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ロシア ・ソ連における食文化の継受

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ロシア ・ソ連における食文化の継受
ロシア ・ソ連における食文化の継受
吉 田
浩
本研究はロシア ・ソヴィェ トの歴 史のなかか ら文化の翻訳 にかかわ る 2つの問題 につい
て分析す ることを課題 とした。1つ は ロシア貴族の食文化が フランスのガス トロノミー を 自
らの文化 に 「
翻訳」 し、 さらにフランスの食文化- と 「
輸 出」 した経過 、2つは こ うした帝
91
7年の ロシア革命 によ り断絶 し、社会主義 を原理
政 ロシア貴族 の食文化の成果 と伝統が 1
とした労働者 文化 の創 出過程 でポ リシェヴィキ政権 に よって全 く新 たな食文化 に置き換 え
られ ソヴィェ ト化 した過程 で ある。
帝政 ロシアの貴族文化 とフラ ンス料理の関係
帝政末期 に ロシアでは貴族や ブル ジ ョワジーな どに よって フランスのオー ト ・キュイ ジ
ーヌが受入れ られ 、1
91
7年 の ロシア革命前夜 にはモス クワとペテルブル クの両首都 を中心
に レス トラン文化 が栄 えた。 しか し料理文化 をめ ぐる両国の交流 はフランスか らロシアの一方通行的な ものではな く、相互関係 であった ととらえなけれ ばな らない。 1
9 世紀前半
のフランス最高の料理 人 と讃 え られ るア ン トナ ン ・カ レー ムは、 タ レ- ランに重用 されナ
ポ レオ ンやイギ リス皇太子 、ロスチ ャイル ド男爵の料理 人をつ とめた。1
81
4-1
5年の ウィー
81
8年 のア-- ン会議 の時には、 ロシア皇帝 ア レクサ ン ドル 1世のため
ン会議前後お よび 1
81
9年 にペテル ブル クに滞在 した。そ し
に料理 を作 り、それ をきっか けに ロシアに招かれ 1
て ロシア滞在 中に 目に したボル シチや ク リビヤ ックを広 め、食卓 の飾 り付 けに花 をもちい
るこ とを推奨 した (
文献 7参照)
。
1
9 世紀後半に活躍 したユルパ ン ・デ ュボ ワ (
1
81
8-1
901
) は ロスチ ャイル ド家や カフェ ・
ア ング レ(
現在 の トウール ・ダル ジャン)
で修行 し、後 にプ ロイセ ン宮廷料理長 となった。彼
はその著書 『古典的料理 (
1
856)』 で、温かい ものを温 かいままに、冷たい ものを冷たい ま
ま食べ られ るよ う 1品ずつ料理 を提供す るロシア式サー ヴィスの利点について詳述 してい
る(
文献 8)。ロシア式サー ヴィス とは前 もって料理 を出す順序 をきめてお き、いったん料理
をつ くって客に見せ てか ら再びキ ッチ ン-下げ、切 り分 けて一人一人 に配 る方法である。
これ を受 け、フランスにおいて 1
9世紀後半には一度 のサー ヴィスで多種類の料理 をテーブ
ル に隈な く並べ るフランス式か ら、1品ずつ料理 を提供す る ロシア式- とサー ヴィス方法 の
転換 がお こったO この ことによ り料理 の構成 が食卓 の空間 (
見た 目) を最優先す るものか
ら、消化 に要す る時間 を考慮 にいれ た時系列 の構成 に変わ っていき、また、用意 された料
理 を会食者 は基本的 にすべて食べ るこ とになったので、同 じソー スやつ けあわせ の重複 は
避 け られ るよ うになった。 ロシア的サー ヴィスの普及 はルイ 1
4世以来の顕示的食事 (
権力
の誇示や階層秩序 の確認) -貴族 的秩序 の時代か ら料理 の実質が重視 され る時代- とかわ
った ことを意味す る。
1
9世紀末 にロシアは産業革命 をは じめ、20世紀初頭 には貴族 に くわえて産業ブル ジ ョワ
一
日
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ジーが新 しい消費文化の消費者兼担い手 となった。モ スク ワでは特 に 「
エル ミター ジュ」
とい う名 の レス トランに彼 らは集 ったが、その料理長 をつ とめたのは フランス人シェフで
あるエ ドワ-ル ・ニニ ヨン(
1
8651
935)
であった。彼 は帰国後 ロシアで得た経験 を盛 り込ん
だ著作 を多 く残 し、晩年 には彼 がは じめた レス トラン 「
ラ リュ」が ミシュランガイ ドで 3
