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沖縄ゆかりの会員が 「かりゆし会」を組織 甲府ワードが伝道100周年を

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沖縄ゆかりの会員が 「かりゆし会」を組織 甲府ワードが伝道100周年を
「沖縄かりゆし会」発足式では,元東京神殿長の長嶺顕正兄弟(左)や
渡邊 驩兄弟(中央)など旧知の指導者が激励のあいさつを述べた。
「かりゆし」とは沖縄方言でおめでたいこと,吉報を意味し,福音にも通じる。
沖縄ゆかりの会員が
「かりゆし会」を組織
──神殿への熱い思いを込めて
January
2008
縄の会員と本
に参入し,懇親会で
土の同胞が一
親睦を図り,互いに
堂に集い,神殿儀式を
情報を共有するほ
受け,懇親会まで持てたらどん
か,沖縄からの団体
沖
きんじょうまさゆき
なにすばらしいことか──金城正之 ス
テーク会長の思いに始まった那覇ステーク
参入の度に同会の
メンバーが参加する規約となっている。
神殿に参入し,先祖の身代わりの儀式を受
きよ
の特別な東京神殿団体参入「かりゆしセッシ
日本で唯一,悲惨な地上戦を経験した沖
けることができたら,青少年たちは聖 めら
ョン」が,去る12月8日
(土)に行われた。午
縄の人々には,先祖と死者に向ける特別な
れ,護 られ,強められ導かれて主の道を真
前11時,東京神殿のエンダウメントの部屋
思いがある。金城ステーク会長は胸の内を
っすぐに歩むことができ,多くの祝福を受け
は,那覇ステークの会員,
1都2府9県から
こう語る。
「沖縄に神殿を……と叫ばれてか
ることでしょう。亡くなられた先祖の方々
の本土在住沖縄県出身者とその家族,また
ら数十年がたちました。亡くなった先祖の
は一日千秋の思いで,この世にいる子や孫,
沖縄にゆかりのある帰還宣教師など,金城
方々,沖縄戦で尊い命をささげられた方々
親族や友人の方々の身代わりの儀式を待っ
会長の呼びかけにこたえて集まった大勢の
の御霊を慰め救う手立ては神殿の儀式によ
ております。県内では系図も多くの提出が
会員たちで満員になった。
まも
みたま
る以外はありません。また沖縄の会員たち
あり,今や沖縄に神殿の建設を見ることは
引き続き神殿別館にて,200人ほどが食
の神殿参入のための長距離の旅行は,家族
現下の急務のこととして受け止めています。
事を共にして懇親会が持たれた。その席上
の関係,仕事の関係,経済上の問題や健康上
本土在住の沖縄県出身者等の方々の協力を
で,沖縄県出身の本土在住者による「沖縄か
の問題等により心から神殿に参入したいと
得ながら神殿参入を続けることによって,主
りゆし会」が組織された。これは,神殿参入
願っていても参入できない会員たちが数多
にわたしたちの望みが,御心 にかなったも
を軸とした沖縄県人会とも言えるものであ
くおります。もし沖縄に神殿が建てられた
のとして受け止めていただけるものと確信
る。今後は年1回,沖縄の会員とともに神殿
ら……青少年たちが毎週あるいは月に1度
しているところです。」◆ みこころ
甲府ワードが伝道100周年を祝う
─
─地域会長会のデビッ
“帰還”
─
─地域会長会のデビッド
ド・F・
・F・エバンズ会長が若き日の伝道地へ
エバンズ会長が若き日の伝道地へ
“帰還”
07年,山梨県甲府市に宣教師のウィ
た野々垣兄弟
リアム・ルーベン・フェアボーンが派遣
は,
「甲府支部
され,甲府での伝道が始まった。甲府の人々
の 父 」として
は宣教師を愛し,フェアボーンが1911年に
地元の会員に
帰国する際には約300人が見送ったとい
敬われている。
う。心優しい甲府の人々の気質がうかがえ
また1908年
るエピソードである。伝道初期には1922
には米山 連 夫
年までの15年間にわたって教会活動が継続
妻が日本で最初の夫婦の改宗者となった。
された。1920年にはデビッド・O・マッケ
その後子供たちも改宗し,家族で教会に集
イが視察に訪れ,富士山をいただく甲府の
ったという。米山兄弟は伝道部閉鎖時代の
風景の美しさに感動したという。ヒーバ
1935年,管理長老の藤原 武夫 により甲府
ー・J・グラントにより1901年に開かれた
支部会長に任命されている。
19
よねやまむらじ
エバンズ会長とご家族を囲んでの記念写真
ふじわら た け お
日本伝道部が1924年に閉鎖されるまでの
その歴史ある甲府ワードにて,去る12月
間,全国で継続的に教会が設けられていた
8日
(土)と9日
(日)
,甲府ワード伝道100周
場所は,札幌・東京・大阪の大都市と並んで甲
年記念ワード大会が開かれた。地元のみな
府の4か所であった。1907年にバプテス
らず甲府ゆかりの会員たちが集い,甲府ら
の の が き すけとも
マを受けた野々垣 祐知 兄弟は,伝道部閉鎖
しい家族的な雰囲気の中で昔を懐かしむ和
時代を経て戦後まで信仰を保ち,甲府支部
やかな時間を過ごした。
の支部会長も務めた。1967年に亡くなっ
/2008年1月号
8
その中で紹介された甲府の歴史をつづる
30メートルの高さから落ちる名勝・仙娥滝にて,1952年8月。
菅澤姉妹によるとこの写真は,少し下流でバプテスマの儀式を
行ったあと,上流に登って滝の前で撮影したものだという。
バプテスマの模様も語られた。宣教師はつ
る。エバンズ会長ご夫妻は,母親のジョイ・
の名所・昇 仙 峡 にある仙娥滝の前で撮られ
るはしとスコップを自転車にくくりつけ,川
F・エバンズ姉妹,弟のピーター・F・エバンズ
