 木 が 小 樽 日 報 に 出 社
す るの が 十 月 一 日、 ご 承知 の よう に 二 人 が起 こ し た 主 筆 追 放 劇 が 始 まり ご た ご た 騒
ぎ が 続 い た あ る 日 、啄 木 の 日 記 に 意 外 な 記 事 が 出 て き ま す 。 「 野 口 君 札 幌 な る 細 君
病 気 の 電 報 に 接 し て 急 行 せ り 。 」 ( 「 十 月 八 日 」 『 明 治 四 十 丁 末 歳 日誌 』 ) と いう
ことは雨情 は札幌に来 て間もなく 家族を呼び寄せたと いうことに なります。 家 族と
い う の は 前 年 に 生 ま れ た 長男 雅 夫 と ひ ろ 夫 人 の 二 人 で す。 啄 木の 日 記 がなけ れ ば 雨
情 が 家 族 を 呼ん だ こ と は 分か ら な い ま ま で した 。 また 、 そ れか ら 間 も な く 雨情 が 家
族 と 小 樽 へ 引 っ 越 し て 来 た こ と も啄 木 の 日 記 に よ っ て 分か る の で す 。 十 月 十 三 日 に
「 野 口 君 の 移 転 に 行 きて 手 伝 ふ 。 」 と あ る か ら で す 。
一 事 が 万事 こ の 調子 で すか ら 雨情 の 足跡 は もと よ り 折々 の 心 情 もさ っ ぱり わ か り
ま せん 。 中 に は どう し て も説 明 出来 な い 〝事 実 〟 が 出 て 来 るこ と も 希 で はあ り ま せ
ん 。 雨情が主筆追放陰謀事件で小樽 日報をクビになった 後、小国露堂の斡旋で北海
タイムスに入るのが翌年のことですが、それまでは小樽で浪人暮らしを続けていま
し た 。 上 京 す る啄 木 が 小 樽 に い た 留 守 家 族 を 呼 び に 一 旦 小 樽 に き ま す が 、 そ の 時 尾
羽 打ち散 ら した 雨情 を 「見る と 着て 居 る着物 はマル で垢だ らけ、 髭も生 え次 第 に な
つ て居 る。 此人 の 一 生も 誠 に衰 れな もの 」 と憐 愍の 情 を 以 て 見てい た こと は既 に 記
した通りです。
と こ ろ が も の の 本 で は こ の啄 木 に 会 っ た 前 後 に ひ ろ夫 人 が 長 女 を産 ん だ と し てい
る もの があ るの で す。 一 つは 雨情 と 個人 的 つき 合 いの 長 か っ た 古 茂 田 信男 が 「 三月
に夫人が長女みどり子 を産んだが、七十日にして死亡 した。 」(「北海道時代の雨
情」『みんなで書いた 野口雨情』金の星社 一九七 三・昭和四十八年)いま一つは
長久保 源藏の作成 した 「雨情 関係略年譜」(『野口 雨情の 生涯』 暁印書館 一九八
〇 ・昭和 五十五年)には「明 治41 年 26 歳 小 樽にて 長女みとり死 去」と 記載
されています。
長久保 の いう 「みと り 」 と いうの は 名 前の よう に 受 け 取 ら れか ね ませ ん が古 茂田
の 「み ど り 子 」 を 名 前 と 勘 違 い し た の で し ょう 。 「 み ど り 子 」 と い う の は 「緑 児 ・
嬰 児」 と言 い 三歳 まで の こ ど もの こと を言 い ま す。 七 十 日に して亡 く なっ た こ の 長
女に悲しみにくれて雨情は名前をつけることが出来なかったのではないでしょうか。
野 口 存 彌に よる幾種類 かの年譜に は この 記 載はあり ま せん。 古 茂田 と 長久保に よる
啄 木 が 無 精 髭 を 伸 ば し 垢 だ ら け の 着 物 姿 の 雨 情 を 見た の は 生 死 の 境 を 彷 徨 っ て い
ということになります。七十日後に亡くなったのは早産のせいでしょうか。
名 前 も 異 なっ て い ま す が、そ ん な こ と より 、 期間を 計 算 す れ ば 六 、 七 ヶ 月 めの 出産
5 雨情と北海道
る この 時 期 だ っ た と い う こ と に な り ま す。 せっ か く 訪 れ た 友 人 を 家 に上 げ ず に 「共
に 散 策 」 し た の は そ の せ い だ っ た の か も知 れ ま せ ん 。 し か も 雨 情 は そ の 苦 衷 の 悩み
を啄 木 に 一 言 も 洩 ら さ な か っ た の だ と 思 い ま す 。 雨 情 の 心 情 も 汲 め ず 一 人 得 意 げ に
上 京 後 の 活 躍 を 誇 ら しげ に 話 す啄 木 を 雨 情 は ど う 感 じ て こ の 時 間 を 過 ご し た の で
しょうか。 「じゃあ、東京で会おう。 君 も早く出てきた まえ」とこともなげに右手
を 挙 げ て 遠 ざ か っ て ゆ く啄 木 の 後 ろ 姿 を 見 つ め な が ら 雨 情 は 心 の 中 で こ う つ ぶ や い
た の で は な い で し ょ う か 。 「目の 前 に 悲 し み と 絶 望の ど ん 底 に 苦 し む 人 間 の 気 持 ち
を察 することも出来ない人間にどうして文学がわかるのだろうか 。 彼に才はあ るが
心 がな い 。 い く ら 才 があ っ て も心 の な い 人 間 は 才 に 溺 れ る だ け だ 。 わ し は あ ん な 人
間になりたくない」
長女は間 もなく亡く なりました。 雨情は涙を 流すこと はほとんどありません が、
こ の 時 だ け は 大 粒 の 涙 があ と か ら あ と か ら 出 て き て 止 まり ま せ ん で し た 。 今 は 線 香
しか上げ ること ができ ないけ れど、 いつかこの子の ために すばら しい詩を書い てや
ろう、この子が悲しみから抜け出して心から喜んでくれる立派な詩人になることが、
こ の 子 へ の 最 高 の 贈り 物 に な る だ ろ う 、 そ う 心 に決 めた 時 、 雨情 の 涙 は 乾 い て い ま
した。
「しゃぼん玉」が作られたのは一九二二・大正十一年のことです。 雨情の涙が
し ゃ ぼ ん 玉 に変 わるの に 随 分 な が い 歳 月 が経 っ て し ま い ま した が 、 逆 に 言 え ば 小 樽
こ
で亡くなった娘に満足してもらえるために、これだけの時間が必要だったというこ
とだと思います。 小樽に七十日間しかいれなかったこの娘への鎮魂歌に雨情は惜し
みない時間を注いだといってよいでしょう。
6 室蘭時代の検挙拘留
雨情 は 人 と交 わ るこ と をあ まり 好 み ま せん で した か ら小 樽 では 友人 が 出来 ま せん
で し た 。 こ の 点 、啄 木 は 常 に 人 の 交 わ る 中 心 に い て 周 囲 を リ ー ド し ま し た 。 そ れ は
彼 の 歌 に も よ く現 さ れ て い ま す。 こ れ は 北 海 道 に や っ て き て 以 来 、 函 館 、 小 樽 、 釧
路 で 全く変 わり ません で した 。 二週 間 しか 居 な か っ た 札 幌 で すら下 宿やス ス キ ノで
飲み仲間の中心にいました。
日報 を 辞 め た あ と や む な く 家族 を 茨 城に 帰 し 独 り 身軽 に な っ て 再 起 を 図 る こ と に
しました。頼れるただ一人の友人、小国露堂に会って新聞社への世話を頼みました。
「なんだ、そりゃ、喧嘩不両成敗っ てことか 、石川君も人 がわるいなあ」と言って
早速、北海 道新聞や北海タイムス に掛け合ってくれた。 幸い北海タイムスが採 って
く れ ま した が間 もな く 創 刊さ れ る 室蘭新 聞 社 に移 り ま す。 編 集 長代 行 で 月 給 三 十円
う感を否めません。
主 筆で迎え た い、と言 われてまた 移 籍しま す。 家族を帰 して身軽に なり すぎた と い
