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五輪開催都市の変容 ―北京の精神文明向上運動―

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五輪開催都市の変容 ―北京の精神文明向上運動―
五輪開催都市の変容 ―北京の精神文明向上運動―
花田
1
裕作
はじめに
海外旅行などで異文化に触れたとき,人々は今までの母国の常識では考えられないようなものごと
に出会う.当たり前がそうでなくなる,カルチャーショックと呼ばれる現象である.今回 2007 年 12
月に行われた北京への研修旅行でもそれは私の中で起こった.まず,空港で店の人たちの愛想のなさ
に驚かされた.一歩外に出てみれば,歩行者は信号機をあからさまに無視して通行中の車の隙をつい
ては道路を横断するし,自動車の多くは横断歩道を横断中の歩行者に配慮のない運転をする.交通法
規があってないようなものなので,事故寸前の危ない場面も道路上では多々繰り広げられ,そのたび
に自動車の運転手からは容赦のないクラクションが鳴らされる.このクラクションは北京市内のいた
るところで頻繁に鳴らされ,渋滞ともなると鳴りっぱなしと言っても過言ではない.その上,反対車
線を逆走していく自動車も見られ,驚きの連続であった.ロイター通信が伝えた中国公安省の 2007
年 7 月報告では,中国全土の交通事故死者数だけで1日 200 人を超えている.近代化が進み自動車社
会に近づいている北京では,近年交通量の増加が著しいのだが,交通マナーの悪さは社会問題になっ
ているという.他にも目についた行為は数え上げればきりがないほどである.ホテルの廊下で何食わ
ぬ顔で歩きタバコをする人,道端に火のついたタバコの吸殻を捨てていく人,バス等を待っていると
ころで並ばずに我先にと割り込みをして平然と車内へ入っていく人々などだ.
人の悪いところというものは目に付きやすいものなので,単に人口が多いため色々な悪いマナーを
よく見かける,という見方もあるだろう.しかし,中国人である林(1997)は,中国人は基本的に利
己主義であり,社会性の欠如している国民である,と指摘している.このような社会の状態を問題視
している林のような人物がいても,以前の中国ではマナーの改善などを考える状況ではなかった.だ
が,近年その状況を北京市の政策として変革していく必要が出てきた.2008 年には北京五輪が開催さ
れるからである.北京五輪では北京に世界中からの注目が集まり,海外から訪れる観光客も増えるた
め,国際的な北京のイメージアップを図るチャンスなのである.そのためマナー向上運動である,
「首
都文明礼儀宣伝教育実践活動」がオリンピック誘致決定後の 2005 年から行われている.
以上のような中国でいう「精神文明」の向上を目指す政策に焦点をあて,北京市が目指す理想的な
市民社会像と実際の北京を比べ,その問題点やこれからの展望をまとめてみた.
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中国語の慣用句にも見られる中国文化の性質
この節では,実際に多く目撃された諸行動はその国民性に由来するのではないかと考え,田島(2001)
を参照しながら検討していく.
中国語に「不爛之舌」1)という表現がある.これは腐ることの無い舌という意味であるが,この言
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葉通り中国人はよく喋り,自分の意見をはっきりと口にすることを好み,口論ともなればその傾向は
さらに強くなるようである.さらに中国でも北京や東北地方あたりになると口論では治まらす,殴り
合いになることも多々あるという.意見を態度ではっきりと表明する,というあたりは運転手が日本
では考えられないほど頻繁にクラクションを鳴らし,不平を表現することなどからも,中国の国民性
の一側面をよく示しているのではと思われる.
「委屈」という表現は日本語に直すことが難しい言葉であるが,
「いわれのない非難,屈辱,冷遇等
を受けて,悔しい」と,このような意味があるようだ.中国人は筋の通らない誹謗中傷だと思ったこ
とについては,日本人のように表立った反応を極力避けるようなことはせず,徹底的に反抗をしめす
ようだ.北京で中国の人びとに感じたどこか押しの強い態度は,一人っ子政策
2)
によって歴史的に育
まれてきたものでもあるだろうが,
「委屈」という観念のような中国の考え方から来るのかもしれない.
もうひとつ,
「大歩流星」という言葉も紹介しておこうと思う.これは流星のごとく大股ですばやく
歩くこと,のような意味であるという.字を見たときに思い出されたのは,譲り合いをしない人びと
で溢れる中国の道路である.人・車・自転車とみんながみんな自分の最短距離を一直線に進もうとし
ているため,日本人からすると考えられないような事故寸前の危険なシーンを幾度となく目にした.
信号があり,交通法規があるにも関わらず,それらの存在は極めて小さなものであるのだと思う.あ
の中に信号を無視して事故に遭うかもしれないリスクを冒してまで,目的地へ急がなくてはならない
人がどれだけいたのだろうか.それが異文化だとわかっていても慣れるまでは度肝を抜かれ続けた.