た「11人のバプテスマ会」の写真がある。そ
スライドショーの中に,1952年8月,甲府
しょうせんきょう
せんがたき
に着くとつるはしで氷を割り,身を切るよう
兄弟を伴って日曜のワード大会を訪れた。
の場に出席していた東京在住の菅澤 輝子姉
な水の中,川床をスコップで掘ってバプテス
エバンズ会長が,
「それまで証は持っていて,
妹は写真の中に55年前の自分を見つけた。
マフォントを作り上げたという。
福音が真実だと知っていましたけれど,この
すがさわ て る こ
あかし
き く ち よしひこ
みたま
この滝は現在も変わらぬ姿でそこにあり,流
甲府では1960年に中央幹部の菊地良彦
甲府で働いているときに,心から御霊 を感
れは下って荒川という大きな川となる。ワ
長老が伝道したほか,地域会長会のデビッ
じて涙を流しました」と伝道の思い出を話す
ード大会では,荒川の支流で行われた冬の
ド・F・エバンズ会長も1971年に伝道してい
と,出席者も御霊を感じて涙ぐんでいた。◆
R
A
N
D
O
M ─ 豆知識① ─
S
A
M
P
自立へのヒント
L
E
R
※“Tips for Becoming Self-Reliant,”
Ensign, 2000年3月号,68−69
2007年12月号のローカル記事「備えはできていますか?」で予告された,賢明な生活の
ための豆知識を,英語の機関誌『エンサイン』から抜粋して連載します(地域福祉部)
題に取り組む備えができます。
巾,針と糸,そのほかの基本的なものを入
1年分の食糧を確保する。ま
れておきます。必要な救急品を分かりやす
ず,長く保存できる基本的な食
く載せている冊子やパンフレットを入手する
糧を1年分入手するよう努めて
か,薬局で確認してください。
ください。それから食糧の種
●
類を増やしていきます。棚など
まず,予算内で生活するための基本を身
に常温で1年間保存できるいろ
に付けます。それから資産を賢明に管理
いろな食品をそろえてください。
してください。毎月幾らか預金をしましょう。
食糧,水,衣類,救急用品,医
クレジットでの買い物は慎重に行ってくだ
薬品を入れた非常持ち出し袋(サバイバ
さい。負債が増えるようなら,
『お金の話
をするように勧告しておられま
ルキット)
を用意することから始めて,貯蔵
── 家庭における財政管理の指針』
(33293
す。賢明な生活とは,つましく
ができるようになった会員もいます。
300)
に載っている原則を用いて重くのしか
●
は預言者を通して,賢明な生活
主
借金を返済し,負債のない生活を送る。
かる負債を減らし,最終的には完済する
暮らし,将来に備えることを意味します。
●
ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,かつて
える場合が多く,水がなければ生きてい
ようにしてください。
大管長会第一顧問だったとき,次のように
けないということを忘れがちです。しかし
●
言いました。
「皆さんに,倹約と勤勉の徳
清潔で安全な水の不足は,予期しない自
術を学びましょう。服を作り,繕い,衣装
を身に付けるようお勧めします。……家
然災害の際にまず直面する危機の一つに
を縫うことができるようになります。また,
族が自立する鍵 は,労働と倹約です。」
なることがしばしばです。家庭では,最低
カーテンやテーブルクロスのような家庭用
(“
‘Thou Shalt Not Covet,’
”Ensign ,
でも一人当たり14ガロン
(約60リットル)の
品も作れます。生活にゆとりがあるときに
1990年3月号,4)
自立できるようになると,
水を貯蔵するよう勧められています。
(『家
技術を身に付けておけば,必要に迫られ
試練のときにも賢明な生活を送り,自分
庭における生産と貯蔵の基本』8参照)
た事態に直面したときに役立つかもしれ
の必要を自分で満たす能力が増していき
●
ます。以下に,長年にわたって多くの人の
技術は,年月をかけて着実にマスターする
●
役に立ってきたアイデアをまとめました。
のがいちばんです。狭い庭でも,新鮮な
具を作る技術を習得してください。工具
個人や家族がさらに自立するための参考
食物をたくさん収穫し,食卓に載せること
や専門知識,技術のある人は,美しく実
にしてください。
ができます。また食べ物を育てながら,収
用的な家具を度々作ることができるでし
かぎ
水を貯蔵する。水は普段たっぷりと使
家庭菜園の方法を学ぶ。家庭菜園の
裁縫を覚える。時間を取って裁縫の技
ません。
家具の制作や修繕を学ぶ。簡単な家
教育を受ける。男性も女性も,教育の機
穫したものの缶詰め,冷凍,乾燥の技術を
ょう。そうでない人も,古い家具の塗料を
会を求める必要があります。男性は,家族
覚え,適切な保存方法を身に付けること
はがして塗り直したり,いすを張り替えた
を養うために必要な収入を得られるだけ
ができます。こうした技術は難しくはありま
り,壊れた家具を修理したりする技術を
の技術を身に付ける必要があります。教育
せんが,熟練するには経験が必要です。
学ぶことができます。
を受けた女性は,家族に祝福をもたらしま
●
す。また女性は教育を受けることで,現代
アルコールといった緊急用品,胃薬,下痢止
技術があれば,必要なときに衣類や寝具
の複雑な社会で家庭を築くという難しい課
め,解熱剤などのおもな医薬品,また三角
を作ることができます。◆
●
救急箱を用意する。包帯,
化膿止め軟膏,
チャーチ・ニュース
9
●
針仕事をする。キルト作りや編み物の
昭和30年代の吉沢ご家族