と いう 待遇 に 惹か れた の で し ょう か 。 こ れ を 聞 い た 室蘭 胆 振新 報 が 給 料 は 同 じ だ が
5 雨情と北海道
と こ ろ が こ こ で 大 き な 落 と し 穴 が 待っ て い ま し た 。 原 因 は も の の 本 に よ っ て マ チ
マチで正確なことは分かりませんが岩野泡鳴や雲右衛門水戸世話人会会 長などの話
を 総合 す ると、 札幌検察 局 が 室蘭の 新 聞各社 をあ る事件の 取材を 巡っ て 恐喝 ま がい
の 行 為 が あ っ た と し て 関 係 記 者の 一 斉 検 挙を 行 い、 その 件 で 雨情 も検 挙 拘 留さ れ る
と いう事件 が起こり ま した。 雨情は 主筆という ことで尋 問を受 け ま した が、な に し
ろ 例の 腰 の 低さ 、 丁 寧 な物言 い 、 悠 長 な 仕 草 、 鬼 刑 事 が ど こか ら 見 て も 善人 に しか
見えません 。 そ れでも二 十日ばかり 留置場に入り無罪放 免となりましたが何人かは
札幌で起訴され厳しい判決 が出るという事 件がありま した。 この経 験は雨情に権力
の 持 つ力の 恐ろ しさ を 教えました 。 後に太平洋 戦争下 で 雨情は国策 に沿った戦 争協
力 の歌 を 積極的 に作る ように なり ま すがその 背 景に はこの 時の体 験があ ったか らか
も知れません。
この 後 、 雨情 は 旭川 の 北海 道 旭新 聞に招か れ ま す が心 は 既 に北 海 道 を 離 れ て い ま
した。 啄 木は上 京 する時 は一緒に行 こうといい ましたが、誘うつもりはありま せん
でした。 誘えば費用を雨情が持たなければならないことは覚悟しなければなり ませ
ん で し た し 、 現 状 で は 自 分の 身 一 つ で 帰 る の が 精 一 杯 で し た 。 岩 野 泡 鳴 が 旭 川 の 新
聞社に訪ねてきて、雨情が桃中軒雲 右衛門を 引き合 いに出して一 緒に連 れていって
もらうかも知れないという話をしたのはこの時のことでした。
雨情は 東京に 出たら 道草を 食うの はこれで 終わり にしよう、本気 で詩歌の道 に取
り 組 もうと 決 め て い ま し た 。 郷里 に 戻っ て 家 族 と 再 会 す れ ば こ の 決 心 が揺 ら い で し
ま う 。 家 族 は 独 り 立 ち の 目 処 が 立っ て か ら 呼 ぶ こ と に し よ う 。 旭 川 に は も う 初 雪 が
とうにやってき てぐずぐずしていれば根雪がやってくる、 旭川を発って小樽に 出た
雨 情 は 貨 物 船の 片 隅 で 膝小 僧 を 抱 え て寒 さ を 凌ぎ 横浜 港 に 向 か う の で した 。 し か し
雨 情 の 心 は 温か で し た 。 寒 さ と 孤 独 は 詩人 に と っ て逆 境 で はあ り ま せ ん で し た 。 む
しろ創作意欲がふつふつと湧いてきて詩情が溢れてくるのでした。
7 岩野泡鳴
既に少 し述べ ました が、放 浪の作 家岩野泡 鳴と雨情は不 思議な縁で結 ばれていま
す。 それは泡鳴 が印税と 私財のほと んどをはた いて樺太にサケ缶工場をつくり 一旗
揚げようとして失敗、痛手を受けて北海道に戻ってきて雨情に会うのです。
樺太の経 験では雨情 が先で一九〇六・明 治三十九年 、雨情二十四歳でした 。 泡鳴
の渡樺はその二年後、一九〇八・明治四十一年泡鳴三十五歳ということになります。
雨 情 の 場 合 は 日 本 統 治 下 に な っ た 〝 外 国 〟 へ の 一 種 の 冒 険 旅行 、 泡 鳴 は 実 業 家 の 運
命を賭けた商用で、対照的な訪樺目的でした。
記 」 ( 一 九 〇 八 ・明 治 四 十 一 年 十 月 三 日 ~ 十 一 月 十 二 日 ) を 連 載 し て い ま す 。 と い
連絡をとったのは何故でしょうか。 実は泡鳴は北海タイムスに紀行文「旅中印象
泡鳴 が まだ そ れほ ど 名の知 ら れ て いなか っ た北海 道 各地 を 転々 と して いた 雨 情 に
5 雨情と北海道
う こと は 泡 鳴 は 北 海 タ イ ム ス に 寄 稿 出 来 る 関 係 に あ っ たと い う こ と に な り ま す。 雨
情 はこの 一年前に北海 タイム スに勤 務してい ましたから、 泡鳴が 担当記 者から 雨情
の 消息を教えてもらっ た可能性はあ ると思 います。 その 際、記者は 雨情の渡樺の 話
を したのか もしれません。 北海道旭新聞社(旭川)に居た雨情に連絡を取ったのは
その ような背 景があっ てのことで しよう。 また 、既に述 べた 雨情の 話以外に泡 鳴は
「 旅 中 印 象 記」 に 次 の エ ピ ソ ー ド も 紹 介 し て い ま す 。 「 氏 は こ の 六 月 頃 無 実の 罪 に
落 さ れか け て、 予審獄 に ま で ぶ ち込 ま れたの は 酒 を 飲ん だ 為 め だ と い ふ の に 感 じ 、
全 くこの 頃 は禁 酒 して ゐ る。 」 実は この 話を 聞 く までは 雨情の 評伝 に 出てく る ブタ
箱 行 き も 怪 し い か も知 れ な い と 思 っ て い た 時 期 があ り ま す が 、 こ れ で ウ ラ が 取 れ ま
した。 こ の 会 談の 詳 し い内 容 は こ の 時 期 を扱 っ た 『 断 橋 』 に も 触 れ ら れ て い な いの で 分
かりません が、雨情はおそらく泡鳴の名は知っていたと思います。 なぜなら雨情は
樺 太 に い る 時 も 北 海 道 に い て も 東 京 の 文 芸 の 動 向 に つ い て は啄 木 と 違 っ て 様 々 な 情
報 を 集 め て い た と 考 え ら れ ま す。 そ の 証 拠 に 樺 太か ら で も 北 海 道 か ら で も 東 京 の 文
芸誌へ作品 を送り続け ているから で す。 ひょっとしたらカニ缶事業 失敗の話も 雨情
の 耳に は 届 い ていたか も知 れ ませ ん 。 しか し、 雨情か ら この 話題 は 二人の 間 に 上 ら
な か っ た で し ょ う 。 雨情 と い う 人 間 は 人 の 失 敗 をあ げ つ ら う よ う な 性 格 で は な いか
ら で す。
一 寸 余 談 に な り ま す が 泡 鳴 は 北 海 道 を 舞 台に し た 作 品 を 幾 つ も 書 い て い ま す。 主
題 は 男 と 女 の 愛 憎と 葛 藤 で す が『 放 浪 』 ( 一 九 一 〇 ・明 治 四 十 三 年 『 断 橋 』 ( 一 九
一一・明治四十四年)『憑き物』(一九一八 ・大正七年)等は一九〇八 ・明治四十
一 年か ら 翌 年 十 二 月 ま での 泡 鳴 ( 田 村義 雄 ) の 樺 太 と 北 海 道 を 舞 台と し て 描か れ て
い ま す。 なか で も『 断 橋 』 は 札 幌 を 中 心 と し て 、 当 時 は あ まり 訪 問 客 が行 か な か っ
た 日高 ・ 十勝に 分け 入 っ てア イ ヌ 文 化 を始 め 開墾事 業の 困 難さ を リアル に 述べ てお
り、開拓期の北海道における文学的上重要な役割を果たしたものと言えるでしょう。
「草木は草木で 競争し、人種と階級は人種と 階級で 競争し、人間はまた獣類と 競争
する。 北海道には、狼がゐなくなつた。 それは一時道庁 が懸賞を以つて退 治したに
も 由るが、その 最 もお もな原因はア イノが狼の食と する鹿 を取り 尽 くしたこと だ。
そ して、 そ の アイ ノを 今 や 和人 が 窮迫 して 、敗 残劣 等 の 人 種 に し て しまつた 。 」 と
述べ、さらにアイヌ文 化の件で次 の ような 提案をしています。 一部 に差 別的な 表現