さて以上のように中国の人びとは「アジアのラテン系」と呼ばれるほどに,熱血漢であり,特徴の
強い人々であり,今まではそこに中国や中国人の良さを見出すことができた.しかし,2008 年に北京
五輪開催が決まり,世界中の視線が注がれることが決まるとそうとも言っていられなくなる.国際的
に印象のよい国にするためにも,開催都市である北京の人々の印象は非常に重要なのだ.2005 年には
北京市が市の政策としてマナー向上を呼びかけ始めた.次章では,五輪まで残すところ半年となった
北京市が行っている実際の運動について述べる.
3
首都文明礼儀宣伝教育実践活動
(1)基本理念
この基本理念は 2005 年に首都精神文明建設委員会が設定したものである.項目は次の3点が挙げら
れている.マナー意識を段階的に向上させる,一般市民,特に青少年や流動人口の間にマナー知識を
普及させる,マナーを規範化し,行為を自覚できるようにする,である.基本的には北京五輪時に海
外から見たイメージアップを狙ったものなので,運動の適用範囲は北京市民全体,さらには周辺地域
から北京へ流入してきている人びとである.その運動への力の入れようは空港で北京に降り立った直
後から入国審査のカウンターにある空港職員の評価ボタン 3)などから見て感じることができる.
(2)行われている対策
行われている対策は昨年から罰則が付いて強化されているが,主な内容は道端で痰を吐かない・列
を作ってちゃんと並ぶ・ゴミを散らかさないなど,日本の基準で見た場合,一部にできてない人がい
るものの,一般的には当然のことであり,わざわざ強化するような内容ではない.しかし,中国社会に
はそのような常識はなかったので,五輪に向けたマナー改善運動を行い,罰金を取ってでも改善させ
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ていかなければならないようになってしまったのだ.2007 年の 5 月に国営新華社通信が報じたところ
によると,ある週 7 日間にマナー違反で逮捕された人は 56 人にも上った.ただし罰金を取り始めたの
は 2007 年からのことであり,それ以前の運動開始当初は市内の各家庭に世界標準であるマナーが書か
れたパンフレットを配布し,市民の社会性を育成していこうと考えていたようである.段階的なマナ
ー向上運動は,運動開始当初である 2005 年の例を挙げると一項目 2 ヶ月の期間を使い実践していくも
のであった.項目内容は,善隣友好・生活に関するマナー,社会交流の基本マナー,国内外のスポー
ツ観戦マナー ,ビジネスマナー,キャンパスマナー ,国際交流上のマナー,である.最近では運動
の成果も徐々に現れているとも報じられている.
写真 1 マナー向上呼びかけポスター(列を作って並ぶことの呼びかけ)
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終わりに
五輪開催という歴史的なビッグイベントに向けて,変化を続ける中国社会は非常に興味深い.古い
大雑院などを取り壊し新たに商業施設やホテルなどを建てるハード面での都市開発が目覚しい一方で,
ソフト面での「精神文明向上」も,その目標が達成されるか世界中からの注目を浴びている.北京市
も罰則を定め目標達成のために動き出し,報告によればそれなりの成果は現れてきているとのことで
ある.しかし,実際に北京に行ってみた私個人の観察と,北京市のいう成果が必ずしも一致している
わけではなくさらなるマナー向上の余地が残されているように感じる.
また,問題点として指摘されていることの一つに,五輪開催時に予想される中国国内からの観光客
や,北京市の周辺から流入してくる人びとのマナーがある.いくら北京市民が完璧な振る舞いをした
としても,国内からの観光客だけでも 200 万人以上を予測している五輪では,北京市以外の地域から
やってくる人々の行いによって中国全体の印象悪化が起こる可能性がある.予想が可能な問題点では
あるが,対象となる人々が不特定多数であるため,対策も打ちづらく解決には大きな困難があるだろ
う.2008 年 8 月までの北京市,または中国政府の対応に注目したい.そして,五輪後の北京の人びと
がどのように変化をしているか,世界都市をアピールし続ける北京がその目標を達成しているのか,
変化を続ける北京からは今後も目が離せない.
最後になり,内容と少しそれる個人的な見解なのだが,今回の報告書に書いたマナーを守る必要が
ある都市は何も北京だけに限られたことではない.マナーの比較的良いとされる日本人であっても,
街中を見てみると,頭で理解できていることが行動で示せていない.
「人のふり見てわがふり直せ」で
ある.この機会に一度日本人も自分たちのマナーを見直しておくとよい,と思われる.
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[文献]
倉沢 進・李 国慶 2007.『北京』中央公論新社.
田島英一 2001.『「中国人」という生き方』集英社.
林 語堂・鋤柄治郎 1997.『中国=文化と思想』講談社.
ロイター通信:中国の道路,1日 200 人以上が交通事故で死亡
http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-26689520070702(2008 年 1 月 5 日閲覧).
人民日報日本語版:市民へのマナー教育を開始
五輪に向け
北京
http://j1.people.com.cn/2005/01/19/jp20050119_46960.html(2008 年1月5日閲覧)
.
[注]
1)中国の旧字体は日本の常用漢字に修正をしている.
2)一人っ子政策は両親・祖父母の計 6 人が子供を甘やかし続け,
「小皇帝」と呼ばれるほどまでにわ
がままな子供が増える社会問題を生み出した.
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