日本の教会の黎明期を担った開拓者から
後に続く世代へ贈られる
言葉のバトン──
次世代へ
手渡す 1
ことば 吉沢敏郎
●第
回
よ し ざ わ と し ろ う
みどり姉妹
兄弟・
●九州で最初に組織された福岡支部の初代支部会長であり,
初代福岡ステーク会長などを歴任。
1982年から1985年まで岡山伝道部会長を務める。
沢敏郎兄弟が人生についての
吉
持ちにはなれませんでした。仕事に専念
問題意識を持ち始めたのは10
しても人生への確信がなければ意味がな
歳のときだった。
「小学校の級
いと思い,国鉄を辞めました。」その後,
長をしているときでした」と振り返る。
「級
九州電力に入社し,九州には古来からの
長をしているときに先生から褒められる
文化や伝統,神話があるので,そこに人
ことがありました。褒められているにもか
生の活路を見いだせるのではないかと思
かわらず,満足するような気持ちにはなれ
い,探求を続けることとなった。
この世での仕事は……一時的なものです
幸福の源はどこにあるのか考えてください
なぜそれができないのでしょうか
長のときに感じていた小さな疑問,心を
満たすものをやっと見つけることができ
なかったのを覚えています。もっと内から
1951年の春にみどり姉妹と結婚した吉
沸き上がる喜びのようなものがあるのでは
沢兄弟は,敗戦後の混沌とした状況が続
ないだろうか。できれば,それを感じてみ
く街頭で心を動かされる人物に出会っ
たいと望んでいました。どうしたらよいか
た。それはアメリカから来日した宣教師
分かりませんでしたが。目の前の学校の
だった。
「わたしたちはみんな神様の子
吉沢ご夫妻は今までに多くの責任を果
勉強に追われながら,その気持ちは数十
供だと伝えていました。戦争はしたけれ
たしてきた。福岡で最初のステーク会長
年続きました。
」
ども,みんな同じ兄弟姉妹なんだと話し
に召され,その3年後に,定年退職を機に
やまぶし
こんとん
たのだった。
世の時間と永遠との関係
吉沢兄弟には,真理を求める姿と山伏
ていました。戦争をしたアメリカにもこん
岡山伝道部会長(1982−1985年)
としての
の修行する姿が重なって感じられることが
な親しみを感じる人がいるのだと驚きま
召しも受けた。現在吉沢兄弟は祝福師と
あった。
「修行する山伏が求めているの
した。非常に心が動かされました。戦争
しても奉仕している。そのような中にあっ
は神様なんだろうか。それならば,神様
が終わって,これからどうしようかと日本
て,二人が大切にしてきたことがある。そ
ってなんなのだろう」と思い続けていた。
人が迷っていた時代です。日本人の人生
れは喜んで犠牲を払うことと感謝の気持
***
観が崩れていたときです。じゃあ,まずは
ちだ。みどり姉妹は神殿の建設に寄せて
このアメリカ人が伝えているものを学んで
話す。
「1975年にキンボール大管長がいら
みようと思いました。」
っしゃったときに,東京に神殿を建てると
やがて海兵隊の技術将校になった吉沢
兄弟は,訓練に没頭する日々を送る。そし
て,1945年8月に終戦を迎えた。
「戦争が
「モルモン経」
を受け取った吉沢兄弟は,
の発表がありました。安息日にもかかわら
終わって,日本の根幹がたたき潰された
何が正しいのか懸命に探し求めた。
「聞
ず,集った会員の拍手が会場に響き,だれ
気分を味わった」と語る。根幹がたたき
くだけでは納得できませんでした。体当
もが感謝しました。当時の
潰されたからこそ,
「内から沸き上がる充
たりです。学びながら迷うことはありませ
会員は,成人も学生も
実したもの」を欲する気持ちは強まった。
んでした。迷うよりも,行ける所まで行って
神殿を建設するため
真理の探究をやめることはできなかった。
みようと。そして,ぶち当たってみようと。
」
に多くの献金をしま
国鉄(現在のJR)
で働き,電化工事を完
教会堂もなかったので,集会所は転々
成するたびに達成感を感じることもあっ
とした。学ぶ場所など吉沢兄弟にはあま
応 分 の 献 金 をし ,
た。また,国鉄が謳っていた
「大家族主義」
り重要ではなかった。そして,内から沸
建築資金をためるた
に魅力を感じることもあった。しかし,
き上がる喜びを感じた吉沢兄弟は1953年
め に バ ザ ーを 行
の春にバプテスマを受けた。小学校の級
うこと
うた
「どんなに仕事に熱中しても充実した気
/2008年 1月号
10
した。それぞれが
もありました。みんな一所懸命でした。
まり,この世だけの仕事と永遠にわたって
喜んで主のために犠牲を払いました。そ
続く仕事との関係です」と熱く語る。
して,福岡にも東京に次いで神殿を頂くこ
吉沢兄弟は「教会の若い人たちが誘惑
ととなりました。これはとても大きな祝福
の多い世の中で信仰を貫くのは簡単なこ
でした。福岡神殿を建てるときには,東
とではない」と話す。
「社会にはたくさんの
京神殿を建てたような犠牲を求められる
誘惑があります。若い人たちは大変だと
ことはありませんでした。まったく金銭的
思います。一つは時間がないということで
な負担をすることはありませんでした。長
す。だれもが時間に追われています。時
い間,東京神殿の建設のために犠牲を払
間がないと信仰生活を保つのは難しくな
ったことを思い出します。若い方々はその
ります。」その話を聞きながらみどり姉妹
ような苦労は知らないかもしれませんが,
は,吉沢兄弟はかつて「遅刻は背教の始
東京神殿のときに比べたら,簡単に頂い
まり」と言っていたとほほえむ。
「昔から熱
てしまった感じがします。何の負担もなく
く語る人ですから」と言い添える。それに