る 学 者 が な い こ と 、 東 京 の 帝 国 大 学 に は 、 ア イ ノ 語 学 者 を 以 て 任 ず る 人 もあ る が
こ と 、 日 本 人 と し て、 ア イ ノ 研 究 を 十 分 に やり 通 した 、 また や り 通 す つ もり で ゐ
そ の 調 査 中 に、 宣 教師 バ チ ェラ の 研 究 に は 、 偏 見 と 不 徹 底と があ るの を 発 見 し た
これは十勝アイノの部落を調査してゐた時、ふと義雄のあたまに浮んだ考へで、
が見られますが明治四十年代の背景に免じてください。
5 雨情と北海道
すべ て が バ チェ ラ の糟 粕 を 嘗め て ゐ る も の ばか り で、 そ れも 半 可 通に 満 足し て ゐ
る こ と 。 土 人 教育 な ど 云 つ て 道 庁 な ど が尤 も ら し く 国 費 を無 駄 に 使 つ て ゐ る が 、
ア イ ノ 人 が 教育 さ れて 半 可 通の シ ャモ カ ラ に な つ たと て 、何 の 効 能 も な いこ と 。
日 本の 戸 籍に 敗 残 人 種の 雑 種 が 出来 る の は 大 し て あ り が た い こと で な い こと 。 ど
うせ、敗残劣等の人種だから、義雄の生存競争を是認する生々主義から云つても、
保 護 し た り 、 教育 し た り する 必 要 が な い こ と 。 そ の 代 り 、 一 時 そ れ が わ が 国 の 本
土 の 三 分の 二 ま で も占 領 し てゐ た 時に 出 来 た そ の 文 学 ( 伝説 並 び に歌 謡 ) を 、 渠
等の永久 な生命と 見為して原語のま ま丁寧 に収 集 してや るべ きこと 。 渠等の史詩
も しく は 戦 詩な る シ ャ コ ロ ベ や ユ ーカ リ を 非専 門 的 に は 粗 雑 に 訳 した も の は あ る
が 、 ま だ 本 当 に よ く 詩 的 、 文 学 的 頭脳 を 以 つ て 原 語 通 り 写 し 取 つ た も の も訳 し た
ものもないこと。 そ して、義雄 がや つてみた いことを語り、手帳に控へ てあるア
イノ歌謡のうちから、「ヤイシヤマネ」を取り出し、その原文を下手ながら歌ふ。
こ こ で は 小説 風に 泡 鳴 の ア イ ヌ 観 を 述 べ て い ま す が 、 こ の 視察 旅行 の 報 告 書 は 当
時 の 道 議 会 議 員 田 口 源 太 郎 に 渡 さ れた は ず です。 そ れ が どの よう な 扱 い を受 け たの
か 分か り ま せ ん が 、 そ の 後 、啄 木 の 親 友 で あ り 庇 護 者 で も あ っ た 金 田 一 京 助 が 泡 鳴
の 期 待に 応 え てア イ ヌ 原語 に新 し い 光を も た ら し ま し た 。 金 田 一 京 助に つ い て こ こ
で は 全 く 触 れ る こ と は 出来 ま せん が 、 と もか く 「友 情」 と いう こ との 意 味 を金 田 一
京 助ほど身 を以て実践 した人は他 にほとん どない、と 言っていい でしょう。 た だ、
残 念 な こ と に こ の 友 人 す ら啄 木 は 自 ら 絶 交 状 態 に 追 い 込 ん で し ま い ま す 。 金 田 一 が
最 後 の 金 策 を し て啄 木 の 家 に 駆 け つ け た 時 、 す で に 啄 木 は 逆 さ 屏 風 の 陰 で 息 を 引 き
取 っ た 後 で し た 。 臨 終 の 場 に は 妻 節 子 、 父 一 禎 、 若 山 牧水 の 三人 だ け で し た 。 長女
京子は庭先で舞い落ちる桜の花びらと遊んでいました。
放 浪 の 作 家 泡 鳴 は 一 九 二 〇 ・ 大 正 九 年 四 十七 歳 で 亡 く な り ま し た 。 雨 情 は こ の 年
中 里 つ る と 再 婚 、 水 戸 に 住 ん で 「枯 れ す すき 」 ( 「 船 頭小 唄」 ) の 成 作 に 打ち 込 ん
でいました。この歌の成功で雨情の名は日本中に知れ渡るのです。
8 夫人ひろ と こ ろ で どう し て も こ こ で 取り 上 げ て お き た い 一 件 があ るの で す。 そ れは 雨 情の
最 初 の 妻 ひ ろ の こ と で す 。 雨 情 や啄 木 の 評 伝 に 登 場 す る ひ ろ 夫 人 は ほ と ん ど が 高 貴
ぶ っ て人 に 冷 た く 、 文 学 に無 関 心 で 、か つ不 躾 で 高 飛車 、 雨情 も 頭 が上 がら な か っ
た と い う よ う に 描か れ て い ま す 。 で す か ら 結 果 的 に は 、 ど こ か ら 見 て も 高 慢 で 嫌 み
な女性というようなイメージが出来上がっているのです。
るのが当たり前でした 。 結婚相手は 栃木県の旧 家で雨情と同年の高塩ひろ、宇都宮
〇 四 ・明治 三十七年、 二十二歳で結婚しま した。 この時代は男女と も十代で結 婚 す
雨情は 父 が急死 した た め 家の跡 取 りと して 昔の し きたり 通り 古 老の す すめで 一九
5 雨情と北海道
高等女学校を出た才媛という評判、雨情はあまり乗り気ではありませんでしたが
「これでいいでやん す」と抵抗しませんで した。 結婚生活は可もな し不可もな し、
といいたいところですが酒を飲んで浜辺で寝込んで担がれたり芸者置場に通ったり、
と いう 結 構 荒ん だ 話 に 事 欠 き ま せ ん 。 ただ 、 こ の 時 代 新 婚 の 場 合 は 男 は 嫁 の 尻 に 敷
か れ な い よ う に わ ざ と すね て み せ る と い う 風 潮 があ り ま し た か ら 、 雨 情 自 身の 生 来
の癖と言うのは酷かもしれません。 ひろもさばけた女性で朝帰りの雨情をみても
「 お 元気 で すこ と 」 と い う 調 子 で い さ か い に な る よ う なこ と は し ま せ ん で し た 。 な
に しろこの時代の女性の〝美徳〟は つつしみと控え め、夫 を立ててこその嫁だった
のです。また男は男で嫁の前でデレデレしたり機嫌を取るのはもってのほかでした。
雨情はこの点、 世間に 逆らっ て生き るという ことは 考えて いませんでしたから 家庭
は 円 満 で も 外に は そう した 素 振り を 見せ な か っ た だ け だと 思 い ま す。 また 雨情 は自
己 主 張と い う こと にあ まり こだ わ り ません で した。 で すか ら 外か ら み れば ひろ 夫人
のいいなり、という印象を与えたことも事実だと思います。
また多 くの 評 伝 など は 高塩 家は事 業 に成 功 して 家 運は上 昇 傾向 にあ り 、 一方 野口
家は父が 村長を 務めた 家柄と はいえ既に家運は傾き つつあ って聡明なひ ろはこの縁
談 に気 が 進 ま ず 渋々 親 の 意 向 に 従 っ た か ら内 気 で気 の 弱 そ う な 雨 情 に 愛 情 が わ か ず
に 家庭 は 冷 た か っ た の で 雨 情 の 夜 遊 び が 止 ま ら なか っ た と 雨 情 の 素行 不 良 は ひ ろ 夫
人のせいだといわんばかりです。
それでは新生活をのぞいてみましょう。結婚後、雨情の仕事ぶりを見ますと
一月 「鬼のお主」『常総新聞』
三月 『枯草』(高木知新堂)出版。
五月 「野の誓い」『月刊スケッチ』「曇る瞳」『毎日新聞』
六 月 「鳩の 夢」『 読売新 聞』 「 蛇の夢」 「雲雀の子」 「瑠璃 な す蜜 」『 毎 日新
聞』
七月 「月の輪」『月刊スケッチ』「誰が可愛」『読売新聞』
八 月 「 毒 蛇 の 子 」 『 月 刊 ス ケ ッ チ 』 「 二 つ 島 」 「天 妃 山 」 『 ハ ガ キ 文 学 』 「海
辺の疑問」『月刊時事絵葉書』