つ星を獲得 した (
文献 9,1
0参照)
0
ソ連期 における食堂や レス トランの再興
以上の簡単な描写で もわか るよ うに、帝政 ロシアでは レス トラン文化が栄 え、 ロシアは
シャンパーニ ュや ソーテルヌ (
ボル ドーで作 られ る貴腐 ワイ ン)の最大 の輸入 国 となった。
しか しこ うした消費文化の継続 は 1
91
7年 の ロシア革命 、それ に続 く内戦期 に経済的に困難
とな り、安定がお とずれた 1
921年以降はブル ジ ョワ的 と非難 されイデオ ロギー的に不可能
となった。そ して代 わ りに生 まれ たのは労働者文化 としての食堂や レス トランの再興であ
る。 ソ連 は支持 され るために安価 で良質な食事 を国民に、 とりわ け労働者 に提供 しなけれ
ばな らなかったのである。
1
923年、「
イ リイチ」、「
鎌 と- ンマ-」両工場で附属食堂が誕 生 した。同年、国民給食部
が創設 され、工場での給食 を管轄 した。そ して 1
928年以後、国家規模 での工場附属食堂 に
関す る実行プランが試み られ は じめる。表 1にみ られ るよ うに食堂付 きの工場 の数 、供給
した料理 の数 、工場食堂を利用 した人は飛躍的 に増加 した。 これ は、 ソ連 は国家が責任 を
もって労働者 を養 うとい う方針 の もと、工場附属食 堂の整備 がお こなわれ た ことを意味 し
ている
。
表 1 レニ ングラー ド市にお ける工場附属食堂
1
929年
1
930年
1
931年
1
93
2年
食堂 を付 き工場数
63
4
1
435
1
6
97
2055
供給 した皿数 (
百万)
1
23,
8
288,1
53
0,
3
71
0,7
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1
57.
1
931年 に食料供給省国民給食局が供給 した食料の うち、 レス トランで消費 された ものは
1%に過 ぎず、1
93
3年時点でのモスクワの食堂施設のカテ ゴ リー を分類す ると、レス トラン
31
、カフェ 85,大衆食堂 37,テ ィールー ム 3
0となる。 この頃か ら、普通の食 堂の他 によ り
賓沢 な レス トランや カフェを設立す る動 きがお こって くる。政治 史的 には五 力年計 画や農
業集 団化 によ り多 くの犠牲 を出 しつつ工業化 をすす めスター リンが権力 を確 立す る時期 に
あた り、労働者 国家 ソ連 の消費生活や 消費文化 の水準が低 くない ことをア ピールす る必要
があった と考 えられ る。 1
935年には通商大臣 ヴェイ ツェル の もと、国家委員会は レス トラ
ン と食堂の質 の向上 を 目標 にかかげたC 同年 1
2月、食事 を提供す る施設が次のよ うにカテ
- 12 -
ゴ リー分 け された。 1
.「
閉 じられ た」食 堂 、2. 「
開かれ た」大衆食 堂、カ フェ、3.レス ト
ランロ 「
閉 じられた」食堂 とは工場や企業の労働者向けの もので一般人 は利用できない もの
の ことであるが、労働者 国家 である ソ連 は こ うした閉 じられ た食堂の水準向上 に力 を入れ、
936 年、食 堂施設 は新設 され
一般 には開かれ た食堂 よ り安 く質 の高い食 事が提供 された。 1
た国家 レス トラン ・カ フェ局 の管轄 となった。 工場 (
企業)附属食堂では労働者 の食 マナー
の向上教育、テーブル クロス、カーテ ンでの装飾、なかにはオー ケス トラによる演奏 がお
00%を養 うことが計画 されたO他方、開か
こなわれ、 ソ連国民の半数、工場労働者 の 90- 1
れ た飲食施設 では レス トランの質 の向上が求 め られ 、 レス トランでは加 工品 を使用す るこ
とは不可 とされ、 ソーセー ジな ど肉加 工品の製造販売 と出張料理 が義務づ け られた。
表 2ソ連全国での食堂施設数の推移 1
9
3
4
3
5年
34/4/1 34/7/1 34/1
0/1 35/1
月
レス トラン
369
754
668
398※
大衆食堂
41
34
83
1
07
カ フェ
76
1
38
1
56
1
84
ア イ-ルーム
61
58
53
61
出典 :J
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※1
935年 1月 1日に レス トランの数が激減す るのは、船 に附属 した レス トランの統計上の
カテ ゴ リー変更 による.