神様から頂いた神殿です。福岡の方々は
反論する吉沢兄弟。
「遅刻するということ
こんなにも簡単に,こんなにも近くに神殿
は油断があるということです。早く行こう
を頂いたのですから,その祝福を十分に
と思えば行けます。積極性がないから遅
感じていただきたいと思います。もし,そ
刻するわけです。ほんとうに真剣であれ
の祝福を受けていない人がいるとしたら,
ば遅刻なんてしません。だから背教の始
ほんとうに残念です。
」
まりと言っているわけです。その思いはま
自ら設計した
健康器具に乗る
吉沢兄弟。
85歳の今も
技術者魂は
現役である。
理屈はだれでも言えます
大切なのは自分の人生や生き方を通じて
〔福音を〕実証することです
吉沢兄弟も教会で奉仕するために仕事
ったく変わっていません。ヒンクレー大管
でも頑張ってきた。
「仕事に追われていれ
長と会う約束があれば,それに遅れない
ば神殿に来ることはできません。仕事を
ようにしますよね。つまり遅刻するという
100歳になっても神殿で元気に奉仕す
しっかりとやらなければ神殿に来られま
のは,やる気がないということです。人か
る姿を想像する。
「100歳になったときの
せん。仕事でリーダーシップを発揮でき
ら引っ張られているのでは駄目です。自
教会を想像してみましょう。若い人たちが
るような人でなければ,教会でも奉仕で
分で前進しなければなりません。人から
指導者になり,予想もつかない大きな変化
きない時代です。信仰と仕事は関係ない
引っ張られている信仰というのはいつか
が起きていると思います。聖典を読みま
ように考える人もいますが,非常に密接な
は壊れてしまいます」と決して引かない。
すと,100歳とか150歳なんて当たり前じ
関係にあります。良い教会員となるために
も,職場で影響力を持って,信仰を貫き通
原点へ─100歳のビジョン
実証することです。
」
ゃないですか。800歳とかもいたわけで
すから。何も新しい話ではありません。
せるような立場にならなければなりませ
85歳になる吉沢兄弟は福岡神殿で儀式
純粋に昔に戻るだけの話です。つまり原
ん。世の中の仕事に流されてはなりませ
執行者と結び固め執行者の責任を受け,
点に戻るということで,100歳とお伝えし
ん。余暇があったら神殿に行くということ
福岡ステークの祝福師としても働いてい
ています。諸々の複雑なものを単純化す
ではいけません。余暇を作れる人になら
る。みどり姉妹は83歳。4年前に転倒し
るには,原点に戻るというのが最良の方
なければなりません。この世での仕事は
たのが原因で思うように左手が挙がらな
法なんです。原点に戻るというのは難し
永遠には続きません。一時的なものです。
いので,十分には神殿でも奉仕ができて
いことではありませんよ」と再び熱く語る
幸福の源はどこにあるのか考えてくださ
いないと感じている。それでも健康が続
吉沢兄弟。
い。永遠にわたって続く
く限り,頑張って教会へも神殿へも行きた
ものは何でしょうか。
いと決心している。
そして後輩の教会員にメッセージを送
るならば「一言だけです」と言う。その言
教 会 員にとって は 分
吉沢兄弟には神殿奉仕以外にも,健康
かりきった話です。そ
に対して気を配る理由がある。自分で考
基づくもの,心に沸き上がるものを求めて
れで は ,な ぜ そ れ が
案した健康器具が「どれほどの効果があ
「ぶち当たれ!」だと語る。
「原点をつかん
葉は吉沢兄弟自身が実践してきた経験に
できないのでしょうか。
るのか実証しなければならないから」と
で掘り下げる。そして,それを応用すれば
それを真剣に考えなけ
笑う。
「自分が90歳か100歳まで生きなけ
いいわけです。それだけは自覚していた
ればなりません。つ
れば実証できませんから。それまでやら
だきたいと思います。」力強く語っていた
なければ良いか悪いか分かりません。理
吉沢兄弟は,教会の後輩へのメッセージ
屈はだれでも言えます。福音も同じです。
をゆっくりと噛みしめるように,感慨深く
大切なのは自分の人生や生き方を通じて
繰り返していた。◆
チャーチ・ニュース
11
STATE OF ISRAEL
CORRESPONDANCE
イスラエル
1
通信
森 哲也兄弟 ● イスラエル地方部テルアビブ支部
イスラエル日本大使館に出向中
在
もり
てつや
かずえ
森ご夫妻。BYUエルサレムセンターにて
ユダヤ人が「この地」
( ハアレツ)に移民
の森 哲也 兄弟は,奥様の一江
してくる根拠は,創世記にあるとおり神が
姉妹とイスラエルのテルアビブ
アブラハムを通して与えられた「約束の地」
に在住しています。教会員にとってよく知
であるからだとされています。ユダヤ民族
られた国でありながら,実情が理解され
の聖地で神の律法を守り,いつの日か救
ていない国イスラエル。森ご夫妻の経験
世主
(メシヤ)が来臨して,自分たちを苦難
する日常のイスラエルの姿は,主が歩まれ
から救い出してくれるようにと,第二神殿
た土地を知るうえで,わたしたちに新し
崩壊後から現在まで約2,000年間絶えるこ
い視点を与えてくれることでしょう。第1回
となく祈り続けています。ユダヤ教では神
は現在の一般的なイスラエル・パレスチナ
殿は,メシヤが来臨しないと再建されな
情勢から入ります。今後のシリーズでは,
いとされており,メシヤはダビデの子孫か
さらに森ご家族の個人的な視点を通した
ら現れるとされています。
こんにち
今日のイスラエルの姿を報告していただ
きます。
(編集室)
しますが,鎮圧されて古代ユダヤ史は幕
シ
第二神殿跡をめぐる確執
ャローム!