九月 「三叉岸」『ハガキ文学』「思ひ出」『毎日新聞』
十月 「狐の夢」『ハガキ文学』
十一月「金の逆鯱」『月刊スケッチ』「金色蛇」『急先鋒』
十二月「ぬばたま」『月刊スケッチ』
と い う よ う に 毎 月 定 期的 に 作 品 を 投 稿 し て い ま す。 こ の 時 期 、 言 わ れ て い ま す よ
うに、飲んだくれて家に帰らないとか、芸者と遊ん で朝帰り、浜 辺でへべれけとい
る環境はひろ夫人あってのことと言うべきなのです。
て 精 神 的 に 安 定 し て い た か ら こ そ の 作 品 で す。 冷 た い 家 庭 ど こ ろ か 詩作 に 打 ち 込 め
う ような生活をしていたならばこ れだけの 仕事は絶対 に出来ません。 むしろ結 婚 し
5 雨情と北海道
また 、 雨情 が 札幌の 新 聞社 に 赴く と き、社 主の伊 藤山華 と 会っ てその 日の う ち に
札幌へゆくことを雨情が独断で決め、さっさと上野の汽車に乗ったということに
な っ て い ま すが 、 こ れ も当 時 は 当 た り 前の こ と で 、 い ち い ち 家 族 に 相 談 し な い か ら
雨 情 が夫人 を 信頼 して いなかった 証拠 だと いうの は短 絡に過ぎま す。 む しろ 話 は逆
でひろ夫 人を信じてい たからこそいちいち渡 道のことを口 にしなかったということ
も考えられ るのです。 勝海舟が咸臨丸の艦 長と してアメ リカに出帆 した時、海 舟は
夫人に「ち ょっと行っ てくる」と言っただけでした。 北 大路魯山人 が戦前、朝鮮、
中 国 に 出か け る 際 に 「 す ぐ 帰 る 」 と言 っ て 帰 っ て 来 た の は 二 年 後 で し た 。 そ れ が 普
通だったのです。現代の物差しで当時を見ては事を誤ります。
札幌に 単身赴 任 した 雨情は こまめ にひろ夫 人 に手 紙やハ ガ キ を 書いた の だと 思 い
ま す。 この 時の 書簡 は 一 通 も 残っ て い ま せん が 再 婚 した つ る夫人 と その 家 族 に は 旅
行 や 講 演 に 出る と こ ま め に 手 紙 や ハ ガ キ を 書 い て い ま す。 こ れ は ひ ろ 夫 人 以 来 の 雨
情の習性みたいなものでそうやすやすと変わるものではありません。
おそらくまだ 見ぬ北海道と 札幌に憧れたひろ夫人 は身ご もっていたに もかか わら
ず 早 く 呼ん で く だ さ い な 、 と 催 促 した に ち が いあ り ま せん 。 なか に は 自 分本位 の 雨
情 が 嫌 が る夫 人 を強 引 に 呼び 寄 せた と決 め つ け て い る もの も 見か け ま す が、 そ れ は
逆だと思います。 二人は 小樽で 娘を亡 くして 以来、 いっそう その 絆は固く なった の では ないで しょ
う か 。 で すか ら 小 樽 日 報 を 追 わ れ て 北 海 タ イ ム ス に 決 ま っ た 時 、 雨 情 は ひ ろ 夫 人 に
「 お ま え も 疲 れ 果 て た だ ろ う 、 一 緒 に 戻り た い が こ の ま ま 戻っ た らあ の 娘 に 顔 向 け
が 出来 な い 。 悪 い が雅 夫 と 一 足先 に 実 家に 帰っ て 待っ て い て く れ」 と 言 っ て 見 送 り
ま す。 こ れは母子を思っての ことでした。 おそらく雨情 は 恩師 逍遙に言 わ れたアイ
ヌ 研究を 果たしたいと思ってのことだったようですが先に縷々 述べたように思うよ
うな成果が出ず茨城に戻って妻子と再会します。
何 と 言 っ て も 、 ひ ろ 夫 人 が 誤 解 さ れ て 喧 伝 さ れ た の は 他 で も な い啄 啄 木 の せ い だ
と 断言 して い いと 思 い ま す。 と いう の は 例の 日 記に 書か れた たっ た 一行 がひろ 夫 人
の 評価、正 しくは不当 な評価につ ながったのです。 それは雨情が札幌にいた家 族を
小 樽 に 呼び 寄 せ た 一 九 〇 七 ・明 治 四 十年 十 月 十 三 日の こ と で す。 こ の 引 っ 越 し に 小
樽 日 報 社 の 社 員 と 啄 木 が 手 伝 い に 駆 け つ け ま し た 。 そ こ に啄 木 は こ う 書 き 付 け た の
です。「野口君の妻君の不躾と同君の不見識に一驚を喫し、愍然の情に不堪。」
具 体 的 に 触 れ ま せ ん が啄 木 は 家 庭 で は 明 ら か に 亭 主 関 白 で し た 。 そ の 横 暴 な 啄 木
が こ う 書 い た の で すか ら そ の 言 葉 は 燎 原の 火の ご と く 読 書 界 に 広 が り ま し た 。 ひ ろ
夫 人 が離 婚に至 る話は ここに は収まりきれま せんか らお話 できま せん が、少な くと
だと思います。 さらにひろ夫 人にとって分の悪 いことは後に離婚したことです。 啄
こ の 一言 に よっ て無 名 の ひ ろ 夫 人 の 正当 な 評 価 をね じ 曲げ 世 に 伝 わっ て し まっ たの
も ひ ろ 夫 人 が啄 木 の 評 し た よ う な 人 柄 で な か っ た こ と だ け は 証 明 で き ま す 。 啄 木 の
5 雨情と北海道
木によっ て悪妻 のレッテルを貼られ、離婚と くれば ひろ夫 人が貧 乏くじ をひく こと
になるのは目に見えています。
確か に 雨 情 の 二 度目 の 結 婚 は 失 敗 で はあ り ま せん で した 。 ま た 間 の 悪 い こ と に 二
度目の結婚後、 雨情の人気は 鰻登り になって、いっ そうひろ夫人の影は 薄くなって
しまいました。 啄 木によ る「一犬虚 に吠えれば 万犬実を 伝う」その 悪しき一例 にひ
ろ夫人の 〝悪名〟は広 がって しまい ましたが、近い 将来の 名誉 回 復の機会を待つこ
とにしましょう。
三 その後の雨情と啄木
1 啄木の離道
小 樽 で 雨 情 と 北 海 道 最 後 の 会 談 を 終 え た啄 木 は 家 族 を 連 れ て 一 旦 、 函 館 へ 戻 り 宮
崎 郁 雨 に 留 守 家 族 を 託 し て 単 身 東 京へ 向 か い ま す 。 「小 生の 文 学 的 運 命 を 極 度 ま で
試 験 す る 決 心 」 を し て の 上 京 で し た 。 横 浜 港 に つ い た啄 木 は そ の ま ま 東 京 へ 向 か う
か と 思 い き や 横浜 の 旅 館 に 一 泊 し ま す。 極 度の 緊 張 で 足 が 進 ま ず 一 呼吸 入 れた の で
し た 。 し か し 、 こ の 緊 張 は 一 時 的 な も の で啄 木 は む し ろ 自 信 満 々 で し た 。 渋 民 村 で
代用教員をやっているころ日記に次のように記しているのです。
近 刊の 小説 類 も大 抵読んだ 。 夏目 漱石、 島崎 藤村二 氏 だけ 、 学殖 あ る新 作家だ
か ら 注 目 に 値 する 。 ア ト は 皆 駄 目 。 夏目 氏は 驚 くべ き文 才 を 持 つ て居 る。 しか
し 「偉 大 」 が な い 。 島 崎 氏 も 充 分 望 み が あ る 。 『 破戒 』 は 確 か に 群 を抜 い て 居
る。しかし、天才ではない。(「七月一九日」『渋民日記』)
文壇で既に不動とも言える地位を占めていた二人の巨匠に大してずばりこう言い
切 っ て い る の で す。 友人 に 宛 てた 手 紙 で も 「僕 は 此 度の 上 京の 前 途 を、 どう し て も
悲観する事が出来ぬ、若し失敗したらといふ事も考へては居るが、僕はどうしたも
の か 、失敗 する前に必 ず成 功(? ) する様な気 が する」 (岩崎 正・吉野章 三宛 「四
月一七日」)と述べています。
〈ビロード〉