スパーク リングワインや ワイ ンの生産
1
934年 に開かれた共産党第 1
7回党大会 でモ ロ トフ首相 は 「
食 品産業の分野で よ り多種類
高品質 の ものを生産、 ゴール は ワイ ン とスパー ク リングワイ ンで ある」 と述べた。 また こ
の頃 スター リンが 「
同志諸君、生活 は よ り楽 しくなった」、 「
シャンパ ンは よき生活、 よき
936 年、 ミコヤ ン食 品工業担 当政治局員はフラン
人生の物質的証拠」 と語 ったのを うけ、1
200
スのシャンパーニュ地方 を視察 し、翌年 「
シャンパ ン(
スパー ク リングワイ ンの意 味)を 1
万本 生産 しなけれ ばな らない」 と宣言 した。農業省 はスパー ク リング ワイ ン生産 目標 と し
200万本 とい う途方
て 36年 30万本 、37年 50万本 、38年 80万本 、39年 400万本 、42年 1
もない数字 を計画 した。 1
939 年 に専門雑誌 『ワイ ン醸造 とぶ どう栽培』 は記事 「ワイ ンと
シャンパ ンは社会主義祖 国で労働者大衆のふつ うの消費物資 となった」 と記述 してい る。
1
9
3
7年の粛清 とその後
しか しこ うした動 きは当時 の ソ連 の政治の激動 に翻弄 され る。 国家 レス トラン ・カフェ
安 い ものをよ り多 くの人 にでは
局長オル スキー らは 「
社会の食料供給 を悪 い方 向-誘導 」 「
-
13
-
な く、高い ものを少数 の者 に供給」 しよ うと した と して粛清 され た。36、37年 に多 くの工
場食 堂が閉鎖 され た こと、工場食堂が肉食偏重であった こ とも非難 され た。 その起訴状 は
「
資本主義復活 を もくろむ ファシス ト・トロツキス トは人民に栄養 あるものを供給す る代
わ りに、 ヴォ トカ、 タバ コ、 ビール、チ ョコ レー トをカフェや食堂で不法 に販売 した」 と
い う理不尽 な ものであった。 1
939年 に粛清が終息す る と、オル スキーの 「
安い料理 は レス
トランに とり利潤率が低 い し、労働者 は食堂の単調 な食事 に飽 きてい る」 とい う主張が顧
み られ 、 もとの路線 に戻 ったが、今度 は第二次世界大戦 に よ り食 堂や レス トランの質の向
上が不可能 となる。
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930.
10.辻静雄 『舌の世界史』(『辻静雄著作集』新潮社 、1
995年所収)
、1969年。
1
9世紀 中葉 -20世紀初頭 ロシアの貴族文化 と宮廷料理-ロシア とフランスの食
ll
.吉 田浩 「
文化 交流 史」『食生活研究』2006年 、vol
.
26-1
,pp.35-46ペー ジ。
- 14 -
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