を閉じます。この時,神殿の丘の上にあっ
皆さん,こんにちは。現在,わ
たユダヤ教の神殿(第二神殿)が破壊され
エルサレム旧市街にある第二神殿跡の
たしは仕事の都合でイスラエル
ました
(紀元70年)
。その後,ユダヤ軍が
西側の壁(通称:嘆きの壁)。ヘロデ時代
立てこもって最後まで死闘を演じた舞台
の第二神殿建築時の壁が,現在も一部残
メディアや聖書を通じてわたしたちは
が,死海を見下ろす要塞のマサダです。
っており,そこに 向
イスラエルについて知ることができます。
以後2,000年近くにわたりユダヤ民族は世
かって人々は祈りを
しかし,日本ではなかなか現在のイスラエ
界各地に離散(ディアスポラ)することにな
ささげます。下から
ルの状況を知ることは難しいと思います。
ります。
6段目までがヘロデ
に住んでいます。
イスラエルは旧約聖書以来の悠久の歴
現代のイスラエルは,シオニズム運動
史を有していますが,現在は,IT,ライフ
(ユダヤ人の祖国建設のための運動)によ
サイエンスを中心としたハイテク分野,農
りパレスチナ地方にユダヤ人が大量に移
業技術,ダイヤモンド産業等により経済が
民してきたことから始まり,1948年に悲願
支えられている国であり,古代の歴史と
であったイスラエル国が建国されて現在
最先端分野の技術が並存する魅力ある
に至っています。
国です。
さかのぼ
一方,ユダヤ人が移民してきたこのパレ
イスラエルの歴史は創世記まで遡ります
スチナ地方は,だれも住んでいなかった
が,ユダヤ民族の国としての歴史は,紀元
土地だったわけではなく,1,000年以上も
前10世紀ごろのダビデ/ソロモン王の王
生活してきたアラブ人がいました。そのた
国と,その後の分裂と滅亡を経たもので
めアラブ人とユダヤ人の間で度々衝突が
す。バビロンに捕らわれたユダの王族や
発生するようになり,第1次中東戦争から
臣民は,アケメネス朝ペルシャにより故郷
第4次中東戦争に至り,その結果,パレス
への帰還が許されます。独立国としての
チナ自治区内及びヨルダン・シリア・レバノ
地位は失われ,ペルシャ,ギリシャ,ローマ
ン等の周辺アラブ諸国に多数のパレスチ
の勢力下での属州となりました。アウグス
ナ難民を生み出し,現在までも続く中東
トゥスの時代にローマに対し反乱を起こ
和平問題になっています。
/2008年 1月号
12
時代の第二神殿跡。
イスラエル国
嘆きの壁
超正統派ユダヤ教徒
嘆きの壁に向かって祈るユダヤ教徒
周りに縁のあるのがヘロデ石と呼ばれて
にあるのか分からないので,ユダヤ教徒
守り
(豚・タコ・イカ・貝類等を食さない,牛
います。6段目から上は,その後,十字軍
は神殿跡地付近には近寄りません(旧約
肉も血をしっかり抜いてから適格と認定
時代,オスマントルコ朝時代に増し加えら
聖書で,聖所や至聖所は入ってはいけな
を受けたものだけを食べるなどの様々な
れたもの。第二神殿が破壊されて以来,
いとされているため)
。
食事制限。申命記12:23,14:3−21参照)
,
ずっと嘆いてきたので「嘆きの壁」と言わ
2000年9月に,当時野党リクードの党首
れているのです。また,壁の岩の間に生
であったシャロン前首相が,イスラムの聖地
えるヒソプの草を伝って落ちる夜露が,ユ
でもあるこの神殿の丘に上がったため,
争がありながらも,民族のアイデンティティ
ダヤ人の嘆いている姿を象徴しているか
パレスチナ人の反感を買い,第二次インテ
ーを決して忘れることなく生活していると
らだとも言われています。
ィファーダ
(反乱蜂起)が発生しました。そ
ころにたくましさを感じます。その反面,
ほうき
もみ上げも剃りません
(申命記14:1)
。
ユダヤ人は長年の迫害,現在も続く紛
一方,嘆きの壁のすぐ上は神殿の丘に
のため今日までにパレスチナ側4,000人以
ユダヤ人が嘆きの壁で祈っているほぼ真
なっており,第二神殿跡には,岩のドーム
上,イスラエル側で1,000人以上の犠牲者
上から,一日に数回アザーン
(イスラムの祈
(モスク)が建っています。638年に預言者
を出しています。2007年11月27日にはア
りを呼びかける放送)が大音量で聞こえて
ムハマンドがエルサレムを征服した記念
ナポリスで7年ぶりの中東和平国際会議が
くる光景を眺めていると,これから先もエ
として,691年に建立されました。ムハマ
開催され,今後和平交渉を再開することで
ルサレムには苦難が続くのだろうと感じず
ンドがここから昇天したといわれており,
合意しましたが,国境問題,難民の帰還,
にはいられません(教義と聖約45:51−
イスラム教にとってメッカ,メディナに次ぐ,
エルサレムの帰属という,和平合意に不可
53)
。しかしながら,ユダヤ人がこの地に
第三の聖地として世界から巡礼者が訪れ
欠な問題については依然として双方の主
帰還して来ることは主の御心 だと思いま
ています。
みこころ
張に大きな隔たりがあります。互いに聖地
すので(教義と聖約109章)
,将来どのよう
しかし,第二神殿は同神殿の丘のどの
であるエルサレム,特に核心である旧市
に推移していくかを見守り続けることがで
部分に建てられていたのか正確には分か
街の神殿の丘の帰属問題が解決しないか
きたらと思います。それでは,レヒトラオー