そして一ヶ月の間に『菊池君』(六十一枚)『病院の窓』(九十一枚)『母』
( 三 十 一 枚 ) 『天鵞絨』 ( 九 十 四 枚 ) 『 二 筋 の 血 』 ( 三 十 二 枚 ) 『 刑 余 の 叔 父 』
( 二 十 五 枚 ) を次 々 と 書 き上 げ ま す。 合 わ せ て 三 百 枚 を 超 え て い ま すか ら 売 れ っ 子
す 。 ど こ に し ま し ょ う か 」 と 言 う と啄 木 は 「 そ う だ ね え 、 こ れ は 中 央 公 論 に す る か
一京助が 「石川さん、 すばら しいで すよ、この 原稿、私が 出版社 に直接届けてきま
作 家なみの 量 産と言っ てよいくら いで す。 下 宿 を 用意 し てくれた無 二の 親友、 金 田
5 雨情と北海道
な 」 と 言 っ て自 信 作『 病 院の 窓 』 」 を 渡 し ま す。 そ し て 『 天 鵞 絨 』 は 森 鴎 外 を 介 し
て斡旋を依頼しました。
も う 、啄 木 は 文 壇 デ ビ ュ ー を 果 た し た も 同 然 の 気 分 で タ バ コ を う ま そ う に 飲 み な
が ら 世 話 に な っ た 宮 崎 郁 雨 に 「先 月 分の 下 宿 料 も 払 へ る し 、 少 し は 余 計 に 原 稿 紙 も
買へ る事と存候。 う まい物 も少 し食つてみたく相成 候。 」と書き送っ ています。 と
ころが待てども待てども返事がきません。 あ せった金田一が中央公論社に二度も掛
け合いに行 きますが担当者が留守ということで会えません。 そのうち一ヶ月があっ
というまに過ぎていきます。下宿料はおろか原稿用紙やインクも買えません。
この 頃、 川上 眉 山と いう 作 家 が 筆 が 進 ま ず行 き 詰 ま っ て自 刃 自 殺 し ま す。 啄 木 は
と て も 他 人 事 の よ う に 思 え ま せ ん 。 電 車 に 飛 び 込 ん で死 ん で し ま お う と い う 誘 惑 に
駆 ら れ 苦 し い 日々 が続 き ま す。 そ れ を 救っ た の は 女 性 た ち で した が 、 話 せ ば 長 く な
り ま す の で 残 念 な が ら こ こ で 述 べ る こ と は 出 来 ま せ ん 。 た だ 、啄 木 を 救 っ た 命 の 恩
﹆
﹆
﹆
人となった女性の名だけは紹介しておきましょう。 苦悩する啄 木を傍らにいて直接
啄 木 を 慰 めた 植 木貞 子 、九 州 臼 杵に 住 む『 明 星』の 熱心 な 独 身女 性 菅 原 芳子 、 そ し
て『一握の砂』に二十余首の恋歌を作らせた北海道に住む心の恋人橘智恵子、です。
啄 木の 評 伝には 欠か せ ない女 性で すか ら、詳 しく知 りたい 方はそ ちらを ご覧 に なっ
てください。
以後の啄木は坂道を転げ落ちるような残酷な状況が次々と立ちはだかるのでした。
最 後 は 献 身 的 に啄 木 に 尽 く し た 宮 崎 郁 雨 や 妻 節 子 の 実 家 と も 絶 縁 し 窮 乏 の ど ん 底 で
莫大な借金と幽玄の名歌を遺して二十六歳の若さで亡くなりました。
2 小奴を巡って
雨情 が 北 海 道 を 離 れ た の は啄 木か ら 遅 れ る こ と お よ そ 二 年 後 一 九 〇 九 ・明 治 四 十
二年十一月、単身上京、牛込区(現新宿区)若松町に寄宿します。啄 木が残した一
九 〇 八 ・ 明 治 四 十一 年 の 「賀 状ヲ交 換 シタル 知 人」 名 簿 「 清盟帳 」 に は 「小石 川 高
田老 松町四 十七、人 見方」と して 雨情の住 所が記載さ れています。 以後、雨情 は住
所 を 転 々 と し ま す 。 詳 細 は 割 愛 し ま す が啄 木 だ け の 関 係 で 言 え ば 一 九 〇 八 ・ 明 治 四
十一年の年賀状が最後の通信とみていいでしょう。
しか し、 実際 に は も う 少 し 関 係 は つ な が っ て い た よ う な の で す 。 と い う の は 雨情
が 一 九 二 九 ・ 昭 和 四 年 『 夕 刊 岩 手 日 報 』 に 語 っ た 談 話 に 拠 り ま す と啄 木 が 釧 路 を
出た後の 話として次の ように語っ ているの です。 「材木 を積む帆船 で宮古にの がれ
そ れか ら盛 岡 に でたか どうか知 ら ない が、 東京にや つ てきた もの だ。 朝 日新 聞 社 に
で るやう に な つ た 私 は その 後 も交 際 を つづけ てゐ た が間 も な く 私 があ つ ち こ つ ち 流
聞 い てい ると 嘘 や 間 違 いを故 意 に言 っ てるの では な いか 、 あ るい は そ れ を 冗 談 に し
は 今 に 始 ま っ た こ と で は あ り ま せ ん が 、 朝 日 新 聞 に い た の は啄 木 で す 。 雨 情 の 話 を
浪 生活 を や つ て ゐ たか ら 晩年 に は つ ひ に 逢 ふ こ と が 出来 な か つた 」 雨情 の 記 憶 違 い
5 雨情と北海道
て密かに楽しんでいるのではないかと錯覚するほどです。
もう一 つ、さ る雑誌 の特派 員とし て公式に 北海道 を訪れた時の 話を雨情が残 して
こ しょ う
い ま す。 一 九 一 一 ・明 治 四 十 四 年 に 皇 太子 殿下 ( 後の 大 正天 皇 ) が 北 海 道 を 訪 問 し
た際に随行(扈従)団の一員として派遣され函館、札幌、小樽、旭川、帯広、釧路
な ど を廻り ま した。 どこ で も 一行 は 歓 迎 を受 け 、 連 日大 宴会 が 開か れ ま す。 釧路 で
最 高 級 の 料 亭 で も て な し を 受 け ま す 。 雨 情 は啄 木 か ら 耳 に タ コ が で き る ほ ど 聞 か さ
れ ていた 小 奴 を 見つけ て 話 しか け ま す。 なか で も 宴会の 後、 小奴か ら そっ と 渡 さ れ
たメモ「二人でお話を」と誘われて小奴の家に行き、そこで対談となります。
す
小奴は私の行くのを待つてゐたらしく直ぐに六畳の部屋に迎へて呉れた。 壁に
は 三味 線 が 二 挺 ば か り か か つ て 本 箱 の 上 に は稽 古 本 が 二 冊 位 の つ て ゐ た 。 左 の 方
の 柱に 石 川の 書い た 短 冊 が一 枚 か か つ てゐ た 。 短 冊 に か か れ た 歌の 文 句 は 忘 れ て
し まつ た が 、歌 の 意 味 は 『 小奴 ほ ど な つか しい 女 は な い 』 と い ふ や う な こ と で あ
つ た 。 全く 小 奴 は 人 な つ か し い 温 和 し い 女 性 で ま た 正 直 な 女 であ つた 。 小 奴 は 酒
に 酢 の も の を 添 へ て 料 理 を 出 し て 、 心 か ら 私 を 歓 迎 し て く れ た 。 ( 「 石 川啄 木 と
小奴」『週刊朝日』一九二九・昭和四年十二月八日号『定本 第六巻』所収)
ただ、この会 談が実際に行 われた ものか否かについても疑問を 抱く余 地は残って
い ます。 しかし、ここではこのまま諒としておきましょう。 というのも、これを読
む と 調 子 が 「 札 幌 時 代 の 石 川啄 木 」 と そ っ く り で 、 さ て ま た 雨 情 節 が 始 ま っ た と 思
え て仕 方 あ り ま せ ん 。 む し ろ 問題 は こ の 話の 後 日 談 で す。 東 京 に 戻っ た 雨 情 は 朝 日
新 聞 社 に啄 木 を 訪 ね た と 言 い ま す 。 で す か ら こ れ が 本 当 の 話 と す れ ば 皇 太 子 の 訪 問
が 一 九 一 一 ・明 治 四 十 四 年 八 月 十 八 日か ら 九 月 十 二 日 ま で で 、 雨 情 の 帰 京 は そ れ 以
後 と な り ま すか ら 、啄 木 を 新 聞 社 に 訪 ね た の は 九 月 か ら 十 月 の 間 と 考 え て い い で
しょう。
と こ ろ が啄 木 は こ の 年 二 月 に 慢 性 腹 膜 炎 の 手 術 を 受 け 、 そ の 後 、 症 状 は 徐 々 に 悪
化 、 朝 日新 聞社 に 出 勤 で き る 状 態 で は あ り ませ ん で し た 。 秋 口 に 入 っ て 母 カ ツ 、 妻
節 子 も床 に 伏 すよう に なり 元気 な の は 京子 ひと り だ け で した 。 で すか ら この 時 期は
雨 情 が 会 い た く と も 会 え る 状 態 で は な か っ たの で す 。 し か し 、 雨 情 は啄 木 に 会 っ て
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な つ て し ま つ た 。 そ し て そ の 後 幾 度 か 石 川 に 逢 つ て も つ い そ の 話は せ ず に し ま つ
で う な だ れ て し ま つた の で 、 も う そ れ 以上 私は 石 川に 小 奴の 話 を する 勇気 が な く
の そば や で 一杯 や り な が ら 再び 小 奴の こ と を 話 し 出 すと 石 川 も 感慨無 量 の面 も ち
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は き ま り 悪 さ う に 笑 ひに まぎ ら して 何 と も 答 へ な か つ た 。 同 じ その 晩石 川 と 銀 座
東 京 へ 帰 つ て か ら、 東 京 朝 日 新 聞社 に 石 川を 尋 ね て 小 奴の 話 を 伝へ る と 、 石 川
小奴の言葉を伝えたというのです。
5 雨情と北海道
た。(「同」)
既 に 述 べ ま し た よう に 「そ の 後 幾 度か 石 川 に 逢 つ て」 と い い ま すが こ れ も 違 い ま
す。 ここまで来 ると雨情の〝証言〟 は偽証に満ちていて、その言葉 はとうてい 信用
で き ません 。 信 用は で き な いの で す が、どうい う わけか この よう な 話でも 聞く 耳持
た ぬ! と 突 き放 すこと が簡 単に でき な いの で す。 なぜ な ら 雨情の この ウ ソは悪 意
か ら 発 した もの で は な く 善意 か ら 生じ た も の と 思 う か ら なの で す 。 その 根拠 は 雨情
が 最 も 言 い た か っ た こ と を 私 た ち に 伝 え る た め の 雨 情 節 だ っ た か ら で す。 雨情 は こ
の文章を次のように結んでいます。
石 川 は 人 も知 る 如 く 、 そ の 一 生 は 貧 苦 と 戦 つ て 来 て 、 ち よ つ と の 落 付 いた 心 も
な く 一 生 を 終 わ つ て し ま つ た が 、 私の 考 へ では 釧 路 時 代 が石 川 の 一 生 を 通じ て 一
番 呑気 で あ つ た や う に 思 は れ る 。 そ れ と い ふ の も 相手 の 小奴 が 石 川 の 詩 才 に 敬 慕
し て 出 来 る だ け の 真 情 を 尽 し て く れ た か ら であ る 。 か う した 石 川 の 半 面 を 私 が 忌
憚 な く 発 表 する こ と は 、 石 川の 人 と 作 品 を 傷 つ け る如 く 思 ふ 人 が あ る か も知 れ な
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い が私 は 決 し て さ う と は 思 は な い 。 妻 子 が あ り な が ら 、 しか も 相 愛 の 妻 が あ り な
が ら 、 し か もそ の 妻 子 ま で も忘 れ て、 流 れの 女 と 恋を す る こ と の 出 来 た ゆ と りの
ある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、
しかい
皆 恋 す る 事 の 出 来 る 焔 が 絶 え ず 心 の 底 に 燃 え て ゐ た か ら 、 そ れ は その 作 品 に 現 れ
てきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰
の 如 く な つ て、 今 日世 人 か ら 尊 重 さ れ る 作 品 は 生 まれ て こ な か つ 総じ て たか も 知
れない。
いは ば 石 川の 釧 路 時 代 は 、 石 川 の 一 生 中 一 番 興 味あ る 時 代 で 、 そ こ の 限り な き
潤ひを私は石川の上に観ずるのである。
この こ と を石 川 が地 下 で 聞い た なら ば 苦 笑 を も ら すか 、 微 笑 を もら すか 、 石 川
の こと で あ るか ら 多 分 苦 笑 を も ら し乍 ら 煙 草 を 輪 に 吹 い てだ ま つ てゐ る だ ら う と
そ れが 私 の 目 に 見 ゆ る や う に 感 じ ら れ て く る 。
雨 情 は啄 木 が 小 奴 と 道 な ら ぬ 恋 に 落 ち た も の と 確 信 し き っ て い ま す が 、 こ れ も 勝
手 な 思 い込 み だ と 思 い ま す。 啄 木は 小奴が可愛くて仕方 なかったと いうことは その
通りでした でしょう。 しかし「妹になれ」とは っきり言 っていますし、その 接 し方
も 女 と し て で は な く ま さ に 妹 と し て の そ れ だ っ た 思 い ま す 。 誰 も 注 目 し ま せ ん が啄
木 は最 初 に 会っ た 子 静 と いう 芸 者の 方 を女 と し て 愛 し て い た と い うの が 私の 見 方 で
う に な っ て し ま い ま し た 。 確 か に啄 木 は 小 奴 の 実 名 を い れ た 歌 を 残 し て い ま す が 釧
人 忽 然 と し て 登 場 し 、 実 際の啄 木 像 を 披 露 し て い つ の ま に か 中 心 人 物 と 見 ら れ る よ
す。 その具体的な根拠はここではお話できませんが、小奴がこの後にマスコミに一
5 雨情と北海道
路 の 女 性 に 関 する歌 は 小 静 へ の も の と い う の が 私の 考 え で す。 小 奴 の 関 係 に つ い て
は啄 木 と 親 し か っ た 金 田 一 京 助 が 愛 人 説 を 否 定 し て い ま す 。 金 田 一 は啄 木 が 胸 襟 を
開 い て 話 せ る数 少 ない 友人の 一人 で したか ら 小奴に つい て も本音 でその 関係を 話し
たに違いありません。
そ れ に し て も 雨 情 が啄 木 の 釧 路 生 活 を 「 一 生 を 通 じ て 一 番 呑 気 で あ つ た 」 と ま る
で 人 ご と の よう な 冷 た い 表 現 を し て い る の は驚 き で す 。 しか し 、 実 は こ の 言 葉 は 雨
情 ら し い 巧 み な啄 木 の 釧 路 時 代 の 本 質 を 衝 い た も の と 言 え る の で は な い か と 思 う の
で す。 な ぜ な ら啄 木 は 小 樽 で 窮 乏 の 生 活 を 余 儀 な く さ れ て い る 留 守 家 族 を す っ ぽ か
し 芸者と酒の夢幻の世 界を耽溺 し ていたか ら です。 そ れ は上 京 後、 ローマ字日記時
代 の 浅 草 で 淫 蕩 に ま み れ た 日々 と は 性 格 が 根 本 的 に 違 っ て い るか ら で す。 ひと こ と