っておらず,神殿内の聖所や至聖所もどこ
ぎり,和平は来ないだろうと思われます。
ト
(また会いましょう)
!◆
岩のドーム
(モスク)
神殿の丘
(第二神殿跡)
。
イスラエル政府とパレスチ
ナ暫定自治政府がせめぎあ
うこの国を象徴するように,
聖地エルサレム旧市街もユ
ダ ヤ 教 地 区・イスラム 教 地
区・キリスト教地区・アルメニ
ア人地区に分かれている。
超正統派ユダヤ教徒
超正統派ユダヤ教徒は,イスラエル国内
に約50万人おり
(ニューヨーク,アントワープ
などにも大きなコミュニティーがある)
,税
金免除,国からの給与支給,兵役免除と
いう特権が与えられています。現在のイス
ラエルの独立は,2000年以上離散してい
た間もユダヤ教を守ってきた彼らの業績
嘆きの壁
だとされているからです。彼らが黒い服を
着ているのは,第二神殿が崩壊した喪に
服しているからであり,寝るときと入浴する
とき以外は着用していなければならない
とされています。現在も厳格にコシェルを
エルサレム旧市街のイスラム地区
チャーチ・ニュース
13
半世紀の時を経て成就する祝福
こしこ
信仰の風景
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1957年7月,ブロードヘッド長老が帰還する
プレジデント・クリーブランド号を
横浜の岸壁から見送る
ひろこ
くつろげる家庭をつくる
湖(旧姓高橋)寛子 姉妹は,戦
越
一郎兄弟は教会員ではなかったが,交
時中を千葉に疎開して過ごし,
際中に寛子姉妹からよく教会のことは聞い
終戦後に東京の杉並区荻窪へ
戻って来た。16歳のとき製菓会社へ入社
補装具なしでは歩くことが困難になった。
ており,結婚後に姉妹が教会に集うことに
し,そして1年ほどしたある日のこと。工場
一郎兄弟は手に職を付けるべく,1955
も理解を示していた。しかし独立開業間
に入ると機械は動いていたが,点検のた
年,18歳で上京し,訓練を受けた後,杉
もない印判店を立ち行かせるのは並大抵
めか安全カバーが開いていた。そこに右
並区高円寺の印判店へ住み込みで働きな
のことではなかった。高度経済成長期の
手が巻き込まれて大けがをする。
「そうし
がら職人としての修行を始める。店では
日本にあっては日曜に休む商店などなく,
て,わたしは障がい者になりました。
」
印判を彫るだけではなく,
表札を書いたり,
月に2度ほど日曜に店を閉めるのも贅沢と
ぜいたく
そのうえ結核も患い,自宅で療養してい
賞状や商店の品書きを書いたりする筆耕
言われた時代だった。開業1年後,一郎兄
た1955年ごろ,二人の宣教師の訪問を受
も請け負っていた。
「最初はなかなかうま
弟は一念発起し,東京で唯一ノークラッチ
けた。ブロードヘッド長老と同僚のワール
く書けませんでした。書いた表札が使い
車を持っていた教習所に通って練習し,
ベック長老であった。──元来,明るい性
物にならないと返されたこともありました」
車の免許を取った。路上教習はなく,免
格の寛子姉妹も,このころは障がいや病
と一郎兄弟は振り返る。
許取得後に初めて路上で運転した。
「怖
いちねん ほっ き
気を抱えて「世の中,神も仏もないと思っ
まじめで実直な性格の一郎兄弟は,一
かったですねえ,免許を返納しようかとも
ていました」
という。そんな寛子姉妹に若
日の店の仕事が終わり,食事や風呂を済
思いました」
と一郎兄弟は笑う。左足だけ
い宣教師のブロードヘッド長老は熱心に説
ませた午後11時ごろから,毎日3枚の書を
で運転できるよう改造した車も,陸運局に
いた。
「人は,幸せになるためにこの世に
書くことを日課とした。
「おかげで宵っ張り
認めてもらうために設計図をはじめ多くの
生まれてきたのです!」
と。
になりました」
と笑うが,住み込みで修行し
申請書類が必要だった。それでも
「足」を
人生に新たな希望の光がともったように
た7年半の間これを続けるうち,めきめきと
得たことで,印判の営業や納品も車で回
感じた。──1956年
(昭和31年)12月2日,
腕は上がり,信頼して仕事を任されるよう
れるようになり,商売は順調に伸びていっ
寛子姉妹はバプテスマを受ける。施してく
になった。
「ある医院の待合室に張ってあ
た。日曜日には寛子姉妹を車で教会へ送
れたのはブロードヘッド長老であった。
る文字が全部わたしの字なんてこともあり
ってくれ,やがて生まれた3人の子供たち
ました。未亡人の女将さんが経営する小
とともに度々家族で教会へ集った。
こ し こ いちろう
***
越湖 一郎 兄弟は富山県魚津市の出身
さな店でしたが,後に有限会社となり,専
結婚当初,
「多分,2,3年後には夫は改
である。3歳のとき小児まひにかかり,右
務の肩書きを頂きました。」一郎兄弟は東
宗してくれるのではないかと期待してい
足が不自由になった。そ
京オリンピックが開催された1964年の4月1
ました」という寛子姉妹。しかし残念なが
ブロードヘッド
長老
日,独立して北区赤羽に店舗を構えた。
ら家族で教会へ通うのは長続きしなかっ
山を 駆 け 回って 遊
身体に障がいを持つ若い人の集まり
「あす
た。子供たちは一郎兄弟が面倒を見て,
んでいたという。や