で 言 え ば啄 木 は 釧 路 で 徹 底 し た 「 遊 蕩 」 に 明 け 暮 れ た と 言 っ て い い で し ょ う 。 そ の
た めには 親友の 宮崎 郁 雨まで も欺 い て 五十円 と いう 大金 を せ しめ て しま うの で す。
とても褒められた生活ではありません。
お そ ら く 雨 情 は啄 木 が 北 海 道 を 去 っ た 後 、 釧 路 に 移 っ て き て い た 小 国 露 堂 か ら 啄
木 の 荒ん だ 生活 を つ ぶ さ に 聞 い て い た こ と で し ょ う 。 そ の 実 態 を知 っ て い な が ら こ
の 時 代 を 敢 え て 「呑気 」 と 表現 し た の は 逆 説 で も 誇 張 で もあ り ま せ ん 。 啄 木へ の む
な しい思 いや憤りといった複 雑な心 情から皮肉をこ めてこの言葉 となっ たのではな
いかと思えてなりません。
3 鬱積の心情
こ う 考 え る と 雨 情 の啄 木 に 対 す る 様 々 な 評 価 や 批 評 は あ な が ち 的 は ず れ と ば か り
言えないのではないかと思えてくるのです。 数々の記憶ちがいや作り話は雨情に
と っ て は 啄 木 を 語 る 上 で の 単 な る 修 飾 で あ っ て啄 木 に 対 す る 評 価 や 批 評 と い う 本 質
と関係がないと考えていたのではないかと思えてならないのです。
総 じ て 雨 情 は啄 木 の 作 品 の 価 値 を 高 く み て い ま せ ん 。 と い う よ り も 高 く 評 価 し よ
う と しなか っ たというの が 雨情の 真情では なかったか と思うので す。 そ れは雨情の
作 品 論 か ら も 伺 え る の で す 。 例 え ば啄 木 の 作 品 に つ い て 雨 情 は 次 の よ う に 述 べ て 批
得ない詩人歌人の沢山あることを知つて頂きたい。
文 でな く 韻 文だ か らヒ ン ト さへ 捉 めば そ れ で よ い の で あ る、 そ の ヒ ン ト さ へ 捉 み
う した 見 方 も 一 つ の 見 方 か も知 れ な い が 、 私 は さ う と は 考 へ て ゐ な い 、 和 歌 は 散
為 め だ ら う 、 今 二 三 十 年 も 生存 し てゐ た ら 、 良 い 作品 も 沢 山 残 し た だ ら う と 、 斯
見 て も 深 み が 乏 し い 、 も つ と も つ と 深 み が な く て は 不可 、 要 す る に 歳 が 若 か つ た
いけない
石 川啄 木 の 代 表 作 は 和 歌 に あ る 。 或 る 人 の 言 は る る に は 、 啄 木 の 作 品 の ど れ を
判しています。
5 雨情と北海道
故郷の山に向かひて 言ふことなし 故郷の山は 有り難きかな
こ れ は啄 木 の 北 海 道 時 代 の 頃 の 作 だ が 、 啄 木 の 作 中 で も 優 秀 な も の と 思 ふ 。 こ
の 作品 な ぞ もヒ ン トば か り で捉 へ どこ ろ が 浅 い と 思 ふ だ らう が 、 この 浅 いと 思 ふ
と こ ろ に 限 り な き 深さ が あ るの が 韻文 で 、 散 文 に ばか り 没 頭 し て ゐ る と その 深 さ
が 判 ら な く な つ て 仕 舞 ふ 、 一口 に 言 へ ば 韻 文 は 散 文の や う に 言 は ん と す るこ と を
細 大漏 さ ず 言 ひ つ く し 、 思 ふ こ と を細 々 と 並 べ つ く す も の で は な い 、 そ こ に 韻 文
と散文の違ひは区別される、くどいやうだが和歌は韻文であり、詩も韻文である。
そ し て こ の 後 に 「啄 木 も 生 存 中 は 、 今 日 世 人 の 考 へ る や う な 優 れ た 歌 人 で も 詩 人
で もなか つ た 、普 通一 般の 文 学 青 年 に すぎ なか つた 。 」 と いう強 烈 な一 発 が続 くの
で す 。 右に 引 い た 一 文 は 要 す る に啄 木 の 和 歌 は 散 文 で あ つ て 説 明 がく ど す ぎ る と
言 っ て い る の だ と 思 い ま す 。 言 わ れ て み れ ば な る ほ ど啄 木 の 短 歌 は 説 明 に 過 ぎ る か
も 知 れ ま せ ん 。 雨情 の 言 う 「ヒ ン ト 」 と は 表現 の 直 接 性 と 間 接 性 だ と 思 い ま す が 、
啄 木 の 直 裁的 な 表 現 が 分か り や すい 歌 と し て の 源 な の で 、 私 た ち 素 人 に も 理 解 で き
る 所以なの だと思いま す。 まして韻文と散文の 違いの講義は無 用と いうべきで しょ
う 。 そ れは樹 を 見て森 を 見ない、重 箱の 隅 をほ じ く るこ との 好き な 文 芸専 門 家 に任
せておけばいいことです。
われ
こころよく
し
と
しごと
し
我にはたらく仕事あれ
おも
それを仕遂げて死なむと思ふ
この歌にどんな解説 や講釈が必要でしょうか。 こどもにも理解できる作品だから
こ そ 名歌 な の であ っ て 、文 法的 に 優 れ てい るか どうか は 関係あ り ません 。 この 意 味
で雨情の啄木評価は専門的すぎて一般的な理解は得られないのではないでしょうか。
雨 情 は啄 木 と 小 樽 で 同 じ 職 場 で 時 を 過 ご し ま し た 。 僅 か 一 ヶ 月 で し た が 、 例 の 陰
謀 事 件 で 痛 い 目 に 遭 い ま し た 。 し か し 、 陰 謀 事 件 が な か っ た と し て も 雨 情 は啄 木 と
の つき合い を望まなく なっていたのではな いかという気 がしてな らないので す。 と
い う の は啄 木 の 人 柄 、 つ ま り 性 格 の 問 題 で す 。 啄 木 は あ の 柔 和 で 聡 明 で 魅 力 的 な 容
貌 か ら 温 厚 な 性 格 と 見 ら れ 、 ま た 心 に 響 く い く つ も の 名 歌 な ど か ら 、啄 木 の も う 一
つの側面に気づかせることがなかったのです
家族の なか で はやけ 火箸 を 投げ 飛 ば す狼藉 、 中 学 で は 友 人 を せ き た て て カ ン ニ ン
済 せず、最初の 詩集『あこがれ』も知人から多額の 融資を受けながらも礼を欠いて
の 飲食 宿 泊 を 払 わせ 、 上 京 し て贅 沢 三 昧 の 生 活 に 窮 する と 友 人 た ち か ら 借 金 し て 返
グ、そして退学。 自らの 結婚式に欠席して仙台 で見ず知 らずの滝廉 太郎に一流 旅館
5 雨情と北海道
非 難さ れ 、 郷 里 で同人 た ちと 出 した 文 芸誌『 小天 地 』 では 経 費 流 用の 容 疑 で 検 事 に
取 り 調 べ を 受 け か ろ う じ て 放 免 、 北 海 道 へ 渡 っ て か ら は 借 金 ま み れ の 生 活 。 そ の啄
木 を 物 心 両 面 か ら 支 え た 与 謝 野 鉄幹 、 宮 崎 郁 雨 、 金 田 一 京 介 に 対 し て 家 族 を ど ん 底
へ巻き込む結果になった絶縁。
〝 晩 年 〟 の啄 木 の 暮 ら し に つ い て 雨 情 は 全 く 知 ら な か っ た よ う で す が 、 お そ ら く
雨 情 は こ う し た啄 木 の 性 格 を 見 通 し て い た の で は な い か と 思 い ま す 。 雨 情 は 一 時 占
い に も 凝 っ て い て そ れ も あ た る と い う の で 噂 に な っ た ほ ど で す 。 小 樽 日 報 時 代 に啄
木 も雨情の 占いはよく当たるから 感心したと日記に書いています。 「野口君手 相を
見る、其云ふ所多く当れり。」(「十月十日」『明治四十丁末歳日誌』)