なろ会」で一郎兄弟と出会っていた寛子姉
寛子姉妹一人で教会に通う日々が続い
がて成長期にか
妹も開店準備を手伝い,翌月の5月2日に
た。それでも扶助協会の教師に召された
かり,右足と左足
二人は結婚式を挙げた。日本で2番目に
寛子姉妹が,レッスンの要点を黒板に張り
のアンバランスが
建築された東京西支部
(吉祥寺)の教会堂
出せるように書いてほしいと頼むと,立派
で初めて結婚したカップルだった。
な毛筆で分かりやすい大きな字を何枚で
れでも 幼 いころは 野
大 きくなった ため,
1957年当時の東京西支部は,幼稚園を借りて日曜日の集会を行っていた。モルモン経の改訳
(1957年刊)
さとうたつい
(後列右端)
もともに集っていた。後ろから2列目,左から4人目が寛子姉妹。
にいそしんでいた佐藤龍猪兄弟
も書いて協力して
くれた。
「
(手が
不自由なので)
字が黒板に書
けないわけで
はないのです
が,時間がか
かるものですから。
おかげでとても助
越湖ご夫妻。
「わたしが障がいを負ったのも不思議です。今思えば,天のお父様に
頂いた大事な出来事だった。もし障がい者にならなければこの人に
巡り会うチャンスはなかったでしょう」と寛子姉妹は語る
2006年,越湖ご夫妻とブロードヘッドご夫妻
信仰の風景
fÑ|Ü|àâtÄ fvxÇxá
りしているので,寛子姉妹は,
「すべてお父
った。2005年12月4日,車いすにも対応し
さんにお任せして。わたしは聖書の教え
た越谷ワードの教会堂で,一郎兄弟はバ
は,押し付けがましくされることを嫌うこと
のとおり,今日の心配は今日一日で十分と
プテスマを受ける。結婚後2,3年で……
が分かりましたので,教会のことや福音の
いう性格ですから」
と笑う。傍で見ていて
と寛子姉妹が願っていた夫の改宗は,41
ことはほとんど話をしませんでした。わた
もとても良いご夫婦で,ほのぼのとした気
年後にやってきた。
「次の世でも一緒にい
しが教会員であることで堅苦しい思いを
持ちにさせてくれる。
られるように……」
と寛子姉妹がほほえん
かりました」と寛子姉妹は言う。
「しばらく一緒に暮らしているうちに,夫
きょう
で話す東京神殿での結び固めを受けた
させてはいけないと,いつも夫がくつろげ
る家庭であるように心掛けました。また,
いつでも優しくしたいと思っていました。
41年の時を隔てて
のは,2007年6月9日のことだった。
2005年,一郎兄弟は足腰の具合が悪く
幸せな人生
今までに何回か経済的に困ったときが
なり,とうとう引退することにした。41年間
ありました。そのとき,不思議に思わぬ収
借りていた赤羽の店舗も閉め,すべてを
さかのぼって2006年7月。寛子姉妹はバ
入があり,助けられました。そんなときわ
処分し,借りたときと同じ空っぽの状態で
プテスマを授けてくれたデビッド・R・ブロ
たしは夫にこのように言いました。あなた
貸店舗を返した。
「自分の手で開店し,自
ードヘッド長老と50年ぶりに再会した。ブ
がいつもまじめに精いっぱい努力してい
分の手できっちり始末をつけられてよかっ
ロードヘッドご夫妻は地域広報ディレクター
ることを神様はよく見ていてくださって助け
た」と,いかにも一郎兄弟らしい幕引きで
の召しを受けて日本に赴任していたので
てくださった。あなたは神様に愛されてい
あった。それまで長く東京北部の同業者
あった。二人は一郎兄弟の改宗をことの
る幸せな人だ,
と感謝を込めて話しました。
組合の支部長を務め,業界のために国会
ほか喜んでくれた。ともに神殿に参入し,
夫として,父親として申し分ありませんが,
議員にまで陳情に行ったりしてきたが,そ
ブロードヘッド姉妹の隣に座った寛子姉妹
いつになったら改宗するのかは見当もつ
れも引退した。
「言い訳めくかもしれませ
は,
「実の姉妹のように感じられ,平安に
きませんでした。」
んが」
と一郎兄弟は前置きし,自分の商売
満たされて感激しました」
と振り返る。
一郎兄弟は自営業として,税金の申告な
のみならずそうした公的な役職にあった
後日,ブロードヘッド姉妹から寛子姉妹
ども細かい点まできわめて正直に行ってい
ことも,現役のうちに改宗しなかった理由
に手紙が届いた。
「愛するあなたとともに
た。そればかりか,
( 身体に障がいがある
の一端であったと語る。修業時代から数
時間を過ごせて,とても幸せでした……あ
ので)
,常々かかっていた病院の支払いに
え,この道一筋50年の職人人生だった。
なたの横に
(神殿で)座ったとき,50年前
のブロードヘッド長老が伝道に行くべきか
行政から援助を受けられるにもかかわら
しかし,すべてのしがらみから解き放た
ず,一切申請しようとはせず自分で払ってい
れ,一郎兄弟は寛子姉妹と一緒に教会へ
どうか決断したときのことを思い出しまし
た。驚いた役所の人に尋ねられると,
「お
行くようになった。2005年の夏から宣教師
た。そのとき,正しい選びができたことに
かげさまで自分で働いて税金を納められ
が毎週のように訪問し,秋にはバプテスマ
心から感謝しています。天のお父様はわ
るうちは援助には頼りません」
と答えたとい
の決心をしていた。健康のためと勧めら
たしたちと家族にたくさんの祝福を注いで
う。
「さすがに今は年金に頼っていますが」