こ の 占 い で啄 木 の 将 来 を 当 て て い た わ け で は な い で し ょ う が 、 机 を 共 に し て 、 つ
き 合 い 切 れ な い 人 物 と 見抜 い た の だ と 思 い ま す。 一 本 た り と も 自 分 の カ ネ を だ し て
煙草を吸 わない男、飲食はことごとくおごらせようとする男、そして漱石や藤村を
睥睨する男、これは雨情が一番きらいなタイプでした。
そ の よ う な啄 木 に 対 す る 雨 情 の 積 年 の 思 い が 次 第 に 募 り だ し て い た 矢 先 、 大 正 末
期 か ら 昭 和 初 頭 に 欠 け て啄 木 ブ ー ム が 巻 き 起 こ り ま す 。 雨 情 の 知 っ て い る 小 賢 し い
啄 木ではなく、全然 別の人格として登場し、時代のヒ ーローとなりました。 雨情が
実 際 に 見 た啄 木 と あ ま り に も か け 離 れ た 英 雄 と な っ て 祭 り 上 げ ら れ て い る の を 見 て
唖然としたのでしょう。
おそ ら く 雨 情 は せ め て こ の 風潮 に 一 灰 一 塵 た ろ う と も 自 分 な り の 姿 勢 を 示 し て お
き た い と 考 え た の で は な い で し ょ う か 。 既 に 雨 情 は啄 木 と 比 肩 す る 大 詩 人 の 地 位 を
確 固 と し た も の に し て い ま し た か ら 、啄 木 に 小 さ な 礫 を 投 げ て も 文 壇 か ら 放 り 出 さ
れ る こ と は あ る ま い 、 わ し の 一 言 で ど う に か な る啄 木 で は な い が 、 さ ん ざ ん な 目 に
あ わ さ れ た啄 木 へ の 蟷 螂 の 斧 く ら い で 非 難 さ れ て は か な わ な い 、 と 独 り ご ち な が ら
吉祥寺「童心居」で煙草をくゆらして北海道時代に思いを馳せるのでした。
5 雨情と北海道
あとがき
本 書 は 私 が初 め て 出 す電子 書 籍 で す。 最 初 は 新 書 版 に する つ も り で 書 い た の で す
が、出してくれる出版社がみつか らず、途方に暮れていました。 時には運がよく出
版 社 が現 れ る こ と もあ るの で すが 定 年 前の 十 年 間 は 職 務に 忙 殺さ れ て執 筆の 余 裕 が
なく、その間に知り合った数少ない編集者が定年で姿を消してしまいました。
また 出 版界 も 様 相 が すっ か り 変 わ っ て 私の よう な 地 味 な 研 究を や っ て き た 人 間 を
相手にしてくれなくなってしまいました。 実はこの原稿も五社ほどに送らせても
ら っ たの で すが断りの あった二社 以 外はな しの つぶて でした。 いっ たんは出版 を諦
め ました が、この 原稿にはこ れまでと違った 愛着がありましたの で思い ついたのが
電 子 出版で した。 時代の 流れに疎い人間ですが部数を気 にせず出せ るこの方式 を試
してみたいと思ったのです。
そ してこ れを 機会 に 以 前か ら考 え ていた ペ ンネ ーム を 使う こと に しま した 。 親か
ら 貰 っ た 名 前 も さ る こ と な が ら 一 回 の 人 生 で もう 一 つの 名 前 を 使 う こ と は と て も興
味 深 い こ と で す 。 雨 情 や啄 木 の 時 代 は ペ ン ネ ー ム は む し ろ 日 常 茶 飯 な 慣 習 で し た 。
このような試みは文芸世界のみならず日常世界でも採用されていいと思います。
今 回使 わ せ て頂 いた 「露草」 は 言 う まで もなく 「ツ ユ クサ」 で す。 私は この ツユ
クサが大好きでベランダにもプランターで置いていま す。 数年前、函館の 立待岬の
啄 木の墓の 周囲にびっ しりとこの 雑草が茂っていて強 く印象に残りました。 好 きな
啄 木とツユ クサ、この 時から私は雅号を使うときはツユクサを考え出しました。 雨
情 によれば言葉は韻律が重要だと いいます。 耳に快く響 く言葉は三文字がいいとい
い ま す。 それでツユクサを活かして「露草」と することにしたので す。 「 北斗」は
北 斗 星の 謂 い で すが北 の 国 も現 し てい ま す 。 機 会 があ れ ば この 雅 号 をさ ら に活 か し
ていくつもりです。
また初 めて採 った電 子 書籍 がどの ような運 命 を辿 るのか 興 味 津 々 と い うとこ ろで
す。あらたな世界での新たな読者との出会いを待ち望んでいます。
新 し い 方 式 の 出版 に 戸 惑 っ てい る 私 を さ り 気 なく 後押 し してく れた e ブッ ク ラ ン
ドの横山三四郎さん、巧みな編集の腕を見せてくれた藤宮弥生さんに感謝します。
二〇一一年八月一五日 戦後七十年の節目に
著者
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野口雨情が石川啄木を認めなかった理由―『小樽日報』陰謀事件の顛末
《主要参考文献》 【全集】
1 野口存彌編『定本 野口雨情』(全八巻 補巻一)筑摩書房 一九八五―一九九六年
2 岩城之城他編『石川啄木全集』(四、五、七巻)筑摩書房 【伝記・評伝】
1 野口雨情「野口雨情自伝」『現代詩人全集』第十一巻 新潮社 一九三〇年
2 長久保源蔵『野口雨情の生涯』暁印書館 一九八〇年
3 長島和太郎『詩人 野口雨情』有峰書店新社 一九八一年
4 平輪光三『野口雨情』雄山閣出版株式会社 一九五七年
【各論】
1 泉漾太郎『野口雨情回想』筑波書林 一九七八年
2 野口存彌『父野口雨情』筑波書房 一九八〇年
3 野口存彌『野口雨情』未来社 一九八六年
4 野口存彌編『野口雨情 回想と研究』あい書林 一九八二年
5 斎藤佐次郎他編『みんなで書いた野口雨情伝』金の星社 一九七三年
6 奈良達雄『野口雨情 こころの変遷』あゆみ出版 一九九七年
7 井上信興『野口雨情そして啄木』渓水社 二〇〇八年
8 西脇 巽『石川啄木の友人 京助、雨情、郁雨』同時代社 二〇〇六年
9 山下多惠子『啄木と雨情』未知谷 二〇一〇年 野口雨情会編『雨情会会報』(復刻版)金の星社 一九九五年
9 秋山 清『近代の漂泊』 現代思潮社 一九七〇年
8 伊藤 整『日本文壇史』第十二巻 講談社 一九七八年
7 岩野泡鳴『日本現代文学全集 第二十九巻』講談社 一九六五年
6 濤川栄太『戦後教科書から消された文部省唱歌』ごま書房 一九九七年
5 鬼山親芳『評伝 小国露堂』二〇〇七年 熊谷印刷出版部
4 小林芳弘「啄木と雨情」『啄木研究』第八号 一九八三年 洋洋社
3 北海道大学編『札幌農学校』全二巻
2 山本三郎編『地理講座 樺太・北海道』第一巻 改造社 一九三三年
1 「小樽日報 第三号」小樽日報社 明治四十(一九〇七)年十月二十四日付
【他】
野口存彌編『枯れすすき』(一―十二号)一九七七―一九八二年
11 10
木原直彦『北海道文学史 明治編』北海道新聞社 一九七五年
雨情会編『野口雨情民謡童謡選』金の星社 一九六二年
11 10
(ほくと ろそう)
【著者概歴】
北斗 露草
・
*北海道生まれ、大学院修士 博士課程修了後、国立大学の研究職に従事、定年後
は念願だった歴史、文芸分野に関する著述に専念。
わ
け
野口雨情が石川啄木を認めなかった理由
―『小樽日報』陰謀事件の顛末―
北斗 露草
発 行 2011年9月30日
発行者 横山三四郎
出版社 eブックランド社
東京都杉並区久我山4-3-2 〒168-0082
http://www.e-bookland.net/
© Rosou Hokuto
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