れ,たばこもすでに10年以上前からやめ
くださいました。最も大きな祝福は,あな
と70歳を迎えた一郎兄弟は笑う。
ていた。
「よく決心がつきましたね」
という
たを見つけたことです。
」
寛子姉妹は一郎兄弟を評して,すべて
寛子姉妹に,
「自分も年を取ったら夫婦で
今では3人の子供と4人の孫に恵まれて
を計画的に見通し,こうと決めたら揺らが
同じ信仰を持って暮らしたいと思っていた
いる越湖ご夫妻。朝から聖典を読む暮ら
ない人,という。
「自分にもしものことがあ
から」
と話したという。
しで,一郎兄弟は広報委員としてワード新
っても家族が困らないように」
と寛子姉妹
「少しずつ改宗の備えができていたので
聞作りに精を出し,
「60歳から始めた」
とい
の分も保険や年金の手配をしてく
しょう」
と寛子姉妹は語るが,あまりにも順
うパソコンに向かう。夕方には夫婦で孫を
れていた。一郎兄弟がしっか
調にことが運ぶのにはただ驚くばかりだ
保育園へ迎えに行く。
「『毎日が日曜日』で
もなかなかのんびりはしていられま
せん。それも幸せなことですが。
」
「希望を持っていれば,いつかは
かなう」── 50年の時を越えて,寛
子姉妹はブロードヘッド長老の言葉
を今,実感している。◆
引退しても趣味で続けている印章づくり。左右とも「慈愛」
一郎兄弟は印章の全国大会で金賞を受賞したほどの腕前
チャーチ・ニュース
15
J M T C / お 知 ら せ
役員の異動
2007年12月(321期生)4人・海外2人
●上から氏名,任地(伝道地)
,出身ユニット
2007年11月14日から2007年12月11日まで
に管理本部会員統計記録課に通知のあっ
た役員の異動(敬称略)
●日本松山地方部
なかじま じゅんいち
会長:中島 純 一
かり や
しん じ
第一顧問:刈谷 真爾
なかはら こう じ
第二顧問:中原 幸司
いい だ のぶ ち
おぎ た はる か
よ
やま もと ゆう こ
飯田延千代
荻田悠佳
クリスティ, ジョシュア
山本優子
東京伝道部
金沢ステーク
金沢ワード
札幌伝道部
高松地方部
丸亀支部
神戸伝道部
ハワイ州・
ライエ北ステーク
ライエ第六ワード
東京伝道部
松山地方部
宇和島支部
●日本釧路地方部
お ざわ ゆういち
会長:小澤 裕一
し みず ゆたか
第一顧問:清水 豊
おお た はら よしゆき
第二顧問:大田原 義幸
●神戸ステーク神戸ワード
こう ち やま まさひろ
ビショップ:河内山 公宏
●松山地方部今治支部
むらかみ よしかず
会長:村上 淑一
2007年11月 2人
●上から氏名,任地,出身ユニット
たこ がわ ま
吉村知香
ハワイ州・
ホノルル伝道部
大阪堺ステーク
堺ワード
韓国・
ソウル西伝道部
松戸ステーク
松戸ワード
みず の
ゆう じ
第二顧問:水野 祐司
●岡山ステーク三原支部
よし むら とも か
り
蛸川真理
●日本神戸ステーク
とう ま
ゆう じ
会長:東間 裕次
●岡山ステーク福山支部
い もと のりあき
会長:井本 則明
●藤沢ステーク保土ヶ谷ワード
しゅとう かおる
ビショップ:首藤 郁
●旭川ステーク滝川支部
えんどう いさお
まつ もと ゆき お
まさ こ
松本行央・正子
日本東京神殿
岡山ステーク
米子ワード
会長:遠藤 功
●釧路地方部根室支部
えんどう のぶゆき
会長:遠藤 信幸
●日本静岡ステーク
ひ づめ かずゆき
会長:日詰 一幸
おお た
よしかつ
第一顧問:太田 宜克
おおいし まさあき
第二顧問:大石 正昭
英語版国際機関誌 年間購読料改定のお知らせ
●日本町田ステーク
うえ の まこと
第二顧問:上野 誠
●さいたまステーク坂戸ワード
えだもと けんいち
ビショップ:枝元 賢一
● 2008年1月より,以下のように購読料が改訂されます。
旧価格
●岡山ステーク津山支部
新価格
かど の
『エンサイン』ENSIGN
2,400円→ 2,200円(単品200円)
『ニューエラ』NEW ERA
1,800円→ 2,000円(単品200円)
『フレンド』 FRIEND
1,800円→ 2,000円(単品200円)
『チャーチニューズ』CHURCH NEWS
3,600円→ 5,100円(単品100円)
こういち
会長:角野 功一
皆様の情報をご提供ください
◎末日聖徒イエス・キリスト教会
『リアホナ』編集室
〒106-0047 東京都港区南麻布5−10−30
◎お問い合せは──
教会配送センター
〒133-0057
FAX.03
(3440)3275
◎国際機関誌『リアホナ』のお届け,
東京都江戸川区西小岩5-8-6
TEL.03(5668)3391
TEL.03
(3440)2666
電子メール Liahona-jp@ ldschurch.org
その他商品に関するお問い合せは──
FAX.03(5668)3392
教会配送センター
TEL.03
(5668)3391
/2008年1月号
16
FAX.03
(5668)3392
ASIA NORTH AREA (JAPANESE)
*外国語『リアホナ』の年間購読料(1,800円)は,変更ありません。
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